アーカイブ
- 2024/01/21 - 新疆・ウィグルの旅(その2) 今回の、新疆・ウィグル旅行は正味10日間のものだった。 10日間で、あの広大な新疆・ウィグル地区を見て回るのは無茶と言うものだ。 しかも、その真意は、新疆・ウィグル地区における中国政府の圧制をこの目で確かめたいというのだから、最初から無理であることは目に見えている。 しかし、私の考えでは、中国政府による圧制の現場、収容所などの取材は何日かけても真相を摑むのは、今の中国政府の管理課にあっては不可能だろう。 基本的に、そのような現場に近寄れないし、近寄ったら、そのまま拘束ということも高い確率であり得るのだ。 それは,あまりに危険だ。 であれば、そもそも、新疆・ウィグル地区に行くこと自体が意味のないことになるのだが、そこは、物書き稼業を50年続けて来た私だ。 実際に収容所などの圧制の現場を見なくても、ウィグルの人びとの姿を見れば、分かることがある。 今の私にとって大事なのは、ウィグル地区の人びとの顔を見ることだ。 どんなに中国政府が圧制を隠していても、人びとの表情、立ち居振る舞い、声音、そう言うものを私自身の体で体験すれば、 何が行われているのか、掴むことが出来る、と私は考え,そんな思惑で、短期滞在新疆旅行を実行したのだ。 北京から、最初にカシュガルに飛んだ。 カシュガルは、新疆・ウィグル地区の一番西側の地方である。 人びともウィグル人が殆どで、北京辺りの漢民族中心の土地とは建物など街の趣が全く異なる。 中国とも違うのは勿論、日本とも、西洋とも違う。 私にとっては、見たこともない街の光景だった。 建物の色は茶色一色だ。 建材は土を干して作ったレンガのように見える。 私は大旅行家ではないが、それでも、日本とは雰囲気の違う国にはいくつか行ったことがある。 わずかな経験で言うのも何だが、この、カシュガルの雰囲気は私にとっては正に異郷のものであった。 このような光景は見たことがなかった。 茶色の二階建てか、三階建ての建物が石畳の道の両側に立ち並んでいる。 茶色の建物の壁にツタが這っている所もあるが、町中には樹木がない。 建物の壁には細かい模様が刻まれている。 イスラム風の先端が尖ったアーチがあちこちに見られる その有様は,正にイスラム文化だ。 所々に小さな公園があってそういう所には樹木があるが、その樹木がみな丈が低い。 私の見た範囲では、丈が高く幹が太い樹木はない。 やはり、乾燥した気候のせいなのだろうか。 商店街は賑やかなものである。 食品から服飾品まで何でもある。 中でも面白かったのは、和田石という緑色の石が売られていたことである。 和田石というと、何やら和田さんの家の石と思ってしまうが(和田さんの家の石って一体何だ?)、和田とは、ホータンと言う地名を漢字で書いたものであって、残念ながら和田さんとは関係ない。 和田石は宝石ではなく、玉(ぎょく)である。 宝石のように固くなく、価値は高くないが、身の回りの装飾には充分すぎる美しさがある。 民芸品にも面白いものがあって,私はコマを買った。 大人の拳大の大きさがあって、脚は長くない。 ひもを脚から胴体にかけて回して、地面にたたきつけるようにして回転させる。 一旦回転し始めたら、コマを回すのに使ったひもで、コマを回転方向に叩いてやる。 すると、回転の勢いが良くなる。 うまく扱うと、一旦ひもをかけて回し始めたら、ひもでコマを叩き続けるといつまでも回し続けることが出来るのだ。 街の一角に、「茶餐庁」、英語で「Old House Food」と看板に書かれた店があった。 飲食をさせる店なのだろう。 その店の、大通りに面した正面の部分が表にせり出している。 かなり盛大にせり出していて、何やら舞台という感じがしないでもない。 舞台には木の骨組みが組み立てられていて,その上に黄色の布がかけられて、それが屋根のように見える。 舞台には左右から階段が延びていて、左右どちらかでも上がり下りが出来る。 舞台の上では数人の男たちが音楽を演奏していた。 胡弓、小太鼓、棹の部分が異常に長い弦楽器、オーボエのような管楽器、大太鼓、などを合奏している。 西洋の音楽の,音程と、音階と、和音になれてしまっている私には、その音楽がよく分からない。 ただ、響きが大変に心地よい。 西域の音楽とはこれか、と思った。 カシュガルの、味わいのある街の中で、西域の音楽を聴くとは、実に嬉しいことだった。 ところが、嬉しいことは続くものだ。 商店街の大通りに突然陽気な音楽が流れたかと思うと、賑やかな隊列が現れた。 これが凄かった。 太鼓、胡弓、棹の長い管楽器、オーボエのような楽器と、先ほどの「茶餐庁」の上の楽隊と同じ楽器編成の音楽隊、民族衣装に着飾った女性たちが隊列を組んで行進して来るのだ。 その人たちを見て、私の妻が声をあげた。 「まあ、綺麗な人たち」 隊列の中にはらくだに乗った女性たちもいて、私の妻が思わず「綺麗な人たち」と声をあげたのも当然。 衣装、髪型、被り物全てが絢爛豪華であったが、それより以前に、女性たちいずれも目が大きく彫りが深く、細おもてで中国では見ることの出来ない美しさだった。 さて、これからちょいとばかり、うるさい話をする。 新疆・ウィグル地区の問題を明確に理解するためには必要なことなのだ。 世界的に見て、人間は、肌の色から次の三つに分けられる。 白色人種、黄色人種、黒色人種。 それとは別に、遺伝学的な立場から、一般的に次の四種類に分類される。 ◎コーカソイド(ヨーロッパ人、インド人、イラン人、アラブ人、北アフリカ人) ◎モンゴロイド(中国人、日本人、韓国・朝鮮人、東南アジア人) ◎ネグロイド(サハラ以南のアフリカ人) ◎オーストラロイド(アボリジニ、ニューギニア人) ただし、この4種類の人間同士、遺伝子の基本は変わらない。だから、違う人種同士が結婚しても子供は生まれる。 新疆とは、中国語で新しい土地、と言う意味である。 1800年代末に、この地域が清の乾隆帝の時に中国の領土となり、清はこの地を新疆とした。 それからも変遷があり、1944年にはウィグル、カザフ両族は「東トルキスタン共和国」を樹立したが、1949年に現在の中国に組込まれて「新疆・ウィグル地区」となったのである。 トルキスタンとは、トルコ人の国、と言う意味である。 (スタンとは、アフガニスタン、パキスタン、などのように使われる) ここで、「トルキスタン」のトルコだが、これが少しばかり面倒くさい。 トルコ人は、もともと中央アジアのアルタイ地方から出て,西方に発展移住した民族で、そのトルコ系諸国の中で一番繁栄したのはオスマントルコである。 中央アジアの民族の興亡は実にめまぐるしく複雑だ。 とてもこのページで簡単に語れるものではない。 西方に向かって発展していったトルコ民族の中央アジアに作った国が、「東トルキスタン」であると言うことだけ、理解して頂ければ良い。 いくつかの史書によれば、トルコ人は中央アジアに端を発するのでモンゴロイドに属すると書かれている。 西方に発展するにつれて他民族と混交してコーカソイドの肉体的な特徴を備えるようになったと言う。 民族の混淆とは難しいものであるが、中国人とウィグル人とは見た目が違う。 モンゴロイドの血を感じさせる人間もいるが、中国人とは明らかに違う。 コーカソイドの色合いの強い人間も多い。 妻が「まあ、綺麗な人たち」と思わず声をあげたらくだに乗った女性たちは、コーカソイドの血が濃かった。 ウィグルの人たちは、漢族の中国人とは似ている所もあるが、基本的には別の人種だと私には思えた。 さて、ここで最初の中国政府によるウィグル人に対する圧制の話だが、私はカシュガルで、西域の情緒を楽しんでいる間にも、否応なしに目に入ってくるものがあって、それが感興の妨げとなった。 それこそが、中国政府によるウィグル対策による物だった。 それについては,次回に詳しくお話しする。
- 2023/11/07 - 久しぶり 長い間、ご無沙汰してしまったが、久しぶりにこのページに書き込むことにする。 去年から今年にかけて、体調の不備に加えて母を見送るということもあって、このページにたどり着くことが出来なかった。 再開第一回は中国旅行の報告である。 私は7月31日から、北京、新疆・ウィグル地区を旅してきた。 旅と言っても、極めて短い物で、8月11日に日本に戻ってきた。 旅の目的は、新疆・ウィグル地区にあった。 最近、イギリスのBBCの番組で、新疆・ウィグル地区での、中国政府によるジエノサイドとも言えるような、ウィグル族に対する過酷な施策が報道されている。 BBCの番組はどれも高い水準を保っていて、でたらめな報道をすることはまずない。 報道されたことは概ね真実であると考えて間違いはないと思う。 報道されたところによると、 イ)ウィグル地区各地に、合わせて二百個所以上もの強制収容所があって、多くのウィグル人が入れられている。 ロ)収容所に入れられるのは、性別、年齢に関係ない収容所内での、ウィグル人の処遇は過酷である。 ハ)収容所内での女性に対する性的な虐待が組織的に行われている。 ニ)女性に対して強制的に避妊手術をしている。 ホ)男性は、何処かに連行されていく。その男性たちは臓器移植のための臓器提供者とされると言う説もある。 そうでなければ、どこにどうして連行していくのか説明がつかない。男たちは、目隠しをされ、家畜のように連行されていく。 ヘ)ウィグル人の女性は、中国人・漢族との結婚を奨励される,と言うより、無理矢理に結婚させられる。 ト)収容所では、中国共産党を褒め称える事を強制される。 チ)ウィグル語は禁止、中国語を強制される。 リ)最悪なのは、両親が収容所に入れられている間に、その子供たちが孤児院などに入れられて行方不明になっていることである。 親にとって、子供を失うことがどれだけ悲惨なことか、四人の子供と、1人の孫を持つ我が身の上に引き換えてみると震えが走る。 実に途方もない人権侵害である。 どうして、このような人権侵害が行われているのか。 それについては、新疆地区の成り立ちから考えなければならないが、それは少しばかり長くなるので、そこの所は次回以後に回して、現在の中国政府のウィグル人に対する暴虐行為を中心にして考えて行きたいと思う。 私が新疆に行くと言ったら、私の友人たちは心配した。中には、強硬にやめろという友人もいた。 最近、中国で日本人が中国政府に捉えられた事例がいくつか重なっている。 友人たちはお調子者で口が軽い私の性格を知っているから、中国で政府官権の目に触れるようなことを言ったりしたりして、お縄を頂戴、と言うことになるやも知れぬと心配してくれたのだ。 今回の旅の同行者と言うより案内人は1985年以来の付き合いの中国人Fさんである。 私と両親が1983年に桂林に旅行に行ったときに、当時北京の大学生だったFさんがガイドとして案内をしてくれた。 それがきっかけで、初対面から私の父とFさんは仲良くなった。 父は戦前中国で働いていて、中国人に非常な親近感を抱いていた。父は口癖のように「中国人は偉大だ。今に日本なんて中国にペちゃんとやられてしまうぞ」と言っていた。 1980年代の中国は日本より大分遅れていたのだが、それから、わずか30年の間に日本を追い越す経済大国になってしまったのだ。 私の父の予言は正しかったと言うべきだろう。 当時まだ日本より遅れていた中国の学生を日本へ招んで勉強させて上げていと父は望んでいた。 戦前日本が中国を侵略していたことが、父には非常に精神的に負担になっていて、何とか中国人にお返しをしたいと言っていたのだが、Fさんと出会ったのを好機と捉えて、日本で勉強をしたいとFさんが言うのを聞いて日本に招いたのだ。 Fさんはその当時、中国ではまだ新しかった、ホテル学科を専攻した。 その後日本でホテルに勤めるのを皮切りに、日本で様々な職業に就いた。 私はその間にシドニーに行ってしまったので、しばらく私はFさんと付き合いのない時があったが、両親とFさんは変わらず親しく付き合っていた。 8年ほど前に私の家から十分もかからない佐島にFさんは家を建てて、それ以来、私との付き合いも以前に増して深くなった。 Fさんは私の親族の一員となっていて、親族の集まりの際には必ず参加してくれる。 そのFさんには2016年にも、西安、上海、南京旅行の際に同行して貰って世話になっている。 そんなFさんなので、私が新疆に行きたいと言ったら、今回も自分が世話をすると意気込んでしまった。 私としても、Fさんの助けがなければ自力では無理なので、すっかりFさんに頼ってしまうことになった。 さて、まずは北京へ向かった。 その巨大さがただ事ではない。 日本人の規模の感覚とは数段違う。 例えば、香港から進出してきたホテルだが、一体これはなんなのだ、と言うくらいに、ただひたすらでかい。 建物全体の大きさも勿論、内部の作りもあっけにとられるほど大きい。 そのホテルに比べれば、その規模だけから言えば我が帝国ホテルもこぢんまりしたビジネスホテルにしか見えないかも知れない。 もっとも、ホテルで大事なのは規模や作りの大きさ、豪華さではなく、心のこもった客のもてなし方が一番大事なので、規模で負けても、帝国ホテルはびくともしないだろう。 今回、北京では何を置いても北京ダックを食べたかったので、北京ダックの名店「全聚徳」に有機飼育の家鴨を日本から予約しておいたが、その他に、北京で一番と言われている中華料理を食べたいと思った。 Fさんは色々調べてくれたが、なんと、その巨大なホテルの中華レストランが大変に評判が良いという。 では、そこで食べようということになった。 そのホテルは巨大で豪華なだけあって、客層も私たちを除けば明らかに富裕層だった。 私達がホテルに着いたとき、ホテルの入り口に、ベントレーがとまり、中から40代のチャラい感じの男と、ケバい女性が降りたって、男は、車の鍵をポーターに渡した。 男性はジーンズのパンツに白のTシャツを着て、その上に薄い水色のジャケットをボタンをかけずにはおっていた。 サングラスをかけいるのだが、眼鏡のレンズの部分は頭に乗せていた。 一頃、はやったサングラスの小道具としての使い方だ。 そうすると、格好良く見えるのだろう。 (チャラいだの、ケバいだの、一時代前の若者用語を用いる所など、私も老衰したなと痛感します) 皆さんご存知かと思うけれど,ベントレーとは,ロールスロイスと同格の高級車で、価格は聞かない方が精神衛生上よろしいかと思う。 要するにそのホテルはそのような富裕層御用達なのだ。 それではまるで、モナコに集まるヨーロッパの富裕層の生活そのもので、30年前道を埋めて走っているのは自転車ばかりで、自転車にまたがっていたのは貧しい服装の労働者たちだった光景とはまるで違う世界だ。 30年で一つの国の姿が、ここまで違ってしまうものなのか。 30年前のことをなまじ知っているばかりに、私はただただ呆れてしまうばかりなのだ。 これは、一気にここまで経済的な発展を遂げた中国を賞賛するしかないだろう。 さて、そのレストランであるが、私は今までにこんなに大規模なレストランは見たことがない。 なぜ物を食べるだけのためにそこまで大げさにしなければならないのか。 何でも、大げさに、贅沢にしなければ気が済まないのが中国人の国民性というものだろう。 四畳半の畳の部屋でちゃぶ台の前にぺったり座って、アジの干物と、沢庵と、ワカメの味噌汁というわびた日本人の生活とは感覚が違うのだ。 そのレストランは巨大で、幾つもの部屋に分かれていて、一つの部屋には二組のテーブルしか置かれていないが、レストラン全体で一体幾つの部屋があるのか、幾つテーブルがあるのか、何人客が入ることが出来るのか、私たち客からは知ることが出来ない。 まあ、何人客が入ろうが、料理の味さえ良ければ私たち客の立場からすれば何の文句もない。 レストランの入り口から、私達のテーブルのある部屋に達するまでの間に、ガラ張りのワインセラーがあって、何千本とあるワインを客は見ながら自分たちの席に向かうというしくみになっている。 この20年ほど、フランスのワインは中国人の買い占めにあって、私達には既に手の出ない価格になってしまったが、そのワインセラーを見て、ああ、そうだったのか、と私は納得した。 私達の大きな部屋にはもう一つテーブルがあって、そこには既に中国人の客が入っていた。 十人以上いた。 女性の服装、化粧から、このホテルにふさわしい富裕層であることが分かった。 そのテーブルでは私達が席に着いたときには既に食事が始まっていたが、私達が席に ついてメニューを選択しているときになって、向こうのテーブルに、先ほど玄関で見かけた、ベントレーの男性と女性が登場して、参加した。 他の客の態度から、どうやら、その男性が主客か、一同を招待した人間だったらしい。 その男性は、レストランの自分の席についても、頭にサングラスを載せたままだった。 中国では、まだサングラス頭乗っけが流行っているらしい。 私達のテーブルにも料理が次々に運ばれてくるので、隣のテーブルの観察は中断した。 途中で、何気なくそのテーブルに目をやると、頭サングラスの男は、ワインを飲んでいた。 あのワインセラーから選んだ高価な物で有るに違いない。 ワインを飲みながら、中華料理か。 中国の三十年間の経済的発展の凄まじさが、巨大ホテル、ベントレー、頭サングラス、中華料理とワイン、に表象されているように私は思った。 さて、肝心の料理だが、私は甚だしく落胆した。 決してまずいわけではない。 私は以前から、和洋中華の中で中華料理が一番好きだった。 香港には10日いて中華料理を朝昼晩と食べ続けても飽きることがなかった。 飽きるどころか大変に幸せだった。 一方、京都には3日いるとうんざりした。 それがここ数年、私の嗜好に大きな変化があった。 美味しい、美味しいと言って中華料理を食べていたのが、ある時、食べている最中に箸を置くようになってしまった。 それは、中華料理は何を食べても同じ味じゃないのか、と思い始めてしまったのだ。 そう思い始めると、百年の恋が一度に冷めるとはこのことか、全ての中華料理が同じ味付けでしかないと感じるようになってしまったのだ。 この、中華料理の味についての話は、また別の機会にたっぷりとすることにして、今回は私が味覚の端境期にあったと言うことだけ記しておくことにする。 そのような状況になってしまったのは不幸なことで、その日、食べた中華料理も私の味覚の端境期の影響を受けてしまったと言えるだろう。 まあ、端的に言えば、どれをとっても「おおう、これだよ、これだ」と騒ぎたてるようなものがなかったのだ。 私は、北京で一番と言われている料理店で、そのような端境期の私を再び中華料理第一に鼻面を引回してくれるようなものを願っていたのだが、それは、叶わぬ願いだった。 おっと、ここまででかなりのページ数を使ってしまった。 これから先は、次回以降に書き継ぐことにする。 新疆で,私がどんな体験をしたか、書いていく。 では、次回「新疆・ウィグル」編、その2でまた。
- 2022/04/18 - いやはや コロナで世界中が大混乱している最中に、またとんでもないことが起こった。 ロシアがウクライナに攻め込んだ。 いやはや、なんとも、である。 私にはどうしても、ロシアがウクライナに攻め込んだ理由が分からない。 識者という人たちが、テレビなどで今回の開戦に至る事情を説明しているが、どれ一つ取っても、納得出来ない。 基本的に言って、なぜ、戦争をしなければならないのか、という疑問に答えてくれる説がない。 考えてみれば、戦争とはそんな物なのかも知れない。 例えば、日本が中国を始め、アジア各国に攻め込んだその理由がよく分からない。 日本は単なる膨張慾、八紘一宇(全ての国を天皇の支配のもとに置く)という妄想に駆られてえてあれだけの侵略戦争をしたのだろうか。 朝鮮、中国、東南アジアに攻め込むことについては、八紘一宇の妄想でその行動が理解できるとして、太平洋を隔てたアメリカに宣戦布告したことについては、八紘一宇では理解できない行動だ。 八紘一宇をアメリカに妨害されたので、発狂したとしか思えない。 日本のあのアメリカ相手の戦争は理性的なものではなかった。 もっとも、戦争が理性的だったことがあるわけがないのだが。 プーチンの言うことはあまりに馬鹿げている。 ウクライナのナチスがロシア系住民を虐殺しているから、それをとめるためだという。 しかし、そのために戦争を引き起こしますか。 識者の言う所では、プーチンは旧ソ連の版図を回復したいのだそうだ。 なぜ、回復しなければならないのだ。 今のままで何か不自由があるのか。 戦争を引き起こしてまで版図を回復しなければならない理由があるのか。 ロシアがウクライナに侵攻して1ヶ月以上経って、ロシアがウクライナで何をしたのか、ウクライナの惨状が、次々に明らかになり、テレビで報道される。 その惨状たるや、言葉もない。 あれがロシアのやり方なのだ。 チェチェン、シリア、でロシア軍は都市を徹底的に破壊した。 軍事目標だけでなく、民間の施設も攻撃した。 軍事施設しか攻撃しないなどとロシアをうそぶくが、そもそも、ロシアの目的は相手の抵抗意欲をそぐことにある。 そのためには、民間の犠牲が多ければ多いほど、効果的だと言うことをロシアはよく知っている。 最初から、民間の犠牲者をできるだけ多く出すことを目的としているのだ。 住む環境を破壊され、肉親を殺され、自分も傷つくと、大抵の人は抵抗する気力を失う。 その、抵抗する気力を奪うのがロシアの常套手段なのだ。 ロシアと言うより、プーチンのやり方だ。 ロシア国内をプーチンは暴力で押えつけている。 ロシア政府、プーチンに批判的なジャーナリストは殆ど皆殺された。 弾圧などと言う生やさしいものではない。 反対すれば殺すのだ。 それを見せつけられて怯えた国民は、反対する意欲を失って、プーチンの言うなりになっている。 それがプーチンのやり方だし、プーチンの支配するロシアという国のやり方だ。 今の所ロシアは攻撃目標を達成することが出来ず、一旦キーウ周辺から引き揚げて、東部攻略に集中するようだ。 今日現在、激しい攻撃が行われているだろう。 なんと言っても、ロシアはアメリカ、中国と並ぶ軍事大国だ。 本気を出せば、ウクライナを蹂躙出来ないわけがない。 これから、私達は今まで以上の惨状を見せつけられるに違いない。 このロシアの暴挙を見るにつけ気になることがある。 2つの漫画を見て頂きたい。 最初の1つは、朝日新聞の夕刊に連載している、しりあがり寿氏の「地球防衛家のヒトビト」だ。 この「地球防衛家のヒトビト」は不思議な漫画で、登場人物がSF映画の地球防衛隊の隊員(そんなものがあればだが)の制服を着ている。 ところがその制服で「ヒトビト」は極日常的な生活を営んでいる。 お父さんも娘も会社勤めだし、子供は学校に通っているし、お母さんは家庭の主婦だ。 日常の何と言う事のない滑稽な場面や、社会問題・政治問題の風刺が、地球防衛隊の制服を着たヒトビトによって描かれる。 のんびりほのぼのしているようで、鋭く厳しい内容で迫って来たりするので油断がならない。 その3月1日掲載の分を見て頂きたい。 (画像はクリックすると大きくなります) 次は、以前に何度か紹介させて頂いた、週刊朝日連載の山科けいすけ氏の「パパはなんだかわからない」だ。 4月8日号に掲載されたのを見て頂きたい。 (画像はクリックすると大きくなります) この二つの漫画に共通しているのは、習近平とプーチンの関係だ。 プーチンがウクライナに攻め込んだのを見た習近平が、「それがありなら、こちらも」とその気になるのではないか、というわけだ。 漫画というものは力がある。何十行も言説を重ねるより、4コマ、1ページの漫画の方が説得力がある。 実に見事な漫画だと思う。 中国は、勝手に自国に取り込んだ、チベット、ウィグル、内モンゴルをジェノサイドと批判されるやり方で、その地の人びとを暴力で屈服させている。 更に習近平は台湾を支配下に置くと広言している。 現在の台湾の人びとは、今の状況で大変に満足している。 それを、どうして習近平は当然のこととでも言うように、台湾を中国の支配下に置く、と言うのか。 台湾は日清戦争の後に、日本が占領した。 元々中国の領土だったのだから、中国が支配する、というのが習近平の論理だろう。 しかし、台湾の人たちはどう考えているか。 第二次大戦後に、共産党に敗北して台湾に逃げ込んできた、蒋介石の率いる国民党が長い間台湾を支配してきたが、1900年代の李登輝による民主化の後、国民党支配の時代が終わり、現在台湾は民主国家として繁栄している。 あっという間に中国の圧制下に入った今の香港の姿を見れば、台湾の人たちが、中国の共産党による圧制という政治体制に入りたいと思うはずがない。 ロシアと中国に共通しているのは、民主主義を知らないことである。 ロシアでは長い間帝政の時代が続いた。 ロシア革命で帝政から共産主義の世界になった。 ソビエト連邦は共産党一党独裁の政治体制だった。 レーニン、スターリン、ブルガーニンと続くソ連の政治体制は民主主義とは無縁のもので、共産党書記長が実質的帝政ロシアの時代のツアーと同じように人民の上に君臨し、人民を支配していた。 エリツィンによって、ソ連邦は崩壊し、選挙で大統領を選ぶロシア連邦に移行して、一見民主主義体制に移行したかと思われたが、エリツィンの後大統領になったプーチンは自分に反対するものは殺すという凶悪な手法でツアーより遙かに強力で凶暴な独裁者になった。 ロシア人にとっては、そのような強権を持つ支配者を戴く生き方が身に染みついているに違いない。 今のロシアは帝政時代を凌ぐ、恐怖による圧制下にあると言えるだろう。 その方がロシア人は生きやすいのだ、といったら言い過ぎだろうか。 ただ、そのような圧制になれてしまっているのだとは言えるだろう。 中国人も4千年以上の皇帝による支配の下に生き続けてくると、自分たちで指導者を選ぶ民主主義的な生き方は返って不安であり、強圧的な独裁権力によって支配される世の中の法が生きやすいのかも知れない。 私は四年ほど前に久しぶりに中国に行った。 わずか十年で中国はその姿を激しく変える。 上海は大変に繁栄する大都会だった。 上海から、観光で東京に来た上海人が、銀座の町にやってきて 「なんでこんな田舎に連れて来たんだ」 と怒りだしたそうである。 確かに、今の上海から見れば、銀座は貧相な町である。 その上海で、そして、その後に行った西安でも見たことだが、夜になると、人びとが町の広場に集まってきて、踊るのだ。 バイクにアンプとスピーカーを積んで持って来て、それで音楽をかける。 聞いたことのない中国の音楽で、それに合わせて、人びとが踊る。 私が見たのは主に中年以上の男女だった。 その男女が、実に楽しげに、踊るのだ。 上海でも西安でも毎日踊る人たちの姿を見た。 休日には昼間に公園で踊るという。 私はその人たちの姿を見ていて、これは、「鼓腹撃壌」なのだろうかと真剣に考えた。 「鼓腹撃壌」とは、中国の史書「十八史略」に書かれていることで、人民は政治に満足すると、腹鼓を打ち(鼓腹)、地面を踏み鳴らして(撃攘)喜ぶ、という。 まさに踊っている人びとは、身なりも良く、健康そうで、如何にも満ち足りているという感じである。 これが鼓腹撃壌の人びとの姿なのか、と私は思った。 中国に言論の自由がないのは良く知られている事実だ。 共産党の批判は犯罪になる。 天安門事件については全てがなかったことにされている。 1989年6月9日に起こったことなので、89や69と言う数字を書かれていただけで問題になるという。 反体制的な言辞を弄したジャーナリスト、辯護士は投獄されてしまう。 ネットは全て検閲されているし、個人情報は全て国が管理していて、監視カメラも全土にくまなく配置されているから、ある1人の人間を捕まえようと思ったら、中国全土どこにいても6分か9分で捕まえることが出来るという。 まるで、中国全土が開放型の監獄のようなものである。 個人の自由も、言論の自由もない。 事業を興して富豪になっても、政府の考え方次第で、金も地位も危うくなる。 そんな国に、私は絶対に住むのは嫌だと思うが、圧制の元で生きることが4千年以上続いて、体の奥底にまで、従うことがすり込まれてしまっている中国人は、権力にさえ逆らわなかったら、とりあえず安楽な生活が出来るという状況で満足してしまうのだろうか。 清朝が崩壊した後、混乱期を経て毛沢東の中国共産党が政権を握った。 中国人は今までに民主的な政治というものを経験したことがない。 大半の中国人は、民主主義とか、個人の人権とか、個人の自由などと言うことは考えたこともないのだろう。 だから、私から見れば開放的監獄のような生活にも、衣食さえ足りていれば満足するのだろう。 私は、踊る中国人たちを見てそう思った。 習近平は「くまのプーさん」に似ていると言われるのがいやなのだそうだ。 そこで、中国では、「くまのプーさん」は禁句となっている。 まさか習近平自身が命じたわけではあるまい、周囲の取り巻きが忖度しての事なのだろう。 習近平、なんというちっぽけな人間であることか。 80パーセント以上の国民がプーチンを支持するロシア。 国民が1人残らず習近平に従う中国。 この二つの国が、巨大な武力を持っていることが恐ろしい。 そして、その二つの国の指導者が、領土拡張の意欲を強く持っていることが恐ろしい。 プーチンの凶行をとめる人間がロシアにはいない。 習近平の、チベット、内モンゴル、ウィグルにおける残虐行為をとめる人間が中国にはいない。 習近平が台湾を攻撃すると言えば、中国人は歓呼の声を挙げるだろう。 まさか、21世紀になって、こんな戦争が起きるとは夢にも思わなかった。 一体どうすれば良いのか、世界中の人間が、答えを見つけられず、オロオロしているように見える。 私も途方に暮れている。 (お断り)しりあがり寿さま、山科けいすけさま、 無断で漫画を使わせて頂きました。申し訳ないことです。 ご迷惑であれば、このサイトの、管理人宛に、メールを下さい。 直ちに取り下げます。
- 2022/02/02 - 挫折 2回にわたって、「余は如何にしてLock Lownを切り抜けしか」、などど書いて来たのだが、昨年末から、オミクロンカブのコロナ・ウィルスがオーストラリアで猖獗を極めるようになって、Lock Downを切り抜けたなどと浮かれていられなくなった。 1月31日現在、まだ、Lock Downには突入していないが、今の状況は大変に悪く、予断を許さない。 で、残念ながら、 「余は如何にしてLock Downを切り抜けしか」、は中断することにした。 「美食」については、この後、シドニーの魚、オーストラリアのトリュフ、ベランダ栽培のイチゴ、ベランダ栽培のレタスなど、色々と良いネタをそろえてあるのに、残念。 オーストラリアのトリュフの素晴らしさについては、また日を改めて報告します。 オミクロン株は、デルタ株より重症化する率が低いなどと言われてもいるが、なかなかそう簡単にはいかないようだ。 さらに、デルタ株変異種というのが出現したとも言われている。 このデルタ株変異種は、重症化率が高いそうで、聞いただけで憂鬱になってしまう。 一体、このまま行くと、人類はどうなるのか。 このまま続けていくと、経済活動も、社会活動も、何も出来ないままになってしまう。 もうこうなると、コロナもちょっとたちの悪いインフルエンザとして扱って、社会活動は旧に復するしかない、という人もいる。 人によっては、もう諦めて、全ての活動を以前に戻して、コロナにかかったらその都度治療することにすれば良い、と言う。 考えてみれば、このコロナとインフルエンザとどちらが被害は大きいのだろうか。 ただ、私のように後期高齢者は、(いや私なんか後期高齢者を通り越して、終期高齢者だが)、はコロナにかかると重症化率が高く、死亡率も高いと言う。 (しかし、それは、インフルエンザでも同じ率なのではないだろうか。) 私はそれを心配して、家に引きこもり続けている。 小学校の同級生の女性がこんなことを言ってきた。 「私達はもう残された時間が短いというのに、どこにも行けず、何も出来ずに家に閉じ込められている。こんなの、大変な人生の無駄だ」 まさにその通り。 若い人はまだ先があるからいいけれど、後期高齢者、終期高齢者となると、まさに今のこの時間が貴重なのに、何も出来ずに家に閉じ込められているのは実に残念だ。 こんな時に、テニスのオーストラリア・オープンが開かれた。 そこに、セルビアのジョコビッチがやってきた。 既に旧聞に属する話だが、書いておきたい。 ジョコビッチは反ワクチン派なのだという。 オーストラリアの法律では、オーストラリアに入国するのに、ワクチン接種の証明書が必要である。 それが、ジョコビッチは12月16日に陽性になって、今は陰性、抗体が出来ているからいいだろうと主張した。 オーストラリアの裁判所は一旦、特別扱いで入国を許した。 しかし、そう簡単にはいかない。 ジョコビッチ側の問題が色々発覚した。 陽性になったと言っているのに、その間にもよおし物などに色々参加していた。 オーストラリアの入国申告書類に、直近2週間海外に行ったことがない、と申告したのに、実際はスペインなどに出掛けていた。 入国申告書に虚偽の記載をすると、懲役が科されて、向こう三年間入国禁止となる決まりがある。 世論は反撥した。 オーストラリア政府の移民相ホークは裁判所の決定を取り消し、ジョコビッチを強制送還、向こう三年間のオーストラリア入国禁止処分にした。 と書くと簡単なのだが、殆ど一週間、オーストラリアでは、このジョコビッチ問題で大騒ぎになった。 オーストラリアにも反ワクチン派の人たちはいて、彼らはジョコビッチの件を反ワクチン派のために利用しようとして、ジョコビッチの入国を許可しろと騒いだ。 セルビアの大統領まで出て来て、オーストラリアの首相にジョコビッチを入国させろと迫った。 私達オーストラリア国内でこの二年間、コロナとの戦いで厳しい生活を送ってきた人間にとって、呆れるばかりの馬鹿馬鹿しい騒ぎだった。 事実、調査の結果、オーストラリア人の83パーセントがジョコビッチの入国に反対した。 オーストラリア政府は2020年に海外渡航禁止令を出して、それ以来オーストラリアの住民は海外に出られなかった。 昨年11月にそれが解けて、私の長女が1月に私の母の見舞いに日本へ行ってきた。 私の母は高齢で、弱ってきているので、長女は見舞いに行ってきたのである。 で、帰りのオーストラリアに向かう飛行機には、ワクチン接種の証明書と、PCR検査の陰性証明書がないと乗れなかった。 これは誰にでも適用される法的な措置である。 法の下で万人公平でなければ公正な社会とは言えない。 そもそも、反ワクチン派でワクチンを打っていないジョコビッチはオーストラリアに向かう飛行機に乗ることは出来ないはずだったのではないか。 飛行機に乗ることが出来たと言うことがまず問題だ。 さらに、オーストラリアに入国して、どういう事情か、オーストラリアの裁判所がジョコビッチの入国を認めたことが問題だ。 しかし、過ちは直ちにただされるのがオーストラリアという国の良い所だ。 日本のようにアヘ・ヒンソーが国会で何度も嘘をついても許される腐りきった国とは違う。 結果的に過ちは正された。 その渦中で、ジョコビッチは、次のように言った。 オーストラリア・オープンに出るのは、「最高峰の選手による最高峰の試合を見せたいからだ」 これを新聞で読んで、私は上品に言えば、憤った。 私流に言えば、「ざけんなあっ、最高峰の選手ならオーストラリアの社会を破壊してもいいのかっ!」と喚いた。 ジョコビッチが入国を許されてオーストラリアオープンに出場するということは、まず第一に、「ワクチンを打っていない人間は入国を許されない」というオーストラリアの法律を破ることになる。 ある1人の人間に対して法律を破ることを許したら、「法の下に万民が平等」という民主主義の根幹を犯すことになり、オーストラリアの国の社会は壊れてしまう。 更に、ワクチンを打っていないジョコビッチはオーストラリアの国民をコロナに感染させる恐れがある。 となると、ジョコビッチの入国を許すと、 1)オーストラリアの社会を破壊する。 2)オーストラリア国民をコロナに感染させる恐れがある。 という、二つの過ちを犯すことになる。 「最高峰の選手」「最高峰の試合」は、オーストラリアの社会を破壊し、オーストラリア国民の健康を危機に陥れる、 テニスは、一国の社会を破壊し、その国の国民の健康を破壊してまで有り難がる物なのか。 私は最近の、スポーツ選手の特権化はすさまじい物があると思う。 それについて語りだすと本一冊になる。 今そこまで語る余裕がないので、昔のことを一つ話して終わりにしたいと思う。 長嶋選手が日本国民みんなに英雄として崇められていた頃のことだ。 1960年代の東大の教養学部で、城塚登教授の「社会思想史」の講義が学生たちに人気があった。 駒場の900番教室という、大きな階段式の教室で、「社会思想史」は文化理科共通の科目とされていて、受講する学生の数も多かった。 城塚登教授は黒澤明監督の映画「羅生門」に出て来た俳優森雅之に似た好男子で颯爽とした身なりで、しかも、社会思想について語る語り口が鋭く歯切れが良いので大変に人気があった。 教室と言うより講堂と言う方がふさわしい900番教室がいつも受講する学生たちで一杯になった。 ある朝、それは、「価値」という物についての講義だったと思うが、城塚登教授は、こう語った。 「1人の男に棒を持って立たせて、ボールを投げてやったところ、3割くらい的確に打ち返すとその男は巨額の金を得る」 これが、長嶋選手のことを言っているのだと学生たちは気がついて、笑いがはじけて、殺風景な900番教室がいっとき明るくなった。 人間には見方によって様々な価値が有るが、商品としての価値という物もある。 野球が大衆的な人気を博している社会では、ボールを三割の確率で打ち返すとスターになり、破格の給料、広告のモデルとしての破格の収入、を得られる。 野球選手の価値は、商品価値に換算しうる。と言うか、商品価値で計られる。 商品価値という物は普遍的な価値ではない。 野球に人気がない社会では、価値がない。 人間の生き死にに関わる価値はない。 端的に言えば、人間存在の根底に関わる絶対的な価値ではない。 こう言う見方には異論があるだろうが、人間の本当の価値とは何なのか、と言うことについて考える,とっかかりにはなった。 私はジョコビッチ騒ぎをみていて、皆、ジョコビッチの商品価値に振り回されていると思った。
- 2021/12/24 - 余は如何にしてLock Downを切り抜けしか その2 余は如何にして、Lock Downを切り抜けしか その2 美食の1 シドニーのロックダウンは厳しくて、レストランは全て閉まった。 私はそんなに頻繁に外食をする訳ではないが、月に一度か二度、小龍包や、ラーメンを食べに行ったりする。 小龍包は、中華料理であるから、化学調味料がたっぷり入っている。 小籠包を食べた後は、舌が痺れる。 それは辛いのだが、小龍包自体のうまさがあるので、化学調味料がきついのにも拘わらず、食べに行く。 娘達は、「お父さん、本当は化学調味料好きなんじゃないの」などと、言って私をからかう。 で、小籠包を食べに行くことを、私の家では、「化学を食べに行く」と言うことになってしまった。 その「化学」もロックダウンになってしまうと、食べに行くことは出来ない。 同じ化学の「ラーメン」も食べに行けない。 美味しい物は自分の家で、という私の家での決まりを守ることになってしまう。 で、このロックダウンの間、せっせと自分の家で美味しい物を探して食べることに精を出した。 イチジク まずイチジクである。 私は日本にいる時には、殆どイチジクを食べたことがない。 子供の時に、裏庭にイチジクの木が生えていた。 その家の前の持ち主が植えたのだろう。 実の色は青く、食べても少しも美味しくなかった。 イチジクは美味しくない物だという先入観が出来上がった。 しかし、よその家に行くと、紫色のイチジクがなっているのを見ることがあった。その紫色のイチジクは甘いので、大変にうらやましく思ったのを憶えている。 シドニーでは、季節になるとスーパーやマーケットに、イチジクが大量に現れる。 何度か買って食べてみたが、格別の印象はなかった。 イチジクは長い間、私の意識の表面から消えていた。 ところが、三年ほど前に、近くのスーパーで緑色のイチジクを買って食べたところ、これが、アッと驚く美味しさ。 慌てて、買い足しに行った所、既に売り切れ。 あの時の残念な気持ちは忘れられない。 ところが、それから数日後、別のマーケットで、やはり緑色のイチジクを売っていたので、買った。 それが、また大当たり。 概観は緑色だが、実を割ってみると、中は赤紫色で、蜜がたっぷり溢れている。 ねっとりとした舌触りで,実に官能的だ。 実の中に蜜がたっぷり溢れているイチジクなんてそれまで食べたことがなかったから、驚くやら、興奮するやらで大変だった。 果物に共通のエステルの香りはないが、一般の果物とは別の種類の香りがする。 そして、とにかく甘い。 その甘さが、しみじみとした甘さで、華やかでもすがすがしい感じでもないのだが、激しく蠱惑的である。 何か、心の深い所に突き刺さってくる味である。 こりゃあ、シドニーで本気でイチジクを探さないといけないと言うことになった。 長男が、ネットで調べると、私の家から1時間ちょっとの所に、いくつかイチジク農場があることを発見した。 よし、行ってみようと、私と妻と長男の三人で遠征に出かけた。 いくつか当たって見た。 道ばたに出ている店で大きな紫色のイチジクを買った。 大きな家の門を入ると、家の母屋の前に小さな小屋のような家があった。 昔は使用人などが住んでいたのかも知れない。 その小さな家に、そこの家の主人の母親という、70代後半の女性が住んでいて、その女性が育てたイチジクを売っていた。緑色のイチジクがあった。 老女は、リトアニアからやってきたと言った。英語が不十分だった。 また、フランクという名前の男が経営するおおきなイチジク専門の農場があった。 そこでは、紫色のイチジクを買った。 結果としては、大きなイチジクは美味しくなかった。 老女のイチジクは美味しかった。 しかし、次の週に行ったらその家の門は閉まっていて、老女に会うことは出来なかった。 1月後にも扉は閉まったままだった。 その後、その扉を開かず仕舞い。老女にも会えず仕舞いになった。 ヨーロッパからオーストラリアにやってくる人の中には複雑な過去を持った人がいる。なにやら、スパイ小説など思い出させる老女の雰囲気だった。 フランクの農場のイチジクは、紫色の種類で、これは大変に美味しい。 シドニーのイチジクの季節は、12月末から1月一杯までだ。 正確に言えば、1月半もない。 その短い季節に私は3度か4度フランクの農場に行った。 フランクとはすっかり仲良くなって、彼の農場のイチジクをプリントしたTシャツを貰ったりした。 私はフランクのイチジクに深く満足した。 自分がイチジクの魅力にとりつかれて、イチジクについて考えてみると、イチジクに対して私のように深く魅入られる人間はそんなに多くないと言うことに気がついた。 たしかに、香り、甘さ、食感、見た目などから考えると、イチジクは陰気な果物である。 隠果ともいえる。 イチゴの清純極まりない美しさ、愛らしさ、マンゴーの太陽の授かり物と言いたくなるような明るい豊かさ、膨らみのある甘さ、かぶりついたときのあの気持ちの良い触感と言う物とは無縁だ。 緑色のものはともかく、紫色のイチジクは、美しいとは言えない。 隠微な感じがする。 形状も、何やら怪しい。 食べるのにも、普通パックリ二つに割って、中身をあらわにしてしまう。 そのあらわになった中身というのが、鮮やかな赤紫色で、しかもねっとりとした蜜が果肉を包み溢れている。 実に妖しい感じを受ける。 妖果と言いたくなる。 むう、イチジクは美味しいだけでなく、妖しく人の心を誘う果物だったのだ。 さあ、もうじき1月だ。 イチジクの季節だ。 胸が躍る。 私がLock Downをしのいで来るのに、力になった物の一つが、このいちじくだったのだ。 美食篇まだまだあります、美食篇2に続きます。 あ、ここでお詫びを。 前回、Lineは動画がすぐ消えると言って、それがLineのけち臭い仕様のように書いてしまいましたが、友人からすぐに連絡があり、Lineも保存手続きを取れば、動画を保存できると言うことでした。 Lineを利用している皆さんと、Line本社にお詫びします。
- 2021/11/20 - 余は如何にしてLock Down を切り抜けしか その1 「孫娘」 シドニーのあるニューサウスウェールズ州は、去年から厳しいロック・ダウンを敷いた。 自宅から、5キロメートル以遠に出てはいけない。 買い物も生活に必要なものだけが許されて、しかも、買い物に出掛けて良いのは1家族から1人だけ、五人以上人間が集まってはいけない、レストラン、パブ、などは営業禁止、スーパや食品店の入り口にはQRコードの登録証が掲げられていて、店に入る人はスマートフォンでそのQRコードをスキャンして、店に入った時間と、店から出た時間を州政府に申告しなければならない、などなど、厳しい規則が並んでいた。 その、ロック・ダウンが、10月末に解けて、11月1日から、海外渡航禁止令も解けた。 レストランも営業を再開して、人々はようやく息をつけるようになった。 しかし、この間に、30年近く大事にしてきた中華街の中華レストランが店を閉めてしまった。 これから、中華料理をどこで食べたら良いのか、私達は途方に暮れている。 ロック・ダウンは実に厳しかった。 どこにも出掛けることが出来ないので、息がつまりそうになった。 音楽会も、美術展覧会も、映画館も、全てクローズ、旅行も出来ない、釣りに出掛けることも出来ない、今まで普通にしていた生活が全てできない。 警察や、取り締まり当局の目は鋭く、うっかりするとひどい罰を食らう。 婚約パーティーを50人の人間を集めて開いた人たちが、日本円にして総額3000万円の罰金をかけられた例もある。 日本のように外出を野放しにするのとは大違いの厳しさなのだ。 ここまで締め付けられると、精神的に参ってしまう。実際にそのような人の話は色々と聞いた。 私も牢獄に閉じ込められたような思いで日々を過ごしてきた。 実に、苦しい陰鬱な日々だった。 一体この無残な日々を私は如何に生き抜いてきたか。 その報告を書いていく。 今回はその報告第一である。 2020年の6月に長男夫婦の間に女の子が生まれた。 私達夫婦にとっては初孫である。 孫は可愛いと聞いていたが、いやはや、こんなに可愛いとは思わなかった。 10年以上前になるだろうか、池上遼一さんが小学館の漫画賞を受賞して、その受賞祝賀パーティーに私も招かれた。 パーティーには池上さんの奥様と娘さんも出席していた。 娘さんは赤ちゃんを抱いていた。 池上さんにとっては初孫である。 池上さんがその赤ちゃんを「おう、おう」などと言って抱いたので、私は尋ねた。 「ねえ、孫って可愛い?」 すると池上さんは赤ちゃんをあやしながら、とろけるような顔で言った、「もう、可愛くて、可愛くて」 私は大変にうらやましく思った。 「いいなあ」と、池上さんのその幸せそうな顔を見てつくづくそう思った。 ところが、ついに、私にもその番が回ってきたんですよ。 いやはや、参った。 もう、池上さんどころではない。 可愛くて、可愛くて、他に言い様がない。 その可愛さには抵抗するすべがない。 生まれて初めてその顔を見た時に、「ああーっ」と私は思わず声をあげた。 私たち夫婦が初めて子供を授かったあの日のことを思い出したのだ。 私達は最初に男の子と女の子の双子を授かった。 その時の爆発するような喜びと言ったらそれまでの人生で味わったことの無いものだった。 宝くじの特賞が千回分まとめて当たってもあんなに嬉しくないだろう。 私はそれまで、無頼にして放埒な生き方を良しとしていた。 「あれが体にいい、これが体に悪いなんて言ったって、生きること自体が体に悪いんだ。あれもこれも、したいことをしたいようにすれば良い。飲みたいものを飲みたいだけ飲み、食べたいものを食べたいだけ食べれば良い。死ぬ時ゃ、死ぬ」などとうそぶいていた。 しかし、二人の顔を見た途端、「この子たちを何とか無事に健康に幸せに育てなければならない。それにはまず私達が健康でなければならない」という思いがこみ上げてきて、私はそれまでの生活態度を一変した。 孫の顔を見て、その時のことを思い出した。 自分の子供の場合、ただ可愛いではすまない。 私の性格なんだろうが、心配で心配でたまらない。 男の子と女の子を両方育ててみれば分かるが、男の子の方が弱い。 下痢をしたり、熱を出したりするのはいつも長男の方だ。 母親というのは大したもので、少しばかり子供が熱を出しても平然としている。 「すぐ治るわよ」 私はそうは行かない、今にもこの子は死んでしまうんじゃないかと怯えて震え上がる。 日曜日の夜中に、市の幼児専門の病院に担ぎ込んだのは一度や二度では済まない。 しかし、孫の場合、そんなことは長男夫婦に任せておけば良い。 私はただ、可愛い、可愛いと、とろけていれば良いのだ。 全く、「ラッキー」ですよ。 長男が陶芸家であって、ろくろも窯も私の家に据えてあるので、長男は私の家を離れるのは難しく、結果的に長男夫婦は私の家に同居している。 おかげで、毎日孫の顔を見ることが出来て、私は大変に幸せだ。 友人たちの話を聞くと、小学校二年生の時からの友人もやはり長女夫婦が一緒に住んでくれているので、孫と毎日会えて幸せだと言っているが、それは全く例外で、大抵は息子や娘の夫の仕事の都合で実家から離れた所に住まざるを得なくなる事が多く、同居するのは無理であることが多い。 その点私は運が良い。 毎日孫と一緒にいられて、こんなにありがたいことはない。 生まれてから毎日孫を見ては、可愛い、可愛いという。 一体一日に何回可愛いと言うのだろう。 首が据わった、寝返りが出来た、腹ばいになれた、腹ばいになって首を上げることが出来た、お座りが出来た、はいはいが出来た、立った、歩いた、走った。 その一つ一つの節目が、私達にはこの世の一大事。 毎日孫の一挙手一投足に私達は引きつけられて、ちょっとしたことで喜んで笑う。 家中、孫を中心として笑いのトルネードだ。 私は四人の子持ちで、男二人、女二人、上手い具合にそろった。 で、当然のことながら、男であろうと女であろうと子供の可愛さには変わりはない。 だが、女の子は抱いた感じが男の子とは全然違う。 柔らかいのだ。 これは、最初に男の子と女の子を同時に持てたので、比較することも出来てよく分かった。 女の子はほわーっと柔らかく、男の子はゴツゴツ骨張った感じがする。 もし子供を1人しか持てないのだったら、私は絶対に女の子を選ぶ。 で、この初孫が女の子なので、私としては大変に嬉しい。 孫娘を膝に抱いていると、その柔らかな感触と、体中から立ち昇る赤ちゃんの匂いに恍惚として「ああ、なんて可愛いんだ」と余りの幸福感に胸が痛くなる。 海原雄山が山岡とゆう子の赤ん坊を抱えてこんなことを言っている。 「赤ん坊は不思議な力を持っている。人の心を清らかにする」 雄山の言や良し、だ。 長男夫婦はもう一人男の子を作ると頑張っていたが、実際に子供が生まれてみると、子育ての大変さを身にしみて、もう一人作る気力を維持することが出来るかどうか、私は面白がって見守っている。 私が如何にジジ馬鹿かを示す物の一つに、iPhoneに撮りためた写真と動画がある。 iPhoneの「写真」を開くと、11月19日現在で、写真が3,541枚、動画が1,839本の動画、と記録されている。 3,541枚の写真の内、3,200枚が孫娘の写真、1,839本の動画のうち、1,600本が孫の動画である。 私は長い間スマートフォンを使わなかったが、孫娘が生まれてから手放せなくなった。 いつでも、孫娘の写真と動画を撮りたいからだ。 更に、このジジ馬鹿のひどい所は、撮った写真と動画をやたらと人に送りつけることだ。 私の姉弟、子供たち、サンディエゴの親戚、小学校の同級生、昔からの友人、尊敬するマンガ家、仕事で協力してくれたライター、など、みんなの迷惑を顧みず手当たり次第送っている。 そのためには、WhatsAppが1番良い。 小学校の同級生の1人が、Lineしか入っていないというので、私も急遽Lineに入ってみた。 しかし、Lineでやりとりした動画は10日もすると消えてしまうのだ。 これは、おどろくべきけち臭さだ。 Lineは韓国製のアプリでそれを日本向けにした物を我々日本人は使っているのだが、このけち臭さはどうしたことだろう。 韓国人は気前が良いので有名だ。 すると、これは日本人の島国根性のけち臭さのゆえなのかね。 WhatsAppはそんなことはない。一年以上前の動画もちゃんと残っていて楽しめる。 とまあ,こんな具合に、孫娘を可愛い、可愛いといって、毎日を過ごしています。 人生も終わりというこの時期に当たって、孫娘が大変な幸せを抱えてやってきた。有り難い、有り難い。 私がLock Downを切り抜けることが出来たのは、まず孫娘の存在に寄る所が大きいのだ。 (その二「美食三昧」につづく)
- 2021/10/28 - 言い訳 言い訳 今年に入ってから、このページの更改の回数が少なくなっているので、雁屋哲はどこか悪いのではないか、老衰し果ててコンピューターに向かうことも出来ないのではないか、などとあらぬ心配を読者の皆様にお掛けしているのではないかと恐れている。 いや、実際に、どうしたんですか、などというメールも頂戴したので、ちょっと弁解しておきたい。 実は、コロナによって、対外活動が一切封じられてしまい、毎日家に閉じこもってばかりの生活を続けているうちに、そうだ、この際新しい事業に取り組もうと決意したのだ。 で、この2年近く、老体にムチ打ち新たな事業に全力を打ち込んでいる。 私は何か始めると、他のことが頭からすっぽり抜けてしまうという性格なので、このページに手が回らなくなってしまったのだ。 その事業とは一体何か、い、ひ、ひ、ひ・・・・ 今はちょっと言えませんね。 来年3月過ぎたらその事業が実を結ぶかどうか明らかになると思う。 上手く行くとわかったら、ご報告します。 駄目であれば、そのまま頬かむりです。 頬かむりを、はらりと落として、実は、と言いたいですね。 しかし、私にとってこのページにものを書くというのは大事なので、新しい事業の傍らもっと頻繁に書くことにします。 今回は、その言い訳と言うことで。
- 2021/07/31 - 一つの事実 コロナについての一つの単純な、データを、ここに示す。 東京都とオーストラリアのニューサウスウェールズ州との比較である。 人口、 東京 1400万人 ニューサウスウェールズ州 約817万人 2021年7月29日のコロナ関係のデータ。 ◎検査者数 東京 11,228人 ニューサウスウェールズ州 95,446人 ◎感染者数。 東京 3,865人 ニューサウスウェールズ州 170人 ◎検査費用 東京 33,000円+診断書代5,000円(私的検査の場合) ニューサウスウェールズ州 無料 このデータを見て、どのように感じるだろうか。 東京都のやり方に、怒りと絶望を感じるのは私だけだろうか。 大雑把に言うとこうなる、 2021年7月29日に人口816万人のニューサウスウェールズ州で、9万5千人が検査を受けた所、陽性者数は170人だった。 同じ日に人口1400万人の東京都では、1万1千人が検査を受けた所、陽性者数は3千900人だった。 ニューサウスウェールズ州の陽性率0.18パーセント、 東京都の陽性率34.26パーセント。 この事実に心が折れるのは私だけではあるまい。 ニューサウスウェールズ州の場合、今まで通りの政策を続けていけば、コロナを抑えることが出来るだろう。 しかし、東京では検査した人間の34.26パーセント、3割以上の人間が陽性だった。 これを全体に当て嵌めてみると、東京の人間の3分の1以上はすでにコロナに感染している。 この人たちは、周りの人たちを感染させるだろう。 3分の1が陽性であれば、感染の広がる速度は速いだろう。押さえようがない。 こうなったら、何をしようとも、もはや手遅れではないか。 伝染病に対する政策の、歴史的な失敗が今私の目の前で繰り広げられているのだ。 こうなった大きな原因の一つは、コロナの検査のやり方にある。 日本では、自主検査を受けるのに、3万3千円かかる。さらに、それに診断書が5千5百円かかる。 合わせて、3万8千5百円だ。 さらに、去年まではどこで検査を受けられるのか、保健所に問い合わせても返事を得られるのに時間がかかったし、検査を実施している病院の数が少なかった。 厚生労働省の方針は、検査を受けさせない、と言うことにあったことがわかっている。 今年になって事態が改善されたかどうかわからない。 今、日本は中国・韓国はもとより、他のアジア各国に比べても貧困の度合いが進んでいる。 日本に観光客が沢山来ると言って喜んでいる人が多いが、なぜそんなに多くの観光客が来るのか、その真実を知ろうとする人は少ない。 日本に観光客が、アジアからも大勢来るのは、日本が貧乏国になって物価が安くなったからだ。 今、外国では「日本の物価は安い」と評価されている。ツーリストにとって天国だなどとも言われている。 例えば、マクドナルドのハンバーガー、のビッグマックの値段を各国で比較したデータがある(英国・エコノミスト) それによると、 日本390円 アメリカ620円 スイス790円 日本とスイスでは、2倍の開きがある。 これほど、日本の貧困化は進んでいるのだ。 観光客が多い=日本は貧乏 だと思って間違いはない。 こんな日本に誰がした。 貧乏な日本国の給与所得者の給与の平均は月28万円である。 28万円の中から、3万8千5百円、出せますか。 家族がいればその分も、3万8千5百円かかる。二人家族で、77,000円だ。 28万円の中から77,000円出せますか。 出せるわけないだろーっ! コノ、ドチキショーメガァーッ! 要するに、国も東京都も、伝染病対策の基本である、感染者数の把握をわざと怠ってきているのだ。 感染者数の実態を把握せずに、どんな対策が打てるというのか。 テレビに出て、ああだこうだと全く無意味な言葉を吐き続けている専門家とかいう手合いに聞いてみたい。 ああ、聞いた所で、また無意味な一般論をゴニョゴニョ言うだけだろうが。 この、伝染病対策の基本である感染者数の把握を避けたのはなぜか。 それは、ただ一つ、オリンピックだ。 アヘ・ヒンソーはIOCの大会で、福島第一原発事故の後の日本の放射能汚染の問題について、「全く問題ない。安全だ,完全にとじこめた」などと大嘘をついた。 IOCも自発的にアヘ・ヒンソーの嘘に乗って、東京でオリンピックが開かれることになった。 オリンピックを開くことで、アヘ・ヒンソーとその一味にとってはよほど美味しいことがあるらしい。 アヘ・ヒンソーは大嘘をついて招致したオリンピックを、何としてでも成功させたい一心で、コロナが最初に発生したときに、日本は安全、オリンピックを開いても安全と世界に示せ、と号令をかけたのだろう。 世界で一番腐敗している日本の官僚たちは、アヘ・ヒンソーの気にいるように全てを「オリンピックの開催成功」に向けて舵を切った。 その結果、検査をしないことが、感染者数を少なくする一番の方法と考えて、コロナの感染が始まった段階で、隠蔽策を採ったのだ。(なんと言う愚かな連中だ) ワクチンも、もはや日本の科学技術は世界に追いつけず、自前で作ることは出来ない。 外国からワクチンを買うことも出来ない。 その結果、ワクチンはオリンピックまでに間に合わなかった。 今の日本の、コロナの被害は、全てアヘ・ヒンソーに責任がある。 このようなコロナ政策を立て、推進してきたのはアヘ・ヒンソーである。 スカ・カスはアヘ・ヒンソーの犯罪を受け継いでいる三下に過ぎない。 これまでのコロナによる日本の死者数は7月30日現在、1万5千184人である。(NHK調べ) 大雑把に言って、この1万5千人の人の死にアヘ・ヒンソーは責任がある。 アヘ・ヒンソーがきちんとした政策を取っていれば、死なずにすんだ人たちなのだ。 アヘ・ヒンソーはオリンピックを開催したい一心で、これらの人の命を無視した。 アヘ・ヒンソーは殺人犯である。 こんな明白な殺人犯すら裁くことが出来ない国なのか、日本という国は。 オリンピックが始まって、外国の選手団の中から、コロナの感染者が何人も出ている。 東京都の感染者数の増え方はすさまじい。 アヘ・ヒンソーという一人の愚者のおかげで、私達はコロナの爆発という惨劇を目の前にしているのだ。 アヘ・ヒンソーを裁判にかけなければ、この国の正義は死ぬ。 〈付記〉 ☆2021年7月31日のデータ。 ◎ニューサウスウェールズ州 検査した人間の数 105,963(10万5千人) 新規感染者数 210人(感染率0.02パーセント) ◎東京都 検査した人間の数 12,012 人(1万2千人) 新規感染者数 4,058人(感染率34パーセント)
- 2021/07/18 - 祝 海原雄山 於「パパはなんだかわからない」出演! 海原雄山が快挙を成し遂げた! 週刊朝日、21年7月16日号の「パパはなんだかわからない」に後ろ姿ではあるが、出演した。 と、今回の話を進める前に、書いておかなければならないことがある。 実はこのページに書き込むのは今年2回目だ。 現在すでに7月も半ば近く、と言うのにわずか2回。 もう、私はこのページを閉じるのではないかとお思いになった読者の方も少なくないと思う。 しかし、これには、理由がある。 一つは精神的なもの、もう一つ肉体的なものである。 精神的なものとは今年1月、松も取れないうちに、1969年以来の親友「あ」を失ったことだ。 「あ」については、このブログの2008年12月18日のページに書いてある。読んで頂ければ有り難い。 http://kariyatetsu.com/blog/832.php そこに >「あ」に先立たれてはたまらない。早いところ、何としてでも「あ」>より先に死のうと心がけている毎日である。 と書いてある。 しかし、その通りには行かず、「あ」に先に逝かれてしまった。 私は2004年に「あ」との共通の友人を失ったが、それ以来ひどい鬱に苦しむようになった。 ここでまた「あ」を失って、私は途方に暮れている。 朔太郎の詩を朗読し合うことが出来るような友人は一生の間に他にいなかった。 「あ」は朔太郎の詩を朗読するときに、独特の抑揚をつけた。 すると、それが、不思議な歌のように聞こえたのだ。 今も、その「あ」の朔太郎の歌が耳の奥で聞こえている。 親友を失うのは辛く苦しいことだ。 ひどく落ち込んでコンピューターに向かうのもおっくうになり、私の生産性は甚だしく落ちてしまった。 更に、三月に尻餅をついたときにその衝撃が頭蓋骨に至って、硬膜下出血を起こした。 3月と4月に血を抜く手術をした。 現在7月の16日だが、頭の調子は完璧ではない。 そんなこんなでこのページにものを書く気力がなかったのだ。 しかし、7月16日号の週刊朝日を読んで、このページに書く気力が戻って来た。 前回も、山科けいすけ氏の「パパはなんだかわからない」を取り上げた。 山科けいすけ氏のアヘ・ヒンソーと、スカ・カスに対する怒りは収まらないようで、今回のこの漫画となったのだろう。 そこに、狂言回しの役で、海原雄山が登場したというわけだ。 後ろ姿だけしか描かれていないが、髪の毛の特徴、肩の部分が尖った羽織、そしてこの口調、間違いなく海原雄山が越境して、週刊朝日に登場したのだ。 「美味しんぼ」は休載中で、雄山も淋しいので、週刊朝日にスピリッツ誌から越境侵入したのだろう。 この羽織は、陣羽織に似て、袖がなく、肩の部分が尖っている。 通常見かける羽織の形ではない。 武者羽織、とも言うらしい。 この羽織を雄山に着せることは花咲アキラさんが決めたことで、雄山が「美味しんぼ」に登場するまで私は知らなかった。 「美味しんぼ」の登場人物は数十人を超えているが、そのひとりひとりの性格付けが実に見事だ。 「美味しんぼ」が上手く行ったのは、まず第一に山岡に対する敵役として、海原雄山が山岡より強く魅力的に描かれたことだ。 主人公が闘う敵は主人公より強くなければ話が成り立たない。 私は初めて花咲アキラさんが雄山を登場させたときに、よし、この漫画は上手く行くと確信した。 羽織が、普通の羽織だったら、雄山の性格を強く出すことは出来なかっただろう。服装一つでその人物の性格を表すことができる所が、花咲アキラさんが凡百のマンガ家とは違う所だ。 しかし、あまりに雄山が強く大きく描かれてしまったので、困ったこともあった。 それは、「美味しんぼ」を映画やテレビにするときに、雄山役の俳優が見つからなかったことだ。 良く、日本の男優は、兵隊役かヤクザの三下を演じさせればピタリと嵌まる、と言われている。 反対に言えば、雄山のように強く大きい人物を演じるだけの器量のある男優がいないと言うことだ。 あ、どうも、「美味しんぼ」の方に話しがずれてしまった。 話を本筋に戻そう。 前回同様、山科けいすけ氏、週刊朝日編集部のご好意に勝手にすがって、週刊朝日、7月16日号の「パパはなんだかわからない」を引用させて頂く。 前回同様、このスカ・カスの絵が見事だ。 人品骨柄共に卑しいとしかいいようのない人間を、そのまんまに描いている。 この絵だけで、スカ・カスに対する根底的な批判になっている。 それに加えて、この内容だ。 (あ、途中ですが、私があの者をスカ・カスと呼ぶのはひどすぎないかと疑問を持つ人がいるといけないから、きちんと言っておきましょう。 あの者はテレビに出て、自己紹介するのに自分から「ガースーです」といった。であれば、私はあの者を「ガースー」と呼んでも良いのだが、「ガースー」とはあまりにひどい。本来の名前をひっくり返すのもどうかと思うし、濁点がつくと響きが汚くなる。そこで、私は濁点をとって、少しでも響きが良くなるように「スカ」として、さらに、どうしても本人が名前をひっくり返したいらしいので、その気持ちを汲んで「カス」というおまけまで、つけて差し上げたのだ。「スカ・カス」とは私が全面的な好意を持って「ガースー」に変える呼び名としてつけて差し上げたのだ。) 山科けいすけ氏は今の事態を鋭く描いている。 今の日本は、コロナ禍に国中覆われて、百年に一度という国難にあえいでいる。 それに対して、前任のアヘ・ヒンソーは何も出来ずに、「ポンポンが痛いの」などと泣き言を言って逃げ出した。(まさに逃げ出したのだ) その後を継いだスカ・カスは単に権力を握りたかっただけで、この国を良くしようという意欲などさらさらなく、オロオロ、ウロウロ、右往左往するばかり。 今の日本の国はラーメンにゴキブリが飛び込んだような悲惨な状態にある。 そんな日本の国難にスカ・カスはどう対処するのか。 まずゴキブリをラーメンの中から取り除き、ゴキブリをラーメンの中に飛び込むことを許した不手際を認めて、この国の経営を根本的に正す努力をすることだろう。 現実にもどると、この無様な政治体制を正しい方向に向けて、コロナ禍に対応できるように努力するべきだろう。 ところが、スカ・カスは意味不明の言葉をつぶやき続けるだけで、何一つ役に立つことをしようとしない。いや、しようとしないのではなく、出来ない、のだろう。 スカ・カスがアヘ・ヒンソーの官房長官を務めていたとき、記者会見である記者が質問をしたのに対して意味不明の答弁をスカ・カスがしたので、その記者がちゃんと意味のある答えを得ようとして重ねて質問した所、スカ・カスは、えらそうな態度で「一問一答」と言った。 驚くべき事に、答えにならない答えをしたので、きちんと問いただそうとしたら、それを拒否したのだ。 一問一答とは、問答無用と言うことではないか。 これは、議論することを、話し合うことを拒否することだ。 民主主義を根底から否定するものだ。 真っ当なジャーナリストならそれはおかしいと、思う。 で、スカ・カスに敢えて質問を重ねた、NHKの「クローズアップ現代」の国谷裕子さんは番組から下ろされた。 大越健介キャスターも「ニュースウオッチ9」から外された。 アヘ・ヒンソーとスカ・カスの民主主義に逆らう姿勢はスカ・カスが首相になっても変わらないどころか、ますますひどくなっている。 質問に対してまともな答弁をせず、しかも、重ねて質問すると怒り出す。 更に更に、最近はひどいのを通り越して、スカ・カスの言うことは何が何だか訳がわからなくなっている。 質問に対して、意味のある答えをしない、或いは出来ない。 その状態を、この「パパはなんだかわからない」は見事に描いている。 じつに、なさけない。 どこからどう見ても、スカ・カスは「小物」だが、「小物」こそが国を破局に導くのだ。東条英機も「小物」だった。(スカ・カスに比べると、大きかったかも知れないが、当時の世界の指導者たちと比べると、悲しいほどみすぼらしい男だった)小物故にまともな判断が出来ず、対米戦争にこの国を導いてしまい、結果的に、日本をアメリカの属国にしてしまった。 今回の「パパはなんだかわからない」は傑作である。 しかし、こんな傑作が生まれてしまう、今の日本は悲しい。 7月23日号の「パパはなんだかわからない」では、一転して横山さんが登場して、おかしく楽しい。 それでこそ、「パパはなんだかわからない」なのだが、このまま行くと、またスカ・カスやアヘ・ヒンソーが登場することになるのではないだろうか。
- 2021/06/07 - 山科けいすけが怒った 私は週刊朝日に連載されている「パパはなんだか分からない」の愛読者である。 作者は山科けいすけ。 二十六年以上も続く長い連載なのに少しもたるむことなく、毎週思わず声を出して笑ってしまう「笑い力」の横溢した漫画である。 主人公のパパは会社の中間管理職である。 面長のハンサムで、部下達にも好かれている。 対するにその妻は、相撲取りのような肥満体で、顔もまん丸に肉がついていて、盛上る脂肪で目が細く小さくなっている。膨らんだ頬の表面は真っ赤になっていて、いつも、菓子の袋を持っていて、駄菓子をムシャムシャ・ボリボリ食べている。美人とは対極の女性である。 このまるで釣り合いの取れない二人がどうして夫婦になったのか、そのいきさつを描いた回はパパの身になると涙なくしては読めないものがあった。 子供は二人いる、男の子はママ似、女の子はパパ似。二人とも大変に良い子である。 パパの部下に横山さんという不思議な男がいて、四十近いと思われるのに対人関係が苦手で、他人に対する態度がオドオド、ビクビク、していて、社会的に不適応であり、そこの所が色々と笑いの種になっている。 この「パパは何だか分からない」は我が家の人気漫画で、家族の間の会話に「横山さんが」などと、この漫画がよく登場する。 読んで気持ちの良い漫画である。漫画にも色々あるが、ギャグ漫画ほど難しいものはない。しかも、一つの設定で20年以上続けるのは大変に難しい。途中でだれてしまって少しも面白くなくなってしまうギャグ漫画は幾つもある。その点、「パパは何でか分からない」は常に水準以上の出来を保っている珍しい漫画である。 山科けいすけは、この漫画で社会的な、政治的な題材を取り扱うことはない。いつも登場人物の身の回りを題材にして読者を温かい笑いに包んでくれる。 しかし、今年の2月12日号の「パパは何だか分からない」は違った。 安倍晋三と菅 義偉に対する怒りをもろにぶつけたものだった。 口で言うだけでは話が通じない。ここは、山科けいすけ氏と週刊朝日には無断で、その漫画をここに引き写すことにする。 漫画を読んで頂けば、何も言うことはありませんね。 妻は、安倍晋三と菅義偉の陰でほくそ笑んでいる石破の姿が実に良くかけていることに感心していた。 全くこの三人の卑しい姿を描ききって見事であると私は思った。 怒り、不快感が溢れていて、これほど強烈な安倍晋三と菅義偉に対する批判は他に見たことがない。山科けいすけのこの政治家共に対する怒りは激しいと思った しかし、山科けいすけの怒りはこれで収まりのつくものではなかった。 5月21日号の週刊朝日には、以下の漫画が掲載された。 「いきあたりばったりのずさんな対策・・・・・ 浪費される莫大な血税・・・・・ こんなことしてていいのか?」 とオリンピック聖火ランナーが疑問を抱く。 これは漫画にしては生なセリフだが、マンガ家として練達の域に達している山科けいすけが敢えて生なセリフを書いた所に、氏の抑えがたい怒りの噴出を私は見た。 山科けいすけの怒りはまだ収まらない。 6月4日号には、次の漫画が掲載された。 迷走老人として、菅義偉の顔が描かれ、その下に「名前『ガースー』、特徴・姑息・卑劣・陰険。質問されるの大嫌い」と書かれている。 その迷走老人の顔が、スカ・カスによく似ていること。 そして、パパの愛娘の言葉「こんなヒトが日本の中心を走ってるの?!」に山科けいすけの言いたいことの全てが表されている。 この漫画に付け加えることは何も無い。 いつもは、心温かい漫画を描く山科けいすけがこのように怒りに満ちた漫画を描いた所に、今の日本がどんなに危ういことになっているかが表れている。 山科けいすけの怒りは正しい怒りだ。 私達も今の状況に流されっぱなしになっておらず、山科けいすけの正しい怒りを共有して行動に移さなければならない。 私達に出来ることは選挙の投票しかない。 今度の選挙では、このアヘ・ヒンソーとスカ・カスを必ず退治してやらねばなるまい。 (週刊朝日様、私は40年以上御誌を定期購読しています。シドニーに来てまで定期購読している愛読者です。 山科けいすけ様、私は自分の愛読者には私の漫画を引用することを許してきました。 愛読者であることを盾にして図々しいことですが、お二方に今回の引用をお許し下さるようお願いします。寛大なご厚情を賜りますよう乞い願います。不都合であるなら、直ちに削除します)
- 2021/01/20 - 新年のご挨拶 あっという間に1月も終わり近くになってしまった。 遅まきながら、新年のご挨拶を致します。 去年はひどい年だった。(いや、実際は1990年からずっとひどい年が続いているんだが) 今年は、何としてでも、これまでよりは良い年にしたいものですね。 お互いに頑張りましょう。 とは言え、コロナがこんな状況では今年を良い年にするのは大変に難しい。 私は2019年の11月に日本を出てから、今に至るまで丸1年以上日本へ帰ることが出来ずにいる。 1年以上日本から離れているなんて、こんなことは初めてのことだ。 早く日本へ帰りたい。 とは言え、簡単に日本へは帰れない。 オーストラリア政府がオーストラリア在住の人間の海外出国を禁止しているからだ。 日本のコロナ事情はひどいもので、あっという間に感染者数が32万人を越えてしまった。 一体これはどうしたことなのか。 オーストラリアのシドニーの状況と比較してみたい。 ◎基礎的なデータ。(2021年1月19日現在) オーストラリアの人口 約2500万人 シドニーのあるニューサウスウェールズ州の人口 800万人 日本の人口 126,000,000(1億2600万人) ☆コロナウィルスのこれまでの感染者数 オーストラリア全体で 28,721人 ニューサウスウェールズ 5,074人 日本のこれまでのコロナウィルス感染者数 331,000人 人口当たり感染者数 日本 0.2% オーストラリア 0.1% ニューサウスウェールズ州 0.06% 人口当たりの感染者数は、オーストラリアは日本に比べて少ない。 感染者数の推移を見てみよう。 ☆日本のコロナ感染者数推移 googlより オーストラリアのコロナ感染者数推移 シドニー・モーニング・ヘラルドより これを見ると、日本は2020年3月に最初の小さな感染ピーク、8月にそれより大きな感染ピークがあった。 それで収まるかと思っていたら、11月になって急激に増加し始めて、その勢いは2021年1月19日になってもまだ収まらない。 1月14日には7875人感染した。1月19日には少し減って、53032人新規感染者が出た。 一方オーストラリアでは、2020年4月に小さなピーク、8月にそれより大きなピークがあったが、それ以降2020年12月にちょっと小さなピークがあったが、それも収まりつつある。 オーストラリアは他の国と比べても、コロナに対して上手く対処していると言えるだろう。 それに比べて、日本は、もはや収拾のつかない状況になってしまっているのではないか。 私は、日本とオーストラリアのコロナの感染状況のこの差は、両方の国の政府と国民の民度の差による物だと思う。 シドニーでは2020年12月の初め頃には、新規感染者数がゼロの日が何日も続いて、私たちはもう安心だと思っていた。 ところが、12月の初めになって、シドニーの北岸に突然新規感染者が2人でた。次の日にまた数人、三日の間に18人の新規感染者が出た。 これを見た州政府は、シドニー北岸の新規感染者の出た地域を一気にロック・ダウンした。 その地域の人がその外に出ることも、その地域外の人がその地域に入ることも禁じられた。 同時に、マスク着用が義務づけられて、外に出るのにマスクをつけていない人間はその場で200ドルの罰金を取られることになった。 更に、クリスマス、年末、年始には、その地域の人は5人以上集まるパーティーを開くことが禁止された。それもその地域の人々だけで、他の地域から人が入ってくることは禁じられた。 それ以外の土地でも、ニューサウスウェールズ全体に10人以上集まることが禁止された。 私の長男の妻の両親はそのシドニー北岸の新規感染者が出た地域に住んでいる。 おかげで、毎年恒例の両親の家のクリスマスパーティーも長男とその妻は参加出来なかった。 長男の妻の両親はその地域から外に出ることが出来ないので、私の家の新年の集まりに参加出来なかった。 グラフを見れば分かるが、12月から1月にかけて新規感染者数は増えている。 しかし、これも、1月に入ると収まって、1月15日にはロック・ダウンも解除された。 1月20日現在、ニューサウスウェールズ州の新規感染者数は0である。 12月の初めにシドニー北岸で新規感染者が出たときの州政府の対処の仕方は素早く、果断だった。 だから、1月20日に州政府首相が「来週25日の週からシドニー北岸だけでなく、州全体の規制を解除する」と言うことが出来たのだ。 これを日本の状況と比べた場合、大きな違いだと思う。 日本では、特に11月から急激に増えた。 10月には少し収まりかけていたのに、GO TOを始めてから、急激に新規感染者数が増加した。 この時期に、折角新規感染者数が収まりかけていたのにどうして、感染者が増えるような政策を取ったのか。 私には理解が行かないことだ。 コロナの感染者が爆発的に増加しているのを見て、多くの人が、GoToは危険だと言ったのに、菅首相は経済のことも考えて、Go Toを続けざるを得ない、と答えた。 菅首相は安倍晋三首相についで思考能力がない人間であることがこれで明らかだ。 恐ろしい勢いで新規感染者が増えているのが菅首相には見えないのか。 オーストラリアのニューサウスウェールズ州ではわずか十数人の新規感染者が出た段階で、その地域をロック・ダウンした。 そして、ニューサウスウェールズ州の住民は州政府の指示に従った。 一方日本では、若い人達は自分たちには関係ない、といって相変わらず盛り場に出て来ている。 電車の中でマスクをせずに大声でしゃべる男や、マスクを強請されるのは個人の自由の侵害だと言い立てる人間が少なからずいる。 オーストラリアの指導者と日本の指導者、オーストラリアの国民と日本の国民。 この二つを見比べると、日本が失われた30年の蟻地獄に陥った理由がよく分かる。 指導者もひどかったし、国民もろくなもんじゃなかった。 コロナが日本と言う国の駄目さ加減を我々の前に突きつけて見せた。 上に示した、日本とオーストラリアのコロナ感染者数の推移を見れば、いかに日本が愚かな失敗をしたか明らかだ。 ああ、あ、 新年のご挨拶がとんでもない事になってしまった。 次回から、楽しい話題ばかりを集めて書きます。 お見捨てになりませんように。
- 2020/09/24 - 追悼 廣瀬淳さん (お断り:このページの最初の書き込みの中に、ケンリックサウンド細井さんとその製品について不正確な文章がありました。廣瀬淳さんへの追悼の念が強すぎて頭が乱れました。ケンリックサウンドの製品の音を自分で聞きもせずに、余計なことを言うのは、実証主義を通してきて私にとっては許しがたい過ちです。このような間違いを犯したことで私はまず自分を許せません。そして、あの文章を読んでさぞご不快な思いをされただろう細井さんには心からお詫び申しあげます。本当に申し訳ないことをしました。ご寛容頂ければ幸いです。平身低頭。) asoyajiさんとして知られている廣瀬淳さんが2020年7月3日に逝去された。 心からお悔やみ申しあげます。 廣瀬淳さんは、1957年11月22日生まれ。 享年62歳だった。 廣瀬さんは最近定年退職されたが、それ以前は銀行にお勤めだった。 奥様のお話しによると、それ以前にもオーディオを趣味としていたが2011年頃に金沢に単身赴任しておられる頃にそれまでより一層身を入れられるようになったとのことだ。 定年退職してAsoyaji Audio を起業されたときは御家族中が驚かれたそうだ。 奥様が送って下さった2011年の雑誌「PCオーディオfan」の第4号のコピーを見ると、編集部が金沢に住むオーディオマニアの家を訪ねる企画が掲載されている。 そのオーディオマニアは、オーディオルームの設定も全て独力でおこない、アンプから、スピーカーまで全て自作でPCオーディオに取り組んでいる大変な人なのだが、雑誌の取材に合わせて、当時金沢におられた廣瀬さんがIBMのThinkPadにインストールしたVoyage MPDを持って登場する。 雑誌に掲載されている写真に写っている廣瀬さんは細身で実に精悍である。 私が廣瀬さんにお会いしたのは2019年9月のこと。 その時廣瀬さんは体に肉がついて、お顔も丸く見えた。 しかし、雑誌で見たとおりの精悍な表情だった。 私は廣瀬さんの今年5月12日のブログを読んで、廣瀬さんが入院しておられたことを知った。 お見舞いのメールをお送りすると、その中で淡々と「前立腺ガンを4年前から患っていて、今はその末期」と書いてこられた。 廣瀬さんがそのような状況にあると私は初めて知って驚いた。 しかし、その段階でも私はまだそのうち回復されるだろうと甘い予想をしていた。 去年9月にお会いしたときには非常に元気に見えたからだ。 私は高校生の時からのオーディオマニアで、大学生の時には真空管アンプを自作していた。 大学を卒業してからは時間に余裕がなくなり、アンプも何もメーカー製のものを買うようになってしまったが、自作の真空アンプを部屋を暗くして使用していると真空管の中に青いグローが飛び、出力を稼ぐ目的で過大に電圧をかけているためにプレートが赤くなるのを、いつ壊れるか、いつ壊れるか、とハラハラしながら聞いたあの頃が懐かしい。 色々遍歴があって、この六、七年は円盤を使うオーディオとは完全に決別してしまった。 円盤とは、アナログのLP盤、ディジタルのCD、SACDディスクのことだ。 では、どうやって音楽を聴くかというと、まず音楽を電気信号として取り込んで、それをディジタルファイルにする。 そのディジタルファイルをコンピューターを用いて、DAコンバーターにおくりこみ、そこでディジタルからアナログに変換して、それをアンプで増幅してスピーカーを鳴らしている。 今一般にPCオーディオと呼ばれている音楽の再生方式である。 機械的に操作する箇所が一つもない。 最近私が音楽を聴いているのを見た妻が、LPプレーアーも、CDプレーアーも使わず、コンピューターをいじるだけで音楽を聴くなんて不思議、と言った。 私はこれから可能性があるのはPCオーディオしかないと確信している。 LPについては、以前このページで如何に多くの解決不可能の問題を抱えているか、端的に書いて置いたのでそれをお読み下さい。 http://kariyatetsu.com/blog/3107.php それに引き替え、PCオーディオはまだ不満なところもあるが、それは、理論的に解決可能である。 私はLPプレーアーは、ThorensのReferenceを使っている。 CD,SACDプレーアーは、PlaybackDesignsのMPD-5を使っている。 どちらも、それぞれ円盤音源を再生するプレーアーと言うものの能力を問うのに使うのに問題はないと思う。 この二つのディスク・プレーアーを用いても、PCとDACを使って聞く方が音が良い。(私が使っているDACは同じPlaybackDesignsのMPD-8である) 私はオーディオの追求すべき道が見えたと思う。 この私がPCで音楽を、という道をたどるのに、廣瀬さんに教えられることが多かった。 と言うより、廣瀬さんの後についてここまで来たというのが正解だろう。 ただ、これは、私だけではなく、PCで音楽を目指す人間で廣瀬さんのブログ「PCで音楽」を知らない人はなく、大勢の人が廣瀬さんに教えられてきた。 廣瀬さんはPC で音楽を聴くPCオーディオの先駆者であり、先達だったのだ。 私たちPCで音楽を聴いている人間にとって廣瀬さんは大恩人である。 その廣瀬さんがDACの自作を始められた。 その製作記は「PCで音楽」に掲載されて、私は興奮して読んだ。 それが2019年に完成した。 私は矢も楯もたまらず、廣瀬さんに試聴させて頂くことをお願いした。 廣瀬さんは快諾されて、9月に、廣瀬さんのお宅にお邪魔した。 廣瀬さんの装置はスピーカからアンプにいたるまで全て自作である。 ここが、私のような無能なオーディオマニアとは違うところだ。 その音は大変に自然で癖のない豊かな音色である。 全く無理なく低域から高域まですんなりと伸びていく。 この装置であれば、DACの音の善し悪しを判断することができるだろうと私は思った。 色々聞かせて頂いて、ASOYAJI-DACの音の良さがよく分かった。 こうなると欲が出て来るのが私の悪いところである。 このASOYAJI-DACが私の家の装置ではどんな音がするのかどうしても知りたくなった。 そこで、廣瀬さんにDACをお貸し下さるようお願いをした。 廣瀬さんはお聞き届け下さって、私の家に持込んで私と一緒に試聴しようと仰言る。まことに有り難く恐れ多いことだが、私は喜んでそのご好意を受けることにした。 当日、廣瀬さんはDACを持って、横須賀市秋谷の私の家までお越し下さった。 私の家のオーディオルームは床も壁も天井も杉板張りである。 (この杉板は、美味しんぼの取材の過程で出会った、杉の板を生かしたまま製材する製法を使って製材したもので、築後13年経つのに、いまだに新鮮な杉の香りがする。 部屋のデザインは音響専門家にして貰った。杉の板張りというと反響が強すぎて駄目だと思われるかも知れない。確かに反響はある。デッドな部屋ではない。しかし、世界中どこのコンサートホールもきちんと反響を取るようにデザインされている。デッドな部屋では音楽も死んでしまうのだ、と言うのが私の意見である。) このような部屋なので、スピーカーそのものの音ではなく、部屋全体の響き・ホール効果を楽しむのが主眼である。 廣瀬さんの装置はスピーカーからの音を直接楽しむ形であり、私のオーディオルームとは発想が180度違う。 その環境で、ASOYAJI-DACは如何なるなり方をしてくれるのか。 実際に音を出してみると、実に良い鳴りっぷりである。 私の家の音場型のリスニングルームでも廣瀬さんのASOYAJI-AUDIOのDACは素晴らしい音を聞かせてくれた。 私は廣瀬さんにお願いして購入させて頂こうとも考えたのだが、一点、気になることがあった。 それは、廣瀬さんはASOYAJI-DAC作成の記事の中で強調されていたが、ファインメット・トランスが、ASOYAJI-DACでは大きな枠割りを果たしているということだ。 私は、何曲か聞く内に、ASOYAJI-DACに特徴的な音の性格を摑んだ。 それは、「鉄の音」である。 私は自分で真空管アンプを作っていて、一つ物足りないことがあった。それは、技術力と資力が不足しているせいで、出力アンプに出力トランスを使わなければならなかったことだ。 一度、出力トランスを使わないアンプ、OTL(Output Tansformer Less)アンプを聞いて愕然とした。 主力トランスを使ったアンプとOTLアンプとでは音が違う。 これは、全く好みの違いの話で、客観的にどちらがいいと言うものではない。私は、出力トランスを使わないOTLアンプの音が好きなのだ。 トランスを使ったオーディオ機器には「鉄の音」がすると私は感じてしまうのだ。 で、後日廣瀬さんに、ASOYAJI-AUDIOのDACを購入することを諦めたことを話すと、私がその日使ったアンプが40年程前の、OTLアンプ”Counterpoint”であったことを廣瀬さんは思い出されて、「ああ、Counterpointを使っているんですものね。『鉄の音』が合いませんでしたか」と言って、了解して下さった。 廣瀬さんとは二度しかお会いしたことがないのに、私の心にはその印象が強く深く刻まれてしまった。 私は、廣瀬さんのように一つのことに打ち込んで他の人が到達したことのない地点に立った人間を尊敬する。 しかし、趣味の世界で頂点に立って人間には独特の匂いがある。 独善的、というか、自分が一番だということを言葉の端々に勾わせるというか、私のような無力な人間を低く見るというか、ちょっと辛いところを持つ人が多いのだ。 しかし、廣瀬さんはそんなことはなく、聞けば何でも教えて下さる。 (そもそも、私が廣瀬さんのご厚誼を頂くきっかけになったのは、SACDのリッピングについて、色々お尋ねてして、それに対して親切にお答え下さって教えて頂いたことに端を発する。つい最近も、flacについて教えて頂いたばかりだった) 廣瀬さんは威張らず、高ぶらず、知識のない人間に対しても優しく教えて下さる、素晴らしい方だった。 62歳でこの世を去ってしまうとは痛恨の極みだ。 本当に残念だ。惜しんでも余りあることだ。 廣瀬淳さん、本当に有り難うございました。 私は地獄に行く人間なので、天国に行く廣瀬さんとはお会い出来ません。 お別れです、さようなら。
- 2020/09/13 - 追悼 松井英介先生 松井英介先生が骨髄異形成症候群の為に8月19日逝去された。82歳だった。 心からお悔やみ申しあげます。 私が初めて松井先生とお会いしたのは2013年の4月。 私は、埼玉県に避難していた福島県双葉町長の井戸川克隆さんを訪問した。 「美味しんぼ」で私は福島第一原発事故の問題を取り組んでいた。 その中で、事故当時福島第一原発が存在する双葉町町長の井戸川さんのお話を聞くことは大事だった。 井戸川克隆さんのとなりに松井先生がおられた。 それまで私は松井先生とは一面識もなく、また、失礼ながら先生がどんな方であるかも存じ上げなかった。 (「美味しんぼ」111刊「福島の真実」篇、242ページにその時のことが記録されています) 私は井戸川町長に色々とお話しを伺ったのだが、その話しの流れの中で、松井先生が私に 「福島には何度かいらしているそうですが、体調に変わりはありませんか」 とお尋ねになった。 私は福島をあちこち歩いてまわった。当然放射能の危険性については頭の中にあり、取材中は防護服を着たし、マスクも装着していた。 それなのに、今とはなってはどうしてそんなにいい加減だったのかと自問するのだが、そんな格好をしていたのに、福島を覆っている放射能の影響が自分の体に何か不都合なことを与えているとは全く考えていなかったのだ。 ところが、福島取材を終えてすぐの夕食時に、突然鼻血が流れ始めたのだ。 これは、不思議な感覚で、鼻血が流れるようなこと、例えば鼻を何かにぶつけるとか、そんなことは何も無いのに突然鼻血が流れ出すのだ。痛くもなんともない、何の前触れ的な感覚もなしに突然流れ始める。これは、本当に気持ちの悪い体験だった。 不思議というか不覚というか、私はこの鼻血を放射能に結びつけることを考えつかなかったのだ。 この鼻血と同時に、私は得体の知れない疲労感を覚えるようになっていた。この疲労感は今までに感じたことが無いもので、背骨を誰かにつかまれて地面の底に引きずり込まれるように感じる。 普通の肉体的疲労感とも精神的疲労とも違う。 経験したことのない疲労感に私は苦しんでいたのだ。 だから、松井先生にそう尋ねられて、私は鼻血と疲労感のことを申しあげた。 すると先生は、「やはり」と仰言って、福島では福島第一原発事故の後鼻血を出す人が多い、その疲労感も多くの人を苦しめている、と言われた。 その時私と同行していた福島取材班のカメラマン安井敏雄さんがそれを聞いて驚いて、「僕も鼻血が出るようになりました」と言った。 すると、先達役の斎藤博之さんも「私もそうです、私の場合歯茎からも出血するようになって」と言うではないか。 これには私も驚いた。「ええっ、我々みんな鼻血が出るようになったのか」 それどころか、安井敏雄さんも斎藤博之さんも「ものすごい疲労感で苦しんでいる」と言うではないか。 私たちは福島取材後その日まで会っていなかったので、お互いの体調を知らなかったのだ。 しかし、取材班全員が鼻血と疲労感で苦しんでいたとは驚いたが、その驚きは深刻な物だった。 松井先生は鼻血と疲労感について、他の人の例も上げて医学的に説明して下さった。 私は何事も論理的に考えなければ気が済まない性質なので、松井先生のご説明に完全に納得出来た。 これ以後私が福島の放射能問題を考えるときに、この松井先生に教えて頂いたことが「最初の一歩」となった。 《この鼻血の件を「美味しんぼ」に書いたら、私が「鼻血問題という風評を流して被害を起こした、と批判する人が大勢出て来て、しまいに安倍晋三首相が私を名指しして『風評被害を起こした』と非難した。知性・品性・下劣で、民主主義を破壊し続けて来た上に、2013年のICOで「福島第一原発事故による放射能問題は完全に抑えられている・日本は安全である」と大嘘をつくような、人間としての一切の誠実さを欠いた卑劣で汚穢まみれの男であっても、首相は首相だ、その言葉の影響は大きく、以後、私は様々なところで犯罪者のような扱いを受けるようになった。(現在でも)》 私は福島の放射能問題を考えるときに最初に松井先生に目を開かれたことが大変に大きい。松井先生に私は心から感謝している。 松井英介先生は1938年生まれ。 岐阜大学放射線講座所属。呼吸器病学。肺がんの予防・早期発見・集団検診並びに治療に携わる。厚生労働省肺がんの診断および治療法の開発に関する研究分担者を務めた。現岐阜環境医学研究所及び座禅洞診療所所長。 社会的活動も重ねてこられた。 反核・平和・環境問題に取り組み、空爆・細菌戦などの被害調査や核爆弾使用における「内部被曝」問題にも関わった。 細菌戦調査のため1990年以降中国での調査団に参加し、731部隊細菌戦資料センター共同代表でもある。 2003年全国最大の岐阜市椿洞不法投棄問題発覚、全国研究者たちに呼びかけ調査委員会を結成、地域連合会と一緒に不法廃棄物の撤去、調査活動を行った。 2010年岐阜県羽島市ニチアス・アスベスト問題で現地調査、住民の健康相談会を行い、住民・行政の岐阜県羽島市アスベスト調査委員会委員長を務めた。 2011年3月11日福島第一原発事故後、「内部被曝問題研究会」の設立に関わった。 また双葉町の医療放射線アドバイザーを務めた。 子どもたちをこれ以上被曝させないために、「脱被ばく」を目指し医師や市民たちと「健康ノート」を作成、「乳歯保存ネットワーク」を立ち上げた。 松井英介先生は子どもたちのいのちと健康を守りたい、と願い行動してこられた。 福島第一原発事故では、骨や歯にたまりやすいストムンチウム90の子供への影響を、専門の放射線医学の見地から懸念されて、自然に抜け落ちた乳歯の提供を求める団体「乳歯保存ネットワーク」を他の研究者と2015年に結成した。 その乳歯の放射性物質を分析する民間の測定所を開設し、乳歯の放射能を測定して、内部被曝の可能性を調べて来られた。 2020年8月22日の中日新聞で、測定所の運営に協力する愛知医科大学の市原千博客員教授は次のように言っている。 「調査の結果をもとに、原発事故の影響を世に問おうとする信念を持っていた」 2017年夏、血液データの異常を感じ受診、骨髄異形成症候群と診断される。 血液内科にて治療を続けながら、乳歯中ストロンチウム90を測定する「はは測定所」の設立にかかわる。 2020年8月19日0時30分逝去。 ここに、松井先生が亡くなられる直前に書かれた文章をご遺族のご好意で掲載させて頂く。 ご自分が重篤な骨髄異形成症候群で苦しい思いをしておられる中で、最後まで乳歯中のストロンチウム測定運動を勧めることに努力を続けておられる。 最後の文章が読む者の心を打つ。 松井英介先生有り難うございました。 以下、松井英介先生の文章 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ Dear ・・・・・ コロナウイルスの感染拡大により、世界中が大きな試練に立たされています。日常の行き来もままならなくなっています。みなさまはどうお過ごしでしょうか。 2011年3月11日フクシマ大惨事から、間もなく10年が経過しようとしています。 この大惨事をきっかけに、私はみなさんと知り合い、たくさんのことを教えられてきました。とくにスイス・バーゼル研究所のMarkus Zehringer 、 Dr.med.Martin Walterらの支援を受け、乳歯中ストロンチウム90の測定を日本で始めることができたことは、何物にも代えがたい大きな歩みの第一歩です。感謝しています。 しかしいま、私個人はストロンチウム90の影響と思われる病を抱え、闘病中です。その病は、骨髄異形成症候群(MDS myelodysplastic syndrome)です。 この病は、広島・長崎の原爆数年後から被ばく者に見られるようになり増加していましたが、日本で人類が経験した最大最悪の3.11原発事故以降、いま関東圏を中心に日本各地でMDSの患者さんの増加が指摘されています。 進行すれば白血病への移行もありうる難病「MDS」。 米国で開発された「ビダーザ」は、MDSの治療に大きな効果を発揮する、画期的な新薬として注目され、日本新薬では2011年3月に「ビダーザ」を発売しました。 私は2018年1月からビダーザを注射、治療を開始しました。MDSは、その後約2.5年比較的良好な効果が期待できましたが、現在はもはや効果なく、赤血球と血小板を週一回輸血し、血液の状態を整えているところです。最近は免疫力の衰えから高熱が出るなど油断を許さない状態です。 私はMDSや白血病でゆっくり人を殺す人たちを、忘れてはならないし、免罪してはいけないと、自らに言い聞かせています。 そこでお願いです。 私たち「はは測定所」では、バーゼル研究所で研修を受けた仲間を中心に、日々乳歯中ストロンチウム90の測定を進めております。 今後ぜひこの結果を、日本だけのものとせず、スイスをはじめ多くの国と共有し、研究者たちの叡智と力で解析し、世界の未来世代のために生かしていただきたいと望みます。 (加えて遠くない将来、私が命を終えたときは、私の歯と骨も、その取り組みに生かしていただけましたらうれしく思う所存です。) 2020年8月15日 核のない未来を願って 松井英介
- 2020/09/04 - 大失敗 前回このブログで、適菜収の書いた本を取り上げ讃めてしまった。 それは、「国賊論」という書名で、副題に「安倍晋三とその仲間たち」とあるように、安倍晋三首相批判の書だった。 やたらと、「バカ」という言葉を使っていて、見苦しいのだが、それだけ安倍晋三首相に対する怒りが強いのだろうと考え、大目に見た。 しかし、ブログに記事を書いている間にも、この適菜収言う人物は何者なのだろうという疑問を抱いていた。保守主義者と言うが、何を保守しようと思っているのか、それが分からない。 そこで、適菜収の書いた本をもう一冊読んだ。 「日本をダメにしたB層の研究」という本だ。 この本を読んで、私はとんでもない人間を讃めてしまったとほぞを噛んだ。 以前読んだ「国賊論」が口汚いけれど安倍晋三首相を批判していたので、うっかり書いた本人のことを確かめずに讃めてしまったのが大失敗の元だった。 そこで私は、前回のブログの中で適菜収について言及した部分を削除した。 削除してしまったからには、「あれはダメだから削除しました」ですむのだが、うっかり私のように引っかかる人間がいるといけないので、一応適菜収について書いておく。 実は書こうとしても、正直書くことはないのだ。 あまりに馬鹿馬鹿しい内容なので、馬鹿馬鹿しい内容でした、と書いてしまうと一行ですんでしまう。 それではあまりに愛想がないので、何か書いてみようと思う。 一応お断りしておくが、適菜収の書いた物は読むだけ無駄だから、読者諸姉諸兄におかれては適菜収の名前を見たら、直ちに素通りすることをお勧めする。 私はうっかり讃めてしまったために責任を取って、何か言うことにする。 全く、とんでもない災難だ。 適菜収は改革や革新という言葉に反感を持っているらしい。 このB層とは数学で使うグラフの横軸に、 ◎グローバリズム ◎普遍主義 ◎改革・革新・革命 をとり、縦軸に、 ◎IQ を取って、数学で使うx,y二次元グラフのように、縦軸横軸共にプラスの人間をA層。 縦軸マイナス、横軸プラスの人間をB層としている。 数学で言えば第一象限をA、第二象限をBとしているのだ。 で、B層とはグローバリズム、普遍主義、改革・革新・革命に積極的だが、IQの低い人間を言うらしい。 IQを人を分類する指標として使えると考えるところに、適菜収の出来の悪さがある 要するに、適菜収は、改革・革新・革命に前向きの人間はIQが低いとけなしたいのだ。 適菜収は自分が空想的に作り出した人々B層の人間について、悪罵を連ねる。 その一つ一つを取り上げていっても仕方がない。 適菜収のような人間は今までにも良くいた。 蓑虫あんちゃんとか、蓑虫野郎とかいう手合いである。 蓑虫は木の葉などを切って集めて蓑を作り、その蓑の中に棲息する。時々自分のひり出した糞を外に放り出す。 蓑虫は木の葉を切って蓑を作るが、蓑虫あんちゃんは思想家や作家の言葉を集めて自分を守るための蓑を作る。 蓑虫はひり出した糞を放り出すが、蓑虫あんちゃんは汚い言説をふりまく。 他人の言葉を集めて、その言葉に乗っかって場当たり的な言説を繰返すのが蓑虫ゲスペタである。 蓑虫は葉を切取ってきた木の幹や根のことについて無関心である。 それと同じで、蓑虫下郎は切取ってきた言葉の真意やその言葉の載っている著作の意図するところも分からない。 ただ、都合の良いところを切取ってそれを援用して自分の言説をデッチ上げる。 だから、適菜収の言うことをいちいち取り上げて論ずるのは無意味な所業である。 ただ、これだけは見逃せない言説があるので、それを取り上げよう。 この「日本をダメにしたB層の研究」の第4章、「素人は口を出すな!」に至って適菜収は汚泥を大量に放出した。 適菜収は民主主義と平等主義を理解しようとせず、口汚く罵る。 適菜収はチーチェの言葉を使って、「民主主義の根底にある平等主義は『神のまえでの霊魂の平等』という概念から来ている。絶対存在である《神》を想定しないと出て来ない発想だから、民主主義はキリスト教カルトである」と言い、ハンナ・アーレントの言葉「フランス革命で人民が神格化されたのは、法と権力を共に同じ源泉(キリスト教のこと)に求めようとしたために起こった不可避の帰結であった」を引用して、「法と権力を同じ源泉に求めてはいけないのです、権力の集中はロクな結果を生み出しません。」といい、突然「以上で民主主義の説明を終わります」と結論する。 まことに奇怪な論である。自分でも何を言っているのか分からないのではないか。 私は、キリスト教に限らず一切の宗教を信じることはできないし、《神》の存在など考えたこともない。 しかし、私は全ての人間は平等である、と固く信じている。 適菜収君よ、平等権は《神》の存在などなくても、まともな人間ならきちんと心に抱く物なんだよ。そんなことも分からずに、何か言ったりしたらダメだよ。 さらに、フランス革命の際に、ロベスピエールがキリスト教を法と権力の源泉に求めたとハンナ・アーレントが言ったからと言って、民主主義という物は法と権力を共に同じ源泉に求めるもの、と言ってしまう。 ロベスピエールのフランス革命と我々が取り組もうとしている民主主義と何の関係があるのか。 例えば、民主主義で三権分立をきちんと守れば、法と権力を同じ源泉に求めるなどと言う批判の起こりようがない。 蓑虫あんちゃんは、フランス革命などと言う特殊な状況を用いて、一般に布衍することの出来る論を立てられると思っている。 大抵のことは何を言っても見逃すことができるが、平等権を否定し、民主主義を否定する蓑虫は、ゴミために掃き捨てなければならない。 末法の世になると恐ろしい物で、このような蓑虫下郎の戯言を、大出版社が本にして売り出す。 適菜収には、もう一度きちんと本を読んで勉強し直し、論理的に物事を考える訓練することを勧める。 適菜収は「国賊論」の中で、人を罵る言葉、「バカ」を多用した。 私が高校のときに、同級生に「バカ」と言ったら彼は次のように返してきた、 「バカバカと、バカをバカバカ言うバカは、バカはバカでも大バカのバカ」 これをそっくり、適菜収に贈ろう。 以上で、適菜収についてはおしまいである。 読者諸姉諸兄にはご迷惑をお掛けした。 これからは、きちんとその人間の正体を確かめてからその言説を取り上げることにする。 全く、大失敗だった。 間違っても、適菜収の書くものを読まないように。時間の無駄だけでなく、腹の底にイヤな不潔な物がたまる。
- 2020/08/25 - 立て!太った豚よ!私たちはあまりに豚であることを書こうとして、私は気持が萎えてしまって、豚物語が、長い間中断している。 気持が萎えてしまうのは、同胞である豚諸君の豚らしさがどんどん極まるばかりだからだ。 同志豚諸君は、豚の餌やりである安倍晋三首相にまだ40パーセント以上の支持を与えている。 どうしてなのだ。 どうして諸君は憲政史上最悪の総理大臣安倍晋三を支持するのか。 ここで、安倍晋三首相の第二次政権成立以来の偉業を振り返ってみたい。 ◎2012年12月、第二次安倍政権発足。 ◎2013年9月7日、IOCで2020年のオリンピックを東京に招致するために、福島第一原発は完璧に閉じ込めたから安全である、 東京には放射能の問題は何も無い、と嘘をついた。 この件については私のブログを参照頂きたい。 http://kariyatetsu.com/blog/1611.php 世界中にこんな嘘をついた これは英文で読みづらいかも知れない。(私は安倍晋三首相のついた嘘を世界中の人に読んで貰いたいと思って、英文で書いた) その嘘をここに要約しておく 放射能汚染水は、福島第一原発の港湾の0.3Km2区域の中に「完全に遮断」されている、と言った 福島第一原発はすべて、アンダー・コントロール(制御)されている、と言った。 福島第一原発の事故は、東京にはいかなる悪影響も及ぼしたことはなく、今後とも及ぼすことはない、と言った。 福島第一原発の事故はいかなる問題も引き起こしておらず、汚染は狭い地域に限定され完全に封じこめられている、と言った。 健康に対する問題は、今までも、現在も、これからも全くないと言うことをはっきり申しあげておきたいと思います、と言った。 これが大嘘であることは、福島第一原発の事故について少しでも知っていればよく分かるはずだ。 安倍晋三首相の嘘については、 http://kariyatetsu.com/blog/1600.php も参照して頂きたい。 ◎2013年12月。 「特定秘密保護法」強行採決した。 これは途方もない法律だ。 その一部だけ言及したい。 この「特定秘密保護法」の対象になる情報は、「防衛」「外交」「特定有害活動の防止」「テロリズムの防止」に関する情報だ。 これは範囲が広く、曖昧だ。どんな情報でもどれかに当てはまる恐れがある。 なにが「特定秘密」なのか、それを指定するのはその情報を管理している行政機関だから、政府が自分が隠したい情報を「特定秘密」に指定してしまえば、国民は知ることが出来なくなる。 これでは、日本は独裁者に支配されている国と変わりがなくなる。 私たちは肝心の真実を知ることを禁じられるのだ。 これは途方もないことではないか。 ◎2015年9月、集団的自衛権の一部行使容認を含む安全保障関連法を成立させた。 これは明らかに憲法違反の法律だ。 憲法第9条では「戦力」すら持ってはならないとしている。 まして、外国間で起きた武力紛争に日本が武力で介入し、他国を防衛する(集団的自衛権)のは、たとえ友好国を助ける目的でも憲法違反であることは明らかだ。 こんな憲法違反の法律は無効なのだ。 憲法違反の法律を通した首相は憲法違反で処罰されるべきなのに、我々豚は、安倍晋三首相批判することすらしない。 ◎2017年森友学園、加計学園問題が発覚した。 この両方共、安倍晋三、昭恵夫妻の個人的な友人が国から支援を受けた。 安倍晋三首相以前の自民党政権では、このような疑惑をかけられただけで首相は退陣したが、安倍晋三首相は蛙の面になんとやらで平気で居直っている。 また、この件を追及する国会で、安倍晋三首相周辺の官僚たちは嘘とごまかしを行ったのに、誰も処罰されなかった。 腐敗はどこまでも進む。 ◎2017年6月 共謀罪を強行成立させた。 この共謀罪も途方もないものである。 ここでは、「週間東洋経済・電子版」2017年6月25日号に掲載された、京都大学法科大学院の高山佳奈子教授の話しを要約する。 共謀罪=テロ等準備罪という認識で良い。 共謀罪とは、複数者で犯罪の計画について合意すること。 過去3回廃案になり、今度は対象犯罪を半分に減らした上でテロ対策であること、国連の国際組織犯罪防止条約(TOC条約)の締結に不可欠だと政府は訴えた。 しかし、条文の中に、テロに照準を合わせたものが一つもない。 そもそも、TOC 条約自体マフィア対策であり、ターゲットはマフィアが公権力に対して不当な影響力を行使しようとする行為や、組織的な経済犯罪である。 同条約締結のために共謀罪またはテロ等準備罪を立法する根拠はない。 共謀罪の対象犯罪として、企業犯罪、公権力の私物化や警察などによる職権乱用・暴行陵虐罪、民間の汚職を含む経済犯罪などが除外され、政治家、警察、大企業に有利である。 今回の共謀罪法案では、準備罪予備罪より前の段階での処罰が可能になる。 「心の処罰」とも言える。 これまでの日本では、憲法の解釈として処罰規定を適用するためには危険が実質的に認められる場合である、と最高裁が判断している。 想像上の危険、観念的な危険ではなく、実質的な危険、現実的な危険がなければならない。 だから、「計画を立てた」だけでは駄目で、それが実際に実行される危険がある場合だけに適用できるという考え方だった。 ところが、こんどの共謀罪は、犯罪の計画はまだみんなの頭の中で内容を共有しているだけで犯罪とされるし、「実行準備行為」と呼ばれる要件も単に資金や物品を手配するとか、ある場所を下見に行くだけで該当する。 プライバシー権担当の国連特別報告者から公開書簡の形でこの法案に対する懸念が示された。 この法案は非常に漠たるもので、国連条約のために不必要な広い範囲で新しく処罰の範囲を広げることになっている。 プライバシー権の侵害に対する歯止めとなるような、制度的保障が入っていないと国連人権規約に違反する疑いがあるというものだ。 それに対して、政府は抗議して、強行採決した。 安全保障関連法といい、この共謀罪といい、憲法違反であり、国際人権規約に反する法律であり、本来的に無効なのだが、安倍晋三首相は強行した。 テロ対策なら、国連条約を含む主要な国際条約に加えて、9.11以降に各国に求められた国内法整備を日本は全部済ませているので、非常に広範囲で処罰できる状態がすでにある。 共謀罪は単に人権侵害を助長するだけ。 国連が義務ではないと明言し諸外国も行っていない広範囲な、権利や自由を制限するという法律だ。 一言で言うなら、この共謀罪は、政府の気に入らない人間に言いがかりをつけて犯罪者に仕立て上げる法律なのだ。 安全保障関連法とこの共謀罪は明らかに憲法違反であるのに、自民党と公明党は強硬採決して成立させた。 安倍晋三首相の罪は深く大きい。 我が豚同志諸君よ、ここまで自分たちの身心を危うくしていく安倍晋三氏になぜ尻尾を振ってついて行くのか。 ◎2017年2月 国有地売却をめぐる森友学園問題が発覚。首相の妻安部昭恵氏の関与が問題の焦点となる。 ◎2017年5月、 獣医学部新設を巡る加計問題で「総理のご意向」文書が発覚。 ◎2018年 3月、森友問題で財務省の公文書改竄が発覚 ◎2019年11月 桜を見る会問題が発覚。 安倍晋三首相が公費で自分の選挙区の住民を招待していた。 ◎2020年2月 従来の法解釈を変更して東京高検の黒川検事長の定年を延長した。 官邸の守護役の黒川氏を次の検事総長にするためだと言われていた。 この画策は黒川氏が賭け麻雀疑惑で辞任したことでつぶれたが、 安倍晋三首相はその後任の林氏でいいといい、事実、東京高検検事長になった林真琴氏は、その当時問題になっていた菅原代議士の選挙民買収疑惑を不起訴にした。 安倍晋三首相は三権分立という民主主義の根本を破壊したのだ。 かつては検察庁特捜部と言えば、自民党のどんな有力な議員であっても不正があれば摘発した。 自問党政府の汚職は歴史上数限りなくあるが、検察が摘発してくれるからと我々庶民は安心していた。 しかし、安倍晋三首相になって、検察が政府の言いなりになってしまった。 政府に不正があっても検察は検挙しない。 検察も政府の言いなりになっているのだ。 このような道徳的な退廃を招いた安倍晋三首相の罪は深い。 万死に値する。 以上、ざっと上げただけでこれだけの悪行を安倍晋三首相は重ねて来た。 安全保障関連法で日本をアメリカの命令するとおりにアメリカの戦争に自衛隊を送り込むようにし、共謀罪で人の心まで縛ることが出来るようにした。 この二つだけでも安倍晋三は罪人として刑に服すべきだが、安倍晋三は更に今上げた、数々の不正を重ねている。 信じられない首相である。 こんなことを許し続ける同志豚諸君も信じられない豚である。 同志豚諸君よ、胸に手を当てて考えて貰いたい。安倍晋三首相から安倍晋三首相を支持し続けるだけのエサを貰いましたか。 諸君らのエサを減らしてアメリカに貢いできたのが安倍晋三首相の真の姿なのに、諸君らはなぜに尻尾を振り続けるのか。 安倍晋三が首相になって8年。 一昔10年と言うが、8年間はあまりに長すぎた。 アベノミクスなど騒いだ経済政策も全く功を奏さず、日本の国力は低下する一方だ。 一番大事な学術に対する投資も行われず、最近の何人かのノーベル賞受賞者に 「これから先、日本からノーベル賞受賞者は出ないだろう」 と予告されるくらい日本の科学技術力は低下した。 アメリカの言うままにアメリカの武器を購入しているが、その金の半分でも科学技術の研究予算に回したらここまで世界の技術の最先端から取り残されることもなかっただろう。 これから先20年、日本からはノーベル賞受賞者は出ることはない。 今の科学技術は大規模な実験設備、測定設備が必要なのだ。 私の大学の同級生で国立大学の教授をしていた男が、私に尋ねたことがある。 「おまえ、日本の学者は幾らの金で転ぶと思ってるんだ」 「そうだな、5億か10億か」と私が答えると、友人は顔を歪めて言った。 「何言ってんだよ、300万円で転ぶよ。 研究費が全然出ないんだ。研究なんかしたくたって出来ないのが今の日本の学術の世界なんだ。もう、世界には追いつけないよ」 こんな会話をしたのはもう15年以上も前のことだ。 これから先、中国と韓国からノーベル賞受賞者が次々に出るだろう。 このように日本の国として根本的な危機にあるのに安倍晋三首相はトランプの太鼓持ちをして、日本の科学技術に投資したら日本の国力を増大できたはずの金を、役にも立たない兵器を購入してきた。 祖父の岸信介、叔父の佐藤栄作、この二人はアメリカに日本を売った。 安倍晋三もその血を引いて、というか同じ弱みを握られて日本国よりアメリカのために尽くしている。 ああ、こんな首相がふんぞり返っている日本という国は行く先望みはない。 こんな男が国を動かすのを許してはいけない。 この8年間に安倍晋三首相がどれだけ日本に損害を与えたか今上に取り上げただけでよく分かるはずだ。 それなのに、我が同志豚諸君はこの男を支持し続けてきた。 もう同志豚諸君には何を言っても無駄だ。 と諦めの気持ちが強くなってきて、このブログを更新する気力が失せていたのだ。 しかし、これではいけないと強く反省した。 このままでは無意味な負け犬になってしまう。 心を入れ替えて、私の言うべきことを親愛なる同志豚諸君に言って行きたいと考える。 (この文章、8月31日に急遽訂正し、以前の内容の後半を削ったので、全体の整合が取れなくなっしまったことをお詫びしたい。なぜ、以前の文章を削ったかは、また、ここで説明させて頂きます)
- 2020/06/26 - ネットで漫画を読むこと前回、このページで「お別れホスピタル」の漫画を読むことの出来るページを紹介した。 私も、そのページを読んでみたのだが、大変に気になるところがあった。 それは、漫画のページが上から下に繋がって表示されることだ。 これは、私だけでなく、日本の漫画制作に関わってきた人間にとっては我慢の出来ないとこだろう。 私が漫画の制作に関わるようになって、まず、編集者から言われたことは、「ページのめくりを大事にしろ」と言うことだった。 日本の漫画は右から左に向けて次々にページをめくって読んでいく。 西欧の本は左から開く。右開きに離れていない、と言って、漫画が海外に紹介され始めた1970年代ごろには、右開きの漫画を無理矢理左開きにしていた。どうしてそんなことが出来たかというと、画稿を裏返しに印刷すると、右開きを左開きにすることが出来るのだ。 1900年頃までは、日本の漫画は無理矢理左開き印刷で海外では売られていた。 私の漫画は海外で人気があった。香港や、アメリカの中華街に行くと私の本の海賊版が本屋の店頭に平積みにして置かれていた。 漫画にはよく絵の中に、効果音が書き込まれる。男組で言えば、「はあーっ!」とか、「ええーいっ!」とか、「でーいっ!」というかけ声もそうだが、これは、中国語で書き変えるのは面倒なのだろう。原画の通りなのだが、それを裏返しに印刷するから、実にへんてこりんな事になっていた。 出て来る人間の90パーセントが左利きというのもおかしい。絵の中に書き込まれた、英文、数字がひっくり返っているのも気持ちが悪い。 その当時の日本人以外の漫画読者はそのようなへんてこりんな持ちの悪いものを読んでいたのだ。 私たち漫画に関わる人間は、そんな裏返しの漫画を見るたびに、不快感と怒りに大変に気分が悪くなった。 海賊版で有るから、当然著作権は無視視する。要するに、知的な窃盗行為を連中は白昼堂々と繰り返し行っていたのだ。 著作権を無視した上に、作品を裏返しにするという破壊行為も行っていたのだ。 作品は中国語に翻訳されていたし、中国人界で売られていたから、関わったのは中国人だろう。 右開きで読めないのなら、漫画を読むな、私は怒った。 それと同じような不快感を、上から下にずるずると表示する、ネットの漫画表示に感じる。 漫画を読んでいくと、先に進むために、左側のページを開く。 そこの所を我々は大事にしてきた。 漫画の編集用語で「めくり」という。 「めくり」を考えて作れ、と言われたものである。 ページをめくるときにはその先に何が待っているか期待が高まっている。 場合によって、前のページで期待を高めておいて、ページをめくると、ドカーンと興奮を呼ぶ絵を用意する。 そのような、仕組みをマンガ家は考えて画を描いているのだ。 一流のマンガ家で、「めくり」を考えない画家はいないだろう。 読者にしても、ページをめくると何が待っているのか、と言う期待感は大事だろう。 それが、「めくり」の価値なのだ。 それが、上から下にずるずると表示されてしまっては、台無しだ。 「めくり」は漫画の文化の中で大事なものなのだ。 ネットで漫画を表示すれば多くの日本人に呼んでもらえる、それはいいことだ。 しかし、漫画の価値を破壊するような表示はやめてもらいたい。 いま、上下、縦にずらずらと表示している人達は、昔、漫画を裏焼きにして左開きにして売っていた人間達と同じ文化の破壊者だ。 漫画を読むなら、きちんと、私たち漫画制作に関わってきた人間の意図するところのものを守ってくれ。 ずるずる縦表示なんて、あれは、漫画に対する冒涜だ。 私は許せない。 私はヨドバシカメラの「Doly」というソフトで、電子書籍を読んでいる。 ヨドバシカメラの「Doly 」では、漫画も扱っている。 この「Doly」はきちんと、本をめくったときと同じように表示される。 「Doly」で出来ることが、他のインターネット表示で出来ないはずがない。 「ずらずら、縦表示はまっぴらだ。漫画文化を壊すな」と私は言いたい。
- 2020/06/24 - お別れホスピタルを読む前回紹介した、「お別れホスピタル」 現在ネットで読めます。 是非読んで下さい。 https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2006/24/news019_2.html#utm_source=yahoo_v3&utm_medium=feed&utm_campaign=20200624-004&utm_term=it_nlab-life&utm_content=rel1-1
- 2020/06/18 - お別れホスピタル週刊ビッグ・コミック・スピリッツに「お別れホスピタル」という漫画が連載されている。 これは、終末病棟を舞台にして繰り広げられる人間ドラマを描いた漫画である。 終末病棟の入院患者は人生の終末を過ごす人々だ。 回復して退院するという事はあまり無い。 ここで死んで行く人達なのだ。 そのような状況での人間ドラマであるから、重い。 読んでいて、やりきれなくなることも多い。人間の真実なまなましく突きつけられると、私などいい加減な生活をしている人間はうろたえる。 実に深い内容なのだ。 現在単行本が4集まで発売されている。 漫画は星の数ほどあるが、読む価値の有る漫画は少ない。この漫画は、滅多にない読む価値の有る漫画だ。 作家の名前は、沖田×華(なんと、Okita Bakkaと読むらしい。実にユニークな筆名だ) 2020年のビッグ・コミック・スピリッツ第28号に掲載されている「お別れホスピタル」は、「特別編 コロナと闘う看護師たち」として急遽コロナウィルスの問題を取り上げている。 私達には想像も出来ない医療従事者たちのこのコロナウィルス災禍の中での生活が生々しく描かれている。 内容を紹介しよう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ この終末病棟の医療従事者、看護師たちの生活は普段も私達甘ったれた生活をしている人間には想像も出来ない厳しいものである。 そこに、コロナウィルスという災厄が加わると一体どうなるか。 今回はまず、80歳の男性の患者の話で始まる。 その患者はアルツハイマー型認知症で寝たきり。 その患者が突然発熱する。 その患者の息子が2人、8日前に見舞いに来ていることが分かった。しかも、次男はシンガポール帰り、長男は県外の人間で大阪から戻ってきたところで、面会の時に「微熱がある感じ」といっていたことを看護師たちは思い出す。 新型コロナかどうか診断するためには、2020年4月時点では、2つの条件がそろわないとPCR検査の対象にならない。 その2つの条件とは、「37.5℃以上の発熱が4日以上であること」「肺のCT画像で肺炎影があること」であり、この条件が整わない患者はPCR検査が受けられない。 (このPCR検査を受けることが簡単にできないところが、日本のコロナウィルス感染患者数が低いことの秘密であるらしい。韓国のようにできるだけ多くの検査をしていれば、今の感染者数の数倍の値になるといわれている) コロナ感染の疑いのあるその患者は、院内感染防止のために個室に移動させた。 その個室に入るのは大変である。 部屋に入る看護師、介護士は1日につき各1名のみにしぼる。 防護服は処置後、部屋に設置しているゴミ袋に破棄。ドアの前にはハイターをひたしたシートを設置し、出入りのたびに足元を消毒し、ドアの周りを消毒して退出。 これを、処置のたびに繰返す。防護服を着用するのにどんなに早くしても1回に5分はかかる。1日で計算したら、時間のロスは大変だ。 たった1人、コロナ疑いの患者がいるだけでこんなに大変なのに、指定病院はどうやってスタッフを回してるんだろう、とこの漫画の主人公の看護師、あゆ、は心配する。 この漫画は医療従事者の実態を描いている。 まず、ヘルパー(看護師の手助けをする人)の桜井さんの話が描かれる。 桜井さんは子持ちである。コロナで学校が休みになっているので子供たちがずーっと家にいる。 学童を預かってくれるところはあるが、コロナが怖いから預ける親は少ないし、遊び相手もいないから子供も行きたがらない。 旦那も今仕事がストップしてしまって県外に出稼ぎに行ったまま帰って来ない。 3人いる子供は外に出られないから大騒ぎしている。それを桜井さんは1人で面倒見なければならないから、前日は力尽きて床で寝ていたという。 看護師たちは毎日仕事していて、さらにそれはきつすぎる、とぞーっとなる。 あゆの看護学校時代の友人で現在N病院に勤務しているさっちーが訪ねてくる。 さっちーは買い物の包みを沢山持っている。 あゆが、買い物するより休んだ方がいいんじゃないか、というと、あゆに、時間があるなら荷物運ぶの手伝ってもらえる、とたずねる。 あゆが承知すると、さっちーは自分の車で、N病院の駐車場に案内する。 そこには、夜なのに車が何台も駐車している。 さっちーは説明する。 N病院は院内感染が発生して、看護師20人が濃厚接触者になった。 その濃厚接触したが自宅待機できない医療従事者たちの居場所がこの駐車場なのだ。 彼らは、この駐車場に自分の車を停めて、その中で夜を過ごすのだ。 「あそこの車にいるのは主任さんで、高齢の両親と同居してたけど、今、家のことはヘルパーに任せてるって」 「あっちの車は同僚で一番仲がいいよ。五歳の子供いるんだけど、心臓疾患があって、旦那に世話たのんで、自分はここにいるんだ。 東京だったら専用のホテルがあるみたいだけど、うちの県にはそんなもんはないでしょ? こうやって医療従事者が濃厚接触者になったら、どこも受け入れてくれないし、誰にも頼れない。 でも、かぞくにだけは絶対にコロナをうつしたくない。 だから、こうするしかないの」 この駐車場の場面は、すさまじい。 医療従事者がどんなに過酷な状況にあるか、この漫画は全てを語ってくれる。 ホテルでもなく、宿泊施設でもなく、自分の車で病院の駐車場で毎日を暮らさなければならない。 医療従事者たちにきちんとした待遇をしない国、そんな国が我々日本という国なのだ。 さっちーの友人のえりチンさんという看護士が同じ駐車場の車の中にいる。 エリちんさんは子供を家に残して駐車場の車の中で過ごしている。 さっちーは語る、 「実はエリちん、離婚するかも知れないんだよね。 ダンナさんコロナで会社潰れちゃったんだよね。元々仲良くなかったところに無職になって・・・・・今は仕方なく子供と一緒にいるだけで、帰って来ないエリちんのことボロカス言って来るんだって 」 「おまえは子育てを逃げられていいよな」とか、 その言葉に、あゆはおどろく、 「ハァ? 何ソレ!? 息抜きで車中泊してるとでも思ってんの!?」 それに、さっちーが答える。 「つまり・・・、そういうことなんだよね。 病院サイドとフツーの人とのコロナに対する病識のズレっていうか・・・・・・・・・・・・ コロナに関わっていない人は、どこかで大したことじゃないって思ってんだよね・・・」 「私もエリちんも、防護服着て、16時間ぶっ続けで働き続けて・・・ トイレに行くヒマもないから水分もとらないでひたすら動いて・・・ 脱水になってボーコー炎になったとしたって、誰も助けてくれない! なんでみんなナースって病気しないって思ってんだろ? ウチらもただの人間なのにさ・・・・・・・・」 一週間後・・・ 駐車場の車の数は増えている。 さっちーは語る、 「医者も、ヘルパーさんもいるからね(こういう人も、駐車場に寝泊まりするしかない、という医療の現場の悲惨さ)」 「自宅待機中にケンカして、プチ別居したって人もいるし」とさっちーはいう。 さっちーの病棟はずーっと満床ですし詰め。 「4月からはマスクも防護服も消毒して使い回しだし・・・・みんなボロボロの格好で仕事している」 「これって、すごい異常だよね。 看護婦の3Kなんて聞き慣れているけどさー。 それって職場のことだけであって、まさか自分たちがウィルス扱いされるなんて思ってもみなかったよ・・・・ いっとくけど、私、仕事したくない訳じゃないよ。 出来るなら定年まで看護師を続けたい。ただ・・・・願うのは・・・・・ 〈安全な環境の下で仕事がしたい〉 それだけなの」 このさっちーの言葉は重い。というか、そんな基本的な環境も看護師に用意されないこの国は一体何なのだ。 エリちんさんの、話が描かれる。 エリちんさんが、車の中から、家に残してきた息子のたっくんと電話をしている。 「ママー (グス) 僕のこと嫌いになったの。パパが僕か病気だから帰って来ないって(ヒック)」 「たっくんのこと嫌いなワケないでしょ・・・・・ ママね、今、悪いばい菌と闘っている途中って言ったでしょう?」 「うん! 凄く強いんでしょ?」 「そう、・・でも・・それが終わったらすぐ帰るから梅ちゃん(猫の名前)といい子にしててくれる?」 「分かった・・梅ちゃんもはやく会いたいって ホラ!!」 猫の声(ニャー、ニャー) エリちんの独白 「いっぱい我慢させてごめんね・・・」 「ママもたっくんと梅ちゃんを抱っこしたい・・・」 「いますぐあいたいなあ・・・」 「誰だって、こんな所にいたくはない。 でも、大事な家族を守るためにそうする他はない」 「医療従事者と言う仕事を選んだ人間の1人として、私達が逃げる訳には行かないから。 見えないところで泣くしかない・・・・」 (ここで、私は、不覚にも泣いてしまった。なんと言う凄い言葉だろう。こんなことをきちんと言える人間を前にして、頭を下げることしかできない私が情け無い) 漫画の最後で、コロナを疑われた患者は、コロナではないと言うことになって大部屋に戻ることが出来た。 あゆ、さっちー、エリちんが、コンピューターの会議ソフトで話し合うところで今回の漫画は終わる。 最後にあゆの言葉が書かれる。 「沢山辛いことを乗り越えてきたから、どんな過酷な状況の中でもーーーーーーーーーーーー 私たち看護師は元気になる方法を知っている。 でも、新型コロナの収束にはこれから数年要すると言われている。 私たちの闘いは、まだはじまったばかりなのだ」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ スピリッツのこの28号が発売されたのは、6月8日。 それを今頃紹介するのは遅すぎる。この28号は売り切れてしまっているだろう。 紹介が遅れたのは、コロナウィルスのせいだ。 私はスピリッツを小学館から送って頂いている。 それが、このコロナウィルス騒ぎで、大幅に遅れている。 残念ながら、私が28号を手に入れたのは29号発売される頃だった。 このブログを読んで下さった方が「お別れホスピタル」を読もうと思っても、もう間に合わない。 申し訳ないことです。 どうか、単行本に収録されるのをお待ちください。 セリフを紹介することしか出来なかったのは残念だ。 私はこの漫画を読んで、日本の漫画と言う物の素晴らしさを改めて痛感した。 日本の漫画はどんな題材でも描くことが出来る。 そして漫画で訴えかけるとその訴えが心の深い所にまで力強く届く。 今回の「お別れホスピタル」は、ページ数がわずか20ページだ。 わずか20ページで、ここまで深く心に訴えかけることが出来る。 この内容を、テレビドラマや小説でやって見たらどうなるか。 こんなに上手く伝わらない。 漫画の可能性は限りない、とこの漫画を読んで痛感した。 この漫画は、私に、漫画の世界で生きてくることが出来て大変に幸せだったと思わせてくれた。 この「お別れホスピタル」では、毎回、医療従事者の実際の姿が描かれている。 今回のコロナヴァイルスの問題でも、感染者数と志望者数が毎日数え上げられ、レストランの営業の件を始めとして、様々な職業の苦境か伝えられるが、医療従事者の実際の姿はなかなか報道されない。 その意味から、今回の「お別れホスピタル」は時宜にかなったものだ。 私は、今回、コロナウィルスとの闘いで医療従事者がどんなに大変な生活を強いられているか、この漫画によって理解することが出来た。 素晴らしい漫画だ、と心から賛辞を呈したい。 沖田×華さんは、毎回難しい題材なのによく頑張っておられる。感服する。 これからも、どんどん良い漫画を書いて下さい。
- 2020/04/24 - 派遣労働者の危機あまりに豚な私たちについての続きを書こうと思っているのだが、そのような原則論よりも、目の前の危機について考えなければならない問題が読者から提起されたので、今回はその問題について書いて行く。 最近、このページの読者の「よ」さんからメールを頂いた。 これは、私独りが読んで済ませる物ではなく、他の読者の方にも読んで頂くべきものだと私は考えた。 何回か頂いたメールを、私が、このページで読んで頂くのにあんばいが良いようにまとめた。 まとめた文章は「よ」さんに、確認して頂いた上、掲載を了承して頂いた。 「よ」さんは書いてこられた。 「私は、2014年から2015年の頃、父がかつてやっていた鍼灸院を使わせてもらってマッサージ店を開店しましたが、なかなか上手くいかず、夜間にHPのパソコン梱包工場(東京システム運輸)でライン作業のアルバイトをしました。派遣会社はヴィゴール。その他にはトップスポット、羽田、などいくつかの派遣会社が入ってました。 私がその夜勤のアルバイトをし、日雇い派遣状態をみたのは2014年から2015年の頃です。」 「よ」さんが見た派遣労働者の状況 「私は47歳です。 私は以前工場で夜勤のアルバイトをしたのですが、小泉竹中政権以来、派遣は日雇い状態です。その日の発注量が多いと複数の派遣会社から大勢のスタッフが集められ、翌日の発注量が少ないと途端に仕事に入らなくなる。給料は日払いで、仕事に入れる日と入れない日が不安定なので貯金もままならず、その日の日銭でその日暮らし、転職しようにも『貯金』がないと新しい仕事の面接のために休みを入れるとたちまち仕事を干されるので、面接したわりに断られたりするとますますジリ貧になって、水飲み百姓状態になるという。恐ろしい状況を目の当たりにしました。」 「水飲み百姓状態は、私自身ではなく同じ工場の子(20〜30代の男の子)が昼休みに工場備付けの給水機の水ばかり飲んでいるので、『どうしたのか?』と聴くと『安定した仕事につきたくて面接に行くために、この工場で稼働してほしいって派遣会社にいわれた日に休んだら、その後何日かは入れなくて、ついでに面接も断られたから、お金が全然ない』 という話しを聞きました。 他の子が来て『馬鹿だな逃げようとなんてするから。いいか、もし他のところに行けても、給料が翌月払いとかになるから、その間地獄なんだぞ』とか 『履歴書に貼る写真代を節約するために写真を忘れたテイで面接に行くから最初から印象悪くなる』 など様々な悩みを聞きました。 私自身は今の自営業が軌道に乗るまで、日中は自営業をし夜その工場に行っていたので、今は工場には行って無いのですが、日本の恐ろしい派遣=日雇いの現実を見ました。」 そして、「よ」さんは書いておられる。 「私が心配しているのは、おそらく同じような人達が武漢ショックで雇い止めされて、もう2月くらいから食べれてないのではないか。彼らは貧乏に慣れていてかなり生命力が強いのですが、それにしても、2月、3月、そしてもうすぐに4月後半です。人が栄養失調と餓死するには十分かと思います。 役所かどこかに行けば何処の誰ですかあっても食料を配給してもらえるとか、条件とか手続きとかは簡略化して、とにかく窓口に来た人にすぐに現金渡すとかしないと そろそろ餓死者が出るのではないかと思います。 彼らがプライドを捨てて、ゴミ箱漁りでもいいからサーバイブするのだと気持ちを切り替えられていればいいのですが、気の優しい、おとなしい子が多いので、『じっとがまん』とかしてるうちに死んじゃうじゃないかと心配してます。」 「よ」さん、貴重なご報告を頂いて、心から感謝します。 「よ」さんからメールをいた代同じ時期に、YAHOOニュースで、藤田孝典氏が、 「⽵中平蔵パソナ会⻑『世界は数年痛い⽬を⾒る』 いやあなたのせいですでに散々痛い⽬を⾒ています」 と言う題で記事を書いている。 藤田孝典氏は、2007年にルーテル学院大学院を卒業されたとあるから、まだ30代。ご自身の自己紹介には、「ほっとプラス代表理事、反貧困ネットワーク埼玉。社会福祉士。NPOのソーシャルワーカー」と書かれている。 藤田様ここにその記事を無断で引用させて頂きますが、このような議論を広げるためとお考えになって、お許し下さるようお願いします。 「⽵中平蔵元経済財政担当相の雇⽤改⾰は今でも甚⼤な効果を発揮し ている 4⽉18⽇、19⽇に弁護⼠、司法書⼠、社会福祉⼠、労働組合員などが企画し、全国⼀⻫なんでも電話相談会が開催された。 新型コロナウイルスの影響により、⽣活困窮する⼈たちが多いため、全国の専⾨職などの有志が⽴ち上がった。 私も埼⽟県で活動する仲間たちと電話相談を受け、経済危機の実態が深刻であることを改めて実感するに⾄った。 朝10時から夜10時まで、埼⽟会場の5回線は受話器を置けばすぐに着信がある状態が2⽇間続いた。 2⽇間合計で、埼⽟会場には、全産業から雇⽤形態に関係なく420件を超える相談が寄せられている。 他にも、中⼩企業の社⻑、⾃営業者やフリーランスの⽅たちからも⽣活苦が語られた。 そして、なかでも⽴場の弱い派遣労働者、⾮正規労働者は、休業補償も受けられず⾃宅待機を命じられたり、所定の有給休暇を取得後に⽋勤扱いされているという相談が相次いだ。 新型コロナ禍は全ての⼈々に襲いかかっているが、派遣労働を含む⾮正規労働など⽴場が弱い⼈々へのダメージはより深刻だった。 このような派遣労働、⾮正規雇⽤を増やす政策を推進してきた張本⼈といえば、⽵中平蔵⽒であることは⾃明である。 いわゆる⼩泉・⽵中改⾰という雇⽤の流動化政策は「就職氷河期世代」(私は「棄⺠世代」と呼んでいる)を⽣み出し、ワーキングプアと呼ばれる低賃⾦労働者を⼤量に作り出すことに貢献したと⾔ってもいい。 彼らが権限を⾏使して進めてきた雇⽤政策では⼀貫して、⾮正規雇⽤が増え続けた。 近年はようやく増加が⽌まったが、まさに彼らの政策で不安定雇⽤が急増したことは間違いない。 リーマンショックの際には、その影響が「派遣切り」という形態で可視化されて、⽵中平蔵⽒らの雇⽤政策の失敗が⽣活困窮者を⼤量に⽣み出すことを明らかにした。 そして、今回の新型コロナウイルス禍でも、同様に⽵中平蔵⽒の改⾰の失敗による効果は甚⼤だった。 派遣労働者や⾮正規労働者は、貯⾦を形成する余裕もなく懸命に働いてきたが、またリーマンショック時と同様に、雇い⽌めや⼀⽅的な解雇などの犠牲になっている。 リーマンショックの際も「雇⽤の調整弁」という⾔葉で表現されたが、真っ先に解雇や「休業補償なき⾃宅待機」で影響を受けていたのは今回も⾮正規労働者だった。それにもかかわらず、⽵中平蔵⽒は⽇本経済新聞の取材に対し、現在と未来の⽇本を以下のように語っている。 「今の時代は世界的に保護貿易主義が主流です。 その上最近では新型コロナウイルスの流⾏も相まって、⼈の移動について報復合戦も⾒られました。 この根本は社会の分断にあると思いますが、10年後にはその解消に向け、様々な⼯夫が⾒られる時代になっているでしょう。 世界はこれから数年、痛い⽬を⾒たあとに、少なくとも5年後には、解消に向けた議論が真剣にされているはずです。 新しい技術が世間に⾏き渡るイノベーションも、次々と起きることになるでしょう。 次世代通信規格「5G」は、技術的にはすでに確⽴していますが、遠隔医療などに⾒られるように、規制が障壁になり実⽤化が遅れているものもあります。 今後10年は先端技術が⺠間で実⽤化されるために、⼀つ⼀つ議論する時代になるのだと思います。 ですが、それに伴って今ある職業が急になくなるような状況もあるかもしれません。そこで必要なのが、最低所得を保障する「ベーシックインカム」です。 ⼈が⽣きていくために最低限必要な所得を保証することができれば、⼀度失敗しても、積極果敢に再びチャレンジできる環境になるはずです。 出典:「社会の分断 正す10年に」 ⽵中平蔵⽒ 4⽉18⽇ ⽇本経済新聞」 あなたのせいでどれほどの痛い⽬を⾒てきて、現在の経済危機でもどれほどの被害を受けている⼈がいることか。極めて無責任である。 また、最低限必要な所得を保証してきた雇⽤を不安定化させてきたのは⽵中平蔵⽒らである。 「ベーシックインカム」などを語る以前に政治・政策の失敗を振り返るべきだろう。 過去の失敗を振り返れない⼈間が未来を展望できるはずがないし、その資格はない。 そして⽵中平蔵⽒は、どの⼝が⾔うのか、と思うが「⼈への投資」を平然と推奨する。 その⼀⽅で安定していた終⾝雇⽤や年功序列制度が悪いことだといういつも通りの主張を展開してインタビューは終わる。 もはや呆れ果てて⾔葉を失いそうになる。 派遣労働者、⾮正規労働者の多くは、⼈的投資としての教育や職業訓練、企業内の研修機会に⼗分恵まれず、ひたすら正社員やコアスタッフの周辺で働くことを余儀なくされてきた。 ⾼度な専⾨性を有した派遣労働者はごくごく⼀部であり、⼤半は⾮熟練の地位に置かれた労働者である。 そして、給与が低いこと、⾮正規雇⽤であることは能⼒が低い、⾃⼰責任ということにされ、まともな待遇が保証されないまま現在に⾄る。 相変わらず、同じ仕事内容でも正社員との給与格差は⼤きい。⾮正規雇⽤というのは差別処遇と⾔っても差し⽀えない働かせ⽅だろう。 だからこそ、経済危機のたびに最初に悲鳴を上げるのは⾮正規労働者である。 今後、⾮正規労働者は⽣活困窮者と変化して、苦しい⽴場に置かれることとなっていく。 新型コロナウイルスが収束した後の⽇本社会を展望する際には、少なくとも彼のような「過去の経済⼈」による雇⽤政策の失敗を繰り返してはならない。 取り返しがつかない被害を社会に与え、現在も免責されるのであれば、将来の⽇本に禍根を残すこととなる。 もう昔の⼈を知識⼈、経済⼈と尊重するのではなく、きちんと責任を問いただし、⼆度と政策決定の中枢に関与できないように監視するべき時だろう。」 藤田孝典氏の言うとおりだと思う。 ただ、氏は「改革の失敗」「政策の失敗」という言葉を使っている。 竹中平蔵の行った経済政策の中の「派遣法改正」について言っているのだろう。 かつては職業安定法で間接雇用である派遣紹介業は禁止されていた。 それが、小泉内閣経済財政を担当する大臣として任命された竹中平蔵の力で派遣業が大幅に広い職種で許されることになった。 これは、国民の立場からすれば、政策の失敗であるだろうが、竹中平蔵や派遣労働者を雇うことによって人件費を削減できている企業からすれば大成功な政策なのだ。 そして、今回のコロナヴァイルスによる経済の混乱時にも、派遣労働者によって人件費を抑えることが出来ることは、企業にとって有り難い事なのだ。 現在アメリカの経済学の主流は企業による完全な自由を主張している。 全ての規制を取り除いて企業が自由に経済活動をすることが一番重要なこととされている。 竹中平蔵が、終身雇用制度に反対するのも、それが企業の人件費を高くし、企業の自由な活動を制限するからだ。終身雇用制度は労働者の側からすれば安定した生活が得られる物で、ありがたいものなのだが、竹中平蔵のように企業の利益しか頭にない人間にとっては有害無益としか思えないのだ。 竹中平蔵はアメリカで経済学を学んできて、企業の利益が第一で、それを阻害するものは徹底的に取り除かなければならない、と信じ込んでいる。 竹中平蔵は最初から労働者側に立っていない。大企業と、大企業と癒着した政治家の側に立っている。 労働者のことなど考えたこともないし、これからも考えることはないだろう。 リーマン・ショックを最小の被害で乗り越えられたのも、雇うのも解雇するのも企業の思うとおりに動かすことの出来る派遣労働者があったからだ。 今回のコロナヴァイルスによる経済破綻から立ち直るためには、やはり、正社員の数を減らし、派遣労働者の数を増やすことが必要だと企業は考え、その通りに行動するだろう。 氏は、竹中平蔵について 「少なくとも彼のような「過去の経済⼈」による雇⽤政策の失敗を繰り返してはならない。」 と書いているが、竹中平蔵は過去の経済人ではない。 19年の5月期の売上額が3450億円の大企業パソナの取締役会長を務めている。 パソナは人材派遣業である。 この売り上げ、3450億円は、本来なら労働者のものになるはずの金である。パソナは企業と労働者の間に入って、労働者の受けとるべき賃銀を途中でかすめ取っているのである。 このように、労働者と企業の間に入って金を稼ぐ行為を防ぐために、以前は職業安定法で間接雇用である派遣紹介業は禁止されていたのだ。 神戸の山口組が日本一の暴力団にのし上がったのは、神戸港などの港湾労働者を暴力で支配して、労働者を海運会社や、土建会社に派遣し、企業の支払う労働賃金の上前をはねたからだ。 その暴力団と同じことを、竹中平蔵のおかげですることが出来るようになったので、パソナという会社が3450億円という売り上げを得られるようになったのだ。 それにしても、竹中平蔵という男は常識では考えられない倫理観の持ち主だ。 労働者の賃金のピンハネをするのは暴力団と決まっていたのを、パソナのような会社でも出来るように法案を改正し、その労働者の賃金ピンハネによる甘い利益で太るパソナの会長になった。 自分が労働者の賃金をピンハネしてかすめ取ることが出来るように法律を改正したのだろう、と言われても反論できないだろう。 竹中平蔵は暴力団に使われていると思ったら、自分も暴力団の幹部になってしまったのだ。 竹中平蔵は過去の経済人どころか、現在もこれから先も、日本の経済を牛耳っていくだろう。 「よ」さんが報告してくれた、派遣労働者の苦難はこれからもっとひどくなるだろう。 「よ」さんが恐れているように、餓死者が出てもおかしくない。 私達は、竹中平蔵に代表される強欲で、残酷で、労働者の命など屁とも思わない人食い共にどう対応していくか考えなければならないのだ。 日本では、労働者に許された、ストライキ、デモンストレーションがなし崩し的に行われなくなっている。 お隣韓国では、経済大国になった今も、労働者は会社の言うなりになっておらず、デモ、ストライキを行って労働者の権利を主張し続けている。 私達はもう一度、労働運動をきちんと捉え直し、人食い共に対抗する運動を構築して行かなければならないと私は考える。 いまこそ、立て万国の労働者、という言葉をきちんと捉え直すときだ。
- 2020/04/15 - 政府は何のためにあるのか前々回の続き、私達があまりに豚である話を書きたいのだが、今目の前に、そのような原則的な話では追いつかない、とんでもない問題が突きつけられたので、それについて考えることにする。 私達があまりに豚であることについては、次回以後に続けます。 2020年4月13日付け、朝日新聞デジタル版からの引用 ⻄村康稔経済再⽣相は13⽇の参院決算委員会で、新型コロナウイルスの感染拡⼤による⾃粛要請に応じた店舗に対し⾃治体が独⾃に⾏う休業補償について、国から地⽅⾃治体に配分される臨時交付⾦は財源に充てられないとの考えを⽰した。国⺠⺠主党の浜⼝誠⽒の質問に答えた。 臨時交付⾦は政府の緊急経済対策で⾃治体向けに創設され、1兆円が計上されている。⻄村⽒は「国として事業者の休業補償を取る考えはない。従って国からの交付⾦が(⾃治体が⾏う)事業者への休業補償には使えない」と述べた。 他⽅、⻄村⽒は、国は「補償」はしないが、売り上げが半減した個⼈事業主に100万円、中⼩企業に200万円を上限に現⾦給付などの「⽀援」策を講じることを強調。⾃治体が国と同様、「⽀援」として給付を⾏う場合には臨時交付⾦を使えるようにする考えを⽰した。また、交付⾦の配分額は、⾃治体の⼈⼝、感染状況、財政⼒などを「総合的に判断」するとした。(三輪さち⼦) 西村再生相の言ったことの要点は、 1)「国として事業者の休業補償を取る考えはない」 2)国からの交付金が(自治体が行う)事業者への休業補償には使えない。 3)売り上げが半減した個人事業主に100万円、中小企業に200万円を上限にして現金給付などの「支援」策を講じることを強調。 の3点である。 a)私はもし政府が「国として事業者の休業補償を取らない」というのであれば、日本は終わると考える。 個人事業者が破綻したらこの国の経済は完全に潰れる。 大企業がどんなに栄えても、個人事業者が消えてしまったら、それが日本経済にどれだけの打撃を与えるか、考えられないとしたら、それは政治家失格である。 日本では(いや世界中同じだろう)全ての事業主が自転車操業をしている。毎月、毎月収入が入ってこなかったら中小企業だけでなく、ソフトバンクのような企業でも、やって行けなくなる。 収入が途絶えたら、事業は潰れる。事業主もそこで働いている人達も、たちまち生活が困難になる。 そのような人間が、国中に溢れる。これは、第二次大戦に敗戦した直後と同じ事態になる。 日本は国としての借金が1000兆円を超えている。すさまじい負債の額である。 ここで例えば100兆円を個人事業主のために使ったら負債額は更に増えて財政の困難は増す、と政府と財務省の役人たちは考えたのだろう。 しかし、ここで、日本の個人事業主たちが仕事を失ったらその損害は途方もないことになる。 財政が困難になるどころの騒ぎではなくなる。確実に、日本経済はこわれる。 国としての借金が増えても、経済が今のシステムを保っていれば、必死に努力をすることで、回復する可能性はある。しかし、システムが壊れてしまっては、一切の可能性はなくなる。 崩壊したシステムを1から作り直すためにはどれだけの年月と労力と犠牲が必要になることか。 選択の方法としては、 i)個人事業主を救済する。 更に借金は増えて、財政は困難になるが、全破壊に至らなければ努力して回復する道を探る可能性はある。 ii)個人事業主は救済しない。 更に借金が増えることはないが、この方策をとれば、一切の可能性はなくなり、自動的に直ちに日本は破滅する。 という二つの選択がある。 悪い方か、より悪い方を選べ、という厳しい問題だ。 いや、難しい問題ではないだろう。 今のコロナヴィルス禍は百年に一度という大きな禍(わざわい)だ。 平常時の感覚では対処できないだろう。 とにかく今あるものを守り抜くことが必要だ。 勇気をふるって、「悪い方」を選択するのだ。 今の政府の方針では「より悪い方」を選択することになる。 政府は「国として事業者の休業補償を取る考えはない」という。 政府の役割は一体何なのだ。 国を守り、国民の生活を守ることだろう。 この災禍に当たって、ありとあらそる知恵を振り絞って国民の生活を守り抜くのが政府の存在価値なのではないか。 ここで、しゃあしゃあとして、「国として事業者の休業補償を取る考えはない」とは何事だ。 戦う前に手を挙げて、国民が野垂れ死にしていくのをぼんやり眺めているつもりか。 桜を見過ぎて頭の中が花盛りになってしまったか。 財政が厳しいのはどこの国でもおなじことだ。しかし、オーストラリアでは、70パーセントまで補償することになった。 その代わり、外出禁止など厳しい措置を取っている。 日本のように、飲食店に自粛してくれ、と言うだけのいい加減な対応ではない。 飲食店は、テイクアウト以外は営業禁止となっている。 厳しい措置のおかげで、オーストラリアでは感染拡大が抑えられている。 b)奇怪なことは、 「国からの交付金が(自治体が行う)事業者への休業補償には使えない。」 と言いだしたことだ。 こんなことを言うその真意は小池都知事に対する、対抗意識だという。 小池都知事はコロナヴァイルス禍対策を先頭に立って行っている。 人によっては、次の選挙目当ての人気取り行為だ言う。 人気取りで結構だ、それで、日本の経済が助かるなら、どんどんやって貰いたい。 今、コロナヴァイルスに対するきちんとした対策を出している政治家は小池都知事だけではないか。 自分の家で犬と遊んで、ドッグドリンクを飲んでいる動画を投稿して、「皆おうちにいてね」なんてつぶやくしか能のない男の数千倍、国民にとっては有り難い。安倍晋三氏とその周りの人間は、自分たちのメンツみたいなものにこだわって、この国を滅ぼす気か。 c)さらに、あきれ果てるというか、何か物事をしっかり考えたことがあるのか、という疑問を抱いてしまうのは、第3番目の 「売り上げが半減した個人事業主に100万円、中小企業に200万円を上限にして現金給付などの「支援」策を講じることを強調。」 したことだ。 これ、100万円を毎月くれるんですか。 それとも、一回こっきり。それも、それが上限? 一回こっきりで、それが上限だというのなら、そんなものは焼け石に水だ。 こんな誤魔化しの手を使って、一体何になると考えているんだろう。 これから半年が勝負だ。 第二次大戦の敗北のような悲惨な目にわれわれは遭いたくない。 安倍晋三君、君はもう無理だ。 小池都知事か誰かに代わって貰いなさい。 それも、一刻も早く。 あまりに豚な私達も、生き残るためには愚かな指導者を追放するしかない。 生きるか死ぬか、その決断は今すぐにしなければ手遅れになる。 今こそ、あまりに豚な私達が、目覚めるときだ。
- 2020/04/12 - シドニー・シンフォニー合唱団今回は、前回につづいて、私達が如何に豚であるかについて書く予定だったのだが、久しぶりに良い話しが入って来たので、それについて書くことにする。 シドニーには、シドニー・シンフォニー・オーケストラと、シドニー・フィルハーモニーという、二つ大きな楽団がある。 シドニー・シンフォニーには、合唱団もある。 シドニー・シンフォニーと合唱団は、年に一回、あるいは二回、一般的に人気のある曲を選んで素人の音楽好きを自分たちの合唱団に加えて合唱の会を催す。 合唱団に加わって歌いたいという人間は、その上手下手を問わず参加することが出来る。 私はキリスト教徒でもないのに、バッハのミサ曲、モーツァルトのレクイエム、フォーレのレクイエムを非常に愛していて、自分でも歌いたいと思っていたので、シドニー・シンフォニーがフォーレとモーツァルトのレクイエムの合唱の会を催したときには、二度とも二人の娘を誘って参加した。 楽譜と、練習用のCDを貰って、参加費用を払い、自分の家でしっかり練習して、合唱の会の午前中に全体で練習をして、午後に演奏会を開くという段取りである。 全体で練習するのは演奏会の直前に一回だけ、というのは、ちょっと不安になるが、合唱団に参加する人達は大変に熱心で、練習に参加した段階で、もうすぐにでも本番の合唱を始めて問題がないだけに自分自身を鍛え上げてきていた。 娘達も大変に熱心に二人で練習していた。私はちょっと怠けたな。 参加した人達は素人の音楽好きだから大した事はないだろうと甘く見ていた私は驚いた。まるで、全員が音楽大学の学生のようにプロフェッショナルと言った感じなのである。 だから、演奏会直前の一度だけの練習で充分なのだ。シドニー・シンフォニーがそれまでに何度もその会を運営してきて、作り上げたシステムなのだろう。 実際、演奏会は大変に上手く行った。 シドニーの音楽愛好家の水準は非常に高いことがよく分かった。 モーツアルトのレクイエムとフォーレのレクイエムの一番良い演奏は、両方共私と娘達がシドニー・シンフォニーの合唱団に加わった際に録音したものである。本人が一番良いと言っているのだから間違いはない。そのCDは市販されていないのでなんとでも言えるのだ。 今年のイースターには、バッハのヨハネ受難曲を演奏することになっていたのだが、例のコロナヴァイルスのせいでオーケストラも、合唱団も集まることができない。 それでは合唱の会も開くわけには行かない。 しかし、そこが、音楽に熱心な人達であって、そのまま引っ込むことはしない。 どうするかというと、オーケストラ、合唱団の団員それぞれがそれぞれのパートを演奏し、歌う所を、ビデオに撮って指揮者と音楽監督のところに送ることにした。 全員が送ってきたビデオは、指揮者と音楽監督が自分たちの耳を頼りに、まとめあげた。 仮想の合奏、仮想の合唱が出来上がったのである。 これは大変な仕事だった。 1人1人のタイミングが少しでもずれたら、全体として聞くに堪えないものとなる。 それを立派な演奏に聞こえるように、見事にまとめ上げたのだ。 そのために払った努力は大変なものであることか想像できる。 合唱団の人の中には海外から自分の録画を送ってきた人もいた。 この仮想の合唱、合奏を作り上げたチームのメンバーは考えられないほどの長時間をコーラスのリハーサル、録画した演奏のダウンロード、アップロード、このレコーディングの製作に費やした。 その結果はYoutubeで見ることが出来る。 素晴らしい演奏である。 https://www.youtube.com/watch?v=5qIveUWQvE0&feature=youtu.be&mc_cid=e760f36f8e&mc_eid=47d20b5ff8 是非ご覧になって頂きたい。 どんなに苦労したか、指揮者と音楽監督、製作チームの人々の苦労が偲ばれる。 下に、参加した合唱団のメンバーの写真を掲載する。 普通の人達なのだが、その熱意がこのような見事な作品として結晶したのだ。 コロナヴァイルスの悲惨な話が飛び交う中で、このシドニー・シンフォニーと合唱団の困難に立ち向かった姿は美しく、感動的だ。 (私の友人の話しでは、日本でも同じことをしたオーケストラがあると言う。音楽を真に愛する人々はコロナヴァイルスなんかに負けないのだ)
- 2020/03/31 - 私達は豚だ安倍晋三氏が首相になってから、日本の社会は恐ろしいことになった。 首相率先して、犯罪を次々に犯す。 自民党の政治家は、そもそも、この安倍晋三氏の祖父岸信介に始まって、吐き気がするほど悪辣な人間が多かったが、明治以後の政治家の中で、この安倍晋三氏ほど全ての面で恥知らずの所業を重ねて来た政治家はいない。 この悪辣さで安倍晋三氏に並ぶのは、安倍晋三氏の大叔父・佐藤栄作だけだ。 安倍晋三氏が2013年に第二次安倍晋三氏内閣を樹立して以来7年を超えるが、ますますその悪辣さを増している。 どうして、安倍晋三氏はしたい放題を続けられるのか それは、私達大衆が豚だからではないのか。 私達豚は、安倍晋三氏の下である程度の安定した生活を営めているのだろう。それは、安倍晋三氏の功績ではない。我々日本人の勤勉な性格によるものだ。 しかし、我々はあまりに豚なので、この今の安定(いや、実は大変に不安定な擬似的な安定)は安倍晋三氏に与えられたものと勘違いして、安倍晋三氏にしがみついていれば安全だと思い込んでいるから、安倍晋三氏の悪辣さなど今日の生活に差し障ることがない限り、どうでもいいのだ。 以前に、「男組」についてこのブログに書いたとき、敵役の神竜剛次のセリフを紹介した。 http://kariyatetsu.com/blog/2991.php 神竜剛次は「大衆は豚だ」と言う。 「大衆は豚だ。奴らは人より多くエサを貰おうと、人を押しのけたりするが、真理や理想のために戦ったりしない。 豚を放っておくと社会全体を豚小屋のように汚らしくしてしまう。この社会はすでによごされてしまった。高貴な人間のための理想社会に建て直す必要がある。」 と神竜剛次は言う。 「男組」は1974年の1月から連載が始まった。 今、大衆は豚だなどと言ったら、いわゆる 市民派・正義派・良心派という人間たちが騒ぎ立てるだろう。 1974年当時は、そのような危険なセリフも、建前と形骸にとらわれて「大衆侮蔑」などときれい事の批判する人間ばかりではなかったのだ。 大衆とはどんな物なのか、きちんと考えれば、「大衆は豚だ」という言葉が他者ではなく、自分自身に向けられたものだと言うことがわかるはずだからだ。 その「大衆は豚」であることを示すのに、大変に良い漫画がある。 1999年に亡くなってしまった愛媛県出身の漫画家「谷岡ヤスジ」は、私が尊敬し愛してやまないマンガ家である。 谷岡ヤスジの漫画はギャグである。 素晴らしいマンガ家なのだが、その作品の80パーセント以上が、セックスを笑いの種にするものなので、二人の娘を持つ私としては、家庭に持ち込むのに、いちいちその内容を確かめなければならないところが厄介だった。 それは、別にして、そのギャグの素晴らしさ、凄さは、圧倒的で、私は年に数回谷岡ヤスジの作品集を読み返すのだが、その度にそのギャグに引回されて涙を流す。何度繰り返して読んでも、腹の底から笑って涙が出て来るギャグ漫画は他にない。 時代が重なっているので、よく谷岡ヤスジは赤塚不二夫と並べて論じられることが多いが、その笑いの質が赤塚不二夫とはまるで違う。 赤塚不二夫は計算尽くで作った笑いである。 谷岡ヤスジの笑いは体の底から独りでに出てくる笑いである。計算は一切無い。 その一例を、見て頂こう。 このマンガは、私の持っている谷岡ヤスジのマンガ集からコピーしたものである。 著作権に引っかかるかも知れないが、これはマンガの全部ではないので、引用として認めて頂くように著作権者にお願いしたい。 ただ、このマンガは谷岡ヤスジの他のマンガのように、震えが走るほどおかしい、と言うのではなく、しみじみと考え込まされるマンガである。 (絵をクリックすると大きくなります) 私はこのマンガを、読み返すたびに心に痛みを感じる。 この豚たちは私たちそのものではないか。豚たちはしまいには人間に食われると分かっていて、その日に何か食べられればそれで良いと思っている。 「食っちゃ、寝」「食っちゃ、寝」して、満足している。 一匹目覚めた豚がいて、その目覚めた豚が「おまえたち、しまいに食われるの知ってるのか」とたずねると、その他大勢の豚たちは「あ、それ言っちゃダメ」「それを言われちゃ、もともこもない」「ま、なんだな、先のこた考えんこったな」と言うだけである。 豚たちはこのままでは破滅すると分かっていても、その日その日の豚の生活を安穏に送っているのである。 2020年現在の私達の姿そのままではないか。 無気力と諦め。惰弱にして劣弱な精神。知的な退廃。 目覚めた豚が逃げ出すと、他の豚たちは先回りしていて捕まえる。 「お前らも一緒に逃げよう、チャンスじゃないか」と目覚めた豚がさそっても、他の豚たちは、「何をして食って行くんだ」と居直る。 それに対して、目覚めた豚は「畑に芋や、ナスがあるではないか」と言う。 この目覚めた豚の誘いの言葉は、「生き方を変えよう」ということだ。しかし、 惰弱な生活にマヒしてしまっている豚たちは、「わしら、ドロボーしてまで生きとーないんよね」と言って目覚めた豚を元の豚農場に連れ戻して、柱の天辺に縛り付ける。 この目覚めた豚の姿は、十字架にかけられたキリストを思い浮かべさせる、と言ったら言い過ぎだろうか。 ここのところが、私にはズキリと応える。 権力に逆らうものは、自分たちで取り押さえ、権力に引渡す。 自警団の精神構造である。 キリストを十字架にかけた人達も、権威のために働く自警団だったと言える。 2004年に「イラク日本人人質事件」が起こった。 日本人3人が武装勢力によって誘拐され、誘拐したグループは日本政府に、人質と引き替えにイラクのサマーワに駐留している自衛隊の撤退を要求した。 小泉純一郎首相は自衛隊を撤退させる意思がないことを明らかにし、同時に人質の救出に全力を挙げる指示を出した。 色々曲折があったが、4月15日日本人三名は解放された。 私が言いたいのは、この人質が成田に帰ってきたときのことである。 空港の旅客出口には、大勢の人間が待ち構えていた。 人質3人が出て来ると、その人間達は「自己責任」と大きく印刷された紙を自分たちの顔の前に広げた。 「自分たちで勝手にイラクに行って、武装勢力につかまって、人質にされて、自衛隊の撤退を武装勢力に要求されて、政府に迷惑をかけた。解放されたのも政府の努力があったからだ。自分たちで勝手に行って人質になったんだから政府の助けを借りずに自分で帰って来い」 要するに、「この人質になった人達はお上(おかみ)に迷惑をかけた不届きものである。こんな、不届きものには国が援助をする必要がない」、と言うのである。 「お上の意に従わないものは、他国の武装勢力に殺されるなら、殺されれば良い。」と言うのである。 この「自己責任」をイラクから帰ってきた三人にぶつけて、脅迫することもそこに集まって「自己責任」という文句を書いた紙を掲げた人間達の目的だろうが、もっと大きな目的は、国の方針に従わないとこのように痛めつけられる、と言うことを社会全体に思い知らせることなのだ。 この、3人の人質が空港で受けた脅迫は社会全体を対象にして行われたものなのだ。 「自己責任」と書かれた紙を顔の前に広げて、卑怯にも自分の顔を隠して3人のジャーナリストを脅迫した人間たち。 彼らは、その統一された振る舞いから、政府に逆らう人達を攻撃して、人々が豚の安穏な生活に引きこもるように仕向ける意図を持った団体・組織の人間であることが見て取れる。 彼らは、政府のために働く、自警団なのだ。 目覚めた豚を、柱の天辺に縛り付ける豚の自警団と同じだ。 このマンガの結末は悲惨だ。 目覚めた豚は、柱に縛り付けられて、食事も与えられないから痩せ細っている。 目覚めた豚を売った一般大衆としての豚たちは、飼い主から目覚めた豚を捕まえたごほーび、として、1日10食べさせさてもらえるようになり、まるまると太って、飼い主たちが上機嫌で屠場に連れて行く。 目覚めた豚は、餓死する。 飼い主に忠誠を尽くした一般大衆としての豚は飼い主に食べられる。 このマンガには救いがない。 飼い主に従順にえさを食べて太り、飼い主に食べてもらうか、飼い主の手から逃れようとして、仲間につかまって、飼い主の懲罰を受けて飢え死にをするか、この二つの道しか、豚には残されていない。 さあ、現実の私達はどうだろうか。 私達豚である大衆は、我々の飼い主、安倍晋三氏に食われるのを待つだけなのか。 次回は、安倍晋三が如何にして日本をドブ泥の沼に変えたか、検証する。
- 2020/03/19 - 国境のエミーリャ実に不思議な漫画に出会った。 ゲッサン(月刊少年サンデー)に連載中の、「国境のエミーリャ」である。 作者は池田邦彦。 私はこのマンガ家の作品を見るのも名前を聞くのも初めてだ。 この漫画の何が不思議かというと、その場面設定だ。 非日常的な場面設定や、SFのような常識を越えた空想による場面設定なら、驚かない。 この「国境のエミーリャ」の場合、歴史空想漫画と言えるのかも知れないが、この漫画が語るのは1962年の日本でのことであり、それはまだ、まだ歴史の中に収めるには余りに近い過去だ。 1962年のことは自分の生きてきた時間として記憶に残っている人間がまだ数多くいる。例えば私のように。 そのような人間にとって、この漫画の1962年は私達の記憶にある日本の1962年ではない。 だから、私はこの漫画の設定に異様な感じを受けるのかも知れない。 実際の日本の歴史では、第二次大戦は、日本がポツダム宣言を受け入れて、無条件降伏をして、終結する。 しかし、この漫画では、日本は徹底抗戦派の主張によってポツダム宣言を受け入れなかったという設定になっている。 その結果、卑怯にも日ソ不可侵条約を破って宣戦布告をしたソ連が日本に攻め込んできた。それに対応して、英米豪が上陸して、各地で激しい戦いが行われた。その結果、日本は分割統治された。 北海道と東北6県、茨城、栃木、埼玉、群馬、千葉県がソ連の統治地区となり、残る地域は米英による統治地区となった。 やがて、それぞれが、日本人民共和国(東日本国)、および日本国として独立した。 そして、東日本国は、国境を封鎖した。首都東京も分断されて、東側の約半分が東日本国の領土となったと設定されている。 それはかつて、ソ連側と西側によって東西に分断されたドイツの状況をそのまま模している。当時はベルリンも東西に分割されていた。 この物語の東トウキョウと西トウキョウの間にも実際にベルリンにあったような壁が作られている。 この物語の主人公、エミーリャはこの東トウキョウに住んでいて、東トウキョウから西トウキョウに逃れたいという人間の手助けをする、脱出請負人である。 物語は、希望する人間をいかに脱出させるか、ソ連や東日本国の官憲とエミーリャの闘い、などと、いかにも東西冷戦を舞台にしたものとして展開する。 ドイツが東西に分裂していた時期に、このように東から西へ脱出しようとする人間の話を幾つも聞いた。 ベルリンの壁を越えようとして射殺された人間も数多くいた。 しかし、2020年現在に、当時の東西の緊張を描いて上手く行く物だろうか。 エミーリャは19歳、名字は杉浦、父親は日本人、母親はロシア人らしい。 異母兄(母親が日本人)がいたが、5年前に亡くなった。 母親は微笑みに通じるからとエミーリャと名をつけたのだが 兄を失って以来、エミーリャは笑わない女になった。 この兄を失う時の話はハンガリー動乱を絡めてあり、感動的である。 エミーリャは上野駅(十月革命駅と名が変わっている)にある人民食堂のウェートレスをしている。 十月革命駅とか、人民食堂とか、日本が東西に分割されていたらそんなことになっていたのだろう。 東日本国、東トウキョウでは、食糧が不足していて、エミーリャはしょっちゅう人民食堂で「昼食は売り切れ」「食べ物は全部売り切れよ」と客に叫んでいる。この「昼食」にロシア語で「アビェト」とふりがなが振ってあるところが、芸が細かい。 このセリフ一つで、東トウキョウの生活がどんな物なのかよく分かる。 と、以上紹介しただけでも、かなり、変わった物語であることは想像できるだろうと思う。 物語も変わっているが、その絵柄も変わっている、というか今時の漫画の絵ではない。この物語が設定されている1962年当時の漫画なら、こうもあったかも知れないと思われる絵柄だ。 早い話が大変に古い絵柄だ。 編集部もこの絵柄の古さに乗ってしまったのか、単行本の装丁も、使っている字体、ロゴ、もえらく古い。 単行本第一巻の表紙ときたら、これはおどろく。古本屋で見つけてきた本か、と思わず言いたくなる。 わざわざ表紙を古びた紙の色にしてある。 主人公、エミーリャの表情も殆ど変わらない。 服装も1962年を設定してあるから古い。ファッショナブルとはとても言えない。 さて、私はこの漫画について、古い、異様、2020年に1962年当時の東西の緊張を描いて上手く行くのか、エミリーリャの表情が変わらない、などと、否定的な言葉を並べた。 では、この漫画は面白くないか、というとその逆だ。 大変に面白い。 私は妻に、「変わった漫画だよ。舞台も設定も古いんだよ」といってこの本を渡した。妻は、「ふうん」と言って受取ったが、翌日「面白かったわ」と喜んでいた。 ううむ、妻は、東西の冷戦当時のスパイ物が好きだったからな、と私は思ったが、当時のスパイ物を読んでいる人間は下手な漫画だったら受け付けないのではないか。 と考えると、やはり、この漫画の面白さは、スパイ物にすれた人間でも受け入れる物なのだ、と納得した。 漫画の世界には、つぎつぎに、新しい才能を持った人間が現れる。 そこが、日本の漫画界の強いところである。 新しい才能に出会う喜びに勝るものはない。 「国境のエミーリャ」は読むべき漫画だ。
- 2020/03/01 - お詫びこのページが、過去2週間ほど、止まっていました。 当方の担当者の手違いから、このブログを載せているサーバーに対する支払いが滞ったために、このページが止まってしまったのです。 有り難いことに、このページを読んで下さっている方が、いらっしゃいます。 一体どうしたんだ、と言う問い合わせも頂きました。 本当にちょっとした、担当者の勘違いから起きた不祥事でした。 これからも、勝手な独りよがりのことを書き続けますので、よろしくお願いします。
- 2020/02/11 - アナログ・オーディオ最近のオーディオ雑誌を見ると、アナログ・オーディオが大変に人気がある。 アナログ・オーディオと言っても本来は色々な形があるのだが、現在アナログオーディオと言われているのは、LPレコードを再生して音楽を楽しむことに特化している。 私のオーディオ歴は高校1年の時からだから、60年以上になる。 私がオーディオを始めたときは、LPの再生が主だった。 その後、長い間LPを再生することに努力してきたのだが、この20年ほど、LPから離れる一方で、特にここ10年ほどは殆どLPをかけなくなった。 その理由は、CD、SACD、というディジタル録音された物を再生することの方が面白く、また、LPより大きな可能性を見出したからだ。 と言って、私がLPの再生に怠けていたわけではない。 1986年だったか、Thorensが、LPプレーヤー最後の商品として製造した、Referenceを購入した。 CDが世に出て、これからCD一辺倒の世の中になるだろう。その時点で、最高のLPプレーヤーを作っておこうと言う、Thorensの思いをこめた製品だとオーディオ屋に勧められて買った。 アームはSMEのV、カートリッジは、オルトフォンのCadenzaだった(だったというのは、そのカートリッジを、私の所に遊びに来ていた若者が壊してしまったからだ。)その後、オーディオテクニカのMC型のカートリッジに変えた。EMTのアームとカートリッジも使っていた。こThores Referenceは30年以上経った現在でも、極めて静粛になめらかに回転している。ターンテーブルとして、何一つ不満はない。 そう言うわけで、決して、LPの再生に手抜きをしていたわけではない。 CDは初期の内は、音が良くなかった。 LPと比べると音が粗く、ざらざらした感じで、LPのあのしっとりとした音は出なかった。 しかし、年月が経つうちに、CDプレーヤーがどんどん進歩していった。 特に、ディジタルをアナログに変換する、ディジタル・アナログ・コンバーターが日進月歩と言うくらいに進歩し続けた。 私は新しい技術に惹かれる性質だから、CDプレーヤーに次々に手を出した。 WADIAがディジタル・アナログ・コンバーター(DAC)を出したときには興奮した。DACはディジタル信号をアナログに変換する演算をしているわけで、結局はコンピューターと同じで、演算をする半導体と、その半導体を動かすソフトウェアの能力を高めていけば、ディジタル・アナログ変換が上手く行き、結果として音が良くなることを、WADIAは証明して見せた。 私は一時、CDに失望していたのだが、WADIAの製品に出会ってからCDに大きな将来性を感じた。 さらに、SACDが出て、私のディジタル・オーディオに対する興味は深まった。 SACDを最初に聞いたときに、その音の良さに驚いたが、音の良さを実感したのは、オーケストラの演奏の後の聴衆の拍手の音を聞いた時だ。 それまで、LPでもCDでも、聴衆の拍手の音は板を叩くような音に聞こえた。ところが、SACDでは、ちゃんと肉付きの良い手のひらを叩いている音がしたのだ。私が音楽会場で聞く聴衆の拍手の音だ。 私はSACDを聞いたときから、LPはもういい、と感じるようになった。 というのは、LPはもはや、新しい技術的進歩は望めない。ところが、ディジタル・オーディオの方では、次々に新しい技術が生まれてきて、音がどんどん良くなって行っている現実があったからだ。 今、ディジタル・オーディオでは、音をディジタル信号にする方式として、PCMとDSDの二通りが一般的に行われている。 PCMはCD、DSDはSACDに使われている方式である。 更に、ディジタル・オーディオでは、CDやSACDのように円盤に記録することはしないで、音楽をディジタル信号化したディジタル・ファイルを電気的に扱ういわゆるコンピューター・オーディオが盛んになってきている。 私が今、主に時間を割いているのは、そのコンピューター・オーディオである。CDもそのままCDプレーヤーで聞くのではなく、ディジタル・ファイルとしてコンピューターで取り込み、それをコンピューターにつないだDACでアナログに変換し、それをアンプに送り込んで聞いている。 私が音楽を聴いているのを見た妻が、「LPプレーヤーも、CDプレーヤーも使わずに、コンピューターをいじって音楽を聴くなんて、なんだか変」という。 確かに今までのオーディオとは大分違う。 しかし、これから本当に良い音を再生するのには、このコンピューター・オーディオが一番大きな可能性を持っていると私は信じている。 どうしても、LPのあの音が好きと言うならともかく、本当に良い音を聞くためとしては、少なくとも私はLPに意味を見いだせない。 一番の問題は、LPは物理的に解決不可能な欠陥が幾つもあることだ。 それを、挙げてみようか。 LPでも、ディジタル・オーディオでも、音を録音して電気信号に変えるところは同じだ。 それから先、どのようにしてLPができていくか、考えてみよう。 大変に複雑な工程で、ここに書くだけでうんざりする。 まず、電気信号をLP盤に刻むために、カッターを使う。 カッターの先端は電気信号に合わせて動く。その動きで、盤を刻むのだ。 一旦マイクロフォンから取り込んで電気信号に変えたのを、再び機械的な動きに変えるのだ。 ここでまず、カッターが電気信号に合わせて正確に動くはずがないと言う問題点がある。必ず、電気信号とは、ずれた動きをする(疑問1) 次に、最初に刻むのはアルミニウムの板に、ラッカー(ロウの様なもの)をコーティングしたもので、柔らかなのでカッターの動きを妨げることが少ない。少ない、と言うだけであって、妨げない訳ではない。 これに、カッターが電気信号を刻む。幾らラッカー・コーティングした物が柔らかだといっても、これが、電気信号通りに刻まれるはずがない。ラッカー・コーティング板とカッターの間に抵抗が生ずるからカッターの動き通りに正確に刻めるわけがない(疑問2) このラッカー盤はカッターが溝を刻んだ物なので、凹型の盤である。 これを、「原盤」と呼ぶ。 このラッカー原盤では耐久性がないので、表面に銀メッキを施し、更にその上にニッケルメッキを暑く施してから剥がす。 そうすると、凸型の盤ができる。 これを、「メタル・マスター」と呼び、保存用のマスターディスクになる。 これが、ラッカー盤と同じ溝が複製できるはずがない(疑問3) LPレコードを作るのにはこのメタル・マスターを使って、ビニールをプレスすれば良いのだが、それでは、折角作ったメタル・マスターが一度しか使えないので困る。そこで、もう2つ余計な工程を経て、ビニールをプレスする盤をつくる。 このマスター・ディスクにまたメッキをして、そのメッキを剥がすと、凹型の盤ができる。これを、「マザー」と呼ぶ。 このマザーが、「メタル・マスター」に忠実に複製できるはずがない(疑問4) 「マザー」は凹型なので、これではプレスできない。 またもう一度メッキをして剥がすと凸型の盤ができる。 これで、プレスをするので、「スタンパー」と呼ぶ。 この凸型の盤が作る溝が、そもそも最初に作ったラッカー盤の溝の忠実な複製になるはずがない。(疑問5) このスタンパーを使って、ビニールの盤をプレスして凹型の溝を作る。これが、LP盤と言うことになる。 この時できる溝が、「マザー」のもの、忠実な複製になるはずがない。 ましてや、最初の「原盤」の忠実な複製になるわけがない。(疑問6) LP盤が出来上がるまでに、6個もの疑問点がある。 最初の疑問点は、電気信号を機械的な動きに変換する際の問題である。 ほかの5個の問題点は、メッキをしては剥がす、と言う問題とビニールにプレスするという機械的な問題である。 6個とも、機械的な動き、機械的な形状に関するもので、これは解決不能な問題である。 ラッカー盤に針で音溝を刻む、音溝を刻んだ盤にメッキをして剥がして複製を作る、この工程のどこをとっても、そこで持ち上る問題は理論的に詰めて解決出来る物ではない。 ここまではLP盤を作るまでの問題だ。 次に、LP盤を再生するところに移る。 音溝を刻む場合、低音は振幅が大きくなる。 余り大きくなりすぎると、再生するときにカートリッジがトレースしきれなくなることを恐れて、そもそもカッターに送り込む電気信号に細工をして、低音部分は信号を小さく、反対に高音部分は大きくなるように調節する。高音部分の信号を大きくするのは、そうしないと高音部分が針が盤面をこするときの「サー」ノイズに包まれて聞こえなくなるからだ。 再生するときに、カートリッジがトレースして拾い出した電気信号に対して、カッターで行ったことの反対のことをする。 低音部分の電気信号を増幅し、高音部分を弱めてやるのだ。 こうすると、電気信号的には、録音したときの電気信号の形に戻るというのだ。 これを「イコライジング(equalizing)」という。 このイコライジングはそれまでのメッキをしたり剥がしたりという機械的な物ではなく、電気的なものだが、低音、高音を上げ下げするイコライジングそのものが、原音を損なう物だ(疑問7) 更に問題が起こってくる。 まず、ターンテーブルを回してLP盤を回転させる。 この回転数が正確でないと、音楽の音程がおかしくなる。(疑問8) LP盤をターンテーブルに乗せてカートリッジを取り付けたアームでLPをトレースする。 この時、アームは一点で固定されていて、その固定点を中心にしてスイングするようにLP盤上を動く。 アームの軌跡は直線ではなく弧を描く。 LP状の音溝は、円形である。 その音溝を直線とみなしてトレースするためには、カートリッジはその円の接線上になければならない。 そのためには、LPの最外周からターンテーブルの中心まで直線上を動かなければならない。 しかし、アームは固定点を中心にして弧を描いて動く。 それでは、カートリッジが常に円の接線上にあると言うことは不可能になる。結果として、音溝を斜めにトレースすることになり正確なトレースをすることができない。 この、トレースのエラーをトラッキングエラーという。 今のように、一点固定のアームをスイングさせる形でトレースするからにはこのトラッキングエラーは避けがたい。 当然、このトラッキングエラーがあると、LP盤の最初の工程でカッターが刻んだとおりにカートリッジはトレースすることかできない、結果として音がひずむ。(疑問8) いま、平面上のトラッキングエラーについて考えたが、カートリッジがきちんとLP盤と同じ平面上を水平に移動するかどうかこれも、トレースする際の問題点となる。前後、左右どちかに傾くとこれもきちんとトレースできないことになる。 これは、ヴァーティカル・トラッキング・エラーと言われている。(疑問9) カートリッジには、今のところ電磁式のムービング・マグネット方式(MM)とムービング・コイル方式(MC)の二つが主に使われている。 MMも、MCも盤面をトレースすることで、フレミングの右手の法則が示す通りに、針先の動きを電気信号に変換する。 ようやくここで、電気信号が取り出されたことになり、ここから先は電気的な増幅の問題になる。 しかし、このMM、MC、それぞれに個性がある。 MMはマグネットが動く、MCはコイルが動く。 マグネットはコイルより質量が大きい。従って、動きの繊細さで言えばMCの方が上だ。一方、MMの方が出力電圧が高いから、そこから先電気的に扱うのに有利だ。 マグネットが動くか、コイルが動くかで音色が変わってくる。 ということは、カートリッジが原音に色づけをすることになる。 カッターが刻んだ音に忠実ではない(疑問10) 更に、音溝のトレースはカートリッジにつけられた針によって行われるのだが、この針の形状によっても、トレース能力が違って来る、 カッターが刻んだ音に忠実ではないことになる。(問題11) 更に、LP盤自体の問題がある。盤はビニールでできている。 それを、カートリッジにつけられたダイアモンドの針でトレースされる、こすられるわけである。 通常MCカートリッジで、かけられる圧力(針圧)は2グラムくらい、MMカートリッジそれより少し重いくらい。 とは言え、針先の面積は極めて小さいのだから、針圧が2グラムといっても、針先の面積で割ると、 1㎝2あたり数トンの圧力がかかることになると言われている。(私は自分で計測したことがない) そんな圧力でトレースするからビニールで出来たLP盤は当然ダメージを受けると思われる。 しかし、実際は大した摩耗が起こらないのは、ビニールには弾性があって、針によって押し広げられても、その針の圧力が取り除かれると元の形に戻るからだと言う。 その針によって押し広げられても、と言うところがくせ者で、では実際にトレースしているのはカッターが刻んだとおりの音溝なのか、カートリッジが広げた音溝なのかと言うことになる。 それに、私の経験からしても、十年以上使用してきたLP盤はやはり色々と劣化している。私はLPをかけた後に綺麗に盤を拭う。 だから、私のLP盤はどれをジャケットから取り出しても、ピカピカ光っている。 それでも、10年以上かけてきたLP盤は何らかの劣化がある。 高音部分は、新品時代より劣化していると思う。 いくら何でも、あんなにこすって、ビニールがなんの影響も受けないなどと言うことはあり得ない。 このビニール盤を高い圧力でこすることによる音質劣化と、トレースするときの音溝の形状変化はカッターが刻んだときのものと違ったものになっている。(疑問12) ここまで、ざっと挙げてみて、12個も疑問点が見つかった。 これは、LP盤が引き起こす問題であって、機械的な問題なので解決不能のものである。 LP盤から電気信号を取りだした後は、ディジタル・オーディオもアナログ・オーディオも同じ電気回路の問題になる。 結局、この12の解決不能の問題はLP盤だけの問題なのだ。 ディジタル・オーディオにも問題があるが、それはすべて電気的な問題であって、電気的な問題は回路を工夫したり、使う部品を改良すれば解決出来る。 アナログ・オーディオの場合、理詰めで音の改善はできない。 しかし、ディジタル・オーディオの場合理詰めで、抱えている不具合を直していくことができる。 その証拠に、ディジタル・オーディオの場合、30年前と今とではまるで様変わりと言うほどに進歩している。 しかし、LP盤を使うアナログ・オーディオは、30年前から少しも進歩していない。 いまだに、アナログ・オーディオの方が音が良いと言っている人は、よほど、何かにとり憑かれている人だ。 アナログ・オーディオの方が好きだというのなら、それは構わない。 ただ、周波数特性、過渡特性、ダイナミック・レンジ、と言う問題から考えて、LP盤再生に特化しているアナログ・オーディオの方がディジタル・オーディオより音質的に優れていることはあり得ない。 しつこいようだが、まとめてみると、次のようになる。 端的に言えば、オーディオとは、音楽を機械的な信号としてマイクロフォンで電気信号に変え、その電気信号をスピーカーを駆動することができるように増幅して、最後にスピーカーで電気信号を元の機械的信号・音に戻してやる、というものだ。 ディジタル・オーディオの場合、マイク→電気信号→電気的に増幅→スピーカーで機械的信号・音に復元となっている。 しかし、アナログ・オーディオの場合、 マイクロフォンで機械的信号を電気信号に変換する所まではディジタル・オーディオと同じだが、その後、 一旦電気信号に取り込んだ物を、カッティング→カッティングした盤をメッキする(これを、3回繰り返す)→ビニール盤にプレスしてLP盤ができる→これをカートリッジでトレースして、機械的信号を電気的信号に変える(このトレースの場合に色々な問題があることは上に述べたとおりだ)→電気信号を増幅する→スピーカーを駆動する。 この紫色の所はディジタル・オーディオにはない余分な行程である。 オーディオの行程の中で、一番ひずみを発生するのは、音を電気信号に変換するところと、電気信号を音に変換するところ、である。 ディジタル・オーディオの場合、それは録音の際、とスピーカーを鳴らすときの2回起こる。 しかし、アナログ・オーディオの場合、途中にLP盤を作る工程がはいるので、機械的信号と電気的信号の変換が、二回入る。しかも、LP盤をトレースする際に大きな問題があることは上に述べた。 この点が、原音に対する忠実性を損なう大きな問題点だろう。(疑問13)これも解決不能の問題だ。 LP盤を作るところでひずみか出ると書いたが、ディジタル・オーディオでも、CD、SACDなどの円盤にディジタル信号を刻む。 これは、LP盤を作る際に生ずるほどのひずみは発生しないが、それでも円盤に刻み、それをトレースすることによって幾らかは歪みが生じる。レーザー光をきちんと反射させ、それを正確に受け止めることができるかどうか、問題は幾つかあるが、LP盤ほどの問題は生じない。 それでも、気になる場合には、私が現在取り組んでいるコンピューター・オーディオにすれば良い。 コンピューター・オーディオの場合、機械的信号と電気信号の相互の変換は録音とスピーカーで再生するときの2回しか行われない。円盤に刻むことはしない。 コンピューター・オーディオが一番純粋なオーディオと言えるだろう。 オーディオは趣味の世界だから、自分はアナログ・オーディオ一辺倒という人がいても、それは当然のことだと思う。 私は何事も理詰めで行かなければ気が済まないたちだから、幾つもの解決不能の問題を抱えながら、何もかも曖昧なままのアナログ・オーディオはもう結構と言いたいのだ。 私はラディカルじじいだから、仕方がないのだが、それにしても、最近のオーディオ雑誌のアナログオーディオ賞賛の度が過ぎていると感じて、こんな文章を書いた。まあ、人が喜んでいる物を、とやかく言うことはないんだが。
- 2020/01/26 - ラグビー旧聞に属するが、ここ数年、不愉快なことばかりつづいていて腐っていたのが、久しぶりに胸の空くような思いをしたので、そのことを書きたい。 去年10月のラグビーワールドカップ日本大会ですよ。 予選リーグ4連勝、しかも、アイルランド、スコットランドという世界のトップの強豪国を倒したのだから、凄かった。 あれから、3ヶ月近くたつのに、まだ私はあの4試合のことを思い出すたびに、胸の奥が熱くなる。 私の父は大変に仕事が忙しかったけれど、日曜日など、野球、映画、美術館などに私達子供を連れて行ってくれた。神宮外苑の秩父宮ラグビー場にも何度も行った。 私の父は法政大学卒業であって、法政大学に強い愛校心を抱いていたから、六大学野球も、大学対抗ラグビー試合も、法政大学のチームが出場する試合に私達を連れていった。 1950年代から60年代には娯楽というものが、今のように様々な物があると言うことはなく、大学対抗の野球やラグビーが今とは比較にならないほどの人気を集めていた。 東京では、東京六大学の野球、ラクビーが人気があって、私は父に連れられて六大学野球、大学対抗ラグビーの試合を見に行ったのだ。 私は秩父宮ラグビー場には何度か行って、親しみを感じていた。 今、考えてみると、1950年代から80年代までは、サッカーよりもラクビーのほうか人気があったように思う。 Jリーグが発足したときに、私は、いつから日本ではこんなにサッカーが人気になったんだ、と不思議に思った物だ。 だから、私は、サッカーよりラグビーに親しみを抱いていたのだが、Jリーグが発足して以来の日本のサッカー熱はすさまじく、またそれに上手く対応して優秀な選手が現れたので、私もすっかりサッカーの方に鞍替えしてしまっていた。 私は、1998年に日本が初めてワールドカップに出場して以来、サッカーのワールドカップは必ず見に行っている。(もっとも、南アフリカ大会とロシア大会は、行かなかった。それには理由があるのだが、話すと長くなるからここではやめることにする) こんなにサッカーに入れ込んできた私だが、最近日本のサッカーがあまりに弱すぎるので、気が滅入っている。日本が負けるたびにひどく落ち込む私を見るに見かねて、長男が「もう日本を応援するのはやめようよ」と言い出した。 「そうは行かないよ」と答えたものの、今の日本のサッカーは建て直そうとしても簡単なことではない。負けるたびにこんな辛い思いをするのはたまらない。 2020年1月12日のAFC選手権第2戦で、日本のU23代表は、シリアに1対2で敗れた。これで、予選グループで2連敗して、予選敗退となった。AFC選手権史上初めて日本は決勝トーナメントに進めなかったことになる。 U23といえば、次のワールドカップの主力になる年齢層である。 それがこれでは、次のワールドカップ、次の次のワールドカップは望み薄だ。 そのようなときに、ラグビーのワールドカップが日本で開かれた。 私は日本でラグビーは今のところ人気がないから盛上らないだろうと思ったら、とんでもない。 日本が初戦のロシア戦に勝ってからと言うもの、4連勝した。 日本中が熱狂した。 「にわかフアン」などという言葉も盛んに使われるようになった。 私も興奮して見た。 あれから3ヶ月は経とうというのに、私の心の中にはあの時の興奮が残っている。 妻と話すのに、ついラグビーの話になってしまって、妻に「またラグビーなの」と笑われている。 妻は笑いこそするけれど、本人もやはりラグビーで一緒に興奮したので、私が繰り返しラグビーの話をしても、嫌がらずに一緒に乗ってくれる。 まあ、70歳を過ぎた老夫婦が、ラグビーの話をして興奮しているなんて、おかしいと言えばおかしいけれど、興奮している私達は大変に幸せだ。 私は年の60パーセントはオーストラリアのシドニーで暮らしている。 オーストラリアではラグビーが大変な人気で、新聞のスポーツ面は毎日ラグビーの記事で埋まる。 オーストラリア・ラグビー・リーグの所属チーム数は16、日本のJ1のチーム数は18。 日本の人口は1億2700万、オーストラリアの人口は2460万。人口当たりで考えると、オーストラリアのラグビーリーグのチーム数は非常に多い。 しかも、ラグビーの会場はいつも満員だ。観客が3万4万と入る。 一方サッカーはといえば、オーストラリアAリーグのチーム数は11。 よほどのことがない限り、観客は4千人か五千人だ。空席が目立つスタジアムでサッカーを見ると、実に盛上らない。 ラグビーは体で当たる。格闘技みたいなところがある。一方サッカーは、足で蹴るだけである。 で、オーストラリアでは、サッカーは「チキンのスポーツ」としてラグビーより一段下に見られている。「チキン」とは弱虫という意味だ。 ラグビーには大きく二通りある。 ラグビー・ユニオンのラグビーとラグビー・リーグのラグビーの二つだ。 私はラグビー・リーグはオーストラリアだけの物かと思っていたら、他の国でもラグビー・リーグでラグビーをしている国がある。 私が子供の頃秩父宮ラグビー場で見たのは、ラグビー・ユニオンのラグビーだ。 今回、日本の開かれたワールドカップのラグビーも、ラグビー・ユニオンのラグビーだ。 歴史的にはユニオンの方が古く、リーグはユニオンのルールを変更する形で、ユニオンから分かれた物だ。 一番の違いは、 1)ユニオンは1チーム15人。リーグは13人。 2)リーグではラックがない。 攻撃側がボールを持って敵陣に突っ込むのを守備側はタックルで止める。 ◎ユニオンでは、タックルを受けた後、攻撃側と守備側は激しくもみ合う。 これをラックと言うが、その間に攻撃側が足でボールを後ろに出すのを、スクラムハーフが取り出して、スタンド・オフにボールを回す。 そこで次の攻撃が始まる。 ◎リーグでは、タックルで攻撃を止めたら、そこでゲームを止めて、ラックを作らずに、守備側も攻撃側も自分たちのポジションに戻る。 タックルを受けて止まった攻撃側の選手は、ボールを後ろに蹴る。それを、スタンド・オフが受取る。 そこで次の攻撃が始まる。 要するに、リーグではラックはない。 そして、このタックルは6回までで、攻撃側が6回タックルを受けた段階でそれまでにトライを奪えていなければ、攻撃権は相手に移る。 この辺りが、私には大変気が抜ける思いがする。 3)ラクビー・リーグでは基本的にスクラムは組まない。 リーグでスクラムをくむときがあるが、ユニオンのスクラムとは違って、殆ど形だけのスクラムで、地面に膝を着かず、ちょっと押し合うだけである。 4)ラインアウトはない。 私の見たところ、リーグは、ユニオンの簡略版のような気がする。 ラックがない、スクラムがない、ラインアウトがない。 要するに、両方の選手がもみ合う場面がリーグにはないのだ。 だから、ゲームは早く展開する。 ラック、スクラム、ラインアウトがないと、選手たちが実質動き回る時間はリーグの方が多いという。 ただ、私のようにユニオンからラグビーを見始めた人間にとって、リーグの試合は、大変に物足りない。 最初、リーグの試合を見た時に、「なんじゃい、これは、ふざけてるのか」と思ったものである。 オーストラリア人に、オーストラリアのラクビーはつまらない、と文句をつけたことが何度もある。 日本は今回のアイルランド戦と南アフリカ戦でスクラムで相手をつぶして、ペナルティーを得た。 アイルランド戦でスクラムで勝ったときに、具智元選手は雄叫びを上げた。見ていたこちらも、「よーし、やったあ」という気持になった。 リーグの試合では、このような興奮は得られない。 ラックにしたって、ユニオンの場合、ラックからボールを受取った選手が更に前線に突っ込むと、そこで新たなラックができる。そのラックから出たボールを前線に運んで突っ込んでまたそこでラックができる。 ラックを重ねて攻撃をする、このスリルはリーグの試合では見られない。 リーグの試合は薄味だ。スクラム、ラックで激しくもみ合った後にトライを決めたときの、カタルシスがない。 で、私は絶対的にユニオンの試合が好きなのだ。 ただ、ラグビーの試合を見ていて、余りの激しいぶつかり合いに、選手の体は大丈夫なのか、と不安になるのは私だけではあるまい。 芝生が生えているからと言っても、下は地面だ。その地面の上に、南アフリカ戦では稲垣が頭から下にたたきつけられた。 プロレスよりも凄いぶつかり合いだ。プロレスの場合、下はマットでしかも安全のためにスプリングが効いている。 抱えて叩きつけると、マットが揺れるのがよく分かる。それだけ、衝撃をマットが衝撃を吸収すると言うことだ。 地面はそうは行かない。衝撃を吸収してくれはしない。 しかも、タックルで倒れた上に更に他の選手たちが突っ込んでくる。 「うわあ、そんなことして、いいのかっ」と私は思わず叫ぶことが何度もあった。 先日、稲垣、堀江、福岡の3選手がスクラムについて語るテレビ番組を見た。 稲垣選手は、笑わない男、などと言われて、とっつきにくい感じがするが、その話し方は実に理路整然、よどみなく語ってくれるので大変に分かりやすい。 その3人がスクラムについて語ってくれたのだが、それを聞いて私は感心して、同時に圧倒された。 スクラムは、8人で組むのだが、一人一人の選手の足の位置を1センチの単位で決めていくという。 そしてあらかじめ、1人1人の選手が、自分はどうすれば良いかしっかり認識しているから、8人が一つの融合体となって動く。その結果、力のベクトルが一つにまとまって相手に当たるから、相手のスクラムを崩すことができる、というのだ。 スクラムは見ていると、力業としか思えないが、実際はそこまで細かく計算しているのだ。実に勉強になった。 ここまでできるためには、チームの結束が固い必要がある。 今回、特に強調されたのは、「One team」ということだった。 日本代表はワールドカップまでに、240日の合宿を重ねてきて、お互いに仲間を知り尽くし、しっかりとした協調関係を作り上げたという。 それでなければ、あんなスクラムは組めない。 そのチームワークの良さは、スコットランド戦で、ラファエレが前方に蹴り出したボールを福岡が追いついて摑んでそのままトライを決めた場面でもはっきり分かった。 ラファエレがボールを蹴り出した瞬間に福岡は走り出している。 あれが、0.5秒でも、遅れたら間に合わなかっただろう。すさまじい連携だった。 今回、日本代表の半数が外国出身、或いは外国籍であることが話題を呼んだ。 世の中には頭の中に脳みその代わりに何か変わった物を詰め込んでいる人がいて、そう言う人達は「外国人が日本代表とはおかしい」とか、「純粋の日本人でなければ」などと、腐敗臭フンプンのことを言う。 私はワールドカップで勝つと言う目的のために、あれだけの有能な選手たちが日本に結集したことを素晴らしいと思う。テレビで見たが、日本代表のトレーニングの激しさはただ事ではない。 稲垣選手は「本当にもれそうになった」と言っていた。 そこまでのトレーニングに耐えて、ワールドカップで勝ちたい、と言う強い目的のために日本に結集した選手たちだ。稲垣選手はまた、「自分は楽しむためにラグビーをしているつもりはない」といった。 すごい、気概だ。 日本に集って来た外国籍、外国出身の選手たちはそこまでの気概を持ってきたのだ。 そのような選手たちが今回日本にもたらしてくれた物は、実に尊い。 外国籍、外国出身の選手たちは「One team」という言葉の概念を、実際に体現して、嫌韓だ、嫌中だ、というヘイトスピーチ狂いの人間が穢した日本人の精神を、そしてこの日本の社会を、清めてくれた。 そう、私は思う。 ラグビー日本代表が与えてくれたこの気分の良さは、2011年のアジアカップで、日本がオーストラリアを破って優勝したとき以来に感じる物だ。 そういえば、今回フォワードで活躍した具智元選手は、現在は日本国籍になったが、ワールドカップのときには、韓国籍だった。 2011年のアジアカップ優勝ですさまじいボレーシュートを決めて日本を優勝に導いたのは、李忠成選手だった。李忠成選手は、在日韓国人だ。 左サイドをドリブルして走る長友が、センタリングしたら、ゴール真正面に李忠成が待っていて、長友のパスを直接ボレーで、ゴールに蹴り込んだ。あの長友からのパスを一旦胸に当てて足元に落としてシューしようとしたら、相手に守る隙を与えただろう。 あの李忠成のボレーシュートは、私は死ぬまで忘れない。 今回、スコットランド戦で、脇腹を痛めて退かなければならなくなったときのあの具智元選手の悔し涙に暮れる顔も忘れることはない。泣き顔を美しいなどと言ってはいけないのかも知れないが、実に美しい顔だった。私は深く心を打たれた。 具智元、リーチ・マイケル、中島イシレリ、ヴァル・アサエリ愛、レメキ・ロマノ・ラヴァ、ピーター・ラブスカフニ、トンプソン・ルーク、ジェームス・ムーア、ヴィンピー・ファンデルヴァルト、ヘリ・ウヴエ、ツイ・ヘンドリック、アマナキ・レレイ・マフィ、アタフタ・モエアキオラ、ウィリアム・トゥポー、ラファエレ・ティモシー、の各選手たちに、「One Team 」という素晴らしい言葉を具現化してくれたことに心からの感謝を捧げたい。
- 2019/10/15 - 東京五輪がもたらす危険東京五輪がもたらす危険 最近オリンピックは国威発揚の場になっていて、いい感じがしない。 特に政治に利用されるとあってはなおのことだ。 来年東京で開かれるオリンピックはその意味で最悪だろう。 東京オリンピックが最悪なのは、安倍晋三首相の人気取りと、更に福島第一原発の事故を無かった物にするための道具として使われているからだ。 最近の新聞・テレビを始めマス媒体では、東京オリンピック翼賛一辺倒で、オリンピック人気を盛り上げることに腐心している。 今の日本の国力では、オリンピックなど開いて金を使ったりしているときではないのだが、国中うわずったようになって、オリンピック、オリンピックと騒いでいる。 このお祭り騒ぎの中で、忘れられている、と言うか故意に誰もが言わないようにしているのが、福島第一原発の事故による日本の国土の汚染だ。 皆、福島第一原発の事故はもう無かったことにしたいらしい。放射線も今や何も気にする必要がなくなっていると思いたいらしい。 福島第一原発由来の放射線は日本の各地、少なくとも東京以東では、福島第一原発の事故以前とは放射線の値が遙かに大きくなっているのだが、そういうことは考えてはいけないことになっていて、そんなことを今更あれこれ言う人間は考えの偏った人間とされる。 私は福島の取材をした後で、鼻血が出る経験をしたので、身にしみて分かるのだが、放射線による健康被害の症状は、思わぬ時に思わぬ形で出る。放射能は目に見えず、耳に聞こえず、そこにあることを感じとれないし、熱いとか、冷たいとか、何か匂いがするとか、そのような危険を感知させる物がない。 だから責任ある人間が、オリンピックのある競技場について、ここは放射能が低く安全であると言った場合、選手はそれを信じてその場で競技をしてしまう。 2019年3月12日の日本経済新聞は次のように報じた。 「2020年東京五輪・パラリンピックの開幕まで500日となった12日、大会組織委員会は聖火リレーの出発地点を福島県楢葉町、広野町のサッカー施設「Jヴィレッジ」にすると発表した。福島第1原発事故の対応拠点となり、4月に全面再開の予定。東日本大震災からの復興のシンボルとなる施設から、大会が掲げる「復興五輪」を世界に発信する。」 また、2019年9月3日の東京新聞は、次のように報じた。 「福島県内の有志が、東京五輪・パラリンピック閉幕後に「後夜祭」を開催する計画を進めている。会場は五輪聖火リレーがスタートするJヴィレッジ(楢葉町)。大会ボランティアや地元の子どもらを招いて交流し、「復興五輪」をスローガンに終わらせず、福島の新たな一歩を踏み出そうとの思いを込めた。」 「企画したのはスポーツボランティアの育成に取り組むNPO法人『うつくしまスポーツルーターズ』。事務局長の斎藤道子さん(55)は『復興しているところも、そうでないところもある福島に私たちは生きている。笑顔を世界に発信したい』と語る。」 こう言う記事を読むと、体中の力が抜ける。 一体、「復興五輪」とは何のことだ。 今度のオリンピックは「東京オリンピック」のはずだ。「福島オリンピック」ではないだろう。 復興など全然していない福島を復興しているかのように見せかけるためにオリンピックを利用するのは間違っている。 復興したいという気持は分かりすぎるほどよく分かる。 しかし、年間被曝量20ミリシーベルトの土地のどこが「復興」を訴えることができるのか。 食品の安全基準値が、1Kg当たり100ベクレルの土地のどこが「復興」を訴えることができるのか。 除染をした際に取り除いた汚染物質がつまったフレコンバッグがあちこちを埋め尽くしている土地のどこが「復興」を訴えることができるのか。 このように、今の日本には何もかも曖昧にして、うやむやのうちに不都合なことは無かったことにしようという動きが強い。 しかし、そのようにうやむやにすることで本当に良いのか。 オリンピックは海外から大勢の選手役員たちが日本にやってくる。 その人たちに、福島でもどこでも安心して過ごして下さい、福島産のものでも何でも安心して食べて下さい、と本当に言えるのか。 オリンピックは「おもてなし」などと、言っているが、安全については何もかもうやむやにしたところに、お客を招いて、それのどこがおもてなしだ。 私は、福島第一原発の事故をまるで無かったことのようにしている日本社会の今の風潮にほとほとあきれ果て嘆いていたが、物事を真面目に考える人達も大勢いる。 今度、「緑風出版」社から、「東京五輪がもたらす危険」という本が発売された。 これは、渡辺悦司さんが編集者として、また自分自身もこの本の寄稿者の1人として、日本だけでなく海外の、2020年東京オリンピックの危険性について危機意識を持つ人達の意見をまとめたものである。 これは、今の日本の社会の風潮に流されて、福島第一原発の事故をまるで昔に見た悪い夢程度にしか思わず、オリンピック、オリンピックと浮かれている人達に、もう一度きちんと目の前の真実を考え直すことを促す本だ。 2011年3月に起こった、福島第1原発事故が、収束するどころか、その被害は、特に人的被害は、拡大していっていることを確実な資料で説いている。 こう言う国で、オリンピックを開くことかそもそも間違っているのだ。 2013年9月7日に、IOC総会に乗込んだ安倍晋三首相は東京にオリンピックを招致するために、 放射能汚染水は、福島第一原発の港湾の0.3Km2区域の中に「完全に遮断」されている、と言った 福島第一原発はすべて、アンダー・コントロール(制御)されている、と言った。 福島第一原発の事故は、東京にはいかなる悪影響も及ぼしたことはなく、今後とも及ぼすことはない、と言った。 福島第一原発の事故はいかなる問題も引き起こしておらず、汚染は狭い地域に限定され完全に封じこめられている、と言った。 健康に対する問題は、今までも、現在も、これからも全くないと言うことをはっきり申しあげておきたいと思います、と言った。 全く途方も無いことを言ったものだが、IOCの委員は、あらかじめ日本オリンピック委員会にあらかじめ「飴でもなめさせられていた」のだろう。カナダのディック・パウンド委員は、安倍晋三首相のこの言葉に対して、「これこそ、聞きたい言葉だった」と賞賛した。この時、対立候補だったイスタンブールに60対36で東京は勝った。この60の票を投じたIOC委員たちはディック・パウンド委員と同じ意見だったことを意味する。 私は、いま、大変下品にも「飴でもなめさせられて頂いた」と書いたが、これは、私の憶測ではない。 五輪招致委の理事長だった日本オリンピック委員会竹田会長をめぐっては、東京での五輪開催の実現を確約するために200万ユーロ(約2億5000万円)を支払ったとして仏検察当局が捜査している。これで、充分だろう。 私はこのIOCの態度に驚いて、私のこのブログに、2013年10月3日に、「Open letter to IOC」という記事を書いた。 この安倍晋三首相の演説がオリンピックを日本で開くことに力があったと知って、その言葉が何から何まで嘘であることを大勢の人に知ってもらいたいと思ったのだ。 日本人だけでなく、海外の人にも読んで貰いたいと思って英語で書いた。 http://kariyatetsu.com/blog/1611.php そのブログを日本語に訳したものが、この本に収録されている。 今になって思うのだが、その記事は、日本語版も作っておくべきだった。 私の英語は中学生程度のものなので、極めて平易だからわざわざ日本語にすることもないと思ったのだが、やはり、英語だと面倒くさいのか、余り大勢の読者に読んでもらえなかった。 今回、この本に収録されることになって、私は幸せだ。 自分の書いたものが少しでも多くの人に読んで貰えることは有り難いことだ。 そのような、私自身の思惑とは別に、この本に収録された内容は素晴らしい。 皆さんも、福島の現実をもう一度理解するために、是非、読んで下さるようお願いする。
- 2019/09/26 - 悲憤http://kariyatetsu.com/wp-admin/post.php?post=1912&action=edit に木村巴さんの、憤怒について書きました。 どうか、もう一度読んで下さい。 その木村巴さんが、新作「悲憤」を発表しました。 どんな作品か、青木巴さんご自身の言葉を、記します。 「今回の題名は『悲憤』です。目にし、耳に入る情報は怒りを感じると同時に悲しくなるほど情けなくなることが多く、その思いを作品にして発表いたします。」 その「悲憤」の写真を掲載します。 クリックすると大きな画面になります。 「憤怒」シリーズも素晴らしかったけれど、この「悲憤」は、「憤怒」を更に越える傑作です。 この人物は二つの顔を持っています。 向かって左の顔が憤激、右の顔が悲嘆。 あわせて、悲憤です。 上体を大きく誇張して書いているので、この人物は異常に大きく見えます。 地球上に降りたって、人びとのの悲嘆と憤激を一身に引き受けている人間であるように見えます。 足元にはこの世の出来事を知らせる新聞記事がズタズタに裂けて散乱しています。 遠景には、国会議事堂を始め、この男性に「悲憤」の情を抱かせる、この世が絵がかれています。 この世の中の様々な出来事が、この人物に、悲嘆と憤激を抱かせるのです。 足元には、お約束の可愛い猫ちゃんがいます。 前回の「男組と私」にも書きましたが、今の日本の社会は「ドブ泥」のような社会です。 この人物は、その「ドブ泥」のような社会に突っ立って、激しく悲しみ、激しく憤っています。 この怒りは強烈で、悲しみは深い。 今この日本の社会で生きている私達は憤激と悲嘆に捉えられている。 この絵は、ドブ泥のような社会で生きている私達の気持を代弁するものです。 どんな行動をするにしても、まずは、この「悲憤」が出発点です。 この「悲憤」がなくては、このドブ泥のような社会に対して何をすべきか、その回答が見つかりません。 この「悲憤」は、9日月27日~10月5日、上野の東京都美術館「創展」に於いて展示されます。 是非、見て下さい。
- 2019/09/23 - 男組についてー2漫画は大変な力を持っている。 荒唐無稽な設定で、あり得ない筋書きで、あり得ないアクションで話を展開して行きながら、書く側は読者へのメッセージを伝えることが出来るのだ。 それも、普通に文章などで伝えるより、はるかに強力に読者の心に訴えかける事が出来る。 それは画で刺激を与えて最初に感性に訴えかけるからだろう。 画で感性が高ぶっている状態では、生なメッセージも抵抗なく受け入れられてしまう。 さて、横山茂彦氏が 「男組の時代 番長たちが元気だった季節」名月堂書店刊 で取り上げてくださった、「男組」の論点について、話したい。 前にも記したが、私と横山茂彦氏の一致した論点は、「権力に対する闘い・抵抗」だ。 「男組」では流全次郎と神竜剛次との闘いが前面に出ているが、実は、その背後に「影の総理」という存在がある。 「影の総理」とはその名の通り、総理大臣の背後にいる存在で、総理大臣を動かしているものである。 実際に日本を動かしている権力・暴力装置のことである。 例えば現在、安倍晋三首相は一応首相として権力者であるように見えるが、実際はそうではない。 現実問題として、日本を動かしている権力とは、アメリカとアメリカに屈従することで利益を得ている政界、財界、官僚、言論機関、学者たち、なのだが、それを抽象的に一人の人間にしたのが、「影の総理」なのだ。 「男組」は「少年サンデー」という週刊少年漫画雑誌に掲載される漫画だから、基本的に娯楽作品である。面白いことが第一だ。 面白くないと読者は読んでくれない。読んでもらえなければ、幾ら自分の言いたいことを伝えたいと思っても、不可能だ。 私は子供の頃から漫画が大好きだったから、漫画の面白さとはどういうものかよく分かっていた。 だから、「男組」を書くときにも、かつて自分が夢中になった漫画のように書こうと思った。そうすれば読者もついて来てくれる。読者がついて来てくれれば、自分の言いたいメッセージをこめることが出来る。 池上遼一さんにも言ったことだが、「堀江卓風に行こう」と考えていた。 「堀江卓」というマンガ家は、1950代半ば過ぎから「矢車剣之助」などで人気を博した漫画家で、実に荒唐無稽で面白い漫画を書く作家だった。「矢車剣之助」の中では、「無限の弾数をもつ拳銃」や「戦車のように動く城」などという途方もない場面が出て来る。 実に全く荒唐無稽と言うしかないのだが、その荒唐無稽さが私達子どもの心を引きつけ、興奮させた。漫画の世界でなければ存在できない荒唐無稽さだ。 「男組」は不思議な漫画で、あれこれ手を変え品を変え、男同士が戦う場面を作り上げているが、主人公の流全次郎と敵役の神竜剛次が戦う場面では、それぞれの意見を相手にぶつけ合うのだ。 横山茂彦さんは、次のように書いている。(「男組の時代」P80) 「『男組』はきわめてメッセージ性のつよい作品である。神竜剛次と流全次郎が一騎討ちをしながら、いや、激しく演説しながら一騎討ちをする。」 「男組」全編を通して、基本的な図式は、流全次郎と神竜剛次の闘いなのだが、闘いながら、政治について、大衆について、目指す社会の形態について、自分の考えを相手にぶつけ合うのだ。 二人の言葉は極めて生なものである。 普通の状態でそんな生なことを言われては白けてしまって、とても、まともに聞くことは出来ないのだが、これが、荒唐無稽な設定の漫画の中だと、あまり抵抗なく聞けてしまうのだから不思議だ。 流全次郎と神竜剛次は人間と社会のあり方についての考え方が違う。 神竜剛次は次のように言う。 「大衆は豚だ。奴らは人より多くエサを貰おうと、人を押しのけたりするが、真理や理想のために戦ったりしない。 豚を放っておくと社会全体を豚小屋のように汚らしくてしまう。この社会はすでに汚されてしまった。高貴な人間のための理想社会に建て直す必要がある。 豚に人間の言葉をかけてやっても無駄だ。豚に必要なのはムチだ。ムチで叩いて分からせてやるのだ。」 それに対して流全次郎は言う、 「大衆は豚だなどと人間を侮辱する権利は誰にもない。豚は自分が豚であることに気がつかない。人間は自分が人間であることを知ることが出来る。知ろうと努力することも出来る。だから人間は希望を抱くことが出来る。 その希望とは、人間はいつか平等で平和な社会を作ることが出来るという希望だ。誰かが支配することもなく、支配されることもなく、争うこともない。自由な社会を作ることが出来るという希望だ。」 それに対して神竜剛次が反論する、 「希望を抱くことの出来る人間が一体どれだけいるというのだ。 おれは、この世の90パーセント以上を占める、大衆という生き物について言っているのだ。 奴らは豚だ。百年経っても千年経っても豚のままだ。 この世にはほんのわずかな人間と、圧倒的に大多数の豚がいるだけだ。 受験勉強に精を出している若者たちをみろ。奴らは人よりいい大学に入ろうと受験勉強に青春を浪費している。それは人よりいい会社に入って出世するためなのだ。そんな物が人生の真実か。 大学を卒業するまでには、人より少しでも多くのエサを取ることしか考えぬ利己的で強欲で卑劣な豚に出来上がっているというわけだ。そんな連中に希望をかけられるか。 人格的に優れた人間が豚共に秩序を与えてやり、間違いを犯さぬよう指導してやるのだ。 豚共に汚された社会を建て直し、高貴な人間性を回復した理想社会に作り上げるためにはそれしかない。」 それに対して流全次郎が反論する。 「神竜、お前は人間に絶望している。 そんな人間に社会を語る資格はない。 人が子を産み、子に期待をかけるのは人間は無限に素晴らしいものになることが出来るという希望があるからだ。お前のやり方はその希望を否定し、人間を鎖でつなぐことだ。希望を実現するのは難しい。しかし、その希望を否定するものとは徹底的に戦う。その強い意志こそが歴史を動かしてきたんだ。 神竜、人間に絶望することは自分自身に絶望することなんだぞ。自分に絶望しながらよく生きてこられたな。」 この神竜が人間について言っていることは現実だ。人類はこの世に発生して以来、神竜の言うような生き方をして来たのだ。 それを、神竜は力尽くで支配して、理想的な社会に変えようという。 一方流が人間について言うことはきれい事だ。 こうあって欲しいと思う理想的な人間の姿だ。 流は、人間の社会をこのようなこうあって欲しい理想的な姿に変えたいと言う。 神竜も流も自分の考える理想の社会の姿がある。 しかし、それが、互いに全く相容れない理想なのだ。 ここで二人は決裂して命をかけた闘いに突入する。 流全次郎と神竜剛次の共通の敵、影の総理の考え方は流全次郎とも神竜剛次とも違う。 神竜剛次は影の総理に言う、 「私は自分の力をあなたを倒すために使う気はありません。一般大衆の豚共に秩序を与え、このドブ泥のように汚されて、乱れ果てた社会を理想社会に作り替えるために使うつもりなのです。」 それに対して、影の総理は言う、 「剛次、それだ。それがいかんのだ。理想などと言う物が一番いかん。 大衆は豚のままで良い。ドブ泥の様な社会に、放し飼いにして置いて、エサに釣られてどんななことでもこちらの言うことをきくようにしておくことが、権力を保つコツなのだ。」 流全次郎も神竜剛次も方向こそ違え、理想社会を作ろうと言う意気に燃えている。 しかし、影の総理は、理想などと言う物が一番いけない、と言う。 豚はドブ泥のような社会に放し飼いにしておくのだ。 この影の総理の考えこそ、 安倍晋三首相を表に出した日本の支配層の本音だろう。 形こそ違え、理想社会を作ることを目指している、流全次郎と神竜剛次にとって、影の総理こそは倒さなければならない共通の敵だ。 最後の二人の死闘で、流全次郎が勝つのだが、それは、神竜剛次が勝ちを譲ったとしか思えない。 神竜剛次は流全次郎に言う。 「おれとおまえは、同じカードの裏表だったのかも知れぬ・・・・。 おまえは光を見つめ、おれは闇を見続けた・・・・・ 闇は人間に対する絶望であり、光は人間に対する希望だ・・・ どこまでも人間に対する希望を失わぬ、おまえのその強さが、おれを圧倒したのかも知れぬ。」 神竜剛次は最後に、流全次郎に、自分の母親が自殺するのに使った短刀を渡して言う。 「これは、おれの母親が自裁するときに使った短刀だ。 だから、それは影の総理を刺すための短刀なのだ。 流、それをおまえにやろう。 その意味は分かるな。」 そこで二人は見つめ合う。 ややあって、流全次郎は短刀を受取って言う。 「分かった!これはおれが貰おう。」 短刀を受取ることは、神竜剛次の言ったように、その短刀で影の総理を刺すことを承諾したことになる。 それで、流全次郎の仲間たちは驚いて、 「あっ、兄貴・・・」 「そ、それは・・・」 と言う。 流全次郎は仲間たちの驚きをみても、短刀を受取る。 流たちが立ち去った後、流に倒された神竜は学校の校庭に大の字になって倒れて息を引き取る。そのとき、天は曇り、雷が鳴る。 落雷の中で、神竜は息を引き取る。 ここは「男組」の中でも、一番と言って良い場面だ。 流全次郎は神竜剛次を倒した後で、考える。 「神竜、おまえの見続けた闇はどんなに深かったことか・・・・ 人間の本質については神竜の方が正しいのかも知れぬ。 だが、おれは、絶望よりも希望を選んだのだ。 生きる力のある限りは希望を持ち続けようと心に決めた。 しかし、神竜は最後の土壇場でおれに勝ちを譲ることによって、希望に賭けようとしたのではなかったか・・・ 神竜は人間の醜さ故に汚れ果てたこの社会を、建て直そうと真剣に考えていたのだ。 であれば、もっと早く別の出会い方をしていれば、二人で協力して、この社会を支配している巨大な腐敗した権力を倒すことが出来たのではなかったか・・・・」 ここで、流は実際に起こったことを考え直す。 「だが、おれと神竜は戦い合う以外に違い相手を理解し合う道はなかったのだ。」 そして、流全次郎は決心する。 「いずれにせよ、神竜の分もおれば戦わねばならぬ。」 実に不思議な話だが、もともと「男組」は一つの学園内の暴力問題として始まった。それが、話が進むにつれて、いつの間にか、社会全体を対象にした話になってしまっている。 このような、荒唐無稽な筋立ては、漫画でなければ許されないものである。 普通に語ったのでは「臭くてたまらぬ」という生な言葉を使っても漫画だと受け入れられてしまうのだ。 最後に、流は神竜との共通の敵「影の総理」を倒すために神竜に貰った担当を持って、「影の総理」が催す園遊会に乗込む。 結局物語は、テロリズムに帰結する。 テロというと、最近はイスラム過激派の無差別テロのことになってしまっている。 しかし、政治的テロというのは遙か昔から存在する。 問題はテロを道義的に許せるのかどうかということだ。 これについては、「男組の時代」で私が横山茂彦氏とのインタビューで語っているところを、同書から引用する。 横山「『男組』はけっきょく、暴力に。テロリズムに向かいます。 雁屋「そこで、テロリズムを容認するのか否定すべきなのか、と言う問題に逢着するわけです。 じつは、ぼくのペンネームは、最初は「雁屋F(カリヤーエフ)」だったんです。 ロシア革命前夜に活動した、ロシア社会革命党のテロリスト、 カリヤーエフから取ったものなんです。 横山「はぁ、そうだったんですか」 (註)カリヤーエフはロシアのロマノフ王朝の一族、セルゲイ大公を殺害する任務を背負って、セルゲイ大公の馬車に爆弾を投じようとしたが、大公の馬車の中に小さな子供たちが乗っているのに気がついて、爆弾を投げることができない。 アジトに戻って仲間たちに、カリヤーエフは「僕の行動は正しかったと思う。子供を殺すことはできない」という。 この暗殺計画は立てるのは難しい。大公の行動をきちんと摑まなければならないし、それは大変に危険を伴う作業である。しかし、仲間たちはカリヤーエフを責めない。再び、セルゲイ大公の暗殺計画を半年かけて練り直し、今度も爆弾を投げる役をカリヤーエフに任せる。 そして、二度目には、カリヤーエフは大公を爆弾で殺すことに成功する。 サヴィンコフの「テロリスト群像」にその話は書かれている。 私は、この心優しいテロリスト、カリヤーエフが好きだったので、筆名を「雁屋F(カリヤエフ)」とした。 しかし、私が人間がすべての器官から排出する固体・液体・気体について書いた「スカトロピア(スカトロジーとユートピアの合成語)」を出版したら、あちこちで取り上げられたのだが、ある新聞が私の筆名にFというローマ字が入っているのをおかしいと思ったのか、Fの上の横棒を左に伸ばした。すると、Fが下という字になる。雁屋下だ。(かりやしも)とでも読ませようというのか。 これは、あまりにその本の内容に合いすぎている。 で、次からものを書くときには、本名の一字を取って、雁屋哲、としたのだ。 雁屋「テロリズムの可否については、結論を得られません。最後にテロリズムとするべきかどうかは、じつはずいぶんと悩んだんです。 司馬遷が「史記」の刺客列伝に、殺さなければならない相手には必ず失敗し、殺してはいけない相手は必ず殺してしまう。という皮肉を書いているんですが、そう言う意味では流は失敗するはずなんです。 そこでテロにするべきかどうかずいぶん悩みました。悩んだ末に、相手は影の総理という個人ではなく、権力という得体の知れない集合体なんだ、それを倒すためには、テロリズムでいいだろうと言う結論に至ったんです。 (最後、流が突っ込んでいく場面では、影の総理の顔は黒塗りになっている。流が倒そうとしているのは、影の総理個人ではなく、集合体としての権力であることをしめすためだ) 影の総理を倒しに行く前に、流は仲間たちに、暴力を肯定する意見を述べる。 「日本では、今や正義も理性も闇に閉ざされ眠っている。自分たちの政府の高官の汚職を自分たちの手であばく勇気も無く、ひとにぎりのボスが悪徳政治家と結びついて政財界を裏から支配しているのに、だれも摘発する者がいない。 誰も真実をあばく勇気がない。社会全体が悪い方向に傾いていっているのに、誰も立ち上がる者がいない。 正義と理性を目覚めさせることができるものはただ一つ。暴力だ。 暴力一般を否定するのは偽善だ。巨大な悪が権力を振るって正義を踏みにじり、社会を腐敗させ我々を堕落と破滅に追いやろうとしているのに、その巨大な悪を倒すための暴力まで否定するのは人間に対する裏切りだ。」 流の言や良し。 しかし、今の社会では暴力についてこんなに簡単に話せるものではなくなっている。 「男組」を書いて40年経つ間に、色々なことが起こった。 40年前と今とでは、状況が違う。 40年前には通用した単純な暴力肯定論は、今は通用しない。 ただ、流の暴力論は基本的に正しいと言っておこう。 暴力について論じ始めると長くなるので、今回はやめておく。 と言うわけで、最後は流が銃に守られた影の総理に突っ込んでいくところで、「男組」は終わる。 流が仲間たちに別れを告げて影の総理を倒すために出発する場面では、司馬遷の史記、刺客列伝の内、秦の始皇帝を倒しに行って失敗する刺客・荊軻(けいか)が出立するときに歌った詩を流した。 「風は蕭蕭として易水寒し。壮士ひとたび去ってまた帰らず」 そして、流が影の総理めがけて突っ込む場面では、ワルシャワ労働歌を流した。 「暴虐の雲、光を覆い、敵の嵐は荒れ狂う、ひるまず進め我らが友よ、敵の鉄鎖を打ち砕け、 自由の火柱輝かしく頭上高く燃え立ちぬ、今や最後の闘いに勝利の旗はひらめかん。 立てはらからよ、行け戦いに、聖なる血にまみれよ、砦の上に我らが世界築き固めよ勇ましく」 ちょっとやりすぎだったかな。しかし、「男組」全編つうじて、けたたましく荒唐無稽なので、ここまでやらないと収まりがつかないところがあった。 流が影の総理に向かって突っ込んでいくのと並行して、流の仲間たちが、更に仲間を集め新たなる闘いに向かう姿が描かれる。 その姿を背景にして、「男組」のメッセージが書かれる。 「戦うことを忘れた若者たちに、怠惰との無気力の中に流されている若者たちに、流全次郎の熱い血潮を伝えるのだ。 今こそ流全次郎の後を次いで立ち上がるときだと告げるのだ!」 これこそが、私が「男組」で当時の若者たちに伝えたかったことなのだ。 そして、現在2019年、正義というものがほぼ死に絶えたこのドブ泥のような日本の社会でものを言う気力も失い、力のある者の言いなりになって、その日を暮らしている若者たちに「男組」のメッセージを伝えたいのだ。 不正に対しては戦え。自分の生存を脅かされたら戦え。自由を脅かされたら戦え。自分の誇りを傷つけるものに対しては戦え。権力に隷従するな。 それが、「男組」のメッセージだった。 そして、それこそが私が東大闘争と組合運動を通じて自分自身に叩き込んだ考えなのだ。 「男組」は、小学館のホームページから読むことができます。 ◎小学館 eコミックストアの男組のページ、 https://csbs.shogakukan.co.jp/book?book_group_id=6746 ◎小学館、「サンデーうぇぷり」 https://www.sunday-webry.com ◎横山茂彦著 「男組の時代 番長たちが元気だった季節」 名月堂書店刊、 定価1500円 は、このブログを読んだ、と書いて注文して頂ければ、2割引1300円、送料名月堂負担で、購入できます。 住所氏名、届け先の住所も明記の上、 sekaisyoin@yahoo.co.jp 宛てにお送り下さい。 本に振込用紙を同封しますので、それを使って代金を振込んで下さい、とのことです。
- 2019/09/20 - 男組と私-1私が漫画の原作者として認められたのは、1974年、少年サンデーでの連載「男組」によってだ。 「男組」が世に出たのは、2019年現在からすると、45年も前のことになる。 その時に15歳だった読者は、今は60歳になっている。 およそ半世紀近い昔の作品だ。 平成生まれの人達にとっては、 「へえー、大昔に、そんな漫画があったのかい。何だ、そりゃ」 ってなもんだろう。 ところが、今、その「男組」を取り上げて本を書いてくださった方がいる。 横山茂彦さんといって、雑誌「状況」の編集長、などいくつかの雑誌に関わり、複数の筆名で、小説の他に、「日本史の新常識」(文春新書)など様々な著書を持つジャーナリストであると同時に作家であり、時代、政治状況に敏感な方である。 横山茂彦氏が書いてくれた「男組」の本は、題名を 「男組の時代 番長たちが元気だった季節」 と言う。 名月堂書店刊 定価1500円。 なぜ、横山茂彦氏は、今頃「男組」についての本を書こうと思い立たれたのだろう。 私は今の日本の社会は、卑しい人間が力を握り、正義を踏みにじって心正しい人間を迫害し、大多数の人間はそれに抵抗する気力も無く、卑しい権力者にこびへつらい、卑しさが社会全体を覆っており、今の安泰を求めて結果的には破滅の道に進む、「自発的隷従」に人びとが身を任せている、ドブ泥のような社会だと思う。(自発的隷従については、私のブログ、「自発的隷従論」を参照のこと、http://kariyatetsu.com/blog/1665.php#) 横山茂彦氏が、「男組」について書こうと思ったのは、このドブ泥のような社会で生きていることにうんざりして、何か気分転換をしたかったからではないかと拝察する。 「男組」の設定はこうなっている。 都内に青雲学園という高校がある。 その青雲学園は、神竜剛次という生徒によって暴力的に支配されている。 神竜剛次は、日本政財界の有力者を父に持ち、自分自身政治的な支配欲をいだき、そのために神竜組という暴力組織を作り、その政治的活動をまず青雲学園から始めて、関東全域の高校の支配に進めようとしている。その先は、高校だけでなく、社会全般に自分の支配を広げて行こうと考えている。 それに対して、青雲学園の校長は、青雲学園を神竜組の支配から解放するために、父親殺しの罪名で少年刑務所に服役している流全次郎を呼び寄せる。 流全次郎は、手錠をかけたまま、青雲学園に生徒として登校してきて、神竜剛次と対決する。 いやはや、こうして書いただけで、あきれるほど突拍子もない設定である。 そんな設定の漫画が人気を博したのだから、あの時代は面白い時代だった。 「男組」で私が意図したところのものを記していきたい。 「男組」の発端は、青雲学園という高校だ。神竜剛次はその高校を暴力支配している。 神竜剛次は高校生である。最初から最後まで、「男組」の物語の中では、学生服を着ている。 日本の学生服は不思議な服装で、実際に見ると、実に不細工で汚らしい服装なのだが、こうして、漫画に描くと引き締まって見える。漫画の登場人物に着せる衣装としては優れたものなのである。 そこに、神竜剛次を押さえるために入って来る流全次郎は、少年刑務所に収容されているが、年齢は神竜剛次と同じ。やはり高校生である。少年刑務所内では、囚人服。外に出るときには学生服を着ている。 流全次郎の仲間たちも学生服を着ている。 これからすると、「男組」は「学園もの」という少年漫画の中の形式の一つである。 だが、「男組」は「学園もの」の枠をはみ出している。 しまいには、武器を持った公安部隊などが登場してきて、銃を流全次郎とその仲間に向けて発射するのだから異常だ。 最後には、流全次郎が日本の権力を象徴する影の総理を倒しに行く。 学園で起こった話が、現実の権力と対決するところまで行ってしまう。 こんな学園ものはないだろう。 だが、それは、私が次のように意図したからだ。 「自分たちを抑圧する権力と闘うことを主題にする。 学園内の暴力的支配者・ボス=権力。 学園内の権力と闘うことを、そのまま実社会で権力と闘うこと重ねる」 要するに、私の伝えたいメッセージは「闘え」と言うことだった。 学園内の闘いを、そのまま、社会での闘いにまで引き延ばすというようなことは、漫画だから出来ることなのだ。 「男組」を書き始めた1974年当時は、60年代末からの学園闘争の余波があり、三里塚の闘争もあり、「男組」を書いている間に、ロッキード事件も起こった。 学園闘争は、学校側が学生側に理不尽な処分をしたり、学生を抑圧したことに怒った学生たちが立ち上がったのが発端だ。 三里塚闘争は、国が勝手に決めた国際空港建設のために農地を奪われた農民たちが立ち上がったのが発端で、学園闘争で権力に対抗する意識を強く持つようになった学生たちも加わって成田空港建設に反対する闘いになった。 ロッキード事件は、今になっては、アメリカが仕組んだ田中角栄を追い落とすための陰謀という見方も強くなっているが、当時としては「総理大臣の犯罪」として捉えられ、政財界の腐敗をさらけ出したもので、社会の怒りを買った。 そのように権力側の圧制と、権力側の腐敗が目の前にある状況で、それに対して何も行動を起こさないのはおかしいと私は考えた。 私自身、大学を卒業してから勤めた電通という会社の労働運動で、共産党の支配する労働組合の執行部とは行動方針の違う協議会を仲間と組織して、かなりの数の社員の賛同を得た。 形としては、年末の賃上げ闘争だが、私達はそれを単なる賃上げ闘争ではなく、社員の意思を会社に認めさせるための闘争と捉えていた。 社員は会社に完全に従うのではなく、自分たちの処遇については自分たちの要求を会社の方針に反映させるようにしたい、と考えていた。 要するに私達は会社の言うなりになって、奴隷か家畜のように働かされるのはまっぴらだ、と言うことだ。 私達は全組合員を13階の大会議室に集めて、階段を1階まで下りて行きながらシュプレヒコールを繰返す階段デモ。 本社前を隊列を組んでシュプレヒコールを繰り返しながら、何度も周回する、本社周回デモ。 ストライキ中に、入り口を固めて、スト破りをする組合員を社内に入れないピケ張り。 本社一階玄関ホールに、要求を書いた紙札を下げた風船を沢山飛ばして天井を風船で覆う、風船デモ。 など、それまで執行部が考えたこともない戦術を実行した。 執行部と私達とは闘争方針が大きく違った。 執行部は、これから3回ストライキを打った後妥結する、と言う方針を打ち出した。 私達はあきれた。そんな方針を前もって打ち出してしまえば、会社としてはその3回のストライキが終了するのをただ待てば良いだけになる。 そんな馬鹿げた方針はない。ストライキを無期限に繰返すと宣言して会社に我々の要求を呑むように迫るのだ、と私達は主張した。 それに対して、執行部は、電通労組の勢力を温存することが大事だ、いま過激な闘争をしてつぶされたら困る。会社側の挑発に乗らないことが大事だ、と言う。 執行部は、電通労組を、広告会社数社の労働組合が集まって作った広告労協の重要な拠点と位置づけていて、執行部としては広告労協を維持するために電通労組はあるのだと考えていた。 要するに、執行部としては、早い話が共産党としては、広告労協という組織を維持することが大事なのであって、電通労組の組合員のことは二の次なのだ。 だから、あと3回ストをしたら妥結するなどと、馬鹿馬鹿しい方針を公言して会社側に足元を見られても構わない。闘争したという形がつけば良いのであって、厳しい方針をとって、会社側の反撃を食らって組織が弱体化したり、最悪の場合組合が潰れたらこまる。組織温存が第一だというのだ。 闘うことのない組織を温存してそれが一体何のために役に立つのだろう。 私は電通労組の執行部の委員に尋ねた。 「君たち共産党は、革命のために闘う党なんじゃないのか」 「勿論闘う」 「いつ闘うんだ」 「状況をよく読んで、こちらの力が充分に強くなったときに、闘う。それまで、時機を待つんだ。」 私は笑った。 「今こそ闘うときなのに、もっと状況が良くなったら、自分たちの力がもっと強くなったら闘う、なんて言うのは、今闘わないことの言い訳でしかない。今闘わない人間は、これから先も絶対に闘わない」 「君は冒険主義だよ」 「冒険しないで、勝つ闘いってあるのかね」 そして、組合員大会が開かれて、行動方針を決めるための投票がおこなわれた。 会社側に立つ社員は、則妥結。 執行部は三回ストをやって妥結。 そして私達は目標獲得まで無期限に闘争を続ける。 どの立場を取るか。 最初の投票では、私達の案が最多数を獲得したが、過半数に至らなかったので再投票となった。 再投票では、執行部が会社側に立つ社員と組んで、過半数を獲得し、闘争妥結が宣言された。 共産党が右翼と結託したのだ。 今闘うことを望まない社員たちに私達は敗北したのだ。 一つの会社内の労働組合運動と、社会的な政治的運動とは違うという見方がある。 しかし、会社組織というのは社会の組織そのままであり、会社が労働者に加えて来る圧力は、この社会の権力が人びとに与えてくる圧力の最先端であって、会社経営者が労働者に対して加えてくる圧力こそ、暴力的支配の生の形なのだ。 生きるための絶対条件である給料の増減、社員の都合も考えない勤務場所の移動(転勤など)、生きる場所を奪う解雇。このような事柄では、それに逆らう社員に対しては最終的には警察という、権力の持つ暴力装置が会社側に立つ。 労働組合運動も、つまるところは、この社会を支配する権力との対峙の場所なのだ。 電通では、かつての労働組合の委員長が北海道支社にとばされて、数年ぶりに本社に呼び戻されたが、その部署は労働部長だった。 労働組合を取り締まる部の部長だ。 私達は、かつての労働組合の委員長を、日経連からやってきた労務対策の専門家と一緒にして、現在の組合員に対峙する労働部長にすえる、という会社側の残酷な仕打ちに心が凍る思いがした。 これこそ、暴力ではないか。 あるとき、安酒場で酒を飲んでいたら、そこに労働部長が来た。 何か打ちひしがれたという表情で呆然として酒を飲んでいる。目はうつろで魂を抜かれた人間の表情だ。 これほど哀れな人間の姿を私は見たことがない。 私は労働部長の横に立った。私は社内の要注意人物になっていたから、当然労働部長は私のことを知っている。 私は、労働部長に対して「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」と言った。 (この・・・・・・の部分は、あまりにひどい内容なので、自己検閲する) 隋分ひどいことを言った物だと思うが、私はその惨めに打ちひしがれた労働部長を見て胸が潰れるような思いがして、こうでも言わずにおられなかったのだ。 ここまで人間としての誇りを失った人間の姿を見たことがなかったし、かくも冷酷残虐なことをした会社に対する怒りが私の中で燃え上がって、自分を抑えきれなくなって、会社に対してでなく、労働部長にひどいことを言ってしまったのだ。 それに対して、労働部長は何一つ反論せず、うなだれてしまった。 権力という物は、1人の人間の誇りを奪い、生きているのが苦しいような状況に平然として追い込むのだ。 労働組合運動は、決して、この世の実態からかけ離れたお遊びではない。 労働組合で闘争と言ったら、この世での自分の人生を賭けた厳しいものなのだ。 私が体験した東大闘争も同じことだった。 闘争を続けようという全共闘に対して、日共の学生組織民主青年同盟・民青と学校側に立つノンポリ学生たちが野合して、票数で全共闘を圧してスト解除宣言をした。 東大闘争は、医学部から始まった。その医学部の闘争の中で、春日医局長との揉め事で、医学部は17人に学生を処分したが、その処分された学生の中の粒良君は春日局長事件の時は九州の大学に他の件で出掛けていてその場にいなかった。 学生たちの抗議を受けて、医学部が粒良君の処分を取り消すと発表したが、その内容は事実認定の誤りを認める物ではなく、粒良君のアリバイについても不明としながら、教育的見地から処分を取り消す、と言う物で、要するに粒良君の言うことは正しくないが教授会がお情けで処分を取り消してやると言っていたのだ。 私はこのいきさつを知って、吐き気がするほど激しい怒りを感じた。 医学部教授会という権力が、粒良君という学生を自分のいいように取り扱っている。 自分たちの過誤を認めず、「本当は悪いことをしたんだが、特別に今回は教育的見地から許してやる」と言ったのだ。 医学部教授会は、自分たちの過ちを認めず、えらそうに、上から見下ろして、今回は特別に許してやる、といったのだ。 この医学部教授会の行為は、自分たちを守るために粒良君の人間としての誇りを傷つけ人格をないがしろにするものだ。 これこそ、権力による暴力的な支配そのものではないか。 私はそれまでに社会思想的な、政治的な本など色々読んでおり、権力というものについては考えていたが、私の考えていた権力とは、帝政ロシア、王政のフランス、などで人民を圧制していた権力で、もっと巨大なもので、身近にあるものではない。 しかし、大学の中でも、大学当局という権力が、学生を自分たちの思うように支配しようとしているのを目の当たりにした。権力は身近なところで力を振るっていたのだ。 学校当局はそのまま国家に繋がる。 学校当局が学内で振るう権力は国家の権力に繋がる。 学内で学校当局によって行われる学生に対する圧制は国家の権力が生に露出したものだった。 それが証拠に、結局大学当局は全共闘をつぶすために、機動隊を学内に入れた。 警察・機動隊こそ、権力の持つ暴力装置の一つだ。 私は全共闘の無期限ストで闘うという方針に賛成した。 学校側に立つノンポリ学生と日共・民青はそれに反対してスト解除、闘争終結方針を立てた。 日共・民青は、今は闘うときではない、挑発に乗って闘って革命勢力を弱めてはならない。権力に対抗する力がつくまで、闘うのを待つのだ、と言った。 電通労組の執行部と、同じ考えだった。 私は二度にわたって、闘わない勢力によって敗北を味わった。 その欲求不満と怒りが、私の心の中にマグマのようにたまっていたのだ。 (その2につづく)
- 2019/09/15 - 小泉進次郎の謎 小泉進次郎氏が、安倍内閣の環境相大臣として入閣した。 自民党の政治家として、入閣するのがまず第一とされているから、小泉進次郎の前途は洋々たるものあるのだろう。 大変におめでたいことだ。 私の家のある横須賀市秋谷は進次郎氏の選挙区である。 進次郎氏の父親で元総理大臣の純一郎氏以前に小泉又次郎氏から、横須賀市では大変に力のある政治家だった。 又次郎氏は入れ墨があったことからいれずみ大臣などと異名を取ったそうだ。 私の家の地区では、純一郎氏も大変に人気があったが、進次郎氏の人気はもはやテレでに出てくる芸能人を越えている。 進次郎氏が登場するとなると、演説会であろうとなんであろうと、おばさんたちが大騒ぎして集まる。 目を輝かし、うっとりした表情のおばさんたちが進次郎氏に声援を送る。 この選挙区では進次郎氏は盤石である。 その進次郎氏に話が行くと、私の妻がきまって首をかしげる。 進次郎氏の誕生日は、1981年4月14日と公表されている。 妻がなぜ首をかしげるかというと、その誕生日の日付が納得いかないというのである。 「4月のはずはないのにねえ」 と妻は言う。 私の妻は1981年3月8日に、横須賀上町にあった国立病院で次女を産んだ。 今は、その病院は国立病院ではなく、名前も変わっている。 妻はその時に、看護婦たちから、「小泉純一郎さんの奥さんも、お産で入院している」と聞かされた。小泉家は横須賀では大変に人気がある。 「あの小泉さんの奥さんと一緒の時期に、一緒の病院に入院してお産をするなんて光栄です」 と言うわけだ。 私達の次女は3月8日生まれだ。1日や2日のずれがあったとしても、その時に横須賀国立病院で生まれた純一郎氏の子供の誕生日が4月14日のはずがない。 純一郎氏の奥さんは何人かいて、私の妻と同時期に子供を産んだ女性と4月14日に進次郎氏を生んだ女性がいるというなら、理解しやすい。 となると、今度は、私の妻と同時期に生まれた子供はどうなったのか、その子供を産んだ女性はどうなったのか、それが大変に気になる。 もう一つ考えられるのは、実際に3月8日近辺で生まれた進次郎氏の出生届は1月遅らせたということだが、そんなことができるものなのだろうか。 進次郎氏が代議士として登場して以来、その謎が妻を悩ませ続けている。
- 2019/09/06 - 最近読んだもの最近読んだもの。 ①「この男イヤだ」 石坂啓 週刊金曜日 2019年8月30日号 石坂啓さんが週刊金曜日の編集委員を辞めて、それまで連載していたエッセイも中止になったので、私は大変に不満を抱いている。 石坂啓さんのエッセイは、手打ちのきしめんを、釜揚げにしてちょっと辛めのつゆで食べるような感じがして、毎回楽しみにして読んでいた。 それが、突然終わったので、私は大変に不満なのだ。 それが、8月30日号から、新連載が始まった。 続き読み物、「この男イヤだ」、第一回目が「トオル」となっている。 今回はトオルだが、次々に、イヤな男を描いていくのだろう。 この第1回の主人公の女性の名前はB。トオルは、Bのこれまでの愛人で、二人は同棲している。 今日勤めに出る前に、トオルはBに別れ話を持ち出す。 まず、この言語感覚が普通じゃない。 トオルは普通の人名だが、Bはそうではない。 Bとは、記号、符丁であり、名前や素性を隠すためだ。 普通なら、主人公の名前は通常の人名を使うところだ。 主人公の名前が符丁とは、まるでカフカみたいだ。 週刊金曜日の見開き2ページの作品だから、込み入った筋はない。 Bはトオルの持ち出した別れ話を簡単に承諾する。 トオルが勤めに出た後、Bは自分とトオルについて色々と考える。 自分は、トオルに好かれるように化粧も、服装も、セックスも色々と尽くしてきた。Bはトオルは「どうして私をいらなくなったのだろう」と考える。 「自動掃除機がBの足元に触れてクルンと向きを変えた。これくらいのことなのだきっと。嫌いになったわけじゃないということは。卑怯なんかじゃない。そんな言い方しかできなかったのだ。離れるための理由が『他の女を好きになった』じゃ私が傷つくと思って、そんな言い方をいたのだ。わかってるよトオル、あなたのやさしさは。だから私も、あなたにやさしいままの気持ちでお別れしたい。私のことはもう心配しなくてだいじょうぶ。」 とBは考える。 そして、夜、帰ってきたトオルと食事をする。 「『いい匂いだな』。焼いた肉を皿に盛り付けるとトオルは笑顔をのぞかせた。部屋着に着がえるときに彼のくつ下が片方裏返しになっていることにBは気づいたが、何も言わなかった。昼間どこかでくつ下を脱ぐ場面があったのだ。こういうときにタフじゃないと泣いたり黙り込んだりしてしまうのだろう。私はふだん通りにトオルにつくすことができる。最後まで。 トオル、私も正直に言うわね。」 そして、Bはトオルに、トオルのセックスの仕方がダメだと、率直にこまかく言う。 ここまで、相手の女性に言われたら男として立ち直れないだろうと思うようなことを、細部にわたってBはトオルに言う。 それも、こうだ。 「Bは最大級にやさしい笑顔でトオルをまっすぐに見て言った。彼の好きな甘い声で」 と、これで物語は終わる。 見開き2ページの物語だが、これは、重くて厳しい。 私は恥ずかしながら、恋愛経験はないに等しい人間で、男女の間の機微については全くと言って良いほど分からないのだが、この掌編が切り取って突きつけて見せた人の心の寒気がするような感じはよく分かる。 これは、名作掌編だ。 私はこれを、漫画に書いてもらえないだろうかと思う。 ちょっと漫画にするには難しい場面もあるが、石坂啓さんの漫画であれば、また別の深いものを表現できると私は思う。 石坂啓さんの漫画が連載されれば、週刊金曜日の読者数は増えるだろう。 ②「日航123便 墜落の新事実」 青山透子 河出書房 ③「日航機墜落事故 真実と真相」 小田周二 文芸社 この二冊の本は、1985年8月12日に起きた、日航機123便墜落事故について書かれている。 この日航機123便の事故は、日本中を揺るがす大事故だった。 当時の公式発表によれば、 事故の原因は後部圧力隔壁に亀裂が生じ、それが引き金になって隔壁に穴が開き、機内の与圧された空気が一気に流れる「急減圧」が発生。それにより垂直尾翼が破壊されて操縦不能となり、墜落したとされた。 この機体はその7年前に尻もち事故を起こし、圧力隔壁が破損しそれをボーイング社が修理をした。その修理が不十分だったので、飛行中に圧力隔壁に亀裂が生じたというのだ。 私は最近に至るまで、その政府の公式発表を信じていた。 この事故に関して色々な本が出版されているが、どうもいわゆる陰謀説であって信じるに足るものではないと思っていた。 大きな事件の後には、様々な陰謀説を唱える人が現れるものである。 しかし、上記、青山透子氏と小田周二氏の著書を読むと、これは、人の気を惹くためにデッチ上げた陰謀説ではないと思った。 青山透子氏は、かつて日航の機上乗務員がステュワーデスと呼ばれていた時代に、ステュワーデスだった人。 日航機123便の事故で、生き残った4人の中の一人、落合由美さんの後輩だった。 青山透子氏は123便の中で、乗客たちを励ましながら働いていた自分の先輩たちのこともあり、当時の新聞報道や資料を読み込む内に湧き出てきた疑問を追求するようになった。 青山透子氏は、これまで取り上げられることのなかった、群馬県上野村村立小学校と、村立中学校の生徒たちの目撃証言を事故直後にまとめられた文集から集めて分析している。 群馬県上野村は事故機が墜落した御巣鷹山がある村である。 その小学校、中学校の生徒たちの目撃証言は政府の公式発表を覆す内容だ。 その他にも、青山透子氏はいくつかの重要な事実を摑んでそれを元に説を展開している。 青山透子氏の説は、事実を元にしているので、信頼できる。 小田周二氏は、事故の遺族である。 この事故で、次男15歳、長女12歳と親族三名を失っている。 この事故について、航空機事故調査委員会の発表した「航空事故調査報告書」は「矛盾」と「疑惑」に包まれていて、遺族だけでなく、国民からも非難と顰蹙の対象となっている。しかし、国はそうした遺族や有識者の反論に真摯に対応せず事故から、30年も無視し続け、説明すら行わず、その責任義務を果たしていないと氏は考えている。 小田氏たち遺族は事故の発生当時から、自衛隊の「墜落場所の確定引き延ばし行為」や「救出活動の遅延行為」に対して不愉快な疑惑と疑念を感じていた。 そこに、「航空機事故調査報告書」が発表された1987年から8年後の1995年に米軍アントヌッチ中尉の告白証言によって、日航機123便の乗客524名は何らかの重大な事件に巻き込まれたことを小田氏たち遺族は確信した。 小田氏はこのままでは、自衛隊・政府が望むような事故風化が進むと考えて事故原因の真実と真相の解明、究明に立ち上がったのだ。 小田周二氏の論の展開は、事実を元にして論理の道筋が通っている。 いい加減な、陰謀説ではない。 青山透子氏と小田周二氏の著作を読んで、私は二人の論の展開は事実を元にした理性的で論理的なもので、信頼できると判断した。 青山透子氏と小田周二氏は別個に調査・原因救命活動を続けたが、両者の結論は重なる。 両方を合わせてみる。 1)事故原因は、事故調査委員会の報告書にあるような、後部隔壁の破損ではない。 自衛隊のミサイル標的機が事故機に衝突して事故機の尾翼を破壊したのが第一因である。 それでも、機長の並外れた操縦技術で、墜落せずに、横田基地に着陸できるところを、自衛隊がそれを阻止した。 自衛隊は自分たちの秘密のミサイル実験がばれることを恐れたのだ。 自衛隊が、自分たちのミサイル実験を隠したいという思惑が、それ以後、123便の乗客全てを犠牲にするという悪辣な政府・自衛隊の動きを決めた。 2)機長は、横田基地がダメなら川上村のレタス畑に不時着しようとしたが、途中で自衛隊機にミサイル攻撃を受け大きな損害をこうむった。機体は真っ逆さまに墜落しかけたが、機長の操縦技術で、山の斜面に並行する向きに不時着することができた。 その機長の操縦技術のおかげで、不時着当時には100名ほどの生存者がいた。 3)墜落したのは、18時56分である。 しかし、政府・自衛隊は墜落地点は分からないと言い続けた。 ようやく、翌朝、4時55分に、自衛隊・政府が墜落場所を特定する。 09時30分、地元消防団、陸上自衛隊松本連隊が現場に到着。 09時54分、習志野空挺団が現場に降下。 10時54分、落合由美子さんを発見。 11時03分、吉崎博子さん、美紀子さんを発見。 11時05分、川上慶子さんを発見。 13時29分、生存者4人のヘリコプター収容開始。 なんと、事故発生から、20時間も経ってのことだ。 4)政府の発表とは反対に、墜落時点で政府と自衛隊は墜落地点をハッキリ把握していた。 その証拠は、上野村村立小学校と中学校の生徒たちの証言以外にもある。 さらに強力な証拠は、米軍アントヌッチ中尉の告白証言である。 事故から10年後の1995年8月20日、事故当時、米軍横田基地の輸送機に乗務していた航空機関士マイケル・アントヌッチ中尉が、「サクラメント・ビー」紙に発表した証言は、8月27日付の「Stars and Stripes」誌に転載された。 その証言の内容は、驚くべきものだ。 「米軍は日航機が墜落した20分後、19時15分に墜落場所に到着し、海兵隊のヘリコプターを呼び寄せ、21時5分、救出するために兵士2人をホイスト(ヘリコプターから、人を下ろしたり挙げたりするための装置)で降ろす作業中、日本側から、『救出は日本側が行う』と米軍に中止要請をしてきたので、撤退した。しかし、日本側の救出作戦は行われなかった。さらに、横田基地に戻ったアントヌッチ中尉ら隊員は基地司令官から、『口外するな』と箝口令を言い渡された」 5)政府は、04時55分に、墜落場所を特定したと発表するが、それ以前に、自衛隊特殊部隊が墜落地点に乗込んで、全ての証拠隠滅作戦を展開していた。 ミサイルに関する証拠物件を全て集めたのだ。 更に恐ろしいことだが、自衛隊・政府としては乗客は全員死亡でなけれはならないので、そのような措置をした。 飛行機の燃料によるものよりはるかに、度の過ぎた焼け方で、炭化した遺体が幾つもあった。 遺体は飛行機の燃料によって焼けたとされているが、ジェット燃料は石油ストーブに使う軽油と同等であって、これほどの、燃焼力はない。 さらに、ジェット燃料が入っているのは左右の主翼だが、炭化するまでに焼けた遺体の多数はその主翼から離れたところにある。 現地に入った、消防隊員らの証言によれば、現地ではガソリンとタールの匂いがしたという。 ジェット機には、ガソリンもタールも積んでいない。 考えられるのは、ガソリンとタールを使う「火炎放射器」という武器である。 ガソリンとタールを混ぜると、タールは皮膚にくっつき、そこでガソリンが燃焼するから、浴びせかけられた人間は骨の芯まで炭化するほどに焼ける。 墜落現場で発見された遺体のかなりの部分は、さわるとボロボロに崩れるほど炭化していた。 以上が、青山透子氏、小田周二氏の結果を合わせたものである。 この説が正しいかどうか、きちんと検討するためには、政府が隠して出さない資料が必要だ。 第二次大戦中の日本軍の行動についても、日本国にとってまずいところは、資料が隠匿されているから、ハッキリしない。 昔も今も、日本の指導者たちは実にいやらしい連中だ。 この件に関して、森永卓郎氏が興味深いことを言っている。 氏のブログから引用する、 「しかし事件から30年以上経過したのだから、政府は国民に真相を明かすべきだ。それは、森友学園や加計学園よりも、はるかに重要な問題だと私は思う。なぜなら、この事件あと、日本は以前にもまして対米全面服従になったからだ。事故の翌月には、ニューヨークのプラザホテルで「プラザ合意」が結ばれ、協調介入によって曲単位な円高がもたらされ、日本は円高不況に突入した。日本の安定成長が失われた大きなきっかけとなったのだ。それだけではない。1993年には宮沢総理とクリントン大統領の間で年次改革要望書の枠組みが決められ、、それ以降、日本の経済政策はすべてアメリカの思惑通りに行われるようになった。事故の原因を作ったとされるボーイング社は、もしこれが事件だとすると、罪をかぶった形になったのだが、そのご、着々と日本でのシェを高め、いまや中型機以上では、ほぼ独占状態といってもよい状況を作り上げている」 「森友学園や加計学園よりもはるかに重要な問題」であるなら、余計に政府は真相を明らかにするわけがないと私は思うが、日本政府のアメリカに対する過度の服従は、このようにまずいことを幾つも握られているからだと思わせる。 日航機の事件は、1985年、34年も前のことだ。 今になって、真相を究明するのは大変だろうが、やはり、このまま放っておいてよい問題ではあるまい。 福島第一原発の問題も、「復興」という美名ですべてをくるんでごまかし、真相を知ろうとすると「風評被害を起こす」と非難して、なにもかも無かったことにして行こうとしているのがこの国の最高指導者たちと、それにへつらい従う中間指導者たちと、御用学者たちと太鼓持ちマスコミ人種たちだ。 日航機の問題をきちんと問いただすことは、福島の問題もこのままうやむやにしていこうとしている勢力に対する反撃の一つとなるはずだ。 ④「深夜食堂」安倍夜郎 1〜9 小学館 私は漫画原作者のくせに、ここ30年ほど、余り漫画を読んでいない。 それは、30年以前にシドニーに引っ越したことが大きい。 シドニーでは、なかなか日本の漫画に接する機会がない。 日本に帰ってきたときに、いろいろとまとめて読むのだが、何しろ、こっちは自分の漫画を書くのに忙しくて、他人様の漫画まで手が回らなかったというのが実状だ。 この「深夜食堂」も、その評判は聞いていたが、これまで、なかなか読む機会がなかった。 前回シドニーに移動する日航機の機内テレビで、「深夜食堂」のテレビドラマ版を見た。 主役は小林薫、渋い役者である。 話は、第25夜の「ソース焼きそば」だった。 風見倫子という、元アイドルで、いまはテレビや映画に出ている女優を主体にした話しだ。 この「深夜食堂」というのが不思議な設定で、新宿にあって、夜の12時から翌朝7時まで開く食堂で、壁に書かれたメニューは、 「豚汁定食、ビール、酒、焼酎、 酒類はお一人様3本(3杯)まで」 のたった4種類だが、後は勝手に注文してくれればできるもんなら作る、というのが、この店のマスターの方針である。 場所は新宿、しかもこんな夜更けにものを食べようという人間は私のように平々凡々と生きてきた人間からすると、大分“濃い”人達だ。 このソース焼きそばの話しはこうなっている。 「深夜食堂」に時々来る女性が、女優の風見倫子であることを、風見倫子がアイドルの時からのファンである二人の男が気づく。 風見倫子は店に来ると、「ソース焼きそば目玉焼のせ」を注文する。 「好きなんだね」というマスターに、「子供の頃、よくたべてたから・・・」と風見倫子は答える。 ある日、マスターは「金はたいしたことないけど、免許証とかカードとか入っている」財布を落とす。 翌朝、閉店時間になって、閉店支度をしているマスターに、路上生活者とおぼしき男が「昨夜拾ったんだけど、店やってるとき、オレが入っちゃまずいと思って」といって、マスターの財布を差し出す。 マスターがお礼のお金を渡そうとすると、男は固持する。 そこで、まスターは言う。 「じゃあこうしよう、朝飯まだだろう、うちで食ってってくれよ」 男は、マスターの豚汁を食べる。 ちょうどその時、店内のテレビで、風見倫子が新しい映画について抱負を語るニュースを流す。 マスターが、「店にもたまに来るんだ。昨夜も来てたよ。」「でね、注文するのはいつも決まってんだ」「ソース焼きそばの目玉焼きのせさ」 路上生活者の男は遠くを見るような表情になる。 そして言う、「旦那、しってるかい? 焼きそばに四万十川の青のりかけると上手いんだよ。香りが、全然違うんだ」「今度あの娘がきたら、かけてやってよ」「四万十川の青のりだよ・・・。ごちそうさま」 次に風見倫子が来た時に、ソース焼きそばの目玉焼きのせに、マスターは青のりをかける。 一口食べて、風見倫子は驚く。 マスターは言う「どうだい? ある人が教えてくれたんだ。四万十川の青のり、かけるといいって」 次のコマは、子供の時の風見倫子がソース焼きそばを食べている場面である。 そこに、青のりを掛けいる人間の声だけが書かれる。声は、「ほら、倫子の好きな四万十川の青のりだ」 子供の時の風見倫子は言う「倫子、オトータンの焼きそば、大ちゅき」 最後のコマは風見倫子の顔が画がかれる。何かを突きつけられた人間の複雑な表情である。 その顔の横に、マスターのセリフが書かれる。 「そのひとも、あんたの大ファンだってさ」 これで終わるのだが、読者には、その路上生活者が、風見倫子の父親だと言うことが分かる。そして、風見倫子と、その父親との間になにか深い事情があるのだろうと察する。 テレビドラマでは、この路上生活者の父親と風見倫子の物語を漫画の数倍細かく描く。 この話一つを取っても、「深夜食堂」はコテコテの人情噺漫画だ。 私も、「美味しんぼ」は人情噺でいくと決めて始めた。 ただ、私の場合、絶対にハッピーエンドと決めていた。 しかし、「深夜食堂」は、ハッピーエンドどころか、悲しい結末の話しも少なくない。 また、新宿という場所の設定から、厳しい話しも多い。 成人向きの話しも多い。 「美味しんぼ」は家庭で読んで貰うことを願ったから、成人向きの話しは書かなかった。 それだけ、「深夜食堂」の方が深い。 私は人情噺が好きだ。 「深夜食堂」は、日航機の中で見たテレビドラマのおかげで、「これは、漫画を読まなければならぬ」という気持ちになって読み始めたら、とり憑かれて、一気にビッグ・コミックス・スペシャルの第9巻まで読んでしまい、現在22巻までを頼んで、届くのを待っている。 作者の安倍夜郎の画は、実に不思議な味わいがある。 人の表情を極めて繊細に描く。 私は、安倍夜郎の描く人物像に強く惹かれてしまう。 この、「深夜食堂」の世界も好きだ。 「深夜食堂」はいつの間にか、常連たちの集まる場所になってしまうが、こんな食堂があったら私も行って見たいものだと思う。 久しぶりに、よい漫画に出会って、私は幸せだ。 もっと早く知っていたらよかったのに、と思わないでもないが、これは私の得意文句、「Better late than never . 遅くても、全然ないより益し」で良しとしよう。 最後に一つ、このマスターの向かって右の顔にある傷は何なのだろう。 このマスターの過去は何なのだろう。 その傷が、なにか深い過去があるように思わせる。 9巻までに、マスターの過去は語られていない。 9巻以後に、語られるのだろうか。
- 2019/07/23 - 第2次半導体戦争1989年日本とアメリカが日本の輸出超過による貿易摩擦でもめていたときに、当時のソニーの会長、盛田昭夫と石原慎太郎の共著「『NO』と言える日本」という本が話題になってよく売れた。 その中で、石原慎太郎は、大略次のようなことを言った 「日本の半導体がなければ、アメリの産業は動かなくなる。アメリカが日本に難題をふっかけてきたら、半導体を売ってやらないと言えば良い」 私はそれを読んだときに、驚きあきれ果てた。 確かに、当時日本の半導体産業は栄えていて、世界中の市場を席巻していた。 しかし、その半導体なるものを発明して、半導体産業を作り出したのはアメリカである。 当然、半導体製造の基本特許の多くはアメリカが保持している。 日本がアメリカに半導体を売らない、などと言ったら、アメリカは半導体の基本特許を日本が使うことを許さない、と反撃してくるだろう。 大体、なぜ日本以外の国が半導体を作れないなどと思い込んでいたのだろう。 1991年に石原慎太郎は今度は江藤淳と組んで、「断固 「NO」と言える日本」という本を出した。 今度もまた、石原慎太郎は日本の半導体を特別な物として扱っている。 アメリカが湾岸戦争で勝利したのは、精密に誘導される兵器おかげだが、その誘導装置に使われているのか日本製の半導体である。 だから、半導体を売ってやらなければ、アメリカは戦争も出来ない、と言うのである。 この、無知蒙昧な思い上がりは、度しがたい。 それにしても、その時のアメリカに対する日本政府の屈従ぶりはひどかった。 アメリカは、日本に軍隊を出さない代わりに、金を出せと言って、130億ドル、当時の為替レートは、1ドル約百五十円、130億ドルは日本円にして、約二兆円である。 アメリカは1945年の占領以来、日本を属国として扱ってきていたから、二兆円くらい出させるのは当然だと思っていたのだろう。 今考えても、余りのことに、はらわたが煮えくりかえるような思いがするが、日本をずっと支配してきている自民党政府は、CIAのエージェントだった岸信介の時から、アメリカの下僕だったから、ご主人様の言うことはどんな無理難題でも聞かなければならない。 日本の自民党の総裁・日本の首相は代々アメリカのプードル、太鼓持ちを務めてきたわけだが、不思議なことに、日本の太鼓持ちは旦那からご祝儀というお金を頂戴してきた。しかし、日本の首相を太鼓持ちとして抱えているアメリカ政府は太鼓持ちから逆に金を取るのだ。 実に不思議な太鼓持ちだ。散々こちらから尽くしておいて、更に旦那に金を差し出す太鼓持ちと言うのは日本の常識では考えられないことなのだが、安倍晋三首相にいたって、金どころか、日本人の血までアメリカに差し出すように、2016年に有事法制を改正して、自衛隊が海外で戦う道を開いた。 自衛隊はアメリの戦略の中に組み込まれて、アメリカと一緒にアメリカと、或いはアメリカのために単独で、戦場で戦うことになるのだ。 その話は別にして、半導体に戻ろう。 現在、日本の半導体業界は韓国の後塵を拝することになって久しい。 アメリカに半導体を売ってやらないと、石原慎太郎が威張ってから20年後には、今度は韓国が日本に半導体を売ってやらないと言ったら日本は困ることになる。 日本は韓国に負けたのだ。 日本人は韓国と中国の技術に対して認識が足りなさすぎる。 私は2000年頃に、電通の主催で、東京と沖縄をインターネットテレビ通話で結んで話すという催し物に参加したことがある。私はもとWBCのスーパーライト級世界チャンピオンだった浜田剛史さんと親しく、沖縄出身の浜田さんと一緒に沖縄の人達と話をしたのだ。 その時、驚いたのは、テレビ電話通信の技術を担当していたのは全部韓国人だったことだ。その時のテレビ通話は韓国の技術でなければ出来ないのだという。 私は一般の日本人と同様に当時は、日本の方がインターネットなどの技術は進んでいると思い込んでいたので衝撃だった。 何人かの韓国の技術者と英語で話したが、彼らは日本のインターネット網が遅れていてスピードが遅いので、テレビ通話がなめらかに行かないとこぼしていた。 私はその時初めて、韓国の技術が進歩していることを思い知らされた。 サムスンはその頃から半導体事業でめきめき伸びていった。 テレビも液晶テレビを進めていた。 当時、世界的にSONYのテレビが一番良いとされていて、世界中何処に行ってもコンピューターのモニターはSONYと決まっていた。 ところが、SONYは自分たちのトリニトロン・ブラウン管のテレビが最高の画質であって、液晶テレビを馬鹿にして、手がけようとしなかった。 ところが、液晶テレビを韓国・台湾の技術者たちが進歩させて、最初の内こそ画質はトリニトロンの方が良いこともあったが、その優位さは直ぐに失われてしまった。 いまや、テレビはことごとく液晶式でブラウン管のテレビなど、博物館にでも行かなければ見られない。 SONYのその態度は、日本人によく見られるものである。一つの成功が次の取り返しのつかない敗北を招く。成功に酔うと、そこで満足してしまって、次への発展を怠けるのだ。 今や世界中何処に行っても、テレビと言えばサムスンか、やはり韓国のLGだ。 そして半導体も、韓国が世界一の座を占めるようになった。 韓国の半導体産業も、日本の東京エレクトロンの製造機械を使っているが、その東京エレクトロンの人間がかつて言っていた。 「韓国はとにかく決断が早くて直ぐに行動に移すからこちらとしてもやりやすい。日本の会社は、やれ稟議だ会議だなんだと、なかなか結論を出してくれない。これじゃ、日本の会社が韓国に負けるわけだ」 1991年に石原慎太郎は、「アメリカが難題をふっかけてきたら、半導体を売ってやらないと言えば良い」と言った。 その半導体は今どうなったか。 日本が売りたくても、日本の半導体など、よほど特殊な物以外はアメリカにも買ってもらえない。 半導体は産業の米、と言われている。 日本は韓国の技術と、韓国の会社の指導者たちの果敢な実行力の前に敗れてしまった。いま、JDIという半導体会社を日本の総力を挙げて運営しているが、上手く行かない。 韓国と中国の技術と、彼らの実行能力の高さは凄い物がある。 私は2年前に中国で、中国製の新幹線に乗ったが、その素晴らしさに感嘆した。 日本の報道では、中国の新幹線は技術が低いとか、危ないとか言うが、それはとんでもないことだ。 とにかく車内はゆったりとして、時速三百キロを超えても、実に快適な乗り心地である。私は日本の新幹線より良いと思った。 数年前、日本の新幹線が時速三百キロを出したと騒いだが、その数年前から中国の新幹線は時速三百キロ超で走っていたのだ。 で、こんどの日本政府の韓国に対する輸出規制問題だ。 日本は、半導体を作るのに欠かせない、「レジスト(感光剤)」、「エッチングガス(フッ化水素)」、「フッ化ボリイミド」とい三種類の半導体材料を規制するという。 私は日本の政府、安倍晋三首相の周辺の愚昧さにはあきれ果てて声も出ない。 その三種類の半導体材料は、現在は確かに日本の市場占拠率は高い。 しかし、これはいつまでもその事情が続くわけがない。 すでに、韓国の半導体製造企業体は中国から、フッ化水素を輸入することに決めた。 韓国と中国が本気になれば、遅かれ早かれ、その三種類の半導体材料は日本より安い価格でいくらでも作れるようになるだろう。 大体、なぜ日本が半導体産業で韓国に負けたのか、その理由をきちんと考えなければならない。 町の本屋に行けば、嫌韓、嫌中の本が一番良い場所に平積みになっておいてある。 それらの本を読むと、10年以上前から、中国と韓国の経済は破綻すると書かれている。 ところが、経済がどんどん傾いていたのは日本であって、とっくに破綻しているはずの中国が日本の数倍のGDPを誇るようになってしまった。 それでも、いまでも、中国の経済が明日にでも破綻すると書かれた本が並んでいるのが不思議だ。 現実をきちんと見ることが出来ずに、ジンゴイズム(Jingoism,自分たちの民族が一番だと思い上がって、他民族を蔑視しようとする、偏狭な立場)に駆られて、さらに、近年の中国と韓国の経済的成功を目の前にして激しい嫉妬を燃やして、嫌韓、嫌中本を書く輩がいて、またそう言う浅ましい本を買う人間がいるという悲しい社会になってしまったのだ、我が日本国は。 さて結論だ。 今回の安倍政権の「韓国に対する輸出規制」は第2次半導体戦争の敗北を日本にもたらすだろう。 韓国の技術力と、経営力と、何よりその行動力で、その三種類の半導体製造材料は自前で作れるようになるだろう。 中国も韓国に協力するだろう。 そうなれば、もはや日本の出る幕はなくなる。 だいたい、半導体の製造材料を作っているからと言って威張っていてどうなる。 日本は新しい半導体の発想もその設計も出来ない、韓国の指示通りに材料を作っている下請け業の国ではないか。 一つの製品を発想し設計し、新製品を作り出すのが、世界をリードして、利益も大きく稼ぎ出すリーディング・カンパニーと言う物だろう。 アップルの製品は多くの下請け企業の製品の塊だ。しかし、アップルの製品は下請け企業の物ではない。 アップルの製品を発想し設計したアップルのものだ。 日本政府も日本の企業もそこの所をきちんと考え直した方が良い。 サムスンは世界に君臨するリーディング・カンパニーだ。 半導体材料を作っている日本の会社は、サムスンの下請けでしかない。 決して、世界をリードすることは出来ない。 下請け企業の国日本が、リーディング・カンパニーの国韓国に喧嘩を売って勝てるわけがないだろう。 喧嘩はするべきではない。しかし、喧嘩をしなければならないのなら勝たなければならない。 勝算のない喧嘩はしてはいけない。 これは戦争でも同じだ。戦争はしてはいけない。しかし、戦争をしなければならないとしたら勝たなければいけない。勝算のない戦争はしてはいけない。 こんなことは、第二次大戦で、全く勝算のない戦争をして壊滅した大日本帝国の愚行を振り返ればよく分かることだ。 韓国に対する輸出規制は、勝算の無い喧嘩をふっかけたようなものだ。 初戦は勝つかも知れない。しかし、1〜2年の内に形勢逆転して最後には負けるだろう。 日本は負けて、何もかも失うだろう。 そうならないことを祈りたいのだが。
- 2019/06/09 - 昭和天皇の戦後責任前々回書いた、「奇怪なこと」に対して、多くの方がメールを下さいました。 小学館にも反響があり、前回鼻血問題の時とは180度変わって、私を応援して下さる意見ばかりだったそうです 皆さんに私のことを心配して頂いて、大変申し訳なく思うと同時に、そのご親切身にしみて有り難く、厚くお礼を申しあげます。 私は鈍感なのか、闘争精神が旺盛なのか、こんな状態に少しもへこたれることなく、これからも今まで通りに私自身が正しいと思うことを発言していくつもりです。 これからもよろしくお願いします。 新刊のお知らせです。私は2000年に、イソップ社から「マンガ 日本人と天皇」という本を出版しました。 この本はその後、講談社のα文庫に収録されました。 今回、天皇が平成から令和に変わるというこの時点で、もう一度天皇制について考えようと言うことで、初版に一章付け加えて増補版としてイソップ社から発行しました。 初版の本の内容は、本の帯に編集者がまとめて書いたものによると、 天皇とは何か。 天皇は現人神という神話を日本人にすり込んだ教育勅語。 その内容はいかに荒唐無稽で、事実とかけ離れたものだったのか。 近代天皇制の毒 恐怖と民俗的ナルシシズムを喚起する近代天皇制。 その正体は明治になって作られた「新興宗教」だった。 天皇の軍隊。 日本の社会に根をはる上下関係の締め付け。その源に奴隷の服従を下のものに強いた天皇の軍隊がある。 臣と民。 「君が代」の「君」は天皇を指すものではなかった。民衆の祝い歌に過ぎなかった「君が代」を国歌に据えた。その真意は何処にあるのか。 象徴天皇制 一見無害に見える現代の天皇制。だが、本当にそうなのか。成立のいきさつと共に、天皇を上に載く危険性を考える。 昭和天皇の戦争責任。 昭和天皇は、ヒトラーやムッソリーニと同罪か。 はたまた軍部の暴走に引きずられた犠牲者だったのか。「独白録」などから、昭和天皇の真実に迫る。 天皇制の未来。 天皇制とはやんわりと空気のように充満している権力。 どうすれば我々は天皇制から自由になれるのか。 となっています。 以上の内容に、今回は増補として、昭和天皇の「戦後責任」について付け加えました。 初版で、昭和天皇の戦争責任は追及しましたが、戦後責任まで書くことが出来ませんでした。 しかし、昭和天皇については戦争責任だけではなく、敗戦後今日まで続く私達を苦しめているアメリカに対する隷属体制を作り上げた責任があります。 辺野古の問題、アメリカからの大量の武器購入問題、原発再稼働の問題、この全ては日本がアメリカに隷属していることに原因があります。 日本は確かに太平洋戦争でアメリカに負けた。 しかし、敗戦後74年も経っているのに、どうして日本はいまだにアメリカの占領下にあるのか。 日本は独立したことになっていますが、実質はアメリカに全てを支配されています。どこをどう見ても、日本はアメリカの占領下にあり、アメリカの属国です。 どうして日本はこんな惨めな国になったのか。 それは、昭和天皇が日本をアメリカに売り渡したからです。 詳しくは本書を読んで頂きたいのですが、簡単に、要点だけをまとめます。(引用した資料などについては、本書をお読み下さい) 1946年に公布された日本国憲法では、天皇は主権者ではなく、象徴となっています。政治権力は持っていません。 ところが、昭和天皇はそうは考えていなかったのです。 敗戦後直ぐに昭和天皇は活動を開始します。 昭和天皇は近衛文麿首相に憲法改正作業を命じました。 しかし、近衛文麿は戦犯に指定されて出頭を命ぜられ、出頭前日に服毒自殺してしまいました。そこで、松本烝治が代わって委員長を務める幣原内閣の憲法問題調査委員会が憲法改正作業を行うことになりました。 敗戦の翌年1946年1月に松本は「憲法改正私案」を昭和天皇に提出しました。 しかし、これは、昭和天皇が命じた憲法改正なので、私案では「天皇が統治権を総攬する」という明治憲法の基本をそのまま残していました。それを見たマッカーサーは、自分の部下に命じてGHQ案を作りそれを受け入れるように政府に迫りました。 ここで注意して頂きたいのは、憲法改正を命じたのは昭和天皇であることです。 昭和天皇は「昭和天皇独白録」の中で「自分は専制君主ではなく、立憲君主なのだから開戦の際東条内閣の決定を裁可したのはやむを得ないことである」と言い、実際の政治には関わらないと言っていますが、憲法改正という重大な政治問題を自分から命令して始めたのです。「立憲君主なのだから政治的に自分の意思を通せない」という弁明とは大いに違います。 昭和天皇は1945年敗戦後直ぐに、9月27日にマッカーサーに会うためにGHQの総司令部に行きました。 これは、極めて異例なことです。天皇が相手を訪ねるということはあり得ないことでした。もし会いたいと思ったら、その人物に拝謁を命じて、宮中に来させるのが普通でした。(私的に、遊びで訪問することはあったようですが、このような正式の会見の場合自分から相手のところに行くことはあり得ませんでした) しかも、直前まで敵として戦っていた相手の指揮官を訪問するとは考えられないことです。 人によると、「命乞いに行った」と言いますが、果たしてどうだったのでしょうか。 またその時撮影された写真が、私達日本人(少なくともこの私)を苦しめ続ける物です 本書に掲載されている写真は不鮮明なのでよく分かりませんが、もっと大きく鮮明な写真で見ると、天皇の目の表情と口元の様子がよく分かります。途方に暮れたような目つきで、いわゆる「まなこちから」は一切ありません。口は半開きになっている。直立不動の姿勢を取っていますが、体中の力が抜けているようで、その情けない顔つきと合わせると、無残なまでに哀れっぽい。 それに対してマッカーサーは、腰に手を当ててカメラのレンズを睨み付けるようにして立っています。その目の「まなこちから」は強烈で、日本人にとって現人神である天皇の横で傍若無人、傲岸不遜、なんという勝ち誇りようであることか。 大きくて体格の良い体、気迫に満ちた表情のマッカーサー=勝者アメリカ、一方、貧弱な体格、情けない顔つきの天皇=敗者日本。 私はこの写真を見るたびに、激しい敗北感と、屈辱感に打ちひしがれる思いがするのです。 日本人にとっては神と崇められていた天皇を、単に自分たちに降伏し命乞いをしてきた人間のようにマッカーサーは扱っている。 これほど日本人にとって屈辱的な写真があるでしょうか。 本当に口惜しい。 私は、マッカーサーがこの写真を故意に撮らせて世界中にばらまいたのだと思います。 この写真があれば、天皇制を我々の頂点に置く今の体制を廃止しない限り、日本人は未来永劫アメリカに頭が上がりません。 この弱々しい姿とは裏腹に昭和天皇はその後10回にわたりマッカーサーと会見して自分の意見を述べ、政治的にかなり高度な問題を話し合っています。 第四回目の会談で昭和天皇はマッカーサーに、「日本の安全保障を図るためにはアングロサクソンの代表者である米国がイニシアチブを取ることを要するのでありまして、そのために元帥のご支援を期待しております」と言いました。 それに対して、マッカーサーは、「日本を守る最も良い武器は平和に対する世界の輿論である。日本が国際連合の一員になって平和の声を上げて世界の平和に対する心を導いて行くべきである(そうすれば、日本が攻撃を受けた場合には世界の輿論が日本の味方をして、国際連合が日本を守るために動くだろう)」と答えました。 マッカーサーの国連主義は昭和天皇にとって不満だったに違いありません。 昭和天皇はより具体的で、更に露骨に安全保障上の問題に介入していきました。 この4回目の会見から4ヶ月ほど経った1947年9月1日に昭和天皇は御用掛の寺崎英成を使って、対日理事会議長兼連合国軍最高司令部外交局長ウィリアム・シーボルトに「沖縄メッセージ」を送り、シーボルトはそれを連合国軍最高司令官及び米国国務長官に送りました。 その「沖縄メッセージ」は現在、沖縄県公文書館がインターネットで公開しています。シーボルトが国務長官に送った書類のコピーです。 https://www.archives.pref.okinawa.jp/wp-content/uploads/Emperors-message.pdf 寺崎英成が伝えた昭和天皇のメッセージの肝は、次の点です。 主権は日本が維持しているというフィクションの元に、25年から50年またはそれ以上の年月、米軍の沖縄とその他の琉球諸島の占領を続けて貰いたい。 現在日本の国民は占領が終わった後に国内で左翼と右翼の衝突が起きて、その騒動に乗じてソ連が内政干渉をしてくることをおそれている。したがって、アメリカが沖縄の占領を続けることは広範囲の日本国民に受け入れられるであろう。 この軍事基地獲得の権利はアメリカと日本との2国間の条約とするべきで、連合国軍と日本の平和条約の一部とはしない。 この昭和天皇のメッセージを読んで、私は絶望的な思いにとらわれました。昭和天皇は沖縄をアメリカに売ったのです。昭和天皇は沖縄を捨てたのです。 今沖縄では辺野古基地問題で揺れている。沖縄の県民投票では、投票した人間の70パーセント以上が辺野古基地の建設に反対している。投票率が50パーセントを超えたので、全有権者の35パーセント以上が反対していることになります。普通なら、これだけの反対があれば政府は辺野古基地建設を中止するべきだが、安倍晋三内閣はその投票結果を無視して辺野古基地建設を続けています。 考えてみれば、今、幾ら反対してもアメリカは70年前に天皇の要請で決めたことに今更何を文句を言っているんだ、と居直れます。 この昭和天皇の沖縄メッセージは、日米安保条約に反映しています。 一旦国家間で結んだ条約は簡単に解消できません。 今、どんなに沖縄の人達が反対しても、昭和天皇が自分から進んで沖縄をアメリカに売ってしまっていては手も足も出ないのです。 更に昭和天皇は沖縄だけでなく日本全土をアメリカに差し出しました。 1945年以後の世界は大きく変動しました。 1949年には毛沢東による中華人民共和国が成立し、同じ年にソ連も原爆実験に成功し、核兵器はアメリカの独占ではなくなりました。ソ連と中国という二つの共産主義国家の存在はアメリカの緊張感を高めました。 1950年に対日講和条約を担当するジョン・フォスター・ダレスが日本にやってきて、吉田茂首相と会談しました。ダレスは講和問題や講和後の日本の安全保障問題について吉田茂首相の明確な意思の表明を期待していましたが、吉田茂は曖昧な発言に終始したのでダレスは激怒しました。 ダレスは「日本に、我々が望むだけの軍隊を、我々が望む如何なる場所にも、我々が望む期間だけ維持する権利」を獲得することが重要であると考えるような人物だったのです。 そのような緊迫した情勢であることを摑んだ昭和天皇は「ニューズウィーク」誌の東京支局長であるパケナムを介して口頭メッセージをダレスに伝えました。それは、 「講和条約、とりわけその詳細な取り決めに関する最終的な行動が取られる前に、日本の国民を真に代表し、永続的で両国の利害にかなう講和問題の決着に向けて真の援助をもたらすことの出来る、そのような日本人による何らかの形態の諮問会議が設置されるべきであろう」 というものでした。 この「日本の国民を真に代表する」人間とは、軍国主義的経歴を持っているという理由で追放処分を受けた人達のことです。 昭和天皇はその人たちは見識があり、経験豊かで、日米両国の将来の関係について極めて価値ある助言と支援を米側に与えることが出来るであろうと強調しました。 ダレスはこのメッセージを受けとって、「今回の旅行に於ける最も重要な成果」と評し、提案にある「諮問会議は価値が有るであろう」と同意しました。 更にダレスは「宮中がマッカーサーをバイパスするところまで来た」ことを事態の核心として挙げました。 昭和天皇はこのメッセージを送ることでマッカーサーをバイパスするだけでなく、講和問題や日本の安全保障の問題を首相である吉田茂に任せておくことは出来ないという立場を明らかにしたことになります。昭和天皇はマッカーサーと吉田茂の頭越しにアメリカ政府と直接交渉を持つことにしたのです。 この昭和天皇の政治的行動には驚かざるを得ません。 「自分は立憲君主であるから、政治的決断はしない」と戦争責任について弁明したのは一体誰だったのか。選挙で選ばれた吉田茂を押しのけて、自分が日本の最高責任者としてアメリカに対しています。 この時、すでに日本国憲法が公布されており、天皇は統治権の総覧者ではなく、象徴です。政治的な権限は何もありません。 昭和天皇のこの行為は憲法違反も甚だしい物です。 更にパケナムはこの昭和天皇の「口頭メッセージ」を文書化することになりました。 文書の内容は「口頭メッセージ」と基本的には同じですが、それより一歩進んだ表現があります。 それはこの一文です。 「基地問題を巡る最近の誤った論争も、日本の側からの自発的なオファによって避けることが出来るであろう」 この誤った論争というのは、吉田茂首相が参議院外務委員会で「私は軍事基地は貸したくないと考えております」と明言したことでしょう。 昭和天皇はこの吉田茂の言葉を誤っていると判断して、米軍が日本に基地を持つことを日本側からの「自発的なオファ」とすることで解決しようというのです。 要するに、日本側からアメリカに、日本に基地を作ることを自発的に依頼する、と言うことです。 どうして、ここまでして、昭和天皇は日本に米軍基地を置いて貰いたかったのか。 それは、朝鮮戦争の推移を昭和天皇が深刻に考えていたからです。 1950年6月に韓国に攻め込んで来た北朝鮮はソウルを陥落させると破竹の勢いで朝鮮半島を南下して、昭和天皇の「口頭メッセージ」を文書化しているときには、釜山まで攻め込んでいたのです。 昭和天皇とその側近は「朝鮮半島はそのまま共産化するのではないか」と恐れていました。 朝鮮半島が共産化すると、北朝鮮やソ連の援助を得て国内の共産勢力も勢いづいて、天皇制打倒に動くだろう。そうなっては天皇制維持どころか自分たちの命も危ない、と昭和天皇とその側近は切羽詰まった危機感を抱いていたのです。 昭和天皇は講和条約締結後も、米軍によって昭和天皇と天皇制を防御することが必要だったのです。 そのためには、基地問題は「日本からの自発的なオファ」によって解決されなければならない。ようするに、日本はアメリカに米軍基地を置いて頂けるように日本を差し出す、と言うことです。 差し出す=「自発的なオファ」であるからには無条件な物でなければなりません。 日本から申出る、差し出すことによって米軍の日本駐留が確実な物となり、非武装日本の安全が保障されると昭和天皇は考えたのです。 この昭和天皇の「自発的なオファ」は、ダレスの「日本に、我々が望むだけの軍隊を、我々が望む如何なる場所にも、我々が望む期間だけ維持する権利を獲得する」という考えに適合する物でした。 1951年9月8日に(旧)日米安全保障条約が成立しました。 その前文には、次のように書かれています。 「日本国は、その防衛のための暫定措置として、日本国に対する武力攻撃を阻止するため日本国内及びその付近にアメリカ合衆国がその軍隊を維持することを希望する」 まさに、昭和天皇の「自発的なオファ」がそのまま条約に組込まれています。 アメリカの軍隊が国内その付近に軍隊を駐留させることを、日本が希望しているというのです。 それに対してアメリカは、 「アメリカ合衆国は平和と安全のために、現在、若干の自国軍隊を日本国内及びその付近に維持する意志がある」 というのです。 要するに頼まれたから軍隊を駐留させてやる、と言っているのです。 これが日本の基地問題の根底にあるのです。 沖縄だけでなく日本全国におよそ130ほどの米軍基地があり、その駐留費用も日本が負担し、更に思いやり予算などと言って、米軍兵士が快適に過ごせるような施設をつくり維持する費用も負担し、高価な兵器も購入させられ、最近ではイージスアショアといって、秋田市に地上配備型迎撃システムを作ることも強要されています。 しかし、このような基地問題を日本の平和勢力が如何に取り組んでも、根底が最初からこうなっていたのでは、何をしても無意味なことになります。 日米安全保障条約をそのままにして、いくら基地問題を改善しようとしても無理なことなのです。国家間に結ばれた条約は強力な束縛力があります。 したがって、辺野古基地問題をそれだけ論じても全く意味の無いことなのです。 根底は、日米安保条約です。 この日米安保条約がある限りダレスの思惑通り、米軍は日本の国土を自由に使うことが出来るのです。 国際関係の場でも、日本は常にアメリカの言うとおりに行動してきていて、世界中の笑いものになっています。 最近は、安倍晋三氏が、トランプ大統領をノーベル平和賞の候補に推薦して世界中から嘲笑を浴びています。 このような惨めな状態に日本を追い込んだのは、昭和天皇の「自発的なオファ」という言葉に尽きるのです。 昭和天皇は止めようと思えば止められた戦争を止めず、日本を無残な敗戦に追い込み、さらに戦後になると、皇統の維持と天皇制の維持のために沖縄を売り、日本全土をアメリカが自由に使うことを許し、今の日本の哀れな状態を作り出したのです。 私は、これを、昭和天皇の戦後責任と呼びます。 簡単にまとめるつもりが、結局長々しいものになってしまいましたが、これでは私の意を尽くせません。 本書にはもっと詳しく丁寧に書いてあります。 是非読んで下さるようお願いします。 私達は、昭和天皇によって、アメリカの鎖につながれてしまったのだと言うことを認識して欲しいのです。 繰返しますが、日米安保条約をこのままにして置いて、基地問題を論じても、基地反対闘争をしても全く無意味なことです。 アメリカは、市民と政府が争っているのを他人ごとのように見ているだけです。少しも痛痒を感じていない。 昭和天皇の罪は深いと私は思います。 私はイソップ社と交渉して、「日本人と天皇・増補版」をこのページの読者に、送料なしで定価(1700円)の1割引き(1530円)でお売りするようにしました。 希望される方は、以下いずれかの方法で、お申し込み下さい。 電話で: 03−3754−8119 メールで: isop@s6.dion.ne.jp イソップ社担当、首籐知哉宛て。 振り込み書を同封しますので、それを用いて代金をお支払い下さい。
- 2019/05/03 - 追悼 小池一夫先生小池一夫先生が、4月17日に亡くなられた。83歳だった。 私にとって、小池一夫先生は仰ぎ見る存在だった。 私は、日本の漫画界に貢献したのは、手塚治虫、梶原一騎、そして小池一夫先生のお三方だと思っている。 日本の漫画界には、個々に、素晴らしい業績を上げた漫画作家は何人もいる。 しかし、日本の漫画界の方向を決めたのは上に挙げたお三方だと思う。 手塚治虫は、現在の日本の漫画の基礎を作った。 それまで、漫画というものは、滑稽を主にした物で、登場人物はただ読者を笑わせるようなことをすれば良いとされていた。 その人間がどのような背景を持っているか、どんな考えを持っているか、そのようなことは必要とされなかったし、描かれなかった。 しかし、手塚治虫は初めてその登場人物に人格を持たせた。 どんな過去を持っているのか、どんな背景を持っているのか、何を考えているのか、何をしようとしているのか。 小説や戯曲の世界では当然とされていた登場人物の人格を初めて漫画の中の人物に持たせたのだ。 また、その作り出す人格が新鮮で、物語も読者の胸を躍らせる魅力的なものだった。 その結果、手塚治虫の描く漫画の世界はその舞台設定が奇抜で、非現実的であっても、登場人物たちの言動と吐露する思いは人生の真実に根ざすもので読むものの心に深く訴えかけてきた。 手塚治虫は、ドストエフスキーの「罪と罰」から、「鉄腕アトム」、「ジャングル大帝」、「リボンの騎士」、「ブラックジャック」、「火の鳥」、などその作品の幅は広く、また内容は深く、漫画はどんなことでも描けるものだと言うことを私達に示してくれた。 外国人の中には日本では大人が漫画を読むことを奇異に思い軽んじる人が少なくない。それは、外国に手塚治虫が現れなかったために、チューインガムの附録程度の漫画か、新聞の土曜日か日曜日に掲載される4コマ程度の幼稚な内容のものを漫画と思い込んでいるからだ。 日本の漫画の世界がこれだけ豊かになったその大本は手塚治虫にある。 手塚治虫が私達に与えてくれた恩恵は大きい。 私達漫画の世界で生きてきた人間だけでなく、日本の社会全体に手塚治虫の恩恵は及んでいる。 手塚治虫のおかげで日本の漫画文化は大いに進み、1960年代になると、漫画専門の週刊誌が幾つも発行されるようになった。 そうなると、漫画の物語作りをマンガ家一人に任せておくことでは足りなくなった。絵が上手でも話作りが不得手なマンガ家はいる。また、そのマンガ家の持つ特性を充分に引き出すためには他の人間の作った物語を使う方が良いこともある。 そんなことで、初期は昔の小説などを原作とした漫画が書かれた。 そのうちに、漫画に使える過去の小説などがなくなってきた。 それで、映画のシナリオを書くように漫画のための物語を書く人間が求められるようになった。 そのような人間を漫画の世界では、「原作者」とよぶ。 もともと、昔の小説などを原作としたことの名残りとして、全く新たに物語を作り出す人間の書くものも「原作」とよばれ、書いた本人も「原作者」と呼ばれる習慣が一般化したのだ。私は最初その呼び方に大変奇異な感じを持った。今でも、なんだかおかしいと思う。 その原作者としてまず大成功を収めたのが梶原一騎である。 梶原一騎は物語主導の漫画を初めて作り出した方である。 梶原一騎は、少年漫画の世界で大きな業績を上げた。「巨人の星」「あしたのジョー」「空手バカ一代」など、それぞれが社会に大きな影響を与えた。 そして、小池一夫先生が登場する。 それまで漫画は、子供の読むものとされていた。 それを、小池一夫先生は一気に漫画を大人の世界にまで広げた。 「子連れ狼」「御用牙」「I飢男」「クライングフリーマン」、それにゴルフ漫画など、数多くの作品を産み出した。 日本の漫画を大人も読めるものにまで枠を広げたのは小池一夫先生の力だ。 小池一夫先生が出て、日本の漫画の世界は子供から大人まで楽しめるものとして完成されたのだ。 小池一夫先生は、ご自分が優れた漫画原作者であるだけでなく、後輩の育成にも力を尽くされた。 「小池一夫劇画村塾」を作り、マンガ家、漫画原作者の育成に力を尽くされた。「小池一夫劇画村塾」からは、何人もの漫画作家が輩出している。 私は1974年に「男組」という漫画を少年サンデーに連載を始めた。それまでに、友人たちと共同で「ひとりぼっちのリン」という漫画を少年マガジンに連載していた。友人たちと共同と言っても、始めて直ぐに少年マガジン編集部からの要請でそれまで友人たちと回り持ちで書いていた原稿を私が一人で書くようになってしまった。 ではあるが、あくまでも友人たちとの共同作品なので、私の実質的な原作者としてのデビューは「男組」である。 1974年の一月から連載を始めたところ、思いもよらぬ好評を得た。私のアパートに毎日、時には日に2回通ってきて少年サンデーに原稿を書けと迫って来た編集者が連載を始めて3ヶ月ほど経ったときに私に言った「雁屋さん、あなた、今自分が大ヒット作を書いているということを自覚している?」と尋ねられて、私はうろたえた。まさか自分がヒット作を書くとは夢にも思わなかったのだ。 そして、六月頃に、突然小池一夫先生から、少年サンデー編集部を通じてお声がかかった。「一度、遊びにおいで」というお誘いである。 私はコチコチに緊張して先生のプロダクション「スタジオシップ」に伺った。 先生は恐れ多さの余り固くなっている私を柔和な笑顔で迎えて下さった。 先生は仰った、 「君の書いている『男組』はおもしろい。ただね、連載開始後半年経っても、一番最初の時のまんまエンジンをフルスロットルで車を飛ばしているみたいに見えて、ちょっと心配しているんだ。漫画の連載は、一本調子では書く方も疲れるが、読者も疲れるよ。ときには、手綱を緩めてほっとさせる回を作る必要がある。そうしないと、長く続かない。気を抜けと言っているんじゃない、緩急自在を心得た方がいいと言っているんだ」 この時頂いた先生のご忠告は今も肝に銘じている。 しかし、今でも深く考えざるを得ないのだ。 デビューしたばかりの新人を呼んで、そのような親切な忠告をしてくれる人間がいるだろうか。何と懐の深い、心の大きな方であることか。 先生は新人の育成にも力を尽くされたが、後輩を励まし、勇気づけることに気を使われる方だったのだ。 先生がいかに新人の育成に気を使っておられたか、私はそのことをたっぷり思い知らされたことがある。 集英社は「集英社漫画大賞の原作部門」を作り、漫画だけでなく、漫画の原作者を目指す若い人達の作品を公募していた。1980年代になって、私もその選考委員を委嘱された。 その原作部門の選考委員として、梶原一騎先生と小池一夫先生が中心になっていたのだが、梶原一騎先生が亡くなったので、代わりに私が選考委員の一人として選ばれたのだ。 漫画原作創始者と言える梶原一騎先生のあとを継ぐとは恐れ多いことだが、そのような賞で若い才能のある人間を発掘することは大変に意義のあることなので、お引き受けした。 選考委員は時によって替わることもあった。(今では大変なベストセラー作家になっている方も一時期選考委員だったこともある) しかし、いつも中心は小池一夫先生で、先生はおおらかな方だから色々と選考委員たちが議論しても、ニコニコしながらその議論に加わってこられた。 ただ、先生はとにかく毎回、応募してきた人間の中の誰かに劇画原作大賞を上げたくてたまらないのだ。 大賞の賞金は百万円だった。大金である。 賞金の金額もそうだが、集英社漫画大賞という名前がついている以上、安易に受章者を出すわけにはいかないと私は考えた。 しかし、先生の考え方は違う。 「とにかく大賞を与えて励ましてやれば、その人間は立派な原作者に成長するんじゃないか。だから、才能の芽のある人間には大賞を上げよう」 と仰言る。 私は作品の出来の善し悪しに特に厳しい方で、時に先生と対立することもあった。 先生は、そんな私を見て笑いながら、「雁屋さんは厳しいねえ」などと仰言った。 ここにも、先生の新人を育成したい、後輩を励ましてやりたいという気持が溢れていた。 先生に比べて私は、そのような気持を抱けず、批評意識だけか強かった。今になって、先生のような度量の大きさがなかったことを恥ずかしく思う。 私が「美味しんぼ」を書き始めてずいぶん経ってから、先生は朝日新聞に「美味しんぼ」について言葉を寄せられた。 それは、過分のお褒めの言葉だった。私は飛び上がるほど嬉しかった。胸が弾んだ。 それを、ここに披露したいのはやまやまだが、それでは自慢をしているように思われるので、やめることにする。 しかし、私はそれを読んで、先生は相変わらず後輩を引き立ててやろうという気持を強くお持ちなのだな、と思った。 初めて先生のところに呼んで頂いたときのことに戻るが、その時先生は、当時人気絶頂だった「子連れ狼」の原作を私に見せて下さった。 原稿用紙は、上下三段に分かれていて、真ん中が一番広く取ってあって、そこにドラマが展開する。上段と下段は、マンガ家に対する注文と、註釈で、先生は必要な資料を準備するだけではなく、漫画のコマ割りまでも考えておられた。 その原稿ときたら、全て綺麗な読みやすい字で書かれていて、一回ごとの原稿は綺麗に綴じられていて、「子連れ狼」と印刷された黒い色の表紙がついている。そこに第何回と回数が記入される。 漫画の原作の枚数は、出来上がった漫画が20ページとしたら、200字詰め原稿用紙20枚。業界では、200字詰め原稿用紙のことを「ペラ」というが、漫画一ページに原作はペラ一枚というのが、マンガ家にとって一番書きやすいのだ。 先生はそれをきちんと守って、必要な枚数で必要な内容を書く。 先生は、「漫画の原作は、こういう風に書くんだよ」とご自分の原稿を見せて教えて下さったのだ。 デビューしたばかりの新人にご自分の原稿を見せて、漫画の原作の書き方を教えてくださるとは何という度量だろう。普通の人間に出来ることではない。 所が私ときたら、先生の教えが身につかず読みづらいひどい字で、考えたこと全部をびっちり詰め込む。20ページの漫画の原作として、200字詰めではなく400字詰め原稿用紙で40枚くらい平気で書いてマンガ家さんに渡す。 私と組んだマンガ家さんは例外なく、私の原稿の野放図な量に苦しめられてきた。 池上遼一さんは「ひとりぼっちのリン」、「男組」、「男大空」と私と一緒に仕事をした下さった方だが、あるとき、池上遼一さんは小池一夫先生の原作と、私の原作とで、二本の漫画を書いたことがあった。 その時に、池上遼一さんに私は、「小池先生の原作だったら、ネームを取るのに2時間で済むけれど、雁屋さんの原作だと2日かかるんだよ」と文句をいわれた。(このネームというのは、日本の漫画界独特の用語で、漫画のコマ割など、全体の構成をすることを言う) 私は先生の生原稿を見せて頂いて、恐れ多くなった。 折角先生に原作の書き方を教えて頂いたのに、怠惰で、しかもそのように綺麗にまとめる能力を欠いている私はそれからも、書きたい放題大量の原作を書いて、組んで下さるマンガ家さんたちを苦しめてきた。 一番の被害者は「美味しんぼ」の花咲アキラさんだろう。 なんと、30年間も私の乱暴な原作に苦しめられたのだから。 もっとも、連載が始まって10年以上経ったときに、花咲さんにご自分の描いた画稿と、私の原作を比べて、「どうして、この画稿のように原作を書けないのか」叱られて、反省して、それまで400字詰めで一回当たり40枚以上入れていた原稿を、20枚に収めるようにした。それにしても、「美味しんぼ」の毎回のページ数は22ページ。であれば、ペラで22枚が正しい。それなのに私は400字詰めで20枚、ペラで40枚だ。しかし、それが私の限界だった。 花咲さんはその私の乱暴な原作に耐えて、単行本111巻まで描いてくださった。 折角、小池一夫先生がご自分の原作を見せてくださったというのに、私は能力不足のせいで先生の教えをものにできずに多くのマンガ家さんを苦しめてきた。恥ずかしい限りだ。花咲さん御免ね。 「美味しんぼ」を再開したら、その時はきちんとした枚数で描きますからね。(本当かな) 小池一夫先生は、立派な体格をしておられた。体力もおありになった。一度、先生の予定表を見せて頂いたことかあるが、殆ど毎日ゴルフの予定が入っているのには驚いた。先生は「アルバトロス」というゴルフの週刊誌をご自分のプロダクションから発行されていた。どうも、ゴルフ熱が嵩じて週刊誌を発行されたのではないかと失礼なことを考えたりもするが、漫画の原作をガンガン毎週毎月何本も描かれながらの上でのゴルフである。 まさに、超人的な体力と創作能力をお持ちだった。 私はこの30年間シドニーで半分以上の時間を過ごすようになって、先生ともめったにお会い出来なかった。 頑健な体力の先生だから、まさかこんなに早く亡くなってしまわれるとは思いもよらなかった。 先生にお会いして、あの柔和な笑顔に接したかった。 実に残念で悲しい。 巨星墜つ、とはこのことだろう。 小池一夫先生の作品群は私の前に小池一夫山脈として聳え立っている。 いつかは、その小池一夫山脈を乗り越えたいと願ったが、とうとう麓に迫ることすら出来なかった。 小池一夫先生のご逝去を心から悼んで、この一文を閉じる。 先生、有り難うございました。
- 2019/04/15 - 奇怪なこと奇怪なことが私の身辺に起こったので、ご報告します。 大変に長くなりますが、事の次第で仕方が無い。 お読み頂ければ大変に幸せです。 話しは2014年に遡ります。 その年の4月末に発売された「ビッグコミック スピリッツ」誌の第22・23合併号に「美味しんぼ 福島の真実編」第22話が掲載されると、突然、新聞、テレビ、週刊誌、インターネットで私に対する非難が巻き起こり、しかも、国会議員、大臣、最後には総理大臣まで乗り出してきました。 安倍晋三首相が「美味しんぼ」を風評被害を巻き起こすと非難するのがテレビで流されました。 その回の「美味しんぼ」で、主人公の山岡が福島の取材から帰ってきた直後に食事中に鼻血を出す場面が描かれています。 この、鼻血がいけないと言うのです。 これでは、福島は放射線量が高くて危険なところであるように思われる。 それは、福島に対する風評被害を生み出す、のだそうです。 「風評」とは「デマ」「うわさ」のことです。 しかし、この鼻血が出た問題は根拠のないことではありません。 私自身が、福島の取材から帰って来た次の日の夕食時に突然たらたらと鼻血が出始めたのです。 私はそれ以前に鼻血を出したことは中学生の時に友人たちとふざけていて、自分で自分の膝に鼻をぶつけたときに一回あるだけでした。 それが、食事中に何もしないのにいきなりだらだらと出始めたので、驚き慌てました。 慌てて、近くのソファに横になりましたが、鼻血は頭を高く上げていないといけないそうで、横になるのは間違いなんですね。 さらに、その頃から、非常な疲労感を覚えるようになりました。 最初は取材旅行が重なったからその疲労なんだろうと思っていましたが、日を重ねてもその疲労感は消えないどころか、ますますひどくなります。 誰かが、私の背骨を摑んで地面に引きずり込もうとしているような感じです。 鼻血は一回だけでなく、翌日また出ました。 私は自分の体験をそのまま「美味しんぼ」に書いたのです。 誰に聞いた物でもなく、噂を書いた物でもありません。 実際に私が経験したことを書いたのです。 私は取材の最後に、2013年4月に、埼玉県に避難していた福島第一原発事故の際の双葉町の町長井戸川克隆さんを訪ねました。 たまたまその際に、偶然、岐阜環境医学研究所の所長の松井英介先生が同席されていました。 松井先生が、「福島に取材に何度か行かれたそうですが、体調に変わりはありませんか」と私に尋ねられます。 で、私が「理由が分からないのに突然鼻血が出まして」といったら、松井先生は「やはり」と仰言います。 同時に、福島取材で色々と力を貸して下さった、斎藤博之さんが、驚いて、「えっ!雁屋さんもなの!僕もそうなんだよ。あれ以来何度か出るようになった。病院に行っても理由が分からないと言うんだ」 すると、取材にずっと同行してくれていた安井敏雄カメラマンが、「僕もそうなんですよ」と言います。 なんと、福島取材に行った我々取材班4人の中の3人が鼻血を出していたんです。 ついでに私が耐え難い疲労感について言うと、斎藤博之さんも、安井敏雄さんも「ああ、私もそうですよ」「いや、ひどく疲れてたまらないんです」といいます。 驚いたことに、それを聞いて井戸川前町長が、「私も鼻血が出ます。今度の町長選の立候補を取りやめたのは、疲労感が耐え難いまでになったからです」と仰言るではありませんか。 さらに、「私が知るだけでも同じ症状の人が大勢いますよ。ただ、言わないだけです」と仰言る。 すると松井英介先生が、「大坂で放射能に汚染されたがれきの焼却処理が行われた際、大阪の市民団体がインターネットで体調変化を訴える声を募ったところ、声を寄せた946人中、842人が、鼻血、目、喉や皮膚など空気に触れる部分の症状を訴えている」と仰言った。 放射線だけの影響とは断定できないと松井先生は仰言ったが、それは大変なことではないでしょうか。 松井先生の説明では、「鼻の粘膜や、毛細血管細胞の70〜80パーセントは水で出来ている。水の分子H2Oは放射能で切断されて水酸基(-OH)のような、毒性の強いラジカルと呼ばれるものになる。しかも、ラジカル同士がくっつくとH2O2(過酸化水素)になる。過酸化水素はオキシフルとして消毒薬に用いられるくらい毒性が強い。放射能は直接粘膜や毛細血管の細胞・DNAを傷つけるが、同時に水の分子が切断されて細胞の中に出来るラジカルによる作用が大きい」 ということです。 福島で人びとが受けている放射能被害は、福島第一原発から放出された放射性微粒子によるものです。 放射性微粒子は呼吸によって肺から血管に入り体中に回ります。食べ物や水と一緒に取り込まれ、消化器から血管内にはいり込み、やはり体内に回ります。 そのようにして体内に入った放射性微粒子は何処かの臓器に付着すると、その臓器の付着した部分に害を与える。 微粒子一個はマイクロの単位で極めて小さいけれど、付着した臓器の微粒子の周辺の細胞は破壊される。しかも、その微粒子の数が極めて多い。結果的に臓器の被害は大きくなる。 空間線量が1ミリ・シーベルトとすると、その空間に浮遊している微粒子の数はそれこそ無数。 一呼吸だけで何千・何万の放射性微粒子が体内に入る。 一個当たりの微粒子の害は小さくても、それが、何千・何万となると鼻血を出させたり、疲労感を感じさせる原因を作るのでしょう。 (斎藤博之さんは、私達の福島取材の前に、取材に適した場所を選ぶために何度も福島に通い、結果として私達の数倍被爆したことになります。 その後、斎藤さんの体調は回復せず、歯茎からも血が出るようになり、2017年に脳梗塞で亡くなりました。死因が放射能によるものかどうかは明かではありませんが、私が「鉄の胃袋魔神」とあだ名をつけたほど、活発で食欲旺盛だった斎藤さんが、福島の取材を終えた後、鼻血、激しい疲労感、歯茎からの出血などで、衰弱したことは確かです。東北地方の民俗学的知識の豊富なことと言ったら歩く民俗学事典のような人で、おまけにマルクスの資本論は端から端まで頭の中に入っているという凄さでした。例えば、私が、マルクスが、ルイ15世の愛妾・マダム・ポンパドールの「我が亡き後に洪水は来たれ」という言葉を引用したのは何処だっけ、と尋ねたら、ちょっと待ってねと言って、3,4分後に、あれは第1部『資本の生産過程』第3篇『絶対的剰余価値の生産』第8章『労働日』に書かれているよ、と返事がありました。感性豊かで、明敏な頭脳。本当に惜しい人を亡くしました。私にとって真の友人であり、同志でした。斎藤さん本当に有り難うございました。ご冥福をお祈りします。 斎藤博之さんについてはこのブログにも書きました。 http://kariyatetsu.com/blog/1902.php ご一読下されば幸せです。) 以上に述べたように、私が鼻血を出したことは、また私以外の多くの人間が福島第一原発の事故以後福島で鼻血を出していること、疲労感に苦しんでいることは、事実私が体験したことなのです。 風評でもデモまでもない。 私は、嘘を自分の作品に書くような破廉恥な人間ではありません。 私は自分の書くものは全て第三者にも検証可能な事実しか書きません。 自分で調査した資料は保存してあります。 であるのに、安倍晋三首相を始め、テレビ、雑誌、インターネットでは私の言うことを風評だと決めつけ、私を風評被害を福島に与えると言って非難します。 実に理不尽極まりないことで、私の心は煮えくりかえりました。 ところが、「スピリッツ」誌の編集部は私よりもっと大変な目に遭っていました。 担当の編集者から「朝から抗議の電話が鳴り止まずに、編集部全体が困っています」と聞かされたときには私は驚きました。 読者には私の連絡先が分からないから、安倍晋三首相の言葉を真に受けた人たちが、「スピリッツ」誌に文句を言うために電話をかけてくるのだろうと思いました。 そこで、私は、このブログに「私に文句のある人は、私のこのページ宛てに書いて貰いたい。編集部に電話をかけると、編集部が迷惑するから」と書きました。 それで編集部に対する電話攻撃が収まったから思ったらその逆でした。 「雁屋哲は自分のホームページにこんなことを書いているが、そんな奴の漫画を掲載している『スピリッツ』が悪い」と前より一層激しく電話がかかってくるようになったというのです。おかしなことに、私のこのページには一件も文句の書き込みはありません。 安倍晋三首相の言葉に躍らされて私を風評被害引き起こす悪者扱いするような人たちは、ただ騒ぎたいだけで私に直接文句を言ってくる根性も勇気も無い人たちなのだと私は思いました。しかし、そんな単純なことではないことが後になって分かりました。 鼻血問題が掲載されたのは福島編の第22話です。それから第24話まで2話残っていました。電話をかけ来た人たちは自分たちの抗議に「スピリッツ」誌は恐れをなして、次週から「美味しんぼ」の掲載をやめるだろうと思ったのでしょう。 しかし、第22話が掲載された段階で、花咲アキラさんは第24話まで完成させていました。 「スピリッツ」誌編集部も馬鹿げた脅迫電話に怯むような根性なしではありません。当然、第23話、第24話と最後まで掲載しました。 それで、電話をかけてきた人たちは更にいきり立ったようです。 第23話が掲載された直ぐ後、編集長が善後策を検討するためにシドニーまで来てくれました。 その時編集長から詳しく聞いた話は私の想像を絶するものでした。 編集部には電話が20回線引いてあります。 その20回線の電話に朝10時の業務開始時間から夜7時、時には10時近くまで電話が鳴り止まないというのです。 それもいきなり怒鳴る、喚く。電話を受けた編集者が返事をすると、その返事が気にいらないと喚く。返事をしないと、なぜ返事をしないと怒鳴る。それが、1時間にわたって続くのです。 編集部員は相手をそれ以上刺激しないように応対するので、神経がくたくたになってしまいます。 編集部員はその度に応対しなければならないし、電話回線は塞がれてしまい、作家との打ち合わせなども通常の時間に出来ない。 そういうことが、毎晩続く。 編集部員は疲れ切ってしまって、このままでは編集作業が出来ないから「スピリッツ」誌を休刊しなければならないかも知れないところまで、追い詰められていると言います。 これには私は驚きました。 こんなすさまじい話は聞いたことがない。 私はこの電話攻撃は大変に不自然だと思います。 私が最初に考えたような単純な問題では無い。 電話をかけてくるのは最初に私が考えたような普通の市民ではない。特殊な人たちだと私には分かりました。 普通の抗議電話とは違います。明らかに、「スピリッツ」誌の編集を妨害して、小学館を傷つけ、「鼻血問題」について謝罪させようという意図を持ったものだと思います。 私個人に対してではなく、小学館を標的にした行為です。 小学館に謝罪をさせた方が社会的に効果が大きいからです。 これは、そのような意図を持った指導者が脅迫のプロたちに命じてさせたことだと思います。 編集部員に対する脅迫の仕方が、あまりに手慣れている。普通の人間には出来ないことです。 世の中には、様々な企業に難癖をつけるのを職業にしている人間がいます。 企業を脅して、嫌がらせを続けて、企業にことを収めるために何らかの金品などを差し出させるのが目的です。 その連中は、プロのクレーマーと呼ばれています。 私は編集長に、そんなことをして来る人間はプロの集団だから相手にしなければ良いと言いましたが、編集長によれば出版社は読者と称して電話をかけてきた相手には丁寧に応対しなければならないのだそうです。 しかも、卑怯なことに私がこのブログに何か書くたびにそれについての文句の電話が殺到するというのです。 実に卑劣な連中です。 私は編集部に迷惑をかけたくないので、しばらくは自分のブログの書き込みをやめました。 小学館は私を守り、「美味しんぼ」福島編も最終回まで、きちんと掲載を続けました。 あの卑劣な集団は目的を達することが出来なかったわけです。 そして話しは2019年に飛びます。 当時の編集長からメールが来ました。 以下に、氏の承諾を得て、そのメールを書き写します。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 少し愉快なことがございましたので ご報告させていただこうとメールをさせていただきました。 昨年の12月に中国と日本の出版ビジネスを手がけている会社から 日中のデジタル・ゲーム関係のフォーラムに 出席しませんかと声をかけられました。 主催は中国の大きなエンタテインメント会社で、 今をときめく成長企業でして そちらの社内見学もできるということなので 喜んで出席させていただきますとお返事いたしました。 ところがです。フォーラムの主催は中国の会社なのですが 日中のフォーラムということで、北京の日本大使館と JETRO(日本貿易振興機構)が共催に入っておりまして 仲介をしてくれた会社から「大使館からNGが出ました」という 連絡がありました。 最初「?? 中国大使館からNG?」かと思ったのですが もちろん日本側からでした。 おそらく僕の名前をネットで検索したところ、 『美味しんぼ』関係でいろいろ出てきたので 経産省か大使館の人がそんなヤツは呼ぶな、 となったのだと思います。僕も大物になったものです(笑)。 僕ではなく他に小学館の人で出席できる人はいませんか? というので、さすがに日もないのでお断りいたしまして 「誰がいかなる理由で僕はダメと判断したのか」を教えてほしいと お伝えしたところ、今にいたるまでなんの回答もありません。 お役所のビジネスマナーは楽でいいな~と思いました。 このような影響力のある作品に関わることができて 大変光栄だなと、この年末年始しみじみ考えておりました。 本当にありがとうございます。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ さて、この後、この話を私のブログに書いて良いだろうかと、氏に問い合わせたところ次のようなメールを頂きました。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ この国は、いったいいつから こんなつまらないことになってしまったのだろうと 憤慨しております。「忖度」なんて、本当に卑屈な 根性が言わしめる言葉だと思います。 「小学館でほかにいい人いませんか?」というのも 失礼な話です(笑)。 あまりにマナーを欠いた話なので、「経緯を教えてほしい」と要望して その返事を武士の情けと申しますか、少し気長に待ってあげようかと しているところです。 いよいよ、これは本当に無視するつもりだなと思ったら、 僕も「ちょっと聞いてくださいよ~」とあたりに触れて回ろうかと 思っていますので、ぜひブログにお書きいただければと存じます。 権力のありようについて、『男組』で雁屋さんが示されていた 社会や、登場人物たちのありようを今一度、みなで振り返る必要がありますね! ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ さて、この元編集長の味わったと同じようなことを私が味わいました。 それを以下に記します。 それは、今年(2019年)の3月半ば過ぎのことです。 あるテレビ局のディレクター氏からメールが入りました。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「そのディレクターの関わっている番組である食べ物を取り扱うことになったが、その食べ物は、かつて、「美味しんぼ」で取り上げられたことがある。 そこで、番組の中で、「美味しんぼ」のその場面を取り上げたい。 それについては小学館から承諾を得た。 そこで、原作者の私にも承諾を得て、その上、その食べ物を取り上げた「美味しんぼ」のその回について、また、その食べ物について私の話を聞きたいので電話をかけたい、」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ と言う内容でした。 その番組の内容からして断る理由は私には全くありません。 私は、承諾して、シドニーの自宅の電話番号も相手に知らせました。 それが週半ばのことでした。 ところが、その次の週の初めに、そのディレクター氏から、 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「実はあの後、上司からの進言で方針が番組の内容がガラっと変わってしまい、『美味しんぼ』のカットを使用するという演出自体がなくなってしまいました」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 一体これはどう受取れば良いのでしょう。 安倍晋三首相が私のことを「風評被害を流す人間」と非難するのがテレビで流れて以来、私はなんだかおかしな感じを懐くようになったのです。 おかしな感じというのは、テレビ、雑誌、などのジャーナリズム関係の人が、妙に私に対して白々しい態度を取ることが気になり始めたのです。 私は2015年に「美味しんぼ『鼻血問題』に答える」という本を出版しました。 これは、私の鼻血問題について「風評被害」だと非難した人びとに対する反論の本です。 その本を、今話に出ているテレビ局とは別のテレビ局が取り上げて私に話を聞きたいと言ってきました。 私は自分の本を多くの人に知ってもらう機会になるだろうと考え、番組に出演しました。 私はあるジャーナリストと対談をする形になりました。 そのジャーナリストは三十代か四十代前半という若い人で、売れっ子であるらしく、書くものを最近週刊誌のコラムで読むことがあります。 そのジャーナリストは、私との対談をするのに開口一番「僕は雁屋さんに反対です」と言いました。 私は、会うやいなやそんなことを言われて驚き、気をそがれました。 何も話をしないうちに、対話の最初にいきなり「雁屋さんには反対で」とは何のことでしょう。 私は私の何に対して反対なのですか、と聞こうと思ったのですが、そのジャーナリストは私に聞く暇を与えず、どんどん話を進めて行きます。 私の何かの意見に反対なのではなく、私という人間の存在に反対だというのでしょう。 その口調もなんだか、事件の被疑者を詰問するような調子で、私は大変に居心地の悪い思いをしました。 いきなり冒頭で、「雁屋さんに反対です」と言ってしまっては、それからのそのジャーナリストは私に反対する立場から私に何か訊くという形になるので、全体の流れは当然私の意見をきちんと伝えることからはほど遠いものになりました。 番組を見ている人たちは、私が懸命に何か弁解しているように思ったことでしょう。 それは一つの例で、その後も何度か頼まれて幾つかの集まりに出席したのですが、そこに集まった人たちの態度が何かおかしい。 私から、一歩引いて接する。よそよそしい。 以前は「美味しんぼ」の原作者と言うことで、非常に好意的に親しく私の話を聞きたいと言う態度を取る人が圧倒的に多数でした。しかし、今は、私を見る目つきが違う。関わり合いになるまいとするように、用心深く私から引く。 私の話しも、話半分程度に聞いている、という感じがするのです。 これは決して、私のひがみ根性のせいではありません。 以前と比べれば、自分がそれまでとは違った受取られ方をしていることは、どんな人間でも皮膚感覚みたいなもので感じ取ることが出来ます。 こんなことがあったので、「美味しんぼ」を番組内で使いたいとテレビ局のディレクター氏が言ってきたときに、私は「大丈夫なのかな」と思ったのです。 それが、「上司からの進言で番組の内容がガラッと変わってしまい」ということになったので、私は「スピリッツ」元編集長の受けた仕打ちや、鼻血問題以来私自身が受けている厭な感じの延長で、この件も受取りかけています。 どうして上司は番組をガラッと変えるような進言をしたのか。 私はそんなことでなければ良いがと思いますが、心の隅に、その上司は安倍晋三首相に「風評被害を流す人間」と名指しで非難された私と関わり合いになることは避けたい、と考えたのではないか、と言う思いが浮かんでくるのです。 こんなことを言うのは、私の一方的な思いこみだと、言われるかも知れません。 しかし、最近こんなことが続いているので、どうしてもそういう考えが浮かんでくるのです。 私がブログにこんな内容のことを書く、と「スピリッツ」の元編集長にメールを送ったところ、元編集長からこんな返事が来ました。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ そのディレクター氏が仰有っているように 「同じような演出を考えるディレクター」がいて 次の企画はちゃんと通ることを願ってやみません! ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 私もそう願っています。 このテレビ局の話は別にして、私の鼻血問題を通じて言えることは、この国では真実を語ってはいけないと言うことです。 反対に、安倍晋三首相とその取り巻きたちはどんな嘘を言っても誰もとがめません。 安倍晋三首相は2013年9月7日にIOC総会で、オリンピックを東京に招致するための演説を行いましたが、福島第一原発について、 「福島の放射能は、福島第原発からの放射能に汚染された水は福島第一原発の港湾から0.3キロ平方メートル以内に完全にブロックした」 「福島の現状は完全にコントロールされている」 「福島第一原発はこれまでに東京にダメージを与えていないし、これからも与えない」 と言いました。 私は、2013年10月3日付けのこのブログに、「Open letter to the IOC」と言う記事を書き、それが、全部嘘であることを指摘しました。 http://kariyatetsu.com/blog/1611.php 外国人にも読んでもらえるように英文で書いてあります。 私の書く英文だから、極めて平易です。ご一読下さい。 そんな嘘を言った人間が、私が実際に体験した鼻血を風評だというのですから呆れるばかりです。 また、その嘘を見逃すこの日本の社会にも呆れるばかりです。 一つの国が滅びるときには必ずおなじことが起こります。 支配階級の腐敗と傲慢。 政治道徳の退廃。 社会全体の無気力。 社会全体の支配階級の不正をただす勇気の喪失。 同時に、不正と知りながら支配階級に対する社会全体の隷従、媚び、へつらい。 経済の破綻による社会全体の自信喪失。 これは、今の日本にぴったりと当てはまります。 私は社会は良い方向に進んでいくものだと思っていました。 まさか、日本と言う国が駄目になっていくのを自分の目で見ることになるとは思いませんでした。 一番悲しいのは、腐敗した支配者を糾弾することはせず、逆に支配者にとっては不都合な真実を語る人間を、つまはじきする日本の社会の姿です。
- 2019/01/15 - 谷口ジロー氏と、三館王のこと谷口ジロー氏が亡くなって、もうじき2年が経つ。 氏が亡くなって以来各出版社が氏のこれまでの著作を次々に出版した。 私は氏の作品を大変に愛しているのだが、年の半分以上をシドニーも含めて海外で暮らしていると、氏の作品が出版されたことを見逃すことが多かった。 この際に、できるだけ多く氏の著作を購入した。 驚いたことに、私は氏を私の遙かに先輩だと思っていたのだが、実は漫画の世界に出たのは私とほぼ同じ時期だと言うことが分かった。 あまりに完成度が高く、気品があるので私は氏を私の遙かな高みにある先輩のように思っていたのだ。 新人の時からあんなに精緻で凄い画を描いていたのだからただ者ではなかった 氏の画力は恐ろしいくらいで、極めて精密緻密である。 まあよくここまでと思うほど、細かく書き込む。 久住雅之、川上弘美、両氏との鼎談の中で、1コマに1日かけると言っているのを読んで驚いた。 ただ、氏の描写を見ると、日本の市街地が妙に綺麗に見える。 私は日本の町並みほど醜い物はないと甚だしく嫌悪しているのだが、私の良く知っている醜い町の風景も氏の手にかかると、実際よりはるか綺麗に見えてしまう。 人物画について言うと、人物の主要部品、目、鼻、口が顔の真ん中に集中して、顎、頬の面積がそれに比べて広いように思える。 もっとも、頬や顎がたっぷりあるので「孤独のグルメ」で主人公の井の頭五郎がものを食べるときに、むさぼり食うという感じが上手い具合に描かれたのではないだろうか。 氏の書く人物には味がある。人格というものを感じさせるのだ。 作品全体が豊かな感じに包まれているのも登場人物に味わいがあるからだろう。 私は以前にも書いたことだが、谷口ジロー氏と組めるかも知れないという希望を抱かされたことがあった。 ある編集者が谷口ジロー氏とどうか、と言ってきたのだ。 私は飛び上がるほど嬉しかった。 「美味しんぼ」を書く以前の私は「バイオレンスの雁屋哲」と言われるほど、暴力活劇ものを沢山書いてきた。 私は谷口ジロー氏が、関川夏央氏と組んで書いたアクションものをいくつか読んでいて、私も是非谷口ジロー氏と組んで書いてみたいと思ったのだ。 それまでの暴力路線とは違った味のものを書く自信があった。 しかし、その話しはいつの間にか立ち消えになってしまった。ひがんだ言い方をすれば、谷口ジロー氏は私の作品を見て、「こんな乱暴な原作を書く人間とは組めない」と拒否したのではないだろうか。 確かになあ。谷口ジロー氏が本領を発揮し始めたのは、アクションだけでなく、しっとりとした人情を描くようになってからだ。 谷口ジロー氏は内海隆一郎氏の作品をいくつか漫画化している。 内海隆一郎氏は芥川賞候補になった「蟹の町」の後しばらく作家活動を休止していた。 15年経って執筆を再開すると、その内容は「蟹の町」のような暗い、如何にも純文学といったものから、市井の人々の心のひだを描く人情ものに変わっていた。 内海隆一郎氏は「人びとの季節」「人びとの旅路」「欅通りの人びと」など、「人びと」がつく題名の本を何冊も出版している。 その中から、谷口ジロー氏はいくつか選んで漫画化しているのだが、こう言うことを言っては内海隆一郎氏に失礼だとは思うが、内海隆一郎氏の小説よりも、谷口ジロー氏が漫画化した物の方が味わい深いものになっているように私には思われる。 例えば「再開」という内海隆一郎氏の作品がある。 それは、こんな話しである。 50歳になる主人公の岩崎さんという男性は成功したグラフィックデザイナーである。(内海隆一郎氏は、登場人物にすべて「さん」をつける。これが仲々良い効果を生み出している。いつか真似してやろうかな) ある地方都市にデパートの仕事で行くが、そのホテルで読んだ新聞に23年前に離婚した相手の写真を見つける。 元妻はその地方の大病院の院長と結婚して幸せに過ごしている。 新聞には元妻と、その夫と、もう一人娘が写っている。 その娘は、岩崎さんと元妻との間の娘である。 新聞の記事は、その娘が絵の個展を開くことを記している。 岩崎さんは個展会場に行く。 30点ほど展示してある油絵は緑と黄を基調にした淡く温かい色彩で心に和む懐かしい絵だった。今はグラフィックデザイナーをしているが、かつては絵描きを志した岩崎さんは、その娘の絵を見て、「この子は若い頃の私と同じ世界を追い求めているようだーーーやはり親子だ」と思う。 その背後を元妻が通り過ぎる。香水の匂いでそれと分かる。 しかし、岩崎さんは名乗らない。 岩崎さんは一枚の絵の前に立つ。 その絵は、それまでの絵と雰囲気が違う。 人形を抱いた少女の絵だが、「絵の中の少女には他の絵の少女のような優しさは微塵もなかった。胸に抱いたピエロの人形に見覚えがあった。いびつな人形は『娘』の初めての誕生日に『妻』が作ったものだ。とすると、この少女は娘自身なのだろうか。」 その絵の少女は、「貴方は本当に父親のつもりなの」と岩崎さんの心の底を見透かしている思いがして、ため息をついた。 岩崎さんはその絵を買うことにしてから、もう一度絵の前に戻る。手に入れた絵をもう一度検分するふりをして「娘」を見ておきたかったからだ。 そこに娘が現れて、絵を買ってくれたことに対する礼を言う。 「買って貰った画は自分でも気にいっている。少し怖い顔だが。 これを、父や母に頼まれた方に選んで貰ったことが嬉しい。売約済みになっている絵は皆父や母のお付き合いで買ったくれた方ばかりだから」という。 岩崎さんは、「あなたの絵は本当に魅力があります。みなさんも私と同じように喜んでお求めになったんだと思いますよ」という。 娘は親しみのこもった眼差しを残して立ち去る。 岩崎さんが会場を出ようとすると、背後に元妻と娘が立っていて「有難うございました」と礼を言う。元妻は娘の横で微笑みながら岩崎さんを見つめている。 会場の出口の階段を下りながら、岩崎さんの頬を不覚にも涙がつたう。 会場の外に出て歩き出して、ふと振り返ると、会場入り口に元妻が立っていて、振り向いた岩崎さんに丁寧にお辞儀をして寄こした。 岩崎さんは「いい娘に育ててくれたね」と言いたかったのだが、そのまましばらく立っていて「元妻」見つめていた。 やがて言葉の代わりに深々と頭を下げた。 と言う話なのだが、内海隆一郎氏の作品もいいが、谷口ジロー氏が漫画化したものの方がもっと深く私には感じられた。 内海隆一郎氏の作品ではそう言う事はなかったが、谷口ジロー氏の漫画化したものを読んで私は鼻の奥がジンとなった。 谷口ジロー氏の表現力の凄さと言うものだろう。 小学館刊の「欅の木」は内海隆一郎氏の作品を谷口ジロー氏が漫画化したものを集めたものだが、全編素晴らしい。 内海隆一郎氏の作品は谷口ジロー氏によって、深く広く人々間に残っていくものになったと私は思う。 とここまで、谷口ジロー氏のことを書いて来たが、その意は実は次の事を書きたかったからなのだ。 谷口ジロー氏の作品「父の暦」が小学館から刊行されている。 大変に良い作品だ。 私は読んで大いに感動した。 しかし、谷口ジロー氏が書いた後書きを読んで、文字通り椅子の上で飛び上がった。 そこにはこう書いてあった、 「こうして、『父の暦』が完結し単行本化され、ひとつの形となったのも友人や知人の助言や指導に支えられての事だ。ビッグコミックの旧知の担当者、佐藤敏章氏の、 『今度の作品はコミックイコール娯楽というワクから少しはみ出さなければ語れないテーマだと思う。人気の事は余り考えなくていいから、自分の書きたい事を読者にどれだけ伝えられるか、それだけ考えてやってみてくだい』 と言う心強い言葉が連載を続ける原動力となった。」 これを読んでなぜ私は椅子の上で飛び上がったか。 それは、この佐藤敏章氏と言う編集者は、私が「男組」という漫画を「少年サンデ−」に書き始めたときに、私を担当してくれた編集者だからだ。 私は佐藤敏章氏を「佐藤さん」と呼んだ事はない。「サトちゃん」「びんしょう」「三館王」と呼んでいた。(「三館王」というのは、高校が修猷館、大学が立命館、務めた会社が小学館、だからだ。) 私は佐藤敏章氏から「人気の事は考えなくていい」などと言われた事がない。 いつも、読者の人気投票の結果がどうのとか、人気が落ちると困るとか、人気が落ちないように手を打てとか、人気の事ばかり言われ続けて来た。 その同じ人間の口から、谷口ジロー氏には「人気の事は気にするな」という言葉が出て来るのか。 私が「男組」で佐藤敏章氏に担当をして貰ったのは1974年の事。 私が、「父の暦」のあとがきを読んだのは2018年のこと。 ああ、44年後に明らかになった真実。 私は人気を稼がなければいけない「娯楽作家」 谷口ジロー氏は人気など気にせずに書きたいように書く事が許される「芸術家」 私は「娯楽作家」である事を少しも恥じないし、多くの人々に娯楽を与える事の出来る自分の仕事を誇りに思っている。 しかし、同じ1人の編集者が私と谷口ジロー氏を別種の作家と見なしていたという事は、やはり衝撃だった。 と言ったって、サトちゃんよ、私は君の事を怒ったり恨んだりしていないよ。 それどころか、君の言うとおりに生きてきて良かったと思う。 「美味しんぼ」で多くの人が楽しんでくれた。 それも、サトちゃんのお導きですよ。 「美味しんぼ」を再開したら、また、人気トップの漫画にしますよ。 だって、サトちゃんに仕込まれたせいか、その人気トップというのがとても気持ちがいいんだもん。 谷口ジロー氏と同列に並ぼうなんて夢思わない。 大体、絵が自分で描けない漫画原作者が画家と張り合えるはずがないじゃない。 私は自分の分を心得ております。 これからも何かヒット作を書こうと、企んでおります。 また、助けてね。 「
- 2018/09/09 - みんなのデータサイト 2011年3月11日から、7年半が経とうとしています。 最近、「もう、あれから7年経つんだから」という言葉を聞きました。 その「もう」はどう繋がるのか。 なんと、「そろそろ、いいでしょう」に繋がりました。 福島の振興のために、福島の農産物、 福島の海産物、福島産の食品、の販売を促進しようと言うのです。 福島第一原発事故以来日本の環境は大きく変わりました。 本当に、「もう、あれから7年たつんだから」「そろそう、いいでしょう」なのでしょうか。 私は「美味しんぼ」第110巻、第111巻の「福島の真実」を書くために、2011年から2013年ま10月まで福島の取材を重ねて来ました。 2015年の12月はすでに「美味しんぼ」の「福島の真実」篇のスピリッツ誌掲載は終わっていましたが、その後の福島の様子を見るために福島をあちこち見て回りました。 私が最後に福島を見たのは、この2015年12月15日、16日です。 最後に見てから、2年7カ月しか経っていません。 最後に見た福島の姿と、この2年7ヶ月という時間の経過を考えると、私は「もう」とか「そろそろ」とか言う気持になれません。 「もう」か「そろそろか」それをハッキリさせるためには、福島県、それ以外の地域の放射線量を、知る必要があります。 最近は、福島安心論の声が高く、なかなか放射線量についてのニュースはあまり読んだり見たりすることが少なくなりました。 何もかも、なかったことにしようと言う勢力が大きな力を振るって、人々の口を開かせないようにしていることを感じます。 こういう中で、福島第一原発事故によって、私達が受け続けている放射能汚染を追求している「みんなのデータサイト」という市民団体があります。 今回は、この「みんなのデータサイト」を紹介し、このサイトが取り組んでいるクラウドファンディングに対する協力をお願いしたいのです。 「みんなのデータサイト」について、その一員である平井有太さんが書かれた紹介文を、以下に要約します。 「『みんなのデータサイト』は全国の土壌、食品の放射線量を市民で測り続け、蓄積したデータをネット上で公開します。 データの公開は、市民の暮らしに役立つことが願いです。 オリンピックに向け、すべてがなかったかのごとく扱われる中、 実際そこかしこにある放射性物質の存在を可視化することから、 あらゆる道が拓けていくだろうと信じています。 現在、このみんなのデータサイトが、のべ4000人のボランティアと共に17都県、3400ヶ所以上の土壌を採取し、国や行政が公表しない本当の放射能汚染の実態『「図説」17都県放射能測定マップ集』を刊行するため、クラウドファンディングに挑戦しています。 期間は8/3~9/28、金額は250万円です。 これは、ここまですべてを手弁当で実施してきたみんなのデータサイトにとって、簡単な金額ではありません。 皆さんのご協力をお願いしたいのです」 平井有太さんは私が「美味しんぼ」の「福島の真実」を書く際にご協力頂いたライター・ジャーナリストで、原発問題だけでなく社会の様々な問題に取り組んでいます。 この「みんなのデータサイト」の「『図説』17都県放射能測定マップ集」は私が最初に述べた、「もう、あれから7年たつんだから」「そろそう、いいでしょう」なのかどうか、を考えるのに役に立つと思います。 私達の生活の安全性を確かめるのに大いに力になると私は信じています。 ぜひ、クラウドファンディングにご協力下さるようお願いします。 クラウドファンディングのサイトを以下に示します。 https://motion-gallery.net/projects/minnanods 平井さんの言葉を最後にご紹介します。 「日本での日々は無力感に苛まれる日々です。 その中で、私たちは、せめて真実をかたちに残そうと、淡々と作業を続けています。」 皆さんの支援とご協力をお願いします。
- 2018/08/06 - 本田がオーストラリアに来る5月29日に膝の手術を受けて以来、その手術跡の痛みが治まらず、手術失敗だとうちひしがれてしまい、このページに何か書く意欲も湧かなかったのですが、今朝はドカーンと興奮大爆発。 数週間前に、ちらと噂が流れていて、何だか立ち消えになってしまったようでガッカリしていたら、おお、なんと、本田圭佑がオーストラリアに来ることが正式に決まりました。 残念ながら、私のいるシドニーではなく、メルボルンなのが残念。とは言え、これでメルボルンまで行く気持になります。 それにどうせ、シドニーFCとも戦うためにシドニーまで来るだろうし、わお、これで今年のAustralia Leagueは最高だぜ! 2014年、ワールドカップ ブラジル大会、レシフェでのコートジボワール戦の前半、私の目の前で本田がシュートを蹴り込んだ。 あんなにいい気持ちになった事は無い。(結局、ドログバが出て来て日本は逆転負けしけれど) あの気持ちの良い場面を、オーストラリアで見せてくれると思うと胸弾む。 小野伸二選手がシドニーのWestern Sydney Wanderers にいたときには、私の家から1時間かかるParamatta の試合場まで家族でよく行ったもんです。会場で妻のチキンカツサンドイッチを家族でむしゃむしゃ、水筒にはウィスキーの水割りをつめていって、それをぐびぐび、楽しかったねえ。 最高でしたね。 小野選手は凄い人気で、試合後、選手が観客席の前を回って挨拶をするのだが、観客が小野選手を放そうとせず、写真を撮ったり、サインを貰ったりして、他の選手が控え室に引っ込んでしまった後も、小野選手はファンに親切に応対していた。 今度も本田選手はえらい人気になるだろう。 本田選手は移籍先をオーストラリアに決めて良かった。本当ならシドニーにして欲しかったんだけれどね。 いやあ、これで、あと2〜3年生き延びる勇気が湧いてきました。
- 2018/07/11 - この国民と、この自民党一体これはどう言うことなんだ。 7月11日現在、安倍晋三氏はいまだに首相の座に居座っています。 森友学園、加計学園の問題では安倍晋三首相の責任が明らかになっているのに、安倍晋三首相は知らん顔です。蛙の面になんとやらといいますが、まさにそのままです。 冬季オリンピックに姿を現したり、トランプアメリカ大統領のご機嫌伺いに行ったり、G7の会議に出たり、羽生選手に国民栄誉賞を贈ったり、水害地を回って天皇をまねして被害者の前に膝をついて座って見せたり、恥知らずにもどんどん表に出て来る。 北朝鮮によるミサイル危機、今回の未曾有の大雨被害などがあると国民守るような発言をします。 汚職まみれで、公文書改竄などという民主主義の根幹を揺るがすことを官僚にさせてきた人間が、どうして恥ずかしげもなく偉そうに振る舞うのでしょう。 それに対して、大多数の国民は声を挙げません。 それどころか、毎日新聞の最近の調査によると安倍晋三内閣の支持率が44.9パーセントをこえ、不支持率の43.2パーセントを超えました。 安倍晋三首相を支持する人間が全体の半数近いとは・・・・・。 また、自民党の議員たちは安倍晋三首相を辞職させるように動くことをしません。 自民党の議員たちに対しては、陳舜臣の「続・中国任侠伝」が書いている中国の隋の煬帝(ようだい)の時の話が参考になります。 隋は、後漢が220年に滅びたあと、分裂状態だった中国を581年に一つにまとめた王朝で、楊堅(文帝)が開き、その息子が文帝を殺して帝位に就きました。 その二代目皇帝が煬帝です。 煬帝は洛陽に都を建設し、中国の南北を結ぶ運河を作りました。万里の長城と並ぶ大工事で、この工事のために数百万の人民が駆出されました。 父の文帝が倹約家だったのに比べて、煬帝は大変な浪費家で、運河の建設だけでなく、外征も頻繁に行い、皇帝の独裁を強めて、仏教の僧侶にも皇帝を礼拝させました。 また、長安、洛陽、揚州、と各地を回りましたが、それぞれの地方に離宮を作り、そこに多数の美女を集めました。 この煬帝の権力に恐れをなし、誰も反抗しようとしませんでした。 陳舜臣は煬帝について登場人物に語らせています。 陸統という人間が 李修と言う人間に言います。 「天子(皇帝)は確かに強い。だが、じっさい以上に強くしているのだ。分かるか?人間の心の中にある、あの恐怖心だよ。虎は強い。だが、人間が虎をむやみにこわがるので、虎はそれだけ強くなるわけだな」 「こちらが、天子をおそれるので、天子はよけい強くなるのだな?」 「そうだ。・・・・・天子を弱くするには、たった一つの方法しかない」 「それは?」 「天子がおそろしくないということを、みんなにしらせることだ。・・・・」 「そのためには?」 「そのためには、天子をおそれぬ人間もいることを、世の中の人たちにしらせなければならない」 「そうすれば、どうなるのか?」 「天子をおそれぬ気持は、病気のように、つぎつぎと伝染する。そんな連中が、あちこちで謀反を起こすようになるだろう。西に撃ち、東に撃ち、さすがの天子も弱くなる。かんじんなのは、だれが最初の人間になるかということだ。 病気でも、誰かが罹らなければひろがらない。天子をおそれぬことを示す人間が出ないかぎり、天子は安泰なのじゃ」 陸統は僧侶、李修は妹を殺されたと煬帝を恨んでいる人間です。 二人は、仲間たちと洛陽の宮殿に押し入り、宮殿の欄干の上から、 「楊広(煬帝の名前)の大馬鹿野郎の大罰当たり」と声をそろえて喉も裂けよとばかり叫びます。 結局二人は宮殿護衛の兵士たちに殺されてしまいますが、 「天子の威光をおそれず罵った人間がいる」 と言うことが世間に広まり、各地で造反、人民の抵抗が相次ぎ、それは野を焼く火のように広がりました。 やがて、上層部のなかから、隋王朝を見かぎって造反に転向する者が続出するようになり、ついに煬帝は部下に殺され、隋王朝は滅びます。 この煬帝ほどではないにしても、日本という一国を私していることでは、安倍晋三首相も日本の規模から言えば最大の権力者・皇帝でしょう。 しかし、その実際の姿はどうでしょう。 岸信介の孫、佐藤栄作の甥ということで、みんなに担がれているうちに権力者の地位に就いてしまいましたが、森友学園、加計学園の問題を見ても、恥ずかしいほど情けない卑小な人間ではありませんか。 このような人間をどうして怖がるのか。 上に挙げた、陸統と李修を見習えば良いのです。 肝心なのは、「だれが最初の人間になるか」ということです。 今の自民党の議員は、安倍晋三首相の虚像に怯えて、縮み上がっているとしか思えません。 自民党の議員諸氏におたずねしたい。あなた達には志というものがないのか。時の権力者に怯えてしっぽを振り、ひっくり返って腹を見せてへこへこ言うようなことをしている自分が情けなくならないのか。 どうか、陸統、李修を見習って頂きたい。 日本国民の今の姿については、坂口安吾が書いた「安吾新日本地理」の「飛鳥の幻」の一節を引用します。 坂口安吾は、「王様に対する民衆の自然の感情」について書いている中で次のようにいっています。敗戦後6年目、1951年に発表されたものです。 「かりに革命が起こり、別の王様が国をとる。その初代目は民衆の多くに愛されないかも知れないが、二代目はもう民衆の自然の感情の中でも王様さ。否、うまくやれば国を盗んだ一代目ですら民衆の憎悪を敬愛にかえることができるかも知れん。民衆の自然の感情はたよりないほど、『今的』なものだ。時代に即しているものだ。戦争中東条が民衆の自然な感情の中に生きていた人気と、同じ民衆の今の感情とを考え合わせれば、民衆の今的なたよりなさはハッキリしすぎるほどでしょう。たった六年前と今のこの甚だしい差。別に理論や強制、関係なく現れてきた事実だ。単に時代と共に生きつつある民衆というものの自然の感情は、永遠にかくの如きものさ。」 坂口安吾は「破滅型」とされた作家で、言いたいことを歯に衣着せず言います。 上に挙げた文章は、さすがにどうも乱暴で、民衆蔑視の気味がありますが、あえて取り上げたのは、民衆、日本国民に対して、ある程度的を得た内容だと思うからです。 戦争中は東条元首相にひれ伏していた日本人が、戦後東条元首相がアメリカによって戦犯とされると、手のひらを返したように非難する。 その変わり身を目の前に見た坂口安吾はこうも言いたくなるのでしょう。 目の前の権力者のしていることが良いことか悪いことか自分で判断せずに隷従する。 その権力者がその地位から落ちるとこんどはそのかつて自分がひれ伏していた人間を悪し様にいう。 過去から未来にかけて見通そうとせずに、「今」だけに生きる。 実に、己という物がない。 これが、現在の日本人、日本の民衆の姿ではないでしょうか。 現在の世の中を表現して、誰だか忘れましたが「金だけ、今だけ、自分だけ」と評した人がいます。 たしかに、安倍晋三首相率いる自民党はそのままでいて貰った方が当面、今の所は、具合が良いという人が多いのでしょう。 安倍晋三首相に対する支持率は今のままの方が具合が良いという人たちでしょう。 しかし、こんな「今」で、これからさきどうすればよいのでしょうか。 「今」を良くせずに私達に良き未来があるはずはありません。
- 2018/05/24 - 我々の自己責任森本学園問題、加計学園問題、自衛隊イラク日報問題、などで安倍晋三内閣は大きく揺らいでいますが、2018年5月24日現在持ちこたえており、このまま内閣を維持し続けることが出来るようです。 本当にこのまま安倍晋三内閣は政権を維持するのでしょうか。 21日の読売新聞電子版によると、内閣支持率は3ポイント上がって42%になったそうです。 この支持率であれば、安倍晋三内閣は政権を維持できます。 自衛隊イラク日報問題は小泉純一郎内閣時代の問題ですが、ここまで秘匿し続けたことには安倍晋三首相にも責任があります。 森本学園問題、加計学園問題は、安倍晋三首相とその夫人の意向が強く働いていることが明らかになっています。 両方共に、安倍晋三首相とその夫人が、首相の地位を利用して自分たちの支持者、或いは友人に便宜を図ったもので、共に巨額の税金が動いていることが指摘されています。 森本学園は土地の購入代を8億円値引きした問題ですが、加計学園問題はその税金の額が更に巨大です。 今治市が獣医学部建設用地(16.8ヘクタール)を加計学園に無償譲渡し、校舎建設費192億円の半額である96億円の債務負担行為をすることになっています。 そもそも、この50年間日本では獣医学部が新設されていません。その大きな理由は日本ではこれ以上の数の獣医師が必要とされることがないからです。 畜産物の輸入が自由化されて以来日本の畜産業が衰退して行っており、牛、豚、鶏などの産業動物を対象に診療行為などを行う獣医の数も減少するでしょう。ペットについても、犬数は減少傾向、猫の数は横ばいだと言うことです。この状況では新たに獣医学部を新設する必要はないのです。今の獣医学部の数で、日本で必要とされる獣医師の数は充分に満たされるでしょう。 この状況で獣医学部を新設する理由はありません。 理由があるとすれば、ただ一つ、加計学園の理事長加計孝太郎氏が、安倍晋三首相と深い親交があるということだけです。 5月23日にまた、佐川元国税庁長官の「(交渉記録は)廃棄した」との国会答弁に合わせるため」に学校法人「森友学園」(大阪市)への国有地売却を巡る学園側との交渉記録を廃棄していたことが明らかになりました。 森友学園、加計学園の問題は新聞やテレビ、インターネットなどで詳しく報道されているのでここで改めて述べることはないでしょう。 はっきりしているのは、森友学園問題も加計学園問題も、安倍晋三首相が関わった明白な汚職であることです。 今までに多くの自民党の政治家が汚職に関わってきた歴史があります。 しかし、その政治家はここまで汚職が明らかになる前に進んで職を辞してきました。 今回の件で、省庁の中の省庁と言われる財務省も安倍晋三首相を守るために公文書偽造、公文書廃棄、虚偽答弁を繰り返し、財務省自体が取り返しのつかない破壊的・破滅的な打撃を受けました。 安倍晋三首相は自分の身を守るために、重要な省庁である財務省を破壊してしまったのです。 汚職を重ね、財務省という省庁を破壊し、それでも、安倍晋三首相は蛙の面になんとやらで、首相の座にしがみついています。 大した根性だと思いますが、読売新聞の支持率が42%にまで上昇したことで、安倍晋三首相は「よし、大丈夫だ、」と蛙の面の皮を一層厚くしたことでしょう。 このまま、安倍晋三首相を今の地位に止めておけば、必ず憲法改正にこの国を導いていくでしょう。 今、改憲反対の人達は、9条にばかり目を向けているように私には思われます。 しかし、安倍晋三首相の主導する改憲案の中で一番恐ろしいのは、天皇を象徴ではなく「元首」にすることだと私は思います。 2012年4月に自民党は新たな憲法改正草案を決定しましたが、その中で、私が一番重要で深刻な問題大だと思うのは、天皇を「日本国の元首」と位置づけ、日の丸や君が代の尊重を義務づけたことです。 「象徴天皇」とは、大変に分かりづらい曖昧な存在でした。 しかし、「元首」となると、「象徴」のような曖昧さはなくなり、明治憲法下の「天皇」と同じ機能を持ちます。 日本は天皇を「元首」とする」「君主制国家」となってしまうのです。 安倍晋三首相の主導する改憲派は、単に「元首」とするだけではなく、「元首の尊厳を守るため」の何か法整備を企むでしょう。 「元首」の尊厳を冒してはならない、とされてしまうと、明治憲法下の「不敬罪」の復活です。 「元首」の尊厳を冒すようなこと、とは何か、それは時の権力者がいいように決めるでしょう。 「元首」に危害を加えることは、最大の犯罪とされるでしょう。 「元首」を設定し、その「元首」の尊厳を守ることを国民に受け入れさせると、政治権力者はどんなことでも出来ることになります。 2017年6月に安倍晋三内閣は「共謀罪」の趣旨を盛り込んだ改正組織的犯罪処罰法を成立させ7月11日に施行されました。 これは、「『テロリズム集団その他の組織的犯罪集団』のメンバーが、物品の手配や下見などの『準備行為』をすることを要件に、計画した段階から罪に問うもの」です。 安倍晋三内閣は「テロ等準備罪」の名称を使い「一般の人は対象外」と説明しています。 全てが曖昧で、法律を運用する人間次第でいかようにも使えます。 荒唐無稽な話ですが、ある人間が今流行のドローンを買って遊びながら、これを使えば誰かを攻撃出来るな、と言ったとします。その人間が、反戦、非戦、辺野古米軍基地建設反対、などと反政府的な意見の持ち主である場合、他への見せしめの意味もあってその人間にこの「テロ等準備罪」を適用しようと思えば、「ドローンを使った要人暗殺計画をたてた」として逮捕出来るのです。ついでに、この人間の周囲の人達も、「その計画を聞いた」とか「ドローンの操縦を教えた」とか「皆で一緒にドローンの訓練をした」などと言いがかりをつけて逮捕出来ます。 今、荒唐無稽と言いましたが、1911年に明治天皇暗殺を企てたとして、わずか3週間ほどの審理で24人に死刑宣告をし、判決から一週間後に12人は天皇の「恩命」で無期懲役に減刑されましたが、幸徳秋水を含む12人は絞首刑に処されるという「大逆事件」がありました。 「大逆」とは天皇に危害を加えることですが、死刑宣告された24人は実際に天皇殺害を計画した訳ではなく、敗戦後自由な研究が出来るようになって分かったことですが、全ては政府のでっち上げでした。死刑にされた人間のうち宮下太吉は確かに爆弾を製造し実験もし天皇に危害を加えたいという意志は持っていたようですが実際に天皇殺害計画を立てことはありません。 他の人間は、そう言う話を聞いた、とか単に警察が怪しいと決めつけた、などという理不尽な理由で逮捕され死刑に処されたのです。 この「大逆事件」の黒幕は明治維新の元勲とされた山県有朋です。山県は社会主義者を恐れ嫌っていました。この「大逆事件」は天皇の権威を絶対的に高め、天皇に逆らったらこうなる、社会主義者であるとこうなる、と国民に対する見せしめとしてでっち上げられたものでした。(「大逆事件」田中伸尚、岩波現代文庫、参照) 共謀罪もこの「大逆事件」のような使い方は可能です。政府にとってその存在が疎ましい人間を、前に述べた「ドローン要人暗殺事件」などをでっちあげてはめることも出来ます。 検察や警察が如何に恣意的に反政府的な人間を取り扱うか、沖縄米軍普天間基地の辺野古への移設に抗議する活動を続けていた山城博治氏が、2016年1月に辺野古米軍キャンプ・シュワブのゲート前でコンクリートブロックを積み上げて、工事車両の資機材搬入の妨害を図った容疑で、その後威力業務妨害容疑で逮捕され、2016年10月17日から、2017年3月18日まで、5カ月以上も長期拘留された事件をみれば明かです。 これまでに既に、権力の要請に従って恣意的な拘留を繰返している検察・警察は「共謀罪」という強い武器を手に入れたことになります。 山城博治氏の件も、「共謀罪」を当て嵌めれば、氏の友人・お仲間たちも逮捕拘留されることもあり得ます。 安倍晋三首相の企む改憲は九条問題に留まる物ではありません。 一番恐ろしいのは、今まで権力者にとって余り利用価値がない存在だった天皇を「象徴」から「元首」に変えることです。 こうすることで、権力側は明治憲法下のような圧倒的な支配力を手に入れます。 政府は「元首」となった天皇の権威を利用して、国民を支配することが出来るのです。 「元首」が権力者の最大の武器になったことは、戦前の歴史を読めばよく分かります。 日本の社会は戦前の、大日本帝国に日本は戻ってしまいます。 そのような、危険な人物安倍晋三首相をこのまま、首相の座に留めておくと、私が以上に述べたような破滅を招きます。 安倍晋三首相を首相の座から引き落とすのは国民の責任です。 このまま安倍晋三首相を首相の座に留めて将来の危険を招くとしたら、それは、現在の我々日本人の自己責任です。 私は、皆さんに、この危機を充分に認識して自己責任を十分に果たすよう訴えかけたいのです。 安倍晋三首相をやめさせるために、声を挙げて下さい。
- 2018/04/19 - 漫画村問題「漫画村」という海賊版サイトが問題となっています。 4月18日に放映されたNHKの「クロ現」によると、掲載されている漫画は5万点以上、1ヶ月のアクセス数は1億7千万ということです。 漫画を読む人が本を買って読んで下されば、その代金が出版社に入り、一部が印税として漫画家の収入になります。 出版社は本の売り上げで会社としての活動を続けることが出来、漫画家は売り上げの一部の印税で生活を支えています。 しかし、本を買って下さる人がいなくなると、出版社の経営も不可能になり、漫画家も生活していけません。 私は1974年から漫画の世界で生きています。 この海賊版漫画サイトが盛んになったのはスマートフォンが2007年に出来てからだと思います。 それまでは、このような海賊版サイトの問題はこれほど大規模なものになることはなく、漫画の読者は漫画の本を買って読んで下さっていました。 一時問題になったのは、ブックオフが中古本を売り始めたときで、その際も出版社は危機感を表明しましたが、今の海賊版サイト問題はブックオフとは比較にならない実害を漫画関係者に与えています。 ブックオフは中古本を売ると言っても、その中古本自体は一度は買われたものです。 しかし、現在の海賊版サイトの読者は中古本すら買わずに、一切お金を払わずに読んでいるのです。 このような海賊版サイトは私たち漫画関係者だけでなく、他の出版物にも手ひどい痛手を与えます。 小学館は、日本で最大の国語辞典、「小学館国語大辞典」(第二版で全13巻、別冊1巻、50万項目、100万用例)を発行しています。このような大辞典を編纂するのには巨額の費用がかかります。 発行した所で、利益は薄いと思われます。 しかし、そのような国民的財産とも言うべき「国語大辞典」の編纂、出版を可能にしたのは、漫画の売り上げがあったからだと言われています。私は、その通りだろうと思います。 小学館、講談社は優れた本を数多く出版しています。中には、大変に優れた出版物ではあるが大衆性はないので、利益は余り望めない物も少なくありません。 売上利益は余り望めないが、優れた本を出版することが出来るのも、両社は漫画で大きな利益を上げているからです。 もし、海賊版サイトがこのままの勢いで増えていけば、出版社の売り上げは減り、漫画だけでなく、それ以外の優れた出版物も出せなくなります。 私が漫画の世界に入ったときは、このような問題に遭遇することはなく、良い作品を書けば読者が本を買って読んで下さって、それによって印税収入を得られるということを当てに出来ました。 しかし、NHKの番組の中で若い漫画家が言っていましたが、連載中に海賊版サイトにアップロードされてしまっては、たまった物ではありません。 通常の漫画は月刊誌なり週刊誌なりに連載をして、その10話分ほどをまとめて1冊の単行本にします。 それを、単行本にする前に無料でいつでも読める状態にされてしまえば、その単行本の売り上げに悪影響が出るのは当然です。 通常、雑誌連載で読んで面白かったから単行本にまとめられたら買う、というのがこれまでの読者と漫画の関係でした。 その関係を海賊本サイトは壊してしまいます。 いつでも、どこでも、何度でも、無料で読めるとなれば、単行本を買う必要がないと考える人間がいても不思議ではありません。 漫画家の生活は楽な物ではありません。 雑誌の連載となると漫画家一人ではできません。数人のアシスタントの助力が必要です。アシスタントを雇う費用は出版社からは出ません。漫画家が支払います。 毎回、原稿料は出版社から支払われますが、原稿料だけでは、アシスタントや仕事場の家賃などの費用を支払うとかつかつか、赤字になります。 ですから、単行本の売り上げからの印税は漫画家にとって命の綱なのです。 その単行本が売れなくなることは、漫画家は生活が出来なくなることを意味します。 この状況が続けば、更に悪化すれば、漫画家は生活できないので漫画をやめて他に生活の手段を見つけなければならなくなります。 このままでは、漫画家の数は減っていくでしょう。 と言うことは、漫画作品の数も減ることです。 漫画作品が減ってしまえば、海賊版サイトで無料で漫画を読もうと思っても、読むことの出来る漫画作品自体がないという事態になります。 更に状況が悪化すれば、日本の漫画そのものが消えてしまうことになります。 大げさに言っているように思われるかも知れませんが、このインターネットが社会に与える影響は加速度的に大きくなっています。 今言ったような最悪の状況も、あり得る、と思わなければならないでしょう。 しかし、しかしです。 今回の政府が緊急対策として発表した、ブロッキングでサイトに対するアクセスを防ぐと言う手法には強く反対します。 それに対する議論も正式に行われておらず、法的な根拠もなく、政府の考えだけで、一つのサイトをブロックするなど、飛んでもないことだと思います。 これは、強権政治の典型だと思います。言語道断です。 一度、このようなブロッキングを許すと、次には、「緊急対策」と称して政府に都合の悪いサイトをブロックするのは容易になるでしょう。 安倍晋三内閣のこれまでの政治の動かし方を見ていると、私の心配は杞憂だとは思えません。 「共謀罪」法案が強引に押し通された今、安倍晋三首相でなくとも、その後を継ぐ政治家が、「共謀罪」を盾にしてどんなことでも取り締まりの対象にすることは容易に想像できます。 そうなると、サイトのブロックということは、政府にとって有力な手段になります。 この海賊版サイトの基本的な問題は、読者の考えだと思います。 正直に言えば、漫画家に限らず、物を書く人間は自分の書いた物を誰かに読んで貰うとそれだけ大変に嬉しい物なのです。 物を書く人間は最初から報酬を考えてはいないと思います。本当に欲しいのは読者の共感です。読んで下さるだけでなく、讃めたりされると天にも昇る思いがします。これが物書きの本心です。 しかし、悩ましいのは、読んで貰って嬉しい、と言うだけでは生活が出来ず、製作活動も出来なくなることです。 その点を漫画を愛し読んで下さる読者の皆さんにもお考え頂き、広範に意見を交わし、どうすれば良いのかその解決策を見出して頂きたいと思うのです。
- 2018/03/20 - 財務省の文書改竄私の友人から、 「今回の財務省による書類の改ざん/隠蔽の顛末についてどう思うか、答えよ」 というメールが来ました。 私は、この問題については考えたくもないと思っているのですが、長い間いろいろと面倒を見てもらい、大変にお世話になっている友人なので、その恩義に応えるために何か言わなければなりません。 森友学園の経営する塚本幼稚園が幼稚園児に教育勅語を暗唱させたりするのは、「曲がった愛国主義」と捉えざるを得ません。 私はインターネットでその様子を見ましたが、あのような教育を幼稚園児にする人間の心の中を想像すると腹の底まで冷え冷えとします。 しかし、今問題とするのは、教育の中身ではありません。 あの財務省の文章改竄という犯罪行為についてです。 犯罪行為を行ったのは財務省の人間です。 しかし、「減点主義の役人が自らの意志で書き換えのような危険を冒す訳がない」ので、財務省を支配する権力者の意向に従ったものであると考えるのが自然でしょう。 改竄された文章という現物証拠がありながら、しかも文章を改竄したことを当の財務省が認めていながら、財務省の担当官僚が改竄せざるを得ない空気を作り出した張本人がしらを切り通している限り問題は解決しない、という不思議な状況に今の日本の社会はあるのです。 それは、誰も表だってその張本人の名前を言わないからです。 なぜ誰も、張本人の名前をはっきりと言わないのでしょう。 この文書の原本の存在を突き止め、文書改竄問題を報道したのは朝日新聞でした。 続いて、毎日新聞も改竄される以前の文書の存在を突き止めたことを報道しました。 なぜ、朝日新聞と毎日新聞だけだったのか。 他の新聞社は無能だったのか。 私はそうは思いません。 はっきり言えば、この問題に踏み込む勇気がなかったのでしょう。 朝日新聞が何故勇気を振り絞ったのか。 それは、朝日新聞がこの文書改竄問題を取り上げる寸前に、安倍晋三首相との対立があったからだと私は考えます。 この対立問題について、長くなりますが、書いておきます。 というのは、現在問題になっている財務省の文書改竄はこの対立時に既に始まっていたのではないかという疑問を私は強く抱くからです。 当時の報道をまとめると、 A)朝日新聞は2017年5月に、森友学園の籠池泰典・前理事長が証言したとして、小学校の設置趣意書に「安倍晋三記念小学校」との校名を記して財務省に提出した、と報道した。 B)財務省は、同年11月に立憲民主党にその設置趣意書を開示したがその中には、校名は「安倍晋三記念小学校」ではなく「開成小学校」となっていた。 C)2018年2月5日の衆院予算委員会で、安倍晋三首相は「裏取りをしない記事は記事とは言えない」と批判した。 D)翌6日朝日新聞はその報道経緯についての記事を第7面に載せた。 その中で朝日新聞は、 イ)「安倍晋三記念小学校」の名称は、学園が建設計画を進めていた当初、使っていた校名だった。 ロ)学園が14年春ごろ、運営する幼稚園の保護者に配ったとされる小学校への寄付金の「払込取扱票」には、安倍晋三記念小学校という文言が印刷されていた。前理事長も一時期、この校名で寄付金を募っていたと認めている。 ハ)2017年5月8日、衆院予算委員会で当時民進党の福島伸亨氏が財務省から開示された設置趣意書を示し、開示された文書のほとんどが黒塗りだったことを示した。(この文書を見たことのない人のために、5月22日の「週刊金曜日オンライン」から引用させて頂き、掲載します。無断引用で申し訳ないことですが、私が「週刊金曜日」創刊時からの定期購読者であることを考慮に入れて大目に見て下るよう「週刊金曜日」にお願いします。 写真はクリックすると大きくなります この文書を見ると、文書の題名として「・・・・・」設置趣意書となっています。「・・・・・」の部分には設置する小学校名が入っているはずですがその部分が黒塗りになっています。 題名だけではなく、全部で100ページほどある文書の中で、黒塗りでないのは9ページだけ、と川内博文・元衆院議員は「週刊金曜日オンライン」の私が写真を引用したのと同じ記事内で証言しています。 それにしても、殆ど全てを黒塗りにした文書を「開示」と称して提示する財務省のこのやり方は、国民を徹底的に馬鹿にしたものでは無いでしょうか。 これは「開示」ではなく、「隠蔽」ではありませんか。) ニ)福島伸亨氏は、その部分には「安倍晋三記念小学院(学校)」と書かれていたのではないかと質問。前理事長らに開示の同意を得たとし、説明を求めた。 同省の理財局長だった佐川氏は「学校の運営方針に関わることなので、情報公開法の不開示情報になっている」と拒み、前理事長の同意があっても、学園が民事再生手続き中であることを理由に、開示するとしても管財人への確認が必要だとも説明した。福島氏は「タイトル(文章の題名)がなぜ不開示なのか」と批判していた。 ホ)財務省が説明を拒んでいる以上、当事者の前理事長にどう記載したかを確認する必要があると考え、朝日新聞は同日の国会審議後にあったインタビューで複数回にわたって質問。前理事長は「安倍晋三記念小学校」と設置趣意書に記載したと答えた。 ヘ)記事では前理事長の証言にもとづき、「籠池泰典氏が8日夜、朝日新聞の取材に応じ、『安倍晋三記念小学校』との校名を記した設立趣意書を2013年に財務省近畿財務局に出したと明らかにした」と報じた。 ト)財務省は前理事長のインタビューから半年たった昨年11月、立憲民主党に対し、管財人から「開示されても支障がない」との意見書を得たとして、設置趣意書を開示。実際には小学校名が「開成小学校」と記載されていた。 チ)安倍晋三首相は5日の衆院予算委で「(昭恵氏が)棟上げ式に行ったと籠池さんが証言した。これも朝日新聞が大々的に報道した」と述べた。今年1月28日付の朝刊「首相夫人に言及 減額迫る」との記事を指していると見られる。 この記事では、前理事長ら学園側が16年春、国に土地の購入を申入れた時期の協議で「棟上げ式の時に首相夫人が来られることになっている」と言及しながら国有地の減額を求めていたことを音声データをもとに報じた。前理事長は「棟上げ式に来た」とは述べておらず、記事中にもそのような表現はない。 以上のようなことを書いた後に朝日新聞はさらに「森友学園への国有地売却問題と小学校の名称をめぐる経緯」として、2017年5月の記事が書かれた経緯を細かく書いています。 その中には、 ⅰ)2014年10月、学園側が大阪府に設置認可申請書を提出した。府教育庁の幹部によると、名称は「瑞穂の國記念小学院」となっていたが、申請前には仮称として「安倍晋三記念小学校」という名称も使っていた。 ⅱ)2017年3月、籠池泰典前理事長が、国会の証人喚問で「当初は安倍晋三記念小学校とするつもりだったが、昭恵夫人から首相の名前を使うことを遠慮して欲しいという旨の申し出があった」と証言。 などと、細かなことまで記載されています。 E)この朝日新聞の経緯説明が掲載されると、自民党の和田政宗参議院が、6日、フェイスブックの個人用アカウントで「謝れない朝日新聞」と批判した。朝日新聞の記事に「籠池氏の手元にあるはずの設置趣意書のコピーを記者が確認したかについて一切触れていない」と言い、「すなわち、していないと暗に認めた。やるべき取材をせずに、籠池氏の証言のみに頼って記事にし、結局誤報となったわけだが、全く謝罪なし」と批判した。 F)すると、安倍晋三首相が個人用アカウントで、「哀れですね。朝日らしい惨めな言い訳。予想通りでした」と書き込んだ。 さて、以上、長くなりましたが、A)からEまでに、朝日新聞が今回財務省の改竄問題を取り上げる前にあった安倍晋三首相との対立をまとめました。 長くなって恐縮ですが、ここまでは最低書かないとこの問題の理解は難しいと思うので、我慢して読んで下さい。 今回財務省の文書改竄問題が明らかになった段階で、安倍晋三首相と朝日新聞の対立を考え直すと、これまで考えることも出来なかったことを考えられるようになりました。 Ⅰ)その第一は黒塗り文書の問題です。 ここまで黒塗りにして何が情報開示なのだ、と驚きませんか。 しかも、文書の題名にある小学校名まで塗り潰してあります。 これでは何が何だか分からない。 この黒塗りについては、例の佐川氏が、「学校の運営方針に関わることなので、情報公開法の不開示情報になっている。前理事長の同意があっても、学園が民事再生手続き中であることを理由に、開示するとしても管財人への確認が必要だ」と説明しました。 要するに、学園のために黒塗りにした、と言っているのです。 「管財人への確認が必要だ」というのなら、どうしてその確認を得ようとしないのか。実に奇々怪々な答弁です。 佐川氏の言うことはいつもその場限りの言い訳です。 Ⅱ)第二は、財務省は前理事長のインタビューから半年たった2017年11月、管財人から「開示されても支障がない」との意見書を得たとして、設置趣意書を開示したことです。 その開示された文書には小学校の名前が安倍晋三記念小学校ではなく開成小学校となっていました。 さて、このⅠ)とⅡ)について、じっくり考えて下さい。 「なあんだ、黒塗りの下に書かれていたの開成小学校だったのか」とあっさり納得してしまった方、もう一度 「財務省は文書を改竄する役所である。しかも、佐川氏のようにその責任者もその場をごまかすための虚偽を述べ立てる。」 という事実を補助線にして考え直してみて下さい。 私は今や、この黒塗りの下から現れた文書も改竄の疑いが濃厚だと思います。 黒塗りを外してみれば、その下から「安倍晋三記念小学校」ではなく、「開成小学校」が現れたとは、まるで種も仕掛けも見え見えの下手な手品ではありませんか。 3月19日の参院予算委員会集中審議で財務省の太田充・理財局長は、現在問題になっている文書が改竄されたのは「2017年4月4日」であると説明しています。 2017年5月8日、衆院予算委員会で当時民進党の福島伸亨氏が示した財務省から開示された森友学園小学校設置趣意書は黒塗りでした。 3月19日に太田充・理財局長が説明した文書改竄時期の後です。 であれば、今回問題になった文書の改竄の際に、設置趣意書の内容も危ないと見て黒塗りにしたと考えるのは自然でしょう。 そして、その時期から11月に開示するまでの間に、黒塗りだった部分を「開成小学校」としたと考えても推理小説の読み過ぎのせいだとは言えないでしょう。 私のこの推理が正しいかどうかは籠池前理事長に確かめるのが一番です。あるいは、それしかないかも知れません。 しかし、それは出来ません。 籠池前理事長とその夫人は今まで6ヶ月以上も拘留され続けています。 日本のこの拘置・拘留制度は極めて政権の都合の良いように使われています。 2016年沖縄平和運動センターの山城博治氏が、米軍ヘリコプター離着陸帯(ヘリパッド)建設現場近くで鉄線を切断した疑いで逮捕され、2017年3月まで約五ヶ月拘留されたのがその一例です。 籠池前理事長は2017年3月に国会の証人喚問で色々と証言しました。 籠池前理事長が長期拘留されているのは、国会証人喚問の時より更に踏み込んだ証言をされるのを防ぐためでしょう。 私は今回の文書改竄問題とならんで、この設置趣意書問題も「本物の原文書」を開示して、真実を明らかにするべきだと思います。 籠池前理事長夫妻を直ちに釈放して、真実の解明をするべきだと思います。 籠池前理事長夫妻は若いとは言えない年齢です。その夫妻を拘置所に勾留し続けるとはなんという残酷な話でしょう。拘置所に勾留されて拘禁症で苦しんだ人の話を幾つか聞いています。 何のためにこんな長期間拘留するのか。これは拷問ではありませんか。 籠池前理事長夫妻の森友学園での教育方針や、国有地を不当な安値で購入した件については、私は強く批判したいと思いますが、長期拘留されて精神を痛めつけられたことについては深く同情します。 以上が、今回の改竄文書問題を朝日新聞が報道する以前に安倍晋三首相と対立した件についての事実関係と、それから得られた私の考えです。 安倍晋三首相は、設置趣意書の件で朝日新聞を「哀れですね。朝日らしい惨めな言い訳。予想通りでした」と言いました。 私はその安倍晋三首相の言葉が朝日新聞の闘志をかき立ててしまったのだと思います。 ここまで言われたら朝日新聞としても「このままでは済まされない」と発憤したのでしょう。 安倍晋三首相は墓穴を掘ってしまったというところです。 最初に私は何故朝日新聞だけがこの問題取り上げたのかと書きました。他の新聞が無能だったわけではない。 ただ、朝日新聞は安倍晋三首相に悪し様に言われたままでは朝日新聞がつぶれてしまうという危機感をいだき、発憤したからだと思います。 だらだらと長くなってしまったのでまとめましょう。 ◎この文書改竄を安倍晋三首相が命じたという確証はまだ出ていない。予算委員会集中審議を見ても、財務省は佐川氏に責任を全部負わせている。 ◎しかし、この改竄で誰が一番得をしたか考えて見れば改竄を命じた人間は誰なのか容易に推測がつく。 ◎文書改竄は設置趣意書についても疑われる。 ◎Youtubeに安倍晋三首相夫人昭恵氏が森友学園を訪問した時の動画が多数残されている。 それを見れば安倍晋三首相の夫人昭恵氏が森友学園と浅くない関係にある事はどんなに鈍い人間にもよく分かる。 ◎安倍晋三首相は2017年2月17日の衆院予算委員会で、森友学園の小学校認可や国有地払下げに関して「私や妻が関係していたということになれば、首相も国会議員も辞める」と言っている。 ここまで、昭恵夫人の関わりが濃厚に示されたからには安倍晋三首相は辞めるべきだ。 これ以上安倍晋三首相が今の地位にしがみついていれば、国政の混乱は甚だしくなる。 また最初に戻りますが、朝日新聞も含めてなぜだれもが、改竄を引き起こした張本人の名前を言わないのでしょうか。 それは、財務省の担当者がはっきりと張本人の名前を挙げるか、安倍晋三首相本人が認めない限り、「改竄を命じた張本人は安倍晋三首相である」であると言う確証はないことになり、うっかりそのようなことを書くと安倍晋三首相側から攻撃されることを恐れてのことでしょう。 私も今回、うっかりしたことを書かないように気をつけて書きました。 しかし、もう、その心配もなくなる日は近いと思います。 3月19日の新聞各紙は、世論調査の結果安倍晋三首相内閣の支持率が40パーセントを切ったことを報道しています。 安倍晋三首相は人々を覚醒させました。 安倍晋三首相は、プーチン、習近平、金正恩、とは違います。 人心が離れれば、その座を追われます。 今度の文書改竄問題は本当に汚らしい話です。 早くきれいな結末を付けるのは私達国民の責任です。
- 2018/02/23 - あれから一週間まず嬉しいお知らせです。 2017年5月27日のこのページで書いた、木村巴さんの「憤怒」の展示が3月1日から13日まで、伊東市の「池田20世紀美術館」で行われます。 また、同時に、木村巴さんの新作「太陽の末裔」も展示されます。 この展示会は、「伊東市全国絵画公募展」として隔年に行われるもので、木村巴さんの「憤怒」は前回は大賞を獲得、「太陽の末裔」は今回入選した物です。前回の大賞獲得作品なので、今回も「憤怒」は展示されるのだそうです。 「太陽の末裔」は私はまだ見ていませんが、木村さんによれば、「安倍政権となって『全ての女性が輝く社会』と自信を持って公約していることに対して自分の考えを表現して見た」ものと言うことです。 政治的な主張の有る絵画はともすると主張ばかりが強調され、芸術性が薄れてしまうのですが、「憤怒」の場合、そのように表層に流れる物ではなく非常に深く人の心をとらえるものとなっていました。 「太陽の末裔」も楽しみです。 伊東というと遠いように思えますが、東京近辺にお住まいの方からすれば、日帰りの小旅行にうってつけではありませんか。絵画展を見た後、伊東周辺で温泉に入って一泊というのもこれは悪くないですねー。 是非お出かけ下さい。最近、国宝展とか、若冲展などは、入場まで3時間待ちなどと言うことがざらにありました。 「憤怒」は並ぶのに値する作品です。 さてさて、あれから一週間経ちました。 あれから、って何のことかですって? 男子フィギュアスケートの羽生弓絃選手と、スピードスケート女子短距離の小平奈緒選手のことですよ。 土曜日の、男子フィギュアスケートの決勝戦は大変でした。 いや、羽生選手が大変なのは当然ですが私の家が大変だった。私の次女はフィギュアスケートの大フアンで、ソチオリンピックで浅田真央選手がまさかの失敗をしたときには、泣いて大変でした。 今回も羽生選手のことで頭がいっぱいになっていて、金曜日に羽生選手がSPで首位に立つと有頂天になると同時に、 「明日の決勝は」と猛然と心配し始める。 土曜日の決勝戦は、妻が次女と並んでインターネット経由で見ていましたが、妻の観測によると、いざ羽生選手が滑り始めると次女は呼吸をしなくなり、手の体温が下がって冷たくなったと言います。 だから、羽生選手が金メダルを取ったときの喜びようと言ったらすさまじかった。 私の長女は家から離れてアパートに住んでいますが、週に何度か我が家に戻ってきて夕食を一緒にします。 しかし、土曜日は、「もし羽生選手が負けたら、家に来るのは止めようと思っていた」と言います。 みんな、そのような場合に次女の傍にいたくないというのが本音でした。 羽生選手が勝ってくれて本当に良かった。テレビのニュースでは、日本中のあちこちでテレビを見ながら泣いている女性の姿を写しましたが、私の家でも同じでしたよ。 しかし、その日、日曜日とNHKはすごかった。いったい何度羽生選手の演技を繰り返し放送したことか。 私が次女に、さすがにこれはやりすぎで飽きるだろう、といったら、次女は、何度見ても良いと答えました。 私が羽生選手はすごいと思うのは、これだけ日本中から期待をかけられ、しかもけがから回復して4回転ジャンプを跳び始めたの2週間前だというのに、その痛みをこらえてきちんと滑りきったところです。 これまで、日本の選手は試合前に金メダルは確実などと言われていても実戦になると負けてしまうことが多かった。というか、ほとんどそうだった。 しかし、羽生選手は期待通り金メダルを取った。私はその精神の強さに心を打たれました。 なんという強い心を持っているのだろうか。 小平奈緒選手もすごかった。勝利をつかんだこともすごいけれど、良い記録を出した後、観客席が湧いているのを見て、唇に指を当てて、「しーっ」と言いながら、観客席の前を走りました。静かにしないと次に滑る選手に悪影響おを及ぼすと、自分が良い成績をあげるとすぐに競争相手のことを思いやったのです。 これは見事でしたね。金メダル自体も素晴らしいけれど、この思いやりがなんとも価値のある行為だったと思います。 小平選手と韓国の、世界記録保持者でこれまでオリンピック2連覇の李相花(イサンファ)選手との友情物語も素晴らしい。 地元で絶対に勝ちたい李相花(イサンファ)選手は負けて泣いていましたが、それでも、小平奈緒と抱き合って祝福していました。これまでも李相花選手は小平奈緒選手にいろいろとよくしてくれていたそうです。自分と戦う相手によくして上げた李相花選手の度量は広いと思います。二人は友人同士だそうです。互いに相手を認め合って戦う、本当の好敵手同士だったんですね。 どうも、オリンピックとかサッカーのW杯になると、俄然愛国心の塊になります。 日の丸は苦手で、君が代はもっと苦手ですが、本当の愛国心というのは日の丸や君が代を越えたところにあるのだと私は思います。 私の家ではまだ夕食時は羽生選手の話題で、良かった良かった、とみんな笑顔です。
- 2018/01/20 - 田園調布1月20日、NHKテレビの、「ブラタモリ」を見ました。 田園調布をタモリが歩くという番組でした。 妻に、「ブラタモリで田園調布をやっているわよ」と教えられて、テレビのスイッチを入れました。 田園調布は、番組の中でも言っていましたが、西口と東口とは趣が違います。 私は、1948年に九州の赤池という炭砿町からいきなり田園調布に引っ越してきたので、中学生頃まで、田園調布がほかの町とは大分趣が違うと言うことを理解していませんでした。 私は最初に東口に1年半ほど住み、それから1968年の12月までは西口に住みました。 実は去年、弟と姉と妻とで西口探訪をしました。 余りの変わりぶりに、心底驚きました。 一言で言えば「これは田園調布ではない」。 1968年以前は、田園調布の家は最低で敷地が150坪、その家も道に面した部分は庭に作る決まりがありました。塀は石垣、板塀は許されず、生垣であることと決められていました。 道を歩いていて、庭越しにその家がよく見えるのです。 私の家はその決まりに反して板塀を巡らしていたので心苦しい思いをしました。 去年自分で見て回った田園調布は、私の田園調布ではありませんでした。 かつて私が良く知っていた家の土地に、三軒もの家が建っている。 庭なんて道から見えません。 信じられないくらいに土地が細分化されていてそこに妙に金をかけたような趣味の悪い家がびっちりと建ち並んでいました。その、家と家の間に庭がない。これは田園調布ではない、と私は思いました。 「誰々さんの家、何々ちゃんの家」と私の知っている人の家を探したのですが、あまりに土地が細分化されてしまっていて、どこが誰の家だったか分からない。 「ブラタモリ」で変わり果てた田園調布を、その由来から土地の人間が話すのを聞いて非常に違和感を覚えました。 田園調布について番組の中で語る人は、そば屋の「兵隊屋」の女性の他は皆さんお若い。 一番年配の方でも50歳代後半ではないか。 私が田園調布に住んでいた頃には生まれてもいなかった人達が田園調布について語る。冗談じゃないよ。と私は思いました。その人たちには田園調布で暮らしていた生活感がない。 さらに、「ブラタモリ」では、西口の一番大事な「宝来公園」を取り上げませんでした。 私の田園調布での一番楽しい思い出を作ってくれた宝来公園。 西口から放射線状に伸びる道の中で、その真ん中の突き当たりに宝来公園はあります。 私の家はその公園のすぐ下にありました。 学校に行くのも電車の駅に行くのにも、毎日その宝来公園の中を通り抜けたのです。公園は斜面に作られているので、一段、二段、三段と段差を作ってそれぞれに平面を設けてありましたが、それは公園の中心部分であってその両側は自然の斜面のままで様々な樹木も茂っていました。 誰かが、宝来公園を見て「武蔵野の面影が残っていますね」と言いました。はたして、田園調布が武蔵野の範囲に入るのかどうか分かりませんでしたが、その言葉で、田園調布、少なくとも宝来公園は昔の自然の趣を残しているのだと納得した覚えがあります。 斜面をそのまま使った宝来公園の一番下には池があります。 その公園の斜面の自然の林や、自然の環境を保った池でどれだけ私達は楽しい日々を過ごしたか。 田園調布の西口を語るのに宝来公園を抜かしたのは「ブラタモリ」の大きなな間違いだと、私は言いたいのです。 とは言え、私達田園調布小学校を卒業した人間の中で、いまだに田園調布の西口に住んでいるのは三人くらいしかいません。 私だって1968年に鎌倉に引っ越した。 そういう人間が何か言うのはおかしいけれど、「ブラタモリ」の田園調布は、本当の田園調布ではないと声を高めたいのです。 単に昔を懐かしがる老人の繰り言ではありますが。
- 2018/01/20 - 「しっぽの声」私の家には、1匹の犬と、2匹の猫がいます。 3匹とも、私達が望んで貰ったり買ったりしたのではありません。 私の次女は獣医で、近くのペットクリニックで働いています。 犬も猫も、次女が引きとってきたのです。 犬は、ラブラドール・リトリーバーで、5年ほど前に、次女のクリニックに自分の犬の診察に連れて来ていた夫婦が、「今まで一軒家に住んでいたけれど今度事情があって、アパートに越すことになった。アパートでは犬が飼えないので誰か引きとってくれる人はいないだろうか」と相談に来ました。すると、クリニックの人間全員が次女を見つめたそうです。 次女はその数年前に可愛がっていた犬を失って、新しい犬を欲しがっていたことをクリニックの人達は良く知っていたのです。次女は、抵抗出来ずに、その犬を連れ帰ってきてしまいました。 3年ほど前に、今度は迷子の子猫が次女のクリニックに連れて来られました。 下水口にはまって動けなくなっている所を救助されたと言うことで、調べてみるとオーストラリアでは飼い猫飼い犬には必ず飼い主の情報を示す半導体のチップを埋めなければなりませんが、その子猫にはチップが埋め込まれていない。雄猫なのに去勢されていない。(オーストラリアでは犬も猫も繁殖を目的としないなら、雄でも雌でも避妊手術をすることになっています) しかも、その周辺のクリニックに迷子の届け出が出ていない。 それから察するに、この猫の飼い主は、この猫を粗末に扱っているのではないか。それでは、別の飼い主を探した方が良いという結論に達し、また、クリニックの一同が次女を見つめたそうです。 アメリカンショートヘアのその猫は我が家にやってきました。 そして去年、クリニックに近所の人が近くの路地に置かれていたと言って段ボールの箱を持込みました。 箱はテープで密閉されていて、周囲に幾つか穴が開けられている。 中を開けると、母猫と3匹の子猫が入れられていました。 元の飼い主が、親子もろとも猫を捨てたのです。 呼吸できるようにと穴を開けて置いたとは言え、段ボール箱に入れてテープで密閉して、自分の家から離れた所に置き去りにするとは残酷すぎます。 その話を次女から聞いた私と長男が逆上してしまいました。 「何て残酷なことをする奴がいるんだ」「うちに連れて来い。」「母子4匹ともうちで飼ってやる」 私と長男の勢いに次女は驚いていましたが、翌日一匹の子猫を連れて来ました。 3匹の中でも一番活発なのを選んだそうです。 幸いなことに、母親と子猫を全部引きとるという人が現れて、母親と2匹の子猫はその人にまとめて引き取られていきました。 こんな具合に、私の家の1匹の犬と2匹の猫は、最悪の場合処分されてしまうかも知れない所を次女に救われたのです。 そのほかにも、今は死んでしまいましたが、あと一週間引き取り手が現れなければ殺処分になるという犬も救いました。オーストラリア原産のディンゴとシェパードとの混血で、素晴らしく美しい犬だったので、これは子供を増やそうと思ったら、その犬はすでに去勢ずみでした。 日本でも家を買った時に前の持ち主が老齢の犬を殺処分するというのを、置いて行かせて私たちで面倒を見ました。 こんな我が家の犬猫話を書いたのは、「しっぽの声」というマンガをご紹介したいからです。 原作・夏緑 作画・ちくやままさよし で、小学館から刊行されています。(現在、ビッグコミックオリジナルに連載中) 「しっぽの声」とは、このマンガに協力している、杉本彩 公益財団法人動物環境・福祉協会Eva代表、のあとがきによれば、「しっぽを持つ全ての動物たちの声なき声とその尊い魂を伝えたい」という志を表すものだということです。 日本でも犬や猫が多く飼われていて、猫カフェ、犬カフェさらにはキツネ牧場まであって、ペット好きなように見えます。 犬や猫のことを描いた漫画も数多くあって、昨年亡くなった谷口ジローの「犬を飼う」という作品は、しみじみと深く胸を打つ名作です。 しかし、この「しっぽの声」はそのようにしみじみとした内容のマンガではありません。 次女の読後感は「つらすぎる」というものでした。 このマンガのこれからの展開がどうなるのか分かりませんが、第1巻で取り扱われているのは、人間が如何に犬猫を苦しめているかという問題です。 身勝手な飼い方で犬や猫を苦しめる飼い主、ペットを商品としてしか考えずに儲け本位で犬猫を売買する業者。 その犬猫の悲惨な実状。 そのような犬猫の虐待の実状をこのマンガは鋭く丁寧に描いています。 犬猫と人間との心温まる物語、ではなく、犬や猫に対する人間の所業の心も凍る残酷さが描かれているのです。 しかし主人公たちは、そのような犬猫を救うことに全力を尽くす素晴らしい人間です。 如何に主人公たちが犬猫を守るために奮闘するかが物語の筋です。 (どんな物語かは敢えて書きません。) 私はペットショップのショーウインドウの中の子犬や子猫を見るのが好きで、近くのペットショップをのぞくのが楽しみだったのですが、いつの頃からか、「また、ショーウインドウの中の子犬と子猫が変わっている。前の子犬と子猫はちゃんと売れたんだろうか。もし売れ残ったとしたら、その子犬たち子猫たちはどうなったんだろう」と考えるようになってしまい、悪い結果を考えるとペットショップの子犬や子猫を見るのが辛くなっていたのです。 そこに、この「しっぽの声」を読んだのです。 現実は私が想像していたよりももっと苛烈なものであることを思い知らされました。 犬や猫を愛する人なら、どうかこの「しっぽの声」を読んで下さい。 私は獣医の次女によく言います。 「君のしていることは人類が他の多くの動物に対して行っている犯罪の、わずかではあるが、大事な罪滅ぼしなんだ。非常に価値の有ることをしているんだ」 こういうことを言うとすぐに、「牛や豚の肉を旨い旨いと食べておきながら、偽善的なことを言うな」と反撥する人がいます。 そのようなことを言うのは、人間存在の真実を知らない人間です。 人は自分の命を保つために動物にせよ植物にせよ自分以外の命あるものを食べなければ生きて行けない存在です。 私も切羽詰まれば、飼い犬でも飼い猫でも殺して食べるでしょう。 しかし、そのような極論を言うのは馬鹿げたことです。 遊びや身勝手で他の生命を奪うのは悪業であることを認識して頂きたいのです。 「しっぽの声」読んで下さい。
- 2018/01/15 - 今年こそ良い年に今年もよろしくお願いします。 今年こそ良い年になるように、ちょいと良い話から始めましょう。 皆さんはフリー のソフト(最近はアプリという方が一般的みたいですね)を使っているでしょう。 フリーだけれど、気にいったら購入してくれ、とか、寄付をしてくれ、というソフトがありますよね。 私も幾つかフリーのソフトを使っていますが、ある程度使ってこれは良いと思ったら購入したり、寄付したりすることにしています。 私は、ソフトを作ることがどんなに大変か良く知っているので、そのような苦労の結晶をただで使うのは心苦しいし、適当な値段であればその対価を支払うことが当然だと思っています。 そうすることでソフトを造る人の経済的手助けになるし、励みにもなります。 だれもお金を払ってくれなければ造る人も意欲を失ってしまい作らなくなる。 結局私達がそのような便利なソフトを手に入れることも出来なくなってしまいます。 作ってくれる人、使う人がそれぞれ助け合ってこそ世の中うまくいくのだと思います。 インターネットでブラウジングしていて、鬱陶しいのはどこかのサイトに行くと強制的に見せられる広告です。 その広告をブロックしてくれるソフトがあります。 AdBlockというソフトです。 私はそれを長い間使っていましたが、気が着いたら、お金を全然払っていなかった。 で、今回20ドル(オーストラリアドル)寄付しました。 すると、折り返し、お礼のメールが来ました。 そのメールが、とても嬉しかったのです。 かれらはめ-るの最初に、「このメールは寄付をしてくれた人に自動的におくるものだが、どうか最後まで読んでほしい。 最後に重要なことを書いてあるからといいます。 よんでみると, まず、レシート。 つぎに、AdBlock、についてのhelp などが書かれていて,最後に気が変わって寄付金返してくれという人のためにどうすれば良いかが書かれている。大変に良心的です。 そして、これからが大事な部分ですと言って言葉を続けます。 ちょっと良い文章なので私が拙く訳すより本物の方がいいと考えてそのままを載せてしまいます。 ***** OK, and now the important part: ***** We wanted to say THANK YOU for supporting AdBlock. We created AdBlock hoping to make people's lives better, and you just told us that we managed to do it :) Thank you very, very much! You are so great! We are a small team. We keep AdBlock running solely through asking users to pay what they can afford for AdBlock. Most users simply aren't paying, so your contribution is even more appreciated! Thank you from the entire AdBlock team. We feel this is important work. AdBlock simply couldn't keep going without the support of kind users like you. You're helping us continue on our path...did we say thank you yet? Thank you! Yes, we know this is an automated letter, but believe us when we say that it's from the heart! :D Thanks for listening, thanks for supporting AdBlock, and we hope that you love it as much as we love making it for you. And if you do, please send your friends to getadblock.com -- it would help IMMENSELY :) - The AdBlock Team PS: Thanks ;) ね、ちょっと良いでしょう。 私もいろいろ寄付したり購入していますがこれだけ熱烈な感謝文を頂戴したのは初めてです。 まさに、誠意・好意・感謝、この三つがうまく回ると世の中は楽しくなりますね。 私は新年早々嬉しくなりました。 こういう小さなことが大変に嬉しい。 今年はもっと大きい喜びが私を待っている予感がします。 私の予感は当たるんですよ。 見ててくださいね。 皆様も良いお年を !
- 2017/12/28 - 「ウーマンラッシュアワー」の漫才を見て私には、私の本を読んで下さるだけでなく、このブログにも応援と励ましのメールを下さる方が、大勢います。 大変に有り難いことです。 その中の一方が、「ウーマンラッシュアワー」の芸を見るように教えて下さいました。 私が最近の日本のお笑い芸に疎いことを心配してくださったのです。 私は落語漫才演芸を始め、お笑い芸には長い間親しんでいます。 ただ私はその読者の方がご心配頂いたように、最近のお笑い芸について関心を持てずに来ました。 早い話が、今のお笑い芸は、ちっとも楽しくない。 それどころか、テレビなど見ていると不愉快になる。 何故不愉快になるか、その理由を挙げていくと長い話になるので止めます。 私の性格の悪さゆえなのでしょう。 そのような私が「ウーマンラッシュアワー」の、17年12月17日にフジレビのTHE MANZAIという番組で放送された漫才芸を見ました。 とにかく早口なので音量を小さくしていては聞き取れず、音量を大きくして3度見て、ようやく理解できました。 その日の漫才の内容はすでにネットでも反響を呼んで様々な書き込みがなされているのでここでは深く取り上げませんが、村本大輔と中川パラダイスの二人の協調が大変に良く取れていることにまず感心しました。 声がひっくり返るほどの大声で恐ろしい早口でしゃべる村本に合わせて中川が明るい感じで合いの手を入れ、最後に、また中川が明るい声でまるでデモのスローガンに聞こえるのではないかと思われるほど朗々と締めの言葉を言う。 この二人の掛け合いは非常によく練習されていて狂いがない。 この芸を舞台にかけるまでの二人の猛練習がうかがえて、大変に感心しました。 宮川大助・花子も私の好きな漫才コンビですが、舞台の上ではのんびりと花子にいいようにしゃべらせているように見える大助が実はあの漫才コンビのリーダーで、一つのタネを舞台にかけるまでに大変な練習を重ねるということです。 落語でも漫才でも舞台ではお客を楽しませるために笑顔を浮かべているが、実際は舞台に出るまでに骨身を削る練習・稽古をつんでいるんですね。 で「ウーマンラッシュアワー」の漫才の内容ですが、原発、小池都知事、仮設住宅と東京オリンピック、沖縄、米軍に対する思いやり予算、と現在日本が抱えている諸問題を取り上げてきちんと迫りました。 視聴者にそのような問題があることを認識させることだけでも大きな意味があるものだと思いました。 そして、最後に村本が「このように日本には色々問題があるのに、議員の不倫、芸能人の不倫、そんなことばかりニュースになるのは何故か」と問いかけると、中川が「それは、見たい人が沢山あるから」と答え、それに対して村本が「だから本当に危機を感じなければいけないのは、それよりも」と問い詰めると中川は「国民の意識の低さーっ!」と絶叫してこのまんざいは終わり(この辺り私が非常に簡略化しています)、中川は「有り難うございました」と言って引き下がろうとしますが、村本は立ち止まって客席をにらんで指を突きつけて「おまえたちのことだ」と大声で言う。 私は今まで、芸人が舞台から客を指さして「お前たち」と罵るように叫ぶのを聞いたことがありません。 関西の芸人で「アホの○○」という名前で売った芸人がいました。(まだ健在かも知れない)。その芸人がテレビ番組の収録中に客席から「アホの○○」と呼ばれるとその客に向かって食ってかかるような勢いで「アホとはなんや」と喚いたことがありました。まあ、その時のその芸人の顔の醜いこと、恐ろしいこと、二十年以上経った今も忘れられません。 その芸人は、実は「アホ」ではなく、営業上そのようにして見せていただけだったのです。その芸人の姿を見て、私は「芸人はああいうことをしてはいけない」と非常に不愉快に思いました。「アホ」で売り出してそれでお客も楽しんでいるのに、そこで怒り出したら、何もかもぶちこわしだ、と私は思ったのです。自分の看板がなくなるではありませんか。「アホ」で押し通してこその「芸」でしょう。 しかし、今回、「ウーマンラッシュアワー」の村本が客席に向かって叫ぶのを見て不快どころか、「よく言った」とすっきりした感じを覚えました。 私に「ウーマンラッシュアワー」を見るようにすすめて下さった読者は、私の好きな「コント55号もここまで完成度の高い漫才はやれていなかったのではないでしょうか」と書いて来られました。 完成度から言えばコント55号の演じたものの中には今回の「ウーマンラッシュアワー」より高いものが幾つもあると思いますが、コント55が活躍していた60年代、70年代は、大学闘争、70年安保問題、三里塚問題、ベトナム戦争、など問題続きの政治の時代でしたが、コント55をはじめ、他の、漫才も落語もコミックバンドも、いわゆる芸人は政治問題に言及することはもちろん、その時の演目の主題とすることなど一切ありませんでした。 いや、60年代、70年代どころか、21世紀を迎えた現在まで、寄席芸で社会の抱えている問題をあからさまに取り上げることは、明治の始めの自由民権運動の盛んな頃の「壮士」と呼ばれた周辺の人びとが「演歌」などを歌って人気を取って以来なかったことです。 当時の「演歌」は今の歌謡曲のえんかと違って、「演説」を歌にしたような物で、当時の政府を批判する内容のものです。 当時の演歌師は袴をはき、バイオリンを弾きながら、今聞いて見ると実に不思議な節で(日本人にしみついている音感を西洋の12音階に合わせたもの)当時の政府を批判し、自由民権運動を鼓吹する歌を歌いました。 当然、政府は自由民権運動もそれに同調する言論も厳しく弾圧しました。 讒謗律、新聞紙条例、出版条例、保安条例、集会条例、など様々な法律を作り政治的運動・言論を取り締まりました。 大正昭和に入ると、治安維持法が布かれ、一切の言論の自由はなくなりました。 最初の英国人の落語家、快楽亭ブラックも、興行先で警察につきまとわれたりして、言いたいことを自由に言えなかったそうです。 だから、1945年までの芸人が政府や体制批判をすることはありませんでした。 戦争前に、芸人が舞台で「今は昭和の中つ頃」と言って警察にとっちめられたという話しもあります。その当時で昭和も半分というと、昭和の世の残りは少ないことになる、それでは天皇陛下に対して不敬であろう、という理由です。 これでは、とてもやって行けませんね。 しかし、最近の芸人はそのような取り締まる法律があるわけでもないのに、「ウーマンラッシュアワー」が取り上げたような話題には一切近づきません。 それも無理のないことで今は国会議員として活躍している山本太郎氏はテレビ番組で原発について批判的に語ったためにテレビ番組を降ろされました。 テレビ局はスポンサーの怒りを買うのを恐れて山本太郎を番組から降ろしたのでしょう。 民間放送はスポンサーあっての商売なので,スポンサーのご機嫌を損ねることを異常に恐れます。実際にスポンサーが怒る以前に自分から引いてしまうのです。 そんな中で今回の「ウーマンラッシュアワー」のまんざいは大げさに言えば、自由民権運動以来初めて社会批判をした演芸、ではないでしょうか。 私の友人で自分自身も大学時代に落語研究会に属して高座名まで持っている男の今回の「ウーマンラッシュアワー」の芸についての批評をのせます。ちょっと辛口ですね。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 風刺漫画があるように、風刺漫才があっても良いと思います。 大昔は、川上音二郎のオッペケペーなんかがありましたし、アメリカやイギリスには体制批判のコメディアンが数多く居ますので。 ウーマンラッシュアワーの漫才は、色々ある漫才のパターンの一つかと思います。 ここ何年も、若者の笑いの質があまりにも変わってきているので、時次郎としてはTHE MANZAIとかM1グランプリを見ても、ただ大声を出す、ただ派手なアクションをするという漫才の何が面白いのか分かりません。(時次郎は本人の高座名です) ウーマンラッシュアワーの漫才は、「持ち上げておいて落とす」の繰り返しで笑を取るという、よくある(古典的な)パターンの漫才ですが、そのネタが体制批判というだけかと思います。このパターンの漫才は基本的にウケるので… ① 内容を深く知らなくてもテンポとパターンでウケている若者 ② 政治ネタを新鮮と感じてウケているそこそこの知識人 という両方の層を獲得しているのでしょうね。 こういうのは出た頃は新鮮な感じがしてウケるのでしょうが、肝心の演者の中味がないと長続きしません。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ さて、「ウーマンラッシュアワー」の今後がどうなるか。 たのしみですね。 私としては久しぶりにお笑い界に興味を抱けてうれしかった。 これも良い読者を持ったおかげです。 「ま」さん、有り難うございました。
- 2017/12/20 - 親指シフト前回取り上げた、iPhone Xの顔認証の件ですが、同じような報告がネットにはかなりの数出ていました。 驚いたのは、母親と息子の顔を同一人物と認証してロックを解除したという件です。 ことが、セキュリティの問題なので、これはアップルの失態でしょうね。 それにしても、iPhone が世に出てからわずか10年。この間の社会に与えたiPhoneの影響の大きさはすさまじい物です。 ジョブスは世界を変えました。何十年に一人の天才なのでしょうね。 かつて、ソニーがアップルを買収するなどという噂もありましたが、今となっては大笑いですね。 アップルがソニーを買収するんじゃないかな。いや、ソニーにはそんな価値はもうないか。 ところで、私はコンピューターで文章を書くときに、親指シフトという入力方法を用いています。 しかも、OS9以上では動かない「たまづさ」というワードプロセッサーを使っているので、原稿を書くために、アップルのG5を4台確保して、それぞれにOS10.4をいれ、クラシック環境でOS9を立ち上げています。 その際に使うのが、Reudと言う会社が作った、Rboard Pro for Macという親指入力専門のキーボードで、この、G5, OS10.4, クラシック環境、「たまづさ」、「親指入力」と言う組み合わせがないと、私は、長文の入力ができないのです。 いま、この文章は、OS10.10.4でアップルのキーボードでローマ字入力で書いています。 この、ブログの文章程度なら、ローマ字入力でもまかなえますが、長文となると、親指入力でないとつらい。 その頼みの、Rboardが一週間ほど前に壊れてしまったのです。 予備が手元に届くのが10日ほど先のことになります。 そこであわてて、Rboard なしで、親指入力が出来ない物かとネットを探し回ったら、OyaConvと言う物を見つけました。 (http://oyaconv.jp) これは説明によれば、OSにもプラットフォームにも依存しないということで、iPhoneや、iPadにも使えるという便利さ。 早速購入の手続きをしました。 さて、一体上手く行くのかどうか心配ですが、「親指シフト」などという特殊な入力方法で物を書く人間のためにこんな機会を作ってくれる人がいるとは夢のようです。 親指シフトをするためには、「NikolaK Pro」と言う物もあります。 これも私は、購入しました。 富士通の親指シフトキーボードFKB-7628-801をアップルでも使えるようにするという、優れものです。 どうしても私は、親指シフトで入力したいのです。 私は原稿はペンでも書きます。 そのために万年筆は50本以上持っています。 原稿用紙は、「ますや」に私ごのみのマス目の原稿用紙を作って貰っています。 ろくでもない物を書くのに道具に凝ってどうする、と嘲笑されるかと思いますが、物を書くのも道具を選ぶのも私の楽しみなので、仕方がないことですよ。 楽しくなければ、物を書くような辛気くさいことしませんよ。 OyaConvの高橋さん、 トリニティーワークスの国府田さん、 助けて頂いて感謝します。親指シフトを、Rboardがなくても出来そうです。 でも、本当はRboard Proが欲しいんですけれどね。 Fujitsuのキーボードでは、入力中の1語抹消が上手く行かなくて、大変に困ります。 何とか出来ると言うことと、快適に出来ると言うこととは違うんです。 どなたか譲ってくれないかな。
- 2017/12/11 - お久しぶり木村巴さんの「憤怒」について書いてから、このブログを休んでいました。 6月以来甚だしく体調を壊し、もう死ぬんだろうなと覚悟を決めるほどでした。 ま、私の体調について語っても仕方がない。 どうやら当分死なないようなので、またブログをちょこちょこ書くことにしました。 今年の初めから嫌なことばかりが続き、我が日本国もここまで落ちたかと悲嘆に暮れていますが、まあ、ブログの休み明けですから、今日は面白い話をしましょう。 3日前に、長男がiPhone Xを買いました。 iPhone Xの今回の売りは、顔認証です。 持ち主の顔をiPhone Xに登録すると、当人以外はiPhone Xのロックを外せない、という機能です。 指紋認証より、高度な物だとアップルは宣伝しております。 で、長男はアップルストアで初期設定をして貰うときに自分の顔を登録し、顔認証が働くようにしたのです。 試してみると、私の妻、次女は、長男のiPhone Xを開くことが出来ませんでした。 そこで、私が、「どれ、私にもためさせて」といって、iPhone Xを手に持ち画面をのぞき込むと、ブルブルという振動が手に伝わり、鍵の絵が表れました。すると、どうじに、鍵が外れてしまったのです。 画面を下からスワイプするとアイコンのならんだスタートアップ画面が現れて、iPhone Xを自由に操作することが出来ます。 なんと、このiPhone Xは私の顔を長男の顔と認証してしまったのです。 「こりゃ一体どう言うことだ」と、長男も私も驚きました。 以前イタリアのパルマにパルマハムとパルマのチーズ、パルミジャーノの取材に長男も連れて行きました。 パルマの人間に、「これは私の息子です」と紹介したら、相手の人間は「言われなくても分かります」と言いました。 イタリア人の眼にも私と長男は似て見えるらしい。 私と長男も互いに顔が良く似ていることを承知しています。 しかし、パルマの人間が私達は似ているというのはまだしも、iPhone Xが私と長男を取り間違えるか。 これではならじ、と長男は顔認証の登録を改めました。 すると、iPhone Xは私の顔では、ロックを外さないようになりました。 「ああ、よかった。これで一安心」と一同安堵のため息をつき、次女は「最初の設定の時に、お父さんがiPhone Xをのぞき込んだからじゃないの」などと、初期設定時の過ちと言うことに落ち着きました。 ところが、その翌日、私が、「もう一度確かめてみるか」と長男のiPhone Xを手にすると、ぶるぶるという振動と共にロックが外れてしまうではありませんか。 これには、私達はびっくり仰天。 「冗談じゃないよ」と長男は、再び顔認証の登録をし直しました。 私の顔では認証しないようになりました。 もうこれで大丈夫と思いました。 それなのにです、今日になって、またiPhone Xは私の顔認証でロックを外してしまうではありませんか。 iPhone Xは夜の間に、色々と反省するようです。 私の顔を認証しないと、ぶっ壊される、などと怯えたのではないでしょうか。 今日になって、長男は「これはこれで面白いから、このまま取っておこう」といって、顔認証の再登録を止めました。 iPhone Xはアップルの技術の粋を集めた物のはず。 それが、長男と私の顔を見分けられないとは、どう言うことなんでしょうか。 長男と私は似過ぎているのでしょうか。 長男と私は現代のIT技術も敵わない超人的な存在なのだな、きっと。 明日、長男のiPhone Xはまた私の顔認証でロックを外すだろうか。 毎日楽しみです。 アップルにとっては悪夢かな。
- 2017/05/27 - 横尾忠則作品展と木村巴個展5月12日に私は、町田の町田市立国際版画美術館に横尾忠則の作品展を見に行きました。 私は、この町田市立国際版画美術館には感動しました。 版画専門の美術館というのは、私は初めて見ました。 この美術館には、版画の制作を教える教室と設備があり、そこで実際に版画造りを学び、版画の制作も出来るのです。 シドニーで昔の版画や、映画のポスターを蒐集してそれを売って生計を立てている人物と私の長男は懇意にしていますが、「あの男が、この版画美術館を見たら狂喜するよ」と長男は言いました。 横尾忠則の作品には1960年代に初めて出会ってその度外れた感覚に驚嘆しました。このような感覚を持ち、それをこのように表現できる人間がいるとは信じられないことでした。 それまでの、美術に関する意識をひっくり返したと言って良いのではないでしょうか。 イラストレーションも、ポスターも、版画も、それまでになかった世界を我々の目の前に繰り広げて、私などはただただ圧倒されました。 それから50年も経ちましたが、横尾忠則はいまだに現役で、ますます感性を鋭く研ぎ続け何事にもとらわれず、自分の表現したい物を発表し続けています。 今回、町田市立国際版画美術館で、横尾忠則の作品を、一挙に数百点目にすることが出来ました。 美術館の一室で、横尾忠則の作品に囲まれてソファに座っているとなにかとんでもない世界に入り込んだような異様な興奮に体全体が包まれる、嘗て味わったことのない感覚に包まれて、この世に生きていることを忘れることが出来ました。 横尾忠則は、正真正銘の天才です。 私は横尾忠則の作品群に囲まれた時間を過ごすことが出来たのはこの上もない幸運だったと思っています。 町田市立国際版画美術館は大変に立派な建物ですが、その一階に「市民展示室」があります。 そこでは、版画に限らず、市に在住の美術家の作品を展示しているのです。 この町田市立国際版画美術館の素晴らしさは、版画に題材を限らずに「市民展示室」を設けていることです。 今回、私はその「市民展示室」で、今まで全く知らずにいた素晴らしい画家と出会いました。 当日は、画家、木村 巴の第4回個展が開かれていました。 画風は、最近では余り見ない写実派で、それも繊細だが色使いが豊かな画風で、題材は、子供、若い女性、現代の風俗、それに静物などで、生きる喜びと幸福を見る人に与えたいという画家の意志が横溢しているものでした。 その画の世界は穏やかで、横尾忠則の刺激にあふれた作品を見てきた目には平和で、ゆったりとした物に見えました しかし、作品群の後半に至って、それまでの穏やかで豊かな世界が一変するのです。 「憤怒Ⅰ」「憤怒Ⅱ」「憤怒Ⅲ」「憤怒Ⅳ」 の連作がそれです。 この個展では、作品の図録が一枚の紙の裏表に作品を縮刷した物だけで、それだけではこの「憤怒」の連作の内容がよく分かりません。 ちょうどそこに、数人の女性がやってきて、なにか話し合っていたので私はこの女性達は展覧会の関係者であろうと見当を付け、写真撮影の許可を得た所、いかにも責任者といった感じの女性が「構いませんよ、どんどん撮ってください」と許可を与えてくれました。 あとで、その女性が当の木村巴氏であること確認しました。 撮影を許可してくださったからには、その写真をこのページに掲載することも許可して頂いたと勝手に解釈し、ここに掲載します。 (木村巴様、ご迷惑であれば仰言って下さい。直ちに画は削除します。) まずは画を見て頂きましょう。(画はクリックすると大きくなります) 憤怒Ⅰ 憤怒Ⅱ 憤怒Ⅲ 憤怒Ⅳ この「憤怒」の連作は、50歳過ぎと思われる一人の男性が、四角形の小部屋の壁に新聞の切り抜きを貼って行く過程を描いています。一体どんな切り抜きを貼っているのか。 新聞の切り抜きを拡大してみます。 「憤怒Ⅰの切り抜き1」 「憤怒Ⅰの切り抜き2」 「憤怒Ⅰの切り抜き3」 「憤怒Ⅰの切り抜き4」 「憤怒Ⅱの切り抜き1」 「憤怒Ⅱの切り抜き2」 「憤怒Ⅲの切り抜き1」 「憤怒Ⅲの切り抜き2」 と、こう見てみるとこの男性の興味の対象は、沖縄、原発、平和問題にあるようです。 「憤怒Ⅱ」からは画面にテレビが描かれ、テレビの画面には政治家、不祥事を謝罪する企業の人間、国会審議の様子、首相とおぼしき人物が映っているようです。 「憤怒Ⅰ」から「憤怒Ⅳ」を通してみると、沖縄の米軍基地の縮小・アメリカ領土への移転とは反対の方向に進み、原発も廃炉どころか再稼働が続き、使用済み核燃料の処理の目途も立たず、さらに日本を戦争の出来る国にする安保法案の可決、など、沖縄、原発、平和問題は安倍晋三首相とその周辺のお仲間達(一番強力なのはアメリカでしょうが)によって、この連作に描かれている男性の望まない方向に進んでいます。 それで題名が「憤怒」なのでしょう。 私も安倍晋三が首相になって以来のこの日本の社会の余りの変わり方に激しい怒りを覚えています。 ちょうどそこに、この「憤怒」の連作を見て目のくらむような思いをしました。 「そうか、このような異議申し立ての方法があったのか」「画の力は凄い」と心を打たれました。 「憤怒Ⅰ」で、この男性の眼が見えます。男性の容貌が一部でも描かれているのはこの一枚だけです。 「憤怒Ⅱ」「憤怒Ⅲ」では後ろ姿だけ、「憤怒Ⅳ」では両手で顔を覆っています。 男性が着ているのは作務衣であろうと思われます。 「憤怒Ⅱ」では逞しいふくらはぎが描かれ、手は指先まで全て力がみなぎっていてその男性の強い意思を表しています。 「憤怒Ⅰ」から「憤怒Ⅲ」まで、壁面に貼られる新聞の切り抜きは増えていき、「憤怒Ⅲ」で壁面全部が覆われてしまいます。 男性の怒りがますます強くなっていくことが描かれています。 しかし、「憤怒Ⅳ」になると、その壁面を覆う新聞の紙が赤茶けて記事は白地で書かれています。 これは長い時間が経って新聞紙も赤茶けてしまったことを表すのか、この男性の絶望的な悲嘆を表すのか。 「憤怒Ⅳ」で、この男性は両手で顔を覆っています。 「憤怒Ⅳ」と画題が付けられているからには、この男性は絶望せずに怒り続けているのだと思います。 ではこの男性の怒りは、この絵の中では誰に向けられているのか。 それは、これだけ次から次へ日本を破滅に導くように仕掛け続けている勢力に対して何の反抗もせずに、牧羊犬に追われる羊のように、何の抵抗もせず列も乱さずに黙々と屠場に向かって歩いている日本の社会全体に対してではないでしょうか。新聞紙の色が赤茶けるほどの時間が経つというのに何も行動を起こそうとしないこの社会の人々に対する絶望と怒りがこの絵には描かれていると思います。 或いは、画家はこの男性の怒りを強烈に表すために紙面を赤茶にしたのかも知れません 「憤怒Ⅰ」から「憤怒Ⅲ」までのこの男性の怒りは、このような社会を作り上げようとしている勢力に対して向けられていましたが、この「憤怒Ⅳ」に至り、この男性の怒りは、この絵を見る私達に向かって噴出しているのです。「貴方は、日本がこんな状態になるのを見ていて一体何をしていたんだ。この社会が良いと思うのか。日本をこんな社会にしたのは、他の誰でもない、あなた達なんだぞ」 私はそう受取りました。 この「憤怒」連作では、この男性の顔は描かれません。 その代わりに、仕掛けがあります。 「憤怒Ⅰ」「憤怒Ⅲ」「憤怒Ⅳ」には、茶虎のふっくらとした毛並みの猫が描かれています。 「憤怒Ⅰ」と「憤怒Ⅲ」では、猫はお腹を出してのんびりくつろいでいるような格好をしています。しかし、この猫はただ者ではありません。 見て下さい。 「憤怒Ⅰの猫」 「憤怒Ⅲの猫」 この猫の目を見て下さい。 画を見る私達をにらんでいます。この猫の目から放たれる力。 これは、連作の中でついに顔を見せなかったこの男性の目の力ではありませんか。 そして「憤怒Ⅳ」では、猫は部屋の外に出ています。 「憤怒Ⅳの猫」 猫が部屋の外に出てしまったのは、この男性の絶望的な怒りの表現ではないでしょうか。こんな社会はいやだ、許せない、だから猫は外に出た。 しかし、窓枠にしっかりしがみついてこの社会に安穏としている私達に、これで良いのかと問いを発している。 この猫の目を見て下さい。非常に恐ろし目で私達をにらんでいます。 この連作では卓の上のコップが倒れて水が流れ出すところが必ず描かれています。それも、怒りの表現なのでしょう。 しかし、この猫の目の力には私は参ってしまいました。 まさに「憤怒」の目です。私達の怠慢、卑怯、堕落に対する「憤怒」です。 木村巴のこの「憤怒」の連作、必ず何処かで見て下さい。
- 2017/05/05 - 福島で森林火災・強風により放射性物質飛散中私の大学での一期先輩の福島肇さんに以下のようなメールを頂きました。 大変に重要な内容なので、このページに載せたいとお願いしたら快諾してくれて、どんどん拡散してくれと仰言いましたので、以下にそのメールの内容を転載します。 読んで頂ければ分かりますが、このメールは、最初に元東京電力社員の一井唯史さんが発信され、それが、「しろい・九条の会」の堀沢さん、「ふなばしネット」の吉沢さんと転送され、それを、私の大学の一期先輩であり、「柏崎刈羽・科学者の会」の一員である福島肇さんから私に送られて来たのです。 私が最後に福島に行ったのは2015年の12月です。 その時に、県内の至る所に放射線汚染廃棄物が詰め込まれたフレコンバッグというプラスティックの袋が並んでいるのを見て寒気がしました。飯舘村では田の土を入れ替えていました。 汚染物質を簡易なフレコンバッグにつめて並べ、土を入れ替えればそれで汚染除去が出来てその土地が安全になったから、住民に元の土地に帰還しろ、と政府は迫っています。 その安全基準も、福島第一原発事故以前は年間1ミリ・シーベルトだったのを、20ミリ・シーベルトに無理矢理に引き上げたものです。 しかし、当時から言われていたことですが、土地の除染をしても風が吹いて周りの森林から放射性物質が舞いおりてきたら、元の木阿弥になるのです。 福島第一原発の事故の際に放出された物質は当然森林にも大量に舞いおりています。 しかし、森林まで除染活動は行えず、大量に放射性物質が蓄積された森林は手つかずのままなのです。 風が吹いても、雨が降っても森林からの放射性物質は周囲の土地を汚染します。 福島県の森林は県全体の国土の70.8パーセントを占めています。(2012年、林野庁の調査による) 福島の70パーセントの森林地帯では除染も何も出来ません。 森林地帯の放射性物質をそのままにして、除染も何もあった物ではありません。 その福島最大の放射性物質貯蔵庫とも言える森林が火事なったらどうなるでしょう。 放射性物質が舞い上がり、2011年3月11日の福島第一原発の事故当時と同じように、放射性物質が周辺各地に降り注ぐのです。 あの恐怖を私達はまた味わうのです。 今回私が転送するのは、その森林火災が、しかも大規模な森林火災が福島で起こったことを伝えるものです。 日本テレビ系、NHKでは伝えましたが、社会的に大きな反響はありません。 このメールの中で一井唯史さんは次のように書いています、 「仲の良い人、自分の大切な人に知らせてください。話した人に嫌な顔されたら、そうだね、放射能バカが、未だにウザイこと言ってるよね、と同調して嫌な思いをしないようにしてください。話のわかる人は、今出来るベストを尽くして、自分の身は自分で守りましょう。 目に見えませんが油断をしないほうが良いと思います。」 一井唯史さんは、これまでに、放射能の危険性を語るたびに政府の言うことをそのまま信じている人によってずいぶん嫌な思いをされたのだと思います。 私も、40年来のつきあいのある人に福島第一原発の危険性について語ったらその人間は、「あら、政府が安全なように、いいようにやってくれているから心配する必要はないんじゃないの」と言われて、本当にげんなりしたことがあります。 ただ、私はそのような人は説得出来ないまでも、一応説くべきところは説くべきだと思います。 「話した人に嫌な顔されたら、そうだね、放射能バカが、未だにウザいこと言ってるよね、と同調して嫌な思いをしないようにしてください。」 と言う所は、私と意見の異なる所です。 私は、放射能の危険性について語ると嫌な顔をする人に会ったら、「いちおう、僕の知っていることを伝えるよ、それをどう取ろうと貴方の勝手です」 と言って、私の知っていることを語ります。 最初から投げ出さずに、知っていることを語っておけばその人間もいつか「あ、そういえば」と考えてくれるかも知れないし、「仲の良い人、自分の大切な人」以外は「話しても仕方がない」と見捨てることは私はしません。 「一応話だけは聞いてくれますか」と言って、承諾したら私の考えを述べます。 一井さんは「そんなこと、さんざんしましたよ」とおっしゃるかも知れません。 ここのところは、本当に厳しい所ですね。 一井さんのこれまでのご苦労がどれほどのものだったか偲ばれます。 私は一井さんを批判しているわけではありません。 私の話を聞くことを承諾しない人、頭から馬鹿にしてかかる人には、私も何も語ったり働きかけたりしませんから。 ただ、相手に同調することだけはしません。 うんざりして、話を変えたり、その場を立ち去ったりしますが。 では、メールを転送します。 福島肇さんによれば、拡散自由、と言うことです。 このメールを多くの人に知らせたいと思う方はどんどん拡散して下さい。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 皆さま 下記、メールが送られて来ましたので、転送致します。 「除染できた」などと言っても、森林などは手つかずという当たり前の現実が、改めて浮き彫りになりました。 そして、森林からの放射性物質の飛散の可能性も。 2017年5月2日 福島 肇 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ふなばしネットの皆さま 福島での森林火災=放射性物質飛散の情報です。 吉沢弘志 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ Original Message----- From: Michio Horisawa (しろい・九条の会) 【緊急連絡】福島原発事故帰宅困難区域で森林火災。5月1日現在、強風により放射性物質飛散中。 皆さん 堀澤です。 福島での森林火災転送メールです。風向きにご注意ください。 【緊急連絡】福島原発事故帰宅困難区域で森林火災。5月1日現在、強風により放射性物質飛散中。 【緊急連絡】福島原発事故帰宅困難区域で森林火災。5月1日現在、強風により 放射性物質飛散中。 東京電力で賠償を担当していた元東京電力社員の一井唯史さんから、緊急連絡です。 ⇒ https://goo.gl/TO3sGG 4月29日午後、福島原発事故の帰宅困難区域の森林で火災が起き、強風により山林の7万平方メートル以上が延焼し、燃えています。ほとんどの方が福島で起きたこと、対岸の火事と思っているようですが、風により福島原発事故爆発時は関東甲信越、静岡、愛知の東側まで飛散しています。福島だけが汚染されたわけではないのです。今もなお火災は継続しており、30日の消火活動は日没とともに打ち切られ、5月1日午前5時過ぎから、再び、ヘリコプターで消火が行われる予定です。 私(一井唯史)は、退職に追い込まれた東京電力で、賠償を担当して色々な事を見てきました。残念ながら森林は除染が出来ていません。帰宅困難になるほど放射能汚染の激しい地域で山火事が起きれば、高濃度の放射性物質を取り込んだ木々が燃え、高濃度の放射性物質が飛散してしまいます。春先は関東にも花粉が飛ぶように飛んできます。3・11の時は、水が汚染されたことも人は、なぜか、すぐに忘れてしまうものです。 1日経った4月30日もまだ燃えており、5月1日以降も消火活動が行われる予定です。被曝に晒される期間は、現時点から鎮火後3〜4日間程度です。多くの放射性物質が飛散し、より長く被曝にさらされる恐れがあるため、要注意です。 3・11の原発事故時は、南関東を汚染し、そして北関東、東北に戻り、途中雨の降った地域は高濃度に汚染されました。東北関東甲信越、静岡、愛知の人は、最低限、以下の対策をオススメします。 ○無駄に内部被曝しないように換気はしない ○外出時は2重マスク ○家庭菜園はしばらくビニールシートを被せて対応する(ビニールシートを外す時は完全防備しましょう) ○雨が降った時は必ず傘をさす ○一週間くらい、毎日、朝昼晩、味噌汁を飲む(わかめの味噌汁がベスト、味噌は半年以上熟成されたもの) ○子供のいる家庭は特に、水を買っておく 仲の良い人、自分の大切な人に知らせてください。 話した人に嫌な顔されたら、そうだね、放射能バカが、未だにウザいこと言ってるよね、と同調して嫌な思いをしないようにしてください。話のわかる人は、今出来るベストを尽くして、自分の身は自分で守りましょう。 目に見えませんが油断をしないほうが良いと思います。 【ヤフーニュース】 浪江町で山林火災 人立ち入れず自衛隊出動 日本テレビ系(NNN) 4/30(日) 17:15配信 http://www.news24.jp/articles/2017/04/30/07360283.html?cx_recsclick=0 福島第一原発の事故で人が立ち入れない福島県浪江町の山林で火災が発生し、自衛隊などが消火活動にあたっている。山林火災が発生したのは、浪江町の十万山。福島第一原発の事故で帰還困難区域に指定される場所で、29日午後に町の防犯見守り隊から通報があった。 防災ヘリなどが出動して消火活動にあたり、一時、鎮圧状態となったが、強風にあおられて再び燃え広がった。福島県によるとこの火災でけが人はいないが、既に山林の7万平方メートル以上が延焼したという。現場は原発事故後、長期間、人が立ち入っていない場所で、地上からは近づくことができず、県は自衛隊や隣県にも防災ヘリの出動を要請し消火活動を続けている。 【続報】<浪江町帰還困難区域の山火事続く> (NHK福島 NEWS WEB) 福島放送局 04月30日 19時30分 http://www3.nhk.or.jp/lnews/fukushima/6053055011.html 原発事故による帰還困難区域となっている浪江町の山林から、4月29日夕方、火が出て、少なくとも10ヘクタールが焼け、丸1日が経った今も燃え続けています。人や建物に被害は出ていませんが、福島県は自衛隊に災害派遣を要請し、5月1日、あらためてヘリコプターでの消火活動が行われる予定です。 4月29日午後4時半ごろ、浪江町井出の山林から「煙が上がっている」と消防に通報があり、福島県や宮城県などのヘリコプターが4月30日朝早くから、消火にあたりました。火は、30日午前7時半すぎにいったん、ほぼ消し止められたものの、強風で再び勢いを増し、さらに燃え広がったため、福島県は30日正午、自衛隊に災害派遣を要請し、ともにヘリコプターで消火作業にあたりました。 出火から丸1日余りがたった30日午後5時現在、少なくとも10ヘクタールの山林が焼けたということですが、人や建物への被害は出ていないということです。30日の消火活動は日没とともに打ち切られましたが、福島県などは5月1日午前5時過ぎから、再び、ヘリコプターで消火を行う予定です。現場は、原発事故の影響で放射線量が比較的高い帰還困難区域で、出火した時間帯には、浪江町のほかの場所でも雷によるとみられる火事が起きていたことなどから、警察は、落雷が原因の山火事とみて調べています。
- 2017/05/04 - 金曜日の国会デモ4月28日、小学校の同級生二人と私、それぞれの配偶者もいっしょに、金曜日の国会正門前のデモに参加しました。 当日、私の家から東京まで二つの交通事故のせいで異常に道が渋滞しており、原宿まで2時間45分以上かかり、そこからタクシーで国会前に行ったのですが、私は間違えて国会議事堂裏門でおりてしまいました。 そこは、総理大臣官邸の前で、そこでもデモ隊が太鼓を叩いて安倍晋三首相に対する抗議を行っていたので、これだ、と思ってタクシーをおりてしまったのです。 そこで友人に電話をかけたら、そこは国会議事堂の裏門だ、というので慌てて正門前まで歩いて行きました。 その途中にも、色々な集団がデモをしていました。 国会議事堂正門で友人たちと合流できたのは、すでに夜の7時でした。 友人たちによれば、これからデモに参加する人が増えると言うことでしたが、前もって折角三組の夫婦がそろうのだから、食事をしようということになっており、そのための店も予約してあり、7時30分前にデモから離れました。 結局、デモに参加していたのは25分ほどで、これではデモを見学に行っただけという不真面目なことになってしまいました。 しかし、国会議事堂裏門、総理官邸前から、国家議事堂正門前まで、様々なデモを見て、状況を理解することが出来ました。 決定的なのは参加人数が少ないと言うことです。 安倍晋三首相と政府に対する抗議のデモとしては、あれだけでは、あの厚顔無恥の安倍晋三首相とその仲間たちには蛙の面に小便でしかありません。 韓国の朴大統領を倒したのは連日にわたる10万人規模の市民によるデモでした。去年11月には100万人が集ったデモもありました。(AFPによる) しかも、同時に朴大統領の支持率も激しく低下し、矢張り、去年の11月には、支持率は5パーセント、特に20代の支持率が0となりました。(聯合ニュースによる) 一方、安倍晋三内閣の支持率は森友学園問題の後も60パーセントを超えています。 こういう状況では、金曜日デモに人が集まるわけがないと思います。 金曜日デモは反原発のデモですが、原発に関することの根幹は電力会社ではなく、国家の経済戦略に関することなので、内閣と国会に抗議デモするしかありません。 安倍晋三首相になってから、福島第一原発の事故にも拘わらず、すでに再稼働を開始した原発が、川内1,2号機、伊方3号機、高浜3号機、さらに5月から再稼働予定の高浜4号機、さらには玄海原発も、今年の夏には再稼働します。 日本の三権分立(立法権「国会」、行政権「内閣」、司法権「裁判所」)は遙か昔に画に描いた餅になっていましたが、安倍晋三内閣になってから、画にも描けないものとなってしまい、とくに裁判所(裁判官)の内閣隷従が甚だしくなり、どのような形であれ既存勢力の利益に反することは、裁判官の「忖度」によるのかも知れないが、常に既存勢力に有利な判決になることが極めて多いのです。 原発再稼働にしてもそうです。 関西電力の高浜原発3,4号機については2016年3月に大津地裁が運転停止を命じたにもかからず、2017年の3月28日に、大阪高裁で再稼働が認められました。 大津地裁の判事は、原発の運転に関して司法の独立を物語るように、原発がもたらす人的な被害、そもそもの原子力規制基準を問題にして判断を下しました。 一方の大阪高裁は司法としての責任を果たさず、「原子力規制委員会の新規制基準に合っている」からと、内閣の言うとおりのことを言っています。 そもそも、「原子力規制委員会」は原子力村の御用学者が過半数を占めるように作られているのがその正体ではありませんか。 今の安倍晋三内閣は司法をも動かしています。 だから、反原発は反安倍晋三内閣にならざるを得ないのです。 そうなると、安倍晋三内閣を支持する人達は原発稼働を支持することになり、反原発の金曜日デモに参加することはなくなることになります。 安倍晋三首相内閣の支持率が60パーセントを超えると言うことは、単純に計算すれば、この日本の社会は原発再稼働に60パーセント以上の人が合意していることになりませんか。 安倍晋三首相内閣の指示と、原発再稼働に対する支持は別物だ、と言う訳には行きません。 安倍晋三首相内閣の福島の人達に対する気持ちも60パーセント以上の人が、もはやまともに考えていないと言うことになりませんか。 福島についても人々の意識は薄れていると思います。 今村復興大臣が「自主避難は自己責任」と言った段階では、問題になりこそすれ、辞任を求める声は強くはありませんでした。 今村復興大臣が、首が繋がったと安心したのか自派の会合でうっかり「これはまだ東北ですね、あっちの方だから良かった」と口を滑らせて初めて、安倍晋三首相も今村復興大臣を首にしました。 このように、「自主避難は自己責任」というすさまじい発言をした段階では見のがそうというのがこの社会の「空気」でした。 私は今村復興大臣のその言葉を聞いたとき血が逆流するような激しい怒りを覚えたのですが、世間様がその言葉を見のがすのを目の当たりにして絶望感に襲われました。 東京電力の責任は原子力発電を推進してきた政府の責任です。 さらに、福島第一原発の事故以後に原発再稼働を進めている政府の原発に対する責任は大きい。 福島の人々に対する責任は東京電力と政府が負うべきです。 その、当事者である安倍晋三内閣の大臣が、被害者である福島の人々に対してなんということを言うのか、と思いました。 しかし、新聞もテレビも今村復興大臣を批判はしましたが、その責任を厳しく問うことはしないと感じました。 最近の新聞テレビの報道は問題を深く考えようとしないように気を配っているとしか思えません。 森友学園問題でみんなが言うようになった「忖度」が日本の社会を包み込んでいるのではないでしょうか。 「忖度」とは妙に上品な言葉ですが、今の日本の社会の実際は「忖度」ではなく、「自発的隷従」と言うべきだと思います。(この「自発的隷従」については以前このページでエティエンヌ・ド・ラ・ボエシの「自発的隷従論」について書いていますので、そのページをお読み下さい。) 一体自発的隷従とはなにか、私がこのページに以前書いたことをここに、再度掲載しまします。 「自発的隷従論」 エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ(Etienne de la Boétie)著、(山上浩嗣訳 西谷修監修 ちくま学芸文庫 2013年刊)からの引用です。最後のP011と言うのは、同書の私の引用した個所のページ数です。 「私は、これほど多くの人、村、町、そして国が、しばしばただ一人の圧制者を耐え忍ぶなどということがありうるのはどうしてなのか、それを理解したいのである。その圧制者の力は人々が自分からその圧制者に与えている力に他ならないのであり、その圧制者が人々を害することが出来るのは、みながそれを好んで耐え忍んでいるからに他ならない。その圧制者に反抗するよりも苦しめられることを望まないかぎり、その圧制者は人々にいかなる悪をなすこともできないだろう。(P011)」 この文章は今の日本の状態をそのまま示しているものと私は思います。 安倍晋三首相とその仲間達のこのひどい圧制にどうして日本人は耐えているのか。 それこそが「自発的隷従」であると私は思います。 もう一つの答えは福沢諭吉の言葉にあります。 1889年に書いた「日本国会縁起」の中で福沢諭吉は次のように言っています。 「日本人の性質を良く評価すれば順良といい、悪く評価すれば卑屈である。」 「良く目上の人間の命令に服し、習慣規則にしたがって自然に活動して、安寧を維持して艱難に堪えることは我が日本国人の特色」 この福沢諭吉の言葉と、ラ・ボエシの「自発的隷従論」を合わせれば今の日本の社会がどんな物かよく分かるのではないでしょうか。 安倍晋三首相とその仲間も暴力を振るって無理矢理今の権力の座についたわけではありません。 民主主義的な選挙によって、国民が自分で選んだ人達です。 金曜日の国会デモの現状について考えると、こんな結論に達したのです。 金曜日の国会デモにもっと多くの人々が参加して載きたい。 私は、安倍晋三内閣を支持する60パーセントの人達に尋ねたいのです。 いつまで、「自発的隷従」を続けるつもりなのですか。 福島の人達が避難移住するのを助けようとしないのですか。 権力者の言うなりになり、同じ国民で困っている人を見捨てる、これが日本人なのですか。
- 2017/05/01 - 富士スピードウェイ 75歳デビュー4月22日、富士スピードウェイで走ってきました。75歳でレーシング・コース・デビューです。 去年スバルWRX S4を手に入れて以来、WRXのすごさに心揺さぶられ、この車の真価を知りたいと思って、なんとか何処かの本格的なサーキットで走って見ることを願い続けてきたのですが、「美味しんぼ」の取材でいつも協力してくれているカメラマンの安井敏雄さんが助けてくれてその願いが実現したのです。 PRO-iZという会社が富士スピードウェイの走行会を主催し、その走行会に参加すれば、富士スピードウェイを走ることが出来ることを安井敏雄さんが見つけてくれました。 現在小学館から発売中の「魯山人と美味しんぼ」の写真は全て安井敏雄さんの撮影になるものです。その写真を見て頂くと、安井敏雄さんがそんじょそこらのカメラマンとは格が違うことをおわかり頂けると思います。 安井敏雄さんは凄腕のカメラマンであると同時に、自動車のメカニックに大変に詳しく、自分の車もチューンナップしてしまうほどの技術を持っています。 その安井敏雄さんが自分も走ってみたいと言うことで、今回私は助けて頂きました。 富士スピードウェイで走ると言っても、これには私が最初考えもしなかった、色々な準備が必要でした。 車体自体について言えば、タイアがレーシング仕様であること、ブレーキパッドがレーシング仕様であること、シートベルトが4点支持のものであること、オイルが高速走行でエンジンを酷使するために特別のものあること。 こんなことは、サーキットで走る人は当然知っているべきことですが、私はよく分かっていませんでした。 さらに、私のかけている車両保険が通常の道路を走行すると言う条件のものでレーシングコースでは通用しないであるので、万一を考えたらレーシングコースでも有効である保険をかけなければならない。 さらに、靴の問題もありました。 私は六歳の時に股関節結核を患った結果右脚が左よりも18センチほど短い。その差を補うために、私の亡くなった母と奥沢のキング堂靴店の前店主の二人が考え試して作ってくれた特別製の靴を履いています。(奥沢キング堂靴店の当代の店主も引き続き作ってくれています。キング堂さんには二代にわたり何と60年ほどお世話になっていることになります。私がこれまで日常生活を送ることが出来たのもキング堂さんのおかげなのです。先代、当代と、キング堂店主のご恩を忘れたことはありません。) 私は普通の日常生活で車を運転するときには、右足に運転用の靴を履き左足にはキング堂さんに作って載いている靴を履いていますが、その革で作った靴は大きすぎて、普通の道路なら良いがレーシングコースを運転するのには適さないと言うことで、生まれて初めてバスケットシューズを買いました。 この、バスケットシューズのはいた感じはいつもの革製の靴とは重さも柔軟性もまるで違い、大変感激しました。 と言ってもバスケットシューズやスニーカーは私のふだんの生活では使えません。私の日常を支えてくれるためには足元をしっかり固める強さが靴には要求されます。力がなく、長さも短い右脚を助けて私の体を支えるためには、重さがあって踵から足首まで私の体重をしっかり受け止める力がなくてはならないのです。 私のような環境にある人間としては、スニーカーの類では歩くことが出来ないのです。 そんな訳なのでバスケットシューズは4月22日1日だけの心地よさを残して私の前から消えました。 まあ、そんな色々の準備を整えて富士スピードウェイに行ったのです。 午前7時から登録、午前8時からドライバーズ・ミーティング。 プロのドライバー二人が、スピードウェイのコースの図面を前に色々と説明をしてくれました。 注意点として強調していたことは、接触事故が多いと言うこと。 スピードの速い車が前の車を追い抜こうとすると、前の車が頑張ってスピードを上げて、そのために外側に膨らみ、そこで追い抜こうとした車と接触する例が多い。 「今日ここに集まっている人の何人かは車を壊すでしょう。どうか、車をいたわってやってください。」とドライバーの一人は言いました。 前もって電話で色々な情報を伺ったときも、主催者の方から「1回30分で1人2回まで回れますが、非常にブレーキを酷使するので、合わせて1時間走ると、すり減ってしまって危険な状態になります。車をいたわってやってください。」と言われました。 この「車をいたわる」という言葉は初めて聞きました。 その言葉だけで、富士スピードウェイがとんでもない所なのだということが分かります。車をいたわるとは、運転する人間自身をいたわると言うことです。 言葉としては大変に良い言葉ですが、ドライバーズ・ミーティングの際にその言葉を聞いた時には、「これは、どうも、とんでもない世界に入り込んでしまった」と感じました。 私達走行会に参加する人間はコースの外にある駐車場に自分の持ってきた車を停めます。 そこで、車に乗せてきた全ての物を取り出します。 普通、車のトランクの中にも扉の内側の物入れにも様々なものが入っています(ご自分の車のことを考えて下さい)。 その全てを取り出して、どの車にもついている、車がパンクなどしたときに使う予備のための普通より一回り小さいタイアまで取り外して、(昔は普通サイズのタイアがついて来たのですが、30年くらい前にアメリカでレンタカーをしたら、その車に直近のガソリンスタンドまで3㎞以上走れれば良いという臨時の小さなタイアがついているのを見て驚いたことがあります。しかし、いつの間にかその一回り小さなタイアが世界的に共通になってしまったんですね。若い人はこんなことは知らずにこれが普通だと思っているでしょう。老人の愚痴ですねこれは)、全ての物を車の後ろに置きます。 私も、S4の中身を空っぽにしました。トランクから両側の物入れまで、まあよくぞこんなに入れて走っていたものだと、我ながらあきれるほど、様々なものが出てきました。こんなものを詰め込んでいてはスピードウェイは走れませんよ。 このような準備も安井敏雄さんのお助けを借りました。 私の妻は今回の私の富士スピードウェイ・デビューは「安井敏雄さんに助けられた大名レーシングじゃないの」と言いました。その通りです。最初から最後まで安井敏雄さんのおかげです。 準備が出来て、コースに出る時間になりました。 最初の一周は、助手席に安井敏雄さんに乗っていただき、このコースで運転をする上での助言をお願いしました。 当日の走行会は三つのグループに分けられていて、1グループは熟練者で、富士スピードウェイをすでに何度も走っているだけでなく、良いタイムを出している人、2グループは1グループに次ぐ腕前の人、そして私は初心者のグループ、3グループに入りました。 コースに出るためにはまずピットに入らなければなりません。 駐車場からピットの入り口まで、私達3グループの人間は三列に並びました。 ここで、思わぬ事故が起こりました。 それぞれ準備を整えた車が、ピットに入る合図が出されるのを待って、緊張しています。 その時、私の車の三台前、私の列の先頭の車(メーカーはどこか確かめられませんでした)が突然後退をし始めたのです。 その後ろのマツダのRX7 が驚いてクラクションを鳴らしました。 それで、私達も,先頭の車が後退し始めていることを知りました。 私も、安井敏雄さんも、「わ、わ、何をするんだ」と声を出してしまいました。先頭の車は背後の車がクラクションを鳴らしているのにも気づかず後退し続け、ついに後ろの車にぶつけてしまいました。(並んでいる車同士の間の距離はそれぞれ2メートルはあったと思います) ぶつけてから驚いて運転席から出て来た男性は、自分でも何が起こったのか分からない、という呆然とした表情で、言葉も出ないようでした。 マツダの車の男性が出て来て、二人で話し合いを始めました。 そこに、ドライバーズ・ミーティングの際に色々な注意を与えてくれたプロ・ドライバーが出て来て、二人に、なにか説明をし始めました。 事故処理会社とか損保会社とか、いう言葉を断片的に聞きました。 後退速度が緩やかだったので、車自体に大した損傷はなさそうですが、だからと言ってきちんと確かめずにそのままコースに出すわけには行かないでしょう。 更に二人の精神状態も問題です。 ぶつけた方もぶつけられた方も、その時点では平静とは言い難い。 その精神状態でコースに出るのは問題でしょう。 そこまで準備を整えてきたのに、その二人は、少なくとも2回走ることの出来るその最初の回はコースに出ることが出来ませんでした。 合図が出て、3列並んだ外の列から順番にピットに入っていきます。 私達3列目の人間は、衝突した先頭とその後ろの車をよけて、2列目の最後尾に続いてピットに入っていきました。 私達3グループは衝突した2台を除いて41台。 出走前の緊張感は今までに経験したことのないものです。正直に言って怖くなりました。 やがて、ピットからコースに出る合図の信号が緑になり、先頭から順番にコースに出ていきます。ピットからコースへの出口は正面スタンドの直線が終わるちょっと前です。 少し走るとすぐに右回りのカーブになります。 最初の一周は、ピットに並んだ車列のまま走る決まりになっています。前の車を追い抜くことは出来ません。コースの下見のための走行です。 この第一周から、本物のレーシングコースのすごさに私は肝を潰してしまいました。 富士スピードウェイは全体としては右回りのコースですが、スタンド前の直線を抜けると、あとは右に左にカーブが続きます。 このカーブがくせ者で、同じカーブでも平面上にあれば良いのですが、富士スピードウェイの立地からして、山道を登ったり下ったりしながらの厳しいカーブです。 道幅は広くて走りやすいと言いますが、上ったり下ったりのカーブでは、カーブ全体の形が分からない。前方がどうなっているか見えないのです。 前方がどうなっているかよく分からないというのは、本当に怖い。 前々から、youtubeの富士スピードウェイの走行動画を何本も見て、富士スピードウェイのコースはどうなっているか理解したつもりだったのですが、それは甚だしく愚かなことで、実際はコンピューターの画面からは肝心なことはつかみ取れる訳がなかったのです。 あとで、プロのドライバーに、コースがよく分からなくて怖かったと言ったら、ドライバーは笑って、「1年に2、3回走って3年も通えば分かるようになりますよ。1年走ったくらいで富士スピードウェイが分かったと言われたら、私達プロのドライバーの立場がありません」と言いました。 それでは、最初の回でコースが分からないと言ってもそれは仕方がないことだと納得しました。 youtubeを見ると、上手な人は富士スピードウェイを1周するのに1分30秒以内で走っています。1分15秒という人の画像もアップされています。 そんなこと、冗談じゃない。私は、1周するのに、敢えて正しい数値は出しませんが(くやしいから)もっともっと掛かりました。 第2周目からは、遅い車は抜かされます。カーブに苦しんで思うようなスピードを出せずにいる私の後ろに他の車が迫ります。 ここで、ドライバーズ・ミーティングでプロのドライバーに言われたとこを思い出しました。 ああ、ここで抜かせまいと頑張ると,膨らんで後ろの車と接触するのだな、と理解して、とにかく抜いてもらえるように速度を控えました。くやしいことに、皆さん良くコースのことをご存じのようで、すいすいと私を抜いていきます。 私は必死に我慢しました。「安全第一、無事に帰ること」それを唱えました。 1988年にシドニーに引っ越して以来の親友に時次郎と言う男がいます。(時次郎は、大学の時に落語研究会に入っており、自分でも高座名を持っているくらいの落語好きで、この時次郎と言う呼び名も、落語の「明烏(あけがらす)」に出てくる大きな商家のくそ真面目な若旦那の名前を取り、ある日これから自分のことを時次郎と呼ぶようにと私に言ったのです。ついでに私は,その落語に出て来る,町内の札付き・源兵衛とされてしまい、時次郎は私のことを源兵衛さん、源兵衛さんと呼んでいるのです。) この時次郎は、忙しい男で学生時代に落語の他にダート・ラリーもしていて、車のことは良く知っていると自負しています。そういう男ですから、私が富士スピードウェイを走るぞ、と言ったら、「それはよした方がいい」としつこく言うのです。 走行会直前にも、電話をかけてきて、時次郎の友人で富士スピードウェイを何度か走った経験のある男からの話として、富士スピードウェイを高速で走ると接触しないまでも車を大きく傷める。タイアはもちろん、車体もゆがんでしまう。それで接触しよう物ならおおごとだそうだ、と言い、気を変えて止めるように説得するのです。 私はご意見を伺いました、と言って電話を切りましたが、走り出してから時次郎の忠告が、ただの脅しではないことを悟りました。 本当に飛んでもないコースです。 緩い大きなカーブでスピードを稼ごうとしても、すぐにきついカーブに入ります。しかも、先がどうなっているのか分からない。 緩い大きなカーブに入ると、私もスピードを上げますが後続車もガンガンスピードを上げてくる。 となると、「抜かれまいとスピードを上げると接触事故の元になる」というプロ・ドライバーの言葉が脳裏に響きます。 初めて走る人間なのだから、他の人の迷惑になってはいけないと考え、後続者に道を譲ります。 実にくやしい。こんなに、他の車に抜かれる経験などしたことがない。コースさえよく分かっていればこんな事は無いのにと嘆いても仕方がない。 で、最後のカーブを抜けて直線に出ると,生き返ったような気持ちになります。 WRX M4 は買って以来、アクセルを床まで踏んだことがありません。 制限速度、80キロとか、100キロの公道では3分の1も踏みこんだらたちまち速度超過は愚か、前の車にぶつかります。 このアクセル問題で私は欲求不満に陥っていて何とかアクセルを全開したいと願っていました。 その願いが今叶います。 直線入り口でアクセルを思い切り踏みました。 ひぃぃぃぃぃーっ! 気持ちがいいーっ! 私を抜いた車数台を抜き返しました。 しかし、富士スピードウェイの直線1・3キロメートルはレーシングコースの中では長いと言うことですが、WRX M4 の限界なのでしょう。私は時速300キロを出すと言っていたのですが、直線の70パーセントくらいのところで、時速208キロまで視認したのですが、それから減速作業に入るのに気をとられて速度メーターから目を離しました。その間実際に減速するまでに、時速215キロは出ていたと思いますが、それ以上は出せませんでした。 しかも、2周目の時です。最終のカーブから抜け出て直線に出る。 思い切りアクセルを踏む。いいきもちだーっ! と思っていたら、後ろから、ベンツが迫ってくる。 それも、WRXより小型に見えるベンツだ。 こんなのに抜かれる訳がないと思っていたら、スーっと並びかけてそのまま私を置いてけぼりにして直線を猛烈な速度で突っ走っていきました。 私は仰天しました。なんと言う車だろう! そのあとの走行では、緩い大きなカーブで、マセラティのグランツーリスモに都合2回抜かれました。 26分を過ぎた頃から、舗装された道のはずなのに、まるで砂利道を走った時に砂利が跳ね返ってタイアの裏の車体に当たるような音が聞こえ始め、気のせいかエンジンの音も悪くなったような気がして、何だか不安になってしまい、コースから離れて駐車場に向かいました。 駐車場で待っていた安井敏雄さんに話すと、「あ、それはタイア屑ですよ」といって、タイアのネジを回す道具の先でタイアの表面をこすると、ぼろぼろとタイア屑が無数にはがれて散ります。 私の前に走った車のタイアが路面とこすれて熱を持ち、溶けてはがれて散ったタイア屑が私の車のタイアにこびりついていたのです。 後で知ったのですが、私と一緒に走った車の中にはプロ用のレーシング・タイアを付けていた人が多くいたそうです。 そのレーシング・タイアとは、私の車のレーシング・タイアとは比較にならない本物のレーシング・タイアで、コースの路面をしっかりグリップするように非常に柔らかい素材で出来ているのです。 指で強く押すとその指が入るくらいに柔らかい材料なのです。 しっかりグリップすると言うことは摩擦抵抗が大きいことで、そのために熱を持ち、溶けてはがれてしまうのです。 コースの路面には、その溶けたタイア屑が特にカーブの所に散らばっています。 そのタイア屑は、その上を走る私の車のタイアにくっつき、今度ははがれる時に、私の車のタイアの裏の車体に当たって「ばち、ばち」と言う音を立てたのです。 そういうことを知らなかった私は、不安に駆られてしまったという訳です。 こうして、私の富士スピードウェイの走行は、26分で終了しました。 何周したか、平均のラップはどれだけだったか、主催者がデータをくれましたが隠します。(くやしいったらありやしない) 私が駐車場に戻ってしばらくすると、次々に他の車も戻って来ました。 なんと、私を抜いたベンツもマセラティも私の隣に止まっているのです。 そのベンツは、AMGという、ベンツ専門のチューンナップ会社の製品でした。 AMGとマセラティのドライバーは友人であるらしく、AMGも実は私より早く駐車場に戻って来ていました。 後から戻って来たマセラティの男性は、AMGの男性に「どうしてやめちゃったんだよおっ」と喚いていました。かなりの仲良しです。 その二人に話を聞いて仰天しました。 マセラティの馬力は400馬力、AMGの馬力は450馬力。 対する、WRX M4は300馬力。 これでは、直線で敵うはずがありません。 AMGの男性に車の排気量を尋ねると「2000㏄です」と言う。 なんと言うこと、WRX M4も2000㏄です。 同じ排気量で、どうして、AMGは1.5倍の馬力を出すんだ。 いやはや、これには驚きました。 マセラティの男性は「とにかく、このAMGは速い。以前一緒に碓氷峠を走ったことがあるが、そのような峠道でもこのAMGはすごかった」とAMGを賞賛していました。 マセラティの男性に、今までに何回富士スピードウェイを走ったのか尋ねると「今日で5回目かな」と言いました。 5回目でしかも、こんな凄い車で、私と同じ初心者グループとは、1グループ、2グループの人たちは、どんなに凄いのだろうと考え恐ろしくなりました。 ついでに車の値段ですが、マセラティ・グランツーリスモは2000万円以上、AMGは1500万円以上。 WRX M4は400万円。 私に取ってはこの400万円も冷や汗とあぶら汗を流してやっとの事でひねり出したもので、1000万円とか、2000万円などというお金は、夢のまた夢です。 世の中にはお金持ちがいるものだと感心しました。 いや、もっと感心したのは、車にこれだけ熱意をかける人が大勢いることです。 私の周囲の車の持ち主は、自分で車の整備をしていました。 プロのレーシング・タイアも富士スピードウェイに来て、ここまで来たノーマルのタイアと自分で付け替えるのです。タイア交換なら私でもできますが、カーブで、熱で溶けてしまうような凄いタイアを持って来て、それをこの場で交換するその熱意というかセンスというか、それには、脱帽しました。 本当に良い勉強をしました。 レーシング・コースという物のすごさ。 その難しいコースを走ることの出来る人たち。 このコースを走るために、2000万円以上のお金を払う人たち。 なにもかも、私の想像外のもので、凄い人たちの棲む凄い世界があるのだということを思い知らされました。 走行後、時次郎から電話が掛かってきました。 無事だったというと、 「まったく、雁屋さんは、年齢を考えろ、技術を考えろ、経験を考えろ、などといっても、絶対に言うことを聞かないんだから。」 と嘆いてから、 「直線大魔王じゃあ駄目なんですよ」 と小言を言いました。 それでも、 「無事で帰って来て本当に良かった」と喜んでくれました。 ブレーキパッドをノーマルに付け替えるためにスバルの営業所に持っていったところ、営業所の人間は、 「病みつきになって、また走るというに決まっているから、レーシング用のブレーキパッドをトランクに入れておきます」 と言いました。 さてさて、病みつきになるかどうか、今は言えません。 無事で帰ってきて良かった、などと言っているんじゃ、すぐにでも再挑戦とはいきませんね。 少なくとも15年以前に始めておけば良かったと思います。 なんとしても、75歳デビューは遅すぎましたね。 しかし、今回の走行会で色々忠告してくれたプロのドライバーに、「私は75歳デビューなんですよ」と言ったら、 「ああ、70歳以上で始める方は何人も参加していますよ」と言うではありませんか。 おお、そうなのか。 それでは、富士スピードウェイ走行の最高齢記録でも作らなければならないじゃないか。
- 2017/04/21 - 斎藤博之さんを悼む斎藤博之さんを悼む 「美味しんぼ」第100巻の「日本全県味巡り、青森県編」と、第111巻の「福島の真実」の取材に大きな力を貸して下さった斎藤博之さんが亡くなられた。 56歳、脳梗塞でした。 斎藤さんは民俗学者として青森県を中心にして東北の民俗学的歴史をきめ細かく、調査し記録し続けていました。 斎藤さんの頭脳は私のような人間からは驚異としか言いようのないもので、青森県全県の民俗的歴史は残らず調べ上げていて、私が車で通りかかったそれまで私には知ることもなかった小さな村落の、普通の人間なら心にとめることもないだろうと思われるものについて、私のような変わり者は思わず興味をひかれ「あれは、何ですか」と尋ねると、間髪を入れず「ああ、あれは、これこれ、なになにです」と実に詳しい説明をしてくれるのです。 その調査能力、記憶力、説明の論理の筋道がきちんと通っていて強靱なこと、青森県を取材して回る間に私は心底感服しました。 記憶力について言えば、斎藤さんはマルクスの「資本論」を全巻、隅から隅まで頭の中に叩き込んでいるのです。 あるとき、私は、マルクスが引用した、フランスのルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人の言葉 (フランス語では「Après moi le déluge」 直訳すると、「私の後に洪水」、これを重々しく「我が亡き後に洪水は来たれ」と訳す人もいる。ポンパドゥール夫人の言葉であれば私なら「私が死んじゃった後なら、洪水でもなんでも来ればいいじゃない」と訳したいところです。しかし日本語訳の「資本論」の有名どころは全て、この言葉を「後は野となれ山となれ」と書いています。意味としてはそれで良いのでしょうが、それでは、ポンパドゥール夫人の言葉のすごみが消えてしまうように私は感じます。この、ポンパドゥール夫人の言葉をそのまま記したものは、私の浅学の限りではペンギンブックの「資本論」だけではないでしょうか) について私は資本論のどこに書いてあったのか思い出せず、斎藤さんに電話をかけて「どこだっけ」と尋ねると、斎藤さんは「ちょっと待って」といって、3、4分後にすぐ折り返し電話をくれて「あれは、第1部『資本の生産過程』第3篇『絶対的剰余価値の生産』第8章『労働日』、ですよ」と答えてくれたのです。 殆ど即答と言って良いほどで、私はほとほと、斎藤さんの記憶力のすごさに驚嘆しました。 「資本論」についてはほんの一例で、何についても斎藤さんの博覧強記のすごさは人間離れしており、常々私は斎藤さんに「斎藤さんの頭脳は宝物なんだから、絶対に体は大事にしてよ」といい続けて来ました。 しかし、斎藤さんは福島取材の後体調を壊しました。 私達の取材に先立っての取材、中間での取材などで、合計100日間以上福島に滞在しました。 それが影響したと本人は考えています。 斎藤さんのホームページ(2013年7月14日「わたしにも被曝の症状」)を引用します。 「おととしの秋からことしの春にかけて、通算すれば100日を越える長期にわたって断続的に、福島県の取材をしてきました。現在、雑誌に連載されている漫画『美味しんぼ』の「福島県の真実」の案内をするためです。この取材から帰って暫らくすると、鼻血が止まらなくなるという事態に陥りました。 これは病院で止血剤をもらって止めましたが、「原因はわからない」と言われました。傷があるわけではなく、毛細血管が破れているらしいのです。わたしは高血圧なので、そのせいかと思って心配しましたが、医師のいわく、『もしも血圧が高くて血管が破れるとしても、その場所はここではない』と。薬でとりあえず止めたものの、湯に浸かったり、酒を飲んだりすれば、またとめどなく血が噴き出します。 さらに、ものすごく疲れが溜まって、体温が高いわけでもないのに躰が熱っぽく、考えることに集中できず、気力が失せて、睡眠時間は十分に足りているはずなのに一日中眠気を抑えることができず、取材などでわずかの時間でも外に出かけようものなら、数日は横になっていなければならないような状態でした。つい数日前までは、こんな按配だったのですが、いまは一日のうち数時間は起き上がって原稿を書いています。」 この鼻血と異常な疲労感は私が体験したものと全く同じです。更に、斎藤さんは書きます。 「先日、福島県双葉町から埼玉県に避難しておられる方々のところへ取材に伺ったとき、放射線被曝の治療について研究しておられる専門家の方に、偶然お会いできました。たまたま雑談しているときに鼻血が止まらない話をしたら、『少し仕事をすれば疲れるということがないか』とお訊ねになるのです。まさにそのとおりなのだという説明をすると、ここに避難しておられる双葉町の方にも、そういう症状の方がおられる、ということです。福島県から避難されたのはおととしなのですが、このていどの日数を経ても、なお症状は残っている、のだそうです。病院では『原因はわからない』と言われた私の症状も、どうも被曝の典型的な症状らしいです。 いっしょに取材をしたメンバーの何人かも、わたしと同じような症状に陥りました。わたしたちに共通することは、原発事故の影響で、多少は放射線量の高くなっている地域で取材した、ということだけです。明らかに被曝の影響だと考えられるでしょう。言っておきますが、わたしが取材した場所は、原子力発電所の敷地の中などではなく、原発の立地地域でもなく、何の制限もなく人びとが普通に暮らしている場所でした。 1μSv/hを超える地域に短時間(数時間)滞在したことはありますが、ほとんどはこれを下回る場所でした。しかし、国が制限を設けていないこれらの地域も、本来は危険だとされている線量(0.14μSv/h以上)なのです。もちろん、同じ環境でもすべて の人に同じように症状が現われるわけでもないでしょうし、福島県の各地も次第に線量は低下する傾向を示しています。」 この双葉町の方というのは、福島第一原発事故当時双葉町の町長だった、井戸川克隆さんであり、放射線被曝治療についての専門家は、岐阜 環境医学研究所所長の松井英介先生です。(「美味しんぼ」第111巻342ページ参照) 私は、埼玉に避難している双葉町の方々の取材のために行ったのですが、そこに斎藤さんも来て下さっていて、私が井戸川元町長に「福島の取材後、鼻血が出るようになり、経験したことの無い疲労感を感じるようにもなった」といったところ、斎藤さんが驚いて「雁屋さんもなの。僕もそうだったんだよ」と言いました。 いつも取材に同行しているカメラマンにも「僕もですよ」と言われて私は「なんと言うことだ」と驚きましたが、このことを「美味しんぼ」に書いた所、安倍晋三首相まで出て来て風評被害だと言って非難しました。 私の鼻血問題については、私をバッシングした人達に対する反論の本も発行し、このページでも語っているので、ここまでにします 斎藤さんはこの後体調が回復せず、この2年ほどは毎日の食事にも気を使い、かつて私が「胃袋魔神」というあだ名を贈呈した斎藤さんとは別人のごとくに節制して過ごしてきたのですが、高血圧の治療を続けていたにも拘わらず、4月2日に倒れ4月4日に亡くなりました。 斎藤さんは私達仲間同士の間では談論風発で威勢が良いのですが、基本的には非常に控え目な性格でお人好しで、私が斎藤さんの大食らいをからかって色々な事言っても、「また、またあ・・」などと言いいながらにやにやしているだけ。 私に対しても誰に対しても斎藤さんが怒った姿は見たことがない。 同時に控えめすぎて、あれだけの知識と見識を持ちながら、在野の民俗学者としての位置を変えませんでした。 今までの学識を本にまとめる所だと聞いていましたが、時間は待ってくれませんでした。 本にまとめておいてくれれば大勢の人の役に立っただろうと思うのに、残念で口惜しいことです。 私がそんなことを言っても、斎藤さんは低い柔らか声で「ふ、ふ、ふ、でもねえ雁屋さん、」笑うだけだろうな。 以下に、「美味しんぼ」第111巻、「日本全県味巡り、青森県編」の最初の導入部に登場する斎藤さんの姿をコピーして載せます。画面はクリックすると大きくなります。 ここで、斎藤さんの登場です。 以後、このホームページのソフト、WordPressのどじな設計のせいで、図と文章の間隔が開いてしまいます。下書きの時はキチンしているの、実際にホームページに載せるとこうなってしまいます。WordPressはやめなければいけないな。 文字にすると斎藤さんは挑戦的ですが、本当は優しい言い方をします。 斎藤さんの登場で「日本全県味巡り、青森県編」は開始しました。 私はこの「日本全県味巡り、青森県編」を読んで、斎藤さんを偲びたいと思います。 斎藤さん、お世話になりました。 有り難うございました。 さびしいよ。
- 2017/04/20 - 中谷成夫氏の著書について前回、中谷成夫氏の著書について、遊幻舎からお送りすると書きましたが、驚くべき大勢の方が申込んでこられ、「遊幻舎」としては人手が無いので、それは無理な話だと言うことが判明しました。 私が「遊幻舎」の事情も聞かずに勝手にこのページに書いてしまって申し訳ないことを致しました。お詫びします。 そんな訳で、4月20日までに、このページに申込まれた方にはなるべく早く遊幻舎からお送りしますが、21日以後に申し込まれる方は、お送りするまで時間がかかると思います。 場合によっては1カ月ほどかかる恐れもあります。 21日以後に申込まれる方は、その点をご了承下さるようお願いします。
- 2017/04/18 - 中谷成夫氏の「福沢諭吉と1万円札」について前回、このページで中谷成夫氏の「福沢諭吉と1万円札」を取り上げた所、読者の方から、「この本を買いたいのだが本屋にもないし出版元にも在庫が無い、どうしたら買えるのでしょう」 というメールを頂戴しました。 早速、中谷成夫氏のご子息(義子)の中谷省三さんにお手紙を差し上げた所、なんと、そのような方に差し上げて下さい、といって、「遊幻舎」、安川寿之輔先生、杉田聡先生の三者宛に段ボールに二箱の「福沢諭吉と1万円札」を御寄贈下さいました。 以前、メールを頂いた方には早速お送りしました。 折角の中谷省三さんのお志です。 ご希望の方には、送料も無料でお送りしますので、多くの方にこの本を読んで頂きたいと思います。 友人の方などにもお伝え頂いて、このページ宛に、ご注文下さい。 素晴らしい本です。読まないと損ですよ。
- 2017/03/07 - 中谷成夫著「一万円札の福沢諭吉」まず、前回の「美味しんぼの新しい楽しみ方」について。 早速読者の方から、メールを頂戴しました。 氏は、「ゆう子の服装には小学生の時から気がついていた」と書かれています。 今更何を言っているんだということなんですが、いやはや、確かに今頃になってゆう子の服装に気がつくとは、あれだけ気を使って描いてくださっている、花咲アキラさんに申し訳ないことです。 どうも私は、ファッションというものに興味が無く、着る物は清潔で、着ている本人に似合っていて、本人も気にいっていればそれで良いという感覚なので、お粗末なことでございました。 その読者の方も、小学校の時から「美味しんぼ」を読んで下さっているとは有り難いことです。 以前の私の担当の編集者も、「小学校の時に父親が読んでいたので憶えていました。でも、まさか自分が美味しんぼの担当になるとは思ってもいませんでした」と言われて、「ああ、そう言う年代の人間が美味しんぼの担当になる時代になったんだ」と深い感慨を抱いたことがあります。 長い間お読み頂いている読者の方々に心からお礼を申しあげます。 さて、今回の本題に入ります。 先日、石川県鳳珠郡能登町宇出津(うしつ)にお住まいの、中谷省三さんから、御尊父 中谷成夫氏の御著書「一万円札の福沢諭吉」(文芸社)をご恵贈載きました。 中谷成夫氏について、失礼ながら私は全く存じ上げませんでした。 氏の略歴を、その本の奥付と、中谷省三さんに載いたお手紙に書かれたことをあわせてご紹介します。 「1926年(大正15年)3月2日、石川県鳳至郡(ふげしぐん)宇出津町(うしつまち)〈現在は、鳳珠郡(ほうすぐん) 能登町 宇出津〉に生まれ、金沢の学校を卒業し、画家・玉井敬泉に日本画を学び、書家・中浜海鳳に書法を学んだ。 12年間県立宇出津高校芸術科で画と書を教えていた。」 ここからあとは、ご子息の中谷省三さんのお手紙の内容に沿って書きます。 「一方、好きな歴史の研究にのめり込み特に勝海舟に興味を示し、相当調査をした。勝海舟の人となりに関心を持つと、当然福沢諭吉に遭遇する。 福沢諭吉について、長期間調べたあげく、この著書を書き上げ、2014年9月に「文芸社」から自費出版の形で出版した。」 残念ながら、氏は2014年8月末に逝去されました。(というと、氏は、出来上がった御著書を手に取ることが無かったのでしょうか。そうであれば、氏にとっても、ご子息、ご家族の方にとっても口惜しいことだと思います。ゲラか見本刷りくらいは手にされたと思いたいのですが) その経歴から明らかですが、中谷成夫氏は日本史、日本思想史の専門家ではありません。 中谷成夫氏のこの著書は、可能な限り多くの資料を読み、その資料を正確に分析して出来上がったものなので、私がこれまでに色々と読んできた専門家の書いた福沢諭吉論と比べても出色のものだと思います。 1926年生まれというと、幼児期から皇国史観に沿った教育を叩き込まれている年代です。 福沢諭吉研究の第一人者である安川寿之輔先生は1935年生まれ。1945年の敗戦の時に10歳。 まだこの年齢であれば、皇国史観から逃げられたと思いますが、中谷成夫氏は、1945年の敗戦時には、19歳。この年代の人間なら、ごりごりの軍国少年になっていた人の方が圧倒的に多いのですが、「一万円札の福沢諭吉」の138ページには、「1945年8月15日に天皇の終戦を告げる放送を聞くと、すっかり嬉しくなり20年生きてきてこんな良い日は初めてで生涯最良の日とここから感動しました。」と書かれています。 また当時は、中学では、「軍事教練」は必須科目であるのに、氏は脚気を患っていたこともあって五年間(当時の学制では、中学は5年でした)ただの一度も軍事教練を受けなかった、という剛の者です。 同著書の268ページには、福沢諭吉の天皇論を批判して次のように書いています、 「天皇は現実に日本人の上に君臨し人民を支配する身分であり、人民の上に覆いかぶさっているものであって、人間差別の上に成り立っているものです。天皇や皇族・華族などというものは一般人民より高貴な身分のものときめられているが、彼は(福沢諭吉のこと)この差別については一言も言及はせずこの制度を否定もしていません」 これを読めば、氏は、皇国史観に心を侵されずにすんだようです。 そんな氏ですから、非常に冷めた目を持っていていて、同書145ページに、藤原定家の明月記の中の定家の言葉「紅旗征戍(紅旗は皇帝の旗のこと、征戍は外敵を制圧すること。)は我がことにあらず」(大義名分を持った戦争であろうと、〈八紘一宇や東亜のためなどと、張作霖を暗殺して満州国を建てた頃から日本は自分たちの侵略戦争に身勝手な大義名分を付けていましたね〉そんな物は野蛮なことで、和歌や書という芸術の世界で生きる私にはかかわりのないことだ)、に深く心動かされ、生涯を通じて政治などのことには関わりを持たず「天地間、無用之人」として生きようと心に決めていたが、坂口安吾の著作を読むことでよりによって最も政治的な人間・勝海舟という人に深く心を引かれるようになった、と書いています。 氏は、勝海舟を研究しているうちに、福沢諭吉の書いた「痩せ我慢の説」を読んで、福沢諭吉のことも研究し始めました。 長い時間をかけて福沢諭吉を研究した結果出来たのが、この「1万円札の福沢諭吉」です。 私は「まさかの福沢諭吉」を書くのに、「福沢諭吉自身によって福沢諭吉を語らせよう」と考え、福沢諭吉の著書を大量に系統的に取り込みました。福沢諭吉の著書を順を追って読んでいけば福沢諭吉がどんな人間でどんな考えを持っていたか誰でもよく分かります。 現在まで、福沢諭吉が日本の民主主義の先駆者のように扱われていて、偉人としてまで崇められ、その結果が一万円札の顔となっています。それは途方も無い誤解なのですが、どうしてそんな誤解が正されずに世の中に広まっているのか、それは、殆どの人が福沢諭吉の著作を読んだことが無いからです。 「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、といえり」を、「いえり」抜きで教わって、それを福沢諭吉の思想だと思いこみ、それに「独立自尊」も福沢諭吉の言っていたのとは違う意味で思い込み、それで、多くの人は福沢諭吉を有り難がっているのです。 その誤解を解くためには、福沢諭吉自身の著作を読むしか無いと私は考えて、「まさかの福沢諭吉」では、福沢諭吉の著作を系統的に読んで貰う形を取りました。 「まさかの福沢諭吉」の大部分は福沢諭吉の著作で埋まっています。 それに対して、中谷成夫氏の「一万円札の福沢諭吉」は、福沢諭吉の著作も載せていますが、私の方針とは違って、様々な人の福沢諭吉論を載せています。 氏が福沢諭吉について調べようと思ったのが、福沢諭吉が勝海舟に対して書いた「痩せ我慢の説」に反撥してのことなので、勝海舟のこともたっぷり書かれています。 色々な人の勝海舟と福沢諭吉の比較論も、勝海舟に惚れ込んでいる中谷成夫氏でなければ見つからないものも多く、福沢諭吉との比較論だけでなく勝海舟を高く評価する人々の論、挿話もいろいろと取り込まれていてそれだけでも興味深いものとなっています。 また、明治維新時の戊辰戦争で、薩長が如何に残虐なことをしたかという話も書かれていて、明治維新時の、その後薩長政府が隠してしまった真実も描かれて歴史の勉強になります。 福沢諭吉に対する批判の範囲も、被差別民に対する福沢諭吉自身の持つ差別意識から、朝鮮人、中国人に対する侮蔑的な言論、旅順虐殺、閔妃虐殺、台湾の虐殺に対する福沢諭吉の反応、福沢諭吉の帝国主義的な言論、など幅が広く、福沢諭吉の全体像を摑むの大変役に立ちます。 読み物としても面白く出来ているので、私はこの「一万円の福沢諭吉」を是非皆さんにお勧めしたいと思います。 発行は文芸社 定価は800円+税です。 2014年に発行されていたのに、今まで知らずにいた私の怠慢を恥ずかしく思います。 発行されたときに、中谷成夫氏は、88歳。 そのお年まで研究を続け、この本を出版されたご努力に心から敬意を表したいと思います。 私も、中谷成夫氏に負けないように、これからも意味のある仕事していかなければならないと励まされました。 この本をお送り下さった、中谷省三さんに厚くお礼を申しあげます。
- 2017/03/02 - 美味しんぼの新しい楽しみ方「まさかの福沢諭吉」購入申し込みを多数載いて感謝しています。 とにかく、「遊幻舎」が実績のない会社なので、取り次ぎ会社が余り扱ってくれないから、なかなか書店に並ぶことがなく、書店で「まさかの福沢諭吉」を購入しようとしても店頭に無かった、という苦情をあちこちから頂戴しています。 「遊幻舎」の力不足、著者である私の力不足ゆえのことで、折角店頭で購入しようとして下さった皆様に、お詫び申しあげます。 そのような場合には、書店に注文して頂ければ、2、3日で手に入ります。そうして頂ければ、取り次ぎ会社に「遊幻舎」の信用が出来て、多くの書店に配本してくれるので、本の宣伝にはなるので、ありがたいのですが、しかし、このページではいつでも「遊幻舎」に取り次ぎますので、よろしくお願いします。 ところで、「美味しんぼ」の休載が長引いていて、読者の方からお問い合わせが続いています。 「美味しんぼ」再開については私の一存では決められないので、もう少しお待ち下さい。 しかし、コンビニエンス・ストアでは、月に2回、過去の「美味しんぼ」をテーマ別に編集した「マイファースト・ビッグ」と「美味しんぼ・アラカルト」の形で発売しています。 昔の作品も掲載されていますので、是非お読み下さるようお願いします。 私は、非常に記憶力が悪いので、自分の書いたものなのに、昔の作品を読むと「へええ、これ、おれが書いたのかなあ」と戸惑うことがたびたびです。 で、そのように昔の「美味しんぼ」をまとめたものを読んでいるうちに、「美味しんぼ」の新しい楽しみ方を発見しました。 これはある人が、「ゆう子は◎◎の服を着ている」と書いているのを読んでからのことです。 この◎◎と言う所は、フランスの有名なブランド名が入ります。 それを読んで、「美味しんぼ」を読み直すと、ああ、花咲アキラさんはなんと言う凄い漫画家なんだろう、と改めて感心しました。 戯曲では、3幕4場、などと言います。 大きな設定の場面を幕といい、その大きな設定場面の中で話が変化するのを場といいます。 大きな設定を変えるときには一旦幕を閉めます。それで大きな場面設定一つを幕というのです。 設定は大きく変わらず、その設定の中で話を進める場合には幕を下ろさないので、場と言います。 「美味しんぼ」の場合、戯曲のように計算すると、場面設定が大きく変わる個所が3つか4つあり、その大きな場面設定の中で話が進むことが数ヵ所あります。 いわば、一回の「美味しんぼ」は、たとえば4幕8場、と言うくらいになります。 そのようにして「美味しんぼ」を読んで頂くと、大きな場面設定、幕、が変わるたびにゆう子の服装が変わっていることに気がつきます。場の変化では変わりません。 いや、私も最近それに気がついたんですがね。 その視点で「美味しんぼ」を見ると、いやはや、ゆう子は大変な衣装持ちだし、すごいおしゃれさんですよ。 1回分の話、1話の中で3着くらい別の服を着ていることがざらなんですよ。 最近、コンビニエンス・ストア版の「美味しんぼ」が来るたびに、ゆう子の服を見るのが楽しみになってしまいました。 ゆう子の服が変わるのを見るのがとても楽しいんです。 原作者が言うんだから信じなさい。 これは「美味しんぼ」の新しい楽しみ方ですよ。 それにつけても、こんなに細かく服装を変えていった花咲アキラさんのご苦労はいかばかりだったか。 いまさらながら、頭が下がるばかりです。
- 2017/02/28 - 追悼、谷口ジロー氏谷口ジロー氏が亡くなられた。 心の奥から、谷口ジロー氏に哀悼の意を表したいと思います。 谷口ジロー氏は最近は「孤独のグルメ」で広く知られていますが、氏の漫画家としての経歴は長く、私が、マンガの世界に迷い込みかけた1972年にはすでに漫画界では非常に高い評価を受けており、私自身も、谷口ジロー氏の大フアンでした。 私が本格的にマンガの世界に入り込んだのは、1974年の「男組」ですが、谷口ジロー氏は私が近寄れないほどの地位を漫画界で確立していました。 私が近寄れないというのは、たとえ話ではありません。 私は、マンガの原作者になってから、谷口ジロー氏と一と一緒に仕事したいと強く願っていました。 しかし、谷口ジロー氏は多くの枚数を描く方ではなく、極めてストイックに作画の量を押さえているような話を聞きました。 それに、私は、1974年の「男組」以来、日本文芸社の「野望の王国」など、極めて非現実的な暴力マンガを書き続けたので「ヴァイオレンスの雁屋哲」などと、作家としてのラベルがついてしまいました。 私はそれを少しも恥じていません。ヴァイオレンスの意味が分かるなら、私のマンガの意味も分かるだろう、と暴力的に居直って、暴力マンガばかりを書いていました。 ただ、そのような暴力マンガ原作者は、谷口ジロー氏の好まれる所ではないだろうとも思っていました。 いちど、ある出版社から、谷口ジロー氏のマンガの原作を書くという、長い間待ち望んだ話が来ました。 私は「やったー。谷口ジローと組める!」と興奮しました。 私と、谷口ジロー氏の両方を良く知っているという人から、「それは素晴らしいことだ、雁屋さんにも、谷口さんにも新しい地平を切開くことが出来る。この話は絶対にまとめるべきだ」 と興奮して、言ってくれましたが、その話は立ち消えになってしまいました。 谷口ジロー氏が他に組んで仕事をしておられる方は、味わいのある小説や、ノンフィクションを書く方が多く、私のような暴力マンガ原作者はいません。 私は大変にひがみまして、「谷口ジローさんは、おれみたいな暴力マンガを書く人間はお呼びじゃないんだ」とやけ酒を飲みました(と言っても、私は毎日酒を飲んでいますから、特にどの日の酒がやけ酒だったのか、とは言えない所がメリハリのつかない所です。) 最近の「孤独のグルメ」を読んでいても、谷口ジロー氏の絵はますます味わい深くなってきたと思い、以前と違って、「美味しんぼ」という暴力とは無縁のマンガも書けるようになったのだから、なんとか一度谷口ジロー氏と組んでマンガを作ってみたいと、切に願って、小学館の編集者にも頼んだことがあります。 それが、突然、谷口ジロー氏ご逝去の報道を読んで、心底落胆しました。 1970年代初めから、日本の漫画界は宇宙の始まりの際のビッグ・バンのように、その世界を一気に広げました。 マンガ雑誌の数も爆発的に増え、漫画家も様々な才能を持った若い人々が次々に参入してきて、2000年までは、日本の漫画界は、やれ行けそれ行けと毎日お祭り騒ぎの勢いで、活気にあふれていました。 そのような沸騰する漫画界の中で、谷口ジロー氏は自分の形をしっかり守り、量産もせず一つ、一つのマンガに精魂傾けて書いておられました。 氏の描く登場人物は、激したり喚いたり、という激しい行動を取ることが余りありません。 若夫婦が猫を飼う話など、淡々と、その夫婦の猫の生活が描かれるだけなのですが、その一コマ一コマに情感が込められていて、淡々とした話なのに深い感動を読者に与えるのです。 それは、登場人物の表情の表情が豊かであるだけでなく、多くのことを語りかけてくるものなのです。 なんと言うか、この登場人物とじっくり語り合いたいと思わせる表情なのです。 あのような表情は、画を描く本人の心が浅かったらとても描けないものです。 「孤独のグルメ」も、登場人物は何もしません。 食べる店も、高級店ではなく、町場の普通の店です。 主人公も、「美味しんぼ」の主人公のような能書きをたれずに、ひたすら食べる。 それが実にしみじみとした味わいで、読んでいる方が引き込まれていくのです。 あれだけ物語性のない話を、読む方がどっぷり浸って快感を感じさせるように描く作画力は誰も及ばないものだと思います。(原作を書いた、久住昌之さま、悪口を言っているのではありません、誤解なさらないで下さい。マンガの定法のようになっているわざとじみた物語性を排して、人に訴えかける原作を書かれたことに敬意を表します。ああ、こんな原作の書き方もあったんだな、と大変勉強になりました。DVDもSeason3まで購入し、そのDVDに添えられた取材日誌がこれがまた、凄いものだと思いました。「孤独のグルメ」は原作者と、漫画家のコラボレーションの粋だと思います) このような素晴らしい漫画家を失ったことが悲しいし、ついに一度も組ませて頂けなかったことが残念でたまりません。 組ませていただかなかった方が、谷口ジロー氏の名声を汚すことがなかったのかも知れないと、何だか変な風にあきらめています。 谷口ジロー様、心から、追悼の意を表します。
- 2017/01/14 - またまたお詫び昨日、読者の方から、「まさかの福沢諭吉」の誤植のご指摘を受けました。 下巻、302ページ最初のコマの中で、「独立自尊」が「独立自存」になっている個所があるというご指摘です。 慌てて調べてみて、あきれました、「独立自尊」と書いてあるとなりの行に「独立自存」とあるではありませんか。 あれだけ、校正をきちんとしたはずなのに、どうしてこんなことを見のがしたのか。 誠にお恥ずかしく、読者の皆様に心からお詫びします。 増刷が出来るようであれば、第2刷から訂正します。 ご指摘下さった方に、心からお礼とお詫びを申しあげます。 まだ他にもあるかと思うと、怖くなってきました。 何か見つけられた方は是非ご指摘下さい。 論語に「後生畏るべし」という言葉があります。その意味は、「後輩の人は、年も若く気力も強いから、努力して学問を積めば、その進歩はおそるべきものである。(漢字源)」という物ですが、これを校閲(文章の点検、校正)を仕事にしている人が「校正畏るべし」と書いて、校正の難しさを語っているのを読んだことがあります。 校閲を専門にしている人でも、誤植を見のがすことがあると言います。 私も今回、その言葉が身にしみました。
- 2017/01/10 - なんと言うことだグギャー、ウガアーツ、アンガガーツ 横浜マリノスのフアン、サポーターは、私と同じ悲鳴を上げたのではないでしょうか。 あんまりじゃないか。 中村俊輔がマリノスを出た! 他にも多くの選手を出した。 中澤の年俸は半分にする。 マリノスのクラブ運営者たちは何を考えているんだ。 中村俊輔の不満は監督の采配が腑に落ちない。そのせいで、チーム全体が上手く行かないと言う所にあるようです。 正直に言いますが、私は、監督の顔も良く知らないし、どんな考えを持っているのかも良く知りません。 しかし、中村俊輔は日刊スポーツで、こう言っています、 「やはり、マリノスでプレーしたいし、マリノスで終われれば一番いいと思っていた。それが少しずついろんなものがあって、毎日『これは違うんじゃないか』と。そんなことは普通はないこと。いろんなバランスが崩れていった。」 社長とも話し合ったが、 「これは違う、と言ったことが変わらなかったりしたら、その繰り返しは何なのかと。毎日、それが違うんじゃないか…と。そんなことは普通、ないこと。それに対応しきれなくなって、いろんなバランスが崩れていった」 要するに中村俊輔は、監督の采配に不満を募らせたのです。 マリノスで終わりたいと真剣に思っていた中村俊輔にとてもマリノスにはいられないと思わせるとはよほどのことです。 サッカー選手は野球の選手などに比べると選手として活躍できる時間は短い。 中村俊輔もそれは自覚していて、だから「マリノスで終わりたい」と言ったのでしょう。 その中村俊輔がマリノスを出ようと決心するのは、本人にもとても辛いことだったはずです。 磐田に行けば年俸は3分の2になる。それでも敢えてマリノスを出る。よほど、監督と上手く行かないのだと思います。 クラブ側は来季も監督はそのまま残すという。それでは、中村俊輔も我慢できないでしょう。 私は本当にマリノスのクラブ側の考えがわかりませんん。 今の監督と中村俊輔のどちらがマリノスにとって価値があるのか。 私は今の監督より、中村俊輔の方が遙かに大事だと思う。 我が愛するボマー中澤(ボンバーという人がいますが、bomber=爆撃手、爆撃機の発音は、最後のbは発音しないのが正しい英語です。bombはボム、それにerがついて、ボマ、またはボマー。どうせ英語を使うのなら、正しい発音で使いましょう。なに、ボンバーは日本語だって? はあ、それならそれで、構いませんが)の年俸を半分にするとは何事だ、と私は腹を立てています。 中澤は去年フル出場だった。私は何度も、中澤がディフェンダーとして、マリノスの危機を防いだのを見て「ああ、中澤がいて良かった」と感謝したものです。 私がマリノスの試合を見に行くときに着ていくのは、2006年のワールドカップ、ドイツ大会を見に行く際に買った、全日本の公式ユニフォームで「Nakazawa」と、書かれている。 一度、日産スタジアムで、小学生相手に着ているユニフォームを見せて「どうだ、いいだろう」と自慢をして、妻に「いいい加減にしなさい」と怒られたことがあります。 それくらい、私は中澤の大ファンなんです。 中澤祐二、中村俊輔、この二人の活躍を見たいばかりに私は日産スタジアムに出掛けていたんだ。 私の家は、横須賀秋谷。そこから、横横道路を通って第3京浜に乗る、前方に日産スタジアムが見えてくると、その時点で私はすでに興奮状態。 私はいつも試合開始の一時間以上前に日産スタジアムに着くようにしているのだが、その時点ですでにサポーターの皆さんは、飛び跳ねながらマリノスの歌を歌ったり、かけ声をかけたりして、えらい勢いだ。サッカーにはあのサポーターの騒ぎが絶対に必要ですね。 サポーターと言えば、コートジボワールのサポーターたちも凄かったな。 私は、ワールドカップのブラジル大会を見に行ったですよ。最初のコートジボワール戦なら勝てるだろうと、レシフェまで行ったです。 後半までは一点だけだがリードしていて、この分なら大丈夫かと思ったときに、コートジボワールは、ドログバを投入した。 なんと言うことか、ドログバが入って来るとコートジボワールの選手たちは突然活気に燃え、逆に日本の選手たちはすくんでしまいました。 ドログバは何もしない、ピッチを斜めに走っただけです。 それなのに、コートジボワールの選手は勢いづいて、あっという間に日本は逆転負け。 「ロード・オヴ・ザ・リング」という映画の中で、悪者の軍勢の中から四本牙の巨大な象が出て来て、良かもん(悪者の反対、我々観客が肩入れする方をこんな風に呼ぶのは、私の周辺だけかしら)側の兵士を踏みつけ、牙ではね飛ばす。 ドログバはその強大な四本牙の象のようでしたね。日本選手は、ドログバの牙によってはね飛ばされたように感じました。ドログバは、ピッチを斜めに走るだけで、コートジボワールの選手に力を与え、日本の選手の力を失わせた。 その、コートジボワールのサポーターたちが凄かった。ドラムを打ち鳴らし続けるのですが、そのリズムがすごい。一体どれだけのパターンがあるのか、いや、パターンなどなく、感情を表現するのに様々なリズムが自然に出て来る、という感じで、同点になってさらにコートジボワールが有利になると、嵐の時に大波が岸を次々に叩き続けるような勢いになる。 いまだに、あの時のコートジボワールのサポーターたちのドラムの音が頭の中で響いて苦しくなるときがあります。日本があれで勝っていれば、「いいドラムだったな」と楽しく振り返られるのでしょうが、あんな負け方をすると、コートジボワールのドラムの響きは思い出したくないものになってしまいました。 話が飛んでしまった。 私は、マリノスの試合を見たあと、いつも一緒にサッカーを見に行く友人夫妻と私達夫婦、たまに私の子供、甥なども一緒に横浜関内の天婦羅屋「とらや」に行くのが楽しみです。 マリノスが勝ったあとなら最高ですが、負けたあとでも「とらや」で、美味しい魚(とらやは天婦羅だけでなく魚料理がすばらしい)を食べながら、皆でわいわいやると、これはまさに至福の時。 しかし、中村がいなくなったマリノス、中澤を粗末に扱うマリノス。 そんなマリノスの試合を見に行くだろうか。 私の大きな楽しみが、今消えかかっている。 中澤がいる限りマリノスを応援に行きますが、どうも、力が抜けたなあ。
- 2017/01/02 - 魯山人と美味しんぼ 2016年12月24日に「魯山人と美味しんぼ」と言う本が発刊されました。 小学館 刊 定価907+税 画像はクリックすると大きくなります。 もともと、私は「美味しんぼ」を始める前からに、北大路魯山人の作品と、その料理、書、陶芸についての考え方に深く心を動かされていました。 私と魯山人との出会いはどのような物だったか、私は魯山人のどこに価値を認めたか、私はどのようにして魯山人の料理の哲学に導かれたかを、この本ではまず書きました。 矢張り、どう考えても、「美味しんぼ」は魯山人の影響を強く受けていると私は思います。 と言うより、魯山人の「美」に対する考え方、「食」と「料理」に対する考え方を支えにしなかったら、「美味しんぼ」は海図も羅針盤もなく大海に乗り出した船のように、漂流の果てに沈没していたでしょう。 私は長い間、あちこちと食べ続けて、結果として私が完璧であると思った和食の料理人は、この本に登場して頂いた、佐藤憲三、徳岡孝二、西健一郎、の御三方なのです。 この本の御三方の並び順は、こういうことにうるさい人がいるので、いろいろと大変だったのですが、私はこの御三方に性格の違いがあっても料理の質は、私の乞い願う通りの「料理は芸術である」という命題をそそのまま表象して下さっている方と考えて、ならび順などとと言うこそくな考えを抱くことはなかったのですが、偶然、佐藤さんが憲三、徳岡さんが、孝二、西さんが、健一郎と言うことで、「三、二、一」で丁度よかったと私の妻に言われて安心しました。 今回発売された「魯山人と美味しんぼ」に掲載されている料理の数々はその食材に一番あった料理法が示されることは勿論、もしかしたから、これから先この食材は手に入らなくなるかも知れないと恐怖を抱かせるほどのもので、二百ページにも満たないものですが、もし本気で日本料理に命を懸けようと思う若い人がいたら、この本で佐藤憲三、徳岡孝二、西健一郎の三氏が見せてくれた料理に一歩でも迫る努力をしていただきたいと思います。 この「魯山人と美味しんぼ」に掲載された、佐藤憲三、徳岡孝二、西健一郎の三氏の料理は日本料理の一つの極限として、今後日本料理を学ぶ人にとっては到達すべき目標となると思います。 この御三方の料理、そして、その料理を支えた魯山人の器。 こんな贅沢な料理の企画はこれから先めったにできないだろうと思うのです。 私は、考えてみれば、飛んでもない贅沢な企画を立てて、それを通してしまったものだと、今になってみれば、寒けがします。 本の内容をざっとご紹介すると、 ◎私と魯山人の最初の出会い ◎シカゴの世界的に有名な美術館「アート・インスティテュート・オブ・シカゴ(シカゴ美術館)」を訪ねた時に、偶然、魯山人の陶芸も展示されていたという幸運に出会ったこと。 私は、自分は魯山人の陶芸を芸術だと思っていましたが、世界中の美術品・芸術品と比較してもなお素晴らしい芸術品と言えるのか、それを確かめたいという強い思いに動かされて、世界の美術史上最高の名品を多く集めたシカゴ美術館の最上階から全ての美術品を一つ一つ自分の目にしっかり焼き付けて、その目を持って、再び魯山人の陶芸品の前に立った時の感動。 ◎食は芸術なのかということ。 ◎私が考えた、「魯山人の料理の大原則」 ◎私がこれまでに出会った中で、最高の料理人と考える、佐藤憲三さん、徳岡孝二さん、西健一郎さんに、「魯山人の大原則」どおりで、しかも「芸術品」である料理を作って頂いて、その写真を載せてあること。 ◎その料理ごとの、お三方の言葉も載っています。 この本の著者は、私 写真は、安井敏雄さん。 安井さんは、この15年ほど、「美味しんぼ」のための写真撮影に協力してくれています。 その腕前は,この本で、明かです。 香りまで感じ取れるような見事な写真です。 お三方のお話など、本分の構成をしてくれたのは、安井洋子さん。 安井洋子さんも、この15年ほど、「美味しんぼ」の取材に協力してくれています。 私と取材先の人たちとの会話はすべてカセット・テープ(この時代に、まだデジタルでないのがすごいところ)に記録して後で文章に起こしてくれます。 「美味しんぼ」の「日本全県味巡り」も、東北大震災後の「被災地篇」「福島篇」も書くことが出来たのも、この安井敏雄さんと安井洋子さんの助けがあってのことです。 そして、当然、絵は花咲アキラさん。 漫画家は、キャリアが長くなると、「絵が枯れる」と言われるようになります。 最初の頃の勢いやみずみずしさがなくなって、上手なんだろうが何だか生気が乏しくなる。 そういう漫画家は少なくないのです。 しかし、花咲アキラさんはちがいます。 この表紙の絵を見てください。 まず、線がくっきりとなめらかで生き生きとしています。 これだけきれいな線を引ける漫画家は滅多にいません。 そして、山岡と雄山の表情の豊かなこと。 今まで、「美味しんぼ」はテレビや映画に映像化されましたが、その際に一番困ったのは日本の俳優の中に雄山を演じることの出来る人がいないことでした。 私は俳優年鑑を開いて一人一人俳優を見ていったのですが、花咲アキラさんの書く雄山を演じることが出来るだけのすごみのある俳優はいませんでした。 昔、テレビで放映されていた「隠密剣士」という番組で悪役を務めていた「天津敏」ならと思ったのですが、残念ながら、亡くなっていました。 こういう人物を作ることが出来る、花咲アキラさんは凄い漫画家だと思います。 雄山が登場しなかったら、「美味しんぼ」はこんなに人気は出なかったでしょう。 と、まあ、色々な方のご助力を得てこの一冊の本が出来上がりました。 私の料理についての考え、「美味しんぼ」で何を言いたかったか、つたないながらも精一杯書きました。 「まさかの福澤諭吉」とは、まるで違う本ですが、両方ともぜひご愛読下さるようお願いします。
- 2016/12/14 - お詫びします「まさかの福沢諭吉」を購入して熟読して下さったからの、「誤植ではないか」というご指摘を受けました。 私は、「まさかの福沢諭吉」を作るのに、文章だけで出そうと思ったときに、そして、マンガにしようと思ったときに、そして、シュガー・佐藤さんの画が入ったときに、何度も、校正をしました。 ところが、情けない間違いがあったのです。 その過ちを指摘して下さった方のお名前は、その方にご迷惑をお掛けしたくないので、ここで出すわけにはいきません。 その方のご指摘を以下に示します。 1)「まさかの福沢諭吉」上巻187ページから書かれている「福翁自伝」は、私が書いた「福沢諭吉全集 第3巻ではなく」、「第7巻ではないのか」 と言うことです。 これはご指摘の通りに、第7巻の間違いでした。 更に、その方のご指摘では、 2)上巻187ページに書かれている、「牛屋」の主人に福沢諭吉が頼まれたのは、「牛を殺すこと」ではなく、「豚を殺すこと」である。 これも、その方のご指摘通りで、私の間違いでした。 このご指摘を頂いた件は、単なる「誤植」ではなく、私の犯した過ちであると思います。 牛屋の主人に頼まれたから、牛を殺すこと、だと思い込んだ私の浅はかさです。 私は、これまでに、屠畜場を幾つも見学していて、牛を殺すことは勿論、豚を殺すことも、それに習熟した人達でなければ出来ないことを知っていました。(私のこの言葉を、被差別部落の人達と結びつけないで下さい。) それなのに、「まさかの福沢諭吉」を書くときに本の内容に夢中になりすぎていて、思わぬ落とし穴にはまってしまいました。 あれだけ、念入りに校正を重ねたのに、どうしてこんなことが起こったのか、私は、悲しくて、口惜しくてたまりません。 このようなご親切なご指摘をして下さった方に心から感謝の念を捧げると同時に、初版をお買い上げ下さった方々に、なんとお詫びして良いやら分からない状況です。 運良く、「まさかの福沢諭吉」の二刷りが可能になれば。その過ちは直します。 しかし、すでに、お買い求め頂いた方には、ただ謝罪するしか私にできることはありません。 「遊幻舎」も極小の、出版社とも言えない出版社なので、初版を全部お取り替えする財力はありません。 このお詫びで、お許し頂くようにお願いするしかありません。 過ちをご指摘下さった方、また、その他の読者の方々のご厚情におすがりするしかありません。 大変申し訳ないことです。 心からお詫びします。
- 2016/12/08 - ありがとうございました12月4日に明治大学で行われた、 『「 日本の「近代」と「戦後民主主義」ー戦後つくられた「福沢諭吉神話」』 の会に大勢の方が参加して下さいました。 おかげさまで大成功でした。ありがとうございました。 明治大学の山田朗先生、伊勢弘志先生、その他明治大学の皆様のご助力に心からお礼を申しあげます。 会場で「まさかの福沢諭吉」を販売した所、持っていった100セット200冊が売り切れ、さらに40数セットの注文を頂いたと、遊幻舎の担当の者が報告してくれました。一緒に会にご出席になった、安川寿之輔先生の御本もかなりの数、購入して頂いた、今までに例のないことだと、先生も驚いておられました。「今日参加して下さった方は皆さん大変に意識の高い方だったんだ」と先生は仰言いました。 当日の、安川寿之輔先生、杉田聡先生、そして私のお話しする様子はIWJ(グーグルで索引して下さい)で、録画放送していますので、ご覧になって下さい。 このページに本の購入の申し込みをされた方にも厚くお礼を申しあげます。お送りする本と一緒に郵便振替用紙が入っています。郵便局でお支払い頂ければ、手数料も必要ありません。本の代金だけお支払い下さい。 前回、お約束した、「なぜ、今、福沢諭吉なのか」については、12月4日にお話ししたことも踏まえて、新たに書き直して、このページに掲載します。 ところで、前回、PDFファイルを、このページ内に付け足す方法を取りましたが、如何でしたか。 読みづらいなどと言うことがあったら、お知らせ下さい。 もし、PDFファイルをこのページに付け足す方法に問題がなければ、私の文章はどうしても長くなりますので、その方が、読者の皆様にも読みやすいかも知れません。 感想をお聞かせ下さい。
- 2016/12/03 - 私と福沢諭吉明日、12月4日は、前回お知らせした、 「問い直そう、日本の『近代』と『戦後民主主義』ー『戦後作られた福沢諭吉神話を徹底検証」 という第の研究発表会が開かれます。 出来るだけ多くの方が参加されることを願っています。 また、「まさかの福沢諭吉」の購入申し込みを多くの方に頂きました。有り難うございます。速やかに発送しますので、お待ち下さい。 さて、明日の会で、どうして私が「まさかの福沢諭吉」を書こうと思ったのか、お話ししようと思いましたが、会の制限時間を越えてしまいますので、その内容を、このページに書きます。 例によって長すぎると、ご批判を頂くと思いますが、PDFにしましたので、お読みいただければ幸いです。(これは、安川寿之輔先生が発行しておられる「さようなら、福沢諭吉」第2号に掲載した物です。) まさかの福沢諭吉* クリックすると、PDFファイルが開きます。 場合によってはフォントが大きく出てしまうかも知れませんが、その際には、画面上で小さくして下さい。
- 2016/11/27 - 「まさかの福沢諭吉」、発刊、そして緊急のお願いずいぶん時間がかかりましたが、私の福沢諭吉についての本、「まさかの福沢諭吉」は出版元の「遊幻舎」の担当者によれば、11月25日に印刷製本が仕上がり、取次店に搬入したと言うことです。 私が20日に発売開始などと言ったばかりに、何人もの方から本屋に行ってもまだなかった。Amazon でも品切れ表示しかなかったと、お怒りの電話やメールを頂き恐縮しています。 考えてみれば、2009年からこの本を書き始めたわけで、途中福島のの鼻血問題などで対応せざるを得なくなり、反論の一冊本を書かなければならなくなったりして、福沢諭吉の本は遅れに遅れました。 それでも、2015年の12月には発行できる状態だったのですが、私の娘達二人がその原稿を読んで、「これは、マンガの形式で書いた方が、分かりやすい」と強く言うので、急遽マンガ形式にしたために、また時間がかかりました。 漫画家は、「日本人と天皇」の時のお願いした、シュガー・佐藤さんです。 シュガーさんの労力は尋常な物ではなく、800ページに及ぶマンガを、1年あまりで描き上げて下さったのです。 下に、「遊幻舎」の書いた、出版案内を掲載します。(上下2巻、上巻432ページ、下巻368ページ) 画像はクリックすると大きくなります。 定価は上下二巻で3600円プラス消費税で、3888円ですが、このブログの読者に限り、上下二巻3100円(送料なし、振込手数料なし)で販売します。ご希望の方は、氏名、住所、郵便番号、電話番号を、明記の上、このブログに申込んで下さい。出来るだけ多くの方に読んで頂きたいと思って、「遊幻舎」の担当に頼み込んでこの値段になりました。 ところで、今度の私の本「まさかの福沢諭吉」について語る前に、緊急に皆様にお願いしたいことがあります。 2009年の福沢諭吉についてのページにも書きましたが、日本で真実の福沢諭吉の思想、行動を明らかにして、その実像を明確に捉えた研究者は、ただ一人名古屋大学名誉教授安川寿之輔先生だけでしたが、最近は、帯広畜産大学、経済学教授の杉田聡先生が、安川寿之輔先生先生とはまた別の見地から、鋭い福沢諭吉論を展開されており、私はこのお二人こそ、真実を追及するためには何事をも恐れず、周囲からの雑音にも怯まず、傲然として日本の社会の不正に立ち向かう真の学者であると尊敬しています。 安川寿之輔先生、杉田聡先生のお二人は無智な私に色々とお教え下さり、まさに私の師であり、同士とも恃む方です。 そのお二方と私とで、12月4日に明治大学で、「問い直そう、日本の『近代』と『戦後民主主義』ー『戦後作られた福沢諭吉神話を徹底検証」という題で研究発表会を開きます。 そのビラを以下に掲載します、 この研究・発表会、について広報活動をあまりしていないことが、何と昨日になって私は知りました。 このままでは、当日人が集まる可能性は今の所低いと私は思わざるを得ません。 私は大変に焦っております。 そこで、読者の皆さんにお願いです。 この私のブログのURL(kariyatetsu.com)を出来るだけ多くの方たちに、送って頂けないでしょうか。 もう一週間もないのにこの有様で、お恥ずかしい限りですが、出来るだけ多くの方に、参加して頂きたいのです。 参加ご希望の方は、このブログに「12月4日、参加希望」として、お名前をお書きになって申込まれれば、当日入場料が1000円のところ、「事前申し込み」として800円の入場料となります。 また、当日会場で、「まさかの福沢諭吉」を上下で3000円、「美味しんぼ『鼻血問題』に答える」を1000円で販売します。 一人でも多くの方に参加して頂けますよう、皆さんのご協力をお願いします。 「まさかの福沢諭吉」についての、文章は、次回に掲載します。 今回は、お知らせと、お願いだけにしておきます。
- 2016/11/19 - まさかの福沢諭吉以前から、私が福沢諭吉についての本を書いていることをお伝えしてきました。 福沢諭吉については2009年7月5日と7月9日に2回にわたって書いています。 そのブログを読んでくれた「高文研」の方が、安川寿之輔先生に「こんな人が、こんなことを書いていますよ」と知らせてくれて、それで、安川寿之輔先生とのつながりが出来、それ以来、安川寿之輔先生に色々とお教え頂きました。 私は福沢諭吉については、安川寿之輔先生の幾つも著作によって勉強し、日本人は全員安川寿之輔先生の著作を読むべきだと思っています。 しかし、安川寿之輔先生の著作はあくまでも学術書であり、私の妻や姉、弟のような一般の人間には取っつきにくい所があります。 しかも、安川寿之輔先生が著作の中で引用する福沢諭吉の文章は先生のその場での議論に必要な部分だけであって、福沢諭吉の文章全体を見渡すのが難しい。 といっても、ある一つの福沢諭吉の文書を取ってみても、明快であるのですが、さすがに明治時代の文章であり、読みづらい、おまけに福沢諭吉の書く文章はとにかく長い。 改行もなく、難しい漢字を使って、どうしても読者を納得させようと思うのでしょうが色々な例を挙げ、話があっちに飛びこっちに飛ぶ。一つ読むだけでくたくたになります。 で、私は、福沢諭吉の文章を現代文に直し、長すぎる所は(殆どがそうなのですが)要約して、現代の若い人達でも読みやすく、福沢諭吉の思想を確実につかめる形にしようと考えたのです。 本当なら、2011年には出版する予定だったのですが、2011年に福島第一原発事故が起こり、被災地と福島の取材に取り組み、また、その後「美味しんぼ」の福島編の中で私自身が体験した鼻血の話を書いた所、総理大臣まで出て来て、私をバッシングしたので、その反論の本を書いたりするのにまた時間を取られ、ようやく20115年11月に出版する所までこぎ着けたのですが、その内容を読んだ娘達が、マンガにした方が分かりやすい、と忠告してくれたので、急遽、文章だけの本をマンガの形に作りなおすことにしたのです。それで、更に時間がかかり、ようやく、この11月20日に出版することが決まりました。 書名は、「まさかの福沢諭吉」です。 私は、中学高校までに学校で教えられたとおりに、福沢諭吉は日本の民主主義の先駆者と漠然と考えていましたが、実際に福沢諭吉の著作を読むと、民主主義とは全く正反対の思想をこれでもか、これでもか、と述べているので、「まさか」と仰天しました。 書名は、私が福沢諭吉の著作を真剣に読み始めたとき、思わず声に出してしまったその言葉をそのまま使いました。 遊幻社刊 「まさかの福沢諭吉」作・雁屋哲、作画・シュガー佐藤。上下二巻。各巻1800円+消費税です。 若い人でも読みやすい形にするのが私の意図だったのに、私も福沢諭吉同様くどい性格なのか、マンガ形式にしたために800ページを越えてしまい、仕方なく上下二巻に分けざるを得ず、どうも気安く読んで頂こうという最初のもくろみから大きく外れてしまったようで、残念です。 それだけ、福沢諭吉については語るべきことが多いのです。 とは言え、福沢諭吉は、百年以上前の人間です。 様々な問題を抱えている、日本の社会の現状を考えると、今更読む価値が有るのかと思う方も多いと思います。 どうか、出来るだけ多くの人に読んで頂きたいと願っています。 そこで、次回から、「なぜ今、福沢諭吉なのか」を語るつもりです。
- 2016/11/11 - 増田義郎先生を悼む増田義郎先生が亡くなられた。 増田先生は、新聞やインターネットでは、「文化人類学者」とか「中南米文化史研究者」と書かれているが、先生は英文学専攻だったのがラテン文学に興味を持ち、それをきっかけに中南米の歴史の研究に軸足を移されたと私は記憶している。 私は、東京大学の教養課程で増田義郎先生の英語の授業を受けた。増田義郎は筆名で、大学では増田昭三の本名で授業をしておられた。 1960年代の初めにすでに先生は「インカ帝国探検記」や「古代アステカ王国」などの本を出版されていて、私は、その「インカ帝国探検記」を読んで大変に感激していたので、増田義郎先生の授業というので興奮したが、授業は普通の英語の授業で、インカ帝国のことなど一つも先生は話されなかった。 その後、私は教養学部の基礎科学科に進学したが、ふと同じ教養学部の教養学科の授業予定表を見ていると、増田先生がインカに関する授業をしておられる。 こっそり授業に紛れ込んで聴講してみると、インかどころかインカ文明以前のプレインカ時代の話で大変に興味深く、先生に、「基礎科学科の学生ですが授業を受けさせて頂けませんか」、とお願いした所、よろこんで、「ああ、いいですとも、基礎科学科の学生がこんなことに興味を持つとはね」と仰言って快諾して頂いた。 先生のその授業は、殆ど考古学に近く、細かい地名は忘れてしまったが、インカの文明の地をある程度掘ってみると、その下に、それ以前の文明の遺跡がある、そこをさらにほると、またそれ以前の文明の遺跡が現れるというもので、遺跡を掘り下げると更にその下にそれ以前の文明の遺跡が重層的に眠っているという話が当時の私にとっては初めて知ることであり非常に興奮して面白かった。 私は、かなり熱心に先生の授業を受け続けた。 しかし、学期も終わりになる頃、先生の授業の試験の日と、本来私が所属する基礎科学科の重要な科目の試験日とが重なることが判明した。 さすがに、自分の専攻学科の試験を外すわけにはいかない。 で、増田義郎先生に、「申し訳ないのですが、先生の試験と基礎科学科の試験と日が重なってしまい、先生の授業の試験は受けられなくなりました」と謝りに行ったら先生は笑われて、「そりゃ自分の方を優先しなくちゃね。いいんだよ、そう言う人は良くいるから」と、おとがめも無かった。 私以外にも他の学科から先生の授業を聴講に来る者が少なくないと言うことが先生のそのお言葉から分かって、私は嬉しくなった。 ああ、こんなことも40年以上も前のことになるんだなあ。 先生について、人が「文化人類学者」というのもむべなるかなであって、先生は単なるラテン文学とラテンアメリカの歴史に造詣が深いだけでなく、プレインカについての考古学的研究もしておられたのである。 英文学から始まって、ラテン文学、中南米の人類学的な研究にまで進んで行かれた先生はそれまで日本人に殆ど知られていなかった分野を開拓されたのであり、学者として非常に先鋭で意欲的な方だった。 コロンブス以後、スペイン、ポルトガルなど国の一攫千金を狙う人間がアメリカ大陸に襲いかかり、その結果が今の中南米諸国の不安定な政治状況を作り出しているのだが、そのコロンブス以後の西欧の探検者冒険者たちが海を渡った時代を、現在「大航海時代」という言葉を日本では使われている。その「大航海時代」という言葉も、増田義郎先生が当時の状況を極め尽くして作られた言葉なのである。 今夜は増田義郎先生のご逝去を悼み、先生の御著書をどれか読んでみよう。とは言っても、増田義郎先生の御著書はどれも魅力的で、どれにするか非常に迷うのだ。
- 2016/11/11 - 豊洲問題最近、築地市場が豊洲に移転する問題が騒ぎになっています。 私としては、何を今更言っているんだろうと、思わざるを得ないのです。 私は、2009年に築地市場の豊洲移転に伴う問題について取材して、2010年3月に出版された「美味しんぼ」第104巻に、その件を詳しく書いてあります。 詳しくは、第104巻を読んで下さい。その中には、青森の「六カ所村」の「核燃料再処理工場」についても書いてあります。 「美味しんぼ」の第104巻と第105巻は、2009年から2010年に掛けて、日本の環境問題を日本各地を歩いて取材して書いています。 環境問題はその当時から、何一つ改善されている物はありません。 私達日本人は、自分の国土を破壊して、つかの間の経済的繁栄を得ましたが、今やその経済も破綻して、当時国土を破壊したことが今になって、重い負担になって私達、私達の子供、孫、さらに次の世代にまで残ってしまったのです。 「美味しんぼ」この第104巻の中でも青森の六ヶ所村の「核燃料再処理工場」を訪ねて、もしここで放射能漏れがあったら大変なことになることを指摘しています。当時、現地の空間放射能は0.02などという物でした。しかし、それは何も事故が起こらずに済んでいる場合で、一旦何か大きな事故が起こればそんな数値は吹き飛ぶと予見しています。 今の所、六ヶ所村からの話は聞かずに済んで幸せですが、2009年には予見だった放射能被害は2011年の福島第一原発で現実のものになりました。マンガでは予測も出来なかった大きい被害になりました。 そして、2009年にすでに現地を取材して「美味しんぼ」にきちんと書いた豊洲問題が2016年の今になって表面化したのです。 たかが一介のマンガ原作者である私が、現地を訪ねれば分かることを、どうして専門家や施政者が分からないのでしょうか。 全て施政者、(豊洲問題で言えば、当時の都知事石原慎太郎が、決めたことです。今になって、石原慎太郎は何もかも忘れてしまったぼけ老人を演じています。)とその周辺の人間が、自分の子供たちの世代は当然孫の世代にまで影響を及ぼすことを心配することもなく、その時の自分の欲で決めてしまったことなのです。 こんなことをすれば、後の世代に害を及ぼすと分かっていても、その時自分が得られる利益に目がくらむのでしょう。無責任も甚だしい人達だと思います。 個人の欲望は自分の子供、孫のことも忘れさせるほど、強烈な物なのでしょうか。情けなく、恐ろしいことです。 この豊洲の件について興味の有る方は是非、「美味しんぼ」の単行本第104巻をお読み頂きたいのですが、今回は、第104巻のその部分の触りのところを、ここに引用します。 まず、「美味しんぼ」第104巻の、95ページを開いて下さい。 そこは、新しい章の開始のページで、「食と環境問題〈5〉」と書かれています。次のページから、本題に入ります。 (以下、「美味しんぼ」第104巻から引用して下に掲載します。)(ここに書かれている人名、数値などは、当時私が実際に取材したときに確かめた物です。工事などの関する細かい数字などは、それ以後に変えられた物もあります。この話は飽くまでも、2009年に私が取材をしたときに私が確認したことを元にしているとご理解下さい。内容は全て2009年に確かめた事実です。何一つ、事実に手を加えた所はありません。それが「美味しんぼ」の基本ですから。) (画像をクリックすると、画像全体が現れます。) ここに描かれているのが、「豊洲新市場予想図」です。 2009年の段階では「予想図」でしたが、現在はこの通りに出来上がっているのでしょう。 出来上がってしまった今になって、いろいろと問題が起きているのですが、その問題の根底はは2009年に私が「美味しんぼ」で豊洲新市場について取材したときに、すでに分かっていたことなのです。 ことの進展を振り返りましょう。次は96ページです。この中で、「2014年に開業する」と書かれていますが、それは、2009年当時の予定であって、実際は今年2016年に開業する間際になって、2009年当時に問題とされていた物が解決されていないことが明らかになり、開業できなくなっているのです。この問題とは何だったのか、 次に、97ページから順番に見て行って下さい。 この図は、東京都が発表したパンフレットに依っていますが(http://www.shijou.metro.tokyo.jp/toyosu/pdf/book/pamphlet.pdf)少し説明が必要です。図の中で、盛土が2.0mと2.5mの二層に別れていて分かりづらいと思います。 下の2.0mと書かれている地層の一番上が、東京都が東京ガスから買ったときのその土地の表面です。その土地の汚染がひどいので、2mの深さで土地全部をはぎとり、はぎとった後に新しい土を入れて、東京ガスから買ったときの土地の高さにするという意味です。 その上の、2.5mというのは、更にその上に新しい土を盛ると言うことで、こうすることで、東京ガスから買ったときの土地より2.5m高くなります。 あわせて、4.5mもの盛土をするというのです。なぜ、そこまでしなければ安全が確保できない土地に、生鮮食品を扱う市場を無理矢理移転させなければならないのか。私には、理解できません。 この一番下の図は、私達が取材したときに撮影した写真を元にした物です。不思議なことに、雑草だらけの土地なのに、学校の校庭に匹敵する面積の一角は何一つ雑草が生えていませんでした。この土地の石も土も植物も外部持ち出しを禁止されました。勘ぐれば、石も土も危険である、あるいはそんな物を外部に持ち出して検査をされたら困るからなのかと思いますが、それは私の邪推でしょうね。 豊洲の問題続いているのですが、ここで「美味しんぼ」の話の都合で(山岡と雄山の料理に関する問題が、その件が挿入されます。その部分はのぞいて、豊洲に関する場面だけを抜き出しますので、ちょっと乱れますがご勘弁下さい。 ここから、豊洲移転賛成派の意見が登場します。 「美味しんぼ」第104巻では、このあと、色々と魚介類を使った良の話が出て来ますが豊洲とは関係ないので省きます。次からのページはその後に続く物です。ここから豊洲移転反対派の人が意見を言います。 と、これで、「美味しんぼ」で「豊洲問題」を扱った部分は終わります。もっと詳しく書くべきだったのですが、この第104巻は「食と環境問題」を扱った巻であって、ほかにも、沖縄の泡瀬干潟、天竜川のダムの問題、長良川の河口堰の問題など幾つも扱っているので、豊洲問題についてはこれだけのページ数を使うのが限度でした。 しかし、この「美味しんぼ」の豊洲問題で、今騒ぎになっている問題は全て明かでしょう。 基本的に言えば、一番の問題は、豊洲の東京ガスの跡地は、石炭から都市ガスを作り出す工程によって、非常に汚染されていて生鮮食物を扱う市場を作ることに全く適していないと言うことです。 そのように汚染された土地の上に、生鮮食物を扱う市場を作るために、東京都の説明を見ても分かるように、異常な手段を使い、考えられない巨額のカネを使っています。 更なる問題は東京都は、100ページから、102ページに渡って、約束した豊洲の土地を安全な物にすると言ったのに、それを守らなかったことです。 自分たちの利益のためには消費者の健康問題も何も考えない。市場の生鮮食品も消費者から受け付けられなくなり、市場自体が成り立たなくなるかも知れない。 関係者たちが罪のなすり合いをしていますが、醜悪な限りです。 東京都と都民は、この事態をどうするつもりなのでしょうか。 もう出来てしまったものは仕方が無い、と言って使いますか。あるお寿司屋さんが言っていましたね。「豊洲のすしネタはうちでは使わない。他に仕入れ先を見つける」 東京で寿司を食べるのは命がけになってきました。 まことに世も末とはこのことです。 放射能汚染に加えて、ベンゼン、ヒ素、青酸まで心配しなければならないとは。 東京都の関係者は、2020年の東京オリンピックのために、現在の築地市場を通る道を作る必要があると言っています。 オリンピックだと? 東京オリンピックは、安倍晋三首相が、福島の汚染水は完全にブロックされているとIOCの誘致の場で大嘘をついてまで誘致した物でしょう。 オリンピックを開くことで、誰が嬉しいのでしょう。運動選手は自分の活躍できる場が出来て嬉しいでしょうが、運動選手の選手寿命はどんなに頑張っても、30代後半まで。日本人の平均寿命(女性が86.83歳、男性が80.50歳)考えると、選手としての活躍の時代が終わった後の長い時間を、どのようにして過ごすかが問題でしょう。 オリンピックが終わったら死んでも良いのですか。それとも、その後も生き続けたいのですか。 元オリンピック選手でも、生きるためには安全な環境が必要でしょう。引退した後、現在の豊洲市場からの生鮮食物を食べますか。 東京オリンピックを開くことで嬉しいのは、安倍晋三首相とその周囲のオリンピックで一儲けできる人達、ゼネコンを初め、オリンピックに協賛することで利益を上げられる人達でしょう。 私は皆さんにお尋ねしたい。 オリンピックって私達の生活を壊してまで開く価値の有る物なのですか。
- 2016/11/05 - 中国ショック3中国に4月に行った目的は、西安の大雲寺に保存されている褚遂良の「雁塔聖教序」を見ること、また、2004年に、西安の工事現場で偶然発掘された日本人留学生〔遣唐使)井真成の墓誌が、西安の西北大学に保存されているというので、それを見ること、そして南京の、「南京虐殺記念館」を訪れることでした。 褚遂良の「雁塔聖教序」を見るのは長い間の夢だったのですが、ああ、なんと言うこと、碑自体は残っていましたが、その表面に、私が見たかった石碑にその碑文を拓本に取った紙がかかっているではありませんか。 拓本に取ると碑が傷むので、それは仕方がないのかも知れませんが、碑自体はきちんと元のままに見せて、拓本を取ることだけを禁止すれば良いのではないかと、がっかりして腹を立てました。なんと言うことだ。この数十年の私の夢は何だったのだろう、と無念が募りました。もっと早くに来れば、石碑の表面を見ることが出来たかも知れないと思うと、余計に口惜しくなります。中国から帰ってきて数ヵ月経つ今でも口惜しくてたまらない。 最初の日に、きちんと写真に撮り損なっていたことが、その夜ホテルで写真を点検して分かったので、翌日三脚を担いで長男の協力を得て再び、褚遂良と、井真成の墓誌を撮影に行きました。 褚遂良の碑も、上部の飾りの部分は覆われていなかったので、碑の名前など重要なものは、撮影し直して、あの条件ではこれ以上は撮れないというところまで撮影しました。実際に難しい角度からの撮影は長男に頼みました。今の私の脚の具合では写真を撮るのに上手い具合に態勢を取ることが出来ません。 誰か政府の高官につてでもあれば、あの拓本の紙を剥がして、碑面を見ることが出来たのでしょうが、そんなつては無いから仕方がないことです。それにしても、どうしてあんな処置をとったのか、理解に苦しむこと甚だしい物があります。 褚遂良については皆さんご存知でしょうから、井真成について、ちょっと語りましょう。 2004年に、西安市内の工事現場で、パワーシャベルが一つの物を掘り出しました。 表面に字が書いてあるから意味のある物だろうと、西北大学に持込まれて、これが、700年代の、日本から遣唐使としてやってきた一人の青年のための墓誌であることが確認されたのです。 その後、日本の専修大学と、西北大学の共同プロジェクトで、その墓誌の研究が進み、朝日新聞社から「遣唐使の見た中国と日本」という本が発行されました。私はその本を読んで、どうしても、西北大学に来たかったのです。 この墓誌によれば、 専修大学の矢野健一教授の解読する所では、 「七一七年の遣唐使として一九歳で中国に来て、開元二二年(七四二年)に三六歳で亡くなった。玄宗皇帝はその死を悼み、尚衣奉御の位を追贈し、葬儀も国で費用を支払う物とした。同年二月、埋葬された」 とあります。 私はその本を読んで、思わぬ出来事に興奮して西北大学まで行ったのです。 墓誌とは、昔の中国の風習で、身分の高い人が亡くなると、身分に応じて立派な墓を作り、その棺の傍に、亡くなった人間の業績などをたたえる文章を書いた物を置いたものであって、墓誌には蓋と、その下の業績を書いた文章を掘られた物とに別れています。両方とも石です。 墓誌の蓋の部分は長い年月の間にいたんでも、蓋の下の墓誌は蓋に守られていてきちんと残っています。(とは言え、肉眼では判読しづらく、拓本にとってはっきりと読むことが出来たのです) ところが、西北大学でも、専修大学でも、昔の文献など調べてもどうしても、この井真成という人間のことが分からない。 西北大学と専修大学のそれぞれの専門家が、日中両方の文獻を調べても、この、井真成という人物のことが分からない。 ところが、この墓誌を見ると、「尚衣奉御」という唐の官僚として位を与えられていることが分かります。 「尚衣奉御」と言うのは、皇帝の身の回りの着る物を整えるという仕事で、官僚の位としては低い物ですが、皇帝や高官の子弟はこの「尚衣奉御」を最初の一段として、次々に高い位に上っています。 であれば、この井真成は、かなりの人物であったのではないかと思われるのです。 現実に、玄宗皇帝が井真成の死を悲しんで、この官職名を与えたとも西北大学の研究では言われています。 私にとって、最大の魅力は、遣唐使の時代に、日本の記録に残っていなかった青年の死を玄宗皇帝自身が悼み、このような官職名を与えて、葬ったと言う所にあります。 日本の歴史にも、中国の歴史にも、全然姿を現さなかった人物が、西安の建設現場でその姿を1300年後に現した、というその歴史のすごさに私は圧倒されたのです。 日本と中国の文化的な交流の奥深さの素晴らしさがここにあります。 これを、深く感じて、どうしても、西安に行って、西北大学を訪問したかったのです。 最近世界の大学ランキングで、中国の大学が日本を追い越し、日本の大学がどんどん下流に落ちて行っているのもむべなるかな、と言うのが西北大学を見るとよく分かります。 というほど西北大学は立派な豪勢な大学で(世界の大学ランキングで西北大学がどの程度の地位を占めているのか私は知りませんが)、その、歴史的文物を展覧する階は非常に見応えがありました。 その中に、井真成の墓誌がガラス張りのケースの中に収められていました。 紀元700年代の物を、こうして目の前にすると、あまりの感動故にうろたえてしまいました。 私達日本人は、こうして中国の文化を学び、自分の物として取り入れ、漢字を学び、それを簡略化して音だけを表す「かな」を作りだしましたが、日本人の教養の原点は、「四書五経」を元にした中国の文化であることを、私は、この「井真成の墓誌」を見て、しみじみと思い、その中国文化を学ぶために、この700年代に大変な苦労の末に中国に渡りながら(当時は航海術も低く、船も今のような立派な物ではなく、中国への航海自体が冒険でした。遣唐使として日本を出て途中の航海で遭難して亡くなった人間も数多くいるといいいます)、志半ばで中国で亡くなってしまった井真成という青年の志を察して、涙せざるをえなかったのです。 さて、今回の旅の主要目的である、「南京大虐殺記念館」ですが、これはちょっと期待外れでした。 と言うのは、私は南京虐殺については30年以上前から様々な本、雑誌の記事などを集めて持っており、「南京虐殺否定派」の人々の言うことが如何に無残で浅ましい欺瞞に満ちているか、様々な実際の資料を基に認識しています。 その私の目からすると、「南京大虐殺記念館」の展示は物足りない。 展示されている写真などは、殆ど全てが、特に主要な物は、既に私が今までに見た物ばかりで、私の家の書棚の「南京虐殺」の資料に及ばないと思ったのです。 興味をひかれたのは、「南京虐殺」当時の、南京の一般の人々の住居の内部を再現した物と、発掘された虐殺されたという人々の遺骨でしたが、無残に散らばった遺骨だけからは、虐殺の実状を想像することは難しい。一度に一万人以上もの人間を、機関銃の銃身が真っ赤に焼けるまで撃ち続け、撃たれて倒れた人々の山の上を歩いて、生き残っていた人々を銃剣でさして回ったという日本兵の、実際の記録のすごみが伝わらない。 写真や新聞記事の複写だけでなく、大虐殺記念館自身、あるいは、中国政府自身が本気になって集めた資料を展示して欲しいと思ったのです。 まあ、これでも南京虐殺のことを知らなかった人にとっては事実を知る糸口になるとは思いますが、学術的には物足りないのではないでしょうか。 「大虐殺記念館」の入り口には、当時の被害者の姿を表現した彫刻が並んでいて、その彫刻は虐殺された人々の無念さ虐殺の血も凍るような無残さを表現していますが、その彫刻の表現を裏付ける資料が記念館には足りないと私は思いました。 記念館には、当時の雑誌や新聞のコピーなどではなく、中国自身が独自に集めた疑いのない第一次資料をもっと数多く展示して、記念館を充実させて欲しいと思います。 ユダヤ人虐殺の、アウシュビッツの展示に比べると、力不足であると私は思います。 ところで、最近、思わぬことがありました。「文藝春秋社」から、「『南京事件』を調査せよ」という本が出たのです。出版社の名前からして、また、本を書いた人間が読売新聞系の放送局日本テレビNNNの記者であることから、さらに、「南京虐殺」を「南京事件」としていることから、この本も今までに多く出されてきた「南京虐殺」を否定するための本だと思いました。「南京事件」では何のことだが分からないではありませんか。このような曖昧な表現は、「南京虐殺」を認めたくない人がよく使う手です。 この本もそのような本だろうと思い込んでしまいました。 ところが違ったのです。この本の著者の、清水潔氏は、南京虐殺を行った兵士たちの陣中日記の本物を求めて探し当て、その陣中日記から、実際に虐殺に手を下した兵士たちの記録を集め、その兵士達自身が書き留めた記録から、南京虐殺が疑いのない事実であったことを証明したのです。 清水潔氏の作った番組「NNNドキュメント'15『南京事件〜兵士達の遺言』」は2015年10月4日に放送されると、ギャラクシー賞など幾つもの賞を取りました。この番組は、現在、Youtubeで見ることが出来ます。このような番組を、読売新聞系の放送局が作り放映し、幾つもの賞を取り、それを文藝春秋社が出版するとは、私にとっては思いもよらぬことで、日本の中にもまだ良心が残っているのだと、心強くおもいました。 しかし、そこはさすがの産経新聞で、J-CASTによれば、 「10月16日付朝刊に「『虐殺』写真に裏付けなし 日テレ系番組『南京事件』検証」と題した記事(東京最終版)を載せ、番組内で紹介されていた1枚の写真に焦点を当てた。連載「歴史戦」の1本で、3面に8段にわたり大きく掲載された。 写真は防寒着姿で倒れている多くの人々を写したもの。冒頭で「南京陥落後の中国で日本人が入手した写真と言われている」と紹介され、番組最後に再び登場した際には、現在の揚子江付近から見える山並みと、写真の背景の山の形状が似ていることが指摘されていた。 産経記事では「南京陥落後、旧日本軍が国際法に違反して捕虜を『虐殺』。元兵士の日記の記述と川岸の人々の写真がそれを裏付けている―そんな印象を与えて終わった」と指摘した。 また、番組が取り上げたものと同じ写真(日テレによると「類似写真」)が、「南京大虐殺、証拠の写真」として毎日新聞の1988年記事に掲載されていたと指摘。NNNドキュメントでは、毎日記事と同様に「被写体が中国側の記録に残されているような同士討ちや溺死、戦死した中国兵である可能性」に触れていないとして、これを問題視した。また、日本テレビ広報部のコメントとして「番組で紹介した資料の詳細についてはお答えしておりません」との回答も載せている。 これに対し、日本テレビは10月26日、NNNドキュメントの公式サイトにお知らせ文を掲載し、先の産経記事の内容は「番組が放送した事実と大きく異なっていた」と反論した。 日テレ側は「『虐殺』写真に裏付けなし」という大見出しが「事実ではない」と主張。例の写真については「虐殺写真と断定して放送はしていない」と強調し、「類似写真」を掲載した毎日新聞の記事と「番組の内容と混同し、批判した」とも指摘した。 「一場面を抽出して無関係な他社報道を引用し、『印象』をもとに大見出しで批判し、いかにも放送全体に問題があるかのように書かれた記事は、不適切と言わざるをえません」 また、見出し以外の複数個所についても反論し、「以上のように産経新聞の記事は客観性を著しく欠く恣意的なものであり、当社は厳重に抗議します」と結んだ。 産経新聞は27日、J-CASTニュースの取材に「当社の見解は産経新聞10月16日付の当該記事の通りです」とコメント。抗議文は25日付だったという。」 産経新聞のやり口は、いつも「南京虐殺否定論者」が使う物で、一つ何か疑わしいものがあると彼らが思い込むと、「これが疑わしいから、南京虐殺も全部嘘だ」とする、「一点突破全面否定」方式です。 産経新聞は、福沢諭吉の創立した時事新報の後継紙です。 産経新聞のホームページによると、昭和8年(1933年)「日本工業新聞」を創刊し、昭和17年(1942年)に「産業経済新聞」に改題し、昭和30年(1955年)に東京本社が時事新報と合同し新聞の題号を「産経時事」にし、昭和33年(1958年)に、「産経新聞」に統一、とあります。 福沢諭吉は時事新報を発行する際に、「本誌発兌(発行)の趣旨」の中で「(時事新報の)求める所は国権皇張(拡張)一点にあるのみ」と書き(国権を拡張すれば他国を侵略せざるを得ない。国権拡張を求めるとは、侵略することも求めることです)、その後時事新報で「大企業優先、格差無視、下層階級の貧困化無視」「天皇制推進」「明治憲法に感激して泣く」「教育勅語にも感激して泣く」「当時の朝鮮人、清国人に対する、ヘイトスピーチの繰り返し」「国権拡張、即ち他国への侵略に国民を扇動し続け」「天皇のために、天皇の臣民である日本人は命を捧げるのが当然」「台湾などの植民地の人間で日本に逆らう者は皆殺しにしろ」「朝鮮人民のためにその滅亡を賀す」などという論説を次々に大量に書き続けました。(まさか、福沢諭吉がそんなことを書くわけがないと、多くの方は思うでしょう。だったら、11月20日頃には書店の店頭に並ぶ私の書いた本「まさかの福沢諭吉」をぜひお読み下さい。その「まさか」がずらりと並んでいます。 福沢諭吉の著作を実際に読むと、皆さんが抱いていた「福沢諭吉は日本の民主主義の先駆者」という思いこみが如何に間違ってすり込まれたものであるか分かります。 産経新聞は、まさに、その福沢諭吉の時事新報の精神を見事に引き継いでいます。 最近、「花伝社」から発行された、伊東秀子著「父の遺言」を是非読んで頂きたいと思います。 伊東秀子さんの父親は戦前満州(中国東北部に日本が作った植民地国家・偽国家とも言う)の憲兵隊長を務め、多くの中国人を、731部隊で生体実験に使うために送り込みました。 日本が中国で行ってきたのは、南京虐殺だけではありません。731部隊では、化学兵器を研究し、中国人を捕まえて実験の対象にし、実際にペスト菌を中国各地にばらまいて成果を試しました。 「戦艦武蔵」など、数多くのノンフィクションを書いた吉村昭は「蚤と爆弾」(文春文庫)でその事実をきちんと丁寧に書いています。 731部隊どころではなく、日本軍は、1939年から北支那方面軍による「燼滅(じんめつ)掃討作戦を展開しました。「燼滅(じんめつ)掃討作戦」とは、抗日・抗日ゲリラ地区に対して徹底して、殺戮、略奪。砲火、破壊を行うことで、「殺し尽くす」「奪い尽くす」「焼き尽くす」というものであり、共産軍・八路軍は、この「燼滅掃討作戦」を「三光作戦」と呼びました。 また植民地国家「満州」では、日本の中央政府の計画の元に、アヘンを中国人に売って金を稼ぐというアヘン政策を行いました。 みすず書房刊「続・現代史資料(12)アヘン問題」、また、江口圭一氏の著書、「日中アヘン戦争」(岩波書店)などに、日本が史上最悪最大のドラッグ・デイーラー国家であることが記録されています。 研究者によってその数には異同がありますが、アヘンによって、多くの中国人が死んだことは確かです。 以上に書いたことから、日本が中国で殺した人間の数は正確な資料が残されていないので、研究者によって、その数は異動しますが、大雑把に見て、一千万人から二千万人以上とみられています。 伊東秀子氏は、御父君が中国で行った犯罪を、この本の中で書き記しています。 これは、御父君を心か愛しておられる伊東秀子氏にとってこの上なく辛いことだと思います。 しかし、伊東秀子氏は、御父君の名誉のためにこの本を書かれたのです。 伊東秀子氏は、この本を書かれて、自分のしたことを率直に語られた御父君の偉大さをきちんと伝えることで、御父君の名誉をこの上なく高められたと私は思います。 私は伊東秀子さんの誠実さと勇気に心から敬意を払い、人間の尊厳を高める努力に感謝します。 南京虐殺の三十万人など、日本が中国全土で殺した中国人の数から言えば、上に書いたように恐ろしいことにほんのわずかな数であると言わざるをえません。 日本人全体が、「南京大虐殺記念館」を作らざるをえなかった中国人の心を理解せず、安倍晋三首相があっけらかんとして言った「侵略かどうかは後世の歴史家の判断に任せる」などと、と言う言葉に批判を加えない限り、日本は未来永劫、「自分の過去を正直に振り返ることの出来ない、最低の国」という現在国際社会で受けている評価に甘んじつつづけなければならないでしょう。 さて、今回の「南京大虐殺記念館」の話で、2016年4月に行った中国の話は一区切とします。 中国の話をすると、切りがありません。 中国については、また話す機会があるでしょう。
- 2016/08/20 - 中国ショック2中国から受けた衝撃は、簡単には収まらない。 その中国ショックについての話を続ける前に、またブックレットのお知らせです。 前回の「さようなら!福沢諭吉」は実は、「福沢諭吉の引退を求める三者合同講演会機関誌」の準備のための特別誌であって、これから、新たに、正式な「さようなら!福沢諭吉」の安川寿之輔先生、杉田聡先生、雁屋哲の三者合同の講演機関誌が「創刊号」として発刊されることになりました。 前回の発行は「花伝社」による物でしたが、今回の正式な創刊号から、発行世話人安川寿之輔先生、の発行と言うことになります。 前回の「さようなら!福沢諭吉」の内容は、2015年、12月8日の名古屋での講演の内容が主体になっていますが、今回の創刊号は、それとは別に、福沢諭吉批判の内容になっています。 今回も私に注文して頂ければ、安川寿之輔先生に取り次ぎます。 ただ、今回の創刊号について、お詫びをしなければならないことがあります。 私は、巻頭に「勝海舟と福沢諭吉ー『痩せ我慢の説』批判」という文章を書いています。 これは、福沢諭吉が、明治維新後24年も経ってから、勝海舟が西郷隆盛と談合して、幕府が薩長を中心とする西軍〔官軍とも言う)に降伏して江戸城を明け渡しのがけしからんことで、三河武士の魂に悖る。武士なら、負けることを覚悟しても痩せ我慢をしてでも戦うべきであった。しかも、明治維新後、政府の高官になり、伯爵という爵位まで貰ったことがけしからんことだと、批判したものです。 私は、その福沢諭吉の言うことに対する反論を書いています。 しかし、その中で半藤一利氏の著作「それからの海舟」を参考に使わせて頂いたのですが、うっかりと言うのも愚かな間違いを犯してしまって、半藤一利氏には、謝罪をしなければなりません。 それは、海舟が西郷隆盛との談判の前に、江戸の火消しの親方、その他の町の有力者に頼んで話を付けておいて、西軍〔官軍が)海舟の談判にも拘わらず,江戸に攻め込んで来たら江戸中に火をつけて江戸を火の海にして西軍(官軍)を火攻めにしてその間に幕府の強力部隊が西軍を倒す、という策を立てておいた、と言う件なのですが、私は、このことについて「半藤一利氏は珍しく、ここでは出典を明らかにしない」などと書いてしまいました。 ブックレットが印刷されて私の手元に届いたとき、その個所を目にして、私は驚きました。 「一体何と言うことを書いてしまったのか。こんなことは、勝海舟の『解離録』にきちんと書いてあることではないか」 ブックレットの原稿を書きながら、「何か変だな」と感じていたことは確かです。 勝海舟については、勁草書房版、講談社版の二種類の全集を持っていて、肝心な所はきちんと読んでいたはずなのに、そのようなことを書いてしまうとは、とんでもないことです。 半藤一利氏は、その文中にもちゃんと「解離録」の名前も挙げておられる。 何もかも、私の精神的な混乱のせいです。 半藤一利氏には心からお詫び申しあげたいと思います。 (このときの私の精神的な混乱については、いろいろ言い訳もありますが、とにかく、とんでもない間違いを犯してしまったことは事実です。 更に、これは半藤一利氏とは関係のない所なのですが、同冊子の5ページに、勝海舟の乗った船が伊豆沖で激しい風雨に遭遇したときのことを、なぜか「名古屋沖」と書いてしまいました。 前回名古屋に講演に行ったときご馳走になったひつまぶしの美味しさがよほど忘れられなかったものと思います。 お詫びして訂正します。勝海舟が、帆柱に自分の体を縛り付けて水兵たちを指図をしたのは、伊豆沖です。〈「氷川清話」講談社学術文庫 35ページ〉 ただ、今度発刊する「2年C組 特別勉強会 福沢諭吉」については、安川寿之輔先生、杉田聡先生にも下読みをして頂き、編集者たちとも検討を重ねているので、このような訳の分からない間違いは絶対にありません。) 私はあの幕末激動の時代を,最小限の血を流すことで押さえ、イギリス・フランス・ロシアの介入を防ぎ、日本という国が西欧大国によって分割され崩壊する危機を防いだ、勝海舟と、西郷隆盛の英雄同士にしかわからない、苦心惨憺の歴史を見ると、徳川幕府の幕臣でありながら、傍観者としての立場に終始した福沢諭吉の批判が実に卑怯で愚かなものに思え、その件について思うことを書きました。 勝海舟と、西郷隆盛について、興味の有る方は是非お読み頂きたいと思います。〔宣伝です) もう一つ、前回に書いた文章の中で、私は「蒙古民族」「蒙古族」という言葉を使いました。 それについて、読者の方から「蒙古」というのは差別語であって、「モンゴル」と書くべきだというご指摘を頂きました。 漢民族は、自分たちを世界の中心と考え、自分たちは「中華」とし、中国の周りの民族を全て自分たちより劣る野蛮人として扱いました。 自分たちの周囲の東西南北の民族を、東夷、西戎、南蛮、北狄、と蔑視しました。 蒙古も、「蒙=道理にくらい、むちなこと」、「古=古い、古くさい」などの蔑視語と言えるでしょう。 モンゴルの音に、中国語の「蒙」と「古」を当て嵌めたのかも知れません。 (日本人は、東夷=東方に住む未開人、の中の倭人=背が曲がってたけの低い小人の意、と呼ばれていました。) チンギス・ハーンが作り上げた大帝国の、五代目のハーンとなったフビライは、国の名前を「大元大蒙古国」通称、「元」として現在の北京を都としました。 これが中国王朝の一つである「元」です。 フビライは日本をも征服しようと二度にわたって軍を送り、日本は九州で元と朝鮮の軍と戦いました。 その当時の様子は「蒙古来襲絵巻」として残っています。 日本人は、中国の呼称に従って「蒙古」という言葉を使い続けました。 モンゴルは1924年に、「モンゴル共和国」、1991年に「モンゴル国」と国名を変えました。 私も現在のモンゴルを蒙古とは呼びません。ただ、私が知識として持つ世界史の中では「元」を作ったのは「蒙古民族」であると刻み込まれていたので、その歴史表記に従ったのです。 私には差別心などありませんが、「蒙古」という言葉は差別語であると言われれば、言葉の意味からしてその通りでしょうし、現在現実にモンゴリアンは「モンゴル」という国名を使っているのですから、「蒙古」という言葉は使わない方が良いだろうと思います。 ご意見に従って、前回の記述も、「モンゴル」に書き改めました。 ご忠告に感謝します。 ただ、歴史的表記をどうするかと言うことは大きな問題として残ると思います。これは別の機会に論じたいと考えています。 で、中国ショックですが、日が経って冷静になると、反って中国のすごさを改めて感じるようになりました。 確かに、現在の中国経済は停滞しているようです。 中国人観光客による爆買いが日本を潤しましたが、その爆買いが収まると、例えば秋葉原の電気街のの「ラオックス」(中国人の所有になる店)の利益が今期は90パーセント下がったと言うし、東京の中心に建てられていた高層アパートも契約率が63パーセントになってしまったと言います。 中国の鉄鋼も生産過剰になり、低価格で輸出するので、各国で問題になっていると言います。 私が、中国にいる間に見たテレビでも、中国のある土地で(私には中国語が分からないので、その地名を記憶できませんでした)その土地の化学製品会社が垂れ流す排水、廃物の影響で深刻な健康被害を受けていることを時間をかけて報道していました。 急激に経済を立ち上げた中国にとってそのようなことが起きるのは当たり前のことだと思います。 日本もかつて高度経済成長の際に、八日市喘息、水俣の有機水銀などの公害問題が起こりました。 かつて東京の大気の汚染もひどいものでした。 しかし我々日本人はそのような公害を克服する方法を見いだし、現在の我々はなんとか環境と折り合いを付けています。 中国も、国営のテレビで環境問題を報道するからには、それは政府が環境問題に取り組むという意思表示であると思います。 中国政府が、公害対策に取り組めば、現在の中国の環境問題も改善できるのではないかと思います 現在の経済問題も、成長段階のいわば足踏みの段階であって、今の不都合を改善すれば再び猛然たる経済成長を始めると思います。 中国が駄目になるとすれば、これまでの中国の各王朝の末期のような混乱が起こるはずですが、今の中国には、それまでの王朝の末期的症状は、まだ私の目にははっきりと見ることが出来ません。 現在書店に並ぶ反中的書物、ネットを埋める反中的書き込みを読むと今にも中国は崩壊するように思えます。 そんなことを書いている人達は、まず中国の各地を歩き回ることをお勧めします。 日本は経済だけではなく、科学技術の面でも、中国に負け始めています。 中国は最近「量子通信衛星ロケット」を打ち上げました。 量子情報通信とは、量子力学の原理を情報理論に持込んだもので、 1)情報量の飛躍的な増大。 2)安全性 の面で優れています。 量子情報通信は、かなり面倒な専門的な話になります。私は量子力学は勉強しましたが、情報通信の面は暗いので、また勉強し直して、簡単に説明できるようにしておきます。(宿題とさせて頂きます) とにかく、この量子情報通信を使うと、その情報を第三者が盗むことが出来ません。ハッキングは出来ないのです。 この量子情報通信システムは、アメリカなどでも盛んに研究されていますが、現在のところ地上でのやりとりしか実験されておらず。通信衛星で、量子情報通信を行うとは、非常に高度な技術を中国は持っていると言うことになります。 AI(人工知能)の研究でも中国は日本の先を行っていると言われています。 私の好きなオーディオでも、最近中国のメーカーから仲々良い製品が出て来ています。 反中本を書いている人達は、そのような現実をきちんと見て、馬鹿げた思い上がった態度、あるいは劣等感でねじ曲がった考えを捨てて、中国をきちんと捉えるべきです。 尖閣諸島問題で、やたらと中国に好戦的になっている人達も大勢いますが、中国と戦争してどうするつもりなのですか。 戦争は絶対にしてはいけません。 それでもどうして戦争をするというのなら勝たなければいけません。 だが、今の日本が中国と戦争して勝てるはずがないでしょう。 中国からしたらこんなに簡単な相手はありません。核弾頭を使う必要もない。中距離ミサイルで日本各地の原発を狙えばそれでおしまいです。 経済の面で中国に追いつくことはもはや無理です。 残るは科学技術でこれ以上遅れないように頑張ることです。 私達はもっと、深く中国を研究しなければなりません。 何も知らずに反中本を書くような人間を相手にしてはいけません。 そして何より、中国との友好を深めることです。 勝海舟は、日本、朝鮮(当時の言葉)、中国が手を結べば西欧各国と対等に立ち向かえる、と言いました。 勝海舟の言葉とは正反対のことをその後の日本はしてしまい、現在の苦境に追い込まれています。 よほどの、とんでもない混乱が起きない限り、中国はますます発展していくでしょう。 日本はどうやって生き延びていくか真剣に考えないとならないと思います。
- 2016/07/16 - 中国ショックから大分立ち直ったまずは、お礼から。 ブックレット「さようなら! 福沢諭吉」が購入して下さった方の数が私の予想を遙かに超えました。 これで、9月に出版する予定の「二年C組 特別勉強会 福沢諭吉」も、ある程度は購入して頂けるかも知れない、と希望が湧いてきました。 購入して下さった方たちにお礼を申しあげます。 さて、中国から帰ってきて、約2か月。 中国から帰ってきてから、アメリカのサンディエゴに10日ほど滞在することもあって、中国から受けた打ちのめされるような強烈な中国ショックから、大分立ち直ってきました。 立ち直ったと言っても、一種のパニック状態だったのが落ち着いてきて、その代わりじわじわと深く中国という国のすごさが身にしみて来たと言う所かな。 以前、上海から東京に観光に来た中国人が、「凄い都会に連れて行ってくれると思ったら、こんな田舎町に連れて来られて面白くない」と旅行会社の人に文句を言ったと聞いたことがあって、「何を言っているんだろう」と、思いましたが、今回、上海、北京、南京を回ってきて、その文句を言った中国人観光客は正しかったと理解しました。 上海に比べれば、もはや東京は、田舎の小都会に過ぎないでしょう。 1990年代に上海に行った時は、目立つ建物は、あの葱坊主のような形のテレビ塔だけで、見る物と言ったら旧租界地域か、小龍包で有名な、豫園くらいな物だったのに、いまや、高層ビルが、これでもか、これでもか、という具合に立ち並び、私は、「これが上海か」と、ただ唖然・呆然、あまりの変わりように肝がつぶれました。 上海から南京、南京から蘇州へ、と新幹線に乗りましたが、これが凄い。 南京駅には、プラットフォームが15くらいある。 駅の建物は、激しく巨大で、そこに、考えられないほどの大勢の人々が渦を巻くように、あちこち移動する。 駅には大勢の信じられない数の人々います。 しかし、それにしても、駅の建物が巨大というか、私達の常識から外れているというか、とにかく見たこともない規模の物です。 その巨大な駅の構内に、これまた見たこともない大勢の人々が右に左に忙しく、動き回っています。 このような光景は、私の人生で見たこともないものです。 私が最後に中国を訪れたのは、2006年のこと、今から10年前のことになります。その時にも上海や北京の都市としての発展のすごさには驚きました。 しかし、今回驚いたのは,その都市としての発展がすさまじい勢いで成長していることよりも、かつて見たこともない大勢の中国人が至る所にあふれていることです。 以前も,市場などに行けば大勢の中国人に会うことが出来ました。しかし、こんどは市場のようなところではなく、普通の都市の空間、空港、新幹線の駅、主たる観光地、などに人があふれているのです。 私の考えですが、10年前には余り観光地などに行けなかった人達が現在は出掛けられるようになったということではないでしょうか。市街地も同じことで、それまで購買力のない人は表に出なかったが、購買力を身につけた今は、どんどん表に出て来る、と言うことだと思います。 シドニーでも主な観光地は、すさまじい数の中国からの観光客によって、ほぼ、占領されていると言っても過言ではありません。 私が一番印象を強く受けたのは、その人々の、強烈なエネルギーです。 個々人も凄いエネルギーを持っているのに、それが、中国人の集団となると、これはすさまじい。 なんと言ったら良いか、我々から見ると洪水か津波のような勢いです。 世界史を見ると、ある時期にある民族が勢力を拡張して世界を席巻し支配したことが何度かあります。 8世紀のイスラムの勢力拡大、11世紀の蒙古帝国、17世紀以後の、アングロサクソンによる世界支配が、歴史的に身近なことと捉えられるでしょう。 モンゴル、アングロサクソンによる、世界支配も武力・暴力による物でしたが、現在の中国の勢いは、武力・暴力によるものではなく、経済力による物です。 モンゴルによる支配は、ハンガリーまで、イスラムの勢力はイベリア半島(スペイン、ポルトガル)に留まりましたが、中国人の経済的力による進出は全世界に広がり、特にアフリカの自然資源の獲得はすさまじい勢いがありますし、北米、中でもカナダででの、中国人人口の増大は目をむくものががあります。 オーストラリアでも、日本の四国に匹敵するサイズの牧場、50億円もする豪華な住宅、を中国人が取得するという目をむくような例が相次いでいます。 私は今回、中国に行って中国人の,人間としての勢いのすさまじさを体験して、中国のこの勢いは留まることはないと思いました。 人間の勢いが日本人と違います。 同じ麺類でも、ラーメンと今回私が食べて感激した西安の麺とはその内容がまるで違います。日本のラーメンは美味しいのですが、その栄養価は西安の普通の店で食べる麺より劣ることは明かです。 その麺を比較するだけで、中国人が日本人を圧倒する理由が分かったような気がしました。 だらだらと、長生きをするのに和食は健康的で良いのかも知れませんが、爆発的なエネルギーを発揮するには向いていないでしょう。 そしてその新幹線ですが、かつて中国の新幹線の開通すぐの頃に事故があった。それを元に、中国鉄道技術をけなす報道が日本中で行われましたが、まあ、そんな議論はいちど、中国の新幹線に乗ってからにして頂きたい物だと思います。 15以上もあるプラーフォームから次々に出ていく新幹線。 私達は、特等席を確保しました。 1つの車輛に、乗客は8人だけ、一つ一つの座席は,飛行機のファーストクラスの座席のように、ベッドのように平らになる、フルリクライニングシステム。 8人の乗客に、乗務員一人ついて、様々な面倒を見てくれる。 極めて快適、そして、ふと掲示板に表記される時速見ると。時速305キロ。 ガタゴト、音もせず、揺れもせず、極めて静粛になめらかに走っている。 これは凄い技術です。 日本の肝っ玉の小さく、先の読めない連中は、中国が日本の新幹線の技術を盗んだなどと言っています。一体そのような事を言って、何の役に立つのでしょう。日本だって、それまでに欧米の鉄道技術、電動技術を頂いたから、新幹線を作ることが出来たのではありませんか。ある日、突然日本人の頭の中に新幹線の技術が浮かんだわけではありません。技術の進歩、伝播というのはそういうものです。その西欧を発信源とする技術が日本も勿論、中国にも及んだのです。 新幹線が日本の技術などと言う人がいるのなら、そもそも日本のレールの上に動力でもって列車を動かす基本的な技術を日本は誰に教わったのか考えるべきです。日本に、最初の鉄道が敷かれたの明治5年です。 私の長男の中学生のときからの親友は大変な日本びいきで、「さばの塩焼き定食」が大好きという男ですが、彼の曾祖父が実は日本の鉄道開明期のときに日本で大きな働きをしたことが明らかになりました。10年ほど前に長男の親友が日本でJRの本社を訪ねて色々聞いた所、そこは日本という国の凄い所で、その頃の記録が全部残っていました。そして、長男の親友の曾祖父の墓が横浜の外人墓地にあると言うことまで突き止められたのです。で、長男と、その友人が横浜の外人墓地に行った所、そこの一角に大変大きな墓碑が建てられいて、長男の友人の曾祖父の功績をたたえていました。長男の親友の感激はただ事ならないものがありました。私も、日本という国のすごさを、その時に改めて感じました。 元々日本びいきの長男の親友は、それいらい、日本に対して異常とも言える愛情を抱き「おれは、前世は日本人だった」とまで言い出す始末。 日本の鉄道技術もそのようなイギリス人の協力があって初めて築き上げられたことで、文明という物の普遍性を考えると、元の技術を作った国をこえて世界中に独りでに広がるものであって、なにか、特別な特許でも取れない限り、文明の技術は、それを受け入れる国の文明程度、経済程度によって容易に伝播されるものであると言うことです。 日本の新幹線の技術は極めて高度で緻密な物で、その全てを中国が物にしたかどうか分かりません。しかし、中国の新幹線は最初こそ問題があったかも知れませんが、それも克復して、毎日何百万の人々を運んでいます。 私が言いたいのは、日本の明治維新のときのような活気あふれる指導者が現在の中国を率いていると言うことです。支配者自身の政府の腐敗などもありますが、中国全体としての人々の活気は、今の沈滞した日本人とは比較にならないものがあります。日本の明治開国時代の支配者たちの腐敗の酷さを考えると、今の中国の支配者たちの腐敗を批判できる物ではありません。 元々中国は、紀元前16世紀の殷王朝に始まって、最後の清王朝に至るまで、数え方によりますが、15ほどの王朝が変わっています。中には、漢民族とは異民族のモンゴル民族による、元王朝。満州族による清王朝があります。 しかし、幾つ王朝が変わろうと、中国人は中国人のままです。王朝が変わろうと,そんなことは自分たちとは関係ない。王朝の支配には忠実に従っても心の中は何も変わらない。それが、中国人のすごさだと思います。 モンゴル族による元王朝も、一旦中国に入るとそれまでの漢民族の王朝と同じ支配形態を取り、文化も中国文化に染まりました、「元曲」といって、元の時代は戯曲が盛んになりましたが、それも、あくまでも中国文化でしかなく、モンゴルの文化ではない。 満州族の清王朝になって、第四代の康煕帝によって「康煕字典」という漢字辞典が作られました。中国の歴史を通じて使われてきた漢字の音と意義について詳しく書いた辞典です。満州族の王朝が満州族の文化ではなく漢民族の文化の中心である漢字についての辞典を作成したのです。清王朝が、中国人に対してしたことは、弁髪といって、男が髪の毛を長く結って背後に垂らす風俗くらいのものでしょう。 私の考えでは、現在の中国は、「毛沢東王朝」あるいは、「中国共産党王朝」という「王朝」の支配にあるだけであって、中国人は、紀元前1600年前の殷の時代から、本質は何も変わっていないと思います。これだけの数の王朝が次から次に変わっても、中国人の本質は何も変わっていないのです。現在の「中国共産党王朝」が崩れれば、中国人は次の王朝と上手くやって行くでしょう。 毛沢東は、「大躍進政策」の失敗で、飢饉などによって三千万人を殺し、「文化大革命」によって二千万人以上を殺したと言われています。それでも、いまだに天安門の正面には毛沢東の大きな肖像画が掲げられています。私は、これも「毛沢東ー中国共産党王朝」の間のことだけであって、これから何十年先か百年先か分かりませんが、この現在の王朝が他の王朝に取って代われたら毛沢東の肖像画は捨てられ、新たな王朝の指導者が君臨することになるでしょうが、それでも、中国人は絶対に変わらないと私は確信を持って言えます。 中国人は、本当に凄いのです。 これまでの、一つの王朝から次の王朝に移るまでの間は混乱が続きましたが、一つ王朝が定まると、中国人はその王朝がたとえ、それまで自分たちが馬鹿にしていた蒙古族や満州族の王朝であっても、その王朝を中心にして爆発的に勢いを広げ繁栄してきたのです。 現在の「中国共産党王朝」も毛沢東をへて、鄧小平に至って、清王朝末期からまでの混乱が収まり、中国人本来の力を発揮できるようになると、たちまち経済的に発展しました。それまで押さえられてきた中国人の本来の力が鄧小平によってとき離れた結果でしょう。 これまでの長い中国の歴史を振り返ってみると、「中国共産党王朝」はまだ急には力を失わず、これから五十年先までは中国を支配していくことは確実です。 直近の王朝を見ると、宋王朝が、960年から1279年、元王朝が1271年から1368年まで、明王朝が1368年から1644年まで、清王朝が1644年から1912年まで、と続きました。元王朝が100年という中国の歴史の中では短く、清王朝が1600年代からイギリス・フランスなどの侵略を受けて、実態としては、1912年以前に王朝としての権威も支配力も失ったいました。二十一世紀の現在、世界情勢は昔とは大違いで、中国でも今の王朝が今までのように100年以上続くとは言い切れないので、ここでは仮に50年先きと言っておきます。 これから考えると、現在の「毛沢東ー中国共産党王朝」は、これまでの中国の王朝と同じ形態を取っているので、必ず終わりが来ます。 中国人と、その中国人を押さえた各朝廷の支配関係を考えると、現在の「中国共産党王朝」の成立基盤の基礎は極めて弱いもだと思います。先日のパナマ文書の件で、すでに腐敗した共産党の幹部の地方幹部が違法に蓄積したものが明らかになりましたが、カナダ、オーストラリアなどに、汚職で稼いだカネはすでに現地に移し安全な状態にしてしまっており、その官僚が何かの間違いで、中国で財産を没収された時には、すでに、国籍も移してある子供、妻を頼りに自分も、カナダ,オーストラリアなどの矛を受けようという計算ですオーストラリア人である妻やむこたちに,中郷の税制は及びません。 毛沢東は、共産主義者のように考えられていますが、私は、毛沢東は、共産主義を、それまで各王朝を倒した英雄たちと同じように自分の体制を築くために利用したもので、本心からマルクスの共産主義とは違う考えを持っていたと思います。毛沢東は、それ以前の王朝を築いた英雄たちと、その心情と行動については全く変わりがないと私は様々な毛沢東についての本や論文を読んで理解しました。自分の王朝を築くために利用する道具として共産主義というイデオロギーを利用しただけのことだと思います。 マルクスの政治論「プロレタリアートが権力を握る」、という考え方は美しいのですが、レーニン、スターリン、毛沢東、はそれを利用して、それ以前のどんな暴君も恐れて尻込みするような人民の圧殺を行いました。レーニン、スターリン、毛沢東は、プロレタリアートの中で、少しでも知恵があり事態を理解する物は殺しました。ロシアで言えば、皇帝時代の農奴と呼ばれる、隷属的に権力に従うものだけを生かしてきました。 イデオロギーの信仰が、それを操る人間によって、その本来の目的を越えて逆に人民を途方もない悲惨な目に遭わせる道具になる、という恐ろしい実例です。 現在の中国は、鄧小平によって、毛沢東の厳しい縛りが経済の面にだけ緩められたという状態でしょう。言論の自由は最近更に厳しくなったようで、私のような人間であれば、中国で生きること出来ません 基本的には「毛沢東主義」を標榜しながら、実際は西欧的な資本主義で経済を回すという手品のようなことを中国指導者たちは1990年代から盛大に行ってきて、現在の経済的な繁栄を築いたのです。 しかし、それも中国人がもつ力のおかげです。 中国人は元々持つ力を、鄧小平によって経済についてだけ窓口を開けられただけでわずか20年でここまでの経済発展を遂げました。 中国歴代王朝と現代の「中国共産党王朝」のあり方はあまりにもそっくりです。 中国人自身は中国4000年の歴史の間変わらないとすれば、今私が挙げた各王朝と同じく、現在の「中国共産党王朝」もはやばん終わるでしょう。 しかし、それが何時なのか分かりません。私は、少なくともこれから50年以上は、経営が上手く行きさえすれば、現在の「中国共産党王朝」は続くのではないかと思います。 と言うことは、今日本で生きている私達は、最低でも50年間は中国帝国のこの勢いの下で生きなければならないのです。 明治維新後、日本が出会った中国は清朝末期の混乱した中国でした。本来の中国ではありません。 その中国感によって、日本はそれまで日本の文化の根底を中国から学んだにも拘わらず、福沢諭吉のようにその場の中国の衰退をみて中国を蔑視して中国を侵略しました。私達の曾祖父、祖父、父親たちは中国人の本来の力を理解できなかったのです。 ここで、親自慢で恐縮ですが、私の父は大学を卒業してからすぐに中国に渡り、15年以上中国で過ごしました。私の父親は、口癖のように「中国人は偉大だ」と言っていました。当時、日本の支配下にある中国で生きていた人間がそのような深い感慨を抱くほど、政治の圧迫から自由になったらどんなに中国人は凄い力を発揮するか、私の父は中国人の本質を見抜く力を持っていたと思います。 私が今回中国で肝を抜かれたのは、私の父親の言葉が正しかったことを確認したことです。 私の父親の言うように「偉大」かどうかは分かりませんが、その勢いのすさまじさは、ただただ恐ろしものとして肌身に感じました。 日本人はなぜか、いまだに日本の方が知的に勝っていると思いたがるようです。 しかし、今年のコンピューターの計算速度の競争では、2016年のTOP500で世界のスーパーコンピューターの中で、 中国のスーパーコンピューターが1番、日本の誇る「京」は5番目というのが実状です。さらには、人工頭脳の部門でも、日本は中国に遅れてしまっています。 新幹線も外国に輸出するまでの技術を蓄積し発展したものをもって、日本を始めとする各外国を圧倒しています。 日本の「中国ジェラシー党」の一派は大々的に中国の技術的な失敗をはやし立てていますが、それは、負け犬の悲鳴でしかありません。繰返しますが、まず、中国の新幹線に乗ってみろ。と言うことです。 今回私が中国を10年ぶりに訪れて感じたことは、「中国人の力のすさまじさ」でした。 私達日本人は、明治維新の時代が「清王朝」も末期の混迷時期だったために、それを中国人と捉える言論が跋扈したために、(たとえば、福沢諭吉の中国論)、中国人の本来の力を評価出来なかったのだと思います。 中国の長い歴史を考えると、それは、人類の文化の歴史を考えるのと同じことになります。中国文化の影響は世界中に広がっています。私達は人類の文化の源泉としての中国を考えなければなりません。 日本の右翼、国粋主義者の一部には中国を蔑視しする人がいますが、「右翼」「国粋主義」「国体」「教育勅語」「君が代」「巌」「千代に八千代に」「宝祚極まりなし」などという言葉を大和言葉で言えますか。第一「天皇」と言う言葉すら、中国から貰ったものでしょう。それらの概念を大和言葉と称する日本元来の言葉で言えますか。言葉は文化の根底です。人たちの持つ概念を自分たちの持つ字で表すことが出来ないなら、そのような文化は「世界に一個」と強調することは出来ないでしょう。 私は、中国人の力のすさまじさにひれ伏して、中国人の言いなりになれと言っているのではありません。 その逆です。 日本人が、きちんと中国人とこれから競争して,協力し合い、少しでも日本人中国人ともに幸せな生き方をしたいというのが本音です。 何か、やたらと競争し合って、競争した相手は地獄まで蹴落とすというコンピューターゲームのような人生観を持っていては、地球情の人々の生活は地獄に陥るだけです。 最近の中国は、自分たちのGDPが日本の2倍を超えたことから、日本を小国扱いして尊大な態度を取りますが、これこを歴代の中国王朝の周辺国に対する態度です。 日本の13倍もの人口を要する中国が経済的に発展を遂げ始めたら、誰もとめられません。日本の本屋の店頭に並ぶ中国経済崩壊をうたう本は出版するのには早すぎたと思います。これらの著者に望むことは、これから50年は続く中国の経済発展をきちんと読んで、それに対応する,理性的な本を書いて欲しいと言うことす。なにやら、自分自身の負けを認められずに、互いの傷をなめ合っているようでは、ますます、破滅的なと言うより、破局に陥ります。 今回の私の中国旅行は、本来の目的である、褚遂良の書を見ることから外れて、中国人の勢いのすさまじさを実感し、同時に、このままでは,日本はアメリカの属国である事実に加えて、中国にも遣唐使を送った時代に戻って貢ぎ物を贈って最先端の学術技術を学ばなければならない日が来るという、予感を得たことです。 これから50年、私が命を終えた後、ますます中国の力に日本は圧倒されていくでしょう。 経済の中心はアメリカ、ヨーロッパ、中国のになるでしょう。 日本はこれかの50年間を如何に如何に生き延びるのか、それを真剣に考えなければならないと実感しました。 浅薄な「日本主義」「日本大国思想」「日本に技術の優越性」はすでに、昔の思い出でしかありません。21世紀は始まったばかり、 これからの百年間を日本はどう生きて行くべきか、私は今回の中国旅行で大いに得ることがありました。 勿論、中国経済発展は無視できないものですが、我々日本人としては、中国の津波を逃れ、その上に立つ方策を立てなければなりません。 目先の中国との経済競争で、我を失えばからず、負けます。 我と我自身を保ち、正しい方向を失わなければ中国のスケールには敵わないけれど、実質的には中国より豊かな国作りは出来る。私は、そう信じています。 しかし、こんな風にまで自分の考えを追い詰めなければならないほど、今回の中国旅行でみた、中国人のすさまじい力は私を圧倒した。 本屋の店頭に並んでいる、愚かな「反中本」は手に取るも愚か。何も真実を知らない人間の書いた戯言。 自分で実際に中国の情報をえて、真剣に考えて頂きたい。 今回の私の中国報告は、なにやら、中国人のすごさに圧倒されてしまって、他の点に目が行かなかったように見えるけれど、わっはっはっはあ。私は美味しんぼですよ。 食べ物を通してみると、その国の実状が公的報告より遥かに良く分かるのです。 しっかり中国の美味しい物も不味いものも沢山食べてきましたよ。 私の次の中国報告を楽しみにして下さい。
- 2016/06/17 - 中国のすごさブックレットのご注文を次々に頂いて有り難い限りです。 このご時世に、福沢諭吉に興味を持つ人はいないだろうと、あきらめていたのですが、意外にも多くの方があのブックレットをご注文下さって、へーっと、驚いているというのが本心です。 これでは、9月出版の「二年C組 特別授業 福沢諭吉」も買ってくださる人が出て来るかも知れない、と淡い希望が湧いてきました、 ブックレットはまだまだ次も発行されますので、よろしくお願いします。 さて、今日はブックレットとはまるで違うお話をしたいと思います。 話題は中国です。 私は、4月15日から、26日まで中国を旅行してきました。 一番の目的は、褚遂良の書が、西安に1500年以上経ってもまだ保存されていると言うので、死ぬまでに是非それを見ておきたいと言うこと、 第二に、2007年に、偶然発掘された、唐代に日本から派遣された遣唐使だった青年に皇帝が送った墓誌が発見され、それが西安の西北大学の博物歴史館にあると言うので、それを見ること。 この青年の記録が日本側にも中国側にも残っていないというところが私の心をそそりました。 第三に、南京虐殺記念館を見ること、 第四に、北京生まれの姉のセンチメンタルジャーニーに付き合って、1945年以前に住んでいた家を発見すること。でした。 中国は、2006年以来10年ぶりでした。 この10年間の中国の発展の仕方というのは世界史にその前例がないほどのものなのでは無いでしょうか。 この、二、三年、日本の本屋に行くと、中国が今にも経済破綻をするという記事をでかでかと書いた本が棚積みになっています。 今にも、中国経済が破綻するというような自称経済本が売れているようです。 今回中国を見て回って、中国経済について、負のイメージを垂れ流す人達は、まともな経済評論家では無く、自分の考えはなく、頼まれて中国を貶める記事を書いて小使い稼ぎをしている、それこそ、日本という国の中の「獅子身中の虫」であり、日本を弱体化するために働いている外国のエージェントではないかと思うに至りました。 中国の発展は、私達の想像を絶するものがある。 経済的には、日本は二度と中国に追いつくことは出来ないだろう。 これから、とびとびに、私の中国報告を掲載します。 とにかく、今すぐにでも飛行機に乗って、飛んでいきたいのは西安の店。 その店は六種以上の麺があるのだがどの一つを取っても日本ラーメンなんかアホらしくなるほどのうまさ。 今日の飛行機で西安に飛んで、その麺を食べたら、そのまま帰って来るという案を考えいる。 これから、順々に、私の中国旅行報告を載せるつもりなので、ぼんやり待っていてください。
- 2016/06/09 - 福沢諭吉のブックレットの件前回、福沢諭吉についてのブックレットについてお知らせした所、すでに数人の方から、購入申し込みを頂きました。 今頃、福沢諭吉に興味を抱く方は少ないと思いますが、安川寿之輔先生、杉田聡先生、そして私は、現在の日本こそ、もう一度福沢諭吉について考え直す時だと考えています。 9月に発売になる私の本には、くどいほどその件について書いています。 同時に、日本の近代史現代史を考え直すための、私の意見も書き連ねています。 今回のブックレットは、私が9月に出す本の一端を紹介しているので、お読み頂ければ、どうして今福沢諭吉なのか、ご理解して頂く一助となると思います。 9月発売の福沢諭吉の本についてはこれから、沢山書いていくつもりですので、皆さん、一万円札を見ながらこの私のブログをお読み下さるようお願いします。 ブックレットをご注文して下さった方々に厚くお礼を申しあげます。 でも、このブックレットは、最初のひと触りです。9月をお楽しみにして下さい。
- 2016/06/04 - 近況と宣伝おやおや、このブログも再開すると言ったは良いがその後ご無沙汰続きで、なんと、もはや今年も後半戦に入ってしまったではありませんか。 実は、心身共に最低の状況なので、このまま、ブログをやめちまうと言うのも手ではありますが、なんだか今日は書いてみたい気持ちになったので、書いてみます。 まず、私は現在福島県の19歳の女性と、交換メールをしていることをお伝えします。 その経過によっては、ある週刊誌に、そのメールのやりとりなどが掲載されるかも知れません。 その女性を仮にHさんとしますが、私は福島の人々が実際にどんな生き方をしているか、これまでに色々な情報を本にして想像は出来ていたのですが、実際に福島で生きているHさんの話を直接聞くと、その苦しみは非常に衝撃的なもので、私はうちひしがれました。 私はHさんの思いには自分自身全力で対応しなければならないと考えて、頂いたメールに対する答えを必死に書いているのですが、まだHさんにお送りする自信のある物が書けていないというのが今の状態です。 上手い具合に私がHさんにきちんと対応できて、私達二人のやりとりをその週刊誌を通じて皆さんにお伝えできたらありがたいと思っています。 Hさんは、現在19歳だと言うことですが、私自身が19歳の時に、これだけまとまった意見を持つことが出来ただろうかと思います。 私からすれば自分の孫のような世代のHさんから、学ぶことが多すぎてうろたえていると言うのが私の実状です。 次は、宣伝です。 私が以前から福沢諭吉についての本を書いていると言うことはこのページで何度も書いていますが、その本を、文章だけのものから漫画を主体にしたものに変えて以来、また大変に労力を使いました。 漫画家の先生には大変なご努力をお願いしていますが、先週ようやく漫画の部分についての私からの校正が終わりました。 これで、やっと一息ついたところで、私もこのブログにも何か書こうかという気持ちになれたというわけです。 いや、福沢諭吉についての本を書くのは大変でしたよ。 福沢諭吉の言動について書くためには明治維新のことを知らねばならず、明治維新のことを知るためにはそれ以前の歴史も知らねばならず、学者でも何でもない、一介の漫画原作者としては、勉強し直さなければならないことばかりで、往生しました。もう、こんなことはしたくないと思うほど、恐ろしく辛い作業でした。 その途中で、去年の11月に秋谷の家で転倒して右足のすねの骨を2013年に続いて骨折し、すさまじい激痛の中、12月8日に、以前から安川寿之輔先生にお約束していた名古屋での講演会に、弟の運転の車で、妻と三人で行きました。 安川寿之輔先生が名古屋に来れば、ウナギのひつまぶしを食べさせてくださると仰言ったので、ひつまぶしにつられて、激痛をこらえて名古屋まで行きました。 名古屋では、ひつまぶしだけではなく、鯨料理の専門店にも連れて行っていただいて、ウナギと鯨という私の大好物をご馳走になり、実に有り難い一泊二日の旅行でした。 その時の、私の講演の様子は、岩上安身さんの主催する、インターネットのIWJでご覧になれます。 http://iwj.co.jp/wj/open/archives/277901 二つファイルがありますが、私は最初の部分の真ん中過ぎに出ています。 また、その講演の内容などを、安川寿之輔先生がまとめられたものが、「花伝社」から、「さようなら!福沢諭吉」としてブックレットで発売されました。 4月に発売されましたが、好評ですぐに増刷されました。 (写真はクリックすると大きくなります) 「さようなら」というのは、一万円札の肖像画からさようなら、ということです。 私達は、福沢諭吉は日本の最高額の紙幣の肖像画としては恥ずかしいので、早く一万円札から消えて貰いたいと考えています。 私達と言ったのは、 安川寿之輔先生(名古屋大学名誉教授) 杉田聡先生(帯広畜産大学教授 哲学・思想史)、 それに私の三人です。 今までにまともに、論理的に福沢諭吉を考えて、批判するべきところは批判するという科学的な態度で対処した学者は、安川寿之輔先生と杉田聡先生のお二人だけと言っても過言ではありません。 お二人以外の大学教授とか、何々学者とかいう人々は、岩波書店から「慶應義塾」が出している、「別巻」も入れれば22巻になる、「福沢諭吉全集」をまともに読めばとても言える物ではない説を展開しています。 私は、福島第一原発の事故の時にも思ったのですが、福沢諭吉について様々な学者先生の本を読むと、日本の学者という人達は、事実をありのままに語る勇気を全く失った人達ばかりだと思うようになりました。 何々大学の教授とか、何々学会の会長とか言う人も、その肩書きだけはご立派ですが、私のようなこの世の事実だけを見ることだけを心がけている一介の漫画原作者から見ると、あれこれ世間的なことに心を配って身の安全を図るばかりに、事実を語る勇気を失った哀れな人達だとしか思えません。その点、安川寿之輔先生と杉田聡先生のお二人は違います。「慶應義塾」が出版したからこそ、誰も文句の言いようのない岩波書店版の「福沢諭吉全集」に収められた福沢諭吉自身の書いた文書を本に、極めて論理的に福沢諭吉の考えを批判しておられる。 私は長い間、福沢諭吉がどうして一万円札の肖像にまでなるほどの人間なのか、納得がいかず苦しんでいましたが、2005年に、安川寿之輔先生を批判しているAERAの記事を読んで、安川寿之輔先生のお名前を知り、同時に批判されている先生の御著書を読み、AERAの批判とは正反対に、先生の説の立て方が一切の思いこみや、他に対する遠慮もなく、純粋に極めて科学的で論理的であることに心を打たれ、それまで抱いていた福沢諭吉に対する納得のいかない感じが一掃されました。 その時の晴れ晴れとした感じは忘れることが出来ません。晴れ晴れとしたそれで充分であるはずなのに、どうして、私が漫画の原作とは外れて福沢諭吉の本などを書こうと思ったか、などについては、そのブックレットに書きましたので、それをお読みください。 秋に発行予定の「二年C組 特別勉強会 福沢諭吉」にもその理由が書いてあります。 (てな事言って、本の宣伝で、すみませんねえ) このブックレットは、安川寿之輔先生のご好意で、定価二割引の800円(送料無料、これが凄い)で、ご希望の方にお頒けします。 ブックレットの内容は、 まえがき(安川寿之助) これは、一万円札から、福沢諭吉の引退を求める、安川寿之輔先生、杉田聡先生、私・雁屋哲が2015年12月8日に行った三者合同講演会についての説明。 第1章 いま、なぜ福沢諭吉なのか 私が当日、講演会に来て下さった方たちに配った「講演のレジュメ」を、安川寿之輔先生がまとめて下さったもの。(当日、時間がなかったので、この部分は、私は会場では話せませんでした) その内容は、福沢諭吉が日本で一般的に信じられているような、「民主主義」を唱えている人間ではなかった。 経済的に破綻しているのに、安部首相のような、日本を戦前の日本に戻したいと考えている人間が、日本を支配しているこの危機的な状況に対処するために、今こそ、福沢諭吉を考え直す必要があるという論旨です。 第2章 福沢諭吉の見直し入門 安川寿之輔先生の講演内容で、「明るくない明治」から「暗い昭和」への歩み。 となっていて、福沢諭吉の言論の影響と日本の明治から昭和にかけての歴史の見直しを(司馬遼太郎の言う「明るい明治・暗い昭和」史説)促すものです。 第3章 高まる福澤再学習の必要性 当日の私の講演の内容です。 私が、福沢諭吉の実際に書いた文章を、現在の若い人達にも理解しやすいように現代語訳したものを中心に、如何に福沢諭吉が当時の朝鮮・清国人を馬鹿にして、朝鮮・清国を日本のものにするための論を展開したのか、また、福沢諭吉が「独立自尊」の人間ではなかったことを福沢諭吉自身の文章で示したものです。 この章では、福沢諭吉が、ヘイトスピーチの元祖であることも書かれています。 「二年C組 特別授業 福沢諭吉」の序章。 私が秋に出版を予定している、本の序章を漫画家と出版社の許諾を得て、掲載しています。 私がどんな本を出版するのか、その、予告版ともなります。 第4章 福沢諭吉—帝国主義の思想家 当日の、杉田聡先生の講演内容です。 福沢諭吉が、今一般に信じられている人物とは違って、朝鮮・清国、ひいてはフィリピンまでを攻め取ろうとした帝国主義的思想の持ち主であったことを、福沢諭吉の書いた文章によって説明しています。 あとがき 12月8日の講演会と、このブックレットについての安川寿之輔先生のあとがきです。 以上が、ブックレットの内容です。 興味の有る方は、この、ブログ宛に、住所、お名前、電話番号をお書きになって、申込んで下さい。 お申し込みを頂くと,私が安川寿之輔先生に取り次ぎますので、ブックレットがお手元に届くまで、若干の日時がかかることをお断りしておきます。 「美味しんぼ」の件ですが、 毎月コンビニで発売されている「コンビニ版」は6月にも発売されました。 特集は「だし」です。 また、週刊誌と同じ大きさの「アラカルト版」が毎月発行されています。 6月の特集は「野菜」です。 コンビニ版は、毎月の始め、アラカルト版は毎月の終わり頃に発売されます。 アラカルト版は、キオスクでも発売されています。 残念ながら、キオスクでは売っていないそうです。 アラカルト版は全体の99.5%はコンビニに、残りの0.5%は大型書店に置いてあるそ うです。訂正します。 矢張り週刊誌大だと、最初に発表した時のまんまの感じで、作者としても「この大きさでなきゃ」などと、感慨を新たにしています。 ご愛読下さるよう、お願い致します。
- 2016/03/24 - 困ったな前回のブログの中に、「美味しんぼ」は「どんちゃん騒ぎで終わりたい」と書いたところ、「美味しんぼ」がすぐにでも再開されると受取った方が少なくなかったようです。 あれは、「再開されたら、このような形で終結に持っていきたい」という私の希望を述べたもので、スピリッツ編集部とそのような話し合いはしたことはありません。 私個人の思いに過ぎません。 あくまでも再開したとした場合の私の希望でしかないことを改めて強調します。 軽率なことを書いたと反省しています。 「美味しんぼ」の休載はまだまだ続きます。 「美味しんぼ」については、時期が来ればいつかスピリッツ編集部が何らかの発表をするのではないでしょうか。 いずれにせよ、読者の皆様に誤解を与えたことをお詫びします。
- 2016/03/22 - またまた、ご無沙汰をこのブログを再開すると言ってから、また休止してしまいました。 2015年の末から、2016年の始めに掛けて、転倒してすねの骨を折ったり、更に転倒して肋骨にひびを入らせたり、しかも途方もなく悪質な風邪にかかって、三ヶ月近くも苦しんだり、散々な目に遭い、ブログを書く気力がなかったのです。いまだに、声が良く出ません。折角の美声なのに、とみんなに言われてくさって居ます。 放送業界の人に声優になれと言われた声なのに、声が出なければ仕方がない。 どうもね、人生仲々思うように行かない物ですよ。 このまま消えてしまおうかな、と強く思ったのですが、黙って見過ごすことの出来ない事柄が続けて起こっているので、どうしても何か言いたくなってしまう。 どうせ、何を言っても仕方がないだろうし、言いたいことを言わずに済ませるのが一番楽なことであることも分かっているけれど、何も言わないのもかえって苦しい。 で、仕方がない。 思っていることをまたちょろちょろと言うことにしました。 しかし、何かを言うその前に、「美味しんぼ」について述べておかなければならないでしょう。 「美味しんぼ」は現在休載しています。 ずいぶん長い休載ですが、終了したわけではありません。 ただ、再開云々については、今、私の一存では言えません。 その機会が来れば、スピリッツ誌の編集部から、読者の皆さんにお知らせすることになるでしょう。 念を押しておきますが、今回の休載は、例の鼻血問題で各方面から圧力がかかったからではありません。 鼻血問題とは、全く関係がありません。 それに、たとえどの方面から、どのような圧力がかかろうとも、スピリッツ編集部、小学館は勿論、作者である私も、それに屈することは絶対にありません。 「美味しんぼ」は、これまでにいくつかの企業、団体から、気にくわないことを書いたと言うことで、攻撃を受けて来ました。 「美味しんぼ」一つのために、小学館の発行する雑誌の全てに対する広告の出稿を止めて圧力を掛けてきた企業もあります。 広告の出稿停止は、出版社にとって大きな痛手です。 それでも、私も、スピリッツ誌も、小学館も、そのような圧力に屈することなく、必要であれば、政府、大企業、各種団体を遠慮なく批判してきたという実績があります。 今回も、鼻血問題が騒がれたあとも、スピリッツ誌編集部も小学館も私の意見に何一つ干渉することなく、「福島の真実編」を途中で掲載中止にするようなこともせず、最後まできちんと連載を続けました。 小学館は、弱い立場にある私達物書きが、自由に発言できるように守ってきてくれたと私は心から感謝しています。 ただ、「美味しんぼ」は、基本的に食べ物を主題にしており、原発問題だけを取り上げる漫画ではありません。 その点は誤解のないようにお願いします。 必要があれば、これからも原発問題に触れることもあるでしょうが、食べ物に関しては、まだ様々な題材があるので、原発問題に留まることなく、話の幅を広げ、より面白い漫画にしていくつもりです。 しかし、いくら何でも連載30年は長すぎだ。 そろそろ終わりにしたいと思っていますが、どんな形で終わらせるか。 今までの登場人物総出演で、美味しい食べ物の話でどんちゃんどんちゃん楽しく騒いで大団円。 そう考えています。 スピリッツ誌からのお知らせを、今少しお待ちください。 さて、今回何を言いたいかというと、あの、高市早苗総務大臣のお言葉と表情です。 人の顔の生まれつきの骨組みや肉の付き方などの形状は、本人の責任ではないが、目つき、口の利き方、言うことの内容に応じて様々な形態を取る唇など、その人間が表す表情という物は、当人が今の人間になるまでに自分で作り上げた物で、その表情・顔つきについては批判しても構わないと思います。 かつてジャーナリストとして活躍した大宅壮一は「男の顔は履歴書だ」と言った。 まことにむべなるかなで、中年に達した男(女性も同じ)の顔は親に貰った物だけでなく、自分が生きてくる間に経験したことによって出来上がったその人格の変化が表情に表れるということでしょう。 表情、顔つきは、精神の表れ、に他ならないでしょう。 そう言う意味で言うのですが、私も、この歳になるまで色々な人間の顔を見てきましたが、高市早苗のあの時のような人間の表情は初めて見ました。 女権論者によれば、女性の美醜を云々してはいけないようです。 醜いというのは論外で、美しいというもその女性の内面に関係のないことだから、言ってはいけないのだそうだ。 しかし、それは肉体的な、先天的な美醜についてでしょう。 後天的に 自分が送ってきた 精神生活の故に顔にへばりついた表情について言っていけないことはないはずです。 ご注意ください。 私は、肉体的な顔の美醜については一言も言っていないし、これからも言うつもりはありません。私は美人コンテストの審査員ではありませんし、私自身、おのれの醜貌に苦しんできた人間ですから。 (いやあ、用事深く言おうとすると、ここまでくどくど言わなければならないんですよ) で、あの「電波を止める」 と言った時の高市早苗総務大臣の表情は寒気がするほどひどい物でした。 凶悪、悪逆、下品、下劣、不当な思い上がり、驕慢、これで誰かさんから良い点をもらえるだろうという媚びと期待に満ちた表情。 その全てがごちゃ混ぜになったもので、人間、どうしたらこれほどの醜悪な表情を人前にさらすことができるのか、私はテレビの画面の前で、その表情に怯えてしまい、もう死ぬんじゃないかとうろたえ、こんなに心臓が弱っているのなら今のうちに遺言状を書かなければならない、とまで考えました。 人間長い間生きていると、色々な物を見ますが、あんな醜悪な人間の表情を見せつけられるとは夢にも思いませんでした。 如何なる訓練を積めば、あのように全ての人を震え上がらせることの出来る表情を、全国民に向かって見せることが出来るのでしょう。 これこそ、高市早苗総務相のそれまで過ごしてきた人生に裏付けされた、人がまねをしようにもまねの出来ないことでしょう。 繰返して念を押して言っておきますよ。 私は、彼女の肉体的な美醜について言っているのではない。 彼女の表情、その表情を作り出す彼女の精神、について語っているのです。 表情の話はそれまでにして、高市早苗総務省の言った言葉を考えましょう。 彼女の言った要点をまとめます。 1)放送事業者が政治的公平性を欠く放送をくりかえし 2)行政指導でも改善されないと判断した場合 3)電波法76条に基いて電波停止を命じる 4)放送法を所管する立場から必要な対応は行うべきだ ここで、重要なことは A)政治的公平性を欠く B)行政指導でも改善されないと判断した場合 C)電波停止を命じる の三つでしょう。 一体「政治的公平性を欠く」とはどう言うことか。 政治的公平性とは実に曖昧な言葉で、どういうことだろうかと真面目に考えはじめると、迷路に陥る。 だが、こんな曖昧な言葉を誰が言ったのか考えれば、その意味はすぐに分かる。 言ったのは、高市早苗総務大臣です。 であれば、簡単なこと。 「政治的公平性を欠く」とは、「現今の政府与党を批判すること」、以外に考えられない。 高市早苗総務大臣は「あたしたちを批判するような放送内容は政治的公平性を欠くものなのよ」 と、 最初の脅しをかけたのです。 ついで、「 行政指導でも改善されないと判断した場合」と来た。 これは、 「あたしたちが、政府批判をするなと行政指導してやっても、言うことを聞かず政府批判をしていると、あたしたちが判断した場合」 と言うことでしょう。 「何が何でもあたしたちの判断が正しい。だからあたしたちの指導には従うのよ」 という、二度目の脅しですね。 そして、 「電波法76条に基いて電波停止を命じる」 でとどめを刺しましたね。 決定的な脅迫だ。 電波を停止されたら放送局の命は絶たれる。 「あたしたちの言うことを聞かないと放送局の命を奪うわよ」 まことにすさまじい脅迫で、これほどすさまじい暴力的な脅迫をした政治家は、他にいるだろうか。ヒットラー、スターリン、毛沢東、金正恩、くらいのものかなあ。 でも、ヒ氏、ス氏、モ氏、キ氏も高市早苗の高飛車なたいどにはおよばないだろうねえ、 「ヒスモキ」もびっくりでしょうねえ。 さらに、高市早苗は言いいます、 「放送法を所管する立場から必要な対応は行う」 要するに 「あたしたちは何でもしちゃうんだかんね!」 ということなんですよ。 政府に対する批判は許さない。敢えて批判したら電波も止めてしまう。 国会で大臣がこんな暴力的な脅迫をして、その大臣がそのまま居座っている国とはどんな未開で野蛮な国なんだろう。 一体どこの国の話なんだろう。まさかそんな国は、少なくとも民主国家とされている国の中には無いだろう。 オーストラリア人も、アメリカ人も、フランス人も、そう考えますよ。 オーストリア人も、スロバキア人も、ニュージーランド人も、セルビア人も、そう考えますよ(私の友人たちを総動員しちまったい) ところが、民主主義国家の中に、あったんですよ。 ああ、それがなんと我が日本国だったとはね。 日本国では、2015年から2016年に掛けて、自分の意見を言うキャスターが次々に各放送局から追われた。 降板という言葉を使うのは日本人独特の卑しいごまかしです。 いやだねえ、こう言う誤魔化しの言葉を言う方も、それを黙って聞いている方も。 各放送局は政府に媚びを売るために自分たちの仲間であるキャスターを追放したのです。 仲間を売ったんだ。 仲間を売るなんて、ああ、なんと言う卑怯な、連中なんだろう。 人間としての矜持も何もあったもんじゃないね。 これから先は見えていますね。 全ての放送局は、政府に対して少しでも批判的に思われるものは、たとえ実際に政府自身がそんな風に取らなくても、前もって神経質に、放送内容から外すでしょう。 私は以前、世の中にはあまりに辛くて悲惨なことが起こるので、良い話、楽しい話だけを載せた新聞を発行して貰いたいものだ、と言ったことがありますが、ああ、良かった。 高市早苗様のおかげで、これから放送局は世の中の良いことばかり放送して、政府与党が全てこの世の中を上手く動かしていることを、日本人全てに分からせてくれるでしょう。 これからの日本は、政府与党が素晴らしいことばかりしてくれる、良い国になります。 私達は、本当に幸せな国民になります。 お国のすることに、文句を言いません。 私達、何か間違った考えを抱いたときにはすぐに、あの時の高市早苗先生のお顔を思い出しましょう。 お上に逆らわないってことは気持ちがいいねえ。 ああ、幸せだなあ・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「世界一 幸せな国民」 頭上に梁が 縦横に無数に張り巡らされています 梁は日本全土に広がっていて しかも、梁からは巨大な岩石が ひとりひとりの頭の上に吊り下げられています 岩を吊り下げているのは糸ですよ 細い糸です あ あそこで 糸が切れて 岩が人の上に落ちて人がつぶれた どうも あの人は 駄目なようですね 岩の糸を管理している役人がやってきた 鋭い目で 私達をにらんでいます は あの役人はなんと言いましたか ほう 糸は言葉に敏感だ はあ そうですか そう 言いましたか そんな こんなで 私達は 言葉選びが上手になりました あ また あっちで糸が切れた やれやれ あの人も あんなことを言ってしまっては駄目ですね まあ 三 四年もすれば 糸が切れることもなくなるでしょう 糸を切るような言葉を口に出す人はいなくなるでしょうから 日本全土に梁を巡らすことに賛成したのは私達 頭上に重い岩を下げることに賛成したのも私達 ただ 糸がこんなに切れやすいとは思わなかったけれど でも 私達は幸せです 糸を切るような言葉を口に出さない癖が身についたので 平穏に暮らせます 私達は 世界一 幸せな国民です
- 2015/12/06 - ご無沙汰しましたご無沙汰しました。 「雁屋哲の今日もまた」を再開します。 最初に、お知らせです。 12月8日、18時から、名古屋市公会堂4階ホールで、安川寿之輔先生、帯広畜産大学教授杉田聡先生(哲学)と私とで、 「福沢諭吉の見直し、アジア蔑視と侵略戦争で果たした役割〜日本の現代史を問い直そう」 という題で、講演を行います。 私は講演は苦手で、おまけに10月末に転倒して、右のすねを骨折して安静を指示されており、大変に痛いのですが、松葉杖と車いすで、神奈川県から何とかたどり着いて、安川寿之輔先生、杉田先生という学者の間に交ざり、恥をさらすのを覚悟で、福沢諭吉についての私の考え述べます。 名古屋近辺の方は、ぜひご参加下さい。 漫画原作者という絶滅危惧の希少動物の顔を見られますよ。 「美味しんぼ『鼻血問題』に答える」(遊幻社刊)を書いてから、私は福沢諭吉についての本をまとめるのに没頭しました。 本来、この本は2011年の8月には出版する予定でした。 それが、3月11日の福島第一原発の事故以来、私の心はそちらに完全に傾いてしまい、福沢諭吉本を書くひまがなくなりました。 「美味しんぼ」福島の真実篇1と2を書き終わった段階で、福沢諭吉に再び取りかかりましたが、そこに、「美味しんぼ」福島の真実編2の第22回で書いた「鼻血」が問題になり、身辺にわかに騒がしく、福沢諭吉の本に取りかかることがさらに妨げられました。 2015年2月に「美味しんぼ『鼻血問題』に答える」を書き終わってから、ようやく私は福沢諭吉の本を書く仕事に戻ったのです。 今度の福沢諭吉についての本の題名は「二年C組 特別勉強会 福沢諭吉」です。 これは架空の高校、善和学園の二年C組の担任の歴史の教師が、福沢諭吉自身の公に言った言葉,書物に残した言葉を取り上げて、 A 『天は人の上に人を造らず、人の下にも人を造らず』と言うのは福澤諭吉自身の言葉ではない。福澤諭吉自身の思想を表したものでもない。 B 福澤諭吉自身は、江戸時代からの封建的な身分差別意識を強く持っていた。 被差別民に対する差別意識も強く持っていた。 福沢諭吉は『民主主義者』ではない。 C 天皇は神聖であり、日本人は全て天皇の臣子である。一旦戦争になったら天皇のために死ぬべきである、と主張する『教育勅語』を歓迎する福澤諭吉が『民主主義者』の訳が無い。福澤諭吉は、第二次大戦に日本を引きずり込んだ『天皇制絶対主義』『皇国思想』を日本人に広く浸透させた。 D また、明治維新後、明治政府は朝鮮支配を推し進め、その朝鮮支配を巡って、清に、日清戦争を仕掛けたが、福澤諭吉は、それを言論で煽り、それだけでなく、自分自身、日本の朝鮮支配を進めるために、朝鮮宮廷内でのクーデターを計画し、その実行に加担した(甲申政変)、 E 福澤諭吉は朝鮮人、中国人に対する激しい侮蔑心を煽り、それが、日本人の朝鮮人差別、中国人差別を深め、ひいては現代までつながるアジアの人々全体に対する差別心を抱かせる元となった。 F 『軍国主義』を確立し、しかも、その軍を、天皇を最高指導者とし、兵は天皇のために死ぬ『皇軍』とすることに力を尽した。 G 福澤諭吉が「福翁自伝」の中で書いた、福沢諭吉の「大本願」である国権皇張を求めれば必然的にアジア侵略を導くものであって、事実、福澤諭吉は清国の侵略を強硬に主張し、『皇軍によるアジア侵略』という1945年の敗戦に至る道は、福澤諭吉が描いた通りになった。 福澤諭吉こそ、1945年の破滅に突き進むように、日本の方向を定め、人々をその方向に駆り立てた張本人の一人だった。 H 我々が、考えている『独立心』と『自尊心』を重んずる『独立自尊』と福澤諭吉の言う『独立自尊』とは意味が違うこと。 また、福澤諭吉は、『独立心』と『自尊心』を重んずる『独立自尊』の人間ではなかったこと。 と福沢諭吉が実際にいった言葉を示して授業の中で言ったところ、父母の中から「福沢諭吉を侮辱するものであり、真実ではない」と抗議が起こったと言うことから話が始まります。 私は今までに、丸山真男、を始め多くの学者の福沢諭吉論を読んできました。 どの学者も、福沢諭吉の書いた文章をそのまま取り上げて論ずるのではなく、自分の都合の良いように福沢諭吉の文章の中の一部を取りあげ、さらにそれを読み替えて、「民主主義の先駆者」として福沢諭吉を美しく描き出しています。 私も実はその美談で生きていたのです。 ところが、1987年に、「頭山統一解説 日本皇室論 帝室論・尊王論(1987 島津書房)」と言う本を手に入れて、一読して仰天したことがあります。 上等の和紙に題字を金箔で押した表紙の豪華本です。(今でも大事にとってあります) 私は解説を書いている頭山統一と言う人物の名前に惹かれました。 頭山統一という名前から、日本の右翼・国家主義運動の草分け、「玄洋社」の頭山満とのつながりを考えたのです。 後に、頭山統一氏は、頭山満の孫であり、1990年に頭山満の墓前で短銃自殺をしたことを知りました。自死の理由を私は知りません) 解説者の名前、帝室、尊皇と言う言葉。 この三つが、私がそれまでに教えられてきた市民的自由主義者としての福澤諭吉とどうしてもうまく繋がらないのです。 そこで、その「帝室論」・「尊王論」を読んだのですが、それまで、福澤諭吉は市民的自由主義者であるという刷込みがなされていた私にとっては、「まさか」、「そんなばかな」、と言うような文章が目の前に一面に広がり、ただただ、驚くばかり。 帝室論の中に、「日本国民は帝室の臣子なり」という言葉があるのを見たときには、私は、漫画的表現で言えば、あごが外れました。 それでは、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」も「独立自尊」もあったものではない。 それほどの衝撃を受けはしましたが、最初から「福澤諭吉は化石人間」と言う思いがあったので、「昔の人はこんなものだったのか」と落胆して、その本は書棚の一角に押し込まれました。 それから、生活に追われる忙しい日が続き、福澤諭吉は私の意識から消え去ってしまったのです。 いわば、福沢諭吉は百年前の人が訳も分からず偉いと崇めた人。 そんな人間は、現在の私達の生活には何の意味もない人間であると、私の意識の外に消え去ってしまったのです。 ところがです、それから20年近く経ったときに、朝日新聞社発行の週刊誌AERAの2005年2月7日号を目にしたんです。 そこには、「偽札だけではない、福澤諭吉の受難」という題名の記事が掲載されていましたた。 筆者は、長谷川熙(ひろし)氏。肩書きはライター、となっているので、朝日新聞社の社員ではないのでしょう。 読んでみると、これは、途方もない内容で、 当時静岡県立大学国際関係学助手の平山洋氏が「福澤諭吉の真実」という文藝春秋社刊の文春新書に書いた内容によれば、岩波書店から発行されている「福澤諭吉全集」の内、すくなくとも、「時事新報」の社説として掲載されている物の多くは、福澤諭吉自身が書いたものではなく、福澤諭吉の弟子(この記事にその名前はAとしか書かれていないが、前後の記事の文脈から、「福澤諭吉伝」四巻を書いた、福澤諭吉の中年から晩年にかけて、福澤諭吉が一番信頼していた石河幹明のことであることが分ります)が、福澤諭吉の意に背いて、自分で勝手に書いたものであり、さらに「福澤諭吉全集」を作るときに、自分の書いた「時事新報社説」を福澤諭吉の書いた文章として取り込んだ、と言うのです。 私は、前にも書いた通り、福澤諭吉にはまるで興味を抱いていなかったのですが、頭山統一氏が解説を書いた「皇室論」「尊王論」を読んだときの、あの腑に落ちない感じが、20年経った後も心の底に残っていたのでしょう、すぐに文春新書の「福澤諭吉の真実」を購入して読みました。 続いて、平山洋氏が、自分の説のよりどころとしている、井田進也氏の 「歴史とテクスト」と言う本も買って精読しました。(高かった! 6500円もした。買うのに勇気が要りましたよ) AERAの記事を読んだ時から、私は、福澤諭吉は化石人間などではなく、その思想は生きていて、現在も日本に影響を与え続けていることを認識し、これは福澤諭吉についてまじめに考えなければならないと思い直し始めました。 平山洋氏の著書と、井田進也氏の著書についての、厳密で厳しい批判は、安川寿之輔、杉田聡の両氏によって行われているので、詳しく知りたい方は、安川寿之輔著「福澤諭吉の戦争論と天皇論」、杉田聡著「福澤諭吉 朝鮮・中国・台湾論集 国権拡張脱亜の果て」をお読みください。 ここで、私があれこれ言う余裕はありません。 端的に言うと、平山洋氏の「福澤諭吉の真実」は単なる妄想と狂想の書。 井田進也氏の著書は、著書全体はともかく、その「福澤諭吉のテクストの真贋の認定をした部分」は、非科学的であり、愚劣きわまるもので、氏自身をこれから終生苦しめることになる文章。 と、物の分る人間は誰でもそのように認定するでしょう。 ここまで、私は井田進也氏と平山洋氏について批判的なことを書いてきましたが、実は私は両氏に対して心からの感謝を捧げたいのです。 と言うのは、前記AERAの記事の中で長谷川熙氏は、「安川氏の言動への疑問も湧いてくる」と言って、慶応大学非常勤講師(当時)の吉家定夫氏の言葉を引いて、安川寿之輔氏がその著書「福澤諭吉のアジア認識」の中で、あやまちを犯したかのように批判していたからです。(私はAERAのその記事をコピーしていまだに持っています) 私は、それまで安川寿之輔氏のお名前すら知らなかった。どんなことを書いておられるのかも当然知りませんでした。 直ちに安川寿之輔氏の著書「福澤諭吉のアジア認識」を手に入れ、一読して、私が二十年近く抱いてきた福澤諭吉に対する「腑に落ちない感じ」が何だったのか良く分ったのです。 私は、その「福澤諭吉のアジア認識」につづいて、丸山真男の福澤諭吉論を批判する「福澤諭吉と丸山真男」(出版の順序は逆だが)、井田進也氏と平山洋氏に対する反論の書「福澤諭吉の戦争論と天皇制論」、さらには安川寿之輔氏がまだ三五歳の時に書いた「日本近代教育の思想構造」も古書店で手に入れて精読しました。(「日本近代教育の思想構造」は現在、オンデマンド出版でインターネット経由で買うことが出来ます) 安川寿之輔氏の諸書を熟読して、私が福澤諭吉に対して抱いていた「腑に落ちない感じ」がきれいにかたづきました。胸がスーッとした思いです。 安川寿之輔氏の叙述の仕方は、全て、科学的思考方法に合致しています。 科学的な思考方法とは、 1 誰もが手に入れることが出来、誰もが検証することの出来る事実としての、「福澤諭吉全集」「福澤諭吉書簡集」などの文書をもとにして、 2 誰もが、批判、検討、検証できる論理の過程を、緻密に作り上げ、 3 日本では偉人に祭り上げられている福澤諭吉を批判することは、批判する自分自身が世間的に葬られることになること(地獄へ導かれること)を恐れず、純粋に論理の帰結するところとして、冷静に福澤諭吉批判を行ったこと。 私が安川寿之輔氏の著作を評価するのは、安川寿之輔氏の福澤諭吉についての論説が、福澤諭吉に対する個人的な好悪の感情とは全く離れて、純粋に科学的であるからです。 ここまで、科学的に緻密に構築された安川寿之輔氏の福澤諭吉批判を、逆批判することは非常に難しい。 出来ることは、AERAで長谷川熙氏が行ったように、明治大学名誉教授(当時)三宅正樹氏、慶応大学名誉教授(当時)村井実氏、前記吉家定夫氏のような、世間的に有名な人々を駆り出して、事実に基かない感情的な反撥を示すか、あるいは全く無視することしかありません。 私は安川寿之輔氏の諸書を読んで、今まで福澤諭吉偉人説に抱いていた「腑に落ちない感じ」が一掃されると同時に、明治維新から日清戦争までの近代史に対して不勉強だったことを痛感しました。 私は、明治維新前後、日中戦争から現代までの歴史、については多くの本を読み勉強してきたつもりでしたが、なんと、明治維新から日清戦争までの日本の歴史について余りに無知だったことに気がつきました。 日清戦争、日露戦争、については、司馬遼太郎に代表される日本美化論者によって、「明るい明治、暗い昭和」などとうんざりするほど聞かされていたので、それに反撥して、かえって深く勉強しようと思わなかったのです。 福澤諭吉を理解することは、明治維新後日清戦争に至るまでの日本の歴史をきちんと理解することであると私は認識しました。 それ以来、この十年間、私は日本の近代史をかなり十分に勉強しました。 同時に、福澤諭吉に対する理解も深まり、私自身、本当に納得して、心が晴れ晴れとしたのです。 これは、ひとえに、AERAの記事で、安川寿之輔氏の名前を知ったからであり、そのきっかけを作ってくれた、井田進也氏と平山洋氏に深い感謝の念を捧げるゆえんです。 納得したのならそれで良いはずなのに、同時に心の中でむらむらと何かが煮えたぎり始め、このままでは収まらない、と言う思いが募って来たのです。 何が私の心を煮えたぎらせたか。 それは、日本人は福澤諭吉の真の姿を、以前の私同様、余りに知らなさすぎる、ということです。 敗戦後の日本では、丸山真男が福澤諭吉を「近代的市民的自由主義者」と持ち上げたばかりに、丸山真男の権威に大方の学者がなびき、福澤諭吉は「民主主義の先駆者」として、偉人としてまで祭り上げられ、一万円札の肖像にまでなってしまいました。 どう言う訳か私の周囲は慶応義塾出身者が多いのです。 妻の兄、姉の夫、私の弟、小学校以来の親友、勤めたことのある会社の同期入社以来の親友、と揃っています。 で、私は、姉の夫、弟、親友たちに、「福澤諭吉の書いたものをどれだけ読んだことがあるのか」と尋ねました。 私に尋ねられると、全員、にやにやして困った表情を浮かべて、「いや、ま、学問のすすめくらいは」「あまりな・・」「学問のすすめの最初の方は読んだかな」などと、実にあやふやなことを言います。 私の弟は中学(中等部)から大学まで慶応なのに、私に言いました、 「兄ちゃん、それはむりだよ。中等部の時に、福翁自伝の一部を授業で読まされたけれど、慶応出身の人間みんなに聞いてご覧よ。福澤諭吉の書いたものを色々読んでいる人間なんか、いやしないって。いたとしてもほんの一つまみだけだよ」 私は、私の身の回りの慶応義塾出身者が、特別に怠惰な人間だとは思いません 他にも、慶応義塾出身者に同じ質問をしましたが、みんな、私の身の回りの慶応義塾出身者と変わらないか、それよりひどい人間もいました。ある人間は私に尋ねられて「慶応卒だからといって福澤諭吉とは関係ありませんよ」と言いました。 慶応義塾出身の人間達でも、福澤諭吉の書いたものをろくに読んでいない。 であれば、世間の人たちが福澤諭吉の書いたものをきちんと読んでいる訳がない。 これから考えるに、権威ある学者とされる人たちが、福澤諭吉を偉人であると持ち上げれば、世間の人たちはその学者達の権威に盲従して、福澤諭吉を偉人として祭り上げただけなのではないか。 福澤諭吉を偉人として意識的に祭り上げた人たちの中には、福澤諭吉が「国家主義者」「天皇主義者」「国権拡張主義者」「侵略推進主義者」であるから、偉人とした人がいるだろう。 そう言う人間が、福澤諭吉を一万円札の肖像に使うことを決めたのだ。 しかし、世間一般の人たちは、福澤諭吉を「民主主義の先駆者」「市民的自由主義者」だから、偉人と思い込んでいるのです。 そういう人々の思い込みは、「学問のすすめ」初編をきちんと最後まで読むだけで、崩れるはずなのに、大半の人たちはそれすら読んでいない。 まして、私がこの本で取り上げた福澤諭吉の書いたものを読むはずがない。 私は、世間一般の人たちに福澤諭吉の真実を知ってもらいたい、と心から願ったのです。 それには、安川寿之輔氏の本を読んでもらうことがいちばん良い。 日本人全員が、安川寿之輔氏の本を読むべきだ。 私はそう思います。 しかし、安川寿之輔氏の本は学術書です。 私の妻や姉弟達のような、世間一般の人間にとっては、取っつきにくい。 しかも、安川寿之輔氏の本に取り上げられている福澤諭吉自身の文章も、氏の議論に必要な部分だけで、文章全体が見渡せない。その上、福澤諭吉の生の文章そのままだ。 福澤諭吉の文章は平明だが、さすがに明治時代の人間の書いた文章は、今の人間には読みづらい。 これでは、世間一般の多くの人たちに読んでもらうのは容易なことではない。 ではどうすれば良いか。 散々考えたあげくに、「おお、私は漫画原作者ではないか」と気がつきました。 安川寿之輔氏の本を漫画と漫画の原作のハイブリッド形式にまとめれば、世間一般の人たちも取っつきやすいのではないだろうか。 一九七四年以来、漫画の原作を書き続けてきたことが、役に立つといました そこで、この本を書き始めたというわけなのです。 さて、何時もの通り長々しい文章になりました。 今回は、これで終わりにします。 読者のみなさんが知りたい「美味しんぼ」のつづきはどうなるのか、と言うことに対しては、次の回でお答えします。 ただ,今度福沢諭吉を批判する本を出せば、今まで以上に雁屋哲は攻撃されると思います。 原発問題どころではないだろうと恐れます。 で、このブログの再開の最初に私の思いを詩の形で書きます。 これから、この気持ちでブログを書いていきます。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「流されない」 濁流の中に 流されず 残った岩がある その岩の上に 私は立っている 濁流は 世間様の流れ 時代の流れ 私が立ち続けていることに苛立つ 憎悪が流れてくると 私の立つ岩に激しくぶち当たり 憎悪の水しぶきは私の全身を包み込む 足元が揺らぐ それでも 私は立つ 流されない
- 2015/01/30 - 美味しんぼ「鼻血問題」に答える◎夜久弘さんが亡くなった。 以前、このブログで、つげ義春について書いたときに、つげ義春最後の作品群を掲載した「コミックばく」の編集者として夜久さんにについて書いた。 夜久さんは、つげ義春に作品を書かせるために、「コミックばく」を立ち上げたのだ。 つげ義春という作家は、夜久さんが舞台を設定しなければ何も描かなかっただろう。 実際に、1987年の「コミックばく」最終号以後、つげ義春は何も描いていない。 夜久さんがいなかったら、あの、「無能の人」などの一連のつげ義春の名作は私達、いや、漫画界、いや、日本文化の中に現れなかったのではないか。 夜久さんは、物静かで、上品な人だった。 いつも柔和な表情で、それなのに芯の強さを感じさせる人だった。 また、お会いしたいと思っていたのに、先に逝かれてしまった。 何とも、悲しく残念だ。 2015年1月2日 ご逝去。 ◎2015年1月22日 サッカーのアジアカップの日本対UAE戦がシドニーで行われた。 私は、妻、長男、長女、次女の五人で観戦に行った。 私と妻と長男は、ワールドカップ、ブラジル大会のレシフェでの試合を見に行ったときの公式ユニフォームを、長女、次女はそれ以前の日本代表チームのユニフォームを着て行った。 UAE相手では、負けることはないだろうと、意気揚々として行ったのである。 結果はご存じの通りである。 こんな負け方は、日本サッカー界の歴史に残るものだと思う。 長男は落胆のあまり「お父さん、もう、日本代表の応援に行くのはやめようよ」という。 私も、レシフェで目の前でコートジボワールに無残な負けを喫したのを見て、心臓の具合が悪くなった。そこに、この、無残な敗北である。 倒されて、ローラーカーに轢かれてのしイカ状になり、その上で悪魔の軍団が飛び跳ねているような感じだ。この悲しみと苦しみはいつまで続くのだろう。 何で、こんなにサッカーに身を入れるのか。 私には分からない。 こんな面白いサッカーなどと言うゲームを作った人間を恨むしかない。 私は、日本代表が、必ず世界一になると信じて応援を続ける。 日本代表が負けると、死にたくなるけれどね。 ◎去年の4月に、私が「美味しんぼ」で書いた鼻血の場面が、原発推進派に意図的に取り上げられ、殆ど全てのマスコミで、私はまるで犯罪者のように叩かれた。 それに対する反論を、このページで書くと読者諸姉諸兄にお約束したが、日本はなんだか訳の分からない社会になってしまって、なまじ、このブログに意見を書いても、中途半端にしか私の思いが伝わらないと考えて、私の意見を本にまとめることにした。 その本、 「美味しんぼ『鼻血問題』に答える」 が、いよいよ、発刊されることになった。 最初は、1月中のはずだったのだが、私の原稿が遅れたことで、結局2月になってしまった。 大方の書店には、2月2日に並ぶはずだ。 「鼻血」問題についての私の意見も、小出しにしていては、仲々全体がつかめない。 この本を読んで頂ければ、私の真意をご理解いただけると思う。 出版社は、「遊幻舎」 小学館とは、全く無縁の会社なので、この本に対するご意見は、「遊幻舎」の方にお願いしたい。
- 2014/12/10 - お知らせ12月10日 「美味しんぼ」第111巻「福島の真実篇 2」が刊行されます。 色々と問題になった件も掲載されています。 お読み下されば、有り難いと思います。 例の 「鼻血問題」に対する私の意見は、本にして来年の一月に発行します。 まずは単行本第110巻と111巻をお読み頂いてから、ご意見を賜りたいと存じます。 一部分だけ読んで、あれこれ言うのは反則でしょう。
- 2014/05/22 - 色々と1)以前、このページで、取材は、「福島の真実篇 その24」が終わってからお受けすると書きましたが、現在のところ、まだ冷静な議論をする状況にないと判断して、取材をお受けするのを先に延ばすことにしました。 私は、様々な事情があって、早くても7月の末まで、日本に戻れません。 取材はそれから、ご相談させて頂きます。 また、勝手ながら、取材のお申し込みに対して個別のお返事は差し上げられません。 現在、取材を申し込んで来られた皆様には申し訳ないことですが、ご了承下さい。 2)「美味しんぼ」の休載は、去年から決まっていたことです。 今回色々な方が編集部にご意見を述べられていますが、そのようなことに編集部が考慮して、「美味しんぼ」の休載を決めた訳ではありません。 「美味しんぼ」の「福島の真実篇」は最初単行本にして1巻の予定で始めました。 しかし取材を重ねている内に、単行本1巻ですむような事では無いことが分かり、急遽、単行本2巻で納めようと言うことになりました。 単行本2巻で納めるのは、24話が限界です。 そんな訳で、最初から、「福島の真実篇」は「24話」で終わりと決まっていたのです。 「その22」で鼻血の件を書いたところ、反響が大きく、熱心な愛読者の方からは「圧力に負けないで勇気を持って書き続けて欲しい」というお便りを数多く頂きました。 ご心配頂いた読者の方には申し訳ないのですが、その段階で原稿は書き上げてあり、作画もできあがっていたので、圧力に負けようにも負けようがなかったのです。 これからしばらく「美味しんぼ」は休載しますが、休載は過去にも何度かあり、6ヶ月以上休載したこともあります。 連載も長期化すると、原作者も、作画家も時に休みを取る必要があるのです。 「美味しんぼ」休載の事情は、以上の通りです。 ご理解くださるよう、お願いします。
- 2014/05/09 - 取材などについて最近、「美味しんぼ」に書いた鼻血の件で、取材の申し込みを色々頂戴しています。 しかし、前にも書いた通り、「美味しんぼ 福島の真実篇」は、この後、その23、その24まで続きます。 取材などは、それから後にお考えになった方が良いと思います。 また、今回の件で、色々な方がスピリッツ編集部に電話をかけてくるそうです。 書いた内容についての責任は全て私にあります。 スピリッツ編集部に電話をかけたり、スピリッツ編集部のホームページなどに、抗議文を送ったりするのはお門違いです。 何かご意見があれば、この私のページ当てにお送り下さい。 ただし、yahooメール、Gメールのように、幾らでも作れて、一回こっきりで捨てられるようなフリー・メルによるものは、自動的に、はねる仕組みになっています。 私に意見を仰りたいのなら、ご自分の契約しているプロバイダーの正規のメールアドレスから、送って下さい。 これは、以前に、そのようなフリー・メールによって、このページがダウンしたことがあるからです。
- 2014/05/04 - 反論は、最後の回まで,お待ち下さい「美味しんぼ 福島の真実篇」、その22で、鼻血について書いたところ、色々なところで取り上げられてスピリッツ編集部に寄れば、「大騒ぎになっている」そうである。 私は鼻血について書く時に、当然ある程度の反発は折り込み済みだったが、ここまで騒ぎになるとは思わなかった。 で、ここで、私は批判している人たちに反論するべきなのだが、「美味しんぼ」福島篇は、まだ、その23,その24と続く。 その23、特にその24ではもっとはっきりとしたことを言っているので、鼻血ごときで騒いでいる人たちは、発狂するかも知れない。 今まで私に好意的だった人も、背を向けるかも知れない。 私は自分が福島を2年かけて取材をして、しっかりとすくい取った真実をありのままに書くことがどうして批判されなければならないのか分からない。 真実には目をつぶり、誰かさんたちに都合の良い嘘を書けというのだろうか。 「福島は安全」「福島は大丈夫」「福島の復興は前進している」 などと書けばみんな喜んだのかも知れない。 今度の「美味しんぼ」の副題は「福島の真実」である。 私は真実しか書けない。 自己欺瞞は私の一番嫌う物である。 きれい事、耳にあたりの良い言葉を読み、聞きたければ、他のメディアでいくらでも流されている。 今の日本の社会は「自分たちに不都合な真実を嫌い」「心地の良い嘘を求める」空気に包まれている。 「美味しんぼ」が気にいらなければ、そのような「心地の良い」話を読むことをおすすめする。 本格的な反論は、その24が、発行されてからにする。
- 2014/04/10 - 伊丹万作と「自発的隷従論」ある読者が、私が前回書いた「自発的隷従論」の紹介を読んで、伊丹万作が1946年、敗戦の翌年に書いた文章を思い出したと言って、その文章が掲載されているページのURLを教えて下さった。 それを以下に、転記する。 http://www.aozora.gr.jp/cards/000231/files/43873_23111.html 伊丹万作は戦前に活躍した映画の監督・脚本家で、私が子供の頃「手をつなぐ子ら」という映画を見た覚えがある。 エッセイスト、俳優、映画監督の伊丹十三は息子である。 読者が紹介してくれた文章は,以前に日本人の戦争責任を問う本のなかで二度ほど読んで良く憶えている。その本が何だったのか、今私は日本におり、その本はシドニーの書斎にあるので、見付けることが出来ない。 この文章がネットに掲載されていることを、教えて頂いて大変有り難いと感謝しています。 私も以前この伊丹万作の文章を読んで大変に感銘を受けた。 先の大戦が終わった後に、政府にだまされたと多くの人が言うのに足して、次のように言っている。 「いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。 つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。 そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。」 「自発的隷従論」に重なるところが多いでは無いか。 しかし、今回「自発的隷従論」について書いた時に、この伊丹万作の文章のことは頭に思い浮かばなかった。 「自発的隷従論」の私が紹介した部分だけを読んで、伊丹万作のこの文章を思い出された読者の方はすごいと思う。脱帽する。 読者諸姉諸兄の皆さんもぜひ、上のURLをたどって、伊丹万作の文章を読んで頂きたい。 戦争直後にこのように透徹した意見を書いた、伊丹万作には敬服するしか無い。
- 2014/04/09 - つげ義春と私2014年1月号の「芸術新潮」は「つげ義春」特集だった。 1960年代最後から、1970年代にかけて、つげ義春という漫画家は漫画を本気になって読む人間にとって、自分自身の生き方を問われるような奥深い意味を持つ漫画を次々に発表する、目がくらむような人間だった。 私は、つげ義春の全集を持っているし、手に入る限り他の著書を持っている。 この、「芸術新潮」によれば、つげ義春は1987年以来何も描いていないという。 一番長い、休載期間だという。 その「芸術新潮」につげ義春の最近の写真が載っていた。 年齢としては、1937年生まれと言うことなので、現在75歳。 以前に色々の機会でみた写真の顔と別人のようなので、驚いた。 そして思った。天才は老いても天才の顔だ。普通の顔では無いのだ。 つげ義春を一言で表現したいと思ったら「天才」という言葉以外は思い浮かばない。 私は、大学生の時に、つげ義春の「ねじ式」を読んで、天地がひっくり返るような衝撃を受けた。 「ねじ式」が発表されたのは1968年。いまから、46年も前のことになる。 この「ねじ式」が少しも古くならない。 46年経った今読んでも、その人の心をえぐる衝撃的な力は衰えるどころか、もはや、古典としてこれからも人の心をえぐり続けるだろうと思う。 つげ義春の作品の流れの中で、現在に至る休筆までの最後の14作品を掲載したのは、「comic ばく」誌である。 この、「comic ばく」の編集長夜久弘(やくひろし)氏は、実は私が「漫画ゴラク」で、「野望の王国」を連載した時の最初の担当編集者だったのだ。 夜久さんは極めて物静かな人で、漫画について、熱っぽく語ることは無く、私は夜久さんが漫画に非常な情熱を抱いていることを知らなかった。 私が、「漫画ゴラク」に書かせててもらった「野望の王国」は、私のしたいこと、言いたいことを全て 書く事の出来た作品で、私の漫画原作者として、これならと言えるのは「男組」「野望の王国」「美味しんぼ」の三作であるが、どれも、つげ義春の描く漫画とは格が違う。 つげ義春の漫画は芸術作品である。 私の書く漫画は(私は絵を描けず原作だけ書くので私の場合は漫画を「書く」と表記する)一般大衆向けの娯楽作品である。 私の書く物が一般大衆向けの娯楽作品だからと言って卑下するつもりは全くない。 自分の言いたいことを思い切り生の言葉で表現できるのは大衆向けの漫画でしかあり得ず。表現者としての漫画原作者である私は、その大衆向けというところに最大の意義を見いだしていて、それだから漫画の原作を書くという気合いが乗るという物なのだ。 しかし、つげ義春は第三者のためでは無く自分のために漫画を描いている。 つげ義春は第三者に漫画を読んでもらうことなど考えていないのではないかと思う。 つげ義春が、精神的に非常な不調に陥るのは、自分の作品を第三者に読ませるために雑誌に発表することが耐えがたいからなのではないかと私は思う。 夜久さんは私のことを、「大衆に売る漫画だけを描く、売り屋」だと、軽蔑していたのではないかと、今になって考えると心苦しい。 つげ義春に面と向かえば、だれでも劣等感にとらわれるだろうと思うが、私とつげ義春の間に夜久弘氏が介在するので余計に複雑である。 1984年に、夜久さんが「comic ばく」の第一号を持って現れた時の驚きを私は忘れられない。 夜久さんは、非常にクールな感じのする方で、漫画の編集という仕事も、世を忍ぶ仮の姿という案配で、私の提出する原作に一切文句をつけず、漫画作家への原作配達係のように、淡々とした態度で、私の漫画には向かっておられた。 その夜久さんが「つげ義春を中心にした漫画雑誌を発行します」 といって、「comic ばく」の第一号を体中から気合いのほとばしるような勢いで、私に下さるというより突きつけた。 1974年に「男組」で、劇画の世界に出て、そこそこ評判の良い作品を描き続けることが出来て、一息ついているところに、つげ義春だ。 「comic ばく」に載っているつげ作品はすごいけれど、私にはもはや、そのような世界を探索し、その世界に没入する感覚を失っていた。 その作品に感動し,涙を流し、作品の前に跪き、地面に頭をすりつけるだけでは収まらず、つげ義春の作品を完成するためのアシスタントとしてでも雇ってもらいたいと思いはしたが、絵と言えばへのへのもへじ、しかかけない男に出る幕は無かろう。 夜久さんはつげ義春の作品を掲載したいためにこの「comocばく」を発刊されたという。 一人の作家のために一つの雑誌を立ち上げる、その力、意気込み。 私は目の前にいる夜久さんが、それまで私の知っている夜久さんとは別人であることを確認した。 夜久さんは私の書く「野望の王国」には何の興味も抱いておられなかったのだろう。 だから、内容に文句の一つも言わず、淡々と原稿を受け取ってこられたのだ。 芸術作品を書く漫画家と、大衆娯楽作品の原作を書く原作者と、その両者に対する編集者の態度の違いを、目の前で見せられて、私は衝撃を受けた。 しかし、私の漫画は大衆に読んでもらわなければならない理由がある。「男組」を書き始めた時に固めたものなので、「大衆に読んでもらう作品を書く」という決意は揺るがない。 それに、絵を描けないのでは、芸術としても漫画など、描ける訳が無いのだ。 「comicばく」を見て、「わあ、昔のガロみたいだな」と思った。 夜久さんが、「ガロ」に代表される純粋漫画の熱烈な愛好者であることをこの時に始めて知ったのだ。 夜久さんは、ランニングの本で有名になっているようだが、さいきんはどうしておられるのか、私が1988年にオーストラリアに引っ越して以来連絡が無い。 会いたいな、夜久さん。 この、「芸術新潮」の1月号を見て、いまだにつげ義春をまともに、評価してくれる人たちが、これだけ多くいると言うことを知って、私は、泣きたくなるほど嬉しかった。 と言うのは、私の昔から友人が、つげ義春の事を知らなかったのだ。 私は、その男との長いつきあいを考えて信じられない事だった。 「ねじ式」も彼は知らないという。 私は仰天して思わず叫んでしまった、「ねじ式を知らないで漫画を知っていると言えるのか」 その友人は、私の脅迫にも耐えて盛んに首をひねっている。 私は、彼に、筑摩書房刊の「つげ義春全集」を送ることを約束した。 この私の友人のことを考えると、今や、つげ義春は今の時代からは捉えられない漫画家になっているのかも知れない。 私は、つげ義春を知らなかった私の友人をさんざん責めて罵詈雑言を浴びせたが、考えてみれば、つげ義春を同時代的に知るとこが出来、その作品の故に、自分の生きる道を色々と点検させられた私達は幸せだったのだと思う。 つげ義春の作品を、日本人全員は読め、と私は言いたい。 つげ義春こそ、物狂おしいほど、日本人を追求した作家である。
- 2014/04/08 - RBB! You are great !4月1日、私は、川崎の等々力陸上競技場に、川崎フロンターレとWestern Sydney Wanderersの試合を見るために、連れ合いと、次女と甥の四人で乗込んだ。 小野伸二選手が2年前に加入して以来 Western Sydney Wanderersのフアンになってしまい、私たちの住む地域としてはSydney FC を応援するべきなのだが、Sydney Cityではなく、Paramatta City に属するWestern Sydney Wanderersを応援するようになってしまったのである。 大Sydney地区としては、同じ地区に含まれると思うのだが、実際には、オーストラリアにイギリス人が住み始めて一番最初に栄えたのが、Paramattaであり、今でも人口重心(一つの地域の人口の稠密度を計る時に使われる用語である。日本全体の人口重心は関東地方になる、と言うのと同じ感覚である)はParamattaだそうで、オーストラリアに移民して来た人たちがまず住み込む先がParamattaのようなSydney全体からすれば、西南部の地域である。 当然Western Sydney Wanderersのサポーターたちは、私の住むSydneyのNorth Shore(Sydneyの北岸、ハーバーブリッジを渡った先である)では、滅多にお目にかかることの無い中東などの非常に濃い人たちである。彼らのかなりの人々が、私には理解できない英語以外の言語で話し合っている。 彼らは背も高く筋肉もモリモリで、日本に来て格闘競技の世界に入ったらたちまちスターになるだろうと思われる体つきである。 そのサポーターをRBBと言う。Western Sydney Wanderersのユニフォームが赤と黒を色調として使っているので、Western Sydney Wanderersと言えば、赤と黒である。 RBBは「Red and Black Block」という意味で、Western Sydney Wanderersのサポーター席のことを言っていたのが、サポーターの名前になった。 小野伸二選手が加入して以来、Western Sydney Wanderersは人気が急上昇した。 私達が2年前に始めてParamatta スタジアムに行き始めた時に比べると、RBBの人数は200人くらいから2000人以上に急増した。 いや、この数は、ゴール後ろのサポーター席に陣取る人間の数から見て言っているのであって、サポーター席から外れたところにも、Western Sydney Wanderersのユニフォームを着たファンが沢山いるから、RBBの実数はその数倍はいると思う。 2年前のParamattaでの試合は、総観客数が6千人などと言うことが普通だったが、いまや、競技場の容量限界の1万6千人が詰めかけるのである。(この競技場はサッカーとラグビーに特化した競技場であって、横浜スタジアムのように、陸上競技用のコース観客席の前になく、観客席の前はいきなりサッカーのピッチなのでその肉迫度、体感度が陸上競技と併用のサッカー場とは、我々観客の興奮度がまるで違う。横浜スタジアムで、中村俊輔選手など、一〇〇メートル以上離れたところでしか見られないが、Paramattaスタジアムでは、10メートル先に小野伸二選手を見ることが出来るのだ。 2年前までは、チケットを取ることなど、数日前でも良い席を取れたのだが、今や事情は違う。 二週間前に売り出してすぐに売り切れてしまう。秒殺、瞬殺の早業で売れてしまう。 私達はサッカーというと家族全員で行く習慣なのだが、六枚続きのチケットを取ることが難しくなってきた。 もう最近は、コネに頼って入手するしか無い状態だ。 このような、熱狂的なWestern Sydney Wanderers人気を引き起こしたのは全て小野伸二選手である。 サッカーは一人だけ優秀でも、絶対に勝てない。 と、同時に一人天才が入っただけで、チームの動きががらりと変わる。 ParamattaのWestern Sydney Wanderersという田舎チームが、小野伸二という世界的な天才プレイアーを得て、チーム全体が1段どころでは無く、5段も10段も成長した。 小野伸二がいると、チーム全体の動きがまとまるのだ。 これは全く不思議で、小野伸二選手がいないと、Western Sydney Wanderersは、みんなで何をしているのか、何をして良いのか分からない状態になる。 小野伸二選手がいなくなるとチーム全体を統率する要となる選手が、Western Sydney Wanderersにはいなくなる。 今年で、小野伸二選手の契約は切れて、小野伸二選手は、コンサドーレ札幌に移籍してしまう。 小野伸二選手がいなくなった後、Western Sydney Wanderersはどうするのか、これは厳しい話で、単にWestern Sydney Wanderersにとどまらず、オーストラリア全体のサッカー界に取って重大な問題である。 オーストラリアのサッカー協会、Football Federation Australiaにとっても、深刻な問題だろう。 もともと、オーストラリアではサッカーの人気は低かった。 オーストラリア人はとにかくマッチョマンが高く評価される風土で、 ラグビー、オーストラリア式フットボールに比べると、サッカーは肉体的にぶつかり合うことが少ないといって(これは、大いなる誤解なのだが)、サッカーは弱虫のするスポーツと言われてきた。 オーストラリア人が熱狂するのは、ラグビーが一番、ついで、オーストラリア式フットボールという、奇怪なルールのラグビーとサッカーの中間のゲームである。(クリケットも人気があるのだが、私は何度見てもあのゲームの何が面白いのか、さっぱり分からないので、言及しないことにする) 二つとも、体に力の余っている者同士が、如何にその力を無意味に発散するかを競うゲームであり、ラグビーに至っては日本の相撲取りのような体の大男たちが、ただぼこぼこぶつかり合って、押し合うだけの競技で、相撲の持つあのスリリングな技の掛け合いなど無く,ひたすら押しまくるだけの力比べなのでラグビーを見ると、そのあまりの単調さに腰が抜けるほど驚く。 そのオーストラリアのサッカー界に突然登場したのが天才小野伸二である。 小野伸二選手が所属したWestern Sydney Wanderersは全く勃発的にと言って良いほど、人気が発生し、多くのファンが集まった。 私はこの現象を前にして、如何に天才的なプレイアーが人の心を掴むのか理解した。 で、私はWestern Sydney Wanderersのファンになったわけだが、そのWestern Sydney Wanderersが川崎に戦いに来るとなっては、これは放っておく訳には行かない。 恐るべき事に、川崎フロンターレのメインスタジアムは工事中というといことで、正面スタンドが完全につぶれている。 チケットを発売直後に購入しようとしたのだが、まず、指定席が手に入らない。 仕方がないので、7時キックオフの試合なのに、5時半にスタジアムに到着して、良い席を選ぼうとした。 ああ、それでも遅かったんだよ。 正面の一番良い席は、どう言う訳か、タオルとか、何かビニールの包みとかで押さえられていて、近寄れない。 そんなに早くついたのに、向こう正面の向かって右のゴール近くの席しか取れない。 悔しいけれど仕方がない。 その席から見ると、RBBの席が左手ゴール奥に見える。 ところが、その席に殆ど人がいないのである。 しばらく、待っていたが、試合が始まるというのにRBBの席に人がいない。 私は、これではならじ、と思ったね。 一緒に来ていた次女に交渉させて、どうせ自由席なので、RBBの場所に移って良いと会場係員に許可を得たので、Western Sydney Wanderersのサポーター席に、移動した。 だって、Western Sydney Wanderersの選手達が試合をするのに、何時ものような応援がなかったら力がそがれるではないか。 少なくとも、私達一家で、応援してやらなければならないと使命感に燃えたのだ。 ところが、キックオフの十分前くらいに、突然聞き慣れたやかましいというか吠え声が会場に鳴り響いた。 「来たかっ」と思ってみていると、RBBの一聯隊がWestern Sydney Wanderersの横断幕を掲げて入場して来るではないか。 それ以前に、私の連れ合いは、「RBBの連中はバスを仕立てて来るはずだ。そのうちに、バスが到着すれれば連中は現れるわよ」と言っていたのだが、その通りになった。 私は、何時ものWestern Sydney Wanderersの試合を応援しに行くときとの興奮が呼び覚まされて、ぐわーっと良い気分になった。 RBBの人間は体が大きい、声が大きい。 体は容量で言うと日本人の1・5倍はあるが、声の大きさは3倍以上である。 私は、Western Sydney WanderersのホームであるParamatta競技場に行くときには、必ず、耳栓を持って行く。耳栓をはめないと、連中と観客の騒ぎで頭が痛くなるのだ。 RBBもうるさいが、観客もRBBに合わせて騒ぐ。 耳栓無しでは、頭がおかしくなる。それくらい、連中は騒ぐ。 とにかく、オーストラリア人の声の大きさと来たら世界的に悪名がとどろいている。 その日、等々力陸上競技場に来たRBBは100人ほどだろう。 それでも、うるさかった。 それに対してフロンターレのサポーター3000人以上いたと思うのだが、耳栓が必要なほどの騒ぎはなかった。 私は、RBBの途方もなくうるさいWestern Sydney Wanderersに対する応援の歌声を聞いていて、なんだか、とても幸せな気持ちになった。 小野伸二選手が退団したら、Western Sydney Wanderersともお別れだなと思っていたのだか、RBBの連中を見ていると、「よし、次のシーズンも、Western Sydney Wanderersを応援しに行こう」と思ってしまった。 試合は、ご存じの通り、フロンターレが2対1で勝った。 後半、私達がいる、Western Sydney Wanderersの側に全然ボールが運ばれなかった。 私達は目の前で、小野伸二選手のコーナーキックが見られると期待していたのだがそれどころではなかった。 私達は、遠く、反対側のサイドで展開される試合を見ているだけだった。 もともと、Western Sydney Wanderersのディフェンスはひどくて、シドニーの新聞でも「高校生のディフェンス」と酷評されるくらいで、フロンターレ戦でもあのままで2点ですんだのが奇跡と言うくらいで、5、6点取られても仕方のない戦いだった。 今回のような、リーグ戦のチャンピオンシップを争うゲームは国籍に関係しないので、とても楽しかった。 私はWestern Sydney Wanderersのファンであって、ワールドカップで日本を応援する自分とは別人なのだ。 で、今回考えたのだが、国籍別のワールドカップはそろそろ止めた方が良いと思う。 おかしなナショナリズムがサッカーという素晴らしいゲームにつきまとうのは我々の叡智で断ち切って、ワールドカップもチーム単位のゲームに持って行くべきだと私は考える。 ナショナルチームなどと言う考えは、くだらない。 もともと、サッカーというのは、殺した相手の頭を都市国家である相手の陣営に蹴り込むことから始まったと言われるくらいに、地域性の強いゲームである。 こう言う性格をのこすか、地球人全体が楽しめるゲームにするか。 21世紀のサッカーは、もっと、アンチ・ナショナルな、インターナショナルな形にしたい物だと思う。 サッカーのような素晴らしいゲームをナショナリズムで汚してはいけない。 今回、フロンターレを敵にし、Western Sydney Wanderersのユニフォームを着ながら観戦して、心から、サッカーをインターナショナルにするべきだという思いが突き上げてきた。
- 2014/04/01 - フロンターレのサポーターの皆さん、許して下さい4月1日は、Western Sydney Wanderersの応援に、川崎フロンターレの根拠地、等々力陸上競技場に行くのだ。 チケットが早々と売り切れてしまい、一般席しか手に入らなかった。 その一般席で、Western Sydney Wanderersのユニフォームを着て、Western Sydney Wanderersの応援をするのだから、これは度胸がいる。 実は、これには訳があって、Western Sydney Wanderersには2年前から、小野伸二選手が加入して、それまでサッカーの人気が今一だったシドニー、ひいてはオーストラリア中のサッカー人気を一気にもり立ててくれたのだ。 以前にも、このページで紹介したが、小野選手のオーストラリアでの人気は絶大で、小野選手は、この6月で、日本に引き揚げるというのに、小野選手の所属しているWestern Sydney Wanderersがある、Paramatta市から、小野選手にその功をたたえるメダルが授与された。 その、Western Sydney Wanderersが、アジア・チャンピオンズリーグ戦に出場することになり、既に、川崎フロンターレとは、オーストラリアで闘いWestern Sydney Wanderersが勝っている。 今度は、川崎フロンターレのホームでの試合となる訳だ。 私の家族は、小野選手がWestern Sydney Wanderersに加入して以来、Western Sydney Wanderersのホームでの試合に良く出かけている。 私の家から、Western Sydney Wanderersのホームの競技場まで50分以上かかるのだが、いつも家族で最低5人で、カツサンドを弁当に持って行って、ゲームを楽しむ。(カツサンドは、勝つ、ためのサンドイッチと、げんを担いでいるのだ) 地域的に言えば、本当は私達は、Sydney FCを応援しなければならないのだが、私達のお目当ては小野選手なので、越境的にWestern Sydney Wanderersを応援しにSydneyではなく、Paramatta市まで出かけている訳だ。 その、Western Sydney Wanderersが、小野選手のおかげで良い成績を収めたので、アジア・チャンピオンズリーグに出場できることになった。 じつは、そのために、試合のスケジュールが過密になり、選手たちにとっては有り難いが同時に困ったことであって、4日ごとに試合という状態が続いている。 私が日本にいる間に、Western Sydney Wanderersは負け続けてしまい、オーストラリア・リーグで最初は1位だったのが、現在5位に落ちてしまった。 その、Western Sydney Wanderersが日本に来て、川崎フロンターレと闘うとあっては、応援に行かざるを得ないでは無いか。 ああ、何という恐ろしい日になるのであろうと考えるだけで、震えが走る。 私は、フロンターレのサポーターの真ん中で、Western Sydney Wanderersのユニフォームを着て、Western Sydney Wanderersを応援するのだ。 フロンターレのサポーターの皆さん、許して下さい。 これも、小野伸二選手を応援するためなのだから。
- 2014/03/21 - 琴欧洲 有り難う今日、琴欧洲が引退した。実に残念だ。大関に昇進した時には、すぐにでも横綱になると信じて疑わなかった。体の柔らかさ、力強さ、体が大きいのににもかかわらず器用で俊敏な体の使い方。絶対に大横綱になると信じた。ああ、ところが、大関になってすぐに膝に大けがを負ってしまった。全くなんと言うことだ。年に六場所もあっては膝の治療も十分出来ないうちに出場しなければならない。あのとき、半年休んで治療に専念できれば、今頃は大横綱になっていたと私は信じて疑わない。あのような過酷な競技、(土俵から70センチ下まで転がり落ちるなんて、これは、自分の身の上に考えてみれば、ありうることではない)しかし、今までの、名力士たちは皆、その過酷な状況を乗り越えてきたのだから仕方が無いとはいえ、あの過酷な土俵のせいで、あたら優秀な人材を失ったことは数え切れない。私は、相撲の歴史の連続性から見て、今の土俵の形を変えることは意味が無いと思う。しかし、本場所の土俵の上でのけがの治療についてはもっと十分な期間を与えるべきでは無いか。それが、長い目で見れば、惜しい力士を失わずにすみ、大相撲の繁栄につながることだと私は信じる。琴欧洲だって、あと半年治療に専念することが出来たら、と考えると残念でたまらない。私は、相撲協会に、けがをした力士の治療期間を延ばすことをお願いしたい。今のままでは、せっかく優秀な力士が一つのけがで一生を棒に振るという例が多すぎると思うのだ。 それにしても、琴欧洲、有り難う。土俵の上で、あれほど花のある力士は、琴欧洲以後出ていない。相撲協会に残ると聞いて、うれしい。相撲協会では、負傷力士に対する相撲協会の対応を変えるように親方として努力してもらいたい。とにかく、琴欧洲、お疲れ様。今までの努力、我々相撲愛好家を喜ばせてくれたことに心から感謝します。良くやった、有り難う。
- 2014/03/03 - 自発的隷従論最近、目の覚めるような素晴らしい本に出会った。 「自発的隷従論」という。 エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ(Etienne de la Boétie)著、 (山上浩嗣訳 西谷修監修 ちくま学芸文庫 2013年刊)。 ラ・ボエシは1530年に生まれ、1563年に亡くなった。 ラ・ボエシは33歳になる前に亡くなったが、この、「自発的隷従論」(原題: Discours de la servitude volontaire)を書いたのは、18才の時だという。 あの有名な、モンテーニュは ラ・ボエシの親友であり、ラ・ボエシ著作集をまとめた。 今から、450年前に18才の青年に書かれたこの文章が今も多くの人の心を打つ。 この論が、「人が支配し、人が支配される仕組み」を原理的に解いたからである。 「自発的隷従論」はこの「ちくま学芸文庫」版ではわずか72頁しかない短い物だが、その内容は正に原理であって、その意味の深さは限りない。 それは、ニュートンの運動方程式 「力は、質量とそれに加えられた加速度の積である。F=am」 は短いがその意味は深いのと同じだ。 ラ・ボエシの「自発的隷従論」の肝となる文章を、同書の中から幾つか挙げる。 読者諸姉諸兄のためではなく、私自身が理解しやすいように、平仮名で書かれている部分が、返って読みづらいので、その部分を漢字にしたり、語句を変更している物もある(文意に関わるような事は一切していない)。 同書訳文をその読みたい方のために、私の紹介した言葉が載っている、同書のページ数を記しておく。 本来は、きちんと同書を読んだ方が良いので、私はできるだけ多くの方に、同書を読んで頂きたいと思う。 私がこの頁で書いていることは、同書を多くの人達に知って頂くための呼び水である。 私は自分のこの頁が、同書を多くの人達にたいして紹介する役に立てれば嬉しいと思っている。 A「私は、これほど多くの人、村、町、そして国が、しばしばただ一人の圧制者を耐え忍ぶなどということがありうるのはどうしてなのか、それを理解したいのである。その圧制者の力は人々が自分からその圧制者に与えている力に他ならないのであり、その圧制者が人々を害することが出来るのは、みながそれを好んで耐え忍んでいるからに他ならない。その圧制者に反抗するよりも苦しめられることを望まないかぎり、その圧制者は人々にいかなる悪をなすこともできないだろう。(P011)」 B「これは一体どう言うことだろうか。これを何と呼ぶべきか。何たる不幸、何たる悪徳、いやむしろ、何たる不幸な悪徳か。無限の数の人々が、服従ではなく隷従するのを、統治されているのではなく圧制のもとに置かれているのを、目にするとは!(P013)」 C「仮に、二人が、三人が、あるいは四人が、一人を相手にして勝てなかったとして、それはおかしなことだが、まだ有りうることだろう。その場合は、気概が足りなかったからだと言うことができる。だが、百人が、千人が、一人の圧制者のなすがまま、じっと我慢しているような時、それは、彼らがその者の圧制に反抗する勇気がないのではなく、圧制に反抗することを望んでいないからだと言えまいか(P014)」 D「そもそも、自然によって、いかなる悪徳にも超えることのできない何らかの限界が定められている。二人の者が一人を恐れることはあろうし、十人集ってもそういうことがあるうる。だが、百万の人間、千の町の住民が、一人の人間から身を守らないような場合、それは臆病とは言えない。そんな極端な臆病など決してありえない。(P015)」 E「これは(支配者に人々が隷従していること)、どれほど異様な悪徳だろうか。臆病と呼ばれるにも値せず、それふさわしい卑しい名がみあたらない悪徳、自然がそんなものを作った覚えはないと言い、ことばが名づけるのを拒むような悪徳とは。(P015)」 F「そんなふうにあなた方を支配しているその敵には、目が二つ、腕は二本、体は一つしかない。数かぎりない町のなかで、もっとも弱々しい者が持つものと全く変わらない。その敵が持つ特権はと言えば、自分を滅ぼすことができるように、あなた方自身が彼に授けたものにほかならないのだ。あたがたを監視するに足る多くの目を、あなたが与えないかぎり、敵はどこから得ることができただろうか。あなた方を打ち据えるあまたの手を、あなた方から奪わねば、彼はどのようにして得たのか。あなた方が住む町を踏みにじる足が、あなた方のものでないとすれば、敵はどこから得たのだろうか。敵があなた方におよぼす権力は、あなた方による以外、いかにして手に入れられるというのか。あなた方が共謀せぬかぎり、いかにして敵は、あえてあなた方を打ちのめそうとするだろうか。あなた方が、自分からものを奪い去る盗人をかくまわなければ、自分を殺す者の共犯者とならなければ、自分自身を裏切る者とならなければ、敵はいったいなにができるというのか(P022)」 ここまでの、ラ・ボエシの言う事を要約すると、 「支配・被支配の関係は、支配者側からの一方的な物ではなく、支配される側が支配されることを望んでいて、支配者に、自分たちを支配する力を進んで与えているからだ」 と言う事になる。 「支配されたがっている」 とでも言い換えようか。 それが、ラ・ボエシの言う「自発的隷従」である。 支配される側からの支配者に対する共犯者的な協力、支配される側からの自分自身を裏切る協力がなければ、支配者は人々を支配できない。 このラ・ボエシの言葉は、日本の社会の状況をそのまま語っているように、私には思える。 ラ・ボエシの「自発的隷従論」は支配、被支配の関係を原理的に解き明かした物だから、支配、被支配の関係が成立している所には全て応用が利く。 「自発的隷従論」の中では、支配者を「一者」としているが、ラ・ボエシが説いているのは支配、被支配の原理であって、支配者が一人であろうと、複数であろうと、御神輿を担ぐ集団であろうと、他の国を支配しようとする一つの国であろうと、「支配する者」と「支配される者」との関係は同じである。そこには、ラ・ボエシの言う「自発的隷従」が常に存在する。 日本の社会はこの「自発的隷従」で埋め尽くされている。 というより、日本の社会は「自発的隷従」で組立てられている。 日本人の殆どはこの「自発的隷従」を他人事と思っているのではないか。 他人事とは飛んでもない。自分のことなのだ。 大半の日本人がもはや自分でそうと気づかぬくらいに「自発的隷従」の鎖につながれているのだ。 読者諸姉諸兄よ、あなた方は、私の言葉に怒りを発するだろうか。 火に油を注ぐつもりはないが、怒りを発するとしたら、それはあなた方に自分自身の真の姿を見つめる勇気がないからだ、と敢えて私は申し上げる。 上に上げた、ラ・ボエシの言葉を、自分の社会的なあり方と引き比べて、読んで頂きたい。 まず日本の社会に独特な「上下関係」について考えてみよう。 大学の運動部・体育会を表わす表現に「4年神様、3年貴族、2年平民、1年奴隷」というものがある。 1年生は、道具の手入れ、部室、合宿所掃除、先輩たちの運動着の洗濯、など上級生・先輩たちの奴隷のように働かされる。 2年生になると、やはり上級生たちに仕えなければならないが、辛い労働は1年生にさせることが出来る。 3年生になると、最早労働はしない。4年生のご機嫌だけ取って、あとは2年生、1年生に威張っていればよい。 4年生になると、1年生は奴隷労働で尽くさせる、2年生は必要なときに適当に使える。3年生は自分たちにへつらい、こびを売るから可愛がってやり、ときに下級生がたるんでいるから締めろと命令して、3年生が2年生、2年生が1年生をしごくのを見て楽しむ。 これは、有名私立大学の体育会に属する学生、体育会のOB何人もから聞いた話だから確かである。 こんな運動部に絶えず新入生が加入する。 彼らは人伝えに、上下関係の厳しさを知っていて、新入りの1年生がどんな目に遭うか知っていて、それでも体育会・運動部に入ってくる。 そして、入部早々新入生歓迎会という乱暴なしごきを受ける。 毎年春になると、上級生に強要されて無茶苦茶な量の酒を飲まされて急性アルコール中毒で死ぬ学生の話が報道される。 そのしごきが厭になって止める学生もいる。 だが、運動部が廃部になることは滅多にない。 入部する新入生が減ったとか、いなくなったとか言う話も滅多に聞かない。 OBや上級生は「我が部、何十年の伝統」などと、自慢する。 この場合の自慢は、自己満足の表明である。 下級生は何故上級生の支配を日常的に受けて我慢しているのか。 そう尋ねると、例えば、野球なら野球をしたいから部に入っている。部を止めたら野球ができなくなる。だから、上級生のしごきも我慢しなければならない、と答えるだろう。 本当だろうか。しごきがなければ、野球部は出来ない物だろうか。 野球の発祥の地アメリカの大学や高校の野球チームで、日本のように上級生の下級生にたいするしごきがあったら、しごいた上級生は直ちにチームから追放されるだろう。 何故、野球をしたいがために殴られたり、無意味どころでは無く、腰に非常に有害ななウサギ跳びなどをされられるのを甘んじて受け入れるのか。 運動部のOBは卒業してからも、現役の学生の選手たちに威張っている。また、そのOBの中でも卒業年次ごとに上下関係がある。 一旦運動部に入ると、死ぬまでその上下関係に縛られる。 彼らは、支配被支配の関係が好きなのだ。支配される事が好きだから、「仕方がない」などと言って、先輩の暴力を耐えるのである。 いつも支配されつづけていると、例えば日本の野球部の新入生は上級生からの暴力が絶えたら、自分でどう動いて良いか分からなくなるのではないか。 何故、運動部・体育会について、長々と書いたかというと、この、運動部・体育会の奇怪で残忍な組織は、日本の社会だから存在する物であり、日本の社会の構造そのものを、そこに作り出していて、日本社会のひな形だと思うからだ。 日本の運動部・体育会は後輩の先輩たちに対する自発的隷従によって成立している。日本の社会がまさにそうである。 日本の会社、官僚の世界も同じである。 日本の会社に一旦入るとその日から先輩社員に従わなければならない。 それが、仕事の上だけでなく、会社の外に出ても同じである。 居酒屋や焼き肉屋で、どこかの会社の集団なのだろう、先輩社員はふんぞり返って、乱暴な口をきき、後輩社員はさながら従者のように先輩社員の顔色をうかがう、などと言う光景は私自身何度も見てきた。 「会社の外に出てまでか」と私はその様な光景を見る度に、食事がまずくなる思いをした。 高級官僚(国家公務員上級試験に合格して官僚になった人間。国家公務員上級試験に合格しないと、官僚の世界では、出世できないことになっている)の世界はまたこれが、奇々怪々で、入庁年次で先輩後輩の関係は死ぬまで続く。 その年次による上下関係を保つ為なのだろう、財務省などでは同期入庁の誰かが、官僚機構の頂上である「次官」に就任すると、同期入庁の者達は一斉に役所を辞めて、関係会社・法人に天下りする。 さらに、恐ろしいことだが、先輩が決めた法律を改正することは、先輩を否定することになるので出来ないという。 なにが正しいかを決めるのは、真実ではなく、先輩後輩の上下関係である。 だから、日本では、どんなに現状に合わないおかしな法律でも改正するのは難しい。 会社員の世界も、官僚の世界も、先輩に隷従しなければ生きて行けない。 自ら会社員、官僚になる道を選んだ人間は自発的に隷従するのである。 日本の選挙は、民主主義的な物ではない。 企業、宗教団体、地方のボス、などが支配している。 例えば、企業によっては、係長や課長位の地位になると、上の方から「党費は会社が持つから自民党に入党してくれ」と言ってくることがある。 日本の会社社会では上司の言う事に叛くのは難しい。 特に、中間管理職程度に上がってしまうと、これから先の出世の事を考えざるを得なくなるから、なおのこと上からの命令に逆らえない。 言われた人間は、自民党に入党して、自分の家族の中で選挙権を持っている人間の名前も届ける。 選挙となると、自民党の候補の名前を知らされる。 自民党候補に家族も一緒に投票しろ、と言うわけである。 投票場では投票の秘密が守られているから、実際に投票する際に自民党以外の候補の名前を書いても良いのだが、日本の会社員にはそれが仲々出来ない。 態度からばれるのではないか、何か仕組みがあって他の候補者に投票したことは必ず掴まれるのではないか、と不安になる。 心配するくらいなら、決められたとおり投票しようと言うことになる。 地方に行くと、各地方ごとにボスがいる。 県会議員、市会議員、町会議員、がそれぞれその上の国会議員の派閥ごとに系列化されている。 中で、町会議員は一番小さな選挙区で活動している。 昔からその地域に住み着き、地域の住民に影響力のある人物である。 言わば、その地域のボス的存在である。 そう言う人は地域住民と日常的に接触し、住民一人一人の樣子も掴んでいる。 狭い生活範囲でお互いに顔見知りで、みんなの意向に反することをするのは良くないことだ。この地域の空気を乱すようなことをできない。みんなの空気に従おうと言う事になるのが、この日本の実情だ。 その空気は首相、大臣、国家議員、県会議員、市会議員、町会議員と順繰りに上から下に降りてきて、地域の住民を包み込む。 国会議員の選挙の場合にも、その町内のボスが自分の派閥の候補者の名前を公言する、あるいは直接、間接的にその候補者に投票するように地域の住民に伝える。 特に、地方の場合、地域のボスの力が強いから、投票場でもボスの目が光っている。投票場は秘密が守られているはずだから、ボスの指定した候補者以外の人間に投票しても良いのだが、地方では確実にそれがばれるという。 民主主義の世界で、国民にとって唯一自分の政治的要求を追求することの出来る選挙権さえ、日本では、地域のボス=権力者=支配者に、与えてしまう。自発的に隷従するのである。 もっとも、選挙に行かない人達も多い。政治に嫌気が差して政治に無関心になるのか(アパシーにおちいる)、投票したい候補者が見つからないこともある。 そして、選挙に行かない人が多いほど、ボスによる選挙支配が上手く行き保守党が勝利することになる。 かつて自民党の党首が、なるべく選挙に来ないでもらいたい、と言った。投票率が低いほど、ボスによる選挙支配が上手く行くのだ。 一体どうしてこう言うことになるのか。 ラ・ボエシは言う。 G「人々はしばしば、欺かれて自由を失うことがある。しかも、他人によりも、自分人にだまされる場合が多いのだ。(P034)」 H「信じられないことに、民衆は、隷従するやいなや、自由を余りにも突然に、あまりにも甚だしく忘却してしまうので、もはや再び目覚めてそれを取り戻すことができなくなってしまう。なにしろ、あたかも自由であるかのように、あまりにも自発的に隷従するので、見たところ彼らは、自由を失ったのではなく、隷従状態を勝ち得たのだ、とさえ言いたくなるほどである。(P034)」 I「確かに、人は先ず最初に、力によって強制されたり、打ち負かされたりして隷従する。だが、後に現れる人々は、悔いもなく隷従するし、先人たちが強制されてなしたことを、進んで行うようになる。そう言うわけで、軛(くびき)のもとに生まれ、隷従状態の元で発育し成長する者達は、もはや前を見ることもなく、生まれたままの状態で満足し、自分が見いだした物以外の善や権利を所有しようなどとは全く考えず、生まれた状態を自分にとって自然な物と考えるのである。(P035)」 J「よって、次のように言おう。人間に於いては、教育と習慣によって身に付くあらゆる事柄が自然と化すのであって、生来のものと言えば、元のままの本性が命じる僅かなことしかないのだ、と。(P043)」 K「したがって、自発的隷従の第一の原因は、習慣である。 だからこそ、どれほど手に負えないじゃじゃ馬も。始めは轡(くつわ)を噛んでいても、そのうちその轡を楽しむようになる。少し前までは鞍を乗せられたら暴れていたのに、今や馬具で身をかざり、鎧をかぶって大層得意げで、偉そうにしているのだ。(雁屋註:西洋の騎士が乗る馬の姿のことであろう)(044)」 L「先の人々(生まれながらにして首に軛を付けられている人々)は、自分たちはずっと隷従してきたし、父祖たちもまたその様に生きて来たという。彼らは、自分たちが悪を辛抱するように定められていると考えており、これまでの例によってその様に信じ込まされている。こうして彼らは、自らの手で、長い時間をかけて、自分たちに暴虐を働く者の支配を基礎づけているのである。(P044) これを読んで、思うことは、1945年の敗戦まで、日本人を支配していた天皇制である。 明治維新の頃の日本人は、福沢諭吉の言葉を借りると、 「我が国の人民は数百年の間、天子があるのを知らず、ただこれを口伝えで知っていただけである。維新の一挙で政治の体裁は数百年前の昔に復したといっても、皇室と人民の間に深い交情(相手に対する親しみの情)がある訳ではない。その天皇と人民の関係は政治上のものだけであり、(中略)新たに皇室を慕う至情をつくり、人民を真の赤子(せきし)のようにしようとしても、今の世の人心と文明が進んだ有り様では非常に難しいことで、殆ど不可能である。(『文明論の概略 第十章』福沢諭吉全集第四巻 一八八頁)」 実際に明治政府は、各県に「人民告諭」を出して、日本には天皇がいると言うことを、人々に教えなければならなかった。 例えば、奥羽人民告諭には 「天子様は、天照皇大神宮様の御子孫様にて、此世の始より日本の主にましまして・・・・・」 などと言っている。 この人民告諭は、天皇のことを一番知っているはずのお膝元の京都でも出された。 今の私達に比べて、当時の日本人は天皇に対する知識がゼロだったのである。 当然天皇を崇拝し、従うなどと言う意識は全くなかった。 象徴天皇制の現在でも、多くの人が天皇を崇拝しているが、明治の始めに、一般民衆が天皇を崇拝するなど、考えられなかった。 一体どうしてこんな違いが生まれたか。 1889年に明治政府が、「大日本帝国憲法」を決めて 「第1条大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス 第3条天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」 と天皇を絶対権力者とし、 1890年に教育勅語によって、 「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ 我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス(中略) 一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」 と命令されると、明治維新前に生まれ育ち、徳川幕府の権力の下に生きていた人達もラ・ボエシの言葉「G」、「H」の言う通りに、天皇の権力の支配を喜んで受け、その子供たち、孫たち、1945年の敗戦以前に生まれた人間は、ラ・ボエシの言葉、「I」、「J」、「K」の言うとおり、習慣として天皇制の軛につながれていたのである。 軍国時代になると、人々は天皇(と天皇を担ぐ政府)に自発的隷従をして、抵抗もせず勇んで兵士となり、死んで行ったのだ。 当時の新聞や雑誌、出版物を読むと寒々として、しまいに恐ろしくなる。 天皇に忠誠を誓う奴隷、自発的隷従者の言葉で満ちあふれているからである。 昭和天皇は敗戦後、戦犯として訴追されることを免れた。天皇服を着て白馬に乗って軍隊を閲兵した大元帥で、日本全軍を率いて敗戦前は具体的に戦争の指示まで出していたのに、突然白衣を着て顕微鏡をのぞく実直な科学者に変身し、実は平和を愛する人間だったいうあっけにとられるようなジョークがまかり通り、人間天皇、象徴天皇として、存在し続けたために、人々が天皇に自発的隷従をする習慣は簡単に消え去らなかった。 自民党の国会議員が「教育勅語を学校で教えるべきだ」などと言ったり、山本太郎議員が、園遊会で天皇に手紙を渡したことを、不敬だなどと騒ぐのも、その習慣がいまだに伝わっているからだろう。 日本の天皇制は、自発的隷従の典型である。 そして、天皇に自発的に隷従する習慣は、いまだに日本人の心理の底流に流れていて、その隷従の習慣を誇りに思う人が少なくないのである。 昭和天皇が亡くなったときの騒ぎは忘れられない。 繁華街の火は消え、祝い事はとりやめ、何事も「自粛、自粛」の言葉に押え付けられた。 テレビのバラエティー番組に、有名なテレビタレントが、なにを勘違いしたのか喪服を着て現れたのを見て私は心底驚いた。 あの時の日本社会を表現するなら、日本人の心理に植え付けられていたがとっくに黄泉の世界に送り込まれていたはずの「自発的隷従」の「習慣」が昭和天皇の死をきっかけに一気に黄泉の世界からこの地上に湧き出した、と言う事になるだろう。 私は天皇制から自由にならない限り、日本は、韓国、中国、台湾を始め、マレーシア、シンガポール、香港、などの東南アジアの国々と真の友好を結ぶことができないとおもう。 戦争責任の話になると、誰が命令したのかというと軍の責任になり、では軍の最高責任者は誰かというと天皇になる。 日本人は、天皇の責任を問うことは出来ない、と言うから、けっきょく末端の戦争責任も問えないことになる。 謝罪するとなると、天皇にまでその謝罪行為が及ぶ。だから、それがいやさに日本は、韓国や中国に謝罪できず、強弁してますます韓国や中国との関係を悪くする一方である。 もっとも現行憲法下天皇に政治的行為は出来ないから、日本の政治の最高責任者である総理大臣が、昭和天皇の分もきちんと謝罪をするべきである。 きちんとした謝罪をしない限り、韓国、中国との、全く不毛な争いはやまないだろう。責任は、百パーセント、日本にある。 日本の権力者たちは誰なのかはっきりしない。 アメリカなら、軍産複合体の指導者達、金融界の大物たち、宗教界の大物たちで有るとはっきり分かるが、日本の場合、我々一般の人間にははっきりしないから困る。 安倍首相は、その権力者たちの意に従って動いているだけだろう。 日本の、自発的隷従は根が深いのである。 では、この自発的隷従から自由になるためにはどうすれば良いか。 ラ・ボエシは書いている。 M「圧制者には、立ち向かう必要なく、打ち負かす必要もない。国民が隷従に合意しない限り、その者は自ら破滅するのだ。何かを奪う必要など無い。ただ何も与えなければよい。国民が自分たちのために何かをなすという手間も不要だ。ただ、自分のためにならないことをしないだけでよいのである。民衆自身が、抑圧されるがままになっているどころか、敢えて自らを抑圧させているのである。彼らは隷従を止めるだけで解放されるはずだ。(P018)」 N「それにしても、なんと言うことか、自由を得るためにはただそれを欲しさえすればよいのに、その意志があるだけでよいのに、世の中には、それでもなお高くつきすぎると考える国民が存在するとは。(P019)」 そうなのだ。 問題は次の二つだ。 「自分たちが隷従していることをしっかり自覚するか」 「自覚したとして、隷従を拒否する勇気を持てるか」 この二つにきちんと対処しなければ、日本はますます「自発的隷従」がはびこる、生き辛い国になるだろう。 ただ、ラ・ボエシの次の言葉は厳しい。 O「人間が自発的に隷従する理由の第一は、生まれつき隷従していて、しかも隷従するようにしつけられているからと言うことである。そして、この事からまた別の理由が導き出される。それは、圧制者の元で人々は臆病になりやすく、女々しくなりやすいと言うことだ(雁屋註:「臆病であることを女々しいと言うのは女性蔑視に繋がるが、ラ・ボエシの生きていた17世紀初頭という時代の制約を理解いただきたい」(P048)) P「自由が失われると、勇猛さも同時に失われるのはたしかなことだ。彼らは、まるで鎖につながれたように、全く無気力に、いやいや危険に向かうだけで、胸の内に自由への熱意が燃えたぎるのを感じることなど絶えてない。(P049)」 Q「そしてこの自由への熱意こそが、危険などものともせずに、仲間に看取られて立派に死ぬことで、名誉と栄光とを購い(あがない)たいとの願いを生じさせるのである。自由な者達は、誰もがみなに共通の善のために、そしてまた自分のために、互いに切磋琢磨し、しのぎを削る。そうして、みなで敗北の不幸や勝利の幸福を分かち持とうと願うのだ。ところが、隷従する者達は、戦う勇気のみならず、他のあらゆる事柄においても活力を喪失し、心は卑屈で無気力になってしまっているので、偉業を成し遂げることなどさらさら出来ない。圧制者共は事のことをよく知っており、自分のしもべたちがこのような習性を身につけているのを目にするや、彼らをますます惰弱にするための助力を惜しまないのである。(P49)」 確かに、隷従を拒否することは勇気がいる。 その日、その日の細かいこと一々について隷従がついて回るのが日本の社会だから、それを一々拒否するのは、辛い。時に面倒くさくなる。 だが、本気で隷従を拒否したいのなら、日常の細かい何気ないところに潜んでいる隷従をえぐり出さなければ駄目なのだ。 だが、そうするとどうなるか。 周りの隷従している人達に、まず攻撃されるのだ。 偏屈だと言われる、へそ曲がりだと言われる、自分勝手だと言われる、他の人が我慢しているのにどうしてあなただけ我慢できないのと言われる、変わり者だと言われる、ひねくれていると言われる、政治的に偏向していると言われる、あなたには出来るかも知れないが他の人は出来ないんだよ、自分だけがいい気になるな。 隷従を拒否しようとすると、まず隷従している人間から攻撃を受けるのだ。 (上に上げた言葉は、私が実際に色々な機会に言われた言葉である) 他方、隷従を要求している側から見れば、排除するか、痛めつけるか、どちらかを選択するだろう。 隷従を続けて生きて行くか、自由を求めるか、それは個人の意志の問題だ。 自由への熱意を失ってしまった人間にとっては、隷従が安楽なのだろうことは、今の日本の社会を見れば良く分かる。 最後に、ラ・ボエシの書いた美しい文章を、引き写す。じっくりと読んで頂きたい。 R「この自然という良母は、我々みなに地上を住みかとして与え、言わば同じ家に住まわせたのだし、みなの姿を同じ形に基づいて作ることで、いわば、一人一人が互いの姿を映し出し、相手の中に自分を認めることが出来るようにしてくれた。みなに声と言葉という大きな贈り物を授けることで、互いにもっとふれあい、兄弟のように親しみ合う様にし、自分の考えを互いに言明し合うことを通じて、意志が通い合うようにしてくれた。どうにかして、我々の協力と交流の結び目を強く締め付けようとしてくれた。我々が個々別々の存在であるよりも、みなで一つの存在であって欲しいという希望を、何かにつけて示してくれた、これらのことから、我々が自然の状態に於いて自由であることは疑えない。我々はみな仲間なのだから。そしてまた、みなを仲間とした自然が、誰かを隷従の地位に定めたなどと言う考えが、誰の頭の中にも生じてはならないのである(P027)」 最後に、この素晴らしい本を翻訳して下さった、山上浩嗣さんに心からお礼申し上げます。 16世紀初めのフランス語は大変に難しいようで、 それを苦労して翻訳して下さったご努力に敬意を表します。この本は、今の日本人に絶対必要な物だと思います。
- 2014/02/06 - Shock Doctrine(今回も、読者のご指摘で、二点、過ちを訂正しました。いつもに変わらぬ読者諸姉諸兄のご親切にお礼を申し上げます。どうも、誤植や勘違いなど、恥ずかしい事が続きますがお見捨てなきようお願いします。) Naomi Klein(ナオミ・クライン)の「Shock Doctrine」(ショック・ドクトリン)は2008年に出版されて評判が高く、世界的なベストセラーになった。 日本語にも翻訳されて、あちこちで取り上げられた。 6年前の本を、どうして今更取り上げるのかというと、今の日本の社会の状態がナオミ・クラインの言う「Shock Doctrine」に寄る政策が実際に行われているのではないかと、疑うからだ。 ナオミ・クラインは1970年生まれのカナダのジャーナリストである。 2000年に「No logo(Taking aim at the Brand Bullies)、日本語訳「ブランドなんか、いらない」(はまの出版社刊)」を出版し、これも世界的なベストセラーになった。 ナオミ・クラインの言う「Shock Doctrine」とは一口に言って、自然の大災害、戦争などの災害などが起こった時にそれまでの世界が破壊され、人々が呆然となっているその隙を突いて、それまでなら人々が受け入れがたいような、社会的・経済的変革を一気に行ってしまう、と言うことである。 その変革を行うのは、Corporate(企業)=Capitalist(資本・資本家)である。 企業に利益をもたらすような、社会的・経済的変革を、災害を利用して行ってしまうのである。 この、「disaster capitalism」(災害を、儲かる市場を作り出す好機として利用する資本主義)は、世界的に有名な経済学者で、ノーベル賞も受賞したMilton Friedman(ミルトン・フリードマン)の考えが元になっている。 《ここで、言い訳です。 ここで引用しているナオミ・クラインの文章は、私がPenguin Book版で読んだものを、私が理解しやすいように、意訳も交えて、日本語に変えた物です。 このナオミ・クラインの「ショック・ドクトリン」は日本語訳が出ていますが、私は、その「日本語訳版」を今の段階で手に入れることが出来ず、仕方が無くPenguine版をここに使うしか方法はありませんでした。私の場合、原文の逐語訳ではなく、自分の理解し得たように、内容を読み替えてもいます。意味は間違いなく掴んでいるつもりですが、私と逆に英語版が手に入りづらい方、逐語訳、あるいは権威のある翻訳書を読みたい方は、日本語翻訳本をお読み下さるようお願いします》 フリードマンの考え方の基本は、ナオミ・クラインが書いたように、「Laissez faire」(フランス語で、『するがままにさせる』という意味)、要するに、 「政府による企業に対する規制を全て取り除き、企業が自由に経済活動を行えるようにすれば、全ての経済活動が円滑に動き、結果的に、今より良い社会が出来る」 と言う考え方である。 フリードマンの考え方に寄れば、現在国が管轄している公的事業も全て、国の規制から自由になって、民営化することが必要である、と言うことになる。 (ミルトン・フリードマンについては、経済学の専門家が色々と難しいことを書いている。 私のように経済学をきちんと学んだこともない人間がフリードマンについて語ると、間違いだらけになる。 ここは、ナオミ・クラインの説くところのフリードマンをなぞることにする。これで、十分にミルトン・フリードマンの議論の本質は捉えられると思う。 ミルトン・フリードマンについて詳しく学びたい方はそれこそ山のように解説書などがあるので、そちらを参照して頂きたい) ミルトン・フリードマンのFree Market理論(自由市場理論)をかいつまんで言えば、次のようになる。 Free Market(自由な市場)は、完全な科学的なシステムである。 Free Market(自由な市場)の中で、個人は自分の利益と欲望に従って動けば、全体のためにも最大限の利益を創出する。 生態系が自律的に生存を調整するように、市場を自分自身の自律に、任せておけば,労働者が自分の作る商品を自分の賃銀で買えるような市場になるだろう。 豊かな雇用があり、無限の創造力があり、インフレーションはゼロという楽園になるだろう。 もし、インフレーションや失業の増大などと言うことが起こったとしたら、それは市場が完全な自由市場でなかった事によるものだ。 その市場の自由を妨害する物、市場のシステムを歪める物、それは、政府による企業に対する規制、である。 そのような大企業に対する規制を取り除けば、我々はその自由市場の中で、幸せになれると言うのがフリードマンの主張である。 フリードマンは次のように主張する。 1)最初に政府がするべき事は、企業が利益をあげるのに邪魔になる全ての規則や規制を取り除くことである。 2)つぎに、政府の持っている資産は全てその資産を用いてより多くの利益を作り出すことの出来る企業に売りはらうべきである。 (日本の郵政事業、鉄道事業、タバコと塩を売る専売公社のように) 3)政府はドラマティックに社会保障制度を切り捨てるべきである。 もう、ここまでで、心臓が口から飛び出してしまうような衝撃を受けた方達が多いと思うが、フリードマンは更に続ける。 気をしっかり持って読んで下さいよ。 4)税金は低い方が良い。それも、富める者貧しい者も、同じ率でかけること。 5)企業は自分の製品を世界中どこでも自由に売る事が出来ること。 6)全ての商品の値段は、労働賃金に至るまで、市場が決めること。 7)最低賃金制度は認められない。 8)更に、民有化について、フリードマンは、健康保険、郵便、教育、年金、さらには国立公園までもそれを用いて利益を上げて運営することの出来る企業に売り渡せと言っている。 ここで、気を失ってはいけてない。(私は、この文章を読んだ後立ち直るのに、ずいぶんの時間がかかったが) フリードマンは更に言う。 8)政府は地方の産業や地方の所有を保護してはいけない。 9)労働者と政府が公共の費用で、一生懸命何十年も掛けて作り上げ築いた資産を売れという。 フリードマンが売れと言っている資産は、長い年月を掛け公共の金を投資し、ノウハウをつぎ込み、結果として価値の有る物になった物である。 フリードマンは,このような共有財産は原則的に、民間に委譲するとしている。 要するに、フリードマンは純粋な資本主義で世界を覆うことが人類にとって一番良いことだと考えているのだ。 フリードマンの考えは、強者による身勝手な考え方であり、実際社会における人間の真の姿に対する考察を全く欠いている。 公共の福祉まで、利益を上げる物にする、となると、公共の福祉などと言うものはなくなってしまうではないか。 フリードマンの考えは、金持ち=資本家が自由勝手に振る舞って自分たちの財産を増やすのには都合が良いが、金には縁のない一般市民にとっては悪夢そのものだ。 このような、金持ち=資本家の身勝手な振る舞いを制限し、競争社会で後れを取った者達に対して救済策を立てて実行しようというのが、最近になって日本でも実現の数歩手前まで進んだ福祉国家と言う考え方だろう。 ナオミ・クラインは、言う。 フリードマンはいつも、経済学は科学である、とか数学を持出してきて胡麻化すが、フリードマンのヴイジョンは多国籍企業の利益と一致する。 多国籍企業は巨大な規制のない市場を 欲しているからである。 資本主義の初期の段階では、資本家たちは、北米、南米、アフリカ、インド、中国などを発見したと称して、その土地に乗り込み、その自然の産物をその土地の住民たちに、なんら見返りも与えず奪ってきた。 フリードマン一派が現在行っているのは,「福祉国家」「大きい政府」に対する闘いである。 この闘いは資本家にとって手っ取り早い利益を約束するものだが、今回は新しい土地を征服するのではなく、国自体を征服の最前線とする。 国のもつ公共財(教育、水道、医療など)を実際の価値より遙かに安い値段でオークションにかけようというのである。 いかにフリードマン一派でも、このような乱暴な政策は常時においては行えない。 そこで、「Disaster capitalism」(災害を、儲かる市場を作り出す好機として利用する資本主義)をフリードマンは考え出した。 一旦災害が起きたら、社会が災害のショックでうろたえている内にそれまでに練っておいた政策を一気に実行に移す。 社会が災害のショックから我を取り戻して、現状にまた戻ってしまうまでに、もう後戻りのできない、変更不可能な政策を実行してしまうのだ。 この大災害は、天災でも、人が引き起こした戦争などの災害でもよい。 こう言う乱暴な行為を日本では火事場泥棒と言って一番軽蔑される行為である。 ノーベル経済学賞を受けたミルトン・フリードマンは火事場泥棒の親玉なのである。 ナオミ・クラインが取り上げている自然災害は、 1)2005年にアメリカの、アラバマ州、ミシシッピ州、ルイジアナ州を襲った「ハリケーン・カトリーナ」 2)2004年に津波に襲われたスリランカ の例である。 1)「ハリケーン・カトリーナ」の場合、一番甚大な被害を受けたのはニューオーリンズであり、ハリケーンによる高波によって、町の八割が水没した。 ナオミ・クラインが取り上げているのは、ニューオーリンズの教育システムである。 災害以前にニューオーリンズには123の公立学校があった。 それが、避難していた貧しい地区の住民が帰還する前に、公立学校は123から4つに、私的に経営されるCharter Schoolが31になってしまった。 (Charter Schoolとは、我々日本人には馴染みのない言葉だ。 アメリカで1980年くらいから実験的に始められた学校経営のことで、ある達成目標を持ちCharterと言う特別認可を得た団体が経営する学校をCharter Schoolという。 公的な資金援助を受けて作られるが、団体によって運営される私立学校であり、授業料はかかる) 災害以前ニューオーリンズの教師たちは強力な教職員組合を持っていたが災害後、4700人の教師たちは解雇され、そのうちの若い教師たちはCharter schoolに再雇用されたが、給料は減らされ、しかも大多数の教師たちは再雇用されていない。 フリードマンのシンクタンクは「長年かかってもできなかった、ルイジアナ州の教育改革を 、ハリケーン・カトリーナは一日でやってのけた」と熱狂した。 公立学校の教師たちは、災害の被害者を救うための金が公立学校を再建するのではなく、私立学校を建てるのを見て、フリードマンの計画は「教育の横領だ」と言った。 2)スリランカの場合は、2004年の津波に美しい海岸線が襲われて、そのショックで土地の人が立ち直れないうちに、外国の大資本が入って来て、そこを国際的なリゾート地に変えてしまった。 何千人の漁師たちが、それまで自分たちが漁をして生活していた海岸に近寄ることができなくなったのである。 さて、今の日本の状況を考えてみると、日本は2011年の東北大震災のショックからまだ立ち直っていないのではないと私は見る。 あれから丸三年経とうとしているのに、立ち直ろうにも、立ち直れないのが日本の現実だろう。 現実に、四つの原発から毎日大量の放射性物質は放出され続けているし、汚染水もしょっちゅう漏れている。 その汚染は日本全土、全海水域に確実に広がっていて、東京と千葉の間の江戸川のウナギは基準値以上の放射線量を検出され、江戸川の天然ウナギは食べられなくなった。 東京都の金町浄水場近辺の線量も高い。 確実に汚染が広がって行く今の事態はひとびとを不安から少しも解放しない。それどころか、不安は更に深く広がって行く。 こんな危うい状況では、日本人は東北大震災のショックから冷めたくても冷めることが出来ない。 日本人は長く続くショック状態から立ち直れず、冷静な判断力を失っている。 福島以外の県の被災地の人から何度も聞いたが、「立ち直ろうとは思うんだよ、でもなあ、原発があれじゃあなあ」 被災地の人に限らず、一度でも福島の原発の実情を知ってしまった人の心の中には、放射能を吹き出し続ける福島第一原発の姿が居座り続けて、どうしたら未来に向けて溌剌とした希望を懐くことが出来るのか、誰に聴いても答えは返ってこない。 「忘れろ」「気にするな」「心配ないって」「政府を信用しろよ」「日本の技術は世界一なんだ」 返って来るのはそういう声ばかりだが、実はそのような言葉にはとっくに何度もだまされてきた。 日本人の心の中には、あの崩壊した福島第一原発の姿と、「東電」「政府」による、数々の虚偽の発表、ぺこぺこテレビに向かって頭を下げる「東電」「政府」の人々の姿が焼き付いていて、それが、人々の不安のもととなっている。 「いつ何が起こるか分からない、いや、かならず何かが起こるだろう」 この不安な精神状態は日本人がかつて経験したことがないものだ。 総崩れ状態で自滅した民主党政権から、棚からぼた餅状態で政権を手に入れた安部首相は、ショックから冷めることの出来ない国民相手に、それまでだったらとても不可能だった法律を成立させた。 これほどたちの悪い法律は海外にも例のない「特別秘密保護法」を成立させた。 靖国神社を公式参拝し、日本がはっきり右に向かって舵を取った事を世界に示した。 これで、韓国と中国の関係、さらにはアメリカとの関係も悪化した。 憲法96条を改正して、憲法改正自体をしやすくしようという。それは、9条を書き換えて、日本を戦前のように軍事力を周辺国家に振るう国にするためである。 起業に対する税金を減免する経済特区をいくつも作ると言う。 多国籍企業が日本で自由に経済活動が出来るようにするためである。 ホワイトカラー・エクゼンプションと言って、普通のサラリーマンに対する残業の規制などを取り除くという。 これが通れば、日本の会社は全てブラック企業になる。 消費税を10%から20%にまで上げる、と言う。 年金も減らし、国民の医療費負担を増やすという。 こう言うことをするぞ、と安部首相は公言している。 すべて、フリードマンの狙ったとおりの大企業がより大きい利益を得るための政策である。 靖国神社・憲法改正となると、フリードマン上を行くすごさだ。 しかし、国民の反応は鈍い。 読売新聞の調査では、調査対象者の60%が安倍晋三内閣を支持していると言う。 これほど、自分たちの生活を破壊することを公言している首相を支持するとは、どう言うことなのだろうか。 私は日本人の心の中に長く続く不安感が原因だと思う。 不安感の一つは、さっき書いた原発による不安、もう一つは経済的な不安である。 厚生労働省の2013年度の「国民生活の基礎調査」によれば、一世帯あたりの年間平均所得額は、1994年度の664万2千円を頂点として、2011年度には、548万二千円に下落している。 一世帯あたり120万円近くの減収は厳しい。(この統計は、富裕層も低所得者層も一緒なので、中間所得者層、低所得者層はもっと厳しいものがあるだろう。) この、経済的不安に加えて福島の原発事故である。 ナオミ・クラインの説く「ショック・ドクトリン」はハリケーンや戦争、クーデターなどの災害による「ショック」で人々がうろたえて判断力を失っている時に、大急ぎで常時では受け入れられない過激な政策を施す、と言うものだが、そのように、人々がうろたえ、判断力を失うのは、ハリケーンの災害や、戦争やクーデターなどによる短期的な一過的なショックだけではない、と私は思う。 日本人は、1994年から2011年までに、一世帯あたり120万円近くの収入減という経済的ショックに加えて、福島原発の事故で、自分たちの住む国土自体が危険にさらされると言うショックを受けた。 二つとも、ハリケーンによる災害のように一過的で短期的な物ではない。 じわじわ、長く、深く続く不安である。 この、長く深く続く不安は、ハリケーンなどの災害による「ショック」より、人の心を強く押しひしぐ。 フリードマンは、そのような災害などの「ショック」が起きたら、人の心が通常の状態に戻らないうちに、大急ぎで過激な政策を実行しろ、と言ったが、要するにフリードマンが必要としたのは、人々がうろたえて判断力を失っている状況であって、普通ならすぐに人は日常の意識に戻る。 しかし、日本のばあいフリードマン一派は慌てる必要はない。 長引く不況に加えて福島の原発事故で、日本人の心はうろたえ、いまだに正常な判断力を失っている。 「ナオミ・クライン」の「ショック・ドクトリン」で取り上げた「ショック」の例の一つに、現在の日本を私は付け加えたい。 長く続く「ショック」はあるのである。 「ナオミ・クライン」は、ニューオーリンズやスリランカのように単純な経済政策だけでなく、チリのアジェンデ政権の転覆、インドネシアのスハルトのクーデターなど、政治政策にも「ショック・ドクトリン」が有効であることを語っている。 安部首相はアジェンデを倒した,ピノシェ、あるいは、インドネシアのスハルトのような政策を、長いショック状態にある日本人に対してやすやすとやってのけられるだろう。 日本人はいつこの「ショック」状態から抜け出して、まともな判断力を取り戻せるのだろう。
- 2014/01/19 - 野生動物いつも不思議に思うのだが、野生動物の死骸という物を滅多にと言うより殆ど見たことがないことだ。 野生動物と言っても、テレビ番組などで見るアフリカやオーストラリアの広大な自然の中での話ではない。 自分の家の周りの小動物でも同じことだ。 私の家の周りには鳶が多数棲息していて、時に私の家の周りの上空を恐ろしいくらいの数の鳶が飛び回る。 葉山に何故かコロッケで有名になった肉屋があって、観光客なども買いに来る。観光客は買うと、そのまま歩きながら食べる。 そこを、鳶が襲って来る。音もなく飛んで来るから、人間は気づかない。風が吹いてきたような気がした瞬間、鳶がコロッケをさらって飛びさるのだ。 肉屋の前には「鳶に注意」という看板が出ている。 そんなに、私の家の近くには多数棲息して活躍しているのに、その鳶の死骸を見たことがない。 雀も、リスも、カラスも、普段その存在を私達に見せている動物たちの死骸という物は目にすることがない。 アフリカゾウもその死骸を人に見せることが無く、ゾウの墓場という物があって、象は死ぬ時期をさとると、自分でその象の墓場に行って死ぬと言われている。 だれかが、その象の墓場を発見して、大量の象牙を手に入れたという話を何かで読んだような記憶がある。 それほど、野生の動物は、死んだ姿を見せない。 他の動物が食べてしまうからだという人がいるが、それなら骨くらい残っているはずだろうに、その骨すら見かけない。 不思議なことだ。 家畜はそうではない。自分で飼っていた猫や犬に死なれてその後始末をした経験のある人は大勢いるだろう。 家畜は人に飼われていて、生活の全てを人に頼っているから仕方がないのだ。 それにしても、犬でさえ野生を持っている。 どんなに弱っても、弱った姿を見せない。 もっとも、私の家のラブラドールの場合17歳過ぎまで生きたので(ラブラドールの平均寿命は12才程度とされている)、最後は自力で階段上り下りが出来ず、娘が抱えて階段を上り下りしていた。 オーストラリアでは、歳を取った犬や猫が体の自由がきかなくなると、もうこれ以上生かして置いては返って残酷だとして、安楽死をさせる。 獣医をしている次女によると、オーストラリアの飼い犬、飼い猫の場合殆ど全てが安楽死をさせるという。 自分の犬の面倒を見たいばかりに獣医になるくらいの動物好きの次女にとって、その仕事が獣医として一番厭だという。 そのラブラドールでさえ、安楽死させる前にステーキを与えたら、200グラム以上あるステーキをぺろりと食べた。 オーストラリアの野生の犬ディンゴとジャーマンセパードの混血の犬は、突然食べなくなったので、いつも大食らいの犬なのに、おかしいと思って次女の務める動物病院に連れて行って検査をしたら、肝臓がんで、あと数日の命だという。 それでも、その犬はその日まで、元気そうで物も食べるし、いきなりあと数日の命と言われたときには本当に驚いた。 犬でさえ、最後まで弱みを見せないのである。 家畜でない野生の動物が、自分の死骸を見せないのは当然と言うことなのか。 私は今までに自分の体調について、愚痴っぽいことを散々言ってきたが、野生動物が自分の死骸を見せないことの不思議さを考えているうちに、生と死を平然と渡っていく彼らの潔さに、改めて深く思いを致した。 私は彼らの潔さを見習おうと心に決めた。 今後私は自分の心身の具合の悪さは連れ合いと医者以外には語らない。 最後まで人に弱みを見せずに生きて行こう。 だから、突然私が死んでも、驚かないでね。
- 2014/01/12 - 何をするべきか二〇一三年はひどい年だった。 個人的に言うなら、二千十一年五月以来続けて来た東北大地震の被災地の取材、福島の取材が一段落し、福島についての原稿を書き上げたことは大収穫だったが、七月の末に右のすねの骨を複雑骨折してしまい、それが未だに完治せず、日常の生活も不自由だし、取材などの活動もろくに出来ない。第一痛くてたまらない。 体が自由にならないと、気が滅入る。 何をする気にもならない。 このブログもすっかりご無沙汰してしまった。 気が滅入るのは、体の調子のせいばかりではない。 安倍晋三氏は就任してから一年近く経ち、軽薄なマスコミがアベノミクスなどと、後先のことを何も考えず囃し立てるので、すっかり自信を付けたらしく、とうとう本性を現して、かねてから腹の中で企んでいた計画を実行に移し始めた。 それにしても、全く、今回ばかりは油断をしていたと言うほかはない。というより、安倍首相の手際の見事さに、まさか、まさか、とまさにでくのぼう状態で目を白黒しているうちに、相手の手が上がり試合終了のゴングが鳴っていた。 「特定秘密保護法案」は時間を掛けて広範囲に議論する物だと思っていた。 それが、なんと言うこと、あっという間に衆議院を通過してしまった。 なんだ、これは。 自民党の作成した法案の中身を知った時、このような法律ができたら取り返しのつかないことになる、と寒気がした。 こんな法律を作ろうと思うこと安倍晋三氏の精神構造自体、飛んでもないことだが、国会にかける前に、国民広範囲に法案の内容を説明し、じっくり議論をするくらいの良識は幾ら何でもあるだろうと思っていた。 なんと私の考えの甘かったことか。 今回の、特定秘密保護法案の概要の発表が九月三日、国会提出が一〇月二五日。衆議院特別委員会で議論が始まったのが、一一月七日。そして、一一月二六日には衆議院で強行採決。 参議院の特別委員会で審議が始まったのは、一一月二八日。 そして、一二月五日に強行採決。 一二月一三日に公布、一年を超えない範囲内で、施行、と言う段取りになってしまった。 概要発表から、法案成立までわずか三ヶ月。まさに、あれよあれよという間のことだった。 国民がその中身を良く知る前に、この法律を作ってしまおうという、安部首相の(あるいは、安部首相の背後の一団)の企みは、物の見事に決まった。 こんな事が、白昼目の前で起こるとは、通り魔事件よりひどいことだ。 問題はその後だ。 それまで、たいして騒がなかった新聞がやっと、衆院で成立する数日前あたりから紙面で例えば朝日新聞は反対をし始めた。 そして、それから一週間ほどは何やら秘密保護法についての記事が出ていたが、年を越えて、今日は一月一二日、大手の新聞は特定秘密保護法案について、もう忘れてしまったようだ。 東京新聞が「特集・連載」で「特定秘密保護法案」を扱っているが、たいした「特集」ではない。共産党が「特定秘密保護法案」廃案の動きに出ていることを報道する程度だ。 「しんぶん赤旗」は志位委員長が「日本共産党が通常国会に特定秘密保護法案の廃止法案を出す」と言ったと伝えている。 全体として、国民全体の熱気をかき立てるような力がない。 ちょっとは騒いでみたからそれで義務は果たしたとでも言うのか、それとも、正月の餅がのどに引っかかって脳みそに血が回らなくなったのか。 この途方もない法律が制定されてしまったと言うのに、抵抗もせずのんびりゴルフでもしているんだろうか。 これは、以前に見た光景と同じだ。情けないことを言うようだが、一体何人の人が、2003年の「個人情報保護法」のことを憶えているだろうか。 二〇〇三年五月に参院本会議で可決・成立した個人情報保護法は 1)基本法則と民間の個人情報保護を定めた法。 2)行政機関の保有する個人情報の保護に関する法。 3)独立行政法人の保有する個人情報の保護に関する法。 4)情報公開・個人情報保護審査会設置法 5)行政機関の保有する個人情報保護法案などの施行に伴う、関係法律の整備などに関する法、 の5つである。 可決成立したのは二〇〇三年であるが、齋藤貴男氏の「『非国民』のすすめ」(筑摩書房刊)に成立前後の事情が記録されていて分かりやすい。 二〇〇一年に「月刊 現代」誌の一〇月号に氏が書いた「メディア規制としての個人情報保護法」という文章が前掲書の一九四ページから掲載されている。 それを読むと、二〇〇三年の成立までに「個人情報保護法」に対しては「日本民間放送連盟」「日本雑誌協会」「日本ペンクラブ」「日本弁護士協会」などが、反対、あるいは法案の見直しなどを要求していた。 結局二〇〇三年に「個人情報保護法」は成立してしまうが、この法案が浮上してから三年近くかかっており、その間に様々議論が行われた、などと言うことが分かる。 ところが、今回の、「特定秘密保護法案」は法案が提示されてから、成立制定されるまで、僅か三ヶ月である。 実に異常としか言いようがない。 この「個人情報保護法」が制定される裏には、二〇〇二年に施行された「改正住民基本台帳法」があった。 「改正住民基本台帳法」は、住民一人一人に住民票番号を割り当て、氏名、生年月日、性別、住所、国民健康保険や国民年金の被保険者としての資格、児童手当の受給資格などが記載され、住民税の課税、選挙人名簿の作成、学齢簿などを作るための基礎データとして使おうと言う物だ。 この「改正住民基本台帳法」は国・総務省が一括して取り扱う物で、「国民総背番号制」とも呼ばれ、個人が国によって全てを把握される事に他ならず、多くの反対があったが、IT時代に必要だと自民党・公明党が押し切り成立させた。 国民一人一人に番号をつけてしまう、と言うのが画期的だ。 国民を操作するのにこんな便利な物はないだろう。 私は自分の番号を見たことはないが、どうせついているのだろう。 こうなると本名などどうでも良くなる。 私の住民票番号が「への一六番」だとすると、役所なんかに行くと私の本名では無く「への一六番さん」などと呼ばれるのだろうか。 それで理論上は国としては便利でいい訳だ。 こうして「住民基本台帳法」が出来てしまうと、このようにして集めた個人情報が外に漏れる恐れがある。 今でも、「住民基本台帳」は第三者も閲覧できる。 しかし、それにはいちいち市役所なり区役所なりに出かけていって、特定の個人について閲覧願いを出さなければならない。 閲覧のためには、閲覧する理由を明確にしなければならず、その手続きに手間がかかる。一度に何人もの住民について閲覧するのは難しい。 しかし、「住民基本台帳」が電子化されると、コンピューターの操作一つで、一つの区、市などの単位で全ての住民の個人情報が漏れ出す恐れがある。 自民党政府は「その個人の情報を保護するための法律が必要だ」と言い出したのだ。 自分たちで、個人の情報を危うくしておいて、今度はそれを守るための法律が必要だという。 マッチ・ポンプと言う言葉がある。 自分で火をつけておいて、自分で火を消す。 自分で問題を起こしておいて、自分で解決してみせて、他人の賛辞や、利益を得る詐欺師のことである。 「住民基本台帳法」と、「個人情報保護法」を制定する政府の進め方は、まさにこのマッチ・ポンプであって、白昼公然たる詐欺である。 そもそも、我々にとっては全く迷惑な「住民基本台帳法」を作っておいて、今度はそれでは個人情報が漏れる恐れがあると言って「個人情報保護法」を作る。 悪質な法律を作っておいて、それを種にして、更に悪質な法律を作る。 私達は、実に立派な詐欺師集団・政府を持ち続けてきたのだ。 その「個人情報保護法」は、表向きは体裁良くできているが、その法律の真の目的は別の所にあった。 政治家、官僚、大企業の経営者、などの不正を調査しようとすると、「個人情報保護法」を持出して、調査を妨害する。 敢えて調査すると、民事裁判に持ち込まれる。 それを恐れて、「個人情報保護法」成立以来、新聞、マスコミ、ジャーナリストの腰が引けてしまって、政府高官、高級官僚、大企業の経営者などの不正を知っても、踏み込まない。 この「個人情報保護法」は、いわゆる権力を持つ人間にとって大変に都合の良い物なのである。 これが、日本のマスコミ、新聞・雑誌、ジャーナリストを弱体化するのに大いに力があった。 二〇〇四年に亡くなってしまったが、本多靖春というジャーナリストがいた。 読売新聞に入社し、社会部の記者として活躍した。 その後、独立して、ノン・フィクション・ライターの先駆けとして多くの意味のある仕事を残した。 本田靖春が活躍したのは戦後の一九六〇年以降であり、日本人が初めて掴んだ言論の自由を謳歌するジャーナリストの一員として本田靖春は力をふるった。 心の底には、「権威に逆らう荒ぶる魂」を本田靖春は持っていた。 本田靖春の名を一躍高めたのは、「黄色い血事件」だった。 一九六二年当時、日本の医療は大きな問題を抱えていた。 それは輸血である。 今からは信じられないが、献血と言う物が殆ど無く、手術などの時に使われる輸血用の血液は全て売血によるものだった。 普通の人が自分の血を売ろうとは思わない。 当時、血を売る人間は極めて貧しい人たちだった。 商業血液銀行、と呼ばれる買血業者が、東京の山谷、大阪の釜ヵ崎、などに採血所を設け、日雇い労働者や低所得者から血を買っていたのだ。商業血液銀行はそれを病院に売り、多大なもうけを得ていた。 その、まるで人の生き血をすするような残虐な血液銀行の最大手は、中国で細菌戦の実験や、様々な生体実験を行っていた731部隊の中枢にいた人間が経営していたのである。 (731部隊については、多くの研究書が発刊されているので、ぜひ読んでみてほしい。ちょっとあまりにひどい話で、日本人は中国でここまでひどいことをしたのか、と思うと顔が上がらなくなる。最近、731部隊のことはみんな嘘だ、とネットに書き散らす者が増えてきた。恥を知らない人間には何を言っても通じない物なのだと痛感している) 売血をするにしても、頻繁に採血をすると、骨髄の中で赤血球を作るのが間に合わなくなり、血の色が薄くなり黄色っぽくなる。赤血球も足りないので比重も小さくなる。 血液としても、質が悪い。 「黄色い血」とは、この薄くなった血のことを言う。 「黄色い血」になるまで血を売る人たちの健康は当然破壊される。 ある程度以下の比重の血液は採ってはいけないという基準はあったが、売る方は金が欲しいし、買血業者は売るための血が必要だ。 そこで、買血業者は「黄色い血」まで採決したのだ。 これだけでも、十分うんざりするくらい悲惨で、考えたくもないことだ。(つげ義春の弟に、矢張り漫画家の、つげ忠男がいる。つげ忠男の漫画は暗い題材のものが多く、つげ義春のように世間的な評価は得ていないが、私のように高く評価する愛好家も少なからずいる。その、つげ忠男の漫画の中で、売血をする男達の姿を描いた物がある。私はその漫画を読んで、余りの悲惨さに心が重くなった。つげ忠男は悲惨な話を淡々と描くので、その悲惨さが余計に心に響くのだ。) 「黄色い血」の悲惨さは血を売る人たちに留まらない。 買血業者の買った血は病院に回り、手術を受ける人が輸血を受ける。 ところがその血の中にC型肝炎のビールスが入っていることがあり、輸血を受けた人が後に肝炎を発症する。 最悪の場合は肝炎が進んでガンになる。 今でも年輩の人の中にC型肝炎からガンになった例が少なくない。 さらに、C型肝炎は、売血する人にも感染する。 と言うのは、当時の買血業者は、採血をする際に何人もの人間に同じ針を使い回した。 それで、C型肝炎ではない人も、C型肝炎の人に使った針を使って採血された結果、針からC型肝炎が感染したのだ。 本田靖春はこの「黄色い血」をなくして、輸血に使われる血は全て献血による物にするために「黄色い血」キャンペーンを展開した。 読売新聞の社会面を大きく使って、何日にもわたって、「黄色い血」の実態を暴き、献血の必要性を説いたのだ。 本田靖春は売・買血の実態を探るために、自身日雇い労働者の格好をして、東京の山谷のドヤ街の旅館に住み着き、売血をしている人たちに話を聞くだけでなく、自分自身買血業者の採血所に行き、実際に売血をしたのだ。 本田靖春の自分の体を張ったキャンペーンの効果は大きく、ついに買血業者が「日赤が集めた血で、使われずに廃棄される血を自分たちが譲り受けることが出来るなら」という条件で、買血を止めた。 (じつは、この後731部隊の幹部だった男の関わる買血業者が、この手に入れた廃棄血液にアメリカから買って来た血液を混ぜて作った血液製剤が、エイズ薬害を引き起こすのだが、これは、本論から外れるので省く) 本田靖春の遺著「我、拗ね者として生涯を閉ず」(講談社刊)は名著である。二〇〇五年二月二一日初版第1刷で、二〇〇五年三月二八日に既に第四刷となっている。 多くの人に読んで貰いたい本だ。 この本の三八四ページに氏は書いている。 「この際だから思い切っていってしまおう。私は、世のため人のためにいささかでも役に立ちたい、という気持ちから、新聞記者という職業を選んだ」 「この私にしたところで、照れるくらいの知恵は身につけている。でも、照れない。世のため人のためといった気風が、いまやこの日本では終息してしまいそうに思えてならないからである。」 この本多靖春氏の文章を読んで、若い人たちよ、何か感じて欲しい。 このような、まっすぐで、真っ当で、純粋で、真正な言葉を私は若い人達に、しっかり受け止めて欲しいのだ。 本田靖春の何が凄いと言って、氏は売血者の中に肝臓障害で死んだ人間のことを良く知っていながら、この記事を書くために自ら買血業者の採血所に行き、何度か実際に「売血」をしたことである。 氏は晩年、肝臓がんに冒されて苦しむことになるが、それは、針の使い回しによってC型肝炎に冒されたからなのだ。 それは、氏が、すべてこの記事を書くために自分の命を捧げた結果である。 氏は本当に自分の言葉に偽りなく「世のため人のため」に自分を犠牲にしたのだ。 で、ここまで本田靖春氏の文章を取り上げておいて、何を言いたいか。 それは、今新聞記者として働いている皆さん、ジャーナリストの皆さん、本田靖晴氏の志を受け継いで頂きたいということだ。 何のために新聞記者になったのか、何のためにジャーナリストになったのか。 その根本を問い直して頂きたいのだ。 もちろん、 「大新聞社の社員となれば、社会的に高く扱われる。高い社会的地位を保って、生涯安楽に暮らせる。」 「自分自身を社会に売り込むためにジャーナリストになったんだ、テレビにジャーナリストとして出演すれば、それで一生食べて行ける」 という人たちが大部分だろう。 私は、少ない機会とは言え、大新聞社、大テレビ放送局の人たちと何度か会ったことがある。 しかし、そのような人たちと深い意味のある会話を交わしたことがない。 その理由は、本田靖春氏の上掲の著書の五〇六ページに書かれた言葉を引用したい。 氏は、次のように書いている。 「私は正真正銘の日本人で、祖国を愛することにかけては人後に落ちないつもりだが、どうしても好きになれない国民性が日本人にはある。それは、自分の考えをはっきりいわないことである。 触らぬ神に祟り無し、はまだいい方で、物言えば唇寒し、とか、言わぬが花とか、長い物には巻かれろ、とかいった格言や諺が、そういう国民性を表しているように思う」 しかし、新聞記者やジャーナリストの道を選んだ人は、そうであっては困る。 言うべきことを、しっかり言ってもらいたい。 で、問題は、「特定秘密保護法案」である。 「住民基本台帳法」と「個人情報保護法」が提案され、国会にかけられたときに、大新聞社、大出版社、大テレビ放送局の良心的な部分は、かなり強く、その内容を国民に知らせ、危険性を知るように訴えかけた。 しかし、今回の「特定秘密保護法案」になったらどうだろう。 一般国民より、遙かに早い段階で「特定秘密保護法案」の内容を掴んでいたはずの、大新聞社、大雑誌社、大テレビ放送局は沈黙を守りっぱなし。 そして、成立となったら、その後二三日は大新聞社も批判的に取り上げたが、それは多分、自分自身の存在証明のための言辞であって、時間が過ぎればもはや、忘れてしまったのか、あるいは「世の中の態勢に従うのが知恵ある者の生き方なり」と言うことなのか、この数日「特定秘密保護法案」については、何も聞いたことがない、読んだことがない。 本当に全く、「住民基本台帳法」と「個人情報保護法」の時とそっくりだ。 その当時は、ちょっと反対してみせるが、決まってしまったとなると、大新聞社の大記者も、大雑誌の大編集者も、大テレビ放送局の大プロデューサーも、まるで去勢された羊みたいに、黙々と日常のえさを食べているだけ。 本田靖春氏は、上挙の著書の三六六ページに、次のように書いている。 これは、「黄色い血」のキャンペーンについて書かれているものである。 「もし、売(買)血と出会うのが一九六二年ではなく、二〇〇三年であったとしたら、私はキャンペーンに取り組むのをためらっていたかも知れない」 これを、読んで、私は「ひゃあっ!」とのけぞった。本多靖春は二千三年の段階で日本人をあきらめかけていたのか。 氏は、前の文章に続けて、次のように書いている。 「その点、六〇年代初頭には、宗教心とは異なるが、「情」というものがまだ残っていた。それは、階層が低い人たちの方に色濃くあって、彼らは涙もろいのである。社会面には『泣かせ物』というジャンルがあって、こいつを一本書くと、しばらくは寄金の処理に終われることになる」 この、最後の「寄金の処理に終われる」というところが凄い。 当時の日本人は、今より貧しかっただろうが、他人の不幸に多くの人が新聞社に寄金を寄せることが出来た。そこまで心が豊かだったのだ。 氏が、この文章を書いて一〇年以上経った。 二〇一四年の日本の姿を見なかったのは、氏にとって幸せだったのではないか。 全ては、我々にかかっている。 これから、「特定秘密保護法案」にどう対処するのか。 「住民基本台帳法」、「個人情報保護法」の時のように、最初はちょっと反対してみるが、すぐに「お国の言うとおり」素直に、従順に従うのか。 「特定秘密保護法案」は法案の内容がはっきりしない上に、運用が時の権力のしたいがままに任せられている。 「何が秘密なのか、それは秘密」、なんてとんでもないパズルの世界に我々放り込むような法律だ。 そのパズルのような法律があれば「お前は、秘密にふれたから逮捕する」と言うことが出来る。 「私は、どんな秘密にふれたんですか」とたずねたら、「それは、秘密だから言えない」 などと、言われてしまえば、おしまいだ。 気がついたら、牢獄に入っている、などと言うことも想像できる。 これは、途方もない法律なのだ。 それを、今の各新聞のように、一旦ちょっと批判して見せたからそれで責任を果たしたとして、知らぬ顔を決め込むのか。 その全ては我々が何をするべきかにかかっている。 このまま、手足、口も封じられて、生きながら死ぬ事を選ぶのか。 きちんと、人間として生きて行きたいのか。 それは、全部、これから我々が何をするべきか、それを真剣に考えることによる。 2014年は、本気で自分の生き方を考えなければならない年だ。 (前回、書いた物の中で、本多靖春氏の名前を誤っていることを、読者に指摘された。 このような読者の指摘は大変に有り難い。お礼を申し上げます。 ご指摘のとおり、靖春氏を、靖晴氏と誤って書いた部分を訂正しました。 私のこのブログを読んで頂いている読者諸姉諸兄の皆様に、この際まとめてお礼を申し上げます。 これからも、よろしく、お願いします)
- 2013/11/25 - 大当たりノルウェーという国には余り親しみがない。 なにか、北欧のえらく寒い国、と言う印象しか私にはなかった。 最近、コンピューター・オーディオに凝ってしまって、それもDSDファイルの再生に凝ってしまって、ネット上でDSDファイルを販売しているサイトを探し回っている。 (コンピューター・オーディオとは何か、DSDとは何か、などと言う質問にはこのページでは答えられない。えらく手間がかかるので、そういうことはそれ専門のブログを立ち上げている人が沢山いるので、そのような人々のブログを読んで理解してください。 もともと、音楽とオーディオに興味がない人とは、またいつかお会いしましょう) 良い音源を求めてネットをさ迷っている内に ノルウェーの「2L」という会社に出会った。 「2L」では DSDファイルをダウンロード販売している。 ある オーディオ雑誌の付録に、「2L」の音源がついて来た。 それを聞いて見ると、 熱意がこもっている、感心した。 しかも、ノルウェーの会社らしく、作曲家も演奏家も北欧出身者を選んで力を入れているようである。 その中に「パイプオルガンとハーモニカ」という組み合わせがあった。 パイプオルガンは管楽器、ハーモニカはリード楽器。 音の性質がまるで違う上に、第一寸法が違う。 パイプオルガンは一つのコンサートホールの壁面一つを占める。 ハーモニカは両手の間にすっぽり収まる。 音量もまるで違う。象の吠え声と、蝉の鳴き声の差くらいある。 しかし、その演奏を聴いて、私は引き込まれた。心の奥を貫かれた。 早速「2L」のホームページに行き、その演奏をダウンロードした。 アルバムの名は「harmOrgan」 写真はクリックすると大きくなります パイプオルガンの奏者はIver Kleive, ハーモニカ奏者は Sigmund Groven Grovenは世界的に有名で、ヨーロッパ、アメリカで演奏活動を繰り広げている。 日本でも、1995年と1999年にテレビ番組に出たそうである。(私は,知らなかった) KleiveとGrovenは30年もの間音楽的につきあいのある間柄だそうで、だから、このような素晴らしい演奏が出来たのだろう。 バイブオルガンとハーモニカの演奏をどのように録音したのか、疑問に思ったたが、その録音中の写真を見て納得いった。 演奏が行われたのは、ノルウェイのUranienborg 教会である。 オルガンを弾いている、Kleiveの横に、Grovenが立っている。 Grovenのために、マイクが立てられている。 パイプオルガン用のマイクは別に立っている。 マイクは二本だけのようである。写真だけからの素人判断だが、音の澄んだ樣子から多数のマイクを使ったとは思えない。 最近の若い人達が好む音楽はリズムと和音、しかも、電気的に合成された音。 そして大声の怒鳴り声で構成されている。 私の心にはとてもの事にしみこまない。私は古い人間なので、音楽はメロディー第一なのだ。 このKleiveとGrovenの演奏は、私の心に深く深くしみこんだ。 あまりに感動して頭が上がらなくなるような思いがする。 この中に収録されている、「Se,vi gar opp til Jerusalem」という曲がある。 正確にはこの「a」の頭に、ノルウェイ語のアクセント表記である「゜」がつく。 意味は「見よ、今私はイェルサレムにのぼる」と言うことのようである。 その意味からしてキリスト教の賛美歌である。 試しに、YouTubeで上に書いた言葉で検索してみると(アクセント記号はなくても構わない)幾つか、その曲を聞くことが出来る。 残念ながらKleiveとGrovenの演奏はないが、二人の演奏する音楽がどんな物なのか分かって貰えると思う。 「harmOrgan」に入っている曲は、この曲以外も全てが素晴らしい。 私は宗教は如何なるものであっても受け入れることが出来ない。 YouTubeのその曲の場面は、雪の降り積む田舎の木造の教会にいかにも善良そうな人達が、金髪で白い肌のキリスト像の前に集っている。(本当のキリストの姿は現在のパレスティナ人に似ているという) 彼らと同じ気持ちにはなれないが、この曲の素晴らしさは理解できる。 音楽の内容と信仰心は別物である。私はBachの「ロ短調ミサ曲」と、モーツアルトの「レクイエム」、そしてフォーレの「ミサ曲」の前には頭を垂れてしまう。 「2L」のホームページを見ると、同じ演奏をディスクでも売っている。 ダウンロードしたのに余計な出費だと思ったが注文して大当たり! Blue rayのディスクと、SACDとCDのハイブリッドディスクがついてくる。 これが驚いたことに、ダウンロードするより、3曲余計に入っている。 演奏も、曲の内容も、これほど満足したことは無い。 実は、ディスクを買って良かったのである。 ダウンロードした曲を入れておいたハードディスクが突然壊れた。バックアップを取っていなかったのは全く不覚だったが、ハードディスクが壊れるなど言うことはここ5、6年以上経験したことがなかったので油断をした。 そのハードディスクの容量は2TB。 これだけの音楽を失うとこたえますぜ。 どんなに安全だと思っても、大事な物の入っているハードディスクは必ずバックアップですね。 大当たりと大失敗が重なりました。 KleiveとGrovenのこの演奏に興味の有る方は、"2L"で検索してみて下さい。 DSDファイルのみでなく、PCMファイルも売っています。DSDのDACを持っていない方もこれなら聞くwwことが出来る。 心にしみこむ音楽を求めている方にはお勧めです。 (追記) 驚くべきことに YouTubeで、harmOrgan と引くと彼らの演奏が見られることを発見した。 しかし、この曲は、上にあげた、「Se,vi gar opp til Jerusalem」ではない。 この演奏をまず聴くことをおすすめする。
- 2013/11/20 - 内田樹氏の文章について前回、私は内田樹氏がAERAに書かれた文章について、いろいろ言ったが、あまりに驚愕したために、私の文章は感情的に過ぎて、内田先生に対して礼を失していた。 反省して、今回は、もう少し理性的に、内田樹氏のお書きになったことに疑問を呈してみたい。 氏は、 「その事実が天皇陛下の『語られざる政治的見識』への信頼性を基礎づけている」 「天皇陛下の政治的判断力への国民的信頼がここまで高まったことは戦後初めてである」 と書いている。 我々は、今までに「天皇のお言葉」と言うものを、時々聞かされてきた。 しかし、天皇の言葉は儀礼的・形式的なものである。 天皇の政治的見識がうかがわれるものとしては 1)「韓国とのゆかりを感じると言ったこと」 2)「憲法を守っていきたいと言ったこと」 3)「国旗・国歌は強制にならないようにするのが望ましい」 くらいの言葉ではないか。 しかし、上述の項目からは、「うかがわれる」だけで、天皇の政治的見識をはっきりと理解できるとは言いがたい。 政治的見識を天皇が語るのを我々は聞いたことがない。 そこで、氏は「語られざる」という言葉をつけたのだろうが、それが疑問なのである。 「語られざる政治的見識」をどうして信頼のしようがあると言うのだろうか。 ある一人の人間がいるとする。その人間は政治的見識について語らない。 語らないから、その人間の政治的見識は一体どんな物であるのか、誰も知らない。 知らないのに、その政治的見識に信頼する、と氏は言う。 知らない物を信頼するとは、理の通らないことではないか。 通らぬ理を通そうとしたら、その人間の政治的見識ではなく、その人間を丸ごと信頼するしかない。 政治的意見がどうであろうと、その人間を信頼するのだ。 「天皇の政治判断力」への国民的信頼が高まっている、と氏は書く。 「天皇の政治判断力」に至っては、どんな物なのか見当もつかない。 現憲法では、天皇の国事行為は13項目に限られていて、すべて儀礼的なことであり、しかも内閣の助言と承認のもとに行うのであって、 「天皇は国政に関する機能を有しない(第四条、第一項)」 から、天皇は国政についての政治判断力など示せるはずがないし、現に今までに示して見せたことはない。 示されたことのない政治判断力を、一体どうすれば信頼できるのか。 これも、その人間を丸ごと信頼するほかはない。 政治的見識がどうであろうと、政治的判断力がどんなものであろうと、その人間を丸ごと信頼してしまうという、非理性的な行為をするには、非理性的な心情が必要だろう。 その非理性的な心情を、私は天皇に対する恋闕の情、だと言ったのである。 「今国民の多くは天皇の『国政についての個人的意見』を知りたがっており、できることならそれが実現されることを願っている。」 氏のこの文章など、恋闕の情がなかったら書けない文章ではないか。 そもそも、天皇の「国政についての個人的意見」をどのようにして聞くのか。 1) 本人が直接会見を開いて国政についての政治的意見を述べるのか。 2) 誰か、代理の者に言わせるのか。 3) 文章として発表するのか。 2)と3)の場合は間違いなく本人の言葉かどうか確かめようがない。 1)の場合、確かに天皇自身が語っているとしても、それが天皇本人の意見かどうかはわからない。 周囲の人間の意見の影響は無視できないし、天皇を自分たちの意のもとに操ろうとする人間達によって強制された発言かもしれない。 このように、天皇自身の政治的意見を聞くことは、現在のような皇室のあり方からすると不可能である。 しかも、天皇の「国政についての個人的意見」を、「天皇の政治的判断力の信頼のもとに」聞く、ということは「天皇の国政についての個人的意見」をもとに国政を動かすことになるだろう。 さもなければ意見を聞く意味がない。 内田氏のように、ここまで熱っぽく、「天皇の個人的意見を聞きたい」と言っておいて、では、と天皇が乗り気になって個人的な意見を言ったとすると、それが気にいらなくても、「そうすか、んじゃ、またお願いしまーす」と言ってバイバイする訳にはいかないだろう。 一番の問題点は、天皇の国政についての個人的意見を聞いて、その方向に国政を動かす、となると、「勅語」を戴いて、政治をする、戦前の明治憲法下の天皇制社会と変わらなくなるではないか、と言うことだ。 明治以降、天皇の勅語というのは、時の政府、指導者たちが自分たちの言いたいことを天皇に言わせたり、自分たちのすることに権威付けをするために使った道具だった。 伊藤博文が、ドイツ人医師ベルツに明治天皇を示して操り人形のまねをして見せたことは有名な話だが、明治憲法下の支配者たちは自分たちの言いたいことを「勅語」として天皇に言わせていたのである。 現憲法下では天皇のそのような操り人形化を防ぐための仕組みを上記のように作っているのである。 それを、内田樹氏のように、「国政について天皇の個人的意見を知りたい」と言って本当にその通りになってしまったら、氏の言うように「公平無私」の人間など日本の権力構造の中にいる訳がないから、天皇自身がいかに善良な人間であっても、海千山千の連中にかかっては抵抗のしようがなく、あっという間に操り人形と化すだろう。 第一、天皇が、この厳しい国際状況の中で国を運営していくだけの政治的判断力を持っていると信じることは私にはできない。 「英邁なる君主、我らが天皇のお言葉を信じろ」と言うことなのだろうか。 それは、「恋闕の情」でもなければ出来ることではない。 原発再稼働、憲法壊変、多国籍企業の支配するコーポラティズムに日本を組込むためのTPP加入、政府に具合の悪い情報はすべて国民に見えなくする秘密保護法の策定、など、安倍政権になってからの日本は、自己破壊の急坂を転がり落ちている。 そのことに対して私は、強い憤懣と、深い絶望感を懐いている。 そのときだからこそ、私は内田樹氏の文章を期待して読んだのである。我々に進むべき道を指し示して下さるのではないかという期待を持って。 それが、「天皇の言葉」だったので、驚愕し、逆上し前回の文章になってしまったのである。 亡くなってしまわれたが、元東京大学教授の五十嵐顕氏は、亡くなる前に、 「日本の思想にもっとも欠けているものは、良心にしたがって立ち上がる抵抗の精神です」 と書残している。(安川寿之輔「福沢諭吉の教育論と女性論」高文研、P109) 五十嵐顕氏は、戦争中に南方軍幹部候補生徒区隊長として積極的に侵略戦争を担ったことを反省して、戦後は平和と民主主義の教育のために働いてきた人である。 私は、今この時の日本にあって必要なのは、五十嵐顕氏の言う 「良心にしたがって立ち上がる抵抗の精神」 だと思う。 私は内田樹氏に、その明晰な頭脳と強靱な精神力をもって、明快な論理を駆使して、今の日本に必要な「抵抗の精神」を説いていただきたいのである。(お門違いだとは思わない) その期待を持って、恐れ多くも内田樹先生に私は疑問を呈したのである。
- 2013/11/19 - 内田先生ご乱心、いや本心か私は内田樹氏を尊敬している。 今の日本の思想・言論界で,どんなことでもこれだけ明快な論理で解き明かしてくれる人は滅多にいない。 ヘドロに埋まってしまった今の日本の社会で、ヘドロに足を取られながら歩くのに,氏の意見は非常に頼りになる。 氏の著書も何冊か購入したが、裏切られたことは無い。 また、以前私がお世話になったことがある朝日新聞の竹信悦夫さんと高校の同級生だったと知って、勝手に親しみまで感じている。 日本で一番頼りになる知識人だと思っている。 しかし、それは、今年の11月までのこと。 その内田樹氏が、AERAの13年11月18日号に書いた、 「『直訴』行為にメディアが『例外性』を強調した意味」 という記事を読んで、驚いた。 その驚きも、生やさしい物では無く思わず「内田先生ご乱心!」と叫んでしまったくらいである。 そして、読めば読むほど気持ちが悪くなってきて、吐き気がした。 内田樹先生の思想の根底にはこんな考えというか心情が潜んでいたと悟って、私は、身動き取れない感じに陥った。 よく読めば、これは、一時のご乱心では無い。内田樹氏の本心なのだと言うことが分かる。 「内田先生、貴方もそうだったのですか」と言いたい。 もう、頼れる人はいないのか。 ことは、園遊会の際に山本太郎氏が天皇に手紙を手渡したことについてである。 「山本太郎参院議員が園遊会で天皇陛下に『直訴』した件では議員の非礼を咎める声のある一方で、『天皇の政治利用という点では、自民党に他人を批判する資格はない』と言う反論もある。どちらの言い分もそれぞれもっともだが,私は『誰も言っていないこと』に興味が有る。それは天皇陛下に直訴をしたのが1901年の田中正造以来だったという『例外性』をメディアが強調したことである。それは何を意味するのか。」 と氏の文章は始まっている。 ところが、私は7月末に右の脛の骨を複雑骨折してしまい、そのために大きな手術を一週間置いて2回受けたので、その時の強力な麻酔の影響がまだ残っていて頭が上手く働かないようで、氏の全文を読んでも「『例外性』をメディアが強調したことが何を意味するのか」分からないのである。 ただ、氏の以下の文章が、私の脳髄に鉄条網に使うバラ線のように絡みついていて苦しいのだ。 氏は書いている、 「あらゆる機会を政治的に利用して自己利益を増大させ、おのれの意思を実現しようとじたばたしている『公人』たちの中にあって、ただひとり、いかなる党派的立場にも偏することなく、三権の長にさえ望むべくもない『公平無私』を体現している人がいる。その事実が天皇陛下の『語られざる政治的見識』への信頼性を基礎づけている。天皇陛下の政治的判断力への国民的な信頼がここまで高まったことは戦後はじめてのことである。」 このような文章を内田樹先生のお書きになった物として読もうとは長い間内田樹先生の文章を拝読してきた私には予想も出来なかった。 「三権の長にさえ望むべくもない『公平無私』を体現している人がいる。」 とは何のことだろうか。 内田氏がここで取り上げている天皇の行為は、 1)9年前の園遊会で、米長邦夫東京都教育委員長が「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させる事が私の仕事で御座います」と言ったことに対して、「強制になるということでないことが望ましい」と答えたこと。 2)「沖縄の主権回復の日」の式典で安倍首相を始め出席していた人間が「天皇陛下万歳」を三唱したときに曖昧な笑顔を浮かべていたこと(これを、内田氏は当惑の表情と取った)。 3)今回、園遊会で山本太郎氏の差し出した封書を受けとったこと。 である。 この3項目から、どうすれば「三権の長にさえ望むべくもない『公平無私』を体現している」ことを読み取れるのだろうか。 他にも天皇が「公平無私」を体現するような事があったのかも知れないが、内田氏がこの文章で上げているのはこの3項目であり、文脈に従えばその3項目から天皇が「公平無私」を体現していることを読み取るしかない。 だが、この3項目をどういじっても、どう深読みしても、「公平無私」を体現している事を私は読み取れない。 これは、無理筋という物だろう。 次はもっと難しい。 「その事実が天皇陛下の『語られざる政治的見識』への信頼性を基礎づけている」 と来た。 その事実とは、「天皇が『公平無私』を体現している」であることにしよう。 で、次の「語られざる政治的見識」とは何か。 「語られざる」とは、天皇が語らなかったのか、或いは一般的に語られていないと言う事なのか。 なぜ、「語られるざる」なのか。 「政治的見識」とは何のことか。 そして「信頼性を基礎づける」とは何のことか。 「信頼性とは」だれが、何を信頼するのか。 このように、今回内田先生がAERAに書かれた文章は語句に分解して意味を理解しようとしても、理解するのが私には難しい。 だが、一本補助線を引くことで、するすると意味が分かる。 その補助線とは、ああ、口にするのもおぞましいので、それは後回しにする。 次はもっと、もっと難しい。 「天皇陛下の政治的判断力への国民的信頼がここまで高まったことは戦後初めてである」 これは、本当に難解極まる。 「天皇の政治的見識」が「天皇の政治的判断力」へと一気に次元を飛び越えてしまっている。 「政治的見識」と「政治的判断力」の間には、大きな跳躍がある。 「見識」までは、まだ安全だが、「判断力」となると、読む方の心臓がどきどきする。「判断力」は行動へ繋がるからだ。 「天皇陛下の政治的判断力への国民的信頼」とは何のことか。 この国民の中には私も入っているのかね。 私のような非国民ではなく、善良なる国民の事なんだろうが、私は今思い浮かべる友人・知人たち誰をとっても、そして彼らは全て温順・善良な国民であるが、「天皇陛下の政治的判断力への国民的信頼」という言葉を理解できないと確信する。 内田氏個人が、「天皇陛下の政治的判断力への信頼」を抱くのは構わないが、それをいきなり「国民的」と言われると、漫才の「こだま・ひかり」風に言えば、「往生しまっせ」。 普通の人間には理解できない言葉である。 政治的行動へと繋がる「天皇の政治的判断力」に国民の信頼感が高まる、と言うことは、国民が天皇に何か判断して貰ってそれに従って行動したがっているということなのか。 そんな恐ろしいことを氏は言いたいのだろうか。 これまで、私は内田氏のこの文章に対する疑問を書き連ねて来たが、氏のこの文章の最後の段落に、私の疑問に対する答えがあるようだ。 その文章は、以下の通りである。 「今国民の多くは天皇の『国政についての個人的意見』を知りたがっており、できることならそれが実現されることを願っている。それは自己利益よりも『国民の安寧』を優先的に配慮している『公人』が他に見当たらないからである。私たちはその事実をもっと厳粛に受け止めるべきだろう。」 こうして、氏の文章を書き写すだけで、私は体の奥底から吐き気というか、脊髄の中に強酸を注入されたらかくもあらんかという、死んだ方が良いようないやな気持ちがこみ上げてきて、正気を失いそうになる。 氏はこんなことを本気で書いているのだろうか。 国政についての個人的意見を天皇に聞いて、どうするのか。 「できることならそれが実現されることを願っている」という、「それが実現される」とは、天皇の意見を聞くことが実現されることであって、天皇の意見が実現されるという物ではあるまいな。いや、本当に天皇の意見を実現させたいと考えているのかも知れない。この辺の氏の文脈がいつもの氏に似合わず曖昧なのだ。 とにかく、天皇の意見を聞くだけでは意味が無い。ただ聞いて「はあ、はあ、そうでごぜえますか」と感心するだけでは,話は収まるまい。 聞くからにはその意見に従って国政を実現させようと動くのが順序という物だ。 突き詰めれば天皇の言葉通りに国政を進めようと言うことになる。 このような言葉は、以前に聞いたことがある。 2.2.6事件の青年将校たちが同じことを言っていた。 内田氏の言うことは、青年将校たちが希望した「天皇親裁」と同じではないか。 氏は、2.2.6事件の青年将校たちと同じように、天皇に対する恋闕の思いを強く抱いているようだ。 前に書いた、氏の文章を理解するための補助線とは、この、「天皇に対する恋闕の情」だと私は思う。 氏の書く文章は常に論旨は明快で、論理の筋道も通っているので読む度に「勉強をさせて頂いた」という感謝の念を抱く。 しかし、この、AEREAの文章は論理の筋道も見つけがたい難解な文章である。 二日酔でぐんにゃりしている蛸に胃の上に這い上がられたような気分になる。 そのいやな気分のいやな原因が分かった。 氏の天皇に対する恋闕の情である。 それを理解すると、氏がこのねっとりと濃度の高い非論理的な文章を書いた理由が分かる。 氏は、文章の最初から「天皇陛下」と書く。 天皇なしで、単独に「陛下」とも書く。 「陛下」とは、天皇の尊称である。 外国の王に対しても使う。 しかし、イギリスのエリザベス女王に「英国国王陛下」というのと、日本の天皇に「陛下」を付けるのとでは、意味が違うと私は思う。 その意味の違いを論じ始めると、長くなるので、今はここでとどめる。 一つだけ言っておくと、「天皇陛下」という言葉は、1945年に破綻した明治憲法下の天皇制下で最も熱く特別な意味を持って使われた言葉だということだ。 ましてや、天皇なしで「陛下」というのは、明治憲法下で天皇の臣下と自らを認めた人間の言葉である。 国政についての天皇の意見をききたい、などと言う言葉を2013年の時点で、私は自分の尊敬する内田樹先生の言葉として読もうとは夢にも思わなかった。 日本の戦後民主主義などろくな物では無かったということを、この内田樹氏の文章で私は思い知らされた。
- 2013/11/16 - 安倍寿司店の寿司ネタ13年11月21号のTIME誌に、 “The Mysterious Provider Of Sushi”と言うタイトルの記事が掲載されている。 その記事によると、”True World Food”と言う会社が、全米で、7,500件のレストランに「築地市場」並の魚を毎日配達しているという。 TIMEの編集部が全米70店の寿司屋に電話で問い合わせた所、そのうちの48店が、”True World Food”から魚を仕入れていると答えた。 実に70パーセント近くの寿司屋が”True World Food”から仕入れていると言うから、これは大変なものだ。 この記事でなぜ”Mysterious”と言う言葉を使ったか、それはこの会社が「統一教会」の運営になる物で、統一教会関係の組織が常にそうであるように、あちこちが隠蔽されていて、Mysteriousだからだ。 会社がどれくらい大きいのか分からない、その会社の社員には誰が経営者か分からないし、経営者が内部でなにをしているのかわからない。 分かっていることは、この会社“True World Food”が、”Unification Church”(統一教会)の下部組織であることだ。 “True World Food”の真の所有者は誰なのか、経営しているのは誰なのか分からない。 New Jerseyの本部に電話しても自動音声応答機は役に立たないし、New Yorkのオフィスにメッセージを送っても答えは来ない。 なぜ隠蔽する必要があるのだろう。 “Sushi Economy”という本を書いた、Sasha Issenbergは”彼らがどれだけの影響力を持っているか計算するのは難しいけれど、かれらはアメリカ全土で最も有力な業者だ”と言っている。 「統一教会」は最近その英語での名前を“Family Federation for World peace and Unification”(FFWPU)という新しい名前にした。 この寿司屋相手の魚卸業もその資金は、日本で稼ぐ霊感商法で強奪した金と、信者からのむちゃくちゃな献金による物だろう。 最近、統一教会と勝共連合の話が新聞などに載ることは殆ど無くなったが、彼らは相変わらず悪質な手段で金集めをしているようだ。 参議院の議員会館にも、勝共連合が出入りして議員達の間を回っているという。 今回自民党は「秘密保護法」を成立させようとしているが、これは、以前勝共連合が力を入れていた「スパイ防止法案」の焼き直しのような法案である。 なぜ統一教会の話を持ち出したかというと、安倍首相は祖父の代から統一教会と密接な関係を持っているからだ。 安倍首相だけでなく、他の政治家もかなりの数、統一教会と関わりがある。 日本最悪の犯罪集団である統一教会が日本人を騙して(洗脳して)大金を貢がせていることが五十年も前から続いているのに、時に「霊感商法摘発」などと言って小規模な取り締まりを受けるが本体には全く官憲の手が入らず、統一教会はますます日本人から多くの金をだまし取り力を付けている。 奇怪なことに、統一教会の教祖文鮮民は韓国人で、韓国が発祥の地であるのに、統一教会の莫大な収入の殆どは日本から集められているのだ。 統一教会がそんな勝手なことを続けてこられるのは、岸信介と、笹川良一という、有力者が協力したからである。 統一教会と日本の政治家、学者、マスコミ、との癒着は日本の社会に大きな害を及ぼしている。 勝共連合は統一教会の別の顔であり、両者は一心同体の組織である。 その勝共連合の機関誌「世界思想」の10月号の表紙は安倍首相である。 内容は、「「安倍政権の日本再生」として、改憲、防衛タブー打破、教育再生、などの項目が挙げられている。 最近の安倍首相の政策はことごとく勝共連合の思い通りのものである。 問題はアメリカの寿司店の寿司ネタより、自民・安倍寿司店の寿司ネタがやはり統一教会から供給される物なのかと言うことだ。 これから、何度かに渡って、安倍首相と統一教会、勝共連合の問題を取り上げていく。 統一教会という邪教の集団が、日本の若者達を洗脳し、人格を破壊し、大金を貢がせ、さらに、似非募金を行ったり、様々な商品の行商などに奴隷的に酷使する、という悪行を行うのを岸信介、笹川良一らは助けたのである。 岸信介の孫である安倍首相も自分の秘書の中に統一教会の信者を抱えている。 安倍首相は“True World Food”からの寿司ネタを楽しんでいるのではないか。(これ、しゃれですからね。) 1990年代までは、雑誌や新聞でも統一教会と勝共連合のことは良く取り上げていた。 最近、全然そのような報道がなされないので、統一教会、勝共連合は活動を止めたのかと思ったら大間違い。 ますます、悪質な活動を広げている。 どうやら、マスコミも既に、統一教会の毒まんじゅうを食べてしまって、統一教会の批判が出来なくなっているのでは無いだろうか。 これ以上若い人達が、あの邪教の毒牙にかからないように、心ある人は 立ち上がって貰いたい。 黙っていては危ないのだ。
- 2013/10/28 - 宣伝です「美味しんぼ」第110巻、「福島の真実編・上」はお読みいただけましたか。 各方面から好評を頂いていますが、もし貴方、まだ読んでいないのならすぐに本屋さんに注文して下さい。 自分で言うのも何ですが、福島の真実をかなり分かりやすく網羅的に取り上げています。 話の流れは、福島の真実を明らかにすることと、山岡と雄山の和解という二つの重要な主題を同時並行で進めています。 今回発刊された「福島の真実篇・上」はその前半で、来年完結編としての「福島の真実編・下」が出ます。 2011年11月から、2013年の5月末末まで福島に何度も通い、新聞やテレビの報道ではよく分からなかった点も、自分の目で見て、自分で調べました。 自分で言うのものなんですが、私はこの福島編に全力を尽くしました。 半分まで書き上げてあった「福沢諭吉」についての本も、中断し福島にかかり切りになりました。 2013年5月までの「福島の真実」のツボは押さえたと自負しています。 これから先福島はどうなるのかは第一原発次第という心細い状況にありますが、有り難いことに、漫画は寿命が長く、代を重ねて新しい読者に読み継がれていくので、2013年5月現在の実状はこれから先記録として役立つだろうという自負があります。 辛い真実ばかりで、漫画として楽しくないというご批判もあると思いますが、このような厳しいことを書いて後の若い人達に残せるのは漫画だけであると、漫画の力を信じて全身全霊を打ち込みました。 もう一つ、楽しい宣伝です。 朝日新聞社と読売新聞社が、「美味しんぼ」の「究極と至高の対決」を両紙の対決の形で行うことになりました。 URLは以下の通りです。 http://news.goo.ne.jp/topstories/entertainment/530/c2849cc25727934c8bb999dae77866e8.html?fr=RSS http://gigazine.net/news/20131012-real-oishinbo/ 一体どうなることやら、楽しいですね。 原作者としては中立の立場を守らなければならないので、一読者として、両者の対決を楽しみに拝見させていただきます。 日本全県味巡り同様に、郷土料理を題材にしている所が面白いと思います。 目を離さないで下さいね。
- 2013/10/08 - パリの日本人料理人いつもくらい話ばかりなので、たまには楽しいことも書いて欲しいという読者の方がいる。 確かに、ちょっとこのところはなしが暗すぎたな。 それは、日本という国が暗いから仕方が無いんだが、今回、楽しく美味しい話をしよう。 以下の文章は現在コンビニエンス・ストアで発売されている(もう、発売期間は過ぎたかも知れない)マイ・ファースト・ビッグの「美味しんぼ」「フランス料理篇」に書いたエッセイ「美味しんぼ塾」をこのブログ用に手直しした物である。 マイ・ファースト・ビッグの「美味しんぼ」は二週間くらいの限定発売でそれが過ぎると読むことは困難になる。 今回書いたことは多くの人に読んで貰いたいと思うので、この頁に転載する。 私は生まれつき食い意地が張っているので、「美味しんぼ」を書き始める以前から、日本だけでなく外国をも美味しい物を求めて歩き回った。フランスでもパリを始め、各地でいろいろと美味しいレストランを探して食べ歩いてきた。 一九八三年に「美味しんぼ」を書き始めてからも、ちょくちょくフランスに美味しい物を求めてやってきた。 パリのミシュランの三ツ星レストランもビストロもあちこちと探索して回って、素晴らしい体験を重ねてきた。 で、せっかくだから、パリやフランス各地で味わったフランス料理の話を「美味しんぼ」で書こうと思って、何度か試してみたが、フランスでの体験はどうしても書くことが出来ずに今日まで来た。あれだけいい思いをしたのだから、それを「美味しんぼ」に書けば面白い物が出来ると思ったのだが、どうしても筆が進まなかった。 それは、パリの三ツ星レストランと、日本の「美味しんぼ」の読者との間につながりが何もないことに気がついたからだ。 それまでに、多くの作家、評論家、随筆家が、フランスのレストランの話を書いていたし、フランスのレストランのガイドブックも多数出版されていた。そう言う物は、それでよいだろう。そう言う物を求める読者も少なくない。しかし、「美味しんぼ」となると話は別だ。「美味しんぼ」の場合、読者の生活にかかわる物でなければ、書く意味がないし、第一読者が受け入れてくれない。「美味しんぼ」の読者の大多数にとって、パリの三ツ星レストランの話など、何一つ実感がわいて来ず、感情移入が出来ないだろう。 それで、私は連載開始以来三十年の間、パリの三ツ星レストランの話を書かずに、いや、書けずに来た。 しかし、状況は大きく変わった。 世界の美食の町パリで二十年前には考えられないことが起こっていることを私は知った。 パリには世界に誇る素晴らしいレストランがいくつもあるが、ミシュランの星を取るような最高のレストランでは、いつの間にかその厨房に日本人の存在が欠かせない物になっていたのだ。日本人の料理人はまじめで熱心で感性が優れているので、一つのレストランが成功するためには今やいなくてはならないと言う。 私が初めてパリに美味を求めてきた千九百七十年代から、八十年代初めのパリでは想像もできないことだ。 日本人はパリのレストランのお客であるだけでなく、パリのレストランで重要な役割を果たす、いわば主役の地位に昇ってきているのだ。 これなら、今、パリのレストランの話を書いても「美味しんぼ」の読者は感情移入できるだろう。 ついに「美味しんぼ」にパリのレストランのことを書く事の出来る日が来たのだ。 こういう確信を私が抱くことが出来たのはつい最近のことである。 私は二千十三年の六月の末から七月上旬にかけて二週間ほどパリに滞在した。 きっかけはパリの日本文化会館で、北大路魯山人と日本の食文化について講演をしてもらいたいと言ってきたことである。 私は講演はよほど意義の有ると思える物しか引き受けない。講演をするための準備は大変で、そう言うことをすると本職の方に悪影響が出るので断ることになってしまう。 だが、フランス人相手に、北大路魯山人と日本の食文化について話すのは意義の有る事だし、私は二千六年以来パリに御無沙汰しているので、久しぶりにパリの美味しい物を食べ歩くのに良い機会になると思ったのだ。 パリには私の小学校の同学年の友人「ふ」さんがいる。「ふ」さんは四組、私は二組だった。「ふ」さんは私達の学年随一の美人でしかも知的だった。「ふ」さんは、現在はフランスでも有名な詩人と結婚してパリに住んでいる。 で、二千六年にもお願いしたが、今回も、パリの美味しいレストランの情報を「ふ」さんに、教えて貰うことにした。 今回有り難かったのは「ふ」さんが、美味しいレストランの情報だけでなく素晴らしい人を紹介してくれたことだ。 手島さんと言って、熊本出身の三十六歳。料理人を志し、十年以上フランスで修業して来たという。 手島さんは最近まで、あるレストランのシェフをつとめていたが、いよいよ自分の店を出す決心をした。現在店の物件探しをしていて比較的時間があるので、私をいろいろと案内をして下さる、というのだからこれは有り難い。 手島さんは、すでにパリの料理の世界にかなり食い込んでいるようで、パリでミシュランの三ツ星を取るレストランの多くがここから仕入れるという肉屋に連れて行ってくれたが、その店の経営者と親しいのだ。ワインの店にも連れて行って貰ったが、そこでも店の人間と良い関係を構築している。自分の店を開くための準備はしっかり出来ていると見た。 手島さんにはパリに留まらず郊外にまで、何軒も美味しい店に案内して頂いた。 その中で私が一番感心したのはPassage53と言う店だった。 Passage53のシェフは佐藤さん。シェフであるだけでなくフランス人との共同オーナーである。 出てきた料理を一口味わって、私は驚いた。 私はずいぶん長い間あちこち食べ歩いているが、料理人との出会いは最初の一口で決まる。素晴らしい本物の料理人の料理は最初の一口で食べる側、すなわち私から一本取るのである。二皿、三皿食べてようやくその味が分かる、と言うことはない。最初の一口が全てを語る。逆に、最初の一口が駄目だったら最後まで駄目だ。途中で一品くらい良い物があるかも知れないが、全体として良くなることはない。最も最初は良くて後は腰砕けと言うこともあるが、佐藤さんの場合、最初の一品のすごさは最後まで一貫していた。 佐藤さんの料理は全部お任せで、その日、デザートも入れて全部で十五品出た。 最初は、トウモロコシのスープ・カプチーノ仕立て。冷製、コーヒー入り。透明ではないガラスの小振りの器で出される。 トウモロコシは良く擂って漉してあるので大変になめらか。カプチーノ仕立てで、僅かにコーヒーが入っている。と言っても、コーヒーの味は露骨に感じない。一緒に行った長女は「最後に器からほのかにコーヒーに香りがした」と言ったが、そんな感じである。 このスープが実に鮮烈だった。あっさり軽い味だが中心を貫く芯があり、こくと旨みが舌だけではなく口の中の全ての感覚器官を快感でそよがせる。飲んだ後のすっきりとした幸福感は滅多に味わうことの出来ない物だ。これ一口で私は参った。 ページが足りないので佐藤さんの料理は一つしか紹介できない。他の料理も、この最初に味わった鮮烈な味わいを保った見事な物ばかりだった。 私は、今回、三ツ星レストランを二個所食べたが、その二つの三ツ星レストランより佐藤さんの料理の方が美味しかった。 佐藤さんは、北海道出身で、北海道のレストランを振り出しに料理の世界に入り、フランスに渡ってきて十数年、二千九年にフランス人と共同で現在の店を開いた。 開いて翌年にミシュランの星を一つ貰い、翌年に二つ星を貰った。ミシュランの星は味だけではなく店の環境雰囲気も加味されるので、もっと良い立地の場所に店を移せば三ツ星は間違いないと言われている。 佐藤さんは三十五歳。 手島さんは三十六歳。熊本出身で、十二年ほど前にフランスに来て、今年中には自分の店を開ける所まで来た。と書くと簡単なようだが、お二人のこれまでの苦労は大変な物だ。 一口に苦労と言ってしまうと話が軽くなる。お二人の話を聞くと、私の人生は甘い物だったと思ってしまう。佐藤さんも手島さんもフランスに来たときに、フランス語は一言もしゃべれなかったと言う。何をするのにも、言葉が不自由だと物事が進まない。口が利けないばかりに、知的に劣っていると思われる。馬鹿にされる。加えて現地の事情にも明るくない。自分より遙かに劣った人間にいいようにあしらわれ、得るべき報酬も得られない。それでもなおフランスのレストラン業で働き続けるには強靱な精神力が無ければ出来ない。 だが、二人とも苦労にめげずフランス料理にかける情熱を燃やし続けたからこそ、未来を切り開く事が出来た。しかも、この若さでだ。正に前途洋々。 手島さんがどんなレストランを作るか、期待に胸が弾む。 他にも優秀な日本人料理人を見つけた。 Vivant というビストロのオーナーシェフの「渥美(漢字は間違っているかも知れない)」さんと言う。Vivantの中は余り明るくないのでうっかりすると見逃すが、よく見るとアール・ヌーボー樣式で統一されていて、それも見ものだが、渥美さんの料理はそれ以上に見事だ。 渥美さんも若い。手島さんたちと変わらないだろう。 ビストロはミシュランの星を目ざすレストランとひと味違って、地場に密着した味わいを持つレストランだ。 ミシュランの星を狙うレストランはインターナショナルなところがあるが、ビストロはフランスの食文化により深く密着していると言える。外国人が挑戦するのには星狙いのレストランより難しい所があるのではないか。 今取り上げた三人の日本人料理人のすごさがよく分からないと言うなら、フランス人が京都で懐石料理を学んで京都に懐石料理の店を開く、あるいは、フランス人が東京で寿司を学んで銀座で寿司屋を開くことを考えてみれば分かる。 とてもあり得ないことではないだろうか。 日本人がパリでフランス料理を学んで、日本に帰って日本でフランス料理のレストランを開く。これが、今までの日本人料理人とフランス料理の形だった。 それが、手島さんたちはパリでフランス料理を学んでパリでフランス料理のレストランを開く。 時代が大きく変わった。 さらに、これは、フランス料理が世界中の人間に美味しいと思わせる普遍的な物であって、さらにちゃんとフランス料理の形であれば、国籍も人種も違う人間をも取り込むことの出来る非常に深いふところを持っていることを表す物だ。 とにかく、新しい世代の日本人料理人のすごさを理解して貰いたい。 佐藤さん、手島さん、渥美さんをはじめ、日本人料理人がパリで活躍する姿をこれから本格的に見ることが出来るのだ。これは是非「美味しんぼ」で書くべきでしょう、ねっ。
- 2013/10/03 - Open letter to the IOCOpen letter to the International Olympic Committee, (Revised) On September 7, the members of your Committee made a decision that Tokyo will host the 2020 Olympic Games. It is said that the speech given by the Japanese Prime Minister, Mr Shinzo Abe, played a critical role in your decision making process. In his speech, Mr Abe said,” Some may have concerns about Fukushima. Let me assure you, the situation is under control. It has never done and will never do any damage to Tokyo.” Everything Mr Abe told you regarding the safety of Fukushima Daiichi nuclear plant is nothing but a shameful lie. I will review them here one by one, and show you how malignant he and his lies are. 1) In response to questions raised, Mr Abe said: the contaminated radioactive water has been “completely blocked” within a 0.3 km^2 area in the harbour of Fukushima Daiichi plant. This is an absolute nonsense that even a 6 year old could see through. How could such a strange harbour, which can be “completely blocked” from the rest of the sea, exist? The following photo taken by Japan Ministry of Land, Infrastructure and Transport, clearly shows the absurdity of Mr Abe’s comment. ©Japan Ministry of Land, Infrastructure and Transport. The harbour, which Fukushima Daiichi nuclear plant faces, is open to the ocean. Just as any ship can come in and out of the harbour freely, so too can water, carrying contaminated water out into the ocean. Furthermore, 18 days prior to Mr Abe’s speech, on August 21 2013, Tokyo Electric Power Company (TEPCO) had made an announcement that is contradictory to Mr Abe’s notions; it is highly possible that highly radioactive water that had pooled in underground trenches of Units 2 and 3 following the accident on March 11 2011, has leaked directly out to sea. TEPCO estimates the amount of radioactive materials escaped to sea to be 1×10^13 becquerel (Bq) of strontium-90 and 2×10^13 Bq of caesium-137. This totals to 3×10^13 Bq. Marine emission standard for nuclear plants under normal operating condition is 2.2×10^11 Bq . Since March 2011, the amount of contaminated water that has flown into the ocean is 100 times greater than the standard, and the leakage is still continuing. 2)Mr Abe said: "Let me assure you, the situation is under control.” The facts indicate that the situation is anything but ‘under control’. a) On September 24 2012, TEPCO announced the hourly emission of radioactive matter to be 1×10^7 Bq, equivalent to 2.4×10^8 Bq per day. This emission continues to date – a situation one can hardly say is ‘under control’. b) By the end of August 2013, TEPCO has placed approximately 1000 tanks to store the highly contaminated water on site at Fukushima Daiichi. These tanks (each containing 1000 L) are simply made by rolling up stainless steel plates into a cylinder and fixed by bolts rather than being properly welded. The manager of the manufacturer of the tanks has commented as such: ”TEPCO only gave us a limited budget, so we have had to make each tank in a short period time, minimising cost of the production. Those tanks are not designed for long-term storage.” (August 25 2013, Mainichi Shimbun) In fact the durability of the tanks are estimated to be 3 years at most. They are temporary and makeshift ‘solution’ to a long-term problem. On August 20 2013, TEPCO admitted that 300 t of contaminated water had leaked from one of the tanks releasing 2.4×10^13 Bq of radioactive material (1 L of contaminated water contains 8×10^7 Bq). According to Mr Hiroaki Koide of Kyoto University, this is almost the same quantity of radioactive material released by the US atomic bomb that was detonated over Hiroshima in 1945. This means that each of the storage tanks contain more than 3 times the amount of radioactive material than one Hiroshima-class atomic bomb. Those tanks are fragile, and the ground of the Fukushima Daiichi site is geologically unstable. And the tanks are placed on the ground without any solid foundation. Large-scale earthquakes, or typhoons may easily topple those tanks. If even a few of these tanks become damaged and released their contents, nobody will be able to enter the site of Fukushima Daiichi. Consequently, the essential cooling down operations of the nuclear reactors will cease, leaving all reactors to become uncontrolled. The result will be a catastrophe - not only for Japan, but also for the whole world. I am not exaggerating, I am simply anticipating. My anticipation is all based on available information and the reality of the situation. The number of these tanks will continue to increase. TEPCO needs to keep pouring seawater to cool the nuclear reactor, contaminating the water in the process. As the wastewater treatment plant has been damaged and is non-operational, a new tank is required every 2 and a half days to store the contaminated cooling water. By no stretch of the imagination could one say the situation is “under control”. 3) Mr Abe said: Fukushima Daiichi “has never done and will never do any damage to Tokyo”. a) Edo River is a river of Tokyo (Edo means Tokyo), which forms the border of Tokyo and Chiba prefectures. It is an important river supplying drinking water to Tokyo as well as to neighbouring Chiba. Disturbing changes are happening in this river. Analyses of Edo River carried out by the Ministry of Environment between September and November 2012 found that 1 kg of sediment from the riverbed contained greater than 100 Bq of radioactive material. The highest reading was from Urayasu Bridge area, with 2050 Bq/kg (sum total of radioactive iodine-131, caesium-134 and 137). Urayasu Bridge is mere 10 km away from the water purification plant in Kanamachi where water is drawn from Edo River. Following their findings, Ministry of Environment explained “the water is drawn from the top of the stream and water itself shields the radiation from the riverbed sediments, hence there should be no influence”. But would this not change if the riverbed were stirred by heavy rains or typhoons? b) On September 7 2013, the very day Mr Abe claimed that Tokyo would not be damaged by the release of radioactive materials, Chiba prefecture announced that an eel caught in Edo River contained radioactive dose of 140 Bq/kg. In light of this, Chiba prefecture called on three Fisheries Cooperatives to withhold their catch from the market. Eel from Edo River is highly valued by food lovers of Tokyo. It is a deplorable situation. When the river of Tokyo, Edo River is already in such a condition, how could one say “It has never done and will never do any damage to Tokyo”. c) It is not just the waterway that is affected. In Edogawa council, which is the eastern part of Tokyo, many places record air radiation levels greater than 0.2 μSv/h (micro sievert/hour) and many in excess of 0.3 μSv/h. Especially around Kanamachi water purification plant, air radiation level exceeds 0.45 μSv/h. (http://www.radioisotope.jp/map/) Safety standard set by ICRP(International Commission on Radiological Protection)is 0.23 μSv/h or 1 mSv/y. Mr Abe’s comment is completely untrue – Tokyo is already damaged. 4) Mr Abe said: Fukushima “poses no problem whatsoever, the contamination was limited to a small area and had been completely blocked”. a) A picture is worth a thousand words. Below is “The map of contamination” by Professor Yukio Hayakawa of Gunma University. ©Yukio Hayakawa http://kipuka.blog70.fc2.com The contamination was NOT limited to a small area, but it has spread wide and far. The map shows air radiation level in Tokyo was 0.125 μSv/h in September 2011. Before the accident of Fukushima Daiichi, the level in Tokyo was only around 0.02 μSv/h. Tokyo is contaminated. b) There is a report in which you the members of IOC would be interested. This report was compiled by a group of citizens who measured air radiation levels at proposed Olympic Game sites. (http://olympicsokuteikai.web.fc2.com/ Available also in English and French) According to their report, at Yumeno-Shima Stadium, the proposed equestrian site, the air radiation level was 0.48 μSv/h - more than 4 times bigger the safety standard set by ICRP .(ICRP safety standard set by ICRP is 1mSv/y、or 0.114μSv/h.) In addition, proposed sites for handball, cycling and weight lifting all recorded 0.15 μSv/h. This hourly rate exceeds the cumulative annual safety standard of 1 mSv/y set by ICRP, you cannot call Tokyo to be contamination free. 5) Mr Abe said: "there are no health-related problems until now, nor will there be in the future…I make the statement to you in the most emphatic and unequivocal way." a) The coast of Fukushima is one of the richest seas, with marine products that are both plentiful and of high quality. Many sought their livelihood from the fishing industry in the region. This all changed after the Fukushima Daiichi accident. With fish in the region now contaminated by radioactive material, the Fisheries Agency imposed a voluntary restraint on all Fisheries Cooperatives. As a matter of fact fishing is now prohibited in Fukushima. (http://www.jfa.maff.go.jp/j/koho/saigai/pdf/130311_torikumigyanjyou_jp.pdf) b) Fukushima is also a major producer of rice in Japan. In 2011, after the nuclear plant accident, radioactive contamination was found in rice from some areas of Fukushima. Since then, consumers have stayed away from Fukushima rice. After the Fukushima accident, the government prohibited growing rice in 7300 ha of rice fields within 20 km radius of Fukushima Daiichi nuclear plant. (Before the accident, they grew rice in 80 000 ha of rice fields.) This year the government permitted growing rice in 2000 ha of rice fields in the once prohibited areas. However only 10% of those rice fields were actually used. This fear and hesitation among the consumers to buy agricultural products from Fukushima is not restricted to rice but extends to all products including organically farmed produce and dairy products. What good is organically grown foods if they are contaminated by radiation? Fishermen, farmers and anyone involved in those industries are facing a crisis. Their industries are paralysed and their livelihoods have been taken away. Their plight has been brought about by the sheer fact that foods contaminated by radioactive materials are hazardous to health. This indeed is a health-related problem. Conclusion; There is no truth in Mr Abe’s speech made at the IOC General Assembly – it is nothing but a lie. On September 8 2013, “Asahi Shimbun and Wire Reports” reported; IOC members said Abe's answers were crucial and helped dispel any doubts. "People wanted to hear it and needed to hear it," Canadian member Dick Pound said. "And he delivered on that. I think that was a real knockout answer." Tokyo won the 2020 Olympic Games hosting rights with 60 votes for Tokyo against 36 votes to Istanbul. This means 60 members of the IOC are in agreement with the above opinion of Canadian member Dick Pound. I would like to ask those 60 members the following; Were you not aware of the critical situation of Fukushima Daiichi nuclear plant? If not, this makes you extremely irresponsible and negligent. As members of the IOC, you are obliged to make every effort to know the most important and serious problems of candidate host cities: the critical situation of Fukushima Daiichi, which affects the safety of athletes and the spectators who will come to Tokyo from all over the world. If you were aware and still voted for Tokyo, you knowingly agreed to jeopardize the safety of millions of people. You are all accomplices of Mr Abe who have outright lied to the world. The crime of negligence and irresponsibility. The crime of complicity in Shinzo Abe’s lies. Which are you guilty of? Kariya Tetsu
- 2013/09/11 - 安部首相の大嘘2020年のオリンピックの東京開催が決まった。 新聞やテレビで見ると日本中が大喜びしていて、めでたい、めでたい、これで日本の景気が良くなるとか、これで東北震災からの復興が早まるとか、祝賀気分一辺倒である。 新聞やテレビで見る限り、日本中が浮かれているように見える。 本当かな、と私は思う。 本当にみんな喜んでいるのだろうか。 新聞やテレビは意図的に人々を煽る。 すると、人々はその扇動に簡単に乗る。 みんながそんなに喜んでいるんじゃったら、わっちも日本人なんやから空気を読まねばならねえびゃあ。一つ喜んで見せちゃろけー。 騒ぐとなにやら浮かれて来よってからに、現実から逃避できるしのう。 んだけんど、7年後に本当に無事にオリンピックを東京で開けるんかいにゃあ。 それまで、日本が保つかちゅうとんじゃよ、本音を言うたらよおー。 てなことじゃ、ないだろうか。 今回、東京が開催地に決まったのは、安部首相の力が大きいという声が喧伝されている。 アメリカの新聞が安部首相を讃めているという記事が殆ど全ての大手新聞の電子版に乗っている。 これで、安倍首相の人気は上がったのだそうだ。 このオリンピック招致の手柄で人気を上げた安部首相は、この勢いで、憲法改定、秘密保護法の制定、などに突き進むのではないか。 大変なオリンピック効果という物だ。 しかし、IOC委員会の総会で、安部首相は飛んでもないことを言った。 汚染水問題に対して出された質問について、 1)「結論から申し上げれば、全く問題無いということであります。汚染水による影響は、福島第一原発の港湾内の0.3平方キロメートル範囲内で完全にブロックされています」 と答えた。 2)その上で、 「健康問題については今までも、現在も、将来も全く問題ないと約束します」と強調した。 3)さらに、プレゼンテーション終了後、安部首相は記者団に対して、 「不安は払拭できたと思う。1部に誤解があったと思うが誤解は解けたと思う」と語った。(9月8日 新聞各紙) 私は2011年11月15日に、いわき市薄磯の採鮑組合の組合長鈴木孝史さんと、副組合長の阿部達之さんにお話を伺った。 このときのことは、最近発売された「美味しんぼ」第110巻の「福島の真実編 上」の65頁以後に書いてある。 採鮑とは、その名の通りに鮑を採ることだが、鈴木さんたちは鮑だけでなくウニも採る。 ウニ4個をホッキガイの貝殻に詰めて焼いた「ウニの貝焼き」は1個2000円で市場に売れた。 鮑は一番高い物は9000円で売れたと言う。 例年5月から9月まで40回くらいの量で10トンから11トンの水揚げがあった。 貝焼きの値段と鮑の値段から計算すると、大変によい収入になった。 その良い収入を上げることの出来た豊かな漁場というのが、お二人にお話しを伺っている薄磯の浜辺から目と鼻の先にある岩礁なのである。 浜辺から、300メートルあるかないかの至近距離である。 その辺りは海草が多く、鮑やウニの宝庫なのだという。 こんな近くでそのような豊かな漁が出来るとは、天国ではないか。 また、鈴木さんは東北のサーフィンの開拓者であって、鈴木さんは薄磯にサーフィンに来るサーファーのための店も経営していた。 薄磯は本当に豊かな浜だった。 その全てを、第一原発が破壊した。 ウニからも鮑からも高い放射線量が検出されるので、漁は禁止されている。 浜から海に入ることも禁止されている。 海の監視も厳しく、海に入ったりするとすぐに捕まるのだそうだ。 サーフィンも出来ない。 鈴木さんと阿部さんは、目の前に見えるその宝の山の岩礁を見ながら悲しげに、しかし静かに私に語ってくれた。 鈴木さんも阿部さんは、東電や政府を非難して喚いたり、泣いたりしてもおかしくないのだが、何一つ声高に言わず、淡々として事実を語る。 この冷静な所が日本人、東北人の見事な所だ。 我慢強く、節操を保つ意志が強固なのだ。 美しい姿だった。 その鈴木さん、阿部さんに比べて、安部首相は無残なまでに醜い。 嘘をつく人間は実に醜い。 安部首相は「汚染水による影響は、福島第一原発の港湾内の0.3平方キロメートル範囲内で完全にブロックされています」 と言った。 汚染水は、福島原発のある港湾の外に出ていないと言ったのだ。 いわき市薄磯は福島第一原発から、約50キロメートル離れている。 その薄磯で、鈴木さんたちは海に入ることすら許されない。鮑漁もウニ漁も禁止されている。 「汚染水は福島原発の港湾内で完全にブロック」、とは一体何のことだ。 鈴木さんたちが漁に出られない、海に入ることも出来ないことを、安部首相は鈴木さん、阿部さん、そして薄磯の人達にどう説明するのだ。言ってみてくれ。 薄磯だけではない。福島沿岸の漁業はいま殆ど操業できない。 タコ、ツブなどは最近漁獲が許されていたが、今回の汚染水漏れ以後、それすら売れなくなった。 福島の沿岸漁業は昔から盛んだった。 三陸は世界でも有数の漁場で、量だけでなく質も高い。三陸の魚介類は味がよいのだ。 築地でも三陸沿岸の魚は特別の売り場が設けられ、高く売れた。 その沿岸漁業がいま出来ない。 福島原発の港湾から遙か離れた沖合で捕れた魚からも高い放射線量が測定されているからだ。 漁業関係者は早く試験操業から本格操業まで歩を進めたいと期待していた。 それが、今回の汚染水漏れで、操業開始のめどが立たなくなった。 福島の漁業は、海水の汚染のために停止しているのだ。 安部首相はどこの福島の話をしているんだろう。 どうしてこんな途方もない大嘘をつくのか。 「健康問題については今までも、現在も、将来も全く問題ないと約束します」と言うのも、これまた飛んでもないことである。 福島のあちこちで農産物、山菜、肉牛などが、高い放射線量によって食べられなくなっている。 食品の高放射線量は健康問題とは関係ないというのか。 福島の農業、畜産業の人達が苦しんでいるのは、健康問題と無縁だというのか。 風評被害もあって、福島の農産物は売れなくて福島の人達は困っている。 福島の産物が売れないのは、人々が放射性物質に汚染された食品は健康に害があると考えているだろう。 食品の健康問題は福島産の産物に限らない。 2013年6月には、千葉県江戸川の天然ウナギから、キログラム当たり140ベクレルの放射性セシウムを検出し、東京都は関係する漁業協同組合に出荷の自粛を要請した。 これは健康問題ではないのか。(東京に天然ウナギを食べさせる素晴らしいうなぎ屋があるが、そこの天然ウナギは江戸川からも持って来ていた。あのうなぎ屋は困っているだろう。私のようなウナギ好きの人間にとっては、口惜しく情けなく悲しいことである) 静岡のお茶からセシウムが基準値以上の値検出されたこともある。 食品の健康問題は福島県に留まらない。 「健康問題については今まで、問題がなかった」とは、それが日本という国を動かす首相の言うことか。 首相でありながら日本の国の現状を知らないというのか。 さらに、その発言後のインタビューで「不安は払拭できたと思う。1部に誤解があったと思うが誤解は解けた」とは何事だ。 安部首相は本気で福島第一原発について「不安」はないと考えているのか。 福島第一原発に対する不安は「誤解」による物だと言うのか。 安部首相のIOC総会での発言は、大嘘である。 安部首相は国際社会に対して大嘘をついた。 それも、誰にでもすぐに分かる大嘘だ。 こんな飛んでもない大嘘を平気で言う安部首相の神経はただ事ではない。 IOCの委員や、其の場にいた報道陣がこの安部首相の嘘を追及しなかったのは、オリンピック招致というお祭り騒ぎのご祝儀と言う物だろう。 ご祝儀は一時的な物だ。 これから先、この嘘を世界中が追及することになるだろう。 その時に安部首相は大いに困るだろうが、私達国民はもっと困るのだ。 外国人に日本と言う国は大嘘つきの国だと思われて、私達日本人も大嘘つきだと思われる。 安部首相はプレゼンテーション後のインタビューで「新聞のヘッドラインではなく事実を見てくれ」と言った。 よくもまあ、こんなことを恥ずかし気もなく言えた物だ。 事実を見なければならないのは、安部首相本人だ。
- 2013/09/04 - 福島第一原発の汚染水漏れちょっと長い間、この頁から遠ざかっていたが、その理由を話し出すと長くなるし辛いので、それは省いて、不在はなかったことのようにしてこれまでの調子のまま書くことにする。 で、またまた、福島第一原発の話である。 私は4月5日に福島第一原発の敷地内に入った。 入ったと言っても、東電が仕立ててくれた小型バスに乗って敷地内を回るだけで、バスから降り立つことは許されなかった。 それでも、実際にこの目で原発敷地内を見ることの意義は大きかった。 一番心を打たれたのは、大勢の人々が原発が安全にこのまま収まるために力を尽くしていることだ。 東電の職員の方たちを始め、作業員の方たちが、私から見れば献身的と思える仕事をされていることに、深い感銘を受けた。 ただ有り難いとしか、原発で働いている方たちに言う言葉はない。 日本を破滅に追い込む可能性もある今回の不始末の責任は東電本社の首脳陣にある。 補助電源を津波に備えて高いところに移す案を費用がかかるからと採らなかったことなどその最たるものだ。 先頃亡くなられた吉田前第一原発所長や、週刊朝日に連載されていた「最高幹部」の話を読むと、遠く離れて東京にいる東電の首脳陣は福島原発の実際に疎いように思える。 今回明らかになった重大な汚染水漏れの問題も、現場の責任ではない。 タンクの構造自体がやわだったからだが、請負った業者は東電が費用を抑えたので仕方がなかったと言っている。 作りを見て驚いたのだが、鋼板をボルトで留めて鋼板と鋼板の間にパッキングをいれて水の漏れを防ぐ形になっている。 ちょっと待ってくれ、そんな簡易の作りのタンクがいったい何年保つと言うんだ。 原子炉という物は、安全に何事もなく何十年かの運転を終わって、更にまた何も問題なく廃炉の過程を進めても最低で30年かかる。 それが、福島原発のように、メルトダウンした燃料が今どうなっているのかも分からず、冷却装置も働かない状態では、完全な廃炉状態に持って行くまでに30年では収まるまい。 汚染水処理システムが水漏れのために使えず、原子炉を冷却するために掛け続けている海水の汚染を除去できないので海に流せない。 仕方がないのでタンクを作ってその汚染水をため込んでいるわけだ。 いや、その汚染水処理施設という物(ALPS)も、最初聞いたときにはこれで汚染水問題は片付くと期待したのだが、なんとALPSは例え完全に動いたとしても、60種類ほどの放射性物質は取り除けるが、トリチウムだけは取り除けない(原子力規制委員会の文書から)。 福島原発に溜まる処理水には排出が認められる法定限度の38倍のトリチウムが含まれている(2013年3月10日、東京新聞)。 東京新聞の報じたこの数字が正しいなら、ALPSで処理してもそのトリチウムは取り除けず残るとなると、結局汚染水は海に流せないではないか。 これを知ったときには、私は力が抜けた。 さんざん、除染装置だなどと、気を持たせておいて、一体それは何なのか。 結局汚染水は何をしても海に流せず、タンクにためるしかないではないのか。 となると、この汚染水は何十年間も海に流せない。トリチウムの半減期は12.32年。今の汚染水の中のトリチウムの放射線量が法定限度にまで下がるまで何年掛かるか、閑な方は計算してみてください。 そのタンクがこんなにやわな作りでは、とてものことにそんなに何年も保つわけがない。製造した会社は、「タンクは工期も短く、金もなるべく掛けないで作った、長期間耐えられる構造ではない」と言っている。 そんな物、なんの役に立つと言うのか。 一体東電の首脳は何を考えてこんなやわなタンクを作ったのだろう。 それとも、トリチウムの汚染くらいは無視して、法定基準の38倍の汚染水を海に流してしまおうというのだろうか。 4月5日に原発敷地内入って驚いたのは、そのタンクの数である。 以前、新聞の写真や、テレビの映像などで見た情景とは大違い。 タンクが敷地内にびっしりと言って良いほど立ち並んでいる。 毎日大量に掛け続けている海水を海に流せないから、それをためておくタンクをどんどん増設しなければならないのは当たり前の話なのだが、それにしても、実際にあのすさまじい数のタンクを見た時にはたじろいだ。 今回タンクが水漏れを起こしたのは地盤沈下による物だという。 最初に設置した場所で地盤沈下が起きたために解体・移設し、使い回した物で、地盤沈下によって鋼材がゆがみ、接合部から漏洩した可能性がある、と東電は認めている。 原発が簡単に地盤沈下するようなもろい地面の上に建っていると言うことがそもそも根底から間違っている。 東電の提供した写真をみると、設置されたタンクの基礎部分の地面に地盤沈下でひび割れが入っているのが分かる。 一つ一つのタンクは、しっかりした基礎を打ってその上に建造するのではなく、地面の上にのせてあるだけだ。 実に安易なやり方ではないか。 簡単に地盤沈下するような土地であれば、地震が起きたらどうなるか。 やわな地盤の上にやわな作りのタンク。 ちょっと大きな地震が福島原発を襲ったら、あんなやわなタンクはひとたまりもない。倒壊するか、倒壊しないまでも、鋼板がずれて中の汚染水は外にあふれ出るだろう。 毎日増え続けて8月末で1000基あると言うタンクの中の汚染水が原発敷地内にあふれ出たら、これは一巻の終わりだ。 この間に漏れた汚染水は300トン。 この汚染水は一リットル当たり8000万ベクレルの放射性物質を含んでいる。 1トンは1000リットル。 で、計算してみよう。 300×1000×8000万ベクレル=24兆ベクレル。 これは恐ろしい。 京都大学の小出裕章氏は「広島の原爆の放出した放射能は24兆ベクレルだ」と言う。 タンク1基は1000トンの容量である。1つのタンクの汚染水の3分の1だけで、広島原発に相当する放射性物質を含んでいる。 8月末現在で、タンクで保管している汚染水の総量は43万トンと東電は言っている。 これが地震で1000基あるタンクが幾つも壊れて汚染水が外にあふれて出たら、これはだれも手も足も出せない状況になる。 高濃度の汚染水につかった敷地には人が立ち入れない。 人が立ち入れなければ、現在続けている原子炉の冷却作業も続けられない。 冷却を続けなかったら原子炉はどうなるか。 メルトダウンした燃料も問題だが、例えば4号機の使用済み燃料はどうなるか。 久木田豊・原子力安全委員会委員長代理(2011年3月当時)は「燃料が溶けて、さらに火災が起こってプールの底が抜けてバラバラっと燃料棒が落ちていく。それが最悪」と言っている。 そうなると、ますます原発敷地内に入ることは難しくなるどころか、放射性物質は首都圏まで及ぶという。 東京にも人は住めなくなる。私の家のある神奈川県も駄目だ。 悪いことは次々に重なる。 さらに・・・・・。 この先話を進めていくと、途方もないことになって心も凍えてくるからこの辺で止めるが、実は途方もないことが何時起こっても不思議ではない状況なのだ。 起こりうる事態を考えればこうなると言う理性的な話なのだ。 今の日本は、福島原発に関しては、感傷におぼれていて、理性的に危険を指摘すると、「いたずらに人心を煽ることはやめろ」と言う声が強くなる。 そう言う人は、福島の原発事故が起こる前にも、原発事故の危険性を指摘すると、やはり「いたずらに人心を煽るな」と言っていたのだ。真実を認めることが出来ない人達が、いや、真実を押し隠そうとする人達が、目の前の欲に駆られて、真実を語ろうとする人間を排除し続けているのだ。 福島第一原発に話を戻すと、私は第一原発を見て回って、「何もかも応急処置だ」と思った。 廃炉にするまで30年以上かかるという現実にそぐわない、その場限りの応急処置が取られていると見た。 タンクの数が凄まじい数に増えていることもその1つ。 タンクに汚染水を移送するパイプがもう一つ。 このパイプについては、この頁で、2011年9月19日に、「福島第一原発の汚染水処理施設の現実」として取り上げている。 汚染水移送パイプが何本ももつれるように敷地内をうねうねと這っている状況を、週刊朝日に掲載されていた写真で見て、非常に危険だと考えたのだ。 今回、原発の敷地で実際にそのパイプを見て、私はますます危機感を強くした。 そのパイプは、そこらにある一般に使われているビニールパイプと同じで、放射線に強い特別な材料で作られていると言う物ではない。 私は、これから使用するために準備されている新品のパイプが積まれている所を見たが、肉も薄く、材質もやわな感じで、本当に普通のビニールパイプだった。 以前、雑草がこのビニールパイプを突き破って地面からパイプの上まで伸びて、それで水漏れ事故を起こしたことがあったが、雑草に突き破られるようなパイプを汚染水移送に使うとは、東電はどう言う安全感覚を持っているのだろう。 タンクもやわだし、タンクに汚染水を運ぶパイプもやわだ。 信じられないことだが、一番危ない急所の部分に恐ろしく脆い物を使っている。 東電は何を考えているのか。 今度の汚染水漏れの件から見て、東電はもう自分で物事を解決する能力も気力もないのではないか、と思う。 私が原発に入った直後、地面に掘った汚染水をためる地下貯水槽7基が水漏れしていることが分かって、その中の汚染水をタンクに移した。 その地下貯水槽なる物はどんな物だったか。 地面に穴を掘ってその穴の表面をビニール・シートで覆ってそこに汚染水をためると言う物だった。 ところが、そこに使われたビニール・シートが一般用に使われている物で、放射線に対して特別に対策を施した物ではなく、しかも、シートとシートの継ぎ目から水が漏れた。 それを聞いて、私は「東電にまかせておいては駄目だ」と思った。 たまる一方の汚染水には、私は以前から危機感を抱いていた。 それが現実の物になってしまった。 これから先、福島はいや日本はどうなるのか。
- 2013/05/16 - 橋下氏が我々に与えた屈辱今回橋下氏が言ったことを、筋道立てて書くとこうなる。 「兵士の性(的問題)をどうコントロールするかはいつの時代も軍のオペレーションとして最重要課題だ」 「当時は日本だけじゃなくいろんな軍で慰安婦制度を活用していた。あれだけ銃弾が雨嵐のごとく飛び交う中で命をかけて走っていくときに、そんな猛者集団というか、精神的にも高ぶっている集団は、どこかで休息をさせてあげようと思ったら慰安婦制度は必要なのはこれは誰だってわかる。」 「人間に、特に男に、性的な欲求を解消する策が必要なことは厳然たる事実。現代社会では、それは夫婦間で、また恋人間で解消することが原則になっているが、時代時代に応じて、様々な解消策が存在した。日本以外においても軍人の性的欲求不満解消策にいわゆる慰安婦が活用されていたのは事実」 「慰安婦制度じゃなくても、風俗業っていうものは必要だと思う。だから沖縄の海兵隊・普天間に行ったとき、司令官に「もっと風俗業を活用してほしい」と言った。 「いわゆるそういう性的なエネルギーを合法的に解消できる場所は日本にあるわけだから、もっと真正面からそういう所を活用してもらわないと、海兵隊の猛者の性的なエネルギーをきちんとコントロールできない」 一方で橋下氏は、こうも言っている。 「法律上認められる風俗も、買春ではない。 「風俗=買春とは世間知らずだ」 それでは、「海兵隊の猛者の性的なエネルギーをきちんとコントロールできない」ではないか。言うことのつじつまが合わない。世間知らずは誰だ。あるいは、世間知らずのふりをしているのは誰だ。 橋下氏の言いたいことは、簡単に言えば、こうなる。 「兵士たちに慰安婦は必要である」→「軍人の性的要求不満解消にいわゆる慰安婦が活用されていたのは事実」→「だから、沖縄の海兵隊は風俗業を活用すべき」 結局「沖縄の風俗で働く女性を米軍海兵隊の慰安婦にしろ」と言っているのだ。 橋下氏は、自分の姉であり、妹である沖縄の女性を、外国の兵士の性欲の発散道具に差し出すというのだ。 歴史上、どんな国であれ、自分の国の女性を外国兵に差し出すという、情けない発言をした人間はいないだろう。 風俗で働く女性たちに対する最悪の侮辱、日本国民に味わわせた最大の屈辱だ。
- 2013/05/06 - 「在特会」の本質《この二つ前のページにも「在特会」の事を書いてあります》 ヨーゼフ・ロートと言う作家がいる。 1894年に現在のウクライナに生まれたユダヤ人で、ベルリンなどでジャーナリスト、作家として活躍したが、1933年にヒットラーが政権を握ってからパリに亡命し、1939年に亡くなった。 ホロコーストで分かるとおり、昔からヨーロッパでのユダヤ人差別はひどかった。 同じ人間なのに、他のヨーロッパ人はユダヤ人を人間扱いしない。 ロシア、東欧ではポグロムといって、ユダヤ人をただユダヤ人と言うだけで虐殺することが頻繁に起こっていた。 そのように、厳しい差別を受ける側で育ったから、ヨーゼフ・ロートは人種間、民族間、人間間の差別に敏感で、差別の愚かしさ、意味のなさ、下らなさ、醜さについて色々と書残きしている。 ヨーゼフ・ロートの「放浪のユダヤ人」というエッセイ集(平田達治/吉田仙太郎 訳。法政大学出版局刊)の中の「反キリスト者」というエッセイを読んでいると、ところどころ、これは「在特会」の人々の本質をそのままえぐり取って私達に示している、と思われる箇所がいくつかあった。 ヨーゼフ・ロートが亡くなったのは1939年。 現在2013年。 74年前に亡くなったヨーゼフ・ロートの言葉が当てはまるというのだから、「在特会」の人々の本質は時代錯誤の典型というか、もう21世紀になっているのに、正しい人間であれば容易に乗り越えることの出来るわずかに低い土手に足をすくわれて、人間外の世界に転がり落ちて人間としての資格を失い、人外魔境をさ迷っている人たちなのだと私は思わざるを得ない。 では、ヨーゼフ・ロートはどんなことを言っているのか、それを、「在特会」の方々のためにも紹介したい。 ただ、ここで問題があって、ヨーゼフ・ロートは正統派ユダヤ人の家庭で育ったので、彼の書くものは正統派ユダヤ人としての信仰が思想の中心になっていることは否めない。 私は、ヨーゼフ・ロートの憎む「無神論者」である。 ヨーゼフ・ロートは神の存在を当然のものとしていて、かなりの部分宗教談義に費やされて辟易するが、無神論者の私でもしっかり共感できる人間社会に対する鋭い洞察と、分析を示してくれるので、ヨーゼフ・ロートとの言いたいことはしっかり私の心に届き、私はヨーゼフ・ロートの言葉を自分の助けになるものとして、使わせて貰おうと考えているのだ。 ヨーゼフ・ロートはユダヤ人であって、ヨーロッパのユダヤ人差別に苦しむと同時に、自分を差別する側の人間が如何に人間として劣った存在なのか、書き記してきた。 次に、私が今回ヨーゼフ・ロートのエッセイ集を読んだ中で発見した、「在特会」の皆さんに当てはまると思われる文章を選んでみた。 ヨーゼフ・ロートの文章は宗教色に染まっていて、とてもそのままでは読めないので、無神論者の私が、ヨーゼフ・ロートの真意を曲げないように、宗教色だけを取り除いてアレンジしてみた。(宗教色を取り除いたり、アレンジしたり、それではヨーゼフ・ロートに対する冒涜だと言う声も聞こえてくるが、ヨーゼフ・ロートは真実に命をかけた人間であり、私もヨーゼフ・ロートの思想の核をしっかり掴んでいるので、私のすることを大目に見てくれると信じる。私がヨーゼフ・ロートと共有しているのは、この世の真実である。その点で、ヨーゼフ・ロートは私に祝福を与えてくれるに決まっている) 《これから書く文章は、上記の「反キリスト者」を利用させて頂いた》 1) ヨーゼフ・ロートの言葉と思想を借りて、私が「在特会」の皆さんに言う。(言葉を借りる、と私が言っていることに注意して下さい。ヨーゼフ・ロートの言葉そのままではなく、ヨーゼフ・ロートの言葉を借りて、それをアレンジして、結果として私の言いたいことを言っているのです) 『在特会』の方々は、韓国人・朝鮮人に対する憎しみを糧に生きているのです。 韓国人・朝鮮人に対する憎しみで、この憎しみだけで自分たちの心を満たしていらっしゃる。 そして、この憎しみを人々の間に広めている。 これは簡単なことで、今の世の中、怒りの炎がみんなの胸の底に、特に若い人たちの胸の底に眠っている。 それは、韓国人・朝鮮人に関係がない。 安い給料、不安定な雇用条件、結婚すらままならない未来への希望の欠除、そのような苦しい環境にある人間・若者たちの心に、既に現状に対する不満と怒りの感情が漂っている。 怒りが破裂しかけて、火の粉もちらほら舞って、何かきっかけがあれば引火して怒りが爆発する。 そのような人々に、『在特会』の皆さん方が、これが憎むべき対象だと韓国人・朝鮮人を指し示して、大声で喚いて憎しみをあおり立てれば、怒りの感情を既に臨界点に達するまで抱え込んでいる人たちは、事の善悪を深く問うことをせず、目先の鬱憤晴らしの快感に誘惑され誘い込まれるのです。 それまで、韓国人・朝鮮人に対して悪意すら抱いていなかった人たちまでもです。 2)さらに、ヨーゼフ・ロートの言葉と思想を借りて「在特会」の皆さんに言う。 わたしはこれまでも悪人を沢山見てきました。しかし彼らの悪は人間的な悪でした。 彼らにはそれぞれ騎士道の精神が残っていたのです。彼らの心の愛情や善意がすべて死に絶えたときでさえ、なおもそこから正義心が現れ得るあの人間の特性です。 でも、『在特会』の皆さんの場合にはそんなことは全くあり得ませんね。 若い人たちを扇動して、韓国人・朝鮮人を憎む気持ちをかき立てる、そう言う『在特会』の皆さんは、通常の憎しみを抱く人間よりはるかに悪い人間です。騎士道の精神を欠いた憎悪者です。 3)ここからは、私自身の言葉。 私は、これまでに色々な国を旅した。 欧米で、これまでに数回、「あ、私は今人種差別をされているな」と感じたことがある。 あからさまに、不当な扱いをされたこともある。 その時、私を差別している人間の顔を見て強く感じた。 「人種差別をしている人間の顔は大変に醜い」。 無惨なほどに醜い。 それを何度か経験して、私は人種差別だけはするまいと心に深く思っている。 それは、差別された人の立場を考えることも第一だが、自分の顔と心が醜くなっている事を強く恐れるからだ。 人種差別をしている人間ほど醜い顔をしている人間はない。 韓国人・朝鮮人を口汚く罵っているときの「在特会」の皆さんの顔を見れば分かるでしょう。 何故「在特会」の皆さんの顔が醜いか。 その理由は、「在特会」の方々が人間としての誇りを失っているからです。 人間としての誇りが少しでもあったなら、あのように汚い言葉で罵ったり、あのようにぶざまな振る舞いが出来る訳がない。 人間としての誇りを失ったら、最早人間ではない。 「在特会」の方々はどうして人間としての誇りを失ってしまったのか、考えて見ましょう。 《ここから、再び、ヨーゼフ・ロートの言葉を借りる》 ある特定の民族を、他の民族と区別して、あの民族は変わった特異な民族であると言うことは出来ません。 韓国人・朝鮮人を日本人と区別して、韓国人・朝鮮人は日本人と変わった民族だと言うことは出来ないのです。 人間はまず何より人間なのです。あらゆる人間は互いに異なっているよりも、むしろ同じであるという自明の真理が全世界において、この地球上のすべての言語でもって語られるべきです。 その真理が語られない限り、民族の類似性、同一性をさしおいて、それぞれの民族の違いを言い立てるのは罪であると思います。 確かにいろいろな人種や民族の間に違いもあります。 しかし、その違いは、民族と民族、人種と人種を結びつける類似性、同一性よりもずっと小さいのです。 もし私が日本人の特殊性だけを強調し、韓国人・朝鮮人との類似性を強調しなかったら、私は不正を犯すことになると思うのです。 《ここからは、私の言葉で。》 「在特会」の皆さんが、人間としての誇りを失ってしまったのは、韓国人と朝鮮人に対する憎しみだけで心を満たし、そのほかには何も無い空っぽの心で、上記の「罪」と「不正」を犯し、しかも自分たちがその「罪」と「不正」を犯していることに気づくことなく、人種差別行為を行っているからなのだ。 的外れの憎悪以外は何も無い空っぽの心。 無惨とか悲惨とか言うのは「在特会」の皆さんの心を表現するための言葉だったのだ。 「在特会」はまことに、無惨で悲惨で醜い存在である。
- 2013/05/05 - Fマリノス、アントラーズと引き分け、でも楽しかった。《この直前の回に、「在特会」についての書き込みをしてあります。そちらもお目通し下さい》 5月3日 Fマリノス対アントラーズ戦、楽しんできた。 流石に対アントラーズ戦ともなると、人気がある。 入場者数は4万人を越えた。 私と、友人夫婦、連れ合いの甥、の五人組である。 そもそも、この友人「と」が私をサッカーに引き込んだ張本人である。 1998年、当時日本の航空貨物会社のロンドン支店に勤務していた「と」が、ワールドカップ、フランス大会に誘ってくれた。 私は、一旦ロンドンに行き、そこから日帰りでナントでの全日本対クロアチア戦を見に行った。 日本代表が初めてワールドカップに出場した記念すべき大会である。 その時、日本は、1-0で、クロアチアに負けた。 負けた後、競技場から駐車場までの長い道のりを歩くときの悔しさ・辛さと言ったら無かった。 それ以来、私はワールドカップは南アフリカ大会をのぞいて欠かさず観戦に行っている。 南アフリカ大会は、開催地が南アフリカと決まった段階で、行くのを止めた。 あの国で、ワールドカップを開くべきでないと思ったからだ。 次回ブラジル大会は絶対に行く。 さて、その「と」であるが、競技場で席に着いてから、飛んでもないことを告白した。 アントラーズのサポーター席側の、競技場のフェンスを見ろと言う。 見たら、なんと、ゴールのネットの裏のフェンスに「と」の会社のロゴが表示されているではないか。 「と」の会社は、アントラーズのスポンサーだったのである。 「ここに、裏切り者がいた」と私が騒いだら、「と」は「それは、アントラーズの元々の親会社が自分の会社のお得意様なので、会社としてお得意様の顔を立ててスポンサーになったのであって、私自身はマリノスを応援しますから」というので、許してやった。 試合は、最初にアントラーズに先制され、そのまま、アディショナル・タイムまで、マリノスは無得点、日産スタジアムは重苦しい空気に包まれた。 しかも、アディショナル・タイムになって、FWのマルキーニョスを下げて、DFのファビオを入れた。 私達は、「どうして、この期に及んで、FWを下げてDFを入れるんだ」といぶかったのだが、なんと、交代してすぐにファビオが同点ゴールを決めたのだ。 中村のFKをゴール前で、マリノスとアントラーズの選手たちが、まるでオットセイの曲芸のようにヘディングでぽんぽんとついて回し合い、最後にアントラーズの4番山村だと思うが、矢張りヘディングで後方にクリアしたかと思ったところにファビオがいた。 クリアしたと思ったボールを捉えて見事なボレー・シュートでボールをゴールに蹴り込んだ。 その時の、日産スタジアムの騒ぎと言ったら、凄かったね。 アントラーズに点を取られたときには、アントラーズのサポーターは驚喜して騒いだが、四万人の観衆の内、アントラーズのサポーターが1万人近くいたとして、残りの3万人以上のマリノスファンは、悲鳴を上げた人達をのぞいてしんと静まって声もなかった。 沈痛なという形容が当てはまるような静まりかえり方だった。 それが、もう駄目かと半ばあきらめかけたアディショナル・タイムにファビオが得点してくれたものだからたまらない。 それまで92分の鬱憤が一気に吹っ飛び、喜びが爆発した。 私も立ち上がって両手を高く突き上げて、大声で喚きました。 競技場が爆発しましたね。 いやあ、勝てなかったのは残念だが、最後に同点にしてくれて良かった。 ファビオも前回甲府戦でのクリア・ミスで同点にされた失敗をこれでチャラに出来て良かった。 勝てなかったが、この試合、中村俊輔の素晴らしい技に魅せられた。 「と」夫婦も、私達夫婦も、甥も、中村の凄い技を見られただけで今日観戦に来た甲斐があったと言い合った。 中澤もよく働いた。 中澤がいれば守りは絶対に安心。 Bomberとしての得点はなかったが、とにかくいてくれるだけで、安心という存在は大きい。 逆に言うと、中村俊輔と中澤佑二がいなかったらFマリノスはどうなるのか、それが心配だ。 今回のマリノスのサポーターは応援を途切れさせる事なく、勢い良く続けてくれて有り難かった。 ただ、前回注文を付けた観客席との連帯だが、これは日本のサッカー風土のせいなのだろう。観客がサポーターと一緒に声を合わせて声援することの楽しさを日本の観客は知らないのだ。 Western Sydney Wanderersのサポーターたちは、観客に応援を促す。「さあ、左側の客席の人たち、行こうぜーっ!」と呼びかける。 観客もその呼び声に答える。 サポーターたちは「今度は右、左」という具合に観客に声をかけるが、それも最初の内だけで、そのうち会場全体が自分たちからサポーターに同調して激しい応援をサポーターの音頭の元に休みなく繰り広げる。 それは、観客として楽しいもので、試合を見る楽しさに加えて、思い切り声を上げて応援する快感を味わえる。 私達も実は、Western Sydney Wanderersの試合を観戦に行くときには自分たちもその応援の熱狂に加わる快感を味わうのが、楽しみなのだ。競技場全体が一つになって大声で歌い、声援を送るのは実に気持ちがよい。 この快感を日本の観客が知らないのはもったいない。 マリノスのサポーターの皆さん、なんとか競技場全体の観客を巻込む手段を考えて頂けませんか。 競技場全体がサポーターと一緒に声合わせて応援すると、これは観客に観戦の楽しみを更に盛り上げる喜び・快感を与えるし、選手たちも盛上ると思う。 今回、アントラーズのサポーターも良くやった。 試合開始1時間半前から、競技場の外まで聞こえる応援を始めていた。 鹿島から良くもあれだけ大勢のサポーターが来てくれたものだ。 そのお礼に、私と「と」は、こんどは鹿島のホームにマリノスとの試合の応援に乗込もうと計画している。 アントラーズには小笠原がいるんだもんなあ。 マリノスの攻撃を小笠原は実に見事に潰してくれた。 そして、キーパーの曽ヶ端がやはり凄かった。 敵ながらあっぱれと言うしかない働きをしていた。 まあ、あの試合、引き分けに持込んだの大収穫だ。 まだ1位の大宮との差は、勝ち点3、勝ち数差は1。 今期は、このままばりばり勝ち進んで、必ず優勝だ! 私も、去年なり損なったファンクラブの会員にもなったし、これからもFマリノスと一緒に頑張るぜ! 帰りは、関内の「横浜おいしんぼ横町」の「登良屋」で夕食。 ここは天ぷら屋なのだが、魚が凄い。 かつお、しまあじ、わらさ、の刺身、キンキの煮付け、を天ぷら以外に食べたが、その刺身が驚くべき美味しさ。新鮮で香りも味も良い。まるで、どこか、漁港前の店で食べるみたいに新鮮だ。 一切れの厚さが、普通の高級料理屋の三倍はある。 その切り身の角が、ピンと鋭く立っている。 魚が新しく、料理人の腕が確かな証拠だ。 味噌汁も、出汁は煮干しで取ってある。化学調味料の味などしない。 全てに実に美味しい、たいした店だ。 サッカーで楽しんで興奮して、美味しい物を食べて更に幸せになる。 楽しかったなあー。
- 2013/05/04 - 「在特会」に自分の人権を主張する権利はないいやはや、余りのあほらしさに笑ってしまいましたね。 何がそんなにあほらしく、笑えるかって、それは、在特会(在日外国人の特権を許さない市民の会)が日本弁護士連合会に人権救済を申し立てたことですよ。 その言いぐさが素晴らしい。 最初は、冗談だと思ったが、どうやら本気らしい。 もっとも冗談は本気で言うから面白いのだ、と言う説もある。 在特会は、次のように申し立てている。 「許可を得たデモであるにもかかわらず、デモに抗議する人たちから暴行・妨害を受けたこと、「ヘイト」「レイシスト(人種差別主義者)」などと決めつけられたことが、人権侵害に当たる」 幼児が大人の口まねをしてトンチンカンなことを言って大人を笑わせることってありますよね。 在特会の方々は皆さん成人されているだろうに、言葉だけは大人の言葉を使っているが、言っていることが幼稚園生以下の幼児のようにめちゃくちゃなので、つい吹き出してしまう。 ただ、幼稚園生以下の幼児はまだこれから成長するので、その物言いがおかしいと言って笑っても、その笑いは心を温かくする笑いだ。 私の子供たちも、幼いときには、トンチンカンなことを言って私達を笑わせてくれた。子供たちが成長した今となっては、そのトンチンカンな物言いを家族の集まりの時に持出して、「こんなことを言ったな、あんなことを言ったな」と、皆で楽しく笑い合っている。 しかし、「在特会」の場合はそうは行かない。 あの方たちも、あるとき、ふと自分の醜さに気がついて、真人間に戻るときがあるだろうと期待するが、今はそうではない。 鋼鉄製の鋳型のような物を頭にかぶり、その鋳型のような物が頭をぎりぎりと締め付けるので、深く物事を考えられず妄想だけが頭を埋め尽くし、その妄想ゆえに苛々して意味もなく攻撃的になる。 また、一方向しか見えず、しかも見る物が全てゆがんで見える眼鏡をかけているので、物事の真実が見えず、目の前の現実が全て自分の妄想に合わせてゆがんだ形に見える。 「在特会」の方々には早く真人間に戻って、そのような妄想の世界から抜け出して貰いたいのだが、今はまだ妄想の世界にどっぷりとつかって狂騒状態にある。 そのような状態にある方々の言葉は、いくら幼児の言うことのように滑稽だからと笑って見過ごしてはいけない。 早く、「在特会」の方々に妄想からさめて真人間に立ち戻って頂くためにも、その「申し立て」の滑稽さを指摘して差し上げなければなるまい。 申し立ての第一項、 「 許可を得たデモであるにもかかわらず、デモに抗議する人たちから暴行・妨害を受けたこと」 と言うのがまず滑稽だ。 「許可を得たデモ」なら、お上からお許しを頂いているから、天下御免で何をしても、言っても良いと言いたいらしい。 「在特会」が、デモの最中に自分たちに反対する人間を指さして、警官に「あいつを捕まえろ」と命令口調で言うのを見たことがある。 警官たちは、「在特会」に背を向け、「在特会」に反対する人達に立ち向かう。「在特会」に抗議する人達から「在特会」を守ろうとしている。 しかも、警官(公安警察)は「在特会」側に立ち、「在特会」に反対するデモに参加している人の写真を盛んに撮る。 何のために写真を撮るのだろう。 公安が写真を撮るのは、犯罪者の特定に使用するためだと思うが、「在特会」に反対する人々は、警察にとって、犯罪者あるいは犯罪者予備軍なのだろうか。 勝手に写真を撮って、肖像権はどうなるの。 これから明らかなのは、公安にとって、「在特会」より、「在特会」に反対する人達の方が公共の安寧秩序を破壊するものとして、公安警察による取り締まりの対象になると言うことだ。 「在特会」のように公共の安寧を明らかに破壊している「在特会」を取り締まらずに、それで一体何の「公安警察」なのか。 小沢一郎氏は裁判で無罪になった後、検察審議会によって二度も訴えられた。 小沢一郎氏を政治活動から遠ざけるための陰謀でしかないが、その際の審査申立人は、在特会の会長であり、その会長本人が検察庁特捜部に色々教えて貰っていることを自分で自分のブログに書いている。 (詳しくはこの私のブログの、2010年5月4日「この『市民団体』とは何者だ」をご覧下さい) 在特会とお上の関係は大変に良いらしい。 だから、「許可を得たデモ」などとお上の権威にすがるようなことを書くのだろう。 安田浩一氏の「ネット愛国 在特会の『闇』を追いかけて」という本は、「在特会」だけでなく、その周辺の類似の団体(私は日本に、「在特会」以外に、これだけ嫌韓・嫌中をあおり立てる団体が幾つもあることを知って驚いた)についても書いているが、その中の団体の一つの指導者は「公安から金を貰っていた」とはっきりと安田氏に語っている。 「在特会」も公安からお金を貰っているかどうかは知らない。 しかし、「在特会」に反対するデモをする人達から「在特会」を守るような姿勢をあからさまに見せ、反「在特会」の人達の写真を撮りまくる公安の姿と、小沢一郎氏に対して検察のした事とを合わせると、この国の、「検察」「警察」と「在特会」は良い関係にある事が分かる。 こんな情景を思い浮かべる。 子供「ざ」がいるとする。 「ざ」は他に大勢の子供たちを集めて、自分たちの気にいらない子供たちにいじめを仕掛ける。 その余りのあくどさに、見かねた人が「ざ」をたしなめると、「ざ」は自分を甘やかしてくれる力持ちの男にしがみついて「あいつらがボクチャンのこといじめるの」と泣く。 すると、力持ちのおじさんは「安心しな、わしらが守ってやるから」と言う。 「許可を得たデモ」なのに、妨害された、と言い立てる在特会の幼児性はあまりに滑稽だ。 在特会の「許可されたデモ」のおかげで被害を被っているのは在日韓国人・朝鮮人だけではない。 日本人自身が困っているのだ。 東京の新大久保は大阪の鶴橋、桃谷と並ぶコーリアン・タウンのある場所だ。 私の母は86歳だが、77歳を過ぎて初めて韓国に行った。 それまで韓国料理を食べたことがなかった母が、最初の日から韓国料理が好きになり、それ以来外出して昼食を取るときには必ず韓国料理の店に行って、ビビンバを食べる。 80歳を過ぎて、2度目に私が韓国に連れて行ったときには、ソウルは昔からのなじみの町のように生き生きと歩き回り食べ回っていた。 その母が新大久保に行って見たいと言う。 私の姉も韓国料理が好きで、新大久保にも何度か行っている。 ここ数年新大久保に行っていない私に新大久保の最新情報を教えてくれる。 「新大久保は美味しい韓国料理の店や、韓国雑貨の店が沢山あって、韓国人は親切だし、とても楽しいところよ」と我がことのように自慢する。 母が新大久保に行くとしたら当然姉に連れて行って貰うことになるが、その姉が尻込みしている。 「最近の新大久保は、大声で乱暴なことを喚いて道を通る人まで脅かす暴力団のような連中が来るから、怖くて、気持ちが悪くて、とても厭な感じ」 だから、今、母を新大久保に連れて行けないと言う。 こんな事を書くと「在特会」の皆さんは、してやったりと思うのでしょうね。 「日本人が新大久保の韓国人外に行くのを食い止めたぞ」とね。 しかしね、韓国料理店に食材をおろしているのも、韓国料理店で働いている人達も、韓国料理店に行く人も、その圧倒的多数は日本人である。 「在特会」の衆よ、あなた方の「許可を得たデモ」で、精神的に経済的に一番損害を被っているのは日本人なのだよ。 「許可を得たデモ」であれば、他の人間の人権を害しても、他の人間に精神的、経済的損失を与えていいというのかい。 そう言う悪質なデモは妨害するのがまともな市民の義務なんですよ。 「在特会」のデモはお上から許可を得ているようだが、我々市民は許可できないんだよ。 自分たちが、多くの人に害をなしておいて、その害を防ごうとしている人達が、「在特会」の方々の人権を侵害していると訴えるとは、滑稽だ。 「在特会」の皆さんは大変に勉強家で頭の良い方たちがそろっていると言うことだからこのくらいは、分かるだろう。他人の人権を害している人間に人権は認められないんだよ。 あのような他人の人権を破壊するデモを始め、「殺す」とか「つるす」など、殺人予備罪、殺人教唆罪、殺人未遂罪、脅迫罪、などに当然問われるべき凶悪な言葉を他人に向けて浴びせかけた段階で、「在特会」の皆さんは人権を自ら放棄したものとみなされるのは覚悟の上のはずだ。 あなた方には人権は認められない。 繰返すよ。 他人の人権を害している人間に人権は認められない。 「在特会」の皆さんが、韓国人・朝鮮人の人権を害する行為を妨害する反・「在特会」の人々は正しい。 訴えの第二項、 「『ヘイト』『レイシスト(人種差別主義者)』などと決めつけられたことが、人権侵害に当たる」 これも、滑稽だ。 「ヘイト」という言葉を単独で使うと「憎悪、憎しみ」という意味の名詞でしかないので、「ヘイトと決めつける」という言い方は文法的につながらない。 幼稚園児の言うことだから、そのへんてこりんな言いたいことをこちらで解釈してやる必要がある。 「在特会」がデモの際に、韓国人・朝鮮人を罵るあの言葉遣いは「ヘイト・スピーチ」である。 「在特会」の行為、あるいは存在自体が「ヘイト・クライム」である。 そのように批判されたことをひっくるめて、「在特会」の方々は「ヘイト」と言っているのだろう。 自分と異なる人種・民族に対する憎悪を煽る演説、あるいは言説をヘイト・スピーチといい、そのヘイト・スピーチも含んだ、他人種・他民族に対する憎悪をあおり立てて、人権を侵害する行為を犯罪として、ヘイト・クライムという。 「在特会」の新大久保や鶴橋でのデモ行為自体、ヘイト・クライムであり、その際に喚く言葉はヘイト・スピーチである。 それを認めないのは、「在特会」とその周辺の支持者・同調者、そして日本の警察、検察だけである。 更に言うと、「在特会」の方々が野放しにされているどころか、警察に守られているこの日本という社会は、恐ろしく世界の動きから遅れているし、腐っている。 欧米では長い間の人種間の争いに消耗し尽くして、互いの人種間で憎み合うことを止めようと決めた。 私は欧米崇拝主義者ではなく、逆に欧米のすることの90パーセント以上は間違っている。だから、今の世界はこのように混乱し、破滅の崖っぷちに立っているのだと思う。 しかし、この人種間の争いを止めることを少なくとも公式に決めたことは、高く評価する。 実際には人種偏見・人種差別は欧米で行われているが、それが公になったら差別行為を働いた人間は罰を受ける。 欧米では、「在特会」のデモの際の言葉、はヘイト・スピーチ、デモ行為全体をひっくるめてヘイト・クライムとされて、「在特会」の方々は何年間か刑務所で過ごさなければならないだろう。 そして、そのようなヘイト・クライムを犯す人間は「レイシスト(人種差別主義者)」であると認めるのは、万国共通の認識です。 反・「在特会」に人々に限ったことではない。 「在特会」、その周辺にいる方々・同調者、日本の警察、検察は、世界基準から見ればあり得ない存在なのだ。 (勿論幾つか例外的な国もあるが。) だから、反・「在特会」の人々が、「『ヘイト』『レイシスト(人種差別主義者)』などと決めつけた」のは本当のことを言っていることに過ぎない。 「在特会」の方々、その周辺の方々、皆さんは「ヘイト・スピーチ」を行い「ヘイト・クライム」を犯している「レイシスト」なのですよ。 世界中どこの国の人にでも聞いてご覧なさい。 「在特会」の方々は立派な「レイシスト」です。 万国共通の認識だ。 自分の本当の姿を指摘されて文句を言うのは、幼児がよくすることだ。 もう一度繰返すが、他人の人権を害する人間には人権は認められない。 こう言うと、その人間に肉体的な危害を加えたりしても良いと言っていると思われても困る。 もう少し軟らかい表現にしよう。 「他人の人権を害している人間に自分の人権を主張する権利はない」 だから、今回の「在特会」の申し立て自体意味をなさないし、そのような申し立てをする権利は、「在特会」にはない。 「在特会」の方々、その周辺の方々・同調者に自分の人権を主張する権利はない。 「在特会」の方々よ、早くその迷妄からさめて、真人間に立ち戻ってください。 あるとき、正気を取り戻したとき、それまでの自分の行為を死ぬほど恥ずかしく思いますよ。 そうしたら、反省して、それまでの償いをすればよい。 早くそのような日を迎えられることを「在特会」の方々のために祈っています。 ところで、週刊朝日の5月17日号の「『星条旗』下の宰相たち」の第2回目「岸信介(上)」の最後で、「岸信介がA級戦犯として巣鴨拘置所に入れられた岸信介が起訴もされず、釈放された事について、研究者の間では、岸の利用価値を見いだしたCIAの意向によるものだとする見方が少ない」としたあと、最後の文章で「その答えを求めて訪ねた米国国立公文書館の岸ファイルは、意外なものだった」と締めくくられている。 おおっ、この書き方だと、週刊朝日は、私が今まで知らなかった事実を探り当てたのかな。 興味津々である。
- 2013/04/24 - 安倍晋三総理大臣は正気かびっくり仰天、とはこのことだ。 安倍晋三総理大臣は、村山談話に関して、 「侵略という定義は学会的にも、国際的にも定まっていない。国と国の関係でどちらから見るかで違う」 と述べた。 村山談話とは、1995年8月15日に、当時の村山富市首相が閣議決定をもとにした物で、「植民地支配と侵略によって、アジア諸国の人々に多大の損害と苦痛を与えた」と公式に植民地支配を認め、「痛切な反省の意」と「心からのおわびの気持ち」を表明したものだ。 安倍晋三総理大臣のこの言葉は、村山談話に対してなされた物であり、当然ここで言う「侵略」とは、「1945年以前に、日本が、韓国・朝鮮、中国に対して行った、軍事的政治的行動」を指しているのだろう。 氏の言う「学会的」の学会とはどこの国のなんと言う学会なのか。 「国際的」の国際とは、どう言う国々の事を指しているのか。 それがはっきりしない。 しかし、氏の言いたいことははっきりしている。 「1945年以前に、日本が、韓国・朝鮮、中国に対して行った、軍事的政治的行動」 は侵略ではない。 そう言いたいのだろう。 一体どこのどう言う学会が、「1945年以前に、日本が、韓国・朝鮮、中国に対して行った、軍事的政治的行動」を侵略と定義できないと言っているのか。 日本以外のどの国が、「1945年以前に、日本が、韓国・朝鮮、中国に対して行った、軍事的政治的行動」を侵略ではないと言っているのか。 学会と言っても、訳の分からない学会では駄目で、世界的にその権威を認められている学会でなければならない。 国際的、と言った場合、一つや二つの国だけでは駄目である。 国際連合に加盟している国の大多数の意見である必要があるだろう。 仮にも氏は日本の総理大臣である。 このような思考能力・判断力そして理性を失った人間に固有の現実離れした与太話を国会で堂々とされては困るのだ。 どこかの居酒屋で、わずかな酒で酔っぱらって腹具合がおかしくなり、手洗いに駆け込みたくなったが、手洗いが一杯で入れない。ああ、どうしよう。もう駄目だ。 そのような切羽詰まったときには、思考能力・判断力も理性も失って訳の分からないことを口走ることもあるだろう。 しかし、国会の場でそれは大変に困る。 不思議でならないのだが、このようなことを、各新聞社は論評も加えず、批判もせずそのまま伝えるだけである。 自民党の広報誌と変わらない。 国民も何の反応も示さない。 こんな事でいいのか、皆の衆。 安倍晋三氏には、氏の祖父の岸信介以来の件で言いたいことがある。 折から、週刊朝日の5月3日/10日合併号から、「『星条旗』下の宰相たち」という連載が始まった。 この連載の中で、1957年2月、岸信介が総理大臣に就任する当日に、どんなことをしたか、きちんと書くかどうか、それを私は見守ることにする。 もし、週刊朝日がその日に岸信介がしたことについて何も書かなかったら私が書く。 その日、岸信介は、自分がアメリカの奴隷であることを、示したのである。 安倍晋三氏について、何か書くのは、週刊朝日の記事の進展を待ってからのことにする。
- 2013/04/14 - マリノスが勝ったぞ13日、土曜日、日産スタジアム。横浜マリノス対川崎フロンターレ。 観戦してきました。 久しぶりのマリノスの試合、いやあ、はらはらした。 こんなに体に悪い試合は滅多にない。 前半、中村俊輔のコーナーキックに、富沢が上手く合わせて1点取ったが、後半何が何だか分からないゴール前のやりとりで、フロンターレに1点取られた。 取られた瞬間、日産スタジアムはフロンターレのサポーター達はのぞいて、静まりかえった。 私と連れ合いは四人並びの席の真ん中。私の右は、大阪から中村俊輔のプレーを見たいばかりに飛行機で飛んできた方。 連れ合いの左は横浜マリノスは勿論、Jリーグとサッカーにものすごく詳しい方。 というサッカーマニアのお二人と一緒に観戦できて楽しかった。 それが今日の最高の収穫だろうか。 さんざん絶好の得点機を逃して、(中村俊輔のキックを受けた中澤の絶好のヘッディングもわずかに外れた)、神も仏もある物か、もう引き分けかとあきらめたところに、中村俊輔のコーナーキックはキーパーにはじかれたが、途中から出場した端戸(この選手は私は初めて知った。)が上手いこと蹴り込んで、2点目を獲得。 そのまま、時間切れで、マリノスが勝った。 私の右にいた方は、マリノスの獲得した2点とも中村俊輔が起点になったので、大変満足しておられた。大阪から来たその方の念力が通じたのではないか。 嬉しかったのは、試合後マリノスの選手たちが観客席を回って挨拶をするときに、私達の前に我が愛する中澤が来たので、思い切り大声で「なかざわーっ!」と叫んだら、それが聞こえて中澤祐二選手が私の方を見て手を挙げてくれたことだ。 嬉しかったねー!(って、私ってサッカーお宅かしら) シドニーでは、小野伸二が加入した、Western Sydney Wanderers の試合を楽しみ、秋谷に来れば、横浜マリノスの試合を楽しむ。 人生には色々なことがあって、秋谷とシドニーの苦しい二重生活はあと数年続けなければならないが、横浜マリノスと、 Western Sydney Wanderersのおかげで、その辛さ、苦しさが軽減される。 ああ、サッカーは素晴らしい。 一つ気になったことがある。 Western Sydney Wanderersのサポーター達は試合前から、試合後まで、一瞬の途切れもなく、次から次へと歌を変え、応援の方法を変え、会場の観客も巻込んで、盛り上げる。 前回の、Sydney FCとの試合の際には、その前にあまりに騒ぎすぎて、入場を拒否されたサポーターがいた。 で、その試合の際、サポーター席には「ここは、本日入場拒否された我々の仲間の為に沈黙を守る席だ」という横断幕を掲げて、サポーターたちは一切声も上げず静まりかえっている。一種のストライキだな。 そのうちに、警官たち数人がサポーター席に乗込んできて、その横断幕を納めさせた。 (警官とは何事と、仰言るか。実は、数試合前に Western Sydney Wanderersが負けたときに、サポーターたちは荒れ狂い、ピッチの中にペットボトルを投込むわ、発煙筒をたくわの大騒ぎになり、次の試合から、スタジアムの前にRiot Police(暴動鎮圧警察)と書かれた、警察特別仕様の黒いランドクルーザーが3台も駐まり、騎馬警官も3人と馬3頭が配置され、サポーター席は大勢の警官が前後を取り囲む事態となったのだ。) 静まりかえったサポーター席というのもつまらない物で、警官たちが横断幕を納めさせてサポーター席から引き上げると、観客たちが腕をサポーター席に向かって突き出して「RBB,RBB」と叫びだした。 RBBとは、Red and Black Blockと言う意味である。 横浜マリノスが、トリコロールと言って、赤、青、白の三色をシンボルカラーとしているように Western Sydney Wanderersは赤と黒がシンボルカラーである(だから、私達家族も Western Sydney Wanderersの試合を観戦に行くときには、赤と黒の服装に身を固める) Blockと言うのは、サポーター席の事である。 「RBB」と叫ぶことで、観客は、 Western Sydney Wanderersのサポーター達に、何時ものようにやってくれと、催促したわけである。 すると、その催促に答えて、 Western Sydney Wanderersのサポーター達は、待ってましたとばかりに、応援を始めた。 観客も喉の渇きを癒されたがごとくに、サポーター達に合わせて、声を上げ、歌を歌い、手を叩き、場内は熱狂に包まれた。 私達家族も、喉がかれるまで、叫び、歌を歌い、手が痛くなるまで叩き続け、スタジアム全体を包む熱狂の渦に巻き込まれて、その熱に酔った。 しかし、横浜マリノスのサポーターたちは品が良すぎる。 観客全員を自分たちに巻込む事をしない。 しかも、途中で、全く音も声も発しない時間がかなりある。 それは、つまらない。 何のためにサポーター席にいるのか。 Western Sydney Wanderersのサポーター達は、試合が始まる前から、終わった後まで、声を出し続け、観客たちを巻込む。 横浜マリノスのサポーター達は素晴らしいと私は常々思っている。 今日一緒になった大阪から来たという方も、マリノスのサポーターは、大阪の他のチームのサポーターより遙かに見事だと、讃めておられた。 しかし、私はもっと欲張りである。 Western Sydney Wanderersのサポーターたちのあの疲れを知らぬ休み無しの応援と、スタジアム全体を巻込むサポートを横浜マリノスのサポーターにも、して欲しいと思う。 今は、サポーターと観客の間に、隙間がある。 これは、サポーターとして考えて貰いたいことだ。 サポーターの観客に対する働きかけがない。 自分たちがサポートしているから良いという物ではないだろう。 観客もサポーターも一致して横浜マリノスを応援してこそのサッカーではないか。 横浜マリノスのサポーターたちよ、日産スタジアムの観客に働きかけて、スタジアムを熱気の渦に巻き込んでくれ。 私は、3ヶ月ぶりに、3月25日に秋谷に戻り、28日には、東京駅・ステーション・ギャラリーで、木村荘八の絵画展、銀座のソトコト・ギャラリーで、葛飾北斎展を見て、4月3日には、三十年ぶりにお会いした編集者の方が秋谷にいらして下さり、4月5日には福島第一原発の敷地内を見学し、9日には、小学校の同級会で小田原に行き、などしている。 特に、4月5日の福島第一原発敷地内見学についてはご報告しなければならないと思っているのだが、ある事情があって、まだご報告できない。 (お前に、報告して貰う必要はないよ、と仰言る方もおられると思うが、福島第一原発の敷地内に入る機会がない方も多いと思うので、余計なことと思うが、報告したいのだ) 「ある事情」などと言うと、大げさに聞こえるが、何のことはない。私に同行してくれた安井敏雄カメラマンが敷地内で撮影した写真の検閲を東電がしていて、まだどの写真が使って良いという許可が出るのか分からないからだ。 写真無しの報告だと、淋しいからね。
- 2013/02/14 - 「美味しんぼ」の「福島の真実篇」について今、私は「美味しんぼ」の「福島の真実篇」を書いている。 ビッグ・コミック・スピリッツ誌の連載も、今週で3回目になった。 福島の取材は、2011年の11月から始め、2012年の12月に、一段落付けた。 福島県は、地図を見ると分かるが、東西に、海岸沿いを「浜通り」、中央の山間地を「中通り」、新潟県沿いを「会津」と分けてよぶ。(画像はクリックすると大きくなります) 結局1年とちょっとの間、福島に通ったのだが、非常に厳しい取材だった。 それ以前に「被災地篇」を書いたときの取材も厳しかった。(単行本第108巻「被災地篇・めげない人々」) 私は「美味しんぼ」の中で、東北各県を取材して回っていて、その際にお世話になった方達が震災の後どうして居られるか、それが心配になって、宮城、岩手、青森各県を回った。 実際に、巨大地震と津波の被害にあって、生活の基盤を破壊されてしまった方達に被災の実態を伺って歩くのは、その中には親族の方を亡くされた方も居られて、辛い取材だった。 しかし、さすがは粘り強い東北人だけ有って、皆さんめげずに復興に取り組んで居られた。(その実際の姿を、単行本第108巻で是非ご覧になって頂きたい) しかし、その中で、殆どの方が、「復興しようと努力しているんだが、福島の原発のことを考えるとなあ、ふっ、と力が抜けてしまうんだよ」と仰言った。 たしかに、福島の原発にもう一度何か大きなことが起こったら、宮城も岩手も青森も、復興どころではなくなってしまう。 そうは言いつつも、皆さんしっかり復興への努力を続けておられる。 昔通りには仲々簡単には戻らないだろうが、それでも着実に歩み続けておられる。 さて、それでは福島はどうだろうか。 福島については、色々な方が、それぞれの立場から意見を述べておられる。 福島県の人は全員福島から避難するべきだという人。 少なくとも子供達は全員雛させるべきだという人。 福島は全く安全だ。福島が危険だという人達は悪質な扇動家達だと言う人。 同じ福島を論じるのに立場が違うとどうしてこんなに言うことが違うのだろう。 立場が違うんじゃない、私の言うことが理にかなっているのだ、と言う人もいる。 では、一年間取材した私の福島に対する考えはどうなのか。 勿論、私には自分自身の考えは出来た。 この一年、心身共にくたくたになるほど福島に打ち込んできた。 自分独自の考えを抱かぬはずはない。 しかし、私は決めた。 「美味しんぼ」の福島篇では、私がどう思うかを表明することは止めにする。 反原発であるとか、原発推進であるとか、そのようなことを漫画の中で言うのは止めた。 そのような、一つの意見で漫画全体に色を付けてしまうと、なにやら、宣伝パンフレットみたいになってしまう恐れがある。 一つの考えを読者に押しつけるのも嫌だ。 で、私は、今回の「美味しんぼ」福島篇は「福島の真実篇」とした。 私が見てきた福島の真実を、その真実の姿だけを書く。 それに対してどう考えるか、それは読者にお任せする。 私は読者が色々と物を考えるための材料を提出しようと思うのだ。 今までに、テレビ、新聞、雑誌などで、福島について大量に報道されてきた。 しかし、それを受けとる方は、何か断片的に情報を得るだけで、福島で一体何が起こっているのかその全体を一つの形にまとめることは難しいのではないかと思う。 「美味しんぼ」はその点を考えて、福島の真実をまとめてつかめるように工夫した。 「美味しんぼ」を読んで頂ければ福島の真実を大括りにして掴む事が出来るとおもう。 そこで、私は漫画の持つ記録性に賭けた。 「美味しんぼ」は連載開始以来三十年になる。 しかし、三十年前の第一話を、まだコンビニエンス・ストアで売っている本で読むことが出来る。 現在の「美味しんぼ」の読者の中には、「美味しんぼ」が連載を開始する以前に生まれた方も少なくない。 そう言う方も、読んで頂けると言うことは「美味しんぼ」は三十年以上の寿命を持っている、それだけの記録性を持っている、と言うことだと思う。 漫画の持つ優位性は、新聞・雑誌などの記事より遙かに長い間世間に流通する、長い間世の中の人々に漫画の内容を伝え続けることが出来ることだと思う。 だから、ここで安易に一方の偏った意見を漫画に書いてしまうのは間違いだと私は思ったのだ。 私のするべきことは、まず、現地をしっかり見て回ること。 そして、見て回ったことを漫画に、記録として残すこと。 漫画は、絵とセリフが一体となっているので、その場の状況を理解しやすい。 「美味しんぼ」の「福島の真実篇」を読んで頂ければ、何が福島で起こっているのか、はっきりと、しかも、きちんと全体像を理解して頂けると思う。 これが、私の今回の「美味しんぼ」「福島の真実篇」に対する態度である。
- 2013/01/27 - 小野伸二選手のPKで勝ったぞええ、こんち、またサッカーのお話しで、どちらさまもご迷惑さまで、恐れ入りましてございます。 今日は、Australia Day. 1788年1月26日にArthur Philip船長が、シドニーにイギリス国旗を掲げたのを記念して作られた祝日で、建国記念日にも当たるそうで、あちこちでお祭り騒ぎが行われるし、花火も打ち上げられる。 オーストラリアの国旗を窓に掲げて走る車を何台も見る。オーストラリアの先住民、アボリジニーたちに取っては耐え難い日である。 そんな日に、小野伸二選手の所属する、WSW(Western Sydney Wanderers)とMelbourne Heart FCとの試合が行われた。 いつも通り家族五人で観戦に行った。 今日は、日本人の観客が大変に多かった。 私たちの周りに、日本人の観客が多く、うっかり日本語でまずいことはしゃべれない。 私たちの前列に六人連れほどの日本人の家族が来ていたが、その中の小学生の男の子が、私の長男に、英語で、「貴方は小野伸二の親戚か」とたずねた。 長男は坊主頭で、ちょっと見た目に小野伸二に似ていないことはない。その小学生は、もう、日本語より英語の方が楽にしゃべれるようになってしまったのだろう。姉と弟では英語でしゃべっている。私は、自分の子供が日本語をしゃべれなくなったら困るから、シドニーに来て、家族の中で英語で話したら、罰金を取ることにしていた。私たちと一緒に住んでくれていた連れあいの母が美しい東京弁を話したので、今でも私の子供達は、日本の人が「今頃の日本の若い人はこんな風にしゃべれません」とおどろくほど、昔どおりの日本語をしゃべることが出来る。 最前列には、「小野伸二頑張れ」と書いた横断幕を持った日本人女性の一団がいる。 私たちが、WSWの試合を見に来たのは三回目だが、最初より驚くほど日本人の数が増えた。 シドニー在住の日本人の間に、小野伸二選手の話しが広がっているのだろう。 今日の試合ほど、ストレスぎんぎんの試合はなかった。 開始早々、WSWの選手が、ペナルティ・エリアでレッド・カードを取られて、一発退場。 そして、相手によるPKである。 もう駄目だと思ったが、WSWのゴールキーパーの奇跡的なセーブで助かった。 しかし、そのあと、一人欠けると、流石に不利だ。 今日は、いつもの、Youssouf Hersiと言うオランダ人のMF(オランダ人だがエチオピア生まれで、肌の色は黒く、細身で精悍で、極めて足が速く、動きが素晴らしい。小野伸二選手はこのユスフに球を回すことが多い)と、Dino Kreisingerと言うクロアチア人のForwardがいたので、小野伸二ひとりに、重荷が回る展開にならず、有利に運ぶと思っていたのに、のっけから一人退場だから、たまったものじゃない。 それでも、しのぎにしのいで、何度かCKを取り、その度に小野伸二が良いセンタリングを入れるのだがWSWには小野伸二のセンタリングを生かすことの出来る選手がいない。 前半はしのいで、後半に入って十分過ぎくらいに、今度は攻め込んだユスフが相手に倒されて、PKを取った。 PKを蹴るのは、小野伸二選手である。 私たちの目の前で、小野伸二が蹴る。 会場に詰めかけた日本人観客は、私たちも含めて、「頼むから入れてくれ、ああ、でも、もし入らなかったらどうしよう」と、みんな、がちがちに緊張して青ざめて、私なんか吐き気がした。 小野伸二選手の緊張は推して知るべきである。 しかし、小野伸二はすんなりと決めた。 その瞬間のスタジアムの騒ぎをなんと言ったらよいのだろう。 全員総立ちで、両手を振り回して「シンジ・オノ! シンジ・オノ!」と声を限りに絶叫する。 正に歓喜の尺玉花火、100連発だ! 小野伸二選手も、百戦錬磨の名選手とは言え、流石に緊張していたらしく、PKを決めた後、自分のユニフォームにキスをしたり、観客の声援にほっとした笑顔でこたえたり、あとはチームメートに揉みくしゃにされた。 その後、小野伸二選手は相手のキーパーと衝突してしばらく立てなかった。 それを、レフリーが気づかないので、観客が大騒ぎ。 あわてて、レフリーが試合をとめた。 小野はしばらく倒れていたが、やがて元気に立ち上がった。 観客は「シンジ・オノ! シンジ・オノ!」とその勇気を褒め称えた。 ところが、またしばらくして、今度は脚を引っかけられて倒れて、矢張り起き上がって、観客から大声援を受けたが、WSWの監督は、既に1点入れていることだし、ここで小野に休んで貰わないと、次の試合から困ると考えたのだろう、残り十五分くらいで交替してベンチに下がった。 その時の観客の、拍手声援も凄かった。 小野伸二選手は、Western Sydney地区のサッカーファンに熱烈に愛されている。 ロスタイムに、危うく1点相手に入れられると思ったが、ゴールキーパーが身を犠牲にして防いで(頭に怪我をした)何とかしのいだ。 とにかく、勝った。 こんなにほっとしたことはない。 前回、負け試合の後、サポーター達が暴れたので、何と今日は、特別の警官隊、Riot Squad 暴動取り締まりのための警官隊が派遣されていて、サポーター席を取り巻いていた。 会場の外には、騎馬警官がいるし、恐ろしく物々しい警戒だった。 長男はふざけて、「残念だな、この、Riot Policeの活躍を見たかったな」と言った。 おいおい、それは、WSWが負けたときの話だろう。 いやあ、本当に勝って良かった。 大勢詰めかけていた、日本人観客もほっとしただろう。 今日は、日本人の公式カメラマンが二人、会場内にいて、ピッチにも入って写真を撮っていた。 観客席の日本人観客の写真も、小野伸二選手の名前を書いた横断幕の写真も撮っていた。 日本のメディアに載るのかな。 小野伸二選手の活躍が余り日本で騒がれて、また日本に連れ戻されたら、私たちオーストラリア在住の日本人は淋しいな。 小野伸二選手には、活躍して欲しいし、活躍しくれると本当に嬉しいし、でも、これが目について日本に連れ戻されるのも困るし、大変に複雑な心境です。 今日の勝利で、WSWはオーストラリア、A-リーグで三位になった。 今シーズンから参加したばかりのチームがいきなり三位とは凄い物で、やはり小野伸二の貢献は大きい。 このまま行けば、一位も無理ではない。 本当に、小野伸二選手って凄い選手だな。 しかし、当分、WSWのホームでの試合はない。 しばらく、サッカーの楽しみもお預けだ。 矢張り、サッカーというものは、テレビで見るよりスタジアムで見た方が百倍面白いからなあ。 と言う訳で、今夜はとても幸せに眠れます。 小野伸二選手、有り難う。 体を大事に、これからも頑張ってね。 付け加え、その1。 オーストラリア人の声は凄まじく大きい。 私は、耳が、キンキンして去年患った突発性難聴が再発するのではないかと恐れた。 次女はちゃんと耳栓を持ってきていた。 オーストラリアのサッカー場の騒ぎのすごさは分かるでしょう。 サポーター達は試合の始まる前から、騒ぎ続け、歌を歌い続け、頻繁に両手を前方に突き出して色々なことを叫ぶ、それに我々も合わせなければならないから、私たちの周りの大声も凄まじいことになるのだ。 付け加え、その2。 私たちは、いつも、チキンカツのサンドイッチを弁当に持って行く。 有機栽培の素晴らしいニワトリが手に入るので、しかも、その腿たるや、信じられないくらいに太いので、そのもも肉を開いてカツに揚げる。 これが、美味しいんだ。 私の家では、完全有機ではないが、殆ど有機に近い素晴らしい豚肉も手に入るのだが、最近はとんかつはやめて、チキンカツ専門になってしまった。 今日は、トルコ風のパンに、チキンカツ、レタス、アボカド、と言う単純なサンドイッチだったが、いやこれが旨い。 これも、サッカーを見に行く楽しみの一つなのだ。サッカー・スタジアムで食べるチキンカツ・サンドイッチはもう最高。 ただ、残念なのは、このスタジアムで売っているビールはひどくまずくて飲む気になれないことだ。 仕方がないから、長男は自分の好きなビールを魔法瓶に詰めて持って来る。 私は、ほうじ茶の冷えた物を魔法瓶に詰めて持って来る。 今度は焼酎か、ウィスキーの水割りを魔法瓶に入れて持って行くことにしよう。
- 2013/01/25 - 国賊とか、切腹とは何のことだ13-01-25 国賊とは何のことだ。 実は、この記事は、1月18日にこのブログに載せた物だ。 しかし、ここに書いた人物、石原慎太郎氏を私は心底嫌いなので、氏の名前を私のこのブログに書くことだけで、このブログが穢れるような気がして、翌日、書き込みを削除したのだ。 しかし、その後の、日本の動きを見ていると、沈黙している訳にはいかないと思い、嫌な人間の名前を書かざるを得ないが、再び乗せることにした。 2013-01-18付けの読売新聞ネット版によると、 《小野寺防衛相は17日夜のBSフジの番組で、鳩山元首相が中国側に対し、沖縄の尖閣諸島をめぐり、「係争地である」との認識を中国側に伝えたことについて、「中国側は『実は日本の元首相はこう思っている』と世界に宣伝し、国際世論を作られてしまう。言ってはいけないが、『国賊』ということが一瞬頭のなかによぎった」と述べ、激しく批判した。》 私は鳩山氏の擁護をするつもりは一切無いが、この小野寺防衛相の言うことはあまりに馬鹿げている。 現在目の前で起きていることをきちんと、しっかり見ることが出来ない、認識できない、どこか頭に変調を来している人間でしかこんな事は言えないだろう。 現実をちゃんと見なさい。 中国が,尖閣諸島の領有を主張して、中国国内では反日暴動を起こす、尖閣諸島近辺には艦船を派遣する、戦闘機が尖閣諸島周辺の日本の領空を毎日のように侵犯している。 これこそ、尖閣諸島が日中の係争の地となっていることの証拠だろう。 この防衛相は何を言いたいのか。 「尖閣諸島は日本の領地と決まっているから、そこの領土権争いはあり得ない」と言っているのか。 目の前で現実に起こっていることを、見ないようにするのか。 挙げ句の果てに、防衛相は鳩山氏を「国賊」と言いたかったようである。 「『国賊」ということが一瞬頭に中によぎった」 こう言う言い方は、政治家がよく使う手法で「私は『国賊」とはいっていませんよ、ただその言葉が頭をよぎっただけです」といえば、それで「鳩山氏を国賊である」とはいわなかったと、強弁できる。 しかし、一般には、「鳩山氏は国賊である」というメッセージは充分に伝わる。 だが、なぜ鳩山氏が「国賊」なのか。 「国賊」の定義はどの辞書でも簡潔である。 広辞苑でいえば、 「国を乱す者。国に仇する者。」 と言うことになる。 鳩山氏は「尖閣諸島が係争地である」と言ったことで、何か国に害をなしたか。 「国賊」とは重い言葉である。政治家が他の政治家に対していったのだから、その重さは格別である。 防衛相は、はっきりと、鳩山氏が国賊であるゆえんを、明確に述べなさい。 「安倍政権」は、「尖閣諸島は日本の領土」ということは決まったことであるから、それを中国と争うことは、既成の日本の国益を損なうことである、と言う考えなのだろう。 だから、「尖閣諸島」では、領有権の争いなどあり得ないと言う超然とした態度をとりたいと思うのだろう。 それは、安倍内閣の防衛相として無理なことである。 なぜなら、親分の安倍晋三氏は「尖閣諸島は日本の領土である」ことを主張し、2013-1-06日のNHKのニュースによると、《領空や領海が侵犯されないよう万全の態勢を整える必要があるとして、航空自衛隊の戦闘機や海上保安庁の巡視船の運用の見直しを指示》した。 これで、安倍内閣が、尖閣諸島問題に対して超然とした態度をとっていると言えるか。 明らかに「日中の係争の地となっている」ことを、安倍晋三氏が上記の文で明らかに明言しているではないか。 さらに、航空自衛隊は、領空侵犯してきた中国機に対しては曳光弾を使って威嚇するといっている。 これに対して、中国政府は「曳光弾を発射した段階で攻撃された物と受取って対抗する」といっている。 ただ、航空自衛隊の話を聞くと、これは中国軍の、意図的かそれとも無智故のことばなのか、この曳光弾発射は、相手の飛行機に向けて撃つ物ではなく、航空自衛隊の飛行機は、相手の飛行機と平行に並んで飛び、その間に前方に向けて曳光弾を撃つのだそうで、相手の飛行機に対して180度の方向に向けてうつのだから、相手の飛行機に何らの被害も及ぼさない、のだそうだ。 それを、正確に知って知らずか、中国政府は威嚇してきている訳だが、このような事象を踏まえると、尖閣諸島はあきらかに「紛争地」である。 防衛相の意図は明かである。 今の状況を、日本側に損が及ばないように穏便に収めたい。 だから、あの状況を「係争」といって欲しくない、ということなのだ。 その状況を正しく「係争」といった鳩山氏は安部政戦にとって不都合である。 そこで、鳩山氏を「国賊」扱いしたのだろ。 ああ、なんと言う現実に対する認識不足だろう。 鳩山前首相は「国賊」なのではなく、「安倍晋三」一派が鳩山氏の言葉を気にいらないことでしかないのである。 安倍内閣が勝手に自分たちを「日本国」である、と僭称するのはやめなさい。 安倍内閣の意見に染まない物を国賊と呼ぶとは、思い上がりも甚だしい。 知的劣化の度合いが進みすぎていないか。 中国は、今や、ナショナリズムをかき立てることで、国の舵取りが上手く行っているのである。 中国は、江沢民が反日政策を推し進めることで「外危内安」政策で中国の国民を導いて、経済発展を進めて来た。 「外危内安」とは、「外が危ない、外に敵がいる」と国民を煽り、それによって「国の内部の統一を図る」という、昔から権力者が取ってきた国を動かす手法である。 中国は、1989年の天安門事件以後、国の内部の言論を弾圧すると共に、国民の関心を外に向けるために「反日」をそれ以前の政権には見られない勢いで煽り立てた。 国民の不満を、「反日」に向けて、国内の政治不安を押さえてきた。 日本が戦後六十年以上になるのに、きちんとした戦後処理を行って来なかったことが大本にあるのだが、江沢民自身が非常に日本嫌いと言うこともあって始めた「反日」政策がここまで、中国国内に留まらず在外中国人の間にまで深く広がるとは江沢民自身考えなかったことなのではないだろうか。 大の日本嫌いの江沢民には、満足のいく結果なのかも知れないが、これから最低百年間は憎まれる日本だけでなく、憎む中国にとっても、好い果実は望めないだろう。 そもそも、尖閣諸島を「係争の地」に仕立て上げたのは、前東京都知事である石原慎太郎氏である。 石原氏が都民の税金を使って、尖閣諸島を買った(私は、それまで、尖閣諸島が個人の、それも日本人の持ち物だったということを知って驚いた。) そこを慌てて、野田首相が、尖閣諸島の国有化宣言をした。 それまでの日中の合意では、「尖閣諸島問題は棚上げにする」という物ではなかったか。 もちろん、それまでに、尖閣諸島問題について日中で色々論じられていたが、尖閣諸島を買い上げ、国有化すると言う具体的な行動に出るのは、棚上げ論から大きく逸脱している。 中国は、それでなくとも、現今の経済的な不振から国民の目をそらさせるためにナショナリズムを煽りたいところだった。 そこに、尖閣諸島を都が購入して、さらに国有化する、と言う行為は、飛んで火にいる夏の虫と言うべき愚行で、中国からしたら待ってました、と言うところではなかったのか。 日米戦争開戦前に、日本海軍はパール・ハーバーを攻撃した。 これで、アメリカ人の対日抗戦意欲は一挙に爆発して、アメリカは「先に攻撃されたから」ということを大義名分にして、原爆投下も、非戦闘民虐殺の日本各地の大爆撃も、全てをパール・ハーバーを原因にして正当化することが来た。 今度の、尖閣諸島を都が買い上げ、国有化したことも、中国にとっては、パール・ハーバーみたいな物だろう。 その結果が、中国各地での反日暴動であり、日中貿易の甚だしい落ち込みである。 石原慎太郎氏の愚挙に始まり、その愚挙に釣られた野田首相の盲動に、中国は一気に乗ってきた。 一国の指導者達が、天文学的な数字の巨富をため込むとは現代の世界では考えられない事なのだが、中国の指導者達は、上から下まで、非常識な額の富をため込んでいる。 江沢民に至っては、清国最後の皇后、西大后の別荘を自分の住まいとしている。 清朝の皇帝気取りなのだ。 このように腐敗した上層部は、自分たちの権力の足下を掬われないように、外危内案政策をさらに推し進めて、日中友好など知ったことではない、自分たちの権力の維持拡大に全力を尽くすだろう。 中国の新しい指導者、習近平は胡錦濤以上の保守・強硬派だという。 日中関係はこうなってしまったら、五年や十年でどうなる物でもないだろう。 情けない話だ。 それにしても、だれも、この騒ぎの元凶である石原慎太郎氏を批判しないのは何故なのか。 正直に言わせて貰うが、氏の知的後退はかなり顕著ではないか。 時々、インタビューの際に、ぽけーっと放心したような顔をする、そして思い出したような紋切り型の乱暴な言葉を口に出す。 都庁に出て来るのは週に、二、三回だったという。 殆ど知事としての公務が出来ていない状況だったようだ。 老人性の知的後退の進んだ人の見せる行為として、後先の見境なく自分の子供っぽい勇ましい言辞をひけらかすことがある。 氏は今回尖閣諸島を都の税金で買うと決めたときに、どのような精神状態にあったのだろう。 知的に後退した老人の、思いこみ、きまぐれで、日本と中国の関係がこれ程までに険悪になってしまった。 普通の人間なら、それに対して何とかいうべきだが、氏は、一言三言、紋切り型の論理を全く欠いた単語を並べるだけである。 知的で論理的な言葉を、原稿用紙一行の文書でも並べる力がないようである。 氏は「若い者がちゃんとしないから八〇歳の私がしなければならないんだよ」といった。典型的な、耄碌した老人の言葉である。老耄した人間はこのように、自分に従う無力な手下共を脅かすのが好きなのだ。 日本経済に大きな痛手を与え、日中友好を破壊した、石原慎太郎氏こそ真の「国賊」である。 氏が,日本と中国に与えた損害は、巨大である。 日本の「経団連」なり、経済団体は、どうして氏を訴えないのか。 大体、七十歳以上の政治家は、MRIによる、各自の頭脳の画像を公開するべきだ。 私も自分の頭脳のMRI画像を見て、愕然となった。 年相応に、頭脳は萎縮しているし、意識もしていないのに梗塞の痕も幾つもある。 これが、自分の頭脳の真の姿であると見せつけられると、脚が震えた。 さて、石原氏のMRI写真はどうであろうか。 氏の、最近の言動と合わせて、ぜひ公開するべきである。 「国賊」の頭の中身を見たいと思うのは私だけではないはずだ。 衆議院議員でしょう。みんなに、少なくとも投票してくれた人達には見せなさい。 それは、義務ですよ。 と、以上は1月18日に書いた物である。 その後、鳩山氏が中国から帰ると、安倍晋三氏に忠誠を誓おうとする人間達は、鳩山氏に「切腹しろ」などと言った。 恥の上塗りとはこのことで、恥を知らないからどんどんその上に恥を塗っていく。 念を押すが、私は鳩山氏自身を支持する訳ではない。 しかし、尖閣諸島が係争地であると言う事実を押し隠して何をしたいのか、その連中に尋ねたい。
- 2013/01/06 - 負けちゃったい今日の、Western Sydney Wanderers(WSW)と、Central Coastの試合を家族で見に行った。 なんだか、先週の結果が良すぎたので、ちょっと嫌な予感がしたのだが、ああ、私は、幸せな予感はことごとく外れ、悪い予感はことごとく当たる、と言う無残な星の下に生まれた人間なので、今日も悪い予感が当たってしまった。 小野伸二の属する、WSWは0-2で負けちゃったい。 Central CoastはAリーグのトップである。 流石に、素晴らしく連携の取れたサッカーで、WSWは歯が立たなかった。 WSWも、小野といつも連携して活躍している二人の選手が、累積レッドカードで出場できなかったのが痛かった。 小野も先週のような精彩は欠いたが、如何せんサッカーは一人でするゲームではない。 小野のパスを受けることが出来ない未熟な選手ばかりでは、小野も真価を発揮できない。 いつもは、アラブ系のユセフが前線を走り回って球を広い、ドイツ系のクライシンガーが小野と連携を取って動いて、WSWは上手く行っていたのだが、今日は未熟な若手ばかりで、なにかもちぐはぐで、連携が取れず小野も自分の処にきちんとしたボールが回ってこないのでは何もできない。 小野がパスを回してやっても、これは絶好というセンタリングをしてやっても、それに他の選手がついてこられない。 WSWは今年の十月に、オーストラリアのAリーグに加入したばかりの新参チームなので仕方が無いと言えばそれまでだが、それにしても、今日のゲームはひどすぎた。 サポーターも最後には頭に来て、相手チームのゴール・キーパーにペット・ボトルをボンボン投げ始めた。 飛んでもないことである。 長男は、「ここの、ウェスターン・シドニーは柄が悪いところなんだよ」と言った。 それにしても、ヨーロッパのフーリガンの真似をすることはないだろう。 しかし、ここで、小野が、良いところを見せた。 WSWのフーリガン達を手で制して、彼らが投込んだペット・ボトルを拾ってピッチの外に出し始めた。 それを見た、一般観客から、拍手が起こった。 一般観客はフーリガンの態度を不愉快に思っていて、それを制して自らペット・ボトルを拾い始めた小野に、拍手と声援を送ったのだ。 小野の態度は、大変に見事だった。 試合の後半、私たちの目の前で、小野が、ゴールになだれ込んで、素晴らしいシュートを放った。 これが決まっていれば、今日の試合はどうなったか分からない。 しかし、残念ながら、ゴール寸前で、相手のディフェンスが身を挺してボールにぶつかり、小野のシュートはならなかった。 試合の後が大変だった。 WSWの全選手は、まず、向こう正面のWSWのファン達、次にゴール後ろのサポーター達、そして、正面の席に回って全員で挨拶をする。 ところが、小野一人が、向こう正面の段階で、次々にファンに捉まる。 小野は律儀に、サインをしたり、一緒に写真に写ったりして上げる。 サポーター席では、サポーター達と抱き合ったりする。 向こう正面から、正面に回って来るのに30分以上かかった。 他の選手たちは全員ロッカー・ルームに引き上げてしまっているのに、小野は一人でファン・サービスに努めたのである。 正面に回って来た段階で、流石に小野も疲れただろうし、警備の人間にも促されて最後は、両手を頭の上に挙げて拍手してこたえるだけで、ロッカー・ルームに引き上げようとしたら、背広姿の人間が、小野に正面の観客席を指さして、「挨拶をしてやってくれ」と促した。 なんと、試合がすんで30分も経つのに、正面の席には小野が回って来るのを待って大勢の人間が残っていたのである。(私たちも、その中にいた訳だが) 小野は、いやがらずに、正面の観客席の前を回って、声援にこたえた。 今日は残念だったが、小野のことだから、次の試合には良いところを見せてくれるだろう。 WSWの次のホームでの試合は26日である。 さっそく、家族全員のチケットを購入した。 26日には、嬉しい報告をします。 いやあ、サッカーは本当に楽しいな。 そして、小野がシドニーに来てくれて本当に嬉しい。
- 2013/01/02 - 今年も、小野伸二は凄いぞ!1月1日、小野伸二が所属するWSW(Western Sydney Wanderers)とMelbourne Victoryの試合があった。 この試合での、小野の凄いこと。 2対1でWSWが勝ったのだが、WSWの2点とも小野が取った物だ。 最初の得点は凄かったね。 味方から回って来た球を、右脚で受けて、その球をまるで脚でお手玉をするみたいにポン、ポン、ポンと上に蹴りながら移動し、その間に相手のディフェンスを交わし、最後にボールを地面に落とすと、得意の左足で、シュートだ。 テレビのアナウンサーが喚いていたね「First class shoot!」(第一級のシュートだ) それは、前半のことで、途中相手チームに、馬鹿な1点を入れられてしまった。 ところが、後半、またまた、小野が、怒濤の攻めで攻め寄って、ゴールの右上隅、キーパーがどんなに頑張っても手が届かないところに決めた。 もう、今日の、シドニーの新聞やテレビは凄いよ。 小野、絶賛だ。 小野も、テレビのインタビューに出て、英語で「I can do more」と言った。 そうだ、小野はどんどんやれるぞ。 6日WSWの試合、と言うより小野伸二を家族全員で見に行く。 ああ、楽しみだ。 どうして、サッカーって、こんなに楽しいんだろうか。
- 2012/12/31 - 2013年こそ良い年でありますように年の終わりに思うこと。 1)「国民である」とは不思議なことである。 私は、自分から望んで「日本国民」になった訳ではない。 両親が日本人なので、そのまま「日本国民」となって、現在に至っている訳である。 これは、日本に限らず、どこの国の人間も同じことだろう。(ただし、国家としての体裁と機能を持った国についての話である。世界には部族国家が乱立していたり、中央政府がなかったりして、国家の体制も機能もない地域が沢山ある。 その地域の人達は、「国家意識」「国民意識」を持つのは無理だろう。) 日本は、明治維新後に西欧式の「国民国家」の仲間入りして、「大日本帝国」を作り上げ、その後敗戦によって「日本国」と改称したが、名前が変わっても「国」の体裁と機能は変わらず、「日本国民」という形もそのまま続いている。 明治維新によって、何が何だから分からないうちに、「大日本帝国国民」とされた我々の親のまた親の親の世代はそのまま「大日本帝国国民」であることを受け入れ、私たちその子孫は自分の意志とは関係なく「日本国民」とされたのである。 私が日本国民である、と言うことは私の決めたことではないし、それに対して合意した訳でもない。 とは言え、考えてみれば、生まれたばかりの赤ん坊である私に両親が「日本国民となることに同意するか」と確かめる訳もない。 私にとって、日本国民となることは、他に選択のしようもないことだった。 これは、どこの「国民国家」でも同じことだろう。 私は「日本国民」であるから、日本の法律に従わなければならない。 日本の法律では、選挙で過半数の勢力を握った政党がこの国を支配することになっている。 今回自民党が国会の過半数の議席を獲得し、自民党政府が成立した。 私自身、自民党の考え方、すること、政策、に反対だが、選挙で過半数を取った政党が、国を支配するという法律がある限り、日本国民である私はそれに従わなければならない。 それにしても、選挙民の過半数を取った政党が政権を取る、と言う今日本の方式は必ずしも民意を正確に反映した物だとは言えないだろう。 何しろ、棄権した有権者が40パーセントを超えているのである。 自民党の比例区得票率は27.6パーセント。 有権者60パーセントの中の27.6パーセントだから、有権者全体では、 大雑把に計算して、60×0.276=16.56パーセント。 これだけの支持しかないのに、自民党が第一党になり、日本を支配する。 私も、自民党の支配に従わなければならない。 何だか腑に落ちない話である。 日本の今の選挙方式の一番の欠陥は、棄権率が非常に高いことである。 オーストラリアでは、選挙は義務であって、投票に行かないと罰金を科せられる。 従って、オーストラリアの投票率は100%近い。 これであれば、どんな選挙結果になっても多数決だから仕方がない、とみんなが納得するが、日本の今の方式では、本当の多数決とは言い難い。 昔、自民党の実力者が、「投票率が低い方が自民党に有利だから、選挙には出来るだけ来ないで貰いたい」と本音を漏らして物議を醸したことがある。 私は、投票率100パーセントに近づいてこそ、日本の選挙は意味のある物になると思う。 (ここが、民主主義の不思議なところだが、ヒットラーは民主的な選挙によって選ばれたんだよね。民主主義と選挙についての不可思議な関係については、政治学者などが色々書いているので、そのような本を一度お読み下さい) 今の日本は、帆柱が半分折れ、帆がちぎれ、動力機関が故障した機帆船のような物である。 しかも、周囲は台風で、次々に高波が日本丸を翻弄する。 日本丸はどこへ行くのか、操縦している人にも、乗客達にも分からず、荒海の中をいつ沈んでもおかしくない姿で、さ迷っている。 この日本丸を操縦する船長は次々に代わり、そして、いま安倍晋三氏が新しい船長になった。 安倍晋三船長が、この沈みかけてよたよたしている船の、船底の栓を引きぬかないことを願うだけである。 2)どうして、日本の経団連などの財界人、自民党、民主党などの政治家は単純な算数が出来ないのか。 安倍晋三氏は、 a)原発の再稼働を認める。 b)新しい原発の建設を認める と言う方針を決定し、経団連はその決定を大歓迎し、株価も年末にかけて上昇したという。 経団連、と言えば日本全体の経済の動きを左右する団体である。 この、経団連の主だった人達は、全て日本の大企業の頭だ。 彼らは、いわゆる学歴も世間的に見れば大変な物だ。 有名大学を卒業して、それぞれにまともな知的な思考能力に優れていると思われている人達である。 そういう人達であれば、中学程度の算数の学力は身につけているはずだろう。 原発の損得勘定は、単純に中学程度の算数の問題だ。 次の算数の問題を考えなさい。 P=原発を設立するためにかかる費用。 q=原発を維持するためにかかる費用。 r=原発を建てた地元の人間に対して支払う補償費(事故以前) s=使用済み核燃料の処理費。 t=四十年稼働した後に、廃炉にするためにかかる費用(最低三十年かかる) u=原発を稼働して得ることの出来る利益(電気料金) としたときに、 u≧p+q+r+s+t・・・・(A) が成り立つかどうか、考えなさい。 文章で言えば、原発を作ることによって得られる利益が、そのための諸々の費用を合わせた出費より大きくなるかどうか考えなさい、ということである。 この算数の問題の意味は誰にでも理解出来る物でしょう。 この6個の項目の中で、原発が利益になるのは、最後の1項目uだけである。 原発の採算が取れる為には、 uはp,q,r,s,tを合わせた物より大きくなければならない。 uが大きければ、原発は上手く行く。 uが小さければ、原発は採算が取れない。 ところが、 s=使用済み核燃料の処理費、は既に巨費を費やし、可能性のめどすら立っていない。 しかも、 t=四十年稼働した後に、廃炉にするためにかかる費用(最低三十年かかる) を、考えたら、式(A)が成立することはあり得ないことが子供にも分かる。 (この廃炉にかかる年数が凄いね。四十年使った後、最低三十年経たないと、原発に使った土地は使い物にならない。使い物になると言ったって完全に安全な物になるかどうかも分からない。しかも、それにどれだけの費用がかかるのかまだはっきりしない。この1点を考えただけでも、原発は金の亡者達が祭り上げる邪神であることが分かる) しかも、これは、原発に何事もなく、安全に運転されていてのことである。 一旦、今回のような事故が起こると、 p,q,r,s,tとは比較にならない巨額の《大損害の項目X》が加わる。 どのように考えても、 u<p+q+r+s+t+X である。 原発を作り、動かすことによって、経済的には大きな損失をこうむる。 原発が正常に動いているとき、その間には一瞬、uが大きく見えて、原発は具合がよいように経団連の受験秀才たちは思って、「ええわい、ええわい、具合がええわい」と喜ぶ。目先のことしか見えない人達である。 最初に原発を作った人達はすでに死んでしまった。 幸せな死だった。 p,q,rについても、実際は国民にとっては損失なのだか、それによって利益を得た人は少なくない。 しかし、その後に残された私たちは、s,tの重荷を負わされた。 私たちの世代はまだ良い。 次の世代の若い人達は、sとtを押しつけられるだけで、何の利益も得られないどころか、さらに最悪の、《大損害の項目X》が加わった。 最近の報告では、東電は、福島第一原発の処理のために10兆円を援助するように政府に要求している。 国家として途方もない大損失ではないか。 経団連は経済的な利益を第一に考える人々の集まりのはずだ。 経済を第一に考える人達が、どうして、長期的に絶対的に巨大な経済的損失を生み出す事が明らかな原発を今稼働させようというのか。 それどころか、新しい原発を作ろうとまでしている。 経団連の主だった人達の年齢を見ると、みんな六十代半ば過ぎである。 彼らは、自分の属している会社の社長とか会長である今の時期の自分の利益しか考えていないのではないか。 ルイ14世の愛人、マダム・ポンパドゥールは心ある人に「そんなに無駄使いをしているとフランスの経済が破綻してひどいことになりますよ」と忠告されたときに、「Après moi le deluge」(我が亡き後に洪水は来たれ。私が死んだ後に洪水が来るなら来たらいいわ)と言ったそうだ。 経団連も安倍晋三氏も、マダム・ポンパドゥールと同じ精神構造なのだろう。 自分たちさえ良ければよい。「後は野となれ山となれ」で知ったことではない。 そういう神経構造でなければ、いま、この時期に原発再稼働、原発新設など言えるはずがない。 日本の政治経済を動かす人達が、単純な算数の問題を考えられないのは、いや、敢えて考えようとしない姿は、日本だけでなく人類の悲劇である。 ど腐れである。 今年の最後に、もう少し明るい話を書きたかった。 しかし、今の日本の状況を真面目に考えれば考えるほど、途方もなく不吉な黒い影に包まれるような気がするのである。 2013年こそ、世界中に良いことがあって欲しい。
- 2012/12/21 - 小野伸二、凄かった!今日のWestern Sydney Wanderers(WSW)とAdelaide United の試合。 小野伸二の大活躍で、WSWが6対1で勝った。 WSWが取った6点の内、2点が小野伸二のお膳立て、1点が小野伸二自身のゴール、と言うように、小野伸二が大活躍してくれた。 特に3点目、相手ゴール左横にいた小野伸二に球が飛んで来た。 普通なら、胸で一度トラップして、センタリングするところだが、なんと小野伸二はそこでオーバー・ヘッド・キックでセンタリングした。 そこに、WSWの選手が飛び込んでヘッドで押し込んだ。 胸でトラップしてセンタリングしたのでは、相手のディフェンスに押さえられてしまっただろう。 その、瞬時にオーバー・ヘッド・キックでセンタリングする小野伸二の勘の鋭さ、見事さに、私は興奮した。 小野が決めたゴールも、これは自分でボールを持込んでの絵に描いたようなシュートで、胸がすいた。 SydneyとWestern Sydneyは大Sydneyの中に入っているが、なにやら行政的に違うようで、Sydneyの中のSydneyには(どうもややこしくて、申し訳ない)、同じリーグにSydney FCと言うのがあり、私の住んでいる地域の人間は、地域的に言えばSydney FCをひいきにするものであるらしい。 私がWSWをひいきにし始めたのは、単純に小野伸二が加入してくれたからであって、もし、小野伸二がSydney FCに加入していたら、そっちのひいきになっただろう。 小野伸二は十月に加入してから、週を追うごとにその良さを発揮している。 先週にも、Sydney FCとの試合があったのだが、ここでも、小野伸二のお膳立てから、WSWは得点した。 翌日のSydney Morning Heraldはスポーツ欄で、その試合を取り上げ、その小野伸二のパスを絶賛していた。小野がゴール左から絶妙のセンタリングをして、それをWSWのフォワードがシュートしようとしたが外した。そのこぼれ球を、その横にいたWSWの選手が押し込んだ。どうして、あのような位置から、あのように見事なセンタリングが出来るのか。ほとほと感心した。 今日も、会場での小野伸二の人気は大変な物で、後半5点も取った後、交代するときには、会場総立ちで「Shinji Ono!」の大合唱、手を叩くわ、足を踏み鳴らすわの大騒ぎ。スタンディング・オベーションなどと言う生やさしいものではなかった。 試合後、WSWの選手が会場を挨拶して回って最後に正面スタンドに並んだが、小野は仲々やって来ない、やっと最後にサンタクロースの帽子をかぶって現れた。 向こう正面から、サポーター席と回る間に、小野はあちこちで捉まって正面スタンドに回って来るのに時間がかかったのだ。しかも、途中で、観客にサンタクロース 帽子をかぶせられたという訳だ。 WSWのチーム全員が手を繋いで、万歳を繰返すと、会場中が大歓声で弾けた。 小野伸二が、こちらでも大人気なので嬉しかった。 小野伸二には来年もシドニーでプレイして貰いたいのだが、今日みたいに活躍すると、日本に呼び戻されてしまうのではないか。 スタジアムはマリノスの本拠地の日産スタジアムとは比較にならないくらい小さく、WSWの本拠地Paramattaはシドニーの中心部から外れているので、観客数はマリノスの試合の時に日産スタジアムに入る観客数に比べると大分少ないが、何しろ、オーストラリア人は乗りがよい。 サポーター達も良く動きが統一されていて、試合の間中歌を歌い、声援を送り、一瞬も活動をとめない。 他の観客達もそのサポーターに合わせて、声を張り上げ、手を叩く。 私も、連れ合いも、二人の娘も長男も、全員思い切り騒いだ。 この、観客全員が参加しての大騒ぎは日産スタジアムでは経験したことがない。 私は、明日、声がかすれて、上手く出ないのではないか。 面白かったのは、WSWが6点取った後、Adelaideが1点取り返したのだが、その時の観客の反応と来たら、嘆くでもなく、ブーイングをするでもなく、点を入れられたことに全く知らん顔。無視を決め込む。 かと思えば、5点取った後、サポーター達、観客達は、「We want six!」を大合唱する。6点目も入れてくれ、と言う訳だ。 ホームチームに対する観客の声援の仕方は、日本の観客より凄まじく熱い。 本当に楽しい一夜だった。 小野伸二、凄いぞ。 あの鮮やかすぎるオーバー・ヘッド・キックのセンタリングは私の頭の中に映像として残って消えないだろう。 と言う訳で、予告通り、嬉しいご報告でした。 今度は、1月6日の試合を見に行く。 また嬉しいご報告を致します。
- 2012/12/15 - 小野伸二がシドニーにやって来た今年のJリーグは、ガンバが2部に降格するなど、色々と波乱があった。 残念ながら、横浜マリノスは優勝からは遠かった。 日産スタジアムでの最終戦を見に行くことを楽しみにしていたが、去年から続けている「美味しんぼ」のための福島取材に重なってしまって行けなくなってしまった。 この取材は、1年間続けて来た福島取材の最後を締めるためにどうしても必要な取材であり、泣く泣く最終戦を諦めた。 福島で今後安全な農業が出来るのかどうか、それについては福島の人だけでなく日本中の人間が案じていることだと思う。 私は、5月と6月の田植えの準備の頃に取材をしてきたので、秋の収穫を迎えて果たして安全な米が獲れたのかどうか、どうしても知りたかった。 これは、重大なことであり、その結果の発表を聞くために福島に行かざるをえなかったのだ。 マリノスの最終戦を観戦することが出来なかったのは、今年の収穫米の検査の結果を正式に発表できるのが、どうしても12月過ぎになるという現地の事情があった。 特に、私は、去年の結果から今年は作付け禁止とされた伊達市で行われた試験田による栽培成績が気がかりだった。 その結果は、我々の危惧を覆して、大半の試験田で良い結果を上げた。 この結果から、来年はその地域の水田も作付けが許されるのではないだろうか。 この、福島での米作り挑戦の話は「美味しんぼ」の福島の真実篇で詳しく書く。 さて、そんなこんなで、シドニーに戻ってきたら、おお、なんと言う事だ、シドニーのクラブチーム「Western Sydney Wanderers」(以下WSWと略す)にあの、天才小野伸二が加入していたではないか。 オーストラリア一番の歴史と部数を持つフリーペーパー「日豪プレス」の表紙に掲載されていた。(写真はクリックすると大きくなります。) オーストラリアのAリーグに今年から参入したWSWに小野伸二が入団することが9月28日に決まり、三十日に来豪、そして10月6日WSWの歴史的な出発の第一戦から小野伸二は出場した。 私は、秋谷にいたから、その辺のことは何も知らなかった。 頭の中は、福島のことで一杯だし、サッカーとなるとマリノスと日本代表の試合に気持ちが集中して、小野伸二がオーストラリアに移るという大事なニュースを知らなかったのは、飛んでもない失策である。 小野伸二はその後も頑張っている。 何せ、WSWは出来たばかりのチームだから、仲々上手くは行かない。 12月15日現在で、Aリーグ10チームの中で4勝5敗1分の5位である(新参のチームとしては大出来だと思うが)。 小野伸二も、これまでの報道を見ると、Aリーグの得点ランキングに顔を見せていない。 これからの活躍を大いに期待するぞ。 オーストラリアは広い国なので、アウェイの試合を見に行くのは大変だ。 21日にシドニーで試合があるので、家族5人で小野伸二を応援に行くことにした。 これまで、余り関心を払ってこなかったAリーグだが、小野伸二のWSW入団にとって、他人事ではなくなった。 小野伸二に続いて、もっと日本選手が来てくれたら有り難い。 なんだか、とても楽しくなってきたぞ。 シドニーでもサッカー観戦が楽しめるとは嬉しいじゃないか。 日本ではマリノス、シドニーではWSWね! 21日には嬉しい結果をお仕えしたい。
- 2012/12/14 - 部落問題についての訂正前回、部落差別について書いた文章の中に大きな誤りがあることに気がついた。 過ちは他にもあるかも知れないが、取りあえず、二つばかり過ちを訂正しておきたい。 1)まず、上杉聡氏の著書「天皇制と部落差別」(1994年、三一書房刊)18ページを引用する。 《日本の歴史で、「奴隷的賤民」と「被差別部落」の二種類の賤民があり、「奴隷的賤民(古代では奴婢、中世では下人、近世では娼妓など)は所有にもとづき、「被差別部落」(穢多、非人、隠亡など)は排除にもとづく賤民だ、と言うことである。この二種類の賤民を明確に区別することは大切で、よく「部落」をあたかも「奴婢」のように考えて、売買されたり、単純にこき使われる賤民と混同している場合が多いことを残念に思う。「奴隷」と「部落」は異なっていて、とりわけて所有物として売買されるか否かは、両者の決定的な違いである。》 (註:「奴婢」とは、男女の奴隷。「隠亡(おんぼう)」とは死体の始末をする仕事をする人達) この上杉氏の指摘は正当である。 私は、前回の文章の中で、「部落民」「非人」を武力によって権力者に権力を奪われたものとして書いた。 それでは、受取りようによっては、「部落民」「非人」は「奴隷」であるとしかおもわれない。 しかし、現在「部落民」としてして差別されている人達の中には、武力によって権力を奪われ、被差別階級に落とされ人間の末裔もいるだろうが、それだけではない。 私の前回の書き方では正確ではない。 権力によって「穢多、非人、隠亡」などと区別され、その範疇に入れられ「部落民」とされた人が多いのである。 2)現在被差別部落人達への、差別する側の態度を見ると、自分たちとは違う人間として扱う、と言う側面が大きい。 必ずしも、「士農工商」のさらに下の階級として捉えられていたのではない。 むしろ、そのような階級社会の外にある人間、社会外の人間として扱われていた。 差別する側は、被差別部落民達を自分たちの社会の外にある人間として排除するのである。 したがって、被差別部落の人達を自分たちの家族、会社、仲間、に入れまいとする。 自分の下に見ることより、自分たちの社会に入る事を許されない者として排除する方がその差別の度合いは遙かに強烈である。 私の前回文章の中の大きな間違いの内の二つは以上である。 まとめると、 a)「被差別部落」の人達は必ずしも、武力的に権力を奪われた人達の末裔ではない。「穢多、非人」などのような枠組みに追いやられた人達が多い。 b)「被差別部落」の人達は、階級社会の、最下級のさらに下というのではなく、社会から「排除」されている人達である。この社会の「外の存在」として捉えられているのである。 社会に、その階級序列の最下層のさらに下としてでも加えられていれば、階級をよじ登って少しでも上に上がることも可能だが、その社会に加わることを「排除」されていては、努力のしようがない。 以上、前回の過ちの内二つを訂正しておいた。 被差別部落問題、差別問題は、非常に根が深く大きな問題だ。 あまりに、問題が大きく複雑で、一人の人間の意見が必ず他の人間の反対を買う。 しかも、差別をなくしたいと思って部落問題について書いても、当の差別を受けている人達から、余計なことを書いて寝た子を起こすようなことをするなとか、差別を助長するとか、差別の理解を妨げるとか批判されることも多い。 そういうことで、被差別問題については書くことをためらう人が多い。 物書きとしては勇気がいる。 そんなことを書いたところで、非難を浴びるだけで、何の得にもならない。 黙っている方が賢いだろう。 しかし、私も歳を取った。あと何年生きられるか分からない。 では、人が尻込みすることでも、書くべきことであるなら書いて行こう。 で、私は心を決めた。 被差別問題そのものを、深く追及し始めるときりがないし、専門家でもないので、決定的なことは書けないが、被差別問題を考えるきっかけになることを、中学生にも理解出来るやさしい分かりやすい形で、これから、このページで、書いて行くことにする。 あくまでも、部落問題を考えるための最初の手掛りを作りたいのである。 怠け者の上に、鬱病と闘いつつ生きている私なので、文章が早く進むとは限らない。 しかし、きちんと書くつもりなので、差別問題が分からなくて困っている人達に、分かりやすく考える道を付けることをお約束します。
- 2012/12/12 - 部落差別について私は、七歳の時から東京に住み、その後鎌倉に引っ越したが、人生の大半を東京・神奈川で過ごした。 従って、私の友人知人の殆どは東京・神奈川県の人間であり、大学に入って初めて、その他の地域出身の人間と知り合った。 こんな生き方をしていて、しかも、生活範囲も極めて狭かったので長い間私は「部落差別」について、言葉も知らず、その意味も知らず、そのようなことが日本に存在することすら知らなかった。 これは、私に限らない。互いに六十歳を過ぎた頃、私の小学校、中学校の同級生達に尋ねたが、自分たちが子供時代に「部落差別」という言葉を知っていたと言う人間は皆無だった。(いい加減な土地だったのかな。東京の田園調布というところは) 概して、東京近辺の人間には「部落差別」という言葉は耳になじみがないのではないだろうか。(もっとも、江戸時代に「非人」という言葉が普通に使われていて、浅草弾正という非人頭の存在も知られていたのだが) だから、私は中学生の時に島崎藤村の「破戒」を読んだ時に、その意味が全く分からず、まるで別の国での出来事のようにしか思えなかった。 大学に入る頃には、日本の社会についての知識も増え、部落差別と言うことが日本に存在することも、明治維新以後「水平社」という部落差別に対する戦いを続けて来た組織があることも学んだ。 とは言え、それはあくまでも頭の中の知識として知ったのであって、それも、他人事の問題として知ったのであって、自分自身に関わる問題として捉えることは出来なかった。 アメリカなどでの黒人差別に対しては強い反感を持ち、一般的な人種差別に対しては強い反対意識を持ちながら、自分の国内での「部落差別」に対して全く無智だったのである。 三十歳の半ばに、京都に行ったとき、タクシーの運転手さんにいろいろと京都市内を私の知らないところまで案内して貰ったが、あるところに来て、彼は言った、 「見て下さい、この道から向こうは別の世界です」 私は、彼の言葉の意味が分からず「どう言う意味なんですか」と尋ねた。 彼は、非常に率直な人間なので、はっきりと答えてくれた。 「部落ですよ。この道から向こうは部落なんです。京都の普通の人間は部落の人達とは付き合いません。私も、子供の時に、この道からむこうの子供達とは遊んではいけない、と言われていました。」 私は、心底驚いた。 「夜明け前」は単なるフィクションでもなく、百年前の話でもなく、現在の京都には厳として「部落差別」が存在するのだと言うことを、そのタクシーの運転手さんの言葉、態度からはっきりと理解した。 それまでにも、「部落差別」という言葉は聞いていた。 1963年には「狭山事件」が起こった。 埼玉県の狭山で女子高校生が殺害されたが、その犯人として死刑を宣告された人間が、部落出身故に罪を被された冤罪事件だとして、当時有名な作家などによって警察や検察に対する強い批判が行われた。 (1984年に被告とされた男性は仮出獄をし、無実を主張し再審を要求している) 漫画の世界でも、ある人気漫画がその登場人物の名前を、ある被差別部落の人間が多く通う中学の卒業名簿から取ったとされて、連載中止になった。 そんなことはあったのだが、目の前で、「ここから先の道は被差別部落です」と指し示された衝撃は私にとって大きかった。 「そんなことが実在するのか」という驚き、そういうことの存在を身近な物として捉えてこなかった自分自身に対する人間としての怠慢に対する驚き、二重の驚きに衝撃を受けたのだ。 私は、人が人を差別すると言うことが理解出来ない。 反対するより以前に、人が人を差別する理由が分からないのだ。 肌の色の違い、宗教の違い(無宗教も含めて)、体つきの違いなど、個々の人間の違いは分かる。 しかし、その違い故にその人間の人格を否定するような差別をする心理が分からない。 もし、相手が私に対して攻撃を仕掛けてくれば、それがどんな人間であろうと、私は自分を防御するために相手と闘う。 しかし、何も相手が自分に対して攻撃を仕掛けないのに、相手を敵、あるいは敵に準ずる者、あるいは自分以下の存在として扱う理由がない。 だから、差別という考え自体が私には理解出来ないのだ。 百歩譲って、自分自身と少しでも違う人間は自分とは区別して(差別と区別とは違う)て、敵あるいは自分以下の存在と見なすことがあり得るとして、(人種偏見の根底的な感情である)、同じ国に住み、同じ祖先を持ち、同じ言語を話し、肌の色も体格も私自身と何一つ違うことのないいわゆる「部落」の人間を、私はどうして差別できるのか。 これが、もう、私には全く理解不能のことなのである。 差別がよいとか悪いとか言う以前に、差別自体が不可解だ、と思う。 歴史を読むと分かるが、つい最近まで「奴隷制」が存在していた。 旧約聖書にも奴隷の存在自体を認める記述が沢山あるから、四千年以前から人類は奴隷制度を持っていたことが分かる。 昔の国家制度は、現在のように「国民によって作られる国民国家」制度ではなく、権力者が作る国家だったから、戦争によって相手の「国」を打ち破った者は、打ち破った国の住民を自分の思うように処理して良かった。 私の大好きな小説、アレクサンドル・デュマの「モンテ・クリスト伯爵」の中にも、モンテ・クリスト伯爵に忠実なアリという僕は、モンテ・クリスト伯爵が購入した黒人奴隷であり、モンテ・クリスト伯爵の最後の愛人となるエデも伯爵が奴隷市場で手に入れた者として描かれている。 この、「モンテ・クリスト伯爵」が書かれたのは、千八百年代前半(ナポレオンの後)のことである。 その時代には、フランスでも、奴隷(黒人・白人を問わず)の存在を読者はなんらいぶかしい物に思わなかった証拠である。 「奴隷」にされた人間は、その人間自身に何の咎もない。 単に、戦争に負けた、武力に負けた、と言うだけのことである。 これから見えて来ることは、奴隷を持った人間は、武力が奴隷にした人間達より強かっただけの話だということである。 弱肉強食が奴隷制度を生み出したのだ。 人類の歴史を見ると、武力の強い人間が道徳的に正しかったことはないと言って過言ではない。 そもそも、「歴史」は戦いに勝ったものだけが書くことの出来る物であるから、最初から戦いに負けた方の言い分は一切書かれない。 だから、奴隷にされ方の言い分は全く後世に残されていない。 唯一と言って良いのは、アメリカのアレックス・ヘイリーによって書かれた「ルーツ」ではないだろうか。 と言っても、ヘイリーの祖先達に言い分も何もありはしない。 アメリカや中南米の黒人奴隷のの場合は、アフリカの黒人は何ら欧米の白人達に戦争を仕掛けた訳ではなく、一方的に狩猟のようにして狩られて連行されてきたのだから、ヘイリーの「ルーツ」は如何にアフリカ人たちが、欧米の白人達によって非人道的にアフリカから連れ出されたかを描いたものでしかなく、ヘイリーの祖先たちに取っては、いきなり、奴隷狩りにあって連行されたと言うだけのことである。 日本の「部落民」もそのように、時の権力者によって普通の人間が持つ事のできる様々な権利を奪われた人達である。 その「部落民」が他の一般的な人達と異なるところは何も無い。 時の権力者から人間として権利を奪われたと言うことだけで、貶められた人達である。 例えば、江戸時代には、幕府の定めた法律に背いた者は「非人」という「人間としての人格を認められない存在」としての枠に入れられた。 この枠の設定は、時の権力者による全く恣意的なものでしかなく、枠に入れられた人間の、人間として人格、尊厳、とは全く無縁のものだった。 権力者は、自分の権力の及ぶところの人間全てに、自分の意志を守ることを要求する。 それは、どう言うことかというと、「部落民」「非人」として権力者が権力を奪った人間に対しては、自分の支配下の人間も権力者の意志に従って権力者と同じように振る舞えと言うことである。 権力者のいうことを聞く人間、権力者の言うことに従順な人間、すなわち、私やあなたたちは権力者の決めたとおり、「部落民」「非人」に対して差別を続けなければならないと言うことである。 思い起こして欲しい。江戸時代は「士農工商」そして、その下に「非人」という階級制度を人々に課していた。 この、人々の間に階級を設定する制度こそ支配階級に便利なものはない。 階級の下ものものは階級の上のものに従え、しかも、一番下の階級のものがその制度に対して不満を言おうとすると「安心せよ、お前たちより、もっと下に『非人』があるから」ということになる。 「非人」階級は、最初から武力で押えつけられているから、文句の言いようもない。 自分より下の者がいる、と言う意識は、封建時代の最下級の貧しい者達にとっては、ある意味で支えになっていて、階級制度の不満を少数派である「部落民」「非人」に ぶつけることで、階級制度の最下層の人間の不満を解消させる働きがあった。 人間の間の階級制度は、古い制度の社会の支配者には有利なのものであるが、民主主義の世の中では通用しないはずである。 それが、未だに日本で「部落民」に対する差別が横行していると言うことは、日本は本当の民主主義の国ではない、この国の実権を握っているのは、我々一般民衆では無いと言うことを示している。 我々が、部落民、在日外国人に対して差別をするときに、たとえ自分自身が自発的に差別を行っていると思っていても、それは、我々を上から操っている権力に踊らされているのだと言う事実を認識する必要がある。 さて、今、誰が我々の世の中を実効支配しているのか、それについてて語るにはこのページはふさわしくない。 もっと別の所で、こってりとやらかそう。 この長い間生きて来て、皆さんの知らなかったこと、わざと知ろうとしなかったこと-、知ると怖いと思って考えないようにしててきたこと。 そういうことは後で語る。 読者諸姉諸兄にお願いしたいのは、平等に言うことをいって、拒否された、むかつく態度取られた、脅かされた(実はこれが一番多い、)と言うような、時にどうするかです。 絶対に相手の土俵に乗ってはならない。 私たちは、権力側を批判するが ケンカをする気はない。 お互いに真実をゆるゆると、語り合いたい。 相手も同じ日本人だろう。論理を尽くして語り合おう。 さて、ここから、10月26日号の週刊朝日の、佐野真一氏の書いた記事に話を移す。 この記事に対しては、橋下氏が極めて強い反発を示し、週刊朝日編集部が部落差別をしたと主張し、週刊朝日編集部は全面的に橋下氏の主張を受け容れ、連載を中止し、編集長も更迭し次の号で見開き2ページを使って謝罪した。 この件が、今回私に部落差別に対する文章を描かせる元となった。 私は前にも書いたように自分自身部落差別というものを肌で感じたことがないので、私の言うことは、実際に差別を体験している人達からすると、抽象的に過ぎると思われるだろう。 しかし、私のような部落差別という事実から遠い人間だからこそ客観的に言えることがあると思って、敢えてこの文章を書いている。 部落に対する差別は私たちの世代で必ずなくさなければならない。こんなものを、次世代に持越したら、末代までの恥だ。 部落差別は、ただの歴史上の事象に還元するべきだ。 ただ、今回の週刊朝日問題での橋下氏の態度は間違っていると私は思う。 折角の機会だ。部落問題を徹底に討論する場を作るべきだったのではないか。 あのように、ただ怒りを爆発させる態度であれば,これから、部落問題を取り扱う人間はいなくなる。 みんな、触らぬ橋下に祟りなしで、これで部落問題はをたんに「触れたらいかんのじゃ」「戦中のご真影に触れるのと同じやで」「触ったらお終いやど」「最悪のタブーやないけえ」となって、部落問題に対する議論を封じられ、これではなんら「部落問題」を解消するための根本的な議論に導かない。 橋下氏は折角の機会だったから、部落差別の本当の所を述べて、部落差別自体の下らなさ、非人間性を追及する可きだったのでないか。 全国に何十万人もいる全く無意味な部落差別で苦しんでいる人達に強い力を与える絶好の機会だった。 それを、週刊朝日と,佐野真一氏を叩くだけで終わってしまった。 本当に、差別の問題を考えるなら、この件を自分の選挙潰しとだけとらえす、問題をもっと発展させて日本にはびこる部落差別問題を取り上げれば、それだけで立派な争点になり、上手く行ったら、日本一の民主政治家として歴史の教科書に、何百年も乗り続ける立派な政治家となっただろう。。 今の様な、橋下氏の態度をとり続けると、差別を根底からなくそうとする人間は橋下氏から離れ、逆に橋下氏自身、すりよっきてた日本一の差別男と一緒に思いもよらぬことを口走るのではないか。
- 2012/11/15 - ヤットさん有り難う!ヤットさん有り難う。 今日の全日本対オマーンは体に悪かった。 試合前から、本田選手は額に玉の汗を浮かべていて、如何にも調子が悪そうだった。 オマーンの選手がレーシング・カーとすると、まるで日本の選手はエンジン・オイルが焼き付いた車のように動きが悪かった。 後半、危険なのところから、フリーキックをを与えて、そのまま点を取られた時には、私はそのまま、テレビを消した寝てしまいたくなった。 しかし、それでは、私の念力が通じない。 辛いところを頑張っていたら(って、まるで私が試合を自分で戦っていたみたい。おかしいね)、おお、もうじきロス・タイムという時に、酒井高徳、遠藤保仁、岡崎慎司の連繋で決勝点を入れてくれた。 酒井、遠藤、岡崎、この三人全てが良いところを見せてくれたのだが、とくに、私は遠藤保仁のあの踵でのセンターリングには、泣いた。 凄い。 それ以外に言いようがない。 遠藤は、実は、私のような横浜マリノス・ファンからすると、天敵である。 遠藤のおかげで、何度マリノスが悲しい目に遭わされたか。 しかし、全日本の一員となるとこれは別。 Jリーグの恨みは忘れて、ただ全日本の勝利に貢献してくれることを願うばかりだった。 去年のアジアカップの最終戦だって、遠藤が全体を見極めて、実に巧妙に長友にボール出し、その長友が見事なセンターリングをして、李忠成のボレーシュートとなった。 遠藤のあの巧妙な球出しがなかったら、長友のアシストも、李のシュートもなかった。 遠藤は、コーナーキック、フリーキックの技術も凄いけれど、途中の試合作りに他の人間にはできない才能がある。 今日も、そうだよ。 どうして、あの時に、あんなところにいて、しかも、踵でセンターリングが出来るんだ。 今日の最高殊勲選手は遠藤だ。 これで、今日は気持ち良く寝ることが出来る。 ヤットさん、有り難う!
- 2012/11/09 - 今年も須藤農産の米は安全福島県会津の須藤農産の米が、今年も、放射能を検出しませんでした。 検査結果を、ご覧下さい。 完全に安全です。 合鴨を使った有機栽培の米の美味しさは、去年お買いになった方なら良く御存知だと思います。 福島県産と言うだけで、危険と決めつけず、きちんと安全性が確かめられた産物は購入しましょう。 多くの方が購入して下さることで、会津の農業を支えることが出来ます。 私はは須藤農産の宣伝係ではありません。 真実を伝えているだけです。 福島の復興を支えるために、出来るだけ多くの方が購入して下さるようお願いします。 須藤農産のホームページ。 http://www9.plala.or.jp/sutou-nousan/
- 2012/10/27 - ゴキブリ10日ほど前、手洗いに入った。 私の家は手洗いとシャワー室がくっついていて、手洗いは同時に脱衣所、洗面所を兼ねている。 連れ合いは、毎朝シャワーを浴びた後体重を量るので、体重計を置いてある。 25センチ四方で持ち運びに便利な良くある形の物である。 私が手洗いに入って便器に座ったら、その体重計の下から、成人男子の手の親指大で明るい茶色のゴキブリが出て来た。 何を考えたか、そのゴキブリは便器に座った私の足元までやってきて、そこでUターンして体重計から1メートルほどの距離に置いてある電気乾燥式のタオル掛けのところまで戻って行った。そして、タオル掛けの横に落ちていた何かゴミみたいな物を見つけると、それをくわえて、体重計の下に素早く潜り込んだ。 私はゴキブリがえさ取りをして自分の隠れ家に運ぶ姿を初めて見た。 体重計の下が、そのゴキブリの隠れ家らしい。 ゴキブリは、今まで忌嫌っていたのだが、私も歳のせいで心が弱くなったのか、あるいはそのゴキブリが小型で、明るい色をしていたからか、嫌悪の気持ちは湧かず、なにやらそのゴキブリを不憫に思う気持ちがこみ上げてきた。 ああ、こんな小さなやつが、元気に生きているな、と思うと、しんみりとしてしまったのだ。 私の家は3年前に新築したばかりで、あちこちきっちりとできあがっていて、この手洗い兼洗面所兼脱衣所の一体どこにゴキブリが入り込む隙間があったのか不思議でならない。 それだけ、ゴキブリの生命力は強いと言うことなのだろう。 それから、私が手洗いに入る時に、そのゴキブリは時々姿を現す。 その姿を見る度に私は「おや、元気にやってるな」と嬉しい気持ちになるようになった。 そんなことを連れあいに話したら、「ゴキブリに愛情をかけるなんて」、と笑われた。 たしかに、そうだ。 今までゴキブリを見ると、中性洗剤をかけて殺したり、ゴキブリ取りを仕掛けたりしていた私が、ゴキブリに情をかけるとはおかしな話だ。 最近辛い事ばかりで、私は気持ちが沈んでいて、気が弱くなると言うより心が弱くなってしまっていて、懸命に生きているゴキブリの姿を見ると、「おまえも、辛いだろうにがんばっているな」と、そのゴキブリと自分を重ねて見てしまい、哀れを感じてしまったのだろう。 ところが、昨日、手洗いに入ると、そのゴキブリが、便器に座った私の後ろから現れて、私の目の前のタオル掛けの足元に、逃げるようにして行き、そこで動きを止め、私の方をうかがうような雰囲気を見せる。 私はそのゴキブリの姿や動作を見て、気がかりになった。どうも最初に見た時から比べると、元気がない。 ちょこちょこ走る速さも鈍ったし、全体にやせて(肥ったゴキブリなんているのかしら)、ひからびた感じだ。 しかも、触角の一本が垂れたようになっている。 しばらく、タオル掛けの足元でじっと私の方をうかがって(と私は思った)、思いなしかよたよたした足取りで体重計の下に滑り込んだ。 私は、そのゴキブリの姿を見て心配になった。 やせたし、羽のつやが悪いし、触角は一本垂れているし、足取りも重い。 この十日間ばかり、この手洗い兼洗面所兼脱衣所に閉じこもっているようである。 ゴキブリは、台所に落ちている油一滴をなめるだけで何日か暮らせると聞いたことがある。極めて、わずかな食料で生き延びることの出来る強靱な生命力を持っていると聞く。 しかし、いくら何でも、洗面所兼脱衣所だ。何も食べるものはない。 十日間、ろくに食べるものもなく、飢えてやせ細ったのではないか。 私は、そのゴキブリの身の上がひどく心配になってきた。 手洗いを出て、連れ合いに訳を話して、「なにかゴキブリにやるえさはないだろうか」尋ねた。 私の連れ合いは、ゴキブリが大嫌いで、先日も私の弟が「にいちゃんの奥さんは怖いぜ。はえ叩きでゴキブリを叩いたら、ゴキブリの手足もばらばらに砕けちったよ」と報告してくれたくらいである。 連れ合いは「ゴキブリに餌を上げるなんて、どうかしてるんじゃないの」と驚いた。 「まあ、そんな事言わないで。あいつは可哀想なゴキブリなんだから」と私は連れ合いをなだめた。 連れ合いは、しかたなくビスケットを小指のかけらくらいの大きさに欠いてくれた。 あのゴキブリの体の大きさから考えたら、それでも多すぎるかも知れない。 私はそのビスケットを細かく砕いて、紙の上に載せて、手洗い兼洗面所兼脱衣所の体重計とタオル掛けの間に置いた。 夜遅くなって、連れ合いが、「ちょっと、来てよ」と私を呼んだ。 連れ合いが洗面所の扉を細く開いて中を見るように言う。 すると、おお、あのゴキブリが、ビスケットを食べているではないか。 「お、食べている、ビスケットが気にいったかな」と私は喜んだが、連れ合いはあきれ果てて言った。 「冗談じゃないわよ。ゴキブリを飼ったりしないで。 私が手洗いを使えないじゃないの」 ゴキブリ嫌いの連れ合いとしては、ゴキブリがいては用も足せないと言う。 「大丈夫だよ。あいつは悪いことはしないから」と私は連れ合いをなだめた。 連れ合いは、どうやらゴキブリと折り合いを付けたようで、無事に用を足して出て来たが、ベッドに入ってまでも、「もう、本当にあきれたわよ。ゴキブリなんか飼うなんて」と怒っている。 少し経って、私が手洗いに入ると、ゴキブリの姿はなく、かなり減ったビスケットのくずの間に一本茶色の線が見える。 まるで、ゴキブリの触角みたいに見える。 「ほえ、ゴキブリは弱っていてビスケットを食べている間に触角を落としたか」 と私は思った。 一夜明けて、私が朝手洗いに入ると、ゴキブリが懸命にビスケットを食べている。 だが、私の気配で体重計の下に隠れてしまった。 「なんだよなあ、俺は優しくしてやっているのに、逃げることはないだろう」と文句の一つも言いたくなったが、私の気持ちがゴキブリに伝わる訳がないよな。 昼前に連れ合いが手洗いから出て来て、「ゴキちゃんは、隠れているみたい」という。行って見ると、ゴキブリの姿は見えない。 連れ合いは、「ゴキブリは体重計の中に隠れている」という。 体重計の底には隙間があって、そこからゴキブリは体重計の中に潜り込んでいると連れ合いは推理する。 ビスケットのクズを載せた紙を手にとってよくよく見ると、ゴキブリの触覚と思った茶色の筋は、どうやら、ゴキブリの排泄物であるらしい事が分かった。 「このまま、洗面所兼脱衣所に住み着いたら困るわ」と連れあいが言う。 「じゃあ、元気になったら、外に逃がしてやろう」と私は言った。 体重計の中に隠れているのなら、体重計ごと外に出してやれば外に逃げ出すだろう。 餌をやって元気にしてから殺すと言うのも、おかしな話だし、と言ってこのまま洗面所兼脱衣所に住み込まれても困る。今は独身のようだが、配偶者が出来て、ゴキブリの子供がぞろぞろ生まれても、これは困る。 まあ、何とか数日様子を見て、それから、どうしようか考えようと言うことになった。 体重計の横に、ビスケットのクズを載せた紙を戻してやった。 今夜遅く、手洗いに行ったら、ビスケットの量が昼に比べて減っておらず、ゴキブリの姿も見えない。 腹がくちくなって体重計の中で寝ているのか、あるいはビスケットを食べて元気になって、この手洗い兼洗面所兼脱衣所から脱出したのか。 それはまだ分からない。 私としてはもう少し、ゴキブリと友達関係を続けたいと思っているのだ。 しかし、ゴキブリの気持ちはゴキブリでなければ分からない。 私の一方的な思い込みはゴキブリには迷惑かも知れない。 はあ・・・・・ それにしても、どうして、ゴキブリ一匹のために、こうして心が揺れるのか。 本当に、私は心が弱くなっているのだな。 実は27日に福島に取材に行く。 つらい取材になるに決まっている。 考えるだけで、一層心が弱る。 あわれ、ゴキブリよ、心あらば伝えてよ、 男ありて、ゴキブリに夕餉をふるまい、思いにふけると。 ふける思いは何事ぞ。
- 2012/10/10 - お詫びと訂正前回、マリノスの11番の選手の名前を佐々木と書いてしまった。 頭の中では、齊藤選手と分かっていたのに、キーボードの上で指が踊った。 サポーターからのご指摘で気がついた。 齊藤学選手にはお詫びをします。 早速、訂正しました。 ところで、昨日だったか、テレビでモスクワのサッカーの試合をちょっと見た。 本田圭佑選手が所属するCSKAモスクワとスパルタク・モスクワの試合だったが、観客数がなんと84,000人! 冗談じゃないよ。 先日のマリノスの試合の観客数は36,000人。 倍以上じゃないか。 香川が去年まで所属していたドイツのドルトムントは80,000人いつも集めていた。 こうしてはいられない。 マリノスの観客を増やさないと! サポーターのみなさん。 日産スタジアム、観客数倍増作戦を開始しましょう。 私は、ブログや、トゥイッターで応援するからね。 みんなも、よろしくね。
- 2012/10/08 - 残念、でも楽しかった6日は、日産スタジアムに横浜マリノス対広島サンフレッチェの試合を見に行った。 前回は、観客数があまり多くなく、心配したが、6日は36,000人。 でも、45,000人は、最低来て欲しいな。 サンフレッチェのサポーターもかなり来ていた。 駐車場で広島ナンバーの車で、サンフレッチェのユニフォーム着た五人組のサンフレッチェ・サポーターを見かけた。 広島から来て、今日中に広島まで帰るのだろう、実にえらい。 現在、J1一位だけあって、サンフレッチェのサポーターも気合いが入っていると感心した。 ただねえ、あの紫色の旭日旗は、ちょっとなあ。 マリノスは主力を二人欠いていて、不利だったが、ボールは良く保持していた。 ただ、攻撃力がない。 ハーフ・ウェイ・ラインから相手側に入ったところで、球を回し続ける時間が長く、大昔のサッカーを見ているような気持ちになった。 攻撃が遅いので、マリノスが相手陣営に入った時にはすでにサンフレッチェはディフェンス態勢ができあがってしまっていて、その厚いディフェンスを縫ってパスを通すことが出来ないので、いつまでもボールを回している。 それに反して、サンフレッチエの攻撃は素早い。 とくに、ミキッチの足の早いこと。 サイドを走って、味方が送った長いパスに追いついてゴールに迫る。 マリノスも、小野と齊藤が良く攻めて相手のゴールに迫ったが、他の選手がついてこないから、シュートまで全部自分でしなければならない。 サイドに走り込んだ時に誰かがゴール前まで出て来てくれたら、センタリンダでも出来るのに、センタリングしようにも、他のマリノスの選手は全然いないんだ。 たった一人の仕事では、今のサンフレッチェは、いや他のチームでも崩せない。 それに引き替え、サンフレッチェは攻撃が早い。 数人でゴールに迫る、誰がパスを回しても誰かがそれを受けてシュートできる。 何度も、あわや、という場面があり、その度に、我々は腰を浮かし「わ、わ、わ、」と言葉にならぬ声を発し、肝を冷やしたが、運良く切り抜けてくれた。 今回も、中澤のディフェンスは見事だった。 ここぞと言う時に、しっかり守ってくれる。 一緒に行った私の友人は、「うーむ、中澤はマリノスの要だな」と言っていました。 そうそう、私は、ワールド・カップのドイツ大会の時のNAKAZAWA 22のユニフォームを着て行ったが、連れ合いが球場の売店でマリノスの中澤のユニフォームを買ってくれた。BOMBER 22と書かれたユニフォームだ。 次回から、こっちを着て行こう。 後半30分前に、中村俊輔が退いた。 たしかに、今回中村俊輔は精彩を欠いていた。 あんな選手ではないのに、と思うけれど、前にも書いたとおもり、他の選手の攻撃態勢への動きが遅いので、中村俊輔も自分がボールを保持した時には、サンフレッチェのディフェンスを縫ってパスを前に送れない。 仕方がないから、後ろの方でパスを回していた、と言えるかも知れない。 しかし、中村俊輔が退いた時に、なんだか嫌な気持ちがした。 中村俊輔が退いてすぐに、小野がPKを取った。 その時、我々は、「キックなら中村俊輔だ。中村俊輔にキックをさせろ」とわめいたが、ああ、一旦退いた選手を戻すことは出来ない。 小野は自分が取ったPKだからなのか、自分でPKを蹴ることになった。 いつも思うのだが、キーパーにとってPKほど残酷な物はない。 あの距離からキックされたら人間の反射神経は対応出来ないという。 今回も、PKとなってゴールにキーパー一人が残る際に、立ち去るサンフレッチェの他の選手たちは、キーパーの肩を叩いたり、抱いたりした。 まるで、処刑される人間が処刑台に上るのを友人たちが見送り別れを告げる時のような悲壮な感じである。 で、小野が、蹴った。 その寸前、私は、「こう言う時に、失敗することがあるんだよな」と不安のあまり言ってしまった。 ああ、悪いことは口に出すべきではない。 言霊という言葉がある。 言葉には力がある。時に、言葉が周囲の物事を動かすことがある。 私が、そんをことを言ったせいではないが、小野の蹴った球は、ゴールの遙か上空を飛び越えて宇宙の果てまで飛んで行ってしまった。 36,000人(除く、サンフレッチェのサポーター)の上げた悲鳴が日産スタジアムを゛どよもし、揺るがし、天まで吹き上がった。 私も、「ぎゃーっ、ぎゃーっ、うわーっ!」と叫んだ。 私はいつも言う。「サッカーほど体に悪いものはない」 この時も、私は死ぬかと思った。 結局、ゼロ対ゼロの引き分けに終わった。 マリノスは現在9位。ここで勝っておけば、順位が上がったのに、と思うと無念でたまらない。 しかし、試合の後、マリノスの選手たちが会場を一周してファンたちに挨拶をする時に、サポーター席の前に並んだら、サポーターたちから、PKを失敗した小野を励ます声が大きく上がった。 本当に、小野は辛いだろう。今夜は眠れないだろうと思ったが、そのサポーターの熱い声援を聞いたら、少しは心が慰められたのではないか。 マリノスの、サポーターは、最高だぜ。サポーターとしてあるべき態度だ。本当に選手をサポートしている。 選手たちが私達の席に近づいて来た時、私は立ち上がって「なかざわーっ!」と叫んだ。中澤はまだ私達の手前にいて、ちょっとタイミングが早すぎた。 私達の席の前に選手たち全員がそろって、一礼してくれる時に私は再び「なかざわーっ!」と叫んだが、その際に声が裏返ってしまって、得意の大声が出なかった。 私も、小野と同じで、肝心の時にとちった。 中澤の耳には届かなかっただろうなと思うと、口惜しい。 夕食は、そのまま、横浜関内に移動して、以前、桂歌丸師匠の落語を聞きに行ったときに、友人に連れて行ってもらった「登良屋」に行った。 その時の友人とその夫人、私達夫妻と私の次女の五人である。 前回、「登良屋」に行った時に、私は天婦羅屋と聞いていたから、友人がメニューを見て、シマアジの刺身を頼もう、と言ったので「やめろ、やめろ、養殖のシマアジなんてくさくて食べられないぞ」と反対したら、それを店の女性に聞かれてしまい(私の声は大きいらしい)、「うちの店は養殖物は置きません。全部天然物です」と厳しく言い返されたので、仕方がないから注文したら本当に天然の素晴らしいシマアジが出て来て感激した、ということは、2010年12月04日のこのページに書いてある。 その時のことがあるから、今回は最初から天ぷらを食べる前に、魚を食べようと言うことになって色々と注文した。 今回食べたのは、メジマグロ、コチ、アジの刺身、トコブシの煮物、キンキの煮付けである。 メジマグロもコチもアジも、刺身はどれも大変に良かった。トコブシも良かった。 キンキは、煮付ける前に店の人が「これですが、いかがですか」と見せにきてくれた。見た目がきれいなので安心して注文した。 このキンキの煮付けが実に良かった。 二匹を、五人で分けて食べたが、とろり・ふわりとした食感で、脂がのっているのにくどくなく、上品な味わいだった。東北や北陸ならともかく、横浜でこんなキンキが食べられるとは思わなかった。 皆で骨までしゃぶり尽くしたが、その骨と、煮汁に未練が残る。 する、お店の女性が「骨汁に出来ますよ」といってくれた。 五人でしゃぶった骨だが、なあに、みんな仲間だからかまうことはない、ということになって、全員がしゃぶり尽くした骨と煮汁で骨汁を作ってもらった。 それが、ああ、実に旨かったんだよ。 「熱湯をかけないと美味しくできないんですよ」と店の女性が言った。 料理の秘訣はそれだけではあるまい。 煮汁の色で、全体に色が濃いのだが、少しも塩辛くなく、ちょうど良い味付けで、大変に上出来の味わいだった。 ここで、わずかに骨に残ってい身も、全て徹底的にしゃぶり尽くして、今度こそ骨は、骨だけの骨になった。 もちろん、最後は天ぷらを食べるわけだが、ここの天ぷらは、銀座辺りのいわゆる高級天ぷら屋の、色が白くてさっぱりした物ではなく、ごま油の香りがぷんぷんして濃厚な味で、色も黄金色の昔風の天ぷらである。 友人は「こういう、黄金色の天ぷらが食べたかったんだ」と言った。 とにかく、材料がよいので天ぷらも美味しい。 高級天ぷら屋の軽い味わいと違って、「天ぷらだぞっ!」という力強い味わいだ。 これが、また、嬉しいのだ。 完全に堪能した。 こんな素晴らしい魚を、本当に庶民的な店で味わえるとはすごい物だ。 前回も感心したが、前回は落語を聞きに行く前だったので、時間的な余裕が無くたっぷり食べられなかった。今回は、サッカーの後だったので、この店の味を十分に味わうことが出来た。 もう、これで決まった。 マリノスの試合のあとは、「登良屋」だ。 この「登良屋」は完全に昭和の雰囲気だ。 店内の樣子も、店の女性たちの暖かくて親切で気の利いた応対も、そして、正真正銘の良い材料を使った料理も、まさに昭和の時代の物。 なんだか、三十年前に戻ったような気分がして、本当に楽しかった。 このあと、さらにおまけがついていた。 食べ終わって、店から駐車場に向かう途中、ふと街灯に目がいって、その柱に掲げてある看板を見て驚いた。 なんと「横浜 おいしんぼ横丁」と書いてあるではないか。 いままで、色々なところで、「おいしんぼ」という看板を上げている食べ物屋を、かなりの数見てきた。 しかし、「おいしんぼ」という名前の通りは初めて見た。 私は、結婚する前後三年ほど横浜の本牧に住んでいて、横浜は、関内、桜木町など、本当になじみの深いところである。 その、関内に「横浜 おいしんぼ横丁」という通りがあるとは、まったく思いもよらないことだった。 「おいしんぼ」という言葉は私が作った言葉である。 それを、横丁の名前に付けてもらうとは、しかも特別になじみ深い横浜の関内の通りに付けてもらうとは、実にありがたい。 大感激である。 一つの店ではなく、公の道、通りの名前となると、重みが違う。 この通りに、「横浜 おいしんぼ横丁」という名前を付けてくれた方たちに心からお礼を言いたい。 (でも、意外に、この名前付けた関係者たちは、漫画の「美味しんぼ」なんて知らなかったということが多いんだよな。漫画の題名と知っていたら付けなかった、などと言われたら困るな) 「登良屋」でいい気持ちになって「おいしんぼ横丁」でまた良い気持ちになった。 マリノスは引き分けだったが、試合は本当に楽しかった。 天気予報では、午後三時から雨だと言っていたのだが私は「おれは、天下無敵の晴れ男だ、雨は降らない」と豪語していたら、その通りになった。 晴天の下、緑の芝生、そこで躍動する選手たちの姿。 サッカーは最高だね。 そう言うわけで、素晴らしい1日だった。
- 2012/09/30 - 胸がわくわく10月6日、マリノス対広島戦を見に行くぞ。 前回、対大阪ガンバ戦の時に、2006年のワールド・カップ、ドイツ大会の時に、ニュルンベルグの会場まで持って行って、途中の道中も着ていた、「22 Nakazawa」と書かれているユニフォームを着て行こうと思ったんだが、ちょっとみっともない、かなと思って、普通の服装で行ったら、何のことはない。 日産スタジアムのマリノスのサポーターは、みんなユニフォーム姿ではないか。 遠慮して、損した。 で、次回は、必ず「Nakazawa」のユニフォームを着て応援に行くぞ、と決めた。 ところが、今回、そのユニフォームが見つからない。 どこをどう探しても見つからないのだ。 連れ合いは、「てっちゃんは、お酒を飲んでいい気持ちになった時に、誰かに上げてしまったんじゃないの」という。 そう言うことはしょっちゅうあるのだが、「Nakazawa」のユニフォームだけは人にあげるはずがない。 ちょっと発狂状態になったのだが、念入りに探しに探したら(一月以上かかりましたよ)、戸棚の隅にビニールの袋に入っていたのを発見した。 矢張り、私は、あのユニフォームを大事にしていたことがこれで判明。 ただ、連れあいが言うのには、「マリノスの試合なのに、2006年のワールド・カップの時のユニフォームは具合が悪いんじゃないの」 律儀に言えば、そうかも知れない。 しかし、ドイツ大会で、日本は予選で敗退して悲しかったが、中澤の守備の活躍は見事だった。 前回の、大阪ガンバ戦も、中澤の守備があってこそ、と言う試合だった。 相手が攻めて来て、危ない!、と言う時に必ず中澤が守ってくれるのだ。 その時の、活躍もあるし、今のマリノスでの活躍もあるし、ドイツ大会の思い出もあるし、ちょっとかっこうわるいかも知れないが、私は、どうしてもそのユニフォームを着て中澤のプレーを見たいんだ。 マリノスの樋口監督様。 お願いだから、10月6日、中澤を先発させて。 当日、サッカーの試合をサッカー場で見るのは初めて(いつも、テレビで見ている)と言う次女も連れて行く。 なんだか、もう胸がわくわくして。 おーい、マリノスのサポーター、10月6日には日産スタジアムに全員集合だぜ! 集まれよーっ!
- 2012/09/08 - 「NEWTON」と「無線と実験」読者諸姉諸兄におかれては、気分が滅入ったときにどうされていますか。 最近嫌なことばかりで、テレビのニュースを見るのもいや、新聞も週刊誌も見るのもいや。 そんな日々が続いている。 で、最近の私の救いは、二つの雑誌。 一つは「NEWTON」。 いわゆる科学雑誌だが、最近の大ヒット、ヒッグス粒子の発見にほぼ成功したこと、ブラック・マター、ブラック・エネルギー、など物理学の問題なと話題が豊富で面白い。 しかし、10月号の大ヒットは、海底の魚の擬態だ。 海底の生物専門の写真家、吉野雄輔氏の撮影した写真が20枚近く掲載されている。 この中に映っている擬態を懲らした写真の姿が、まったくこちらの想像を超えた物ばかりだ。 私と連れ合いと長男と二人の娘で、どこに魚が隠れているか、どこに魚の目があるか、一生懸命探したが、中々分からない。 最後に答えを示す写真がついている。 それには、魚の形態、目の位置、など解説が出ているのだが、それを見ても、簡単には分からない。私たちの間で議論沸騰。これが目でしょう、違うだろう、こっちだ、それは違うわよ、とひとしきりもめた。 撮影した場所は何れも日本近海だ。 日本近海にこんな奇怪な魚が沢山いたとは驚いた。 吉野氏は、目を見つけることで海底で擬態をしてじっとしている生き物に気がつくことが多いそうだ。 それしても、これは大変根気のいる仕事だ。 実に感服する。 こう言う動物の擬態を見る度に、私はダーウィンの説を疑うんだな。 突然変化を起こして、その中で一番環境に適応した物が生き残るという適者生存説。 一体どうしてこんな具合に環境に適した形に調子よく突然変異が起こるというの。 周りの色によって自由に体の色や形を変えることの出来るイカ、とか、猛毒ウミヘビにそっくりの模様になった魚とか、自分がその姿に似せようと思う動物や環境が結構近い過去に置いて出現したり、出来上がっていることだ。 場合によっては一万年も経ってはいないのではないか。 その間に、そんな新しい環境に合わせて突然変化が都合良く起こる物かね。都合良すぎるんじゃないか。 といって、神様が作ったとは無神論者の私には信じられないことだし、知性のある何者かによって設計されたというインテリジェント・デザインと言う説も、殆ど神様の存在と同じで、これもまた信じられないが、ダーウィン以上の何かがあると思うのだ。魚が絶対この形になりたいと一生懸命願って、それで擬態の出来る体になるんだよ。「気」ですね。「気」ですよ。 今月号ではこの擬態を懲らした魚の写真で、家族中が楽しんだ。 いや、長男の友人まで楽しんだから、有り難いもんだ。 もう一つの雑誌は「無線と実験」。 私は、中学生の頃からラジオ少年で、鉱石ラジオに始まり、真空管ラジオ、最後は真空管を使ったハイファイ・アンプ自作に凝った。 大学を卒業して、忙しい日々が続き、それでも、オーディオには持続的に興味を持っていたが、時代はどんどん変わっていって、真空管からトランジスターに主役が移ってしまった。 最初の内は、六石とか八石(石とはトランジスター一個のこと。さいきんはこんな数え方はしないんだろうな。だって、トランジスターを一個一個繋いで回路を造るなんて、最近の若い人はしないらしいんだから。回路のブロックごとに既に既成の基盤が出来ていて、そこには、数十個のトランジスターやコンデンサー、コイル等が既に取り付けてある) 最近はやりの、PCオーディオで必須のDAコンバーターなど、大メーカーが既にDAコンバーターの回路自体をチップに載せて売っている。 DAコンバーターを作る会社は沢山あるが、どこの会社も同じようチップを使う。 それでは、素人が手を出すところがない。 私が真空管アンプを作っていた頃は、6GB8プッシュ・プルで30ワットなんてもんだったんだからね。 しかも、LPからCDに代わり、素人にデジタルは手が出せなくなった。 (最近は、DSDが流行って、素人がDSD基盤を買って来て作るのが流行っているが。それにしても、基盤だものね。) しかし、「無線と実験」を見ると、とっくの昔に製作が終わったと思っていた真空管が実はまだロシアとか中国あたりでは作られているようで、なかには30年以上も前の国産の真空管を蓄えて持っている店もあって、いまだに自分で真空管アンプを作る趣味人が絶えない。 みんなで、自分の作ったアンプを持ちよって、試聴会など開いている。 そんな記事を読んでいると、昔の自分に戻ったような気がして実に楽しい。 私も久しぶりに、半田ごてを振り回したくなる。あの半田と松ヤニの香りが忘れられないね。 自作真空管アンプの、あの真空管がほのほのと輝く所なんてたまらない。 私は、欲張りだったから、なるべく大出力にしようとして真空管に通常より高い電圧をかけたんだ。 部屋の明かりを消して真っ暗にして音楽を聴いていると、大音量の所で真空管のプレートが真っ赤になるし、しかもその中で稲妻のようなグロウが飛ぶんだよ。 ぞくぞくしましたね。 よし、また真空管アンプ作るぞ。 「NEWTON」「無線と実験」あ、それに「PCオーディオ・ファン」(この誌名は変更されるらしい)が私の愛読する雑誌だ。 こう言う雑誌を読んでいると、とても気分が良くなります。
- 2012/09/06 - 「美味しんぼ」福島の真実篇去年の11月から福島の取材を始めた。 福島で何が起こっているのか、それを、しっかり掴みたいと思ってのことである。 今度の、11月に最終取材をするが、原稿は書き始めた。 「ビッグ・コミック・スピリッツ」に連載が始まるは、早くても10月末になるだろう。 今まで、去年の11月、今年の5月、6月に2回、取材をしてきてかなりのことを知ることが出来た。 最後にまた11月に取材をするのは、秋の収穫の結果を知ることだ。 福島民報によると、先週福島県産の米の全袋検査をしたが放射線は検出軒回以下だったという。 しかし、その米の収穫地はほんの一部であり、全袋と言っても400袋だけだった。 これから、福島の農産物がどのようなことになるのか、まだ分からない。 11月になれば、かなりはっきりするだろう。 それを、きちんと取材して、丸1年取材したことになり、福島の真実がかなりはっきりと私にはつかめるようになると思う。 私が書くのは福島で起きていることの真実である。 私は福島を愛しているので、福島を応援したいが、私が知りたいのは真実であり、伝えたいのも真実である。 どう言うマンガになるのか、私も書いていながら、心が揺れ動く。 こんな厳しいマンガは書いたことがない。 私にとって、人生で一番厳しいマンガになる事だろう。
- 2012/09/01 - 李明博大統領韓国の李明博大統領は8月14日に韓国の地方の教育機関を訪れた際、出席者から「竹島上陸」の感想を聞かれ、それに対する答えの中で、 「(天皇が)韓国を訪問したいなら独立運動をして亡くなられた方々の元を訪ね、心から謝罪すればいい。『痛惜の念』だとか何だとか、そんな単語一つを見つけてくるのなら来る必要はない」 と言ったと伝えられている。(AERA 12.8.27日号より) これが、個人の発言なら仕方がないが、公人として、しかも韓国の最高の地位にある大統領がこう言うことを公の場で言うとはおよそ信じられない言葉である。 私は、李明博大統領は大きな過ちを犯したと思う。 その過ちを、以下に示す。 1)李明博大統領は日本の憲法の定める天皇のあり方を理解していない。 明治時代に定められた日本の憲法では、軍事から教育まで、全ての大権を天皇が持っていた。 軍隊は全て天皇の軍隊であり、兵士に対する上官の命令は天皇の命令とされ、全ての兵士が天皇のために命を捧げることを求められた。 天皇に対して身も心も捧げることを誓う「教育勅語」を小学生の頃から叩き込まれた。 日本人の生活、思想、学問、芸術、その全てが「天皇のために」という言葉一つに染め上げられていた。 1945年の敗戦まで、日本人の精神も行動も全て天皇の存在からはみ出ることは許されなかった。 実際の所、国の政策が天皇自身の意志の通りと言うことはなかった。 「天皇制」という、それまでの日本の歴史にはなかった制度を作り上げた張本人の一人、伊藤博文は、当時日本にドイツ医学を教えることを要請されて滞在していたベルツに対して「皇太子に生まれるのは、全く不運なことだ。生まれるが早いか、至るところで礼式の鎖にしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない」と言って、操り人形の真似をして見せたと言う。 天皇ほど、政治家・資本家・官僚など実質的な支配者たちに取って便利な存在はなかっただろう。 天皇を至高の存在として崇め奉まつって、自分たちがまず崇めてみせる。 それを、国民に見せつけて、「ほら、我々がこれほど崇め奉まつっているのだから天皇は実に有り難い存在なのである。天皇を崇めている我々の言うとおりにしろ」と言う。 そして、国民に天皇崇拝の気持ちを植え付けておいてから、自分たちのしたいことを「天皇の意志による物である」として、国民に従うように命じる。 国民は、それまでに天皇を崇拝するように洗脳されているから、「これが天皇の御心」だと言われれば、その通りに受取って、どんな無茶な命令でも「天皇陛下のためなら」と言うことで従う。 私は「マンガ日本人と天皇」(講談社α文庫)の中で、昭和天皇の戦争責任を追及した。 私は、昭和天皇は、公人としての天皇としてだけでなく、個人としてもいわゆる15年戦争(1931年の満州事変から1937年の日中戦争、1941年の太平洋戦争までの足掛け15年間の戦争を言う。—「小学館スーパー・ニッポニカによる」)に対する戦争責任はあると言った。 しかし、その中に、「この、天皇の戦争責任を昭和天皇裕仁個人に帰してしまっては、物事の本質がつかめなくなる。天皇が裕仁ではなく別の人間だったら良かったのか、と言うことになってしまうからである。事の本質は『近代天皇制』という構造にあるのだ」と書いた。 昭和天皇個人の戦争責任については、上記の私の書いた本を読んで頂くことにして(本の宣伝です)、問題は明治憲法に定められていた天皇のあり方である。 昭和天皇でなくとも、どんな人間でも、あのような環境であのような思想の元に徹底的に教育されたら、昭和天皇のように振る舞うのも仕方がないと言える。 その点、現在の天皇は違う。 「現在の憲法を守る」と言明して、憲法を昔の明治憲法の形に戻したいという復古的な人々を落胆させた。 現在の憲法は、天皇が国事に関わることを大幅に制限している。 字面だけを読むと、 「内閣総理大臣の任命、最高裁判所長官の任命、国会を召集すること、憲法改正,法律、政令および条約を公布すること、など」、 これは大変な権限を持っているように思えるが、実は、その全てが「内閣の助言と承認」があって初めて出来る事である。 早い話が、天皇は実質的に自分の意志を全く国の政策に通すことが出来ないのだ。 ましてや、日本と外国の関係を定める外交問題に対して何もすることは許されていない。 [皇室外交]などと言って、外国を訪問して外国との親交を深める友好大使のようなことは出来るが、日本の国のあり方を決め、日本の国の利害を定める取り決めをすることなど、本当の意味の外交を現在の天皇はすることが出来ない。 天皇が外国で発する言葉も全て政府(すなわち、官僚)の決めた文章を読み上げることしか許されない。 そこの所を、李明博大統領は知らないのだろうか。もし、知らずにあんなことを言ったとしたら、氏の大統領としての資質を私は疑う。 相手の国の事情も知らずに相手の国に、批判と言うより侮蔑的な言葉を投げかけるとは、基本的な外交知識がないとしか言いようがない。 知っていながら言ったとしたら、私は口をつぐむ。 私は、数回前のこのページに、雨宮剛先生の編著になる「謎の農耕勤務隊」のあとがきに雨宮先生のお書きになった言葉を掲載させて頂いた。 もう一度、ここに掲載させて頂く。 「本書が過去の日本が朝鮮半島で犯した罪に対する一日本人の赦罪と償いの表明として受けとめられ、たとえささやかであっても両者の和解への一歩に役立てばと祈りつつ編んだ次第である。繰り返しとなるが、日本にも日本人にも罪深い過去を正視し、心から詫びることの出来る人間として本当の勇気を持った国際社会から心から信頼され、尊敬され、愛されるようになって欲しいと私はひたすら祈っている。 そして、『国際社会において名誉ある地位を占め』ようではないか。 その実現には、最も近い諸国との間に一日も早い和解の成立が必須条件である。和解に至るには、私たちの側に過去に対する正しい歴史認識、罪責感と心から詫びようとする謝罪の意識が不可欠である。さらにいえば、形の如何を問わず補償がなくてはならない。その時私達は初めて赦され、和解と平和が現実となり、東北アジアが最も安定した平和を作り出す地域となり、国際平和に最も大きな貢献をなし得る地域となりうるであろう」 私は、雨宮先生が仰言っている、この「心から詫びる」というのは、日本が国として日本が被害を及ぼした国々に心から詫びることだと思う。 現実に、日本政府が1995年に「アジア女性基金」を作り、フィリピン、韓国、台湾の元慰安婦の女性に、賠償金と首相の「お詫びの手紙」が渡された。 しかし、慰安婦を支援する団体は、「それは日本政府による謝罪と補償ではない」と批判し、一部の女性は受取ったが、残りは受け取りを拒否している。 その支援団体の言うことは正論であり、日本政府のしたことは逃げでありごまかしであり、日本は卑怯な国であるという恥を世界中にさらした。 謝罪は、国と国の間で、正式に外交的な道筋を通って行わなければ意味がない。 ここで、李明博大統領の言葉に話を戻す。 李明博大統領は天皇に謝罪しろ、と言った。 天皇が、日本が過去に朝鮮・韓国に対して行ったことに対して謝罪すると言うことは、天皇が「国と国の間で正式に外交的な筋道を通って行われるべきである謝罪を、天皇個人に行え」と言うことである。 それは、現憲法で天皇には不可能なことである。 こんなことを要求するのは、「慰安婦」問題で、「日本国が責任を取っていないから」といって、日本政府の「アジア女性基金」を拒否した団体の言うことにも反しているではないか。 必要なのは、「国としての謝罪と補償」のはずだ。 どうして、昔の憲法と違う立場にある現在の天皇にそのような個人的な謝罪を要求するのか。 人に何かを要求するときには、自分の要求が正当な物であるかどうか、きちんと確かめて欲しい。 正当でない要求をする人間、あるいは国家は、現在の世界では理性のある人間、国とは認められない。 さらに、もし、このような正式な外交行為を天皇にさせたら、どうなるか。 例えば、天皇が「日本国民を代表して、日本国の過去の行為によって傷ついた方々にお詫び申し上げます」などと言ったらどうなるか。 天皇は、外交という、日本にとって重大な国事行為を行ったことになる。 天皇に許された国事行為の中に、そのような外交を執り行うことは入っていない。 天皇にこのような「謝罪」をさせるのは憲法違反であるし、もし特例として認めたら、憲法の歯止めがきかなくなる。 日本の支配層には悪知恵の働く者が多い。 一旦、そのような特例を認めたら、次々に自分たちに都合の良い「特例」を天皇に行わせるだろう。 それは、日本を下手をすると戦前の日本に戻すかもしれない。 これは、日本に対してだけでなく、アジア各国(もちろん、韓国も含まれる)に対しても悪い結果を招く恐れがある。 日本の現在の天皇はこのような難しい状況にある。 それも知らずに、天皇個人に謝罪しろ、と言った李明博大統領の言葉は間違いである。 日本を批判したかったら、日本の状況をもっと良く知るべきである。 一人の市井の人間ならともかく、一国を代表する大統領がそれではまずいだろう。 2)李明博大統領の過ちの一番大きい物は日本人の現在の天皇に対する感情を理解していないことである。 私自身は、現在の天皇制に反対しているのだが、様々な世論調査の結果は、日本人の80パーセントが、現在の天皇制を支持している。 天皇制については80パーセント以上だが、現在の天皇自身に対する日本人の支持率というか、好感度率はそれ以上だろう。 私自身、天皇制自体に反対だが、現在の天皇、皇后、皇族の人達に対して否定的な感情は抱いていない。 早く天皇制などと言う制度はやめて、皇族の人達に自由に生きて貰いたいと思う。 我々日本人は、皇族に非人間的な生活を強要しているのである。 私は、皇族という人達は、明治の初めに自分たちで天皇制を作った本人である伊藤博文が言ったとおりに、天皇自身の意志ではなく、時の権力者によって便利なように、利用されているところが多いと思っている。 民主主義を歌っている日本の社会で、どうして皇族にあのような非人間的な生活を強要するのか。 我々日本人は、恥ずべきである。 私は、一度、現在の天皇の毎日の日程を見て仰天したことがある。 日程と今言ったが、その実は時程、分程である。 毎日、やたらと多くの仕事がある。 それも大半が、人に会うことである。 例えば、海外で現地の開発や医療に貢献した人達が、その責任者に連れられて会いに来る。 その人達と天皇夫妻は会って親しく話し合わなければならない。 どこかの国のお偉いさんがやって来る。 彼らに話を合わせてやらなければならない。 地方の自治に貢献した人達が、矢張り、その地方の責任者に引率されてやって来る。 彼らにも、親しく話してやらなければならない。 こう言うことが、五分、十分刻みで、朝から続くのだ。 一日に何人見知らぬ人と会わなければならないのか、私からすると気が遠くなるような話である。 しかも、天皇皇后は、これから会うと決まった人達について、前もってきちんと学習しておくのだという。 初めて会った人に、「貴方は、なんと言う名前で、どんな仕事をしてきたんですか」などと言う質問は絶対にしない。 これから会う人が、どんな人間で、どんなことをしてきたかそれを全て前もって学んでおく。 だから、初対面の人間に対し「何々さん」とその人間の名前で呼びかける。 これは、凄いことで、幾らそれが仕事だと言っても、とても普通の人間に出来る事ではない。 私も、取材で日本中の様々な地域を回る。その時に、長年私の取材を取り仕切ってくれている女性が、「これから、何々さんと言う方にお会いします」と私に前もって教育してくれるのだが、私は教育して貰うそばから全て頭脳から全てが蒸発してしまって、実際にその人間に会うと、その人と話をし始めるまで、一体誰に会っているのか分からなくなる。 しかも、その間に、各地方に出かけて行って、様々な会で、いわゆる「お言葉」を述べなければならない。 その私の経験からして、天皇皇后のあの努力は異常である。 と言うより、天皇皇后を、自分の都合の良いように使う官僚達を激しく憎む。 天皇の年齢、病歴を考えてみれば、天皇に過重な仕事を強いる官僚達は人間としての心がないのではないかと疑う。 天皇の心労たるやただ事ならぬものが有ると私は思う。 早く、天皇皇后に人間的な生活を取り戻させなければならない。 私の小学校の同級生が、先日、こんなことを言っていた。 友人は虎ノ門あたりを動いているときに、突然通行止めにあった。 何があったのだと警官に問いただすと、天皇がこれからここを通るからだ、と言った。 仕方が無く友人は道に立っていた。 そこに、車の列が通りかかった。 その車列の何台目かに天皇が乗っていた。 友人は「あれ、天皇じゃないか」と思った。 と言って別に頭を下げたり、手を振ったりしなかった。 ところが、車の中から天皇が、友人を見て、友人にほほ笑んで手を振った。 友人は私に言った。 「おどろいたぜ。おれは何もしないのに、天皇が俺にほほ笑んで手を振ったんだ。 あんなことを、俺だけでなく、道で会う人全てにしているんだろう。 あれは、大変なことだ。とても俺には出来ないぜ」 私にも出来ない。 私の家は横須賀市秋谷にある。 横須賀と言っても軍港のある横須賀港とは三浦半島の反対側、相模湾に面している。葉山の天皇の別邸から車で三分ほどの距離である。 葉山から、東京に繋がる「横浜横須賀道路」の間に「逗葉新道」という有料道路がある。 あるとき、その「逗葉新道」の入り口の休憩所で用を足そうと思って車を止めたら、やたらと多くの車が駐車して、大勢の人が群がっている。 一体何事だ、と周囲の人に尋ねたら、今日まで葉山の別邸に滞在していた天皇が東京に帰るので、その見送りにきた、と言う。 葉山の人間は天皇が別邸に来るたびに、そんなことを繰返しているのである。 葉山の天皇の別邸から、「逗葉新道」までの道の両側は実に汚らしい。 私は、冗談で「葉山の住人は実に不敬な奴らだな。天皇が通る道の両側をこんな汚らしい家並みにしやがって。これじゃ、天皇は葉山に来る度に不愉快になるぜ」というのだが、天皇は別に腹も立てず、別邸から「逗葉新道」までの間、ずっと道の両側の人間に笑顔投げかけ手を振り続ける。 そして、「逗葉新道」の入り口では、集まった町民達に特別に愛想良く笑顔を浮かべ、手を振ったりするそうである。 一旦「逗葉新道」から高速に乗ってしまえば、そん気遣いもなく東京まで約一時間、のんびりできだろうが、それまでが大変だ。 葉山町の住民の天皇に対する人気は絶大だ。 葉山町で天皇を批判するようなことを口にしたら、村八分だ。 それほど、葉山町では天皇は町民に敬愛されている。 敬愛されているというと聞こえがいいが、その当人にとったらこれは大変な負担だ。 実は、現在の天皇は、皇太子の時から宮内庁やその周辺から「人気がない」と心配されていた。 不思議なことに、戦争を引き起こし、日本とアジア全体に塗炭の苦しみを味わわせて置きながら、何の責任も取らず、退位もせず、天皇の座に座り続けた昭和天皇に対する日本人の人気は高く、昭和天皇に代わって現在の天皇がその座についたときに、昭和天皇に比較してその人気のなさが心配された。 しかし、美智子皇后の国民的な人気は絶大であり、現在の天皇は在位してしばらくは美智子皇后の人気に支えられて、あたかも、イギリスのエリザベス女王の夫君エディンバラ公のような立場にあった。 その天皇の人気が突然上がったのは、神戸大震災の時の神戸市民を見舞いに行ったときである。 震災の後すぐに天皇皇后は神戸に見舞いに出かけた。 ある学校の体育館に震災にあった人達が避難していた。 そこに、天皇皇后は出かけて行った。 体育館の広い場所に避難している住民達が座っているのを見ると、天皇皇后はためらわず歩み寄って、避難民の前に膝をついて、人々同じ視線になって、人々の手を握り肩に手をかけ、慰めと励ましの言葉を次々にかけて回った。 私は人間は全て平等と考える人間だから、天皇であろうと誰であろうと自分が慰めたいと思う人間がいたら、その人間と同じ視線にまで自分の体を持って行くのは当然で、膝をつくのが必要なときにはつけばよいと思う。 私も、そうするに決まっている。 だから、その時の天皇皇后の取った行為を特別に有りがたい物だとは露思わない。 しかし、日本人は戦前の思想的な刷込みから自由になっておらず、未だに天皇に特別な神格に近い物を感じているようで「天皇が膝をついた」と言うことで、大きな反響を呼んだ。 さらに、そこには天皇の引き立て役が存在した。 当時の首相、社会党の党首である。 かれは、避難民が座っている講堂に入ってくると、両手を腰に回して組んだまま、避難民を見回しながら、「うん、うん」とうなずくだけで、そのまま通り過ぎていこうとした。 いらだった避難民から声が上がった「我々の生活を真剣に考えてくれてるんですか」 その非難の声にあわてた首相の側近が大声で「首相は皆さんの為に、一所懸命取り組んでおられます。安心してください」と繰返した。 しかし、人々は、不信感をあらわにして、「何言ってんだ」「本気かね」などと言う言葉をぶつけた。 私はその樣子をテレビのニュースで見ていて「役者が違う」と思った。 天皇は真面目な性格の人のようで、国民を案ずる発言を良くする。 一方社会党の党首は、顔は自分を選出してくれた労働組合の方に向いている。 当時の社会党で国会議員になるのは、労働組合で功労のあった人間に対する論功行賞の一つでしか無く、しかも、あの時自民党・社会党・さきがけと言う三党の野合連合で出来た内閣は、日本憲政史上まれに見る恥多き内閣であって、その頂点にいた首相たる人物は、今考えてみても、一体あの人物は何者だったのか、私の周囲の政治通の人間に聞いても「いや、じつにつまらん」としか言いようがないらしい。 それまで五十年も自民党と敵対関係にあった社会党が、政権という餌をちらつかされたらころっと、それまでの主義も主張を捨てて自民党とくっついてしまった。 しっぽを振って自民党に利用されたのである。 その醜い社会党の姿に国民はあきれ果てた。 国民は、日本の政治の醜さを見せつけられたのである。 当然、その内閣が潰れた後、社会党も潰れた。 社会党が政権に目が眩んで自民党と手を結んだことが、日本の社会にどれだけ大きい傷を与えたか計り知れない。 日本の社会には良心がない、と言う深い絶望感を与えた。 今日本中の企業で労働組合が潰れ、あるいは力を失ってしまい、会社の御用組合ばかりになってしまったのも、社会党が潰れたことが大きい。 若者達が、派遣の仕事しか得られないような今の状態になったのも社会党が潰れたことによる影響が大きい。 社会党は、それまでも、自民党や企業の身勝手さを押さえる働きをしていたのだ、と私は最近思い当たった。 いや、神戸大震災の時の話だ。 その時の被災者に対するお見舞いの姿で、現在の天皇の人気は一気に上昇した。 その後、何か災害が起こる度に、天皇が被災者達を見舞う姿がテレビに映されて、天皇の人気はますます高まった。 天皇自身も良くやっている。 2001年に、一年後に控えた日韓共同開催のサッカー・ワールドカップ、を前にして、「私自身としては、桓武天皇の生母が百済武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。 武寧王は日本との関係が深く、このとき日本に五経博士が代々日本に招聘されるようになりました。 また、武寧王の子、聖明王は日本に仏教を伝えたことでしられております」 と、発言した。 右翼、嫌韓派の人達は、この天皇の言葉に大いにとまどった。 天皇の言うことは続日本紀に書かれているとおりのことで歴史的事実なのだが、何故か、右翼・嫌韓派の人達はその事実を隠したがる。 私は、天皇が自分の出来る精一杯のことをして、日韓友好を深めたいと思っての言葉だと思って、未だに高く評価している。 また、2004年の秋の園遊会に招かれた、かつての将棋名人で東京都教育委員の立場にある米長氏が天皇に「日本中の学校で国旗を揚げて、国歌を斉唱させるのがわたしの仕事でございます」 と言うと、天皇は笑顔を絶やさず、しかし、間髪を入れず。 「やはり、強制になるという考え方でないことが望ましいですね」と答えた。 まさに、天皇のこの言葉は頂門の一針、かつての将棋名人はたちまち王手・雪隠詰めを食らって立ち往生した。 (それにもかかわらず、東京都の石原知事、大阪市の橋下知事などは、日の丸・君が代を強制して、卒業式などで君が代を歌わない教員を処分している。正に強制に他ならない。 一体、右翼は何をしているんだ。 右翼にとって一番大事なのは天皇のはずだ。天皇の言葉を無視して人々の恨みを買っている石原都知事、橋下大阪市知事に右翼は何も抗議すら行わないのか。 右翼という人達も分からない人達だねえ。 こら、右翼、私に何とか言って来んかい。) そのようなことがあって、日本人の間で、現在の天皇の人気は非常に高い。 李明博大統領はそれを知らなかったのか。 それを計算に入れなかった、李明博大統領の過ちは大きい。 私はテレビで、韓国の企業が不祥事を起こしたときに韓国の企業の責任者達が記者団とテレビカメラに向かって一斉に土下座をして謝罪するのを何度か見た。 それが、韓国の正式な謝罪の仕方だという。 李明博大統領は天皇に個人的に謝罪しろと言った。 まさか、天皇に土下座しろと要求している訳ではあるまいな。 私は「日本は国として韓国に謝罪しなければならないが、天皇個人は謝罪することは出来ない」と上に書いた。 李明博大統領が天皇に韓国式の謝罪を要求したのだとしたら、私としては言葉を失う。 李明博大統領の文化程度の低さに、めまいがする。 日本国民の80パーセント以上の人間から好意を抱かれている人間など、天皇以外に存在しない。 その人間に対して、あんなことを言うとは、外交のなんたるかも知らない、国の運営のなんたるかも知らない。 そこらの飲屋でおだを上げているおっさんたちと、まさか同じ水準ではあるまい。 こんなことを言って、いい気持ちになった、と思っているのなら、それが韓国人の水準だとみんなが思う。 3)私はこの世に、良いナショナリズムは存在しないと確信している。 ナショナリズムについて深く語り出すと、本の一冊も書かなければならなくなるから、軽く語るに留めて置くが、今の世界の不幸の元は、ナショナリズムと不寛容な宗教にあると思う。 自分の国を愛するというのはまだ可愛い。 しかし、ナショナリズムには、ゼノフォビア(xenophobia-外国人嫌い)の色合いが濃く混じることが多い。 同時に、過剰防衛からさらに進んで攻撃的になる。 さらに、自己愛に酔って、果ては自己賞賛の泥沼におぼれて、その醜態が他人に嫌悪・軽蔑されていることにも気がつかなくなる。 私は日本のナショナリズムに酔っている人間は大嫌いだ。 その代表がケチカ君達だ。 ケチカ君達の場合、現在の日本が経済的に、韓国・中国に圧倒されてそのせいで自分たちの仕事が無くなってしまったので、それに対する反発が大きいと思う。 それだけでなく、ケチカ君達は日本の世界における地位に対して敏感なので、サムスンがソニーを遙かに抜いて世界一の家電会社になった、ヒュンダイ自動車がアメリカで、日本車より遙かに高い評価を得たなどと言うことを知ると、それで不安感に陥ってケチカ君になってしまうのだと思う。 日本が、韓国・中国を圧倒することの出来る経済大国であったら、ケチカ君達は現れなかっただろう。 ケチカ君は自分たちが、韓国・中国に負けていると言うことを告白しているに過ぎない。 私は、ケチカ君を嫌悪すると同様、韓国、中国のナショナリズムを嫌悪する。 遠くから見ていると、韓国ではナショナリズムが燃え上がっているのではないかと思える。 サムスン、ヒュンダイが日本を超えた。だから、韓国の方が日本より上だ。 サッカーだって、韓国が日本より強い。 韓国は強くなったからナショナリズムが燃え上がっている。 逆に、日本は自分の国が弱くなったから、防衛本能で、ナショナリズムが強くなった。 ああ! なんと言うばからしいことだ! 日本人も、韓国人も、ナショナリズムに酔っている人間は、目を覚ませ! ナショナリズムと、「愛国心」とは全く違う物だ。 「愛国心」とは、自分の育った地域、国の文化、生き方に対する愛情を持つ事だ。 「愛国心」には敵は存在しない。自分の文化を愛するだけである。 そして、「愛国心」には国境がない。 他の国の「愛国心」も充分理解出来、受け容れることが出来る。 例えば、日本人、スリランカ人、オーストラリア人がピクニックに行くとしよう。 それぞれに自分たちの国の料理を弁当として持って来る。 ピクニックで弁当を開く。 互いの弁当を覗いて「あ、食べさせて」とか、「美味しそう」などと言って弁当を互いに交換する。 「これは、食べたことのない味だな」「へえ、君の国ではこんなのを食べているのか。美味しいね」などと、相手の食べ物の嗜好、食べ物に対する愛着などを理解して、受け容れる。 自分たちの国の料理を自慢する。 しかし、相手の料理も認める。 これが、「愛国心」だ。他国の「愛国心」も認める。 だから、「愛国心」には国境がないのだ。 それに対して、ナショナリズムは国境が無くては成立しない。 互いに、自分たちの国境の中のことだけしか考えない。 そうなると、「ナショナリズム」は必ず、他国に対する敵意を包含している。 敵となる国を定めないと、存在できないのが、「ナショナリズム」だ。 「愛国心」と「ナショナリズム」はっきり見分けて、混同しないようにすることが大事だ。 「愛国者」と「ナショナリスト」とは違うのだ。 李明博大統領が今煽っているは韓国ナショナリズムだ、そこに、韓国の文化を謳歌する文言が入っているか。韓国の美しさ素晴らしさを表現しているか。 日本に対する敵意だけではないか。 私は、「愛国者」である。 日本を愛する。 日本が世界の中で、きちんと正しい位置を定められることを願っている。 あるとき、右翼の立場の人に「雁屋さんは、国粋主義者ですね」と呆れられたことがある。 「国粋主義者」は困るが、「愛国者だ」 二千年かけて、ここまで築き上げた日本文化を大事に守ってそれをさらに豊かにしようと思うのは、日本人と生まれた人間なら当然の義務だ。 しかし、私は、 日本を第一にし、他国を日本に従えようとした戦前のナショナリズムを嫌悪する。 その、ナショナリズムを現在も受け継いでいる人間には、「さよなら、さよなら」としか言いようがない。 で、今回の、李明博大統領の言葉だが、彼は韓国のナショナリズムを掻き立てた。 典型的な、「外危内安」政策だ。 「外危内安」とは、外に敵を作って、その敵に国内の人民が向かうように煽って、自分自身がその煽った人民を操って政治を運営しようというものである。 これは、自分自身が国内で人気が無くなった政治家が取る一番安易な政策だが、これが結構効き目がある。 李明博大統領がこの時点で、天皇に対して日本人の感情を逆撫でするようなことを言う理由がわからない。 私のような、反天皇制の人間が驚いた。 「どうして、天皇なの」 日本国民の80パーセント以上が、李明博大統領のこの言葉に反感を抱いただろう。 これが、政治家として、一国の大統領として正しい言葉か。 こんな言葉で、韓国のナショナリズムを煽って、自分もいい気持ちだし、国が一丸になったような気がして,一時は上手く行ったように思うかも知れない。 しかし、日本からの反動がすぐに起きた。 日本政府は、韓国の国債を買うことを、検討すると言い出した。 さらに、日本は韓国に対する通貨スワップの枠を130億ドルから700億ドルまで上げることにしていたのだが、その件についても検討し直すと言い出した。 国債については、理解が容易だろう。 韓国の発行する国債を日本が買わないとなると、韓国は困る。 さらに、通貨スワップだが、これは、普通にはは理解出来ないことだろうから説明する。 簡単に言えば、1997年のアジア経済危機を思い出して貰いたい。 韓国は、サムスン、ヒュンダイの成功で、経済的に成功しているように見えるが、実はその外貨準備高はブラジルより低く、何かの拍子に、あるい国際金融の思惑で韓国から資本を引き上げするとなると、韓国はたちまち外貨準備が底をつき、外国からサムスンやヒュンダイが生産を続けるための部品の購入すらままならなくなる。 それでは、韓国の経済は、身動き獲れなくなる。 それは、実際に1997年に起こったことである。 今度そういう経済危機が起こったら、現在ユーロで起こっているギリシャの経済破綻によるユーロ経済全体の危機を超える重大な問題が起こる。 そこで、日銀は、韓国の外貨資金が無くなっても700億ドルまで面倒を見ることにした。 それが、外貨スワップ700億ドルの意味である。 日本が700億ドルまで、面倒見てくれると世界中が理解すれば、1997年のような経済危機を韓国は避けられる。 最近、日本政府は、李明博大統領の言葉を受けて、国民感情を考えてのことだろうが、その外貨スワップの額を考え直すと言い始めた。 さらに呆れることに、韓流の芸能人を日本から閉め出そうという動きまでで始めた。 NHKの紅白歌合戦に、韓流の歌手達を出さないようにしようと言うのだ。 なんと言う了見の狭さだ。日本人はここまで心の狭い人間だったのか。 相手が、ナショナリズムに煽られて突っかかってきたら交わすだけの智恵がどうして出て来ないのか。人間としての器が小さすぎる。 これでは、子供のケンカだ。 こう言うことを聞くと、私は悲しさを通り越して、血の涙が出る。 私は、韓国との真の友好を長い間願ってきている。 だから、日本の国に、韓国に対して犯してきた様々な過ちを国として責任を取って謝罪し、補償するように要求してきた。 私のような立場の人間は少なく、私は常に多くの人々から口汚く罵られてきた。 それでも、私は、自分の今までの言動に間違いがないと信じている。 私の言うことに耳を貸してくれる若い人達も増えてきた。 このまま行けば、日韓友好も、上手く行くと思ってきた。 そこに、この李明博大統領の発言である。 李明博大統領は日本国内で、真の日韓友好を築こうとしている人達に大きな痛手を与えた。 私には、大勢の韓国人・朝鮮人の友人たちがいる。 これから、彼らと、どうすれば良いのか話し合おうと思う。 一つだけ、決定的に言えるのは、李明博大統領の言動は、日韓友好を何年か遅らせ てしまっただろうと言うことだ。 実に残念で、くやしい。 ナショナリズムを利用する人間、ナショナリズムに踊らされる人間、ともに人間の中で一番醜い顔をしている。
- 2012/08/16 - 「ケチカ君」に餌を与えないでこのことについては、私の考えをきちんと述べておかなければならないだろう。 ロンドン・オリンピックの男子サッカー第3位決勝戦で勝った韓国の選手が、「竹島は韓国の物だという意味の文句を書いた」、札だか、幕だか、プラカードだか、そんな物を競技場で全世界の人達が見えるように示した。 幕だか、プラカートだか、札だか分からないと言うのは、私がその場面を見たのはインターネットの写真だけであって、その時の状況を知らないからだ。 私は、それを見て、「なんと言う愚かなことをするのだろう」と思った。 その思いは今も変わらない。 あれは、あの選手の全くの愚挙、軽薄なナショナリズムに踊らされた、愚劣な行為である。 ああいうことを世界の目の前で演じてみせることが、どれだけマイナスの効果を自分にも、韓国にも、世界中に与えたか、良く考えるべきである。 しかも、自分の主張をハングルで書いてどうする。だれが、あの意味を理解出来たか。 単に、韓国選手が政治的な主張をオリンピック憲章に反して行ったという負の印象しか与えなかっただろう。 あんなことをすれば、世界中の人達が竹島問題について韓国側に立つだろうと考えるとは、飛んでもない思い違いで、世界中の人間が白けた、だけである。 私たちきちんと日本の現代史を学んだ人間は、1910年の日韓併合後とそれ以前の間に如何に日本が韓国・朝鮮に無理無体なひどいことをしてきたか良く知っている。 戦前・戦中にかけて多くの朝鮮人を強制連行して,厳しい労働をさせたこと、若い男は日本軍兵士として徴集したこと(戦後の戦争裁判で、韓国人・朝鮮人の下級兵士がBC級戦犯として死刑に処せられた例もある)、若い女性達を性奴隷として強制連行したこと、に対して謝罪するだけではなく、賠償をしなければ、我々は朝鮮・韓国に対して、真の友好をこちらから望む訳には行かないことを知っている。 先日、紹介した、雨宮先生の文章を、もう一度ここに、引用させて頂く。 先生は、前回私が紹介させて頂いた「もう一つの強制連行 謎の農耕勤務隊」という本のあとがきに、次のように書いておられる。 「本書が過去の日本が朝鮮半島で犯した罪に対する一日本人の赦罪と償いの表明として受けとめられ、たとえささやかであっても両者の和解への一歩に役立てばと祈りつつ編んだ次第である。繰り返しとなるが、日本にも日本人にも罪深い過去を正視し、心から詫びることの出来る人間として本当の勇気を持った国際社会から心から信頼され、尊敬され、愛されるようになって欲しいと私はひたすら祈っている。 そして、『国際社会において名誉ある地位を占め』ようではないか。 その実現には、最も近い諸国との間に一日も早い和解の成立が必須条件である。和解に至るには、私たちの側に過去に対する正しい歴史認識、罪責感と心から詫びようとする謝罪の意識が不可欠である。さらにいえば、形の如何を問わず補償がなくてはならない。その時私達は初めて赦され、和解と平和が現実となり、東北アジアが最も安定した平和を作り出す地域となり、国際平和に最も大きな貢献をなし得る地域となりうるであろう」 私は雨宮先生のご意見に全く同感なので、韓国に対して和解を提案する前にきちんと「謝罪と償い」をしなければならないと考えて、そのことを、機会あるごとに日本人に訴えかけている。 竹島(独島)問題についても、日本と韓国の間の友好をどのように再構築できるのか、真剣に考えている人達は日本に少なくない。 そのような日本人は、様々な運動を起こしている。 ところが、私たち側のそのような努力に対して、今回のサッカー選手の愚挙が、砂をかけてくれた。 あの韓国人選手が見せたナショナリズムは、世界中に見ることが出来る悪しきナショナリズムの典型である。 私自身は、世界を平和にするために努力したいのであって、どこの国のナショナリズムにも荷担するつもりは全くない。 そもそも、この世の中によいナショナリズムなど存在する訳がないから、私は日本のナショナリズムにも、韓国のナショナリズムにも、中国のナショナリズムにも、当然欧米各国のナショナリズムにたいしても、ナショナリズムこそ世界平和を阻害する物だ、と思っている。 韓国選手のこの行為に、直ちに反応する愚かな日本人達がいる。 韓国の選手がJ1に移籍することに対してJリーグ事務所に抗議が多く寄せられているという。実に情けない、浅ましい連中がいた物である。 あの韓国選手の行為が、日本に腐るほどいる、嫌韓人種に勢いを付け、われわれ韓国との友好を願う人間の妨害をする力を得たのである。 愚挙には愚挙が反応する。 愚挙が互いに絡まり合ってしまうと収拾がつかなくなる。 日韓、双方とも、今回のような愚挙は慎もうではないか。 お互いの願いはなんなのか。お互いの真の友好なのではないのか。 私は、日本が完全に謝罪し、補償を行い、その結果として、韓国・朝鮮との完全な和解を成し遂げることを望んでいる。 日本には、嫌中・嫌韓の言辞を振り回す人達が大勢いる。 私は彼らを総称して「嫌中・嫌韓君」では長いので「ケチカ君」と呼んでいる。 過去の日本が韓国・朝鮮に対して行った罪業、現在もきちんとした謝罪も補償を行わない日本政府の悪辣で理不尽な態度、これに対して韓国人・朝鮮人は当然抗議をするべきだが、それは、堂々とした毅然とした態度でして貰いたい。 今度の、オリンピックでのサッカー選手のようなことをして、日本の「ケチカ君」達に餌を与えないように気をつけて貰いたいのだ。
- 2012/08/14 - Twitterのアカウント先ほどお知らせした、私のTwitterのアカウントは、KorgのAudiogateと言うソフトを使う人のたのもので、他の目的に使うのはまずいようです。 アカウントを変更しました。 雁屋哲@kariyatetsu が新しいアカウントです。
- 2012/08/14 - 謎の農耕勤務隊Twitterを始めました。 最近仕事が忙しく、なかなかきちんとした文章をブログに載せる閑がないので、思いついたことをちょこちょこ書くのにTwitterが便利だと思ったのです。 ブログの更新がないとお叱りを受けているので、少しでもそれをごまかせるかも知れないと思って。 Twitterは、 雁屋哲@kariyatetsu です。 で、今日の本題。 最近、驚くべき本に出会った。 書名は「もう一つの強制連行、謎の農耕勤務隊」 著者は、雨宮剛氏 (以下の写真はクリックすると大きくなります。) この本のことは、東京新聞の電子版で知った。 記事には、 「太平洋戦争末期、日本軍に農作業させられた朝鮮人兵を調べた証言集「もう一つの強制連行 謎の農耕勤務隊」を、東京都町田市相原町の青山学院大名誉教授雨宮剛さん(77)が自費出版した。韓国の元隊員から聞き取り、全国の目撃証言も集めた。公的資料が乏しく、研究もほとんどされていない分野だけに貴重な記録となる。」 とある。(2012年7月27日付け) (この写真は、前記東京新聞電子版から借用した。無断借用の件、平にご容赦のほどをお願いします。) 私はこれまでに、日本が行ってきた、朝鮮人、中国人の強制連行、慰安婦問題、アメリカ、オーストラリア、イギリス兵捕虜に対する虐待・強制労働などについてはかなり調べて、人並み以上の知識を持っていると思っていたが、農耕勤務隊として朝鮮兵が強制連行されてきた、と言う話は聞いたことが無く、心底驚いた。 自分では、第二次大戦についてはずいぶん勉強してきたつもりだったので、自分の知識に抜けがあったと知って、うろたえた。 この本は、雨宮剛氏が自費出版した物なので、購入するためには氏に直接電話でお願いするしかない。 私はさっそく電話をかけた。 電話口には雨宮氏が出て来られた。 私が御著書を購入させて頂くようお願いすると、氏は最初固い口調で「どうして、この本を購入しようと思ったのですか」と尋ねられた。 私は、上に述べたようなことをお話しし、自分がそのような「農耕勤務隊」という形の強制連行があったことを知らなかったことに衝撃を受けて、その事実を知りたいのだと申し上げると、氏の声音が和らいだ。 後で知ったことだが、雨宮先生(突然、ここから、雨宮氏ではなく、雨宮先生になってしまうが、実際にお声を聞くと、「氏」などと、よそよそしい呼び方が出来なくなると同時に、尊敬の念が湧いてきて、「先生」とお呼びしないと、私自身気持ちが悪いので、これから敢えて、「雨宮先生」と書くことにする)がこの本を書くための調査を始めてから、嫌がらせの電話があったそうで、それで最初は少し警戒されていたのではないだろうか。 私もさんざん経験していることだが、世の中には、日本の過去の歴史をきちんと見る勇気のない人が沢山いて、正しく歴史を見ようとする人に対して、自分の人間としての程度の低さを、とことん見せつけなければ気が済まないような、浅ましい、嫌み、脅迫を仕掛けてくる。 そういう人達の存在が、日本人の誇りを傷つけ、アジア各国、なかんずく韓国・朝鮮・中国の信頼を失い、かつての経済力を失った今、日本の世界的な立場を脆弱な物にしている。 日本の経済力が大きかった当時は、遠慮していたアジア諸国も、これだけ経済が弱体化した日本を見ると、今まで言えなかったことをきちんと言おうと自覚するようになった。 その、現状を理解せずに、名古屋の市長のように「南京虐殺はなかった」などと歴史を無視したことを言う輩が、モグラ叩きのモグラのように、正しい歴史認識によってどんなに叩かれても、ほとぼりが収まるとぴょこぴょこ頭を出す。 そういう人間がいるので、雨宮先生もご用心なさったのだと思う。 私の真意をご理解頂くと、先生は丁寧にお話し下さった。 大学の名誉教授などと言う人には往々にして「私は専門家だ。専門家の私が学問のない相手に話してやっているのだ」という態度をとる人がいるが、雨宮先生はそのようなことは一切無く、実に誠実に、熱心に、しかも暖かく、私の初歩的な質問にも親切に答えて下さった。 私が一番驚いたのは、雨宮先生が1945年、敗戦直前にご自分の村、当時の愛知県挙母(ころも)市に出現した不思議な兵士達に対する疑問を、六十年以上持ち続けていて、その謎を大学を退いて名誉教授になった後、しかも、脳梗塞を患った後、どうしてもその疑問を解き明かしたいと思って、日本中さらには韓国・朝鮮にまで脚を伸ばして取材を続けたと言うことである。(挙母市・ころもし、は、現在はトヨタ自動車がその地にあることから、豊田市に名前を変えてしまった。トヨタ自動車が要求したのか、自治体がトヨタ自動車におもねってのことか、分からないが、歴史がある挙母と言う名前を自動車会社の名前に変えてしまうと言うのは、一種の文化破壊であり、トヨタ自動車の名誉になる事でないと思う。) 「農耕勤務隊」とはどんなものだったのか要点をかいつまんで言うと、 戦争末期、敗戦直前に、かなりの数の韓国・朝鮮人が強制連行されてきて「農耕勤務隊」として、農耕作業をさせられたこと。 作業の目的は 松根油と言って、松から油を取ること。 ジャガイモ、サツマイモを作ること。 であった。 その目的は、松から取った松根油は精製すると、飛行機を飛ばす燃料になる。 ジャガイモ、サツマイモのデンプンから飛行機を飛ばすための燃料としてアルコールを作ることにあった。 松根油、もサツマイモやジャガイモのデンプンから取ったアルコールも、実際に軍用機を飛ばすだけの力がなかった。 今も昔も同じことで、受験勉強だけで優秀とされたが、本来的に無能な官僚達が作り上げた机上の空論でしかなかった。 少しでも、航空燃料についての知識があれば、松根油や、ジャガイモデンプンのアルコールなどが航空燃料に役に立つと思うはずがない。 だが、受験秀才にはそんなことは理解出来ない。 福島原発の事故の件を見ても、日本の政治を司る人間達が昔も今もあまりに知的に劣弱であることに驚きを禁じ得ない。 日本の指導者達は、知的に劣弱であるだけでなく、倫理観を喪失しており、そのような全く無意味なことを、朝鮮・韓国から、まるでウサギ狩りのようにして若者をつかまえてきて、この20世紀の歴史上もっとも愚かで無意味な作業を、しかも、残虐な暴力を振るって、その若者達にさせたのである。 更に驚いたことだが、雨宮先生が調査を始めて見ると、その「農耕勤務隊」は挙母市だけではなく、日本各地に連行されてきていたことが判明した。 しかも、「農耕勤務隊」には、強制連行してきた朝鮮人・韓国人だけでなく、日本の少年だけで編成された物もあったことが明らかになった。 この「農耕勤務隊」の件が現在まで明らかにならなかった原因の一つは、敗戦時、軍が全ての書類の焼却を全国的に命令して、そのためにその資料が残っていなかったこと。 また、その「農耕勤務隊」の存在が敗戦までの短い期間であって、地域の人達広範に知られることが少なかったことが上げられるだろう。 だが、実際にその強制連行されてきた「農耕勤務隊」に身近に見て強い印象を、六十年後まで持ち続けてきた人々のいることが、雨宮先生の調査で発見された。 「農耕勤務隊」の件についても、軍は他の全ての軍関係の資料と共に焼却を命じたのだが、奇跡的に焼かれずに60年後の現在まで残っていた原資料も発見された。 これは、凄いことで、雨宮先生が60年以上悩み続けておられたことが、決して幻影でも妄想でもなく真実であったことが明確になったのである。 日本軍のその朝鮮から連行して来た「農耕勤務隊」の青少年に対する仕打ちは残虐極まりない物である。 この本の中には、その幾つかの例が記載されている。 それを読むと、私の心は重くふさがる。 私は、1995年に、日本軍がマレーシア・シンガポールで如何に残虐行為を重ねたか自分で取材に行き、同時に、日本軍がオーストラリア人兵捕虜に対して信じられないような残虐行為をした事も取材して 「日本人の誇り」(飛鳥新社版)を出版した。 (その本の題名「日本人の誇り」で、人によっては愛国右翼的な本と思われてしまったが、私は、過去の過ちを正直に認めて日本人の誇りを取り戻そう、という意味でその書名を付けたのである。) 私は、自分で取材した経験があるから、日本軍とはどんな物か思い知らされていたので、雨宮先生の書かれたこの本を読んでも、日本軍の残虐性については全く意外に思わなかった。 日本軍なら、こんなことは平気でしてのけただろうと思う。 しかし、愚劣な松根油作り、ジャガイモのデンプンを使ったアルコール作りのために、朝鮮から多くの若者を強制連行してきたと言う事実を、私は今まで知らずに来た。 私は自分の怠慢を激しく責めるのである。 日本が、当時の朝鮮・韓国、中国に対して行ったことで、我々はまだ知らされないことがまだ沢山あるのではないか。いや、有るに違いない。 私たちは、国全体の隠蔽工作に引っかかって、戦後五十年間、日本がアジア各国でどんなことをしてきたか知らされずに来た。 そのようなことをきちんと知らず、韓国・朝鮮、中国との友好を求める私は、間抜けも間抜け、大間抜けであった。 相手にしてみれば、この私が、自分たちのしたことも知らず、やたらと仲良くしようと言ってくるのを、「この男は、記憶喪失者か、無責任な偽善者か、軽薄なお調子者か」と思っただろう。 この本の中身を私のこのブログで紹介したいのだが、それは、雨宮先生のご許可を頂いてからのことにする。 ただ、書いておきたいことがある。 それは、雨宮先生が聞き取り調査を始めたときに、ある人が、「このことは、戦後六十年間、ずっと心に引っかかっていた。それが、こうして、きちんと話すことが出来て、本当に心が楽なった」と言ったことである。 また、その強制連行してきた朝鮮人の「農耕勤務隊」人達に、人間として当時としては出来るだけのことをした日本人も少なくなかったことも救いの一つである。 私は、雨宮先生が、戦後60年を経て、ご自分も74歳を過ぎてこのような調査をされてこの本を書き上げられたことに、心から尊敬の念を払う。 先生は、本の最後に書いておられる。 「本書が過去の日本が朝鮮半島で犯した罪に対する一日本人の赦罪と償いの表明として受けとめられ、たとえささやかであっても両者の和解への一歩に役立てばと祈りつつ編んだ次第である。繰り返しとなるが、日本にも日本人にも罪深い過去を正視し、心から詫びることの出来る人間として本当の勇気を持った国際社会から心から信頼され、尊敬され、愛されるようになって欲しいと私はひたすら祈っている。 そして、『国際社会において名誉ある地位を占め』ようではないか。 その実現には、最も近い諸国との間に一日も早い和解の成立が必須条件である。和解に至るには、私たちの側に過去に対する正しい歴史認識、罪責感と心から詫びようとする謝罪の意識が不可欠である。さらにいえば、形の如何を問わず補償がなくてはならない。その時私達は初めて赦され、和解と平和が現実となり、東北アジアが最も安定した平和を作り出す地域となり、国際平和に最も大きな貢献をなし得る地域となりうるであろう」 私は、雨宮先生のこの一文を涙なくしては読めなかった。 よくぞ、きちんとここまで言って下さったと思った。 この本は日本人全員必読の書である。 残念ながら、この本は雨宮先生が自費出版された物で、部数も七百部と少なく、しかも、書店に出ないので、手に入れたい方は先生に直接購入希望を伝えなければならない。 雨宮先生はかなりの部数を各地の図書館に寄付したと言うことなので、地方によっては、運良く図書館で読むことが出来るかも知れない。 しかし、このブログを読んで心を動かされた方のために、雨宮先生の連絡先を下に記しておく。 なお、雨宮先生は、この問題に限らず、難民支援活動をされておられる。 日本に難民申請をしたクルド人などが、どんなにひどい目に日本入国管理局によってあわされたか、そのよう難民の証言集も出版されている。 合わせて、読んで頂くようにお願いしたい。 なお、この『謎の農耕勤務隊」の本は4000円と、本としては高価であるが、雨宮先生は、他にも日本での難民救済の活動しておられて、本の代金は全てその活動に使われている。 日本で無情に取り扱われていく難民救済運動のためにも、4000円には本の代金以上の意味があるとお考え頂いてご協力をお願いしたい。 雨宮先生の連絡先。 雨宮剛 電話・ファックス; 042-771-3707
- 2012/07/27 - あざーっす!ロンドン・オリンピック、サッカーの予選。 なでしことU23、共にやってくれた。 なでしこの場合、相手のカナダの選手は体が大きいが、動きが全体に緩慢だった。 それに比べて、なでしこは俊敏で、見ていて当然の勝利だと思った。 後半、ものすごい巨体の選手に、ちょっとしたことから一点奪われたが、あまり見ていてはらはらしないですんだ。 やはり、澤選手は凄いね。 中盤で相手のパスを、上手い具合にカットして相手の攻撃を防ぐ。 シュートを決めるのも格好いいが、あのように中盤で相手の攻めを押さえる動きは見事だ。 実に頼りになる選手だ。 なでしこの選手たちは私の娘たちより若い。 私にとっては、自分の娘達が走り回っているような感じを抱く。 可愛くて、いじらしい。 その選手たちが、堂々と勝ってくれた。 涙もろい私としては、じんときましたね。 U23も立派だった。 報道を見ると、「グラスゴーの奇跡」だなんて騒いでいる。 「奇跡は」はないだろう。 昨夜の試合は、見事な物だった。 球の保持率こそ日本が35パーセントと、圧倒的にスペインが球を回している時間が長かったが、スペインに、決定的な場面を作らせなかった。 とにかく守備が良かった。 そして、相手のパスを奪うと素早く反撃に出る。そのカウンター攻撃が実に見ていて気持ちが良かったね。 しかし、再三の絶好機を逃したのは残念で、あそこでもう一つ何とかすれば、あと三点は入っていただろう。 得点を入れた大津は面白いね。 前回、メキシコ戦の後のインタビューで、開口一番「あざーっす!」と言った。 私は、息子から最近の若者言葉を教えて貰っていたから、ちゃんと理解出来た。 「あざーっす!」は「ありがとうございます」で、 「ぱねー」は「半端じゃない」と言うことなんだそうだ。 私は、「ぱねー」が気にいってしまって、最近しょっちゅう「ぱねーよ」などと言って、息子に「エッセイとか、ブログに、そんな言葉使わないでね」と注意された。 でも、使っちゃおう。 なでしこ、U23、あざーっす! しかし、自分のひいきのチームが勝つとどうしてこんなに気持ちがいいんだろう。 横浜マリノスにも、勝って貰いたいね。 10月6日の対広島戦、日産スタジアムに行くぞ。 昨夜のような、快感を、マリノスにも味わわせて貰いたい物だ。 なでしこ、U23、これからも頼んだぜ。 マリノスにもね。
- 2012/07/06 - 東電の新社長7月5日の夜9時のNHKのニュースに、東電の新社長広瀬直己氏が登場した。 番組の冒頭、広瀬氏は「福島にも何度か足を運び」と言った。 この「足を運び」という言葉は私の記憶による物で不確かだ。要するに広瀬氏はこれまでに何度か福島に行ったと言ったのだろう。 私が5月に福島取材をしている最中、5月9日の「福島民報」の第1面に広瀬氏が東電の新社長に内定したと言う記事が載っていた。 第2面に「広瀬次期社長との一問一答」という欄で広瀬氏は、記者団の質問に答えているのだが、その中で、「福島県への訪問は」という記者の質問に対して「出来るだけ早く伺いたい」と答えている。 同じページの別の欄に「福島第一原発事故後、賠償担当の役員として被害者や自治体と接してきた広瀬氏。」と書いてある。 であれば、上記「一問一答」の中での「出来るだけ早く伺いたい」というのは「役員としてではなく、新社長として、出来るだけ早く伺いたい」という意味なのだろう。 しかし、解せないのは同じ「一問一答」の中で、記者の「原発事故で被害を受けた住民にも会うか」という質問に、「そういう機会が持てるものなら持ちたい」と答えていることだ。 NHKのニュースの中で、被害にあった住民が、「東電は上からの視線で我々を見ている」と訴えていた。これまでの東電の被害者に対する対応に問題があるのは明らかだ。 この広瀬氏の「そういう機会が持てるものなら」という言葉は正にその東電の上から視線の表れではないか。 私は、その時福島にいてさんざん福島の人々のこうむった被害を見ている最中だったので、その広瀬氏の言葉に余計に敏感に反応した。 かっと、血が頭にのぼった。 「そういう機会が持てるものなら」とは何事だ。 一体何を他人事のように言っているのだ。「そういう機会が持てるものなら」ではないだろう。 「原発の被害を受けた住民に出来るだけ多く、相手の事情が許せば全員に会いたい」と言うべきなのではないか。 NHKで、広瀬氏は「これまでに何度も福島に行った」と言っている。何度も福島に行って置いて、そんな他人事のようなことを言うのか。 これまで何度福島に行っても、実際に被害にあった人と会ったことはないのか。 会ったことがあって、その上でこんな事を言えるとは、驚くべき神経だ。 広瀬氏の、人間として血が通っていないその言いぐさを読んで、しかも、このような人間が次期社長と知って、このままの東電には何の望みも抱けないとその時私は思った。 その東電のすることについてだが、東電以外、普通の一企業が、東電のような途方もない被害を住民に与えたときに、今の東電のように、加害者としての反省の意識も見せず、自分たちで勝手に決めた賠償額を押しつけるだけで済ますようなことが出来るだろうか。 今回の取材で、いわきの川沿いで料理店を営むご夫婦にお会いした。 この件は、興味深いことなので、「美味しんぼ」にたっぷり書くことになっているから、ここでは、ほんの輪郭だけ書く。 その店は川に釣りに来る釣り客と、川魚料理を食べに来る人で賑わっていた。 何十年も繁盛していた店なのだ。 ところが、その川の魚から、基準値以上のセシウムが検出されたと言うことで、全てが頓挫した。 釣り人は来ない、川魚料理を食べに来る人はいない。 第一、セシウムが検出されたので料理して出す魚がない。 私たちがお伺いしたとき、店にはお客は誰一人いなかった。 昔なじみだという釣り人が一人、ぶらりと立ち寄って、「やはり、だめだな」と言って帰っただけだ。 ご夫婦が困り果てていたら、「東電に補償請求を出すといい」という助言を町から貰って、補償請求を出したら、「8万円」出ることになった、と私に言った。 私が、余りの額の低さに驚いて、「ええっ、月にたった8万円ですか」と尋ねたら、ご主人は笑って「いいえ、一度限りです」と仰言る。 私は、驚くのを通り越して、腰が抜ける思いがした。 一つの家族の生活を破壊しておいて、その保障がただ1回限りの8万円。 こんな馬鹿なことがあって良いものか。 生活の術を断っておいて、それで、8万円で全ての事を済まそうというのか。 東電の社員に尋ねたい。 今すぐ東電を追出されて、その償いがたった一度の8万円だったら、それから先どうやって生きて行けるのか。 NHKでの広瀬社長はひたすら低姿勢で、謝り続け、これから何とかすると様々な手形を振り出すだけ、何も実を感じさせなかった。 NHKのキャスターも流石にたまりかねたのか(私の目にはそう映った)、最後に「上から視線ではなく、きちんと被害者に対応して下さい」と念を押した。 それに対しても、広瀬社長は、早く其の場を逃げたい一心を露わにして、「はい、はい、そうします」と言うだけだった。 この広瀬氏の姿を見て、私は5月9日に「福島民報」を読んで抱いた私の思いは正しかったと確認した。 広瀬氏の姿は、そのまま東電の姿勢を表している。 東電はこれからも駄目だろう。 東電は大量の資金を政府から導入して貰って国有企業も同然である。 国有企業に、そのような、国民を軽視して上から視線で被害者を見る人間を、我々国民は雇う理由がない。 広瀬氏には8万円上げるから、今すぐ東電を出ていって、どこにでもいいから行ってしまって下さい。
- 2012/07/04 - やっと回復シドニーに移動してからのこの3週間は最低だった。 5月に1回、6月に2回、福島に取材に行ったが、その取材が肉体的に、そしてなにより精神的にこたえたようだ。 食慾もなく、疲労感にうちひしがれ、コンピューターの前に向かう気力も湧いてこなかった。 今日あたり、少し体調が改善したようだ。 私は実に精神的に虚弱であり、少しでも辛いことには耐えられない。 福島での取材は、毎日が辛かった。 あのような境遇で、一生懸命生きる努力を続けておられる方々にお会いして、お話を伺い、その境遇を知る度に、恐ろしく効くボディー・ブローを次々に叩き込まれる思いがした。 お会いした方々、みなさん、この厳しい経済不況の中で農業に、畜産業に、漁業に努力を重ねて来たのに、それがあの震災に続く原発事故で一瞬にして破壊されてしまった。 何とか、震災以前の生活を取り戻そうと努力をしておられるのだが、状況は容易ではない。 震災による物理的な被害から復興することは、困難ではあるが不可能ではない。 しかし、原発問題が全てに足かせをはめてしまう。 例えば、福島沿岸の海域は世界でも有数の漁場だが、いま福島沿岸の魚市場は殆ど稼働していない。 動いている市場も福島沿岸海域以外の海でとれた魚を陸揚げしているだけである。しかも、それはその魚市場のほんの僅かな機能を動かしているに過ぎない。 相馬の原釜にある、相馬双葉漁業協同組合の市場を訪ねたが、市場は津波で破壊されていた。 どこの魚市場でも、その周辺には、漁業を支える様々な施設が必要である。 製氷工場、冷凍工場、種々の加工場、それらがあってこそ魚市場は機能する。 魚を獲ってきて,市場に並べるだけでは、どこの魚市場も市場として機能しない。魚市場を支えているのは、その周辺にある魚介類の貯蔵庫、加工工場である。 原釜の魚市場は、魚市場自体が破壊されているだけでなく、周辺の様々な、施設や工場が全て破壊されている。 魚市場の人達も何とか復興しようと努力した。 魚市場の先端部分を整備し、そこで船をとめて、獲ってきた陸揚げできるようにした。 ところが、福島近海の魚から放射能が観測されてしまったのだ。 そう言う魚は売る訳にはいかない。 折角魚市場を整備しても、肝心の魚を獲っても売ることが出来ないのでは、意味がない。 で、今も魚市場を始め、その周辺は見た目に廃墟のままである。 福島県は、浜通り、中通り、会津、と縦に三つに分かれている。 浜通りは、福島県沿岸の漁業が出来なければ、漁業による復興は不可能だ。 では、何時になったら、福島沿岸で漁業が可能になるのか。 最近になって、タコとツブ貝にはセシウムの蓄積量が少ないから市場に出すといてっている。 「タコと、ツブ貝」!? タコもツブ貝も美味しい。 タコでもツブ貝でも売れるようになれば、それは幸せなことだ。 タコ漁、ツブ貝漁の専門の漁業者には大変に良いことだ。 だが、震災前までの福島の魚市場で、タコとツブ貝がどれだけの売上を上げていたと言うのだろう。 福島沿岸の漁業から言えば、ほんのわずかな物でしかない。 それで、福島の漁業の復興がなると言えるか。 今回、私が見た限りでは、福島沿岸の漁業は不可能な状態になっている。 漁協が試しに、魚を釣ってみるのだが、釣れた魚が国の決めたゆるい安全基準すら超えた放射能に汚染している。 とても、市場に出せる物ではない。 そんな訳で、今の状態では沿岸で魚を獲ってきても売ることが出来ない。 原釜の漁協がどんなに復興のために努力して、漁船が釣ってきた魚を陸揚できるようにしたところで、売れない魚ではその市場の機能も全く意味がない。 で、私たちが訪ねたときには、その新しく力を入れて作った市場の埠頭も使うことが出来ず、市場全体は、大きながれきは片付けられてはいたが、人の気配が一切無い、淋しい状態だった。 とここまで書いてきてが、去年から続けて来た福島の取材についてはこのブログには最小限のことしか書かないようにする。 と言うのは、この福島の問題は難しい。 とくに、そこで生きている人達のことを書くのは非常に難しい。 その状況、雰囲気も伝えるには、矢張り漫画でなければ難しい。 本当に書きたいこと,言いたいことは、「美味しんぼ」の「福島の真実」篇で読者諸姉諸兄に伝えたいと思う。 問題は「美味しんぼ」の「福島の真実」篇の開始時期なのだが、資料が大変な量になってしまって、それを整理するの時間がかかる。 さらに、漫画家の花咲あきらさんの、事情もある。 早くても、連載を開始出来るのは、10月くらいからではなかろうか。 それでは、去年の取材から一年も経ってしまうので、材料として古くなる恐れがあるが、それはその時点の事実として記録に残すためにも書く意味があると思う。 読者諸姉諸兄にお願いする「美味しんぼ」、「福島の真実」篇の開始が遅くなることをお許し願いたい。 その代わり、「福島の真実」篇は、福島の真実をウソ偽りなく、ごまかしも、きれい事もなく、きちんと書く。 それまで、時に、福島に触れる内容をこのページ書くこともあるが、福島の今の状況について真実を書くのは、「美味しんぼ」の「福島の真実」によってである。 本当のことを言うと、書きたくてうずうずしていることが沢山あるのだが、「美味しんぼ」の原稿を書くまで控えているのだ。 「美味しんぼ」で書くことを小出しに書く訳には行かない。 そんな訳で、「美味しんぼ」の「福島の真実」で、怒濤のように書き出すから、それまで、福島のことについては、ちょこちょこと書くだろうが、本当の本質は「美味しんぼ」で書くまで待って頂くように読者諸姉諸兄にお願いする。
- 2012/06/12 - ひどすぎる今日、福島の今月に入ってから2回目の取材から帰ってきた。 取材は2時過ぎに終わり、車で帰ってきた。 安井敏雄カメラマンが運転してくれた。 私は、今夜の日本対オーストラリアのサッカーが気になって、安井敏雄カメラマンに、「とにかく、サッカーを見たい」と言った。 敏雄さんは車に関しての知識・経験はプロであって、運転技術も大変な物だ。 私が運転を代わると言っても、無視する。 それは、私の体調をおもんぱかってのことが第1、私の運転技術を信用していないことが第2。 敏雄さんは極めて安全運転で、しかし、有効に時間を稼ぎ、家にたどり着いたときには、対オーストラリア戦の前半半ばを過ぎようとしたところだった。 敏雄さんと、取材のディレクター役を務めてくれている安井洋子さんは(敏雄さんと名字は同じだが、親戚でも何でもない。偶然の一致である)、長い取材で疲れたから家でその疲れを癒したいと言うことで引き上げて、私は、連れ合いと、弟と、いつもは絶対にしない夕食を食べながらテレビ観戦という、行儀の悪い仕儀に自ら陥った。 対オーストラリア戦の試合の経過はみなさんご存じの通りである。 試合が終わって、1時間経った今、私はいまだに怒りに燃えて気が狂いそうである。 「なんだ、あのレフリーは!」 最後のフリーキックで、日本選手が、「さあ、蹴ろう」言う態勢に入った時、蹴る寸前に終了の笛を吹くか! ゲームは進行中ではないか。 今まで、こんな事は見たことがない。 厳密に言えば、ロスタイムを過ぎていたかも知れない。 しかし、慣行としては、ゲームが進行中は、そのゲームの最初の1蹴りが済むまでは笛は待つものなのではないのか。 あの瞬間に笛を吹いたことは、狂気の沙汰である。 大体、今日のレフリーはおかしかった。 オーストラリアの選手が退場になったのは当たり前で、あれだけ露骨な反則を見逃したら、FIFAから罰則を食らうだろう。 しかし、オーストラリアのコーナーキックの際に内田にペナルティーを与えたことは理解しがたい。 コーナーキックの際、どこのチームのどこの選手も内田がしたようなことはする。 厳密に言えば、反則は反則だろう。 だが、イングランドのプレミア・リーグの試合でも、あのようなコーナーキックの際に、内田のあの行為を反則に取るのを、少なくとも私は見たことがない。 反則は反則だが意図的で悪質な物ではない。普通なら、その時の弾みによる物で仕方がないとして、反則には問わない行為だ。 オーストラリアだって、日本のコーナーキックの際には日本の選手に抱きついたり、腕を押さえたり、引っ張ったり散々していたではないか。 それを、あの時点で、どうして内田のファウルを取るのか。 さらに、本田にイエローを出したのも理解できない。 あの程度のファウルはしょっちゅう行われているではないか。 悪質な物でも、意図的な物ではない。 試合の流れの中では、良くあることである。 あれを、ファウルに取るのは仕方がないかも知れないが、イエローとは何事だ。 1つイエローをもらうと次の試合からも制限がかかる。 どうにもこうにも承服しがたい判定だ。 今日の試合は、そもそも、ピッチがひどかった。 あんな荒れ放題のピッチで、オーストラリアのサッカー協会は良くも国際試合をしようと思った物だ。 それも、ワールドカップの予選という大事な試合だ。 オーストラリアという国は、客人に親切にする言う習慣のある国のはずだ。 それが、あのピッチは何だ。 芝はろくに生えていない。生えている芝も、きちんと刈り込んでない。 ピッチの至る所土、土、土、である。 あんな汚いピッチでまともなサッカーが出来るか。 あれが、国際試合をするグラウンドだと誰が思うか。 低開発国、開発途上国なら仕方がないかも知れない。 しかし、オーストラリアは、先進国のはずである。 それが、あのグラウンドか。 オーストラリアで人気のある、ラグビーや、オーストラリア式ラグビーを行うグラウンド大変きれいに整備されている。 それが、今日のあのピッチは何だ。 オーストラリアではサッカーは人気がない。 オーストラリアでは、とにかく、男は体が大きくて強くなければならない。 ラグビーのように体と体をぶつけ合わないから、サッカーをするのは弱虫であると言われていて、サッカーは人気がない。 だから、ラグビー場は念入りに手入れをしても、サッカー場の整備に全く無関心なのだろう。 国民がサッカーに興味がないのを仕方がない。 しかし、オーストラリア・サッカー協会がグラウンドの整備に無関心だったのは一体どうしたことだ。 干ばつがあったから芝生が荒れたとか何とか、言い訳は通用しない。 もし、自然環境でグラウンドが整備できなかったと言うなら、オーストラリア・サッカー協会は最初から国際試合を自分の国で行うことを諦めて、今日の試合の開催を他のきちんとしたサッカー場を持つ国に委託するべきだった。それが、礼儀という物だろう。 オーストラリアのブッシュは素晴らしく美しく、私も心から魅了されている。 しかし、ブッシュはサッカーゲームには不向きだ。今日のピッチはブッシュの中にできた「開けた土地」だ。 他国のチームをブッシュ同然のピッチでプレイさせるなどと失礼極まりない。 とにかく、今日の試合は不愉快だった。 レフリーが全てを決した。 こんなひどい試合はない。 ひどすぎる。 日本の選手はよく頑張った。 奪われた一点は、レフリーの奇怪な判定によるPKだけだった。 次のホームでの試合でオーストラリアとの決着を付けてもらいたい。
- 2012/06/11 - 郡山で見つけたTシャツ郡山のGardenと言う若者向けのファッションの店の前を通りかかったとき、安井敏雄カメラマンが、店頭に飾ってあったTシャツに眼を止めて、「こんなTシャツがありますよ」と私に示した。 (以下の写真は、クリックすると大きくなります) 私は、一目そのTシャツに描かれた絵を見て、 「うわ、いやだ、残酷で悪趣味だ」 と言った。私は、アメリカで良く売られている残虐な暴力場面を描いた物と思ったのだ。 すると、安井カメラマンが、 「胸のマークを見て下さいよ。TEPCO(東京電力)ですよ」 と言う。 驚いてよく見ると、襲われている男の胸についているのは確かに、TEPCO(東京電力)のマークだ。 さらに、襲われている男の横に落ちている赤い表紙のファイルには、原子力関係を思わせる放射能マークと共に「Confidential Papers(機密書類)」と書かれている。 襲われているのは、東京電力の上級社員(役員、社長)なのだ。 それで、書かれている文句、「Pay Back」の意味分かった。 Pay backとは、「仕返し」という意味がある。最近見たアメリカのテレビドラマで、主人公が「Pay back」と言ったところを字幕では「復讐」と出た。 そして、その下に小さく書かれた文句、 「TIME FOR SOME ACTION…..CAN’T STOP US!(行動するときだ・・・・我々を止められないぞ!)」 の意味も分かった。 同じ絵柄のキャップもあった。 私は、驚くと同時に、興奮してすぐにTシャツとキャップを買った。 私が何故、興奮したか。 それは、福島を取材している間に非常にもどかしい思いが募っていたからだ。 福島の人達は、この原発事故が、まるで天災でもあるかのように扱って、これだけのすさまじい災害を引き起こした東京電力に対する非難、抗議、を口にする人が極めて少なく、「仕方がない」、と諦めきった風である。 東京電力の補償金がまるで嘘のように少ししかでないことを嘆きこそすれ、だからといってそれに対する強い非難をすることも、ましてや何らかの行動を取る人が見あたらない。 それが、私にはもどかしかった。 福島の人達の心の優しさなのか、強大な権力に立ち向かう事を恐れ、諦めているのか、私は福島の人達の態度を歯がゆく思っていた。 そこに、このTシャツだ。 東京電力に対する強烈な抗議だ。 「福島の人達も、こんな思いを抱いているのだ」と思って、それまでの憂さが晴れたように気がしたのだ。 ところが、お店の人に聞くと、このTシャツを作ったのは福島に対する支援活動を続けてきた東京の会社だと言う。 福島の人が作ったのではないことに私はがっかりしたが、このようなTシャツを店頭に飾り、それも売れているところを見ると、郡山にはこのTシャツの意味するところに共感を抱く人達がいる訳で、それだけでも胸が空いた。 ところが、このTシャツを家に持って帰って、連れ合い、弟、甥に見せたところ、評判が悪い。 連れ合いは、とにかく暴力が大嫌いな人間である。 この釘を打ち付けたバットを振りかぶっている人間の姿を見ただけで、反発する。 連れ合いは言う。 「仮面をして、人を殴りつけるなんて、卑怯だし、残虐すぎる」 弟は言う。 「これじゃ、襲われている東京電力の人間が、可哀想な感じで、逆効果だ」 甥は言う。 「結局、暴力で解決しようだなんて、意味がない。暴力では何事も解決出来ない」 確かに、連れ合いたちの言うとおりだ。 あまりに暴力的な図柄で、私の第一印象もそれに対する不快感故の物だった。 しかし、私は、東京電力に対して、強烈な抗議としての、このTシャツは意味があると思う。 暴力は認められないが、あまりに無法な東京電力と政府に対して、福島の人達に、強い抗議の言動を起こしてもらいたいのだ。 私達周囲の人間が、幾ら抗議をしても、福島の人達が自分たちで抗議行動を強烈に展開しない限り、東京電力も政府も、何一つ福島の人達の復興の役に立つことはしないだろう。 ある人が私に言ったことだが、放射線被曝の安全基準値を年間1ミリ・シーベルトだったのを、20ミリ・シーベルトに引き上げた政府の真意は、20ミリ・シーベルトなら安全であると言って安全地域を広げれば、その地域の人に対する補償をしないで済むからと言うことだそうだ。 確かに、空間線量が年間20ミリ・シーベルトの地域を安全とすれば、補償額が大幅に減る。 補償云々は別にしても、安全基準値を年間20ミリ・シーベルトにするとは、狂気の沙汰である。 そのような、人の命を無視したことを政府・東電が行っているのに、どうして福島の人達はもっと強い抗議を行って、その年間20ミリ・シーベルトと言う基準値を撤回させるようにしないのか。 今の段階で、年間20ミリ・シーベルトの空間線量のある地域は福島だけである。 この、20ミリ・シーベルトに引き上げた、その対象は福島の人達なのだ。 政府・東電は福島の人達の健康についてまるで無関心だ。 人間としての良心のかけらもない連中だ。 福島の人達は、この政府・東電の狂気の沙汰に対して強く抗議して、年間20ミリ・シーベルトと言う基準値を撤回させてもらいたい、と私は願う。 このTシャツは私の家族には評判が悪いが、私は、このTシャツの抗議の意図は正しいと思う。 今度は東京の会社ではなく、福島の人達の手で、直接的な暴力をふるうのではなく、もっと効果的に強烈な抗議の意志を表現する絵柄のTシャツを作ってもらいたいものだ。
- 2012/06/07 - 福島、第3回目の取材福島報告の2回目を書くのが遅れている内に、3度目の福島取材に入ってしまった。 現在、私は、郡山にいる。 今回の取材は、郡山に拠点を置いて、主に郡山から福島県北部を取材した。 郡山の空間線量は高い。 私達取材班は今回6人で構成されているが、そのうち3人は線量0.12μSv/h以下の所に置いておきたい若い人達である。 (0.12μSv/hで、IAEAの基準、年間1mSv『ミリ・シーベルト』になる) だが、郡山は、所によって1.0μSv/h以上、さらにはIAEAの基準の10倍を超える空間線量の場所が郡山駅の近辺にある。 私としては、若い人達のことを考えてそのような場所を取材の根拠地にすることをためらったのだが、案内してくれる人の案を受取って、最終的に取材計画を立ててくれたのは取材班の若い人達である。 彼らは、福島県北部をあちこち見て回るためには郡山が一番便利だと言う。 彼らは、どうしても今回の福島取材は完璧に行いたいと、取材を行う本人の私も顔負けの熱い心を抱いている。 私は、彼らの熱心さを有り難いと思った。 同時に、郡山の人達はそのような高い線量の場所で頑張って生きておられるのに、私達がその線量に怯えて郡山に滞在するのをためらっていては、今回の取材の「福島の真実を知る」という眼目から外れてしまう、と考えて、郡山を取材の根拠地にしたのである。 郡山は良いところである。 周辺をあちこち走り回ったが、風景が何とも言えずに良い。 「ああ、これが、日本なんだ」とほれぼれするくらいに気持ちがよい。 人々の気持ちがこれまた素晴らしい。 私は、1963年,1964年の二夏を霊山神社にお世話になって以来福島が大好きで、特に福島の言葉に魅了されてしまっているのだが、今回も福島の行くところ全てで福島に対する私の思い入れを深くしてくれるような多くの人達に出会えた。 郡山でも、楽しい思い出が出来た。 私達が根拠地としたビジネスホテルのすぐ近くに中華料理屋があって、最初の日にその店に行ったら、何とその店では化学調味料を使っていないのである。 「美味しんぼ」の「日本全県味巡り」での取材は、美味しい物を探す旅だが、今回の福島取材は食べ物は二の次という建て前があるので、毎日の食事に困惑し果てていた。 というのも、大抵の店では化学調味料をふんだんに使っているからで、全員が化学調味料アレルギーの持ち主である私達取材班にとって、取材先できちんとした物を食べさせて頂く時以外の食事は、食べ終わってから、その食事が如何に辛かったか,愚痴をこぼし合う物でしかなかった。 しかし、郡山の中華料理店は化学調味料を使わず、もてなしも親切で、郡山に5泊する間の夕食を3回食べるほど、取材班のお気に入りになった。 取材班の中には日本酒が大好きという人間が二人いて、その人間がその中華料理屋で日本酒を頼んだところ、受け皿にグラスを置いて酒を注いでくれるのだが、何と気前の良いことに、酒をグラスをはみ出すどころか、受け皿にもあるればかりに注いでくれた。 その二人は、狂喜して、それ以来5泊する内の4回もその店に行ったのである。 私は、彼らと、店の女性がなみなみとお酒を注いでくれる樣子を眺めて、昔のよき時代の日本を思い出した。 彼らは、店の女性が酒をつぎ始めると目をらんらんと輝かせ、注いだ酒が杯をあふれると、感に堪えたように「おおーっ」と期待に燃えた声を上げる。女性が受け皿にたっぷりとあふれさせると、泣かんばかりの顔になって、「ばんざーい! ばんざーい!」と天を仰いで大騒ぎする。これは、酒飲みでなかったら絶対に理解できないことだろう。 昔はみんなそうだった。受け皿にどれだけ酒をあふれさせてくれるか、それだけにその日の全てを賭ける男たちが大勢いたのである。 郡山の中華料理店の女性は、私達に昔のそのよき時代の人々の気前よさを再現してくれて、我々は感涙にむせんだ。 料理も悪くなかった。中華料理と言う物は化学調味料を入れなければこんなに美味しい物なのだと言うことを改めて認識させてくれた。 特別な料理を頼む余裕がなかったから、普通の料理ばかり注文したが、全て納得のいく味だった。 次に、郡山を訪ねたら必ずこの店に来ようと思っている。 ; 去年の11月、今年の5月、そして今回6月の取材。 この3回の取材で、私は、福島が現在置かれている状況を様々な角度から見てきた。 福島の真実を見届ける、という、この3回の取材の目的は十分に果たすことが出来たと思う。 ; しかし、この疲労感はただ事ならぬ物がある。 福島県は広いので、この県を、会津、山通り、浜通り、と見て回るだけで疲れるが、そのような肉体的な疲労より、訪ねる各地で見聞きする震災と原発事故に直面した方々の厳しい話の方が私達を遙かに疲れさせた。 ; 震災による被害に対しては、対処のしようがある。 しかし、復興の努力をしようにも原発から排出される放射能が全てを妨げる。 原発1つが、福島、いや、日本全体の社会の仕組みを変えてしまった。 復興のための努力をしようとしても、目の前に、姿も形も見えない放射線というものが立ちはだかる。 これが私達の力の全てを吸い取る。 如何なる努力も及ばない、人の命を吸い取る透明な厚い壁である。 いったい私達はこの厚い壁を如何にして乗り越え、克復できるのか。 ; 私は、この3回の取材で福島の真実は摑んだと思う それを、きちんと表現しなければならない。 まずは、福島原発が何を破壊したのか。 幸せだった多くの人々の生活を破壊し、多くの人々から将来への夢を奪い、社会の仕組みを破壊してしまった。 たった1つの原発がここまで深く日本の社会を破壊したかと思うと、その理不尽さに吐き気がする。 ; 私はこの3回の取材の成果を、感傷的にならず、感情的にならず、あくまでも理性的に、摑んだ真実を正確に「美味しんぼ」の中で表現し行くつもりである。 「美味しんぼ」福島の真実篇は、今年の後半からスピリッツ誌で連載を開始する。 私達の取材の成果を、どうか、その福島編でお読み頂きたい。
- 2012/05/22 - 金環食19日はサッカー観戦で興奮し、20日は小学校の同学年の女性一家が遊びに来てくれて、飲み、食べ、おしゃべりをし、わいわい楽しんだ。 そして、21日の朝5時28分に、連れ合いにたたき起こされ、家の近くの「湘南国際村」の駐車場に行った。 湘南国際村は、バブルの末期に作られた。 私の家の裏に当たる山々を崩して、研究施設棟、国際会議所、各種研修所など、巨大なビルを幾つも建てたが、バブルが破裂して20年以上も経った今、多くの施設に殆ど人の姿が見られない。 山を壊して横浜横須賀道路に続く道を造ったが、その道も、近隣の住民の軽自動車がぱらぱらと走るくらいである。 全く無意味な自然破壊であって、工事が始まってすぐに、私の家の周りに狸が現れるようになった。狸たちは食べものがないのでやせ細り、中には毛が抜けて真っ黒な地肌をむき出しにしたものもいて、道に飛び出して車にひかれて死んだ狸も少なくなかった。 実に哀れだった。 三十年前にはそんなことはなかったのに、現在私の家の裏庭に狸が現れる。狸は犬科だからドッグ・フードを食べるだろうと、私の姉が用意してやったら、喜んで食べる。 そのドッグ・フードを狙って野良猫もやってくる。 猫はたちが悪くて、ドッグ・フードがないと、腹いせなのかどうなのか周囲に放尿する。この、猫の尿の臭さと言ったら耐え難い物がある。 そのたびに「あんな馬鹿な自然破壊をしやがって」と湘南国際村を作った連中に毒づく。 その湘南国際村の駐車場は、山の一番高いところに作られている。 こんなところに駐車場を作って誰が利用するのか、全く分からない不思議な駐車場だ。 そこに、六時過ぎに到着した。 金環食を見るためである。 私の家は西南向きなので、金環食は見えない。 姉が、湘南国際村の駐車場が一番良い、と情報を仕入れてきてくれたのである。 行って見たら、すでに数台車が止まっている。 中に、大きなブァンの横に、本格的な大きくてがっしりした三脚を組立て、その上に望遠レンズ、望遠レンズとカメラ本体の間に黒い遮光板を取り付けたカメラを据え付けて待機している人がいた。 これは、ただ者ではない、あの望遠レンズの向きが金環食を見るのに最適な方向だ、と判断して、そのブァンの横に車を止めた。 「日本写真家協会」というステッカーを機材に貼ってあるから、やはりプロのカメラマンに決まっている。 そのカメラマンは気さくな人で、いろいろと教えてくれた。 どうやら、世界中あちこち天体写真を写して歩いているようだ。 大きなブァンは物置きですよ、と言うだけあって、中から次々に道具が出て来る。 プロのカメラマンは本当に機材が大変だ。 それを扱う体力も大変だ。 物を撮そうという執念、執念を可能にする体力、そう言う物があるからプロのカメラマンは体中から、野獣のような気を放射する。 ちょっと話しただけで、その人からプロカメラマン特有の迫力を感じた。 その日は、曇っていて、金環食が見えるとは思えない天候だった。 おまけに雨まで降ってきた。それもざんざん降りだ。 これは、もう駄目だ、帰ろうか、などと言っていたら、そのカメラマンが「こういう物は、ほんのわずかなチャンスで見えることもあるから諦めちゃ駄目ですよ」と言った。 なるほど、と私は心を改めて、私の念力を発揮することにした。 両手を組み合せ両方の人差指を立てて、その人差指を雲に向けて突きつけて「雲、どけーえーっ!」と念力を放射したのである。 すると、驚くべし。 雲が切れて、金環食が始まったばかりの太陽が、長い三日月のような形で、くっきりと見えるではないか。 「見えた、見えた」と私と連れ合いと弟は大興奮。 しかし、また、雲が流れて太陽が消えてしまった。 そこで、私は再び念力を放射した。 すると、7時30分くらいに突然雲が切れて、なんと、まさに金環食真っ最中の一番良い形の太陽が見えたのだ。 太陽と言うより、黄金の環だ。 これは、驚いた。 「うおーっ、見えた! これが金環食か!」 私は大声で叫んだ。 連れ合いも、弟も私に負けず大声で叫んだ。 美しいと言うだけでなく、なにか、恐ろしいような不思議な感覚が体中を貫く。 こんな素晴らしい物を見る事が出来るとは想像したこともなかった。 しかし、雲が再び流れて、太陽を隠した。 しっかり見る事が出来たのは、実質、三十秒くらいの間のことだ。 三十秒で十分だ。 三十秒だからこそ返って有り難みがある。 その後、雲はますます厚くなり、風の向きも悪く、雲が切れるのぞみはないので、隣のカメラマンに色々教えていただいたことを感謝して我々は引き上げた。 カメラマンは、それでも、まだ三脚を立てたまま頑張っていた。 そのカメラマンがいなかったら、私達は最初で諦め帰ってしまって、金環食を見逃したわけで、三十秒間とは言え、はっきりと金環食を見ることが出来たのは、そのカメラマンがいさめてくれたからだ、と後で皆で感謝した。 それにしても、私の念力はすごいな。 雲を動かしてしまうんだから。 19、20と楽しみ、21日は念力を放射したので、福島で背負い込んだ風邪で弱り切っていた私は再び、動けなくなった。 「美味しんぼ」の原稿で、訂正しなければならないところがあるのだが、それも編集者に事情を話して一日延ばしてもらった。 サッカー見て疲れて、友人一家と遊んで疲れて、金環食で念力を発揮して疲れて原稿が書けない、などと言う言い訳は、言い訳にもならないひどい物だが、寛大な編集者は一日の猶予をくれた。 老衰した原作者のお守りをする編集者も大変だなあと同情し感謝した。 それにしても、私は自分の念力に再び自信を取り戻したので、この念力をこれから大々的に使っていくことにする。 私は正義の悪漢だから、悪い奴らを次々に動けなくしてやろう。 手始めには、ええと・・・・ なんてはっきり名前を挙げるわけにはいかないな。
- 2012/05/20 - サッカーは楽しいいやあ、サッカーって楽しいなあ。 今日は朝10時過ぎに秋谷の家を出て、なんと41分で横浜の日産スタジアムに着いてしまった。 開場が12時、キックオフが2時なのに、どうしてそんなに早く家を出たかというと、前日、日産スタジアムに電話で尋ねたところ、駐車場が10時か11時で一杯になると聞かされたからだ。 行って見れば、駐車所には余裕があり、楽なところに止められたが、それから2時までの時間をどう過ごせばよいか、連れ合いと二人、戸惑った。 しかし、スタジアムの入口の広場は、まるでお祭りか縁日のようで、色々な屋台が出ていて、親子連れで賑わっている。 それを見ている内に、あっという間に時間が経った。 すごかったのが、たこ焼き専用の設備を整えた仙台ナンバーを付けた車でたこ焼きを売る屋台があって、その前に3列に並んでも長い行列が出来たことだ。(どうして、仙台ナンバーの車がたこ焼きなのか、不思議だ) 私と連れあいが座っているテーブルに若い二人連れが相席で座り、女性が買って来たそのたこ焼きを食べ始めたので、私はたこ焼きの写真を撮らせてもらった。女性は驚いたが、快くたこ焼きの写真を撮らせてくれた。私は、厚かましすぎるかしら。 たこ焼きには、マヨネーズがかかっていた。 それが、人気の秘密らしい。 私と連れ合いは、家から持って来たサンドイッチを食べた。 自家製のサンドイッチも、このようないつもと違った雰囲気の中で食べると格別に美味しい。 よく晴れて気持ちが良く、ウルトラマンが出て来るし、横浜マリノスのアイドル人形の着ぐるみが出て来るし、ロックバンドはうるさかったが、チアリーダーのショウもあったし、1時半まで全然退屈せずに、そのお祭り騒ぎを楽しんだ。 1時半になって会場に入ったら、すでに、マリノスと本日の対戦相手ガンバ・大阪のサポーターたちが応援合戦を繰り広げていた。 私達は正面の席で、左にマリノスの応援団、右にガンバの応援席が見える。 両方共、巨大な太鼓を持込んで、ドンガラ、ドンガラと叩きながら大声で応援歌を歌う。 私は、2月に耳を故障して以来、大きな音が苦手なので、こう言うことも予想して、耳栓を持って来ていた。 耳栓をしても、そのすさまじい応援の太鼓の音と歌声は腹に響く。 耳栓がなかったら、逃げ出していただろう。 耳栓のおかげで、助かった。 だが、外国のサッカー事情を知っている私には、この光景が異常に思えた。 ローマでは、地元ローマのクラブと、他の地方からのビジターとの試合を見たが、これは、地方どうしの模擬戦争のような物で、ビジターのサポーターは、観客席の中で柵に囲まれた席に隔離され、ローマのサポーター席との間には、互いの接触を防ぐための空間が設けられている。 試合が終わった後、全観客が退席するまで、ビジターのサポーターたちはその席に残され、最後に駐車場に待機しているサポーターのバスまでを、両側を警官が立ち並んで警戒する狭い空間を一人一列に並んで用心深く移動する。 まったく、敵地に乗り込んで、移送される捕虜という感じだ。 ところが、横浜では、マリノスが応援歌を歌う間はガンバのサポーターはおとなしくしていて、逆に、ガンバが応援歌を歌う間はマリノスのサポーターたちは静かにしている。 なんだ、これは、と私は不思議に思った。 サッカーは元々、討ち取った敵の首を敵の城門に蹴り込む事から始まったと言われている。 ヨーロッパでも、中南米でも、それほど、地方間の敵対意識が強烈なスポーツなのだ。 サポーターたちが、発煙筒や花火を燃やすのは普通のことだ。 ところが、日本では大変に紳士的である。 私は、ビジターであるガンバのユニフォームを着たガンバのサポーターたちが、マリノスのホームである日産スタジアムをあちこちうろうろしているのを見て、驚いた。 私は、驚いて、「どうして、マリノスのホームをガンバのサポーターたちがガンバのユニフォーム着て歩いているんだ。殺されないのか」と連れ合いに言った。 そんなことをヨーロッパ、少なくともイタリアでしたら、只では済まないだろう。 日本のサッカーは大変に平和である、としみじみ思った。 また、日本のサッカー文化は、ヨーロッパ、中南米のサッカー文化とはまるで別物だとも思った。 しかし、サッカーはいい物だ。特に今日のように快晴の空の下だと、これは最高だ。 さわやかな空気が流れ、まばゆい太陽の光を浴びて芝生が鮮やかでみずみずしい。それを目の前にしただけで心が浮き立つ。 その上を日本でも最高の選手たちが、走り抜き技を競い合うのだから、もう言うことはない。 選手たちが出て来た瞬間に、私はもはや興奮状態になる。 試合が始まると、まあ、その時間の経つことの早いこと、その時間の濃密なこと。 興奮しっぱなしの90分だった。 私が愛する中澤は、最初から最後まで出ずっぱりで、見事な活躍を見せてくれた。 得点に絡むことは出来なかったが、その守備の見事なこと。 ガンバが攻めて来ても、中澤一人で、守り抜いてしまう。 そのすばらしさに、ますます、私の中澤熱は上がった。 中村俊輔も頑張ってくれた。 フリーキックを二つばかり失敗し、これ以上確実な物はない思われるペナルティー・キックも外した。 あのPKさえ決まっていればと、今でも私は悔やんでいるが、その失敗があっても中村俊輔の技の巧みさは見事で、心底楽しませてもらった。 中村俊輔のパスは極めて正確だ。コースも上手く敵の間を抜くし、そのボールも味方が受けやすいように、強さ、角度を上手に計算してある。 残念ながら、その中村俊輔の絶好のパスを、マリノスの選手(敢えて、誰とは言わない)はことごとく、次の攻撃につなげる事が出来ず、中村俊輔の努力は実らなかった。 結果は、ゼロ対ゼロの引き分け。 残念だった。 最後に、マリノスの選手たちが会場を一周して挨拶して回る際に、中澤が私達の前にさしかかったので、私は思い切り大声で「なかざわーっ!」と叫んだ。 中澤に私の声は届いたかなあ・・・・・ とにかく、最高に楽しい1日だった。 マリノス、ありがとう! マリノス頑張れーっ! とここで、もう一度大声で叫ぶ。 また、マリノスに会いに、日産スタジアムに行くぞ。
- 2012/05/19 - 横浜Fマリノス応援に行くぞ今、「美味しんぼ」島根県編の第9回目の原稿が上がった。 さあ、明日は、日産スタジアムに、横浜Fマリノスの応援に行くぞ。 相手は、G大阪だ。 マリノスには、私が愛する中澤がいる。 最近、控えに入ることが多いが、いざという時には出て来て点を入れてくれると思う。 それを願って見に行く。 ワールドカップ・ドイツ大会の時に、中澤の名前の入った全日本のユニフォームを着て行った 今回も、そのユニフォームを着て行きたかったのだが、もしかしたら、他のマリノス・ファンに失礼かと思って遠慮した。 2時キックオフ。 今夜は嬉しくて眠れそうにない。 たのむ、中澤、出て来てゴールを決めてくれ。
- 2012/05/16 - 福島報告 その15月11日の早朝、福島から秋谷に帰ってきた。 3日に大雨の中を横須賀、秋谷を車で出発した。 午後2時頃に出発して、福島に着いたのは10時半過ぎだった。 いつも取材で写真撮影をお願いしている安井敏雄カメラマンが運転してくれた。 3日は低気圧が南から北へ移動していて、私達はその低気圧の動きに合わせて走ることになった。 結果的に、すさまじい大雨の中を走り続けた。 東北自動車道に乗ったが、大雨のために佐野藤岡から先は通行止めになっていて、東北自動車道から降りなければならなくなった。 次の栃木入口まで一般道を走り、大渋滞の中を栃木入口にやっとのことでたどり着いたが、なんとそこも通行止め。 入口の料金所でUターンして再び一般道に戻り、宇都宮インターまで、大雨大渋滞の中を走り続けて、ようやく東北自動車道に戻ることが出来た。 しかし、その頃から雨がただ事ならぬ勢いとなった。ワイパーを全力で回しても、殆ど効果がない。 前方が水のカーテンに閉ざされたようで、道もよく見えない。 三十年近く前、メキシコ第二の都市グアダラハラからメキシコ・シティーまで、深夜運転したことがある。 メキシコの道路には、路側帯も、中央線も引かれていない。 そして、街灯もない。 そのとき、路側帯、中央線の有り難みを初めて知った。 真っ暗闇で路側帯も中央線もないと、道がどこにあるか分からないのだ。道のありかが分かるのは対向車が走ってきたときだけ。 後は、ヘッドライトの届く10数m前方を、目をこらして見続ける事しかできないのだが、ヘッドライトで照らされた地面も、道なのかどうなのかそこまで走って行って見ないと分からない。 メキシコ・シティーの手前で夜が明け来て道が見えるようになったときには、本当に一命を取り留めた、と思ったものだ。 今回の福島までの大雨の中でのドライブはその時に次ぐ恐ろしい物だった。 とは言え、運転したのは安井敏雄カメラマンである。 私も、途中で運転を代わろうと思ったが、万が一運転を誤ったら、私はともかく、安井敏雄カメラマン、記録係のライターの安井洋子さんまで巻込むことになると怯えて、卑怯にも福島まで安井敏雄カメラマンに運転してもらった。(カメラマンとライターが同じ姓なので、名字だけで呼んだのではどちらを読んだのか分からない。で、私は、いつも、敏雄さん、洋子さんと名前で呼んでいる。) 私は助手席に座っていただけだが、視界が最悪の中を走っていると運転している敏雄さんの半分くらいは疲れる。 福島に着いたときには、全員(特に敏雄さんは)くたくたになっていた。 救いは、車がスバルだったことだ。 全輪駆動はこう言う時に本領を発揮する。 川のように水が流れる高速道でもしっかり道に張り付くように安定して走ってくれた。 しかし、最初のこの疲労が、取材の最後まで祟った。 今回の取材は、この肉体的な疲労に、精神的な疲労が加わって、今での取材の中で一番厳しい物になった。 精神的な疲労は、福島の真実を知ることがもたらした物だ。 真実を知ることは、辛い物である。 今回、取材したのは、 ◎ 会津喜多方、 ◎ 会津若松、 ◎ 中通り三春、田村市船引町、 ◎ 浜通り、相馬、飯舘村 ◎ 浜通り、南相馬、小高、 ◎ 浜通り、南相馬、原町 の地域である。 去年の11月に行き、今度行き、又次回は6月初めに福島に行く。 この3回で福島の南から北まで、見るべき肝心なところは見ることが出来ると思う。 取材の成果は、9月頃から始める「美味しんぼ」福島の真実篇、にまとめるが、今回取材した中で一番気になったことこれから、2、3回にわたって書いてみよう。 去年立ち入り禁止だったが、今年の4月から入れるようになった地域がある。 飯舘村だ。 飯舘村は「いいたてむら」読む。よく、「いいだてむら」、と「たて」を「だて」と濁って言う人がいるが、ただしくは、「いいたてむら」である。 飯舘村には農業を営んでいた方に案内して頂いて行ったのだが、飯舘村に入って、その美しさに感嘆した。 背景に阿武隈山脈が控え、手前に農地が広がる。 私が行ったのが、一番良い時期だった。山は新緑が芽吹き、その鮮やかな緑がみずみずしく光り、その緑の間に山桜が点々とあでやかに華やいで咲いている。 絵描きだったらすぐに絵筆を取りたくなるに決まっている、美しい景色だ。 しかし、この飯舘村は放射能の汚染の激しいところである。 今は殆どの住民がよその土地に避難している。 農地もよく見れば、人の手が入っていないことが歴然と分かる。 去年今年と、農業は行われていないので、農地は荒廃の一歩手前である。 天婦羅にしたら最高に美味しい、タラの芽を栽培している畑を見たが、誰もタラの芽を取らないので、タラの芽が伸びて、葉っぱになっている。 私は、最初桑の木と間違えてしまった。それほどタラの葉は良く育っているのだ。 飯舘村は、全村上げて有機農業に取り組んでいた村である。 だが、今は有機農業どころではない。 かつては、無農薬でプチトマトを育てていたビニールハウスも今は骨組みしか残っていない。 飯舘村に村民が帰還して、もとのような価値ある農業を開始出来るのはいつのことか、誰にも分からない。 ただ、それが、二年や三年と言うことではないことは、みんな理解している。 飯舘村の人達数人と話したが、早く村に帰って昔どおりの農業をして暮らしたいと切実に願う気持ちと、同時に、幾ら農産物を作っても誰も買ってくれないだろう,と言う絶望感が同居している。 常識的に考えて農作物を作るのは無理だと分かっている。 しかし、その心の奥底で、「やって見れば何とかなるのではないか」という期待心が頭を持ち上げてきて、「駄目だ」という気持ちと「やれば何とかなる」という気持ちの葛藤に苦しむと言った。 美しい新緑と咲き誇る花々に包まれて広がる農地。 しかし、その農地は雑草が生い茂り、荒れている。 建ち並ぶ家には、人の影が見えない。 荒れた農地と無人の家。 車は走るが、村人の姿は見えない。 景色が美しいだけに、余計にその痛ましさが胸に迫った。 (つづく)
- 2012/05/03 - 第二回福島取材5月3日から、去年の10月に続いて2回目の福島取材にでかける。 前回の取材でも、福島の現実を認識することが出来たが、今回と次回6月、合わせて3回の取材で、福島の現実を更に深く掴むことが出来ると思う。 震災から1年以上経つのに、福島を初め、東北各地の復興は進んでいるとは言い難い。 特に福島は厳しい状況にあるようだ。 その状況を出来るだけつぶさに見て来ようと思う。 心配なのは天候だ。 田植えの準備を見学する予定なので、雨に降られては足元がぬかるんで、右脚が不自由で長靴を履くことが出来ない私は困ったことになる。 いままで、あちこち取材をして歩いたが、この十数年間に取材中に雨に降られたのは一回だけ、というお天気男の私の強運を信じることにしよう。 最近、多くの芸能人が福島を訪れて、得意の歌やショーを演じて福島の人達の慰労をしていると言う。 また、さまざまな援助物資を届けに来る人も多いと聞く。 私には、そう言う人達のように福島の人達に対して何もして差し上げられないのが、苦痛だが、福島の真実を掴んでそれを世の人々に伝えることにも、なにがしかの意味があるのではないかと考えて取材に行くのだ。 震災以来、私の心のかなりの部分は福島のことに占められている。 気がかりで心配である。 遠く離れているから心配が募るのであって、福島に入ってしまえば、前回10月の時もそうだったが、返って安心する。 学生時代二夏を過ごした霊山にも行くつもりだ。 福島に行くことはなんだか、親戚の家を訪ねるような気がする。 感傷に陥らず、神経質にならず、気を高ぶらせることなく、冷静に全てを観察してこようと思う。
- 2012/04/15 - 今西憲之氏の本「福島原発の真実 最高幹部の独白」 週刊朝日に連載されている、今西憲之氏の「福島原発の真実 最高幹部の独白」が単行本になった。 (朝日新聞出版刊 1200円) 私は連載中、毎回スキャナーでコンピューターに取り込んで、保存してある。週刊誌を見開きでスキャンするためにA3対応のスキャナーを買った。 しかし、こうして単行本でまとめて読むと、まとまりが良くなっている分、迫力が違う。 日本の、新聞・雑誌・テレビなど、マスコミと言われている報道機関は、福島第一原発について、真実を伝えようとしない。 政府の意向に従って、隠蔽と、偽りの安心を振りまく事に腐心している。 しかし、この今西憲之氏の本は違う。 同じ朝日新聞社なのに、週刊朝日はがんばっている。 何十年も定期購読してきた意味があったという物だ。 この今西憲之氏の本を読むと、「収束宣言」など出した民主党政府が如何に国民を欺く政府であることが明らかになって、悲しみと怒りで発狂寸前になる。 特に、2号機と4号機はいつ何時、どんなことが起こっても不思議はない事がよく分かる。 私も、色々な方面から事の真実を伝え聞いている。 それらの話と、今西憲之氏の書いていることと一致する。 日本人は今、「ダチョウ症候群」にかかっている。 ダチョウは危機が迫ると地面に穴を掘ってその穴の中に頭を突っ込んでしまうそうだ。何も見なければ、危機もないことになる。 日本人は、ダチョウの真似はやめて、この今西憲之氏の本を読むべきだ。 真実を知らずに、適切な行動を取ることは出来ない。 目の前に危機が迫ってきているのに、それを見ないふりをしていたからと言って、危機からは逃れられない。 真実を知ることは勇気がいる。 しかし、真実を知らずに、政府や東電の、彼ら自身の保身のための嘘を真に受けていては、気がついたら死んでいた、などと言うことになりかねない。 日本人よ、勇気を持って、今西憲之氏の本を読め! 今西憲之氏の真正なジャーナリスト魂に敬意を表する。 普通のマスコミ関係者が怯えて入らない、福島第一原発の内部に入って行く勇気は最大級の賞賛に値する。 これこそジャーナリストではないか。 今西氏の原稿を載せ続けている、週刊朝日にも敬意を表する。 こういうジャーナリスト、こういう雑誌があることが、今の日本の救いだ。
- 2012/04/13 - ご無沙汰しました長い間、ご無沙汰しました。 心身共に、色々難題を抱えてしまって、このページに書き込む余裕が無かったのです。 ブログと言う物は更新がないと読んでもらえなくなる、と言うことで気にしてはいたのですが、ちょっと難しい状況が続いています。 忘れられるといけないので、近況などお知らせします。 戻って来て、すぐに病院通いが始まりました。 そこで感じたこと。 4月9日に東大病院に行った。 予約時間が10時20分なので、横須賀市秋谷の自宅を7時45分に出た。 出勤時間にかかるので、早めに家を出たのだ。 ところが、高速道路から一般道路まで、がら空きで、自宅から本郷の東大病院まで、1時間7分で着いてしまった。 診察を終えて、東大病院の入院病棟の最上階にある、上野精養軒の出店で食事をした。 この店のハヤシオムレツが連れ合いの好物で、値段からしてなかなかの物だ。 その後、神保町に行った。 シドニーにいると本に飢えている。シドニーに持って行きやすいように文庫本を中心にあさった。 このときに驚いたのだが、最近の文庫本は高い。 以前は文庫本というと、安くて携帯便利だと言うのが利点だったが、今回文庫本の値段が、単行本と変わらなくなっていることに気がついて驚いた。 一冊が千円以上する文庫本が少なくないのである。 しかし、文庫本になる本と言うのは元々の本としての価値があるという証拠で、文庫本になっている本を買うと、外れが少ない。 特に、講談社の学術文庫は良い本がそろっている。 いわゆる古典的な名著が文庫本化して収録されているのは本当にありがたい。 古書店でしか求めることの出来なかった本まで文庫本にしてくれているので、嬉しいことこの上ない。 今回、20冊以上学術文庫を買ってしまった。 いや、言いたいのは、本の話ではない。 前に書いたように、横須賀市秋谷の自宅から本郷の東大病院まで1時間7分で着いた。 それは、道路ががらがらに空いていたからである。 東大病院から神保町までの道も異様に空いていた。 ご存じの方ならお分かり頂けると思うが、通常午後のどんな時間帯でも、本郷から神保町までの道は混んでいる。 ところが、その日は、いつも車で埋まっているはずの道が、がらんとしている。 「不思議だなあ」と連れ合いに言ったら、連れ合いは、「4月の新年度が始まったばかりだから、企業活動が活発ではないからじゃないの」と言う。 どうも、その説には同意しがたいと私は思った。 これは、単に経済が不調で、経済活動が衰えたからでないかと連れ合いに言った。 連れ合いは、悪いことを考えたくない性質なので、「新年度のせいよ」と言い張る。 9日にまた東大病院に行った。 今度は予約時間が1時半だったので、秋谷の家を11時40分に出た。 またもや、1時間ちょっとで到着した。 その日は、検査が多く、病院を出たのが午後4時半を過ぎていた。 会社の引け時近くで本来なら道は混んでいるはずである。 しかし、本郷から秋葉原に行くまでの間、驚くべき事に、私自身の走る車線から反対側の車線まで、殆どと行って良いほど車が走っていないのである。 自分の側の車線、反対側の車線、両方とも車の姿が見えない。 東京でこんな事があって良いのか。 昔、元旦に東京を走ったことがある。その時は東京中の道ががら空きで、東京を真横に横断しても30分とかからなかった。 東京という町は渋滞さえなければ、狭い町なのだ、とその時痛感した。 それと同じ感じを今回抱いたのだ。 もっと悪いことに、地震などが頻発している今の状況が頭にある物だから、前後左右に車が殆ど走っていないと、「何かがあって、みんなが避難してしまっているのに、それを知らない自分たちだけがこんなところをうろうろしているのではないか」と非常に心配になった。 しかし、どうやら何も天変地異が起こったわけではないと言うことを、秋葉原に到着して確認した。 だが、そこで再び不安になった。 「どうしてだ、どうして、東京中の道がこんなにがら空きなんだ。こんな事は見たことがない」 連れ合いは、相変わらず「新年度のせいよ」という。 私も、連れ合いのように思いたい。 思いたいが、「事実を認めよう」と言う声が私の心の中に鳴り響く。 これは、日本の景気が恐ろしく悪くなっているからではないか。 仕事がないのに、車で走る意味がない。 東京だけでなく、日本中、走っている車の数が減っているのでないか。 また、数日後に東京に行くのだが、その時もまた、道ががら空きだったら私の心配は当たっていることになると思う。 私は、恐れる。 日本の経済はひどく落ち込んでいるのではないか。 首都高速道路が、有料駐車場ではなくなり、本来の高速道路になったことをありがたいと思うと同時に、これは、危ないなと、私は心配でたまらないのである。
- 2012/03/09 - 橋下氏のこと最近、大阪市長の橋下氏が、本領を発揮してきた。 NHKのテレビニュースで以下の場面を見た。 1)大阪市役所の職員が勤務時間に政治活動をしていないかどうか、掴むために職員のメールを本人に予告、前もっての知らせなしに、点検するとした。 テレビの画面に本人が出て来て言った。 「前もって知らせたら、メールなんか消してしまうでしょう。それでは意味がない。」だから予告なしに、メールを点検する」と言った。 2)卒業式の式典で君が代斉唱の時に起立しなかった教員が市内で8人いた。 その8人は処分するという。 橋下氏本人が出て来て言った。 「そんな人は辞めたらいいんですよ。政治の自由とか、思想の自由などと言いたかったら公務員を辞めてからにすればいい」 (テレビを見ただけだから、言葉使いは正確ではありません。しかし、意味の取り違え、全体としての表現の仕方に間違いはないはずだ) 3)橋下氏は「大阪維新の会代表」として、次の選挙で維新の会の公約として憲法改正手続きを盛り込むと明らかにした。 毎日新聞電子版によると、 橋下市長は記者団に9条は「他人を助ける際に嫌なこと、危険なことはやらないという価値観。国民が(今の)9条を選ぶなら僕は別のところに住もうと思う」と述べた、そうだ。 じつに奇々怪々な言葉で、私は頭がぐらぐらした。 この人は何を言っているのだろうか。 この人の言葉がまともな物であるなら、私の記憶がでたらめか、私の憲法の理解の仕方が間違っているのに違いない、と不安になって思わず憲法を読み返してしまった。 面倒くさいが、話を正確にするために、憲法を書き写す。 憲法にはこう書いてある。 第2章 戦争の放棄 第9条(戦争放棄、戦力および交戦権の否認) ①日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 ②前項の目的を達するため、陸海空軍とその他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 みんなしっかり確認してくれ。 これが、憲法第9条なんだ。 ここに書いてある物はそれだけ。それ以外には何も無い。 これを、他の形に解釈するのは無理だ。 一体これが、どうして「他人を助ける際に嫌なこと、危険なことはやらないという価値観。」になるのか。 これを裏返せば、橋下氏が求めるのは「他人を助ける際に嫌なことをする。危険なことをする価値観」となるだろう。 何が何だか訳の分からない文言だ。 それというのも、もともと橋下氏が「日本を再び戦争の出来る国にしたい」という本意をあからさまにしないために、曖昧でいくらでもごまかしのきく言葉使いをするから、何が何だか意味が分からなくなるのだ。 「他人を助ける際に嫌なこと、危険なことはやらないという価値観。」と第9条がどのように結びつくのか、橋下氏は真意を誤魔化さずきちんと話すべきだ。 「他人を助ける際に」と言う言葉は、妙に情緒的だが、数秒考えてみると空虚で無内容な物であることが分かる。 極めて重大な内容な話をこのようないい加減な言葉で意味をどんどん自分が扱いやすい方向ににずらしていくのは、腹に何か企みのある人間のすることである。 そもそも、橋下氏のこのような言動は、自分が禁じた公務員の政治活動に他ならないのではないか。 国会議員が、国会内で憲法改正議案を論じるのならまだしも、地方行政が任務の市長が、どうして国政の根幹に関わるような政治活動をするのか。地方行政に携わる者は憲法遵守が鉄則でしょう。憲法改正の活動をするのは市長の分限を超えている。 地方行政と、国政とは役割が違う。 地方行政はその地方の住民の福利厚生のために働くのが根本だ。 政治の自由とか、思想の自由とか言いたいのなら、市長を辞めてからすればいいんですよ。 一つの国が衰退し、経済が疲弊し、国民はその日の生活に追われ、明日への展望も希望も抱けず、閉塞感に落ち込み、自信を失い、不安と焦燥に駆られると、ちょっとした扇動に乗りやすくなる。 その扇動は、「この連中は不当な利益を受けている」、とか、「この連中は決まりを守らない」、などとある人達を攻撃の対象に選ぶのが一番効果がある。 橋下氏は大阪市の職員は給料が高すぎるから削減するという。 市バスの運転手も平均760万円取っているので、それ38パーセント削るという。 給料の額についての議論は別として、不況にあえぐ人達の一部は喝采するだろう。 自分が辛いときには、他人も苦しいことを望む人間の心理は浅ましいが、浅ましいところに働きかけるので、そのような扇動は良く効くのである。 極めつけは、ナショナリズムを煽ることである。 思い出して欲しい。 第一次大戦後、ドイツは、第一大戦敗戦の賠償金を取られて、経済的に苦しかった。 国民は、戦争に負けたことで自尊心を傷つけられていた。 今の日本人と同じくらい、逼塞感に落ち込んでいた。 そこに出て来たのが、ヒットラーだ。 ヒットラーは、ユダヤ人をドイツ国民の敵としての標的に掲げ、ついでゲルマン民族の優秀性を説いて、ナショナリズムを掻き立てた。 ヒットラーは無力の小グループであるユダヤ人を標的に選んだ。 橋下氏が攻撃の標的に選んだ公務員・大阪市の職員も、今の状態では無力である。(橋下氏に首根っこを押さえられているから反抗できない) 橋下氏の、国家斉唱時の起立要請は、ナショナリズムを掻き立てる、というよりナショナリズムを押しつける手段である。 ヒットラーは売れない画家で、軍隊では伍長止まりだった。 そのヒットラーが総統にまでなったのは、人々を扇動する能力に長けていたからだ。 橋下氏の経歴について私は良く知らない。 知っているのは、島田紳助氏のテレビ番組で人気者になったと言うことである。 橋下氏の口舌の技はなかなかの物で、攻撃しても一般市民は絶対安全という標的を探し出し、一般市民に、その標的に対する攻撃の仕方を教える扇動の技術は、扇動家の手本となるものである。 最近も、市の児童福祉施設の男性職員が子どもたちに入れ墨を見せ、2か月の停職処分を受けたが、市側の指導で長袖シャツで隠したまま職務を続けていることを問題視し 「入れ墨だけでクビにできないのなら、消させるルールを」と言った。 私も入れ墨は好きではない、と言うより大嫌いだが、その人が好きでしていることなら、口を挟むことではないと考えている。 しかも、その職員は職場で長袖のシャツを着て普段は入れ墨を隠しているのなら問題ないではないか。 隠していてもいけないと言うのなら、大阪市の職員は全員、全身くまなく入れ墨があるかどうか調べられることになる。 そして、あったら首になるか、その入れ墨を消さなければならない。 入れ墨を消すのは大変なことだ、焼き切らなければならないので、消したあとがケロイド状の傷跡になる。 私は何度か入れ墨を焼き切った後の人の肌を見たことがあるが、これはむごい物である。 そのようなむごいことを、平然と要求する人間が自分たちの市長であることを、大阪市民はどう思っているのだろうか。 市の職員倫理規則に入れ墨の規定はないが、橋下市長は関係部局への指示の中 で、「入れ墨をしたまま正規職員にとどまれる業界って、公務員以外にあるのか」 としているそうである。(この入れ墨関係の事実は、読売新聞電子版による) これでは、入れ墨をした人間はまともな職に就いてはいけない、人間失格者みたいではないか。 うっかりすると、橋下氏に乗せられて「入れ墨をするなんてけしからん奴は、公務員にしておけん」と市民が入れ墨をしている公務員に対して攻撃的になる恐れがある。 絶対に反撃できない弱い立場の人間を敵として規定して、攻撃することを一般市民に煽り立てる政治的手法が恐ろしいのは、一般市民の中に「自分たちにとって目障りで、自分たちが攻撃しても反撃する能力のない弱い立場の人間を探し出して来て敵として規定し、自分たちの鬱憤晴らしのために、憎悪と敵意をぶつけて攻撃する」という精神構造を醸成するからである。 敵意と憎悪がはびこっている社会はこれは地獄だ。 橋下氏は一貫して敵を作って攻撃する政治手法をとっている。 それも自分より弱い人間ばかりを敵にする。 日本が橋下氏の目論むような方向に進むと、日本の社会は昆虫の社会になってしまう。 ほ乳類の社会では、例えば雌犬が迷子の子猫におっぱいを飲ませてやる、などと言う情が存在するが、昆虫の世界では、相手を攻撃するか、逃げるか、しかない。 反射神経の世界である。 大阪市の職員は、スズメバチに狙われたミツバチみたいな気持ちでいるのではないか。 さらに、今の日本の社会で本当に権力を握っているのはどう言う人間達か橋下氏は良く知っている。 橋下氏はそう言う人達を決して敵に選ばない。 と言うより、そのような人達に好まれることを選んでする。 日本の社会で本当に権力を握っている人達とは、「日の丸・君が代」を守り本尊とする人達である。 安倍晋三氏が、橋下氏に接近してきたところを見ると、橋下氏の意図するところがよく分かるような気がする。 −100度の寒気に日本が包まれたように感じる。 橋下氏は「国民が(今の)9条を選ぶなら僕は別のところに住もうと思う」と言っている。 それは大変良いことだ。 外国から日本を見ると、日本の本当の姿が良く分かる。 シドニーは如何ですか。 シドニーのアオリイカは旨い。 ご連絡頂ければ、アオリイカ釣りの良い漁場にご案内します。 ぼんやりと、頭を空にしてアオリイカ釣りなどするのは良いものですよ。 少なくとも、大阪市の職員を攻撃して回るより心が豊かになる。 おっと、扇動家だからアオリイカなどとからかっている訳ではありません。
- 2012/02/19 - あれから一年経った一昨日、次女が何かの際に「今日はポチ子の誕生日。生きていたら18歳だわ」とつぶやいた。 すると、長女が「死んだ子の歳を数えるのはやめなさい」とたしなめるように言った。長女も辛かったのだろう。 我が家の愛犬ポチは、去年の1月に死んだ。 ラブラドール・レトリーバーで17歳まで生きるのは長命だと言われている。 ポチと言う名は普通雄犬に付ける物だが、ポチが来る前から「今度犬を飼うときにはポチと名前を付ける」と私が決めていたので、実際にポチが家に来たときにその通りに名前を付けた。 私は結婚してすぐに飼った雌の子猫にもポチと名前を付けた前科がある。 娘達はそんな名前でなくもっと可愛い名前がいいと言ったのだが、そのとき娘はまだ中学生で、考えてみれば、その頃まではまだ私も家の中で自分の意見を通すだけの力があったのだ。 今はもう、連れ合いと、長女、次女の言うとおりに従わなければならない身の上で、自分の意見を通すなんて飛んでもないことだ。嗚々・・・・。 私は、そもそも、オーストラリアには2、3年しかいるつもりはなかったし、秋谷の家の二匹の猫と一匹の犬を姉に託して置いてきていたので、オーストラリアで犬猫を飼うつもりは全くなかった。 しかし、思いの外オーストラリアに長逗留することになってしまい、その間に秋谷の猫と犬は姉の手厚い世話の元に川を渡ってお花畑の世界に移った。 そうなると、二匹の猫と一匹の犬に申し訳ない気持ちが深くなって、犬猫を飼う気持ちにはなれなくなった。 ところが、小学生になった次男が、よその家の犬を大変に怖がるのをある時知って、これはいけない、と思った。 私は子供の頃から身の回りに犬猫がいなかったことはない、と言う生活を送ってきた。犬や猫は,人間の生活を明るく楽しくしてくれる。 その犬を怖がるとは次男の人生にとって大きな損失であり、そう言う人間は動物一般、ひいては他人に対しても冷たい人間になる可能性がある。 私は次男の教育のためにも犬を飼おうと思った。 次女は生まれつきの動物好きなので、以前から犬を飼ってくれ、犬を飼ってくれと言っていた。長男も長女も、犬が欲しいと言っている。 ちょうど良いから、子供達の願いを聞き届けると言う形で、犬を飼うことにしたのだ。 ただ、その際に、私は子供達に忠告して言った。 「犬を飼ってもいいけれどね、その犬は結局この子(次女)の物になるぜ」 次女は、赤ん坊の時から猫に遊んで貰って育ったせいか、無類の動物好きだ。 それも桁外れだ。 次女がまだ4歳の時に、連れ合いは次男を妊娠していて予定日が10月なので夏休みにも子供達と遊んでやれない。そこで、私が子供達を楽しませてやろうと思って、伊豆に連れて行った。 その帰りに、箱根で休んだ。丸い草だけが生えた小山があった。その小山のふもとに敷物を敷いて休んでいる夫婦がいた。その横に日本犬がいた。 それを見た次女は「あ、可愛いワンちゃん」というなり駆け寄って抱きついて、仲良し、仲良し、と頬をすり寄せた。その次女を夫婦が息をのんでみている。 その態度がおかしいので、私は、「すみません、ご迷惑ですね」と言ったら、夫婦は顔を振って怯えた声で「いいえ、この犬は噛むんです」と言った。 私は驚いた。そんな無責任な。噛み癖のある犬を人の来るところにつれて来ないでくれ。 しかし、その犬はいい気持ちそうに次女に抱かれなで回されている。 私は、よく分かった。次女の強烈な愛情の放出に犬も呑込まれてしまって大人しくいい気持ちになったのだ、と。 (次女と遊んでくれた猫チッポが、これまた忠猫としか言いようのない猫で、次女は、はいはいを始めるとチッポに向かってはって行ってその上に乗ってしまう。すると、チッポは苦しがって「フニー、フニー」と弱々しく鳴く。これが不思議なことに決して自分から逃げようともせず、次女に抵抗しようともせず、ただ、「フニー、フニー」と鳴くだけなのだ。そこで、気がついた私か連れ合いが、次女を抱きあげて、チッポを解放してやるのだが、チッポはそのまま逃げようとせず、4、50センチくらい離れたところで、また横になってしっぽを振って次女をふりかえる。次女は喜んではって行ってチッポの上に乗る。すると、チッポは「フニー、フニー」と鳴く。私たちが次女を抱きあげる、チッポを解放する。しかし、また4、50センチくらい離れたところで横になって次女を振り返る。次女は、はって行ってチッポに乗る。チッポは「フニー、フニー」と鳴く。 この繰り返しである。私たちは「チッポは逃げればいいのに」と思うのだが、チッポは同じことを繰返す。ところが、玄関の扉が開いてよその人が入ってくる気配がすると、チッポはさっと姿をくらます。 お客が帰ると、どこからともなく再び姿を現す。 それほど、他人のことが大嫌いなチッポが次女に押さえ込まれても逃げない。それで私たちは理解した「チッポは次女と遊んでくれているんだ」。 チッポは狩りの名人で、長男・長女が赤ん坊の時にも忠猫ぶりを発揮した。 長男・長女がまだ1歳未満の頃、私たちは双子用の乳母車に長男・長女を乗せて家の玄関から表に出た。散歩をしようと思ったのである。 当時住んでいた逗子の家は玄関から、門まで前庭があった。その前庭から門へ向かう途中、私たちと一緒に出て来て乳母車の周りにいたチッポが突然私たちの前にきて、立ちふさがるように後ろ脚で立ち上がり、両の前脚を広げて、何物かに立ち向かう姿勢を取った。 どうしたんだろうと思って、チッポの前を見て驚いた。蛇がいた。 しかも、その肌には鎖型の模様がある。マムシである。 その逗子の家はすぐ前と裏を川が流れ、その川にはベンケイガニが棲んでいた。 このカニは不思議なカニで、陸に上がってくる。私の家の庭にも沢山上がってきて、庭の木に這い上がって、木の皮に生える苔をこそげるようにして食べるのだ。 今はどうなったか知らないが1970年代終わりの逗子、桜山はそんな自然が残っていた。 マムシが出て来ても不思議ではない状況だった。 そのマムシはまだ若く、大きくなかったが、マムシはマムシだ。噛まれたらおおごとだ。 私は、チッポが危ない、と思ってチッポに、逃げろ、と言ったのだが、チッポはマムシに向かっていく。マムシが鎌首をもたげると、素早く猫パンチを食らわす。蛇はひるむが、すぐにまた鎌首をもたげる、するとチッポが猫パンチを食らわす。このチッポの動きが実に素早く的確だ。あまりにチッポの動きが素早いので、マムシはチッポに噛みつくことも出来ない。 マムシは数回チッポの猫パンチを食らって参ったのか、ちょっと気を抜いた。そのわずかな隙を見のがさず、チッポは飛びかかって、マムシの頭のすぐ下の部分にがっきとかぶりついた。私が、驚いて声を上げるのを尻目に、チッポはマムシをくわえて表に走り去った。その先、マムシをチッポがどう始末したのか私たちには分からない。 私たちは、『チッポは長男と長女をマムシから守ってくれた、なんと言うえらい猫だ』、と感心し、有り難い、有り難い、と賛嘆した。) 思わず、チッポの思い出話が長くなったが、そんな風に猫に遊んで貰って育った次女は、猫も犬も大好きだ。 しかも、次女は冷静な長女と違って、愛情を押さえられない性格である。 これで、犬を飼ったら次女が愛情を注いで独占して離さないだろうと私には想像がついたのだ。 ポチが来たら、私の予言通りになった。 次女がポチを抱え込んでしまう。長女は遠慮っぽく、次女が抱いているポチを撫でながら、「私にも抱かせて」と哀願する始末である。 「犬を自分の部屋で寝かせるな。ましてや犬をベッドに上げるなんて飛んでもない」とポチが来る前から私は子供達に言って置いたのだが、次女は、その言いつけを完全に無視した。 子犬の時には自分の布団に入れ、大きくなったら犬用のベッドを自分のベッドの横に置いて一緒に寝る。「それじゃ、犬女だ」と叱っても、全く知らん顔だ。 (むう、思えば、実はこの頃から私の父親としての権威は失われていたのか) ポチじゃ男の子みたいで可哀想だと言って、「ポチ子」と呼び、家にいる時にはそばから離さないし、犬も離れない。学校に連れて行ったりもする。 ポチはお陰で自分は人間だと思いこみ、よその犬に対しては大変攻撃的になった。良くないことである。 更に驚くべきことが起こった。次女は、高校を卒業して大学に進むときに獣医学科に行くと言う。その理由はと訊ねると「ポチの世話を見たいから」というではないか。犬のために自分の人生決めるのか。 次女は人間のための医学部に進むことも出来る点数を取っているのだから、普通の医学部に行ってくれ、と頼んでも、いうことを聞かない。 私が、「人間の医学部に入ると、『国境なき医師団』のような崇高な仕事も出来るんだぞ」というと、次女はちょっと考えて「それじゃ、私は『国境なき獣医師団』を作る」という。愛情を外に出す性格の人間は、強情でもある。(冷静な性格の長女も強情だが。あれ、考えてみると、私の家の子供はみんな強情だな。長男も、次男も強情だし。そうか、これは親が悪いんだな) 親が子供にあれこれ指示できるのは、高校三年生まで、それから先の進路は子供の自由意志にまかせると言うのが私たち夫婦の方針だから、次女の望むとおりに獣医学科に行かせた。 次女はポチの世話をしたいために獣医学科に進んだだけのことはあって、それからのポチの扱い方が,それまでとは変わった。 ペットを可愛がると言うより、まさに獣医が犬の健康診断をすると言った風にポチを取り扱う。ラブラドール・レトリーバーは耳が垂れていて、そのせいで耳が悪くなることが多いそうで、次女はしょっちゅうポチの耳の中を点検し、時には水薬をさしてやる。 口を開けて、歯を点検し歯茎を点検する。体を撫でるのも、まるで触診だ。 次女はこれをよその家でもする。よその家に行ってそこの家の犬が出て来ると、耳を調べ、目を調べ、口を開けて口の中を調べる。 「それは、犬を可愛がっていると言うんじゃないよ。犬を診察しているって言うんだよ」と私は呆れて言うのだが、卒業して獣医師になると、すっかり癖になったのか、職業意識が身についたというのか、犬や猫とお近づきになるとかわいがり触診が始まる。 こんな風に、次女に健康管理をして貰ったので、ポチは、17歳まで生きた。 しかし、16歳を過ぎると、弱ってきた。ラブラドール・レトリーバーは人工的に改良を加えられてきた犬種で、そのために腰が弱い。 それが影響して、まず後ろ脚が不自由になる。 階段もお尻を押してやらなければ上がれないし、あんなに好きだった散歩も長距離はいやがるようになった。 私たち家族の間には何年も前から、犬が自分で動けなくなり、下(しも)のことも自分で出来なくなったら、それ以上苦しい思いをさせるのはよそう、と取り決めがしてあった。 一月に入ると、前脚も動かなくなり、立つことも出来ない。下のこともだめである。 愛犬家・愛猫家の中には、そのような犬や猫もおむつを当てて世話をする人がいると言うが、私たちは別の考えを持っている。全く動けずただ横になっているだけの犬猫をそのままにしておくのは返って残酷だと思うのだ。考え方が違うのであって、どちらが正しい、正しくない、というものではない。 で、去年の1月にその日が来た。 ラブラドール・レトリーバーは大変に食欲旺盛な犬で、満腹感を感じる機能がないのではないかと思うほど、やればやるだけぺろりと食べる。 ポチも、そこまで衰弱しても、以前ほどでなくても食慾はあった。 数年前、ディンゴとの雑種のウィルカが肝臓癌であと一週間の命と宣告されたときには、それでもまだ歩けたので、車に乗せて次女のつとめる動物のクリニックに連れて行った。 私の家は崖の下に建っていて、裏庭はまるで岩山のようになっている。車を停めてあるところまで行くのに、裏口から岩山に切った石段を上がらなければならない。その時、車まで娘達に連れて行かれるときに、ウィルカはその石段の途中で立ち止まって、裏口の前に立っていた私を振り返って私の顔をじっと見た。私とウィルカの視線が合った。 その時の、ウィルカの目の表情が未だに私の目の裏に張り付いていて、今でも時々それがよみがえる。実に苦しい。 ポチは歩けないので、私の家に、獣医に来て貰うという。 これは、私にとっては最悪だ。 私は、その時間が迫ると書斎に逃げ込んでしまった。 全てが終わってから、長女がティッシュで鼻を拭きながら、報告に来た。 大分泣いた後の目をしていた。 最後に、ステーキを一枚焼いてやったら、ポチはぺろりと食べたという。 その情景を思い浮かべると、自分が立ち会わなかったから余計に辛い。 次女は長女とそれからすぐにヨーロッパ旅行に行った。 次女 は、何か気を紛らわせなければやって行けなかったのだろう。長女自身辛かったに決まっているが、長女は姉として付き合ってやったのだろう。 ああ、あれから一年経ってしまったのか。 これまでに私は、犬や猫を何匹飼って、何匹死なせたか分からない。 若いときと違って、歳を取ってから犬や猫を失うと、ひどくこたえる。 もう、犬や猫を飼う気持ちになれない。 死期が迫ってきて、あと一年などと分かったら飼おうと思う。 犬や猫に看取って貰いたいからだ。 そう言うと、子供達に「それはひどい」と言われる。 普通の人は、自分が先に死んだら,後に残された犬や猫が可哀想だから、歳を取ったら犬猫を飼うのを止めるものだ、という。 一年経つと、次女は私の若いときと同じで、次の犬や猫が欲しくなってくるようだ。 私が、「もう飼わない」というので、自分のクリニックから犬や猫を連れて来る。 飼い主の都合で頼まれたと言うのだが、積極的に頼まれているとしか思えない。 いまも、子猫を預かっている。預かったときは本当の子猫だったのだが、大分日が経って、乳歯も抜ける時期になり体も大きくなった。 私はしつこく「このまま、居着かせないでくれ。必ず飼い主に引きとらせてくれ」と念を押している。 ペットの死に目に会うのはもうまっぴらだ。 こちらは火葬にすると、本当にash(灰)にする。骨の形態を全く留めない。人間の場合も、犬猫の場合も同じである。 今、ウィルカのashは壺に入って長女の部屋にあり、ポチのashは次女の部屋にある。
- 2012/02/06 - 渡辺力デザインの時計再び昨日書いた、渡辺力デザイン時計の話だが、話だけでは分からないので、写真を付け加える。 (写真は、クリックすると大きくなります) 左が、2007に買ったもの。右が去年12月に買ったもの。 実に、すっきりして良いデザインでしょう。 私は工業デザインとはこうでなくてはならないと思う。 必要な物は全てあるが、余計な装飾はない。 そして扱いやすい。時計として見やすい。 持っていて楽しい。 右の新しい方は、字のデザインも新しくなって、美しい。 これなら、百年でも飽きの来ないデザインだ。 ただ1つ。 右の新しい方は、時計の盤面に、同心円状の環が模様のようについた。 私は、これは、左の物のように単純に平べったい盤面だった方が良いと思う。 しかし、字の形、字の配置、大きさ、全て新しい方が洗練されている。 これぞ、時計だと思う。 それにしても、口惜しいなあ。 一晩経つと、サッカーでシリアに負けたことが実に口惜しくなってくる。 昨日の試合の日本選手の動きは最低だった。高校生か中学生だってもっとましな動きをしただろう。 パスは繋がらない。ディフェンスは穴だらけ。 わざわざ、相手に有利なパスを出してやっていた。 とにかく有機的な動きという物が何も無かった。 気合いも抜けていたし、良いところは1つもなかった。 負けて当然だ。 それにしても、サッカーで負けるとどうしてこんなに口惜しいんだろう。 うちひしがれた感じになってしまう。
- 2012/02/06 - デザイナー 渡辺力渡辺力氏のデザイン 私は2007年6月にイスラエルに行くときに、成田空港で時計を買った。 その前日に、私は時計を失くしてしまっていたのだ。 私は、時計は5000円以内と決めているのだが、成田空港の時計売り場では、その予算ではろくな時計がなかった。 私は腕時計については値段の他に条件が二つある。 1)厚ぼったく大きくないこと。 2)文字盤が全部算用数字で書かれていること。 その条件を満たす、大変に気にいった時計があったが、値段が9500円で私の決めた値段の2倍する。 こう言う高い時計を買ってはいけない、と思ったが、他によい物がないし、飛行機の時間も迫っているので、買ってしまった。 買って使って見ると、大変に具合がよい。 なんと言っても、文字盤のデザインがすばらしい。 簡潔で、見やすくて、こう言うのが本当のデザインという物ではないかと思った。 ごてごて飾らず、簡潔だが、神経が隅々まで行き届いているので、いつも身につけていて気分がよい。 理由もなく時間を確かめるために文字盤に目を走らせてしまう。 しかし、その時計が、去年の秋辺りから調子が悪くなった。 突然止まってしまうのである。 最初に、福島県の取材の際にその故障が起きた。 電池がなくなったのかと思って、取材途中で時計屋さんにいって電池交換を頼んだら、電池は充分にあるという。 その代わり、機械全体が磁気を帯びている。その磁気のせいで時計が止まったのだという。 時計が磁気を帯びるとはどういうことか。私が、どこか磁気の強い場所に時計を置きっぱなしにしたのだろうか。 どうも、思い当たることがない。 しかし、その後時計は動き出したので、そのまま使うことにした。 ところが、六年二組と大阪旅行に行ったときに、また時計が止まってしまった。 旅行中に時計が止まると大変に困る。 鶴橋駅の周りで時計屋を探した。 仲々みつからない。 そのうちに、同級生の女性があちこち走り回って、あったわよ、と見つけて私を案内してくれた。 どうも、私は同級生達の女性達には、えらく手のかかる男で、いつも面倒を見てやらなければへまばかりすると言う困った存在なのである。時計屋1つ自分で見つけられないのだから情けない。 その店に入って、私も、同級生も唖然となった。 陳列してある時計が、高級時計ばかりなのである。 一番安い時計が40万円、 高い物になると、1000万円を超える。 途方もない高級時計店だったのである。 しかし、店にいた三人の中年の男性達はにこやかに私たちを迎えてくれた。 その笑顔を見ると、逃げ出す訳にも行かなくなって、仕方がないので、私の時計を差し出して、店の人間に行った。 「どうも、このような高級時計店に持って来るのは恥ずかしい9500円の時計なんですが、止まってしまったので、電池切れかとおもって」 店の人は、私の腕時計受取ると、笑顔でいった。 「おお、これは、◎◎さんのデザインの時計じゃありませんか」 私は、そのとき◎◎さんの名前も聞き取れなかったし、聞き取れてもそのデザイナーの名前は知らなかっただろう。 店の人は私が恐縮しているのを気にもせず、店の奥の作業場に持って行って時計を調べてくれる。 やがて持ってきて、福島の時計屋さんと同じことをいった。 「電池は充分にあるが、時計全体が磁気を帯びている。そのせいで止まってしまったんです」 私は、何度もお礼を言って冷や汗をかいてその高級時計店を出た。 そんな高級時計店なのに、9500円の私の時計を丁寧に扱ってくれて、料金も取らず、笑顔で送り出してくれた。 いい人達だったなあ。 旅行から帰ってきてから、秋葉原の電気屋に時計を買いに行った。 百も二百も並んでいるのに、仲々私の条件を見たすものがない。 1つあった。 薄めで、字が全部算用数字で、それも大きくて見やすい。 全体もすっきりして、単純明快でしかも神経が行き届いている。 ただ、値段が19500円だ。 前の時計より、1万円も高い。 5000円を予算にしていたのに、その四倍も高い。 迷ったが、その時計のデザインが気にいったので、思い切って買ってしまった。 シドニーへ移動してきて、「サライ」の2月号を見ていたら、渡辺力と言うデザイナーの特集をしていた。 1911年生まれで、当年101歳で現役だという。 セイコーのALBAで「RIKI WATANABE COLLECTION」というシリーズを出しているという。 はて、その名前を聞いて、大阪の鶴橋の高級時計店の人が口にしたデザイナーの名前がピント頭にひらめいた。 買った時計を見ると、文字盤の真ん中に「Riki」とかかれている。 時計の裏蓋を見ると「RIKI WATANABE COLLECTION」と刻まれているではないか。 おお、なんと、大阪の時計店の人が言ったのは、このデザイナーのことだったのか。 私は知らずに、渡辺力デザインの時計を、2つ続けて買ったのだ。 私は自分の好みの確かさに、自信を持った。 「おれの感覚は確かだぞ。自分の好みは確かだぞ。同じデザイナーの時計を、そのデザイナーの名前も知らずに買った。これこそ、本当の選択眼と言う物ではないか。えらいぞ、俺様」 いや、えらいのは、渡辺力と言うデザイナーだ。 他の作品も色々見たが、どれもこれも、余計な装飾のない、簡明にして、すっきりと如何にも使い勝手の良さそうな気持ちの良いデザインである。 本当の工業デザインというのは、こう言う物であるべきでないか。 実に使いよく、使っていて気持ちが良く、持っていて飽きることがない。しかも、普通の人間にも手が出せる値段だ。 渡辺力氏は101歳でまだ現役である。 これからも、どんどん良いデザインの物を送り出して頂きたい。 私は、新しく手に入れた「Riki」の時計に大変な愛情を覚えた。 大事にするぞ、失くさないぞ。 渡辺力氏のエネルギーがこもっている感じがするではないか。 それにしても、大阪のあの高級時計店の人が、9500円のALBAの時計を、その渡辺力氏の名前故に、大事にしてくれたのが、分かって嬉しかった。あの店の人達は、値段の高い時計だけでなく、本当のデザインをする人に対する敬意を払う人達だったのだ。 今回の、六年二組の大阪旅行は,良いことばかりだったな。 ただ、困ったことに、古いALBAが動き出しているんですよ。 今のところ止まる兆候もないし、正確に動いている。 と言って、いつ止まるか分からない。 困った。 2つ時計を一緒にはめて歩く訳にも行かないし、古い恋人と新しい恋人の間に挟まれて苦しむ男の感じってこんな物なのかしら。(色男って辛いのね) 今も、2つの時計を目の前に並べて眺めて悦に入っています。 あ、そんなことをしている間に、サッカーのオリンピック予選で、日本がシリアに負けちゃったい。負けるのが当たり前という下手なサッカーをしているんだから仕方がない。 まあ、いいや、私には渡辺力氏の時計が2つもあるんだから。
- 2012/02/05 - 悪い冗談悪い冗談 サッカーのイングランド代表の、DFジョン・テリーが代表首将を解任された。 その理由は、ジョン・テリーが試合中に相手の選手に対して人種差別的発言をしたために、起訴されたからである。 このように、欧米では、「ヘイト・クライム」と言って、人種間のヘイト(憎しみ)を煽るような言動は犯罪である。 イングランドと言えばサッカーの本拠地、そのイングランドの代表チームの主将ともなると、国民的にも絶大な人気がある。 その、ジョン・テリーが起訴されるのである。 さて、最近「石原新党」等という物が話題になっている。 大阪の橋下新市長の率いる「維新の会」と国民新党・亀井静香代表、平沼武夫・「立ち上がれ日本」が石原氏を担いで新党を作るという。 私は、その石原氏とは、石原伸晃氏のことだと思っていたら、あにはからんやおとうとはかるや、その石原氏とは、息子の方ではなく、父ちゃんの方だった 私も大抵のことには驚く男だが、矢張りこれには驚いた。 石原慎太郎氏を日本の首相にしたいという勢力があり、石原慎太郎氏本人も満更ではないのだそうだ。 まあ、民主党なんか最初の約束は全て破って、何が何だか分からないどぶ泥のようなたわごとを口走る首相になってしまった。 それなら俺でも大丈夫と石原慎太郎氏が考えても不思議はない。 これが、おもしろいね。 管首相が、「反原発」じみたことを言った途端に、日本のマスコミは、菅氏についてありとあらゆる悪口雑言をかき立てたのに、野田首相が「どじょうでございます」といって、原発推進を口にすると、手のひらを返したように、これ以上の善人はいないかのようにかき立てる。 日本のマスコミ人士の正体が見えましたね。 そこで、ジョン・テリーなのだが、石原慎太郎氏は首相になったとしても絶対に外国に行かないことをお勧めする。 行った途端に、ジョン・テリーと同様起訴される恐れがある。 石原慎太郎氏が「中国人の犯罪DNA」論を述べたのが2001年、それ以前に、まだ衆議院議員の時に選挙戦の際に同じ選挙区の新井将敬代議士の選挙ポスターに(1996年に北朝鮮から帰化)と書かれたシールを石原慎太郎代議士の第一公設秘書が指揮して貼って回ったこともあった。両方ともとっくにいわゆる時効だが、石原慎太郎氏は欧米だったら、とっくに塀の向こうの住人になっていたはずの人である。(石原氏の言動にはまだ時効にかからない物がある公算大である) 今の世の中何が起こるか分からない。橋下氏の率いる維新の会は大変に威勢が良いらしく、あちこちの政治家が接近しているようだ。 このままでは、石原新党が衆議院第一党になり、橋下大阪知事と石原東京都知事が手を組んで、「じゃ、まあ、お歳の順に」なんてんで、石原慎太郎氏が日本の首相になるかも知れないのだ。 これで、意気上がった石原慎太郎氏が勢いに乗って再び、中国、朝鮮、韓国がらみの痛い話を海外でするかも知れず、そうすると日本の首相で初めて海外で起訴されると言うとになりかねない。 私は、小泉氏首相が登場したときに、日本で最悪の首相が誕生したといった。その通りになった。 野田首相は小泉首相より悪い。 喋る言葉喋る言葉、全てどぶ泥が溢れてくるような感じで、うっかり氏の話を聞いていると、どぶ泥を呑込んで呼吸停止をおこしそうである。 「ヘイト・クライム・スター」か、「日本どぶ泥漬け作戦請負人」か、私たちに与えられているのは、このようなすてきな人ばかりで、泣くのもアホらしいから、笑ってしまいましょうかなあ。 とにかく、イングランドの、ジョン・テリーは日本がうらやましいだろう。
- 2012/01/24 - 日本の底力震災以後、ろくな話がないのだが、私自身体験した、日本の底力について話したい。 2011年12月に小学校の同級生達と、大阪旨い物探訪旅行に行った。 このページでも何度も出て来るが、大田区立田園調布小学校の六年二組の同級生達とは、小学校の時のままの楽しいつきあいを続けている。1956年卒だから、年齢はお察し下さい。(私は、病気で二年遅れているので、同級生達より二歳年上です) 同級会は年に数回開かれます。さらに、正式な同級会とはしないで、都合の良い者どうしが集る会は頻繁に持たれている。 そして、年に一回は、旅に行く。 2011年は12月に大阪に旨い物食べの旅行に行った。 いつもは参加者の人数が10人を超えるのだが、今回は都合が悪くなった人間が多く出て、最終的に9人という小人数になってしまった。今まで一番人数の少ない旅行だった。 大阪で私たちが楽しんだ食べ物話はまた、次の回にして本題を進めよう。 12月1日、朝、我々六年二組の仲間は東京駅に集合した。 大阪へ新幹線で行くのだ。 新幹線の切符とホテルの手配は、六年二組のIT技師長サヨポン(本名・佐世子)が済ませてくれていて、私を除く他の仲間はすでにサヨポンから切符を受取っている。(ネットで新幹線代とホテル代こみで買うと、普通に買うより遙かに安くなる。この辺の技がIT技師長サヨポンの腕の冴えで、私たちには、一体どこをどうするとそんな手品みたいな事が出来るのか、さっぱり分からない。) 私の漫画に良く出て来るドカンとサヨポンが相談の結果、「トッちゃん(私のこと)に前もって切符を渡すと必ず失くす。当日駅で手渡さなければ駄目だ」と言うことになって、みんなは直接新幹線乗り場に行ったのに、私はドカンと東京駅の「銀の鈴」の待ち合わせ場で会い、そこでドカンから切符を貰うことになった。 私はこれまでに様々な失敗を重ねて来たので、六年二組の同級生達の信用を完全に失っている。 「トッちゃんは絶対どじる」とみんな確信している。 そう言う訳で、他の仲間はさっさと新幹線乗り場に行ったのにドカン一人だけ、私のために、「銀の鈴」待ち合わせ場で私を待っていてくれたのだ。 今まで、私の漫画にドカンは何度か出て来る。 本人は、「漫画に書かれた自分よりも、本人の方がずっと色男だ」と主張するので、今回特別に、ドカンの姿をお見せしよう。 [caption id="attachment_1430" align="aligncenter" width="150" caption="我らのドカン"][/caption] さて、そこでドカンに切符を貰い、新幹線乗り場に行き、そこで他の仲間達と合流して、男共とは「よお、よお、やあ、やあ」と挨拶を交わし、女性達とはハグをし、旅行出発の時の、あの浮き浮きした気分が盛り上がった。 何歳になっても、旅行出発前のあの気分の盛り上がりと言ったら、たまりません。小学校の遠足当日の朝の気分を思い出してください。 みんな孫がいる歳なのに、会うとあっという間に全員小学生に戻ってはしゃいでしまう。 騒いでいる内に、新幹線が到着しました。 全員乗車しました。 それぞれ、自分の切符に書かれた指定席に座る。 ぎゃお、ここで、大問題発生。 私の切符がない。体中くまなく探したが、どうしても、見つからない。私は切符を失くしてしまったのだ! 同級生達全員が慌てたが、サヨポンが「この辺9つの席は私たちが予約してあるから、みんなが座ったあとに空いた席が、トッちゃんの席よ。取りあえずその席に座っていなさい」と言った。 確かに、私以外の8人が座ると、1つだけ空席が出来た。 そこが、私の買った切符の席らしい。 運良く、サヨポンの隣の席で、「もう、本当に仕方がないわね」と怒られながら、神妙に座った。 しかし、切符がないと大変に不安な物である。 ドカンは、頭を抱えて 「ああ、あそこでトッちゃんに切符を渡したのが間違いだった。大阪まで、僕がずっと持っているべきだった」と嘆く。 こちらは、一言もない。大変に居心地が悪い。 私は、一体どこでドカンに貰った切符を失くしたのか、必死に考えた。 そこに、改札の乗務員が回って来た。 みんなの改札が進み、私に順番が回ってきたところで、やおら私が「実は、私、東京駅で切符を失くしました」と言ったら、「むむっ」と厳しい顔になった。 そこで、私は、はっと思いついた。 「あ、改札口を入ったところに『オーガニック・サンドウィッチ』と言う店がありました。 私はそこで、オーガニック・サンドウィッチとは一体どんな物か、眼鏡を胸のポケットから取り出して、点検しました。 その時、眼鏡を取り出す際に、切符が眼鏡と一緒に飛び出してその店の床に落ちたんだと思います」 と、乗務員に言った。 乗務員は、うなずいて、「そうですか、それでは、東京駅に確かめてみましょう。取りあえず、ここに座っていてください」と言って、車内の他の席の改札に向かった。 同級生達は、がっかりして、「そんなところで、切符を落としてもそれがいつまでも残っているはずがないじゃない」「それを、鉄道会社の人が探しに行くなんて考えられないよ」などと言う。 「いいよ、じゃ、新しく切符を買い直すよ」と私が言うと。サヨポンに怒られた。 「同じ指定席の切符が手に入るとは限らないわよ。しかも、私が買った方法じゃなくて、普通に買うと凄く高いのよ」 そう言われて、私もへこんでしまった。 折角の、楽しかるべき大阪旅行も、初っぱなの私のどじで、同級生達も意気阻喪して、いつもの賑やかさがなくなってしまった。 私も 「どうして、おれはいつもこうなんだろう。身の回りのもの、手に持った物を、一体幾つ失くしたことか。中には、大分時間が経ってから、『あれ? そう言えばあの物はどこへ行ってしまったんだろう』と気がついたが、その時は既に遅く、見つからず仕舞い、と言う物も数多い。 おれは、人生の落伍者だ。救いがない欠陥者だ。もう、生きていてもしようがない、死んでしまおう」 どうやって死のうかと考えているところに、乗務員が戻ってきた。 「東京駅に確かめたら、確かに、『オーガニック・サンドウィッチ』の店に、お客さんの切符が落ちていました。 お客さんが、ちゃんと切符を買って乗車されたことがはっきりしました」 私たちは、驚いた。 「ええっ、本当に、あったんですか」 「お店に確かめたの」 乗務員は、柔和な表情のまま、淡々として紙片を私に渡して言った。 「新大阪で降りるときに、改札口でこの紙を渡してください。それで問題ありません」 私は、その紙片を手にして驚いた。 (紙片には乗務員さんのお名前も書かれている。本来はプライバシーを守るためにそのお名前の部分を消さなければならないのかも知れないが、今回のような有り難いことをして下さった方のお名前を公にしても、問題ないだろうと判断して、そのまま載せます。 問題があったら,ご一報ください。直ちに、訂正します) [caption id="attachment_1431" align="aligncenter" width="150" caption="命の助けの証明書"][/caption] 「ええっ、これで、いいんですか」 「これは切符の代わりです。大丈夫です」 私は、お礼を言ったが、乗務員は何事もなかったかのようにさっさと別の車輛に移っていった。 その紙片は、同級生達の間に回った。 一同感心した。 「へえ、こんな用紙があるんだ」 「なくした切符を良く探してくれたね」 「良かったね、トッちゃん」 ドカンは、納得いかない風に言った。 「最初から、トッちゃんに切符を渡さずに僕が持っていたらこんな騒ぎにならなかったんだ」 ドカンの言うことは正しい。 しかし、お陰で私は大変な経験をさせて貰った。 私が切符を失くしたことで、ちょっと気分が沈んでいた同級生達もたちまち元の浮き浮きした気分を取り戻して,話が弾んだ。 おかげで、その後の旅行も愉快に楽しく進行した。 私の言いたいことはここからだ。 私は少なからず海外を旅したことがある。 主に、欧米の経験から言うが、今回の私の場合のように「切符を失くした」と言っても、十中八九、相手にされないだろう。 有無を言わさず、「新しい切符を買いなさい」となる。 大変に親切な場合でも「では、その切符を持っていたという証拠を見せなさい」と言うことになる。 運良く、私が、その切符のコピーでも持っていれば、認めてくれるかも知れない。 しかし、切符のコピーを取ってから列車に乗るなどと言うことは、まずあり得ない。 乗車料金を改めて取られるだろう。場合によっては、「怪しい」と疑われて車両から降ろされてしまうこともある。 それが、海外での常識である。 今回の出来事で、私が、凄いと思った事を列挙する。 1)切符を持っていない私に乗務員がいきなり別料金を課さず、席をどけとも言わず、其の場に留まるのを許したことが凄い。 2)その乗務員が私の言葉を信じて、「東京駅に確かめよう」と言ったことが凄い。 3)実際に乗務員が車内から東京駅に電話をかけて確かめることが凄い。 4)東京駅の係員が、列車の乗務員の要請を聞いて、私の切符が本当にその店にあるかどうか、確かめに行ったのが凄い。 5)その店の人間が、私の落とした切符を保管していてくれたことが凄い。 6)東京駅の係員が、列車の乗務員に「切符があった」と報告し、それで私が正当に切符を買って列車に乗ったことを認めてくれたことが凄い。 7)その報告を受けた乗務員が、直ちに書類を作り、その書類の写しを乗車券代わりに私に渡したことが凄い。 (あとで、私の友人にこの件を話したら、「写しが正式の書類なんですよ。ボールペンで書いた物は改竄できるが、カーボンコピーした物は改竄できないでしょう」と言われて、目から鱗が落ちる思いがした。それでは、あの乗務員が私にくれた書類は実に価値の有る物だったのだ) 8)以上の流れが円滑に進んで、一人の乗客の窮地を救ったと言うことが凄い。 何をくどくどと大げさなことを言うのか、と思われる方は、日本の社会の心地よさに浸っていて、その有り難さが分かっていないのだ。 1)から8)までにあげた、それぞれのことが、きちんと行われる社会というのは、世界中探しても、滅多にある物ではない。 私は、日本の底力、と言った。 その底力とは、上に挙げた1)から8)までの規律の取れた動きのことを言うのかと、思った方はまだ考えが浅い。 私が、心底驚いたのは、乗務員に貰った書類の写しだ。(友人によれば、書類の真物) 私は、このような書式が存在することに驚いたのだ。 なぜ、驚くのか。 それは、こう言う書式が存在すること自体、新幹線の会社が、乗客に対する「信頼」を基本的な物として持っていることの証しだからだ。 乗客を信頼しなければ、切符を持っていない乗客は最初から相手にしない。失くしたと、と言っても信用しない。 それならば、あんな書式の書類を用意するはずがない。 しかし、新幹線の会社は、乗客を信頼するという基本的な態度があるから、あのような書式の書類を作り、乗務員全てに持たせているのだ。 乗務員は、今回の私のような問題が起きたとき、直ちにその非をとがめるのではなく、まず言い分を聞く。 そして、その言い分が正しいかどうか確かめる。 これは、基本的に客に対して「信頼する」、と言う態度がなかったら、あり得ないことである。 世界中どこへ行っても、まず人を疑ってかかる、疑心暗鬼の虜になっている人々が圧倒的に多い今の時代に、素性も分からない乗客をまず信頼するという、新幹線の会社の基本的態度は驚くべき物である。 私は、感動した。 そして、この相互「信頼」こそが日本の底力だと気がついたのだ。 2011年3月11日以来、東電・政府・東電に餌付けされた学者達、のあの無責任で醜悪な姿を見ていて、日本という国に対して自信を失いかけていた私だが、今回の切符紛失事件で、「信頼」という物が、如何に日本の社会を力強く円滑に公正に動かしているのか、それを痛感して、心が和らいだ。 東電と「原子力村」の連中は、この日本人にとって大事な「信頼」を崩した。 早く心を入れ替えて、みんなの「信頼」を取り戻すようにして貰いたい。 日本の社会に色々目を配ってみると、しっかり動いているところは、みなこの「信頼」がきちんと定まっている。 「信頼」こそ、日本人の底力なのだ。 それを今回、新幹線の会社が私に教えてくれた。 切符を失くすというドジのお陰で、日本人の底力、と言う物に気がついた。 その後、旅行は大変楽しく、美味しい物を沢山食べて、我々六年二組は幸せでした。 そうだ、私を救ってくれた乗務員さん、ご親切に感謝します。 東京駅の係員の方も、「オーガニック・サンドウィッチ」のお店の方も有り難うございました。 双方の方の親切心は世界に誇るべき物です。 私は、このことを,世界中に自慢して回るつもりです。 皆さんのような方がいる限り、日本は大丈夫です。 ああ、うれしい!
- 2012/01/07 - 新年のご挨拶ちょっと遅くなりましたが、新年のご挨拶を申し上げます。 去年は、東北の大震災があって、私たち日本人にとっては最悪の年になりました。 実際に被害に遭われた方達、命を落とされた方達のことを考えると、なんと言って良いのか、言葉を使うのが物書きとしての私の仕事なのに、その言葉が出て来ません。 物書きとして、無能の限りですが、被害に遭われた方達、命を落とされ方達の辛さ苦しみの数分の一でも、僭越ながら私も共にしていると申し上げたいのです。 今年は、その多くの犠牲を教訓に、これ以上の悲惨な状況を生み出さない努力、震災による被害で現在も苦しんでいる方達へのご支援など、出来る限りのことをして行くつもりです。 私の友人のF氏が、「脱原発を三十年以上訴えてきた自分にとって2011年は『悔い』が残る年として刻まれる」、と新年の挨拶の中に書いてきた。 それに対して、私は、次のような返事を書いた。 「Fさんの文章の中に、『悔いている』と言う言葉がありました。 『悔いる』と言うのは、自分のしたことに対して言うことであって、今回の原発事故をFさんが『悔いる』必要はないと思います。 『原発を止める努力が足りなかったことを悔いる』と仰言るかも知れませんが,政府・財界・官僚・御用学者たちのあの強力ないわゆる『原子力村』に対して、どのような努力をすれば良かったのか、それは考えられない事です。 とはいえ、連中の手の内も今回のことでよく分かりました。 今まで何もかも隠されていて掴めなかった、闘う手掛りも掴めました。 そう言う意味では、これからは『悔いのない』ように、戦い抜きましょう。(なんて、偉そうなことを言ってしまった) 今まで真面目に反原発に取り組んできた人達は、今度の原発事故を防げなかったことを自分の責任のように思っている。その真面目さには、頭が下がるし、心が痛む。 しかし、私が、友人への返事に書いたように、今回の事故で、東電・政府・財界の正体と手口がはっきりした。 今までどうすれば良いのか分からなかったが、反撃の手掛りを掴む事が出来た。 実際に事故が起こるまで、分からなかったのは残念だが、今回の事故は、「原子力村」に対しても打撃を与えた。 彼らの真の姿が見えてきたし、だれが関わっているのかも分かってきた。 「原子力村」に対する攻撃法を彼ら自身が我々に教えてくれたと思う。 あの、人間離れした卑劣で悪質で強欲な連中と対抗するのは容易なことではないが、今年はなんとしても、反原発を推し進めるための努力を尽くさなければならない。 反原発を推し進めるためには、原子力に代わるエネルギー源の開発、電気に頼り切りの現在の生活態度の変更、等も必要だろう。 するべきことは沢山ある。 へこたれずに、前進しましょう。
- 2011/12/31 - 福島報告2今回私は、福島県の浜通りと、会津を回った。 中通りの取材は、次回に回す予定だ。 福島取材の第1回は、原発の被害の一番大きいところと、原発の影響がほとんど無いところと言う二つの地域に行ったことになる。 前回も書いたように、あと二回取材をする予定なので、詳しい報告は取材全部が終わってからのことにして、取りあえず、今回は、浜通りで特に気がついたことを書く。 放射線については、前回私が生まれて初めて高い放射線量の空間に入ったときの驚きを、私の間抜けな上ずった声を聴いて頂いてお分かり頂けたと思う。 8ヶ月も経って、何を今更そんなに驚くのか、と言われるかと思うが、初めての事なので仕方がない。 何を今更驚くのか、と言う方がおかしいのだ。 私が最初に驚いた、0.34μSv/hなどより遙かに高い線量のところに現在も住んでいる人々が大勢いる。その方達は、どんなに不安な思いをしておられることか、あるいは全てあきらめておられるのか、その方々の心境は察するに余りある。 この放射性物質を現在の人間の持つ科学の力では取り除くことは非常に困難である上に、現在も福島第一原発からは毎日大量に放出され続けているので、事態の改善は容易なことではない。 前回、震災後8ヶ月も経ってから、福島に行くのは遅すぎるのではないかと思ったが、実は遅すぎることはなく、8ヶ月経った時点だからこそよく分かることがあった、書いた。 震災直後の被害が如何に甚大であるか、テレビや、新聞で、知ることが出来た。 ここ数年、日本以外の様々な国を震災や津波が襲った。 それらの国々の大多数では、1年も経てば、それ以前の生活を基本的に取り戻すことが出来ている。あるいは、取り戻すめどが立っている。 ところが福島では、震災後8ヶ月経っても、復旧が仲々進んでおらず、この先復旧のめども立たない所が広い範囲にわたって存在する。 震災直後に福島に行ったのでは、地震、津波、など直接的な被害に眼が行って、今回の福島の災害の本当の大本を理解することが無かったのではないかと思う。 震災直後のあの混乱がある程度収まると、福島県が受けた本当の被害の意味が分かってくる。 単なる、地震と津波による、一過的な破壊ではない、解決の先が見えない被害に現在福島がさらされていることを震災から8ヶ月経ったからこそ、はっきりと認識できたのである。 復興が進んでいない地域を取り上げてみよう。 ◎ 相馬市、原釜、松川浦 原釜地区には松川浦新漁港と言う大変立派な漁港があった。 それが、地震と津波で漁港自体も、その周辺の漁業産業の建物も全部破壊された。 で、8ヶ月経ったあと、どうなったか。 それは、次の写真を見て頂きたい。 左、上方に見えるのが、魚市場である。 その周辺は、加工工場、冷凍工場、など様々な漁業産業の建物があったところである。今は、ご覧の通り、地震と津波で破壊された跡を片付けているが、そこに新たに、魚市場、漁業関連産業を立て直すという動きは見られない。 それは何故なのか。 原発である。 福島第一原発から漏れ出し続けている放射線物質のために、福島県沿岸の海域は激しく汚染されている。 そのために、福島県沿岸で魚を捕ることは禁止されている。 建物だけ復興して魚市場作ったところで、それでは何の意味もない。 漁港が稼働しないのであれば、漁獲物の加工工場なども、立て直す意味がない。 下の地図を見て頂きたい。 この地図の右の下の方に、松川浦があり、その上に港ので具に架かった橋がある。橋のたもとに、「川口神社」がある。私が撮った《写真1》はここに架かる橋の上から漁港を向いて写した物である。 同じ場所で、振り返って、背後の松川浦の方を撮したのが次の写真である。 地図も付けます。この地図を見れば状況がよく分かるでしょう。 この辺の説明は、日本全県味巡り、青森県篇以来お世話になっている、歩く百科事典、世の中に知らないことは何も無い(ただ血圧についてだけは知らないのか,知りたくないのか血圧値210で動き回っているという自殺志願の哲学者・民俗学者・ラーメン研究者であるところの、斎藤博之さんの文章を、無断で使わせて頂く。 何度電話をかけても出てくれないので、著作権は私の物になったと判断した。(なに、乱暴すぎるとおっしゃいますか。乱暴でなければこんな乱世はわたれない。 以後、斎藤さんの文章を引き写す。) 「松川浦の港に3艘ほど船が写っていますね。(雁屋註・写真を拡大すると分かります。細七菜が苦延びた堤防に停泊しています) 川があって、 松川浦という汽水湖に注ぎ、 河口があって、 砂州のむこうに太平洋がある。 宍道湖や十三湖・小川原湖などと同じように、 じつに多様な生物がここにいました。 海で漁をするための港と、 湖で漁をするための港が、 隣り合わせに並んでいるということじたいが、 奇跡的な環境であったことを教えてくれます。 たとえば、この海で捕れる魚に 松皮鰈(雁屋註・これは松川鰈の誤変換ではありません。その海域一帯で獲れる大変美味しい鰈だそうです。私はまだ食べたことがありません。あるいは食べたのに記憶が失せたのかも知れません)があります。 松皮鰈は、昔は茨城や福島の沖で捕れたようなのですが、 現在の産地は三陸沖から北海道にかけてが主な産地です。 原釜の沖にこんにちでもこの鰈の漁場があるということが、原釜の海の豊かさを示しています。 松皮鰈の刺身は、歯ごたえも、旨みも、季節によっては平目を上回るかもしれません。 脂が乗っているので、焼いても、煮ても、うまい魚です。 松川浦の漁港に接して温泉宿が建ち並んでいますが、 ここでこういう魚をつつきながら、湯浴みできたわけです。 3月11日以降、 海も川も放射能に汚染されてしまったので、 この土地がかつての豊かさを取り戻すのは、 容易なことではありません。 それでも海で生きようとしている原釜の人びとが、 外洋に目を向けているのは、理由のあることでした。」 斎藤さんのこの文章を読んで、当時のことを思い返すと、悲しくなってきます。 震災から8ヶ月経って、失った物の大きさ、そしてそれを取り返すことが至難の業であることがはっきりしたのだ。 松川浦はラムサール条約の候補地で、非常に自然が豊かだった。 その豊かな自然も海嘯で壊滅した。 更に地盤沈下が甚だしく、潮が満ちてくると、それまで陸地だったところにまで水が上がって来る。 松川浦は、美しい自然を楽しめる、環境公園があった。 それが、地盤沈下のために、満ち潮になると、このように入り江のようになってしまう。(引き潮になると地面が顔を出すが、以前の美しい公園の姿はない) この辺の浜は美しく,潮干狩りも人気があった。 その潮干狩りの入場券を販売していた事務所も、満ち潮になると水につかってしまう。 この建物は海岸を通る道のすぐ脇である。 民家も水に迫られている。 近くのスーパーの駐車場も、海が近いので、下水道を通じてだろうか、水が上がって来る。 この写真を撮影した後、水はもっと上がってきて、道を走るのに、小川を走るような感覚になった。 松川浦は放射能だけでなく、地震による地盤沈下にも苦しんでいる。 ◎ 新地町、大戸浜 松川浦の漁港もそうだが、最初の地図を見てください。 原釜の北に大戸浜「釣り師浜」の漁港がある。 その光景を見ていただきたい。 漁港に漁船が並んでいるが、周囲の漁港の設備は荒廃したままでだ。復旧しないのは、松川浦の漁港が復旧できないのと同じ理由である。 背後に豊かな三陸の海が広がっている。本来なら、豊かな海の幸をこの港に水揚げできたはずだ。 それが、福島の海では漁業禁止、となっては、建物だけ復旧しても意味がない。 ◎いわき市、小名浜 放射線汚染による海の荒廃は、福島北部だけではない。 福島の一番南部、いわき市の小名浜漁港は三陸でも屈指の水揚げ量を誇る漁港なのだが、今は殆ど機能していない。 漁船は、この通りあるのだが、福島の海域には出漁できないのだ。 この船も、手入れをしているが、出漁できない。 中央に立っているのが船主なのだが、出漁できなくても乗組員をクビにすることは出来ないから、引き続き働いて貰って、こうして船と用具の手入れをしているのだと言った。 小名浜は地図を見ていただくとお分かりのように、茨城県に接している。これまでも茨城沖で漁をしていたので、これからも茨城沖に出漁することを許可して欲しいと思っているのだが、海上保安庁が厳しくて出漁できないという。 事実、私が話を聞いた後すぐに、海上保安庁に人間が来て、「出漁するんじゃないだろうな」と確認に来たという。 茨城沖で獲っても、小名浜に陸揚すると福島産の水産物となって買い手がついても叩かれるという。 ◎ いわき市、薄磯 さらに、小名浜のすぐ北に、薄磯と言う浜がある。地図で見れば塩屋崎灯台が小名浜の北にすぐ見つかる。 その塩屋崎灯台の北に広がる浜が、薄磯である。 この薄磯は、ウニ、アワビ、が良く獲れるところでしかも質がよい。 ここでは、獲れたばかりのウニを、ホッキガイの貝殻に詰めて焼いた物を「貝焼き」(この辺では、「かやき」という)として市場に持って行くと、80グラムのウニを詰めた物が2000円以上で売れたと言うから、凄い。 この写真の一番右の海に少し見えているがここの磯が宝の山だったのである。 こんな近くの海に潜るだけで、豊かな漁獲量を得られたのである。 それが、今は海に出ることも禁止されている。 常に海上保安庁が目を光らせていて、ちょっとでも海に入ると、捕まるのだそうだ。 ここで、何十年もウニとアワビ漁で生計を立てていた、漁師の方二人とお話を伺ったが、一体どうしたらよいのか、分からないと、力を失っていた。 しかし、ここで体験した放射線量が、今回最悪の物だった。 浜辺で、ウニ、アワビ漁師の方にお話を伺っている間中、0.65μSv/h を下回ることがなかった。 全く、気が気ではないのだが、その方たちはもうなれてしまっているのだろう。 高線量を気にすることがないのだ。これは恐ろしい。 上の写真、前方に煙突が見える。 東電の火力発電所で、この背後に、福島第一原発がある。 驚くべきことに、この方面から風が吹いてくると、空間線量が突然上がる。 0.65μSv/hから、いきなり0.75μSv/hに上がる。 これには仰天した。 お話を伺っているときに、その方々は、もうなれきった樣子で「風向で線量が変わるんですよ」と言った。 風向きで線量が上がるとは、今も、福島第一原発から、日常的に大量の放射性物質が放出されていることの証拠である。 ついでに、灯台下の砂の吹きだまりでは、1.5μSv/hを計測した。 なんと言ったらよいのか、言葉もない。 さて、今回の報告は、ここまでにしておこう。 これが、震災後8ヶ月の福島の浜通りの実状である。 つまるところ、原発である。 事故後九ヶ月経った今も、福島第一原発は、毎日大量の放射性物質を放出し続けている。 結局、福島、なかんずく、浜通の復旧、復興は、福島第一原発の今後にかかっている。 既に汚染された海域をどうすればよいのか。 原発事故直後心配されたことが、8ヶ月経って、予想されたより深刻になっている。 今のところ、誰も回答を持っていない。 次回、来年の、5月、6月に取材に行くときには、少しは復興の方向に向けたことを報告できるようしたいと思う。 (写真は、クリックすると、大きくなります)
- 2011/12/24 - 福島報告1私は11月12日から、19日まで、福島県に行ってきた。 その報告を一月も経ってからするというのは、どうも遅すぎるが、福島での体験は、自分のこれまでの人生からは想像も出来なかったことが多く、帰って来てすぐに書くと、冷静さを失って感情的になる恐れがあったので、冷却期間をおく必要があったのだ。 私は前回、震災から8ヶ月も経って行くのは遅すぎると思ったが、実は遅すぎることはなく、8ヶ月経ったからこそよく分かることが多かったと書いた。 どうして、そう思ったのか、この報告の最後にその理由を書く。 私は、いつも取材に協力してくれる安井敏雄カメラマンと、東北自動車道を通って福島へ向かった。 私が訪ねたのは、次の場所である。 ◎ 福島市内(通過しただけ。福島県庁付近で高線量計測) ◎ 相馬市原釜・尾浜(津波の被害で壊滅状態の原釜漁港。 ◎ 相馬市松川浦(ラムサール条約の候補地で自然が豊かだった。津波の被害は大きく、漁港も壊滅) ◎ 原釜朝市(実際は救援物資配給) ◎ 南相馬市鹿島町(津波の被害、放射線の被害大。「緊急時避難区域」であったにもかかわらず、一度避難した住民がすぐに戻り住んでいる) ◎ 南相馬市市原町(津波、放射線の被害その後の状況など、鹿島町と同じ) ◎ 土湯温泉(福島県で人気のある大温泉街だが、原発事故以来観光客激減) ◎ いわき市小名浜漁港(カニ・アンコウなど、小名浜の漁業は壊滅) ◎ いわき市薄磯、塩屋崎(塩屋崎灯台の下の砂の吹きだまりで、1.5μSv/h、約13mSv/yを計測。ICRPの基準値の13倍。) ◎ 田村市船引町(伝統的な「えごま」は・放射線検出せずの結果を得るも、原発事故後の混乱で加工・販売業者と契約できず) ◎ 会津若松市北会津町(すとう農産。前回救援をお願いした。) ◎ 喜多方市山都町(宮古蕎麦が有名で蕎麦愛好家が多数訪れていたが、原発事故後、客数激減) ◎ 大沼郡金山町沼沢湖(天然ヒメマスで有名) ◎ 南会津郡檜枝岐村(原発事故の影響皆無の豊かな自然と食文化。 蕎麦を使った各種料理、またぎの獲った熊肉など) この各地について、逐一細かく書いて行くと大変なので、特に書きたい事柄を書く。 ★ 私は前回書いたように、ウクライナ製の線量計、TERRA-MKS-05を持って行って、要所要所で放射線(主に、γ線)を計量した。 途中、埼玉県埴生のパーキングエリアで測定したら、0.12μSv/hだった。 (以下、線量は、私の線量計が計測した値で、その絶対値は必ずしも正確ではないだろう。プラス・マイナス15パーセントほどの誤差はあるようだ。しかし、一定の指標にはなり得ることは確かだ) これで年間ICRPの安全基準値1mSv/yぎりぎりなので、本来ならここで深刻に捉えるべきだったのだが、「基準値ぎりぎりだからまあいいか」、と気楽に考えて、線量計のスイッチを切りっぱなしにして置いた。 しかし、福島県に入って、「そろそろかな」と思って、スイッチを入れたら、途端に、線量計が「ピー、ピー」とけたたましく鳴り始めた。 場所は、東北自動車道で福島県に入ってすぐの白河付近である。 線量計は0.3μSv/hを超えるとアラームが鳴るように設定されている。 高速道路を走る車の中で、そんな線量を超えるとは思ってもいなかったので本当に驚いた。 その時の、私の声を聴いて頂こうか。 白河で(クリックで音声が再生できます) この時私はあまりに驚いて「これはやばい」などと口走っているのだが、さすがに、そんな生の声を大っぴらにするのはまずいのでそこの部分は削除した。 しかし、これだけでも、生まれて初めて0.3μSv/h以上の空間線量に出合ったときの驚きは読者諸姉諸兄に伝わるだろうと思う。 それまで、テレビや新聞で、各地の線量を見たり聞いたりして大変な物だと思っていたが、実際に自分がその空間線量の中にさらされていると知ったときの驚きは大変な物だった。 放射線の存在を初めて自分の体で体験しているのだと実感した。 正直に言って、驚くと同時に恐怖を感じた。 それまで、テレビや新聞で見ていた数字は絵空事としか捉えていなかったのだとも痛感した。 だが、 0.34μSv/hなんか、ほんの序の口で、そのあと塩崎灯台下で空間線量0.75μSv/hなど、もっと高い線量を体験することになるのである。 しかし、放射線とは怖い物で、実際にそれだけの線量にさらされていると分かっていても、痛くもかゆくもないので、2日もすると不感症になる。 「ああ、ここは0.2μSv/hないや。これなら安全だな」などと言って、安井カメラマンに「何を言ってるんですか。ICRPの基準値を超えているじゃありませんか。」とたしなめられるようになってしまった。 実際に今回回った地域で、会津を除いて、空間線量が0.2μSv/hを下回った地域は少なかった。 一番高かったのは、私が学生時代二夏を過ごした、懐かしくて愛着を抱く霊山神社のある霊山町の1.1μSv/hである。 その霊山町に人は住んでいるし、それより低いと言っても、0.8μSv/h以上有るところにも、普通の感覚で人々は暮らしているのが車中から見て取れた。 中学生が、マスクも何もせずに、自転車通学をしているのも何度か見た。 犬を連れて散歩している人も見かけた。 「健康のための散歩だろうけれど、こんなところを散歩したら、返って健康に問題があるのではないか」と私たちは,車の中から見て心配したが、私は、原発事故が起きた当時、官房長官が「直ちには健康に害はありません」という決まり文句を繰返していたのを思い出した。 たしかに、8ヶ月経っても、人々は高い空間線量の中で、以前通りの生活を送っている。本当に「直ちには健康に被害はない」ように見える。 いや、それは間違いであって「健康の被害は直ちには見えない」と言うのが正しいのではないだろうか、と私は思った。 「ピー、ピー」と警告音を響かせ続ける線量計を手にして、私は一体この状況をどう把握するべきなのか、途方に暮れた。 宮城県、岩手県、青森県の被災地を回ったときと、今回福島県を回ったときの、一番の違いは、地震と津波の被害に加えて、この原発事故の影響の大きさだった。 私は、福島県にいる間、ずっと、線量計を手放すことが出来なかった。 (次回に続く)
- 2011/12/10 - 西原理恵子さんも応援西原理恵子さんが、ご自分のブログで、「すとう農産」を応援してくれています。 ご覧下さい。 http://ameblo.jp/saibararieko/entry-11101922497.html ただ、その中で、須藤さんを私の知り合いと書かれていますが、私は須藤さんと取材の時に初めて出会ったのであって、知り合いではありません。 須藤さんにお会いしたのは1度だけです。 しかし、じっくりと話を伺って、信用できる方だと思いました。
- 2011/12/08 - 緊急のお願いまたまた、大変ご無沙汰しました。 11月12日から、19日まで福島県を数ヵ所回ってきた。 現在連載中の「美味しんぼ」被災地篇・めげない人々、もあと二回で終了する。 この被災地篇ではかつて訪問した、青森、岩手、宮城の人々を訪ね歩き、彼らが深甚な被害を受けたにもかかわらず復興の努力をしている姿を描いた。 しかし、肝心の福島については何も言及していない。 肝心の福島の被害状況と、食と放射能の問題にきちんと対峙しないことには、今まで食の安全、食環境問題を取り上げてきた「美味しんぼ」の意味がない。 そこで、福島の実態を自分の目で確かめるために、8ヶ月近く経ってからでは遅すぎるとは思いながらも、訪ねてきた。 しかし、実際には遅すぎることはなく、返って8ヶ月経っていったことで、よく分かることが多かった。 その件の報告は次回から始めるとして、今回は、緊急のお願いがあって、こうして書いている。 話を始める前に、福島県の地図を見て頂きたい。 この地図は、「財団法人 福島県農業振興公社」のページ (http://www.fnk.or.jp/farm/index.html)から、拝借した。 写真はクリックすると大きくなります。 このように、福島県は、海際から内陸にかけて、「浜通り」「中通り」「会津」の3地域に分かれている。 「浜通り」「中通り」は原発による放射線の影響があるが、「会津」は原発の間に山があって、それが風に乗って放射線物質が飛来してくるのを防いだために、放射線の影響がないところが多い。 これから書く、「すとう農産」はその会津若松市にある、米作農家である。 私達は、今回の取材の最後に会津を訪れた。 私は、ウクライナ製のガイガー管を使った線量計、TERRA-MKS-05を今回の取材に持って来て、行くところ全ての土地で線量を計った。 おなじ、TERRA-MKS-05でも、新型と旧型があって、私の持って行った物は旧型だった。 宝島社発行の「放射線測定と数値の本当の話」と言う本の中で、編集部が33機種の線量計を実際に測定して評価をしているが、その総合評価で旧型でも、5位に入っている。(新型は2位である) まあ、信頼しても大丈夫だろうと判断した。 その線量計で測り続けてきて、会津地方に入ったら突然線量が低下した。 たとえば福島県庁横では、一昨日の朝日新聞に載った数値でも0.9マイクロシーベルト毎時ある。(これは、年間にすると7.88ミリシーベルトを超える値である。ICRPの設定した安全基準、年間1ミリシーベルト、の約8倍と言うことになる。この計算は、その人間が1日24時間その場所にいたとしてのものなので、そこに4時間しかいないとなると6分の1にしなければならないが、そのような計算は、個々人の生活によるので、私はその土地の全体的な傾向を表す物として、24時間で計算する。) そのほかの土地も、私の持っていった線量計によれば、空間線量は0.2マイクロシーベルト毎時を下回ることはまれだった。 それが、会津地方に入ると、突然、0.06〜0.08の数値に収まり始めたのだ。 横須賀市秋谷の私の家で計った数値と変わらない。 (ついでに、ICRPの年間1ミリシーベルトという数値と新聞や雑誌に発表されるマイクロシーベルト毎時との間の計算は、単に、 〈マイクロシーベルト毎時の数値〉÷1000×24×365で計算できるが、そのたびに計算するのはめんどうなので、0.12と言う数字を覚えておいて下さい。 これを上記の式で計算すると、1.0512と言う数字が出て来る。 で、おおざっぱに、0.12マイクロシーベルト毎時が、年間1ミリシーベルトであると、考えておけば便利です。 0.12です。 雑誌などで時間当たりのマイクロシーベルトの数字が出て来ても、0.12より高いか低いか、高かったら、0.12よりどれだけ高いか、それで判断すると簡単です。) 会津若松市北会津町では須藤さんにお会いした。 須藤さんは、合鴨を使って田んぼの除草をすることで、除草剤を使わず、農薬も使わず、完全有機農法で米を作ってきた。 近所の農家にも栽培を委託して「すとう農産」という会社を経営している。 「すとう農産」は今まで実績を積み重ね、評判も良く、経営も順調だった。 ところが、今年の新米は、それまで個人直販で米を買っていた人の6割が契約破棄、大手の米販売会社も四千万円のキャンセルをしてきた。 須藤さんは、新米が取れるとすぐに、放射線測定をした。 理科学研究所の理研分析センター、筑波分析センターの2カ所に依頼して測定した。 ここに、理研分析センターの報告書のコピーを掲載する。 クリックすると大きくなります。 理研分析センターでは、一番測定精度が高いとされているゲルマニウム半導体を用いた検出器を使っている。 しかも、検出下限値は、 ヨウ素-131に対しては、キログラム当たり 1.2ベクレル。 セシウム-134に対しては、キログラム当たり1.0ベクレル。 セシウム-137に対しては、キログラム当たり1.4と設定してある。 国の暫定基準のおおよそ500分の1の厳しさである。 放射線に関して一番厳しいスウェーデンの食品にたいする基準値は、キログラム当たり8ベクレルだから、それよりも厳しいことになる。 それで、測定しても、ヨウ素、セシウムともに、「不検出」、実質0である。 この検査の数値から、判断すると、「すとう農産」の2011年産の米は完璧に安全である。 (原発が不安定なので、来年のことは分からない。だが、今年の米は絶対に大丈夫) それなのに、個人契約者、大手米販売会社が、キャンセルしてきたのは何故か。 それは、単に、会津は福島県、福島県の食品は危険、と言う短絡的で非理性的・感情的な判断による物だ。 これは、行政にも責任がある。 農産物の測定の網の目が粗すぎる。 地域ごとに細かい測定を行わず、突然、ある地域の米のなかに基準値を超えた物があったなどと発表する。 それでは、会津の米と他の土地の米との差が分からなくなり、会津=福島=危険と消費者は考えてしまう。 消費者は、誰一人として、国の暫定基準、キログラム500ベクレルなどと言う値が安全であるなどと信用していない。 500ベクレルという数値自体、乱暴な数値であるのに、では、499ベクレルでも安全とされるのか、とみんな不安になる。 不安になって当然なのであって、行政は国民の健康など真剣に考えず、ただひたすらあいまいにして、この場をしのいでいけば何とかなるのではないかと猿知恵を働かせたからである。 その結果、他の地域と違って放射線の影響が殆ど無い会津で、安全な米を作っている須藤さんのような人までも、消費者の「福島産だから安全ではない」、という強い思い込みによる被害を受けている。 行政は500ベクレルなどと言う数値を設定した上に、きちんと、各地域ごとに安全な物を安全とはっきりした数字で示さないから、消費者から、会津の産物にたいする信頼を奪ったのである。 私の緊急のお願いとは、「すとう農産」の米を買ってあげて頂きたいと言うことである。 安全性は、私などと言ういい加減な人間ではなく、日本で一番権威のある理科学研究所のお墨付きである。 この検査結果を疑うなら、何も食べない方が良い。 絶対に安全である、と私は断言する。 第一、大変に美味しい米である。 しっとり、もちもちした柔らかい歯触り舌触り、さわやかだがこくのある味わい。甘みも十分だ。 ご飯好きなら、この米を食べない手はない。 会津産=福島産=危険 という短絡的な判断はやめて、理性的に、合理的に判断して下さい。 この疑い深い私が言うのだ。 安全で、美味しい。 信じて頂きたい。 「すとう農産」のホームページのURLは、 http://www9.plala.or.jp/sutou-nousan/ です。 ここにアクセスして下さい。 どうか一人でも多くの方が、「すとう農産」の米を買って、その美味しさを堪能して頂きたいと願っています。 私自身百キロ買った。 親戚中に配る。友人たちにも配る。 安全な米なので安心して配れる。 福島県の報告は次回にします。
- 2011/11/05 - ご無沙汰しましたこのページにも大変ご無沙汰してしまった。 それには訳がある。 私は、現在「美味しんぼ」の「被災地・めげない人々」篇を書いている。 私が原稿を書き始めたのは七月で連載は九月から始まった。 現在私の原稿は第八回まで進んでいて、あと一回で被災地篇は終了する。 この原稿を書くことが今の私からほとんどの気力を奪ってしまっているのである。 五月の末から六月の頭までの被災地巡りは、四泊五日だったが、私の人生の中であれほどの思いをしたことはない。 九月十七日発売の「ビッグ・コミック・スピリッツ」で被災地篇の連載が始まったが、その号のスピリッツ誌の巻頭に、私が気仙沼港で、取材していた時の写真が載っている。 右前方に焼け焦げた船が岸壁に停泊している。 その岸壁は無残に破壊されて、コンクリートのかたまりが散乱している。私はその焼け焦げになった船の写真を撮ろうと、近寄っているところである。 撮影した安井敏雄カメラマンのご好意で、掲載する。 (クリックすると大きくなります。) その私の姿は、左手で杖をつき、右手にカメラを提げ、頭が少し前屈みになっている。 自分で見ても、何とひどくうちひしがれた樣子だろうと思う。 後ろ姿だから、余計に惨めに見えるのだが、私の心の中はもっと悲惨だった。 どうして、こんなことが起こったのか。 どうして、こんなひどい目に人々は会わなければならなかったのか。 あまりに理不尽ではないか。そんな思いと、こみ上げてくる悲哀に堪えかねて、あんな姿になった。 そのときの辛さが原稿を書いていると、よみがえってくるのだ。 「美味しんぼ」の中の登場人物の一人に、アメリカ人で落語家の「快楽亭ブラック」という男がいるが、その本人とは関係なく、実際に明治時代に「快楽亭ブラック」という、オーストラリア出身のイギリス人の落語家がいた。彼は、裕福な商人の家の出だが、落語にこってしまって、最初の外国人落語家になった。 家族にとって、日本の芸人になるとはとんでもないことで、家族から縁を切られたが、それでも、落語家を続けた。結構人気があったようだが、「快楽亭ブラック」の一番の功績は、当時の落語家の口演を録音して残したことだろう。 「快楽亭ブラック」自身の口演も残っている。 彼のおかげで、明治時代の落語家の落語がどんな物だったのか、実際の声で聞くことが出来る。 ついでに言うと、「快楽亭ブラック」の妹は、福沢諭吉の子供たちの英会話の家庭教師だった。 オーストラリア人で日本での生活が長い、イアン・マッカーサー氏が、二十年以上前に、その「快楽亭ブラック」についての本を書いた。 その「快楽亭ブラック」の名前が私の漫画の登場人物に使われていると知って、イアンは驚いた。 まさか、「快楽亭ブラック」が漫画の登場人物として出現するとは思っていなかったらしい。 それが縁で、イアンとは仲良くなった。 数年前、イアンは長年住んだ日本を離れてシドニーに帰ってきた。 イアンはジャーナリストとして活躍しているが、先月日豪協会主催のトークショーに一緒に出てくれと頼まれた。 「快楽亭ブラック」と日本の漫画文化についてイアンと私が話をするのである。 日本人、オーストラリア人合わせて百名ほどのお客が集まった。 「快楽亭ブラック」の件は、まだ知らない人が多く、特にオーストラリア人の興味を引いた。 「快楽亭ブラック」の話までは快調に進み、お客さんたちもオーストラリア人の落語家がいたなどと言うことを初めて聞く人が圧倒的で、みんな熱心に楽しそうに聞いてくれていた。 しかし、イアンが、話を日本の漫画文化に振り、そのまま私の漫画の紹介から、私の漫画で取り上げてきた話題の方に移っていくと、しばらくは良かったのだが、現在私はなにを書いているのかと聞かれてから、おかしくなった。私自身がおかしくなったのである。 当然、東北大震災の話をしなければならず、実際に被災地を巡って、以前に会った人達が今どうしているかそれを確かめに行った時のことを漫画に書いていると説明し、ついでに、自分で見てきた被災地の樣子を話し始めたら、突然胸の底から突き上げる物があって、危うく泣き出しそうになった。おかげで、ただでさえひどい私の英語が、自分でも訳の分からないしどろもどろのものになってしまい、会場のお客に謝って、あわてて、話題を切り替えた。 私が被災地へ行ったのは震災のあと二ヶ月半近く経ったあとで、大きながれきは市街地から取り除かれて、廃棄物置き場に山と積まれていた。 あとで、被災翌日の写真を気仙沼の方から見せて頂いたが、我々が見た物は被災した直後の本当に無残な姿ではないことを思い知らされた。 それだけ片付けられていても、いや、ある程度片付けられていて、人の姿が殆ど見えない状態のところを見て回ったから、完全な破壊という物は地上の全てを無に帰する物なのだと言うことが実感として激しく迫って来たのである。 その被災地に立ったとき私を包み込んだ悲哀と喪失感。 私の周辺の廃墟から、私に向かってわーっと押し寄せてくる不可思議な圧力。 そういうものが、原稿を書いたり、人に話し始めたりすると、自分でも思いもよらない厳しさで、私の内部で私を突き上げてきて、私自身、冒頭に載せた写真のようになってしまうのである。 そんな訳で、このブログにも取りかかろうとすると、へなへなと気持ちが萎えて、何も書けないまま今日まで来てしまった。 ちょっと気分転換になるかと思って、七日に放映されるNHKのクローズアップ・現代に出て、畜産業について話をしたが、私の持ち時間は六分しか無く、言いたいことの百分の一も言えず欲求不満の固まりになって帰ってきた。 しかし、こうして、ご無沙汰の言い訳が書けたのだから、気分転換の役には立ったようだ。 十日に被災地篇の最終回を書き上げる。 それが終われば、もっと、このブログに書き込むことが出来る。 ただ、十二日から一週間福島県に行くので、その間もちょっとブログの更改は難しい。 福島には「美味しんぼ」の取材で一度も行っていないことは以前に書いたとおりだ。 この状態になって行くのは遅すぎるとも思うが、今こそ福島の実態を伝えたいと思う。 厳しい取材になるだろう。 福島から帰ってきてからではあまりに遅いので、今の内に長いご無沙汰のお詫びをしておきます。
- 2011/09/19 - 福島第一原発の汚染水処理施設の現実前回、台風12号が各地で猛威を振るっているのを見て、福島第一原発を心配した。 和歌山や愛媛の大雨による被害を知ってから雨雲の移動状況を見ると恐怖を押さえることが出来なかった。 大きな雨雲が福島全域を覆って行くことが明らかになっていたからだ。 和歌山、愛媛を襲ったあの豪雨が福島第一原発地域を襲ったらどうなるのだろ。。 台風12号が過ぎ去って、福島原発に対する被害を聞かないので、ひとまず安心したので、ここで、なぜ私が恐怖を抱いたのか、説明したいと思う。 「週刊朝日」は7月22日号、7月29日号、で2回続きの連載「福島第一原発最高幹部が語る、フクシマの真実」を掲載した。 福島第一原発が今どうなっているのか、政府、東電からは全くその情報が出て来ないので、この連載は貴重だった。 良く「週刊朝日」は微温的だなどと批判される。 私が週刊朝日を1970年代から、定期購読しているというと、社会的に先鋭的であると言われている人に、あからさまに白けた表情で「ええっ、あんな週刊誌を」などと、言われたことが、何度かある。 私が定期購読を始めたのは結婚して両親から独立したからであって、結婚前、実家にいたときも私の家では昔から「週刊朝日」を購読していた。 小学生の頃に、当時有名だった徳川無声が時の有名人相手に対談をする「問答有用」などの記事を愛読した。 「週刊朝日」とはずいぶん長いつきあいで、私が多くの人に「 微温的」だとか「体制順応派」とか「穏健派」とか「プチブル(死語)」などと、揶揄され批判されるのも「週刊朝日」を長い間読んでいて、その影響を強く受けたからなのかも知れない。(「週刊朝日」は、ふざけるな、と怒るだろうね。ほ、ほ、ほ、ごめんなさいですね) しかし、その「週刊朝日」が、福島第一原発の事故に関しては、よく頑張ってくれているのである。 扇情的な記事で騒ぎ立てる週刊誌ではなく、その中庸を保つ姿勢だからこそ、その福島第一原発に関する記事は、信頼できるのである。 7月22日号、29日号で取り上げられた「福島第一原発の真実」の中で、最初記事の中身にばかり気をとられて、掲載されている写真に対して注意を払わなかったのだが、読み直すと同時に写真を改めて見て、私は、心底震え上がった。 「一体、これは何なのか。こんなことがあって良いのか」 という恐怖が私を包んだのだ。 一体、その写真とはどんな物なのか。 私は読者諸姉諸兄にお見せしたいと思い、「週刊朝日」に、その写真の掲載されているページをスキャンする形でこのブログに掲載させて欲しいとお願いしたのだが、断られた。 「取材源や担当者とも話したが、今回は難しい」という結論だそうだ。 残念だが仕方がない。 私が、スキャンして皆さんにお見せしたいと思ったのは、福島第一原発の汚染水処理の現実の姿を撮した写真である。 写真をお見せできないので、まだるっこしく、真実を伝えるのが難しいが、とにかくやってみよう。 福島第一原発では、原子炉を冷却するために炉内に注水している。 その水は全部熱によって蒸発しきる訳ではなく、汚染水としてたまっていく。 それが限界に近づいて、このままでは海に捨てなければならなくなるので、汚染水処理施設を作った。 その汚染水処理施設を見て、私は震え上がったのだ。 汚染水が貯蔵されるタンクに、汚染水処理施設まで、何本ものホースが繋がれている。 しかし、そのホースは、なんと地面にごろりと転がっているだけなのだ。 ホースは、原発敷地の中を一周4キロに渡って巡らされている。 その途中で、ホースは何本も繋がれている。 しかし、その繋いだ個所は白い土嚢で覆われているだけである。 そのホースは特殊で頑丈で、家庭で使うホースよりは丈夫だそうだが、所詮はホース。 そのような、ホースが、何の耐震装置も、大水対策もされず、地面に転がっているのである。 それも、全長4キロも。 もし、台風12号がもたらしたような洪水に、福島第一原発が襲われたら、こんなホースはたちまちぶち切れてしまうだろう。 そんなことになったら、福島第一原発の敷地内に汚染水が広がって、もう誰も近寄ることが出来なくなる。 遠く離れたところから水をかけることが出来ても、その汚染水はどんどん海に流れ出る。 第一、誰も近寄れなくなったら、これ以上の修復工事は出来なくなる。 本当の破局ではないか。 現実に、7月14日には、その配管が完全にちぎれる事故が起きている。 《読売新聞・電子版から引用》 「 東京電力は14日、福島第一原子力発電所の汚染水処理システムが配管から の漏水で停止している問題で、ポリ塩化ビニール製の配管接続部が完全にちぎ れていたと発表した。 破損部周辺は、放射線量が毎時100~150ミリ・シーベルトと非常に高 く、作業員1人あたり1~2分程度しか作業を続けられない。東電では同日中 に稼働を再開したいとするが、放射線の遮蔽や作業方法について慎重な検討が 必要で、修理の見通しは立っていない。 水漏れは13日、仏アレバ社製の放射性物質の凝集・沈殿装置で、薬液を汚 染水に注入する配管で起きた。 (2011年7月14日12時32分 読売新聞)」 このときは、一個所だけだったので、何とか処置できたようだ。 しかし、地震や洪水となると一個所だけではすまない。 あちこちがずたずたに、なるだろう。 私は信じられないのだ。 ずさんさにも程度という物があるだろう。 頑丈な金属製のパイプで、きちんと耐震設備・大水対策などが施された配管装置だと誰でも思っていたのではないか。 それが、幾ら家庭用の物より丈夫だと言っても、所詮はポリ塩化ビニール製のホース。 7月14日の事故のように配管接続部で完全にち切れるのだ。 そんなホースが、4キロメートルに渡って、敷地内の地面の上に直接ごろんと転がされている。 私は、台風12号が通り過ぎるまで、生きた心地がしなかった。 9月10日になって、東電がその汚染処理状況を動画で発表した。 それを見ると、「週刊朝日」の写真のとおり、配管が、ごちゃごちゃ地面に置かれている。 それにしても「週刊朝日」はあっぱれだ。 今度は、9月16日号で、今西憲之氏と「週刊朝日」取材班が、福島第一原発の内部に突入した記事を掲載した。 今西氏が、特殊ゴーグルをはめて、完全武装で、福島第一原発の内部に直接入ったのだ。 マスコミの中で、このような直接現場に乗込む取材をしたところが他にあっただろうか。 今西氏の報告は詳細で、同じ完全武装で作業している作業員がどんなに苦しい思いをしているか、きちんと伝えてくれた。「ひどいときには、汗が防毒マスクのゴーグルにたまり、水中にいるよう」だと言う。 また、そこに掲載された写真は、非常に衝撃的で、また、その実際に福島第一原発をその目で見た報告も見事としか言いようがない。 東電、政府がひた隠しにしていた福島第一原発の実状を写真と文章で明らかに見せてくれたのだ。 政府や東電によると、建屋の覆いを作るなどと言っているが、とても、覆いなど作れる状況ではない。 1,3,4号機の破壊状況は凄まじく、特に3号機は、原形を留めていない。 3号機では核爆発が起こったのではないかと、言う人も少なくない。 2号機は外観はまともなのだが、中がひどいのだという。 津波以前に、地震で内部が破壊されたという。 今西氏によれば、4号機の建屋の中で、「頭上から、時折、細かいコンクリートの破片が落ちて来る」そうだ。 また「爆発の影響で燃料プールの強度が充分でなく倒壊の恐れがあるために」作業員たちが補強工事をしているという。 こんな物に、覆いをかぶせてどうしようというのだ。そんなことになんの意味があるのだ。 「週刊朝日」は9月23日号で、更に詳しく内部の状況を報道している。 汚染水処理施設の配管の樣子も、東電が発表した動画より更に詳しく写っている。 図書館などに行けば、「週刊朝日」のバックナンバーは置いてあるだろう。 ぜひ、読者諸姉諸兄におかれては、ご自分の目で、ご覧になるようにお勧めする。 (「週刊朝日」に拍手だ。オーストラリアにいてまでもずっと定期購読してきた甲斐があったと、今回の記事を読んで思った) 台風15号が、太平洋側に接近している。 雨雲の予報では、どうも、福島県全域に雨が降るようだ。 あの、ずさんな配管が、どうか無事でありますように。
- 2011/09/05 - 福島原発は大丈夫か異常な台風12号で、各地に大変な被害が出ている。 雨雲の移動を見ると、5日午後から、夜にかけて、福島県全体を雨雲が覆う。 強い雨が予想される。 私には、一つ大きな心配事が、福島第一原発にある。 各地で洪水を起こした大雨が、福島原発地域を襲ったら、と思うと。 心配で仕方がない。 何を私がそんなに心配しているのか。 それは、雨の被害がなかったことを確認してから、書く どうか何事も起こりませんように。 こう言う時につくづく思う。宗教を信じている人がうらやましい。 神なり、仏などに、すがることが出来るのだから。
- 2011/08/23 - 福島について福島県は、私の大好きな県だと、前回に書いたが、今回は、私の福島に対する思いを語りたい。 受験浪人の時と、大学一年生の時の二夏、伊達郡にある霊山神社に長逗留したこともある。 その時に、まず福島弁の美しさに魅せられた。 あのメロディアスで、優しいなめらかな発音、東京の言葉に比べると、福島弁は優雅で、人の心をなごませる響きがある。 あるとき、福島市内の本屋に入ったところ、二人の若い女性が話しをしていた。 その言葉があまりに美しいので、私は、その二人の横に立って二人の会話にしばらく聞き惚れていた。なにか、素晴らしい音楽を聴いているような気持ちがした。あの時の心地よさは、四十数年経った今も私の胸に残っている。 (そう言えば、それから何十年か経ったある日、私と連れ合いで、軽井沢で行われる弟の結婚式に出席するために上野に向かった。そのタクシーの中で、私は、ふざけて昔おぼえた福島弁で喋ってみせた。 すると、運転手さんも福島出身で、私のいい加減な福島弁を聞いて、私を福島の人間と思い込んでにこにこして「ふくすまに帰るんですか」と私に訊ねた。やったぜ、福間県人に見られた、とうれしかったが、正直に訳を話して、耳でおぼえた福島弁を喋っただけだと告白した。運転手さんはちょっとがっかりした樣子だった) 福島弁もさることながら、福島は海の幸、山の幸が豊富であり、独自の豊かな文化も持っている。 私は福島には何度も行っているが、数年前、買ったばかりのスバル・レガシーを試すために福島まで出かけた時のことを話そう。(スバルは最高) その際に、霊山神社、檜原湖、喜多方市、会津若松、などを回った。 残念ながら、霊山神社は私が滞在していた頃とは様変わりしていて、なんと、山のてっぺんの神社まで車で上れてしまうのである。 私が学生だった頃は、山の麓から、狭い道をえっちらおっちら歩いて上るしかなかったのである。 (そうだ、思い出した、あの四十数年前、霊山の麓のバス停で降りて、鞄を引きずって山道を登り始めたら、バス停の前のよろず屋的な店の前にいた若い人が、バイクで上ってきて、私の荷物を荷台に乗せて運んでくれた。私は6歳の時に患った股関節結核の後遺症で右脚が不自由だ。その私が山道を登っているのを見て、その若い人は私を助けに来てくれたのだ。 真夏で大変に暑い日で、とても辛かったので、その若い人が天の助けのように思えた。若い人は私が丁寧にお礼を言っても、「なに、なに」と手を振るだけで、山道を駆け下って戻っていった。 人でも、土地でも、第一印象は大事である。 私が福島を非常に愛しているのは、そのバイクの若い人に最初に出会ったからなのかも知れない) 霊山神社の宮司さんは当然ながら、代替わりしており、神社の人は私が滞在していた時にお世話になった宮司、阿曽二郎太さんのことを全然知らなかった。 阿曽二郎太さんと奥様のお二人こそ、純粋で心清らかな日本人であって、その飾らない、実直で限りなく優しい心映えは、お二人のお顔の印象と共にいまだに私心の中に深く残っている。 日本の神社の運営は、どうなっているのだろう。 昔の宮司さんのことは、記録にも残っていないのだろうか。 淋しいことである。 阿曽さんご一家のその後のことを知りたかったのだが、残念だった。 霊山神社の周りは桃畑である。 朝になると、氏子の人達が、桃を持って来てくれる。 完全熟成して、独りでに木から落ちた物で、それでは返って売り物になら無いからと言って持ってきてくれるのだが、味は、そんじょそこらの桃とは訳が違う。木の上で完全熟成したのだから、色、香り、甘さ、水分、その全てが最高。 今でも忘れられないのが、赤に近い桃色をしたやや小振りの桃だったが、それを一口噛んだ時に甘美などと言う言葉では表現できない、正に天上の物ではないかと思えるような素晴らしい香りが口から鼻に、更に脳天まで貫いた。 全く精神までも深く虜にする素晴らしい香りだ。 その甘さも強烈。 官能的で、しかも清潔で、だれた甘みでなく、天上まで一本鋭い気の柱を立てたという感じの味わいだった。 四十数年前のことになるが、いまだにあの桃の味を超える果物に出会ったことはない。 桃に限って言っているのではない。今まで味わった全ての果物の中で最高の味だったと言っているのである。 あの桃をもう一度食べたいと言うのが私の願いである。 たぶん、霊山の神社に祀られている北畠顕家公が私の前途を祝福して下しおかされた桃であると私は信じている。 (私は勤王家ではないが、どうもそれ以来、北畠親房、北畠顕家の二人には特別な感じを抱くようになってしまった。) 檜原湖は素晴らしかった。ちょうど周りの山から雪解け水が流れ込む時期で、その流れ込む水の音が、どうどうと凄まじく豪快で気分が良かった。 会津若松城に行くと、桜の花が城内満開で、豪勢な美しさで、その城内の武道場で女子高校生達が薙刀の稽古をしていた。 満開の桜の花の下、大和撫子が薙刀の稽古をするなんて、余りに絵になりすぎだ、とは思いながら、心にしみ渡る物があった。 まさに、素晴らしい一幅の絵だった。 喜多方は、ラーメンで有名だが、馬車で市内を回るサービスがあった。姉と連れ合いと、三人で馬車に乗ったのだが、その馬はそれまで山の中で材木を引っ張る仕事をしていた荷役専門の力持ちの馬で、体は大きく、足は太く、蹄の上に毛がふさふさと生えている。 だから、本来馬車を引くくらい何ともないのだが、いかんせん老齢だ。しかも、左の前脚を痛めている。 一旦止まると、次に動き出すのが、大変に辛そうなのだ。 その馬の樣子が、馬車が通る商店街の店のガラスに映って見える。 私たちの席からも馬の様子はよく分かる。 異常な動物好きの姉は発狂状態になってしまった。 ハンカチを鼻に当てて、涙と鼻水を抑えて、「この馬が可哀想じゃないの。もう、いいから、止めてと言って」と私に言う。 しかし、馭者にそんなことを言っても、彼にとっても仕事なのだから、そうも行くまい。 途中、小休止と言うより、客に土産物を買わせるために土産物屋に止まり、そこには、馬に与える餌も売っている。 姉は大喜びで、馬の餌を買いに行ったら、しなびた小さな人参が一本しなかった。 姉は、実に遠慮深い性格で、私が表で、通りすがりの人に声を掛けたり、特に怒って文句を言ったりするのを非常に恥ずかしがる。 姉の運転する車の助手席に乗せて貰うと、助手席の窓を私が開けられなくしてしまう。 私が勝手に助手席の窓を開けて、通りがかりの人に、何か言うのを恐れてのことである。 それほど、どんなに正当で言うべき事でも、姉は他人の気分を害するからと言う理由で(自分が我慢をすればいいんだからと言って)何も言わない。 しかし、その時は、流石の姉が怒った。 店の人間に「どうして、馬の餌をちゃんと充分に用意しないのですが!」と詰問した。 私は、横で、「おお、姉ちゃんもやる時はやるな」と驚いてみていたが、店の人間は、「今品切れなんです」の一点張り。 仕方なく、姉はしなびた人参を一本だけ馬にやり、「これだけしかなくて、ごめんね、ごめんね」と言った。 これから、出発点まで、またおなじ馬車で戻るのは嫌だと姉は言うが、とても歩いて帰れる距離ではないところまで来てしまっている。 仕方がないからまた馬車に乗った。 帰る馬車の中、姉は、体中から不機嫌な気をびんびんと発しながら、「可哀想だ、ああ、嫌だ」と言い続けた。 私が姉に「そんなこと言うけれど、この仕事がなくなってしまったら、この馬は屠場に送られてしまうんだぜ」と言ったら、余計に姉を怒らせてしまった。 「余計なことを言わないのっ!」と姉の権威をまる出しにして私を叱った。 こんな辛いこともあったが、お目当ての喜多方ラーメンも食べたし、素晴らしく品数の多い雑貨屋で、連れ合いは直径が70センチ以上有る竹で編んだ大ざるを手に入れてご機嫌になったし、結果的に楽しい旅行だった。 また、桜の時期に来ようと三人で言い合った。 今でも、会津若松城の城内の武道館で薙刀の稽古をしていた女子高校生達のすがすがしい姿が、満開の桜を背景にして目の裏に残ってる。 雪解け水がどうどうと流れ込む檜原湖畔に雪の中から頭をぞかせたふきのとうの愛らしい姿が目に浮かぶ。(実は愛らしいではなく、うーん、天婦羅にして食べたい、と思ったのだが) 福島は素晴らしく美しいところだ。 日本全土の中でも福島の美しさ豊かさはずば抜けている。 その美しい福島の国土を何とか取り戻さなければならない。 この国のために、子孫のために。 福島の人達は、復興のために一所懸命頑張っているのだろうが、本当に頑張らなければならないのは、福島の恩恵をずっと受けてきた我々東京電力管内の人間だ。(東電、経済官僚、政治家達については言うまでもない) 私は物書きで、経済力もなく、老いさらばえた今となっては体力もなく、実に無力な存在だが、物書きではなければ出来ない方法で福島のために尽くしたいと考えている。
- 2011/08/15 - 再開しましたさて、この私のブログ、他人様の迷惑も考えずに再開致します。 弟にも注意されましたが、確かに、今までのブログの内容については、例えば「役人のクズ共」などという、汚らしい感情的な言葉を使うことがありました。 そう言う言葉を使うことは、実に物書きとして技術的に未熟な証拠であり、自分の人間性を恥じると同時に、自分の物書きとしての未熟さに恥じ入るばかりです。 これからは、姿勢を正し、油断なく物事を進めて行こうと思っています。 私は長い間「美味しんぼ」という漫画を書いていますが、地方の話題を取り上げることも少なくない。 「日本全県味巡り」というシリーズでは、様々な県の郷土料理・郷土の文化を紹介して来た。 その「美味しんぼ」に登場して頂いた方達の中で、今度の震災に被災した方達がいる。 色々人づてに、その人達の安否を確かめていたが、どうしても自分でその人達に会ってみなければならないと思い、5月30日から、6月3日にかけて、青森、岩手、宮城、の三県を回った。 なぜ肝心の福島がないのか。 それは、驚くべきことだが、今まで「美味しんぼ」で福島に取材に行ったことがないのである。 勿論、個人的には何度も福島に行っている。 そして、福島は、私が日本中で一番好きな県である。 美味しい物はあとで食べようと言う、卑しい性癖のある私は、「日本全県味巡り」で福島を回るのは、もう少し後にしようと大事にとって置いたのである。 まさか、こんなことになるとは夢にも考えていなかった。 どうしてもっと早い時期に、「日本全県味巡り」で福島を取り上げなかったのか、口惜しくて仕方がない。 今のような状況で、「日本全県味巡り」の取材に対する協力を福島の方達にお願いするのはとても無理だから、もっと落ち着いた時期に挑戦したいと思う。 もともと、この被災地巡りは、私の個人的な問題として、青森取材の時に協力して下さった斎藤博之さんにまた助けて頂いて、二人だけでレンタカーを借りて回ろうと計画していた。 その計画を、「日本全県味巡り」の島根県を取材している途中に、いつも「日本全県味巡り」にスタッフとして協力してくれている、ライターの安井洋子さん、カメラマンの安井敏雄さんにうっかり話したら(二人が同じ苗字なのは偶然である。二人一緒にいる時に、どちらの安井さんなのか区別するために、名前で呼んでいるので、此所でもこれからは名前で呼ばせて頂く)、洋子さんも敏雄さんも、「自分たちも行く」という。 「自分たちも取材でお会いした方達だ。その方達が今どうしておられるのか心配だ。どうしてもお会いしたい」という。 二人の熱意に根負けして、同行して頂くことになったが、二人に来て頂いて本当に助かった。 カメラマンの敏雄さんは、レンタカーの運転までしてくれたし、ライターの洋子さんは、道中起こった様々な問題を解決するのに力を尽くしてくれた。 (実は洋子さんも、敏雄さんも、私と斉藤さんと言う凸凹コンビがうろつき回ることを心配されたようだ。私は突発的な行動に出る癖があり、斎藤さんも面白いことがあると飛びつく。そんな二人を野放しにすることを心配してくれたのだろう) 一度、こんなことがあった。 斉藤さんが前もって、宮古のホテルを予約して置いて下さったのだが、岩手県を回り、重茂(おもえ)漁港の取材を終えた時には夜の六時を過ぎていた。 重茂のあたりに宿はないので、宮古まで行かなければならない。 宮古に着くのは七時を大幅に過ぎる。八時を過ぎるかもしれない。 斉藤さんが、ホテルに「遅くなる」と電話をしたら、そのホテルは「五時までに電話をくれなかったから一部屋減らして二部屋にした」という。冗談じゃない。 こちらは、男性三人、女性一人である。 二部屋に泊まる訳には行かない。 今はどうなのか知らないが、その当時は各地からボランティアの人達がやって来るので、東北地方はどこへ行ってもホテルが満員だった。 その宮古のホテルにしても、本来四人なのだから四部屋欲しかったのだが、三部屋しか取れないと言うので、では男三人は二部屋に分かれ、洋子さんは一人部屋にすることで、予約を取ったのである。 それが、突然二部屋に減らすという。 そもそも、斉藤さんは予約する時に五時までに確認の電話を入れるなどと言っていない。 それなのに、一方的に二部屋に減らすという。 予約を全部取り消すというのならまだ話は分かるが(それにしても、五時までに電話で確認するなどという取り決めをしていない)一部屋減らすとはどう言うことだ。 斉藤さんは大変に温厚な方である。 丁寧に、紳士的に、相手の言うことが間違っていることを説いた。 今更二部屋に減らされたら困るから、予約通り三部屋用意してくれるように言った。 最初は女性が電話口に出ていたのが、とつぜん男性に変わって、理不尽にも「そんなこと言うなら、今夜は泊めてやらない」と言い出したのである。 ここにおいて、流石に温厚な斉藤さんも怒ったが、向こうは強気である。どうせ、どこのホテルも満員だとわかっているからである。 私たちは宮古に着いたが、泊まるところがない。 そこで、洋子さんが、重茂でお世話になった宮古市議会議員の方に電話を掛けて窮状を訴えた。 市議会議員の方はいざとなったら自分の家に泊まりなさいと言って下さったが、それは、あまりに心苦しい。 そこで、市議会議員方がこのホテルに当たってみたらどうだろうと言ってホテルの電話番号を教えて下さった。 実は、そのホテルは、以前斉藤さんがこの計画を立てる時に電話をしたのだが、津波の被害を受けて営業していないと断られたところだという。 それじゃ駄目だな、と落胆した。 今夜は、もう車の中で寝るしかない。 そう覚悟を決めた。 しかし、駄目で元々と洋子さんがそのホテルに電話をしたら、何と営業を再開していて、これからでも四部屋取れると言うではないか。 我々は歓声を上げた。 一週間前に再開したばかりで、まだ、余りそのことが知られていなかったのが幸いした。 行ってみたら、綺麗にリニューアルされていて、極上のホテルである。 地獄から天国に引き上げられた感じである。 ちかごろ、あれぼど「助かった」と思った事はない。 安心すると同時に、しかし、と私達は嫌な気持ちになった。 私たちの予約を勝手に取り消したホテルのことである。 全部取り消さずに、三部屋の内、二部屋だけにしたのはどう言うことなのか分からない。 ああだこうだ、と頭をひねって、最後に、こうではないかと気がついた。 「誰かが来たんだよ。で、その人間を泊めたら、四人に三部屋使わせるより、その人に一部屋使わせ、我々四人に二部屋使わせたら、一部屋分余計に儲かる。」 うはあ、そう言う計算だったのかと気がついて、みんなうちひしがれた。それは、汚すぎる。 ボランティアの人達は善意でやってきているのに、ホテル業者はここが稼ぎ時と、余計に儲けようと企む。 宮古のホテルは、斉藤さんにこう言ったそうである。 「被災地に来て置いて勝手なことを言うな」 それはひどい言い方だ。勝手なことを言っているのはそっちである。 被災地だからといって、金儲けのために客の信頼を破っていい訳がない。大体これは、旅客法という法律に違反した行為でなはないか。 実に、寒々と心の冷える体験をした。 こう言う時に面倒な交渉をしてくれたのは洋子さんである。 洋子さんが、市会議員の方に問い合わせてくれなかったら、その晩私たちは車の中で寝ることになっただろう。(私たちを泊めてくれたホテルの名前は「熊安」という。名前は古めかしいが内装は現代的で、リニューアルしたせいか、大変に綺麗。使い勝手も良く従業員達も大変に親切。宮古に泊まるなら「熊安」ホテルだぜい。私たちにひどい仕打ちをしたホテルの名前は敢えて記さない。) 被災地の樣子は悲惨を極めた。 テレビや、新聞雑誌の写真では絶対にその実感が掴めない。 私が行った時点で事故から二か月半経っていて道などはかなり復旧していたが、至るところ、曾て町が有ったところが、完全に壊滅している。 その、被災地の真ん中に立って四方八方を見渡して、「一体、こんなことが有ってよいのか」と、あまりのむごさに体中打ちのめされる思いがした。 幸いなことに、私が訪ねた方達は、その無残な破壊の中で必死に立ち上がろうと努力されていた。 その方達の災難にめげずに立ち直ろうとする姿は私の心を深く打った。 最初は、個人的な意図で、やって来たのだが、被災地の人達と会って話を聞いている内に、これは「美味しんぼ」で書かなければ駄目だと思った。 幸い敏雄さんが写真を撮ってくれているし、洋子さんが記録を取ってくれている。 この千年に一度の凄まじい被害を受けた被災地で、めげずに復興している人達の姿を、どうしても「美味しんぼ」で伝えたい。 これまでの予定では、九月から、「日本全県味巡り」の島根県篇を連載することになっていた。 そのための取材はすでに昨年と今年二度にわたって行った。 島根県の方達には大変申し訳ないが、急遽「被災地・めげない人々」篇を九月から連載することになってしまった。 「日本全県味巡り」の島根県篇は、来年二月頃から始める。 時間が経ったら腐るような内容ではないので、問題はない。 ただ、島根県で協力して下さった方達に申し訳ない思いで一杯である。 青森県種差海岸の「洋望荘」の佐藤さん一家、 岩手県重茂漁港の皆さん、 宮城県気仙沼の「福よし」の村上さん、 宮城県唐桑の「水沼牡蛎養殖場」の畠山さん その皆さんの奮闘する樣子を、「美味しんぼ」で書く。 九月上旬から「ビッグ・コミック・スピリッツ」で連載するので、是非読んで頂きたい。 ただ、その中で、村上さんの仰言った一言が重く私の心にのしかかっている。 「何とか復興しようと努力しているんだよ。でも、福島のことを考えると、力が抜けて行くんだ」 そうだ、福島原発である。 福島原発の事故は、日本を、根底から変えた。 1945年の敗戦の時、日本中は焼け野原だった。 しかし、不思議に明るかった。 それまでの軍部の圧政から自由になって、新しい社会を作るという希望があった。 しかし、今回はそうは行かない。 震災からの復興はなったとしても、原発問題がある。 事故から、五ヶ月経つというのに収束の目安も立たず、毎日大量の放射性物質をまき散らして、福島からはるか離れた静岡県の茶葉まで汚染を広げている。 さらに、もう一つ何か事故があったら、破局的な事態に陥る。 我々は、とんでもない、魔物を抱え込んでしまった。 人類がかつて経験したことのない状況である。 不安、恐怖、不信感、こんな物に背中を焼かれる毎日を過ごさなければならない日本を誰が想像しただろうか。 私は3.11以前とそれ以後の日本は、まるで違う国になったと思う。 3.11以前の雑誌などに書かれた記事は、いまになってはあほらしくて読めない。 これは、日本だけでなく世界中に被害をまき散らす問題である。 私は、ここにおいて東電は、自分たちだけで自分たちのメンツを保つために、あるいは企業として生き残りを計るために、事実を隠し通して自分たちだけで始末を付けようとする幻想を捨てるべきだと思う。 何もかも事実を明らかにし、全てのデータを公表して、日本のみならず世界中の叡智を結集してこの事態の収束を計らなければ駄目だと思う。 今までの東電と日本政府のやり方を見ていると、とてもこの先に希望を抱けない。 東電は日本中、世界中に頭を下げて、本当に智恵ある人々の力を借りるべきだ。 それが本当の責任の取り方だ。 日本人は、東電と日本政府の隠蔽工作によって、福島原発で何が起こっているのか、放射線の何を恐れ、何を恐れる必要がないか、それをきちんと掴めていないと思う。 これから、私は、折を見て、私の掴んだ最新の知見をまじえて、多くの人に、何を心配すべきか、何を心配しないでよいのか、語って行こうと思う。 3.11以降の日本を、なんとか3.11以前の日本に戻すように私自身出来るだけのことをして行きたいと思う。 それが、このページの一つの意義であるかも知れない。 と言う訳で、これからもご愛読下さるようお願いします。
- 2011/08/14 - 再開直前に、ひと言新しい私のホームページの形が整いました。 16日から正式に運用します。 URLは今までと変わりません。 ただ、前回も、申し上げたとおり、ページの名前というか、タイトルというか、それが、「美味しんぼ日記」から「雁屋哲の今日もまた」に変わります。 以前より、私の思うことを集中的に読んで頂けるように、ページのデザインも、極めてさっぱりしたものにしました。 私の「いやらしい、ぐだぐだ話し」を最大限、このページにアクセスした不運な人達に味わわせて差し上げるのにふさわしいデザインだと思います。 色々な人から、お前の言う事は毒がありすぎる。マムシかハブみたいな男だと言われたので、これから、私は自分の事を「マムシの哲」「ハブ哲」と自称したいと思います。 私の言葉には、私の批判の対象になった人間から見れば、「ひどい毒」があります。 3月11日過ぎに、私のホームページをダウンさせた人々にとっては、私のページは攻撃の対象にしたい「毒」をまき散らしていると感じたのだと思います。 しかし、私は、単なる事実を伝えたに過ぎない。 現実に、あの時私が書いた事実で、あのおかしな人達が攻撃してきた内容は、今になってみれば、常識になっているではありませんか。 今、あの内容を書いたところで、誰も、反感を抱いて私のページを攻撃しようとは、思わないでしょう。 私は、現在常識になっているが、あの時点で他の人が隠していた事を他の人に先立って明らかにしたに過ぎません。 それに対して、無智な人々が、恐れ反発した。 私のホームページを攻撃した人達は、今、どう思っているのでしょうか。 あの時の、私の「毒」が今では真実です。 さあ、私を攻撃して来た人達、どうしますか。 (ハブ哲がからんでいるんだよ) 私は、どんな事に対しても、「科学的」に考えると言う態度を持ち続けています。 と言うより、物事を正確に掴むためには科学的な思考以外の思考方法はないと自分の体験から確信しています。 様々な事象を自分で理解しようとする時に、物事を正確に理解し、自分以外の人達に納得して貰える説明をするためには、事実に対する科学的な分析、解析が絶対に必要である事を長い間の物書き稼業の中で痛感したのです。 科学的な考え方とはどんな物か、これについては、今までに何度も語っており、これからも、と言うより、すぐこのあとに書く「太地の中学生達に」と言う文章の中でも、語ります。 くどいようですが、この「科学的」に物事を考えると言う態度は、人間として真正な人生を送るためには必須な事だと思うので、くどいという批判を無視して、ここにも書きます。 科学的な思考態度とは、 1)どんな事を考えるにしても、その考えの基には事実がなければなりません。 2)その事実は、その説を唱える人だけが、事実として主張するだけでは不十分で、その人以外の第三者が何人もその説を唱える人と同じ条件で確かめても、同じ結果が得られれば、これは客観的な事実であると認められる。そうでなければなりません。 「自分はそう思う」「誰それさんが(神様が)そう言っているのだから、そう信じろ」という言い方は、意味がありません。 3)その客観的な事実の上に、論理を組立てていく。 これが、「科学的」な思考態度です。 宗教が科学と異なる点は、宗教が上記2)と3)を満たしていない事です。 科学的に物事を考えるとどう言う事が起きるか、その一例を挙げれば、「常温核融合」の問題があります。 核融合というと難しく聞こえますが、実際は私たちが毎日体験している事です。 我々が毎日享受している太陽の光は、どのようにして生まれているかというと、それは、太陽の中で水素原子がお互いに融合して、ヘリウムになる時に生成されるエネルギーが、光のエネルギーとなって、我々の元に届くからです。 太陽のような、極めて高温、高圧の状態では、水素原子どうしが融合してヘリウムになることは可能です。 水素からヘリウムになるときに、水素原子は0.7パーセントほど質量を失う。 アインシュタインが明らかにした事ですが、質量に光速の二乗を掛けた物が、エネルギーとして放出されます。 太陽は、地球から見れば大変に巨大な物体です。 その中の、失われた0.7パーセントの質量がエネルギーとして時々刻々放出されているわけです。 大変なエネルギーを、我々地球に与えてくれています。 そのお陰で、地球上には様々な生物が生息できるのです。 水素爆弾は、まず原子爆弾を使って核分裂によるエネルギーを生成し、それを利用して核融合を起こす物で、爆弾という限られた空間の中で、原爆という強力なエネルギーを与えられて初めて実現した核融合です。 この核融合を、人間の管理可能な状況で実現できれば、大変に具合の良いエネルギー源になると考えて、多くの科学者がこれまで研究を続けてきました。 しかし、原子爆弾のような、瞬間的に巨大なエネルギーを発する物がない状態で、核融合を引き起こす事は非常に難しい。 そのために、日本も国の研究機関で優秀な物理学者を集めて、数十年間研究を続けていますが、現実に太陽で展開されているあの状況を作り出す事がどうしも出来ない。 そのような状態を作り出すためには、極めて高温高圧高磁場の特殊な状況を作り出さなければならない。それが、ほとんど不可能だ。 ところが、20年ほど前にアメリカの二人の科学者が普通の室温で、ビーカーを使って、核融合が出来ると発表したのです。 これは、世界中の核融合研究者たちを驚かせました。 自分たちが、巨大な実験設備を使っても出来ないのに、室温・常温でビーカーの中で核融合を実現する事が出来る。 世界中がひっくり返るような大騒ぎになった。 これで、エネルギー問題は解決する、と言う期待が起きました。 ところが、実際に、その二人の科学者が、他の人達の前で実験してみせると、核融合など起こらない。 彼らと別の人間が、彼らと同じ方法で行っても、核融合は起こらない。 様々な人が、その二人が成功したと主張する方法で実験を繰り返しても、核融合は起こらなかった。 ここにおいて、二人の「常温核融合理論」は間違いであると、確認されたのです。 4)もう一つ。科学的な思考で一番大事なことは、自分の今言っている事は、現在手に入れる事の出来た事実の上に立ったもので、後に新しい事実が発見されたら、躊躇なく新しい意見を受け容れなければならない、と言う謙虚な態度です。 これが、科学的な思考方法と言う物です。 だれもが、実証可能で、確かめる事の出来る事実、それを基本にして論理を組立てていく。 私は、これが、人間にとって唯一可能な「過ちを犯さない」思考方法だと確信しています。 この私の「確信」が思いこみではなく、以上に述べた科学的な思考による物だ、と言うと、それは同義語反復で意味がないかと反駁されるかも知れません。 しかし、この、何が何だか分からない無明の世界の中で、何か物事を考えようとした時に、「科学的思考方法」以外に頼りになる物、私以外の第三者をも納得させる事の出来る議論の仕方、はないのです。 (宗教は、私の考えでは、この苦しい思考を、神や仏にすがる事で逃れた結果だと思います) 私の科学的な物の考え方、これは、どうしても、日本人全体に理解して頂きたいのです。 日本人は情緒、感情に流されます。科学的な思考は苦手です。 科学者を自認する人でも、最後の判断のところで、情緒的になることを嫌と言うほど見てきました。 (こう言う事は、私が日本人として、長い間生きて来たから言える事で、他の国の人間が言ったら、私自身簡単には受け容れられないでしょう。 ふ、ふ、おかしいね。同じことを、外国人に言われたら反発を感じるところは私も日本人なのであるわいな、と思います) 個人的な思いこみでは、たとえば、如何に、環境保護の言葉を並べても、その言葉を聞く人達は「本当かな、どうなのかな」という疑いを抱きます。 しかし、きちんとした科学的データを元に、科学的な分析の方法を説明して語ると、その話を納得して頂けます。 そのような基本的な態度を維持して、これからも、思った事を「今日もまた」書きつづろうと思います。 マムシの哲、ハブ哲は目を光らせています。
- 2011/07/20 - 再開予告長い間、お休みしていましたが、ブログを近々再開します。 ただ、これまでは「美味しんぼ日記」と言う名前でしたが、日記に書く内容が全然「美味しんぼ」と関係ないではないかと言うご意見も強くあったので、題名を「雁屋哲の、今日もまた」に変更します。 食べ物、美味しいものについても書きますが、私が日常的に考えている事を、他人迷惑を考えずに、書きます。 URLは今まで通りです。 以前、皆さんがブックマークなどされていた「美味しんぼ日記」をクリックすれば、新しい「雁屋哲の、今日もまた」に入ります。 その後、ブックマークの名前を「雁屋哲の、今日もまた」に書き換えて頂ければ、何の問題もありません。 現在、新しいページの構成・デザインに取りかかっているので、新しい装いが整い次第、再開します。 ごひいきのほど、よろしくお願いします。 てなことで、再開後挨拶で終わってしまうのも、物足りない。 二つばかり、語りたい。 1)これは、もちろんサッカー大好きな私としては見逃せない、「なでしこジャパン」のワールドカップ優勝の件だ。 正直に言って、私は女子のサッカーを今までまともに評価してこなかった。 走る時に、両腕を前後に振るのではなく、胸の前で横に振るような女子に、サッカーなど出来るかと思ったのである。(実際に、日本対スウェーデンで最初に点を入れたスウェーデンの選手は、喜んで自陣に帰る時に、両腕を胸の前で振る、「女の子走り」をしていた) ところが、今回、「なでしこ」が、決勝リーグに進んでから、テレビを見始めて、私の認識が間違っていた事を痛感した。 私は、やはり、男性優位の観念に囚われた古い人間だったのである。 「なでしこ」の戦いを見ていて、私は、これこそサッカーだと思った。 サッカーは、肉体的な強さも大事だが、それ以上に、頭脳的な戦略が決定的に大事である事を「なでしこ」は示してくれた。 もちろん、肉体的な鍛錬が元になっている事は当然であるが、「なでしこ」たちの戦いは、パス回し、位置の取り方、その全てが知的な戦略に基いていて、これこそサッカーの醍醐味だ、と思わせてくれた。 最後の三戦、対ドイツ、対スウェーデン、対アメリカ、その何れも幸運に恵まれたとは言え、「なでしこ」の知的な動き、何が何でも守りきる心意気、この二つが満ちあふれていて、「なでしこ」ひいきと言う点からを離れて、純粋にサッカーのゲームとして見ていても素晴らしく面白かった。 しかしねえ、勝つと負けるとは、天国と地獄の差だね。 試合後、アメリカの選手たちは、うちひしがれ、目を真っ赤にしてただ事ならぬ雰囲気だった。 それに反して「なでしこ」たちは、はしゃぎ回っている。 やはり、勝負というもはどんな物にせよ、勝たなければ駄目だと痛感した。 私は、連れ合いと二人の娘たちを毎日相手にしていて、「女性には敵わないな」と思っていたが、こんどの「なでしこ」の活躍を見て、日本の女性は本当に凄い、と納得した。 「なでしこ」良くやった。うれしい。こんなにいい気持ちにさせてくれて有り難う! 2)放射能汚染された福島産の肉牛が7月19日現在、700頭以上が出荷され、そのかなりの部分がすでに市場に出回っている事が明らかになった。 おかげで、牛肉を敬遠する人が増え、焼き肉店も窮地に陥っているという。 私は、政府の、福島産の肉牛に対する態度が理解できない。 一体何を考えているのか。 BSE(いわゆる、狂牛病)問題の際、日本はアメリカに、肉牛の全頭検査を要求した。 ところが、今回、福島の肉牛に対しては全く検査をしなかった。 その結果、最終段階の消費者の口に入るところで、放射能汚染が確認されて、大問題になった。 BSE問題の時に、アメリカに全頭検査を要求しておきながら、当然問題が出ると思われる福島の肉牛に対して何の処置も取らなかった、不合理で自分に都合の良いように基準を決める日本の態度は、全世界的に大きな問題になるだろう。 すでに、シンガポール、イタリアなどでは、日本からの食品に対して輸入禁止処置を取っている。 私はこれまで、そう言う外国の態度を「愚かな風評に惑わされている」と馬鹿にしていたが、今回の肉牛に対する政府の態度を見ると、シンガポールやイタリアは正しかったと言わざるを得ない。 放射能汚染食物に対する処置が、こんなにいい加減な国から、誰が食べ物を輸入するか。 こんな国からの食物の輸入を禁止した国に対して我々が何を文句が付けられようか。 一番の被害者は、福島県の肉牛肥育業者である。 彼らは、牛に与える乾し藁の放射能問題を県などから何も聞いていないと言う。 それが、いきなり、「あんたのところの牛は放射能汚染されているから出荷停止」と言われたのだ。 こんなめちゃくちゃな話があるだろうか。 普通の肉牛肥育農家にとって、乾し藁と放射能汚染の関係など、考えもつかない事だ。 それも、当然の事で、肉牛肥育農家は放射能汚染などと言う事自体、今まで経験もした事がないので、乾し藁を餌として与える事の危険性など想像も出来なかった事だろう。 事実は違う、農水省などは、ちゃんと乾し藁の放射能問題を掴んでおきながら、それをきちんと、各個別の肉牛肥育農家に伝える事を怠っていたのだ。 もし、早めに、乾し藁の放射能問題を個別農家に伝えておけば、農家も肉牛に乾し藁を与える事は無かっただろう。 そして、もし早めに、個別の土地の肉牛の放射能汚染が検知できていれば、その個別の場所の肉牛を出荷停止にせざるを得ないが、安全な肉牛は他の土地には当然あるので、福島県全体の肉牛の出荷停止と言う事にはならなかった。 怠慢なのか、問題を起こしたくないという隠蔽体質なのか、農水省は大事な肝心の情報を個別肉牛肥育農家に伝えず仕舞いになった。 その結果、汚染した肉牛だけでなく、被害は福島全県の肉牛に広がり、ひいては消費者の牛肉離れを引き起こし、社会に大打撃を与えた。 そして、世界的に、日本の食べ物に対する信用は失われた。 これから、日本の食品の輸入を禁止する国が増えることは予想される。 本当に我々日本人は愚かすぎないか。 原発事故も、既に人災による事が明らかになっている。 今回の福島県産肉牛の問題も明らかに、農水省の役人共による人災である。 原発を監督する経産省、食品を監督する農水省、これらの官庁の役人共にはその責任を厳しく取らせる必要がある。 こう言う役人共の頂点は、国家公務員試験などを高得点で通過した試験秀才たちである。 先の大戦で日本を破滅に追いやったのは、高等文官試験の高位合格者の官僚たち、陸軍大学を優秀な点数で卒業した軍官僚、いわゆる試験秀才ばかりだった。 試験秀才は、模範解答のあるような問題には上手く対処する。 それは当たり前だ、採点する方はその模範解答に合わせて点を付けるのだから。 そんな試験で高得点を取ったからと言って、それが実用になるか。 試験秀才は、模範解答にないような未知の問題に遭遇すると何の力も発揮できない。 日本が戦争に突入したのも、惨めな負け方をしたのも、全部その試験秀才たちのおかげである。 かれらは、生き物であり、模範解答の存在しない現実の動きに対処する能力がなかったのだ。 現在、軍官僚は存在しない。 いるのは、財務省、経産省、農水省などの官僚である。 この20年間、日本の経済を衰退させ続けて来た財務省、経産省の役人共は、戦前の内務官僚、軍官僚同様の試験秀才でしかなく、実際の未知の事態に対応する能力はない。クズであることを示した。 今回、原発の事故で,経産省の役人共のクズさ加減が更にはっきりした。 それに加えて、今度の福島の肉牛問題である。 農水省の役人共もクズだ。 経産省も農水省もその頂点にいるのは東大法学部出身者だ。 日本経済のバブルがはじけて、国民全部が苦しんでいる最中に「なんとかシャブシャブ」(なんとか、のところに入れる言葉は知っているのだが、流石に私はこのページではその言葉は書けない。)でお馬鹿な接待を受けていた事件の時にも、当時の大蔵省のトップの人間達が関わっていて彼らが全員東大法学部の出身者だった。 前にも書いた事だが、一つの大学の一つの学部でこれだけ日本の社会に害をなしているところは他にない。世界中見回しても、こんな大学、こんな学部はない。 東大法学部の教育方針に決定的な欠陥があるに違いない。 東大法学部は廃部にするべきである。 それが出来なかったら、東大法学部出身者は官僚として採用するべきではない。(明治以降の官僚育成政策から、必然的に東大法学部と言う物が生まれたのだし,東大法学部あってこその日本の官僚制度なのだ。となると、日本という国のあり方まで、問題になってくるね) ええと、再開予告のはずが、何だかまた物議を醸し出しそうな内容になってきましたが、まあ、私はこんな人間なので、仕方がないですね。
- 2011/03/16 - 当分休止します 地震発生以来、私がこのページに書いた文章に対する、批判・攻撃が激しく、12日の夜から13日の夜まで、私のページに繋がらない事態まで起きた。いわゆるDOS(Denial of Service)攻撃という物らしい。 その後も、余り批判のメールが届くので、管理人が悲鳴を上げた。 もう、処理しきれない、と言うのだ。 シドニーから、高みの見物を決め込んで、あれこれ言うな、と言うことらしい。 私の体は確かにシドニーにあるが、心は日本にある。 さもなければあんな記事を書く物か。 それが通じないのであれば、仕方がない。 このブログは、当分休止することにした。 5月10日に日本へ戻るので、それから、このブログを再開したい。 これで、私は確信した、日本には事実を知りたくない、あるいは知らせたくない人が大勢いると言うことを。 日本に言論の自由があると言うのは飛んでもない間違いだと今度のことで痛感した。 自分たちの意見に反する意見、例えば、私の記事などにたいする反発は凄い物だと思った。 事実を絶対に人々に知らせるな。 その、凄まじい圧力に、私のブログは動かせなくなったのです。 その圧力に負けたくないが、実際にブログが動かない。 日本は、飛んでもない国になっ行くのでしょうか。
- 2011/02/15 - 前回の訂正 前回の訂正。 1)小学校の同級生の「イノさん」から、次のようなメールを貰った。 《トッちゃんが書いた「美味しんぼ日記」の2月10日(木)付けの「自分で自分に驚いている」の文章の中で「三橋三智也」とあるのは、正しくは「三橋美智也」です。 実は小生も演歌の良さに気づいたのは、つい最近の?還暦を過ぎてから。だいぶ遅いです。中でも男は「三橋美智也」が一番好きです。 女はもちろん「美空ひばり」。不動の二人です。 そういうわけで、ご贔屓の歌手の名前を間違って出されたので 黙っていられません。 訂正の程、よろしくお願いいたします。 次回、六年二組のカラオケ大会の時はお互い演歌で行きますか?!》 (文中、「トッちゃん」とあるのは、六年二組での私のあだなです) いや、「イノさん」すまんかった 三橋、三波、と続いた三が重なったので、つい三橋三智也、と書いてしまい、それに気がつかなかった。 早速訂正しました。 私の六二組の同級生は、私が馬鹿なことを書くのではないかと心配して、このブログを見てくれているのだ。 同級生は有りがたい物だ。 「イノさん」は小学生の時から絵が異常に上手で、大学を出てから、デザイナーになった。 「イノさん」は職業としてはデザイナーだが、その水彩画がまた素晴らしい。 ときどき、作品展を開くが、勿論、我々六年二組は揃って見に行く。 私の寝室には、田園調布の宝来公園の横から入る入り口付近を描いた「イノさん」の絵が、私がベッドに寝た位置から見えるように置いてある。 その入り口から入って、宝来公園の正面口まで抜けていくのが、小学校から大学までの私の通い道であって、その「イノさん」の描いてくれた絵を見ていると、楽しかった日々を思い出して胸が熱くなるのである。 「イノさん」の許可を得て公開する。 リアルさから言えば、写真より劣る絵が、写真より絶対に、訴求力があるのは、描く人が目の前に見える物の中から描く物を選んで、それに心を込めるからだ。 写真は確かに全ては写っているが、それだけ印象が散漫になり、心に訴える力がない。(上手な写真家の写真にはそんなことはありません。念のため) 「イノさん」の最近の作品をご披露しよう。 昨年、六年二組の皆で、「『秋田内陸縦貫鉄道』のお座敷列車に乗りに行く」という旅行をしたが、その際「イノさん」は我々がお座敷列車でくつろいでいる樣子を、さらさらとスケッチした。 私たちの旅がどんなに楽しい物だったかこれでよく分かるでしょう、なんて自慢して。 勿論、記念写真も沢山撮ったが、「イノさん」のこの絵に及ぶ物はなく、欲しがる人間が沢山いたが、「イノさん」にとっても大事な絵なので、「これは駄目」と言うことで、「イノさん」自身の作品庫に入る事になった。 2)長女が「天城越え」をシドニーのカラオケ屋で覚えたと書いたが、本人から、「違うよ〜」というメールが来た。 「おばあさまと一緒にNHK歌謡コンサートと紅白を見て覚えたのだよ。おばあさまがいた頃はほとんど毎週歌謡コンサートはかかってたからね。うふふ。」 だそうです。 文中「おばあさま」と言うのは、私の連れあいの母親で、「おばあさま」がシドニーでもずっと私たちと暮らしてくれていたお陰で、家の子供たちの日本語力が落ちなかった。 3)私は、歌謡曲のCDを一枚も持っていないと書いたが、何を言ってんだか。 私は「昭和歌謡史」と言う21枚組のCDに加えて、CDカラオケ用のCDを50枚ほど持っていた。 歌謡曲・演歌の名曲は殆ど揃っている。 (CDカラオケの場合、画像が入るので、一枚に入る曲数は普通のCDに比べて少なくなる) テレサ・テンのCD、DVDも数枚持っている。 それに最近、ネットで、フランク永井のCDを購入した。 大変便利なサービスがあって、歌手ごとに好きな曲だけを選んでそれをCDに焼いてくれる会社がある。 そこで、私は、「たそがれ酒場」と「公園の手品師」の2曲を選んで焼いて貰った。 と書いて、カラオケなんて10年近くしていないことに気がついた。 子供たちが付き合ってくれないんだよな。 カラオケなんてものは、一人では出来ません。 連れあいの母親は「くちなしの花が」好きで、良く歌っていた。 (最初、これを「クチナシの花」と書いたら、直ちに、吉本興業の野山さんから、「クチナシ」ではなく、「くちなし」だと、指摘されました。慌ててまた訂正しました) どうも、長い訂正文になってしまった。 訂正だけで一回分とはひどいね。 反省します。
- 2011/02/10 - 自分で自分に驚いている 何に驚いているのか。 それは、自分自身の趣味の変化だ。 私は、音楽に関しては、長い間、ジャズとクラシックばかり聞いていた。 ロックは物によるが、殆ど受け付けない。 歌謡曲となると、軽蔑していた。 ところが、最近になって、その歌謡曲に目覚めてしまったのだ。 しかも、演歌にだ。 以前から、私は、小林旭の歌が大好きで、カラオケでは必ず小林旭の歌を歌っていた。 石川さゆりの「津軽海峡冬景色」は日本の音楽史に残る絶対的な名曲だと思っていた。 また、「昭和枯れススキ」も「さくらと一郎」のあの絶望的な雰囲気が好きで良く歌った。 しかし、歌謡曲全般に対しては、全く興味がなかった。 特に、三波春夫、三橋美智也、春日八郎、村田英雄、などと言う歌手は大嫌いだった。 ところが、最近、三波春夫の「ちゃんちきおけさ」にすっかり参ってしまった。 いい歌だ。 それに合わせて、「東京五輪音頭」をきいてこれにも参った。 むかしは、こんな恥ずかしい歌はない、と聞くのもいやだった歌が、今は、耳にすんなり入ってくるし、心が弾む。 なんていい歌だろう。 そして、村田英雄、三橋美智也を聞いて、完璧に参った。 私は、中学二年生の時に、股関節の結核が再発して六ヶ月以上入院した。 その時、家計が苦しかったのだろうか、そもそも、個室などない病院だったのか、八人が入る大部屋で半年過ごした。 その時のことは、今でも絶対に忘れられない。 私が、普通に暮らしていたのでは絶対に出会えない人達に同じ病室で出会えたのだ。 いまでも、あの、八人部屋の入院生活は、私の人生にとって非常に役に立ったと思っている。 当時は、信じられないことだろうが、ソニーのトランジスタ・ラジオが恐るべき製品と思われた時代で、普通の人は、もっと大きなラジオを病室に持込んで、イヤーフォーンを付けるか、他の人の迷惑にならないように音量を最小限に絞って、自分の好きな番組を聴くという形だった。 その入院患者の中に、四十代半ばの人がいた。 その人は、イヤーフォーンを持っておらず、小型のラジオを極力音を絞って聞くのだが、私には、全て聞こえてしまう。 その人は、歌謡曲が好きで、とくに、三橋美智也が好きだった。 三橋美智也の歌が終わると、大きな声で、「みはすみつやはいいなあーっ!」と言った。 私は、その人が素晴らしく優しく明るく誠実な人柄だったので、その人自身は好きだったが、「三橋美智也」は駄目だった。 今でも、私は、その人の、三橋美智也の歌を聴いた後の、晴れ晴れとした顔と声を忘れられない。 そして、その時馬鹿にしていた、三橋美智也の良さが今になって分かったことをその人に伝えたい物だと思う。 しっかり演歌を聴き直して驚嘆するのは、演歌歌手の声のすごさだ。 三橋美智也、三波春夫、村田英雄、彼らは民謡と浪曲で鍛えただけあって、地声が高いところまでびんびん響く。 そして、地声と裏声の使い分けが見事だ。 演歌歌手の声の操り方を聞いていると、クラシックのテノールなんて単調だな、などと思ってしまう。 (いや、テノールが大変だと言うことは分かっていますよ) 私たち小学校六年の同級会は年に何回か持たれるが、二次会はカラオケになることが多い。 私は病気をして普通の人より遅れたので、田園調布小学校には二年生から入った。 その時からのつきあいだから、人生でも一番長いつきあいの「こ」君は、民謡を経て、今は長唄を本格的に勉強しているので声がよいし、節回しが見事だ。 カラオケで得意なのは、春日八郎の「赤いランプの終列車」である。 いつも、見事な喉に、同級生たちはヤンヤの喝采を送るのであるが、私は、一つ野望を抱いた。 それは、「こ」君に負けてはいられない。 三波春夫の「ちゃんちきおけさ」「東京五輪音頭」そして、三橋美智也の「哀愁列車」を小学校の同級生たちに披露してやろうと思った。 ところが、実際に、歌ってみると、まあ、その難しいこと。 とても、私にはほかの人に聞かせられるようには歌えない。 それで、演歌歌手の実力のほどを思い知ったと言う訳だ。 私の家族は、私が今頃演歌にこっているので驚く。 「石川さゆりの『天城越え』はすごい。聞いてて涙ぐんじゃうよ」なんて、長女に言ったら、「あら、お父さんたら、今頃演歌に目覚めたのね」と軽くいなされてしまった。 長女は小学校六年生の時にオーストラリアに来て、それ以前もそれ以後も、私の家では演歌など聴く環境ではなかったのに、高校生の時に、日本で祖母、叔父、叔母、従兄弟たちなど親族が集まったところで、「天城越え」を身振りも交えて、熱唱したので、私の親族全員が、一瞬凍り付いた、と言うことがある。 私の姉が、その時のことを話してくれたのだが、「みんな、どうしてあの娘がと、びっくりして口もきけなかったわよ」と言った。 一体どこでそんな曲を覚えたのか、と尋ねたら、「お祖母さまが、お元気だった頃、NHKの歌謡番組はいつも流れていたし、紅白歌合戦も、毎年見ていた。それで覚えたのよ」と言った。 シドニーのカラオケにも、友人たちで出かけて行っているらしい。 私の姉は、音大卒業でクラシック音楽専門、姉の夫は、クラシックの曲なら、数小節聞いただけで、作曲家と曲の名前まで全部分かるというクラシック音楽第一の人間。 姉の次男は自分でバンド活動をしているが、ロック専門で、歌謡曲も演歌もまるで駄目。 そう言う雰囲気で、『天城越え』を振り付け入りで熱唱したのだから、長女が親族中から、「どうして」と言われたのも無理はない。 どうやら、私は今頃になって、長女に追いつきかけているようだ。 と思ったら、長女と次女は、とっくにJ-POPに関心を移していて、フランス語で「虹」という名前のバンドに夢中で、演歌には関心を示さない。 私は、J-POPには、まだついて行けない。 しかし、演歌の良さを分かって楽しめるようになっただけで、人生の幅が広がった。 歳のせいだろうか。 であれば、人間歳を取ることは、悪いことばかりではない、と言おう。
- 2011/02/05 - 大相撲を守れ もういい。充分すぎる。 お相撲さんを、これ以上いじめるな。 八百長をした事がはっきりした力士は厳罰に処すことに異議はない。 しかし、だからといって、その罪を他のお相撲さんに及ぼしたり、名古屋場所を取りやめたりするとは、正気の沙汰ではない。 どこの世界にも、道を踏み外す人間はいる。 全体の中の数パーセントの人間の不始末で、相撲全体を潰すなど、狂気の沙汰だ。 私たち日本人が、この数百年の間、どれだけお相撲さんを愛し、お相撲さんに力づけられてきたことか。 大関、横綱になるために、どれだけの精進をお相撲さんがしてきたか、みんな良く知っているはずだ。 八百長なんかで、大関、横綱になれる物ではない。 それだけの力があるから、大関・横綱になり、我々普通の日本人が憧れ、愛し、誇りに思ってきたのではないか。 昔から、大相撲の八百長話は、あちこちの週刊誌を賑わせてきた。 幾つかの週刊誌の八百長暴露話には、かつて幕の内力士だった人間が進んで話しをしたりして、非常に嫌な話になっていた。 それが、立ち消えになったところに、今度は、携帯メールでのやりとりと言う、否定することが不可能な証拠を警察が握った。 確たる証拠を掴んだと言うことで、テレビ、新聞、など凄まじい勢いで相撲協会を攻めに攻めまくっている。 最近の日本は、長引く不況のせいで、集団ヒステリーが起きやすい状況になっている。 日本人全体に、その正体が明らかにされない、市民団体による働きかけによって、これまた誰が誰なのか分からない不可思議な「検察審査会」が小沢一郎氏を起訴するように決め、その結果を絶対のものとして、新聞、テレビなどの誘導によって、世論調査で小沢一郎氏の議員辞職などを、過半数の人間が求めている。 小沢一郎氏が何をしたかということより、この訳の分からない「市民団体」による「検察審査会」に対する、再起訴の訴えが認められたこと。 また、どんな人間によって、どのような審査過程を踏んで小沢一郎氏を「不起訴不当」として、強制的に起訴するように持って行ったのか明らかにされていないこと。 この二つをもって、私は、日本は「民主主義国家」の看板を、直ちに引き下ろすように要求したい。 どうしても、小沢一郎氏を政界から葬りたい人間達が、検察が正面から挑んだのでは起訴出来ないのを、「検察審査会」などと言う、全く民主主義の論理から外れた機構を使って、世論を煽り、小沢一郎氏を追い込もうとしているのだ。 この醜悪さ、この悪辣さ。 そしてその策に乗り、集団ヒステリーに陥って自分たちが何をしているのかも分からなくなってしまった、日本人の情け無さ。 私は、本当にこのような不正な手続きで一人の人間を貶めることが可能である日本という国に深い絶望感を抱いている。 そこに持って来て、大相撲の八百長話騒ぎだ。 どこの世界にも、不出来な人間はいる。 大相撲で言えば、絶対に三役に上がれることがないと分かってしまう相撲取りはいる。 そのような、前途が見えてしまってそれ以上の希望を抱けない人間は、どこの世界にもいて、そう言う人間が、その人間の属する世界を深く傷つけるような不祥事を起こした事例は、今までに枚挙にいとまがない。 今回の、八百長問題も、小結、関脇、大関、横綱、という出世街道を突っ走ることの出来ない、前途に大きな野望を抱けない相撲取りが起こした問題だ。 ところが、小沢一郎氏の辞任を要求する集団ヒステリーはここにも及んできて、一部の不届きな相撲取りの不祥事だけを元に、大相撲全体をこのまま消滅させようと言う、馬鹿げた動きも出始めている。 ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな! 大相撲が、大衆の物になって以来、この二百年、日本人がどれだけ大相撲によって、元気づけられ、力づけられ、楽しませて貰ってきたことか。 大相撲は、日本の世界に誇る文化の一つである。 一握りの人間が、八百長に関連したからと言って、どうして、大相撲全体を破壊させようというのか。 よおい、皆の衆! いい加減に正気を取り戻してくれ。 集団ヒステリーはもう沢山だ。 大人の知恵を働かせてくれ。 大相撲がない日本なんか、日本じゃない。 大相撲を守れ! お相撲さんを守れ!
- 2011/01/30 - ああーっ気持ちがいいーっ! ザッケローニ監督は非常に選手の交代が上手だ。 最後にリーを出した時に、私は、これはやってくれるのではないかと思った。 そして、後半のあの長友のサイドの走り、いつもながら見事だが、そこからのセンターリングは教科書通り。 しかも、オーストラリアのディフェンスはどうしたことか、リーをフリーにしていた。リーはゴールの真ん前で、相手のディフェンスもなく一人で待っていた。 そこに、長友の見事なセンタリング。迷わずリーが一発だ。 いやあ、もう体中にたまっていた欲求不満が一気に解消した。 試合自体は韓国戦よりもっと悪かった、オーストラリアのシュートは20本近く、日本は10本程度。 日本のパスは必ず取られる。高いボールは必ず取られる。 日本がボールを取られると,オーストラリアはいとも簡単にそれをゴール前に運んで、すさまじい猛攻をを仕掛けてくる。 韓国戦のPK戦の勢いを川島が持っていて、信じられないよう好セーブの連続。 中でも、脚ではじいてゴールを外させたのは見事だった。 圧倒的にオーストラリアが優勢では私は死刑を宣告されて、死刑執行を待っている人間の気持ちになってしまった。 苦しいったらありゃしない。 とにかく、体が大きい。そして大きいくせに、すばしこい。 日本がパスをする前にするすると入って来て、パスを奪う。 ボールの保持力は、オーストラリアが圧倒的だった。 あんなに何度も、危ないシュートが続いて、どうしてオーストラリアに点が入らなかったのだろう。 これが、サッカーの面白さという物だ。 オーストラリアの選手たちは、どうして自分たちが負けたのか、信じられないだろうな。 長友とリーの見事な、サッカーのお手本みたいな、センタリングとシュートを見せつけらては、当分寝られないんじゃないか。 とにかく、これで、明日は町に出かけて行って、顔見知りのオーストラリア人に「昨日のサッカー面白かったねえ」と相手構わず言ってやろう。 これで、日本のサッカーチームも、オーストラリアに対する劣等感を解消出来たのではないか。 ああ、いい気分だ。 これで、気合いがしこたま入ったから今取りかかっている「福沢諭吉」の本がぐわーっと進むだろう。 最後に、シュートを決めた、リー・忠成は在日韓国人だったのだが国籍を日本に変えたのだそうだ。 リー選手は、日韓友好のためにも活躍している訳で、本当に嬉しいことだ。。 松井、香川と言う二人を欠いて、一次はどうなることかと思ったら、全くの幸運でオーストラリアに勝てた。 いや良くやった、はしゃぎすぎてきりがないからこれで止める。 サッカーの試合の時に、なると、どうして私は、ミーちゃんハーちゃんよりひどくなるのかね。 さあ、ぐっすり寝るぞ。 全日本のサッカーファンの皆さん、五十尺玉の花火を上げましょう。 それに、一、二、の,三、『どどどどどどどどどどっ—かーんんんんんんんんんんんんんんっ!!!!!! ずどどどどどどどどどどどどっかーんんんんんんんんんんっ!!!!!! ほうら、空に、巨大な日本の勝利を祝う赤い牡丹の花の大花火が開いたぞっ。 ああ、気持ち良かったねえっ!
- 2011/01/26 - 何てことだ 今日はね、何が何でも、日韓戦前に原稿を上げなければならないと、死にものぐるいで、キックオフ1時間前に仕上げました。 そこまで、燃えるような思いを抱いて、テレビを見ていたのに、延長後半、あと3秒を残したところで、やられてしまった。 なんと言う事だ、オーストラリアの解説者は、Unbelievableと言った。 こっちも信じたくないよ。 しかし、今日は、最初から韓国ペースだった。 何時点を入れられてもおかしくないくらいに、押しまくられて、日本は殆ど何もできなかった。 バスは取られる。スペースも空けてくれない。 それに引き替え、韓国は、次々に波状攻撃を仕掛けてきた。 韓国との実力の差、気力の差は大きい。 最後に、点を取られた時の、あの韓国の攻撃の凄まじさ。 日本のディフェンスなんて、翻弄して、次々に攻めまくる。 私は、昔、西部劇で、インディアンが幌馬車隊を取り囲んで攻撃している場面を思い出しましたね。 今まで5年間韓国に勝利出来なかったのは当然だ。 どうして、折角PKで有利に立ったのに、延長戦、最後の15分を守りきれなかったかのか。 最後の3秒に得点されるとは、全くの悪夢だ。 その後のPK戦で何とか勝ったが、ちっともすっきりしない。 どうして、ここまで、韓国に弱いのか。 香川は何にも出来なかった。こんな時に何もできないなんて、カタールとの試合の時はまぐれだったのね。 本田もパスをしようと思った時に、でかい体の韓国人に囲まれてパスも出せない。 全くHopelessだ。 本田は、PKすら失敗した。 細貝がいなかったら、それまでと言う大失敗だった。 勝てばいいと言う物ではない。 こんなのは拾った勝ちだ。(川島の頑張りは認めるが) 欲求不満は甚だしく私を苦しめる。 それでも、負けるよりは良かったと言えるだろう。 明日は、久しぶりに酒でも飲んで厄落としをするかな。 本当に韓国は強い。 その韓国相手によく頑張ったと讃めてやりたいところだが、世界には韓国より強いチームが山のようにいるので、韓国くらいは、軽く始末するくらいでないと、困るのだ。 そして、決勝は、ああ、オーストラリアとだ。 日本はオーストラリアには劣等感を持っている。 ワールド・カップ・ドイツ大会以来のトラウマだ。 オーストラリアを相手にすると、縮み上がって、ひどく動きが悪くなる。 今日の韓国戦もひどかったのに、あれより動きがひどかったら、それこそ、海水浴場の射的屋で遊んでいるみたいに、相手にドンドン点を取られてしまう。 日本がオーストラリアに負けた翌日は、町に出るのが嫌なんだ。 顔見知りのオーストラリア人はにやにやしながら、「昨日のサッカー見たかい」と来る。 長男は、はらわたが煮えくりかえるような思いで「ええ?サッカー?そんな物があったの。見てないよ」と言うそうだ。 今度は、日本がオーストラリアに勝って、私はドイツ大会に着ていった、中澤のユニフォームを着てシドニーの町中を歩き回りたい物だ。 でもなあ、今日の韓国戦を見ていると、悲観的になってくる。 ああ、苦しいなあ。
- 2011/01/22 - これで良し! カタール戦、苦しかったなあ。 あの苦しい状況で良く勝った。 一番の収穫は香川が復調したこと。 特に2点目のシュートは、見事のひと言。胸のすくようなシュート。 ああいうのを待っていたんだよ。 それにしても、GKの川島はちょっと不調だね。 奪われた2点とも、ちゃんとキャッチしていれば、押さえられないシュートではなかったんじゃないか。特に2点目は。 最後、香川が完全にシュート出来た場面で、カタールが完全にファウルで倒したところに、伊野波が上手い具合について来ていた。 しかし、はらはらさせるね。 あのレフエリーは見覚えがある。 いやな予感がしたが、やはり、吉田が退場になるとは、納得出来ない審判だ。 10人でも、逆転に成功したところが、見事だ。 いやあ、良かった良かった。 それにしても、前の試合は岡崎、カタール戦は香川、となると、本田がうずうずしているだろうね。 シリア戦のPKだけじゃ、物足りないだろう。 今度は、本田の活躍があるぞ、と予言しておこう。 ああ、一安心した。 (しかし、後で、ビデオで見れば見るほど、川島の守備は頂けない。 最初の1点でも、ちゃんと受けとめられる体制ではないか。 しっかりキャッチしていれば、入るはずはない。 2点目もそうだ。あれも、キッカーはあそこしか狙えないのは分かっているはずだし、実際に川島の体はボールの正面に入っていた。あれをキャッチ出来なければ、国際試合に出るGKとしておかしいだろう。 川口、楢崎なら、あんなボールは絶対に押さえていた。 次の試合も、川島が心配だ)
- 2011/01/18 - 勝つには勝ったけれど 17日の日本対サウジアラビアの試合。 近頃これだけ、空気の抜けた国際試合という物は見たことがない。 サウジアラビアが国を挙げて戦意を喪失してしまったんだな。 スタジアムにサウジアラビアのサポーターの姿は殆どなく、客席は閑散としている。 すぐ隣の国なんだから、サウジアラビアから、カタールまで来るのは訳がないはずなのに、全然いない。 前回の、対シリア戦の際のシリアの応援団のような騒ぎも何も無い。 気合いが入らないこと甚だしい。 サウジアラビアでは、最初の敗戦で監督は辞めさせるし、今度はサッカー協会の会長まで、首にして、何人もいる王子の一人が後釜に座った。 そう言う国内での、諦めが、選手にも伝わっているのだろう。 前半8分過ぎに岡崎に最初の点を取られると、20分までに三点も取られてしまう有様。 後半に入ると、開始6分ほどで前田が得点をする。 後半35分には、岡崎がハットトリックを達成。 これで、5-0だ。 あまりに一方的な試合に、オーストラリアのアナウンサーは「練習試合みたいですね」という。 とにかく、こんな気の抜けた試合は初めて見た。 余り一方的に日本が攻めるので、とうとうオーストラリアのアナウンサーは「これじゃ、海水浴場の射的ゲーム屋だ」とまで言った。 5-0で勝ったのは嬉しいが、この5点の内、2点でも3点でも、次の試合に持ち越せないだろうか。 川島、松井、それに本田まで欠いて、ゲームが始まるまでは一体どうなることかと大いに不安だったが、試合が始まってみると、「あれれ、何だこれ?」とあきれるばかり。 対シリア戦の様な、神経をすり減らすような思いもいやだが、こんなお葬式みたいなゲームもいやだな。 適当にはらはらさせて、最後はきっちりと勝つ。 それでこそ、満足出来るという物で、昨日の試合は、なんというか、前の日にコップについで飲み残して日向に置いておいたビールのように、何の刺激もなかった。 でも考えてみれば贅沢だな。 勝ったんだから、素直に喜ぼう。 良かった、良かった。 それにしても、香川はおかしいね。 運動神経が狂っているんじゃないのか。 下らないミスを繰返す。俊敏さがない。 普通じゃない。 岡崎は、いつも、スーパー・サブだなんて言って、先発出場をさせて貰えなかったが、今日の働きで、監督の評価が変わるんじゃないか。 本田より、遙かに鋭かった。(まあ、昨日のサウジアラビア相手では、はっきりとした判断は下せないけれどね) 非常に良かった。 前田も、今までに何度もシュートを惜しいところで外していたのが今日は2本決まって溜飲を下げただろう。 良かったね。 こうなりゃ、優勝しかないね。 次の試合は、きっと、はらはらするだろうな。 そこで、しっかり勝つ。 うう、次の試合が楽しみだ。(しかし、これでは、仕事が進まない。助けてくれ)
- 2011/01/15 - 今日は困った 今日は困りましたねえ 何がって、アジアカップで、オーストラリアと韓国が対戦したでしょう。 私は22年オーストラリアに住んでいて、オーストラリアに世話になっていると言う親しみがあるし、オーストラリア人の友人たちもいる。 一方、私の隣の韓国人のご一家とは親しくつきあっているし、他にも、私の事をお兄さんと呼んでくれる義理堅い韓国人の友人もいる。 日本にも韓国人の友人がいる。 実に困った。 どっちを応援すればいいんだ。 どっちらにも勝たせたい。 どちらを応援するか、などと、中々決められない。 その内に、はっと気がついた、引き分け、と言う手があるじゃないか。 よろしい、この試合は、引き分けになって貰おう。 それなら、私は、オーストラリア人の友人たちにも、韓国人の友人たちにも、「いやあ、惜しかったねえ」と言える。 ちょっとずるいけれど。 しかし、引き分けなんてそんなに上手く行くもんだろうか。 とにかく、楽しもう。 (日本戦の時には、楽しむという、悠長な気持ちにはなりませんね、何とかして勝ってくれと、必死になる。試合の間、はらはらしっぱなしで、とても、楽しむなんて心境にはなれませんよ。勝つと心から嬉しさが湧き上がって大変な幸せ気持ちになる。この嬉しさはサッカー意外では味わえない物だ) 前半に、韓国が実に綺麗にシュートを決めた。 後半にオーストラリアが、コーナーからヘッドで上手いこと決めた。 (このヘッドを決めるのは、ある意味運でしょう。昨日のシリア戦だって、日本の前田のヘッドは決まってもおかしくないのがあった) さて、それから終了まで20数分の長いこと。 「引き分けなんだからね、これ以上どちらも点を入れちゃいけないんだからね」とテレビに向かって、両チームに言い聞かせ続けた。 私の努力の甲斐もあって、(そこまで言っていいのかな)、ついに、めでたく1-1で引き分けとなった。 オーストラリアも、韓国も、日本の強敵だ。 このどちらが、これから先日本と戦うことになるのかも知れないが、日本にとっては、韓国よりオーストラリアの方がやりにくいだろう。 韓国は上手にオーストラリアのチームの動きをコントロール出来ていたが、日本は、ドイツのワールドカップの初戦で、オーストラリアに負けて以来、対オーストラリア戦となると、萎縮してしまって力が出ない。 よほど、オーストラリアにたいする苦手意識ができてしまったのだろう。 韓国のように、のんびり、しかし、きっちり、そして素早く、立ち向かえばいいんだよ。 しかし、まず、韓国の選手の方が日本の選手より大きいし、走るのも速い。 その韓国の選手だから、オーストラリアを押さえることができるのかも知れない。 今回、オーストラリアと韓国が引き分けたことで、これから先の読みが難しくなった。 しかしねえ、昨日は朝五時まで、今日は朝二時半までテレビの前に座りっぱなし。 こいつは本当に困った。 しなければならない仕事ができない。 ああ、早く、アジアカップは終わってくれ。それも必ず日本の優勝で。 さもないと、私の仕事に大きな破綻を来す。 本当に困ったなあ。
- 2011/01/14 - とにかく、良かった ただ今、シドニー時間、14日朝5時20分。 試合が終わりました。 日本対シリア戦。(日本とシドニーは今2時間の時差があるんですよ) とにかくひどい試合だった。 前半は日本選手はよく走った。 ところが後半になって、がくんと、走りが悪くなった。 シリアに押される。 やばいなあ、といやな予感がした。 そこに、シリアが飛び込む、日本のゴールキーパー川島が押さえに走るが球を逃がし、ゴールががら空きになる。そこにシリアがシュートしようとする。 そのシュート防ごうと川島はボールに向かってダイビングする、その上にシリアの選手が倒れ込む。 すると、驚くべき事に、レフェリーは川島にレッドカード出した。 場内騒然となる。 中継放送していたオーストラリアのアナウンサーも、信じられない、と連発する。 スローモーションでみれば、それがはっきり分かる。 どうしてあれがレッドカードなのだ。 あれがファウルと言うなら、ゴールキーパーの仕事はなくなる。 レフェリーの完全なる誤審か、意図的な判断だ。 とにかくシリアは荒っぽい。 あれでは前半だけでかなり日本選手は痛めつけられたのではないか。 前半終了時点で、シリアのファウルは20、日本は8。 しかも、レフェリーがファウルに取らないシリア側のラフプレーは数知れず。 それで後半動きが悪かったのかも知れない。 PKを入れられて、しかも、キーパーは体の小さい西川に代わり、日本は10人。 ひどく絶望的になった。 ところが、またまたおかしな事が起きた。 今度は、シリアがペナルティエリアで反則。 あそこで、シリアが反則をしなければ、日本は自力得点出来ていた。 シリアは、シュートを決められるより、反則でPKを貰った方が有利だと思ったのだろう。 シュートは入れられてしまえばお終いだが、PKなら外す可能性があるからね。 しかし、本田のPKが成功して、やっと2対1に盛返して終了。 こんなむちゃくちゃなチームは見たことがない。 中国でアジアカップをした時に、中国の選手が跳び蹴りをしたのは凄かったが、シリアは、そんな大技は使わないが、確実に日本の選手の体を痛める反則を仕掛けてくる。 その反則をレフェリーは取らない。 オーストラリアのアナウンサーも、こう言うチームは見たことがないと言っていた。 まあ、とにかく苦戦だったが、勝ててともかく良かった。 これで負けたら、朝の5時半まで起きていた甲斐がなかったところだ。 しかし、すっきりした勝ち方とは言えない。 絶対にレフェリーが悪い。 レフェリーが悪いと試合が台無しになる。 また線審もおかしい。シリアのフリーキックを待っている間に、シリアの選手を肘で突いたとかなんとか、主審に言いつけ口をして、それをレフェリーが聞き入れて、日本の選手にイエローを出す。 訳が分からないよ。 勝ち点は、勝ち点だが、これから先、日本は厳しいな。 中東は、サッカーを格闘技と考えていて、反則をしてもイエローを貰わなければ構わない、と言う考えのようだ。 川島のレッドカードについて、オーストラリアのアナウンサーも解説者も、論争を招く決定だ、信じられない、と言い続けていた。 この試合の、レフェリーたちに対して、協会は審査するべきだ。 何とか勝ったので、これで寝られる。 明日の午前中は使い物にならないな。昼まで寝ていよう。 日本の応援団の中に面白い札を掲げている人がいた、 「シリア狩り 日本尻上がり」 と書かれていた。 だじゃれで応援とは、面白いじゃないか。昨日寝ないで考えたな。 ああ、あ、疲れた。 優勝して貰いたいが、こんな試合が続くと、仕事にならないよ。 助けてくれ。 何でもいいから、日本はすいすいと勝ってくれ。 今日の前半戦のあの勢いで。 頼むよ、本当に。
- 2011/01/12 - 新年のご挨拶 大分遅れましたが、新年のお祝いを申し上げます。 それにしても、9日の夜は死ぬほど苛々した人が多かったんじゃないでしょうか。 何がって、日本対ヨルダンのアジアカップの試合ですよ。 ひどかったなあ。 選手一人一人の動きが悪く、バス回しなんて最低。簡単に、ヨルダンに球を取られる。 本田も香川も何をしているのかも分からない。 こんなチームで、これから何とかなるのだろうか。 13日の対シリア戦でいい戦いを見せて欲しい。 新年早々愚痴はみっともないな。 去年は、年の暮れから、日本からお客様が来て一緒に正月を過ごしてくれた。 大晦日は、恒例のシドニー湾の花火を賑やかに楽しんだ。 一体何人のお客様がいらっしゃったのか。 シャンパンだけで12本以上開けた。しかもその中の一本は、特大のマグナム。 さらに、ワイン、日本酒と皆さん良くお飲みになった。 元旦は、日本からのお客様ご家族、次女の友人母娘、私の親友「あ」の娘さん、それに、東京で働いていて正月に帰って来られなかった次男の代わりに次男のガールフレンド、を交えて、おせち料理を楽しんだ。 おっと、おせちとなると、忘れちゃいけない。 秋谷の、関沢和彦さんが釣ってくれた赤ムツの塩焼きだ。 毎年、お正月だけに姿を現す魯山人の緑釉長鉢に載ると、赤ムツも一際映える。 とは言え、魯山人だったら、器に比較して魚が大きすぎる。 間と言う物が分からんのか、と怒るだろうな。 でも、食べて行く内に魚は小さくなって、器と釣り合うようになる。 いや、こうなっちゃ、みっともないんだけれど。 それにしても、この赤ムツ、これほど美味しい魚は他に滅多にない。 日本海側に行くと、同じ魚を「ノドグロ」という。確かに、口の中、のどの辺りが黒い。呼び方が悪いよな。その名前じゃ、幻滅だ。 いつも和彦さんに頂く赤ムツはご覧の通りに大きく、脂も乗っていて、味わいが上品で、しかも濃く、肉質はしっとりとしてきめ細やか。これを食べたら、鯛の塩焼きなんか馬鹿馬鹿しくて食べられない。 11日のアジアカップ、対インド戦で、オーストラリアは4-0で勝ったが、今、オーストラリアは洪水に見舞われて、大変で、サッカーの勝利を祝う雰囲気ではない。 年末からずっと大雨が続いている。 過去10年間、干ばつ続きで困っていたところ、去年の11くらいまでいい具合に雨が降って、久しぶりの豊作かと喜んでいたら、突然の大雨で大洪水に襲われて、収穫寸前の農作物が全滅した地域も多い。 洪水で水に覆われた面積が、オーストラリア全土でドイツとフランス両国を合わせた面積より大きいと言うのだから、その規模を察して下さい。 クリスマスに洪水に襲われて大被害を受けたクィーンズランド州が、またこの数日、大雨が続いて、トゥウーンバという町は、「陸地で起きた津波」と表現されるようなすさまじい洪水に襲われて、今まで判明しているだけで十人の死者が出ており、行方不明の人は90人に達する。 30分間に100ミリの雨が降ったと言うから、恐ろしい。 クィーンズランド州の州都ブリスベーンも川の水位が上がって洪水の危機に瀕している。 12日の朝になっても、ブリスベーン付近の状況は悪化している。 道はずたずた、4000以上の店舗工場が水に浸かり、20万戸以上で停電している。 テレビで見る画像がすさまじい。 自動車が数台、水に流されて行く。 電信柱に引っかかって止まった車の中から人を助け出すのに救助隊が必死の活動をする。 水が引いた後は、車が裏返っていたり、七台も八台も折り重なっていたり、地下の駐車場にまだ水がたまっていて、駐車していた車が水に押し出されてきて入り口で突っかかっていたり、家が破壊されていたり、何ともはや言いようのない惨状だ。 家の破壊はまるで、爆撃にでも遭ったかのようで、見なければ信じることができない光景だ。 水が引いたと言っても、川の水位はいまだに洪水寸前であり、一雨来ればどうなるか分からない。 50過ぎで、知的でしっかりした感じの男が、テレビのリポーターに「昨日のようすはどうでしたか」と尋ねられて、「いや、」とか何とか口篭もっていて、その内に、目から涙があふれ出した。 大の男が、涙を流すほどの無残な状況なのだ。 水の力という物は恐ろしい物だ。 どうも、今年も、大変な年になりそうだ。 なんて、余りおめでたくない新年のご挨拶になってしまった。 あ、大事な事を言い忘れていた。 懸案の「福沢諭吉」の本の執筆に取りかかりました。 3月か4月出版を目ざします。 福沢諭吉については、日本人はみんな名前と顔は良く知っている(当たり前だな。一万円札の顔だもの)。 「天は人の上に人をつくらず」と言う言葉も良く知っている。 (本当は「天は人の上に人をつくらず、といえり」と、本人は書いているのに、世間の人は、最後の「いえり」を無視して、その前の文章だけを憶えている。「いえり」がつかなければ、「天は人の上に人をつくらず」という言葉は、福沢諭吉の言葉として認められるが、「と言われている、と誰かが言った」というような意味の、「いえり」がつくと、それは、福沢諭吉の考えではなく、「誰かさんがこんなことを言っていた」と言う、ただの伝聞を書いただけの話になってきて、「天は人の上に人をつくらず」は福沢諭吉の言葉でもなく、福沢諭吉の思想にも関係がないことになる。 これは、実に大きな意味を持つことであって、みんなが、福沢諭吉を尊敬するのは、この言葉が福沢諭吉の言葉で、福沢諭吉の思想を表していると、誤解しているからだ。) ところが、実際に、福沢諭吉の本を読んだことのある人は、極めて少ない。 慶應義塾出身者に聞いても、90パーセント以上は、何も読んでいない。 その実像を知らずに、虚像だけで、日本人は、福沢諭吉を偉人扱いにしている。 福沢諭吉の書いた物を読むと、虚像だけしか知らなかった人達は、みんな仰天するだろう。 有名な「学問のすすめ」で、「学問をすれば、貧乏人でも豊かになれる」というようなことを書いておきながら、後になると「一番怖いのは貧しいのに学問のある人間だ(色々学んで真実を知ると政府に反抗するから)。 貧乏人には学問をさせるな」といっているのだ。 福沢諭吉は自分の発行している新聞「時事新報」などで、当時の、朝鮮、清(今の中国)の侵略を徹底的に煽り立て、日清戦争の結果、台湾を獲得すると、今度は「台湾が欲しいのは、その豊かな土地だけ。その上の人間はいらない。日本の支配に抵抗する者は皆殺しにしろ」とまで、主張する有様。 福沢諭吉は、日本が西洋文化を輸入したことで、文明国として日本の方が朝鮮、清より進んでいるとして、途方もなく滑稽な優越感を抱き(従って、同時に西洋には劣等感を抱く)、浅ましいまでに下品な言葉を使って、朝鮮、清、の人間を非文明人、と嘲罵する。 朝鮮、清、台湾の人々に対して福沢諭吉の投げつけた侮蔑の言葉は、読むだけで恥ずかしく悲しく、胸が苦しくなる。 日本がアジア各国を侵略できたのは、その根本に、アジアに対する蔑視観があったからだ。 そのアジアに対する蔑視観を日本人に植え付け、アジア侵略を説いたのは福沢諭吉なのだ。 日清戦争に日本が勝利した後、福沢諭吉は大満足して死ぬが、その後の日本は、福沢諭吉が主張していた通りに対アジア侵略を推し進めて行った。 1945年の日本の敗戦による壊滅は、福沢諭吉が叩き込んだアジア蔑視感を土台にして、福沢諭吉があらかじめ引いたアジア侵略路線を日本が突っ走ったからだ。 と言うような、非常に、不愉快で、日本人の感情を逆撫でにする内容になってしまうが、真実は真実なのだから、仕方がない。 ご期待下さい。 読者諸姉諸兄にとっても、私にとっても、今年は良い年にしましょうね。
- 2010/12/31 - 来年こそ良い年でありますように 2010年も、終わろうとしている。 読者諸姉諸兄におかれましては、どんな年でしたか。 私にとっては、厳しい一年でした。 企んだことが、何もかも上手く行かず、気の滅入ることばかり、気がついたら今年も終わっていた。 しかし、私は、負けるのが大嫌いな人間なので、今年は、沈潜と勉強の年であったと総括することにします。 これだけは、まっすぐに顔を上げて言えるが、沢山勉強しました。沢山、新しい活動のための仕込みをした。勿論、本も沢山読んだ。 その勉強と、仕込みが、来年上手く爆発出来ることを願うのみだ。 最近、このブログの更新が頻繁ではないのは怠けているからではない。 勉強と、仕込みのために、一日中自分を追い込んでいるので、仲々このページにたどり着けないのが実状なのだ。 世の中のことは、考えれば考えるほど気が滅入るので、なるべく考えないようにしているが、結局色々な世の動きが、私自身に直接影響を与えることになるので、黙ってはいられない、と言うところがある。 これからも、四辺に目配りを絶やさず、気がついたことはここで発言して行きたいと思っている。 漫画家はマンガだけ書いていろ、余計なことを言うな、と言うご意見もあろうが、漫画家というのは、私の人格の一部でしかない。 本当なら、漫画だけに没頭していたいのだが、漫画を書くのとは別の自分の内部の人格が、漫画を書くだけでは満足出来ず、いろいろと言いたくなるのである。 このブログを読むと、その内容が不愉快なので、折角の漫画の読者が雁屋哲をいやになって離れてしまう、と言う意見も聞く。 そう言う意見の人が出て、そう言う雁屋哲嫌いの傾向が強まるのも、仕方がないことだ。 私は自分自身を偽れないし、「美味しんぼ」のなかでも、かなり物議を醸した内容の物がある。 しかし、漫画が売れなくなったら、大変に困る。 それは、経済的な面だけでなく、読者の支持を失なう、という本質的な点で本当に困るのだ。 私は純文学者ではない。売れなくても構わない、という純粋な立場を取らない。 できるだけ多くの読者に読んで頂いて、私の意見に巻込みたい。 そう、思っている。 それなら、読者に対してもっと耳触りの良い話しをしたらどうなんだと言う意見にも従いがたい。 私は、私という、これだけの人間であって、それ以上の人間にはなれない。 だから、「美味しんぼ」でも、このブログでも、自分の思ったとおりのことを、様々な摩擦を受けながら書いてきた。 それが、2011年になったら、突然大人しくなった、と言う訳には行かない。 2011年は、これまで押さえていた事もまで全て爆発させるような内容の日記にしたいと思う。 ああ、これで私の書く漫画は売れなくなるだろうな。 でも、仕方がないんだ。 人間なんて、20歳で決まりますね。 それ以降は、どんなに頑張ったって、自身の変更は不可能です。 どんどん、カメレオンみたいに変わる人間はいますが、それは、元々自分自身という物を持っていなかった人なので、議論の対象になりません。 そして恐ろしいことに、議論の対象にならない人間が、今の世界、大手を振って生きているのですよ。 ああつまらん。 年の終わりに、下らないことを書いてしまった。 その、お詫びとして、読者諸姉諸兄の全てを祝福し、読者諸姉諸兄全てに幸運もたらす健康上の秘技をお教えします。 ベッド、あるいは布団の上に平らに寝る。 両手両脚を大の字に開く。 精神を、落ち着けるために、二三度深呼吸をする。 それから、本当の呼吸に入る。 まず、腹を思い切りふくらませて、鼻から空気を吸い込む。口は閉じていなければならない。(いわゆる腹式呼吸です) 腹がふくらみ切れないまでになったら、胸に空気の吸い込みを移す。 胸の両方の上端の、いわゆる肺尖と言う、肺の一番の突端まで空気を吸い込む。 次に、吸い込んだ空気ははき出さなければならない。その時には、唇を細くすぼめ、口笛を吹くような感じでじょじょに吐きだしていく。 決して急いではならない。ゆっくり、体の許す範囲でゆっくり吐き出す。 ここで重要なのは、体中の空気を全て吐き出すと言うことである。 肺を絞り、体中を丸め、本当に苦しいまでにして、体内の空気を全てはき出す。 身をよじって、最後の最後まで自分の体に残っている空気をはき出す。 これは、苦しい作業である。でも、これが重要なのだ。 そして、2)に戻る。 2)から4)までを,朝起きたら、寝床の上ですぐに行う。 できたら20回繰返す。 その際に大事なのは、両手両脚の力を完全に抜いて、大の字に広げることである。 同時に、上の運動をしている時に、「ああ、気が入って行く、自分の体に気が入って行く」と念じるのも効果的である。 感の強い人には、両手両脚の指先に、不思議な、ぴりぴりした感じが走ることもある。 私の場合は、常に感じる。指先まで、何かしびれるような、すっきりしたような気合いが通るのだ。大変に気持ちがよい。 その呼吸法を行うと、実に体調がよい。精神にも良い。 これは、親愛なる読者諸姉諸兄にしかお教えしない秘技である。 読者諸姉諸兄におかれては必ず実行して下さい。 「気」とはなにか、このことについてはまた別の機会に話そう。 人は「気」よって生きる。 これはまだ、科学的に解明出来ていないが事実として実証的には認められている。 私は以上の呼吸法勧めることで、これを、読者諸姉諸兄にたいする今年のお礼の代わりとしたい。 2011年が、読者諸姉諸兄にとって素晴らしい年であることをお祈りします。
- 2010/12/15 - シドニーは初夏です 三ヶ月ぶりにシドニーに戻ってきた。 (どうも、この「戻って来た」と言う、言い方が気になる。秋谷に帰る時にも「戻る」と言う。おかしな二重生活はそろそろやめにするべき時に来たようだ) シドニーは本当に美しい町だ。 シドニーに戻る度に、どうして、日本は、特に東京は、その町並みを美しく作れなかったのか、それを、本当に残念に思う。 例えばドイツやボーランドだ。日本と同じ戦災で町を破壊されながら、昔どおりの町並みを復元した。 おかげで、日本人の間にドイツを巡る「メルヘン街道」などのツアーが盛んである。ポーランドのワルシャワでは空襲の後再現された昔の町の美しさに酔う事も出来る。 昔の自分たち祖先の生きていたまんまの姿を見せてそれで観光客を呼び寄せる。 日本では、それは無理だ。 京都だって、美しいところがあるのは、地図で見ると、点でしかない。 一つの点、例えば銀閣寺は美しい。しかし、その周りの市街はどうだ。 とても、目の肥えた外国の観光客が満足出来る物ではない。 京都は実に汚らしい町である。その中に、点、点と、美しいところがある。 点と点とを結んで歩く間に、周りを見ないですめばよい。 しかし、そうは行かない。観光名所の間に存在する京都の町並みの醜さと来たら、これは世界中に特筆すべき物である。 銀閣寺から、苔寺に至るまでの道筋の町並みの無残なこと。 とても、外国の観光客に見て貰いたくない。 ところが、驚いたことに、江戸時代の版画を見ると、江戸でも、京都でも、その町並みが非常に美しい。 それは、考えてみれば、昔の建物は全て木造だったからだ。 東京は、関東大震災と第二次大戦のアメリカによる無差別残酷空襲によって町並みを破壊され、その日その日の生活に追われる人々の要求によって、今すぐ住める家を建てなければならず、美しい町並みを再び作り直すことは出来なかった。 四十年近く前、私が、劇画の原作を始めて、ある程度の収入が入るようになってから、日本の文化の原点である京都を知らなければならないと思って、レンタカーを借りて、当時運転免許証を持っていなかった私の代わりに、連れ合いに運転して貰って、京都の地図が全て頭に入るくらいに回った。 その時期には、京都の町並みも美しさを保っていたところが多かった。 それから、十数年経つうちに、京都の姿がひどい物に変わってしまった。 1957年に亡くなってしまったが 小林古径という日本画家がいた。 彼の描いた、京都の、「御池通り」の絵は、御池通りの町並みの屋根だけを連ねて描いた物だが、日本建築の美が作り出す美しい光景を描いた類のない素晴らしい絵だった。その本当に日本的な美しさは、「御池通り」から完全に失われてしまった。 今の「御池通り」は小林古径には見せたくない醜い物である。 (ああ、人は早く死ぬべきである。あるいは、早く死んだ人は幸せである) こんな個人的な感慨を文章にしている時に、日本滞在中にシドニーに届けられてたまっていた雑誌の中から、12月6日付けのTIME誌を発見した。 その最後のページの、Joel Steinのコラムが興味深かった。 日本で、コラムというと、1ページの中の、数行だが、TIME誌でコラムというと1ページ丸ごとである。 この、コラムの中で、Steinが言っていることで興味深かったのは、「今や、ジャーナリズムは、個人に乗っ取られた」と言うことだ。 Steinは色々な人の発言を引用している。 Steinの言うところでは、1997年に、TIME誌にコラムを書くようになってから、この業界から手ひどく非難された。 その理由は、Steinに言わせれば、彼があまりに自分自身のことをコラムの中に書いたからだそうだ。 2000年のニューヨーク・タイムズではSteinのコラムについて、 「彼は、三つの話題だけに焦点を絞っている。それは、彼自身、彼の生活、そして、彼自身の私的な問題に関わる深い考察である」 と書かれていたそうだ。 要するに、Steinは自分自身にしか興味のない人間とされたのである。 Steinはそれから13年経って、今になって、自分は勝ったと思うという。 それは、現在の、インターネットのブログやFacebookやツィートなどを見てみろ。みんな、自分の個人的な話ばかりしているではないか、と言うのが理由である。 同時に、Steinは注意深く、心理学者ジーン・トゥインジ(Jean Twenge)の「Narcissism Epidemic(ナルシシズムという流行病)」と言う本の中のトゥインジの言葉を引いている。(Steinがトゥインジを好きなのは、彼女がSteinを例に取り上げいるからだという) トゥインジは言う、 「我々は個人主義の時代を生きている」 「人々は、自分自身のイメージとブランドを作らなければならないと思われている。そんなことは10年前まで聞いたこともない事だった」 「人々が自分に期待するように振る舞うのか、それとも、『自分自身そのままである』のか、という葛藤があったが、結局『自分自身そのままであればいい』という考え方が勝ちを収めた」 「一般的に、『他の人が貴方のことをどう思うおうと気にすることはない』と十代の人々に、説かれている」 「しかし、他の人が自分のことを気にかけない世界とは、それはどんな世界なんだろう」 さらに、Steinはかつて自分のことを非常に嫌ったコラムニストについて書いているが、彼の言葉も引用している。 「物書きたちは、自分の内部のことばかり書いて、外の世界のことを書くことを永久に抛棄してしまっている」 たしかに、Steinの書くコラムの内容は、自分自身の目から見た世界、世界に対する自分自身の個人的反応、そういう物である。 Steinは自分自身のことをコラムで書く。 従って、読者は、Steinの家族のことも、彼の私的なことまでも知ることになる。それはうんざりだという読者もいる。(私の読者みたいだ) Steinは最初にTIMEという雑誌の題名を考えろ、という。 その中に、「I 」と「ME」があるではないか。 「I=私」、「ME=me=ミー」、だから、Steinが自分自身の立場から書くのは当然だという訳だ。 Steinは鋭敏な感性を持ったコラムニストである。 彼の書くコラムは、常に時代に対する批判がこめられている。 それも、政治評論家のように、第三者的に,大所高所の見地から言うのではなく、個人的にそのような政治的局面に対してどう反応するか、を書いている。 私はSteinの熱心な読者ではないが、TIMEを読んでいて、時々、彼のたっぷりの毒とユーモアを含んだコラムを面白いと思っている。 ここでも、彼は、非常に刺激的なことを書いている。 他人の言葉を引用してのことであるが、 「他の人が自分のことを気にかけない世界とは、それはどんな世界なんだろう」 「物書きたちは、自分の内面のことばかり書いて、外の世界のことを書くことを永久に抛棄してしまっている」 という、二つの言葉は、非常に重い。 特に、彼が挙げているように、インターネットの世界での文章は「おれが、おれが」という自己主張中心主義に完全に偏っている。 ただ、私は、この二つの弊害は、インターネットの匿名性による物だと思う。 インターネットでの発言は、極めて限られた人々以外、匿名で行われている。 匿名での発言については、 政治的に言論の自由が認められていない場合、自分の意見を言う。 政府や大企業などの組織に属した人間が内部告発を行う。 そう言う場合に、発言者の身の安全を守る、と言う点では評価出来る。 しかし、最近のインターネットでの発言を見ると、そのような身を守るという正当防衛的な物は少なく、自分の身を隠して、自分自身は全く安全な立場に身を置いてそこから他人を攻撃・揶揄するという、悪質な物が少なくないように私には思われる。 そのような浅ましい行為をジャーナリズムとはとても呼べないが、しかし、一定程度以上、世論の形成に力があるのは事実である。 日本以上にインターネットが生活に深く食込んでいる韓国では、インターネット上の誹謗を苦に病んで自殺した芸能人の例が最近数件報告されている。 Steinはこのような弊害をきちんと見た上で、「自分を中心にして語る言論」を続けている自分たち一派が勝ったと言っているのかどうかは分からない。 (Steinはgloatと言う言葉を使っている。gloatとは「満足して、いい気味だと、ほくほくしている」と言う意味である。単に、「勝った」と言うだけではない) しかし、Steinは「何か物事を語る時に、その中に必ず自分についてのことを語る」という行き方を正しいと思っているようである。 Steinの提議した問題は、わずか1ページの彼のコラムではとても論じ尽くせない、深くて、深刻な問題だと思う。 こうして、自分自身、ブログを公表している者にとっては、非常に深刻な問題である。 だが、私自身、自分の身元をはっきりさせて発言しているのだし、この世界で起きたことを論じる場合に、それが自分にとってどんな影響を与えるか、それを考えての上での発言だし、また、私の言うことが他の人にはどう捉えられるか、腹をくくっているので、「自分の内部のことばかり語っている、ナルシシズムという流行病に捉えられている」とは思わない。 私は、これまでのSteinの行き方は正しいと思う。 どんなことであれ、第三者的に遠くから無関係な者の視線で見るのではなく、自分の問題として引きつけてみることが大事だが、そうすると必然的に自分を語ることになる。 自分を語らずして、事象だけを語ることは、過去の歴史を語るについても許されることではない。 自分自身、旗幟鮮明にしなければ、過去も語れない。 過去は現在に繋がるし、で有れば、未来を見渡す自分の現在の立場につながる。自分自身を語らないと未来も語れないのである。 Steinの今度のコラムの記事は、何か発言しようとする人間にとって非常に意味の深い物だと思う。 私は、Steinの今度のコラムを、読んで、以下のような教訓を得たと思う。 安易に、自己愛に満ちた言論を吐くな。 自分自身のことばかり言うな。自分は外部と密接な繋がりがあることを忘れるな。 全てのことを、自分自身の身に引きつけて考えて、自分自身を巻込んで、言論にせよ。(純粋な第三者的な立場という物はない。) そんなわけで、これからも、このページでは、私の感性にまかせて勝手なことを書きますのでよろしくお願いします。 (Steinさん、だしにしてご免よ)
- 2010/12/04 - 桂歌丸独演会 12月3日、横浜関内ホールで開かれた、桂歌丸独演会に、連れ合い、友人たちと聞きに行った。 「美味しんぼ」の取材でいつも協力してくれている安井敏雄カメラマンが席を取ってくれたのだ。取材の記録係を務めてくれている安井洋子さんも参加した。 桂歌丸は大変な人気で、安井カメラマンが全部で七枚のチケットをとるのに非常に苦労させてしまった。 しかし、以前にも書いたが、桂歌丸は本当に良い落語家になった。 芸の奥行きが深くなり、落語本来の味わいをたっぷり味わわせてくれた。 桂歌丸の落語も見事で楽しかったが、桂歌丸が横浜生まれで、生まれてから横浜から動いたことがないという純粋の浜っこなので、横浜の観客も、桂歌丸に特別の愛情を懐いているようで、千人以上の観客が全員桂歌丸後援会の会員ではないかと思うほど、桂歌丸にたいする暖かい気持ちが場内を満たしていて、それがとても気持ちが良かった。 それにしても、落語というのはすごい芸だ。 たった一人で、道具も、音楽も使わず、舌先三寸で千人以上の人々の心をつかみ、自由に操るのだ。 世界中にこれほどの芸があるだろうか。 桂歌丸は今日は気合いが入っていて、落語の中でもよほどの腕っこきでなければ演じない「鰍沢」を最後にたっぷりと熱演した。 落語とはいえない、陰惨な話なのだが、全然嫌みを感じさせずに話しきったのが桂歌丸の手柄だと思う。 鰍沢の前に、三遊亭遊雀が場内を笑いに包んだ。 私は、三遊亭遊雀は今日初めて聞いた落語家だが、中々腕のある将来が楽しみな落語家だと思った。 今日の演目は、話の筋は何も無い、ただの夫婦げんかを大家が仲裁に入る。その際の夫婦の言い分を、夫婦がそれぞれの立場から言う、ただそれだけのものなのだが、夫婦の言い分のおもしろさを、まるで隙もたるみもなく、勢い良くたたみかけて、場内に笑いを爆発させる話術は大したものだ。 これから、追いかけてみたい落語家だ。 落語を聞く前に腹ごしらえをするために、伊勢佐木町の入り口で入った天ぷら屋「とらや(登良屋)」が当たった。 古い建物で、天婦羅のあぶらの匂いが外にまでするので心配したし、中に入ったら、天婦羅だけでなく魚も食べさせるという。 ふつう、天婦羅だけでなく他の料理も食べさせる店と言うのは、どっちつかずで外れることが多いのだが、ここは違った。 刺身が何種類か有るが、シマアジとかぶりなんか、養殖物だろう、などと言ったら、女店員が、「とんでもない、家は天然物しかあつかわない」というので、それを信じて、メジマグロ、シマアジ、イカの刺身を注文したが、実にびっくり仰天。 秋谷に住んでいる私が、これはすごいと感心するメジマグロ、養殖物では味わえない良い香りのするシマアジ、それも分厚く大振りにたっぷりと切ってあって、本わさびがどっさりついてくる。 しかも、ツマの大根の千切りも、この店でかつらむきから作るので美味しい。のりで巻いて食べてくれと言う。 いや、刺身のツマの大根をのりで巻いて食べることの出来る店なんてそんなにないぞ。 じつに、この刺身に感心した。 天ぷらは、お徳用のコース一人前ずつに、それぞれ巻エビを追加した。 こくのある揚げ方だが、標準を超えている。 酒は駄目だ。何の酒だか分からない、燗酒しかない。 それなら焼酎か何かにした方が良かったのかもしれない。 しかし、驚いたのは、その料金だ。天ぷらを五人前、刺身を三種類、ビール中瓶二本、お酒三本、焼き海苔人数分、ご飯、味噌汁(うれしいことに、煮干しのだしだった)、香の物。 これで、なんと二万円でお釣りが来た。 落語を聞く前にちょっと小腹を満たして行こうなんて時には最高だ。 実にうれしい店だった。 今日は、食べ物も楽しかったし、仲の良い友人たちと楽しい落語をたっぷり味わって最高の夜だった。 毎日こうありたいものだなあ。
- 2010/12/03 - しっこし(尻腰)のない国はごめんだ またまたご無沙汰してしまった。 心身共に、絶不調のところに、社交が重なって余計に疲れてしまった。 11月26日には、2004年に亡くなった友人の家に、仲間たちが集まった。 亡くなったその友人がかつてよく行っていたと言う焼き肉屋で、亡き友人の夫人、私達四人の仲間それに私の連れ合いで亡き友人の分まで、大いに飲み食いした。 その際に、私は嫌だ嫌だと言うのに中の一人が強引に、韓国の焼酎を注文した。韓国料理は大変美味しいのに、どうして韓国の酒は美味しい物がないのだろうか。韓国の焼酎は醸造用アルコールで造った、日本で言えば甲種の焼酎で、今日本で人気のある芋焼酎、麦焼酎など、本物の焼酎の味を知っていると飲めたものではない。 しかも、その醸造用アルコールで造った焼酎を飲むと、私の場合ひどく応える。 それなのに、飲み始めると収まりがつかなくなるのが私の悪いところで、しこたま飲んだ後で、亡くなった友人の家に戻り、彼の遺影の前で、ワイン、沖縄の島酒(これは、醸造用アルコールなど一切使っていない本物の蒸留酒)をまた飲んでしまった。 そして、それ以後の一切の記憶がない。 翌日はひどい二日酔で、午後三時過ぎまで起きられなかった。 しかも、何故か膝が痛い。 連れ合いが、私を慰めると言うより、射すくめるような目つきで私を見て「膝は大丈夫?」と尋ねる。 「どう言う訳か、左の膝が痛いんだよ」というと、連れ合いはおどろいて、「昨日の夜、転んだのを憶えていないの!」という。 全然憶えていない。 連れ合いの言うところでは、私は、お茶の入ったマグカップを持って寝室に入ってくると、そこで転んで、大変な大騒ぎになったのだという。 そんなこと全然憶えていない、と言うと、連れ合いは、次々に、前の晩のことを言う。 何一つ憶えていない。 こう言う時の連れ合いの目つきは、実に、意地が悪い。 刑事か、検事か、特高か、と言うような目つきで見て、いたぶるように次々に私の酔態を私に語って聞かせる。 二日酔で苦しんでいる私に、私の酔態愚行の数々を言い立てるのである。 何と言う血も涙もない無情な仕打ちであろうか。 しかし、私が悪いのだから反論も出来ない。第一、反論しようにも記憶がないのだから、ぐうの音も出ない。 がっかりしたのは、転んだ時に、お気に入りのマグカップにひびを入らせてしまったことだ。把っ手の上部にわずかにひびが入っただけなので使うのに問題ないのだが、そのひびを見る度に、自分の愚かな酔態を突きつけられるような気がして、泣く泣くそのマグカップは廃棄処分にした。 11月は禁酒月間のはずだったのに、社交が続いて禁を破る事が重なった。 これでは、禁酒は12月末まで延ばさなければならない。 まあ、そんなこともありまして、このページの更新が滞りました。 みっともないことでございます。 でも、仕事の方も忙しくて、来年発行予定の「福沢諭吉」についての本を書くために、東大の資料センター付属の「明治新聞雑誌文庫」まで出かけていって、福沢諭吉の発行していた新聞「時事新報」の復刻版を丁寧に読んで、コピーを取ったりもしているのだ。 東大構内は、この季節、銀杏の実が歩道に散乱していて、それを人が踏むものだからすさまじい匂いで包まれている。 私が、コピーを取って、資料センターの外に出ると、買い物ついでに、私を送り迎えしてくれた、姉と連れ合いが、銀杏を拾っている。 それはいいのだが、帰りの車の中に銀杏の匂いが充満して、秋谷に帰り着くまでその匂いに苦しめられた。 このページの更新が滞った原因の一つは、あまりに最近の世相のひどさが、余計に私の鬱を昂進させるからである。 本当に嫌なことばかり。 新聞を読んだり、テレビのニュースを見るのが本当に嫌になる。 テレビは、「釣りビジョン」というチャンネルに限りますな。 私は脚にハンディキャップがあるから、出来る釣りが限られているが、釣りが大好きなので、見ていると本当に心安らぐ。 しかし、驚くのが、釣りの用具と技術の進歩のすさまじさだ。 何がすごいって、釣り竿から、釣糸、リール、などの釣り具の恐るべき進歩。さらには見たこともない偽餌類の数の多さ。 何が何でも釣ってやると言う気合いというか、何事でも夢中になると徹底しないと気が済まない日本人の国民性がこんなところにも表れていると、感じた。 大学院大学の小松教授にお話を伺ったときに、「遊漁による、漁獲量が馬鹿にならない」と仰言っていたが、「釣りビジョン」を見ていると、「こんなに釣ることもないだろうに」と思うときがある。 本音は、「俺にも釣らせてくれーっ!」というところである。 しかし、世の中は「釣りビジョン」だけを見ているわけにも行かないところがある。 金正日氏が韓国の、延坪島(ヨンビョンド)〈日本ではヨンビョン島と言っているが、韓国・朝鮮では島は(ド)と読むようなので、現地言葉に合わせる、日本だって「富士山」のことを「ふじやま」などと言われると不愉快だものね〉を砲撃したのにも、怒りを覚えた。 金正日氏は何故、この時期に、無意味で残虐な砲撃などしたのか。 11月28日からの韓米合同演習にたいする、北朝鮮の対抗意識を表明し、金正雲氏に権威を与える為に行われたものだという説が今のところ有力だ。 北朝鮮の新聞によると、金正雲氏は砲撃の天才で、今度の延坪島(ヨンビョンド)砲撃も韓国の挑発に対抗するもので、金正雲氏は砲撃術も極めているのだそうである。 あの、ぽっちゃりとした、少年の面影を残している青年が砲撃の天才と言われても俄には信じがたいが、本人がそう言うなら、それを否定する材料はこちらにはない。 しかし、だからどうした、と言うのだ。 金正日氏はそれ以前にアメリカの学者に、ウラン濃縮の遠心分離機を多数見せて、北朝鮮が核兵器に使用可能な濃縮ウランを作っていると言った。 見せられたアメリカの学者は、アメリカに帰って、「北朝鮮は核兵器を更に増産する準備を整えている」と言って、いまにも北朝鮮が何発もの核兵器を作り出すかのように言った。 真剣におびえた表情で言ったが、あのアメリカ人の学者は本気でそんなことを言ったのかしら。 私は疑い深いから、金正日氏がその濃縮ウラン作成の工程を見せたことでかえって怪しいと思った。 あの遠心分離機は、本当に動いているのか、それも毎日きちんと動かせるだけの電力が北朝鮮にあるのか。あのアメリカ人の学者が来た時だけ動かして見せたのではないか。 そもそも遠心分離機の中にちゃんとウランが入っているのか。 ウラン濃縮工場を見せる。 延坪島(ヨンビョンド)を砲撃する。 この二つで、 北朝鮮は核武装を増強する。 北朝鮮にはいつでも戦う用意がある ことを見せつけて、さあ、どうする、と韓国・アメリカを脅迫する。 脅迫して北朝鮮に有利な条件を引き出そうとする。 これは、金正日氏のいつもの手ではないか。 それも、今度は今までに比べて大分、手札が弱い。 以前は、核兵器の実験をして見せた。(成功、不成功を問わず) ミサイルの実験もした(成功・不成功を問わず) それに比べると、今回は核兵器を作る初期段階の遠心分離機を見せただけ。 ミサイルではなく、砲撃をして見せただけ。(実際に韓国人の兵士、民間人に犠牲者を出したのは、ただ砲撃するだけでは弱い思ったからだろう。) 遠心分離機と砲撃では、核爆発の実験とミサイルに比べて脅迫の道具としては、大分弱くなった、北朝鮮が持っている脅迫手段はこれだけしかないことを見せつけてしまった。 金正日氏は、今回のことで、反って北朝鮮が如何に無力なのかはっきりさせてしまった。 逆効果だったな。 しかし、これで、金正日氏には十分なのかもしれない。 実際に、北朝鮮は韓国と戦争を始めたら、一般には一月も持たないと言われているが、私は、一週間が関の山だろう、と思う。 戦争をすれば、確実に金正日氏は殺される。殺されるだけではなく、将軍様としてあがめられている今の虚名が全て失われる。名誉も何も汚泥の中にたたき込まれる。 それだけでなく、自分の親族たちも、無事でいることは不可能だろう。 金正日氏の一番いやがることだ。 だから、金正日氏は絶対に戦争は出来ない。 彼に出来ることは、今度のような脅迫だけだ。 その脅迫も、もう手詰まりになった。 金正日氏は戦々恐々としている。 何とか生き延びたい。 自分が死んだ後も、自分が、あがめられ続けられるように、権力を自分の息子に譲って、この体制を続けられるようにしたい。 金正日氏の願っているのはただそれだけである。 実に卑小な人間ではないか。 彼の目には、北朝鮮の人民がどんなに悲惨な生活をしているか見えない。 見る気がない。 Wikileaksがアメリカの秘密報告書の中で「北朝鮮は二、三年で崩壊する」と報告していることを暴露したが、アメリカだけでなく世界中がそう思っているのではないか。 金正日氏のあの顔つき体つきからして、やっと生きながらえているとしか思えない。 アメリカが「北朝鮮は二、三年で崩壊する」と踏んだのは、金正日氏が二、三年で亡くなると計算しているからだろう。 金正日氏が亡くなった後、金日成氏、金正日氏の場合のように金正雲氏にすんなり権力が移譲できるはずがない。 金正日氏が権力を引き継ぐまでには、金日成氏が健在である十分な時間があった。 金日成氏が健在な時に、すでに金正日氏はラングーン事件、など独自の強硬路線を開始していた。 金正雲氏には、金正日氏のような時間がない。 しかも、金正日氏は最後の最後まで権力は自分が握ったまま譲らないから、たとえ、金正雲氏を後継者として決めたとして、金正日氏が亡くなったときに、金正雲氏は何も実際の権力を譲られていないことになる。 金正日氏のやりかたは矛盾している。 金正雲氏に世襲したいのだが、権力は譲らない。 死ぬまで権力を譲らないだろう。それでは、三代世襲が成功するわけがない ともあれ、金正日氏は、三世代世襲を狙って、金正雲氏に箔をつけさせるために、今回の無謀・残虐な脅迫行為を行った。 (今までの脅迫行為でも、何一つ譲らなかったアメリカが、前回より格段に威力の小さい脅迫行為で何かを譲歩するとは、金正日氏だって、考えなかっただろう。 彼の頭の中にあったのは、金正雲氏に箔をつけること、それだけだっただろう) だから、今回の延坪島(ヨンビョンド)砲撃は、北朝鮮の前向きの攻撃姿勢を示すものではなく、内向きの退嬰的なものでしかない。 今回の砲撃で、私は、北朝鮮はせいぜいこんなことしかできないのだと、はっきりと理解した。 今回の砲撃は、北朝鮮はこれ以上のことは出来ない、と言う無力宣言である。 ところが、驚いたことに、菅首相は、この砲撃を機に、日本の朝鮮高校の無償化を考え直すと言い出した。とりもなおさず、有償にすると言うのだ。 日本の他の高校と差別するというのだ。 実に情けない。 こんな事をしても金正日氏には何の痛みも与えない。 政治的影響も与えない。政治的に無意味な行動である。 何のためにこんな事をするのか。 最近日本では、日本人の一番嫌な汚い部分を煮詰めて固めたような、排外主義をあおる市民団体と称する愚民団体が跋扈している。 菅首相は、その排外主義的愚民団体に追従するつもりなのか。 確かに朝鮮総連の中には、金正日氏の配下もいるだろう。 教科書の中に日本が過去に朝鮮に対して行ったことを記述しているところもあるだろう。 しかし、その点については、つい最近朝鮮高校も無償化すると言うときに議論されているはずだ。 議論の結果、その点は問題にせず朝鮮高校も無償化する決めたはずだ。 それを、延坪島(ヨンビョンド)砲撃を理由に無償化を考え直すと言い出すとは、それでは金正日氏と同列に並ぶことになる。 金正日氏の卑小さに、自分を合わせようというのか。 同じ卑小なことをしようと言うのか。 誇りを持ってくれ。 日本には、「しっこし(尻腰)のない奴だ」言う言葉がある。 ちょっしたことに怯えて、うろたえて、自分の信念を放棄して態度をころころ変える人間を、あざけって言う言葉だ。 本当に、菅首相の、今回の態度は「しっこしがない奴」とあざけられて当然だ。 菅首相は、誇りを持って、こう言うべきだ。 「金正日さんよ、あんた、そんなことしたって、わしらびくともしないぜ。 わしら日本は、個人の自由と人権を守る民主主義の国なんだ。 信教の自由、思想の自由、個人の人権はきちんと守る。 朝鮮高校の生徒たちが、たとえあんたの思想を吹き込まれていようと、それは思想の自由。日本人の中にも、あんたの思想にかぶれているものがいるが、それは個人の思想の自由だから、批判はされてもそれで国から実害を受けることはない。 朝鮮高校の生徒たちが、共和国の国籍でも、日本に住んでいるからには、日本の子供たちと平等に扱う。 ましてや、その生徒たちの親は、日本に納税している。 納税者の子供たちは、日本の子供たちと平等に扱われる権利がある。 わしら、日本は、あんたと朝鮮高校の子供たちとは別に考える。 子供たちの未来を愚かな政治家の故に台無しにするほど、わしらは遅れた国民ではない。 繰返すが、わしら日本は、信教の自由、思想の自由、個人の人権を守る民主主義の国だ。 あんたの、一度の延坪島(ヨンビョンド)に対する砲撃くらいで、わしらの主義は変わらない。」 菅首相、頼むぜ。 日本を「しっこしのない」国にしないでくれ。 ここで、金正日氏の一回の延坪島(ヨンビョンド)に対する砲撃におたおたして(日本が砲撃されたわけでもないのに)、朝鮮高校の生徒たちに非道なことをしたら、日本は世界の笑いものだぜ。 日本の誇りを保ってくれ。
- 2010/11/16 - ひゃあ、白鵬、がっかり 今日は、会社勤めの最初の第一日からお世話になった先輩「に」さんの家にお邪魔した。 横須賀、秋谷の家から出発する際に、「に」さんの家の電話番号をカーナビに入れたのが大間違い。 後で知ったことだが「に」さんは電話番号を登録していないと言う。 では、私の車のカーナビは何をしたのか。 「に」さんの家は吉祥寺だが、カーナビが「ここが目的地です」と言って連れて行ったところは三鷹市役所だった。吉祥寺とは大違い。 そこから、携帯で「に」さんに電話して「に」さんの奥方「と」さんにいちいち道順を教えていただいて、予定より大幅に遅れて、吉祥寺の「に」さん宅についた。 カーナビなんかに頼らなかったら、私は良く知っている道順なので、もっと早く着けたはずだが、今日は月曜日で環八が込む、カーナビはその混雑を回避する道中を教えてくれるだろう、と思いこんだのが大間違いだった。 「に」さんは、私のために大変な被害を被った人の一人である。 どう言う訳か、「に」さんは私が新入社員の時から、親切にしてくださって、当時の会社の出欠簿は手書きのサインだったために、私は、毎日遅刻するので、その度に、電話でお願いして、出席簿にサインしていただいていた。 出席簿にサインしていただくだけでは申し訳ないので、退勤の際に、いつも遅くまで会社に残っている「に」さんに代わって「に」さんの退勤簿に私はサインして差し上げた。 ただ、そのサインが、ちょっと問題で、「ピッチャーが、投げました。左カーブ、右カーブ、真ん中通ってストライク、応援団長がチャッチャッチャッ」と言う奴を毎日「に」さんの退勤簿に書いたのである。 ついに総務課がたまりかねて「に」さんに「『に』」くん、いい加減にし給え」と文句を言って、「に」さんははじめて自分の退勤簿に私が何を書いていたのか知って驚いたのである。 で、「に」さんは「てっちゃん、頼むから、退勤簿になにもかかないでくれ」と言った。私は不満で「ええ?そうなのお、ぼくは、『に』さんに日頃の恩返しのつもりで書いているのにー」といったら、「に」さんは、半泣きで「てっちゃん、頼むから、その恩返しとやらを止めてくれ」という。 仕方がないので、退勤簿の恩返しは止めたが、それが、何時までも私の心に負担として残って、何としても恩返しをせねばと心に誓い続けているのである。 さらに、私は会社勤めをしている際に夜遅くなると「に」さんの家に突然押しかけ泊めて貰い、翌朝、奥方の「と」さんも勤めに出、当然「に」さんも会社に行くわけだが、どう言う訳か、同じ会社に勤めている私だけが、「に」さんのアパートに居残り、「に」さんの家の冷蔵庫の中身を勝手にあさり、昼前にようやく会社にたどり着く。同僚たちは、「に」さんはいつもの通りに始業時間前に会社に着いているのに、どうして私がそんなに遅れるのか、不思議がったが、不思議がるのが間違いで、九時までに会社に来いという決まりが私の心身に適合しなかっただけである。 私は会社勤めを辞めてからも、東京で編集者たちとの打ち合わせなどで遅くなると、11時すぎに「に」さんの家に「これから行くからお願いします」と電話をかけて、勝手に押しかける。 かなり長い間、「に」さんの家は私の東京における拠点となった。 (ああ、本当に、なんと言う寛大な『に』」さん夫婦だったのだろう) 「に」さんが、ロスアンゼルス勤務になると、家族全員を引き連れてロスアンゼルスを襲い、ロンドン勤務になると夫婦でロンドを襲い、「に」さんは私からの電話が入ると、寒気がしてふるえが走るという状態が今でも続いている。 そう言うわけだから、「に」さんが、会社の常務に昇進した時に、「に」さんは、「私が、今日あるのは、てっちゃんが早めに会社を辞めてくれたおかげだよ」と私に感謝してくれた。 こう言う感謝のされ方は、喜んでいいのか、悲しんでいいのか、ちょっと困った。 しかし、今日は大収穫が有った。 連れ合いと、「に」さんご夫婦と話している間に、「に」さんが、「そうか、漫画原作者も大変だな。じゃ、これから月に6万円くらいなら上げるから」と言う言質を引き出した。 おお、月に6万円。 これだけあれば、夫婦二人で何とか暮らせる。しかも、「に」さんの家に転がり込めば、家賃もいらない、冷蔵庫の中も勝手次第である。 これで、私達夫婦の将来は安心、生きる希望が湧いてきました。 ありがたいなあ。 持つべき物は、親切な先輩ですよ。 で、帰りは渋滞もなく、順調に家に帰ってきて、ニュースを見て、ああ、大落胆。 白鵬が負けてしまっているではないか。 ああ、ああ、ああ、 私は、白鵬が双葉山の記録69連勝を破ってくれのを本当に期待していた。 多くの相撲ファンがそうだったと思う。 あの双葉山の大記録を破る力士が現れた。 それだけで、興奮するのに、もう、7日目で、それが達成できるかと思うと、わくわくしていた。 それが、負けた! ああ、神は大相撲を見捨てられたか。 ここで、白鵬が双葉山の記録を破れば、大相撲に再び多くのファンを集められたのだ。 白鵬を破った稀勢の里は私のひいきの力士である。 いつも、期待しているのに、何度も期待を裏切られてきた。 とっくに、大関横綱をねらえる逸材だと思っている。 実に辛いが、今日は、白鵬に勝って貰いたかった。 白鵬、どうした。 矢張り、重圧があったのか。 ぎゃくに、稀勢の里には、この勝利を足がかりにして、これからどんどん伸びて貰いたい。 そう有ってこそ、大相撲の人気が戻ると言う物だ。 白鵬が負けたのは本当に残念だが、稀勢の里相手だったので、まだ良かった。 稀勢の里、白鵬の記録を阻止したんだ。これからもどんどんがっばってくれよ。 白鵬も、もう一度双葉山の記録に挑戦して貰いたい。 今のところ、白鵬以外、それを達成できる力士はいない。 しかし、本当に残念だった。
- 2010/11/10 - 冷静になりましょう〈11月8日、午後に3時間半ほど、新しい日記を公開した。 しかし、内容が、誤解を招くおそれがあるので、午後4時半頃に削除した。 改めて書き直す。〉 11月1日から、今年二度目の禁酒月間に入った。(9月か10月も禁酒月間にしよう思ったが、人と会うことが多く守れなかった) 11月一杯は酒を飲まない。 ところが、11月5日に、「日本全県味巡り」の和歌山県篇の時にお世話になった、和歌山県庁の仲さんが、我が家に来られた。(仲さんには単行本103巻の「和歌山県篇」の冒頭で、活躍していただいているので、どんな人柄かお知りになりたかったら、その頁をご覧下さい) 横須賀のデパートで、和歌山県の物産展を開いていて、その関係で横須賀まで出張して来られたので、ついでに私の家によって下さった言う訳だ。 仲さんが来られたからには、酒を飲まないわけにはいかない。 そこで、5日だけ禁をといた。 仲さんは高校野球の名門和歌山智辯高校の野球部出身である。 実に、溌剌とした愉快な人格で、酒も強い。楽しくわいわいと騒いで酒を飲んだ。 その代わり、禁酒月間は、11月一杯ではなく、1日延ばして12月1日までにする。 私は意志が弱いので、週に4日飲んで3日休む、などと言うことが出来ない。 飲まないのなら、丸1ヶ月か2ヶ月飲まないと設定しないと駄目なのだ。 酒を飲まないからと言って仕事が進むわけではないが、「ああ、だらだら酒を飲んで、みっともないな」と言う自己嫌悪からは逃れることが出来る。 それにしても、禁酒月間を年に2回も作るのは問題かなあ(問題って、どう言う問題なんだろうね) ところで、先日以来、尖閣諸島での中国漁船と海上保安庁の巡視船との衝突後、引き起こされた日中の問題について色々考えてきた。 南京虐殺、全部で2000万人とも言われる中国人を殺戮したこと、731部隊の非人道的行為、その他、日本が過去に中国に侵略して犯したさまざまな犯罪的行為について、日本政府がきちんと謝罪し、被害を受けた人々に対する補償をすることが、真の日中友好関係を築くための最初の一歩である。 日本と中国は、真の友人同士にならないといけない。 そう考えて行動している日本人は、少なからずいる。 直接的な行動や、言論活動などに参加しなくとも、そのように考えている人は少なくない。 私もその一人である。 そのような考えを抱いている人達も、最近の尖閣諸島周辺海域での中国漁船と日本の海上保安庁の巡視船との衝突事件があって以来、日中友好を声高に言えなくなっているのではないか。 しかし、このような状況だからこそ、私は、周囲の声に逆らって、敢えて、中国の人々との友好を深めようと強く言いたいのだ。 中国との友好関係をきちんと築かずに、日本の過去と現在と未来もあった物ではない。 過去とは、中国から輸入した文化が今の日本文化の基礎の大きな部分を構成していると言う事実。文化の根幹である文字も中国から伝わった物だ。(もっとも、文字もそうだが、中国の文化は朝鮮を経て伝わってきた物が多いのだが) 未来とは、中国に限らないが、世界中の国と平和で豊かな関係を結ばなければ日本という国は生きて行けないという事実。 特に、隣の、朝鮮・韓国、中国とは世界中のどこの国よりも日本が一番親しい国でなければならない。 この事実を忘れて、一時の揉め事で、全てを破壊するような愚かなことをしてはならない。 中国嫌いの人々、あるいは、戦前の皇国日本の姿を有り難く思い、その時代の日本に戻りたいと願っている人間にとって、今度の中国との揉め事は願ってもない絶好の機会だろう。 中国の悪口をどんなに言っても、全く反発なく受け入れられるのだから。 私達の子供、孫の世代の日本と中国が良い関係であるためには、今の揉め事を無闇に大きく深刻にとらえて、中国に対する反発心を引き起こすべきではない。 11月5日号の週刊朝日には、「米空母を購入して対抗せよ!」などと言う記事が載っている。 言っているのは警察庁のOBである。 OBと言うからには50歳を超えた大人だろうが、言うことは、知性も洞察力も欠いた、幼稚なたわごとである。(OBとは『大馬鹿』の略か) その中に「米空母を2隻、手持の米国債で購入する用意がある、と密かに米に打診してみるのも手でしょう」とあるのには、驚き呆れた。 「手持の米国債で空母を2隻購入する」、と言うのはアメリカに「米国債」という借金のかたに、空母2隻をよこせというのと同じことだろう。 日本とアメリカの、この緊張した経済関係の中で、「借金のかたに空母を寄越せ」などといったら、どうなるか。しかも、空母はアメリカの兵器の中で最先端の技術のつまった物で、それをどうして他国に渡すはずがあろうか。 こう言う人間は、今更勉強し直せと言っても無理だから、頭を丸ごと、交換するしかない。デパートのマネキンの頭でも、今の頭よりましだから、是非交換するように勧めたい。 と、この記事に驚いていたら、11月19日号には「胡錦涛主席の仰天発言!?」として「日本を植民地にする!」という記事を載せた。 中国から亡命した反体制作家の 「胡錦涛氏は、日本を含むかつての列強を、中国の植民地にするつもりです」 と言う意見を無批判に掲載している。 この反体制作家は今でも中国にさまざまな情報源を持っているそうで、その作家によれば、胡錦涛氏は「北京郊外の地下深くにある軍事基地」で、「かつての列強を植民地に変えていく」という演説をしたという。 「地下深くにある軍事基地」ときたら、もう、まるで、アメリカ製のCIAなどの絡む、「政治的陰謀・活劇ドラマ」の世界だ。 そう言えば、アメリカの諜報部と中国が陰謀を闘わせるテレビドラマがあったな。 この亡命作家は、アメリカのテレビ映画会社にこの筋書きを売ったらどうか。 あまりに、ばかばかしくて、三流の映画会社でも、そんな筋書きは買ってくれないだろうけれど。 それにしても、こう言う記事を載せるとは、「週刊朝日」も、「駄週刊誌に」に堕してしまったということか。実に嘆かわしい。 出版社系の某駄週刊誌、某某駄週刊誌は、日本シドニーの往復の際に機内で、ちらと眺めるだけでその内容の品性の下劣さに胸が悪くなるが、「週刊朝日」もその「駄週刊誌」の仲間入りか。 30年以上も定期購読しているが、もう止めにしようかと真剣に思う。 こんな、与太くず記事を載せて、一冊380円も取るとは図々しい。 月にすれば1520円だ。シドニーに送ってもらっているからこれに送料がつく。馬鹿げた値段だ。 その、警察庁OBよりものすごいことを言う人もいる。 日本も核兵器を持て、とか、自衛隊の艦船を沖縄の尖閣諸島に近い辺りに常駐させろ、とか、今度の揉め事を奇貨として中国に対する敵意を煽り立てようとする人々がいる。それも、国立大学の元教授、現教授、という如何にも偉そうな肩書きを持った人が言うのだから呆れる。 このような立派な人間を教授や元教授に持つ国立大学を卒業した人間がそこらをうろうろしているのだから、日本という国がおかしくなる訳だ。 いったいこのような人々はどうして歴史から、何も学ばなかったのか。 1945年に、日本の敗北で終わった戦争で、日本は中国やアジア各国に多大な被害を与えただけでなく、日本自身も破滅的な打撃を被った。 武力での争いは、日本にも中国にも、何ひとつ利益をもたらさない。 憎しみを掻き立てて将来に禍根を残すだけである。 そのような争いを、どうして再び引き起こすような扇動をするのだろう。 このような人間に物を書かせる雑誌や新聞がまず問題なんだな。 そこに、11月5日に、正体不明の人間によって、尖閣諸島周辺海域で、中国漁船が日本の巡視船に衝突した現場のビデオが5日に、YouTubeにアップロードされた。 それを見て、一番印象に残ったのは、船長と目される人間の姿である。 操舵室から出て来たその男は、上半身裸で、片手に煙草を持っている。 実にだらしのない、緊張感を欠いた樣子である。 香港や広東など気温の高い土地でよく見かける中国人男性の姿だ。 最後に洗濯したのは何日前なのか分からないような汚れた下着だけしか着ていない男は、香港や広東の裏通りに行けば普通に目にする。 この船長らしい男は、下着すら着ていない。ズボンもだらしない。 この男の姿を見て、今度の衝突事故が、日本の一部の人が言うような中国の工作員による意図的な物ではないと私は確信した。 中国の工作員だったら、如何に何でも、上半身裸で、煙草を片手に、だらしない姿で、日本の巡視船をぼんやり眺めたりするわけがない。 他の船員たちも、矢張り裸で、まるで緊張感がない。 あの事件は、だらしのない中国人船長が、日本の巡視船に追われて、いらだって「一丁やってやるか」という、「中年暴走族」的な思慮を欠いた行動に出たものに違いない。 全く偶発的な事件だったと私は思う。 中国政府が意図的にやらせた物ではない。 大体、巡視船がすぐ近くにいるのにのんびり網を上げている。 日本の主張通り、尖閣諸島とその周辺海域が日本領だとすると(尖閣諸島とその周辺海域が日本領か、中国領か、その議論はここではする余裕がないから別にする)、日本から見れば日本の領海で中国人が漁をする事は違法である。 しかし、中国政府はあの領海は中国領だと主張しているので、船長は「自分の海で魚を獲って何が悪い」と頭から思っているのだろう。 あの海域に行くと日本の海上保安庁の船がつきまとって厄介だと聞いていても、魚が獲れる海域に行く、と言うのは漁師の本能である。 尖閣諸島とその周辺の海域は中国領であると常に中国は主張しているが、そのための示威行動を、APECを間近に控えている時期に、中国政府が意図的に行うはずがない。しかも、船長が逮捕されてしまうと言うような不様な形で。 領有を主張するための示威行動なら、時期を選んで計画的に行うはずだ。 ところが、そこに思わぬ事態が勃発したので、中国政府も、慌てたのだろう。 このビデオを見てつくづく思ったのは日本政府の外交能力のなさだ。 この場合、普通の外交能力を持った人間なら、まず、中国人船長を逮捕する。 そして、直ちに、強制送還する。 さらに、その時のビデオの存在は一切秘匿する。 しかし、船長送還と同時にそのビデオを、中国政府に送る。 そうすれば、中国政府も事実関係を理解し、事を荒立てずにすませた日本政府の配慮を評価するだろう。(常識のある国家なら) 要するに、この衝突ビデオは外交の際の有力な切り札になる物だった。 それが、こんな形で表に出てしまえば、切り札にも何にもならない。 返って中国政府の不信感を買い、日本政府の信用が失せるだけである。 先に述べたようにしておけば、中国政府も、別の対応を取ったはずだ。 それを、日本政府は、船長をあくまでも裁判にかけると言い張る。 それでは、中国政府は困る。 日本人が意外に考慮しないことだが、中国の指導部は一枚岩ではない。 現在の国家主席は胡錦涛であるが、2002年に胡錦涛にその座を譲った前国家主席の江沢民は今でも強い影響力を持っているという。 胡錦涛も1989年にチベットを強力に弾圧して、鄧小平に認められて出世したという強硬派で、しかも両親が日本軍のためにひどい目に遭ったことから、胡錦涛自身、日本に対して良い感情を抱いていないと言う説もある。 胡錦涛派と江沢民派は厳しい勢力争いを繰返していて、最近江沢民の地元で行われた上海万博の開会式に江沢民が姿を現さなかったことで、胡錦涛と江沢民の勝負はついたのではないという見方もある。 中国政府の指導者は、権力欲、金力欲まんまんの人間達である。 彼らの権力争いは熾烈である。 その渦中で、胡錦涛政府は外国に弱みを見せてはならない。 特に、日本には絶対に強硬姿勢で立ち向かわないと、反対派に攻撃される。 今回の場合、船長が逮捕されたと分かったとたん、胡錦涛指導部は、強硬派からの突き上げを食らったか、食らうことが容易に予期されたのだろう。 突き上げをかわすために、あわてふためいて日本に対して強硬な態度を取ったのだ。 事件以来中国政府の取った行動は理性を欠いていた。 衝突事件以後の中国政府の行いを振り返ってみようか。 まず、いきなり、テレビや新聞で日本政府を非難し、中国人船長を釈放しろと要求した。 深夜、中日日本大使を呼び出して、船長の釈放と謝罪を要求した。(非常識で礼を失した態度である。) 旧日本軍の残した化学兵器の始末に当たっていた日本企業の社員四人をスパイ容疑で拘束した。(化学兵器の始末の邪魔をしてどうする) 日本政府が中国政府の強腰に怯えて、中国人船長を釈放した後も、中国政府は日本人社員を釈放せず、数日経ってやっと三人釈放し、残りの一人は更に拘束を続け最後に、金を取って釈放した。(こう言う時に、金を取るかね) 中国政府は、日本に対するレアーアースの輸出を禁止した。(レアーアースを使った日本製の部品がなかったら、中国の工場も製品を作れないでしょう) 釈放された中国人船長を「英雄」として扱い、大々的に中国人の間に反日感情を煽り立てた。 普段は、ちょっとでも中国政府に対して都合の悪い文言がインターネットや携帯電話で流れると中国の極めて強力なサイバーポリスが直ちに削除するにも拘わらず、中国全土で反日デモの呼びかけが行われるのを放置し、結果的に中国各地で反日デモ、反日暴動が頻発している。 日本企業の建物を破壊したり、日本製品のボイコットを呼びかけるデモが行われたことで、中国政府の目的は達成されたとしたのだろう。 私が、中国政府に対し「あわてふためいて」とか「理性を欠いていた」とか言うのは、以下のような事態を、中国政府はまるで予想していなかったようだからである。 反日デモをする人々の中に「官僚腐敗の批判」など、反政府的なスローガンを掲げる人が出て来た。 反日デモが人々にデモ行動を起こすきっかけを作り、それが、反政府デモに広がるおそれが出て来たので、政府は、反日デモを押さえる方向に動き出さざるを得なくなった。 中国は南シナ海でも、周辺の国、ベトナムなどに圧力をかけ、脅威を与えている。それらの国々が、尖閣諸島問題での中国の日本に対する態度を見て、中国に反感を募らせた。 日本に対して、レア・アースの禁輸をしたことで、欧米諸国から、「中国は政治と経済は別にすると言ったが、やはり、政治第一主義だ。国際貿易の原則に反している」と言う批判を買った。 以上三点を考慮すると、中国政府は今回のことで、尖閣諸島とその周辺の海域の領有権を確保することも出来ず、返って国際的な反発を招くという損失を被った。中国が得た物は何も無い。 これが、私が、今回のことは中国政府が計画的に行った物ではないという理由の一つである。 外交能力に長けた中国政府が、こんな負の結果を招くような計画を立てるわけがない。 もう一つ、中国政府が計画的に行った物ではないと私が言う理由は、先ほど言及したAPECである。 APEC開催まで、大して日数のない時点で、尖閣諸島問題などと言う厄介な問題に手を出すほど、中国政府は尖閣諸島問題で切羽詰まった意識を持っているわけがない。 この問題に取り組むのなら、もっと用意周到に手の込んだ事をするだろう。 要するに、今回の事は、中国人船長が突発的に「中年暴走族」的な行動を取ったこと、それだけのことである。 それを日本は、取り扱いを間違え、逮捕して裁判にかけると言明していたにも拘わらず、中国政府の恫喝の前に、慌てて中国人船長を釈放してしまった。 これまた、国際的に、ひどく評価を下げた。 中国政府も取り乱した。 日本と中国は、「中年暴走族」の中国人船長に翻弄されたのである。 ここに良い教訓がある。 ヤコヴ・M・ラブキンの書いた「トーラーの名において」という本がある。 ラブキンはこの本の中で、パレスティナの地に「イスラエル」言う国を作る運動を始めたシオニズム・シオニストを、ひいては現在の「イスラエル」を純粋なユダヤ教の立場から批判しているのだが、その中で、紀元一世紀に、ローマ帝国によってエルサレムの第二神殿が破壊され、ユダヤ人がユダヤの地から追放されると言うユダヤ人にとっては最大の悲劇について、その原因は、ローマ帝国に妥協せず、あくまでも戦いを求めたユダヤ人側にあるとして、次のように書いている。 「(中略)つまり、長い目で見て、人間の一挙手一投足から導き出される帰結は予測不可能であるのだから、われわれみずからの行いについてどこまでも慎重であらねばならないことだ。」(菅野賢治訳、平凡社刊) ユダヤ人にとって最大の悲劇、エルサレムの第二神殿の破壊とは、我々にとって、日本と中国の関係の破壊に他ならない。 「中年暴走族」の中国人船長の取った行為によって、われわれは、無闇に興奮せず、慎重に事を運ぶべきだろう。 日本人も、中国人も、冷静になりましょう。 繰返すが、日本と中国は真の友好関係を築かなければならない。 日本のためにも、中国のためにも。 こんな事で、互いに反目するのは本当にばかばかしい。
- 2010/10/25 - ご無沙汰しました 老犬介護でシドニーを離れられなかった連れあいが、ヨーロッパ旅行を終えてシドニーに戻った次女と入れ替えに、21日に秋谷に来た。 一ヶ月以上、夫婦が離ればなれになっていたのはずいぶん久しぶりのことである。夜、隣に連れ合いがいないとひどく淋しい物である。夫婦は一緒にいなければならないと、つくづく思った。隣に連れ合いが寝ているだけで、精神安定剤になる。 私は、炊事洗濯掃除、何でも一人で出来るので心配はいらないと言うのに、姉が毎日私の面倒を見てくれた。 長男もついて来たのだが、姉の息子の始めた農園の手助けに熱中してあまり私の役に立たない。 ただ一つ困ったのは洗濯で、最新式の洗濯機の使い方が分からない。 姉に教わって、びっくり仰天。最初に洗濯物を入れてスイッチを入れると、その洗濯物の重さを量って、それに合わせた洗剤の量を指定してくれるのである。 しかも、その音の静かなこと。洗濯機のそばから離れたら、動いているのかどうかも分からないくらい。 シドニーの洗濯機は、グワッチャン、ドッカンとすさまじい音とともに地響きを立てて動く。洗濯機の周辺全ての部屋に轟音が響く。(決して私の家の洗濯機がおかしいのではありません。シドニーでは最新式の洗濯機を買っても同じです。) こんなこと、日本の主婦にとっては当たり前のことかも知れないが、文化果つる南半球の国から来ると、ひっくり返るくらいの驚きなのだ。 姉には、生まれたときから世話になりっぱなしだ。何てったって、私が生まれた時にはすでに先にいたのだから仕方がない。 どうも、私は甘えっぱなしの人生を過ごしてきたようだ。 母に甘え、姉に甘え、その母が亡くなったあと来てくれた今の母に甘え、結婚すれば連れ合いに甘え、今は娘二人にも甘えている。 それも、どうも図々しい甘え方のようで、時には反省しているのだ。 80過ぎの母に対して60を遙かに越えた男が「おれは、長男なんだからうんと甘やかしてくれよ」という。 すると、母は心得ていて「はい、はい、甘やかしてあげますよ」と言う。 うーむ、何かにつけて私にとっては女性の方がいいな。 私はこれからも、絶対反省せずに、甘えて生きて行くのだ。 ご無沙汰している間にも結構活動しておりました。 10月11日、12日と例によって小学校の六年二組の仲間と、秋田内陸縦貫鉄道に乗りに行きました。 一列車を借り切って仲間13人で(本来は40人定員)、 「角館」から、「鷹ノ巣」まで往復するだけ。 それで5時間とは長すぎて退屈するかと思ったら、お座敷列車でわいわい騒いでいる内に、あっという間に5時間経ってしまった。 景色はよいし、お座敷列車貸し切りとは贅沢だし、実に充実した旅だった。 考えてみれば、変な旅だ。「角館」まで新幹線で行って、最初の夜は「角館」に泊まり、翌日「秋田内陸縦貫鉄道」に乗って往復。 列車に乗るだけが目的の旅というのはどうも、鉄男さんとか鉄子さんとか言う熱烈な鉄道愛好者みたいだな。 でも、大変に楽しかった。 気分が久しぶりに、晴れ晴れとして、一瞬「鬱」が治った、と思った。 旅から帰ってくると「美味しんぼ」の原稿書きに追われ、20日、21日と大分へ取材に行った。 大分の取材は、本当に神経を使う取材だったので、疲れた。 たった一泊二日だったのに、くたくたになった。 そして、今また、「美味しんぼ」の原稿書きに追われている。 「鬱」はぶりかえしますなあ。 「鬱」と言えば、最近の中国との揉め事は鬱陶しい限りだ。 中国とのことについては、日を改めて書く。
- 2010/10/08 - 「日本全県味巡り」島根県篇 10月1日から、6日まで、「美味しんぼ」の「日本全県味巡り」ために「島根県の郷土料理」を探索する旅に出た。 6日間取材して回るのは大変に疲れる。 昔は何ともなかったのだが、、ああ、私も、既に老齢年金を貰える歳です。 (保険の掛け率が低かったので、実際には貰えないようだが。) 昔は、歳を取ると言うことは年齢の数だけ増える物だと思っていましたが、ああ、そうじゃないんですね、実際は。 年齢の数が増えるだけでなく、それに反比例するかのように体力が衰えるのです。 20年前までなら、どんぶり二杯なんか霞を食うような感じだったけれど、ああ、今は全ての食べ物が重い。 ざばざば、ざくざく、かっ込んで食べていた昔が懐かしい。 と言うくらい、衰えているのですよ。 このような老体を引きずって取材に行き、あちこちで、色々な食べ物をご馳走になって、旨いの何のって意見を言わなければならない。 これは辛い。 一応、原作者として、前回「日本全県味巡り」で回った和歌山県との違いを出したいと思う。 そのために食材や調理を選んでいるのだが、これが、大変に難しい。 私の「日本全県味巡り」の取材は、私の甥が全面的に手伝ってくれていて、私が取材に行く前に県内全てを回って、私が取材するにふさわしい所を探し回るのだ。この先行取材が、実に過酷を極める。 どこに美味しい物があるのか、見付けて歩くのだから、しまいには考えあぐねて、道を歩く人に、この辺に何か美味しい物はありませんか、とまで尋ね歩いたという。 その甥の見付けたところを、私はのんびりと取材に行って、旨いのまずいの言う訳だから、甥にとってはたまらなくいやな叔父だ。 甥だから、叔父さんのために、何とかしてやろうという愛情と熱意で「日本全県味巡り」は成立している。 甥がいなかったら、これまでの「日本全県味巡り」も全て成り立たなかっただろう。 島根県の特徴的なことは、島根県で生まれた人は、例えば数年大阪とか東京に行っても、必ず島根県に帰ってくることだ。 ある人は、四年間の大学生活を大阪で過ごしたけれど、その四年間は私にとって仮の人生だと思い続けていて、卒業するやいなや島根県に戻り、そのまま島根県で生活をしているという。 とにかく、暮らしやすいところらしい。 人々も、おっとりしていて、自分から自己主張をしてあれこれしゃべる人はいない。 極めて、控えめな人ばかりである。 私は、日本列島様々なところを歩いたが、島根県は、とにかく沸き立つ騒々しさとは無縁の国だ。 上品で、しずかで、攻撃性はゼロで、ゆったりとしている。 感動したのが吉賀町(よしかちょう)全体が取り組んでいる有機農業だ。 今まで有機農家には何人もあって来たが、町を挙げて有機農業に切り組むというのは初めてだ。 町の農家200戸が一斉に取り組んでいるという。 これは凄いことだ。 個人個人で有機農業に取り組むのと、町全体で取り組むのとでは、効果も仕事のしやすさも違う。 私は、未来の農業のあり方を吉賀町に見た。 これは、近年にない素晴らしい知らせだった。 私は、吉賀町の取組みこそ日本全農家が取り組むべき事だと思う。そうすることで、日本の農業の価値が認められ、消費者も少しばかり高くてもそのような真正な農産物を買うだろう。 みんな、外国の農産物が安いと言って喜んでいるが、たえば米について有機の米と、農薬たっぷりの米との値段の差は、ご飯お茶碗一杯で三十円にもならない。 他のおかずと比べたら比較にならない安さなのだ。しかも、安全で美味しい。 安物売りの煽りに引っかかって、安い物を買うと結局、安物買いの銭失い、と言うことになる。 パチンコや、時間つぶしでしかないゲームなどに、多額の金を費やして栄養失調で、胸も薄く、力もない若者たちが増殖しているのを見ると、それは間違っている、と思う。 私の若い頃は、とにかく喧嘩に勝てない奴は駄目。と言う時代だったからかも知れないが、今の若者たちのあのへろへろの薄べったい、折り紙人形のような体を見ると、こんな男たちは世界中どこに行っても、その土地の女にもてっこない。 相手にされないだろう。 それじゃ、つまらないなあ。 と、老人はうそぶく。 で、島根県だが、来年4月に追加取材をする。 漫画に書くのは来年の夏過ぎだろう。 それくらい、念入りに取材するのが「美味しんぼ」の方針なのだ。 島根県は日本全体で興味を持たれない県の中ではかなりのものであるらしい。 今回の「日本全県味巡り・島根県篇」が読者諸姉諸兄の島根県への興味を掻き立てる物であることを願っているのだ。
- 2010/10/02 - 友達は古いほどよい24日に、旧友三人が我が家に来た。 「あ」と「み」の二人は電通の同期入社、「た」君は「あ」の高校の同級生。 1969年以来からのつきあいである。 「あ」は私の随筆を読んで下さっている方は、「あ、あの『あ』さんですね。」言うほど、私の随筆に良く登場する。 「あ」は「鍋奉行」を通り越して「鍋閻魔大王」である。 鍋に関しては絶対に自分が支配しなければ気の済まない男だが、今回、みんなと話していて、他の面でも「あ」は絶対に自分の思い通りに周囲を振り回す、と言うことで意見が一致した。 「た」君は、「美味しんぼ」の焼酎編にも登場して貰った。焼酎の取材について来て貰ったのである。 酒や食べ物に対する感覚は鋭いので、酒、焼酎の評価について頼りにしている。 「あ」が何処かに下宿していた頃、我々全員で酒を飲んで「あ」の下宿に行って、腹が減った、何か食べるものはないか、ということになった。 「あ」は誰かから貰った素麺を一箱持っていたが、肝心の素麺を茹る鍋がない。 すると、「た」君が、ヤカンを鍋代わりにして素麺をゆでた。 その、ヤカン素麺を、いまだに我々は思い出しては大笑いする。 見た目豪快だが、実に繊細で心優しく、数年前、新橋の路上で余りに無礼な男に自転車をぶつけられそうになったので、私はかっとなってその男を殴り倒してやろうと思ったが、私のその気配を察して「た」君は、巧みに私とその男の間に自分の体を入れて、私がその男を殴るのを邪魔をする。 さんざん罵って、その男を解放してやったが、そのあと「た」君に、「もう、二度と外で喧嘩などしないでくれ」と懇々と説教された。 「み」は、実は大学の同人雑誌の仲間で、電通に入ってから相手もいるのに気がついて、「あれれ、なんだ、お前もかよ」と互いに驚いた。 私は東大の文化系の人間を高く評価しないが、「み」は別格である。 「み」は東大の仏文を出ている。フランス文学や哲学のことに通じているのは当然だが、元々生まれつき頭が良いのだろう、こういう人間を「地頭(じあたま)がよい」というが、何でも良く知っている。 我々の間に難しい問題が起きたときには必ず「みーちゃんに聞け」と言うことになっている。 なにせ、フランス哲学から芸能界の話題まで何でも知らないことはないし、学生運動で鍛えた策士だから、われわれがどうしたら良いか困っていることも、快刀乱麻解決してくれる。我々に取っての諸葛孔明、軍師である。 それなのに本人はいつも、にこにこ、へら、へら、と笑い、その頭の中に恐ろしく切れる頭脳が隠れていることを人に感づかせない。 「み」のただ一つの欠点は、私の学生時代、あるいは電通時代のでたらめ話をデッチ上げることで、私と「み」とでは仲間内の信頼が違うから、いつも私は「み」の言うような乱暴な人間になってしまう。 こう言うことがありながら、40年以上つきあっていると、もはや兄弟以上で、何かことがあるとさっと集る。有り難い仲間である。 いつもは、夫婦同伴なのだが、今回は、私の連れ合いが老犬介護のために10月半ば過ぎになるまでこられないので、男だけ四人の集まりになった。 男だけの集まりというのはいい物で、互いの連れ合いがいては遠慮して話せないようなことも、わいわい言い合える。 「たまには、女抜きの会もいいな。これからたびたびやろうぜ」と言い合ったが、次の回は見ていろ、必ず、連れ合いも一緒にと言い出す奴ばかりだと思う。 どうも、情けなくなったなあ。 26日は、田園調布小学校六年二組の仲間が、我が家でバーベキュー大会を開催した。 12時から始めて、18時すぎまで、徹底的に食べまくった。 私たちが田園調布小学校を卒業したのは1956年である。 つきあいが始まったのは、当然それ以前の小学校一年の時からだから、考えてみれば、一番古い友人とは60年以上のつきあいになる。 それぞれ、60歳半ばを越え、運の良い人間は年金など貰っているようだが、私のようにまだ働かなくては家族を養えない人間もいる。 嬉しかったのは、「ことり映画社」の3人が集ったことである。 ことり映画社とは、「こ」君、戸塚(私の本名)、「り」君、の3人で作った映画社である。 映画社とは実は名ばかりで、紙芝居会社である。 語呂がよいので、それぞれの名前の頭文字を取って付けた。 「り」君は体は大きいのに、繊細で、恥ずかしがり屋で、すぐに顔を赤らめる、純情派で、暴力とはまるで無縁な優しい人間で、みんなに「さいぼう、さいぼう」と愛され続けている。(なまえが、さい、から始まるからである) さて、その「ことり映画社」であるが、授業時間に私が話の筋を作り、「り」君に渡す。「り」君はそれを、紙芝居に仕立てる。私が、「り」君の作った紙芝居の紙の後ろにセリフを新たに書く。 休み時間になると、級友を集めて、「こ」君が、紙芝居を演じる。 「こ」君は、三年生の時に、浪花節の、広沢虎三の「石松代参」のレコードを貸してくれて二人で浪花節を研究した仲だ。 実に、紙芝居のセリフを演劇的に、ドラマティックに読むのが上手い。 今でも忘れられないのが「紅の塔」という、横長の紙芝居で、当時シネマスコープが流行り始めたころで、「さいぼう」は「ことりスコープ」と名付け実に堂々たる紙芝居を作り、「さいぼう」の絵と「こ」君の名調子のおかげで、同級生たちのご愛顧を大いに頂いた。 バーベキューを食べながら、私は、「こ」君と「さいぼう」に、「結局、僕は子供の頃から漫画の原作者になるように決まっていたのかなあ」といって笑われた。 それも、喜んだ笑いだった。 大酒飲みの「ほ」君は、私の貴重な「富乃宝山」を「これは水だよ」と言ってがぶがぶ飲み続ける。 そのうちに、半眼になって、何か訳の分からないお経のような物をうなりだした。 みんな、首をひねった、あれは一体何だ。 普通の歌じゃない、ご詠歌でもない、お経だろうか。最近の新興宗教のお経には、こんな物もあるかも知れない、しかし、民謡ではないということは民謡に詳しい「こ」君が判定してくれた。 そのうちに、カラオケキングの「みや」君が、「これは、岸洋子の歌だよ」といった。その気になって聞いていると、「恋はすてきね」とか「恋なんて」 などと言う言葉が入っている。 まさに、岸洋子の「恋心」だ。これには驚いた。 流石は「みや」君だが、それにしても「ほ」君の歌はとても「恋心」と思えず、どこかの未開の土地の部族の雨乞いの歌なのではないかと思った。 すると、効果覿面。 それまで晴れていた空が曇り始め、ぽつり、ぽつり、と降り始めてきたではないか、 まあ、その雨も、ぽつり、ぽつりで終わってしまって、バーベキューは無事終了した。 バーベキューなんて、ただ、食べてはおしゃべりをするだけで、何一つ建設的なことをするわけではない。 まあ、これが知り合って間もない人とならともかく、知り合って50年以上経つ人間たちばかりだから、同じような話を繰返すだけで、それで飽きないし、最高に楽しいのだ。 この、最近の二度の集まりを振り返って、つくづく良い友達を持ったと言う幸せを私は感じた。 友達は古いほどよい、私達はこの友人関係を更に長く続けるように努力するぞ。
- 2010/09/23 - 中国人よ今こそ「史記」を読め 最近、ふと考えた。 私はこうして日本人として生きているが、世界には160ヶ国以上の国がある。 たまたま日本に生まれたが、もし他の国に生まれていたらどうだっただろうかと考えたのだ。 在日共和国の友人たちには申し訳ないが、前から言っているとおり、私は金正日氏のやり方に我慢がならないので、共和国に生まれなくて良かったと思う。(ここで、日本の朝鮮に対する侵略の責任問題を出さないでくださいね。単純に、今、生まれて来たらと言う前提の下に話しているのだから) 生まれたくない国を列挙すると、中国、朝鮮人民民主主義共和国、ロシア、がまず筆頭にあげられる。 根拠は、人間の自由が認められないからだ。 自由に自分の意見を表明できない国など、牢獄に等しい。 中国、朝鮮人民民主主義共和国、で自国の政府を批判すると、投獄されたり、強制収容所に入れられて結局餓死させられたりする。 ロシアで、同じ事を行うと、アンナ・ポリストコフスカヤのように、公開死刑としか言いようのない暗殺で消される。 イランでも、反政府言論は死を招くだろう。 アフガニスタンでは、反タリバンの意見を言うと、すぐ隣に座っていた友人だと思っていた人間に頭を撃ち抜かかれる。 最近の、尖閣諸島周辺での、中国漁船と日本の海上保安庁の船との衝突の件を巡っての中国政府の対応を見て、本当に、今の中国は情けない国だと思った。 1945年以前の日本が中国に対して犯した侵略と、破壊・殺戮の罪は深い。 しかし、それと、今度の問題を一緒にしないで貰いたい。 当時の中国と、現在の共産党一党独裁の中国とは別の国である。 ことの本質の追究をしようとせず、一方的に自分たちに理があり、日本が不正であると言いつのる、この自分勝手な態度は奇怪である。 駐中国日本大使を夜中に呼び出す、この無礼さ。 こんな侮辱を自分たちが受けたら、中国人はどう反応するか。発狂的な大騒ぎを国中で引き起こすのではないか まったく、最低の礼節を欠いている無礼者集団が今の中国政府だとしか思えない。 1945年以後、外国で、1発の銃弾も撃たず、1人の外国人も殺さず、1センチの進出もした事がない日本を、いまだに軍国主義と罵るのは、異様なる意図を持っているのか、単に事実が見えない痴呆なのか。 この、知恵が回りすぎる中国政府を見ていると、痴呆という事は無いだろう。 日本を軍国主義とののしり続けることで、得ることが多いと判断しているのだろう。 この辺のことは、外交の非常に長けた中国と、外交能力のない日本との差であって、ここで、中国の気勢に押されて、弱気になってもならないし、プッツンと切れて攻撃的になってもならない。 これは、中国得意の外交ゲームの一つとしてみた方が良い。気長に対処するのだ。 中国人観光客が日本に来たくないと言うなら来なければよい。 日本の観光客、芸能人を上海万博に呼びたくないというのなら、日本人は行かなければよい。 ここ数年、ちょいとばかり経済が優勢になったからと言って、思い上がってここまで露骨に拳を振り回す中国政府の浅薄さが、これから先の中国政府の危うさを感じさせる。 中国は、自分の内政状態が危うくなると外敵を求める。 今、中国は、経済の曲がり角で、国内で不満が充満している。 そのはけ口に、尖閣諸島の釣り船がちょうど良い。 日本を敵にすると、中国中の不満が解消する。 そんな中国の、浅薄で、露骨な戦法に乗らず、逮捕した船長はしっかり裁判にかけ、有罪にした後で、国外退去処分にでもしてやればよい。 こんな事を平気で言える国、日本は、今のところ有り難い国だ。 1945年以前、軍部が支配していた日本は地獄だったが、世界では、その当時日本国民が味わっていた地獄を国民が味わっている国が多いのだ。 私の父は中国人を尊敬していて、中国人は本当に「大人(ターレン)」だと言っていた。 その影響で、私も中国人を尊敬していたのだが、ここ数年様子がおかしい。 わずかな一時の成功に酔って、一切を駄目にする歴史は「史記」などを読めば幾らでもその例はある。 中国人よ、今こそ「史記」を読め。
- 2010/09/22 - 暑いねえ、今年は初春の候を迎えて、さまざまな花が咲き始めて実に気持ちの良いシドニーを後にして、9月12日に日本へ戻ってきて既に10日経ったが、意義のある日は、ただ1日だけ。 18日に安川寿之輔先生の福沢諭吉についての講演を拝聴し、飛び入りで一言余計なおしゃべりをさせて頂き、その後会食に参加した。そのことだけ。 その会食は楽しかった。 本当に真面目に物事を考える方ばかりで、みんながこう言う自由で正義感あふれる人間だったら、この社会も、ここまでひどくはならなかっただろうに、と思う。 安川寿之輔先生は78歳だそうだが、実に若々しく、身のこなしも軽い。 結構、お酒も飲まれる。 そして、論理がさえている。 高文研という真面目な本ばかり出している出版社の編集者が間に入ってくださって、安川寿之輔先生にお会い出来たのだが、福沢諭吉研究の第一人者である安川寿之輔先生と出会えたことは私の人生にとって、素晴らしいことだった。 私は、来年の春を目指して、中学生にも分かるような内容で福沢諭吉についての本を書く準備を現在進めているが、一番助けになるのは安川寿之輔先生のお書きになった福沢諭吉研究の4冊の御本である。 福沢諭吉についての研究者の本を色々読んだが、安川寿之輔先生のように、筋道を立てて論理的に解明していく、また、その論理の筋道の検証が誰にでも出来る、そう言う研究者は安川寿之輔先生だけである。 自然科学の世界では、一つの論を立てる際には、まず、誰でもが検証できる事実を元に、論理を組立てていく。その論理の筋道が、第三者にも検証可能であること、が基本である。 ところが、おうおうにして、社会科学の世界では、その点が曖昧である。 例えば、福沢諭吉について言えば、多くの福沢諭吉の論文の中から自分に都合の良い物だけ選び取り、論をこねくり回して、自分独自の福沢諭吉像を作り上げる。 しかし、そのような論は、福沢諭吉の別の論文を持って来るとあっけなく崩れてしまう。 そう言うおかしな論文でも、論文を書いた人が、俗世間的な名声があり、社会的な地位があると、高く評価されてしまう。 自然科学の場合、結果は明確な数字で出て来る。 社会科学の場合は曖昧な「心理的納得」が結果であるような場合が少なくないのではないか。 安川寿之輔先生の御本の場合、そのように、恣意的に福沢諭吉の論文を選んで勝手に安川流の福沢諭吉像を作ると言う方式ではない。 福沢諭吉の論文を細大漏らさず網羅的に読んで、それを元に科学的に論を進める。 非常に明快である。 福沢諭吉の思想も、人間像も、福沢諭吉の書いた文章から把握できる。 思いこみや、偏見は一切入っていない。真実のみである。 それでは、安川先生のその4冊の御本があるのだから、今更私のような学者でもない、ただの漫画原作者ふぜいが福沢諭吉について、何も言う必要はないようだが、安川寿之輔先生のような専門家の書き方と、漫画原作者の書き方とでは、方法が違うので、別の角度から福沢諭吉を描くことが出来るかも知れない。私の本を読めば、もっと福沢諭吉について詳しく知りたくなって、安川寿之輔先生の本に進んでくれれば有り難い。私の本は、福沢諭吉への入門書という位置づけだと思う。 それが上手く行くかどうかは、これからの私の努力にかかっている。 安川寿之輔先生という、偉大な導き手のお力もお借りして、絶対に成功させてみせる。 今年の暑さは異常だが、世間も異常だ。 あの、大阪検察庁の主任検事は何なのだ。 証拠物件であるフロッピーディスクを「遊んでいる内にデータをいじってしまった」と仰言る。 証拠物件で遊ぶのかい。ええ?検事さんよ。 また、データをいじった方のフロッピーの情報ではなく、いじらない方の情報で調書を作ったのはどう言う訳だろう。いじった方のデータを使わないのなら、何のためにいじったんだ。 その辺の解明が必要だ。何か非常に臭いものを感じますね。 それに、いじったら、それこそ証拠隠滅のために、いじった形跡を消しておけばよいのに。 訳の分からない人間がいるものだ。 しかし、こう言う人間が大阪検察庁のエースだというのだから呆れる。 この人間は、小沢一郎氏の件でも東京に出て来て小沢一郎氏の秘書を取り調べている。 小沢一郎氏の件でも、不正をしているのではないか。 大阪高検と言えば、公金の不正使用で検察庁を訴えようとした、元検事を、その直前に不可解な容疑で逮捕してしまった経歴がある。 検察庁がそれでは、ほんまによう言わんわ。 小沢一郎氏追い落としの件では、検察庁は大成功だ。 検察庁のリーク→マスコミの一斉報道→マスコミの世論調査(マスコミに煽られた大衆は検察のリーク通り小沢一郎氏を悪の権化と思う)→世論調査を真に受けた党員たちによる民衆党代表選挙で、小沢一郎氏敗北。 菅直人首相は、はやばやとアメリカ追従路線を打ち出したし、これで、日本の支配者層は一安心という物だ。 こう言ういい加減な検察庁が、日本を動かしているかと思うと、村木氏ではないが「本当に怖い」 ところで、話が変わるが、桂歌丸はいい噺家になったねえ! 「笑点」なんかに出ているので、軽く見ていたら飛んでもない。 この、二、三年、ずいずいずいーっと伸びた。 噺家は歳を取らないと駄目なのかな。 いや、そんなことはない。歳を取っても、駄目な噺家は、駄目なままだ。 桂歌丸はよほど精進したに違いない。 12月3日に横浜で桂歌丸の独演会がある。 「美味しんぼ」の取材に協力してくれるカメラマン安井さんのご好意で入場券を手に入れた。 今から楽しみで仕方がない。 演目は何なのだろう。
- 2010/09/07 - 鳩山由紀夫氏から菅直人氏へ(3)さて、今回でこの話はお終い。 実は、この話はもっと前に、アップロードしたかったのだが、前回の分があまりに長すぎる、と言う文句があちこちから来た。 あんなに長いものを続けられたらたまらない、と言う。 では、少し間を置きましょうということで、今日まで、待ったんですよ。 これまでに、どうして日本がアメリカの奴隷国家になったのか話してきた。 昭和天皇の責任もある程度話した(充分ではない)。 自民党の結成当時のことも、その表面的なことだけ話した。 (もっと、深いところは、流石にアメリカの公文書館でも明らかにしていないし、自民党関係者が、これまで真実を語る勇気を持つ訳がなかったから、仕方がない) 押さえておくべき事は、自民党は、アメリカのCIAエージェント(代理人)として、金で買われた岸信介と児玉誉士夫によって作られたと言うことである。 岸信介は、東条内閣の商工大臣。 A級戦犯である。 この、A級戦犯だとか、B級戦犯とかいう言葉は、連合軍側が付けた物であって、連合軍側から見ればA級だかB級だか知らないが、そんな呼び方を勝手に付けられた我々日本人が、連合軍側の価値判断に従って、自分たちの国の政治家をA級戦犯などと呼んで事足れりとしているのはおかしな話だ。 日本人が、日本の戦争責任をきちんと自分たちで追及してこなかった、いい加減さ、怠惰、狡さ、がここに表れている。 我々日本人としては岸信介を「特級戦犯」に指定して、我々日本人自身が彼の戦争責任を追及するべきなのに、アメリカが、CIAのエージェントになることと引き替えに釈放してしまうと、日本人は、岸が敗戦までにどれだけのことをしたのか、追及するどころか、岸信介はあっという間に代議士になり、総理大臣にまでなってしまった。 こんな男を総理大臣にしてしまうなんて、本当に日本人はどうかしている。 良く日本の政治家は悪い、などと言うが、冗談じゃない、そんな悪い代議士を選ぶ選挙区の人間が悪いんだ。 日本を悪くしてきたのは、悪い政治家を選び続けて来た日本人自身だよ。 悪い政治家を自分で選んできた日本人自身だ。 個別に喧嘩を売る訳ではないが、岸信介を始め、安倍晋三に至るまで、悪質な連中を自分たちの代表として選び続けた選挙区の人々には「君たちが日本を駄目にするのに一番力を貸し人々なんだよ」と言いたい。 君たちの一票が、日本を駄目にして行ったんだ。 その自覚なんて、君たちにはないだろうな。 岸信介のもう一つの悪行。それは、文鮮明の統一協会が日本に侵入するのを助けたこと。 その女婿である安倍晋太郎も強力な統一協会支持者だったし、その息子、岸信介の孫安倍晋三も統一協会の保護者だ。 統一協会が、霊感商法など様々な悪事を重ねても、全然潰されないのは、岸信介に始まる自民党の政治家の保護があるからだ。 勿論、その政治家達は統一協会から金を貰っている。 その金は、統一協会が日本人を詐欺に引っかけて強奪した金だ。 日本に統一協会をはびこらせたのは岸信介とその一派、自民党議員だ。 岸信介ほどの悪質な人間は、日本史の中でもまれだ。 岸信介は、アメリカが日本を軍事基地として自由に使うことを許すように、日米安全保障条約を改定した。 日本がアメリカに隷属して身動き出来ない状況を、岸は作り上げたのである。 実に、CIAのエージェントとしては、アメリカの文書にも書かれているように、優秀だった。 1965年に、日本と大韓民国の間に「日韓基本条約」が結ばれたが、これはアメリにとって、東アジアを安定させるために必要な物であり、そのアメリカの意に従って、やはり、岸信介と児玉誉士夫が中心になって事を進めた。 その時のことは、時の韓国のKCIA(アメリカのCIAのような諜報機関)の部長で、後に韓国の首相になった金鍾泌氏がNHKテレビでも証言して、児玉誉士夫と一緒の写真も見せた。 「日韓基本条約」は、アメリカの意図の元に、岸信介、児玉誉士夫というCIAのエージェントの働きで、当時の韓国の独裁者朴正煕と佐藤栄作首相の下に結ばれた。 それ以降現在に至るまで、戦前・戦中の日本政府が韓国・朝鮮人に対する被害を与えた事例が明らかになっても、その賠償問題は「日韓基本条約」で解決済みと言って日本政府は逃げている。 この児玉誉士夫という人物について、今の若い人達には理解出来ないだろうと思うので、ここでおさらいしよう。 児玉誉士夫は1911年2月18日に福島県安達郡に生まれた。 それから以後のことは省略するが、とにかく、児玉誉士夫は右翼組織に入った。 1929年、18歳の時に、当時の絶望的な農民社会、失業者群、を救うためには天皇に訴えてこの社会を何とかして貰うしかないと考えて、東京麹町で天皇の車に突進して、直訴しようとした。 当然、警察に押さえられて、懲役6カ月の刑を受けた。 しかし、それが、児玉誉士夫の右翼社会での権威付けに大きく役に立った。 天皇に直訴した、と言うだけで、それまでの言葉だけ勇ましいことを言っていた右翼とは違って、行動右翼として、大変な闘士とし恐れられ、高く買われた。 1931年、時の浜口雄幸内閣の大蔵大臣井上準之助は金の輸出禁止を解き、為替相場を安定させようとしたが、世界恐慌の深刻化とデフレ政策が重なって、日本は大不況にみまわれ(昭和恐慌)、輸出は振るわず、金は流出し、日本経済は破綻(はたん)に瀕(ひん)した。 児玉誉士夫はそれに対して井上準之助に怒りを抱き、「護身用なり切腹用なり、自由に使え」と書いた手紙と一緒に短刀の小包を井上準之助に送った。 これで、児玉誉士夫は懲役5カ月の刑を受けた。 さらに、1935年、政党財界の巨頭、重臣らを襲撃して殺害し、東京全体を混乱に陥れて、軍に戒厳令を敷かせよう。 軍部が立ち上がり我々に協力することで、政党政治を終わらせ、国家改造を達成しよう、と企んだ。 しかし、直前にこの企みが発覚し、集まりの場を警察官に急襲され、児玉誉士夫は短銃自殺を図ったが、命は助かり、懲役4年6カ月の刑に服した。 このように、児玉誉士夫は行動派右翼でもかなり目立つ存在だった。 ここまでは、反権力的な右翼だったのだが、それから後は、権力とべったりの右翼になった。 というより、権力と一体になった。 紆余曲折有って、児玉誉士夫は海軍と結びつき、「児玉機関」なる物を作り、中国で海軍に必要な物質を調達する働きをした。 敗戦後、中国から持帰った、プラチナ、ダイアモンド、タングステンなどを政治活動に使った。 特筆するべき事は、鳩山一郎に政権を取らせるために、本人が言うには「カマスに一つ半の宝石」とか「十畳くらいの大きさの部屋半分を占める量のプラチナ」を提供したと言うことである。 この、鳩山一郎との関係は、覚えておいて下さい。 その後、児玉誉士夫は日本の政財界の裏で、顔役として活躍し続けた。 何か大きな事件の裏には必ずと言っていいほど、児玉誉士夫がいた。 また、日本の暴力団を大同団結しようともした。 このときは、関西以西で、山口組と本多会という二つの暴力団が激しい争いを繰り広げていて、全国的な大同団結は出来なかったが、関東の暴力団は、稲川会、住吉会(今の住吉連合)などをまとめ上げて、暴力団のボスの上のボスになった。 後に、ロッキード事件が起こった時に、ロッキードのエージェントとして働いていたことが暴露され、ロッキード社から貰った金についての脱税容疑で起訴された。 本来なら、CIAのエージェントとしてアメリカから守られるはずの児玉誉士夫が日本の検察に挙げられたのは不思議だと思っていたが、前回挙げた、ティム・ワイナーの本に載っているCIAの文書で、その理由が分かった。 CIAは、「児玉誉士夫は、情報提供者としては役に立たない。彼は、自分の利益のことしか考えない」として、既に見放されていたのである。 しかし、ロッキード事件が起こるまで、児玉誉士夫本人も、自民党の実力者たちも、それに結託し甘い汁を吸っていた人間達も、CIAが児玉誉士夫を見捨てていたとは夢にも思わなかっただろう。 ロッキードが日本側に渡した30億円の賄賂の内、田中角栄に渡ったのは5億円とされている。 5億円は大変な金額だが、30億円のうちの一部に過ぎない。 どうして、田中角栄ばかり検察は追及したか。 もちろん、総理大臣の犯罪と言うことで大きく取り扱わなければならないだろうが、そんなことを言えば、田中以前も以後も、総理大臣が関与したと思われる事件は沢山あったが、検察は全然手を出さない。 どうして、アメリカまで出かけていって、ロッキード関係者の嘱託尋問をするまでに力を入れたのか。 事件全体を考えると、不自然である。 これには、田中角栄が、日本が独自に石油を調達する道を開こうとしたことがアメリカを怒らせたからだという説がある。 事件の発端が、アメリカ上院で始まったことも「田中角栄がアメリカという虎の尾を踏んだ」という説に信憑性を持たせた。 そもそも、ロッキード社は自衛隊にF-104戦闘機を導入し、対潜哨戒機P-3Cも売り込んだ。 トライスターなどと言う旅客機より、F-104、P-3Cの方が、遙かに値が張る物で、その導入を巡って自民党の大物政治家が賄賂を取ったと言う噂は根強いが、検察は全然動かない。 なぜ、たかが旅客機なんかで動くのか。 これも、不自然だ。 このロッキード事件が、日本の政治家達を怯えさせたことは間違いがない。 アメリカの気にいらないことをすると、潰される。 日本の警察が長い間手も出せないでいた日本のボス中のボス児玉誉士夫を一発で潰した。 今太閤で怖いもの無しの政界の実力者田中角栄も潰した。 これは、恐ろしい。 この、政治の表と裏の二人の権力者を倒されたことで、日本の政治家・官僚たちは、アメリカの力のすごさを思い知らされて震え上がったことだろう。 アメリカのいうことを聞いていれば、検察は動かないと悟っただろう。 1976年という年、日本が高度成長で図に乗り始めた時だ。その時点で日本の政治家を締め直すのにロッキード事件は大いに役に立った。 アメリカに逆らおうとする総理大臣は以後一人も現れない。 それどころか、「思いやり予算」を組んだりする始末だ。 日本のアメリカ隷属、絶対服従は、ロッキード事件以降、一層強化された。 それにしても、児玉誉士夫などの裏の勢力と密接に結びついた自民党政治は、ティム・ワイナーに「日本人は、CIAのサポートによって作られた政治システムをKozo oshoku(構造汚職)と呼ぶようになった」と書かれるくらい、汚職にまみれた腐敗した物となった。 それが、50年以上続いて、とうとう来年中には、日本の財政赤字は1000兆円を超えることが確実となるまでに、日本は破壊された。 自民党政府と官僚たち、それに結託するゼネコンなどが日本を破壊し尽くしたのである。 そこで、民主党政府に変わったところで、何が出来るというのか。 50年以上かけて、徹底的に破壊したこの国をどうして一年や二年で修復出来るというのか。 実は今回、日本のマスコミに対するアメリカの影響力について、書こうと思ったのだが、使えると思った資料が、実は精査してみると欠点だらけで使えないことが判明した。 このような微妙な問題を扱う時には、絶対に大丈夫だと思われる資料を用いることが必要だ。 「ほぼ大丈夫」では、困る。 この件については、もっと資料を固めてから、改めて書くことにする。 さて、首相が鳩山由紀夫氏から、菅直人氏に変わった。 鳩山由紀夫氏は首相になると、検察やマスコミから猛烈な攻撃を受けた。 それは、当然のことで、鳩山由紀夫氏が普天間問題で、アメリカを刺激することを言ったからだ。 日本の総理大臣で初めてアメリカの意に逆らうことを言ったのだ。 鳩山由紀夫氏は自分の祖父が、児玉誉士夫から巨額の資金援助を受けたことを忘れていたのだろうか。 鳩山由紀夫氏が突然おとなしくなって首相を辞めたのは、それを思い出したか、だれかが、もっとまずい何ごとかを、氏に告げたのでは無かろうか。 CIAのエージェントである児玉誉士夫とそれだけ親密な関係に有れば、鳩山一郎氏も、何かをアメリカに握られているはずだ。 鳩山由紀夫氏はそれを、耳元でささやかれたのではないだろうか。 菅直人氏は、アメリカの神経に障ることを言わない。 アメリカの属国であることにアレルギーがない。 それどころか、IMFの希望通り、「消費税引き上げ」を言い出した。 選挙で負けることが分かっているにも拘わらず、「消費税引き上げ」を言い出した裏に何があるのだろう。 IMFはInternational Monetary Fundの略だ。 国際通貨基金と日本語で訳されていて、国連の専門機関だし、日本もその理事国の一つだし、アジア太平洋地域事務所の所長は日本人だが、1997年のアジア通貨危機の際の動きを見ると、アメリカの意向が強いと思われる。 その、IMFは日本に消費税の増額を要求している。 結論から言えば、菅直人首相になったところで、日本のアメリカ隷属状況は変わらないだろう。 最後に、アメリカに隷属している内に、この日本の国土がどうなってしまっているのか、それを図で見て頂きたい。 (以下の図は、「週刊金曜日」のご好意で、2010年6月4日号に掲載された、「安保による日本列島の侵略基地化」を使わせて頂いた物です) まず、日本全体がアメリカの侵略基地となっているその全体図を見て頂こう。 (全ての写真は、クリックすると大きくなります) まず、沖縄県全体の面積の10.9パーセント、沖縄本島の面積の19.3パーセントを米軍基地が占めていることに注目して頂きたい。 沖縄県の面積は全国の0.6パーセント、そして、日本全国にある米軍基地の25パーセント、日本全国で米軍基地が占める面積の内75パーセントが沖縄にある計算になる。 その沖縄の樣子を、拡大してみる。 沖縄の米軍基地問題は、深刻な問題だが、我々が見のがしている大きな問題がある。 それは、アメリカが日本の空域を支配していることである。 福生市に横田基地がある。その周辺の空域は横田エリアといって、米軍の支配下にある。 そこで何が起こるか。 日本の民間航空会社は、その横田エリアを通ることが出来ないのである。 横田エリアと言うと横田基地だけのように思われるが、写真を拡大してみよう。 何と1都8県にまたがる広さである。 しかも、この図では、平面だけしか分からないが、空域となると、その上空遙か高くまで入るのである。 定期航空協会のホームページ http://www.teikokyo.gr.jp/pdf/20060511_pamphlet.pdf から、引用させて貰った図を見て頂きたい。 こんな空域の高くまでアメリカが支配していて、日本の飛行機が入れない。 羽田から西方向へ行く場合、一旦羽田を離陸した後東京湾内で大回りしながら横田エリア上空を飛び越える高さまで上昇しなければならない。 羽田発大阪行きは特別に横田エリアを飛んでも良いが、高さの制限があるから、横田エリアを出てから、最適高度まで再上昇しなければならない。 ともに、大変な燃料の無駄遣いをすることになる。 羽田・成田空港へ西から到着する場合、横田エリアを避けて飛行しなければならない。 定期航空協会の計算によれば、この横田エリアを避けるために、年に140億円も無駄な燃料を使っている。 狭い個所を往復の飛行機が通過しなければならないので、混雑する。 横田エリアだけでなく、岩国エリアもある。 ここも、当然、日本の飛行機は飛ぶことが出来ない。 自分の国の空を、アメリカに支配されていたなんて、みんな考えたことがないんじゃないのか。 燃料の無駄遣いも重大な問題だが、それ以上に日本と言う国の主権が侵されていることの方が遙かに重大な問題だ。 自分の国の空を自分の国の飛行機が自由に飛べない、そんな国は独立国ではない。 主権国家であれば、自分の国の空域を全部自分で支配するべきだろう。 その他にも、アメリカが日本の国土を支配している樣子を、地図の見方を参照にして、しっかり把握して下さい。 空域管理エリアだけでなく、演習空域なども作っているんだから傍若無人だ。 そんこと、みんな知ってましたか。 私は、この地図を見て寒気がした。泣きたくなった。 いくら何でもひどすぎる。 ここまで、踏みにじられて、平気でいられたら、まともじゃない。 ロシアが不当に占拠している、北方四島の返還を要求することも大事だが、この空域をまず返還させることの方が大事だろう。 毎日何百便もの飛行機が、横田エリアのお陰で、多大な迷惑をこうむっているのだ。 自民党、民主党、は何か事が起こった場合、アメリカの軍事力に守って貰わなければならないから、米軍基地は必要だ、と言う。 しかし、何かが起こった場合、などと言うが、どこの国が日本に戦争を仕掛けるというのだ。 ロシア、韓国、中国、北朝鮮、可能性があるのはこの4国しかないが、この4国のどれが日本に攻撃を仕掛けるというのか。 北朝鮮の金正日氏は、時々とんでもないことをするから、ノドンやテポドンを日本に打ち込まないとは限らないが、そのミサイルは、米軍がいても防げない。 ミサイル防衛計画など実際の役に立つかどうかもわからないし、まだ完成もしていない。 米軍には防げない。 しかも、アメリカは尖閣諸島で日本と中国の間で何かが起こっても関わり合いにならないという。 何処かの国が日本へ戦争を仕掛ける可能性はゼロに近い。 唯一可能性がある、尖閣諸島で起こるかも知れない中国との揉め事に際してアメリカは日本を助けないという。 それでは、アメリカ軍に日本にいて貰う必要がない。 米軍は、日本にとって厄介なだけで、何の役にも立たない。 それなのに、アメリカ軍日本に居座り、イラクやアフガニスタンに、日本の基地から攻撃に行く。 アメリカは、第二次大戦の戦利品として、日本を徹底的に利用してしゃぶり尽くすだけなんだ。 「在日特権を許さない市民の会」という集まりがあって、朝鮮大学などに激しいデモをかけているようだが、在日で一番特権を享受している米軍基地と米軍関係施設になぜ、デモをかけないんですか。 思いやり予算を今までに5兆円以上貰って贅沢な暮らしをしている在日米軍関係者こそ、一番特権を与えられている存在で、在特会が攻めるべき相手だと思いますが。 さて、結論。 鳩山由紀夫首相から、菅直人首相へ変わったところで、我々日本人がこのままの奴隷根性である限り、未来永劫、日本はアメリカの奴隷国家だ。国として、人間として、誇りも何も無い属国のままだ。 鳩山首相も駄目、菅首相も駄目、ああ、本当にみんな、何とかしようじゃないか。 私は、このまま、アメリカの属国の人間として死ぬのはいやだ。 反米を煽っている訳じゃない。 日本を普通の国に返したいと願っているだけだ。 奴隷のまま死ぬのは切なすぎるのだ。情けないのだ。みじめなのだ。
- 2010/09/05 - 父の日 いや、驚きました。 前から、書いていますが、私の家の可愛いラブラドールのポチは16歳を過ぎて、老い衰え、家族の者がいないと泣くので、この一年ほど、家族揃って食事に出られないという悲惨な日々が続いているのですが、今日は、連れ合いに 「もう、今日は、ポチを泣かしてしまおう。小籠包でも食べに行こう」 とさそったら、連れ合いは実に冷たく 「あら、私たち、ポチを泣かしたくないわよ。今日は家で夕食よ」 といなされてそれでお終い。 その、「私たち」と言うところにご注目ください。 連れ合い一人の「わたし」ではないのです。 「わたしたち」と言うからには、娘たちも入っているのです。 こうなると、私には抵抗する術がありません。 実は、シドニーの「小籠包」は化学調味料の使用量が凄く、二つ食べただけで私の場合舌が腫れ上がるのですが、あの「小籠包」自体の味は忘れがたく、ときどき、舌を腫れ上がらせながらでも食べたりするのですよ。 食べた後で「シー、ハー、シー、ハー」と口を大きく開けて舌をさましながら歩く私を見て、連れ合いや娘たちは 「もう、お父さん、小籠包なんかやめたら」などと言います。 本当にやめたいのだが、あの、熱いつゆが小籠包の中から噴き出す一瞬の快感が忘れられず、つい、食べに行ってしまって、 「化学調味料を作っている奴らを殺せ」 などと不穏なことを喚くのです。 正直に言って、シドニーの「小籠包」は「食べてはいけない食べ物」の一つです。 で、なぜ驚いたかというと、夕食の時間になって、長男が 「お父さん、ご飯だよ」と呼びに来てくれたのですが、その後のことです。 食事の迎えに来てくれたその長男が少しばかり、酒臭い。 で、「おまえ、もう酒を飲んでいるのか」とたずねると、長男は、 「料理する時は、酒を飲まなきゃ」などと言う。 おかしいな、と思いながら、食卓にたどり着いたら、ああ、なんと言う事、今日は「餃子大会」ではないか。 水餃子、焼き餃子、そして、我が家独特の「ローピン」だ。 「ど、どうしたの!」とたじろぐ、私に、家族一同が「今日は父の日よ」と言ってくれた。 日本とは違うのだが、オーストラリアでは、今日が父の日なのだ。(9月の第1週の日曜日) もう、本当に、涙、涙、ですよ。 美味しくて有り難くて、こんな幸せな思いをしていいのかな、と思いました。 餃子作りは、これは大変な作業だ。 本当に美味しい餃子なんて、簡単に作れる物ではない。 一番大事なのは、餃子の皮作りです。 スーパーなんかに行くと餃子の皮、と言うものを売っているが、あんなものを使って作ったら、我が家の餃子ではない。 私の父は十年以上前に亡くなりましたが、自分の孫たち、即ち私の息子・娘たちに餃子の皮の作り方、また、父が中国で教わってきた「ローピン」の作り方を徹底的に教えていきました。 で、今日も、餃子の皮、ローピンは長男の手による物です。 長男は、小麦粉に水を加え、塩を加え、練って練って練りまくるところを全部引き受けます。 刻んだ青ネギを練り込んだローピンも長男が作りました。 餃子の中身は、娘たちと連れ合いによる物です。 そう言う訳で、餃子の皮も中身も最高、言うことなし。 この、餃子、それも、主に水餃子を食べていると、私には、懐かしい両親の顔が浮かぶのです。 こう言うことは、子供たちには思いもよらない。 しかし、私には、日本が戦争に負けて、それまで栄華を極めていた北京から日本へ逃げ帰ってきて、突然すさまじい貧窮の世界に陥ったあの当時の両親の姿を思い浮かべて、その両親が私に伝えた餃子とローピンを、私の子供たちが完璧に作っているのを見ると、目を見開いていても、その目の裏に涙の滝が流れているのです。 感傷にふけるのはみっともない物です。 でも、感傷に浸ることの出来るのは・・・・、などと、余計な言い訳を言うのはやめます。 今夜は、思い切り、感傷にふけります。 こんな物、読んだ人は、大変な災難だね。
- 2010/09/04 - 我が家の歴史教育の成果 数日前、夕食の時に、次男を除いて家族全員そろった。(最近はみんな働いているから中々全員揃わない。しかも、次男は、今、東京で働いている) 私にとって、一番の楽しみはこの夕食の時の一家団欒で、この楽しみのために,毎日仕事をしているのである。 私は、酒を飲まないと食事は10分もかからずに終わってしまうが、酒を飲むと2時間も、時には3時間もかかる。 最近は子供たちにうるさがられるようになったから若干控えているが、昔は、私が色々とおしゃべりをした。これは、子供たちに必要だと思う教育を与える意味もあった。 子供たちも,この時間は大切だと思ってくれていたようで、次男が小学生でまだビデオゲームに凝っていた頃、食事を終わったら早くゲームに戻りたかったのか、すぐに席を立ったら、長男が次男に「おい、食事の後は皆で世間話をするんだよ」と怒った。 この、世間話、と言うところが如何にも長男らしく屈託がなく愉快だと私と連れ合いは喜んで笑ったが、正にその通りで、家族でとりとめのない事をおしゃべりするのは本当に楽しい物だ。 で、数日前の夕食の時に色々おしゃべりをしている際に、私は、「もう22年もいるし,みんなオーストラリアに仕事を持っているから、そろそろオーストラリアの国籍にするかい」と子供たちに尋ねた。 私は、子供たちが「そうだなあ、」とか、「考えてはいるんだけれど」などと、肯定的な態度を示すかと思ったら、とんでもない。鼻もひっかけない。 「そんなこと考えられないわ」「私は、日本がいい」「いやだよ、そんなの」とまるで問題にしない。 それで、その話はお終いになって、他の話題に移ってしまった。 その冷淡、無関心なことといったら、オーストラリア人の友人たちが見たらがっかりするだろうと思った。 子供たちは、自分たちが日本人であることを大変に誇りに思っていて、国籍を変えるなんて、とんでもない事だと考えているのだ。 日本一の愛国者を自認する私としては、嬉しかった。 私の子供たちは,実に堂々たる日本人である、と自慢したい。 我が家庭教育の成果ここにありだ。 私は、子供たちが物事が分かるようになってから、ずっと厳しい歴史教育をしてきた。 絶対に日本の学校では教えてくれない、日本の現代史を、しっかり教えてきた。 日本の朝鮮、中国、東南アジア侵略についての事実。 日清戦争、日露戦争が司馬遼太郎のいうような「祖国防衛戦争」ではなく、明確な侵略戦争だったこと。 日本の韓国併合が犯罪であること。 日本人の、韓国、共和国、中国人、その他東南アジアの人々に対する偏見と差別の犯罪性と醜悪さ。 慰安婦問題。 こう言うことを、きっちりと、一つも誤魔化さず、きちんとした一次資料を基に、教えてきた。 10数年前に、マレーシア・シンガポールに、第二次大戦中に日本軍がシンガポール・マレーシアでどんな残虐行為をしたか検証の旅に出た。 その結果、もう、目も耳もふさぎたくなるような、事実を見せつけられた。 今の日本人の大多数が知らないか、無視している史実である。 その時、大勢の人達とインタビューをした。 その、インタビューは困難を極める物で、まず言葉の問題が一番大きかった。 日本軍は、マレーシア、シンガポールでは主に中国人を虐殺した。それは、現地の中国人が、共産党と繋がっていると言う予測の元に、また、中国で戦線を拡大している日本軍にとって、中国人は全部敵だと思ってのことだったのだろう。 シンガポール・マレーシアの中国人は、広東語、福建語、客家語、広東地方の方言、などを話す。(中国の言葉は、同じ漢字を使っても、地方ごとに完全に発音が違う。香港などでテレビを見たことのある方はご存知だと思うが、画面で、登場人物は中国語を喋っているのに、その下に漢字の字幕が出る。それほど、地方によっては同じ中国語とは思えないほど発音も文法も違うのである) シンガポールでは、シンガポールの日本語新聞「星日報」の長井一夫編集長、清水愛砂さん、簫翰宇さんなどの力を借りた。 まず、広東の地方方言で喋る人の言葉を、その方言の分かる中国人が広東語に直して長井さんに話してくれる。それを長井さんが、日本語に訳してくれる。 別のところでは、清水愛砂さんが、広東語から日本語に翻訳してくれる。 また、簫翰宇さんが清水さんに分からない方言を聞きとって、英語で私に話してくれる。 マレーシアでは、粱麗麗さんが、広東語や福建語から英語に直してくれる。 英語を喋る人からは英語で聞く。 結果として、一番多いのが英語による聞き取りだった。 その英語の聞き取りのテープを文書に起こしてくれたのが、長女と次女である。 その内容たるや、日本軍のすさまじい残虐行為の数々である。虐殺、強姦、略奪、拷問。 そのテープ起こしを、当時高校生と中学生だった、長女と次女にさせたのである。 残虐行為の犠牲になった当の本人の生の言葉を聞くのだから娘たちには辛い仕事だっただろう。 私は、子供たちが真実を知る教育になると思って、させたのだ。 その結果は、飛鳥新社から「日本人の誇り」として出版した。 さて、日本では、歴史の書き換えをしたがっている人達が沢山いる。 そう言う人達は、過去の日本の歴史をきちんと振り返ろうとすると、それは「自虐的だ」という。 過去の歴史を正確に語ろうとすると、それを「自虐史観」だという。 冗談も休み休み言って貰いたい。 だれが、自分たちの父や祖父たちが犯した犯罪的な行為を知ることが楽しい物か。 こんな辛いことが楽しい訳がないだろう。 大体、そんな残虐行為を犯した日本兵だって、戦争で駆出されなければ、家庭では穏和で柔和で平和な男たちだったのだ。(家庭内暴力などは勿論あっただろうが、それは戦時でなく平時でも起こる全世界共通の問題だ) 普通のそこらの町の男に残虐行為をするように仕向けた物は何なのか、それを突き止めなければこの世の真実は理解出来ないのだ。 「自虐」にふけって楽しむような、変態的な性癖を私は持っていない。 ただ、私は史実を正確に知らなければならないと思っているだけだ。 「自虐史観」だ「司馬史観」だなどと言って、過去の事実をねじ曲げ、嘘で固めて過去を美化をし、子供たちに真実を教えまいとする人々の罪は重い。 その人たちは、日本の次代を背負って立つ若い人達に対して計り知れない被害を与えている。 自分たちの歴史をきちんと知らないばかりに、海外で、大恥をかいてビジネスも上手く行かなくなった例は沢山ある。 歴史を知らない日本人があまりに大勢いるので、「日本人は嘘つきだ」「日本人は不正直だ」「日本人は、また良からぬ事を企むに違いない」とあらぬ非難を現実に我々は受けている。(我々というと一般的に過ぎる。はっきりと、私は、と書こう) 日本の中にとじこもって、異常なる排外主義と変態的民族主義的ナルシシズムにふけって、仲間同士、嘘のつきっこをし、空威張りをし、あさましい慰め合いをしている分には自分たちの真の姿が分からない。 一歩、外国に出てみればよい。 経済的にこれだけ国際化が進んだ現在、特殊な職業に就いている人達(歴史書き換えに専念している大学教授、評論家、外国語もしゃべれないくせに外国の哲学を日本へ輸入することで生計の道を立てている不思議な大学教授、戦前からの右翼的風潮を強く持っている大企業、大出版社、マスコミ、などにしっぽを振って生きて行くジャーナリストと称する人間達)以外は生涯外国人とつきあわないですむ、と言う訳にはいかないだろう。観光で海外に行く人も多いし、外国からの観光客も来る。 まともな歴史教育を受けていないと、外国人と会った時に赤っ恥をかく。 外国の大学卒業程度の教養を持つ人達は、それぞれ、歴史をしっかり学んでいるし、自分の意見も確立している。 いわば、きちんと対社会的な理論武装が出来ているのである。 そこに、とんでもない嘘の歴史を教え込まれた日本人が出かけて行ったら、其の場でその日本人は、レッド・カード一発退場! おおばかもの!下らない人間のクズ!などと、あざけられてお終いだ。 「歴史書き換え論者」たちは、日本が国際的に活躍出来ないように手足を縛り上げるために、一生懸命取り組んでいるとんでもない犯罪者たちだ。 「新しい歴史教科書」なんか作っている人達は、どこか外国の破壊工作組織から金を貰って日本を駄目にするために陰謀を企んでいる人達に違いない。(わ、は、は、は、こう言う低級な陰謀論は連中にぴったりで面白いねえ) そうでなければ、あそこまで日本を駄目にしようと思う訳がない。 ああいう人間こそ、この日本を没落させようと企んでいる、悪党連中だ。 嘘をつき、ごまかしを言う人間がどれだけ、他人に軽蔑されるか、馬鹿にされるか、相手にされなくなるか、どうしてあの連中は分からないんだろう。 私の子供たちは、「歴史書き換え論者」にいわせれば「自虐的」な歴史を私にきちんと教えられた。(「自虐的」でもなんでもない、歴史的事実を教えただけだけれどね) しかし、私の子供たちは、自分たちは未来に生きるんだ、という決意があるから、過去の歴史を知ることで卑屈になったりすることはない。 過去の歴史をきちんと知っているから、自分たちはおなじ間違いを犯さないという自信がある。 私の子供たちは中国人とも韓国人とも、オーストラリア人とも、どこの国の人間とも対等に仲良くやっていっている。 次女は、大学の時に,韓国人の同級生と一緒に暮らしたりもしていたし、私の息子たちはアジア人の友人を沢山持っている。 私の子供たちは、一切の人種的偏見を持っていないし、きちんと歴史の事実を知っているから、アジア人の友人たちからも、オーストラリア人からも、みんなから信頼されている。 そして、これだけ、徹底的に、「歴史書き換え論者」たちに「自虐史観」といわれる歴史の事実を私が叩き込んでも、日本を誇りに思っていて、日本の国籍を捨てることなど夢にも思わない。 日本人として堂々と胸を張って世界中の人間を相手にしている。 アメリカに行ってもヨーロッパに行っても、人間の根本を真実で鍛えてあるから、逆におかしな差別を受けることが万一あってもへこたれない。差別と対決して勝利する力の備えは充分にある。 「歴史書き換え論者」のような連中に、嘘にまみれた歴史教育を施されると、世界における、本当の自分の姿を掴むことが出来ず、しっかり対社会的な理論武装の出来ている外国人をあいてにしたら、へなへなと、くずれおちてしまうだろう。 本当の愛国とは、嘘をついて自分を飾り立てることではない。 過去の過ちをしっかり認める勇気を持ち、二度と過ちを犯さないという強い決意を持ち、全ての外国の人々から信頼を受けて、未来に向けて日本と日本人が繁栄する道を切り開くことである。 (本当のことをいうと、愛国とか、日本人とか、日本の国とか、そんなことにこだわりたくないのだが、この世界では当分の間、これから少なくとも百年近くは、国民国家の時代が続くだろうと思われるので、今ある自分たちを守るために、仕方なく日本人とか日本の国とか、言っているのである。 早く、この国民国家の時代を終わらせて、「ヨーロッパ連合」を更に改良した形の「世界連合」を作るのが我々の義務だ。その「世界連合」では、民族意識は文化として残るだろうが、政治的な意味を持つ物ではなくなるだろう。) 「歴史書き換え論者」は、弱虫毛虫挾んで捨てろ、みたいな連中である。 自分たちの過去をはっきり見つめる勇気がない。 過ちを正す勇気もない。 人間としての誇りがない。人間のクズ共である。 私は、私の子供たちに正しい歴史教育を与えることが出来て本当に幸せだった。 「歴史書き換え論者」がこれ以上はびこったら、日本はゴミためになりますよ。 最近、「歴史書き換え論者」の努力が功を奏して、日本に大分ゴミが増えたようだ。 そう言う訳で、私の子供たちは、立派に育ってくれた、と日本一の愛国者の私は、にんまりしているのである。 (単に、子供自慢をしている訳ではありません。正しい歴史観を「自虐史観」だなどと言う汚らしいウスバカゲロウに殺虫剤をかけてやっただけですよ)(あ、本当のウスバカゲロウはきれいな昆虫です。前に書いてあるウスバカゲロウは漢字に直してください。へっへ、流石にここで私自身が漢字に直す訳にはいかないね。みなさん、それぞれにしてみてね) (ヒントをいうと、ウスバカゲロウを本来の昆虫の名称どおり薄羽蜉蝣として、薄羽・ウスバと蜉蝣・カゲロウの二つに分けないこと。ウスは薄、ゲロウは下郎という字をあてること。その間の字は簡単に分かりますね) (なんて、結局、全部ばらしちゃったな)
- 2010/08/17 - お相撲さんをいじめる前に このところ、大相撲と、暴力団と関係が問題になっている。 野球賭博にのめり込んだお相撲さんと(私は、とにかく相撲が好きなので、どうしてもお相撲さんと親しみを込めて呼びたいのだ。力士などと、つまらない言葉は使いたくない)ヤクザの関係が騒がれて、名古屋場所は開催すら危ぶまれた。 昨日は、現大関がゴルフの競技の際に暴力団関係者と一緒に写真に写っていた事が取り上げられて、騒ぎになった。 暴力団が、最悪の存在であることは論を待たない。 あの連中がいなければ、どんなに、この社会が清潔で平穏でいられることだろうか。 覚醒剤、麻薬、なども暴力団がいなければここまで社会的に蔓延しなかっただろう。ヤミ金融、右翼団体を装った暴力団による脅迫事件、ヤミ金融、貧困者を狙い撃ちにする貧困産業、など、暴力団にによって日本の社会がこうむっている被害は巨大な物がある。 日本では、公にされていないが、日本のバブル経済の破綻の大きな原因はヤクザによる物であると外国では知られている(なぜ、日本では公にされないのか、それは大企業、マスコミも全部暴力団の影響を受けていたからである)。 日本のバブル景気は不動産景気による物が大きいが、その不動産取引に大きく拘わっていたのが暴力団・ヤクザである。 バブル経済が破綻した後、不良債務を背負った企業の名前が公表されたが、その多くが、広域暴力団と関わりがあった。 いわゆる昔からの大財閥企業も、地上げなどの不動産買収に暴力団・ヤクザを使っていた。 暴力団と大企業の関係は、実は戦後の日本では当たり前のことなのである。 以前、自民党の成立時の時に書いたことだが、日本の暴力団の総元締めである児玉誉士夫が日本の政治・経済に大きな影響力を及ぼしていた。 今、問題になっている日韓条約の締結に関しても、児玉誉士夫が岸信介と共にアメリカの意を受けて大きな働きをした。 1965年に九頭竜川汚職事件、が問題になった。 その時、暗躍したのが児玉誉士夫であり、児玉誉士夫と組んだのが後の総理大臣中曽根康弘であり、さらに、中曽根康弘に協力したのが、現在日本を代表する大新聞の会長である。 このように、日本を代表する大企業、総理大臣、その他の政治家、大新聞の会長まで、暴力団と深い繋がりがあるのが、日本という国である。 私は、お相撲さんびいきで言っているのではない。 お相撲さんが暴力団とゴルフをしたことを、大相撲の存続にまで影響するほど批判するなら、どうして、大企業、政治家、大新聞を暴力団の繋がりで批判しないのだ。 第一、自分の会社の会長が暴力団の親玉と深い繋がりがある大新聞が、良くもしゃあしゃあとお相撲さんを批判出来る物だ。 私は、お相撲さんと、暴力団が関係を持つことを絶対に擁護しない。 ならば、お相撲さん以上に、この日本の社会に深く強い影響力を持っている大企業、大新聞との暴力団の繋がりを、きちんと批判するべきだろう。 お相撲さんをいじめる前に、我々がとっちめなければならない連中がいるのを忘れてはならない。 お相撲さんばかりいじめて、自分たちの汚い面には頬かぶりしている新聞や政治家をまず、やっつけることだな。 大新聞、大企業、政治家が、自分たちの身代わりに、大相撲を潰すのはこれは許せない。 ああ、野見宿禰(のみのすくね)を呼び戻して、今お相撲さんをいじめている連中を投げ殺して貰いたい物だ。 (「野見宿禰」垂仁天皇の頃の廷臣。出雲の人。天皇の命により,当麻蹴速(タイマノケハヤ)と相撲をとって投げ殺し、以後朝廷に仕えた。《三省堂、スーパー大辞林》日本の相撲の元祖と言われる人間である)
- 2010/08/16 - さあ、元気を出すぞ この二週間、体調が最悪で、このブログの書き込みも、殆ど途絶えてしまっていた。 別に、死んだ訳ではない。 この体調の悪さはなんと言って良いのかね。 まず、頭だろうね。 頭の腐敗が進んだというのが正しいのかも知れない。 体も心も、深く深く沈み込む。 その理由は、しみじみ、この世界がいやになったと言うことなんだろうな。 今、まともな社会、って世界中に何処か有りますか。 2億5千年万年続いて、絶対にこのまま栄え続けると思った恐竜が亡びたのが6500万年前。 今では、小惑星の衝突による気候の変動が恐竜を絶滅させたと言う説が有力である。 有力であると言うだけで、それが、正しいと決まった訳ではない。 人類は、今亡びつつあると思う。 だって、あなた、この狭い日本だけで50基以上有る原子力発電所が、地震か何かで二つ、あるいは三つ壊れてご覧なさい。 日本だけじゃない。 世界中が、大変な被害を受けます。 中国も、どんどん新しく、原子力発電所を作るという。 ちょっと待ってくれよ。 中国のあの三峡ダムは何だったの。 今回の洪水を止めるのに何の役にも立たなかったじゃないか。 あれだけ大げさなことをして、一体これは何なんだ? そう言う国が、原子力発電所を作るというのは怖いよな。 だって、ぜんぶ、共産党幹部のメンツを立て、私腹を肥やすためだけなんだもの。 チェルノブイリ一つであれだけの騒ぎになったんだ。世界中の原子力発電所が四つか五つ壊れてご覧なさい。 お終いですよ。 どうして、みんな、こんな危険な物を安全だ、安全だと言い張るんだろう。 原子力工学を学んだ者は、特別に頭が良い訳ではありませんよ。 原子力のことをよく分かってもいない。(私は、色々な原子力工学関係者から話を聞いて、彼らは、たんに希望的予想に全てを賭けているに過ぎないと確信するに至った。安全について確信を持っている関係者は一人もいなかった) 工学部で、他に行くところがないから仕方なく原子力工学部に行ったと言う人間も多い。 要するに、原子力発電に対して、自らの全てを献身するなんて気持ちはさらさら無い人達が少なくないのだ。 原子力発電所の研究員も、事故が起こる前に、自分の定年が来るようにと、それだけ願っている人々が少なくない。 実際の、危険な作業は自分たちでせず、契約社員にさせている研究員が、反論出来るか。 出来たら、反論して下さい。 このブログに、その反論を、きっちり載せますから。 ところで、東京大学から、「原子力工学科」が無くなったのは面白い。 とにかく、進学希望学生が全然来ないというのだ。進学希望学生がいなかったら、学科なんか成り立たないのは当然だ。 学生たちは分かっているんだね。 学生たちは、自分たちの未来に対して必死に考えるから、未来のない学科には行かないんだよ。そう言う意味では、東大の学生は、ちゃんと物事を考えているな。 人類が亡びるのは、原子力発電所のせいだけではない。 日本は人口減少が問題になっているが、世界的には、今人口爆発という未曾有の事態に直面している。 地球の歴史を見てみると、だいたい、一つの種の動物が過剰に繁殖すると、必ず反動が来るようだ。 今、中国、タイ、インド、あの辺りで、水争いが激しい。 中国は、司馬遷の時代から全く自国の覇権しか考えない国だから、隣の国の水問題など考えない。そう言う、感性はない。 で、いま、あのアジア大陸の川の入り組んだ辺りに、どんどん中国がダムを造って水を中国に引いていくので、近隣の国と大変に揉めているという。 しかし、今や、中国は経済大国、軍事大国だ。 タイや、インド、パキスタン、などが中国と対抗しようと思ったらこれは大変だ。 まともに戦争をすれは,中国に敵う訳がない。となると、また、局地戦争、テロの連続か。 ここまで、異常に人類が繁殖して、環境を破壊したら、もうじき食べ物と水を巡っての激しい争いが起こるだろう。 昔は、槍と刀で戦っていたが、今は、核戦力だ。 さらば、人類、その日はそんなに遠くない、と思う。 と、まあ、こんなに悲観的にならずに、元気を出そう。 それが、我々の世代の人間の責任なのだから。 ところで、最近、私の次女がラーメン作りに凝りまして、まあ、あなた、麺を作るところから始めるんですよ。 しっかり麺生地を作って、充分の時間寝かせて、それで、パスタ製麺機で細麺を作るんです。 出汁は、青森の、アジの焼き干し、健康肥育の豚の肩ロースの煮込み汁(有機認定が難しいので有機と言えないが実質有機肥育の豚だ)、それに有機肥育のニワトリのがらである。 有機肥育のニワトリの卵を煮卵にする。これがうまい。 どんぶりの表面には、豚の肩ロースの煮込みの薄切り、煮卵を半分に切った物二つ、当然、煮卵の半熟の黄身がとろりぬめぬめと旨そうに流れ出かけています、わかめ、小松菜。 もう、このラーメンを食べると、他のラーメンなんか食べられませんよ。 私なんか、このスープ全部飲んだら、塩分過多になるかなと怯えつつ、どんぶり一杯のスープを飲んでしまう。 ああ、途中でやめられない。旨いんだ。 麺が旨い、スープが旨い、煮豚が旨い、卵が旨い、何もかも本物だから旨い。 不満はただ一つ。麺の量を増やしてくれい!替え玉ありにしてくれい! この、次女のラーメンを食べる度に、ラーメン専門店は、何をしているんだ、と腹が立つ。 ずぶの素人が、全く普通に作ってこんなに美味しいのに、ラーメン専門店は、わざわざまずくするために力を尽くしているのか。 そこが分からない。 返答せい!そこのラーメン屋! ああ、早く、また次女がラーメンを作ってくれないかな。 それだけが楽しみの、今日この頃でございます。 原子力発電所よりラーメンだろう。 そうじゃないかい、皆の衆。
- 2010/07/31 - スイカのショートケーキ 最近、AERAの2010年7月5日号を見ていて、「うぉーっ!これは食べたいっ!」 と言うケーキの写真を発見した。 私も、ずいぶん美味しい物にはすれっからしになっているが、このケーキは、その写真を見ただけで、目→頭脳→舌→胃袋といきなり伝わってしまった。 このケーキを食べたいっ! 余り食べたいので震え上がってしまった。 どんなケーキかって? ここは、朝日新聞社のご好意並らびにAERAのご好意にすがって、下にそのコピーを掲載させて頂く。 (こらあ、朝日新聞文句があるか、俺ンちでは物心ついた時から朝日新聞を取っているんだぞ、シドニーでも毎日取っているぞ。AERAと来た日には、創刊号から定期購読してらい。愛読者が、写真一枚使っただけで文句は言うまいな。著作権は朝日と、写真家の間で付けてくれ。) すごいでしょ。 この、赤いみずみずしい果物のショートケーキ。 私は、イチゴのショートケーキが大好きで、私の娘たちは私の誕生日には必ずイチゴのショートケーキを作ってくれるんだが、このショートケーキには参りましたね。 この、赤い果物は、イチゴじゃないんだ。 スイカなんです。 AERAに書かれているこのケーキの作者の話によると、 「日本一を誇る山形県の尾花沢スイカは、シャキシャキと歯触り抜群、糖度も高く、適度な水分が美味です。厚めにスライスして丸型で抜き、そのままのせて迫力と歯ごたえを持たせました」 と来たもんだ。 うーん。 頭の中で、色々、味わいを試してみる訳ですよ。 この食材と、この食材を、こう、合わせたらどうなるか。 とか、この香りと、あの香りと、合わせたらどうなるか。 とか、あの食感とこの食感と合わせたらどうなるか。 とか、とか、とか・・・・・・・ 結局、とか、とか、とか、の導くところ、このケーキは美味しいに決まっていると脳髄内判定が出ました。 私は、変な風に自信があるのだが、「これは美味しいだろう」と直感で感じた場合、外したことがない。 逆に、どんなに、食通と言われる人が「これは美味しいですよ」と言っても、なんと言うのか、変な勘が働いて、「これは美味しい訳がない」と思うことがある。 私の人生はとても不幸で、悪い予感は常に当たるんです。 でもね、食べ物に関しては、話に聞いただけ、見ただけで、びびーんっと胃袋が動くんです。 そう言う時は、まず、外しませんね。 で、今回のこの写真なんだけれど、凄い。 食べたい。 その一念が強烈に湧いてきた。 お菓子を見てこんな気持ちになったのはずいぶん久しぶりだ。 しかし、ああ、悲しいかな。 問題はスイカだ。 スイカは日本の夏の果物だ。 私は、不幸にして今シドニーにいる。 シドニーは今真冬だ。 次に日本へ戻れるのは9月の半ばだ。 とっくにスイカの季節は終わっている。 と言うことは、このケーキは食べられない、と言うことだ。 チキショーッ! グヤジーーッ! 私の人生は不幸が山のように重なっているが、ここにまた、一つ不幸が加わってしまった。 ああ、情けない。悲しい。残念だ。 そう思って、記事を読んでみると、このケーキを作ったのは町田政信氏、店の名前は白金台の「パティスリー&カフェ アトリエ シュン」で、この店を監修して開いたのは熊谷喜八氏とあるではないか。 熊谷喜八さんとは、氏が葉山の「マーレ・ド・チャヤ」にいた時からの30年近いつきあいだ。 もうね、喜八さん、いい加減にしてよ。 人のために自分の体を粉にして働くのはもう止めてよ。 この間も、言ったけれど、これからは喜八さんのためのゆっくり楽しい人生を送ってよ。 本当に、熊谷さんは人が良すぎるよ。 私が、「美味しんぼ」の「日本全県味巡り」で青森県の取材をしている時にも、突然私の取材先に登場してくれた。 熊谷さんは、青森県の産物を売り出すための企画に協力している。 青森だけじゃない。 あちこちで、熊谷さんの力を頼んで地場の産物を盛り上げたいと言うところがあると、あれだけ毎日働いて疲れているのに、熊谷さんは二つ返事で出かけて行く。 私のような、利己的な人間とは正反対の生き方をしている。 でも、古い友人として心配だ。 もう、このスイカのショートケーキくらいで、いいにしてくれ。 9月に日本へ戻ったら、秋谷で釣りでもしてのんびり遊ぼうね。 喜八さん!
- 2010/07/18 - 沖縄の人達は分からん 全く、驚いたね。今度の選挙には。 沖縄の人達は、一体何なんだ。私には分からんよ。 普天間基地の件で、鳩山由紀夫氏に対して「怒」、「怒」、「怒」、「怒」と書いたプラカードを振り回して騒いでいたのは誰だったの。 普天間も何も、沖縄の基地問題の根本を作ったのは自民党政府でしょう。 鳩山由紀夫氏が普天間基地問題を上手く処理出来なかったのは、アメリカと自民党が築き上げた大きな壁と足かせのせいだと言うことが分からないほど沖縄の人間は物を考える力がないんですか。 その足かせを作るのに、沖縄の人間も多く関わっているんですよ。 普天間基地問題を上手く解決出来ないから、と言うのが鳩山由紀夫氏に首相を辞めさせた側の論理だったでしょう。 沖縄の人達は鳩山由紀夫氏に首相を辞めろと言ったでしょう。 ところが、まあ、どうでしょう。 普天間基地問題で「怒」、「怒」、「怒」とあれだけ鳩山由紀夫氏を罵りながら、普天間基地問題を作り出した自民党の島尻安伊子氏を当選させる。 どう考えても、理性では、判断出来ない行動ですよ。沖縄の人達が今度したことは。 私は、あの「怒」、「怒」、「怒」をまともに受取ってしまった。 だが、本当の意味は、あれは、自民党の決めたとおり、これからも、アメリカ軍の基地の島として、生きて行きます、と言う決意表明だったのね。 それを邪魔する、鳩山由紀夫氏に対して怒りを表明したのね。 言うことと、することがこんなに違ってしまっては、どうすることも出来ませんよ。 私は普天間の問題を真面目に考えて損をした。 「泡瀬干潟」の問題を私は「美味しんぼ」に書いたが、実は沖縄の人達は「泡瀬干潟」の埋め立ても本当は望んでいるのかと、疑いたくなる。 私が今度は沖縄の人達に、「怒」、「怒」、「怒」の札を突きつけて上げますよ。 これがサッカーなら、レッドカード、一発退場だよ。 「怒」、「怒」、「怒」、「怒」、おまけにもう一つ、「怒」だ。
- 2010/07/13 - 前回の翻訳について 次女が、今日「お父さんの、記事の綴りの間違いを直して置いたわ」と言った。 前回の私の書いた記事の中の英語に綴りの間違いを発見して直してくれたのである。 なんと、私の子供たちは、私の知らぬ間に、私のブログの管理人の権限を持っていて、子供たちが私のページの間違いを直してくれるのである。 親馬鹿をさらして大変に恥ずかしいが、自分のブログの間違いを子供が直してくれるとは、こんな父親は滅多にいないだろうと、本当に有り難いと思うのである。 しかし、さらに、次女は、私のブログの中の、英文の解釈にも異議があるという。 それは、 「As the party's leader, he(岸信介)allowed the CIA to recruit and run his political followers on a seat-by-seat basis in the Japanese parliament.」 の部分だ。 私は、この「followers」は既に岸信介の派閥に属した人間、即ち、岸の配下、と読んだのだが、次女は、文藝春秋社版の様にも読めるという。 さあ、大変だ。 親馬鹿を更にさらしてお恥ずかしいが、次女の英語力は同年代のオーストラリア人の標準より高いし、日本語能力も、同年代の日本人に劣らない。 その次女に、異議を唱えられては大変だ。 そこで、もう一度、ブログ上ではなく、実際の二つの本を取り出して比較して貰った。 次女は両方の本を読み比べてずいぶん慎重に考えていたが、「普通に英語として流して読んだら、お父さんの読み方でよいと思うが、この文章だけを取り出したら、文藝春秋社版の様に取ることも可能だ。」 という。 問題は、この「his followers」の取り方だが、私は、「既に岸信介の派閥に属する人間、即ち岸信介の配下の人間」、と取った。 次女は、「その時岸の配下にない一般議員をも岸のfollowersにするためにCIAが動いた」、とも取れるという。 一番引っかかるのが、最後の「in Japanese parliament」という言葉だ。 これがあるから、「議員一般」という感じが出て来る。 色々意議論したが、結局、「他党派の議員はともかく、地方から選出された議員で岸信介の派閥に入った議員、すなわち、岸の「follower」であっても、必ずしもCIAとの関係があると限らない。そう言う、CIAに対して無垢な自分の配下にCIAが影響力を及ぼすのを、岸は許したのではないか」という私の意見を、次女は「うーん、やはり、全体から見ればそうかなあ・・・・・」と消極的ながら認めた。 ワイナーの別の個所の記述によれば、CIAは社会党の議員もリクルートしていたのだから、それを考えれば、この部分は文藝春秋社版の様に読めるのかも知れない。 英語としてはそんなに難しい物ではないのだが、その時の政治状況を考えると簡単ではない。 この辺のところは、ワイナー自身に聞かないと分からないことなのかも知れない。 そう言う訳で、前回の、その部分、読者諸姉諸兄も解読にご協力下さいませ。 よろしくお願いします。
- 2010/07/11 - 鳩山由紀夫氏から菅直人氏へ(2) この日記を書いている間に、参議院選挙で、自民党が結構票を集めていることがテレビで報じられている。 自民党に票を投じた人が、この私の日記を読んで、どう思うだろうか。 変に勘ぐられたりするのがいやだったから、選挙前に、こう言う話を書きたくなかった。 さて、選挙が終わったので前回の続きと行こう。 前回、昭和天皇の御用掛だった寺崎英成によって、 昭和天皇はアメリカが、沖縄と琉球諸島の軍事的占領を続けることを望む。 昭和天皇は、アメリカの沖縄(必要であれば他の島々も)の軍事的占領は、主権は日本のままで、25年から50年またはそれ以上の長期リースの形で行われるのが良いと言った。 と言う事実、さらに、 日本人の国民性には美点も多いが欠陥もあるから、米軍による占領は長期間つづくほうが望ましいと、昭和天皇は感じている。 と言うことが明らかになったことを記した。 私が驚いたのは、私が書いた上記の各項は、文藝春秋社から、1991年に発行された本に書かれたことであるのに、「知らなかった」という人の多かったことである。 それを知らなくては話にならないだろう。 昭和天皇の果たした役割を考えなければ、沖縄の基地問題を論じることは出来ないではないか。 どうして、多くの日本人がこんなに大事なことを知らずに、沖縄の基地問題を論じるのか。そんなことは全く無意味だ。 よくよく考えてみると、それは、日本の新聞テレビなどのマスコミの誘導による物だと思わざるを得ない。 テレビでは「皇室アルバム」などと言う番組があり、NHKなどでは、しょっちゅう皇室を日本人の家庭の理想像のように美しく描く番組を放送している。 新聞でもそうだ。 昭和天皇に都合の悪いことはなるべく隠すのだ。 隠さないまでも、なるべく表立って論じることを避け、みんなの意識に上がらないようにしているのだ。 戦後の日本人が新聞やテレビで見せられた昭和天皇の姿は、背広姿で顕微鏡をのぞいている姿、皇后と一緒に那須の別邸の庭などを散策している姿などである。 そして、昭和天皇は「平和を愛する天皇」「科学者である天皇」、園遊会で愛想を振りまく「慈しみ深い天皇」である。 ところが、1945年8月15日までの昭和天皇は、元帥帽をかぶり、いかめしい天皇服を着て、白馬にまたがって、皇軍を率いていた大元帥の勇ましい姿だった。 白馬にまたがった勇ましい大元帥が、どうして「平和を愛する天皇」なのか。 240万の日本の将兵はみんな、昭和天皇の大元帥姿を神と崇めて「鬼畜米英」「撃ちてし止まん」「死は鴻毛より軽し」などと言って天皇のために死んでいったのだ。 その昭和天皇が「平和を愛する天皇」だって? もう、戦争の敗北が決まった段階で「もう一つ、戦果を上げてから和平に持って行った方が上手く行くのではないか」と言った昭和天皇が「平和を愛する天皇」だって? 日本が中国対して仕掛けた侵略戦争、いわゆる「満州事変」も中国在中の関東軍司令部が勝手に兵を動かして始めた物だったが、昭和天皇は最終的に関東軍に 「(前略)勇戦力闘以テ其(その)禍根(かこん=災いの根)ヲ抜キテ皇軍の威武ヲ中外ニ宣揚セリ朕深ク其忠烈ヲ嘉ス(よみする=ほめる、よしとする)(後略)」 と言う勅語(天皇から国民に下賜するたちで発した意思表示。戦前の日本では勅語が最強の力持った言葉だった)を与えた。 この、侵略戦争を褒め称えた昭和天皇が「平和を愛する天皇」だって? ついでながら、勝手に戦争を起こしておいても、後で天皇に讃められば上手く行く、と言う前例がここで出来上がったので、以後、軍部の独走が始まった。 何が何でも、恥も外聞もなく戦果を上げればよいという日本軍の性格がこの天皇の勅語によって決まったのだ。 戦争当時、昭和天皇の側近を務めた木戸幸一の記した「木戸幸一日記」という物がある。 公共図書館に行けば置いてあるから読んで欲しい。 その中には、昭和天皇の生々しい言動が記録されている。 木戸幸一日記に寄れば、昭和天皇は、対米開戦を決める前に、海軍や陸軍の指導者の話を何度も何度も、聞いた後に 「海軍大臣、総長に、先ほどの件を尋ねたるに、何れも相当の確信を以て奉答せる故、予定の通りに進むる様首相に伝へよ」 と言っている。 昭和天皇は、アメリカとの戦争を始める前にさんざん検討を重ねているのである。 それは、勝つか、負けるか、の検討であって、戦争の善悪の検討ではない。 戦前の昭和天皇は操り人形ではなかった。(同じ人間が、戦後には、アメリカの傀儡、操り人形になったのだが、戦争を始める時点では、人形ではなく自分の意志で動いていた) これが、「平和を愛する天皇」か? 同じ、「木戸幸一日記」の1942年(昭和17年)2月16日に、次の記述がある、(日本がシンガポールを陥落させた直後のことである) 「シンガポール陥落につき祝辞を呈す。 陛下には、シンガポール陥落を聴こし召され(お聞きになって)、天機殊の外麗しく(天皇の機嫌は大変に良かった)、次々赫々たる戦果の挙がるについても、木戸には度々云う様だけれど、全く最初に慎重に充分研究したからだとつくづく思ふと仰せあり。誠に感泣す。(これまでに充分研究して戦争を始めたんだから、勝つのは当たり前だ、と天皇は言ったのだ。それに対して、木戸は感動して泣いた)」 とある。 最初から、戦争を慎重に充分研究した昭和天皇が「平和を愛する天皇」だって? もうひとつ、木戸幸一日記から。 1942年3月9日、前々日に、日本軍がインドネシア、ビルマを陥れたという知らせを聞いて、 「(前略)竜顔(天皇の顔のことをこう言う)殊の外麗しくにこにこと遊ばされ『あまり戦果が早く上がりすぎるよ』との仰せあり。」 もう一つ行くか。 1942年6月8日、ミッドウェーでの敗戦を聴いた後で、 「今回の損害は誠に残念であるが、軍令部総長には之により士気の阻喪を来さざる様に注意せよ。尚、今後の作戦消極退嬰とならざる様にせよと命じ置いたとのお話しあり。英邁なる御資質を今目の当たり景仰し奉り、真に皇国日本の有り難さを痛感せり」 「あまり戦果が早く挙がりすぎるよ」と喜んだり、ミッドウェーの海戦に敗れた後も、「消極的になるな」、と言う人間が、「平和を愛する天皇」だって? 天皇について更に続ける。 昭和天皇独白録の最後に結論とされている章がある。 その中で、昭和天皇は、次のように言っている。 「開戦当時に於る日本の将来の見透しは、斯くの如き有様だったのだから、私がもし開戦の決定に対して「ベトー(Vetoのこと、通常「拒否」と訳される)」をしたとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の命も保証できない。それは良いとしても結局狂暴な戦争が展開され、今時の戦争に数倍する悲惨事が行はれ、果てとは終戦も出来兼ねる始末となり、日本は亡びることになったであろうと思う」 こう言う言葉を今読まされて、私は、血が逆流するような思いがするのである。 あの段階で、万一昭和天皇が戦争に反対したところで、誰が昭和天皇の命を狙えたか。 確かに、秩父宮などもっと好戦的な立場の皇族がいたことは確かだ。 しかし、かれらが、昭和天皇を殺して指揮者になれたか。 そんな状況ではなかったことは全ての歴史的資料が説明している。 本当に昭和天皇が戦争をしたくなかったら、自分の命のことなど、二の次にして、堂々と「戦争はしない」、と一言言えば良かったのだ。 そう言った結果、どうしても戦争をしたい人間によって殺されたとしたら、それでこそ本当に「平和を愛した天皇」だろう。 自分がもし殺されたら他の人間によって「結局狂暴な戦争が展開され」とあるが、そんな言葉は聞きたくもない言い訳だ。 昭和天皇がやってのけた戦争以上に狂暴な戦争を想像するのは、常識を持った人間には不可能だ。 昭和天皇の残した其の一文は、卑怯な言い訳として世界史に残るだろう。 もともと、この「昭和天皇独白録」は、、昭和天皇を戦争犯罪人にせずに、傀儡として戦後の日本を支配したいというアメリカの意志の元に作られた物だ。 こう言うアメリカの工作のお陰で、昭和天皇は戦争責任を問われることなく「平和を愛する天皇」として、歴代天皇としてはまれな長寿まで生き続けたのだ。 葉山の別邸で、そこらの漁師が拾ってきた貝殻や、虫を顕微鏡で覗いていると、そばに控えている御用学者が、「陛下!世界的な新種の発見でございます。おめでとうございます」と言い、数年経つと、昭和天皇が発見したと言う新種の生物の写真が載った豪華本が発刊される。 東南アジアや、アフリカの浜辺で、漁師の少年がちょいと網を掬うと、これまで登録されていない生物が幾らも見つかる。それを新種として報告して登録するのは、貧しい漁師の少年にはちょっと無理だろう。 少年は、面白い新しい生物を見付けたという誇りを生涯持ち続けるかも知れないが、平和を愛する科学者である、などと言ってくれる人は誰もいない。 昭和天皇は、顕微鏡を使って生物の細かい状況を見るのが得意だったようだ。 それなら、硫黄島、ガダルカナル、サイパンなどの戦地に顕微鏡を持って行って、戦死した兵士の骨を顕微鏡で覗いて、この骨はどの兵士の物であるか特定に力を尽くしたら、まだ意味があっただろう。 せいぜい、葉山の貝殻じゃあなあ・・・・・・・。 「平和を愛する天皇」か・・・・・・・。 日本という国は、嘘と偽善が絡まり合って救いがない。 昭和天皇の戦争責任問題は良く議論に上るが、昭和天皇の戦後責任につい語る人は余りいない。 先の戦争で、中国や東南アジア各国合わせて2千万とも3千万とも言われる人命が失われた。 日本の将兵240万人以上も命を落とし、アメリカ軍の空襲によって50万人近くの日本人が殺された。 それから考えると、確かに敗戦後、昭和天皇の責任によってそれまでのように直接300万人もの日本人の命が失われる事はなかった。 (300万人の日本人の命を奪った人間が、戦争に負けてそれ以上日本兵を殺せなくなったから、平和を愛する天皇となった。凄い論理だ) しかし、その代わり前回にも書いた1942年にアメリカが立てた「Japan Plan」通りに、天皇はアメリカの傀儡となって、アメリカの日本支配のために大きな役割を果たした。 アジア各国に与えた被害を別にして、日本人についてだけ言えば、300万人の国民を殺した戦争責任より、1945年以来、今に至るまでアメリカに隷属し続けているこの国の構造の根底を作った、昭和天皇の戦後責任の方が重いと私は考える。 ついでに、現憲法の第一条には、 「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であり、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」 とある。 この「象徴」という言葉に、日本人はみんな頭を悩ました。 当時の憲法担当大臣の金森徳治郎は「象徴」を「憧れの中心」と説明した。 どうして、天皇に憧れなければいけないのか。これでは、混乱するだけである。 何のことはない。 1942年の「Japan Plan」で既にアメリカは、戦後の日本を統治するのに、「天皇を平和のシンボル(象徴)として利用する」と決めていたのである。 アメリカは自分が勝手に決めたことを日本国憲法に翻訳したのであって、その真意が日本人に分かる訳がない。 それを、日本の憲法専門家という先生方が議論し続けたのだからご苦労千万な話である。 (私は、以前に「マンガ 日本人と天皇」という本を書いた。「講談社のα文庫」に収められているので、読んで下さい。 その中で、象徴天皇制について、象徴と言う言葉の出所が分からなかったので、はっきり書けなかった。しかし、この「Japan Plan」が明らかになって、象徴天皇制の意味が明らかになった。 残念ながら、当時はまだ「Japan Plan」の存在など誰も知らず、私としても様々な研究書を漁ったのだがとても、「Japan Plan」など思いもつかず、なんだか中途半端な形でマンガに書いてしまった。歴史学という物は、恐ろしい物で、一つの資料が発掘されると、それまでの歴史ががらりと変わる。それを自分で体験した) 昭和天皇が、まず、自分自身を立憲君主国天皇と言いながら、その範囲を自分で超えて、「沖縄をアメリカの基地にしろ」「日本も出来るだけ長く占領を続けろ」と言った。 こう言う時の天皇の言葉の力は大きいらしく、いまだに、天皇の言葉のままだ。 日本全体のアメリカの隷属化の第一は昭和天皇の言葉による物であることは明らかになった。 言葉は力である。 昭和天皇は当時は非常なる権力者であったから、昭和天皇の言葉はそのまま強力な力となった。 では、次に日本をアメリカに隷属し奴隷となることを推進したのは誰か。 それは、過去半世紀にわたって日本を支配してきた「自民党」である。 2007年にニューヨーク・タイムズの記者ティム・ワイナーが「Legacy of Ashes. The History of the CIA」という本を出版した。 「Legacy」とは遺産のこと。 「Legacy of Ashes」で「灰の遺産」と言うことになる。 これは、もともと、アイゼンハウワー大統領の言葉だそうだが、どのような状況で何をさしていったのか、この本からだけでは分からない。 しかし、戦争直後に言った言葉であり、戦後のヨーロッパやアメリカの各地のあの壊滅的状態を思い起こせば、そして、この本のあちこちの表現を見ればその意味は想像がつく。 あの当時のドイツと言えば、遺産としては灰しか残っていなかったのだから。 「The History of the CIA」という副題から推察すると、CIAから次世代のアメリカが(現代のアメリカのことである)受け継ぐのは戦後のヨーロッパのように「灰だけだ」と言うことになる。 ずいぶん、厳しい言葉だが、この本を読んでみると、この題名に納得がいく。 私たちは、CIAというと、大変に優れた諜報機関で、全世界にスパイ網を持ち、世界中の情報を収集し、と同時にアメリカにとって邪魔な国を倒すための陰謀を巧みに企んできた恐ろしくもあり強力な存在だと思ってきた。 ところが、この 「Legacy of Ashes」では、如何にCIAが無能で、情報機関としても陰謀機関としても、大きな失敗ばかり重ねてきたか暴いているのだ。 例えば、 自発的にCIAのスパイになってくれたソ連での人々を、CIAがわのソ連のスパイが密告して全員殺された。 レーガン大統領の時に、イランに武器を売り付け其の代金を中東で使うというイラン・コントラ事件が起こって、CIAも、中東での関係もめちゃくちゃにしてしまった。 恐ろしく情報能力が低下して、ソ連の軍事能力を過信し、アフガニスタンに武器を大量に提供してソ連のアフガン侵攻を阻止しソ連を崩壊させる一助となったのはいいが、其の大量の武器が今アメリカを困らせている。 大統領がCIAを信じないし、CIAも大統領を喜ばせることしか伝えない。CIAは大統領に嘘をつくのである。 イラク戦争の時も、CIAは大量破壊兵器があると強調して戦争を始めたが、結局、全て偽の情報でイラクに大量破壊兵器はなかった。 CIAの組織力はくずれ、世界中にいるCIAの人間は、ニューヨークのFBIの職員の数より少ない。 2004年にブッシュ大統領は、CIAのしていることは「just guessing」だといった。 「guess」とは推量とか、あて推量で言い当てる、と言う意味だ。 要するに、CIAは「事実に基づいた判断ではなく、勝手に思いこみで言っているんだろう」、とブッシュは言ったのだ。 これは、「Political death sentence(政治的死刑宣告)」だとワイナーは書いている。 こんなことを今までに言った大統領はいない。 2005年に中央情報長官の職が廃止されたことでCIAがアメリカの政治の中心で果たしてきて役割は終わった。 アメリカは、情報機関を立て直さなければならないが、遺産として目の前にあるは「Ashes」である。 というのが、ワイナーのこの本に書いてあることだ。 実に恐ろしいくらい、愚かな失敗をCIAは繰返している。 CIAと言えば泣く子も黙る恐ろしい存在だと思い込んでいた私など、それじゃ、幽霊と思ってススキにおびえていたのか、と愕然となった。 今まで、CIAとソ連の諜報機関との戦いを描いていたハリウッド製のスパイ映画は何だったのと言うことにもなる。 なお、ワイナーによれば、ここに書いたものは、CIA、ホワイト・ハウス、連邦政府の55000以上の文書、 2000以上の、アメリカ情報機関担当員、兵士たち、外交官たち、のオーラル・ヒストリー(自分の歴史的体験を口述したもの)、そして、1987年以来行われた、300以上の、CIAの職員、退役職員、(その中には10人の元長官も含まれている)に対して行われたインタビューを元にしている。 この文書は、全て実名の情報に基いている。出所を明らかにしない引用、匿名の情報、噂話の類は一切用いていない。 この本はCIAの真実の全てを書いたものとは言えないかも知れないが、ここに書かれたことは全て真実である、とワイナーは述べている。 幸いなことにこの本が2008年に文藝春秋社によって日本語訳が出版されたので、日本人も容易に読めるようになった。 (なお、文藝春秋社版の日本訳と私の持っているアメリカのAnchor Books版とでは、この第12章の内容が甚だしく違うところが多い。 文藝春秋社の編集部の解説によれば、文藝春秋社版の第12章の前半と、第46章は日本語版のために著者が追加執筆した物だという。 他にも、Anchor Books版になくて、文藝春秋社版にある部分がある。 結果として、本来は50章の本なのに、日本版にはおまけで1章付け加えられた。 私は、アメリカのAnchor Books版を元にしていたので、危うくこの付け加えられた一章を見落とすところだったが、後で述べるように、1994年にワイナーによって書かれたNew York Timesの記事には、もっと厳しい内容が書かれているので、この付け加えられた章がなくとも、私には問題がなかった。 (英語版が手に入らない日本の読者には意味があるだろう) 逆に、英語版で大事なところが、文藝春秋社版では欠けているところがあるので、私は一応Anchor Books版を基本に、文藝春秋社版を参考にすることにした。) さて、改めて言うが、この本を読んで、私はCIAがこれ程までに無能な機関であり、ここまで数々失敗を重ねてきたひどい政府機関であることを知って驚いた。 そして、一番驚いたのは、この駄目機関であるCIAがただ一つ成功した例があることである。 それは、ああ、なんと、この日本という国の支配なのである。 今回の眼目は、この本の第12章である。 その章のタイトルは、「We ran it in a different way.」となっている。 「run」とは、動かす、管理する、指揮する、支配する、と言う意味である。 ここでの、「it」は日本の政治のこと。すなわち日本のことである。 「we」はCIAのこと。 「in a different way」とは、当時日本を占領していた連合軍司令官であるマッカーサー元帥とは、違う方法で、と言う意味である。 なぜ、わざわざこの部分を英語の原文のまま示したか、それは、この「We ran it in a differnt way」という言葉の持つ、冷酷さ、非情さ、おごり高ぶった情感をはっきり読者諸姉諸兄に味わって頂きたいからである。 これを、文藝春秋社の日本語訳のように「別のやり方でやった」などとしてしまっては、このアメリカの非情さが分からない。 英語と言う言語の持つ実に直裁的な冷酷な味わい、そして、それが、アメリカ人の心理をそのまま反映した物なのだが、それが消えてしまう。 我々日本人は、アメリカ人に、「run」されたのだ。「rape」と変わらない。 其の屈辱感を、しっかり身にしみて貰いたいために、あえて英語の原文を示したのだ。 始まりは、1948年の末。 ワイナーは次のように書いている。 「2人の戦争犯罪人が、他の戦争犯罪人たちが絞首台に連れて行かれた前日に、戦後三年間入れられていた巣鴨刑務所から釈放された」 その2人とは岸信介と、児玉誉士夫である。 岸信介は、1896年山口県生まれ。 東京大学の法学部を卒業して農商務省に入り、東条内閣の対米宣戦時の商工大臣であり、敗戦後A級戦犯に指定されたが、釈放され、その後総理大臣になって対米安全保障条約・新条約の締結を行った。 児玉誉士夫は、1911年福島県生まれ。 戦前右翼の活動家として活躍し、戦中は海軍の庇護の元に中国で「児玉機関」と言う組織を動かし、強奪的にタングステン、モリブデン、などの貴金属、宝石類を大量に集め、それを海軍の力を利用して日本に送り届けた。(それを自分の物としたのが凄い) 敗戦後、A級戦犯とされるが釈放された後、中国から持ち帰った巨額の資産を元に、政界に影響を及ぼし、やくざ・暴力団・右翼のまとめ役、フィクサーとして力を振るった。 Anchor Books版に書かれていて、文藝春秋社版に書かれていない文章は、以下の物である。 「Two of the most influential agents the United States ever recruited helped carry out the CIA's mission to controll the government.」 Anchor Books 拙訳「かつてアメリカがリクルートした二人の一番影響力のあるエイジェントがCIAの日本政府を支配する任務を遂行するのを助けた」 で、其の二人の男とは、岸信介と児玉誉士夫である。 リクルート、エイジェント、この二つの言葉の持つ意味は重い。 会社にリクルートされて其の会社に勤めたら、貴方は其の会社の人間だ。 エイジェントとなったら、貴方はその会社の人間だ。 これが、会社でもなく、アメリカ政府なのだ。 岸信介と児玉誉士夫は、アメリカ政府に雇われて、アメリカ政府のために働く人間になったのである。もっと正確に言えばアメリカ政府の人間になったのである。 岸信介と児玉誉士夫は日本人のためではなく、アメリカ政府のために働く人間になったのだ。 文藝春秋社版では、この岸信介が「アメリカのエイジェント」だったことを、明確に書かない。 文藝春秋社が翻訳に使った底本が、そうなっていたのかも知れない。 しかし、ワイナーの本は、まずアメリカで出版され、非常に高く評価されたのだ。 アメリカの恥部を暴いた其の著者が、国ごとによって違う内容の版を出すとは思えない。 この一文が無くては、自民党の本当の姿を理解出来ない。 この一文を見のがしてはならないのだ。 岸信介は、アメリカにリクルートされたエイジェントだった。 エイジェントとは軽い言葉ではない。アメリカのエイジェントとなったら日本のために働くのではなく、アメリカのために働くのだ。 正確に言えば、岸信介はアメリカに魂を売ったアメリカの手先、「売国奴」、だったのだ。 何度でも繰り返したい。この一文は非常に重い意味を持っているのだ。 日本国民が、日本の首相だと思っていた人間が、実は日本人のためではなくアメリカのために働いていたのだ。我々日本人は「売国奴」を首相として崇めていたのだ。 こんな事があっていい物だろうか。 ワイナーの記述は、まだまだ続く。 分かりやすいようにまとめよう。 (念のために断っておくが、ワイナーが言明しているように、以下に書くことは真実である。すべて、文書や記録が残っている。) 岸信介と児玉誉士夫は、CIAのエイジェントとなった。 CIAの助けによって、岸信介は自民党の党首となり、首相となった。 児玉誉士夫は暴力団のナンバーワンとなり、CIAに協力した。 岸信介と、児玉誉士夫が、戦後の日本の政治の形を作った。 岸信介は、児玉誉士夫の金を使って選挙に勝った。 代議士になると、岸信介はその後50年に渡って日本を支配する自民党を作り上げた。 岸信介の作った「自由民主党」は自由主義的でもなければ民主主義的でもなく、戦争で亡びたはずの日本帝国の灰の中から起き上がってきた右翼的で封建的な指導者たちのクラブだった。 CIAと自民党との相互の間で一番重要だったのは、金と情報の交換だった。 その金で党を支援し、内部情報提供者をリクルートした。 アメリカは、一世代後に、代議士になったり、大臣になったり、党の長老になったりすることが見込める若い人間たちとの間に金銭による関係を作り上げた。 岸信介は党の指導者として、CIAが自分の配下の議員たち1人1人をリクルートして支配するのを許した。 この部分、Anchor Books版では、次のように書かれている。 「As the party's leader, he(岸信介)allowed the CIA to recruit and run his political followers on a seat-by-seat basis in the Japanese parliament.」 文藝春秋社版では、そこのところが、 「岸は保守合同後、幹事長に就任する党の有力者だったが、議会のなかに、岸に協力する議員を増やす工作をCIAが始めるのを黙認することになる」 と書かれている。 この文藝春秋社版の文章では、「議員たちが岸に対する協力者となった」と読めるが、Anchor Books版の文章とは、意味が違ってくる。 Anchor Books版の文章では、「岸に協力する議員を増やす工作」とは読めず、「岸の配下の議員たちは、CIAにリクルートされて、CIAの支配下に入った」と読める。 文藝春秋社版とAnchor Books版とでは大分意味が違ってくる。 「recruit and run his political followers」は「岸信介に政治家として従う者達をリクルートして支配する」と言うことではないのか。「rectuite and run」の目的語は 「his political followers」だろう。これから、岸に協力しようという者たちではなく、すでに岸に従っている者達である。 岸信介に政治的に従う人間が必ずしも、CIAと関係がある訳ではない。 だから、岸信介は、自分の従属下に入った人間を、自分と同様CIAに仕えるように、CIAが働きかけることを許したのだ。 Anchor Books版に描かれた岸は、自分の配下をCIAに売る悪辣な男である。 岸信介は、トップに上り詰めるための策動をする間に、日本とアメリカの間の安全保障条約を作り直す作業をCIAと一緒にすると約束した。 岸信介は、日本の外交政策をアメリカの要求を満たすように変えると約束した。 それによると、アメリカは日本に軍事基地を保持し、核兵器を貯蔵しても良いというのである。 それに対して、岸信介はアメリカの秘密の政治的な協力を要請した。 もう充分だろう、と思うが、先ほど書いたように、実は、ワイナーは、1994年10月9日付けのNew York Timesに「CIA Spent Millions to Support Japanese Right in 50's and 60's. 」(CIAは日本の右翼を助けるために1950年代から60年代に書けて何百万ドルもの金を使った)と言う記事を書いている。 その記事の内容は、今回の本の内容に近いし、文藝春秋社版用に書き下ろしたと言う部分も、実はこの中に含まれている。 この本よりももっと具体的なことも書いてある。 そこから幾つか拾ってみよう。 1970年頃に、日本とアメリカの貿易摩擦が起こっていたし、その頃には自民党も経済的に自立出来ていたので、自民党に対する資金援助は終わった。 しかし、CIAは長期間にわたって築き上げた関係を利用した。 1970年代から1980年代初期に東京に駐在していたCIA職員は「我々は、全ての政府機関に入り込んでいた」と語った。 「CIAは首相の側近までリクルートしており、同時に農林省とも同じような関係を結んでいたので、日米農産物貿易交渉で、日本がどのようなことを言うか事前に知っていた」とも語った。 元警察庁長官で、1970年代に自民党の代議士になり、1969年には法務大臣になった後藤田正晴は、自分が諜報活動に深く関わってきた1950年代60年代について「私はCIAと深いつながりを持っていた」と言っている。 1958年に、当時の自民党の大蔵大臣だった佐藤栄作が選挙資金の援助をCIAに要求して、その資金で自民党は選挙に勝った。 1976年にロッキード事件が起こって日本は騒然としたが、それは、同時にCIAにとって、それまでの工作が暴露される恐れのある危険な事件だった。 ハワイで隠退生活をしている元のCIAの職員は電話で、次のようなことを語った。 「この事件は、ロッキードなんかよりもっともっと深いのだ。もし、日本という国のことについて知りたかったら、自民党の結党時のことと、それに対してCIAがどれだけ深く関わったか知らなければ駄目だ」 もう、本当に充分だろう。 日本を半世紀にわたって支配してきた「自民党」はCIAのエイジェントによって作られたCIAのために働く党だったのだ。 狡猾な旧日本帝国の官僚である岸信介、中国で強奪して来た資産で力を持ったやくざ・暴力団の親玉である児玉誉士夫。 この2人の、魂をアメリカに売り渡した売国奴によって作られた党だったのである。 作られただけでなく、自民党は長い間、政治的・金銭的援助と引き替えに日本をアメリカの代わりに支配を受け付け続けていたのだ。 日本人は長い間、自民党を支持し続けて来たが、実はアメリカの政策に従っていただけだったのだ。我々は、アメリカに支配されてきたのだ。 (それを考えれば、前回取り上げた、「思いやり予算」や、「年次改善要望書」などをなぜ日本政府が受け入れるのか、その秘密が解ける。我々日本人は、アメリカのために汗水垂らして働いてきたのだよ) CIAが、有望な若い者達にも金を与えていた、と言うことも忘れてはならない。 官僚から自民党の政治家になった者は大勢いる。 CIAの金は官僚にまで回っていたのだ。 事実、1970年代後期、80年代初めに東京に駐在したCIA局員はワイナーに「われわれは全ての政府機関に浸透した」と述べているではないか。 CIAは首相側近さえも取り込み、農林水産省とも非常に有力なつてがあったので、日本が通商交渉でどんなことを言うか、事前に知ることが出来た、とはなんと情けないことだろう。 日本の官僚たちもアメリカに逆らえない弱みを握られているのだ。 これで、日本がアメリカに隷属し続けた原因が分かるだろう。 自民党議員も政府官僚はみんなアメリカから金を貰って弱みを握られているからアメリカに反することは出来ない。 自民党の二世・三世議員も同じことだ。祖父と父が従ってきたボスにどうして息子が反抗出来るか。 だから民主党政権になって、辺野古問題でアメリカの意志に反することを言い出したら、日本の官僚組織が一団となって、小沢一郎氏、鳩山由紀夫氏を引きずり下ろすために全力を傾けたのだ。 誰なのか正体の知れない「市民団体」に訴えさせて、一旦不起訴と決まった小沢一郎氏を検察審議会に、「起訴相当」の判決を出させたりもした。 どうして、あんな事をさせるのか。 考えてみれば、日本の官僚は上下関係でがんじがらめになっている。 自分たちの先輩の決めたことを、自分が覆したら、官僚世界から追放される。 官僚は官僚の世界から追放されたら生きて行けない。東大法学部を卒業した人間はその肩書きしか人間としての力はない。その肩書きが通用するのは官僚に関係する社会だけであって、実社会に放り出されたら、全く無能力である。 だから、日本では改革などと言葉で言っても、絶対に改革が実行されない。 それと同じで、現在の官僚は、米軍の沖縄基地の自由使用、と言う過去の先輩たちの決めた慣例をひっくり返したらえらいことになると怯えたのだろう。 で、人間としての価値もない無能な官僚全体がよってたかって民主党攻撃に回っているという訳だ。 さて、もう一つ言わなければならないことがある。 それは、日本の新聞、テレビ、など、いわゆるマスコミの問題である。 民主党をけなし続けているのは、大新聞、テレビ各局である。 では、その報道機関、マスコミが、アメリカの魔手から逃れていたのか。 これが、実はそうではない。 民主党攻撃に必死になったマスコミも、実は、アメリカの手先なのだ。 ちょっと長くなりすぎたし、「美味しんぼ」の原稿の締め切りが迫っているので、今回はここまで。 マスコミなどについての続きは次回で。 ま、とにかく、日本という国が、「出来るだけ長い間アメリカに占領していて貰いたい」と考えていることをアメリカに伝えた、元大元帥閣下の昭和天皇と、CIAのエイジェントである自民党のおかげで、実は1945年の敗戦の時から今に至るまでアメリカの完全支配の元にあると言う認識だけは今回で充分持って頂いたと思います。 次回は、日本がアメリカの支配下にある恐ろしい実態を示します。
- 2010/07/01 - 有り難う! サッカー日本代表選手たち! 有り難う!サッカー日本代表! 良くやってくれた。 最後まで、素晴らしい夢を見させて貰った。 最高だよ、日本代表。 PK戦に入った時点で、もう充分すぎた。 PK戦なんて、本当に、運の物だからあれで失敗した選手は、その失敗を悔いてはいけない。 そこまで自分たちのチームを持っていった自分の功績を自分自身で称えるべきだ。 あれは失敗ではない。あの時点まで自分たちを持って行ったあかしなんだ。 誇りに思って欲しい。 本当に有り難う、日本代表選手たちよ。 控えのままで、フィールドに出られなかった選手たちも、今度の栄光は君たちの頭上にあるぞ。 日本代表選手全てに心からの感謝を捧げる。 今回素晴らしかったのは、中澤、トゥーリオ、阿部、だ。 彼らが、鉄壁の守備をしてくれたから日本がここまで進めた。 PK点を除いて日本の失点はただの1だ。 これこそ、日本! 私なら、この三人に、MVP賞を差し上げる。 今回は夢の第1幕を開いてくれた。 夢の第2幕を開くのは、今度の代表に続く選手たちだ。 あと四年間、生きて行こうという気持ちが湧いてきました。 老人にこんな気持ちを抱かせてくれた選手たちにもう一度有り難う!
- 2010/06/25 - やったぞーっ! 日本! 日本やったぜーっ! デンマーク相手に3対1だ! これで、決勝トーナメントに進出だ! 韓国、お待たせ様でした。 韓国と共和国の友人たちの応援に感謝します。 この上は、日本と韓国で、決勝戦、と行こう! しかし、見事だったねえ! 二つのフリーキックを本田と遠藤が冷静に、全くの名人技で決めたのも凄いけれど、3点目、本田がゴールまで持込んで、岡崎にちょろりと球を出す。 それを岡崎があわてず、ゆっくり押し込む。 あれも、芸術的だったよ。 3対1とは、うれしい! それにしても、トゥーリオと中澤の守備は素晴らしかった。 あの2人がいなかったら、デンマークの猛攻を防げなかった。 貢献度100点だね。 オーストラリアは日本と時差が一時間有るから、キックオフは朝の4時半だった。 4時に起きて、シャワーを浴びて、身を清めてテレビの前に連れあいと2人で座り、どきどきはらはらの94分でした。だって、圧倒的にデンマークの攻撃ばかりだったんだもの。 ああ、きもちがいいっ! 勝つって、いいもんだねえっ! 外国で、決勝トーナメントに進んだのは初めてでしょう。 良くやってくれた。 今日は一日中気分がいいぞ! うれしいよーっ! ひゃっほーっ!
- 2010/06/24 - おめでとう! 凄いぞ韓国! 韓国、やったね! 16強進出おめでとう! すごいよ! 共和国の分も頑張ったね! お見事! いいなあ、うらやましいなあ・・・ 何てこと、言ってられないぞ。 日本もやるぞ! 明朝見ていてくれ! 韓国、共和国の友人たち、応援頼むぜ! デンマークを倒して、一緒に16強に入るぞ!
- 2010/06/20 - 「頭痛、肩コリ、心のコリに美味しんぼ」 宣伝です。 小学館のコンビニビエンス・ストア版マイ・ファーストビッグの「美味しんぼ」に連載中の随筆「美味しんぼ塾」をまとめて、「頭痛、肩コリ、心のコリに美味しんぼ」という題名で「遊幻社」から出版しました。 今まで、その名の通り「美味しんぼ塾」として小学館から2冊出版して好評を頂いていますが、今回は小学館のご好意で、私の弟の経営する「遊幻社」から出版させて頂くことになりました。 「美味しんぼ塾」第3、とするのも芸がないし、小学館にもご迷惑をおかけする恐れがあるので、題名を変えました。 同じ私の書いたものでも小学館から発売するのと、弱小「遊幻社」から発売するのとでは、売れゆきが天と地ほどの差があります。 小学館の力は凄いと感心するしか有りませんが、ここは一つ、読者諸姉諸兄のご協力を載いて、最低限の売上だけは確保したいと願っています。 今度の「頭痛、肩コリ、心のコリに美味しんぼ」は、この「美味しんぼ日記」とは打って変わって、のんびり楽しめる文章を集めました。 装丁も挿絵も、南伸坊さんにお願いしました。 南伸坊さんの挿絵だけで、この本を買う価値があります。 この私のページを読むと「雁屋哲って、いやな奴だな」と思われる方も多いでしょうが、そんな方も「頭痛、肩こり、心のコリに美味しんぼ」を読んで頂くと「雁屋哲はいい奴かも知れないな」と思い直して下さるかも知れません。 お試し下さい。(やっぱり、変な奴だ、と思われたりして・・・) 私が酸性・アルカリ性を示すPHの値を取り違えて、しょげていたら、このページの読者の方に助け船を出して頂いたことも書きました。 遊幻社は出す本出す本赤字続きで、今度の本が売れなかったら、弟は首をつるしかない、と言います。 で、私は言いました。 「おまえ、それはよした方がいいな。おまえは、首つりは似合わないよ」 「ぼくは、ネクタイは似合うよ」 「ベランダとか、窓から飛び降りたらどうだ」 「ぼくんちは、平屋だよ」 「そうか、じゃ、屋根から飛び降りたらどうだ」 「屋根なんか上ったら、足がすぺってあぶないじゃいないか。子供の頃屋根に上って母親に怒られたの忘れたのかよ」 「そうか、屋根は危ないな」 「そんな、危険なことを進めるなんて、ひでえ兄貴だな」 「すまん」 てなことで、本が売れないと、兄弟げんかになってしまいますので、読者諸姉諸兄、直ちにご近所の本屋さんに注文して下さい。 定価1400円(それに税金がつきます)です。 よろしくお願いします。
- 2010/06/15 - 我が師 木村壽成さん 私に、酒と食べ物の安全性について、色々教えた下さった、心の師。 中野、上高田の酒販店「味のマチダヤ」の先代社長、木村壽成さんが昨日亡くなった。 私たち、木村さんの教え子たちは、木村さんをお父さん、あるいはおじいちゃん、奥様をお母さんと呼ばせて頂いて、さんざん甘えてきた。 90歳を超えておられたから、天寿を全うされた訳で、悲しがってはいけないのだが、本当に悲しい。 木村さんは生一本の性格で、まっすぐで、実に徹底して正しい物しか認めなかった。世の不正に対する悲憤慷慨は歳を取っても衰えなかった。 心の中に思いを沢山持っている方だった。 日本酒の本当の良さを広めたのは、木村さんだと思っている。テレビで宣伝している大手酒造の酒ではなく本当に良い酒は地方にあると熱烈に説いて、「酒仙の会」をたち上げ、大勢の人々に本当の酒の味を教えてくれた。 木村さんのおかげで、地方の本当に美味しいお酒が「本物の酒」として全国に認められていった。その功績は大変に大きい。 木村さんがいなかったら、日本人は相変わらずテレビで宣伝している酒を飲んでは、「日本酒はまずいなあ」などと言っていたのではないか。 木村さんは、それまで日本人が持っていた酒に対する印象を変えた。 日本酒の本当の美味しさを日本人に広めた、日本酒再生の主である。 木村さんには「美味しんぼ」に何度も登場して頂いている。 私は、大事な、大事な心の柱を失ってしまった。 私は今、シドニーにいるので、お葬式にも出られない。 しかし、木村さんは、そんなことどうでもいいじゃないか、と今私の目の前に現れ笑いながら仰言った。 にっこにこの、笑顔が今私の目の前にある。 木村さん、私は木村さんの教えに従って、これからも、本物を追い求めていきます。いつも、私の回りに笑顔でいて下さい。 暖かい体温まで感じる。 でも、淋しい。本当に淋しい。 今夜は、木村さんに初めて教えて頂いてそれ以来熱烈に愛している「天狗舞」の純米大吟醸の四合瓶を、これまでの木村さんとのあれこれを思い出しながら、じっくり飲んだ。一瓶では足りなかったが、木村さんが目前に現れて、その辺にしておけ、と仰言ったので、はい、と答えて杯をおいた。 こんな夜に、日本がカメルーンに勝った。 悲しさと喜びが同時にやってきた。 でも、日本チームをたたえて叫ぶ。 やったぜ日本! 勝った、勝った、勝った! 見てくれ、これが日本だ! 次の試合で、 勝った、勝った、また勝った! と叫びたい。 今日は、木村さんのことがあるからはしゃげない。 次の試合も勝ってくれ。 その時は思い切りはしゃぎたいから。 全日本頼むぜ。
- 2010/06/12 - おめでとう、韓国! やったね、韓国! おめでとう! 日本と対戦する時は、敵だけれど、日本以外の国と試合する時には、私は韓国を応援する。 今日の、ギリシアとの試合は見事だった。 いきなり、開始7分で先取点を挙げ、その後もずっと、韓国がギリシアを圧倒していた。 凄かったのが、後半の、パク・チソン(朴智星)のシュートだ。 ドリブルで持込んで、ゴール前で、相手キーパーの動きをちゃんと見て、上手いところに蹴り込んだ。 これぞ、サッカーの醍醐味というものを味わわせて貰った。 ああ、いいなあ・・・・・・ 日本も勝ってくれないかなあ・・・・・・ でも、今日見ていて感じたのは、韓国の選手がギリシア人に比べて体格がちっとも見劣りしないことだ。 運動能力も高い。 日本の選手とはだいぶ違う。 日本も、これで発奮して、勝ってくれないかなあ。 今、韓国では国を挙げて大騒ぎしているだろう。 ちきしょー、うらやましいーっ! 全日本も頼む。 頼むから、勝ってくれ。 われわれにも、韓国の味わっている喜びを味わわせてくれ。 韓国おめでとう。 見ててくれ、日本もやるぜ!
- 2010/06/12 - 鳩山由紀夫氏から菅直人氏へ(1) この二週間ほど、コンピューターで手こずって無駄な時間を費やしてしまった。 基本的に私は、アップルのマッキントッシュを使っているのだが、ウィンドウズは自作が出来るので、その面白さにはまってしまった時期があった。 ウィンドウズがVistaになる前までに5台ほど作った。中学生の頃から、ラジオ少年で秋葉原に部品を買いに行って、ラジオやオーディオアンプを作るのが趣味だったので、年金を貰える年齢をとっくに過ぎた今でも、毎月コンピューター雑誌を買って、日進月歩のコンピューターの世界に後れを取らないように目を光らせている。 今狙っているのは、オーディオ専門のPCだ。 最近、デジタル・ファイル・オーディオと言うのが盛んになってきて、コンピューターを使って、CDを遙かに超える音質で、音楽を再生できるとあっては、心穏やかではない。 ベルリンフィルハーモニーも、その演奏をインターネットで、CDより良い音とその演奏の画像とを配信しているのである。 ぼんやりしてはいられない。 今度日本へ戻ったら、一台組立ててやろうと企んでいる。 (オーストラリアは技術的に非常に遅れていて、日本のオーディオ雑誌や、コンピューター雑誌に載っているような機械も部品も手に入らないのである。) コンピューターを組立てるというと、何か難しく思う方もおられるかと思うが、実は、部品を寄せ集めるだけで、プラモデルを作るような物だ。 自分で設計図を引く訳でもないので、作ってもあまり達成感はないのだが、色々な部品を組み合せて自分の好みのPCを作れるところが、面白い。 だが、組立てて、「よし、現在世界最高速度の機械が出来た」と満足するとそれでおしまい。 私は90パーセント以上はマッキントッシュで仕事をするので、ウィンドウズマシンは殆どいじらない。 もっとも、Vistaになるちょっと前から、鬱に落ち込んで、コンピューターの自作の気力が薄れて、この1年以上、ウィンドウズマシンを立ち上げることはなかった。 それに、最近のマッキントッシュはウィンドウズも普通に動かせるので、マッキントッシュだけで全て用は足りてしまい、ウィンドウズマシンを立ち上げる必要もなかったのである。 (オーディオ専門のPCを作ろうと思うようになったのは、鬱病が軽快したのかも知れない) 私は新聞や雑誌の切り抜きはスキャナーでコンピューターに取り込むことにしている。以前は、スクラップブックに貼っていたのだが、コンピューターに取り込む方が遙かに便利だ。 問題は、大抵のスキャナーがA4サイズの書類しかスキャンできないことだ。 富士通の書類スキャナーScanSnapはその点良くできていて、A3の書類も半分に折って、それを両面読み取りにすると、読み取った後でA3サイズに展開してくれる。 しかし、その半分に折り曲げるところが中々微妙で、折り曲げた部分、すなわちA3サイズの書類でいえば中央の部分を綺麗につなげるのが難しい。 それに、雑誌を見開きでスキャンするという芸当が出来ない。 そこで、以前に買った、A3スキャナーを再び使おうと考えた。 ただ、そのスキャナーには問題がある。コンピューターに接続するのに、最早今のコンピューターでは殆ど用いられなくなった、SCSIを使う。(SCSIの説明は面倒だし、読者諸姉諸兄には興味がないことと思うので省く。要するに、USBなどと同じ、コンピューターと外部機器とを接続する方式の一つです。端子の形が違うのです) 私の持っているコンピューターでSCSIの端子を持っているのは、自作のコンピューターだけである。 そこで、久しぶりにコンピューターを立ち上げたら、なんと言うこと、あまり長い間相手にしてやらなかったので、すねてしまって、案配が悪い。 以前は、ちゃんと動いたA3のスキャナーをコンピューターは認識するのに、ソフトが動かない。 エプソンのサポートに電話をしたら、実に親切で、電話で1時間半以上にわたり、実際にコンピューターを動かしながら、手取り足取り、分かるように説明してくれる。 しかし、どうにもこうにも、動かない。 エプソンによれば、このスキャナーはまだ現役で、事務用に使われているので、動かないはずはない。サボートの女性と考えられる限りのことをしたが、どうしても動かない。 こうなると、私のコンピューターのシステムがいかれてしまったとしか考えられない。 そこで、サポートの女性にお礼を言って(いや、本当にエプソンのサポートは親切だ。有り難かった)思い切って、システムを入れ替えることにした。 ここで、私は大失敗をしてしまった。 私のコンピューターには、ハードディスクを二つ付けてある。 一つはシステムとアプリケーションと、そのアプリケーションの作った書類や画像などをしまう。 もう一つは、昔のビデオから取り込んだ物をしまうのに特化している。 失敗というのは、システムを入れ替える時に、システムを容れているハードディスクだけでなく、ビデオをしまってあったハードディスクもフォーマットして消してしまったのだ。 さらに、驚くべき失敗は、システムを入れ替える時の常識として、全て大事なファイルは、外付けのハードディスクにバックアップを取るのだが、そのハードディスクを取り付けたまま、システムの入れ替えをしたので、なんと、そのバックアップのハードディスクまで、フォーマットしてしまったのだ。 なぜ、外付けのハードディスクを取り外し忘れたのか、あまりの失策に涙も出ない。 日頃ウィンドウズに親しんでいないので、こう言う時に、うっかりとんでもないことをしてしまう。 要するに、大事な物を全て一瞬にして失ってしまったのだ。 そのビデオは、子供たちがまだ幼い頃の可愛い盛りを記録した物が多い。 元になるVHSや、8ミリビデオなどは残っているとは言え、コンピューターにはそれを取り込んで色々と編集した物が入っている。 それを失うのは、本当に辛い。 血が逆流して、気が遠くなったが、私はしつこい性格なので簡単にはあきらめない。 ファイルの復元ソフトを使って、消えてしまったファイルの復元に取り組んだ。 これが、中々上手く行かない。 復元ソフトを二つ使って取り組んだ。サイズが大きく、aviと言う拡張子ついた、明らかに、ビデオのファイルと思われるものを幾つか復元できたのだが、これが、復元する時にデータが壊れたのか、ビデオとして再生できないのである。 しかし、復元ソフトで見ると、フォーマットしてしまったハードディスクにデータが残っていることは確かだ。 それを、使える形に復元したい。 それで、二週間棒に振ってしまった。 で、結果はと言えば、未だ成功せず。 別のソフトで、挑戦してみようと思う。 そんなこんなで、この日記のページにご無沙汰してしまったら、小学校の同級生に、どこか体の具合でも悪いのか、と心配されてしまった。 二週間、コンピューターで苦労している間に、政治の世界が大きく動いた。 鳩山由紀夫氏が首相を辞めて、菅直人氏が首相になった。 私も、こうなりゃ、世捨人だね。 政治の世界が動いているというのに、データの復元に熱中して失敗を繰返して、時間を過ごしているのだから。 ところで、「美味しんぼ」では、最近まで、「環境問題」を取り上げてきた。 「環境問題」を「美味しんぼ」で取り上げるのは意義のあることだったと思っている。 しかし、漫画としては、堅苦しすぎて面白味がない。 それにここらで、「美味しんぼ」本来の食べ物と料理を直接扱う話題に切り替たい。 で、次回8月末か9月の頭に始まる、次回の続き物は「美味しんぼ」は、「名料理人」「名店」を扱うことにした。 今まで私が出会った名料理人、名店を、過去に一度扱ったことがあっても、今回はもっと深く掘り下げて、名料理人とは、名店とは、いったいどこが普通の料理人、普通の店と違うのか、そこをじっくり書きたいと思う。 同時に、劇としても面白くなるように工夫する。 私は「美味しんぼ」を始める時に、読み切りの形すること、人情噺にすること、読後の後味の良いこと。 その3つを原則とした。 最近の「美味しんぼ」は人情噺が不足しているので、次回は、名料理人、と名店を人情噺にからめて描きたいと計画している。 そのための取材として、4月に私の尊敬する料理人を訪ねて京都に行った。 その方のお名前は、徳岡孝二さん。京都嵐山吉兆の先代のご主人である。 私は、二十数年前に初めて徳岡孝二さんの料理を食べて驚嘆した。 和食というと、なにか、小細工をしたり、気働きが目についたり、悪い言葉で言えばこじんまり、ちまちま、こぎれい、飾りが多い、という感じを否めない物が多いのだが、徳岡孝二さんの料理は、大胆、剛胆、思い切りが良く、しかも、細かいところまで神経が行き届いている。私は、こう言う日本料理があるのかと、圧倒された。 北大路魯山人の料理は、話に聞いたり、本で読んだりするしかできないが、徳岡孝二さんの料理を食べて、北大路魯山人の料理はこうだったのではないかと思ったものだ。 名料理人を取り上げるのに、徳岡孝二さんは外せない。 そこで、もう、引退しているとか何とか仰言るのを無理にお願いして、料理をして頂くことになった。 徳岡孝二さんは、それではまず竹の子を掘りに行きましょうと仰言る。 ご推薦の竹の子山に、取材スタッフ全員ででかけた。 私は晴れ男で、旅行でも、取材でも雨が降ったことはないのだが、当日は雨降り。取材スタッフも「取材で雨が降ったのは初めてですね」と言っていたが、こんなこともあるんだな。 竹の子山はぬかるんでいて、長靴を履いて上るのにも一苦労。 かなり山を登ったところで、竹の子山の持ち主、長濱義和さんが掘り始めた。 竹の子は頭が僅かに出かかるかそこらの微妙なところを掘らねばならない。地表に竹の子の姿になって出ている物は美味しくないのだ。まだ地中に潜っているのを掘り起こす。 結果的に深く掘ることになるので、そのためには特別に刃の部分の長いクワで掘るのだが、最初に出会ったのが大変な難物だった。 普通、掘って行って、根の部分に刃を当てて、ぐいと持ち上げると、てこの原理で比較的簡単に竹の子は取れるのだが、この竹の子は、中々そうは行かない。 周りの地面を深く掘り広げたりして根が見えるのだが、どうしても外れない。 今年は天候が不順で、暖かくなっかと思うと冬に逆戻りする、そんなことが何度か重なったので、竹の子の生長もいつもと違うのだという。 しかし、その時私が改めて認識したのは、竹の子山の地面には竹の根が縦横無尽に走っていることだ。網の目のように根が走っている。 その竹の根に、私たちが掘ろうとしていた竹の子が掴まってしまって抜けないのだ。 雨の中を30分近く格闘してやっとのことに掘り出した。 他の竹の子は、くわの先を根に当てると難なく掘り出せるのである。 よく、地震の時は竹林に逃げ込むと良いという。竹林は、竹の根が縦横無尽に張っているから地盤が丈夫で地震でも崩れないというのである。 私は、今回の竹の子掘りの苦労で、その言い伝えには根拠があると思った。 竹の根の張り方は凄いものである。 表面から見ると、綺麗な竹がすいすいと伸びて、水墨画の題材になると実にさわやかな物だが、どっこい、地面の中は恐ろしいことになっている。 節だらけの根が、野放図で醜悪と言いたいような姿で、地下に張り巡らされているのである。 前置きが長くなってしまった。 鳩山首相の辞任の話をしたかったのだ。 私は、鳩山由紀夫氏が辺野古の問題を解決しようとした事を、氏が選挙目当てに嘘を言ったものだ、とは考えない。 私は、鳩山由紀夫氏は善意の人だったと思う。 ただ、辺野古問題は、上に書いた、竹の子みたいな物だったのではないか。 氏は、掘ろうと思えば掘れると思った。 ところが、どっこい、地下の根は複雑に入り組んでいて、しかも強力で、魑魅魍魎も跋扈していて、とても掘れない。 私たちの場合は、悪戦苦闘の末に、竹の子を掘り出すことは出来たが、氏は出来なかった。長濱義和さんの使ったような、兇悪な竹の根も断ちきることの出来る刃の長いクワを鳩山由紀夫氏は持っていなかった。 氏を妨げた物は、端的に言えば、アメリカが日本の社会に張り巡らした醜悪な竹の根である。 アメリカは日本中に根を張っていて、日本人がちょっと形の良い竹の子を掘ろうとすると邪魔をする。 ときには、掘ろうとした人間の社会的生命を葬ってしまう。 今回も、鳩山由紀夫氏はアメリカの張り巡らした節だらけの根に掴まって負けた。 氏は、次の総選挙にも出馬しないという。実質的に政治家生命は絶たれてしまった。 アメリカに逆らうとこうなる、と言うことが分かって、今度首相になった菅直人氏は勿論、これから誰が総理大臣になっても、沖縄に限らず日本の在日米軍基地に対して文句を言うことはないだろう。 話を続ける前に、今までに書いたことの中で、事実関係をきちんと示していない部分があったので、そこを補足する。 まず5月4日に書いた昭和天皇と沖縄の問題である。 敗戦後、昭和天皇の御用掛を勤めた寺崎英成という人物がいる。 その寺崎英成の残した「昭和天皇独白録」が1990年に発見され、それを文藝春秋社が発表し、当時大きな反響を巻き起こした。 「昭和天皇独白録」については、さまざまな研究書が出ている。 結果として、「昭和天皇独白録」は昭和天皇による自己弁護の書である。 当時の連合軍司令官マッカーサーは、天皇を日本支配の道具として使いたいと考えていた。 じつはこれは、マッカーサー個人の考えではない。 加藤哲郎・一橋大学教授が米国国立公文書館で発見した機密文書「Japan Plan」という物がある。 下記のページに、教授の詳しい記述が記載されているのでお読み頂きたい。 http://homepage3.nifty.com/katote/JapanPlan.html これは、1942年6月3日の日付で作られた物である。 この中で、アメリカは既に戦後日本をどう取り扱うか構想を立てていた。 その構想とは、戦後、「天皇を平和の象徴として利用する」という戦略だった。 1942年6月と言えば、真珠湾攻撃からまだ半年しか経っていない。 その時期に、すでにアメリカは戦後の日本の取り扱いについての構想を立てていたのだ。 それも、思いこみによる構想ではない。日本を良く研究した上で、日本国民をどう取り扱えば占領政策が上手く行くか、論じているのである。 日本の指導者たちが、悠久の大義に生きるとか、皇道精神などと、現実離れしたことを譫言のようにいっている時に、アメリカは戦後の計画を冷静緻密冷徹に計画を立てていたのである。自分たちが勝つことを当然と考えている。 これだけ頭の程度に差があっては、戦争に勝てる訳がない。 当時の日本の指導者たちは、アメリカの指導者たちに比べると、正に精神年齢12歳の子供同然であったことが、この文書を読むと痛感させられて、実に悲しくなる。 アメリカは最初から天皇を傀儡として使うつもりだったから、「東京裁判」に引っ張り出されて有罪にされたら困る。昭和天皇に戦争責任がない形にする必要がある。 そこで、寺崎英成がアメリカ側の意を体して、同時に昭和天皇自身が欲した保身のための術として作り上げたのが「昭和天皇独白録」である。天皇が東京裁判に引き出されるのを防ぐのが目的の弁明書だから、一般の目に触れることはなかった。 その「昭和天皇独白録」は1991年に、文藝春秋社から、半藤一利氏の解説を付けて発売された。 同書には「寺崎英成・御用掛日記」も加えられた。これは、寺崎英成の残した1945年8月15日から、1948年2月15日までの日記である。 その1947年9月19日の記録に、次のような一文がある。 「シーボルトに会ふ 沖縄の話 元帥に今日話すべしと云ふ 余の意見を聞けり 平和条約にいれず 日米間の条約にすべし」 これだけでは何のことだか分からないが、1979年にアメリカの公文書館で発見された文書が、一体それがどう言うことだったのか示した。 この文書は沖縄公文書館がそのコピーを入手し、以下のホームページで公開しているので、一度見て頂きたい。 http://www.archives.pref.okinawa.jp/collection/2008/03/post-21.html そのページを開くと、その文書の内容についての簡単な説明があり、最後にPDF画像(2頁)と書かれている。 そこをクリックすると、原文のコピーが出て来る。 これは、マッカーサーの政治顧問のSebaldが、1947年9月20日づけで当時の国務長官マーシャルに宛てた手紙で、寺崎英成が、マッカーサーに伝えた天皇の言葉を報告した物である。 寺崎が伝えた天皇の言葉は、大略すれば次の通りである。 天皇はアメリが、沖縄と琉球諸島の軍事的占領を続けることを望む。 天皇は、アメリカの沖縄(必要であれば他の島々も)の軍事的占領は、主権は日本のままで、25年から50年またはそれ以上の長期リースの形で行われるのが良いと言った。 寺崎氏は、アメリが沖縄とその他の島々を、軍事的基地として獲得する権利は、日本とアメリカ二国間の条約とするべきで、連合国との平和条約の一部とするべきでない、と言った。 (主語は寺崎氏となっているが、この文書の性格として天皇の言葉を伝える物だから、この言葉も天皇の物と考えるのが自然だろう) このような一次資料を基にして、私は5月4日の日記の中で、沖縄をアメリカの基地にしたのは昭和天皇である、と書いたのだ。 無責任な憶測でも、噂話の又聞きで書いたのでもない。 事実が文書としてこうして残っていて、みんなが良く知っているのに、みんなが、言わないようにしている。 正しい事実を公に論じることをしない日本という国は、不思議な国なのだ。 天皇が、戦争犯罪に問われなかったのは、戦争は天皇が自分の意志で始めたのではなかったからだという理由による物ではなかったか。それを主張する物が「昭和天皇独白録」である。 戦争犯罪を問われそうになると、自分は立憲君主だから部下の言う事を認可してきただけで、主体的に戦争を指導したのではないと言った昭和天皇が、戦争が負けたら相手の国の元帥に、沖縄をずっと占領していてくれなど主体的に言う。 こう言うことが許されるのだから、日本は不思議な国だ。 米軍が沖縄を占領し続けることを天皇が主体的にアメリカに頼んでいるのである。 具合が悪いと、それは部下がしたことで自分は知らないと云い、自分の命に関わってくるところになると相手の元帥に自分の国を民ごと切り渡して与える。 しかも、他の国にはやらない、君だけにやるんだから、後はよろしく頼むよ、と言う。 先に挙げた「昭和天皇独白録」「寺崎英成御用掛日記」(文藝春秋社刊)の259ページに、秦郁彦教授が、マッカーサー記念館の「総司令官ファイル」の中から発掘した文書として、寺崎英成と思われる政府高官が伝えた天皇の言葉が記されている。 それによると 「(前略)日本人の国民性には美点も多いが欠陥もあるから、占領は長期間つづくほうが望ましいと、陛下は感じている」 昭和天皇自らが、アメリカの支配を望むと仰言られたのだ。 どうして、下々の人間が天皇陛下のお言葉に反することが出来ようか。 その陛下の有り難い大御心を奉じたてまつって、アメリカは日本占領をいまだに続け、以来ずっと日本はアメリカの奴隷であり続けているのである。 沖縄戦では、多くの沖縄の人間が犠牲になった。 犠牲になった人達は、皇国のため(すなわち、天皇のため)に戦いに追いやられて亡くなったのである。 昭和天皇はそのような、自分のために死んだ沖縄の人達に思いを寄せることなく、その土地をアメリカに献上した。 その昭和天皇の大御心の有り難さを噛みしめれば、辺野古の問題で反対したりするのは非国民なのである。 「うみゆかば、みづくかばね、やまゆかば、くさむすかばね おおきみの へにこそしなめ かへりみはせじ」 この、歌の文句を骨の髄までしみこませて、天皇陛下の御稜威(みいつ)をかしこみ、かしこみ、有り難いと思ってこそ日本人なのだ。 昭和天皇が、沖縄はアメリカにやると仰言っているのだ。 我々、下民が、天皇のお言葉に逆らって、辺野古問題を云々するだけで、実に不敬の極み、それどころか大逆犯である。 我々日本人は、昭和天皇のお言葉を心に刻んで信条としなければならない。 従って、沖縄の米軍基地に反対する者は、昭和天皇のご意志に反する者であるから、万死に値するのである。 沖縄の基地問題は昭和天皇が作った、と言う私の言葉が、事実に基いた物であることを示したところで、この続きは次回にする。 余り長いのは、読む方も辛いという文句を貰ったからである。 次回は、自民党政府、日本の新聞、マスコミなどが、アメリカのために奉仕してきたことを、やはり、事実を元にして語りたい。 そこをきちんと踏まえないと、沖縄の問題を語っても意味がない。 どうして、新聞などのマスコミが、アメリカべったりで、鳩山由紀夫氏を首相の座から引きずり下ろしたのか、それは、1950年まで遡らないと分からないのだ。
- 2010/05/25 - 敵を間違えるな 鳩山首相が沖縄県知事に面会して、普天間基地移転問題について、「辺野古周辺にお願いするしかなく、県外に移転すると言う公約を守れなかったことをお詫びする」と言った。 鳩山由紀夫氏の今回の基地問題についての敗北宣言である。 「ほら、鳩山は出来なかった」と、新聞・テレビははやし立て、沖縄の人びとは「鳩山は裏切った」とか「鳩山は嘘をついた」などと言って怒っている。 私は、鳩山由紀夫氏を支持する者ではないが、これまでの経過を冷静に見ると、当然の帰結だと思う。鳩山由紀夫氏は、公約を守ることが出来なかったのは事実だが、一体今の鳩山由紀夫氏のような立場におかれて公約を守ることの出来る政治家がいるだろうか。 鳩山由紀夫氏が公約を守ることが出来なかったのは、氏個人だけの責任ではない。 我々日本人全体の責任だ。(戦後の「一億層懺悔」の真似をしようと言うのではない) 私の考えをまとめよう。 鳩山由紀夫氏はアメリカに負けた。 基地問題に於いて、日本人が戦うべき相手はアメリカである。 アメリカと戦おうとしている鳩山由紀夫氏の足を掬い背中から攻撃をする。 日本人は、自分たちの敵を間違えている。 敵は鳩山由紀夫氏ではない。アメリカだ。 鳩山由紀夫氏が戦後の日本の首相として初めてアメリカと戦おうとしているのに、日本人は一致協力するどころか、鳩山氏の足を引っ張った。 日本人は、アメリカの基地問題に本気で取り組む気概を失っている。沖縄県人の苦しみを、他県の人間は自分の物とせず、他人事のように思っている。 まず、1)について。 朝日新聞社のAERAの5月24日号に、内田樹氏が、 「『無法を止める』から始める基地問題」 と題して次のように書いているので、引用させて頂く。 「沖縄米軍基地について、日本政府は過去65年にわたって『東アジアの地政学的安定のために不可欠』だという説明を繰返して、沖縄の人々に非道な犠牲を強いてきた。ここに貫かれているのは『属国は宗主国の要求がどれほど無法でも受け容れるしかない』というワイルドなルールであり、アメリカ・日本・沖縄は立場を入れ替えながら、同じ図式を反復してきた。 (途中要約〈冷戦は終わり、アメリカはかげりが見え、東アジアに基地はもう要らないという声がアメリカ国内にもあり、フィリピンのクラーク基地、スービック基地から撤退し、韓国内の基地の劇的な縮小を決めた〉) その中にあって、日本についてだけアメリカが基地撤去を受け容れないのは、東アジア唯一の敗戦国に対しては『無法が通る』と思っているからである。 (途中要約〈それと同じように、日本政府が沖縄県民に犠牲を強いているのは、沖縄には『無法が通る』と思っているからである〉) 日本政府はまずおのれの『無法を止める』ところから始めるしかないだろう。 そのときはじめてアメリカに対して『無法を要求するな』という『倫理的』権利を手にすることができると私は思う。」 氏は、これまで日本政府は「属国は宗主国の要求がどれほど無法でも受け容れるしかない」という「ワイルドなルール」に従って、沖縄の人々に非道な犠牲を強いてきた、と言っている。 正にその通りで、この65年間日本政府は沖縄の基地問題に限らずアメリカに奴隷のごとく仕えてきた。 「ワイルドなルール」を押しつけてきたのは沖縄の基地問題でけではない。 アメリカは、日本のすることなす事全てに、「ワイルドなルール」に従うように強要してきた。 それを示す物が、「年次改革要望書」であり、「思いやり予算」である。 この、過去の日本政府が積み上げてきた、属国としての奴隷的政策を理解しないと、沖縄基地問題を解決出来ない。 ◎「年次改革要望書」とは、アメリカが日本の産業、法制度、などについてその要求事項を日本政府に毎年送りつけ来る通達書である。 それがどのような範囲に及ぶかというと、 通信、情報技術、医療機器・医薬品、金融サービス、競争政策、商法および司法制度改革、透明性、その他の政府慣行、民営化、流通、なんと、日本の社会の重要な分野全てに及んでいる。 (2008年度の要望書は、アメリカ大使館のホームページに掲載されている。 http://japan.usembassy.gov/pdfs/wwwf-regref20081015.pdf 2004年度の要望書は、アメリカ大使館のホームページに掲載されている http://japan.usembassy.gov/j/p/tpj-j20041020-50.html) これは、要望などと言う生やさしい物ではない。 日本に対して、「こうしろ」という命令書である。 この要望通りに事が進んでいるか、日米の担当官が定期的に会合を持って点検する。 アメリカの通商代表部は日本政府に圧力をかけて、要望書通りの実行を求めるのだ。 どんな要望をしているか、その一例を挙げる。 「農業に関連する慣行:有機農産物輸入、安全な食品添加物、収穫前・収穫後農薬の検査制度に関してCODEX基準に準拠する。最大残留農薬基準に関して、できる限り貿易を制限することがない効果的な輸入措置を取る。 」 (CODEXとは、独立行政法人・農林水産消費安全技術センターによれば、FAO(国連食糧農業機関)とWHO(世界保健機構)が合同で、消費者の健康保護や公正な食品貿易の確保を目的に作る食品規格のこと) これを読んで、私は、腹の底から怒りがこみ上げてきた。 我々日本人が、自分たちの健康を守るために、自分たちの決めた安全基準を決めるのは当然のことだろう。 それを、こんなことをどうしてアメリカに指図されなければならないのだ。 一番の問題点は、「最大残留農薬基準に関して、できる限り貿易を制限することがない効果的な輸入措置を取る。」というところだ。 これは、言い換えれば、「アメリカの農産物の残留農薬について、うるさいことを言わずに輸入しろ」、と言うことだ。 日本は、アメリカから大量の食料を輸入している。 大豆は日本人の食卓に欠かせない物だが、その大豆の自給率は5パーセントでしかなく、74パーセント以上はアメリカから輸入している。 大豆、小麦、などは栽培中は勿論、収穫した後も虫食いなどを防ぐために収穫後(ポストハーベスト)に農薬を使う。 その農薬残留基準を高くすると、大豆を始め、アメリカの農産物の日本に対する輸出が不利になるから、そんなことはするなと言うのである。 そんなことは余計なお世話、と言うより悪質な内政干渉だ。 自分たちの食べ物の安全性は、自分たちで判断して決める。 どんな基準であろうと、それに従えと、アメリカに言われる筋合いはない。 アメリカは日本人の健康などどうでも良い。自分たちの農産物が沢山日本に売れれは良いのであって、その邪魔になるような残留農薬基準などアメリカに都合の良い数値にしておけ、と言うことである。 小泉首相は「改革、改革」と言いつのった。 その「改革は」はアメリカにせかされた改革だった。 郵政民営化も、小泉は最初郵貯の民営化だけを言っていたが、アメリカの要望書に従って簡保が柱となり、結局4分割された。 「法科大学」が作られたのも、アメリカの要望書に従った物である。 念のために言っておくが、この「年次改革要望書」はアメリカの利益になるように日本を改革しろと言う命令書なのだ。 日本のための改革ではないのである。 こう言う書類を受けとると言うだけで、日本政府は、自尊心も何も無い人間達の集まりであることを示している。 それも、毎年受取るとは、情けない。日本政府はどこの国の国民のための政府なのか。 日本の官僚はアメリカの要望書の命令を達成するために働いているような物だ。 こんな日本を独立国だと言えるか。 なぜ、アメリカが、こんな自国に都合の良い「改革要望書」を日本に突きつける権利があり、なぜ、日本政府は「改革要望書」を押し頂き、アメリカの意のままに自国の政治を運営するのか。 これほど惨めで無残な二国間関係は、昔の植民地でしか見られなかったことだ。 日本は、何から何まで、アメリカの指図通りに動かなければならない、と歴代自民党政府が決めてきたのだ。 歴代自民党政府は、文字どおりの売国奴、腰抜けの売国奴共の集団だった。 65年間、そんな関係を続けてきたから、アメリカにすこしでも、逆らうと、手ひどい目に遭う。 小泉はアメリカに行って、ブッシュの前で、自分がアメリカの忠犬であることを示すためにプレスリーの真似をして馬鹿をさらしたが、その馬鹿さ加減がブッシュを安心させて、大変ブッシュの覚えが目出度かった。 ところが、鳩山由紀夫氏が少しでもアメリ基地に異論を申し立てると、TIME、ワシントンポスト、などを動員してて鳩山をアホだの、馬鹿だのと罵る。 挙げ句は、シャツの趣味が悪いと、人格を貶めるような誹謗を尽くす。 (それに乗って、自民党の女性代議士が議場で、鳩山由紀夫氏にそのシャツの件でヤジを飛ばした。その女性議員はアメリカから、ういやつ、とおぼえが目出度くなるだろう。アメリカの奴隷試験に合格したのだ。おめでとう) 日本人の大半は、このアメリカが毎年通達してくる「年次改革要望書」の事を知らない。 小泉と竹中という2人の売国奴が騒ぎたてた、「改革」とは、アメリカの「年次改革要望書」通りに日本の姿を変えることだったのだ。 一度、私が上に挙げた、アメリカ大使館のホームページで、その「年次改革要望書」を読んで貰いたい。 これで、髪の毛が逆立たず、血も逆流するような感じを抱かなかったとしたら、貴方も既に立派なアメリカの奴隷ですよ。 この「年次要望改革書」は内政干渉どころではない。 まさに、宗主国が属国に下す命令である。 こう言う関係が、65年続いているのだ。 それに、唯々諾々と従ってきた自民党政府がいなくなったからと言って、アメリカが急に態度を変える訳がないだろう。 鳩山由紀夫氏が何を言おうと、馬耳東風。 真面目になって言い続けると、突然兇悪な顔になって、脅迫的言辞をちらつかせれば、鳩山由紀夫氏も心がくじける。 それも、国民全員が、鳩山由紀夫氏を支持してくれるなら、がんばれるが、新聞、テレビで毎日のように、「宇宙人だ」とか、「信用できない」などと言われ続けられればとても、強力なアメリカ相手に戦う力が湧いてこない。 鳩山由紀夫氏自身、母親から貰った献金の処理がまずかったと言う愚劣さはあるが、そんなことは、「賢明なる検察官諸君」は何年も前から摑んでいるはずであり、それならその時に、問題にすればよかったのに、鳩山由紀夫氏が首相になった途端に動き出して調査に入り、捜査の過程を如何にも犯罪が犯されたかのように連日リークし、それに合わせてマスコミが、鳩山由紀夫氏が大罪を犯した大悪人であるかのように騒ぎまくって、国民感情を扇動した。 国民も簡単に扇動に乗って、世間全体が「献金問題、献金問題、献金問題」と騒ぎ、「あんな途方もない金持ちに庶民の心など分かるはずはない」というやっかみも加わり、鳩山由紀夫氏に対する支持率が極端に低下した。 これでは、手足を縛られて、ボクシングをしろと言われているような物で、何も出来ない。 さらに、マスコミは「鳩山由紀夫氏は普天間問題を解決出来ない」「鳩山由紀夫氏にその能力はない」などと書き立てた。片言隻句をとらえて「鳩山迷走」とか「閣内にも鳩山不信感」などと責め続けた。 これでは、鳩山由紀夫氏が動けなくなるのは当然だ。 あの状況で、どう動けばよいのか。 普天間基地移設問題で、反対運動をしていた人達の多くも、鳩山由紀夫氏の献金問題で、検察のリークの通りに動かされているのではないか。 もう一つ、日本が情けない属国であることを示すのが「思いやり予算である」 日本人の大半は、この「思いやり予算」などと言う言葉を知らないか、知っていても関心を払わない。日本人全体に、奴隷根性がしみこんでいるのだ。 今この文章を読んでいる貴方。私は貴方のことを言っているんですよ。 他人事のように読まないでね。 ◎「思いやり予算」とは1978年、円高ドル安に配慮して、在日米軍基地で働く日本人従業員の給与の一部負担(62億円)を日本政府が決めたのが始まりで、その後、米国側の要求で、基地内の光熱費、水道費、施設建設費、さらには米兵のリクリエーション施設の経費などの厚生費まで範囲が広がり、金額も上昇した。 2010年4月7日のNHKの「ニュース9」によると、1978年から2010年までの32年間で、総額5兆5千億円に達する、というからすごい。 なぜ、「思いやり予算」などという訳の分からない名前がついたかというと、1978当時の金丸防衛長官が「思いやりの精神で米軍駐留軍の負担増に応じる」と述べた事による。 これは、全く奇怪である。 沖縄に駐屯しているのはアメリカの海兵隊である。 元朝日新聞社会部記者で軍事ジャーナリストの田岡俊次によると、いざ戦争などが起こった時に、海兵隊の取る行動の優先順位は次のようになっていると言う。 自国民(米国人)の救出・保護 アメリカの永住権であるグリーンカードを持つ人の救出・保護 友国であるカナダ、イギリス、オーストラリア、ニュージーランドの人の保護。 その他の人 この、4番目のその他の人の中に、日本人が入っているらしい。 いずれにしても、沖縄にいる海兵隊は、沖縄県の人間を助けるにしても、まず、自国、友国(アングロサクソンの国)のあと、余裕があればと言う程度である。 元防衛大臣の石破自民党政調会長も優先順位の1位が在留米国人であることを認めており、日本人はせいぜい「在留米人を救出した後、空席があればついでに助けてもらえる」程度なのだといっているそうだ。 こういう、日本人のことなど考えていない海兵隊が、何か事があった時に日本を助けてくれるとはとても信じがたい。こう言う軍隊に、何を思い遣ってやる必要があるのだろう。 お人好しというか、奴隷根性もいい加減にして貰いたい。 「思いやり予算」の内容を、日本共産党の「しんぶん赤旗」が詳しく調べている。 (私は日本共産党とは意見を異にするし、彼らの政治論など受け付けられないが、彼らは他のマスコミが調べないようなこともきちんと調べているので信用できる部分もある。) 以下が、その「しんぶん赤旗」、2005年5月19付けの紙面である。 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-05-10/03_01_0.html 2010年4月7日のNHKの「ニュース9」の「思いやり予算」についての部分はYouTubeでみられる。 http://www.youtube.com/watch?v=PzLPhuzMtEQ これは、是非見て貰いたい。 アメリカ側の勝手な言い分。贅沢な施設。横須賀基地で日本の税金で働いている多くの日本人技術者たち。そんな姿を実際に見ると、日本人として生きているのがいやになる。 (「しんぶん赤旗」は1979年から「思いやり予算」で使った金額を2兆円と書いているが、それは、住宅建設に限定された金額ではないか。 「ニュース9」の番組中で示された、5兆5千億円超という数字が、正しいと思う。NHKの計算は、赤旗よりも詳しい。) この「思いやり予算」ほど、これまでの自民党政府がどんなに腰抜けで、アメリカの言うがままに、アメリカに尽くしてきたか、物語るものはない。 アメリカは、日本がアメリカに、金を貢ぎ、アメリカの基地を維持するのに日本人の税金を費やすのが当然と思っている。 ここでまた、「しんぶん赤旗」にお世話になる。 2010年3月19日の「しんぶん赤旗」に次のような記事が載っている。 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2010-03-19/2010031902_03_1.html 「恩恵」と来たよ。途方もないことを言う物だ。居直り強盗、とはこのことだ。 NHKの番組の中でも、米軍関係者が「日本のGDPからすれば、大した金額ではない」といっている。 贅沢なジムなどの施設について「娯楽と思われかも知れないが、米軍兵士の士気を高めるのに必要だ」という内容のことを言っていた。自分たちの兵士の士気を高めるのは、自分たちの金でやれよ。自分たちの軍隊なんだろう。 あの兵士たちは、イラクやアフガニスタンで無差別市民殺戮を繰り広げている連中ではないか。 どうして、そんな残虐かつ非人道的な兵士たちの士気を我々日本人が高めてやらなければならないのだ。 フィリピンのクラーク基地、スービック基地から撤退し、韓国の基地も縮小したのに、米軍が日本から基地を撤退しないのは、この「思いやり予算」の存在が大きい。 アメリカは、おかげで大変に安い費用で基地を維持できる。 5兆5千億円も払ってくれる国がどこにあるか。 グアムに移すとなると、全て自前で基地を維持しなければならない。 勘定高いアメリカ人が、そんなことをする訳がない。 アメリカが、日本から基地を撤退する訳がない。 したがって、今の日米の力関係、歴史的に自民党政府が行ってきた屈辱的な隷属政策からして、沖縄から米軍が基地を撤退したり移転する訳がない。 「年次改革要望書」で、日本政府は自国の政策をアメリカに決められ、「思いやり予算」でアメリカに徹底的に貢ぐ事を続けて来た。 アメリカは、その「思いやり予算」はもう当然の権利だと思っている。 そんな状況で、鳩山由紀夫氏が普天間基地の県外移転を言い出しただけで、今までの状況をひっくり返す衝撃があったのだ。 鳩山由紀夫氏の公約を、「人気取りだとか」言う人が多い。 実際に、挫折したことをあざける人も多い。 しかし、これまで、歴代の自民党政府はアメリカと交渉することさえせず、県外移転を言葉に出すことさえしなかった。 鳩山由紀夫氏は結局アメリカに負けたが、とにかく日本の歴代の首相として初めて沖縄基地に対してアメリカの意に反することを言った。 一体、誰が鳩山由紀夫氏をあざけることが出来るのか。 韓国の米軍基地が大幅に縮小されたのは韓国人が全体となって、基地反対運動を続けたからだ。 日本人はどうか。 韓国人の根性のひとかけらも持ち合わせていない。 原子力空母が横須賀を母港にしているのに、反対する人々はいない。(ごくたまに、ほんの少数の人々が反対表明をするだけである) 横須賀の基地は、東京のすぐそばにある。首都のすぐ近くに米軍基地があっても、何も感じない日本人は、性根を抜かれてしまっているのだ。 鳩山由紀夫氏が「米軍基地の県外移転」を言い出した時、日本人全体は本当に愛国心があるなら、米軍基地問題を真剣に考えるだけの根性があるなら、鳩山由紀夫氏に協力するべきだったのだ。(母親から貰った金の処分の方法は確かにまずかった。それに対する弁明も、愚かだった。しかし、汚職で貯めた訳ではない。沖縄の基地問題と比べて、どちらが重いのか) それを、結局不起訴にしかならなかった問題で大騒ぎして、鳩山由紀夫氏を大悪人に仕立て上げ、折角米軍基地に日本人全体が反対して撤去・移転させる良い機会だったのに、その機会をつぶしてしまった。 検察と、新聞、テレビなどのマスコミは、今度もアメリカの手先になった。 自分たちで、手先になったという自覚がないとしても、結果としてアメリカを喜ばせた。 私は今回の、マスコミの、小沢・鳩山叩きを見て、「はて、これはかつて見たことのある情景だと思った」 そうだ。1972年に起こった「沖縄密約事件」だ。 1971年に、時の総理大臣佐藤栄作がアメリカと「沖縄返還協定」を結んだ。 毎日新聞の西山太吉記者は、71年の調印直後、井川外務省条約局長とスナイダー米駐曰公使との間で交わされた極秘扱いの電信文を入手した。 それを元に、返還協定上はアメリカが自発的に支払うことになっていた400万ドルの補償費(具舞金)を日本が肩代わりする、という「密約」疑惑について毎日新聞に書いたが、大して反響を呼ばなかった。 その後、西山記者は、当時の社会党の横道孝弘議員へ、その極秘電文のコピーを渡し、横道議員が衆議院予算委員会で佐藤栄作をその件で追及したことで、電文の存在が暴露されてしまう。 さあ、ここからが、実に奇怪なことなのだが、その密約より、その極秘電文を西山太吉氏が外務省の女性職員から手に入れたことが問題にされた。 外務省の女性職員が国家公務員法100条の守秘義務違反容疑で逮捕され、西山太吉記者も同法111条のそそのかしの罪、で逮捕された。 これは、恐ろしいことであった。 逮捕するべきは、国民に嘘をついた佐藤栄作であるのに、逆に、その嘘を暴いた西山太吉氏と女性職員を逮捕した。正悪逆である。 不正を正すのが検察の役目なのに、邪悪を許し、正しいものを捕まえる。 検察は、佐藤栄作とその背後のアメリカのために、佐藤栄作とアメリカの計画に邪魔になる西山太吉氏と女性職員を陥れたのである。 検察は勧善懲悪の逆だ。悪を勧め正義を懲らしめる。 さらに、事態は醜悪な様相を呈してくる。 検察は、西山太吉が、外務省の女性職員と「情を通じて」秘密電文を入手したと起訴状に書いた。(こう言うことを、普通書くか。西山太吉記者と、外務省の女性記者を貶めるために、公の場でこんな言葉を使ったのだ。ああ、日本の検察は、本当に品性がありますね。気高くて恐れ多いですね。牛の糞の次に品性がありますね) すると、マスコミは、沖縄密約を忘れて、西山記者と外務省女性のスキャンダルを報道することに熱狂した。 たしかに、西山太吉氏の取材過程における行き過ぎはあっただろう。 しかし、男女の問題と、沖縄密約の問題と一体どちらが重要なのだ。 日本人にとって死活問題なのは、そのような密約をアメリカと交わしたことだろう。 あとで、その密約がもっと途方もない物を含んでいることが分かった。 事件後50年経ったことで、アメリカでは公文書の公開が始まって、ほかにも密約が幾つもあることが次々に明らかになった。 主なものだけでも、 ◎日本がドルを連邦準備銀行に、25年間無利子で預け、その利子の分アメリカに1億1200万ドルの利益を与える、と言う密約。 ◎沖縄返還後、核再持込みに関する密約。 戦争が起きた場合は沖縄に再び核を持ち込むことを認める。 ◎沖縄返還時、費用肩代わりに関する密約。 沖縄返還にあたり、アメリカ軍が基地として使った土地を田畑に戻すための費用を日本が変わって支払う。 などがある。 このような密約がばれるのを恐れて、検察は、西山太吉氏を起訴し、日本にとって極めて重大な問題を、「男女の関係」に矮小化した。 すると、新聞、テレビは、連日、西山氏と女性職員の男女問題を騒ぎ立て、いつのまにか、肝心の沖縄密約の件は綺麗さっぱりと忘れ去られてしまった。 国民が、その問題を忘れるように、仕向けたとしか言いようがない。 日本人も、何が問題の本質かを忘れ、マスコミにおどらされて、西山太吉氏と外務省の女性職員の人格を貶めて喜ぶという、自分自身の劣情をかき立てて熱狂した。 西山氏の問題を論じるなら、その数倍を密約問題に費やすべきではないか。 なにが、日本という国にとって大事なものなのか、マスコミの人々は判断がつかないような頭をしていたというのか。 そうではあるまい。あれは意図的に起こされた騒ぎだったのだ。 検察と、マスコミが手を結んで、国家の犯罪を隠蔽したのである。 これで一番得をしたのはアメリカで、次に、当時の佐藤栄作である。 私は、あれよあれよという間に、話が沖縄密約から男女の問題に変わって、その件をマスコミが騒ぎ立て、密約の問題が消えてしまったことに驚いた。 今回の鳩山由紀夫氏叩きも、これとよく似た図式である。 アメリカの不利になると、アメリカに飴をしゃぶらされてきた、あるいは日常的に恫喝を受けている、マスコミ首脳、検察庁幹部、はアメリカのために、鳩山由紀夫氏叩きになりふり構わず力を尽くした。 今日、クリントン国務長官が、鳩山由紀夫氏を賞賛したというニュースが入ってきた。アメリカの勝利宣言である。 日本のマスコミ、検察幹部たちにも、ご褒美が届くだろう。 楽しみにしていなさいね。 自分の頭で考えて、何が正しくて何が不正か理解できない者は愚民である。 マスコミに扇動されて、何が正しくて何が不正か分からなくなる者も愚民である。 1972年の沖縄密約事件で、佐藤栄作とアメリカのために検察とマスコミの仕掛けた扇動に乗って、西山太吉氏を屈辱に追い込んだ当時の日本人は愚民だった。 今、また、検察とマスコミの扇動に乗って鳩山由紀夫氏を叩き、基地問題の解決を不可能にした日本人は、1972年当時の愚民状態から抜け出しているのだろうか。 最初に戻る。 2)基地問題に於いて日本が戦う相手はアメリカである。 今までに述べたことから、いかにアメリカが日本を蹂躙しているかお分かり頂けただろう。 基地を取り戻したかったら、アメリカと戦うのだ。 敵はアメリカだ、鳩山由紀夫氏ではない。 最大の敵を討つためには、鳩山由紀夫氏資金問題は、一時置いておいて、一緒に戦って、そのあとで資金問題を詰めれば良かったではないか。 物事には順番がある。順番を間違えると、取り返しがつかないことになる。 ところが、アメリカは、外務省をも、検察をも、政治家達をも、評論家たちをも抱き込んでいるから、アメリカの意を呈した外交評論家などを、新聞テレビなどは総動員して、「日本にとって一番大切なのは日米関係である」と言わせて、アメリカのいうことを聞けと日本人に説教を垂れる。 そんな評論家たちがどんな人種かというと、先日、元自民党の幹事長だった野中広務氏が、小渕内閣の官房長官在任中(98年7月~99年10月)、内閣官房報償費(官房機密費)を毎月5000万~7000万円程度使い、国会での野党工作のほか複数の政治評論家にも配っていたことを明らかにした。 そんな評論家たちが、マスコミに動員されているのである。 これが、アメリカに対する隷属状態が65年も続いた理由の一つである。 そして、ついに、検察、マスコミ連合の力の前に鳩山由紀夫氏は屈してしまった。 無残なる敗北である。味方によって、背後から撃たれたら戦いようがないだろう。 この鳩山由紀夫氏の敗北を見せつけられると、この後、誰が首相になっても日本のこのアメリカに対する隷属状態を解消しようとする勇気を持つ者はいなくなるだろう。 鳩山由紀夫氏の敗北と共に、沖縄の人々が米軍基地から逃れ出る希望は潰えたのである。 日本がアメリカの隷属状態から抜け出す機会も消えたのである。 3)について言えば、日本に米軍基地があるのは沖縄だけではない。 全国に134個所もある。 そのうちの米軍専用基地は90個所(そのうちの面積の70パーセントは沖縄)、残りは自衛隊との共同使用の形を取っている。 横須賀基地、横田基地、など、首都東京のすぐ近くで人口密集地なので、住民たちの苦しみは一方ならぬものがある。 しかし、基地から離れている人達は、基地について何の関心も示さない。 沖縄は、遠く離れているので、余計に他人ごとのようだ。 どうして、誰も反対の声を挙げ、運動を始めないのか。 沖縄の人々は怒っている。どうして、神奈川県の人間は怒らないのか。他県の人間は怒らないのか。 沖縄の人々も、誰が鳩山由紀夫氏を潰したか、冷静に判断して、その怒りをその人々に向けるべきだ。鳩山由紀夫氏が公約を守れなかったのは、アメリカの意を受けた彼の力を上廻る連中がいたからだろう。 沖縄の友人たちよ、間違えてはいけない鳩山由紀夫氏は真の敵ではない。 真の敵はアメリカだ。 敵を見失うな。敵に通じている裏切り者を見失うな。 沖縄以外の県の人間で、鳩山由紀夫氏が公約を守れなかったからと、ののしり、非難する人々は自分たちの愚かしさを罵るが良い。自分たちが何もしなかったくせに、鳩山由紀夫氏をどうして非難できるのだ。 昔のことわざに、「鷸蚌之争」(いっぽうのあらそい)というのがある。 「鷸」(いつ)は鳥の「シギ」のこと。 「蚌」(ぽう)は、ハマグリのこと。 「鷸蚌之争」とは、「シギが、ハマグリを食べようとすると、ハマグリが殻を閉じてシギのくちばしをはさんで押さえ込んでしまう。シギもハマグリも困って立ち往生する。そこを、漁師が喜んでつかまえる」ということで、「二者が愚かな争いをしているところを、第三者の食い物にされてしまう」という意味になる。 鳩山由紀夫氏と検察・マスコミのを争いは、まさに「鷸蚌之争」である。 この場合、アメリカにそそのかされて「蚌」である鳩山由紀夫氏に攻撃を仕掛けた検察とマスコミが「鷸」だろう。そして日本人同士馬鹿な争いをしている内に、漁師=アメリカは大きな利益を得たのだ。 クリントンは、シギとハマグリの争いで大きな利益を得て、良い機嫌になっているのである。 これで、日本がアメリカの隷属状態から抜け出るのは早くとも21世紀半ばまでには無理だということになった。 実に残念だ。私は、とうとう、アメリカの植民地の人間として一生を終えることになるのだ。 ああ、くやしいなあ。
- 2010/05/19 - 竜巻 昨日の午後、晴れていた空が曇ってきて、外を見たら不思議な雲がみえる。 雲から、しっぽのような物が垂れて下がっていく。 竜巻の雲だ。 ベランダから写真に撮った。 この位置からは見えないが、右側は太平洋が一望できる。 実は、この写真を撮る前に、海の上まで届く竜巻雲が出来ていた。 あわてて、カメラを撮りに行く僅かの間に、その部分から雨が降り始め竜巻雲は見えなくなった。 残念、と悔しがっていると、すぐに、左側から雲が垂れ下がり始めた。 家並みが邪魔になるが、その背後は太平洋である。 しかも、この、竜巻雲が一個所だけでなく、二本、三本とあちこちに出現した。 私は、竜巻雲をこの目で見るのは初めてなので興奮した。 しかし、この竜巻雲も、あっという間に姿を消した。 実に不思議な現象だ。 すると、今日のSydne Mornig Herald紙に、その竜巻を海岸から写した写真が載っていた。 Waterspouts whip past Sydney これは不安定な上昇気流が生じて、上空の雲を引き寄せて生じたもので、その近くにいたら大変に危険だが、この竜巻は陸に近づくにつれて弱くなってしまうという。 この写真を見ると、サーファーが慌てて逃げて来たように思えるが、サーファーは気がついていないのではないか。 シドニーは実に気候の変動が激しく、さっきまで快晴だと思っていると、突然一天にわかにかき曇って土砂降りになったりする。 残念なのは、竜巻雲が、二本も三本も、垂れ下がっているところを撮影できなかったことだ。 カメラはいつも手元に置いておかないと行けないと反省したが、そうは言ってもなあ。望遠レンズまで、いつも手元に置いておけませんや。
- 2010/05/15 - 老犬介護 またまた、ポチの話で、失礼します。 我が家の老犬ポチは十六歳を過ぎた。 人間の年齢にすると九十歳を超えているのだそうだ。 流石に去年あたりから衰えが目立つようになり、最近は、階段を上るのもお尻を押してやらなければならないようになってしまった。 もともと、ラブラドール・リトリーバーと言う犬種は、後ろ足と腰が弱いのだという。 ポチも、子犬を生ませたかったのだが、獣医の意見によると、ポチに子供を産ませると腰、股関節に悪影響が出る、と言うのであきらめた。 それくらいだから、歳を取ると後ろ足と腰の弱さが目立つ。 よたよたと歩く。後ろ脚の動きが非常にぎくしゃくしている。 その、よたよたと、ぎくしゃくが、一層目立つようになった。 困るのはお漏らしをすることだ。お漏らしと言っても、大のほうである。 幸い、固くてころころしているので、後の掃除はそんなに悲惨ではない。 これは、腰が弱くて、容易に立ち上がれず、立ち上がろうと力むと、その拍子にポロリと出てしまうのだ、と次女は言う。 競馬の場合、競走の前に、パドックで下見で馬を引回す時に、歩きながら糞をする馬がいる。 その馬糞のことを、ボロ、とかポロという。 家でもポチの物をポロという。 人によっては、パドックでボロをした馬は走らない、などと言う。 別の人は、緊張が解けて、腹が軽くなるから、走りが良くなる、とも言う。 しかし、この競馬の通と言われる人達の言うことほど当てにならないものはない。 大昔、東京競馬場でのレースで、今でもその名前は忘れられない、マルノムーティエという馬が、パドックでの下見を終えて、本馬場に出て来て、軽く足馴らしをする返し馬の時に、突然全力疾走をを始めてしまった。本馬場に入ってきた時からマルノムーティエは馬っ気を出しており(この言葉の説明はしません。分かる人だけ分かれば良い。上品ぶる訳ではないが、知らない人にわざわざ教える言葉でもない) 観客の中から「ああ、これは、だめだなあ」などと言う言葉が上がっていたのだが、その言葉がマルノムーティエに聞こえたのか、マルノムーティエはいきり立って走り始めたのだ。 しかも、観客がどよめく中を、マルノムーティエは東京競馬場のあの馬場を全力で一周走りきったしまったのである。 騎手は必死に止めようとしたが、いきり立っているマルノムーティエは抑えが効かなかった。 とんでもない勢いで、全力であの東京競馬場を一周走りきった瞬間、大勢の観客が立ち上がり、馬券売り場に走っていった。 マルノムーティエの馬券を買った人達である。 その日、マルノムーティエは人気があったので、マルノムーティエがらみの馬券はよく売れていた。 しかし、競走の本番前に、馬場を全力で一周してしまったのでは、もう実際のレースでは走る力がない、とその人たちは思って、マルノムーティエがらみの馬券を全て、他の馬がらみの馬券に買い換たのだ。 ところが、本番のレースが始まると、マルノムーティエは最初から先頭に立ち、そのまますさまじい勢いで一着でゴールを駆け抜けた。 会場は、驚きと、嘆きの声に包まれた。 大笑いしている人達も少なからずいた。「こんな、おかしな馬見たことがないよっ」と騒いでいる人達もいた。 その後、マルノムーティエは馬っ気を出し過ぎると言うので、去勢され騸馬(せんば)となった。 すると、あの勢いをすっかり失ってしまい、騸馬にされた後は一勝も出来ずに引退した。 全く馬鹿げた話だ。馬にも可哀想だし、馬主も、厩舎も大損しただろう。 東京競馬場を全力で二周疾走できる馬なんて、そうそういるもんじゃない。 マルノムーティエはそう言う馬なのだから自然に任せておけば良かったのだ。 馬の天然の性質を認めないなんて、そんな馬鹿な法があるものか。 それは、競馬場には女性も沢山来るから、馬主にも、厩舎にも、その辺のおもんぱかりが有ったのだろうが、実に残念なことをした。 おっと、話がずれた、ポチの、ポロの話だった。 ポロも困るが、更に困るのは人が(特に、次女が)留守にすると、鳴くことである。 鳴くと言っても、吠えるのだが、それが、悲痛な声なのだ。 少し前までは、出かける前にはテレビを付けっぱなしにし、あちこちの部屋の扉を開けていかにも人がいるように見せかけたりして、ごまかせたのだが、最近は耳が遠くなり、視力も落ち、ただ勘だけが働くようで、人がいないと雰囲気で分かるらしい。 で、最近悲惨なのがこの私だ。 連れ合いと娘たちが出かけるとなると、まず、ポチを私の部屋の前に連れて来る。 「ほら、お父さんがいるからね」とポチに言い聞かせる。 それで、女共は逃げるように出かける。 ポチは、子犬の時から、私の書斎に入らないように厳しくしつけてあるので、今更「入っておいで」と言っても、絶対に入ってこない。 仕方がないから、私は、私の部屋の扉を開けっ放しにして、ポチが私のいることを確認出来るようにしなければならない。 シドニーは秋が深まってきて、扉を開けっ放しにしておくと寒いから私は辛い。 しかも、私の部屋の前にじっとしてくれれば良いのだが、犬の気持ちは犬でなければ分からない。 突然立ち上がって、玄関ホールの方に行ってしまう。 で、しばらくすると、鳴き始める。 行ってみると、玄関ホールから廊下の突き当たりの次女の部屋の方を見ながら鳴いている。 実に不憫である。 「ポチ、ポチ」と声をかけてやっても、耳が遠くなっているので聞こえない。 仕方がないから、尻を軽く叩いてやると、驚いて振り返る。 頭を撫でながら「お父さんがいるかね。大丈夫だよ」と言ってやるのだが、ぼーっとした表情で、昔のように嬉しそうな様子を見せない。 元来、犬は表情の豊かな動物だ。様々な感情を表現する。 しかし、今のポチは老耄してその感情表現も衰えたのか、反応がない。 これが、実に悲しい。 それでも、私に撫でられて、安心するのか、鳴くのを止める。 やれ、やれ、これで大丈夫と私は部屋に戻るのだが、しばらくするとまた鳴き始める。私がいるのを忘れてしまうらしい。 そこで、私はまた、なだめに行かなければならない。 これの繰り返しだから、私は仕事が出来ない。扉を開けっ放しにしているから寒いし、落ち着かないし。 連れ合いと娘たちが帰って来る頃には、私のいらだちは、極限に達している。 帰って来た連れ合いと娘たちに「また、ひどい目に遭ったぞ」と文句を言う。 連れ合いと娘たちは、「ごめんね、ごめね」と言うけれど、そう言っておきながら毎日私にポチの面倒を見させて出かけてしまうのはどう言う訳だ。 獣医である次女が「ポチも、もうそろそろよ」と言ったのは去年の十月頃だ。 それが、次女が手を尽くしているので、今日まで生き延びている。 死なれるのは悲しいが、この介護もまた大変である。 私の家の階段には、ポチの上り下りを楽にするために、次女がヘンテコなるカーペットをあちこちに敷いた。居間の板の間もポチの足が滑るからといって、これまた気持ちの悪いカーペットを敷いた。実に見苦しいことこの上ない。 ポチ一匹に家中が翻弄されている感じである。 家族全員そろって食事に行くことも、ポチのことを考えるとためらわれる。 犬や猫は不思議なものである。 猟犬に使うとか、そりをひかせるとか、そのような役に立つ犬もいるが、いま家庭で飼われて犬はそのような人間の仕事の役に立つことは何もしていない。 役にも立たない生き物をなぜ人は飼うのか。 豚や、牛や、ニワトリは、役に立つからこそ飼われているのに、何の役にも立たない犬や猫を飼うのは、豚、牛、ニワトリ、羊、などに対して申し訳ないのではないか。 豚、牛、ニワトリ、羊が、「それは、あまりに不公平な取り扱いだ」と怒って反乱でも起こしたらどうする。 何の役にも立たない犬や猫を飼うのは「可愛いから」の一言に尽きる。 そして、実は、犬や猫がそばにいてくれるおかげで、人の心は非常に安まる。 そう言う意味では、犬や猫は大変に人の役に立っているである。 とはいえ、このように介護の日々が続くと、疲れます。 人が犬を飼うのではなく、犬が人を飼っているのだと言うことを痛感する。 2年前に死んだ犬は、突然激しい嘔吐を始め、ものを食べられなくなり、水も飲めなくなり、次女の働くクリニックに連れて行ったら肝臓がんの末期で、あと数日の命だという。それでは、苦しませるだけ可哀想だというので安楽死させた。 ポチは、まだ、そこまではいっていないので、介護を続けなければならない。 最近テレビや雑誌で、老人介護のもたらす悲劇が多く伝えられている。介護に疲れて自殺する人の話も伝えられる。 犬でさえこんなに大変なのだから、自分の肉親だったらどんなに辛いことだろうか。 こんなことを言うと、犬と人間を同一に論じるのは不遜だ、などと怒る人がいるだろうが、可愛がって一緒に暮らし続けた犬に対する愛情は、肉親に対する愛情とさほど変わるものではない。 週刊朝日に「ペット自慢」のページがある(「犬ばか、猫ばか、ペットばか」)。 読者が、自分の飼っているペット、(実に様々な動物をペットとしている人がいるのに感心したが、登場するのは主に、犬と猫である)の写真と、それについての思いを込めた文章を投稿するページである。 一度、連載をやめたら読者からごうごうたる非難を浴びて、連載を再開したという曰くがある。 このページ見たさに、週刊朝日を買う人も少なくない。 週刊朝日としても、もう止めることの出来ない、ページだろう。 犬や猫を飼っている人は、それだけ多くいるのだから、我が家のように老犬介護の辛さを味わっている人も少なくないはずだ。 ある有名な避暑地の周辺には、ペットショップで買えば何十万もする血統書付きと言った犬や猫が多数、野犬・野良猫になっているという。 避暑に来た人が、東京に帰る時に、面倒だから、そのまま捨てて行ってしまうのだという。 来年避暑に行く時にまた新しい犬を買えばよい、そして、東京に帰る時に捨ててくればよい、と思っているようだ。 そのような人間は老犬介護で苦しむことがなく、安楽な日々を送れるだろう。 (こおの外道どもがっ!そう言う人間は、避暑地の電信柱に鎖で繋ぎっぱなしにして放置してやればよいのだ) もう、介護はうんざりだ、などと言いながら、ポチの顔を見ると、可愛くて、不憫で、つい撫でてしまうのだ。 老犬ポチよ、長生きしてくれよ。
- 2010/05/08 - 草食系の若者と吉田松陰 一昨日NHKのテレビで草食系の若者たちと、少し年輩の人達との討論会が行われた。 しばらく聞いていたが、うんざりして、途中テレビを消して、終わりの部分を再び少し見た。 そこに集まった若者たちの言い分は、 出世したいとは思わない。 自分のしたいことは仕事ではない。 趣味などの自分の好きなことをするのに時間を使いたい。 お金は、そんなに欲しいとは思わない。 普通に暮らせればよい。 海外にも興味がない。 自動車にも興味がない。 大体こんな所だっただろうか。 女性作家が、多分四十代なのだろうが、若者たちを挑発するような言葉を甲高い言葉で投げつけても、大抵の若者たちは、迷惑そうな顔をするだけである。 ある飲食業の経営側の人が、韓国人や中国人の新入社員の方がやる気がある。新入社員は25パーセントそのような外国人を取る、といっていた。 色々話を聞いていて、そこのスタジオに集って話をしている若者たちは、彼らの今の生き方を批判されると、強く怒ると知った。 自分の今の生き方が一番だと思っていて、それを年上の人に、意見を言われると目上視線でものを言われるようで不愉快だという。 彼らは、今の自分たちの生活に文句を付けられることを非常に嫌う。 大勢の人間が一堂に集まって話すと、大体話がまとまらない。 一つの方向に収斂することが無く、右に行くかと思うと左に行く。 一つの話題を深めることもなく、すぐに次の話題にふらふらと移ってしまう。 こう言う形では、深い討論は出来るはずもないので、現在の草食系という若者たちの本当の意識などを摑むこと不可能だと思ったが、一つだけ私が心に引っかかったことがあった。 それは、今の若者たちは今の社会に強い不満を持っていない、ということだ。 「いまのままでいい」と言う言葉が一番多かったのが、私にとっては、意外だった。 私は、彼らに、「本当に今のままでいいのか」と尋ねる前に「『今日』の『今』が、明日も続くと思っているのか」と尋ねたい。 どうして、そんなに、「今」に安心していられるのだろう。 私から見ると、彼らはあまりに現在の状況に安心しすぎている。現状に満足しすぎている。 不必要に仕事に精を出さず、毎日を何とか食い扶持を稼ぐだけ働いて、後は趣味をして時間を過ごしたい。 彼らの意見をまとめると、そうなる、と思った。 このさき、日本に難しい問題が起こるとは思っていないようなのだ。 安心しきっている。自足しきっている、と私には見えた。 自足した人間の顔は美しい物はではない。 彼らのその自足した生き方を続けられるのは、いつまでだろう。彼らのその生活を支えているのは今の日本の経済力だ。この経済力を作ったのは、草食系若者たちではない。 肉食系で頑張った、草食系若者たちの父親以上の世代だ。草食系若者たちは自分たちで何かを生み出す新しい産業を作り出さない限り、父親世代の寄生虫でしかない。 経済力が落ちて、職を得られなくなると、それこそ毎日仕事を探し回り、趣味どころではなくなる。寄生虫の生活は楽だが、自分で経済を構築する力はない。こんどは、中国とか、韓国に寄生するか。 そうなった時に、今の言い分が通じるだろうか。 人間、何か働かなければ食っていけないはずだが、これ以上の不況になると、簡単には職を得られなくなる。 職を得られるのは、何か人に秀でた物を持った者達だけだ。 日本の景気が良くなって、能力に関係なく全ての人に一様に職を提供できるようになれば問題ないが、そんな国はどこにあるだろう。 自由資本主義、強奪資本主義の世の中にあって、強力な金融を動かすこと出来る一握りの人間が世界を支配している。 我々は、いまでこそ、その強奪資本主義者のおじさんたちのおこぼれを頂戴できているが、彼らは何時までも甘くない。 水道の蛇口を彼らが閉めるのも、遠い日の話ではなさそうだ。 幕末に、長州(山口県)に吉田松陰という男がいた。 年齢は、一昨日テレビに出た草食系の若者たちと同じ年頃で、政府の方針に逆らったので死刑になった。 私は、吉田松陰の「尊皇主義」はとてものことに受け入れられないが、あの当時、押し寄せてくる西洋の勢力に対して、日本を何とか守って、西洋に対抗させる力を付けなければ行けないと焦った気持ちは良く分かる。 どんな人間でも、その時代の枠から逃れることは出来ない。 吉田松陰も、封建武士としての意識に貫かれ、その意識を抱いて外国に対抗する攘夷論(外国を撃つ)を主張する点で、今から見れば時代遅れだが、当時としては最先端思想だった。日本人が外国の攻勢にあったのは初めてのことだったのに、どうすれば良いか二十歳そこそこの松蔭は智恵を振り絞ったのだ。 松蔭は、国をどうするかという意識を強く持っていたが、一般の人々の民政までは頭になかった。外国と日本との関係のことで切羽詰まっていたのだ。そこまで、余裕がなかったというか、封建武士の限界と言うべきか。 このままでは、日本は西洋の支配下に置かれてしまう。何とか立ち上がらなければならない。しかし、他者はついてこない。 変革のために主君を責めなければならないが、封建武士として主君に対する忠義を貫こうとすれば、それもかなわない。 それでは、新しい社会など作り上げようがない。 のんびりしている社会に向かって、西洋が攻めて来て国に災いをなす、などと言えば、狂人扱いされる。 (ここから、鹿野政直氏の「日本近代思想の形成」を援用する) そこで、吉田松陰は、自らを「狂愚」とよんだ。 「狂は常に進取に鋭く、愚は常に避趨(ひすう)(逃げ出す動き)に疎し」 要するに、「狂」は積極的に何事かを進み取ることに鋭い。「愚」は逃げたりすることに疎い。 すなわち、 「狂」は積極的に行動する人。 「愚」は退くことを知らぬ馬鹿正直な人間。 「狂・愚」あわせて、積極的に行動する、至誠の人、馬鹿正直な人、とうい積極的な意味をもっている。 この自分を「狂愚」と捉える考え方は、社会に対する絶望の表現である。 社会をどんなに批判しても社会は、馬耳東風で動こうとしない。 逆に、頭がおかしいと扱われる。 こうなると、社会を批判する自分自身は、社会における例外者として捉えざるを得なくなってくる。 社会を批判する自分を、例外者として規定することは、深い敗北感を形成する。 結果として、吉田松陰は政府によって死刑にされるが、そのひたむきな行動に対していまだに信奉者が少なくない。 私自身、吉田松陰の考えを丸で受け入れられないが、その、一途な思いで突進していくひたむきな生き方には心を揺さぶられる。 この吉田松蔭が、いまの草食系若者たちを見たら、どんな顔をするだろう。 時代の変化は恐ろしいものだ。 たぶん、草食系の若者たちに、松蔭の言葉など、何一つ響かないだろう。 ああ、やんぬるかな、だ。
- 2010/05/04 - 鳩山由紀夫氏を攻撃するのは誰か 鳩山由紀夫総理大臣が、普天間基地についての対応に対して多くの人びとに批判されている。 しかし、その批判、非難、攻撃は、鳩山由紀夫氏が受けるべき物なのだろうか。 考えて貰いたい。 沖縄を米軍の基地にしたのは誰なのか。 それは、昭和天皇である。 昭和天皇が「沖縄にずっとアメリカ軍に存在して貰いたい」といったのが始まりではないのか。 昭和天皇の沖縄についての発言は、いちいち、私はここで挙げないが,様々な文書で明らかにされている。 もし、私の言葉に疑いを抱く人がいたら、ちょうど良い機会だ、昭和天皇の言行録を、当たって欲しい。ちょっとした図書館に行って、昭和天皇についての書籍を調べれば、すぐに分かることだ。(その意図があるから、私はわざと、文書をここに引用しないのだ。読者諸姉諸兄が自分の目で、昭和天皇が何を言ったのか読んで欲しい。それで、驚かなかったら、おかしい) 昭和天皇が、沖縄をアメリカに渡すと言った言葉に従って、その後の政府は忠実にアメリカに沖縄を自由に使うことを許してきた。 歴代の自民党政府が六十年以上にわたって、アメリカに沖縄を自由に使うことを許してきたのだ。 今まで、日本をアメリカの奴隷にしてきたのは、自民党政権である。 鳩山由紀夫氏に直接の責任はない。 私は、民主党を支持しない。なぜなら、その党員の中に、自民党の最右翼と同じ考えの人間が多く存在しているからだ。 自民党と民主党との絶対的な違いはない。 ただ、鳩山由紀夫氏が、沖縄から米軍基地の移転を表明したことは画期的だった。 我々、日本はいつまでアメリカの奴隷になっていなければならないのか。 その、基本的な疑問に答える一つの回答だった。 しかし、アメリカは強力である。 日本ごとき、ただのアジアの小国、としか思っていない。 少しでも撥ねれば、叩く。 アメリカの有力雑誌、TIMEの、2010年4月19日号(Australia版、多分アメリカ版と同じだと思う)では、「鳩山はfading Japanを改革しようとしているが、彼は、改革より混乱を生み出している」という記事を巻頭に載せた。 この「fading Japan」というのが、実に嫌みだ。fadeとは 「衰え、消え去る」という意味である。「fading Japan」とは、「衰え消え去ろうとしている日本」、と言う意味だ。悪意と、侮蔑を込めた言葉だ。 この、タイトルからTIME誌の意図が明らかだが、(と言うよりアメリカという国の意図)、記事の内容を読んでも単なる嫌みと、脅しでしかない。 こう言う嫌みと脅しは、自民党が政権を握っている限り、絶対に出てこない物だっただろう。 TIMEのいうことは、日本をアメリカの隷属化に置くことが必要だというアメリカ政府、あるいはアメリカの有力勢力の考えを表す物だろう。 この六十年間のことを考えて貰いたい。 長い間、自民党、政府はアメリカに奴隷的に仕えてきたのである。 CIAの秘密文書がアメリカで明らかにしたことは、歴代の日本の自民党の首相がCIAから金を貰っており、CIAにはかれら秘密のコード・ネームが残されていたことだ。 なさけないね。日本の首相が、CIAからコード・ネームを与えられていたなんて。 そう言う国は、まともな独立国ではない。 私は、民主党を支持しないが、鳩山由紀夫氏が少なくとも、アメリカに対して日本人の思いを主張しようとしたことは認める。 しかし、鳩山由紀夫氏がどんなに頑張っても、この1945年以来の日米の関係を突然変えられる訳がない。 変えようといっただけで、私は、鳩山由紀夫氏を評価する。 今までの、自民党政府の誰がそんなことを本気で言ったか。 残念ながら、TIMEが嘲笑したように、日本はアメリカにとって、隷属国家でしかない。 そんな立場にある日本という国の立場を、日本人全体が、日本人全国民がおかしいと思い、それを正そうと思わない限り、日本のアメリカに対する隷属関係は変わらない。 鳩山由紀夫氏を今回の沖縄の基地問題で非難する人間は、戦後の日米の歴史を知らないか無視している。 私から見れば、鳩山由紀夫氏の言うことすら、日本人全体のあり方を考えた場合不十分だと思う。 ところが、その、鳩山由紀夫氏のやわい言葉にさえ、アメリカは厳しく反応するのだ。 この百年間、世界で最悪のテロ活動を続けてきたのがアメリカである。 貿易センタービル2棟が倒されたとアメリカ人は騒ぐが、では中南米で、東南アジアで、中東で、イラクで、アフガニスタンで、アフリカで、いったい何万何十万の人間をアメリカは殺してきたのか。 貿易センタービル2棟で釣り合いの取れる数ではない。 その、テロの基地の一つが、沖縄なのだ。 沖縄の基地から、イラク、アフガニスタン、以前はベトナムに、アメリカ軍が派遣されてきた。 その、テロ基地の一つ沖縄を、縮小することは世界の平和に大きく寄与することである。 だが、力関係は如何ともし難いし、この六十年間の保守政権のアメリカ隷属体制になれたアメリカは、この関係を少しでも変更しようとする勢力に対しては、全力を挙げてつぶしにかかるだろう。 岸信介から、日本政府の売国奴としての体制は変わっていなかったのだ。 A級戦犯だった岸信介が、どうして釈放され、どうして日本の首相になれたのか。 あの、1960年の安保改正の時の騒ぎを考えればよく分かる。 鳩山由紀夫氏は、戦後の首相の中で初めて、アメリカに対して異議申し立てを行った人物である。 私は、政治における陰謀論は簡単に受け入れてはいけないと思うが、戦後の日本におけるアメリカの存在の強さは無視できない。 首相自体が売国奴だったのだ。他にも、いくらでも、アメリカのために国を売る人間がいてもおかしくない。 現実に、名指しは避けるが、アメリカにこびを売るか、アメリカに弱みを握られたか、何らかの理由でアメリカに日本を売り渡す行為を続けて来ている政治家・官僚は、いやと言うほど存在する。 そのような、政治家・官僚と比較すると、鳩山由紀夫氏は少なくともアメリカの奴隷から、この日本という国を解放しようとする意志を持っていると私は思う。 しかし、繰返すが、アメリカは強力であり、日本国内にもアメリカのために働いている人間が多い。 このような状況で、直ちに、沖縄のアメリカ軍基地を縮小しようと言っても、力関係から言って通るはずがない。 通るはずがないことを、公約にした氏を公約違反だと攻めることも可能だろう。 しかし、それは、あまりに戦後の日米関係を無視した意見だと思う。 どんなことであれ、しかも、それが大きなことであれば、最初の第一歩を踏み出すことが一番難しい大事業だ。 1945年以来の対米隷属の日本の立場を、少しでも、良くしようとすることは、難事業中の難事業だ。 それを、公約にしたことの全部が出来ないからと批判すること自体、アメリカのためにする言葉だと思う。 鳩山由紀夫氏が、今回、公約を全て守ることが出来なくても、これは、アメリカに対する隷属関係から自由になる第一歩を日本国民に示した重要な意義があると、私は考えたい。 無闇に、鳩山由紀夫氏を批判する勢力の正体を、国民は知るべきだ。 (その正体は凄いよ。どろどろしているよ。目をふさぎたくなるよ。そう言う人間が、大手を振って跋扈しているのが今の日本なんだよ。) 結局、鳩山由紀夫氏は、アメリカと、アメリカに仕える日本人の有力者たちによって、打ち負かされるだろう。 公約を守れなかったのは鳩山由紀夫氏個人の責任である、と言い立てるのは、そのような人達とそのような人達に盲従する人達だ。 日本政府の実力と、アメリカの実力の差を冷静に計算して、弱肉強食の原理の元に、今回の沖縄の基地問題と鳩山由紀夫氏の責任問題を、感情的にならずに議論するべきだと思う。
- 2010/05/04 - この「市民団体」とは何者だ「市民団体」の申立によって、「検察審査会」が審査会を行い、民主党の小沢一郎氏に対する不起訴が否定され、「起訴相当」とされた。 私は、法律関係に疎く、この「検察審査会」なる物の存在すら良く知らなかった。 私の、この頁を読んでくださる読者諸姉諸兄は、今まで頂いた書き込みなどから判断するに、大変に知的に程度の高い方たちばかりであると思うが、それでも、この、「検察審査会」について、よくご存じの方は多いとは思えない。 そこで、私は、時間を費やして、この「検察審査会」と、小沢一郎氏を「検察審査会」に訴えた「市民団体」について調べてみた。 調べると言っても、私自身、シドニーにいる立場だから、日本の各地に行って、色々な人びとに尋ね回ると言うことは出来なかった。 結局は、ネットを回ってみて、このあたりなら信頼できるかも知れない、と言うところを選ぶしかなかった。 しかし、選ぶ基準は、それ以前に私の中に構築された価値判断を基にして行った。 さて、今回は、小沢一郎氏を検察審査会に持込んだ団体について語りたい。 小沢一郎氏の今回の問題については、例えば、朝日新聞の以下の文面のように、書かれている。 小沢一郎氏「起訴相当」と議決 陸山会事件で検察審査会 小沢一郎・民主党幹事長の資金管理団体「陸山会」の土地取引事件で、東京第五検察審査会は27日、政治資金規正法違反(虚偽記載)容疑で告発された小沢氏を東京地検特捜部が不起訴(嫌疑不十分)とした処分について、「起訴相当」とする議決をし、公表した。 特捜部は今後、再捜査して再び処分を出す。昨年5月に施行された改正検察審査会法では、再捜査の末に再び不起訴としても、それに対して審査会が2度目の「起訴すべきだ」とする議決をすれば、裁判所が指定した弁護士によって強制的に起訴されることになる。 特捜部は2月、小沢氏の元秘書で陸山会の事務担当者だった衆院議員・石川知裕被告(36)ら3人を同法違反罪で起訴した。その一方で、小沢氏については「虚偽記載を具体的に指示、了承するなどした証拠が不十分で、共謀は認定できない」として不起訴にしていた。 これに対して小沢氏を告発した東京都内の市民団体が「証拠の評価が国民目線とずれている」として、「起訴相当」の議決を求めて審査会に審査を申し立てていた。 以前に何度も書いたが、私はインターネット上の匿名の書き込みは信用しない。 しかし、今回、「検察審査会」について調べてみたところ、匿名ではあっても、他の信頼できる情報を元にした物もあり、さらに、これは怪しいと思う人間が、本人自身の名前で公表している頁もあり、ある程度正確な認識を得ることが出来た。 怪しい本人自身が、YouTubeなどに恥ずかし気もなく、自身の犯罪的な動画をアップロードしていることも知って、いまや、YouTubeが、そのような怪しい運動家の重要なメディアとなっていることも確認して驚いた。 まず、ことの大本は、国に尋ねるしかない。 そこで、国の裁判所のホームページ(http://www.courts.go.jp/kensin/index.html)から、入ってみた。 (私はネエ、嫌みじゃないんだが、六十歳以上の人間で、アメリカ語に得意でない人間はこの頁に入れないとおもう。単に、www.saibanにすればまだ分かりやすい。だが、courtsとはなんだ。こんなアメリカ語は通常の日本人の語彙にございません。頼みますよ、法務省のお役人方。もっと分かりやい言葉を使って下さいませ。別に、隠したい訳じゃないんでしょう。役人にとって、自分のしていることを出来るだけ分かりやすいように国民に知らせるのは義務だぜ。 こう言う馬鹿なことをしているから、役人減らせ、なんて言葉がわき起こるんだ。 一事が万事と言うぜ、考えてみてくれよな。) 事のついでに、日本のIT産業に対する官僚の取組みに苦言を呈したい。 いま、日本の検索業界はGoogleに90パーセントの市場を奪われている。 だが、中国を見ろ。百度と言うのが一番の検索エンジンで凄いビジネスを展開しているじゃないか。もちろん、それも、中国独特の著作権無視で他人の作ったソフトを勝手に使う風土と、中国共産党の締め付けがあっての話だが、それにしても、それとGoogleを手本にして、締め付けなしに、世界を納得させる検索エンジンの開発などに、役人が本気で携わってこそ今の日本の窒息状態が回復するのではないか。 こんな事言っても、日本の役人たちは全然動かない。 動かない理由を二万八千六十一個ほど、すらすらと述べる。 何もしないための理由を考えるために、丸1日を過ごすのが彼らの仕事なのだろう。 日本の官庁には、即ち、官僚には、日本でも優れた人材が配置されているはずだ。 その優秀性を発揮できなかったのが、日本をここまで落ちぶれさせた原因だ。 私は、東京大学で同学年の官僚予備生を沢山見た。その中には、クソにカビの生えたような奴も大勢いたが、極めて優秀な人間も少なからずいた。 あの、優秀な人間達が、どうしてこのような日本の経済的・政治的敗北を招いたのか私には理解できないのだ。 あの連中の優秀さを発揮させないような妖怪が日本の官庁に住み着いているに違いない。 それはさておき、その中の「検察審査会ってどんなところ・・・」と言う頁を開いてみた。 そこには、交通事故での例が、絵解きで説明されている。 交通事故で、被害にあった女性が、警察の調べの結果、相手が不起訴になったので、「検察審査会」に申立をして、それを受けて、「検察審査会」は審査会を開き、検察庁から取り寄せた記録を調べたりして審査し、その結果、検察官はもっと詳しく捜査すべきと言う「不起訴不当」の議決をした。 それに従って、検察官は、検察審査会の議決を参考にして、再度捜査、検討した結果、相手が起訴されることになった。 という例が書かれている。 さらに、引用すると ◎検察審査会とは、 《選挙権を有する国民の中からくじで選ばれた11人の検察審査員が,検察官が被疑者(犯罪の嫌疑を受けている者)を裁判にかけなかったこと(不起訴処分)のよしあしを審査するのを主な仕事とするところ》 ◎審査の方法は、 《検察審査会は,検察審査員11人が出席した上で,検察審査会議を開きます。そこでは,検察庁から取り寄せた事件の記録を調べたり,証人を呼んで事情を聞くなどし,検察官の不起訴処分のよしあしを国民の視点で審査します。 なお,法律上の問題点などについて,弁護士(審査補助員)の助言を求めることもできます。 また,検察審査会議は非公開で行われ,それぞれの検察審査員が自由な雰囲気の中で活発に意見を出し合うことができるようになっています。》 ◎審査の結果は、 《検察審査会は,審査の結果,不起訴相当(不起訴処分は相当であるという議決),不起訴不当(不起訴処分は不相当であり更に詳しく捜査すべきであるという議決),起訴相当(起訴するのが相当であるという議決)のいずれかの議決をします。そして,不起訴処分をした検察官を指揮監督する立場にある地方検察庁の検事正にその結果を通知します。起訴するかどうかについて最終的な責任を負っているのは検察官なので,検察審査会の議決は,原則として,検察官を拘束するものではありません。検察官は,議決の内容を参考にして再検討し,その結果,起訴するのが相当だという結論に達した場合には,起訴の手続をすることになります。 ただし,平成21年5月21日以降に行われた起訴相当の議決に対して検察官が起訴しない場合には,改めて検察審査会議で審査します。その結果,起訴すべきであるという議決(起訴議決)があった場合には,検察官の判断にかかわらず起訴の手続がとられます。》 ◎そして、これまでに、審査した事件は、 《これまでに全国の検察審査会が審査をした事件は15万件に上り,その中には,水俣病事件,羽田沖日航機墜落事件,日航ジャンボジェット機墜落事件,薬害エイズ事件,豊浜トンネル岩盤崩落事件,雪印集団食中毒事件,明石花火大会事件といった社会の注目を集めた事件もあります。 また,検察審査会が審査した結論に基づいて,検察官が再検討した結果起訴した事件は,1,400件を超え,その中には,懲役10年といった重い刑に処せられたものもあります。》 とある。 私は、不勉強で、「検察審査会」がここまで、重要な役割を果たしているとは知らなかった。 特に驚いたのは、《「検察審査員会」が二度、「起訴相当」と判断すると、強制的に起訴される》と言うところである。 これは、本当に民主主義的な制度なのか。 最近になって、一般の裁判に民間の裁判官が選ばれることについて、激しい議論が行われたが、裁判以前の検察の段階で、このように民間の検察審査会が持たれていて、そこまでの力を発揮しているとは全く知らなかったのは、なんと言うことだろう。 読者諸姉諸兄におかれてはご存知だったのだろうか。 問題はその先だ。 政府の「裁判所」の頁で示された例では、「検察審査会」に申立を行ったのは、事件に巻き込まれた本人である。 それも、明らかに、肉体的に経済的に実際の被害を受けた人間である。 ところが、今回、小沢一郎氏を「検察審査会」にもう一度検察をするように申立をしたのは、「市民団体」とある。 朝日、毎日、読売、その三大新聞のいずれもが、上記朝日新聞の記事のように単に「市民団体」と書くだけで、その市民団体とはどう言う人の集った団体なのか、全然説明がない。 一応、市民団体の名称としては「真実を求める会」、「世論を正す会」などが挙げられているが、これがまた定かではないので、私がここに書いた名称は間違いかも知れない。 私が間違いを犯したとしたら、それは、きちんとその名称を明記しない新聞などのマスコミが悪いのであって、私のせいではない。 だが、私が、ネットで調べいる内に、自分が「検察審査会」に申立をしたと言う人のページを発見した。 それは、桜井誠という人で、氏のホームページ、「Doronpaの独り言」に書かれてあった。 氏は、「在特会」(在日特権を許さない市民の会)の主導者である。 「在特会」は、その、ホームページに書かれた、設立目的によれば、 『在日特権を日本から無くすこと』を目的に設立された団体です。 本来「在日」という言葉は「在日外国人」を示すものですが、現状日本では「在日=在日韓国人・朝鮮人」を示す言葉として使われております。 これだけみても在日韓国人・朝鮮人(以下、在日)がいかに特異な存在であるかがご理解いただけるのではないでしょうか? 移民でも難民でもない外国人、すなわち在日は「特別永住資格」(以下、特永)という特権をもって日本に存在しています。 そしてこの特永という特権は在日にほぼ無条件で日本永住を認めており、さらに子々孫々それこそ在日十世、百世と日本という国家が存続する限り棲みつき寄生することを認めているのです。 もちろんのことながら、日本に滞在する在日以外の外国人に対しては通常このような特権が認められることはなく、滞在する目的に応じてビザが発給され期限が切れれば延長手続きを取るか、祖国へ帰るかの二者択一になります。(中略) 特永のみならず、通名問題、生活保護問題など「既得の」在日特権や、年金問題や参政権問題など在日が厚かましくも日本に要求している「これからの」特権問題など、在日特権問題はますます深刻化しています。 在日特権問題は突き詰めれば、戦後六〇年以上の自虐史観に基づく極左思想の蔓延が生み出した「日本を絶対悪とみなす加害者史観」という病的妄想にたどり着きます。 「日本が全て悪いのだから、在日のいうことを聞いてあげよう」 と訴える狂気としか思えない極左思想を排除し、冷静に歴史を振り返り、日本が過去の歴史において何らとして朝鮮に頭を下げるいわれなどないことを周知していかなければなりません。 日本国民が不必要な罪悪感を払拭できたときが、朝鮮問題・在日特権問題を解決する第一歩となるのではないでしょうか。(後略) とある。(どうも、これ以上彼らのひどい文章を引用するのは、辛すぎる。ここまででも、吐き気がする) これを見れば、明らかだが、「在日特権を許さない」というのは、在日朝鮮人・韓国人に対する異常な敵意の表れである。 以前、私が、この頁に書いた「日本と韓国の歴史」をお願いだから、読み返して頂きたい。 日本が明治以来、韓国に対してどんなに非道なことをしたのか、それは、左翼とか右翼とか政治的な立場を抜きにして認めざるを得ない、歴史上の事実である。 しかも、 「日本が全て悪いのだから、在日のいうことを聞いて上げよう」 などと、そんなことを日本がしたことがあっただろうか。 在日の朝鮮人、韓国人の生の声を聞いてみたことがないからそんなことを言うのだ。 私は、小学校、中学校、大学、から社会人になっても、いつも周囲に在日朝鮮人・韓国人が周りにいた。シドニーに来て、一番仲良くしているのは、韓国人である。 (ここで、共和国と書かず、朝鮮と書くのは、便宜上である。共和国の友人たちには申し訳ないが、通常の日本人に話しかけるには、朝鮮人の方が訴求力が強いからだ。共和国というのは、日本では極めて認知度が低いのだ) そして、彼らが、どんなに日本人による差別に苦しんでいたか私は自分の目で見た。 大阪の韓国人街で会った、ある大学生は、極めて優秀であるにも関わらず、日本の大企業に就職することは最初から無理だとあきらめていた。(10数年前の話である。今は、積極的に韓国人を雇用する企業が増えたという。) 私自身、欧米、オーストラリアで、日本人、あるいはアジア人であることによる差別を体験してきた。 差別をされるのは、実に苦しいものである。 しかし、同時に、理解したのは、差別をしている人間が如何に醜いかと言うことである。 私は、私を明らかに差別している欧米人の顔つきを見て、「私は、絶対にこんなに醜い顔の人間になりたくない」と心に誓った。 差別をしている人間は、自分たちがどんなに醜い存在であるか、意識していない。 だから、醜さが何重にも重なるのだ。 「在特会」の人びとも、自分たちの醜さを認識していない。 YouTubeにアップロードされている彼らの活動の記録を見ても、「会」の人びとの醜悪さに辟易する。 「朝鮮人は日本から出て行け」などと大声で叫ぶのは、毎度のことだが、身体障害者に対する攻撃には驚いた。 次の、動画を見て下さい。 http://www.fooooo.com/watch.php?id=aj_9Ti0Vveo 氏の街頭行動に反対意見を示した車椅子の男性に対する、この行為は何だろう。 車椅子の男性が、氏のあまりにひどい言動に耐えかねて、自分の脇の地面を杖で叩いたところ、氏は、「それは、兇器だろう」と詰めより、更にひどい脅迫を加える。 しまいには、「日本から出て行け」とまでいう。 これが、「在特会」の主唱者の素顔である。 「在特会」は朝鮮人学校に対する攻撃を始め、中国人青年に対する街頭での暴力行為など、信じられないような凶暴な活動を続けている。(それを、警察が、放置しているのはどう言う訳か) この、桜井誠氏が、上記の自身のホームページで、東京検察審査会に対して、小沢一郎氏の政治資金規正法違反容疑での起訴を見送った東京地検特捜部の判断を不服として、不起訴処分の是非を問う申し立てを行ったと書いている。 驚いたのは、その検察審査会への申立書の内容である。 http://ameblo.jp/doronpa01/image-10451351357-10402072404.html このような、床屋政談的な何の根拠も無いことをもって、一旦出された検察の判断をひっくり返そうとすることにも恐れ入るが、それに対する裁判所の協力も、実に大した物だ。 氏の頁には次のように書かれている。 検察審査会事務局では、審査申し立ての手続きについて説明を受けました。本来であれば告訴・告発人でなければ審査の申し立てはできないのですが、小沢一郎は国会議員という立場であり、なおかつ被疑事実も「政治資金規正法違反」という公金に関わる問題であるため、全国民が被害者という立場で申し立てを行うことができることを確認しました。(ただし、検察審査会側の判断によっては申し立てを却下する場合もあるとのことでした。) これを受けて、5日の朝一で検察庁特捜部に連絡を入れて申立書の被疑者特定について話を伺ったところ、不起訴処分の正式な日付は2月4日であること、事件番号などについては記載しなくても小沢一郎という名前で事件特定は可能であることを教えていただきました。申立書の不起訴処分年月日と被疑者欄さえ記載していれば、事件番号(平成○年検第○号)、不起訴処分した検察官についてはこの件に関して特に記載する必要はないとのことでした。 以上の説明を受けて書式を整え、本日13時過ぎに東京検察審査会事務局を訪れて申立書を提出し、その場で正式に受理されました。 不起訴決定後、極力早く審査申し立てを行いたかったため、今回の申し立ては桜井一人だけで行いました。小沢一郎という巨悪を眠らせてはいけないこともありますが、外国人参政権実現のために誰よりも積極的なこの民主党大物政治家の動きを止めなければならないからです。一連の小沢ショックとも呼べる政局の中で、外国人参政権からです。一連の小沢ショックとも呼べる政局の中で、外国人参政権問題は一時期に比べてかなり下火になってきた感があります。しかし、同問題の中心にいる政治家が不起訴になったことで、またぞろ外国人参政権法案の国会上程を目指した動きが加速する可能性があるのです。 突進する野獣に小石を投げる程度に過ぎないかも知れませんが、今できる範囲の精一杯として検察審査会への申し立てを速攻で行いました。こちらも気を緩めることなく外国人参政権法案、そして人権擁護法案をめぐる動きを注視し、必要と判断したときは果断速攻で行動を起こしていきたいと思います。 何と裁判所は親切なんだろうと、私は感心した。 「検察審査会」とは、そもそも、三権分立の民主主義を守るための仕組みなのだろう。 それが、桜井氏のような人間に恣意的に用いられ、それに裁判所が、協力するとあっては、民主主義も何もあった物ではない。 桜井氏の被疑申立の文章に書かれた内容は、普通の週刊誌などでは相手にされないようなものではないか。 何一つ、新しい、疑惑点を提出しておらず、たんに、小沢氏に対して根拠のない疑惑を浴びせているに過ぎない。 普通の週刊誌のデスクだったら相手にしない内容の文章を、裁判所が受け入れたということに対して私は、驚くと共に、日本の司法機構の甚だしい堕落に魂も抜けたように感じる。 こんな、児戯に等しい申立書をいやしくも日本の司法が受け付けるのか。 これが、日本なのか。 これから、推測できることは、小沢一郎氏を「検察審査員会」に対して審査の申立を行った「市民団体」というのも、この程度の人達の集まりに違いないということである。 さらに、不可解なのは、その「検察審査会」の人員構成である。 表面的には、抽せんによって選ばれる、とされているが、「だれか、推薦して下さい」と裁判所に頼まれたと言う人の話も聞いたことがある。 更に今回の場合、上記の桜井氏の申立書のような、幼稚な文章を受け入れて、今までの司法の歴史に泥を塗るようなことをしたあげく、どのような人達十一人を使って、「起訴相当」という結論を引き出したのか。 十一人の検察審査員会の人達は、いわゆる市井の人達であるという。 職業・学歴・一切関わりなく抽せんによって選ばれると言う。 であれば、この数ヵ月、普通の日本人は、テレビ・新聞・インターネットによって、検察のリークに散々さらされてきたはずだ。 彼らの頭の中には、「小沢一郎は悪である」という刷込みが出来ているはずである。 民主党内閣が出来てからの検察の民主党に対する身も蓋もない攻撃の凄まじさは、みんな知っているはずだ。 その十一人も、その攻撃にさらされて、善良な市民として(自分ではそう思わされて)、小沢一郎氏を政治の巨悪として捉えているに違いない。 そう言う人達に、公正な判断が出来る物だろうか。 桜井誠氏の、あの、恐ろしいくらいに無内容な申立書を裁判所が受理した段階で、ことは決まっていたのだ、と私は気持ちが悪くなった。 土建業・ゼネコンとの癒着が露わな自民党の二階氏、奇怪な事業団体からの不法献金問題を抱えている自民党の与謝野氏に対しては、検察は一切動かず、民主党に矛先を向けている。 あまりに、その意図があからさますぎる。 私から見ると、小沢一郎氏の政策は少しも、革新的ではないが、日本の古くからの支配者たちにはそれすら許せないのだろう。 このまま、自民党が崩し続けて破局に至った日本を更に崩していこうという人達が、力を握り続けて、「検察審査員会」などと、聞こえの良い武器を使っているのを見ると、寒気がする。 日本は、もう、中国と韓国にも負けているというのに、こんな、無意味な力のそぎ合いをしていてどうするのだろう。 民主党が崩れた後に現れるのは、1929年の世界大恐慌の後と同じ、排外主義、軍国主義の政体だろうと私は恐れる。 当時は、今と同じように世界大恐慌の影響で日本の経済も逼迫し、政治も混乱した。 その混乱の中で、力を付け、日本を戦争に導いていったのが、現在の「在特会」のような拝外主義的で、攻撃的な人間達だった。 今、自民党から逃げ出して、奇怪な小政党を作っている人達を見ていると、日本の崩壊も絵空事ではないと思えてくる。
- 2010/04/18 - 環境問題篇を書き終えた ついに、先ほど、環境問題篇その2の最後、第9話を書き上げた。 もう、本当にくたくたに疲れ果てた。 こんなに難しい仕事は初めてだった。 環境問題についての話は難しい物ではない。 極めて明確だ。 しかし、それを、毎週22頁に収めるという作業が地獄のような苦しみだった。 折角書き上げた原稿を、漫画のページ数を超過すると言って削るときのあの悲しさ。なさけなさ。大事だ思って書いたのに、削らなければならない。 身を削るより、原稿を削る方が、辛い。それも、時には、原稿用紙二枚も三枚も削る。 こんな苦しいことは無い。 今、段ボールいっぱいの取材資料を眺めていて、「ああ、百分の一などと言ったが、実際に漫画に書き込むことが出来たのは千分の一も無い」と改めて痛感して、何と言うか「慟哭」というのにふさわしい嘆き悲しみの状態にある。 「何も書けなかった」と自分を責める声が、心の底から湧いてくる。 しかし、同時に、前にも言った「漫画で解決策は提示できない」という言い訳も出て来る。 「読者諸姉諸兄に、こんな問題があるんだ」と提示することが出来れば、漫画としての使命は果たしたと考えるしかない。 しかし、悲しいのだ。 これだけの、材料を、このまま眠らせて良いのか。 といって、こう言うことを本に書いて、どれだけの読者が読んでくれるのだろう。 活字本は、本当に読者は手に取ってくれない。しかも、このような固い内容の物は受け付けてくれない。 だから、漫画で書く意義があるのだ。 それにしても、このまま、この材料を眠らせてしまっては犯罪的だな、と思う。 一つの仕事をし終えて、もっと幸せな充実した気持ちになるはずだったのが、欲求不満の固まりになってしまった。自分を責める声が自分の心の奥底から響き渡る。 今夜は、睡眠薬を飲んで寝よう。 ああ、心が、昂ぶる。 自分の無力さに対して、悲しみが募るのだ。 しかし、一合升には一合の酒しか入らない。 私が取材した材料は、一斗、二斗、一石(若い人達のために、一合は180CC。一斗は、その百倍。一石は千倍)だ。 与えられた頁は一合にも満たない。 入るはずがない、と自分で慰めて寝ることにする。(言い訳だな)
- 2010/04/16 - アメリカと言う国は・・・ アメリカの、ワシントン・ポストという新聞が、鳩山首相について、 「不運で愚かな日本の首相」と紹介。 鳩山首相が「最大の敗者」「不運で愚か」とワシントン・ポスト紙が酷評 「鳩山首相はオバマ大統領に2度にわたり、米軍普天間飛行場問題で解決を約束したが、まったくあてにならない」 「鳩山さん、あなたは同盟国の首相ではなかったか。核の傘をお忘れか。その上で、まだトヨタを買えというのか。鳩山首相を相手にしたのは、胡主席だけだ」 と書いた。 一国の首相に対して、これだけ無礼なことを書くか、とまず驚いた。 しかし、その真意を斟酌すると、さもありなんと思う。 民主党政権になってから、日本国内で民主党に対する攻撃が激しい。 検察の鳩山・小沢に対する攻撃もそうだ。 しかし、それが、全部日本の国内発生的な物と考えるのは甘い。 私は陰謀的な物の考え方は取らないが、今回の一連の事件は、ワタリガニにでも分かる出来事である。(ワタリガニは世界中に生息するカニであって、その数は世界中の人類より多いのではないか。ワタリガニは、可哀想に、ただ、ひたすら他の生物の餌になるだけの存在である) とにかく、アメリカは日本のような自分の植民地の首相が、自分たちの基地についてああだ、こうだ、言うだけで許せないのだ。 トヨタの問題もその一連の動きの中のことだろう。(ワシントンボストの記事を読めば、それがよく分かる) トヨタの車に問題があったと申し立てた人間には、ブレーキも踏まずに、トヨタの車のブレーキが効かなかったと言った人間が最低二人か、認められている。 アメリカの、ABCテレビも、日本で言えば捏造に近い番組作りをしていることが明らかになった(こういう不正が明らかになるところが、アメリカの良いところであるこは、私も大いに認める) しかし、とにかく、アメリカにとっては、アメリカの基地に対して協力的ではない鳩山内閣を潰すことに意欲的であることは間違いない。 日本の支配層はアメリカに籠絡されている、と言うか、敗戦直後アメリカに命を助けて貰った人達の子孫だから、アメリカの命ずるままに、必要のない武器を買わされ、アメリカに対して「思いやり予算」などと言うばかげた、貢ぎ物をしてきた。 その樣子が、鳩山内閣になって変わるのではないかとアメリカは心配しているのだ。 ここ数ヶ月の、一連の、日本叩きは、その表れだ。 トヨタの、リコールに対する対応が不誠実だった、などと、議会がトヨタに懲罰金を課したりしているが、今までに、こんな例が、アメリカに無かったと言うのか。 フォードはどうだった、GMはどうなんだ。ドイツの車はどうだったんだ。 アメリカは、小泉のように、大統領の前で、プレスリーの真似をして躍るような腰抜けの首相が欲しいのだ。 普天間基地について議論を起こすだけでも、アメリカは許せないのだ。 鳩山首相自体、反米ではないが、隷属の姿勢が足りないと言うわけだろう。 小沢幹事長がアメリカに行こうとしたら、鳩山首相と二重権力の様に見えるから止めろ、と言う声がかかって、小沢幹事長はアメリカ行きを取りやめた。 おお、なんと、その、小沢幹事長アメリカ行きを止めたのは、アメリカ自身だったのだ。 アメリカは、鳩山首相なら、英語が話せるから直接恫喝できるが、小沢幹事長だと通訳を通じなければならないので、恫喝が弱くなるから小沢幹事長が来ることを拒否したのではないか。(勘ぐりすぎですかね) 私は、前回の日記で「国民国家・愛国主義」を否定した。 アメリカの場合、「国民国家・愛国主義」どころか、「国民国家」を偽る、「どん欲資本主義者」が国を操っていると思う。 アメリカの平均的な国民の惨めな生活はあまり明らかにされていない。 私の仲の良いオーストラリア人の友人の細君は何年かアメリカで看護婦として勤めていた。 彼女が言うのに、「一番辛かったのは救急車で運ばれてきた重病人に、貴方は保険にかかっているか、とまず尋ねることだった」そうだ。 もし、「保険にかかっていない」と患者が答えたら、直ちに他の病院に回してしまう。 結果として、全ての病院に受け入れられず、そのような患者は死んでしまう。 日本人には、信じられないことだろうが、アメリカでは「国民健康保険」のような、国民福祉は存在しない。 その代わり、その福祉に使う金を武器にして、イラクやアフガニスタンなど、至る所にぶちまけているのだ。アメリカは軍需産業で生きている国だ。 福祉に金を掛けるより、武器の開発に金を掛けた方が儲かる人達が、国を支配しているのだ。 ワシントン・ポストの鳩山首相を貶める記事は、我々日本人が、アメリカと日本の関係を考え直すのに良い教科書となる。 トヨタ車に対する異常な攻撃、それも、消費者に対する信頼の厚いとされる雑誌が始めた攻撃。(この雑誌は、広告を取らないからいかなる企業の意図にも影響されないとしている。大変に立派な雑誌である。こう言う雑誌に攻撃されたら、大抵の企業は白旗を上げざるを得ない) こう言うことを、単なる現象として見過ごしてはならない。 私は、民主党も、鳩山首相をも、支持しない。 しかし、アメリカのこの暴虐に対しては、対抗しなければならないと思う。 まだ、「国民国家・愛国主義」に固まっているアメリカのような国に対する時には。
- 2010/04/15 - 訂正 テロップではなく、フリップでした 昨日、テロップについて色々書きましたが、アナウンサーが手に持っている札は、フリップというのが正しいというご指摘をある読者から受けました。 考え直し、調べ直したら、「アナウンサーが手に持つ札をテロップと言う」というのは私の勘違いでした。 アナウンサーが手に持つ札はフリップ(flip chart の略)が正しい。 いい加減なのはテレビ関係者ではなく、この私でした。 テレビ関係者の方にはお詫びして、昨日の、日記の内容を訂正します。 ご指摘いただいた読者の方には心からお礼を申し上げます。
- 2010/04/14 - この、政治的空白の恐ろしさ 先日、朝のテレビ番組を見ていたら、いやな物を見てしまった。 それは、ニュース番組なのだが、若いアナウンサーが、嬉しそうに「今日は、凄いニュースが入ってきました」と言って、手に持った、フリップを見せた。 フリップには大きく次の数字が書かれていた。 28.8。 アナウンサーは非常に嬉しそうに、「鳩山内閣の支持率がここまで落ちました」と言った。 それを見ていて、それは、アナウンサー、と言うより、テレビ局の人々は嬉しいだろうと思った。 鳩山内閣が出来てから、検察の鳩山首相と、小沢幹事長に対する政治資金疑惑の捜査が続き、それをテレビ、新聞、雑誌で、検察のリークをこでもか、これでもか、と流し続けた。 一般の人間の情報源は、新聞、テレビ、週刊誌しかない。 そこで、連日、鳩山氏と、小沢氏を悪者として非難し続ければ、一般の人間はその情報を鵜呑みにするしかない。 その結果が、28.8パーセントという数字なのだ。 テレビの人間は自分たちが、鳩山首相をここまで引きずり落としたことを大手柄だと思っているのだろう。だから、あのアナウンサーは、鬼の首でも取ったように、満面の笑顔で、その数字を書いた紙をテレビカメラに突きつけ、視聴者に念を押したのだ。 鳩山内閣が出来てから半年間、鳩山内閣は何も仕事が出来なかった。 その第一の理由は、検察による、鳩山首相と小沢幹事長に対する攻撃だった。 そんな攻撃を受けていて、まともな政治活動が出来るはずがない。 この半年は、検察による政治妨害だった。 挙げ句の果てに、不起訴とは何だ。 検察の失態ここに極まれりだ。 今、日本は経済の破綻で苦しんでいる。 政治による対策が一刻も早く必要だ。 その時期に、検察は政治妨害をした。 鳩山内閣が何も仕事を出来ないようにしたのだ。 私は、民主党なんて自民党と変わらない、と思っている。 支持する意図は全くない。 しかし、検察の政治妨害はこれは別問題だ。 この半年、致命的に大事な時期に、日本は政治空白を持った。 今日のワシントンポストの第1面、オバマが核サミットで集った各国首脳と挨拶している写真が並んでいたが、鳩山首相との写真だけが載っていなかった。 もはや、日本はアジア各国の中で、中国・韓国よりも、世界的に意味が無くなっていることをはっきりと示している。 私は、ナショナリズムのような馬鹿らしい物は地上から全て消えなければ人類の平和と友情は成り立たないと思っている。 しかし、これから、百年間以上は、「国民国家」の時代が続くだろうと思う。 「国民国家」とは、たとえばアメリカのように、一つの人種ではなくさまざまな人種が集って「アメリカ」という国を作る。そう言う国家を、「国民国家」というのである。 その場合、ナショナリズムと同じ物が「国民国家・愛国心」として作用する。 アメリカ人の愛国心は異常な物がある。 この「国民国家」の形態が、われわれ個人の生活に影響を及ぼす。精神にまで影響を及ぼす。 どの国の「国民」であるかによって、その個人の人生が変わってくる。 世界は一つ人類はみな兄弟、などと言う理想論を言う前に、ちょっと考えて貰いたい。 読者諸姉諸兄よ、あなたが日本ではなく、例えば、今人権が甚だしく無視されている国に生まれていたとしたら、どうだったか。 今の状態で、人類は一つ、世界は一つ、全人類は運命共同体だから、互いに助け合おう、などと言っても、それは、世界の現在の真実の姿を見ようとしない、地に足のついていない夢想である。 これから、百年は、全人類が自分たちの過ちを認めて正しい方向に進む決心をするまでは、現在の国民国家の形態が地球上の人類の生き方を規定するだろう。 私は国民国家が必然的に国民に抱かせる「国民国家・愛国心」を心から憎む者である。(そんな物は、サッカーのワールドカップの時だけで充分だ) しかし、今の状態で進んで行くと、我々日本人は、世界的にひどく惨めな状態に陥る。 百年先に達成できる理想を忘れてはいけないが、今日明日の飯の種をきちんと稼ぐ事を考えておかないと、百年先に、国民国家を克復して世界国家の理想を達成するときに、我々は、その理想の実現に何の役にも立たないことになる。 いやな話だが、周りの国がみんな、国民国家意識で、自分たちだけが栄えることを考えているときに、われわれだけ、百年先の理想を唱えて、現実に超然として、結果として貧困の底に沈むわけにはいかないのだ。 今の日本の惨状は、過去の自民党政府の政策の結果である。 それを、良い方向に戻すための政府がどうしても必要なのだ。 それが、現在の民主党政府とはとても思えないが、それにしても、民主党政権になってからの半年間の政治的空白が致命的だ。 28.8パーセントなどと言う札を掲げて喜んでいる、テレビ、新聞、などの報道機関も同罪だ。 あの、テレビニュースを見ていて、日本の復活は余程の事がない限り難しいと、深く落ち込んでしまった。
- 2010/04/11 - 釣りの報告 昨日、さんざん、「美味しんぼ」の仕事が忙しいと泣き言を言っておきながら、あれま、どうしたことでしょう、今日私は、釣りに行きました。 私の家からは相模湾が一望できる。いつも目の前の海で、多数の釣り船が出ているのを見て「ちきしょーっ! 俺んちの海の魚を全部獲って行きやがる! 許せーんっ!」などと、歯がみをしている。 たまたま私の目の前にある相模湾が、私の海になり、相模湾の魚が、私の魚になり、それを他の人が獲るのを許せない、というのは私にとっては極めて論理が一貫していて正しいと思うのだが、そうは思わないという人の方が多いだろうね。 しかし、少なくとも、これから、秋谷近辺の海で釣りをする人は、私の海で遊んで私の魚を獲っている、という意識をきちんと持って欲しい物だな。 私の家の前は「釣り宿 権兵衛丸」。権兵衛丸さんの長女と家の次女は小学校の同級生だ。 そう言う仲なので、「今日は、カサゴ、メバル、などを主に釣りたい」などと言う我が儘を聞いて貰える。 で、今日は、私と友人の「と」と、姉の夫、の三人で船に乗った。 私は、生き餌を使うのがいやなので、ルアーで釣りたかったのだが、船から釣るのに適したルアーが見つからず、「権兵衛丸」さんの用意してくれたいきイワシ(ヒコイワシ)を使った。 釣りを始めて一分経ったかそこらの間に、義兄がメバルを釣り上げた。 その後、義兄は、メバル、を連続して釣り上げ我々は大いに焦った。 そのうちに、私にカサゴが来た。実に型の良いカサゴで、私は大いに満足した。 あの引き味と来たらたまらない。最初に、びびっと来て、すぐにぐいぐい引っ張り込む。 それに対抗して水深六十メートルもの底から引き上げるのだから、大変だ。 深海の魚は、途中で、浮き袋がふくらんで、急に引っ張る力が弱くなる物だが、今日のカサゴの内大きい物は最後までぐいぐいひいた。 「と」は全然釣れず、私がよい型のカサゴを釣り上げているのを見ながら「いいなあ、いいなあ」とうらやましげに言う。 余りそう言うことが続くと、「と」の性格が悪くなると心配したが、とつぜん「と」に当たりがあり見事な型のマトダイをつり上げた。 それで、それまで、ひがんでいた「と」が一気に調子に乗った。 それからしばらくして、とてつもない引きで、「と」の竿が殆どUの字型にしなった。 これはただものではない。私は、手網を持って待ちかまえていた。 やがて水面近くに「と」が引き上げたのは巨大なカサゴ。私は、焦ってはいたが十分注意して手網で取り込んだ。 いや、素晴らしい型のカサゴで、「と」は有頂天になった。 船頭さんも、これだけ見事なカサゴは滅多にないと言う。 勿論私達は初めて見る大型のカサゴだ。 実に興奮した。 続いて義兄がハタの良い型のものを上げ、途中釣れないときに、連れ合いに携帯で「今夜はすき焼きの用意をしてね」と頼んだのだが、これだけ良い型の物が釣れると話は違う。ただちに、「すき焼き取り消し」の電話を入れた。 結局私がよい型のカサゴを三つ、義兄がメバル二つ、はた二つ、「と」がマトダイと大カサゴ。 すべて、食べて美味しい高級魚である。 私達夫婦に次男、姉と義兄、「と」とその夫人、葉山在住のライターの「や」さんの8人でカサゴの刺身、カサゴの唐揚げ、はたの中華風酒蒸し、カサゴとはたの刺身、マトダイのバター焼き。メバルの煮付け。 と言う大御馳走で全員大いに楽しんだ。 罰として、私は日焼け止めを塗り忘れたので顔が日焼けで真っ赤になり、釣りが終わって家に帰ってきて暫くしてから、あまりの痛さに気分が悪くなる有様。 連れ合いが、隣家の畠からアロエを貰ってきてくれてそれを顔にはり、姉がアロエのローションを買って来てくれたのでそれを何度も塗り、ようやく、痛みと火照りが収まった。 しかし、また明日早朝から、和歌山県に取材旅行。 本当に、1日だけの休日でした。 ああ、楽しかった。 しかし、この、真っ赤に日焼けした顔は、泥酔しているようにも見える。 そのせいで、飛行機の登場を断られたらどうしよう。 いやはや、なんともである。
- 2010/04/09 - またまたご無沙汰 またまた、長いご無沙汰をしてしまった。 全て「美味しんぼ」に「環境問題」を書いているせいである。 今連載中の「環境問題」その2、の原稿書きで心身共にすり減らしている。 前にも書いたが、取材したことの百分の一しか書けないこの辛さ。 その百分の一を選らび出す辛さ。 こんな、辛い仕事をしたことがない。 一昨日、第8話の原稿を仕上げた。 残りは、1話である。 いつもの「美味しんぼ」の10倍以上の時間がかかる。 最後の第9話の締切りは、4月19日である。 それまで、取材した資料の山にまた埋もれてあがき続ける。 どうして、こんな苦しい仕事を始めてしまったのか。 ああ、折角書いた原稿を、漫画の与えられたページ数に収めるためにばさばさ切っていくときの、悲鳴を上げたいような気持ち。 毎週、22頁しかない漫画の中で、取り扱うのには問題が大きすぎた。 それでも、読者諸姉諸兄に、今の日本の環境問題に、心を向けていただきたい一心で、自らを鞭で叩き叩き、じりじりと進んでいる。少なくも後退していないのが救いだ。 「環境問題」篇、その1、公共事業が引き起こす環境問題を取り扱った、単行本第104巻が発売中です。 どうか読んでみて下さい。 「環境問題」の後は、「美味しんぼ」の本来のすがたに戻って、日本の名店、名料理人を特集します。 今、その取材に追われています。 「環境問題」の原稿書きと、「名店・名料理人」の取材の両方に追われているので、四苦八苦なのです。 しかし、「環境問題」の取材では、少しも美味しい物を食べることが出来なかったが、今度は美味しい物を食べられるので楽しい、と言うのが、我が取材班の面々の言葉です。 ま、そんな訳で、死後に追い捲られる毎日で、このページの更新にまで力が回らず、私も欲求不満です。 「美味しんぼ」の「環境問題」篇が終わればもっと頻繁に更新します。 それまでにも、暇を見付けて更新しますので、このブログを見捨てないでね。
- 2010/03/20 - 駄目なものは駄目 そもそも、民主党などに期待はしていないと私は繰り返し言った。 民主党の構成人員を考えればすぐに分かることで、民主党という党自身の構成に、深い疑いを抱いていた。 恥にまみれた社会党を逃げ出した連中を始め、汚らしい人間の集まりではないか。 ただ一人、高潔だった、石井紘基議員は、右翼の回し者に殺された。 石井紘基議員以外に、民主党に本当にこの日本を正そうという高潔な志を持った。議員がいるか。 鳩山由紀夫を見よ。 毎月母親から一千五百万円の金を貰っていたことを知らないと言うなら、話にもならない魯鈍である。 さらに、毎月一千五百万円貰っていることを知っていながら、知らなかったと言うならこれは嘘つきである。 魯鈍も、嘘つきも、国を導いて行く人間としての資格はない。 では、小沢一郎はどうか。 私は、10年前に小沢一郎はきちんと法で裁いておくべきだったと思う。 政権党の民主党の幹事長になったから、と言ってあわてて検察庁が動いたことが滑稽でばかばかしいことなのである。 代議士の年収は、三千万くらいしか行かない。当然、政治献金を受けとることになるが、それが、どのように正しく処理され記帳されているか、それが問題だ。 いったい、代議士をしているだけで、どうして東京都内に三十億円もの不動産を購入できるのか。 あり得ないだろ。 その、政治資金問題は別にして、小沢一郎は何を目的としているのか。 これまでの所、小沢一郎は、政治権力を握ることに自分の存在意義を掛けていると言うことしか分からない。それだけが、あの男の目的なのではないか。お山の大将になりたい。それだけである。 その政治権力を握った後、この日本をどう動かしていくのか、日本をこの絶望的な破滅の底からどのようにして救い出すのか、その計画なり、方向性なりを、一つも聞かせて貰っていない。 今度の夏の参議院選挙で、民主党は勝つのだ、そう言う言葉は彼の周辺から聞こえてくる。 政治権力を一身に集めて、さて、それで何をするのかね。 小沢一郎からは、今や、アメリカの属国より更に下の、中国の属国になろうとしている、この、惨めな日本という国をどう救うのか、そんな言葉が聞こえてこない。 金持ちが金を集めて金の使い道が分からなくて馬鹿な遊びをする。 小沢一郎を見ていると、江戸時代の金の使い道に困って遊び狂った御大尽を思い出す。 権力を集めたが、その権力で何をどうしたらいいか分からない。権力で遊び狂われたら、江戸時代の大店の勘当された若旦那の遊びより遙かに困るんだがね、どーじゃろかね、おーい! 鳩山由紀夫総理大臣の目はうつろだ。 きょろきょろと、正に鳩が豆鉄砲でも食らったような目つきで周りを見回す。 言葉にはしまりがない。意味のある言葉を言えない。 すぐに前言を取り消す。それなら最初からしゃべるな。 小沢一郎は、牛舎の中で自分のたれたクソを練り回している性格の悪い牛のような目つきでちらちらと周りをうかがっている。 ちきしょーっ! これが、私の愛する日本国の上に立つ人間の姿なのか!
- 2010/03/19 - ご無沙汰しました ずいぶんご無沙汰してしまった。 とにかく、今スピリッツに連載中の「美味しんぼ」「環境問題篇その2」にすっかり時間とエネルギーを取られて、ブログに書き込む余裕が仲々取れないのだ。 環境問題は、色々取材して回ったのだが、いざ、漫画に書くとなると、取材したこと、書きたいことの百分の一も書けない。 それも、当然のことで、「美味しんぼ」はあくまでも漫画であって、漫画の場で問題解決の提案などすることは出来ない。 このような問題が起こっています、と言うことを読者に伝えて、問題提起をすることが役目だ。 そう割り切れば、いいのだが、それでも、その問題の取捨選択が難しい。 ページ数を幾ら使っても良いと言うのなら別だが、週刊誌には割り当てられた紙数がある。 このブログをご覧の読者諸姉諸兄には良くお分かり頂けると思うが、私は、長々とたっぷり書く性質である。 短く書くのは苦手である。 実は、物を必要以上に長く書き込まず短く書くことは大変な技術を要することなのである。 それについては、「美味しんぼ」を始めるときに、自分に課したことが二つある。 (このことは前にも書いた覚えがあるが、くどいのは私の性分なので、また書きます) 一つは、「読み切り形式にすること」 と言うのは、それまで私の描いてきた劇画は、連続物の大河方式とでも言う物で、次回も読者をして読ませようという気にさせるための「引き」を毎回最後に作る。 読者はその「引き」が気になって、つい次回も読もうと言う気になってしまう(のではないかと、書く方は期待しているが、必ずしもその策が上手く行くわけではない)。 しかしこれは、作劇術しては、少なくとも私には安易なように思えた。ちょっと話が苦しくなって上手く動かない、などと言うときに、思い切って派手な引きを作って、その週を乗切り次週で何とか形を作る、何てことも出来るのである。 しかし、毎回読み切りだとそうは行かない。毎回20頁内外で起承転結をきっちりと収めなければならない。 これはかなり難しい。 実は、劇画原作の大先輩、と言うより、劇画原作の創始者の一人である小池一夫先生(もう一人は、梶原一騎先生)はこの読み切り連載が非常に巧みである。 「子連れ狼」にせよ、「ゴルゴ13」にしろ、読み切り連載の醍醐味を味わわせてくれる。(「ゴルゴ13」は小池一夫先生が作ったキャラクターだと言うことを知らない人が多い。初期の「ゴルゴ13」はめちゃくちゃ面白い。物語も小池一夫先生がお書きになったからだ。漫画という物は、主要キャラクターを最初にしっかり作っておけば、その後の話は誰が書いても大丈夫なのだ。その良い例が「ゴルゴ13」だ。小池一夫先生が「ゴルゴ13」を離れた後、何十人の脚本家が話を書いたか知らないが、いまだに「ゴルゴ13」は不滅の人気を誇っている) で、私も小池一夫先生を見習って読み切り形式に挑戦しようと思ったのである。 もう一つの課題は、「人情噺にすること」。 食べ物の話は後味が良くないと困る。そこで、読んだ後気持ち良くなるように人情噺でいくことにした。 人情噺というと、インテリの人は軽蔑する。 インテリの人は暗くて絶望的な話が好きなのだ。 そんな、食べ物漫画は書きたくない。 だから最初から、インテリのゲンちゃんが何か偉そうなことを言っても、笑って聞流すことにした。 しかし、実に残念ながら、この「環境問題」に関しては、自分に課した二つの課題を二つとも破ってしまった。 現在発売中の「美味しんぼ第104巻」「環境問題その1」は9話連続だし、人情噺はない。 今連載中の「環境問題その2」も9話連続で人情噺がない。 これが辛い。 しかし、自分で設定した二つの課題を破ってまでも、私は、「環境問題」について、読者諸姉諸兄が考えるきっかけを作りたいと思ったのだ。 そんなこんなで、苦戦の日々が続いている。 この一ヶ月、外に出たのは、編集者との打ち合わせで一度か二度だけである。 土竜のように、書斎に閉じこもっている哀れな日々である。 (土竜と言えば、スピリッツに連載中の「土竜の唄」いいねえ!最高!是非読んで下さい。 スピリッツでもう一つ私の愛読していた「アフロ田中」がなんと、オーストラリアに行ってしまった。編集者に、田中が、シドニーで私とビールを飲む場面を入れるように強要しよう。さもなかったら殺す!) 前回は全然釣りに行けなかったが、今回は絶対に、岸壁からのルアーづりを、物にするぞ。 ところで、「美味しんぼ第104巻」買ってくださいね。 日本の環境を守るために。(なんて、格好付けちゃって。売れなきゃ出版社も私もとても困る、と言う理由 が大きい。と、ほ、ほ、ほ。)
- 2010/03/02 - 草原の輝き ワーズ・ワースの有名な「草原の輝き」という詩がある。 最近その詩が気になってならない。 "Splendor in the Grass" William Wordsworth Though nothing can bring back the hour of splendor in the grass, of glory in the flower, we will grieve not. Rather find strength in what remains behind. これを、試しに,私の今の心に合うように訳してみた。 草原が輝き、満開の花が咲き誇っていたあの頃には もう戻れない。 だが、嘆き悲しむまい。 見出そうよ。 あの全てが盛りだったときの力が私達の中にまだ残っているのを。 五十歳以上の人々に、私から贈ります。
- 2010/03/02 - 賞と言う物 ノーベル賞という物を矢鱈有り難がるが、こんな賞は本当に有り難がるべき物なのだろうか。 賞という物の性格からして、賞を与える側の思惑が一番強力に意味を持つ。 その一番顕著な例がノーベル平和賞と文学賞である。 ノーベル平和賞は、佐藤栄作氏が授けられたことで、ノーベル平和賞はただの低劣で悪質なジョークだと言うことが明らかになった。 佐藤栄作氏以来、ノーベル平和賞だけは貰ったらおしまいだ、と言う人間が増えた。 オバマ大統領が平和賞を受けたが、佐藤栄作の後だったので笑いも起こらなかった。 佐藤栄作氏にノーベル平和賞が与えられたときに、世界中の人間が大笑いに笑ったので、今回オバマ氏に平和賞が授与されたときに、すでに笑うエネルギーを失っていたのである。 ある日本の文学者は、ノーベル文学賞を喜んで貰っておきながら、日本政府が贈ろうとした文化勲章を拒否した。 そのニュースを読んだとき、あまりの恥ずかしさに、ウィスキーをWで5、6杯飲まずにはいられなかった。 その文学者は、文化勲章は天皇から貰うので天皇制反対主義者としては貰うわけにはいかない、と言うような事を言ったと記憶している。 では、スエーデン王室の過去はどうなの。惨憺たる残虐な殺し合いの末に保たれた王室ではないか。そう言う王室から勲章など貰っていいのか。 ノーベル賞と、日本の文化勲章との差違をきちんと語ってくれよ、ええ、こら、その文学者さん。 天皇制などという言葉を用いずに、人間が人間に賞を与えるというこのばからしさを、文学者ならきちんと分かるように話してくれ。(でも、ノーベル賞を喜んで貰ってしまったからには何も言えないだろうな) 何を言いいたいかというと、私は最近シドニーで、大腸鏡検査を受けたのだが、それはつまり、日本人の学者と、オリンパスという会社の作った、グラス・ファイバー・スコープのおかげだと言うことなのだ。 この、グラス・ファイバー・スコープでどれだけの胃ガン、大腸ガンの患者が助かったことか。さらに、この、グラス・ファイバー・スコープを応用して、腹を開かずにファイバー・スコープを用いて手術を行うのが普通になった。 この、グラス・ファイバー・スコープが救った人間の数は数え切れない。 それなのに、ノーベル賞を与えられずにきているのだ。 CTスキャンの場合、発明してから数年でノーベル賞を貰った。 確かに、CTスキャンは素晴らしい技術だ。 しかし、人の命を助けたことからすれば、グラス・ファイバー・スコープの方が遙かに役だっているしこれからも、検査・治療の中軸をになう物だろう。 その、グラス・ファイバー・スコープに賞を与えないノーベル賞は何か極めて強い政治的な偏りがあるように思われる。 そう言うわけで、ノーベル賞などと言ういい加減な賞を有り難がるのは止めよう。 代わりに、「全人類を代表して感謝を捧げる賞」などを作りたいと思うが.じゃあ、その賞を決める委員会はどうして作るのか、などと言う問題がすぐ起こる。 結論。 如何なる賞も、下らないから廃止すべきだね。 ただし、文学や漫画を志す若い人に道を開く新人賞だけは大事だし、人類の福祉に貢献した人を力づける賞も必要だ。
- 2010/03/01 - 大分旅行 2月20日、21日と、田園調布小学校六年二組の同級会で大分県に行ってきた。 「美味しんぼ」では、「日本全県味巡り」というシリーズを続けているが、その最初の県が大分県なのである。 そのきっかけは、当時の木下敬之助大分市長が我が六年二組の仲間の一人と大学で同級だったことで、その同級生の仲立ちで、大分県に来てみないか、と言うことになり、大分県を取材して回ったのがそもそもの「日本全県味巡り」の始まりだったのである。 大分県に私が行ったのはその時が最初だったが、実に驚いた。 大分県は地図を見てもお分かりの通り大きな県ではない。 で、あるのに、様々な多様な文化を持っている。 これが一つの国なら分かるが、一つの県である。 大陸からの文化の入り口と言うこともあったのだろうが、実に面白い。 ここで書き始めると、止めどがないので、美味しんぼの第71巻に大分県の特集をしてあるので、是非お読みいただきたい。 私は、「日本全県味巡り」を始めるときに、読者が地方の郷土料理などに興味を抱くかどうか自信がなかった。 当時の日本は、フレンチだ、イタリアンだ、ファーストフードだ、とやたら欧米の食文化が旺盛を極めていて、郷土料理などには見向きもしないのではないかと恐れた。 私が、「日本全県味巡り」を始めようと思ったのは、当時のその風潮を耐え難く思っていたからだ。 自分たちの生まれ育った郷土にこんなに素晴らしい料理があるのに何が悲しくて欧米の食の真似をするのか、それも、ファーストフードなどアメリカでもジャンクフード(ジャンクとは、クズ、のこと)と呼ばれているような物を何を喜んで食べているのか。 かつてフランスに、皆さんご存じの、美食家、ブリア・サヴァランという男がいて、「どんなものを食べているか言ってご覧なさい。そうしたら私は貴方がどんな人間か当ててみせよう(手元に本がないので正確に引用できないが、大体そう言う意味の事を言った。要するに、何を食べているかでその人間が分かる、ということだ。高級なものばかり食べていれば高級な人間かと言えばそうではない。毎日高級レストランで食事をすることは家庭的に極めて惨めであることを示してもいる。この言葉は、使い方によっては嫌みだが、正しく使えば、役に立つ。 ある時、若い編集者が、『毎日深夜から明け方まで働いているので夕食は買って来た弁当だけです』というので、それは健康に悪い、だらだら仕事をしているから遅くなるんだ。さっさと仕上げて早く家に買って家で食事をしなさい、と言ったら、『印刷会社の仕事が始まる時間に合わせて原稿を送るために、こういう時間帯で働いているんです』と言ったので、そうとは知らず、勝手なことを言って悪かったと謝ったが、今になって考え直すと矢張りおかしい。夜の6時過ぎに全部仕上げて印刷会社に送っておけばいいわけではないか。やはり、何か出版社独特の文化があって、明け方まで会社に居残っていないと気が済まないのだろう。 サヴァラン風に質問して、毎日弁当を買って来て食べています、と答えたら、編集者か、IT産業の労働者か、いや、今はかなりの多くの人が弁当で夕食をすましているようだから、今の日本ではサヴァラン風の質問は余り意味がないかも知れない)」 しかしですね、今回大分で、色々と気楽な料理屋で昼食を取ったが、大分の郷土料理である「団子汁」をメニューに載せている店が多かった。 「今日の昼は『団子汁』を食べました」などと答えたら、その人には、100点を差し上げたいね。 20日の夜は、大分に詳しい方に紹介していただいて大分市城崎町の「寿楽庵」でふぐを楽しんだ。 ここのふぐは東京のふぐ屋のふぐの二切れくらいの厚みがある 厚いからと言ってもったりなどしておらず、私はその二切れで鴨頭ネギ(あさつきのこと)を巻いて食べました。 歯ごたえは勿論、しゃっきりもちもち、香りも味も深く、堪能しました。勿論白子も太くて大きい物が出て来て、同級生たちは泣いておりました。 この店を紹介して下さった方が、なんと、モエ・エ・シャンドンのブリュット・アンペリアル(フランスの最高のシャンペンの一つ。ブリュットbrutは辛口の意味)の3リットルもの大瓶を差し入れて下さって、ふぐとシャンペンを合わせるという機会にめぐまれた。 シャンペンはワインの持つ不純物を徹底的に取り除いた物なので、ふぐとも衝突することがなく、実に案配が良かった。 ふぐとシャンペンの取り合わせなど、私なら思いつかないところで、その方のおかげで新しい味の世界を開くことが出来て、感動した。 湯布院では、以前一泊して食事をした「亀の井別荘」で夕食を楽しんだ。 それはいいいのだが、驚いたことに、湯布院に来てみれば、10数年前とは様変わり。 ひなびて静かで上品なところだったのが、何と「ここは原宿か」言いたくなるような風情。 色々と小じゃれた店が並び、大きな駐車場が出来て、大型の観光バスが何台も並んでいる。ハングルで一行名を書いた札を付けたバスが二台も停まっている。 韓国にまで知られる有名な観光地になってしまったのだ。 若い人達はこれでよいのだろうが、我々、昔の湯布院の姿を知る者としては落胆した。 この喧噪では、湯布院がかつて持っていた心洗われるすがすがしさを感じられない。 しかし、「亀の井別荘」の料理の味は、以前と同じ極上。 ご主人の中谷さんの厳しい目が行き届いているからだろう。 料理で一番大事なのは、料理の腕前もさることながら、料理を貫く思想だ。 東京に、私の愛していたレストランがあった。 シェフは数人変わったが、味はいつも極上だった。 それが、オーナーが亡くなったとたんに味が落ちた。 その時私は痛感した。レストランとは、プロデューサーが一番大事なのだと。 プロデューサーを失ったレストランは、船長のいない船と同じだ。 そのレストランは、結局つぶれてしまった。 「亀の井別荘」の料理の味が極上を保っているのは、プロデューサーとしての中谷さんの料理の思想が全ての料理人に伝わっているからだ。 この時期にスッポンは時季はずれだが、「湯布院は不思議なところで、この季節でもスッポンを飼っておけるんですよ」と中谷さんは仰言る。 味付けもしっかりしていて、実に美味しいスッポン鍋を味わった。 女性は美容に敏感である。「この、スッポンを食べるとお肌がつやつやになるんだよ」といったら同級生の女性たち、喜んでスッポンをしっかり食べた。 スッポンはグロテスクだと言っていやがる女性もいるのだが、我が六年二組の女性にそのような柔な神経の持ち主はおらず「こんなスッポンならまた食べたい」と意気軒昂。 鯉の洗いも、川魚臭さが全くなく、さらりとしていて、しかも脂の乗り具合も良く、川魚は苦手なんだと言っていた同級生も、「これはおいしい。すごいよ」と感服していた。 何から何まで、「亀の井別荘」の味は、他の料理屋とは格が違うと思わされた。 実に堪能した。 料理は素晴らしかったが、今度の旅行は実に疲れた。 と言うのは、良く歩いたからだ。 私は、宇佐八幡というのが昔から不思議で仕方がなかった。 例の、道鏡の件である。 道鏡は、孝謙上皇、のちの称徳天皇の信任が厚く、人臣最高の地位である法主に任ぜられた。 ついに、796年に宇佐八幡宮から「道鏡を天皇にすれば天下太平になるだろう」というご神託が下ったと伝えられた。その真偽を確かめるために、宇佐八幡宮に和気清麻呂が遣わされ、和気清麻呂はそのご神託は詐りであると報告したために、道鏡は天皇になれなかった。 称徳天皇が女性であるために、称徳天皇と道鏡の間のことについて、後生、道鏡をロシアの怪僧ラスプーチンまがいに扱った下卑た話が流布したが、実際は道鏡自身は優れた人物だったと言う説もある。 いや、何が不思議と私が思ったかというと、天皇家にとって一番意味があるのは伊勢神宮なのに、どうして宇佐八幡宮が道鏡を天皇にすると天下太平になるなどと言うご神託を出し、それを宮廷が確かめに行ったかと言うことだ。 宇佐八幡宮と天皇の権力はそんなに近い物だったのだろうか。 長年それを不思議に思っていたので、今回、とにかく宇佐八幡宮を見てみたかった。道鏡と宇佐八幡宮の謎は、きちんと歴史の本を読まなければ分からないのは当たり前だが、とにかく、その宇佐八幡宮を実地に見てみたかったのだ。 そこで、同級生たちと行ったのだが、いやはや、その境内の宏大なことといったらあきれるばかり。延々と歩いて本殿まで達したときには、最早くたくた。 くたくたになるまで歩いたところで、分かったのは、神社とは実に空虚な空間だと言うことだ。 元々神道と言う物は、空虚だ。 悪い意味の空虚ではない。 神道を理解するためにいったいどれだけの本を読んだか分からないが、書いてあることはみな同じ。ただ敬う、そのことだけだ。 教義という物がないのだ。こんな宗教は他にあるだろうか。 神社によって、その祀る神が違うと言うことが他の宗教では絶対に考えられないことだ。 例えば、江戸っ子に愛されてきた神田明神は、大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀る神社だが、境内には、平将門(まさかど)を祀る将門社がある。創建当初、近傍に将門の首塚があったことから、相殿(あいどの)にその霊を祀り、この地の守護神としたとも伝えられている。 江戸っ子は、その気っ風からして、お上に逆らった平将門を愛していて、神田明神と言えば平将門と思っていたのだが、明治の天皇制専制主義になって、天皇に逆らった平将門を祀る神社はまずいというので、色々ともめたらしい。 そもそも宇佐八幡宮は、、八幡大神(はちまんおおかみ)、比売大神(ひめおおかみ)、神功(じんぐう)皇后を祭神とし、八幡大神、八幡大菩薩(だいぼさつ)を信仰の対象として建てられたのだが、宇佐八幡宮の縁起によると、571年頃、3歳の童児が現れ竹葉を立てて八幡神は八幡神応神(やはたがみおうじん)天皇の霊であると託宣したとある。そこで、その八幡神というのがそもそも、第十五代天皇の応神天皇だとされていて、その本宮が宇佐八幡宮なのである。 こんなことを、ユダヤ、キリスト、イスラムのような一神教を信じる人が聞いたら呆れるだろう。 訳が分からないことに、この道鏡が天皇になることを防いだというので八幡神を鎮護国家神とする信仰が生まれて、それが、八幡神は王城鎮護、勇武の神として敬われるようになったというのだ。 とくに、武士には厚く信仰されて、鎌倉幕府の建てた鶴岡八幡宮など、日本中に八幡信仰が広まった。読者諸姉諸兄の家の近くにも、何とか八幡という神社があるのではないか。 実際に宇佐八幡宮の本殿に向かってみても、訳が分からないことには変わりはない。 ただひたすら、歩き疲れた。 帰り道、同級生たちと話したのだが、この宏大な神社をどうやって維持しているのだろうと不思議になった。 国からの援助があるわけがないし、氏子と言ったって周囲にそれだけの人口もない。やはり、八幡信仰を持ったお金のある人達によって維持されているのだろうと言うことになった。 私は、宗教心という物を全く持っていない。と言うより、宗教と聞くと寒気がするような人間である。 私からすれば、宗教こそ、人類がもつ最悪の病気だ。 宗教によって救われた人間と、宗教によって精神も肉体も殺された人間と比べると、圧倒的に後者の人数が多いことは世界史を少しでも読めば分かることである。 そのような他者を絶対的に否定する宗教が多い中で、明治以後の国家神道を別にすれば、神道はただ敬って清潔に生きるということだけしかないさっぱりした宗教で、宗教の中では一番良いのではないかと思う。 明治以後の国家神道は、この清新な神道を汚した物であり、これは史上最悪の宗教の一つで、いまだに日本人のかなりの部分に悪影響を及ぼしているのは、情けないことである。 宇佐八幡宮だけではない。 大分には他にも、青の洞門やら色々見て歩くところが多く、いつもは書斎に閉じこもっている私にとっては久しぶりの大運動会になった。 帰って来た翌日は、午後3時まで、起きられなかった。 体中が綿になった、と言う比喩はよく使われるが、その比喩を実感した。 くたくたに疲れたが、小学校の同級生たちとの旅行は最高である。 小学校の時の遠足を泊まりがけでしているようなもので、こんなに楽しいことはない。 すばらしい、同級生たちをもてたことが私の誇りであり、生き甲斐でもある。 有り難きかな、田園調布小学校六年二組(1956年卒業)。
- 2010/02/13 - モンテクリスト伯 去年の十一月から、鬱がぶり返し、毎日の大半の時間を鬱に必死に耐えるために費やしている。 「美味しんぼ」の環境編の第2部を書き始めたのだが、腸の具合も悪くなり、鬱と腹痛の二重苦でコンピューターの前に座る気もしない。 予定より大幅に遅れ、いつもは、花咲さんが絵を描き上げるよりずっと前に原稿を渡しているのだが、今回は、花咲さんが絵を描き終わったのに次の原作が仕上がらないという異常事態になってしまった。 人間は、こう言う時に過ちを犯しやすい物で、鬱と激しい腹痛に苦しみながら目を書棚にさ迷わせていると、その目が「モンテクリスト伯」を捉えてしまった。 それも、Classique Garnier版の物である。 「よせ、こんな時にフランス語の本なんか読むな」と自分に言い聞かせたのだが、手が伸びて本を摑んでしまった。 「モンテクリスト伯」は、私の最愛の小説で、中学以来何度読み返したか分からない。 1955年に、河出書房版、世界文学全集の中の「モンテクリスト伯」上下2冊を、姉が父からから買って貰い、それを私が奪った。 今も手元にある本の裏とびらに「昭和三十年、八月二十六日、父より」として姉が自分の名前を書き込んでいる。 姉は非常な達筆で、とても中学生とは思えない見事な字で書いてある。 字の上手い下手は生まれつきの物だと私は思う。良く、何でも練習すれば上手になるというが、字については、それは全く当てはまらない。私は、四十年近く物書きを商売として、この間に書きつぶした原稿用紙は何枚になるか計算すると気が遠くなるほどである。それほど、毎日字を書いていながら、書く字はますます下手になる一方である。 それに対して、姉は、一日に何回という回数、それも、事務的な物を書くことが多いと思われる。 それなのに、感嘆するほど字が綺麗だ。お習字の先生になったら良いのではないかと思うほど素晴らしい字を書く。姉は、何も習字の勉強をした訳ではない。生まれつき、上手なのだ。姉に字を書いて貰ってそれを人に見せる度に、私は、ひどく誇らしい気持ちになる。 私は、何もかも、姉には頭が上がらないが、この字に関しては更に絶望的に姉には対抗出来ない。 姉の署名の横に、私の、ひどい字で「昭和三十六年 哲也氏に渡る」と書いてある。 姉から奪ったのは、その数年前だったのだが、あるとき姉が私の書棚にこの本があるのを見て「これは私のよ、返して」と言ったので、私が「もう、これは、僕のもんだい」といって上記の文句を書き足して今に至るまで持っているのである。(ひどい弟だ) もう、本の箱も茶色に変色し、ぼろぼろで、本自体、紙が茶色になっていて、しかも汗や食べ物のついた汚ない手で読んだのだろう、頁のあちこちにしみがついている。 河出書房版の上下2冊の「モンテクリスト伯」は私の生涯の宝物で、あと何年生きられるか分からないが、生きている間は何度も読み返そうと思っている。 この、Garnier版は、1978年に出版された物で、と言うことは、私がパリに行けるだけの生活の余裕が出来てから、バリで買ったものだ。 バリの古本屋で本を買うと、その裏表紙に、その値段が鉛筆で書いてある。 この本の裏表紙にも、鉛筆で、値段などが書き込んであるので、新本屋ではなく古本屋で買ったのだと思う。 ついでだが、バリの古本屋は大変に律儀である。 探している本の作者と本の題名を言って、店にない場合、古本市場を探して後で届けるという。 で、日本の住所を書いておくのだが、本が見つかると、日本まで送ってくれる。 本の代金と送料は、本と一緒に知らせてくれる。 私が本だけ受取って、お金を払わなかったらどうなるか。 全くの信用商売である。 これが、同じフランス人どうしなら分かるが、私のように日本に住んでいる人間に対しても全く信用一本で、貴重な本を送ってくるのである。 神田神保町の古本屋も、バリの古本屋のように、外国人を信用して本を送るのだろうか。 私は、何度かバリの古本屋に注文したが、間違いのあった試しがない。いつも、頼んだ本を極めて短期間の間に探して送ってくれた。 私は、10年くらい前までは、結構フランス語に自信があったのだが、股関節と膝の関節入れ替えで、全身麻酔と、大量の輸血を三度も受けて以来極端に(体力と共に)記憶力が低下し、幾つものフランス語や英語の単語の意味を忘れてしまった。(カンガルーの血を輸血されてしまったのだ、と冗談に言ったら日本人の殆どは文字どおり信用しましたね。日本人の知的水準はどうなっているんだ、と私は嘆きました) さらに、鬱病の薬も記憶力を衰えさせるようだ。 毎週送られてくるTimeを読むのにも、「あ、辞書が必要だ」と思ったりするくらいで、フランス語となると日常的に読んだり聞いたりする頻度が極端に低いので、忘却の程度はさらに甚だしい。 その状態で、「モンテクリスト伯」をGarnier版を辞書を引かずに読むのは非常に辛いのだが、「モンテクリスト伯」の場合、山内義雄訳の河出書房版を何度も読んで各章を細部に至るまで記憶しているので、フランス語の単語が少しくらい分からない程度では全く困らない。 鬱のどん底にある人間特有の異常な精神状態で、私はGarnier版をブンブン読んでしまった。 と言っても、私が一番読みたいと思っていたのは、主人公であるエドモン・ダンテスが14年間無実の罪で閉じ込められていたシャトー・ディフの牢獄から脱出するところと、モンテ・クリスト島で宝物を発見するところだった。 その部分は、何度も読んで、その度に興奮していたのでGarnier版で、フランス語で読んでも全く苦にならず、ますます興奮して読み返した。 フランス語の単語を忘れはしたが、中学生の頃から何度も読み返したと言うのは大変な強みで、単語など忘れていても、話はずんずん頭に入ってくるのである。 とは言え、矢張りフランス語なので読むのに時間がかかる。日本語で読む数倍時間がかかる。 こんなことを、「美味しんぼ」の原稿を書かなければならない時にしてはいけない、と自分を責めながら、しかし、あまりに面白いので止められない。 流石に、ダンテスが以前世話になった、恩人に恩を返す所まで読んで、「美味しんぼ」に戻った。 先週の分を書き終わって、直ちに、「モンテクリスト伯」に戻ったが、ダンテスが復讐を始める段になると、やたらと会話の部分が長くなり、フランス語で読むのは辛くなったので、山内義雄訳の1955年出版の、河出書房版の古い本を開くことになった。 山内義雄と言う人はすごい人で、驚いたことに、Amazonで調べてみると、「モンテクリスト伯」の日本語訳の本は山内義雄氏の物しかないのである。(他に、翻訳した人の物が提示されているが、その総ページ数の少なさから、意訳か、部分訳であることが想像される。完訳は山内義雄氏の物しかないようだ。その他の、「モンテクリスト伯」を変形した物は除く) これは、山内義雄氏が凄いのか、日本人が「モンテクリスト伯」に対して興味を抱かないのか、そのあたりは私には分からないが、それにしても、1950年代から今に至るまで、山内義雄氏の「モンテクリスト伯」の翻訳本が幾つかの出版社から出ていることは驚くべきことである。 山内義雄氏の翻訳のすごさは、最後にある。 「モンテクリスト伯」の最後に、14年間の地獄のような牢獄生活、それからの長い厳しい復讐の年月を経て、エドモン・ダンテス(モンテクリスト伯)がフランスを離れる時に、自分の恩人の息子に残す言葉がある。 それは、フランス語では、 Attendre et espèrer! である。 山内義雄氏の翻訳では「待て、而して希望せよ!(待て、しこうして希望せよ)(而しては、『しこうして』、ではなく『しかして』と読む人も多い)となっている。 この文章の翻訳の仕方も色色あると思うが、私は、この山内義雄氏の翻訳になる「待て、而して希望せよ」が、一番最初に読んだせいか、一番心になじむ。ここに、山内義雄氏が「モンテクリスト伯」を翻訳してきた総決算があるような気がする。この、フランス語も凄いが、山内義雄氏の翻訳による日本語も凄い。 そしてこの、「待て、而して希望せよ」という文句が、私の人生で何度も私を救ってくれた。 非常に辛くて、先が見えないくらい辛い時にも、私はこの文句を唱えて自分を落ち着かせてきた。 今の今も、鬱と体調不調に苦しみながら、「待て、而して希望せよ」とまるで祈祷文を唱えるように口に出して繰返している。 私は、色々苦しんでいる若い人達にこの言葉を贈りたい。 「まて、而して希望せよ」 そして、読者諸姉諸兄よ、まだ、「モンテクリスト伯」を読んだことがないのなら、今直ちに本屋さんに駆け込んで、注文して下さい。 本屋さんですよ。Amazonはだめ。 町の本屋さんの数が激減している。 町の本屋の数が、その町の文化程度を示す物であることは洋の東西を問わず確かなところです。 町の本屋がこんなに減っていく日本は、もはや文化国家ではない。 お願いだから、読者諸姉諸兄、本はネットで買わず、町の本屋に注文して買ってください。 送料もかかりません。ただし、ネットで注文するより1日2日遅いかも知れない。 しかし、その1日2日が本の価値の本質と何の関係があると言うんですか。 便利さ第一におどらされて、本屋という文化を支える物を失ってはおしまいです。 何を言いたいかというと「モンテクリスト伯」を本屋に注文して、皆で読もう、と言うことです。 こんなに面白本は他にない、と私は太鼓判を押します。 この本を読まずに死ぬなんて、それは、惨めな人生だと、敢えて私は言います。 鬱病の最中に、こんな文章を書いて、鬱がますますま進行してしまった。 どうすればいいんだろう。
- 2010/02/01 - 悲しい国だね 米原万里氏の書いた「打ちのめされるようなすごい本」という、本の書評とエッセイの合わさったような本がある。 打ちのめされるのは、米原万里氏の紹介した本よりも、米原万里氏本人にである。 その知識、頭の良さ、見る目の鋭さ、潔癖さ、人間を完全に信じるその心の豊かさ。 2006年にガンのためになくなってしまったが、どうしてこのような素晴らしい人がこんなに若く亡くなってしまうのか。 むかし、神は才能のある人間を早く自分の手元に上げたいので、美しい人才能のある人間は早死にをするのだ、と言われていた。 そうとでも思わなければ、とても納得がいかない。 私のような下らない人間がのうのうと生き延びているのに、米原万里氏のように「打ちのめされるようなすごい人」が若くして亡くなってしまう。 米原万里氏はこの「打ちのめされるようなすごい本」の中に、これはどうしても読まなければならないと思う本をいくつも取り上げているが、そのなかで、今日の話題にふさわしいのは「もっとも恐ろしい武器とは」という副題付きで、高木徹著「戦争広告代理店」を取り上げた頁だろう。 21世紀にもっとも恐ろしい武器となるのは情報である、と言う真実を雄弁に裏付ける本である、と米原万里氏はこの本を紹介する。 「本書では、メディアに乗せられた情報が戦争の趨勢に決定的な役割を果たす様が、ユーゴ内戦時、新興国ボスニアに雇われたアメリカの広告代理店の活躍を通して伝えられる。対セルビア戦を有利に展開し、国際的承認を勝ちとるまで、ボスニア政府首脳に言葉遣いから発言のタイミング、敵に不利な情報を流すためのネーミング(例えば「民族浄化」という語によってナチスを連想させる)など、手取り足取り指導して行く様が具体的に紹介されている。これでもかこれでもかと、セルビア武装勢力による残虐行為を世界中のメディアにばらまく一方で、ボスニア側による勝るとも劣らない蛮行は巧妙に伏せられ、先進国、わけてもアメリカの戦いには「人道と民主主義」とい名分があると世論に浸透させる。」 ここからが大事なので、きちんと読んで欲しい。 「偽情報であれ一面的情報であれ、大量に繰返し叩き込まれたそれは、事実以上の重みを持って人びとの意見を立場をコントロールしていく。」 「圧倒的に多数の人びとは自由なる意志に基づいて、己の意見や立場を決定していると無邪気に思い込んでいる。あたかも自身の意志で、さして必要もない商品を喜々として買い求め、インタビューに際しては、テレビキャスターや新聞の論調を反復する。(中略)それが情報操作の結果であるなんてつゆほども思わない」(本書471頁) 誠に、恐ろしい話である。高木徹氏はボスニアとセルヒアの戦いについて語っているのだが、米原万里氏はそれを現在の日本の状況に布衍して語っている。 そして現在、それが現実になっている。 今朝の毎日新聞の世論調査の結果によると、小沢氏の辞任を76パーセント人が求めている。 この人たちは、何を根拠に、自分たちの態度を決めたのだろう。 毎日検察が垂れ流すリークを、それが正しいかどうか検証することなく紙面に載せていく新聞、ニュースで流すテレビ、その影響によるものだろう。 要するに、76パーセントの人びとはテレビ、新聞を操る検察の意のままに、彼らの言葉を反復しているに過ぎない。 これまでの新聞やテレビの通じて知った限りでは、私自身、小沢一郎氏がどんな罪を犯したのか犯さなかったのか、分からない。検察のリークからだけでは何事も判断できない。今までのリークから判断すること自体が間違いだ。リークは証拠にはならないのだ。それなのに、この76パーセントの人びとは何を根拠に小沢一郎氏の辞任を求めるのだろう。 この検察のやり方は本当に恐ろしい。 無罪か有罪かはっきりしないうちに、いかにも有罪と思われる情報を垂れ流しにして、人びとを操る。戦争広告代理店のやり方と全く同じだ。小沢一郎氏に負の印象をこれでもか、これでもかと植え付けてきた。 この手を使えば、どんな人間でも、その社会的地位を失わせることが出来る。 逮捕した石川議員がこんなことを言っている、などと、平気でばんばん流している。それは、違反だろう。公判で言っていることではない。検事に対して言っていることである。これを表沙汰にする権利が検事にあるのか。 これでは、公平な裁判など期待出来る訳がない。 司法制度が公平に出来上がっている先進国から見たら、日本のこの状況は信じられないほどでたらめなものに見えるだろう。検察のしたい放題がここまで許されては、民主主義も何もあった物ではない。検察という大きな権力を握った者の思い通りだ。 小沢一郎氏が怪しいのは、10年も前のことからだろう。なぜその時にきちんと調べておかなかったのか。 どうして、民主党政権が出来てから慌てて、鳩山、小沢と、やり玉に挙げ始めたのか。 小沢一郎氏は野党にいたから、西松建設などから献金を貰っても、賄賂として追及できない。 せいぜい、帳簿の付け方という形式的なことになってしまうだろう。 一方、自民党の二階氏は、自民党の権力者と君臨し、小沢一郎氏より多額の金をあちこちの建設会社から貰っている。和歌山県に行ってみればすぐに分かる。あの道も、橋も、トンネルもぜんぶ二階先生が作ってくれたという。完全に収賄罪が成立する。 その二階氏には検察は手を出さない。小沢一郎氏よりはるかに、二階氏を洗う方が政界浄化として意味があるのにそれをしない。 検察の意図はあまりに見え見えである。検察は政界を浄化したいのではない。自分たちにとって邪魔な小沢一郎氏を取り除きたいだけなのだ。 見事に、検察は、小沢一郎辞任要求76パーセントという世論を獲得した。何の証拠もなしに。ただ、疑いがある、疑いがある、というだけで。国民は見事におどってくれた。 悲しい国だね。日本って。
- 2010/01/26 - ポチのファッションモデル・デビュー ええ、また、こんち、我が家の老犬ポチのお噂で失礼致します。 オーストラリアのアパレル会社 TiAmo Intimates の秋用のファッションのカタログに、オーストラリア有数のファションモデルとならんで登場したのでございます。 このモデルは、御年42歳だそうですが、中年女性向けのファッションのモデルとして有名なんだそうです。(ファッション衣料は若い人だけのものではありませんからね。むしろ、懐具合が良く購買力の高い中年以上の女性の方がファッション会社としては狙い目で、従って彼女のようなモデルの出番が多いのです) これが、カタログに載った写真(クリックして大きくして見て下さいね) ポチが、ファッションモデル・デビューした陰には、次男のガールフレンドがいます。 彼女は、このカタログを作る仕事に関わっています。 オーストラリアでは、普通の個人の家をテレビの撮影やファッションの撮影に使うことが多い。私の隣の家でも、ちょっと前にテレビか何かの撮影が行われていた。 次男のガールフレンドが、隣家の奥さんに使用料を尋ねたら、「一日1000ドル」と言われて、それなら、ただで使える我が家を使おうと言うことになったそうです。私の家で撮影の準備を色々して大変だったようです。 その時、私たち夫婦は日本にいたので、知りませんでした。残念、私がいたら、1000ドル以上ふっかけて金儲けをしたのに。 コマーシャル用にペットを貸出す会社もありますが、ポチも無料出演です。 なんて、お金の話をしましたが、私たちはポチがこんな有名なファッション・モデルとならんでカタログに登場しただけで大変に満足です。 いい思い出になります。こちらからお礼をしたいくらいです。 ところで、ポチという名前をきくと、雄犬のように思われるかも知れませんが、れっきとしたレディです。「犬の名前はポチに決まっている」と私が、家族の反対を押し切って強引に命名したのであります。 で、家族の者は、「ポチ子」、などと呼んだりしています。 それにしても、もうじき16歳と言うことは人間の年齢にすると90歳を超えるそうで、その年でファッションモデル・デビューとは、立派なもんじゃありませんか(え? 自分で自分の家の犬を讃めてどうするって? ま、それは、犬馬鹿というやつで、大目に見て下さい) 年齢が年齢だから、ファッションモデル・デビューしたから、どんどん、モデルの仕事を下さいとは言えない。 如何に何でも高齢過ぎて、獣医である次女の見立てによると、9月まで持つかどうかと言うところだそうで、この写真を撮る時も、次女が背後でいろいろと助けの手を出しているのです。 そうなると、この写真がポチにとってデビューでありフィナーレと言うことになります。 そう思って、このカタログ写真を見ると、胸に迫る物があるのです。
- 2010/01/23 - 犬が欲しい 良く、人は犬好きと猫好きに分かれて、犬好きは猫が好きではなく、猫好きは犬が好きではない、と言われている。 それが私には全く理解できない。 私は犬も猫も大好きである。 私の人生の中で、自分の周りに犬や猫のいなかった時期は極めて短い。 今、私は犬が欲しくて欲しくて仕方がない。犬が欲しい欲しい病に罹っている。 私の家には、16歳のラブラドールのポチがいるが、ポチは次女の犬であって、私はビスケットをやったり頭を撫でたりしているが、それは、ポチの次女への愛情のおこぼれを頂戴しているだけだ。ポチの主人はあくまでも次女であって、私ではない。 私の家の周りには犬好きが多く、道を歩くと犬を連れて散歩している人達にしょっちゅう出会う。 すると、私は、その人の連れている犬から目が離せなくなる。ああ、かわいい。欲しい。 胸の奥がうずくのである。つい、つれて歩いている人に、「可愛い犬ですね」などと声をかけてしまう。犬連れの人は、自分の犬を讃めて貰うと本当に嬉しそうな顔をする。ちょっとの間犬を挾んで立ち話をしたりする。最近はオーストラリアでも小型犬が人気があるようで、大きな体のオーストラリア人が小さな犬を連れているとちょっと釣り合わない感じがする。 では、自分の犬を飼えばよいのだがそうも行かない理由がある。 私と妻は長期の旅行に出ることが多い。今までは、そう言う場合子供たちが犬の面倒を見てくれていたが、子供たちもそれぞれ仕事を持って家にいることが少なくなると、犬の面倒を見て貰うことが出来ない。 それに、3年前に、もう一匹の犬に死なれたことがいまだに応えていて、自分の飼い犬に自分より先に死なれることを異常に恐れているのである。 むかし、フィラリアの良い薬がなかった頃、犬は大体3年から4年で死んだ。子供の頃から何度、犬や猫に死なれて泣いたことだろう。田園調布の家の庭には、死んだ犬や猫を埋めたから、後であの土地を買って整地をした人はあまりに多くの犬や猫の骨が出て来たので驚いたのではないかと思う。 犬や猫に死なれるのは本当に辛い。だから、私は、次に犬や猫を飼うのは、私があと2、3年の寿命と分かった時まで待つことにした。 犬に看取って貰って死ぬのだ。 と言うと、娘たちは異議を申し立てる。 普通の人は、ペットを残して死ぬのがいやだから、年取ったら飼わないようにするのよ、と言う。 他の人のことはどうでも良い。私は、犬に看取られて死にたいのだ。犬の死ぬのを看取るのはもうまっぴらだ。さんざん看取ってきたんだもの。 今朝、起きたら、私たちの寝室の前の廊下に、ポチが「ポロ」を三つ落としていた。 「ポロ」とは早い話が、うんちのことである。 「ポロ」と言うくらいだから、ころころしていて、床を余り汚すことはない。しかし、洗浄用のスプレーをかけ、紙タオルなどで拭いて、結構手間がかかる。 このところ、頻繁に「ポロ」を落とす。 自分で下の始末が出来なくなったら、もう、人間も犬もおしまいだ。 次女も、ポチの寿命はもう長くないと覚悟しているようだ。 近所に、牧羊犬の兄弟がいて、これがポチととても仲良しだった。 しかし、二匹ともお馬鹿さんで、あるとき飼い主が帰ってきたのを見て喜んで二階のベランダから飛び降りて二匹とも足を折った。 それが応えたらしく、二匹の内の一匹はそれからすぐに死に、残りの一匹も去年死んだ。 この、牧羊犬とポチが大変な仲良しで、もう双方共に老犬なのに、散歩の途中で合うと、子犬の頃と変わらぬ様子で、楽しそうにじゃれ合った。 やはり、犬にも相性という物があるんだな。 ポチは、よその犬には大変に攻撃的で、相手が何もしないのに歯をむいて威嚇したり、ひどい時には襲いかかったりするのだ。(しかし、弱いので逆にやられるのが情けない) 私たち家族が一番恐れているのは、ポチが死んだ時に、次女が狂乱状態に陥るのではないかと言うことだ。 家族全員、ポチが死んだら、次女の姿を見たくないから、しばらく家に近寄らない、などと言う。 しかし、命有る物は必ず死ぬ。 今の内に毎日可愛がっておこう。 ポチはとてもきれいで、お利口さんの犬なんですよ。(と書けと次女に命令されました) ところで、犬にはタマネギとかネギは食べさせてはいけないんだね。次女が学校で学んできて初めて知った。 それまで、タマネギ入りのハンバーグなんて、喜ぶから食べさせていたんだが、貧血などの悪影響をあたえるらしい。 ああ、犬が欲しいな。 友人の家に行ったらシーズーがいた。猫よりちょっと大きいが膝に載せられる。 おとなしくて抱かれているのも好きなようだ。 シーズーがいいな、といったら、娘たちが驚いて、「ええっ!お父さんがシーズーを!」だってさ。 私の趣味ではないと思っていたらしい。確かに、ちょっと面白い顔をしているな。 柴犬もいいな。 きりっとしていて、愛らしくて。 ああ、犬が欲しい。 今日大腸検査をしてきたがどこも悪いところはなかった。 まだ寿命はあるみたいだ。 となると、当分犬は飼えないな。
- 2010/01/20 - 小沢一郎殺し 現代の特高、検察は、小沢一郎を殺す気だな。 戦前の特高警察は、自分の好きなように被疑者を捕まえてきて、拷問にかけて、自分たちの求めるような自白をさせるのが仕事だった。 特高とは「特別高等警察」のことで、戦前の日本の思想に関わることは、特高と憲兵隊が仕切っていた。 「蟹工船」の作者、小林多喜二は1933年2月20日に築地警察署に捕まり、警視庁特高係長中川成夫が指揮を取って小林多喜二を寒中丸裸にして、杖や棒で打ち打擲した。 小林多喜二はその日のうちに、死んだ。 当時の特高警察は、今で言うところのムームーのような上っ張りを制服の上に来て、被害者を拷問した時に飛び散る血で、制服が汚れるのを防いだという。 殺されて帰って来た時、小林多喜二の睾丸はスイカのような大きさに紫色にふくれあがっていたという。 小林多喜二を殺した特高警察の面々は、戦後も何一つ問題なく安楽な日々を過ごし天寿を全うした。 目出度し、目出度し、である。いい国だよ、日本て国は。 現在の特高である、検察は、流石に小林多喜二にしたような暴力的な拷問は出来ないだろうが、もっと高度で効果的な精神的拷問術を心得ている。 小沢一郎が昔から、心臓に持病を抱えているのは周知の事実である。 この心臓に不安を持った男を尋問(と言う名の拷問)にかけるのは、特高の体質を受け継いだ検察の役人たちにとっては、舌なめずりをしたくなるほど、楽しいことだろう。 ここまでに既に、検察のリークによって、小沢一郎はかなり痛んでいる。 ここに、更に呼び出して、ねっちりと、マムシがカエルをあしらうような陰険で執拗な精神を痛めつける取り調べを行えば、小沢一郎の心臓は持たない。 肉体的な暴力よりも、精神的ないたぶりが、その人間に対する破壊的な効果を遙かに上げることは知られている。 私は、小沢一郎の、あの蓄財趣味が全く理解できないが、それが、彼の命を取る理由になるとは思えない。 第一、この、日本航空の破綻を始め、日本の国力が真っ逆さまに落ち込んでいるときに、小沢一郎を殺すことは検察のする仕事なのか。 小沢一郎を攻めるなら、三年ほど前にきちんとしておけば良かった。検察が今問題にしているのは、その頃の問題だからだ、。そうすれば、民主党が政権を取ることもなっかただろうし、検察の官僚諸君が今になって慌てる必要もなかっかたのだ。 民衆党が政権を取ったから慌てて小沢攻撃を始めた、ところが情けない。 こう見ていると、日本の検察官僚は本当に先の読めない、とろい人間ばかりがそろっているね。頭の悪さが際立っている。東大の法科卒がそろっているから仕方がない。東大の法科卒と言えば、本当に頭の悪い人間がそろっているからね。 ここまで来て騒いで、この国をどうするつもりなの。 やくざの方が、遙かに国のことを考えているよ。
- 2010/01/16 - お詫びと訂正 前々回書いた内容について、訂正しなければならいことがあります。 まず、藤山愛一郎氏についてです。 藤山愛一郎氏のご親族の方から、私の過ちを指摘するメールを頂きました。 以下に、私の犯した過ちを記します。 藤山愛一郎氏は王子製紙のオウナーと私は書きましたが、氏は、大日本製糖、日東化学、ホテルニュージャパンのオーナーであって、王子製紙のオーナーではなかったこと。これは、私の、資料の見間違いによる物です。きちんと確認しなかった私の間違いです。 藤山愛一郎氏は、パレスホテルで暮らしていた、と私は書きましたが、実際は氏は、六本木のマンションでお暮らしだったこと。 さらに、あの火事で燃えたホテルは、パレス・ホテルではなく、ホテル・ニュージャパンだったこと。 これには、私もあきれました。たしか、つい最近も何かの際にホテルパレスを利用した覚えがあるのに、それを燃えてしまったホテル・ニュージャパンと間違えて書いたことは、藤山愛一郎氏には当然、現在のパレス・ホテルに対しても大変な失礼をしてしまいました。 藤山愛一郎氏のご親族の方には、なんと言ってお詫びしたらよいか分かりません。 今後は、このような個人に関する情報に関しては、慎重の上にも慎重を期して取り組むことをお約束してお許し願いたいと存じます。 もう一つ訂正。 売国奴である総理大臣の名前を、安倍晋太郎と書いてしまいましたが、それは、安倍晋三の間違いであるとのご指摘をうけました。正にその通りです。 もっと、自分自身の文章の校正を厳密にする必要がありますね。 安倍晋太郎は、安倍晋三の父親で、岸信介共々、統一協会の協力者です。 日本人が、統一協会に騙されて、多宝塔など買わされ、珍味販売、花束販売、難民救済募金集めと称する違法な金集めをしても、検察が見て見ぬふりをしているのは、岸信介以来の政治家と検察との癒着の故です。 その検察が、今、小沢一郎を落とすのに必死です。 どうして、統一協会に目をつぶってきた検察が、小沢一郎を落とすのに必死になるのだろう。 小沢一郎の場合金額が大きいと言っていますが、統一協会が日本から毎年巻き上げて言っている金額を検察は知らないとでも言うのですか。 今の検察は昔の、特高警察と変わらない。 検察は売国奴の巣窟です。
- 2010/01/16 - 小龍包 昨夜は、娘たちに誘惑されて、小籠包を食べに行った。 最近シドニーに小籠包を食べさせる店が増えた。 中でも、世界中に店を出している小龍包の店に人気がある。 台湾に本店があり、全世界に12店舗出していると言うが、そのうち8店舗が日本にあると言うから驚く。 昨夜は、家の近くに新しくできた小龍包の店に行った。 味はそこそこというより、その台湾に本店のある店より落ちる。 しかし、娘と連れ合いは、近いから良いという。 その理由は、我が家の老犬にあって、老犬は一人で放っておくと寂しがって泣くのだ。 (もうすぐ16歳) それに、もはや介護が必要で、下の面倒も見てやらなければならないので、老犬だけ長い間一匹だけにしておけないから、何か食べに行くのにも、近いところがよいと言うことになる。 小龍包も良いのだが、食べた後、化学調味料のせいで舌が長い間ほてってしびれるのが閉口である。 化学調味料は日本が発明した最悪の物だ。 インドのIT産業で働いている人のブログを見たら、化学調味料会社の日本人社員がインドで売り回っていてそれが大変に良く売れるそうである。 アジアの食品は、ぜんぶ化学調味料に犯されてしまった。 化学調味料を使っていない料理屋はアジアでは極めてまれである。 どうして、アジア人はこんなに化学調味料が好きなんだろうか。 アジア人の好みによほど合う物らしい。 と思っていたら、アメリカでもヨーロッパでも最近はとくにファーストフードの店で大いに使われているという。 もう、多勢に無勢。 私一人が、化学調味料に反対してもどうにもならない。 ああ、うんざりだな。
- 2010/01/15 - 日本が滅びるのを目の前にしている 小沢一郎は何時逮捕されるのだろうか。 この十日ばかり、東京地検の小沢一郎に対する攻撃が熾烈である。 私のような、はたから見て騒いでいる、興味本位の人間からすれば、小沢一郎は何時逮捕されるのだろうかと競馬の予想を当てるようにおもう。 確かに、政治家をしているだけで、何十億もの財産を築き上げると言うこと自体、不潔である。 昔は、政治家は「井戸塀」と言われた物である。 政治に自分の金を注ぎ込んだあげく、残った物は井戸と塀だけだと言うことである。 昔、藤山愛一郎という政治家がいた。もともと、政治とは無縁だったのだが、王子製紙のオーナーであって、金があるのを見込まれて、あの昭和の妖怪岸信介に騙されて政界入りをして、首相にしてくれるはずだったのが、外務大臣で終わってしまい、その間に自分の財産を使い果たした。 岸信介にいいように金を使われてしまったのだ。 最後には、赤坂にあったパレスホテルで暮らしていたが、そのパレスホテルが火災で全焼して、持っていた高価な茶道具も全て灰に帰してしまった、という無残な生涯を送った。 それが、本当の昔の政治家だったのである。 岸信介は90歳まで安楽に生き延びた。これは、極悪の犯罪人である。 今になって、A級戦犯だったのが釈放されて首相まで上り詰めたのはアメリカの思惑だったことが明らかになっているが、最近まで、岸信介がアメリカの傀儡だと知っている日本人はまれだった。 その犯罪人、売国奴の孫である安倍晋太郎が最近の首相を務めた国であることだけで、日本という国がどうしてここまで国力を落としてしまったか容易に分かるという物である。 その後の自民党の政治家は全部、岸信介を手本にしたから、日本がここまで落ちぶれたのだ。 政治家も、官僚も、自分の身の回りの栄華しか頭にない。 国のこと、国民のことなど、最初から頭にないのが、今までの政治だった。 鳩山由紀夫が現在何とか生き残っているのは、政治資金の資金源が自分の母親であって、賄賂に相当する金を企業などから得ていなかった、からである。 しかし、小沢一郎の場合、なかなか、鳩山由紀夫のようには行かないだろう。 豊かな家の出である自分の妻以外からの財産の移譲はあり得ないようだが、それなのに、東京都内だけで30億円以上もの価値の有る不動産をどのようにして手に入れたのか。 小沢一郎は世襲の政治家である。政治家がどうしてそれほどの財産を築き上げることが出来るのか。政治家と蓄財は一致しない。 小沢一郎は田中角栄の一番弟子だけあって、田中角栄風の錬金術を学んだのだろう。 しかし、東京地検は凄すぎる。 どうしても、小沢一郎を捕まえて、民主党政権を破産させる気だな。 つぎつぎに、小沢一郎の資金問題をリークしまくっている。 報道機関も、東京地検の言うままに書きまくっている。 すでに、小沢一郎は、政治献金で不法を犯した極悪人、と言う印象が国民一般に出来上がった。 私は、小沢一郎と同じ政治的な意見を持つ人間ではないが、この東京地検のやり方は汚いと思う。 どうして、今まで、自民党の議員の捜査を一切しなかったのか。 同じ西松建設から政治資金を受けとった二階氏はどうして問題にしないのか。 その他の自民党の派閥の領袖たちも、多額の政治資金を受けとったことが明らかなのに捜査をしない。 東京地検の、意図はあまりに見え透いている。自分たちの身を守るために民主党政権をつぶさざるを得ないのだ。 しかし、これで、民主党政権が崩れたら、もう日本は再建の道がないね。 日本は、イラクやアフガニスタンのような、国になる。 国としての形も力もなくなる。 東京地検は日本で最強の権力を持っている。その東京地検が日本を壊すというのだから、もう仕方がない。鳩山由紀夫とちがって、小沢一郎の政治資金は企業から集めた物だから不透明性が高い。 小沢一郎は逮捕されるだろう。 東京地検は、日本を徹底的な破壊に導いたことで歴史にその名を残すだろう。 しかし、どうしてここまで検察庁が小沢つぶしを計るか、その狙いは、自分たち検察庁の保身にある。 長い間の自民党政権の間に、三権分立という民主主義の原則は崩れ、平気で「国策検挙」とか「国策捜査」などと言う言葉が使われるようになった。 その、国策の「国」とは何か。 検察庁という省庁の利益に他ならない。検察は自分自身を国だと思い込んでいる。 検察庁に反するする物は「国策検挙」「国策捜査」の名の下に、その人間全ての誇りも奪い、社会的生命を葬るのだ。 薄汚い接待や、賄賂を受取ってきた検察庁が、国を滅ぼす。 私は、民主党政権を支持する物ではない。 しかし、今、民主党政権に何とかがんばって貰わなければ、この国はおしまいだろう。 ここで、自民党に戻してどうなるのか。 国全体が破綻し混乱を来すだけだろう。 検察庁の官僚の利己的な考えで進める今の状況は、第二次大戦前の陸軍と海軍のしたことと同じだ。 省益あって国益なし。 これが、我が愛する祖国か。 そうなんだな。 私は、日本が滅びるのを目の前に見るという凄い経験をしている。
- 2010/01/11 - オーストラリア政府よ、どうするつもりだ 盗っ人猛々しいと言う言葉がある。 この場合は、テロリスト猛々しいと言うべきかも知れない。 以下に、毎日新聞ネット版の記事を紹介する。 シー・シェパード:調査船側を「海賊行為」で告訴 【ブリュッセル福島良典】南極海で反捕鯨団体「シー・シェパード」(SS)の抗議船「アディ・ギル(AG)号」が日本の調査船「第2昭南丸」と衝突、大破した問題でSSは8日、第2昭南丸の行動が「海賊行為」にあたるとして、同船の乗組員をオランダ司法当局に告訴した。 SSの弁護士は、衝突時のビデオ映像から第2昭南丸の行動が「公海上の海賊行為」にあたるのは明白と主張。衝突でAG号は約100万ドル(約9300万円)相当の損害を受け、乗組員1人が肋骨(ろっこつ)を折るけがをしたとしている。 AG号はニュージーランド船籍だが、弁護士はSSの母船「スティーブ・アーウィン号」がオランダ船籍であり、AG号の乗組員にオランダ人が含まれていたことから、オランダで告訴したと説明している。弁護士はAFP通信に対し、今後、損害賠償を請求する民事訴訟も計画していると話している。 衝突原因を巡っては「AG号が第2昭南丸の前を横切ろうとしたため、避けられなかった」とする日本側と「第2昭南丸が故意にぶつけてきた」と主張するSS側で見解が対立している。 米紙クリスチャン・サイエンス・モニターによると、海運専門家の間では、小回りの利くAG号が衝突回避の行動を取るべきだったとの意見があるという。 以前この頁で、シー・シェパードが日本の調査船を妨害するために高速船を手に入れたことを書いた。 高速船はその船を購入する資金を寄付したアメリカ人の名前をとって「アディ・ギル号」と名付けられた。(以下、ギル号と呼ぶ) ギル号はその高速を利用して、日本の捕鯨調査船の周りを走り回り様々な妨害行動を行った。 そのギル号が、捕鯨調査船「第2昭南丸」と衝突した。 その時の映像があるので見て頂きたい。 // < ![CDATA[ var po = new PeeVeeObject("48227968/48227968peevee291545.flv", 227968, 291545, 43, 425, 380); po.write(); // ]]> この映像を見ると、「第2昭南丸」がギル号の方に近寄って行っているように見える。 しかし、今度は正面からとった映像を見て頂きたい。 シー・シェパードの抗議船が日本船と衝突 これを見るとギル号が「第2昭南丸」の進路に向かって突っ込んでいるのが分かる。 これだけでも、法律違反である。 さらに、ギル号の航跡を見れば分かるが、ギル号は波を蹴立てて進んでいる。 速度を出している証拠である。 第一の映像でも、最後の部分を見ると、ギル号の後尾で猛烈な勢いで水が巻き上がっているのが見える。 ギル号はエンジンの出力を強力に上げていたのだ。 そもそも、ギル号が「第2昭南丸」の進路に突っ込んでくること自体違法である。 こんな勢いで進路に侵入されてきたら、あの波の荒い南氷洋で、どんなに「第2昭南丸」が避けようと努めても、避けることは不可能だ。 最初の画像で「第2昭南丸」がギル号に幅寄せしたように見えるが、二番目の映像を見ればそうではないことが分かる。 二番目の映像から分かることは、ギル号が「第2昭南丸」の進路めがけて突っ込んできていることだ。 昔、「当たり屋」というやくざな連中がいた。 連中は、通行中の自動車にわざと当たって、怪我をしたとか難癖を付けて保証金をせしめた。 この、ギル号を見ていて久しぶりに、その「当たり屋」という言葉を思い出した。 シー・シェパードが日本の捕鯨調査船に体当たりをしたのはこれが初めてではない。 次の映像を見て頂きたい。 これは恐るべき映像だ。シー・シェパードの船が、捕鯨調査船の船体の真横に、突っ込んでいるのである。 このような、恐るべきテロ行為を行うのが、シー・シェパードである。 正気の人間のすることではない。 この連中を逮捕しなかったオーストラリア政府の正義心を疑わざるを得ない。 今回も、シー・シェパードはギル号から、日本の捕鯨調査船に向かって様々なテロ行為を行った。例によって、酸を含んだ異臭のする液体の入った瓶を投げつける。 更に、レーザー光線を調査船に向かって照射する。 シー・シェパード、今度はレーザー光線やカラーボールで妨害 レーザー光線に目を照射されたら、失明の危機もある。 そのレーザー光線も、真昼の明るい光の中で見てもこのように強力なのだ。 ギル号は高速で調査船の周りを走り回り、このようなテロ活動を続けていた。 そのように船足の速いギル号が、それより遙かに速度の遅い「第2昭南丸」にぶつけられるはずがない。 ギル号が「第2昭南丸」と衝突したくなかったら、ちょっと方向転換して高速で逃げ出せたはずだ。 それが、逃げるどころか、自ら「第2昭南丸」の進路に突っ込んできた。 ギル号は前部を大破して動けなくなり、大量の燃料油を海に放出した。 最悪の環境破壊である。何のための、グリーン・ピースであり、シー・シェパードなんだ。(シー・シェパードはグリーン・ピースから絶縁されたと言うが、基本的には同じカルトだ) そのことについて、シー・シェパードのワトソン船長は、「ギル号が油を流すことはない。日本人がバケツに油を汲んで海に流しそれを写真に撮ったのだ」、と言い張っている。 小学校の生徒でもこんな見え透いた嘘は言わない。 彼らの知的水準がどんなに低いかを良く表している。 と言うより、平気で嘘をつく人間達であることを示している。 彼らは、鯨カルトの信者である。 カルトの信者であるから、理性的な会話をしようとしない。 だから、1億円もするギル号を「第2昭南丸」にぶつけたり出来るのだ。 これは、彼らにとって、最後の手段だったのだろう。 それにしても、両方に死人が出なかったのは、全く不幸中の幸いと言うべきで、もし、そのような不幸が起きていたら、と思うとぞっとする。 カルト信者は、そのような常識を無視した残虐な行為を平気でするのだ。 如何に、彼らが正気でないか、それがこの映像が証拠になる。 問題は、このようなシー・シェパードのテロリスト軍団を、母港として使用するのを許しているオーストラリア政府である。 日本の経済が低調で、これからは中国中心で行く、日本は経済的に相手にしない、とラッド政府が決めたからこのような不法が日本に対して行われていることを黙認するのか。 それでは、オーストラリアという国自体が掲げている公正(フェアー)という概念はどうなるのか。 金が全ての国なのか。 このような国は、世界的に見て、フェアーではない。 最後に、ギル号が残したボウ・ガンの矢をお見せしよう。 ボウ・ガンというのは、ウィリアム・テルで皆さんご存じの、銃の形をした弓矢である。 その正確度と、破壊力は、日本の弓矢より上だと言われている。 その、ボウ・ガンの矢がギル号の破壊された部分から海に流失したのを、日本側が回収した。 発見されたボウガンの矢 。水面にアディ・ギル号燃料の油膜が見られる アディ・ギル号から海上に流出した漂流物から見つかったボウガンの矢 この矢で打たれた人間死ぬか大けがをする。 シー・シェパードは日本人の命より、鯨の方が大事なのだ。 日本人も、安く見積もられた物だと思うが、それより、こんな物を用意したシー・シェパードの連中の残酷さに寒気がする。 この連中は、殺人未遂罪だ。日本だったら、凶器を準備したと言うだけで罪になるだろう。 シー・シェパードの存在を許すオーストラリアは、日本人が殺されても気にしないんだね。 シー・シェパードのしたことを列挙してみよう。 自分たちの船を日本の捕鯨調査船の横っ腹にぶつける。 レーザー光線で日本人の目を狙う。 毒性の液体の入った瓶を日本人に投げつける。 調査船の前に、自分たちの船を突入させる。 日本の調査船のスクリューにロープを巻き付けようとする。 ボウガンで日本人調査船の乗組員を狙う。 これら、全て、傷害・殺人罪に該当する悪質な犯罪である。 これは、日本だけに通用する犯罪ではない。国際社会全てで認められている犯罪である。 私は、オーストラリア政府に尋ねたい。 この国には、正義は存在しないのか。 鯨カルトに毒された、カルト集団の国なのか。 私は今まで、オーストラリアに22年住み、「美味しんぼ」という漫画の中でオーストラリアを褒め称えてきた。 「美味しんぼ」を読んでオーストラリアに親しみを抱いたという人びとに多く出会っている。 日本からシドニーに来た観光客の多くが私の書いた「美味しんぼ」がシドニーを訪れる動機になっていると言う。 しかし、私の読者たちは、今、私に私のオーストラリアに対する思いが間違っているのではないかと言う疑問を突きつけている。 私は、今岐路に立たされている。 オーストラリアを公正な国として書き続けるか、鯨カルトに毒された人びとの国と書くのか。 公正、と言う概念が通用しない国として書くのか。 オーストラリアの人びとに言う。自分たちの祖先がどれだけ鯨を殺したのか知っているのか。 私は、南オーストラリア州のある町の土産物屋で、鯨の歯に彫刻をしたものを買ったことがある。 その店の主人は言った。 「この港はかつて、捕鯨の母港だった。ここで沢山の鯨を殺した。港の底をさらうと、鯨の骨や歯が無数に出て来るよ。この土産物の鯨の歯もこの港で簡単に手に入る物だ」 その店には、鯨の歯や骨を使った工芸品が並んでいた。 オーストラリア人よ、昔のことだから、今は無罪だというのか。 いつだったか、私が、この捕鯨のことについて書いたら、英語でメールを送ってくれた人達がいた。 低劣で、読むに耐えない文章だった。 文法的にも稚拙な間違いが多かった。(日本人の私に言わせるなよな) そう言う、人達よ、また英語で文句を書いてくれ。 英文法の間違いを添削して上げますよ。 私は大変親切な人間だから。
- 2010/01/10 - 門松は冥土の旅の一里塚 今年は、楽しく過ごしたいねえ 私の家のラブラドールの「ポチ」は現在15歳、2月に16歳になる。 犬としては大変な老齢なんだそうで、獣医の次女は、ポチのために自分の人生を使っていると言っても言いすぎではない。 次女は高校卒業試験の成績が極めて優秀だっから、普通の医学部に文句なく進めたのに、可愛いポチの面倒を見るために獣医学科に進んだのだ。最近は流石にポチにも衰えが進んで、両脚を広げてまるで魚の干物のように平べったくなって床に寝ている。それは、いいのだが、今度はその姿勢から立ち上がれないのだ。 日本の介護を専門にしている看護士さんの話によると、介護を求める人達は何度も看護士さんを呼び出す呼び鈴を押すが、その殆どが、老人たちの思い違いによる物なのだそうだ。しかし、十回に一回は切実な物があるのだそうで、だから、介護の呼び鈴を無視する訳には行かないのだという。 私の家のポチも、昔と違って、大声ではなく、まるで咳き込むような声で、バウバウとそっぽを向いて吠える。何でもないんだろうと思っても、十回に一度は本当に立ち上がって用を足したいと言うことがあるから、無視できない。 本当に犬は可愛いんだが、ここまで衰えてきて、老犬介護の段階に入ると、家族中が大変だ。 家族そろって食事に出るなんてことは出来なくなった。 家族が家にいない間に、ポチが悲しげに泣き叫び続けると隣家からの報告もあった。 で、こうやって、愛する犬が衰えていくのを見ていると、思わずその姿に自分自身を重ねてしまう。 私は、こんなことにならないうちに、すっきり死んで行きたい。 そう、思うのだ。 私の尊敬する作家、吉村昭氏は、がんの末期に、「もう、いい」と言って、点滴などのチューブを自分で引きちぎったそうである。 奥様の、津村節子氏がその時のことを、吉村昭氏の遺作短編集「死に顔」の後書に次のように書いておられる、 「夜になって、かれはいきなり点滴の管のつなぎ目をはずした。私は仰天して近くに住む娘と、二十四時間対応のクリニックに連絡し、駆けつけて来た娘は管を何とかつないだが、今度は首の下の皮膚に埋め込んであるカテーテルボートの針を引きぬいてしまったのである。 私には聞き取れなかったが、もう死ぬ、と言ったという。 辯護士が来た時、このままにして下さいと、私は言い、娘は泣きながら、お母さんもういいよね、と言った。」 私は昔から吉村昭氏の愛読者だったし、小説も見事だが、氏の随筆を私は深く愛した。 吉村氏の随筆は、親・兄弟・家族・子供たち・妻に対する愛情が過度に濃厚ではなく、しかし、たっぷりと描かれていて、氏の随筆を読む度に、氏の家族の姿にしみじみと感動した。これが本当の家族なんだよなと思った。 そして、最後の死ぬ時の作法を見て、私は自分も死ぬ時には吉村昭氏の作法に従って死のうと納得した。 どうも、新年早々暗い話で申し訳ないが、「門松は冥土の旅の一里塚、目出度くもあり、目出度くもなし」と一休さんが歌ったそうな。 正直に言って、私は今とても幸せなので、この瞬間に、ボッと死ねたら最高だなと思っているんです。 でも、がんにかかって長患いするなんていやだな。 ま、そんなとこには関係なく、今夜も、美味しい酒をたっぷり飲んで、アメリカのテレビ番組「24」を家族で見ました。 余り、インテリジェンスの高い家族ではありませんね。 明日の夜も「24」の続きを見るんです。 どうしようもない、低能家族ですね。
- 2010/01/09 - 謹賀新年 謹賀新年。 読者諸姉諸兄とって今年が良いお年でありますよう、お祈りします。 私は、今年こそ良い年にするぞっ! 今年ももはや9日過ぎてしまいましたね。 毎年のように、今年もあっという間に過ぎてしまうんだろうな。 なんて言っていると、もう今年も終わりに近いような気がしてしまう。 我が家は例年通りの年末・年始でした。 去年の大晦日のシドニーハーバーのの花火大会は凄かった。 不景気なので、去年よりしょぼいだろうと思ったら大間違い。 今までの最高の花火だった。 いったいどこから湧いてくるのか、30万人近くの人間が、オペラハウス、フェリーターミナル、植物園の周り、さらには封鎖された高層道路などに陣取っている。 シドニーの人口は400万人弱だから、凄い数の人間が集ったことになる。 花火大会は9時に第一回、そして12時に、本命の大花火大会が催される。 私たちの場所は、ハーバー・ブリッジと、オペラハウスを同時に見ることが出来、ついでに、背後の都心まで見るまで見ることが出来る好位置。 11時にまず、予告の小さな花火、11時半に、それより大きな予告花火、15分前に、結構な花火、そして、12時10秒まえから、橋の欄干に映写されているプロジェクターの模様が変わって、10秒前からのカウント・ダウンにはいる。 30万人の観客による地にとどろくような声でカウントダウンが行われて0になると同時に花火が打ち上げられ始める。 凄いのは、最初からクライマックスと言うことで、いきなりドカドカバリバリ、打ち上げ始める。 シドニーハーバー内の4個所から同じ編成で打ち上げられる。 同時に、ハーパーブリッジとオペラハウス近くの打ち上げ地点からちょっとずれて、ハーバーブリッジよりの海中から、花火打ち上げられる。水のなから打ち上げるとは、実に、豪快である。 そして、最後の最高潮になると、ハーバーブリッジからナイアガラの滝、水平打ちだし、上方に連発打ちだし、発狂的な乱れ撃ち、水底から連続打ちだし、それでは収まらず、シドニーハーバーの周りの高層ビルの屋上から一斉に打ち上げられる。正気の沙汰とはとても思えない凄まじさである。 しまいには、シドニーハーバー全体が燃え上がってしまうのではないかと心配するほどの火の海。 このシドニーの花火の打ち上げ方は、隅田川の、あの品の良い川開きの打ち上げ方とはまるで違う。 いきなり最初からクライマックスで、その勢いを、休み無く続けるのだ。 見ている方が疲れるほど。 しかし、その花火の打ち上げ持続時間たるや、今年私が実測したところでは、わずか13分なのだ。 13分なのに、その充実感は凄い。 これ以上長かったらだれるだろうとおもう。 それほど、気合いが入っている花火大会なのだ。 花火を見に集まってくれた人達全てが、大興奮、大満足、また来年も是非来たい、一緒の思い出だ、などと言ってくれる。 夜の2時に現地を脱出しようとしたが、あちこちが交通止めで、家にたどり着いたのが朝3時過ぎ。 それから、欲も得もなく寝込んで、1日1時から新年宴会。(本当は12時開始だったのが、みんなが疲れ果てたので午後1時に延ばして貰ったのだ。 おせち料理を作るために貴重な休みを使って助けに来たくれた「こ」ちゃん、の力もあって、例年通りの素晴らしいおせち料理が出来上がった。 長男が日本にいるのが残念だったが、それ以外の家族は全員集まり、「こ」ちゃんも参加してくれた上に、大先輩の「に」ご夫妻、次女の同級生のお母さんの「え」さんとその婚約者「じ」さんが参加してくれて、大変楽しいおせち大会になった。 私は何だかんだと言っても、昔の日本人ですから、おせち料理だけは完璧にそろえないと気が済まないのです。 私の家のおせちで、これだけは欠かせないのが、梅花卵、リンゴ寒天、なんです。これさえあれば、私は、今この場で死んでしまいたいと思うほど幸せです。 今年も幸せでした。そのくせまだ生きているのが我ながら不純だな。 最近は、魯山人の緑釉長鉢の器には、秋谷の「和彦さん」が釣ってくれる赤ムツを載せることになっているのだが、ことし、頂いた赤ムツは例年にない大きさで、器に載せたら、魯山人の器の良さを消してしまう有様。 それでも、器の良さより魚の味の良さの方が上。 最高でした。お正月に鯛なんてもう食べられないね。 で、私は4日から仕事を始めましたが、これが、環境問題の第2弾で、第1弾は公共工事にが引き起こす環境問題を取り上げましたが、第2弾は、もっと生活に密着した、ミツバチ、農薬、酪農、養豚などの話なので、書く方も厳しいです。 どうして、漫画にこんな難しい話書かなければいけないの? もっと面白おかしい話を書くべきなのに、私は間違っているんじゃないかと思うんです。 で、こんどの環境問題第2弾はなるべく面白くなるように話を作ります。 話を作るなんて言うと不純に聞こえるかも知れませんが、漫画原作者は最初から話を作っているんですよ。 読者に面白い思って頂けるように、どんなに話を作っても、中身の真実だけは変えません。 そんな訳で、今年も「美味しんぼ」を頑張りますので、よろしくごひいきのほどお願い致します。
- 2009/12/31 - みなさま、良いお年を 今日で、2009年も終わり。 毎年のことながら、この1年も、一体何をしたのか訳が分からないうちに、あっという間に過ぎてしまった。 しかし、鏡の中の自分の顔を見ると確実に老化しているので、1年経ったことは確実であるようだ。 一番大きかったのは、秋谷に新しい家が建ったことか。 といっても、その家の所有主は私ではなく、姉が経営する会社で、私はその中の二部屋を間借りしているに過ぎない。 しかし、間借りであっても、21年ぶりに秋谷に戻って来たという思いを強く抱いた。相模湾に面していて、目の前は大変に良い漁場であるらしく、毎日沢山の漁船が群がっている。 おかげで、毎日、午前中にとれたぴんぴんの魚を食べることが出来る。 その家は会社が使っているので、毎日何やかやと人の出入りがあり、夜も誰かが宿泊しているから、私がシドニーに戻って来ても安心である。 今は私たちの代わりに、長男が、居座っている。 矢張り日本は素晴らしい。 我が家も、子供達が独立していくので、シドニーの家も今までのように維持できそうにない。 私たち夫婦が日本へ行くと、子供たちだけで家の面倒見るのは大変だ。 どの家族にも、転機という物がある。 今の私たち家族が、そのターニング・ポイントにあるのではないかと思う。 来年あたり、大きな決断をしなければならないかも知れない。 年末に、我が家の五女の「こ」ちゃんが、里帰りしてきてくれた。 「こ」ちゃんは、外務省の役人で、日本のお偉方が外遊するときにはその夫人の通訳を務める。 以前、この頁に、天皇・皇后がヨーロッパに行ったときに、皇后の横で通訳している「こ」ちゃんの写真を掲載したことがある。 シドニーの大学に2年、キャンベラの日本大使館に2年、通算4年オーストラリアに滞在して、その間にすっかり我が家の一員になってくれて、我が家の五女となったのである。 長女、次女は私の娘、三女は雌犬のポチ、四女は7年間シドニーに滞在した私の小学校の同級生の娘の「ゆ」ちゃん、そして「こ」ちゃんが五女というわけである。 「ゆ」ちゃんも「こ」ちゃんも、そろってシドニーにいたときは、娘が四人いて私は大変楽しかった。 「こ」ちゃんは折角の冬休みなのにシドニーまで、おせち料理作りを助けに来てくれたのだ。 その気持ちが有り難い。 今年の、年末年始は、娘が三人で私は実に気分がよい。 この気持ちの良さで、年越しをして、来年こそは充実した良い年にしたい。 読者諸姉諸兄も、良いお年を。
- 2009/12/30 - 共和国の友人たち7(完) 前回まで、明治以降日本が共和国・韓国に対してどんなことをしてきたか大雑把にまとめて見た。 全く荒っぽいまとめで、抜けが沢山あるし、ざっとかい撫でしただけなので、極めて底は浅い。この日記では、この程度書くのが精一杯だ。 私が前に挙げた本を読んで頂ければ、ちゃんと深い理解が行く。是非お読み下さるようお願いしたい。 共和国・韓国の人々と友人になりたいと思ったら、日本人は最低限私が挙げた事柄を知識として持っていてもらいたい。 共和国・韓国の人々は学校でしっかり学んでいるから、江華島事件以降、韓国併合を経て1945年の日本の敗戦による解放の時期まで日本が朝鮮・韓国に何をしたか良く知っている。 ところが、日本人の大半、特に若い人達は何も知らない。 初めて聞いて驚く。 驚くのはまだ良い方で、そんなことは嘘だという。 こんなことを言う私は、共和国・韓国、中国に洗脳されているんだろう、とまでいう。 それも無理はない。日本の学校では明治以降の日本のアジア侵略の歴史はまともに教えられないからだ。 1945年の第二次大戦敗戦後に生まれた日本人の大半は、明治以降日本が朝鮮・韓国、中国に何をしたか良く知らない。 日本人は知らなくても、外国人はみんな良く知っている。 他の国の人間が良く知っていることを、我々日本人は知らない。これでは、国際的に勝負にならない。眞の友好関係も結べない。 「閔妃暗殺」を書いた角田房子氏は、次のように書いている、 「(前略)両国関係の歴史を学ぶ間に私は何度か『日本はこんなひどいことをしていたのか』と言う驚きに打たれた」 私もその通りだった。 角田房子氏がこの「閔妃暗殺」を書かれたのは1987年、その時氏は73歳。 その年代であっても、日本がしてきたことを御存知無かったのだ。 また、それより前の部分でこうも書いている、 「(前略)及ばずながら日韓関係の事実を知ったことで、私は実感の伴う”遺憾の念”を持つようになった。私の使い慣れた言葉で言えば、”申しわけなさ”がその基礎となった感情である。」 (中略)」 「『閔妃暗殺』をお読み下さる方々の一人でも多くが、どうぞ隣国への”遺憾の念“を持ち、それを基とした友好関係、相互理解を深めて下さるようにと、私は切に願っている」 (ところで、この角田房子著「閔妃暗殺」が新潮文庫で出ていることを知った。文庫本なら、入手しやすいと思うので、読者諸姉諸兄におかれては是非購入一読して頂きたい) 日本人は自分たちがしてきたことを、きちんと認識し、その結果朝鮮・韓国の人々に対して与えてきた被害の大きさをはっきりと認識しないと、共和国・韓国の人々が心の底に持っているわだかまりに気がつかない。 わだかまりなどではなくもっと強く言うなら「反日感情」である。 相手がそのような物を心の底に持っているのに、何も知らない日本人がのこのこ出かけて行って友好だ、相互協力だ、などと言っても上手く行くはずがない。 まず、共和国・韓国の人々が胸に深く抱いている日本に対するわだかまり・反感をしっかりと認識して、そのうえで、いかにして友好関係を樹立できるのか考えなくてはいけないだろう。 自分の国が過去に犯した間違いを認めるのは辛いことだが、自虐的だ、などと言って逃げたりしてはいけない。 過ちを過ちときっちり認めることは辛いが、それを避けていたらいつまで経っても卑怯な弱虫のままだ。真実から逃げ続けているその姿こそ自虐的ではないか。 最近NHKの大河ドラマで司馬遼太郎原作の「坂の上の雲」が放映されている。 このNHKのドラマのおかげで、また「明治時代は明るかった」「日本の明治時代は、溌剌とした青年のようだった」などと喧伝されことになるだろう。 前掲中塚明氏著「歴史の偽造を正す」の162頁に引用されているが、1996年3月2日の毎日新聞に、《歴史万華鏡》岡本健一「『司馬史観』再考―『近代化の原罪』からの解放」、と言う文章が転載されている。 その中で、岡本健一氏は次のように言っている。「明治維新によって近代化の扉を開いた若き群像、彼我の実力を知って日露戦争を戦った指導者。いずれも、ドグマで裁断されず、共感を込めて活写された。 誰もがさわやかな快男児で、抑制の効いた美しい「侍の倫理」と「合理精神」の持ち主として描かれた。 つまり、司馬さんは「太平洋戦争の否定」から出発して「明治の肯定」に至った。 暗黒史観とは対象的だ。 おかげで、私たちは、明治の近代化と共に背負わされた《原罪》――生まれつきの侵略国家感――から解放された。 このような文章を読むとめまいがする。 この人は、日本の歴史に全く無智なのか、それとも、意図的に事実を曲げているのか。 これまで私の挙げた点だけで、明治政府がどれだけの権謀術数と暴力を用いて朝鮮・韓国を侵略して行き日本に韓国を併合してしまったか、まともな知能を持つ人間なら、間違える事なく理解できるだろう。 江華島事件以降、韓国併合に至るまで、関わり合った日本の軍人、政治家、官僚、その誰が「さわやかな快男児」で抑制の効いた美しい「侍の倫理」と「合理精神」の持ち主だったか。 そんな言葉は聞いただけで気恥ずかしくなる。 「坂の上の雲」は日露戦争を舞台にするようだが、日露戦争は、日清戦争の続きであり、日清戦争と日露戦争は切り離して考えられない。 日本は朝鮮に対して攻撃を重ね、朝鮮の権利を奪って行き、朝鮮王宮を占拠して日清戦争に韓国を巻込んだ。 そこの所を司馬遼太郎氏は書いていない。 その朝鮮を支配して日露戦争に導くまでの日本のやり方は、権謀術数と暴力にまみれた陰険極まりないものであって、「さわやかな快男児」で、抑制の効いた美しい「侍の倫理」と「合理精神」の持ち主のすることではない。 正に日露戦争までの日本の近代化の歴史は生まれつきの侵略国家と言う原罪から逃れる訳にはいかない。 司馬遼太郎氏は小説家である。 歴史家ではない。 小説家としてどんなに事実を脚色して面白く一般受けのする物語を書いても構わないが、読む方は、それを実際の歴史と混同してはいけない。 歴史物語は、あくまでも、歴史を題材に取った小説であって、歴史書ではない。 そこを間違えてはいけない。 司馬氏は日本人が喜びそうな部分にだけ光を当て、大いに美化して描く。日本人とっては辛いところは伏せる。結果的に、明治の日本を賛美して、実際の明治の姿と異なった明治像が描かれている。 小説だったら何を書いても良いというものではない。 歴史小説であるからには歴史の本質を曲げた物を書くべきではない。 司馬遼太郎氏のおかげでどれだけ多くの日本人が、史実に反する物語を史実と思い込まされてしまったことだろう。 司馬氏の本を読む際には、実際の歴史の本を横に置いて、事実と対応させながら読むことをお勧めする。 だが、一般読者は普通歴史の本を対照しながら司馬遼太郎氏の小説を読んだりしない。 すでに、司馬遼太郎という名声のある小説家が書くものなら、その通りに鵜呑みにするだろう。 司馬遼太郎氏の書くものは真実を認める勇気のない人間には心地よい。 しかし、その偽りの心地よさは、過酷な歴史の真実を隠す物であり、それを真に受けて良い気持ちになっていると、現実から必ず手ひどいしっぺ返しを食うことになることを肝に銘じて欲しい。 明治がどんな時代だったか、朝鮮・韓国・中国を離れて日本国内だけについて考えてみよう。 早くも1875年(明治8年)「讒謗律(ざんぼうりつ)」「新聞紙条例」、1893年(明治26年)「出版法」が制定公布された。 「讒謗律」は個人の名誉毀損を禁止する法律だが、実際は政府に対する批判を取り締まった。政府高官などに対する批判はそれが私的な物でなく、政治的な公的な物でも、名誉毀損とされたから、結果的に政府に対する批判は出来なくなった。 「新聞紙条例」「出版法」で政府に都合の悪い内容の出版は禁止された。 1880年「集会条例」が制定され、集会や結社を厳しく取り締まった。これは、典型的な「言論の自由のない国」の姿である。 1880年「不敬罪」、1882年「大逆罪(たいぎゃくざい)」の制定。 「不敬罪」とは、天皇および皇族だけでなく、神宮や、歴代天皇の稜(墳墓)に対しても、その尊厳を損なうような一切の行為を罰する法律。 「大逆罪」とは、天皇、太皇太后(天皇の祖母)、 皇太后(先代の天皇の皇后)、皇后、皇太子に危害を加え、あるいは危害を加えようとした者は死刑に処する、と言う物。 「危害を加えようとした」などと言うことは、でっち上げようと思えばいくらでもでっち上げられる。 幸徳秋水ら、政府にとって邪魔な社会主義者たちはでっち上げの大逆罪で死刑にされた。 「大日本憲法第29条」では「日本臣民は法律の範囲内に於いて言論著作印行集会及び結社の自由を有す」と決められていた。 しかし、問題は、その「法律の範囲内に於いて」という所であって、すでにある「讒謗律」「新聞紙条例」「出版法」「不敬罪」「大逆罪」などの範囲内ということだから、実質何の自由もなかった。 さらに、1900年(明治33年)に制定された「治安警察法」で言論の自由も、集会の自由も、一切規制された。 宮武外骨は1889年、「頓智協会雑誌」で明治憲法発布のパロディとして、宮武外骨が「頓智協会憲法」を授けると言う図を描いた。宮武外骨(みやたけがいこつ)の外骨は骸骨に通じるので、骸骨が憲法を授ける図を書いたところ、その図が天皇が憲法を授ける所を思わせ、「天皇を骸骨に書いたことが不敬罪に当たる」として3年8カ月勾留された。 人々は言論の自由もなく、警察の目におびえて小さくなって暮らしていた。 このような明治が、どうして明るい時代と言えるのか。 戦前の軍国主義の暗い時代は既に明治に始まっていたのだ。 その上、1925年(大正14年)に制定された「治安維持法」は「国体の変革と私有財産制度の否認を目的とする結社や行動を処罰する物で1928年に改正されてからは、反政府的あるいは共産主義的とみなされた言動は厳しく取り締まられた。 その中には「予防拘禁制度」というのがあって、それは、まだ何も罪を犯していないが、これから犯すかも知れないと当局が思ったら、その人間を勾留することが出来ると言うむちゃくちゃな物だった。 国内でさえこうなのだから、日本の植民地となった朝鮮で、政府がどんな態度で朝鮮の人々に接したか容易に察することが出来る。 2004年に亡くなってしまったが、本田靖春という優れたノンフィクション作家がいた。 もともと、読売新聞の社会部の記者として活躍していたが、読売新聞の保守化が進んだことで耐えられなくなり、退社して、ノンフィクション作家として活躍した。 反骨精神の旺盛な人で、読売新聞在社中も、1962年から反売血キャンペーンを紙面を通じて行って、日本の輸血を売血から献血によるものに変えさせるのに大きな役割を果たした。 (1962年当時、日本の輸血の100パーセント近くは売血によるものだった。 当時山谷のドヤ街でその日暮らしをしている労務者たちから血液を買う会社があり、その会社が病院などに売った血で輸血が行われていた。 1回200ccの血液を本来なら一ヶ月一回しか採血してはいけない規則なのに、貧しい労務者の中にはひどい人になると月に50回も採血をして売ったという。 頻繁に採血すると脊髄の造血作用が追いつかず、血液の色が本来の鮮紅色を失い薄汚れた黄色になってしまう。 これを「黄色い血の恐怖」として、氏はキャンペーンを張ったのである。 世界中で、輸血の血液を売血に頼っているのは日本だけで、各国から批判を浴びていた。それ以前に、この売血によって得られた血液を輸血された患者は高い確率で肝炎にかかり、やがて肝臓がんで死んでいく。 血液会社、血液会社からリベートを貰う医師たち、厚生省の役人たち、この三者の癒着は強固で、とても勝てるキャンペーンではなかった。 しかし、氏は粘り強く、献血運動も続け、1962年に度輸血全体の0.5パーセントだった献血が1966年度には49.9パーセントに達する。 氏は足かけ5年にわたるキャンペーンを続け、日赤の村上省三氏、早稲田大学の学生木村雅是氏らの協力で献血事業は進み、1985年には日本の献血者は869万人に上り、日本の献血率は7.4パーセント(全国民の7.4パーセントが献血をしている)となり、世界一となる。 日本で労務者たちから売血をしていた吸血鬼「日本製薬」「日本・ブラッドバンク」の両社の経営者はともに、中国で捕虜を使って生体実験をしていた悪名高い第731部隊の残党たちだった。 日本ブラッドバンクは世の動きを見て売血から手を引いて、後にミドリ十字と改名し、血液製剤を作ることに方向転換したが、血友病患者にアメリカから売血してきた血液を基に作った血液凝固剤を売って多くのエイズ患者を作り出してしまった。 731部隊の一党が如何に人間性を無視した人間達だったか、考えれば考えるほど恐ろしく浅ましい。 ミドリ十字は、吉富製薬との合併を経て、現在田辺三菱製薬となり、日本で最大の化学会社三菱ケミカルHDの傘下にある。731部隊の歴史を受け継いだことは三菱にとって名誉ある事とは言えまい) その本田靖春氏は、父親の仕事の関係でソウルで生まれ、敗戦によって日本に引き揚げてきた。 その時の事を書いた、本田靖春氏の文章を氏の最後の本「我、拗ね者として生涯を閉ず」(講談社)から引用しよう。 氏は、日本に帰ってきて、日本の川や海が朝鮮と違って水が澄んで美しいのに感動した。 『別天地に遊ぶような心地で上陸したのだが、そこで私はもう一つの驚愕的な「発見」をする。 それは港で立ち働く人びとすべて日本人である、ということであった。 朝鮮では、単純労働者はみな朝鮮人であった。 思い返してみて、私の周囲でそう言う仕事に就いていた日本人は、一人もいない。 それこそが植民地の姿なのだが、その中で生まれ育った私たちは、そうした不自然さをしごく当然のこととして受けとめていたのである。 私たちにとっては、日本人が港で立ち働くことの方が、極めて不自然であった。 だから、自分を納得させるために、いちいち母を煩わせた。 「ねえ、おかあさん、あの人も日本人?」 「ええ、そうよ」 と答えていた母は、同じ質問があまりにも度重なるので、叱りつけるように言った。 「あなた、何度同じことを訊いたら気が済むの」 (中略) 私にとって、港で繰り広げられる光景は、まさしくカルチャー・ショックであった。 差別的表現をあえてするなら、「下層」も全て日本人によって占められているという現実が、「山紫水明」の景色と同様、この世のものとはどうしても思えなかったのである』 こう言うことを書けば、多くの人々から反感を買う。 そう分かっていても、反骨のジャーナリスト本田靖春氏は真実を書いた。 氏のこの文章を読めば、日本人が、朝鮮でどのように振る舞っていたか、どのように朝鮮の人びとに対してきたか身にしみて良く分かる。 私自身北京で生まれて、日本人が中国人にどんなことをしてきたか、身をもって体験しているので本田靖春氏の書いたことに深い共感を覚えるのだ。(私の中国経験は、また、別の時に) 日本が明治以来朝鮮に対してどんなことをしてきたかその歴史をしっかり認識して貰うために、今まで、色々と例を挙げて来た。 日本は世界中の国と友好関係を結ばないといけないが、すぐ隣の中国、共和国・韓国とは、特にしっかりした友情をもって手を結び互いに協力し合っていかないと21世紀以降の世界の中で日本は生き延びることが出来ないと思う。 そのためには、まず、ごまかしのない正直な過去の歴史の認識が第一に必要だ。 日本が、朝鮮・中国を侵略したことは間違いのない事実なので、「今世紀の一時期において、不幸な過去が存在したことは、まことに遺憾」とか、「迷惑をかけた」とか、言われた方が返って腹が立つようなことを言って謝罪したつもりになっていないで、きちんと侵略の事実に対して謝罪をし、それに応じた補償を行うべきである。 日本は毎年アメリカの駐留軍の家族相手に思い遣り予算とか言って途方もなく巨額の金を支払っている。 そんなことを出来るなら、どうして、中国・朝鮮で日本の被害にあった人達に補償をしないのか。 アメリカは今非常な危機に立っているが、アメリカが崩壊しようとしまいと、そんなことには関係なく、日本、中国・共和国・韓国との関係は日本にとって決定的に重要なのだ。 今私たちが使っているこの日本語も、中国と朝鮮の文化がなかったら存在し得なかった物だ。 文化の根底である言語を、我々は、中国と朝鮮に深く負っていることを忘れてはならない。 その、中国、共和国・韓国と友好関係を結べずに、どうするか。 そう言う訳で、私はできるだけ多くの共和国の人びとと友人になりたい。 そう言うと、こんなことを言ってきた人がいる。 「金正日氏はノドンを日本に打ち込むと脅しているし、拉致被害者は返さないし、国内で強烈な反日教育を行っている。そのような共和国の人間が、日本人と友人になりたいと思う訳がない」 また、 「中国では言論の自由が制限されていて、一般の中国人は天安門事件のことさえ知らされていない。教科書は強烈な反日的な内容で埋まっている。その中国人が日本人と友人になりたいと思うか」 確かにその通りで、今の金正日氏の支配する共和国の政治体制下では難しいところがあるだろう。 中国も、天安門事件で動揺した中国の社会を引き締めるため、鄧小平、江沢民以後、反日教育を強めた。明治初期に、不平士族をなだめるために、征韓論を立ち上げて、不平を外に向けさせて内部を治めようとしたのと同じ形である。 特に、江沢民自身が個人的に非常に日本人嫌いだったこともあって、江沢民が主席になってからの中国の反日感情は、インターネットの普及に伴って中国中に燃え上がった。 2004年に中国で行われたサッカーの「アジアカップ」で、応援に行った日本の若者達が、観客席の中国人から猛烈な反日的な罵倒を受け、ペットボトルまで投込まれ、うろたえていたのをテレビで見た。 あの時の中国人の、日本人に対する態度は、あまりに凶暴で私も腹が立ったが、現在の中国人の反日感情がそこまですさまじいものになっていると言うことを認識するのには役に立った。 私は、日本と、中国、共和国・韓国とのこれからの関係を期待を持ってみている。 一番大きな問題は、共和国、中国とも、その政治体制が極めて専制的で、人びとの自由な言論を許さない形にあることだ。 歴史を振り返ってみれば分かることだが、このような専制的な政治体制が、長く続くことはあり得ない。 私たちのするべきことは現在の政治体制に関わらず、生身の人間どうし、接触できるところから接触して行って、友人の連鎖を広げることだ。 共和国と中国の政治体制は必ず変わる。言論の自由を受け入れざるを得ない体制に必ず変わる。 (もっとも、ロシアの例があるから、能天気に楽観的ではいられない。ソビエトが崩壊してロシアは民主主義国家になるかと思ったら、プーティンの支配する専制的で強圧的な破綻国家になってしまい、反政府的な言論は徹底的に取り締まられるようになった。2007年には、ジャーナリスト、アンナ・ボリトコフスカヤが殺され、2009年にはナターリア・エステミロヴアが殺された。二人とも、プーティンの政策に反対してチェチェン戦争でロシアがどんなにひどいことをしているか報道し続けてきた。ロシアになってから殺されたジャーナリストは200人以上になる。みんなプーティンを批判したからである) 私としては、共和国や中国がロシアの轍を踏まず、開かれた国になることを願うしかない。 政治体制がもっと開かれた状態になったとき、それまでに築いて置いた友人関係が役に立つだろう。 お互いに腹蔵なく話し合い、どうすれば、国同士が和解し合い協力していけるのか、その道を見いだすことが出来るだろう。 中国と、共和国の政治体制が今のままでも、一般の市民同士の間で交友関係を広げて深めて行くことは、次の世代の日本、中国、共和国・韓国の人びとにとって重要なことである。 今は確かに、国として、日本、共和国、中国とは上手く行っているとは言いがたい。 しかし、国同士の関係を改善するのは、国民どうしが友情を築くこと以外にない。 私は、私の子供達、孫達、孫の子供達の世代のために、未来のために、共和国・韓国、中国の人びとと友人になりたいと思うのだ。 私が、出来るだけ多くの共和国の人びとと友人になりたいと言うのは、その意図による物だ。 共和国・韓国、中国は近代以降日本の侵略の被害者だったのだから、日本を憎み恨む根拠がある。 しかし、加害者である日本が、共和国・韓国、中国を嫌悪したり憎んだりするのは、逆恨みと言う物で、その根拠がない。 問われているのは日本人の腹である。 如何にして、共和国・韓国、中国の人びとの過去の歴史に基いた怒りと批判に正面から対応するか。 その腹の大きさが問われているのだ。 最後に、「閔妃暗殺」の中で、角田房子氏が書いている話をここに記そう。 韓国にポスコという、世界でも有数の規模の製鉄所がある。 1973年設立時は「浦項製鉄所」と言ったが、2002年に、POSCOと社名を変更した。 1987年、当時の稲山嘉寛経団連名誉会長が亡くなったとき、当時の浦項総合製鉄会長の朴泰俊(パクテジュン)氏が、その告別式に参列した。 その朴泰俊氏が1987年10月28日付け日本経済新聞朝刊の「交友抄」に書いた文章を角田房子氏は「閔妃暗殺」の「あとがき」に転載されている。ここにそれを記す。 「(前略)一九六〇年代末。世界銀行や米国輸出入銀行が浦項製鉄の事業に対し懐疑的な判断と非協力的な態度をとり、韓国での一貫製鉄所の建設に必要な資本や技術の供与など主な問題が何一つ解決できない状態だった時、最後の頼みの綱として八幡製鉄の社長だった稲山さんら日本鉄鋼連盟の首脳に支援を要請した。このときの稲山さんの姿は終生、私の脳裏から去らないだろう。故人は、経済発展のために国を挙げて努力している韓国に真の発展の土台となる製鉄所を建設するのは至極妥当であるだけでなく、日本が数十年にわたった韓国支配を通じて韓国民に与えた損失を償う意味でも、同事業に協力するのが当然であると力説された。(後略)」 そして、角田房子氏は次のように続けている。 『朴泰俊氏は稲山氏について「浦項製鉄が今日の成功を収めるうえで、決定的な役割を果たしてくれた方であり、片時も忘れられない恩人である」と述べている。 私は日本の財界にこのような方がおられて本当によかったと思い、故稲山氏にお礼を言いたい気持ちにかられた』 私も、角田房子氏に同感である。 自分たちにとって強力な競争相手になると分かっているのに浦項製鉄所の建設に協力した稲山氏は腹が大きい。 稲山氏は、我々日本人が、共和国・韓国、中国の人びとと友情を築き上げる道を指し示してくれているのではないか。 共和国の友人達よ、これからも、楽しくやろうね。 (今回はずいぶん長文になってしまったが、この問題を来年まで持越すのはいやなので、決着を付けるために敢えて長文のままとする)
- 2009/12/25 - 共和国の友人たち6(前回からの続き) 韓国併合後のことを挙げていこう。 細かいことを挙げていけばきりがないので、大きな所だけ拾ってみる。 ◎ 併合後、「大韓帝国」はなくなり、「朝鮮」という地名を使うようになった。(したがって、これ以降1945年の日本の第二次大戦の敗北までの間を韓国に変えて朝鮮と呼ぶことにする) ◎ 「朝鮮総督府」が作られ、総督が天皇の代理として政権と軍事権力の一切を握る専制君主のような存在として、朝鮮に君臨した。 ◎ 朝鮮で法律を必要とする事項は、総督の命令を制令とした。 例えば、民法は民事令、教育法は教育令とされた。 同時に、日本の法律も必要とする物は天皇の命令として朝鮮にも適用された。 日本国内の「治安維持法」なども、そのまま、朝鮮では天皇の命令・勅令として、適用された。 要するに、朝鮮の人間は、法律ではなく、総督の命令か、天皇の命令に従わなければならなかった。 ◎ 「集会取り締まり令」を作って、朝鮮の人々の言論・集会・出版・結社の自由を奪った。 (その点では、日本国内でも同じことだった。1875年には「讒謗律」が制定され、政府に対する批判を一切禁じられた。 それどころか、日本が韓国を併合した1910年に、国内では、幸徳秋水ら社会主義者達を捕らえて死刑にした「大逆事件」が起こっている。それを見た、永井荷風は「以後、一切社会的なことに関わらず、戯作者として生きて行こう」と決意した。明治憲法下の日本の政府は国の内外を問わず、民衆の自由を認めない専制的な支配を行ってきたのだ) ◎ 「朝鮮教育令」を作って、朝鮮の公立学校では朝鮮語が禁止された。 学校内は勿論、家庭でも日本語を使っているか教師が見回りに来たという。 言葉を奪われるとはこれ以上の屈辱はないのではないか。例えば、日本人が、全ての言語は英語だけにしろと言われたら、私達はどのように感じるだろうか。 (余談だが、私が、シドニーで仲良くなった韓国人の友人のお母さんは戦前の日本の教育を受けた人で、日本語が上手で、文章も字も我々の世代の日本人は及びもつかない見事な物である。頂いた手紙を読んで、その字と文章の見事さに驚くと同時に、如何に日本が朝鮮の人々に日本語を強制したか、そのことに思いを致して、粛然となったことがある。もう80歳を過ぎておられるがシドニーと、ソウルで、何度かお会いして、一度はソウルで犬料理を食べるのにご一緒して頂いた。気品があって教養があって誇り高く、素晴らしい韓国人女性である) ◎ 「土地調査事業」で、朝鮮農民から土地を奪った。 1910年から1918年にわたって、総督府は朝鮮全土の土地を調査した。 それまで、朝鮮では土地の所有関係は緩やかで、農民は誰の物ともはっきり決めず土地を耕して来た。それを、総督府はその土地の所有の由来を文書で申告することを命じた。 そのような証明をする文書はないし、第一、大半の農民が文盲だから、申告できず、またしなかった。 すると、その土地は所有者不明として総督府に取り上げられた。祖先伝来の土地を奪われた農民は、大地主の小作人になるしかなかった。 伊藤博文が皇族を社長として作った「東洋拓殖株式会社」は総督府からその土地を譲り受け、植民地最大の地主となった。 結果的に、朝鮮の農民耕作地を日本人が奪ったことになる。 小作民にたいする税は過酷で生産高の6割を超えたという。地主は農民から取り立てた年貢米を日本に輸出する。 統計によれば、1917年から1921年までの日本への米の年平均輸出高は244万3千石、1932年から、1936年までの年平均輸出高は873万5千石、さらに1938年には1千万石を超えた。 それだけ供出してしまうと農民の食べる分がなくなり、「春窮農民」(春に食べるものがなくなり困窮する農民という意味である)が生まれた。農民はどんなに増産しても、供出で取り上げられるから、秋に取り入れた米を食べ尽くすと、翌春、麦の実るまでの間、食べるものがなくなり、木の皮木の根をかじって命を繋ぐ姿が珍しくなかったと言う。 多くの農民が村を離れ、都市や外国に流れて行った。 ◎ 「皇民化政策」 総督府は、朝鮮中のあちこちに神社を建て、学校では毎日宮城遙拝を行わせ、毎月8日には日の丸掲揚、宮城遙拝、「皇国臣民の誓詞」を唱和させられた。それは、 「私共ハ、大日本帝国ノ臣民デアリマス。 私共ハ、心ヲ合ワセテ天皇陛下ニ忠義ヲ尽シマス。 私共ハ、忍苦鍛錬シテ立派ナ強イ国民ニナリマス。」 というものである。 こんなことを、今の日本人の若者に言えと言ったらどうなるか。 紀元節には教育勅語の奉読が行われた。 現在の日本はアメリカの半植民地だが、毎朝星条旗に敬礼することもなく、星条旗よ永遠なれ、などを歌わされることもなく、アメリカの独立記念日に、独立宣言を唱和させられることもない。もし、そんなことを強制されたら、いくらアメリカに従順な日本人でも反発するだろう。 しかし、日本は朝鮮でそのようなことを強制していたのである。 ◎ 「創氏改名」 1940年、第7代総督南次郎は「創氏改名」を強行した。 明治以前の日本人で姓を持っているのは武士階級と、特別に許された人間だけで、大半の日本人は姓を持っていなかった。単に、権兵衛、おさん、などと言う名前だけで一生を過ごした。 1870年に明治新政府は平民・農民に苗字を持つことを許すことにした。 1898年の明治民法の親族編の制定で、家の称号としての氏が制定された。 明治民法では、家長としての戸主に、その一家に対しては疑似天皇のような権限を与えて、その家が天皇と結びついているという観念を形成して、天皇制を支える役割を果たさせた。 (この封建的な明治民法による家制度が廃止されたのは、第二次大戦敗戦後のことである) 明治民法以前は夫婦別姓が一般的で、法律上も夫婦同氏の原則は定められていなかったのだ。 朝鮮では、昔から戸籍が作られていて、戸籍には、本貫・姓・名の順番に記載されていた。 本貫とは、一つの宗族集団(氏族)の始祖の出身地とされる地名であって、同じ金という性でも本貫によって金海金氏、慶州金氏、羅州金氏などと宗族集団としては区別されるので、本貫も名前の一部とされて、高麗時代以降現在の韓国まで戸籍には本貫が記載されている。 韓国では2008年以降戸籍制度がなくなり、個人を単位とする「家族関係登録簿」に替わったが、この戸籍でも本貫の記載は残っている。ただし、同じ本貫でも派閥に別れる物があるために、同じ本貫・姓でも同族と意識しない場合がある(このあたり、水野直樹著「創氏改名」から)。 明治民法で日本に家制度を確立した日本政府は、同じことを朝鮮でも行おうと思ったのだろう。 朝鮮では宗族意識が強く、父から受け継いだ姓は死ぬまで変わらない。夫婦別姓である。 それでは、各人の帰属意識が宗族にあり、天皇制で支配するのに不都合だ。 そこで、日本式の家制度を朝鮮にも実施させ、家長を通じて天皇に結びつかせることを考えたのだろう。 「創氏改名」のうち、「創氏」は義務であって、自分で新しい氏を作らなければ、それまでの、金、李などの姓を自動的に氏として、妻もそれまで別姓だったのを夫と同じ氏とする。 「改名」の方は任意とした。しかし、戸籍上これまで、姓名だったのが氏名になり、夫婦同姓になり、宗族に対する帰属意識が強く「家」の伝統のなかった朝鮮に家制度を持込んだことは、朝鮮の人々を大いに傷つけた。 (一般に、「創氏改名」というと、朝鮮の人々に、日本風の名前を名乗らせることのように捉えられているが、そんな単純な物ではない。前掲の水野直樹著「創氏改名」は、それ以前の宮田節子、金英達氏らの研究を踏まえ、さらにそれ以外の新しい研究も取り入れて説いているのでお勧めしたい。 なかなか難しい問題であって私自身、この問題は腹の底から分かったとは言えない) 強制的に日本式姓名に変えさせられた例、それに抗議して自殺した例、など多くの事例が様々な本に書かれている。 自分の姓名を強制的に変えさせられるのが、どれだけ屈辱的なことか、読者諸姉諸兄におかれても少し想像力を働かせて頂きたい。 私の名前の雁屋哲を、金雁珍などに変えろと言われたら徹底的に抵抗する。そんなことを強制する人間は、私なら、殺してやろうと思う。 読者諸姉諸兄は如何ですか。平気ですか。 ◎ 労働力動員(強制連行、「国民徴用令」による強制労働)によって、多くの朝鮮の人々に過酷な労働を強いた。「慰安婦」も朝鮮人の女性に強いた。 1972年、韓国原爆被害者協会の発表によると、広島の原爆で被爆した韓国人は50000名、死亡者30000名 長崎の原爆で被爆した韓国人は20000名、死亡者10000名となっている。 数字の正確度は明かではないが、多くの朝鮮の人々が、広島と長崎の原爆で被害に遭っていることは確かである。 その理由は、広島、長崎ともに軍需工場が多くあり、その軍需工場に朝鮮から連れて来られた労働者が働いていたからである。 今、広島の「平和記念公園」内に、「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」が建っている。 強制連行については、そんな物はなかったという人が1990年以降大量に出現して、真面目にこの方面のことを研究してきた歴史家は、いちいち実在の資料を示してその過ちを指摘するのだが、モグラ叩きみたいに、一つつぶしても、また、とんでもないところから事実を否定する馬鹿げた論が次々に現れて、消耗することが続いている。 「神戸学生青年センター出版部」から、1994年までに、日本の各新聞に書かれた当時生き残りの人々の証言、また日本の戦前の朝鮮・中国の人々をどのように強制連行したかその記録をを集めた本が出版されている。当時の新聞をコピーした物である。 私は、この本を見る度に、1990年代の日本人は正しい心を持っていたと思う。 自らの過ちを新聞できちんと書いていたのである。 今は、逆で、如何に過去に自分たちがしたことを隠し、美化するかに新聞雑誌が狂奔している。私からすれば、1990年代の日本は既に右傾化していたと思うが、昨今の右傾化はただならないものがある。 (この場合の、右に位置する人とは、日本が過去にどのようなことをしたか、公平な目で見ることが出来ず、全て日本が正しかったと言い張る人のことである。 正統右翼の人々は、日本が朝鮮・中国に対して行ったことを、非常に悔いている) 「慰安婦」について言えば、日本では、朝鮮の女性を強制連行して慰安婦にした記録がない、と言うことで、「慰安婦=強制連行」という図式を否定する人が多いが、彼らの主張するのはそのような「文書による証拠がない」という一点である。 馬鹿げている。 戦争に負けたと分かった途端、日本の官僚は全ての部所でそれまでの記録文書を焼いたことが分かっている。 自分たちに都合の悪い文書は些細な物まで全部焼いた。強制連行に関する文書は真っ先に焼いただろう。 しかし、実際に、研究者によって、そのような文書が発掘されている。 一つでもあれば、そのほかの場所でも同じことが行われていたことは明白だ。日本の官僚組織は、例外と言うことを許さないからだ。 さらに、実際に慰安婦だった韓国の女性が名乗りを上げている。 我々にとっては認めたくない恥ずかしい先代の罪悪だが、これを公式に認めないから、我々日本人全体に人間としての誇りがあるのか、全世界から疑われている。 朝鮮の人々を強制的に働かせる「徴用令」もそうだが、第二次大戦に入ると、日本は朝鮮に「徴兵制度」をしいた。 多くの朝鮮人青年が日本軍の軍人として組込まれた。 第二次大戦後の戦争犯罪裁判で、朝鮮人でありながら日本軍に所属して日本軍の命令通りに戦争捕虜に対応したばかりに死刑になった朝鮮人が少なくない。 朝鮮の人々にとってこの口惜しはをなんと表現して良いのだろう。 このような、日本の残虐な支配に対して、朝鮮の人々は反逆したし、良く戦った。 しかし、そのあたりの事を書き続けるのは、この頁の限界を超える。 日本が朝鮮・韓国にどんなことをしたか、まだまだ書かなければならないことがあるが、以前に挙げた本を読んで頂ければ良く分かる。 いちいち本を買うのは大変だろうから、地域の図書館に行って私の挙げた本を読んで頂きたい。最近の図書館は、そこにない本はあれこれ手を尽くして手に入れてくれるようである。 (本当は、本は絶対に買って頂きたいのだ。物書きにとって、図書館で本を借りて読んで頂くと言うことは、絶体絶命のことである。 本は売れてこそ、その本を書いた人間にとって収入があるのであって、図書館で読んで貰っても、あるいはブックオフのようなところで新中古の形で買われても、書いた人間には何の経済的な利益がない。その経済的な利益がなければ、生活が維持できないから、次の本を書けない。物書きが本を書けなければ、そもそも本などと言う物が存在し得ない。 出版文化を維持したいと思うなら、ぜひ、町の本屋さんで自分の欲しい本を注文して買って欲しい。町の本屋さんに頼めば二日で注文した本が手に入る。 私が読者諸姉諸兄にお願いしたいことは、町の本屋さんにしょっちゅう足を運んで頂くことだ。思わぬ、素晴らしい本に出会うことが出来る。 町中にこれだけ本屋さんがあるのは、日本だけであって、如何に日本の文化が高い物であるか、その証なのだ。アメリカや、オーストラリアのように、本屋がそこらに見あたらない、と言うような無残な状況にしないで欲しい。そのためには、みんなで、本屋さんに足を運んで欲しいのだ。 私について言うと、私は、欲しい本はまずいつも自分が本を買っている葉山にある本屋に注文する。そこで、絶版と言われたら神保町の古いつきあいの古本専門店に手に入れてくれるように頼む。 私はシドニーに住んでいても、その流儀は守っている。それぞれの町に本屋があること、これ以上に文化的なことはない。その姿を壊してはならない。 読者諸姉諸兄よ、頼むから町の本屋に足を運んでくれ!) いけない。 今回で終わるつもりが、長くなりすぎた。 締めくくりは次回にする。
- 2009/12/23 - 共和国の友人たち5(前回からの続き。) 日本が、朝鮮・中国に対して行ったこと。 4)「朝鮮王宮占領」から「日清戦争」へ 1894年、「東学」という民衆宗教への弾圧に抵抗する宗教闘争から農民闘争へ広がった「甲午農民戦争」が勃発した。 当時の朝鮮の地方政府の役人は腐敗していて農民に対して貪欲、かつ残虐な政治を行っていた。 それに対する粛正を求めると同時に、当時朝鮮に勢力を伸ばしてきた日本と西洋の侵入に反発して、農民戦争が起こったのである。 それに慌てた朝鮮政府は鎮圧のために清国に出兵を要請した。 清国が出兵したことを知った日本政府は、1885年に清国と結んだ「天津条約」の、 「将来朝鮮に重大事件が起こって派兵する必要があるときには、日中双国は互いに知らせあって、ことが収まったら直ちに撤兵して、兵をそのまま留め置かない」 と言う規定に基づいて清国政府に、通告して、10月10日に軍艦と陸戦隊を派遣した。 清国と日本が乗込んできたのを見た農民軍は和解に応じ、「全州和約」が成立した。 これで、もう、清国も日本も兵を朝鮮に留めておく必要がないので、朝鮮政府も、ロシア・イギリスも日清同時撤兵を要求したが、清国を朝鮮から取り除くために、戦争を企んでいた日本は、その要求に従わず、清国に「日清両国で朝鮮の内政改革をしよう」と迫る。清国が断ると、「では日本単独で朝鮮の内政改革を行う」と言って撤兵に応じない。 逆に、朝鮮政府に「清国軍に撤退を求めること、清国が朝鮮の宗主関係にあることを反映する清国間との条約を廃すること」を要求した。 もし、朝鮮政府が清国に撤兵要求をしないのなら日本が代わりに清国を朝鮮から追出してやる、という乱暴極まりない物だった。 朝鮮政府が、日本の要求にこたえられる訳がない。 それを予期していた日本は、計画通り、22日に軍を朝鮮王宮に送り込み、国王を捕らえ、それ以前に清国から送り返されていた、大院君(前回を参照)を担ぎ出して、政務に当たらせることにした。 日本人は想像して見て欲しい。 皇居に外国の軍隊が攻め込んで天皇を捕らえ、捕らえた天皇に命じて日本を自分たちの思うとおりに動かしたら、日本人はどう思うか。 (当時の樣子は、陸奥宗光の書いた日清戦争回顧録「蹇蹇録(けんけんろく)」に書かれているが、それにはごまかしがあり、前掲の中塚明氏の著書『歴史の偽造を正す』に、新しく発見された資料を用いて真相が語られている。) と、同時に、その2日後に、突然「豊島(ぶんど)」沖で、日本海軍は清国海軍に奇襲を加え、イギリス国旗を掲げているにも拘わらず清国の戦艦を撃沈し、四人のイギリス人乗組員は助けたが、1000人以上の清国兵は見殺しにした。 また26日は朝鮮に駐留する清国軍を攻撃し打ち破った。 日本が正式に清国に宣戦布告をする(天皇による宣戦の詔勅が出された)のは、8月1日になってからである。 実は、日露戦争の際にも、日本はまず旅順港に停泊しているロシア艦隊を攻撃した後に、宣戦布告をした。 良く、日本人は、真珠湾攻撃は奇襲ではない。宣戦布告の電文を当時の駐米大使館の不手際でアメリカに送るのが遅れただけだ、というが、日本が宣戦布告前に奇襲を行うのは日清戦争の時から始まっているのであって、対米戦争の際が初めてだったのではない。日本軍にとっては当たり前のことだったのだ。 日清戦争は日本にとって、大義も、道理もないものであり、この戦争を強引に始めた時を振り返って、陸奥宗光は日清戦争の回顧録「蹇蹇録」に、 「(前略)各当局者はすこぶる惨憺の苦心を費やしたるは今においてこれを追懐するも、なおも竦然(しょうぜん)たるものあり」(各当局者が惨憺たる苦心を費やしたことは今になって思い出しても、恐ろしくてぞっとするものがある) と書残している。 こうして、無理矢理、朝鮮を巻込んで始めた日清戦争で日本は勝利した。 5)「閔妃暗殺」 日本は「日清戦争」に勝ちはしたが、清国から奪った遼東半島をロシア・ドイツ・フランスの三国干渉によって返還したことで、朝鮮政府は日本を軽く見るようになり、日本の思惑通り朝鮮の支配が進まない。 ロシア公使も夫人などを介して閔妃に働きかける。 一時勢力を誇った朝鮮政府内の親日派も影が薄くなった。 このままでは、朝鮮はロシアの影響力の下に入ってしまうと日本政府は恐れた。 朝鮮に在留していた日本人達も、非常な危機感と、不満を抱いていた。 ロシアと朝鮮の関係を深めているのは閔妃だと考えた日本政府は、陸軍中将の三浦梧楼(みうらごろう)を公使として朝鮮に送り込んだ。 角田房子氏は「閔妃暗殺」の中で、 「三浦は辞退したが、ソウルの井上馨からも催促がありついに三浦は『政府無方針のままに渡韓する以上は、臨機応変、自分で自由にやるのほかはないと決心』して赴任したとのちに彼は書いている。 日本の各界が朝鮮へかける期待を、三浦は充分に知っていた。それに応える道は王妃暗殺以外にないと、このとき彼は決心したのだ」 と書いている。 1885年10月8日早朝、三浦梧郎公使の立てた計画と命令に従って、日本の軍隊と在留民間人百数十人が宮殿に押し入って閔妃を虐殺した。 殺した日本人達は、それが本当に閔妃であるか確かめるために、非道なことをした。 「閔妃暗殺」の中で、角田房子氏は、 「さらに閔妃の遺体のそばにいた日本人の中に、同胞として私には書くに耐えない行為のあったことが報告されている」 と書いている。 計画では夜の内に全てを済ませてしまうはずだったのが、手違いで実行が早朝になってしまったので、多くの人間に日本人の一隊が宮殿に押し込むところを見られてしまった。 特に日本にとって具合の悪いことは、アメリカ人のダイとロシア人のサバチンが宮殿の前庭に立って一部始終を見ていたことだ。 国際的に大きな問題になることを恐れた日本政府は、三浦梧郎公使らを日本へ連れ帰り、形だけの裁判にかけた。 その結果、日本人は、軍人も、公使館員らも、民間人も全員無罪となった。 奇怪なことに、三人の朝鮮人が犯人とされ死刑にされたのである。 閔妃は1897年に、明成(ミョンソン)皇后と諡(おくりな)された。現在の、共和国・韓国の人々には閔妃でなく明成皇后としての方が良く知られている。 三浦梧郎を始め、事件に拘わった日本人はその後みな、いわゆる出世をした。陸軍大臣になった者もいれば、新聞社の社長になった者もいる。 かれらは、罪の意識は毛頭なく、愛国の志士として立派なことをしたと死ぬまで思っていた。 当時の日本人も、ソウルから帰ってきた三浦梧郎らを凱旋将軍のように歓迎した。 しかし、当然朝鮮の人々の怒りは大きかった。 閔妃の政治姿勢などに賛成でない朝鮮人でも、自国の王妃を殺されたことで、日本人に対する怒りが燃え上がった。 我々日本人は、王宮占拠に続いて、この件を自分の物として想像して見るが良い。 もし、日本の皇后が外国人に殺されたらどう思うか。 怒りに狂乱するのではないか。 今の日本人に明成皇后などと言っても通じる人は殆どいない。 閔妃・明成皇后を日本人が虐殺したことを語っても、嘘だ、と言う。 共和国・韓国の人々で知らない人はいない。 この差は大きい。 6)「日露戦争」と「日韓議定書」そして、「第一次日韓共約」の締結。 1897年、朝鮮が国名を韓国と変え、国王を皇帝と改称することになった。 以後、朝鮮を韓国と呼ぶ。 1904年2月日から9日にかけて、旅順港に停泊していたロシア艦隊に日本連合艦隊が例によって奇襲攻撃をかけた。 仁川では、臨時派遣隊が漢城(ソウル)へ入り、護衛艦隊が仁川沖でロシア軍艦2隻を撃沈した。 ロシアに対する宣戦が布告されたのは、奇襲攻撃をかけた後の2月10日になってからである。 日露戦争が始まってから、日本政府は、韓国政府に「日韓議定書」に調印させた。 その内容は、「日本が韓国に対して保護、指導の立場にあることを明文化し、日本軍の不当な軍事占領を合法化するとともに、以後の戦略展開に対して韓国の協力を義務づけるものであり、さらに日本は前項の目的のために、軍略上必要の地点を先占することが出来る」ことも決めた。 更に日本は、「韓国の財務、外交を日本が支配する」目的の、「第一次日韓協約」を結ばせた。 8)「第二次日韓共約」の締結。 1905年10月17日、伊藤博文は、韓国の閣議に銃剣付きの銃を担いだ兵士達大勢と乗り込み、軍の威圧のもとに韓国の大臣達を個人個人脅し挙げてむりやり、韓国を日本の保護国とする保護条約「第二次日韓共約」に調印させた。 この「第二次日韓共約」によって、韓国は日本の保護国となり、外交権は日本に奪われた。 一つの国が、その外交権を奪われると言うことは他国との交渉を全て自分の意志と力で出来なくなることだ。外国との交渉を自分で出来ないのでは、もはや国ではない。 しかも、韓国には日本政府の代表としての統監を置くことになった。 統監によって、日本は韓国の内政面の実権も握ったのである。 8)「統監府」の設置。 1905年12月20日。「統監府及び理事庁官制」が公布された。 統監は政務の監督、守備軍の管理の監督、条約の運行、など強大な権限が与えられた。 韓国内全般にわたり監督と支配のための植民地機構が統監制だった。 9)「高宗の強制譲位」 1907年オランダのハーグで開かれた第二回万国平和会議に、高宗は日本の不法を訴えるための使者を送ったが、会議出席を断られた。 この、ハーグに使者を送った件で、日本政府は高宗に皇太子への譲位を迫り、日本政府の力に負けて、高宗は皇太子に譲位し、皇太子が、新皇帝、純宗となった。 10)「第三次日韓協約」の締結。 この「第三次日課協約」で、韓国の立法行政権を日本が支配し、軍隊も解散することになった。 こうなれば、もはや韓国は国として成立しないも同然である。 11)「韓国併合」 これまでで、日本は都合の良いように韓国を支配してきた。 それを更に決定づけたのが、「韓国併合」である。 1910年8月16日、寺内統監は、李完用首相を官邸に呼び、併合条約を受諾するよう求めた。 その言い分が、厚顔無恥、人間の心を失った人間の言葉である。 寺内総監は大略次のように言った、 「日本は韓国を守るために、これまで、日清日露の二度の戦争を戦い、大勢の犠牲を出し多額の資金も使った。それ以後、誠意を傾けて韓国を助けることに勤めたが、現在の制度の下ではその目的は全うできない。将来韓国皇室の安全を保障し、韓民全般の福利を増進するためには、日本と一つになり、政治機関を統一するしかない」 全部嘘だ。日本政府全体が恥知らずの嘘をつく。 これまで、日本政府がしてきたことと、寺内総監の言葉と突き合わせてみると、その言葉のあまりの浅ましさに、同じ日本人として恥ずかしさの余り身をよじる。 日清・日露の戦争は、日本が韓国を守るために戦ったのではない。逆に、韓国を自分の物にするために清国、ロシアと戦ったのではないか。 世界中誰が聞いても笑い出すような悪質で幼稚な嘘を平気で言い張るような、それほど低劣な国民だったのか、我が日本人は。 1910年8月18日の閣議で、首相李完用は反対する重臣らの賛成を取り付けた。 12日、天皇は「韓国併合条約」裁可し、韓国御前会議も条約を承認し、「韓国併合」は成立した。 「韓国併合」は、 「まず、韓国帝王がその統治権を天皇に譲与するとし、これを受けて天皇がその申し出を受諾して韓国を併合する」 と言う物だった。このような偽善的な形態を取った日本政府には吐き気をおぼえる。 人間として許し難い。日本国民末代までの恥だ。 余談だが、私の高校の同級生に朝鮮人がいた。 姓は伏せるが、名は「用完」と言った。 その当時は何とも思わなかったが、ずいぶん時間が経ってから、韓国併合時の首相の名前が、李完用であり、今でも、共和国・韓国では民族の裏切り者とされていることを知って、はっとなって、彼の名前を思い出し、その持つ意味に気がついた。彼の名前は、李完用のような、人間になるな、その反対の人間になれと親が思って「完用の反対の 用完」として付けたのではないかと。 彼は、1960年代始めに、北朝鮮帰還運動が盛んなときに共和国に帰ってしまったので、私の想像が正しいかどうか確かめようがない。 しかし、私は、自分の想像が正しいのではないかと思う。 次回で、締めくくりをする。
- 2009/12/20 - 共和国の友人たち4 私はできる限り多くの共和国の人々と友人になりたい。 共和国だけでなく、韓国人とも、中国人とも友人になりたい。 それにはお互いに心を開かなければならない。 そのために、まず私達日本人がしなければならないことは、明治開国以降に、日本が、朝鮮・韓国、中国に対して行ってきた侵略行為を、しっかり、正々堂々と認めることである。 ごまかしはいけない。 ごまかしは、そのごまかしをする人間、ひいては国自体を卑小にする。 間違った行為は、間違った物であると、正直に認めなければその人間、あるいは国は誇りを失う。 自分たちが被害を与えた相手に対して、自分たちの身勝手な論理を押し通して相手を心から納得させることなど、出来るわけがない。 若い人の名誉のために言うと、ごまかしている訳ではないだろう。学校できちんとした歴史を教えられていないから事実を知る機会がなかったのだろう。 私達の世代も、日本史の時間では江戸時代までは念入りに教わるが現代史になるとそこで学年が終わる。後は自分で勉強するように、と言うのが中学高校を通じて言われ続けて来たことである。 長い間、日本では明治以降の日本の侵略の歴史を教えなかった。だから、大抵の日本人は日本が朝鮮・韓国で何をしてきたか知らない。 事実を指摘すると、「そんなはずはない」「日本人そんなことをする訳がない」「そんなことを言うお前は反日日本人だ」と言うことになる。私は読者諸姉諸兄にお願いする。小学館ライブラリー、河出文庫、中公文庫などで、日本の歴史が史実を重視した形で書かれて出版されているので、明治威維新以降の分だけでも読んで欲しいと願う。 全く不幸せなことに、日本が明治維新で国の形を変えると同時に、日本は、朝鮮(韓国)、中国、に対する態度を、極めて挑戦的なものに変えた。 明治になってすぐに、日本では征韓論が起こった。 征韓論について話すと、新井白石までさかのぼらなくてはならなくなるので長くなるから省略するが、開国してすぐに、それ以前に結んだ不平等条約の故に、欧米諸国の半植民地に近い状態だった日本が、アジア諸国に対して欧米並みの手法で侵略を開始したのである。 話を朝鮮だけに絞って要点だけ上げて行くことにする。 (この部分を書くのには、海野福寿著「韓国併合」(岩波書店)、藤村道生著「日清戦争」(岩波書店)、井上清著「日本の歴史第20巻 明治維新」(中公文庫)、李進煕、姜在彦著「日朝交流史」(有斐閣)、角田房子著「閔妃虐殺」(新潮社)、中塚明著「歴史の偽造を正す」(高文研)、などを参考にした。この中で、海野福寿著「韓国併合」が入手しやすく良くまとまっているのでお勧めする) 1)「江華島(カンファド)事件」 1875年、日本の軍艦「雲揚」が、朝鮮の要塞のある「江華島」に接近し、ボートを下ろして近づいたところ、江華島の要塞「草芝鎮」から発砲があったので、「雲揚」が「草芝鎮」に砲撃を加え、ついで「江華島」付近の「永宗島(ヨジョンド)」を襲撃して、島の城内の建物・民家を焼き払った。多くの人間を殺し、兵器から楽器まで略奪した。 地図を見れば分かるが、江華島は、当時の李朝の首都漢城(ソウル)の近くにあり、漢城を守るためには重要な場所である。 図版はクリックすると大きくなります。 (朝鮮の地図) (江華島付近図) (前記、海野福寿著「韓国併合」から、コピーさせて頂きました。海野寿福氏と岩波出版社にお礼を申し上げます) そのようなところに外国船が無断で近寄れば、守備する側が発砲するのは当然であり、それを、口実に「雲揚」が砲撃を加えるのは理不尽なことである。さらに、「永宗島」を襲撃して建物・民家を焼き払い、多くの人を殺し、略奪までするとは、理不尽を通り越している。 さらに、日本政府は、この事件を自分たちが被害にあったように主張し、当時の朝鮮の宗主国だった清も巻込んで、1876年に「日朝修好条規」を強引に結ばせた。 この「日朝修好条規」では、 釜山以外の二つの港を開港すること 自由貿易の確認 「江華島」事件を、日本ではなく、逆に朝鮮側が謝罪する、こと などが、決められた。 その後、1880年になって、「日朝修好条規」では、認められていなかった日本の公使が漢城に常駐することも、なし崩し的に行われるようになった。 (この、日本の暴虐ぶりは、こうして書いていて恥ずかしくなる) 「江華島」事件は、日本の朝鮮侵略の第一歩であり、朝鮮の悲劇の始まりであり、日本を第二次大戦による破滅に導く道がこれによって定まったのである。 2)「壬午軍乱」 この件については、当時の朝鮮の政治状況を知る必要がある。 当時の李朝26代国王高宗はその父親・興宣君昰応(フンソングン ハウン)の画策によって1863年に満11歳で即位したが、実権は昰応が国王の父親、大院君として握った。 その後、高宗はやはり大院君の画策で、閔(ミン)氏の娘を王妃に迎えた。 (王妃はいまだに、閔妃(ミンビ)と呼ばれているが、「閔妃暗殺」を書いた角田房子氏は、様々な資料に当たっても「閔致禄の娘」と言うだけで、その名前は分からなかったと言う)(この件について、読者の方から、お教えを得た。閔妃の幼名は、閔紫英(Ji Yeong)だそうです。なお、この頁は、その読者のご指摘を受けて、最初に発表した物を訂正してあります。高宗と閔妃の年齢なども訂正しました) 李王朝には不思議な習わしというか、伝統があって、実際の政治権力を王妃とその一族が握るのである。それを勢道政治という。 高宗が結婚したときは満13歳、相手の閔妃は満14歳。 閔妃は美しいだけではなく、大変に頭の切れた女性であったという。 高宗は閔妃の言うなりになり、閔妃の親族が政権に多数入り込み、日本が「日朝修好条規」を結ばせる以前1873年に、大院君は実権の座から追われ、閔妃とその一族が政権を握った。 「壬午軍乱」は1882年に起きた。(当時の暦法で1882年は壬午の年になる) その前年、閔氏政権下で新編成された軍隊に比べて、旧軍隊の兵士たちの差別的な待遇を受けていてその不満が高まっているところに、旧軍兵士に与えられた米は石が入っていたりする粗悪な物だったのがきっかけとなって暴動を起こした。 政権から追いやられていた大院君は、それを利用して閔氏政権を倒そうとして兵士たちに日本総領事館襲撃をそそのかす。 兵士たちは勢いに乗って、兵器庫から兵器を奪い、政府要人を殺し、前年編成された新式軍隊の日本から派遣されていた教官堀本礼造少尉も殺した。 日本の総領事、花房義質(はなぶさよしもと)等は、公使館を抛棄し、仁川からイギリスの船で長崎まで逃げ帰った。 大院君は政権を奪取し、閔妃は変装して脱出して近くの村に隠れた。 日本政府は怒って、軍艦とともに花房公使を漢城に送り、 朝鮮政府の公式謝罪 犯人に及び責任者の処罰 外交使節の内地旅行権 通商条約上の権益の拡大 などを求めた。 ここに至って、清も介入してきて、国王に逆らったとして大院君を天津に連れ去った。 大院君がいなくなって、閔妃は宮廷に戻ってきて、朝鮮政府は清に依存して日本と交渉した。 その結果、日本の要求を大きく入れた「済物浦(チェムルポ)」条約を日朝政府は結んだ。 この「済物浦」条約で、日本は朝鮮に対して更に優位な状況を手に入れた。 3)「甲申政変」 当時の朝鮮は清の支配下にあり、清国に追随する守旧派に対して、西欧的に近代化しようとする開化派が力を持ち始めた。 日本は朝鮮の支配を進めるのに清に対抗するために、その開化派を利用した。 1884年(甲申の年)12月、開化派の中心人物、金玉均はクーデターを起こし、守旧派の重臣たちを殺し、新政権を樹立したが、わずか3日後に清国軍によって打ち破られた。 この計画は、福沢諭吉によって立てられ、福沢諭吉は軍資金も、武器も金玉均に与えた。 福沢諭吉を神のように崇め、福沢諭吉全集を編纂した石河幹明はその「福沢諭吉伝」で、福沢諭吉によってソウルに送られた福沢諭吉の弟子、井上角五郎の言葉として大略次のように記している。 「福沢諭吉は、自分は作者で、筋書きを作るのみである、といっていたが、今度の件は作者に留まらず金玉均などの役者を選び、道具、立地など万端を指図した事実がある」 さらに、石河幹明は、「福沢諭吉は、井上角五郎と金玉均の間でだけ通じる電信暗号を持っており、横浜の商人に数十口の日本刀を井上角五郎の元に送らせた」と記している。 クーデターには、日本公使竹添進一郎と日本軍が加わったが、日本軍の兵力は弱く、強力な清国軍に打ち破られ、竹添、金玉均らは仁川から日本へ逃げ帰った。 福沢諭吉は、現在でも明治以来最も日本人に尊敬されている偉人の一人である。その福沢諭吉が朝鮮のクーデターを主導したとは俄に信じられない人が多いのではないだろうか。 現在中断しているが、私はこの「日記」で福沢諭吉について書いてきた。読み返して頂ければ分かるが、一般の日本人が福沢諭吉に対して抱いている民主主義的・自由平等主義的な印象は戦後になって丸山真男などによって作られた虚偽の物で、実際の福沢諭吉は、明治政府の言論弾圧にも抵抗せず、明治政府のお師匠様を自認し、アジアを蔑視する意識を日本人の中に広め、朝鮮・中国への侵略を扇動する思想家だった。 福沢諭吉は、自分が筋書きを書いた朝鮮のクーデター「甲申政変」が失敗した後、「脱亜論」を書いた。 その「脱亜論」の主旨は、「日本は既に西洋文明を受け入れたが、朝鮮・支那(当時清国を日本は支那と呼んだ)の両国は、昔の風習・習慣にとらわれ、百千年の昔のままである。このような国と付き合っていると、日本も世界中から、遅れた国と思われる恐れがある。 であれば、日本は、支那・朝鮮から離れて西洋の文明国と進退を共にし、支那・朝鮮に接するのも隣国だからと言って特別扱いすることなく、西洋人と同じように処分するべきである」ようするに、「主義とするところは唯脱亜の二字にあるのみ」と言うのである。 「西洋人と同じようにする」とは、「西洋がアジア諸国を侵略したと同じように日本も朝鮮・中国を侵略する」と言うことだ。 クーデターに失敗した後に、こんな文章を書くとは、福沢諭吉の人間性を疑わざるを得ない。 事実、福沢諭吉はその後、「朝鮮・清国に兵を進め北京までおとしいれろ」とまで言っている。 日本のアジア侵略を進めることを既に明治の段階で煽っているのである。日本はその後福沢諭吉の言うとおりにアジア諸国の侵略を進めた。 こう言う福沢諭吉のような人間を偉人として崇めている間は、日本人は世界から尊敬されることはないだろう。 (福沢諭吉については、もっと詳しく書いた本を来年春に出版する。福沢諭吉の真実の姿を知りたい方は、その本をお読み下さるようお願いする) さて、この「甲申政変」の後始末が、何ともおぞましい物である。 金玉均のクーデターが失敗した後、怒った朝鮮の軍民は居留日本人29人を惨殺し、竹添公使も公使館に火を放ち、仁川まで逃げたのである。 その後始末にやってきた特派全権大使井上馨は「竹添公使が金玉均と共謀した事実はなく、保護を求めた国王の要請に従って王宮に入っただけである」と主張し、「漢城条約」を朝鮮との間に結んだ。 その「漢城条約」の内容は、朝鮮が日本に公式謝罪し、殺された居留日本人の遺族の救済と保障のために11万円(当時としては巨額の金額)を支払う、などと言う物である。 これは、逆だろう。日本が謝罪して、賠償金を支払うのが当然ではないか。 日本は常に朝鮮に対して加害者のくせに、被害者として振る舞って、朝鮮に賠償させる。(壬午軍乱は被害者の面が強いが) 福沢諭吉と言い、日本政府と言い、その行為は恥ずべき物である。 読者諸姉諸兄はもはやうんざりされたと思うが、日本の朝鮮・中国に対する非道の行為はまだまだ続く。 それは、また、次回で。
- 2009/12/07 - 共和国の友人たち3 私は、金正日氏の政治姿勢に真っ向から反対する、と言った。 では、どうしてその金正日氏が支配する、共和国の人々と友人になりたいと私は思うのか。 それは、日本と、共和国・韓国との眞の融和を求めているからだ。 私は日本は世界中全ての国の人々と融和して生きて行かなければならないと思うが、とくに、共和国・韓国、中国とは親密な友情関係と、協力関係を築き上げなければならないと考えている。 2002年に、小泉首相と金正日氏との日朝首脳会談で、それまで共和国が否定し続けていた共和国による日本人の拉致を、突然金正日氏が認めた。 その後の経過をまとめると、共和国側は「拉致した日本人は全部で13人であること」を認め、そのうち生存している5人を「一時帰国」の形で、日本へ送り返し、後にその家族も送り返した。 これで、拉致問題は解決したと共和国は主張しているが、日本は拉致されたのは13人だけではなく他にもおり、死んだと共和国が報告してきた人達もまだ生きている、として、拉致問題は解決していないと主張し、共和国に対して様々な制裁を加えている。 この、「拉致問題」以後、在日の共和国の人間は厳しい日々を過ごしているという。 さもありなん、と思う。 それ以前から、在日の共和国・韓国の人間は日本で差別されてきた。 チマ・チョゴリの制服姿の共和国の女子学生に対して電車の中でひどい嫌がらせをすると言う話をきいた。新聞で報道されたこともある。 本当の朝鮮・韓国名を名乗らず、日本式の「通名」を名乗る在日共和国・韓国人が多いのも、差別のひどさを物語っている。 そこへ持って来て、金正日氏がそれまで否定し続けて来た拉致を認めたから、たまらない。 日本人の、反共和国感情を一気に燃え上がらせてしまった。 日本人の中には、日本の歴史を客観的に見ることが出来ず、世界中の人間から嘲笑され、侮蔑されていることも意に介せず、事実を曲げて日本の過去を美化したがる人々が少なくない。 彼らは、共和国・韓国から、秀吉の朝鮮侵攻、明治以降の日本による朝鮮・韓国の植民地化、朝鮮・韓国人に対する迫害などを非難される度に反発してきたが、心の底では日本が何をしてきたか知っているので、公式に共和国や韓国に反撃することが出来ずにいた。 その彼らの欲求不満を一気に解消したのが、金正日氏による、拉致問題の自認だった。 彼らは、それまで謝罪や保証を求められて受け身の側に立たされていた鬱屈を爆発させて、攻撃に転ずる権利を得たと考えた。 「日本のことを非難してきたくせに、自分たちもこんなひどいことをしているじゃないか」とテレビ、新聞、雑誌、インターネットなど全ての媒体で共和国攻撃を始めた。 これでは、在日の共和国の人々が「きびしい」と感じるのは当然だ。 日本が犯した過ちを美しい物に書き直したいと思っている人々は、この「拉致問題」で、明治以降日本が朝鮮・韓国に対して行ってきた全ての罪悪を帳消しに出来ると思っている。 それまで抱いていた罪の意識はきれいに洗い流されて、逆に途方もない犯罪国家として共和国を非難し攻撃する権利を獲得したと考えているのだ。 私は「拉致問題」で金正日氏を批判し攻撃するのは当然だが、それを理由として在日共和国の人々に辛く当たったり、明治以降、日本が朝鮮・韓国に対して行ってきたことを帳消しにしようとする人々は不公正だし、汚いと思う。 金正日氏の行ってきた「拉致」を実にむごい、残酷な犯罪だと思わない人はいないだろう。 曽我ひとみさんは、共和国で結婚した元アメリカ兵だった夫と二人の娘とともに帰って来ることが出来た。しかし、同時に拉致された母親は行方不明のままである。 母親とはぐれたままの曽我ひとみさんの心中を察すると暗澹となる。一体どんな思いでおられることか。 一番、こたえるのは、横田めぐみさんのことである。 私も四人の子供の父親だ。自分の子供が拉致されたりしたら、気が狂うだろう。 拉致される以前の中学生だったときのめぐみさんの写真、共和国で撮影された成人してからの写真、そしてめぐみさんの娘だという幼女の姿、それらをテレビなどで見る度に「なんと言う、むごいことを」と胸をかきむしられるような思いがする。金正日氏の凶悪さに耐え難い怒りを感じる。 それにしても、めぐみさんのご両親、横田ご夫妻はなんと言う立派な方々なのだろう。 お父さんはいつも激することなく、にこやかに話をされる。 お母さんも、決して取り乱した姿を見せず、静かにしかしきっぱりとした口調で、一日も早くめぐみさんを取り返すために、日本と、共和国政府に向けて訴えかける。 そのお二人の自制心、克己心には頭が下がる。 私だったら、狂乱して「わが子を返せ」と泣き叫び喚き散らすだろう。 横田さんご夫妻の毅然とした態度を見るにつけ、私は感動する。 この長い間、一日も気を抜かず、夫婦で力を合わせ、最後に勝利すると自分たちを励まし続けているその強靱なお姿に、私は、ただ、ただ、頭が下がる。お二人の願い通り、めぐみさんが一日も早く日本へ戻って来られることを祈っている。 だが、今のままでは、「拉致問題」の解決も出来ないだろうし、日本人と、共和国の人間との融和も難しい。 この「拉致問題」をふくめて、すべて日本と、共和国・韓国との問題を解決するためには、互いに互いの友人が必要なのだ。 それも、個人的な友人ではない。広範な国民同士の友情が必要なのだ。 ちょっと考えて見よう。 お互いに相手のことを何も知らない日本人と共和国の人間が、この「拉致問題」を話し始めたらどうなるか。 日本人は金正日氏と共和国の非人間的な行為を攻め出すだろう。 それに対して、共和国の人間は過去の歴史問題、戦前・戦中に日本に強制連行されてきて働かされたあげく死んでいった朝鮮・韓国人のことを持出すだろう。 互いに非難の応酬が続く。 これでは議論が議論を呼び、口論が続き、結局何一つ実を結ばず、対立は解消するどころか両者を互いへの憎しみが包み込んでしまう。 こうなっては、解決の道は見いだせない。 私はこの問題を解決するために共和国の友人が必要だと思う。共和国の人達も日本人の友人が必要なはずだ。 「拉致問題」は金正日氏では解決出来ない。解決出来るのは一般の共和国市民であり、日本の大衆である。 これまで、日本人も共和国の人間も、「拉致問題」や「歴史問題」を議論するのに、余りにせっかちだったのではないか。 「歴史問題」はともかく、「拉致問題」は現在進行形のものであり、拉致された生身の人間がいる。時間をかけてはいられない。 だが、今の状態で、一部の人が主張するように更に激しい制裁を共和国に加えたところで、金正日氏側は硬化するだけで、返って解決の日は遠くなると私は思う。 昔から、急がば回れと言う。 その回り道が、お互いに心を開くことだ。 お互いの思いを知り合い、理解した上で、問題を解決するための議論をすれば、不毛の言い合い、非難の応酬にはなら ず、解決の道を見いだすことが出来ると私は思う。 問題の解決の第一歩は、お互いに心を開くことだ。だから、私はできるだけ多くの共和国の人々と友人になりたいのだ。 この続きは次回で。
- 2009/12/05 - 共和国の友人たち2 11月29日に、共和国(北朝鮮)の友人たち四人が遊びに来てくれた。 前回、東京第三朝鮮初級学校の「日朝友好フェスタ」に招いてくれた「ち」さんと、三十代後半の男性「ちB」さん、と三十代の女性「ちC」さん、(「ちB」さん、だの「ちC」さんだのと、読みづらいが、朝鮮・韓国系の苗字は数が少なく、発音の最初が似ているものが多いので仕方がないのだ)、そして、70歳の「ほ」先生。 「ほ」先生は、大変に素晴らしい画家で、今回先生のお描きになった絵本と、来年のポスターを頂戴した。 ハングルで書かれているので、私には内容が良く分からないが、少し韓国語を勉強した姉に寄れば、絵だけではなく内容も大変に面白い絵本だそうだ。 この辺で、どうして私が共和国(北朝鮮)の友人を求めているか、その真意をきちんとまとめておく必要があるだろう。 私の思想の最初の大前提として、ソ連、中国、北朝鮮、型のマルクス・レーニン・スターリン主義の社会のあり方には一切の共感を抱かない。と言うより、反感を抱く。 その理由は、ソ連、中国、北朝鮮型の社会は個人の自由を一切認めないし、共産党の幹部とそれ以外の一般人民との間に封建的とさえ言える、差別的な構造を作り上げて、正そうとしないからだ。 最近の中国の報道規制の樣子など、戦前の日本にそっくり同じだ。発言の自由だけでなく、頭の中で何を考えているかまで規制する。 それは、敗戦前の日本と同じで、思想まで国家が統制し、国家の要求するような物の考え方をしないと罪人として処罰される仕組みになっている。 ソ連で、スターリンが死ぬまで秘密警察の実権を握っていたベリアという人間がいたが、彼の行ったことは、と言うよりスターリンの意志は、今は何もしていなくてもこれから先自分(スターリンの支配体制)に反感を抱く可能性のある人間は、まだ反感を示さない前から罪人として処罰(流刑に処する。最悪の場合、これがもっとも一般的だったようだが、死刑に処する)すると言う物だった。今の中国政府の言論統制とたいした変わりはない。 私は、大学生の時に、マルクス・エンゲルスの著作を読んで、その「共産党宣言」や「ドイツ・イデオロギー」などには大いに心を惹かれた。マルクス・エンゲルスによる、資本主義社会の分析は見事なものだと今でも思う。 しかし、マルクスの政治思想は読めば読むほど「冗談じゃない」と思った。 極めて単純に要約すると(ソ連型社会主義国家の変遷の記憶が私の頭にあるので、この要約はその記憶によってゆがめられていることをお断りしておく)、共産主義社会を作るためには、第1段階としてプロレタリアートによる暴力革命で、ブルジョワ支配者から政治権力を奪取し、労働者階級によるプロレタリアート独裁の社会を作る。(この段階では、まだ「社会主義」) それが進むにつれて、生産力と人々の道徳が高度に発展し、個人が完全に解放されていく。 個人が解放されると、国家による支配は必要がなくなり、自主的な組織が社会を管理し、個人への生産物の分配は、各人の必要に応じて行われ、平等な社会が実現する。これが、第2段階としての眞の共産主義社会であり、この段階になると「国家は死滅する」という。 権力者はいなくなると言うのである。 ソ連、東ドイツ型の社会主義国家は、最後までその第1段階にとどまった。(いや、プロレタリアート独裁どころか、スターリンなどの個人崇拝、共産党官僚による独裁の社会だった。)第2段階にまで進んだ社会主義国家はいまだに存在しない。(キューバはその中でも優れているが、しかし、共産主義社会の建設を達成したとは言えない) 私は、ちょうど、マルクスを読んだのが1960年以後で、ソ連を始め、あちこちのいわゆる社会主義国の破綻が目につき始めたころだった。 国家が死滅するどころか、社会主義国家の権力者の独裁的な樣相がどこからどう見ても露わになっていた。 私は、「一旦権力を握った人間が、その権力を他の人間に引渡すわけがない」という極めて単純な人間関係の理解からして、当時の社会主義国家の支配者たちがいわゆる人民に自分たちの権力を移譲するはずがないと思った。 大体、ソ連にしても、中国にしても、その支配者たちは自分たち以前に権力を持っていた人間を殺して代わりに自分たちが権力を握った連中である。そのような人間が、突然他の人間に民主的に振る舞い、しまいには、権力を手放す訳があろうか。天使や無垢な赤ん坊のような人間に世の中が動かされているのなら、そう言うことも起こりうるだろうが、そもそもそんな人間ばかりなら有史以来の人間社会に悲劇など起こりうるはずはないのだ。 国家の死滅、などと言うのは、単なる夢想か悪い冗談に過ぎない、と私は思った。 だから、人民のためになどと言っている、ソ連、中国、北朝鮮の指導者たちは自分の権力の維持しか考えられるはずはないと確信した。 私がその確信を強めたのは、なんと、政治的な文書ではなく、物理学の教科書によってだった。 私は大學で量子力学を学んだ。しかし、私の頭の構造は量子力学を学ぶにはお粗末な出来だった。 その頃(1960年代後半)、量子力学を学ぶ学生に人気のあったのは、当時のソ連の、ランダウとリフシッツの共著による「量子力学」という本だった。 この本は今読んでみても、極めて、クールで無駄なく書かれている。 と言うことは、非常に抽象的で、私のように具体的な取っかかりの無いと物事をつかめない人間にとっては、つるつる滑る石けんを掴むような感じの本だった。 それに比べて、おなじ当時のソ連の学者、シュポルスキーの「原子物理学」は具体的で実際的な図やデータが載っていて、しかもくどくどと親切に説いてくれて、私のように頭の鈍い人間にも理解が容易で非常に重宝した。 ただ、シュポルスキーの本を読んでいて驚いたのは、突然「このようなことを解明できたのは偉大なる同志スターリンの指導によるものである」という文章が何度も現れることである。(この文章は正確ではない。ただ、そのような内容の文章が、「原子物理学」の本の中に現れたことは事実である) 私は、これは駄目だ、と思った。 それ以前に、ソ連ではルイセンコ事件というものがあった。 ルイセンコは遺伝学者であって、その学説の是非はともかく、(興味のある方は是非調べて下さい。政治と学問の関わり合いの下らなさが、はっきりし、現在の日本の御用学者を理解するのにも非常に役立ちます)、ルイセンコの学説に反するものは共産主義に反するブルジョワ主義者であると批判され、ルイセンコに反対する遺伝学者は何人も処刑されたり、強制収容所に入れられたりした。 現在、ルイセンコの学説を支持する遺伝学者はいない。 そんなことがあったからか、シュポルスキーは用心深く、要所要所にスターリンを物理学の最大の理解者、最大の擁護者である、と言う一文を付け加えていたのである。 それを読んだときの、あのいやな気分を私は忘れることは出来ない。 端的に言えば、「この野郎、シュポルスキーめ、くうだらないおべっか使いやがって。おめえはそれでも物理学者か。おべんちゃらで権力者に取り入る宮廷芸人か。なぜ、物理のことなど知っているはずのないスターリンが指導してくれたなどと恥ずかしいことを言うんだ。そんなの、スターリンに対する醜い媚びで、命惜しさの浅ましい行いじゃないか」というものだった。 私が量子力学を理解するのにはこのシュポルスキーという学者の本は役に立ったが、同時に、ソ連という国の正体、そして権力者に媚びを売る学者の醜さまで教えてくれた。 さて、朝鮮民主主義人民共和国の話だ。 日本人は、北朝鮮と呼ぶが、朝鮮民主主義人民共和国の人達は、その呼称はいやだというので、「共和国」と呼ぶことにすると、以前のこのページでも書いた。 私は、共和国を支配する金正日氏の政治姿勢には一切共感を抱かないどころか、真っ向から反対する。 大体1948年に建国してから60年以上経つというのに、外国から食料援助を得なければ自国民を養えない今の共和国の状態を作り上げたのは誰なのか。 ビルマで、肝腎の大統領を殺し損なったが当時の韓国の閣僚の多くを殺した爆破事件を起こしたのは誰だったのか。 日本人に偽装した二人の共和国の人間によって、大韓航空機を爆破して何の罪もない数百人の人間を殺したのは誰だったのか。 そして、あの日本人の拉致事件だ。 全く無辜の人間たちを拉致していって、その人たちのみならず、その家族の人生を破壊したのは誰か。(拉致されたのは日本人だけでなく、韓国人もヨーロッパの人間もいるという。) すべて、金正日氏が行ったことである。 ソ連型社会主義国家の指導者の大半は、スターリンを始め、非人道的な独裁者だったが、金正日氏はその非人道的な独裁者の典型だと私は思う。私のように、何事についても他人の決めた規律に従うのがいやな人間は、金正日氏の支配する国家においては三日と命が保たないだろうと思う。 その、金正日氏の支配下にある共和国の人間と、どうして私は友人になりたいと思うのか。 それは、次の回に話そう。
- 2009/11/29 - 週刊新潮の思い出 今週発売されている「週刊新潮」に「『美味しんぼ』雁屋哲の『北朝鮮』への異常な愛」と題した記事が掲載されているそうである。 この「週刊新潮」という雑誌については一つの思い出がある。 そのことをちょっと話そう。 私は父を四度裏切ってきた。 私は子供の頃から「僕は自分がいろいろ病気をして、お医者さんの世話になったから、僕も医者になって、病気の人を助けたい」と言って父を喜ばせた。 しかし、高校のときに、東大病院の整形外科の待合室に座って周りを見回しているうちに愕然となった。当時の東大病院は古く汚く、天井に様々な配管がならび、床は石の部分はすり減り、木の部分はワックスの臭気が立ち上り、すべてが暗く、陰気な雰囲気に包まれていた。 私は思った「もし、医者になったら、毎日こんなところで生活しなければならないのか」 利己的な私は冗談じゃないと思った。 その上、当時の私は物理と化学に非常に興味を抱いていたので、あっさりと、医者になることを断念し、父に「僕は、物理か化学の道に行くことにした」と言った。 父は,子供の頃から医者になると言っていた私が突然心変わりをしたのに驚きがっかりしたが、学者になるというので、まだ、許せると思ったようだ。 私は大学で物理を学び、そのまま大学に残って学者になろうと思っていたが、大学の四年の夏に、突然、「大学に残っているより、もっと生々しい人間社会の実態を知りたい」という気持ちが突き上げてきた。 人間の一番本当の姿を知るのにはどうしたらよいか。いろいろ考えた末に、それは人間を動かしている欲望をしっかりつかむことだと思った。 人間の欲望を、取り扱っているのはどんなところか、と考えて「広告会社」に突き当たった。 広告会社は、人の欲望をかき立てて、人を一つの方向に導いていこうとする。 その、広告会社につとめれば、人間はどんなものか、人間を動かしているものは何かつかめるのではないかと思った。 大学四年の夏には、教授面接というものがあって、進路を決める相談をすることになっている。 その教授面接で、教授に,進路を尋ねられて「私は就職したいと思います」と言ったら、主任教授は非常に喜んだ。 大学院に残ったところで、ろくなものになる人間ではないと見透かしていたのだろうが、主任教授は「そうか、就職してくれるか。それなら、ここか、ここか、このどれかに行ってくれ。前から、その二つに学生を送ってくれと頼まれていたんだ。君が行ってくれるなら非常に助かる」 主任教授が行ってくれと言った企業は私も長いこと憧れていた日本の技術を背負って立つすばらしい企業だった。 少し前の私なら、喜んで、教授の言葉に従っただろうが、私の心は既に広告会社にはまっていた。 私は正直に「ありがたいと思いますが、私は広告会社につとめようと決めました」と言った。 教授はきょとんとした顔をして、「広告会社って、何?そこで君はどんな仕事するの?」と尋ねた。 私は、教授に「広告会社では、テレビのコマーシャルを作ったり、商品を売る看板を作ったり、商品を売るための催し物を開いたり、そんな仕事をするつもりです」と答えた。 そのときの教授の顔を私はいまだに忘れなれない。 唖然と言うか、奇怪な生物が理解不能な言語を話し始めたのに遭遇したときに人はこんな表情になるのではないか、という反応不能と言う状態に陥った。 やがて、教授は「君は、量子力学を専攻したんだろう。それと、広告とどんな関係があるの」と尋ねた。「何にもありません」と正直に私は答えた。 教授群の中でもきわめて鋭い頭を持った教授は、すぐに、「こいつはだめだ」と見極めたのだろう。 「そうか」と言って,それで教授面接は終わったが、私はいまだに、あれだけ人を落胆させたことはないと思っている。 父は、もっと驚いた。私が広告会社に勤めたいと言ったら、父は私が正気を失ったのかと思った。 「お前は大学に残って学者になると言っていたじゃないか。それが,どうして広告会社なんだ」 私は、自分の思っていることを父に話した。 父は、ひどく落胆した。 父は、私が学者になることを強く期待していたのである。 しかし、そこが私の父のすごいところで、私のつとめたいと思っていた広告会社のお偉いさんとすぐに渡りを付けてしまった。 広告会社の入社試験が終わって入社も決まった後に、父に言われて挨拶に行ったら、きわめて上機嫌で「いや、君のお父さんによろしくと頼まれたので、よほど成績の悪い学生だと思っていたら、そうじゃなかった。がんばってくれよ。期待しているよ」と言ってくださった。 その会社も、3年9か月務めて、やめてしまった。 その理由は、私は、いかなる形の組織にも順応できない人間であることを痛感したこと。 私は、尊敬できない人間に尊敬した振りをして仕えることができない人間であることを痛感したこと。 雨の降る日にも出社することがつらかったこと。 朝9時に出社することの意義を見いだせなかったこと。 などであるが、要するに社員としてきわめて無能だったと言うことである。 会社を辞めると言ったときに、父は、驚きを通り越して、自分の息子が人外魔境に陥っていくという恐怖に取り付かれたようである。 「それで、これからどうやって生きていくつもりなんだ」と尋ねられて「何か、物を書いて生きて行きたい」と私は答えた。 その「物書き」と言う言葉を私の父は甚だしく軽蔑していた。 私が、「物を書いて生きていく」いうと、「ちょっと待て」といって、いったん奥に引っ込んで、どこかからか、週刊誌を持ってきた。 それが「週刊新潮」だった。(今日の本題ですよ) 父は、私に「週刊新潮」を突きつけて言った 「この、週刊誌を読め。物書きになって、こんなものを書くようになったら、いったいどうするつもりなんだ」 当時の「週刊新潮」の表紙は谷内六郎氏の童話的なきわめて人の心を休めてくれるような暖かい絵だったが、その表紙絵の清潔さと裏腹に内容は、芸能界、財界人、有名人など様々な世界の人々の醜聞、醜悪で残酷な犯罪事件の再現、異常な性的な話題に埋め尽くされていて、開いて二三ページも読むと、汚いものを無理矢理のどに突っ込まれたような気分になる。 その内容は今も変わらない。 私は、父に言った。「こんなものに書くくらいなら、物書きなんかにならないよ」 それから、40年経って、私はついに「週刊新潮」に書くようなことをせずに、物書きとしていきのびてくることができた。 この点だけで、私は、父を裏切ることがなかったのである。 「週刊新潮」は以前にも、私の書いた「日本人と天皇」の韓国訳版が出たときに、その編集部の知的水準の低さを見せたくてたまらないと言うような記事を載せた。 あのような週刊誌を続けていると、自分がどこまで無知で嫌らしく不潔な人間であるのか、どんどんやけになって見せびらかして、自虐的な快感に酔うことになるのだろう。 ものを書くのにも、もっと楽しい生き方があるのに、と不思議で仕方がない。 もう、そろそろ、自分の人生がおしまいになると言う年頃になって、それまで自分の書いてきた物を思い出して、真夜中に飛び上がって、虚空に向かって絶望の叫びをあげたりしないのだろうか。 「週刊新潮」の編集者、ライターの諸君の人生の幸せを祈るばかりである。
- 2009/11/28 - 共和国の友人 11月1日に、朝鮮の民族学校を訪問した話を書いたら、大変な数の、メールを頂戴した。 私のこのページは、他の方のように読んだ方が自由に書き込む場所を設けていない。 その代わりに、「お問い合わせ」という、場所を作ってある。 この、「お問い合わせ」で受け付けるのは、投稿した方が、どのISPのどのアドレスなのか、明確な方だけである。 もっと明確に言うと、私に送ってきたメールの送り主がどこの誰か、しっかり分かる人のメールしか受け付けない。 私の、このページに対して何事か意見を述べられた方は、その方のインターネット上の個人特定が出来るようにしてある。 フリーメールからのものは、最初から弾かれる。 何故、私がこのように用心深くしているのか、知りたかったら、Googleで私の名前を引いてみてください。 すさまじい数の私にたいする誹謗中傷の文章が並んでいる。 こういう状態で、いわゆる「コメント」欄など自由に書き込む場所を作ったら、私のページがどうなるか目に見えている。 そして、これだけ、制限を掛けているのにもかかわらず、様々な意見を送って下さる方が驚くほど多い。 もちろん、その意見のほとんどは私を批判する物だが、今回、北朝鮮・共和国について書いたら、書かれた方の人物確認が出来るのにもかかわらず、途方もない意見を送って下さる方が少なくなかった。 私が、北朝鮮びいきで、北朝鮮を支持しているというのである。 あきれる他はない。私は、ソ連も、中国も、当然北朝鮮の、政治体制は受け入れられない。 ソ連は崩壊してしまったから今更、色々言っても、間に合わないが、中国や北朝鮮のあの体制は私には受け入れられない物だ。 多くの方が私を批判して下さったが、私が驚いたのは、どうして自分がそこまで無知である事に気づかずに私に文句を言うのだろうかと言う事だった。 日本書紀、古事記、続日本紀、というこの基本的な日本の歴史書を読んでおらず、さらに、明治時代の日清戦争を主導した、ときの外務大臣奥宗光の「蹇蹇録」ひとつ読んでいない人が、何を私に向かって語ろうとするのか。 さらに、大正時代から昭和にかけての日本の歴史を何一つ知らずに、あるいは、最近はやりの、歴史書き換えの人々の本だけを読んで歴史を理解したと思いこんでいるのか、世界中で日本でしか通用しない歴史観を振り回して、私に、いわゆる「とんでも本」と言われる本をあげて、この本を読めと迫る人までいる。 ここまで、日本人の知的水準が下がったのか、日本が経済的に非常に落ち込んだからその不満感の故なのか、私は、私のページに送って下さる方の意見を読んで、しみじみ、悲しくなる。 29日に、共和国の友人たちが私の家に遊びに来て下さる。 その中には年配で、戦中に朝鮮・韓国人がどんな体験をしたか語って下さる方がいる。 その報告を、また、このページに書く。 どうか、お楽しみに。
- 2009/11/26 - こんち、また6年2組のお噂でお耳をけがします 11月23日に、私の同級生、田園調布小学校1956年卒業の6年2組の一行が私の家に来てくれた。 総勢21人来るはずだったのが直前になって風邪で倒れて実際に登場したのは17人。しかし、後で一人追っかけ参加があり、同学年で4組の人間も夫婦連れで飛び込み参加をしてくれてにぎやかでたのしい集まりになった。 料理は、近くで取れた相模湾の、金目鯛、ヒラメ、メジマグロの刺身。 私は料理は、お客様にして貰う方針なので、ここは腕自慢の「た」君にお任せした。「た」君は釣りをした後、自分で調理をするのが得意だと言うことで包丁さばきも堂に入っていて見事なお作りを作ってくれた。ヒラメの縁側を特別に小鉢に取ってスダチをかけたり、メジマグロの端っこの部分でたたきを作ったり芸が細かい。 この季節の金眼の刺身は実にとろけるように旨い(じつは12月を過ぎるともっと旨くなる)こんなものを食べられるのも海を目の前にしているおかげだ。 もう一つの料理は、元々九重部屋でちゃんこをご馳走になったときに教わった肉団子鍋で、九重部屋は牛か豚の肉を使っていたと思ったが、私の家ではそれを更に我が家流に変えていって、現在は良い鶏肉を探してそれを挽肉にし、刻んだ長ネギを加え、すり下ろした山芋を加え、大さじ二つで合わせるような形で取ってまず茹る。 鍋は出汁昆布をしき、そこに芋焼酎と少量の醤油を加え、後はお好みで、椎茸、白菜、ネギ、等を加える。おっと、主役の肉団子を忘れてはならない。 食べるときに、鍋の汁を小鉢に取り、ゆず胡椒をたっぷり混ぜて、更にお好みで醤油で味を足して食べる。 単純な鍋なのだが、これが実にいける。サッパリしているので幾らでも食べられる 我が家の冬の定番料理である。 これを、私の妻と2組女性軍が手早く下ごしらえをして、刺身に続いて鍋料理に移った。 今回はちゃんと酒を飲む人間もそろっていて、飲み、食い、おしゃべりで楽しい時間を過ごした。 食後は「こ」君が抱えてきた三味線の演奏会。 耳の具合が悪く、まるでいじることができず、音響的に未調整のオーディオルームで申し訳なかったが演奏会を開いて貰った。 「こ」君とは2年生の時からのつきあいだから、おお、来年で60年のつきあいだ。 「こ」君は、まあこれだけ温厚で優しい人間も滅多にいない希有の人格の人間で、小学生の頃私達は当時はやっていた広沢虎三の「次郎長三国志」という浪花節に夢中になった。 「こ」君が一枚のレコードを貸してくれて(SP盤です)、これをおぼえて来て、学期末に学級で開く演芸会でうなろうというのである。 今でも忘れないが、「次郎長三国志」の中の「石松代参」のところである。 冒頭はこうなっている、 「その夜はやすんで、翌の朝、はなから起きた石松は、うがい手水に身を清め、そよと吹く風無常の風、雨だれが落ちが三途の川、これが親分きょうでえ(兄弟)の一世の別れになろうとは、夢にも知らず石松は、清水港を後にする」 (何せ50年以上前に覚えた文句なので正確ではないが、今にして思えば、小学生がこんな浪曲をうなっていたのだから、日本の文化の変わり様は凄いものですね) その「こ」君、民謡もするが、長唄の方が格が上だというので、最近は長唄専門。 2組の仲間が勢揃いしているところで三味線という楽器の説明から、始めて、実にいい声と三味線でみんなを楽しませてくれた。 いや、もう実に楽しい集まりで、2組の仲間は私達の宝物だ。 会の終わり頃には、次はいつ、どこにする、と相談が始まる。 12月には忘年会を開くという。私がシドニーに帰る前に開いてくれと頼んでいるのだが。 つきあいは長ければ長いほどいい。2組集まりは最後の一人になるまで続けよう。
- 2009/11/26 - ネオニコチノイド系の農薬 今日は、次回の「美味しんぼ」「環境編」その2の取材に前橋まで行ってきた。 当地で内科小児科を開業されている「あ」先生をお訪ねして、ネオニコチノイドの話を色々伺った。 有機燐系の農薬が人体に非常な害があると言うことで、その代わりに登場したのがネオニコチノイド系の農薬だ。 最近、世界各地でミツバチが姿を消していることが話題になっている。 その原因はネオニコチノイド系の農薬であるとされて、フランス、イタリアなどでは使用が禁止された。 ミツバチは農作物の受粉に大きな役目を果たしている。 ミツバチは、花の蜜と花粉を得たいが為に花に潜り込んで蜜を吸い、花粉を集めるのだが、その行為が花粉をめしべに付けるという極めて重大な役目を果たしているのである。 ミツバチがいないと、花は幾ら咲いても受粉が出来ず、果物も実らない。 ところが最近、有機燐系の農薬に変わってネオニコチノイド系の農薬が使われるようになって、状況が一変した。 ネオニコチノイド系の農薬は、蜂の神経系を破壊し、そのために多くの蜂が死に、さらに、一旦巣を出た蜂が自分の巣に戻ることが出来ずにのたれ死にすることが続き、ヨーロッパでもアメリカでも、日本でも、ミツバチが大量に死滅する現象が起きている。 私は、このネオニコチノイド系の農薬は最初、そのミツバチの問題だけとして考えていた。 しかし、今日「あ」先生のお話を伺って、これは蜂どころの問題ではない、我々人間もこのネオニコチノイド系の農薬によってひどい害を受けており、このままでは、日本人全体が滅びかねないという事実を認識した。 ネオニコチノイド系の農薬の人体に対する悪影響をきちんと科学的に検証し始めたのは「あ」先生を始め、数人の医学者だけで、厚生労働省の役人たちは「あ」先生の資料を見もせず、鼻であしらってこの問題を考えようともしないそうだ。 この、ネオニコチノイド系の農薬の話は、来年から始まる「美味しんぼ」の「環境問題篇」で取り上げるが、自分たちの命と健康に関心のある方は、直ちに、このネオニコチノイド系の農薬について、色々と調べ始めて欲しい。 「あ」先生が強調されたのは、自然の山の水、御不動様の水、何々山のわき水、などと言う物を一切飲むのはやめにしていただきたいということだ。 ネオニコチノイド系の農薬は地下水に入り込み、見た目には麗しい清水はネオニコチノイド系の農薬で汚染されているというのだ。 特に、その周囲数十キロメートルの範囲にゴルフ場があるようなところの湧き水は飲まない方が良い。ゴルフ場は、あの芝生を保つために大量の農薬をまき続けているのである。ゴルフ場は農場ではないので、農薬の規制など無い。あの麗しいグリーンを保つために大量の農薬をまき続けている。 その農薬が地下水にしみこみ、その数十キロ範囲内の湧き水に溶け出す。 湧き水だから、自然で健康によいと思ったら大間違い。 湧き水や、どこぞの山からくみ出した自然水などとうたっているペットボトル入りのいわゆるミネラルウォーターはネオニコチノイド系の農薬に汚染されているというのが「あ」先生のご意見である。 また、ネオニコチノイド系の農薬の一つアセタミプリドMRLのリンゴに対する使用基準は、EUが0.1pp、アメリカが1.2ppm。それに対して日本は5ppm. イチゴについては、EUは0.01ppm,アメリカは0.6ppm。それに対して日本は、5ppm、となっている。 茶の葉に至っては、EUの使用基準が0.1ppmに対して、日本は50ppmである。500倍もの差がある。これは一体どう言うことだ。 だから「あ」先生は、ペットボトル入りの緑茶飲料、ウーロン茶など飲んではいけないと仰言る。確かにそんなに大量にネオニコチノイド系の農薬を使ったお茶の葉で作ったお茶は冗談じゃないと言うことになる。 私達はミツバチの二の舞はごめんだ。 健康のために毎日リンゴを食べ、イチゴを食べ、茶を飲むことで返ってネオニコチノイド系の農薬という毒物を体に取り組んでいることになる、と「あ」先生は仰言る。EUと日本のこの使用基準の違いは何だというのだろう。われわれもヨーロッパジンも同じ人間だろう。彼らに毒である物が我々に毒ではないはずがない。 私は、ミツバチの問題を取材に行って、実はネオニコチノイド系の農薬はミツバチどころか我々人間の健康を損なっていると言うことを知って、大きな衝撃を受けた。 この件は、更に詳しく調べて、「美味しんぼ」の「環境問題篇」その2で、きちんと書く。 とりあえず、読者諸姉諸兄に、ネオニコチノイド系の農薬という恐ろしい物が我々の生活を既に破壊し続けていると言うことを認識していただきたい。
- 2009/11/23 - 山林まさに荒れんとす 11月20日21日と丹波に行ってきた。 丹波には、20数年来のおつきあいの「大和」旅館がある。 この「大和」旅館とのおつきあいの始まりは松茸だった。 日本で一番美味しい松茸を食べたいと思ったら、この「大和」旅館に行くしかないとある人に紹介していただいてたどり着いたのだ。 この「大和」旅館には、日本で最高の丹波の松茸が近隣の松茸取りの名人たちが自慢の松茸を持込むのである。 私の叔父の一人は大変に美味しい物が好きな人間だったが、ある時「大和」から松茸を送ったら、えらく怒られた。「てっちゃん、こんな松茸を食べさせられて、俺はこれからどうすればいいんだよ」というのである。 20数年前でも、すでに松茸は貴重品であって、しかも丹波の松茸と言えば日本で最高、と言うことは世界で最高のものである、 20年前には「大和」旅館からすぐのところにある山で、まるでハイキングをするような簡単ななだらかな山登りをするだけで、大きなかご一杯松茸が採れた。 それが、6年ほど前に、小学校の六年二組の仲間と行った時には、なだらかな山どころか、極めて傾斜の厳しい山の斜面をよじ登るようにして、それでも、「大和」旅館のご主人が「奇跡的だ」と言うほどの松茸狩りが出来た。 それが、今年は大変に不作で松茸の値段も信じられないような高価になったそうだ。 今回、松茸の実状を見るために私も極めて険しい山によじ登った。 去年膝の人工関節の手術をしたときに、医者に「転んだらおしまいだ。絶対に転ばないようにしてくれ」と言われていたのだが、実際に険しい山を目の前にすると、どうしても自分の目で確かめたいという気持ちが私を突き動かして、医者の忠告を無視してよじ登ってしまった。 上りは良かったが、下りが難しく、ついに恐れていたとおり、足を滑らせて、ひどい損傷を右の脚に受けてしまった。 幸い、膝の人工関節が外れるところまで行かなかったが、足首はねんざするし、股関節は痛いし、膝の関節の動きは悪くなるし、本当に危機一髪だった。 しかし、そうまでしても、今の松茸山をどうしても自分の目で確かめないと「美味しんぼ」に書けないと思ったのだ。 私は、今「美味しんぼ」で日本の環境問題を取り上げている。 食べ物のことを考えるときに、食べ物を生産する環境を考えずには何事も意味をなさない状況に今の世界はなってしまった。 あれが旨い、これが旨い、などと言う以前に、その旨い物が姿を消していっているのであるから、「環境問題篇」を真面目に考えなければ「美味しんぼ」など、意味が無くなる。 そう言う思いで、今の「環境問題篇」を書いているのだが、今回、六ヶ所村の核燃料再処理工場問題を終えた後、次回は「環境問題篇」の第2部として、「人間が自然に科学の力を及ぼした結果起きた環境問題」を主題にして書くことに決めた。 その中の主題の一つとして私は「山林問題」を取り上げた。 日本の国土の67パーセントは山と森林である。 山林問題は日本にとって極めて重要な物なのである。 その、日本の山林問題を象徴する物が松茸だ。 松茸が、1940年度には2万トン取れた、それが今では100トンを切ると言う。 一体その差は何がもたらしたのか。 私は「日本全県味巡り」で日本のあちこちの県を巡り歩いているが、どの県に行っても目につくのが死んだ山林である。 木は生えているが、その木に一切手が入れられていない。 杉が主なのだが、大規模な植林が行われた形跡がある。 しかし、その杉の林が、ただ生えているだけで、返って山林の命を奪い、杉の木自身も命も絶え絶えの様であるのをいやと言うほど見てきた。 私が見て回った様々な県で、私が感じたのは、日本の山林は死に瀕していると言うことだ。 どうしてこうなってしまったのか。 それは、来年始まる「美味しんぼ」の「環境問題篇その2」を読んで頂きたい。 この日本という国は、このままでは滅びてしまう、という非常に強い危機意識を私は抱いている。 産経新聞社の発行している「正論」という月刊誌の12月号の210ページに、評論家の宮崎正弘氏が、アメリカ人投資家専門誌「バロン」にこのような記事が書かれていると紹介している。 (私は、その「バロン」という雑誌も知らないし、宮崎正弘氏がどのような方かも存じ上げない。私は本来そのような文章は引用しない方針だ。 しかも、この宮崎氏の文章の題名が「”還暦“を迎えた中国の混沌と矛盾」という物で、基本的に中国を批判する姿勢で書かれており、この文章も日本人の感情を逆撫でする意図を持って紹介されたのかも知れない。 それに「正論」という雑誌は、文芸春秋社の「諸君」が廃刊した後、明治憲法、軍令第1号、教育勅語、東条英機の戦陣訓、などを金科玉条とする編集方針で孤軍奮闘頑張り続けている雑誌だから〈おっと、文藝春秋、本誌も「諸君」の分頑張っておるな〉、民主党政府の中国融和政策に対して非常な不快感と、危機感を抱いているので、嫌中感情を煽るためにこのような文章を載せたのかも知れない。 とすると、この文章を引用したのは私が「正論」の思うツボにはまったように思えるのだが、極端に戯画化されていて面白いので、ここに引用させていただく) その、「バロン」とか言う雑誌に書かれていた記事というのは、 「日本経済の未来像を描くと半世紀以内に中国人と米国人を乗せたハイテク航空機が日本の上空を飛び、かつて世界第二位の経済大国とされた国の荒廃した残骸を見ることになるだろう。その頃、日本に残存しているのは経済大国時代をかすかに連想させる遺物、すなわち住民の大部分が高齢者、荒廃した巨大都市群とぺんぺん草がはえた高速道路、橋梁、そして新幹線の線路だけになっているだろう」 と言う物であるのだがね。 この記事が本当に存在するとして、さすがにアメリカ人の書いた物だと思うのは、半世紀後にアメリカという国が日本を上から見下ろすだけの地位を保つことが出来ると考えているところだ。 さらに、翻訳者の語彙の選び方だと思うが「ぺんぺん草がはえた」なんて言葉、原文ではどのような語彙が使われていたのだろうか。 そのような問題点はあるが、この文章は十分に刺激的である。 私のような心配性の人間の不安感を更にかき立てるのには効き目のある文章である。 しかし、私の先輩で私より遙かに日本の社会、国際情勢に詳しい人にこの記事の内容を話したら、一笑に付された。 米、中、日の関係を考えると、最大の借金国・米、最大の債権国・中、二番目の債権国・日、となる。 互いに絡み合っているから、日本一人沈みと言うことはあり得ない、と言うのである。 日本が沈むときにはアメリカも中国も沈む。 それに、日本人には底力がある。いざとなって本気を出せば、このまま沈むことはない。 と、私が先輩は仰言る。 私も、先輩の言葉を信じたいのだが、日本中あちこち回って感じるのは先輩の楽観的な言葉に相反する物ばかりだ。 バブルがはじけた後の日本の十年をよく「失われた十年」という。 その「失われた十年」が終わるころに、小泉、竹中の二人組が更に徹底的に日本を破壊してしまい、「失われた十年」ですんだかも知れないところを「失われた二十年」を確実にしたし、これから先も日本が本の活気を取り戻せるかどうか分からない。 小泉、竹中は国民にとって一番大事な安心感と希望を奪った。 老人、障害者から安心感を奪い、と言うことは若い世代の人間にも「我々が老人や障害者になったらあんな冷たい扱いを受けるのか」という不安感を植え付け、正規社員の数を減らし、非正規社員、派遣社員の数を増やし、若者たちから頑張れば将来は良くなるという希望を奪った。今日は配本会社、あしたは機械の組み立て工場、と派遣会社の都合で回されて行けば、何一つ確実な技術を身につけることが出来ない。 ある大手の労働者派遣会社の年間売上高は3000億円を超える。 その金は、本来、労働者が受取るべき金である。 派遣会社とは聞こえがよいが、昔やくざが港湾労働者相手に行っていたピンハネ行為と何一つ変わらない。 しかも、その大手の派遣会社が外国の会社である。 日本の労働者の給料が外国人によってピンハネされ外国に持出されているのだ。 小泉、竹中、のしたことを見て、「一つの国を壊すのに5年もあれば十分なのか」と私は、深く驚いた。 私は、山林が危機状態にあると書いたが、山林が危機状態になったのは日本人の心が危機に陥っているからだ。 国土の姿は、その国の人々の心の写し絵だ。今の日本人の心は荒廃し自信を失い、沈みきっているように思える。 松茸一本手にして、この国を憂うる私は単なる鬱病患者なのだろうか。
- 2009/11/16 - ご無沙汰しました ご無沙汰してしまいました 10月31日に、それまで書いて来た「美味しんぼ」の環境問題篇の内「公共事業が引き起こす環境破壊」について、の第9話を書き上げてから、どっと落ち込んでしまった。 単行本にする際に、1巻当たり9話が今までに妥当とされてきた話数で、それ以上多いと読者諸姉諸兄が読むのに疲れてしまうのではないかと考えて、何とか全てを9話にまとめるという課題を自分自身に課してきた。 今回も、これほどの大きな問題を9話にまとめるというのは暴挙に近いことだと思ったのだが、漫画の意味は、読者に問題の全てを科学的に説き明かすことではなく、このような問題が起きているのだぞ、と読者諸姉諸兄に問題意識を抱いていただくために、その問題の存在をお示しすることに有ると考えて、こんな企てに取り組んだのだ。 細かい科学的なことについては、それぞれの専門の学者に教えを請うて、間違いのないところまで詰めた。 しかし、教えていただいたこと、自分で学んだことの、百分の一も漫画では書くことが出来なかった。 さらに、最初の2話目、3話目を読んだ姉の言葉にひどい衝撃を受けた。 姉は、「あんなの、面倒くさくて読む気になれないわ」と言った。 およそ、漫画ではないと言うのである。 私はあくまでも、漫画原作者で有りたいのであって、環境問題運動家になる気はない。 読者諸姉諸兄が、まず漫画として面白いと思っていただけないような漫画は、漫画原作者として書いても意味がないのである。 しかし、私自身の環境に対する問題意識もある。 美味しい食べもの、安全な食べものは、健全な環境有っての物だと思う。 その健全な環境を破壊する物に対しては、「美味しんぼ」を書いてきた人間として異議申し立てをする必要がある、いや、義務がある。 そこで、「環境問題」に取り組んだわけだが、これが一筋縄どころか、百筋縄も、千筋縄も、万筋縄も、とてものことに及ばない難しい問題で、取材の途中から頭がおかしくなったが、それを漫画の形にし始めると、こんなことを始めた自分自身を激しく呪うしかなかった。 私は、26年間「美味しんぼ」を書いているが、今度の「環境問題篇」を書くような苦しい思いをしたことはない。 問題が問題だけに、少しでも間違ったことは書けない。 例えば、最後の六ヶ所村の核燃料再処理工場の問題だが、これは極めて微妙な問題を様々に含んでいる。 科学的な問題、地方の自治体の問題、国の原子力政策の問題、こういう物が入り組むと、非常に難しい。少しの間違いも許せない。 私が大学で学んだのは量子力学である。量子力学が原子力工学の全ての基礎だ。だから、原子力の問題など、軽いものだと思っていたが、ああ、大学を出てから30年以上経ち、当時最先端の学問を学んだはずなのに全て忘却の彼方である。 あわてて、色あせた大学の教科書を改めて開き、当時私が取ったノートを開いてみても、「ええっ! 俺はこんな難しいことを勉強していたの!」と驚くばかり。 幸い、大学の同級生に原子力工学(核融合の専門家)がいて、その「し」に色々と現在の原子力の問題を聞くことが出来て納得出来ることが多かった。(その「し」は、今度の「環境問題篇」の六ヶ所村のところで、実名で登場するので、ご覧下さい。この「し」が、私にラーメン・ライスの食べ方を伝授したのである) 「し」に聞くばかりでは埒があかないので、昔の教科書や、最新の「原子炉工学」の本など買って読んだ。 その結果、六ヶ所村の再処理工場には無理があると理解したが、そのようなことを、漫画ではきちんと書けないのである。 その理由は先に書いたとおりである。 専門的なことを私は論じたいが、それでは読者諸姉諸兄が退屈してしまう。 それに、とても、毎回22ページの中に入れることは出来ない。 その、妥協の産物が今回の「環境問題篇」なのである。 ただ、大いに不満足だが、私は、問題があることを読者諸姉諸兄に示すことが出来ればそれ持って瞑すべき、と思う。 それにしても、余りに書ききれなかった。 だから、第9話を書き終わったとたん、すさまじい、絶望感と、自己嫌悪にとらわれてしまったのだ。書きたいことの百分の一もかけなかったことに対する悔しさ。 漫画として面白くなかったのではないかという、恐怖。 そして、この「環境問題篇」に取り組んでいた数ヶ月間の疲労。 そう言う物が、一気に私の心をふさぎ責め付け、ふぬけのようになってしまった。 物を書くことは、私に取って人生そのものである。 だから、常に一番良い物を書きたい。 読者諸姉諸兄に喜んでいただける物を書きたい。 そのために、今回の「環境問題篇」は取材を始めてから一年がかりで書き上げたのだが、それを書き終わったとたんに、これで良かったのかという、苦しい反省の念がこみ上げてきて、それと一年間の疲労がどっと出て来て、すさまじく、落ち込んでしまったのだ。 落ち込んでしまうと始末に悪い。 何一つ書く気力が失せてしまうのだ。 それが、この長い間のご無沙汰の理由なのです。 そんなこととは別に、11月1日に素敵な体験をしてきた。 その件を、私達6年2組(田園調布小学校1956年卒業の6年2組です。私達は、毎年最低で3~4回は同級会を開き、それとは別に少人数で会う機会を作って楽しんでいます。当然、私達のホームページも有るんです、掲示板と皆で写した写真を載せる、アルバムページもあります)の掲示板に書いたことを、ここにコピーする。 「今日、以前に取材を受けた朝鮮人民民主主義共和国(長いので、以下、共和国と書きます。北朝鮮という言い方は共和国の人間にとって、侮蔑的に捉えられるようです)の雑誌の記者だった方に、朝鮮第三初級学校の日朝友好バザーに招かれて行ってきました。 校舎の中で、中古品の特売や、チマチョゴリを着て写真撮影、共和国の伝統工芸を子供たちに教えるところなど、見学をし、校庭で炭火で焼き肉とマッコリを楽しんだりして、大変愉快な一日を過ごしました。 例の拉致問題以来、日本人の、共和国(北朝鮮)に対する態度は厳しく、同じKoreanでも、北の人間にとっては辛い日々であるようです。 私は、金正日のしていることは許せないと言う思いを禁じ得ませんが、金正日による拉致問題を非難するのと、共和国の人間に厳しく当たるのとは話が違うと思います。 私は親しくつきあっている韓国人の友人は何人かいますが、共和国の友人はいないので今日はよい機会だと思って参加しました。 その中に、私が最初に書いた「男組」のファンという人がいて、自分の気にいりの場面を正確に描写してくれたので、私は感激しました。 政治を抜きにして(と言うことは実際には難しいことですが)、一人の人間同士のつきあいとして共和国の人間と仲良くしたい、と言うのが私の思いです。 2組のみんなも、拉致問題と金正日だけで、北朝鮮(共和国)の人間を色眼鏡をかけて見ることはやめにして、一人一人の人間として、共和国の人達と、つきあっていただきたいと思います。」 私をその会に招いてくださったのは、「ち」さんという大変に活発な女性で、十数年前にお会いしたときにはまだ独身だったが今は素敵な連れ合いがおり、元気なお子さんもいる。 その元気なことに圧倒されたが、私の妻も、連れ合いも、非常に楽しい時間を過ごしたと喜んでいた。 私が、「ち」さんの連れ合いの方に「例の拉致問題で、日本人の、共和国の人に対する風当たりは強いんでしょうね」と尋ねたら、「凄いです」と言葉少なに答えられた。 その言葉の少なさが私の心を返って厳しく捉えた。 私は、金正日氏のしていることには非難する。 しかし、共和国の人達とは仲良くしたいのである。 日本と、朝鮮半島の歴史は、そもそも、大和朝廷・天皇一族が朝鮮から来たところから始まって、二千年以上続いている。 その途中、秀吉のような誇大妄想狂が朝鮮に攻め入ったり、明治維新以後西欧化以外に自分たちの生きる道を見いだせなかった日本の指導者たちによる朝鮮の植民地化などが現在のKoreansの日本に対する反感・嫌悪を作りだした物だが、実は日本人は、朝鮮・韓国人が好きなのである。 それは、「冬のソナタ」に始まる韓流の勢いが一番身近だかが、何のことはない、日本の芸能界、スポーツ界、文学界、ではとっくの昔から韓国・朝鮮系の人間が人気スターの座を多く占めてきたのである。 朝鮮半島から来た天皇を崇拝し、朝鮮・韓国を出自とする芸能人・スポーツ選手にあこがれる、さらに、日本の代表的な芸術である陶芸は朝鮮から移入された物である。 ここまで朝鮮・韓国を有り難がる民族は日本人しかいない。 それは何を意味するのか。 私は、日本人と、韓国・朝鮮人の間に深いつながりがあるのだと思う。 以前、「美味しんぼ」の「日本全県味巡り」で高知県を回ったときに、「朝鮮織女の碑」というのを発見した。 秀吉が朝鮮に攻め込んだとき、当時日本より優れていた朝鮮の技術を色々持帰ってきたのだが、その一つに織物があった。 長曽我部元親が連れ帰ってきた織物をよくする女性が土地の人間に織物を教えて、それで地方の織物産業が興った。 それをたたえての碑だった。 私はこのような、日本と朝鮮・韓国との長いつきあいを考えた場合、例えば拉致問題に関して、正面から相手のメンツも考えずごり押しする方法ではなく、千年や二千年の前の、我々と朝鮮・中国が人間通し親密に話し合う道を取るしかないと思う。 お互いの心にすんなり入り込む道を、我々は作らなければならない。 とにかく、共和国の友人が増えて私は大満足である。 もっと、大勢共和国の友人を増やしたい。
- 2009/10/27 - 「美味しんぼ」環境問題篇で難渋 退院してから、ステロイドは飲み薬に変わったのだが、昨日でその飲み薬も終了。これで、今回の耳の治療は終わったことになる。 耳の状態はまだはかばかしくない。一旦傷ついた聴覚の神経細胞は早く治療しないと元に戻らないそうで、今回の治療でどれだけ元に戻るか、もう少し時間をかけないと分からない。 次女は、私と同じ外傷性の聴覚障害で苦しんだ人のブログを発見して、その中に時間がかかるが治るからあきらめないで、と書いてあったからお父さんもあきらめないで、と言ってくれた。 その話を東大病院の医師に言ったら「それは、単に慣れただけですね。一旦損傷した聴覚の神経細胞は、元に戻りません。脳の細胞と同じです。」と言われてしまった。 なるほどね。神経細胞は死んだからと言って新たに別の細胞が作り出されるわけではないのだ。一度死んでしまえばそれまでと言うことだ。 しかし、この音がうるさく聞こえる症状が治まってくれれば何とかなる。 気合いと根性でこの状態から回復してみせるぞ。 と力んだら、どっと落ち込んでしまった。 23日に、阿佐ヶ谷のLOFTで、環境問題研究家の田中優さんとトークショーを行った。 小学校の同級生7人が、私が何かへまをしでかすのが心配だ、と言って参観に来てくれた。「美味しんぼ」の中に何度も登場する「六年二組」の仲間である。 会場には、「美味しんぼ」の読者の方が大勢来てくださった。その方々に「美味しんぼに登場する『六年二組』の面々です」と、同級生たちを紹介してしまった。 翌日の、「六年二組」の掲示板に、当日来てくれた中の一人「い」君が「ライブハウスは我々には場違いな感じがする上に、紹介されてしまったので、ますます落ち着かなかった」と書いていた。 何かがあるとこうして集ってくれるから、小学校の同級生は有り難い。 田中優さんには、今回の「美味しんぼ」の環境問題篇で大変お世話になった。環境問題については実に詳しい方で、私の大學の同級生の原子力工学(主に核融合)専門の学者が、田中さんのことを「本当に良く勉強されている」と感心していた。 その田中さんが「環境問題でトークショーをするから、一緒に出てくれ」と言うので、「美味しんぼ」でお世話になったことだし、ちょうどスピリッツで環境問題篇を連載しているので、ライブハウスで環境問題を話すのも意味があると思って参加した。 集ってくださった方々も、そもそも、こんな話と知って来て下さった訳だから、真剣に聞いて下さって、最後の質問の時間にも色々と熱心な質問が投げかけられて、意味のある会話を交わすことが出来た。 有り難かったのは、本、雑誌、DVD、CD、お酒(それも、焼酎と日本酒、合わせて二本も)など頂いたことだ。 このトークショーの会場に私に下さろうと思って、そのような貴重な物を持っていらして頂いたかと思うと、感謝・感激で胸が熱くなった。 また、当日、私と田中さんのトークの合間に歌を歌った、NUUさんの歌は実にすがすがしく明るく、日本のシンガーソングライターにあり勝ちな、感傷的だったりお説教的臭かったりするところが無く、曲も歌詞もすっきりとしていて楽しかった。 最後に、その、NUUさんも、私達のトークに参加してくれて、大いに盛上った。 トークショーなどと言うのは初めての体験だが、やはり、いつも書斎に閉じこもって本ばかり読んでいないで、このような場に出ることも必要なことだと痛感した。 楽しかったし、大いに勉強になった。 当日、会場に来て下さった「美味しんぼ」の読者の皆さんに心からお礼を申し上げます。 帰りは12時近くなっていたが、おかげで道は空いていて、阿佐ヶ谷から、秋谷の自宅まで(お、両方とも谷がつくね)1時間3分で着いた。(無謀・乱暴運転をした訳ではありません。) スバルはいいなあ。私はドイツの車も含めて、何台も車を乗り継いだが、運転していてこんなに気持ちの良い車は初めてだ。70歳になったらフェラーリに乗ろうと思っているのだが、車に詳しい人に色々話を聞いて、それならスバルのWRX STI spec Cにしようかなと心が動いている。 トークショーの三日前から取り組んでいる「美味しんぼ」の環境問題の第9話が難渋している。 環境問題も、「公共事業が引き起こす環境問題」と「科学の力などを持った、人間の所業が引き起こす環境問題」と二つに分けて考えることにして、今回は単行本一冊分になる9話で、「環境問題第1部」とし「公共事業が引き起こす環境問題」に的を絞った。 その第1部の最終回を今書いているところだ。 これが、青森県六ヶ所村の「核燃料再処理工場」を取り上げているので、途方に暮れるほど難しい。 文章で、しかもある程度の枚数を使って書くことが許されるなら、こんなに苦労はしない。 しかし、原子力の問題を、漫画で書くとなるとこれは死にたくなるほど難しい。 大学の同級生に話を聞いたり、原子炉の構造、原子力工学の本を読んだりして原子力発電に関しては基本的な理解を深めた。 だが、漫画に原子物理学の話など書けないのである。 原子力発電について語るためには原子炉について語る必要があり、 そのためには核分裂について語る必要があり、そのためには原子核の構造を語る必要があり、と言う具合に話がどんどん深みにはまりこんで行くと、大半の読者はうんざりするだろう。 それでは漫画にならない。第一、スピリッツ誌で「美味しんぼ」に与えられる22ページに収まらなくなる。 そこで、科学的に間違っていない範囲で、原子力発電と、核燃料の再処理についての概念だけを語ることにしなければならない。数式など飛んでもない。物理用語も最低限度にとどめる。 これが大変な作業だ。 あれも書きたい、これも書きたいと思うのに、読者がいやになって途中で投げ出さないように物理学的なところは出来るだけはしょり、かと言って、観念論や感情論にならないように科学的な筋道を通さなければならない。 その上、青森県全体に対する風評被害を起こさないように配慮することも大事である。 今の私は、漫画の原作を書いていると言うより、格闘していると言う気持ちの方が強い。 もう、締切りを過ぎてしまった。 格闘の合間に、この日記を書いている。 さあ、仕事に戻ろう。今夜も格闘だ。
- 2009/10/20 - 退院しました 10月19日、朝4時に起きて「美味しんぼ」の原稿を仕上げ、6時に編集部に送り、そのまま眠ろうとしたが気持ちが高ぶって眠れない。 この連載一回分の原稿に、一体何日かかったことか。3週間以上だ。 最後の10日間は入院中に点滴を打ちながら書いたが、この点滴を打つと頭がぼーっとなり起きているのも辛くなる。 少し休んでは、また少し書く、また休む、この繰り返しで仕事は恐ろしく捗らない。 苦しかった。こんな苦しい原稿の書き方も初めてだ。 災難の後に、また災難有り、こんな辛い思いをして書いた原稿だが読者が面白くないと言えばそれまで。 疲労困憊した。 仕方がないから7時に起きてシャワーを浴びて、9時から最後の点滴。 12時に終わって、これで今回の治療終了。 結果は今のところめざましい物ではないが、入院時より改善された点もあり、私としては満足している。 今回の入院生活は実に快適だった。 医師、看護師、助手、掃除係、みなさん大変に親切で患者の身になって対応してくれて、本当に有り難かった。 中でも有り難かったのが、食事だ。 普通、入院すると病院の食事がまずくて食べられないことが多いが、今回の東大病院の入院食は大変に良かった。 10日間、毎日違うメニューが出た。一つとして同じメニューは出なかった(朝食はパン食だが、普通の食パン、ロールパン、クロワッサン、黒パン、など日ごとに変わるのだ)。 朝食にウィンナー・ソーセージが二度出たが、1度目はぱりっと焼いてあり、2度目は湯通しをしてさっぱりした感じで出て来た。抜かりはないのである。 昼食に出たカレーは、肉は鶏肉で、野菜が沢山入っており、実に素直で軽い優しい味で、化学調味料で舌が曲がることもなく、懐かしいという感じを抱いて、堪能した。 昨日、退院前夜の食事はちらし寿司で、まるで私の退院を祝ってくれるように思えて、嬉し楽しく食べた。 毎食、待ちかねて、運ばれるやいなや、5分もかけずに、がつがつ、ぺろりと一つ残さず食べる。 最初は食堂に食べに行っていたのだが、他の人に比べて私の食べ方はがつがつと余りにせわしなく食べるので、それが下品で他の人に不愉快な思いをさせるのがいやだし、私も恥ずかしいし、部屋に運んでもらって、気の済むように下品にがつがつ食べた。 ガイドブックで星を三つ貰った、二つ貰ったと競い合う料理師もいれば、このように病院で入院患者のために精魂込めて料理を作る調理師もいる。 どちらも大変な仕事だと思うが、今回私は病院の栄養士、調理師には本当に心を打たれた。 高価な材料で、思うさま腕をふるうことの出来る有名料理人と違って、材料の制約、患者の体調、治療方針、そのような様々な条件の下で、患者の毎食を楽しい物に作り上げる、栄養士と調理師の仕事は実に尊いと思った。 私が「美味しんぼ」で繰り返し書いてきたのは、食べて貰う人への思いやり、如何に相手の身になってもてなすか、と言うことだった。 その点、東大病院の栄養士、調理師はまさに「美味しんぼ」でこれぞ料理人として取り上げてきた人達と同じである。 私は、10日間、「美味しい、美味しい」と言ってがつがつ食べながら、ふと考えた「私は、美味のまた美味を求めるために、無駄な贅沢をしてきたことはなかったろうか」 そう思うと、頂門の一針、というか、滝の水に全身を打たれたような気がした。 まだ、私の美味への挑戦は浅すぎた。深くなかった。 東大病院の入院食には、患者を思う気持ちがあふれていた。 ここに人間の真実があると思える味だった。 人が人を思い遣る。すると、このような自然で、さわやかで、素直な味の料理が出来るのだ。 見栄や飾りは一切無い。実直そのもの。 私は毎食食べながら、作っている人達の顔を思い浮かべていた。 どんな人達が作っているのだろう。 お顔を会わせる機会はこれからもないだろうが、作って下さった方たちの心は充分に私に伝わった。 本当にいい経験をした。 今度の入院は、全て心から満足だ。 誰かに、入院したいがどこがいいだろうと聞いたら私は迷わず東大病院を勧める。 病院食の思わぬ利点がもう一つあった。 今日退院するので、入院してきたときにはいてきたズボンをはいたら、なんと腰回りは緩い、 東大病院の入院食はダイエットにもなるのだ。 毎食あれだけがつがつと、一つ残さずぺろりと平らげて、それで体重が落ちているのだからありがたい。 連れ合いに話したら、「私もダイエットのために東大病院に入院しようかしら」と言った。 いや、病気は辛いが、楽しい入院生活だった。 東大病院の、医師、看護師、掃除係、助手、栄養士、調理師の皆さんに心から感謝します。 私は、大きな病気にかかったら絶対に東大病院に入院しようと決めた。 子供のころから入院経験多数の私が言うのだから間違いない。 東大病院は最高です。 価値ある10日間だった。
- 2009/10/17 - アルコール依存症のテスト 今日で、入院8日目。 昨日は目の検査をして貰った。 シドニーの病院で、網膜にある黄斑に少し異常があるので三ヶ月に一度くらい点検に来るように言われている。黄斑とは網膜からの信号を脳に伝える一番大事な部分で、ここがやられると失明する。 ここ数日、原稿を書いていて原稿用紙の枠と、文字がかすれて乱れるよう見えてきた。ステロイド大量点滴のせいかと心配して医師に相談したら、即決で眼科で診察してもらえることになった。 シドニーの眼科に、日本製の最新の機械があって、それで網膜の断層写真を撮ってもらってその技術に驚いたが、なんの、こちらにはそれの上を行く機械があった。 網膜は10層からなるのだそうだが、ここの機械はその10層を全部ではないがかなり細かく読み取れる。 その画像がすぐにコンピューターのディスプレイに出て、それを見ながら医師が説明してくれる。 医師に前もってシドニーの機械の話をしていたものだから、医師は自分の機械を使いながら、これが一番新しい機械なんですよ、とほほ笑んだ。 いや、参りました。やはり、シドニーの眼科より遙かに進んでいます。 私は、シドニーで両目の白内障の手術をして二人の医者にかかったが二人とも失敗した。それが、シドニーでも有名な眼科医だからあきれる。結局日本へ帰ってきて日本の医師に手直しをして貰わなければならなかった。 私の母は東大で手術をして、当たり前だけれど、すんなりと上手く行った。 今時、白内障の手術の失敗をするなんて、と日本の友人たちにあきれられた。 ああ、私も東大で手術をしていれば良かった。 黄斑の具合は、悪くなっている兆候はない、という有り難い結果で、原稿用紙が見づらくなったのは、このところ書いている六ヶ所村の話で手こずっているからだろう、と思う。 今日、明日、明後日の午前中点滴治療を受けて、明後日の午後退院する。 あっという間に8日間経ってしまった。 その間、六ヶ所村の原稿に苦しみっ放しである。 こんなに苦しい原稿はない。 きちんと書くと、何しろ原子力の話だから、読者には面倒くさくて読む気をおこさせなくなるおそれがあるし、かといって、余り簡単にしてしまうと正確でなくなるし、そこのところの見極めが一番難しい。 漫画として面白く読んで貰いたいと言うのが一番だが、こういう話はそもそも面白くない、と言われればそれまでだし、漫画原作者として本当に苦しいところだ。 話は違うが、今週の週刊朝日で元財務相の中川昭一氏の急逝を取り上げて、「アルコール依存症、死に至る病」というおどろおどろしい題名の記事が掲載されていた。 今年二月のローマのG7でのもうろう記者会見は私もネットで見たが、確かにあれは泥酔状態の人間の姿だった。 氏は、大変に繊細な性格の人間だったそうで、政治の世界は辛かったようだ。その辛さを紛らわせるために酒に頼ったのではないかと、推測されているが、もしそうだったらさぞ苦しい酒だっただろうと同情せざるを得ない。 氏の思想は私には受け入れられる物ではなかったが、氏が政界に登場したときには、新鮮で、感じの良い好男子だと思った。それが、麻生内閣の一員になりテレビに頻繁に顔を出すようになって、昔とは面変わりしているのに驚いた。あの新鮮で、さわやかな感じは消え失せ、不機嫌で、苛立った表情ばかりで、いつも疲れているように見えた。 それも、酒のせいだと言われれば納得がいく。 良く、「酒は憂いを払う玉箒」などと言われるが、それは嘘だ。辛いときに酒を飲むと余計に辛さを増す。苦しさを増す。 その時は一時気分が高揚したように思うが、その酔いが覚めたときには、前よりひどくなっている。もともと、酒はダウナー系の働きを人間の脳に及ぼすので、「鬱」の人間にはよろしくない。 政界で生きて行くのは本当に大変だと思う。人間と人間の欲のぶつかり合いが政治だから、繊細な神経の持ち主には厳しすぎるだろう。 「鮫の脳みそ」と言われても平気でのさばり続ける鈍感さが無ければやって行けない。その点、氏は政界には不向きだったのかも知れない。 この記事の中で気になったのは、CAGEテストと言う物が書かれていることだ。次の4項目の内2つ以上当てはまる人は、アルコール依存症の疑いがあると言う。 その4項目とは、 あなたは今までに、自分の酒量を減らさなければならないと感じたことがありますか。 あなたは今までに、周囲の人に自分の飲酒について批判されて、腹が立ったり困ったりしたことがありますか。 あなたは今までに、自分の飲酒についてよくないと感じたり、罪悪感を持ったりしたことがありますか。 あなたは今までに、朝酒や迎え酒をしたことがありますか。 と言うのだが、私は困りましたね。 私は2つ以上どころか、この4つ、全部に当てはまる。 酒さえ飲んでいなければあんなことはせずにすんだのに、と深く後悔することが人生の中で幾つもある。 これだけで見れば、私は立派なアルコール依存症だ。 しかし、私はその気になればいつでも酒をやめられる。現に、10月8日以来飲んでいないのに、何ともない。これで後2週間以上禁酒をしなければならないがそれも全然苦にならない。 一時は朝起きたらすぐに飲み始め、夜寝るまで酒の切れたことがないような生活をしていたが、そんな物もやめようと思えばすぐにやめられた。 私の連れ合いは、私に「もう他の人の人生2回分くらい飲んだからいいんじゃないの」などと言うが、私が酒を飲んだからと言って文句を言ったりしない。 それは基本的に私の酒が陽気な酒であり、悪ふざけをして呆れられたりするが人に余り害をなさない(と自分だけで思いこんでいる)からだと思っているが、余り調子に乗って大騒ぎをして連れ合いや子供たちを困らせたことは何度もある。 連れ合いの私にたいする接し方は、困った子を扱う幼稚園の保母さんか、我が儘な患者をなだめる看護婦さんみたいである。娘たちの私に対する態度が最近連れ合いの態度に似てきた。どうも、父親としての権威なんて物はとっくに失っているらしい。 ええっと、何を言いたいかというと、上記のような心理テストと言う物は当てにならないと言うことだ。 私は、全部の項目に当てはまるのに絶対にアルコール依存症ではない。 最近は、酒を飲まずに過ごすと、大変気持ちがよいと思うようになってきたので、酒飲みとしてはもはや失格だろう。 私の友人の中には、肝臓の数値が悪いのに(ガンマGTPが200を遙かに超えているのに)平気で酒を飲み続けている人間が何人かいる。 私には彼らのような勇気がないし、第一私の肝臓は丈夫なのでそこまで悪くならない。 そんな私だから、CAGEテストなどしてみても、へへん、と鼻で笑えるのである。 てな事言っておいて、また大量飲酒を始めて、あっという間にアルコール中毒なんてことになるかも知れない。 桑原、桑原。
- 2009/10/12 - 入院3日目 東大病院に入院して3日目。ステロイドの点滴三本完了。 明日から弱いステロイドに切り替て様子を見る予定らしい。 ステロイドの効果は、すぐに出る物らしいが、いまのところあまり変化がない。 午後、見舞いに来てくれた連れ合いと談話室に行ったら、そこで話している人達の声が、耳に響いて辛かった。 だめで元々のつもりで入院したので、これで劇的に上手く行かなくても文句はない。 運良く、入院当日になって個室に入れたのは助かった。 入院生活は極めて快適である。 昔の東大病院は暗く汚かったが、新館に建て直されて非常に良くなった。 建物も良くなったが、一番良くなったのは患者への対応である。 受付から、看護師から、そして医師まで、昔の東大病院を知っている者からは信じられない素晴らしさだ。 とにかく親切だ。他の患者に接するところを横から見ていても感心する。そして、自分が親切にされると、その親切が身にしみる。 医療というのはこうでなくっちゃ、と思う。 天皇も「東大病院」に入院したことがある。勿論天皇だから我々と同じ扱いではないだろうが、一般の患者も根本のところでは天皇と変わりのない良い待遇を受けられる、と私は感じた。 昔の東大病院では、医者が大変に威張っていて、権威の固まりのようにふんぞり返っていた。その連鎖反応で、事務の人間も、看護師たちも実に患者に対して高圧的だった。 ところが、東大病院は昔と変わった。 東大病院が良くなったのは、確実に「東大闘争」のおかげである。「東大闘争」は医学部に端を発した。結局、安田講堂での全共闘と機動隊の戦いを経て、終熄していったのだが、決して全共闘側の全面的な敗北ではなかった。 「東大闘争」後、東大では医学部に限らず全学部で、教授達上層部が権力を振り回す封建的な古い体質から、民主的な体質へと移行が進んだ。 それが顕著に表れたのが、「東大病院」だと思う。 若い評論家たちは全共闘を批判するのが好きだが、私からすれば「何を言ってるんだか」と言うしかない。 今度の入院で一番有り難いのが食事だ。 シドニーで入院する度に、夕食は家から運んで来て貰っていた。 シドニーの病院では前日に次の日の食事のメニューが配られる。デザートまであって、何種類かのメニューを選べる。実に豪華な感じがするが、出てくる物はすべて、「どたっ」とした物ばかりで、とても私の口に合わない。 連れ合いは、私のために夕食を運んで来て、自分は病院で私に出される食事を食べる。 連れ合いは、物を無駄に出来ないつましい性格の上に、妙に好奇心が強く「病院の食事を食べてみたい」と言って食べるのである。しかし、東大病院ではその必要がない。 勿論、病院の食事だから、一流の料理屋のような訳にはいかない。しかし、空港や、駅のレストラン、あるいは、ファミリー・レストランなどより遙かに良い。(今回の環境問題の取材で、そのようなところで食べることが非常に多かった。) その第一は、化学調味料で舌が曲がることがないこと。 (私は、前記のようなところで外食をすると、その後数時間、舌がはれぼったくなり熱を持ち、気分が悪くなる。そのような店では必ず、化学調味料を大量に使うからだ。日本で外食をして化学調味料で苦しまずにすむ店は実に少ない。私も何とか、化学調味料に体をなじませることが出来たらとても生きやすくなるのだが、と、いつも取材に協力してくれる女性に言ったら、簡単に「それは無理ですね」といなされてしまった。たしかに、今更化学調味料特訓を行ってもだめだろうな) 第二に薄味なこと。前記のようなところの味付けは私に取ってあまりに塩分が強すぎる。 それに、非常に良く工夫されている。調理師は大変な苦労をしているのだろうと感心する。 食器までも、様々のものを気分を変えるように使っている。この神経の細やかさはシドニーの病院では金輪際味わえない物だ。 有り難い、有り難い、と言って毎食全部ぺろりと平らげている。 個室なので、誰にも遠慮せずに、コンピューターも使える。 「環境問題」の原稿も書いている。 しかし、今書いているところが、六ヶ所村の核燃料再処理工場の話で、まあ、これが色々入り組んでとにかく難しい。 病室で一人、点滴を受けながら七転八倒しながら書いている。 困ったことに、このような環境に一人だけでいると、「鬱」がぶり返してしまった。 耳の故障と、原稿と、「鬱」の三重苦に喘いでいる。
- 2009/10/09 - 災難はどこに転がっているか分からない 災難はどこに転がっているか分からない。 8月の末、シドニーのあるところでインターフォンを使わなければならないことになった。 そのインターフォンは通常取り上げるだけで相手が出るのだが、その時は、取り上げてインターフォンを耳に当てるとブーンという雑音が聞こえるだけだった。おかしいな、と思って、インターフォンのボタンを二、三回押したとたん、ギャキーン、というか、ギャンギャラギーンというか、すさまじい大音量がインターフォンに押しあてていた私の耳に飛び出して来た。それは、大きな音というより、槍を耳に突き刺されたような感じで、「痛い!」とインターフォンを取り落とすほどだった。 何と、それ以来、頭の左半分が洞窟かトンネルに入ってしまったような感じで、全ての音が反響するし、一つの音がこだまのように別の音を伴って聞こえたりもするし、耳鳴りがするし、とにかく音が少しでも大きいと、痛い、と思うのだ。 私は音楽が大好きで、オーディオマニアだが、今の私は音楽を聴くことが辛い。 私はこんな耳の状態は二、三カ月をも放っておけば自然に治るだろうと楽観していた。 また、オーストラリアは不便な国で、耳の具合が悪いからと言っていきなり耳鼻咽喉科に行くことは出来ない。家族全員がかかりつけのファミリードクターにまず診察を受けて、それから専門医に紹介状を書いて貰わなければならず、その場合どんなに急いでも一月先のことになる。 私は、9月5日の飛行機に乗る予定だったから、とてもそれまでに間に合わないからシドニーで耳鼻咽喉科に見て貰うことは最初からあきらめていたのである。 ところが今度「美味しんぼ」の「環境問題」の件で色々お世話になっている「た」さんに、言ったら、「それはだめですよ」という。 強烈な音にさらされると聴覚の神経が傷つく、それを早い内なら薬で直せる。しかし、日が経ってしまうともう元に戻らない、とある有名な音楽家の例を挙げて説明してくれた。 その音楽家はいまだに耳鳴りに悩まされているという。 冗談じゃない。私に取って音楽は大変に重要である。 その音楽が楽しめないのなら何のためにオーディオ・ルームを作ったか分からない。 そこで、9月に東大病院に電話をしたら、予約制で、予約が取れるのも10月8日が一番近い、という。 で、今日朝から台風を突いて本郷まで行ったんですよ。 聴覚試験を二種類して、二人の若い医師、一人の熟練の域に達した医師3人の診断を受け、結果的に、二週間以内だったならまだ可能性は大きかったが、事故が起きてから既に一月半経ってしまっているので、可能性は低いが、全然何もしないで自然治癒を当てにして待っているよりも、その低い可能性でも良いから追求すると私が言うのなら東大の耳鼻咽喉科としても出来るだけの治療をしましょう、と先生が仰言ってくれた。 早ければ早い方がいいので明日からでも良いと言ったのだがさすがに、東大病院ともなると組織が大きくてそんなに簡単にいかない。あさって、10日から入院して、強力な薬を点滴で入れて、私の管理を完璧にして、この耳の状態が良くならなくても他の問題で苦しんだりしないようにしよう、と言うことになった。 十分に説明を伺って理解したから、その治療を受けたからと言って治癒する可能性は低いことを十分に認識しての上の決意なので、責任は全て私にある。 問題は「美味しんぼ」の取材が16、17日にあるのだが、それは残念ながら延期せざるを得ない。 申し訳ないが、松茸は来年も生えるが私の内耳の神経は二度と元に戻らない。 私の我が儘を聞いて貰って、編集部、取材陣、にも謝って許して貰った。 で、今夜はオーボエの渡辺克也さんの、コンサートがああった。 渡辺さんとは一面識もなかったが、渡辺さんが「美味しんぼの愛読者である」というメールと、ご自分の演奏しているオーボエのCDも送って下さってそれ以来メル友になった。 ドイツを拠点にしていつもヨーロッパで活躍しておられる渡辺さんが、たまたま今回、私の日本にいる十月の初めにコンサートを開かれると伺ったので、私達も日本にいるので是非コンサートを聴きに行きたいと言ったらご招待いただいてしまった。 相変わらず我々小学校の同級生たちは、何かあると集る。今回も、渡辺さんのコンサートに行きたいというので私達夫婦の他に四人参加した。 渡辺さんの演奏された、ヴォーン・ウィリアムズのオーボエ協奏曲は私は初めて聞く曲で実に素晴らしかった。 さすがにあのヨーロッパの楽壇でトップの演奏家として活躍できるだけあって、技巧も、音楽性もこれは圧倒的、と言う他はない。 実に堪能した。 会場も割れんばかりの拍手で、渡辺さんは、アンコールとしてソロのオーボエ曲を演奏したがそれもまた超絶技巧のみごとな物で、完璧に満ち足りた。 しかし、問題は私の耳である。 渡辺さんの協奏曲の前に神奈川フィルハーモニー管弦楽団の演奏した、エルガーの序曲「コケイン」も普段の私なら大歓迎の曲だ。ティンパニー、チューバ、ベースが六本、シンバル、パイプオルガン、大太鼓、そのクライマックスの時の大音量と来たら座っている椅子も床も音で揺れる。 いつもなら私はその音の波にたゆたっていい気持ちになっているところだが、今の私は大きな音を聞くと耳が痛い。音楽を楽しむ以前の状態であることが判明した。最初は、オーケストラの音は大丈夫だと思っていたら飛んでもない。矢張り大編成のオーケストラの、しかも、エルガーの曲ともなればこれはしずかでしっとりという具合には行かない。決まるところではズガガーンと大音量だ。 演奏会の第2部はエルガーの交響曲第1番だ。聞きたいのは山々だ。 だがどんな名曲でも、耳が痛いと思ったらとても聞けない。 幸いなことに、渡辺さんの演奏した、ヴォーン・ウィリアムズの曲は編成も大規模でなく、どでかい音を出す曲でもなかった。 オーボエの良さをしみじみと味わえた名曲だった。 私はそれで十分すぎるくらいに堪能したし、楽屋で渡辺さんとお会い出来て、目的は達したから、二組のみんなには悪いけれど、第2部は、今の耳では楽しめないので退散することにした。 すると、二組もみんなも私に合わせて自分たちも帰るという。 女性の一人はみんなの顔を見たかったから来たのよ、などと、神奈川フィルハーモニー管弦楽団の人が聞いたら逆上するようなことを言う。(いや、実際に神奈川フィルハーモニーも、指揮者の湯浅卓雄氏の指揮も初めて拝聴したが、実に堂々たる演奏で、感服した。日本の音楽芸術の高さを改めて認識させられた。こんなすばらしいオーケストラを持っていることを、神奈川県人の一人として私は大変誇りに思う。耳の状態が良くなったら、また神奈川フィルハーモニーの演奏を必ず聴きに行く。) 演奏会のあった「みなとみらいホール」の建物の中に食べ物屋がごまんとあるので、その中の喫茶室に腰を据えて、今年何度目かの小規模同窓会を開いた。 小学校の同級生たちと話していると、本当に心がくつろぐ。心の中に暖かい風が吹き込んできて「鬱」の霧が晴れていくような感じがする。 私の「鬱」の治療に一番役に立つのは、小学校の同級生たちとの語らいであるようだ。
- 2009/10/03 - ノンアルコールビールの会 10月1日に、小学校の同級生たちで、ノンアルコールビール大会を開いた。 横浜に住む同級生の「ほ」が、酒の飲み過ぎで肝臓を手術し、その後一切アルコールを断ち、ノンアルコールビールで我慢していると、同級生の掲示板に書いたので、「よし、それなら、みんなでノンアルコールビール大会を開いて、彼を元気づけよう」と言うことになって開いたのである。 飲んべえの中には、「アルコールが飲めないのなら、勘弁」と最初から棄権した者もいたが、それでも17人集った。 ノンアルコールビールと言うけれど、瓶のどこにもビールとは書いてない。ビール風飲料、と書いてある。 ビールではないのでビールとは書けないのだろう。 本物のビールと違ってだいぶ甘いが、もともと、ビールにオレンジジュースを入れて飲む女性がいて、彼女は「甘くて美味しいわ」といっていた。 私は、絶対アルコールを飲まない、と言う気概を見せるために自分で車を運転して横浜まで行った。 横須賀市、秋谷の家から、四十数分で着いた。 電車を利用するより遙かに早い。 会は、その「ほ」による会の趣旨の説明から始まり、皆で、ノンアルコールビールで乾杯した。 肝臓の手術をしてやせたが、「ほ」は若い頃の彼に戻って、男ぶりは上がった。ガンではなかったというので、このまま養生すればまた飲めるようになるだろう。 元気なかれの姿を見て同級生たちは安心した。 中にひどい酒飲みがいて、ガンマーGTPは270以上だが全然何ともないと豪語して(ついでに、申し上げると、ガンマーGTPの正常値の上限は50です。270というのはかなりやばい数字だと思うけれどな)焼酎に梅干しを入れてがんがん飲んでいたが、私はそのような誘惑に負けず、ノンアルコールビールをのみつづけた。 アルコールが入らなくても、小学校の同級生の集まりというのはおしゃべりだけで楽しいので、あっという間に時間が経った。 ふしぎなもので、アルコール分ゼロなのに、飲み続けている内にいい気持ちになってしまった。お腹の中で、ノンアルコールビールが発酵して普通のビールになったんじゃないか、と言ったらみんなに笑われた。勿論、そんな訳がない。 同級生効果というものだろう。 十分にみんな満足して、次の会をいつ開こうか、などと言う話になり、お開きとなった。 みんなは二次会に行って飲むと言うことだったが、私は翌日のこともあるので失礼した。 アルコールを飲んでいないと車の運転も安心だ。 十時過ぎに家について、十二時頃に寝たが、参ったのは夜にトイレに四回も起きたことだ。 アルコールが入っていなくても、あれだけ飲めば、おしっこも出る。 ノンアルコールビールの会も悪くないと思った。 矢張り何より、同級生たちがいいんだ。 六年二組、最高だぜい!
- 2009/10/03 - 楽しい日だった 私の父は、恐ろしく子煩悩だった。 私達、姉と弟たち四人の姉弟、全員が、父に大変に愛された という思い出しか持っていない。 良く、人の話で、親に愛されなかったから、それがトラウマになって、自分が親になったときに子供を愛することが出来ず、不幸せな人生を送っていると言うことを聞くが、それは、私に取ってどうしても理解できないことの一つである。 子供の頃だけでなく、大人になっても、私に取って一番怖かったのは父だった。 父が怖かった、と言うのは、父が肉体的な、あるいは言葉の暴力を私達にふるうから怖かったと言うわけではない。 私は父に叩かれたことは生涯に一度しかない。それは、田園調布の家から、鎌倉の家に引っ越すときに、引っ越し前夜になっても私の部屋の片付けを私は全然済ませておらず、それに苛立った父が「これでは引っ越しが出来ないじゃないか」と言って私の背中を小突いた。 父に叩かれたのは生涯にその時ただ一度だけだ。 私達子供たちは、父を心から尊敬していたから、父から受ける評価が非常に重かった。讃めて貰えば嬉しいし、叱られたら落ち込んだ。父が怖かったというのはそう言う意味である。 他の誰に讃められるより、父に讃められるのが一番嬉しかった。 この歳になってこんなことを言うのは滑稽だが、父が亡くなってしまうと、何か自分で頑張っても父に讃めて貰えないのが淋しく悲しい。 9月27日にその父の十三回忌の集まりを、鎌倉の中華料理屋で開いた。 昔、父が良く使っていた料理屋であり、母が十三回忌の会場に選んだのだ。 母は予約するときに、簡単に名前だけで予約していたので、私達が店に入っていくと店の女将が驚いた。 もう二十年振りくらいになるが女将も相変わらず美しく陽気で親切だった。私の長男・長女がお腹の中にいるころから知っているんですよ、と懐かしがり、父の十三回忌に使わせて貰うのだと言ったらとても喜んでくれた。 バラバラのテーブルだと背中しか見えない人間も出て来るので、お女将に頼んで四つの大きなテーブルを一つに寄せて、その周りに全員がお互いの顔が見られるように座った。 全員で27人。私の父の直系だけでこの数だ。父の生産能力は非常に高い。 どこの家でもこうなら、日本の人口減少なんてことは起こらないのに。 姉の長男の司会で会は進行し、母にも一言、とマイクが差し出された。最初、母は「え、私も」とためらっていたが、一旦マイクを握ると、若い物たちにもっと頑張って欲しいと注文を付け、会場は活気づいた。 次々に、父の思い出話、母のこれまでの苦労に感謝する話、をみんながてんでに語り、大変に気持ちの良い会になった。 私達の家族会が上手く行っているのは、母と、姉の夫のおかげなのだが、中々改まってみんなが母と姉の夫に感謝の言葉を述べる機会と言う物はない物だ。 今回は、いい具合に、それが出来てみんな満足した。 その前の日は、私の家で、姉の次男の結婚披露と、弟の次男が子供二人と嫁さんをアメリカから連れて帰ってきたお祝いのバーベキュー・パーティーを開いたので、二日連続の家族の集まりだったが、全員えらく元気で、会が終わった後、父の孫どもは全員で二次会に繰出していった。 私は宗教を信じていないので十三回忌など、どうでも良いが、こうして家族一同が集まる良いきっかけになるのなら、十三回忌でも十五回忌でも、三十回忌でも、何度も続けたい物だ。 とても楽しい日で、父も喜んでくれたことだろうと、皆で言い合った。
- 2009/09/25 - 世の中はめまぐるしく変わる いやはや、世の中の変化はめまぐるしい。 私は今「美味しんぼ」で「環境問題」に取り組んでいる。 取材は春に行い、8月一杯に原稿を書き上げる予定で進めて来た。 私としては、8月頃から連載を初めて欲しかったのだが、小学館の予定もあるのだろう、9月27日発売号からの連載となった。 それはよいのだが、政権が民主党に変わって公共工事の見直しが始まった。 私が最初に取り上げたのは沖縄の泡瀬干潟であるが、私が取材しているときには埋め立て工事が中止になる気配はなかった。 ところが、新政権は泡瀬干潟の工事を止めると言った。 おお、何と素晴らしいことだ! これで、あの美しい泡瀬干潟を守ることが出来る可能性が生まれてきた。 新政権には、どうか、その方針を変えることなく、泡瀬干潟の埋め立て工事を中止して貰いたい。 それはいいのだが、そうなると、「美味しんぼ」が民主党政権の後追いをしているように見られるのではないかと、心配になってくる。 私が、「美味しんぼ」で、取り上げて出版を待つばかりになっている築地市場の豊洲移転問題も、新政権は見直すという。 ああ、連載を、8月から始めていたら、と悔やんでも悔やみきれないが、とにかく新政権が、公共工事の見直しに大きく一歩踏み出してくれたことは、本当に有り難い。 頼むから、途中で腰砕けになったりせずに、旧勢力側に飲込まれたりしないように、日本の未来を掛けて新政権には頑張って貰いたい。 八ッ場ダムの問題で、新政権がダム建設中止を宣言したら、ダム推進派が大騒ぎしている。 他にも、中止宣言を受けたダムの地方関係者が、抗議をしている。 推進派の人達の中には、ダム建設に深い利害関係があり簡単にやめられたら困ると言う人も少なくないようだ。 しかし、私が天竜川水系を回ってみたところ、ダムがその地方の住民に寄与している例は全くと言って良いほど無かった。 むしろ、環境破壊、川の死滅、生態系の破壊、などで川の周辺の住民は生活を破壊されていた。 この件については、「環境問題篇」の「天竜川」ついての話で書いてあるので、是非お読み願いたいと思う。 要するに、今、ダムの建設を推進している人達は、十年後二十年後に自分たちの子孫から激しく恨まれることになるということなのだ。 ダムを造って一旦川の流れを止めてしまったら、その被害は海にまで及ぶ。ダムを造って喜ぶのは、行政(政治家、関係省庁の役人、自治体の役人、)ゼネコン、御用学者たちだけである。 地方の住民には殆ど恩恵がない。しかも、ダムの寿命は思ったより遙かに短い。すでに機能を失ったダムが幾つもある。 ダムの推進運動に邁進している方は、天竜川の状態を見に行って貰いたいと思う。 今一時の利益のために国土を破壊して、それで、子孫になんと言うつもりなのだ。 ダムを良い物だと思っている方は、是非「美味しんぼ」の「環境問題篇」を読んで頂きたい。 天竜が水系のダム問題、長良川河口堰の問題、それぞれについて要点をまとめてある。 「美味しんぼ」が新政権の後追いをしているように思われたら心外だが、新政権の公共工事見直し宣言は、地獄に仏、のように有り難い。 どうか、このまま、めげず、負けず、この方針を貫いて貰いたい。 残りは、新政権が原発問題にどう対処するかだ。 六ヶ所村の核燃料再処理工場はどう扱うのか。 「美味しんぼ」が後追いしていると思われても構わない。日本の前途のために、今まで完全に政治家に失われていた理性を、何とか取り戻して貰いたいのだ。
- 2009/09/25 - あっという間に二週間 ああ、なんと言うことだろうか。 9月5日に日本へ戻ってきて、あっという間に2週間以上が過ぎてしまった。 この間の忙しさと言ったら、どうにもこうにも、話にならない物だった。 この間にしたことと言えば、小学校の同級生の娘さんが新潟の芸術祭に参加したのでその展示を、同級生たちと見に行ったこと。 秋谷に建て直した家の施工に関わって下さった方たちをお招きして竣工式の宴を設けたこと。 そして、今取り組んでいる、環境問題で取り扱う六ヶ所村の核燃料再処理工場について、原子力工学の専門家である、大学の同級生に講義を受けたこと。 鹿児島に、環境を考えた養豚場があるのでそれを見学に行ったこと。 三重県に、山林の実状を見るために、小学校の同級生で山林業で有名な人間に案内して貰って山に入ったこと。 その間に原稿書きである。 もはや、くたくたである。 いつも、日本に戻ってくるとこの調子なのだが、どうも体力の低下が甚だしく、えらく疲れた。 今回日本へ戻ってきた理由は二つあって、一つは、父の十三回忌を母が営みたいというので、長男としてそれを仕切らなければならないこと。 もう一つは、1988年以来放ったらかしにして、朽ち果てた家を建て直したために、その新しい家の設定をすることだった。 私は霊魂の不滅など信じない人間であるからこそ、亡くなった父はお墓の中などにおらず、常に私の身の回りにいてくれると思っている(何だか矛盾しているようだが、この考え方が正しい)。 したがって、十三回忌などと言う日本の葬式仏教の生臭坊主どもの考え出した儀式には何の意味も見いだせないのだが、母がしたいと言うからには、しなければならない。 母が、それで、安心するというのであれば、理屈をこね回す必要はない。母の気が済むように協力するのが長男の務めである。 宗教的な意味は別にして、亡き父のために、親族一同集るのは大変に意義のあることである。 私の子供たちも、姉や弟の子供たちも既に職業を持って普通なら忙しくて仲々会えないのだが、父の法要ということで、遠くはスイスから、アメリカから、近くはオーストラリアから(あ、近くないか)父の孫たちが全員集合するのだから、これは楽しい。 父は戦前中国で生活をしていて、二言目には、「中国人は実に立派な民族だ」と言っていた。同時に、戦前に日本が中国でした非道な行いを忘れることが出来ず、心を痛めていた。 「何とか中国人に償いをしなければならない」と言っていたが、縁があって、中国人の青年を日本に呼び寄せて、日本で教育を受ける機会を作って上げることが出来た。それが、父の中国人に対する償いの一つだった。 その中国人の青年も今や中年になってしまったが、いまだに父に対して深い思いを抱いていてくれていて、今度の法要にも大喜びで参加してくれることになっている。 甥の中の、一人はスイス人の女性と結婚し、一人はペルー人の女性と結婚し、私の次男は中国系マレーシア人の女性と良い仲で、父の法要に中国人、スイス人、ペルー人、マレーシア人も参加するわけだ。 父がその光景を見たら、陽気で騒ぐのが好きだった父のことだから大いに喜んでくれるだろうと思う。 と、書いてきて、どうも、小学校の同級生、大学の同級生など、やたらと古い仲間にいまだに私が頼っていることに気がついた。 今書いている「美味しんぼ」の環境問題では、もう一人小学校の同級生で遺伝子組み換えに詳しい人間の話も聞くことになっている。 10月の初めには、会社に同期で入社して以来の友人たちが家族連れで遊びに来てくれる。 11月には、同期入社の同期会が開かれる。 長い交友関係のある友人たちというのは、人生の宝物である。 そもそも、今回家を建て替えるについては、小学校の同級生で建築家の男に「設計してくれよな」と頼んだら、「僕は、オフィス建築が専門だよ。住宅なんて面倒くさいし儲からないからいやだよ」と拒絶された。 私が、「なんだ、それは」と文句を言おうと思ったら、すかさず、その友人が、「僕の大学の同級生で、優秀な住宅建築家がいるから、その建築家に頼んであげるよ」と言った。 それで、お願いしたのが、今度の家を建て直してくれた建築家なのだが、その仕事ぶりを見ていて、私は、「これは、敵わない」と思った。 私は去年、膝を人工関節に入れ替える手術をした後、リハビリで数人の若いオーストラリアの女性のフィジオセラピストたちの献身的な助けを受けて感動した。 「相手のことをここまで思い遣って仕事をするとは、なんと言う気高いことか」と思った。 今回、家を建て直す過程で、建築家とその事務所の方々の対応を見ていて、「これは、私にはできない」としっぽを巻いた。フィジオセラピストと変わりがない。 家に住む人のことを、実に、一センチ四方の間隔で思いやり、考え、着実に実現していく。 気が遠くなるような細かい作業を平気でこなしていく。 それが、建築家の仕事だと言われればそれまでだが、建築家の仕事に比べれば、物書きなんて、いい加減なもんだとつくづく思った。 相手の生活の細かいところまで思い遣りながら、同時に自分の美的感覚を保つ。 どう言う頭脳をしているのか、これが私と同じ人間とはとても信じられない。 私は建築関係のことについては無知だし、私の同級生ものんびり育った典型的なお坊っちゃまなので、何も言ってくれないから知らなかったが、実際に仕事を始めてから、なんとその建築家は住宅建築では日本でも大変に有名な方であることを知って驚いた。 本来なら、私などが依頼できる方ではなかったのである。 これが、小学校の同級生の有り難いところというか、恐ろしいところと言うか、そのような建築家をぽんと紹介してくれるのだ。 古い家にも愛着があったが、こうして新しい家が出来ると、これはまた感慨を新たにする。 もう、このまま日本へ戻ってこようと、真剣に思う。 子供たちがオーストラリアにいるから、オーストラリアから離れられないと言うのもおかしな話だ。 私の本願は、物書きとして、良い物を書くことだ。 私は日本語でしか物を書けない。 であれば、日本で暮らすのが当然だ。 やはり、新しい家が出来ると気持ちも変わる。 日本は最高ですよ。日本の国力が低下して、今に中国の下になるだろうが、そんなことは関係ない。 私は、物書きとして面白い物を書くのだ。そのためには矢張り日本に戻るしかないだろう。 とりあえず、今回は12月まで日本に滞在して一旦シドニーに戻るが、これから先は、矢張り日本だな。
- 2009/09/04 - ワラッタの花 今、飛ぶ鳥を落とす勢いの漫画家、「さ」さんが、去年、シドニーにご家族で遊びに来られたとき、シドニーでは他にお連れするところもないので、ブルー・マウンテンにご案内した。 その際に、ブルー・マウンテンのナースリー(nursery、オーストラリアはイギリスの伝統を受け継いで、庭造りが趣味というか、大抵の家が庭造りに精を出す。そのための、草花の苗を売っている大規模な店があちこちにあって、それをnurseryという。英和辞典を引くと、保育所とか保育園という意味で出て来るが、シドニーでナースリーというと、草花の苗、種、などを売る店だ)でワラッタ(Waratah、オーストラリアの原住民の言葉である)の苗を買った。 ワラッタはニュー・サウス・ウェールズ州の州の花であって、日本で言えば牡丹に近い美しい派手な花である。 私は、ランドクルーザーで、ブルーマウンテンあたりの山を走るのが大好きで、その際に、運が良いと、このワラッタの花が自生している所に出会うことが出来る。 このときの興奮と言ったら、言葉に尽くせない物がある。 すさまじい荒れ地のでこぼこの山道を時速5キロメートルほどの低速で用心深く走っているその目の前に、真っ赤な色のワラッタ が突然現れたときのあの驚きと喜び。実に、例えようがない。 敢えて言うなら、闇夜で花火を見たときのような感激だ。 本来なら、ワラッタは、そのように山道を分け入って走った際に出会うときの興奮として取っておくべきなのだが、去年、「さ」さん御一家をブルー・マウンテンにお連れしたときに、そこのナースリーでワラッタの苗を買ってしまったのだ。 ワラッタの花が咲くのは10月過ぎである。 今年は、9月5日に日本へ行かなければならない。 残念ながら、ワラッタの花は見のがすかと思ったら、私の一念が通じたのか、10日ほど前に、開花した。 連れ合いと娘に、開花した、と言う知らせを聞いてカメラを持って、裏庭に飛び出したら、そこにあったのは、淡い色のワラッタだった。 私が求めていた深紅のワラッタではない。私は、大いに落胆した。 「買うときに、店の人間に、深紅の花かと確かめたのに、裏切られた」と逆上した。 すると、娘たちは、「お父さん、あわてないで、ワラッタは日光を沢山浴びると色が出るそうよ。もう少し待って」という。 待てと言っても、時間は9月5日までしかない。花の気持ちは分からない、と、ぷんぷん怒ったのだが、ああ、なんと一昨日あたりから、花の色に赤味が付いてきたと言う。 まさかと思って見に行ったら、ああ、素晴らしい! まだ、完璧ではないが、このまま行けば、絶対深紅になる。 このワラッタは、私が「こんなワラッタ、引抜いて捨ててしまえ」と喚いたのを聞いていたに違いない。 そこで、私が、日本へ行く前に大急ぎで赤くなったのだ。 写真を載せます。(写真はクリックすると大きくなります) 咲いたばかりで、淡い色の時。 そして、今日の午後のワラッタ。 明日から、三ヶ月日本で過ごすが、楽な日々ではない。 仕事が輻輳しているんだよ。この歳で、働くために日本へ行くのだ。 そんな辛いときには、このワラッタの花が私を元気づけてくれるだろう。
- 2009/09/01 - 自民党代議士の46パーセントが世襲 30日の衆議院選挙の結果、民主党が大勝したので、日本は生まれ変わるのではないかと浮かれている人達がいるが、それはまず無理な相談だろう。 ここまで国力が落ちてしまった日本を、20年前の水準まで戻すことはもはや不可能なことである。民主党でなくても、出来る相談ではない。 自民党の衆議院議員の内、46パーセントが世襲議員であることが分かった。 私は自民党の心配をするつもりはないが、これは自民党にとって大変な事態ではないのか。 改選前の、自民党の世襲議員の割合は30パーセント台だった。それが、10パーセント以上増えたのだ。これは世襲ではない議員の数が減ったので、総体的に世襲議員のパーセンテージが上がったのだ。 これは大きな意味を持つ。自民党の政治家は、政策や、政治的主張を唱えても当選できない。 当選するためには、以前、このブログでも取り上げたが、昔の藩主のような封建的な基盤を持っていなければならないのだ。自民党に現代的な政治は望めないと言うことだ。 もう一つ今度の自民党の当選議員で特徴的なのは、小選挙区では落ちたが党内力学おかげで、二流の古ぼけた議員が比例で復活して居直った、と言うことだ。 世襲議員と、本来なら消滅すべき、古じいさんが執念深く崖に爪を立ててよじ登って戻って集ったのが今度の自民党の当選議員たちである。こう言う党に何か新しいことが出来ると思う方が間違っている。できるのは、民主党のあら探しだけだろう。 一番意味が大きいのは、過去の三人の総理大臣が全部改選されて入って来たことだ。麻生氏は現職だから、まだ仕方がない。だが、安倍・福田という、総理の座を途中で投げ出した人間が当選したことが、本当に不思議だ。 その国の最高の政治支配者になった人間が、自らその座を放り投げておいて、あろうことか、次の選挙にまた立候補すること自体が全く腑に落ちない。 政治家として最高に力を振るえる地位を与えられながらその座を放り投げただけで、普通なら、座敷牢で死ぬまで蟄居と言うのが日本人としての美学だろう。 首相の座を放り投げた段階で、一切の公的地位から身を引くのが当然なのに、代議士として居残り、あまつさえ今度の選挙に再び立候補した。 この奇怪極まりない無責任な態度は何なのだ。ここまで人間としての恥の感覚を欠いた人間は、世界中で聞いたことがない。 で、彼らを見せ物にして見せて歩いて見せたら、気持ち悪いもの見たさで、けっこうな見物人が集っていい商売になること間違いなしだ。 自民党はそう言う珍しい人間を抱えているのだから、これからの選挙資金稼ぎに、そのような人間をまとめて「自民党・LDP醜悪動物見せ物団」などを作って、地方巡業をして政党資金を稼ぐことをお勧めしたい。 そもそも、そのような奇怪な人間を選出した選挙区の人間に責任があるので、選挙区の代表も数十人ほど加わえて、「こんな顔の人間が、こんな代議士を選びました」書いた札を首から提げて歩かせると良い。 世襲議員が全体の46パーセントと言う自民党の議員団の構成が心配だというのは、今まで世襲議員が、政治的に日本を良い方向に導いたことがないという厳然たる実績によることが一つ。 もう一つは、自民党は今度の敗北を取り返して次の選挙に勝利するために一番必要なのは人材だが、その衆議院議員の中の46パーセントが世襲議員に占められてしまい、しかも、それに加えて、大物、と言うことは古ぞうきんのような使い古しで、かつて役に立ったことはないし、これらも役に立つことは絶対にないことがはっきりしているのに、自分だけは役に立つと思いこんでいる多幸症の人達、の数が比率的に多くなってしまったことだ。 世襲議員は肉体的年齢は若くても、自分の父親・祖父の思考形態をそのまま受け継いでいるから、精神的年齢は非常に老衰している。新しい方針を立てる意識が最初から欠如している。 直近の三代の首相は全て世襲だったが、自分の父親・祖父の栄光がそのまま今の世の中で通用すると勘違いして失敗した。 一番哀れだったのは、安倍某で、祖父の岸信介は「満州国は私の作品」と公言するくらい、歴史的な自己批判ゼロの悪党だったが、悪党の親玉になるだけのことはあって悪知恵のすごさは余人の及ばないところだった。しかも、肝っ玉が太かった。 (ついでに言うと、今日本中で悪さをしている統一協会を日本に引き入れたのは岸信介で、その女婿の安倍晋太郎、その息子の安倍某も肩入れをしてきた。どんなに悪いことをしても、統一協会の組織まで警察の手が伸びないのは、安倍某を始め自民党の代議士が統一協会から金を貰っているからである。岸信介を始め自民党の代議士は自分の利益のために邪宗を日本に導き入れ、その邪宗が日本人から金を召し上げて韓国に宏大な敷地を作り、そこに中学・高校・大学まで作っているのに手を貸している。韓国で、韓国人と結婚した日本女性の大半は、統一協会の集団結婚式で日本からやってきた統一教会の信者の女性だという。岸信介以後の自民党の代議士は日本人が統一協会から毎年莫大な金を奪われている事実にふれようとしない。統一教会系の集まりに安倍某がお祝いのメッセージを送ったことが問題になったとき、安倍某は「秘書が勝手にしたこと」で逃げた。それで、安倍某の秘書に統一協会の人間がいることがはっきりした。秘書にがっちり食込まれていては、安倍某も統一協会が日本人を食い物にしているのを見ても、〈いや、気がつかないふりをしているだろうが、〉なにも手を打とうとしないだろう。こう言う人間を表現する最適な言葉があったな。売◎◎とか、◎国◎とか、◎◎奴、とか言うんだがね。 ◎◎の中にどんな字を入れるか、それはお好みでね。売上増、全国一 旗本奴でも、いいんだよ。と、こうやって逃げを打っておくところは私もなかなかのもんだね) だが、岸信介の孫は、彦の方は祖父より良かったかも知れないが、豆はだいぶ落ちた。 (漢字の練習です。彦、豆を偏とし、頁を作りをとして漢字を作ってみてください) しかも、私自身そうなので、大変に同情するのだが、大腸が弱く、私と同じようにちょっとした精神的なストレス、食べ物によるアレルギーなどで、激しい下痢をする。 これは、一国の総理大臣としての任務を勤めるのは大変に難しい。 いや、代議士としても任務を十全に果たすのはきついだろう。 要するに、安倍某は総理大臣どころか、代議士になることすら無理なのだ。 その安倍某が、代議士になり総理大臣にまでなれたのは、本人に能力があったからではなく、取り巻きの封建的な家臣団がとにかく代議士に、とにかく総理大臣に、と形だけ付けることに道を造ったからだ。 私は安倍某が首相の時の演説を聴いていて、途方に暮れた。およそ世界的な危機意識を欠いており、世界で日本が何をすべきか語ることが出来ない。自己陶酔的な美辞麗句でナショナリズムを煽り、実際には単純に、アメリカの防衛戦略に従うと言うだけである。 それが、日本では、正しい防衛策を述べたと褒めそやされる。 安倍某は小泉某の真似をして、アメリカの前にはいつくばって、アメリカ大統領の靴をなめることを日本の外交の基本と心得ていた。 人間という物は面白い物で、Aという人間が、Bにぺこぺこすると、BはAを自分の言うがままになる子分とおもう。 一方AはC、Dと言う人間に対しては偉そうに振る舞う。 しかし、CとDは、AがはいつくばってBの靴をなめるところをみてしまった。と、なると、CもDも、ついでにEもFも、Aを軽蔑する。 Aが、C、D、E、Fに兄貴風を吹かしても、みんなAのあわれな醜い姿を知っているから表面は笑顔を浮かべても腹の底でせせら笑うだけである。 上の文で、Aは日本、Bはアメリカ、C、D、E、Fはアジアの国々、である。ヨーロッパで日本はハナから相手にされていない。 ヨーロッパで日本が話題になるのは、アニメについてだけである。 ここまで日本の国際的な地位を下げたのは、今までの自民党政府だったが、その自民党の中で、今回生き残ったのは、最近の三人の首相で良く分かったとおり、無能な世襲代議士が46パーセント、残りは、今までさんざん無能をさらけ出してきた老人ばかりである。 大体町村某、伊吹某のように、選挙区で負けて、比例で代表制で復活した人間が、派閥の長に戻るとしたら、これは、もう派閥を統率する力もないだろう。選挙区で落ちた、と言うことはその地区の代表ではない、その代議士は選挙区という地盤を代表していないと言うことだ。代表する地盤のない代議士がどうして派閥の長になれるというのだ。 今生き残った、自民党の代議士は、こんなクズばかり。 リサイクルにも使用出来ない、産業廃棄物以下の存在である。 これで、自民党を再生するのは難しい。 若い力のある人間が大勢集って来て自民党再生のために力を尽くせば何とかなるが、今の自民党が若い人間を呼び込む魅力を持っているだろうか。 もっとも、余り心配することはないのかも知れない。 次の選挙で、今回落ちた候補者たちが、ゾンビのごとくよみがえってお涙頂戴的な選挙活動をすると、寛大な日本の選挙民は、「あら、可哀想に、今度は入れてあげようかしら」なんてんで、入れてくれる可能性はかなり高い。 自民党再生を待つのではなく、日本国のさらなる破壊を待てば、自民党の再生もあり得るし、その場合、日本は地獄へまっしぐら、ということになる。 しかし、真面目に考えて見ると、自民党の総選挙当選者の46パーセントが世襲、と言うのは本当に恐ろしい。 いや、自民党のことを考えて恐ろしいと言っているのではない。 この日本という国が、日本人がもはや駄目になってしまったのではないかという恐怖がこみ上げてくるのである。 (以前、この日記に書いた世襲議員のことについての記事を読んでください)
- 2009/08/17 - 禁酒と鬱 先月の13日から、禁酒を始めた。その間、1度だけ、お呼ばれでどうしても飲まなければならないことがあり、禁を破ってしまったが、その1日を除いて、もう1カ月以上1滴も酒を飲んでいない。 先週、寿司を食べに行った。そこの店主の腕前は見事で、日本で店を開いても高く評価されると私は思っている。 魚、エビ、貝、など極上の物をそろえてくれて、わさびもタスマニア産の新鮮なわさびで、有り難かった。(オーストラリア人は、実に、はしっこくて油断がならない。オーストラリア人がわさびを栽培するとは信じられなかった。今、シドニーではインターネットで、タスマニア産のわさびが買えるのだ) 子供たちはそれぞれ忙しいので、家族そろって何処かに食べに行くとなると、日時の調整が大変で、時には「今回自分は抜ける」などと言う者も出て来るのだが、この寿司屋に行くとなると、全員真剣に日時の調整に励む。この寿司屋に行くのは、私達にとって特別のことなのだ。 そんなに美味しい寿司を食べるのに、私は1滴も酒を飲まなかった。 浅草の美家古寿司の店主は、自分が酒を飲まないものだから、「寿司はお茶を飲みながら食べるのが本当だ」などと無茶を言うが、私は大学生になって以来、酒を飲まずに寿司を食べたことはない。当然、美家古寿司でも、店主が「酒なんか飲んだら、寿司の味が分からなくなっちゃう」などと文句を言うのを聞き流しながら酒を飲む。(店主はそう言うくせに、店に酒樽をでんと置いてあるのはどう言う了見なんだか) その私が、寿司を食べるのに酒を飲まなかったのだ。 この数十年間記憶にないことだ。 我ながら、意志の固さに驚いた。 私は毎年1ヶ月か2ヶ月、酒を飲まない時期を作る。 それは、私が決してアルコール中毒でもなければアルコール依存症でもないことを、確かめるためだ。 私は酒が大好きなのだが、毎日ぐでぐで酔っぱらう日々が続くと、自己嫌悪に陥る。自分がだらしのない情けない人間であることをしみじみと自覚して、自分で自分がいやになるのである。酒をしこたま飲んだ後、鏡をのぞいて、そこに、だらしない酔っぱらいの顔を見付けると、本当に醜悪だと思う。 その自己嫌悪が重なると、酒を止めようと思う。 良く、休肝日と称して、週に1日か2日、酒を飲まない日を作ろう、などと医者は言うが、私はそのような卑怯なまねは出来ない。 飲むなら毎日しっかり飲み続ける。止めるなら、週に1日とか2日などではなく、すっぱりと1カ月2カ月断つ。 大体、酒を飲めば肝臓に負担がかかるのは当たり前で、肝臓を休めるために週に2日くらい休もう、なんてのは酒飲みとしての覚悟が出来ていない。 自分の精神がだらけるのを見るのがいやだから禁酒すると言うのと、肝臓が悪くなるのを恐れて禁酒すると言うのとでは、禁酒の意味が違うと思うんだが、まあ、これも酔っぱらいの自己自賛ってやつかな。 去年は3月に膝の関節を人工関節に入れ替える手術をしたので、10月まで酒を飲まなかった。 10月から飲酒を再開して、ぶっ通しに7月12日まで飲み続けた。 6月に入ってから、毎晩どろどろ酔っぱらっている自分がいやになった。 しかも、定期点検で血液検査をしたら、生まれて初めて肝臓のγGTPの値が、正常値を大幅に超えていた。 良く、1日3合だかの酒を10年間飲み続けると肝硬変になり、肝臓ガンになるという。それなら、私はとっくに肝硬変になっていなければならないはずだ。 40になるまでの私は、朝起きてまず2合(これは、連れ合いに隠れて飲む。連れ合いは私が酒を飲んだからと言って文句を言うような人間ではないが、私自身朝から酒を飲むところを見られるのが恥ずかしいと言う気持ちがある)、昼はもう大っぴらに2合、夜は最低で7合、合わせると毎日最低で1升1合飲んでいた。 それで、週刊誌2本、隔週誌2本、月刊誌1本の連載を抱えており、一本も原稿を落としたことはなかった。 40になってすぐに、医者の誤診で慢性膵炎と言われ、このまま酒を飲み続けると死ぬと脅かされ、二番目の娘が生まれたばかりだったので、それでは親として無責任だと思い。酒を断った。 1年6カ月後に、運良く、誤診と判明して、酒を飲み始めたが、流石に酒量は落ちた。 しかし、シドニーに来て、何かの拍子に医者にどのくらい酒を飲むかと聞かれることが何度かあって、その度に正直に言うと驚かれるので、少なめに申告することにした。 毎晩ワイン1本くらいなら、文句は言わないだろうと思って、そう申告すると、どの医者も「それは小瓶か」とたずねるから、「いや、大瓶だ」と答えると、「それは、多すぎる。毎晩飲むならグラスに1杯か2杯にしろ」と言う。 私にとって、ワインを1杯や2杯飲むなら、むしろ何も飲まない方が良い。 フランス料理を食べに行くと、まず食前にシャンパン、キールなどを飲み、それから白1本と赤1本ずつ、食後にカルバドス、コニャック、グラッパ、あるいはポート・ワインなどを1、2杯飲む。 毎日の晩酌はもっと簡単である。連れ合いに教えて貰ったが、私は1カ月に基本的に750ミリリットル入りのウィスキーを1ケース(12本)飲むそうである。(客があったりすると、それを口実にもっと飲むことになる。) 私は、連れ合いに、「オーストラリアのウィスキーはアルコール度が40度だ。日本ではウィスキーは42度。オーストラリアの方が2度低い」と言ったら、「たった2度の違いに何か意味があるの」と笑われてしまった。 これが、ワインだと1本では足らず、追加でウィスキーや焼酎を2杯は飲む。私の1杯は、ウィスキーなら80CCに常温の水80CC、焼酎なら、150CCに常温の水25CC、氷はなし、が決まりである。 大した酒量とは思わないが、医者に言わせれば、多いらしい。 それくらいの酒をずっと飲んでいて、肝臓は全く異常が無く、私は自分の肝臓は鋼鉄製だ、と自慢していたが、やはり私も生身の人間であることを今回γGTPの値が正常値を超えたことで悟った。 (ただ、これは、アルコールのせいではなく、手術後長い間、最近まで、色々と強い薬を飲み続けたからだと思う。) しかし、肝臓の数値が悪くなったから酒を止めるというのも実に卑怯だ。 とはいえ、そろそろ毎年恒例の禁酒月間を設けても良い頃だ。 そこで、検査をしてから1月くらい経って、その頃日本から来たお客が帰るのを機会に禁酒することにした。お客がいるのに、私が酒を飲まないなどと言う失礼なことはできない。(という具合に、酒飲みは酒を飲まなければならない理由を、幾らでもこしらえることが出来るのである) お客が帰ったのが7月13日の朝。その夜から禁酒を始めた。 禁酒を始めて最初の3日くらいは、実に辛い。 飲みたくて仕方がない。それを、しのぐために、食前にまず冷たいお茶などをがぶがぶと飲み、食事が始まると、とにかく、脇目もふらず一気に食べる。 不思議なことに、ある程度、腹に物が入ると、私の場合そんなに酒を飲みたいと思わなくなる。 それで、酒を飲みたいという激しい欲求をやり過ごすことが出来る。 その山を乗り越えるのが大変なのだ。 酒飲みは酒を飲まずに食事をすると、非常に淋しくむなしく感じる。 その切なさに耐え難くなって、一口飲んだらおしまいだ。 あとは止めどなく飲み続けてしまう。そう言うときは、後でひどい敗北感を感じる。 酒を飲みながら食事をすると、夕食に2時間近くかかるが、酒を飲まないと、10分もかからずに終わってしまう。 私は自分が食べ終わると、家族に、早く食後の甘い物を食べようとせかす。 連れ合いや子供たちは、まだ食べている最中である。 娘は、文句を言う。「お酒を飲むお父さんに合わせて、子供の頃から2時間かけて夕食を食べるようにして来たのに、突然そんなことを言われても困るわよ」 それも、その通りで、私は、手持ちぶさたに家族が食事を終わるのを待つことになる。 私は酒をしっかり飲んでいても、食後の甘い物は欠かさないが、酒を飲まないと、余計に甘い物が食べたくなる。 自分でもあきれるほど甘い物を沢山食べる。 5日も経つと、もう酒を飲まないことが苦痛でなくなる。 馬鹿げた話だが、酒を飲まずに夕食を終えると「勝った」という気持ちになるのである。 1カ月も経つと、もうまるで酒を飲みたいと思わなくなる。むしろ、酒を飲むのがいやだ、と思うようになってくる。 これが、実に我ながら奇怪だ。 酒を飲んでアルコールが効き始めた瞬間、ふわっ、といい気持ちになる。心が軽くなるように思うのである。 もっと飲めば、もっと良い気持ちになるのではないかと思って更に飲む。ところが、アルコールが効き始めた瞬間の、ふわっ、としたあの感じは戻ってこない。ただ、でろでろ、酔いが深くなるだけである。 そして、酔いが覚めてくると、じわじわと心が落ち込んでいく。 翌朝の目覚めは最低である。 目が覚めた瞬間、部屋中の空気が鉛になってしまっているように感じる。 アルコールは、薬物で言うと、Downer(気持ちをダウンさせるもの)系の働きをするそうだが、正にその通り。 鬱病にアルコールは良くない。 今年のシドニーの天候は最低で6月7月は雨ばかり降って、それがてきめんに私の精神に悪影響を及ぼし、死んでしまいたくなるほど鬱が進行した。 ところが、酒を止めて、2週間ほど経ったある朝、いつもより目覚めの気分が軽いのに気がついた。8月に入って天候が好転したこともある。 目覚めた瞬間鬱にのしかかられる、と言うことがない。 なんだろう、これは。 鬱が晴れていくのだろうか。 2004年に鬱病に陥って以来、禁酒したことは何度かあるが、こんな気持ちになったことはない。 どうしたことだろう。 なんだか、暗闇から一条の光が差し込んできたような気がするのだ。 連れ合いと娘たちと、日曜日の市場に出かける気分にもなってきた。 このまま、鬱から抜け出していくことが出来るのだろうか。 であれば、これは、うれしい。 しかし、困ったな。 酒を再開するのが怖くなってきた。 飲んだら、また鬱がひどくなるのだろうか。 今差し込んでいる一条の光も消えてしまうのだろうか。 酒を飲むと、天から下がって来ている救いの蜘蛛の糸が切れてしまうのだろうか。 9月に日本へ戻るが、父の13回忌など、行けば人との集まりが沢山ある。その度に結局酒を飲まなければならなくなる。 酒を飲みつつ、鬱から自分を解放する道を探さなければならないな。実に苦しいところである。
- 2009/08/10 - 福沢諭吉について6 前回で、私は福沢諭吉の「大本願」について書いた。 念のために繰返しておくと、「福沢諭吉の大本願」とは、「兵力を強くして、貿易を盛んにし、アジアを圧制し、イギリスなども自らの圧制の下に置くような、そんな国に日本をしたい」と言うことである。 28歳の時に福沢諭吉はこの「大本願」を打ち立てた。 福沢諭吉は以前言ったことと正反対のことを言うことが多く、それで、多くの人間は、福沢諭吉はある時点から転向したとか、考えが変わったとか言うが、それはその時々の福沢諭吉の言葉に目くらましを受けているからであって、福沢諭吉は大本願成就のために、時に応じて自在に言うことを変える。言う事を変えるだけで、根本の考えは変わっていない。 例えば、1872年(明治5年)に発行した「学問のすすめ」初編の冒頭近くで、 「実語教に、人は学ばなければ智恵がつかない、智恵のないものは愚かな人間である、とある。であれば、賢い人と愚かな人との違いは、学んだか学ばなかったによって出来るものだ。」(全集第12巻29ページから。著作集第3巻6ページから) と言い、次のように続ける。 「ことわざに言う、天は富貴を人に生まれながら与えるのではなく、その人の働きによって与えるのである。そうであれば、前にも言った通り、人は生まれながらに貴賤貧富の区別はない。ただ、学問で努力をして物事を良く知る者は貴人となり、富人となり、無学の者は貧しい人間となり、下人となるのだ」 これを読むと、学問をすれば、身分が高くなり(身分などと言う言葉自体問題だが)、豊かになる、と読者は考えるのが自然だ。 ところが、1889年(明治22年)に時事新報社の社説に書いた「貧富痴愚の説」では、 「最も恐るべきは貧にして智ある者なり」(全集第12巻62ページから) と言い、智恵があるのにそれを生かす財力がなく貧しいと、貧乏という名の鎖に繋がれた猫の仔同然で、実に哀れである、と続け、更に次のように言う。 「貧しくて智恵のある者は他に鬱憤を晴らすしか道が無く、そこで世の中の仕組みの全てを不公平であるとして、しきりにこれに対して攻撃を試み、財産私有制度を廃止しろと言い、田地田畑を共有のもにするべきだと言う。ストライキ、社会党、虚無党(ニヒリスト)、などその原因となるのは貧しくて智恵のある者であることは明かである。(中略)貧しい人間に教育を与える事の利害は、考えなければならないことである」 と続け、 「ある人が言うには、知識は富のもとであり、智恵がなければ富を得ることが出来ない。英国の富貴も知識の成せるものであり、米国の繁盛も教育に原因するものである。我が日本の富貴強大を望むなら、まず我が人民を教えて、その知能を発達させなければならず、知能を得ることは金を得ることに等しいなどと言って、しきりにはやし立てる者がいるが、この説は、いわゆる教育家の間で行われる方便の言葉であり、世の中の実際は、必ずしもそうであるとは見えない」 と言う。 もう一つ、1891年(明治24年)に書かれた、「貧富論」を見てみよう。 まず、冒頭で、 「経済論者の言に、人生の貧富は智恵があるかないかによるもので、人間は学ばなければ智恵がつかない、無智の人間は貧しくなる、教育は富を積む本となるとして、貧富の原因は全てその人間に智恵があるか、あるいは愚かであるかに帰する、と言うのがある。 この言葉には一理あるが、貧民の多数を平均すれば、大抵智恵に乏しい者であり、事の原因と結果を相照らして子細に社会の実際を見れば、今の世の中の貧民は無智であるが故に貧しいのではなく、貧しいが故に無智なのであると言っても差し支えない場合が少なくない。」(全集第13巻69ページから。著作集には入っていない) と言い、更に、経済論者の言うように、富を築くのは知恵の働きで、智恵は教育によって得られるものであるが、衣食にも窮する貧乏人は教育を受けることが出来ないし、教育を受けても衣食に窮していてはその智恵も役に立たないと続け、次のように言う。 「衣食こそ智力を生み出し活用する本となるものであるのに、その基本を問わずに、結果を論じて、智力があれば衣食が豊かになると言って、人の無教育をとがめるのは、因果の順序を本末転倒して無理なことを言って責めるものと言うべきである」 「貧富痴愚の説」の「ある人」と、「貧富論」の「経済論者」というのは、「学問のすすめ」を書いた福沢諭吉自身ではないか。 「貧富痴愚の説」と「貧富論」では福沢諭吉を福沢諭吉自身が否定しているのである。 たいていの人は、「学問のすすめ」は知っていても、「貧富痴愚の説」と「貧富論」は知らないから「貧富痴愚の説」と「貧富論」を読むとひっくり返るほど驚くだろう。 しかし、驚くのは、福沢諭吉のことを良く知らないからだ。 「学問のすすめ」初編と「貧富痴愚の説」「貧富論」は反対のことを言っているようだが、福沢諭吉自身は「大本願」成就の道筋に沿っていると考えていただろう。 「学問のすすめ」を書いたのが1872年、「貧富痴愚の説」を書いたのが1889年、「貧富論」を書いたのが1891年。 1872年と1889年、1872年と1891年、とそれぞれ17年と19年の開きがあるがある。 明治5年から17年、19年の内に、日本の社会の状況は大きく変わった。 明治5年の段階で日本は徳川時代260年の鎖国の眠りから覚めて開国したばかりで、欧米に比べて、科学、社会学面で非常に遅れていた。その遅れを取り戻して、福沢諭吉28歳のときの「大本願」を成就するためには、即ち上記「貧富痴愚の説」にあるように、 「我が日本の富貴強大を望むなら、まず我が人民を教えて、その知能を発達させなければなら」 ないと考え、「学問のすすめ」を書いて、人々に学問をすることの意義を説いたのだ。 それから17年、19年経った。 その間に、自由民権運動が起こり、1892年には国会が開設されることになった。 勉強すると社会の矛盾が見えてくる。それで、矛盾を失くそうと運動を始める人間が出て来る。 国会開設を前にして様々な政治活動が行われる。 そのような、社会の状態を見て、これでは、国がバラバラになって自分の「大本願」が成就されないと福沢諭吉は危機感を抱いたのだろう。 貧富論の中で福沢諭吉は次のようなことも言っている。 「既に国を開いて海外と文明の面で争い、国際競争の中で国家の生存を計るためには、国内の不愉快はこれをかえりみる暇はない。 たとえ、国民の間に貧富の格差が大きくなって、貧しい者は苦しみ豊かな者は楽をするという不幸があっても、それには目をつぶって忍び、富豪の大なる者をますます大ならしめて、商業上の国際競争に負けないようにすることこそ、急務である」(全集第13巻93ページ) なんだか、この話は最近聞いたことがないか。 そう、元首相小泉某とその経済担当大臣竹中某が行った、構造改革という奴だ。 大企業の税を軽くし、それに加えて大会社がその時の必要に応じて人を雇ったり解雇したり出来るように、しかも、大企業がその臨時に雇った人間の保険など負担をしないで済むように、労働者派遣法を改正して大企業が安易な派遣切りが出来るような状態を作った。 その目的は、福沢諭吉と同じ、大企業を更に大きくして日本を国際競争に勝たせようと言う物である。 大企業と、ファンドマネージャーなどが巨利を得て、派遣社員が派遣切りをされて貧困にあえいでも、それは国際競争の役に立つから目をつぶる。 福沢諭吉は実に日本の社会の先覚者である。 福沢諭吉は「大本願」成就が目的だから、教育のために社会的に目覚めて、不平等を解消しろなどと言う人間は、富豪(大企業)を更に強大化して日本が国際競争に勝つという福沢諭吉の「大本願」の実現の妨げになると考えた。 それで、 「これ以上貧しい人間に教育を与えるな」 と主張するのである。 福沢諭吉にとっては、何事も車を運転するような物である。 目的地に到達するまでに、道路事情によっては、左に曲がり、右に曲がらなければならいことがある、後退することもある。しかし、ちゃんと目的地に向かっているのであって、曲がろうと後退しようと、目的地に到達するのを実現させるためのことだから、全く頓着しないのである。 不思議なことに、多くの論者が、福沢諭吉はこの「大本願」を成就することに全てを賭けていると言うことを見のがしている。 福沢諭吉が左右に曲がったり、後退する度に、やれ、福沢諭吉は変わったとか、「思想の骨格が入れ替わった(遠山茂樹・「福沢諭吉」260ページ)とか言うが、福沢諭吉自身は自分が変わったとか変節したとか、そんなことは夢にも思っていない。 同時代の人間の中には福沢諭吉の変節を批判する人間もいたが、福沢諭吉は歯牙にもかけない。 「福翁自伝」の後半を読めば、福沢諭吉が高らかに勝利の凱歌を歌っていることが分かるだろう。 日清戦争に勝ったあと、文明富強を(まだまだ序の口であるが)成し遂げたと思った福沢諭吉は、次のように言っている。 「とにかく自分の願に掛けていたその願が、天の恵み、祖先の余得によって首尾良く叶うことが出来たからには、私のためには第二の大願成就と言わねばならぬ。」(全集第7巻259ページ 著作集第12巻403ページ) 第一の本願とは、 「私は洋学を修めて、その後どうやらこうやら人に不義理をせずに頭を下げぬようにして、衣食さえ出来れば大願成就と思っていた」 と言うことなのだが、これは、福沢諭吉の個人的な生活に関することであるので、前にも言ったように、その前の部分に、 「この日本国を兵力の強い商売繁盛する大国にしてみたいとばかり、それが大本願で」(全集第7巻246ページ 著作集第12巻387ページ) とあるその第二の大願こそ、福沢諭吉の「大本願」であると、私は考える。 たいていの人は、福沢諭吉の本は「学問のすすめ」の初篇だけ、しかも、冒頭の部分しか読まない。(「学問のすすめは」全部で13篇ある。初編の復刻版を見た限りでは、版型も小さく薄く、本と言うよりパンフレットに近い) そして、丸山真男に代表される戦後の知識人たちがやたらと福沢諭吉を「近代的民主主義者」などと、はやすので、大部分の日本人は、その通り信じ込んでいる。 「近代的民主主義者」が「貧富論」のようなことを言うだろうか。 特にあきれるのは、丸山真男である。 丸山真男と福沢諭吉の「大本願」については、次回で。
- 2009/08/08 - 世襲議員について(穏やかに) 8月4日に、「世襲議員について」と言う一文で、世襲議員を選び続ける有権者・日本人を口汚く罵る文章を2時間半ほどこの日記に掲載したが、削除した。 口汚く罵ることによって、私の大事な読者諸姉諸兄の中には傷つく人もいるのではないかと思ったことが第一。 そして、一晩寝て考えると言ったが、それから「美味しんぼ」の環境編に取り組んで忙しいまま、4晩も放っておく内に、自分に対していやな気持ちを抱くようになった。 感情にまかせて人を罵るのは、その時は何か発散した気分になるかも知れないし、人の注意をひくことが出来る。 しかし、世の中の誰が、口汚く罵っている人の言葉を真面目に真剣に受取ってくれるだろうか。 大声や、口汚い言葉は、他人の注意をひくことが出来ても、説得力もなく、共感も与えない。 大声で罵る人間の品性を下げるだけである。 そのように考えて、「世襲議員について」の一文を、罵るところを削って、その意とするところを理解していただくために、穏やかな文章に書き直し、以下に掲載する。私も温厚になったもんだと我ながら感心する。 《始まり》 まあ、私もこの歳までに恥知らずの人間を色々見てきたが、元首相の小泉某ほど、見事な腐れは見たことがない。見上げたもんだよ、屋根屋のふんどし、ってか。「自民党をぶっ壊す」と言っておいて、その実この日本という国を破壊し、息子を自分の後釜に据える。 あさましい、の一言ではすまされない、醜いざまだ。 その息子たるや、二十八歳のぼんぼんだ。 何の社会経験もなく、大学を出て、アメリカの大学へ行き、アメリカのシンクタンクに勤めた、と言う経歴だけである。 それがいきなり、親爺の跡を継いで代議士になるってんだ。 てえしたもんだねえ。 昔から、こう言う親馬鹿とおぼっちゃまの話はごろごろ転がっている。 「売家と唐様で書く三代目」と言う川柳がある。 初代が苦労して築き上げた財産も三代目となると食いつぶす。 その代わり、趣味に明け暮れて「唐様」(中国風の書法)で字を書くだけの洒落たことは出来るようになる。財産を食いつぶして、どうしようもなくなり、初代が建てた屋敷にその洒落た「唐様」で「売り家」と書いた札を下げる、と言う意味である。 元首相小泉某は、政治家として三代目だが、運良く選挙区を手放さず、何かの弾みで首相まで上り詰めた。これが、日本にとって戦後最大の災厄となった。 その息子は四代目となる。 というと、「売り家と唐様で書く四代目」となるのかな。 どんなぼんぼんかと言うと、選挙区の人々に挨拶をして回るぼんぼんに、対立する民主党候補が笑顔で駆け寄って握手を求めたら、その手が目の前に差し出されているのに、それを無視して選挙民の方に行ってしまった。それが、映像としてインターネットに流れて、インターネットの住民はぼんぼんの了見の狭い高慢ちきな態度に非難の声を寄せた。 また、選挙民と握手するのも、普通は両手で相手の手を握り、嘘でもいいから親密感を強調するのに、ぼんぼんは、片手でお義理に握手するだけなので、自分のことをよほど偉いと思いこんでいるのではないか、いう批判も出ている。 それでも、選挙区では、そのぼんぼんが圧倒的に優勢だと言うから、いい選挙民たちだね。 最近、政治家の世襲制がやかましく言われているが、そんなことを政治家に文句を言っても仕方がない。 どんな政治家も選挙で選ばれてくるのだから、世襲だろうと何だろうと、代議士自身は文句を言われる筋はない。 文句を言うなら、世襲議員を選出し続ける選挙区の選挙民に文句を言うべきなのだ。 世襲議員問題は、選挙民、ひいては日本人全体の愚劣さをはっきりと示してくれる。 簡単に言えば、日本人が馬鹿だから世襲議員問題が起こるのだ。 私は今日は馬鹿は馬鹿とはっきり言うことにする。 「馬鹿馬鹿と馬鹿を馬鹿馬鹿言う馬鹿は、馬鹿は馬鹿でも大馬鹿の馬鹿」 という文句がある。私自身大馬鹿である。だから、馬鹿に馬鹿と言われても、気を悪くしちゃ駄目ですよ。 日本人は、自分の馬鹿の程度にふさわしい議員を選んでいるだけのことだ。 それを何を勘違いしたのか、新聞などマスコミは、政党や世襲議員が悪いように書く。 読者におもねるな。悪いのは、国民だとなぜきちんと書かない。 新聞も、片棒担いでいるだろう。安部某の時には何と書いた。吉田茂の三代目で吉田茂の意志を継ぐとか何とかはやし立てたじゃないか。 新聞・マスコミの劣化は、国民の劣化と同時進行している。 それは、当たり前だな。新聞社の記者も日本人であり、選挙民なのだから。中には馬鹿の先陣を切っている者が少なくないわけだ。 私は地方に行くたびに、地方ではいまだに徳川時代の藩の意識を強く持っていることを知って驚く。 同じ県の中で、この地方は旧あれあれ藩、この地方は旧これこれ藩、だから、同じ県の中でも、二つの地方の住民は角突き合わせていると言うのがある。 そう言う地方では、明治の廃藩置県以降、それまでの藩の領域を無視して、新たに線引きをして県を作ったのが間違いの元だと本気で言う人が少なくない。 また、旧藩主の子孫をいまだに自分たちの主人と思って大事にしているところも多い。 藩主・大名の子孫も今は平凡なサラリーマンになっていたりするのだが、その地方へ戻ると、旧藩主扱いで大変だ。 旧藩主の子孫と言うだけで、その土地の人間に対して尊大な態度を取っても、人々は当たり前だと思い、百年以上経っているのに旧藩主の子孫を崇めているのだ。 こう言うのが、日本人の心の底に深く染みついた卑屈な拝跪の感覚だ。確立した自己を持っていないから、どんなものであれ権威のある者の前に跪づいてそれを拝み、長いものに巻かれて安心する。今の地方の自民党の代議士は、昔で言えば選挙区が藩で、選挙区の大名というわけだ。選挙区の選挙民は大名に隷属することを誇りにする隷属マニアで、何が何でも主家(代議士)に背いてはいけないと屈従する。だから、当代の跡を息子が継げば文句なしに、その息子に投票するのだ。 日本人は、誰かを崇めて、その下に仕えたい、支配されたいと願う哀れで情けない根性の持ち主だ。 だから、親分を持つと安心する。その親分が、由緒正しい三代目などと言うと余計に有り難く感じる。 福沢諭吉はそのような日本人の根性を見抜いて、日本の大衆を愚民と規定し、愚民をまとめるのに一番良いのが天皇制であると考え、天皇制をもり立てた。 福沢諭吉は日本の一般大衆を愚民視すること甚だしく、自分自身宗教は何も信じないのに、大衆を宗教でおとなしくさせようとした。 福沢諭吉は1881年(明治14年)頃三田演説会で何回か宗教に関する演説をした。その時の演説の草稿として「宗教の説」という文章が残っている。全体に宗教のばからしさ、害を並べ立てておいて、最後に、宗教にも利益があるという。大山参りや、伊勢参りは「第1に体の健康を回復し、第2にお参りの途中にあれこれ見て知識を広くすることが出来る」と言うのがその理由である。 そして最後に、凄いことを言っている。 (福沢諭吉の文章は漢語を沢山使った明治時代の文語体なので、若い人に分かりやすいよう、私が現代文になおした。意訳の部分もある。 なお文中「片輪」などと言う差別語が出て来るが、これは、福沢諭吉が使っているのであって、福沢諭吉の感性を理解して貰うために、意図的に残した。私自身が差別的な精神を持っているのではない。 「(前略)自分自身を頼むことの出来ない人間が他の物を頼むのは必然の勢いである。酒や賭博を断つのに神や仏に誓って断つ。 (中略)自分で自分の心を頼む事の出来ない人間は、自分の足で歩けない者と同じだ。即ち片輪だ。神や仏、キリストなどの教えは、昔、片輪の時代に適した教えなので、世の中に片輪のある限りその教えも甚だ入用である。酔っぱらいの立ち小便にポリス、盗っ人に犬、意気地なし愚民に圧制的な政府、馬鹿と片輪に宗教、ちょうど良い取り合わせだろう」(福沢諭吉全集 第20巻 232ページ) 「天は人の上に人を造らず云々」と言った人間が、こんな身も蓋もないことを言うとは信じられない、と言う人が多いだろうが、これが福沢諭吉の真実の姿なのだ。 福沢諭吉が現在の日本に新興宗教と世襲議員がはびこっているのを見たら、「馬鹿と新興宗教に世襲議員、ちょうど良い取り合わせだ」と言うのではなかろうか。「自分自身を頼むことが出来ない」というのは、自己を確立していない、ということだ。福沢諭吉は、日本人の精神構造を良く摑んでいたし、それが今に至るまで変わっていないことが情けない。 小泉某以後の総理大臣は全て世襲議員だ。 晴れて選挙民に選ばれて、「おらがの先生」として国会に送り出されてきた人間たちである。 世襲議員が下らなくて悪いのではない。そんな議員を選び続ける選挙民が下らなくて悪いんだよ。 金正日は自分の権力を行使して自分の地位を息子に世襲させようとしているが、日本は選挙民が金正日なのだ。 日本人は思考能力を失ってしまっているのではないか。 こう言う人間を自分たちの代表や、首長に選んだら自分たちの生活が破綻すると言う考えすら抱かず、パフォーマンスに騙されたり、テレビに出ているから、有名な俳優の兄だからと言うだけで、知事などを選んでしまう。 石原某などが都知事に選ばれたのは、有名な俳優の兄と言うだけの理由だろう。三流の元代議士だった石原某を都知事に選んだ理由が他にあるか。 その石原某は、都民の税金を1400億も、自分で作った銀行につぎ込んでしまった。 どこの銀行も信用金庫も金を貸そうとしない絶対に危ない会社に金を貸して、それも、石原某の取り巻きと公明党・創価学会とつながりを持つ連中に金を貸して、それが、大破綻している。 それでも、都民は黙っているんだから、偉いというのか、何も考えようとしない思考麻痺にかかっているというか、無表情の、のっぺらぼうの人間の集まりみたいだ。 こう言う惨憺たる例を見ていながら、千葉県では、また、最初から疑惑だらけのもと芸能人の男を知事に選んでしまう。 千葉県民に東京都民の馬鹿がうつったのか、最初から馬鹿だったのか。同時多発馬鹿と言う奴か。 千葉県民も東京都民のような、災厄を味わうことだろう。 私の敬愛するある大先輩は、さる地域の酒造組合の会長をしていたことがあって、その時期に、仕方がないから酒造組合の会長として政治家に挨拶に行った。 そのあと、私に会ったら、開口一番、「いやあ、自民党の代議士連中ってのは、何だいあれは。野郎共の顔は、泥坊、巾着切り、やくざの三下、の顔だ。人間、顔を見れば分かるよ。ひでえもんだな、この国は」と言った。 大宅壮一だったかな、誰だったかな、昔の人がこう言った。 「人間の顔は履歴書である」 本当だ。 今の自民党の大臣たちの顔を見れば、いやあ、良心なんか何もない無残・陋劣な人生を送ってきたんだな、と言うことがよく分かる。 政治家が陣笠代議士から大臣に成り上がるまでのことを表現して、昔の自民党の政治家がこう言った、 「ぼうふらも、人の血を吸うような蚊になるまでは、泥水飲み飲み浮き沈み」 自分たちのことをありのままに表現して上手いことを言うもんだと感心したが、みごと、人の血を吸う蚊どころか、ハイエナになり果てたのが、あの政治家達だ。 民主党も、同じような顔の人間がいるね。腐れが少なくない。 民主党が政権を握っても、どれだけもつかな。 自民党より良い政治が出来るのかしら。 暗殺された石井紘基代議士みたいに根性のある議員が、民主党に他に何人もいればいいのだが。 もし、今度の選挙で民主党が政権を握ったとしても、民主党が失敗すると、日本人は、支配されたがる習性があるから、矢張り昔のご主人様の方が良い、と言って、次の選挙ではまた自民党に投票するんじゃないだろうか。 日本人よ、選挙の時くらい、まともに物を考えろよ。 首の上についているのは、スイカなのかカボチャなのか。 しっかりしてくれよ。 何が、世襲議員問題だ。 議員が世襲なら、日本人全部、世襲の馬鹿ってわけだ。 このまんまじゃ、日本は落ちていくばかりだ。 偉そうなことを言うお前は日本人じゃないのかだって? てやんでえ、おらあ、正真正銘の日本人だよ。 正真正銘の日本人だから、日本人を批判できるのだ。 こんなことを外国人に言われたら、私は怒るよ。 外国人に言われる前に、日本人どうし、何とかならないかと文句を言っているんだ。 これだけ言って、少しは腹の虫が治まったかな。 でも、なんだか、福沢諭吉に似ちゃったみたいで、いやだな。
- 2009/08/04 - 削除した文章 今日、昼前に「世襲議員について」という一文をこの日記に掲載したが、ちょっとあまりに乱暴すぎる文章だと思って、2時間半ほど後に削除した。 ところが、その2時間半ほどの間に、読んで下さった方たちが結構いたらしく、削除したのは残念だ、などと言うメールも頂戴した。 世襲議員を選び続ける日本人の駄目さ加減を、ひどい差別用語を使って罵り尽くした文章だ。 私はなんと言っても、「美味しんぼ」という漫画を書いていますからね。罵る対象の中に、「美味しんぼ」の読者諸姉諸兄もいるのではないかと思うと、ちょっと考えてしまった。 「美味しんぼ」は読者諸姉諸兄に支えられているものであって、その読者諸姉諸兄を罵ったりしては、恩知らずな行為ではないか、と深く考え込んでしまったのだ。 でも、削除してしまうと、やはり、欲求不満が募ってくる。 読者諸姉諸兄に遠慮せずに、言いたいことは、思い切り乱暴に言ってしまった方が良いのかも知れない。 今晩、一晩寝て考えて、それでも、罵りたいようだったら、明日再掲載します。 読んでいない方には何が何だか分からない話だろうけれど。世襲議員問題は、議員が悪いのではなく、選挙民=日本人が悪いんだと罵った文章だ。 もし、明日、乱暴な文章が掲載されても、怒らないで下さいね。
- 2009/08/02 - いや、ひどい目に遭った いやひどい目に遭った。 すねの骨から針金を抜くだけだから、局所麻酔のほんのちょっとした手術だ、と言われてその気でいたら、全身麻酔をかけられて、一時間もかかった。 その後、切ったところが痛いのだ。 うっかり痛いと言ったら、妙に過保護な病院で、やたらと痛み止めを飲めとか、モルヒネの注射をしてやるとか言う。 モルヒネの注射なんて、したことがないし、面白いからして貰った。 血管にするのかと思ったら、腿の筋肉注射なんですよ。 麻薬中毒患者の気持ちが分かるかと思ったけれど、特別なんと言う感じもしない。ちっともいい気持ちにならない。がっかりした。 それより、Endoneと言う痛み止め、これは、モルヒネ系だというのだが、実にたちが悪い。飲むと、頭がぼーっとなって、数時間経つと非常に気分が悪くなる。 医者は、この薬は、中毒になる、と言っていたが、こんな薬に中毒するとはどう言う体の人間だろう。私は、麻薬中毒患者だけにはならない。 日本だったら、4、5日泊まるところだろうが、そこがオーストラリアだ。タフな人間ばかりそろっているから、こっちもそうだろうというので、一晩で家に帰された。 しかし、最初の約束では、日帰りの簡単な手術のはずだったのに一晩でも泊まるのは苦痛だったから、喜んで家に帰った。 しかし、家に帰ってから、痛み止めの後遺症だろう、ひどく気持ちが悪くなって、起きていられず、原稿の締め切りも延ばして貰って、寝込んだ。 もう一つ問題があって、手術した右脚をまっすぐ伸ばしていなければならないという。椅子に普通に座ったのでは、下肢に血が下がってむくみが出て治りが遅くなる。仕事をするときにも、右脚をなにかの上に載せてまっすぐにしていろと言う。 これは困った。 31日になって、机の前に椅子を置き、その上に右脚を載せ、左半身を机に寄せて、左半身の形になって仕事をした。これが疲れて、30分と保たない。 休んでは書き、休んでは書きして、コンビニエンス・ストア版の「美味しんぼ」に連載している「美味しんぼ塾」の原稿を仕上げた。 今回の「美味しんぼ塾」は私の鬱病について書いた。(これは、8月に発売される) 「京味」の西さんの事を書いた「究極の料理人」で、登場人物の一人岡星が、鬱病にかかって・・・・と言う筋書きを書いたら、読者から、「この作者は鬱病の実際を知らない、鬱病なんかを軽々に漫画の題材にするのは不謹慎だ、こんなことをしたら返って鬱病はひどくなる」などと批判されたので、それに対する反論を書いたのだ。 余り人に言いふらすようなことではないのだが、私自身の鬱病のことも書いた。 私は、愛想がいいし、いつもにやにやしているし、原稿もちゃんと書いているしで、たいていの人は私が鬱病と言っても、信じないか、鬱病であってもとても軽いものだと思っている。 自分の病気自慢をしても仕方がないが、私自身、私の鬱病は決して軽いものではないと思っている。 鬱病の人間が、どうしてこんなに物を書けるのかと問われれば、書くことによってかろうじて、最悪の結果に陥るのを防いでいるのだ、と言うしかない。 私は本当に物書きで良かったと思う。 物を書くということにしがみつくことが出来なかったら、私はとっくに鬱病に負けていただろう。 もう死んでしまった方がいいと思う鬱のどん底で、苦し紛れに書くことを続ける。 それで、命を繋いできたのだ。 しかし、仕事となると、鬱病にはよろしくない。 私の友人の一人は、自殺する一分か二分前まで仕事をしていた。 それまでの仕事を見ても、まるで鬱病であることを感じさせない。 素晴らしい物だった。 彼も、仕事にしがみつくことで、鬱病と闘っていたのだろう。 しかし、ふっ、とした瞬間に、負けてしまった。 だから、私だって、危ない物かも知れない。 まあ、今のところ大丈夫だし、自殺した二人の友人の家族がどんなに苦しい思いをしたか、この目で見ているので、自殺だけは絶対にしないと堅く心に言い聞かせている。 そこのところで、だいぶ違うのだと思う。 麻酔の後遺症で、頭痛と疲労感に悩まされながら、そんな文章を書いていると、だいぶ疲れた。 「美味しんぼ塾」はもっと楽しい随筆だったはずなのに、最近、どうも調子が悪いな。 読者諸姉諸兄に申し訳ないと思っている。 しかしねえ、批判されたら、それにこたえなければならないこともある。(批判されても無視する事が多い。大勢の人の言うことにいちいち対応できないからである。) 今回の場合、鬱病に関することだからきちんとこたえなければならないと思って書いた。 私を批判した人達はちゃんと読んでくれるだろうか。 それにしても、鬱病の薬、抗鬱剤は私には全然効かなかったのはどう言う訳だろう。 3年以上、様々な薬を試したが、それがために体調が悪くなり、中には、排尿が困難になる物まであり、しかも、ちっとも鬱状態を解消しない。ついに抗鬱剤は止めた。 考えてみれば、自殺した二人の友人も、きちんと医者にかかり、毎日大量の抗鬱剤を飲んでいた。 二人とも酒が好きだったが、抗鬱剤を飲み始めてから、酒を飲むのを止めた。 私が酒を勧めても、何錠もの薬を取り出して「いやあ、これを飲まなければいけないから」と淋しげに言った。 そこまでして、結局自殺してしまった。 鬱病にも色々ある。抗鬱剤が効く物も、効かない物も、私のように抗鬱剤を止めてしまっても飲み始める前と変化がない物もある。 だから、私には、鬱病はこうすれば治るとは言えないが、鬱病の苦しさだけはよく分かる。 鬱病になると、周囲に対する関心がなくなるが、流石に最近の日本の政治状況を見ていると腹が立つ。 鬱病が治ってきたのかな。 一番腹が立つのは、議員の世襲制の問題だ。 世襲議員に腹を立てているのではない。世襲議員を選び続けている選挙民、ひいては日本人に腹を立てているのだ。 そのことについて、ひどく口汚く、罵りたくなってきた。 明日にでも罵ってやろうか。 鬱病の治療になるかも知れない。
- 2009/07/29 - 死ぬまで働きます 麻生首相が、「高齢者(65歳以上の人)は働くしか能がない」と言ったのが、問題になっている。 私も高齢者の一人だが、働くしか能のない人間の一人だ。 私の場合、職業が物書きなので、世間一般の「働く」という概念から外れるように思われるかも知れないが、もし、事務の仕事、書類を扱う仕事を「働く」と言うのであるのなら、毎日こうして机に向かい、本を読み、資料を精査し、物を書くという私のしていることも「働く」と言えるだろう。 私は極めて趣味の少ない人間で、とくに、2003年に二度目の股関節入れ替え手術、2008年に膝の関節の入れ替え手術、などの影響で、外に出て活動する事が少なくなった。 今の趣味と言えば、釣り、音楽を聴くこと、くらいのもので、後は一日中本を読んでいれば幸せ、という無趣味な生活である。 外に出て、多くの人に会うのは苦手なので、人とのつきあいもあまりない。 本や、資料を読むこと、そして書くこと。 これしか私には能がない。 物を書くことで収入を得ているので、働いていると言って良いだろう。 麻生首相の言うとおり、私は、働くしか能のない人間なのだ。 そして、働くしか能のない人間が悪いとは思わない。 働けることほど素晴らしいことはない。 歳を取ったから、引退して、遊んでいろなどと言われたら、私は困ってしまう。 だから、私は、麻生首相の言うことを聞いて、「あ、おれのことだな」と思ったが、侮辱されたとは思わなかった。 麻生首相自身、68歳か9歳で、立派な老人である。 しかし、政治家として働くことを止めようとしない。 テレビで見たが、定年制度のない会社があって、そこでは、65歳以上の人も大勢働いている。 経営者は、老齢などと言うことには関係なく、それまでの経験を積み重ねた能力が役に立つから、本人が働く意志のある限り働いて貰った方が会社としても有り難い、と言っていた。 若い人でなければ出来ない仕事もあるし、歳を取ったからこそ出来る仕事もある。 例えば、私は、いまこの「日記」で福沢諭吉のことについて書いているが、福沢諭吉という複雑怪奇な人間像を、掴んで解剖できると思うのはこの歳になったからである。この歳になって初めて、福沢諭吉の偉大さと、下らなさが、よく見えるようになったのだ。 近いうちに、福沢諭吉についての本を出すつもりで、更に勉強を続けている。 ほらね、これは結局私にとって仕事なんだ。 歳を取ったからこそ出来る仕事だし、このまま行けば、死ぬまでこの物書きの仕事は辞めないだろう。 ほんとうに、働くしか能のない人間なのだ。 だが、歳を取ったら何もせずにのんびり過ごしたい、と言う人がいるだろうし、それは個人の自由なんだから、老人はみんな働けと言うように聞こえる、麻生首相の言葉は、老人の自由を損なう、と言う面もあるのだろう。 私の物書きという商売は極めて特殊な商売なので、一般からはずれていると思うが、私は、麻生首相の言葉に違和感は抱かなかった。 それに、物を書くことは私にとって一番楽しいことなのだ。他のどんな遊びよりも楽しい。 麻生首相は「80になってから遊びを覚えても遅い」と言ったが、私はこの物を書くという楽しみをおぼえたのは10代の時だ。それからずっと続いている遊びだ。もう、今更止められない。 私は死ぬまで、物書きという仕事を続けていきたいと思っている。 仕事が一番楽しいんだもの。 ところで、今日、一晩入院することになった。 最近、朝起きて、ベッドからおりたとき、あるいは、車から降りるときに人工関節にした方の脚のすねが痛む。 これは、何か手術の失敗かとおもって医者に診てもらいに行ったら、手術は大成功で、人工関節の軸を入れるために、上半分切って開いたすねの骨はすっかり元通りになっていてX線写真で見ても、裂け目など何も見えない一本のきれいな骨になっている。開いた時の裂け目も完全に消えてしまっている。 痛みを感じるのは、その開いたすねの骨を止めるために使った針金が、筋肉にこすれていたいのだ、と言うことで、今日、一日入院して針金を取る手術をすることになった。 針金を取るだけなので、局所麻酔で済むと言うことだが、私のような臆病者は、むしろ全身麻酔手意識を失わせてから手術をして貰いたい。 去年の手術の結果は、誠に見事な物で、私のような特殊な骨の事情で人工関節入れ替えは大変に難しい物であるのは当然で、X写真を見る度に、医者は喜び、自慢して、見事だ、見事だ、You are legend!などと言う。 しかし、驚きましたね。他人様から頂戴した骨が最初はかまぼこの板のように角張って私の大腿骨にくっついていたのが、今や、チョコレートが解けたような形で私の骨に同化しかけている。 あと1年も経てば、私の大腿骨と、頂戴した骨との間の境に今見える細い筋も消えて、頂いた骨は完全に私の物になると医者は言う。 すごいことだなあ、と、ただ私は感心するばかりである。 これで、針金を抜いてしまうと、全て終了と言うことになる。 去年の膝の人工関節手術は、本当に私の命をよみがえらせたと言っても過言ではない。膝が痛くて動けないのと、こうしてどこにでも行けるのとでは人生大きく違う。全く有り難い。これであと10年がんばれるぞ。 ずいぶん迷惑に思う人が多いんだろうなとは思いますが。
- 2009/07/26 - 福沢諭吉について5 福沢諭吉は徳川幕府の末期、アメリカに2回、ヨーロッパに1回行っている。 まず、1860年に、軍艦奉行木村喜毅(芥舟)の従僕として、勝海舟等とともに、咸臨丸に乗ってアメリカに行き、1862年に、幕府渡欧使節随員としてヨーロッパに行き、1867年に、軍艦受取り委員の一行に加わって再びアメリカに行っている。 福沢諭吉は1834年生まれだから、最初にアメリカに行ったときは26歳である。 特に、私が強調したいのは、1862年の幕府渡欧使節の際のことである。 1882年(明治15年)、福沢諭吉は時事新報の発行を始めたが、その3月28日の社説「圧制もまた愉快なる哉(かな)」で、その渡欧使節の旅の途中のことを次のように書いている。(全集第8巻64ページ) (原文は、漢語混じりの文語体なので、若い人にも分かりやすいように、私が現代文になおした。 なお、支那と言う言葉が出て来るが、これは、原文の通りにした。 また、原文に当たってみたいと思う人のために、原文の掲載されている全集のページ数、また、比較的手に入りやい福沢諭吉著作集に入っている場合には、福沢諭吉著作集のページ数を記した。収録されている内容の多さから、私は全集に当たることをお勧めする。ちょっとした図書館なら、おいてあるはずだ。) 「(前略)記者(福沢諭吉)が英国の船で香港に停泊している間に、支那の小商人が靴を売ろうとして船に乗り込んできて、船に乗っている人々にしきりに勧めるので、記者も一足靴を買おうと思って、値段をかけあい、船に乗っていて暇なのでわざと手間取って談判していたら、そばにいた英国人が、また例の支那人の狡猾、とでも思ったのか、手早くその靴を取って記者に渡し、2ドルばかりを記者に出させて、それを支那人に与え、ものをも言わず杖でもって支那人を船から追出したので、支那人は靴の値段の高い安いを論じることも出来ず、一言もなく、恐縮しているばかりだった。 外国人のことなので、記者はこの始末を傍観して、深く支那人を哀れむのでもなく、英国人を憎むのでもなく、ただ英国人民の圧制をうらやむほかはなかった。 英国人が東洋諸国を横行するのはまるで無人の里にあるが如くだった。昔、日本国中に幕府の役人が横行していたが、それよりも一層の威力と権力を振るっていて、心中定めて愉快なことだろう。 我が帝国日本も、幾億万円の貿易を行って幾百千艘の軍艦を備え、日章旗を支那印度の海面に翻して、遠くは西洋の諸港にも出入りし、大いに国威を輝かす勢いを得たら、支那人などを御すること英国人と同じようにするだけでなく、その英国人をも奴隷のように圧制して、その手足を束縛しよう、と言う血気の獣心を押さえることが出来なかった。 そうであれば、圧制を憎むのは人の性だというが、人が自分を圧制するのを憎むだけで、自分自身圧制を行うことは人間最上の愉快といっていいだろう。 (中略)こんにち、我が輩が外国人に対して不平を抱いているのは、いまだに外国人の圧制を受けているからである。我が輩の願いは、この圧制を圧制して、世界中の圧制を独占したいと言うことだけである」(「記者」と「我が輩」の混用は原文のまま) また12月7日から12日まで連載した社説「東洋の政略はたして如何せん」の11日の分に、次のようなことを書いている。(全集第8巻436ページ。著作集第8巻230ページ) 「(前略)およそ人として権力を好まない物はない。人に制止られるのは人を制する愉快に及ばない。言葉を酷にして言えば、圧制を我が身に受ければこそ憎むべしと言うが、自分で他を圧制するのははなはだ愉快だと言うこと出来る。 道徳の点から論ずるとその心情はなはだ不良な物に似ているが、世界始まって以来今に至るまでそれが普通の人情であり、殊に、風俗習慣を異にする外国人との交際においては、最もその事実を見るに違いない。 我が輩は10数年前何度か外国に往来して欧米諸国在留の時、ややもすれば当地の人達の待遇が厚くないことに不愉快を覚えた事が多かった。 ヨーロッパを去って、船に乗ってインド海に来た。 英国の人間が海岸所轄の地に上陸し、または支那その他の地方においても権力と威力を振るって、土人(現地の人間に対する蔑視用語。当時の日本では普通に使われていた)を御するその状況は傍若無人、殆ど同等の人類に接する物と思われず、当時我が輩はその有様を見て、ひとり心に思ったことは、印度支那の人民がこのように英国人に苦しめられるのは苦しいことであるが、英国人が威力と権力をほしいままにするのはまた甚だ愉快なことだろう、一方を哀れむと同時に一方をうらやみ、私も日本人だ。いつか一度は、日本の国威を輝かせて印度・支那の土人らを御すること英国人を見習うだけでなく、その英国人も苦しめて東洋の権柄を我が一手に握ってやろうと、壮年血気の時に、密かに心に約束して、いまだに忘れることが出来ない。(後略)」 私は最初この文章を読んだ時、あまりのことに、気が動転した。 福沢諭吉は、イギリス人が中国人に圧制を加え、人間扱いしないのを見て、圧制を加えるイギリス人を羨み、自分も何時かはイギリス人のように印度・中国の人間に対してイギリス人のように圧制を加えたい。さらには、イギリス人をも自分の奴隷のようにして圧制を加えて、東洋の権柄を我が一手に握りたい、思う。 いや世界中の圧制を独占したい。人に圧制を加えられるのはいやだが、人に圧制を加えるのは人生最大の愉快だろう、と言う。 こんな事は、冗談にも言ってはいけないことだろう。冗談でない証拠に、二度にわたって同じことを書いているのだから、本気なのだろう。 これが、「明治政府のお師匠様」を自認しているのだから、明治政府がどんな政府だったか想像がつくという物だ。 福沢諭吉は、晩年の「福翁自伝」で次のように言っている。(全集第7巻248ページ。著作集第12巻387ページ) 「(前略)この国を兵力の強い商売繁盛する大国にしてみたいとばかり、それが大本願で(後略)」 この福翁自伝の言葉は、先に挙げた「圧制もまた愉快なるかな」と「東洋の政略はたして如何せん」に書かれた言葉を晩年になって再確認した物である。 28歳の時に、福沢諭吉は欧州旅行の際に、イギリス人が印度人中国人を人間とも思えないひどい扱いをしているのを見て、次のように思った。 アジア人に圧制を加えることの出来るイギリス人がうらやましい。 日本も何時か、イギリスのようにアジア人に対して圧制を行えるような国にしたい。 さらに、そのイギリス人をも、自らの圧制の下に置きたい。 簡単に言うならば、 「兵力を強くして、貿易を盛んにし、アジアを圧制し、イギリスなども自らの圧制に置くような、そんな国に日本をしたい」 これが、「福翁自伝」に書かれた「大本願」なのである。 強者にいじめられている弱者を見ても助けようとは思わず、返って、強者と同じようにその弱者をいじめたいと思い、さらには、今弱者をいじめている強者も、そのうちに自分がいじめてやりたい。 図式的に言うとそうなる。 1862年、28歳の時に「心に約束した」事を、1882年48歳になっても福沢諭吉はその通りに書く。 1862年当時、欧米に比べると日本は経済・文化、全ての面で、大きく遅れていた。 帰国してから、西洋文化一辺倒になったところを見ても、福沢諭吉が欧米の文化から大きな衝撃を受けたことは明らかだ。 当時の福沢諭吉は(福沢諭吉に限らず日本人一般)、自然科学、社会科学の面から言えば、西欧人と比べると、子供同然だろう。 福沢諭吉がこの大本願を立てるに至ったのは、丸山真男風に言えば、「ませた子供が、悪い大人の行状を見て、それをまねして不良化した」と言えなくもない。 だが、子供の時に受けた衝撃が生涯の行動を支配する、と言う説もある。 ただ、人がいじめられているのを見て、自分もいじめたい、と考えるのはかなり特殊な人間だと私は思う。人に圧制を加えることが人生最大の愉快、などと言うのは、嗜虐趣味、サディストではないか。 しかし、それが、真実の福沢諭吉なのである。 私は福沢諭吉が28歳の時に経験したこと、その時に思ったことが終生福沢諭吉を支配していたと思う。 まさに、「大本願」に支配されていたのだ。 その「大本願」が、福沢諭吉の思想の原点だと考えると、その後の、福沢諭吉の言うことがどんなにころころ変わっても、福沢諭吉とは何者なのか見失うことはない。 これから、私は、この福沢諭吉の大本願について何度か言及する。 読者諸姉諸兄に置かれては、この「福沢諭吉の大本願」を福沢諭吉の思想の原点として心にとどめて、これから先の私の文章をお読みいただくようお願いしたい。 福沢諭吉について、実に多くの本が出ている。 しかし、みんな福沢諭吉の云うことがころころ変わるそこの所にいちいち気をとられて道に迷っている。 福沢諭吉の目的は、「大本願」の成就である。 その「大本願」成就のためなら、時世に合わせて、何でも言うのである。 時世に合わせてその時々に違うことを言う福沢諭吉の言葉をいちいち真に受けていては、混乱するだけである。 「福翁自伝」をよむと、福沢諭吉は実に大変な男であることが分かる。才があって頭が切れて、度胸が良く、大変な勉強家・努力家である。多くの人を引きつける魅力を持った人物だった事は間違いない。「福翁自伝」は実に面白い。自伝としては第一級の物だ。 福沢諭吉は慶應義塾を作り、自分の弟子をアメリカに送って農園作りをさせたり、時事新報という新聞社を作ったり、単なる思想家に留まらず社会的に大きな働きをした。 たしかに、260年続いた徳川幕府の封建制度の後で、福沢諭吉の西洋文明を持込んだ「文明開化」思想が、日本の社会に大きな影響を与えた功績は大きい。 ただ、それは、西欧文化の紹介者であり、翻訳家としての功績であって、福沢諭吉自身は世界に通用する普遍的な思想を作り出した思想家ではない。(もっとも、そんな思想家は日本には一人も存在したことはないが) 福沢諭吉は生涯に大量の文章を書いたが、端から並べてみると、「大本願」がその中心を貫いていることが分かる。 殆ど全てが、目の前の「今」に向かっての言葉である。従って、状況が変われば、言うことも違う。 しかし、違うことを言っているようであってもその意図は「大本願成就」で貫かれている。 一つ一つの文章のベクトルを合成すると、「大本願」成就のためという、一本の大きなベクトルが出来上がる。 身も蓋もない言い方をすれば、福沢諭吉は屋台のバナナの叩き売りと同じで、あれこれ面白い口上を言うが、それは結局福沢諭吉のバナナを買わせるのが目的である。 バナナの叩き売りの口上には、矛盾もあれば前に言ったことと正反対のことも平気で混ざる。 その口上を面白がって聞いている分にはいいが、真に受けて何か真剣な意味でもあるのではないかと考え始めると、頭がおかしくなる。 バナナの叩き売りの目的はバナナを売りつけることだと早く見極めを付けることだ。 その見極めを付けられなかったのが、戦後の進歩的知識人たちだ。 福沢諭吉はバナナの叩き売りである。叩き売りの口上が下品だったり、偏見に満ちていても、それは客を引きつけるためだから仕方がない。 しかし、売りつけるバナナがひどかったらこれは問題だ。 私は福沢諭吉の売りつけるバナナ、すなわち「福沢諭吉の大本願」はひどすぎると思うのだ。 先に挙げた丸山真男など、福沢諭吉を「近代的民主主義者」と言って持ち上げた戦後の進歩的知識人たちは、福沢諭吉の叩き売りの口上に煙に巻かれて、福沢諭吉がどんなバナナを売っているのか分からなくなった人達だ。 (続く)
- 2009/07/25 - 本の宣伝と、官僚の攻撃の話 ちょっと宣伝させていただきます。 ただいま、全国の書店で、「美味しん本」が表紙の色を取って「青本」「赤本」の2冊発売されています。 「美味しんぼ」公式ガイドブック、です。 何が公式だか分からないが、まあ、一応当事者が作ったと言うことで公式ガイドブックと銘打ちました。 「青本」の方は、山岡士郎が表紙、「赤本」の方は海原雄山が表紙。 「青本」は 花咲アキラ氏の仕事場公開。 雄山から懐かしいサブキャラまで、作品世界を徹底研究(この本は、ここが面白い) 最新和歌山県篇までの全589エピソードのデータを完全収録 単行本に今まで未収録だった幻作品を掲載(この件は、よほどの「美味しんぼ」通でなければ見落としているはず) 「赤本」は 「美味しんぼ」に登場した料理店・食材の徹底ガイド 「雁屋哲」が語る「美味しんぼ」特別補修16講 ビジュアル版 全県味巡り、レシピ付き などが内容です。 「青本」の定価は、本体1143円それに消費税。 「赤本」の定価は、本体1000円それに消費税。 「美味しんぼ」の愛読者の諸姉諸兄はどうぞ、一人二冊にお持ちになると、「美味しんぼ」が四倍楽しめます。 お買い上げのほどよろしくお願いします。 さて、話変わって、衆議院が解散して、投票日まで一月ちょっとになった。 いま、新聞でも週刊誌でも、もはや民主党が次期政権を握るように書かれているが、そんなに簡単にはいかないだろう。 この一ヶ月、自民党も、官僚たちも必死になって、民主党に攻撃を仕掛けてくるだろう。 鳩山代表の献金問題も、その一つだ。 どんなことでも、見つけ出してきて、民主党を攻撃して、自民党が政権を失うことを防ごうとするだろう。 特に、官僚たちは必死だと思う。 麻生首相が先頃成立させた15兆円もの補正予算の9割が、官僚の天下り先の団体に配られたり、ハコモノ建設を復活させたりするだけで(ハコモノ建設も官僚が甘い汁を吸うだけの物)、民間には、1割しか回らないという。 そのような、すてきな自民党がいなくなったら、官僚たちはみんな困る。 警察、検察は勿論、全官僚が総動員されて、民主党の弱点を暴き出すだろう。 この一ヶ月、自民党と官僚たちが、どんなことを仕掛けてくるか、これはちょっと久々の見ものだ。 50年以上権力を握り続けた自民党だ。社会の隅々にまで網を張っているだろうし、官僚に至っては、明治時代からの権力機構を維持している。その蓄積した力は恐るべき物がある。 簡単には、官僚天国を明け渡すはずがない。 なんだか、アメリカのテレビ映画のように、陰謀、また陰謀なんて事になるかも知れないな。 これで、民主党が政権を握ったところで、大した変化は起きない。 官僚の盤石の基盤が簡単に崩れるとは思えない。 一年、二年で目に見える成果を上げられなかったら、浮気な国民はすぐに民主党から離れるだろう。 今度の選挙で、どれだけ自民党が壊れるかによるが、中核の部分が残っていれば、民主党の失敗につけ込んでまたひっくり返せるかも知れない。 とにかく、この一ヶ月の、自民党と官僚たちの民主党に対して、どんな攻撃を仕掛けてくるか、スリル満点である。 この数週間で、麻生首相がえらく、みすぼらしくなった。 オーラも何も発することのない、ただの、アラコキおじさんになってしまった。(アラフォーとはアラウンド・フォーティーのことでしょう。すると、アラコキはアラウンド・古稀ということですな) とにかく凄いよね。 1990年からの失われた20年と言うのが凄い。 日本の近代史上、これだけ不景気が長く続いたのは、戦時中を除いて初めてなのではないか。 しかも、この先展望がないと来ている。 失われた20年どころかか、更に10年20年と失い続けて、30年後には日本は中国の属国になるだろう。 その前触れとして、今日のニュースで、秋葉原LAOXが中国の会社の傘下に入ったこと知った。 LAOXのMAC館は私が秋葉原に行くと必ずのように寄ったところだ。 駐車場が便利なこともあって、LAOXはずいぶん利用した。 そのLAOXが成績不振であることは知っていたが、中国の物になってしまうとは信じられないことだ。 中国は、今年中に、日本をけ落として世界で二番目の経済大国になるそうだ。 長い間眠っていた獅子・中国が、今や目を覚まし活発に活動を始めた。 それに反比例して、日本は、真っ逆さまに転落していく。 20年後には、かなりの日本企業が中国の企業の参加になっているだろう。 日本人が働いて、中国人の懐を潤す、という経済構造になる。 今の官僚は、省益第一、国益第二だから、国を良くすることなどに力を使わない。 我が亡き後に洪水は来たれ、の精神だから救いがない。 ふと考えたが、失われた20年なんて、簡単に言うが、いまの40歳以下の人間は、高度成長期、バブル経済期のあの華々しい時代を知らないのだ。いいことを何も知らずに生きて来たのだ。 なんて可哀想なんだろう。 大学を卒業しても就職先がないなどと言う話も聞く。 1969年に私が大学を卒業したときは、学生1人に、大企業3つか4つ学生を求めてやってきた。 私達はどこへ就職するのもより取り見取りだったのだ。 そんなことはもはや夢のまた夢となってしまい、気がついたら、不況、不況で、韓国、台湾、中国に次々に経済的に抜かれていって、大会社が正規雇用を不正規雇用に変えて、労働者を使い捨てにした上での利益確保という、およそ道徳心も何も無い社会になってしまった。 若い人達は、何一つ楽しいことを味わった経験もない上に、厳しい現実を見せつけられ、不安と、自信喪失で弱気になってしまう。 これは辛いだろうな。 こんな社会を、民主党が簡単に変えられるとは思わないが、自民党に任せておいては一層ひどくなるだけだ。 よりよい方を選ぶという積極的な明るい選挙ではなく、まだこちらの方がましかも知れないから試してみようかという、疑心暗鬼の選挙になるだろう。 官僚たちの民主党追い落とし策は、いつ頃発動されるのだろう。 ものすごく旨い手を使ってくるんだろうな。 いったいどんな手を使ってくるんだろう。 なんだか、ホラー映画か、陰謀満載のスリラーを見ているような気持ちがする。
- 2009/07/21 - 福沢諭吉について4 前回までの、この「福沢諭吉について」の文章を読むと、混乱した感じがする。 もう一度、私が、この「福沢諭吉について」を書き始めるまでのことをきちんとまとめておこう。 私はAERAの記事に触発されて、平山洋氏の「福沢諭吉の真実」、井田進也氏の「歴史とテクスト」、安川寿之輔氏の「福沢諭吉のアジア認識」「福沢諭吉と丸山真男」「福沢諭吉の戦争論と天皇論」を読んで、平山洋氏と井田進也氏は安川寿之輔氏に完膚無きまでに論駁されたと理解し、それで、以前、福沢諭吉の「帝室論」「尊王論」を読んだときの、福沢諭吉に対する私の認識の混乱も解決した、と納得した。 そのまま満足していたのが、2008年に膝の手術後のリハビリテーションをしている間に、ある時、日本人に朝鮮・中国に対する蔑視感を抱かせた最大の張本人は、福沢諭吉であることに私は気がついたのだ。 それ以来、私の福沢諭吉に対する興味は燃え上がり、福沢諭吉についての勉強を始めた。 安川寿之輔氏の三冊の本には、福沢諭吉の文章が大量に引用され、また巻末に附録として福沢諭吉の文章が、勘どころをおさえて選ばれて、これまた大量に再録されている。 その、安川寿之輔氏の本の中に再録された福沢諭吉の文章だけでも福沢諭吉について語るのは充分なようであるが、他人の引用した文章、他人が選んだ文章だけでは、自分自身で福沢諭吉の像を造ったとは言えない。 そこで、私は、 第一巻が1958年に発行された福沢諭吉全集全21巻+別巻(岩波書店刊) 石河幹明著「福沢諭吉伝」全四巻(岩波書店刊) 第一巻が2001年に発行された福沢諭吉著作集全12巻(岩波書店刊) 丸山真男集全17巻(岩波書店刊) 丸山真男「文明論の概略を読む」上・中・下(岩波新書) などをはじめ、福沢諭吉に関連する様々な本を買い込んで読みふけった。 服部氏総、遠山茂樹、杵淵信雄氏らの本も、読んだ。 もちろん、一介の漫画原作者に福沢諭吉学などある訳が無いから、まず全て「福沢諭吉全集」と、石河幹明の「福沢諭吉伝」を根本に据えた上で、それぞれの研究者の書いた文章を、交錯させて、「福沢諭吉全集」と、石河幹明の「福沢諭吉伝」に照らし合わせるという作業を重ねて、福沢諭吉という人物を掴むようにした。 同時に明治維新史と1945年までの日本の歴史を重ね合わせると、福沢諭吉という人間の姿が、今までとは違って、大きな形を取ってはっきりと見えてきたのだ。 色々の人の本を読むと、全く面白い物で、福沢諭吉という一人の人間が、見る人でこんなにも違うのかと不思議だった。 同時に、福沢諭吉と言うフィルター通してみると、偉い人と思っていた、丸山真男、遠山茂樹、などと言う人の頭の中が見えるような気持ちがした。 私は、その時点で、この「福沢諭吉について」を書き始めたのである。 しかし、前回までの文章では、2008年以前、安川寿之輔氏の本を読んで満足していたときに考えていたことと、2008年以降自分で勉強を始めてからの考えとがごちゃまぜになっていてすっきりしない。 私と福沢諭吉とのつきあいは、上に述べたように、2005年にAERAの記事に触発され、平山洋氏、井田進也氏、安川寿之輔氏の本を読んだ時に始まり、2008年に本腰を入れて勉強をし出した、と言う順序である。 この「福沢諭吉について」は、本腰を入れて勉強して、自分自身の福沢諭吉像が出来上がってから、書き始めたのである。 だが、前回までの、書き方だと、このあたりの流れが混乱しているので、ここに、きちんと整理した。 したがって、この「福沢諭吉についての話」の初回に、「ここ2年ほど福沢諭吉にとりつかれて困っている」と書いたが、正確には「1年ほど」と言うことになる。 わずか1年で福沢諭吉と言う人間の像が作れるわけがない、と言う意見もあるかも知れないが、2005年にAERAの記事に始まって、安川寿之輔氏の本を読んで以来、私の内部で熟成を続けていたから、短期間に大量の読書が可能で、福沢諭吉についての理解が急速に進んだのだと言える。 それに、福沢諭吉の文章は漢語こそ難しいが、内容は哲学的に深い意味のある物ではなく、意味を間違えて取りようのないほど明快だから、本格的に取り組めば、誰でも1年あれば、福沢諭吉の像はつかめる。 むしろ、あんな単純明快な文章で書かれてあることを、どうして丸山真男などは、あんな風にいじくり回して自分に合うような衣装に変えてしまうのか、理解が行かない。 福沢諭吉の難しさというのは、同じ日に正反対のことを言ったりするところに現れる、どちらが本心なのか分からない点と、変わり身の速さに惑わされる点だけだ。 私が福沢諭吉を「大きい」というのは、世の中を動かした扇動家としての(啓蒙家ではない)その影響力の「大きさ」を言うのであって、その思想は少しも大きくも深くもない、その時、その時の時世に合わせた物である。 1万円札の肖像に使われるほど、日本人が福沢諭吉を偉人のように思いこんでしまったのは、丸山真男などが、戦後民主主義を盛り上げるための道具として、福沢諭吉の書いた文章の中の一見民主主義的、自由主義的に思える個所だけを拾いあげて、民主主義的な福沢諭吉像を作り上げ、持ち上げたからだと私は考える。 書いた人間の品性を疑うしかないようなひどい文章を垂れ流して残している福沢諭吉を、いくら戦後民主主義を盛り上げる道具としてであっても、持ち上げた丸山真男らの罪は大きい。 私も、2005年までは、それ以前に「帝室論」「尊王論」を読んで、おかしいなあ、とは思いながら、「人の上に人を造らずと言った民主主義的な人間だから、これは何か別の理由があるのだろう」程度に考えて、納得いかないまま1万円札を飾る偉人説を信じていたのだから。 私は、安川寿之輔氏の上記三冊の本を読んで、霧が一気に晴れる思いがした。福沢諭吉という人間の真の姿を安川寿之輔氏は見せてくれたと思う。 それまで興味のなかった福沢諭吉に対して私は非常に興味を抱いた。 しかし、それは、あくまでも福沢諭吉という人間の思想と生き方に対して興味を抱いただけだった。 私にとって、相変わらず福沢諭吉は、単なる過去の人物であり、自分自身とは全く関わりのない人間だと思っていたのだ。 しかし、中国・朝鮮に対する蔑視感を日本人の心に深く植え付けた張本人は福沢諭吉ではないか、と言う考えがひらめいた時から、福沢諭吉は単なる過去の人間でもなく、私に関わりのない人間でもなくなった。 私は、同時に、初めて「帝室論」と「尊王論」を読んだときのことを思い出したのだ。 日本を戦争に導いた、天皇崇拝の天皇制を強化したのも福沢諭吉ではないか、と気がついた。 であれば、福沢諭吉は、過去の人間でもなければ、私自身と関わりのない人間ではない。 なぜなら、日本は、1945年に終わった戦争の精算をきちんと済ますことが出来ず、それがいまだに日本の重荷になっている。 その戦争に日本を導く道を付けたのが福沢諭吉であるなら、福沢諭吉は日本にこの重荷をくくりつけた人間として、現在も我々と共に生きている。過去の人間でもなければ、私に関わりのない人間でもない。 そう気がつくと、本気で福沢諭吉に取り組まなければならないと思ったのだ。 前回から続いて、福沢諭吉の、中国・朝鮮蔑視に話を進めなければならないが、その前に、福沢諭吉の思想の原点はここにあるのではないかと私が思う所があるので、まず、改めてそこから話を始めよう。 (続く)
- 2009/07/16 - シドニーでこたつ 福沢諭吉の続きを書きたいのだが、「美味しんぼ」の「環境問題篇」の原稿書きが始まってしまったので、とても両方は手が回らず、今回は福沢諭吉の話はおやすみ。 日本は大変に暑いようだがシドニーは寒い。 何しろ南風が吹いてきますからね。 日本で南風というと、赤道方面から吹いてくるから暑い風だが、こちらで南風と言うと、南極から吹いてくるから、これは寒い。 薪ストーブをがんがん焚いて、しかもその前で娘たちは、電気こたつに入ってテレビを見ている。 日本にいる時にはこたつなんて使ったことはなかったのに、数年前に、しばらくこちらに滞在していて日本へ帰ることになった人から貰ったのがきっかけで、娘たちはこたつを喜んで使うようになった。 「やっぱり、日本人はこたつよねー」などと娘たちは言うが、実は私自身はこたつになじみがない。 私は六歳の時に股関節結核を患って以来、畳の部屋に座るのは苦手だから、掘りごたつならともかく、置きごたつは使えない。 しかも、私の父は石炭会社に勤めていたので、毎年会社から物置き一杯分の最良質の石炭が配給になる。 その石炭で、風呂も沸かしたし、冬になればストーブを焚いたので部屋中汗ばむほど暖かかった。 こたつは脚は温かくても背中は寒く、しかも、こたつから出るともっと寒いのでこたつにしがみつくことになって、極めて不活発だ。 秋谷の家も、こたつを使う必要のない暖房形式だった。 シドニーは、薪ストーブを燃やすからそれだけで充分のはずだ。 娘たちも、日本へ帰る人から貰うまでこたつを使ったことはなかったのだ。 それなのに、一旦こたつを使い始めると、なんと言うこと、こたつにしがみついて離れない。 ストーブを焚きながらその横でこたつにはいるとは何事だ。 こう言うのを日本人のDNAと言うのだろうか。 この、二、三年、シドニーでも結構美味しいミカンが食べられるようになってきた。 そのミカンをこたつにおいて食べながらテレビを見ているんじゃ、そのまま日本の風景だ。 しかも、どこからか手に入れてきた日本の駄菓子を何種類も食べている。 子供の頃、私は、子供たちの健康を考えて、甘い物はおやつの時間と、食後だけ、と制限していた。 その反動だろうか、子供の時には私が絶対に許さなかった駄菓子を盛大に食べている。日本から来る友人に貰ったり、日本食品を売っているスーパーから買ってくるらしい。 どこからどう見ても、これは日本の冬の家庭ドラマの雰囲気だ。 私の両親は私の脚のことを考えて、椅子、テーブル、ソファを使う生活様式にしてくれていたので、私自身には全くなじみのない、よその家やテレビ・ドラマの中でだけ見たことのある日本の冬の光景だ。 だから、娘たちがこたつに入って楽しそうにしているのを見ると、違和感を覚えるのである。 ところで、突然話が飛びますが、自民党はずたぼろになってきましたね。選挙対策委員長まで、逃げ出してしまうんじゃどうなるんだろう。 しかし、ふと考えたんだけれど、これは、意外に、自民との深い考えに満ちた作戦かも知れないね。 ここまで、自民党が駄目だ、自民党が駄目だ、とみんなが騒ぎ立てると、それに反発する人や、やはり民主党では心配だと思う人、自民党が負けたら淋しい、などと思う人の心を引き寄せるかも知れない。 昔の武術の極意に、皮を切らせて肉を切り、肉を切らせて骨を断ち、骨を断たせて命を絶つ、というすさまじい物がある。 今自民党はそのすさまじい武術の極意を出動させようとしているのだろうか。 それにしては、連中の顔つきがなあ・・・・・・。 あんな、とろぺったりした顔をしていてはネエ。 いや、あの既にしてガスが漏れたような顔をするのも計略の一つかも知れない。 投票日が8月30日。私が今度日本へ戻るのは9月6日。 投票日には間に合わない。 手術後の半年検診があるから帰れないんだ。 今回は投票したかったけれど残念だ。 私の選挙区は、小泉元首相の選挙区ですよ。 自民党をぶっ壊すと言った人間が、自分の息子を後継者として自民との代議士に立てた。 小泉氏は正しい。確かにこうしたことを繰返していたら自民党はぶっ壊れる。 もっとも、その前に、小泉氏のおかげで日本はぶっ壊れてしまったけれど。 またまた話は飛ぶが、寝る前に蜂蜜を二さじほどなめると肝臓にいいそうだ。 ローワン・ジェイコブセンの「Fruitless Fall(実りのない秋)」、日本の書名は「ハチはなぜ大量死したのか」(こっちの方が怖いね)の本の附録の4に、「蜂蜜の治癒力」というのがある。 それは、最近酒を飲みすぎで肝臓の値の良くない私にとって嬉しいことが書いてあった。 グリコーゲンは脳の燃料で、燃料がないと脳は死んでしまう。 しかし、脳にはグリコーゲンの備蓄は常に30秒分しかない。 だから、肝臓は夜も昼もグリコーゲンを脳に供給し続けている。 したがって、夕食を早めに食べて寝る前に何も食べないと、肝臓のグリコーゲン備蓄量は夜中に欠乏してしまう。 すると、体は筋肉組織を溶かしてグリコーゲンに変えて脳に補給するが、こうなると、体中のホルモン分泌のバランスは崩れ、糖尿病、免疫崩壊、加齢の促進、などに陥る。 で、どうするか。 夜寝る前に、スブーン一杯の蜂蜜を取るだけで全ては解決するのだそうだ。 スブーン一、一、二杯の蜂蜜を取ると、深い睡眠、体重減少、長期にわたる健康が手に入るという。 もちろん、肝臓はたっぷりグリコーゲンを受け取るから、無理をしていたむことはない。 おほ、更に驚くべき事に、子供の学習能力をまだ高めるとさ。 それなら、私の頭も少しは良くなるかも知れない。 ってんで、さっそく、今日から書斎に蜂蜜の瓶とおさじとコップを持って来ました。 娘や連れ合いは「お父さん、一杯か二杯よ。」「沢山飲んじゃ駄目よ」「お父さんはちょうどいいと言うことを知らないんだから」という。 うるせいやいっ。 さて寝ようか、となって、今、蜂蜜なめました。 余り美味しいので、三杯なめちゃった。 これで安楽に休んで、明日は元気溌剌、「美味しんぼ」の「環境問題篇」に取り組めるでしょう。
- 2009/07/12 - 福沢諭吉について3 福沢諭吉の初期の論である「学問のすすめ」第一編の冒頭に書かれた「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言えり」、あるいは、「学問のすすめ」第3編に書かれた「一身独立して、一国独立する事」の名文句によって、また、「独立自尊」という言葉を慶応関係者が広めて回った結果、多くの著名な学者、評論家が、福沢諭吉を「典型的な市民的自由主義者」(安川寿之輔氏が徹底的に批判し尽くした丸山真男の使った言葉)と思いこんできて、特に戦後、福沢諭吉は「市民的自由主義者」「開明的な民主主義者」として、崇められ続けて来た。 しかし、実際は、安川寿之輔氏が何度もしつこく繰り返しているように(安川寿之輔氏の本は、実にしつこい繰り返しが特徴だ。時にうんざりするが、それは氏が自身の論を誤解されることの無いようにするためと、一つ一つの論を反論の余地がないほど相手に分からせるためなのだろう。熱心に口を酸っぱくして説く、という感じである)、福沢諭吉は「一身独立」の方は没却して「一国独立」の方に全精力を傾けてしまった。 前にも書いたが、福沢諭吉の生きていた時代は帝国主義国家による弱肉強食の時代であり、福沢諭吉はまず日本と言う国を欧米国家の植民地にされることを防がなければならないと言う意志が強烈にあった。 そこまでは良い。しかし、そこから先が問題だ。 当時の日本は、幕末に欧米によって強制的に結ばされた不平等条約に苦しんでいた。 中でも、欧米人の犯した犯罪を日本が裁くことの出来ない「治外法権」を欧米各国に認めていたこと。 輸出入の際の関税を決める「関税決定権」を欧米各国に奪われていることだった。 要するに欧米各国は日本でしたい放題だったのだ。 福沢諭吉は大略次のようなことを言っている。 「日本のあちこちに西洋館が建って、日本は繁栄したように見えるが、その西洋館は全部欧米人のものであり、日本は自国の富を奪われているのであり、繁栄しているのは欧米人である」 その福沢諭吉の焦りと恐怖は痛いほどよく分かる。 それに対抗するのに一つの道がある。 自国の産業を盛んにして、国力を増強する。 さらに、要所要所の守りを堅くして、砲台など築き、外国からの武力的進入を許さない。 侵略されたら徹底的に追い返す力を付ける。 これは、国を富ませ、自国を守るための軍備を整える「富国強兵論」という物である。 しかし、福沢諭吉が取ったの、欧米各国に習って日本も他の国の土地や市場を奪おうという策だった。 まず、軍備を整える。 現在と違って当時の一番の武器は海軍力だった。 外国を責めるのに現在は、爆撃機・戦闘機・ミサイルなどが主要な武器だが、当時は、戦艦で攻め込むしかなかった。 強力な戦艦を沢山建造、あるいは外国から購入し、それで他国に侵入し、他国の土地財産・市場を奪って、国を豊かにしようという考え方だ。 「富国強兵」の逆で、「強兵富国」だ。 「富国強兵」と「強兵富国」とでは、その姿勢がまるで違う。 「富国強兵」は必ずしも、他国を侵略する必要はない。まず自国を豊かにして、その豊かな国を守るために武力を増強するのであるから、その武力は必ずしも攻撃的な物ではなく防衛的な物であってかまわない。 しかし、「強兵富国」は強い武力をふるって他国を侵略し、その武力によって奪った土地・財産・市場で自国を豊かにしようという物であって、侵略第一の考え方である。その武力は、自国を防衛するためではなく外国を侵略するためのもの、と言う非常に攻撃的な物だ。 福沢諭吉が取ったのは、その「強兵富国」策だった。 福沢諭吉は、「西隣の家に取られた物を、東隣の家から奪い返す」という理不尽な策を強力に推し進めた。 西隣の家とは、欧米各国であり、東隣の家とは、朝鮮・中国である。 日本は前にも書いた通り、文化の基本は中国文化であり、その中国文化を伝えてくれたのは朝鮮である。 第一、天皇家が朝鮮の血統であることは現在の天皇が明言していることである。 その我々日本人が、どうして朝鮮・中国を蔑視するようになったのか。 秀吉は征服欲の強い異常な性格の人間であり、関白・太閤になって日本を全て征服したと思ったとたん、朝鮮征服にふみ切った。最終的には、当時の明を自分の物にしようと思っていたというのだから恐れ入る。 二度にわたる朝鮮侵略は、朝鮮の人々、中でも今に伝わる李 舜臣などの将軍の奮闘で、上手く行かず、秀吉の死とともに日本の軍勢は引き上げた。 その秀吉軍の侵略は朝鮮に甚だしい損害を与えた。 それまで日本になかった技術を持つ多くの人間を拉致してきたのである。 今の北朝鮮が日本人を拉致したのとは桁違いの人数である。 (こんな事を書くと、北朝鮮の拉致問題を矮小化するのか、などと言う人がいるといけないから書いておくが、それとは時代も違う別問題なんだからね。) しかし、豊臣政権を倒して、徳川家康が政権を握ると、朝鮮との関係修復に努めた。 もともと、何の名分もない秀吉の朝鮮侵略に反対だった家康だったから、徳川幕府安泰のために朝鮮との友好関係を復興したいと考えたのは当然だろ。 また、対馬藩主の宗氏の努力もあって、朝鮮側が家康が二度と侵略しないという国書を呈することで、和解が成立して、1607年(関ヶ原の戦いのわずか7年後である)第一回の朝鮮通信使が日本へやってきた。 その時には、秀吉に拉致された多くの朝鮮人を連れ帰った。 朝鮮側は第一回の朝鮮通信使の成功を見て、次から、朝鮮の有名文学士、医師、などを次の回から送ってくるようになった。 朝鮮通信使は、津島から壱岐を通って下関に上陸し、江戸へ向かった。 その、通信使の道中は大変に豪華な物であり、絵巻物にもなって残っている。 通信使の中の文士、医学師は日本では非常な尊敬を受けた。 通信使の宿泊する先々には、朝鮮の文士の揮毫を願う物、当時の漢方医学の書「傷寒論」の分からないことを教えて貰う日本人の医者たちが、詰めかけたという。 朝鮮通信使は1811年が最後になった。 その後、朝鮮は国内で李朝末期の悪政や不作などの不幸が続き、日本でも凶作が続いたりして、通信使を送ることが出来るような状態ではなくなったのだ。 私は、この朝鮮通信使がずっと幕末まで続いていたら、日本と朝鮮・韓国の関係も、良好な状態を保てたのではないかとと思うのだが、様々な政治的要素があって、そうは行かなくなった。 実に残念だ。 江戸時代までの日本人は、これ程までに、朝鮮人の文化をありがたがり、朝鮮のものは何でも良い物と受け止めてきたのである。 江戸時代末期まで、朝鮮は日本人にとって、尊敬すべき国であってっても、蔑視するとはとんでもないことだったのである。 では、どうして、日本人は、朝鮮、ついでに中国を蔑視するようになったのか。 その一つは、江戸中期以後、同じ儒教でも、韓国の朱子学に対して朱子学批判が行われるようになり、幕末維新期には王陽明学派が勢いを持ち、朝鮮の朱子学は古い、と言う意識を持つようになり、同時に、本居宣長, 平田篤胤などが「古事記」「日本書紀」など日本の古代文化、とくに日本固有の「道」を明らかにすることを研究目的とし、学問といえば漢学(儒学)のことと思うことを批判して、国学を成立させてそれが力を持つようになったことが根底にあるようだ。 しかし、日本人に朝鮮・中国に対する蔑視感を抱かせた最大の張本人は、福沢諭吉だったことに、私は気がついたのだ。 (続く)
- 2009/07/09 - 追悼 平岡正明さん 平岡正明さんが亡くなった。 そのことをインターネットのニュースで知った。 なんだか、ざっくりと肩から腹まで切り込まれたような痛みと悲しみを感じている。 長いおつきあいではなかった。ほんの、二、三年のおつきあいだった。 しかし、とても素晴らしい、二、三年だった。 今、平岡正明さんのことを書くと、感傷的になりすぎるし、ほかにもっと深く親しかった方たちがおられるのに、私ごときが何か言うのははばかられる。 今日は、何も言わない。 ただ、平岡正明さんの冥福を祈るだけである。 素晴らしい人だった。
- 2009/07/09 - 福沢諭吉について2 前回、私は福沢諭吉は興味のある思想家とは思えなかったたと書いた。 しかし、AERAの記事を読んで福沢諭吉に改めて興味を抱き、まず平山洋氏の「福沢諭吉の真実」を買って読んだ。 一読して、実に奇怪な本だと思った。 長谷川煕氏はその元時事新報主筆をAと仮名で呼んでいるが平山洋氏はA氏ではなく本名の石河幹明氏を名指しで批判し、石河幹明氏が陰謀策動を時事新報社内で繰り広げ時事新報社内に生き残り、その結果主筆となり、晩年は福沢諭吉の言うことも聞かなくなり、自分で勝手に新聞の社説を書いたのみならず、後に福沢諭吉全集をまとめる際に、自分の書いた社説を福沢諭吉の物として沢山紛れ込ませたというのである。 これを信ずるなら、途方もない、陰謀家がいたものである。 そうともしらず、安川寿之輔氏などは、石河幹明氏の書いた粗悪な文章を福沢諭吉の物と思いこんで、福沢諭吉を批判しているのだと平山洋氏は言うのである。 更に加えて、晩年脳溢血を患った福沢諭吉は、失語症にかかり、口もきけず文章も書けない状態になり、ますます石河幹明氏の言うなりになり、晩年の時事新報の社説はすべて石河幹明氏が書いたと平山氏は言う。 平山氏は、大妻女子大学教授の井田進也氏が発明した、一つの文章を誰が書いたか判定するための「世界に冠たる画期的な方法」(と本人が言っている)を用いて、福沢諭吉全集の中の、「時事新報社説」の文章を本人が書いた物か、他の人間が書いた物か判定していったところ、福沢諭吉の真筆になるものははなはだ少ない、と言う結論に達した。 私は、流石にこの記事に興味をひかれ、平山洋氏の「福沢諭吉の真実」、井田進也氏の「歴史とテクスト」、安川寿之輔氏の「福沢諭吉と丸山真男」「福沢諭吉のアジア認識」を購入して精読した。 その結果、平山洋氏と、井田進也氏の福沢諭吉について書いた物の内容は、とうてい信じるに値しない物と思った。 しかし、その時はそれで終わってしまった。 もともと、私は福沢諭吉に何の興味も抱いていなかったからである。 さらに、2006年に、安川寿之輔氏が、平山洋氏の「福沢諭吉の真実」と井田進也氏の「歴史とテクスト」に対する反論の書「福沢諭吉の戦争論と天皇制論」を発行され、それを読んで、平山洋氏と井田進也氏の論は、完膚無きまでに論駁されたと認識して、それで、私の福沢諭吉に対する興味は薄れてしまった。 ところが、2008年、右膝の関節を人工関節に入れ替える大手術をしたあとのリハビリテーションの厳しさをしのぐために、旧約聖書、新約聖書、コーランなどを読み返しているうちに、突然、それまで疑問だったことに対する答えを福沢諭吉が解決してくれるのではないか、という思いがひらめいた。 その長い間抱き続けて来た疑問とは、どうして、日本人は明治になると突然朝鮮・中国を蔑視するようになったのか、と言うことである。 福沢諭吉も含めて、明治の知識人が普通に使っているのは、漢文である。福沢諭吉も全ての揮毫を漢文で書いている。漢文というと古めかしいが、早い話が中国語である。 福沢諭吉は、「福翁自伝」の中で自分で言っているように、中国の文学、歴史文学、儒教の学を徹底に学んだ。 江戸時代の日本の知識人にとって、漢文学、要するに中国語は学ばなければならない第一に大事なことであり、求められれば、直ちに、自分で漢詩を書いて揮毫出来なければ、知識人としては認められない。 江戸時代まで、日本人にとって、漢文学の大本である中国、さらには、中国の文化を日本に伝えてくれた朝鮮は、尊敬の的だった。 それが、どうして明治になって、突然朝鮮や中国を蔑視するようになったのか。 それが私にとっては長い間の疑問だったのだが、福沢諭吉の思想をたどると、その理由が分かると思った。 福沢諭吉は、若いときにアメリカやヨーロッパに行く機会があって、ヨーロッパの文化に圧倒され、儒教や、漢学は、時代に遅れた文明開化の敵である、という問題意識を持つようになった。 福沢諭吉にとって文明開化とは、欧米の文化を自分たちのものにすると言うことだった。福沢諭吉にとって、蒸気機関が文明の全てを象徴する物だったのである。 福沢諭吉の、その欧米文化に対する思いの強さはすさまじい物で、文明開化とは欧米の文化を取り入れることでしかなく、しかも、欧米の文化に乗り遅れたら、日本は欧米の帝国主義の餌食になってしまう、と言う危機感をも激しく持っていた。 福沢諭吉は、この帝国主義の弱肉強食の世界で、日本が生き延びるためにどうすればよいか、必死に考えた。 私は、その当時、欧米各国が帝国主義の暴力を発揮してアジアを次々に支配下に置きつつある状況で、しかも不平等条約で欧米に苦しめられていた日本にあって、日本をその残酷な帝国主義の世界で生き延びさせるためにはどうすれば良いのか考えた福沢諭吉の、日本という国を思う個人的な心情は察するに余りある、と思うのだ。 その、欧米の帝国主義による日本の侵略を防ごうというその思いは私も福沢諭吉とともにに抱くことができる。 しかし、そのための福沢諭吉の方策が余りにまずかった。 (続く)
- 2009/07/05 - 福沢諭吉について1 この二年ほど、福沢諭吉にとり憑かれて困っている。 その発端は、朝日新聞社発行の週刊誌AERAの2005年2月7日号、「偽札だけではない、福沢諭吉の受難」という記事にある。 その記事には、「日本の近代化に貢献した幕末・明治初期の思想家、福沢諭吉。その先覚者が、全集に混入した他人の言説などを元に批判されている。混迷深い今こそ諭吉を評価し直すときだ」と前振りが打たれている。 記事の頭には「思想も偽造されていた」とある。 この記事を書いたのは、長谷川煕氏であるが、こう言う記事を載せたからには、長谷川氏だけではなく朝日新聞社もこの文章についての責任を取らなければならないだろう。 長谷川煕氏は、ウクライナ、イラン、アラブ諸国、トルコなどを例に挙げて、いまだに近代化されていないと指摘し、それにもかかわらず非西洋国である日本が近代化されたのは何故か、とまず問いかけ、「諭吉は、近代化へと大旋回した維新期の日本に、歴史が呼び込んだような人物だった」と書き、福沢諭吉が日本の近代化を進めたと示唆する。 さらに、明治大学名誉教授三宅正樹氏の「日本の不幸は、諭吉の路線から一時期、大きく逸脱してしまったことだ」という言葉を紹介し、諭吉の近代化路線を日本が曲がりなりにも歩み続けていたら、あの対米英戦争は起きなかったのではないかと言う。 また、村井実慶応大学名誉教授の「まず天下国家を思うのではなく、生来の道理の感覚から諭吉は物事を考えた」という言葉も紹介する。 一方で、少し前から諭吉を、「アジア軽蔑者」「侵略主義者」と断じ、昭和期の日本の「大陸侵略」などのそもそもの根源をこの思想家(諭吉)に求める見解が一部で喧伝されている、と言い、「福沢諭吉のアジア認識」「福沢諭吉と丸山真男」を著した安川寿之輔名古屋大学名誉教授がその代表格として内外で知られる。04年11月にも、中国・北京市内の四つの教育、研究機関に招かれ、諭吉批判をやった、と書いている。 それに対し、静岡県立大学国際関係係学部助手平山洋氏が、その著書「福沢諭吉の真実」の中で、大妻女子大学比較文化学部長井田進也氏の作り上げた科学的な文獻検証法を用いて検証した結果、安川寿之輔氏が福沢諭吉批判に使った福沢諭吉の文章とされている物は、実は他の人物の書いた物であることが分かったと主張していると紹介している。 長谷川煕氏は、ここではAという仮名を用いているが、「大正期・昭和初期に刊行され、現行の『全集』の基礎となった『福沢全集』『続福沢全集』の編集を『福沢諭吉伝』の作成と一緒に慶應義塾側から任された時事新報社(福沢諭吉の起こした新聞社。時事新報は明治時代非常に人気があり、社会的な影響力が大きかった)元主筆のA氏の悪質な作為と平山氏は推定、ないし推理する」と書いている。 平山洋氏は次のように言っているとも書いている。 「時事新報が創刊されて10年経った1892年春ごろより、時事新報への執筆から諭吉が手を引いていったことが諭吉本人の書簡などから分かる。それにつれてAが社内を牛耳り始めた」 最後に、長谷川煕氏は「近代化でなお苦悩する非西洋世界の人々には『福沢諭吉研究』こそ勧めたい。むろん、真筆の著作を通してである。」とこの記事を結んでいる。 この記事を一読すると、福沢諭吉は、日本の近代化を進めた開明的な民主的な思想家で、福沢諭吉の路線を取れば日本も侵略戦争などを起こさずにすんだだろう、思わざるを得ない。 意図的なのだろうか、長谷川煕氏は福沢諭吉をはっきり民主的な思想家とは書いていない。 しかし、読者は、特に最後の一文などを読むと、福沢諭吉を民主主義的な思想家と思いこんでしまう。 その福沢諭吉が、逆に、「侵略主義者」「アジア蔑視者」として批判されるのは、時事新報の元主筆Aが編纂した全集の中に福沢諭吉の文章として他の人間の文章が大量に取り込まれていて、批判はその偽の文章を元に行われていると言うのである。 福沢諭吉と言えば、その「学問のすすめ」の冒頭の文句「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず、といえり」で有名で、戦後の日本人は福沢諭吉は日本の近代民主化の旗頭と思いこんでいるのではないか。 私も、そう思っていたのだが、二十年ほど前に、頭山統一氏の再版した、福沢諭吉の「帝室論」「皇室論」を読んで、仰天した。 民主化どころか、天皇による専制をこれでもか、これでもか、と述べているではないか。 「帝室論」の中にはこんな文章がある、 「我帝室は萬世無缼の全璧(完全無傷の玉)にして、人心収攬(人々の心を一つに掴む)の一大中心なり。我日本の人民は此の玉璧の明光に照らされてこの中に輻輳し(一カ所に集り)、内に社会の秩序を維持して外に国権を皇張(外に勢いを広げる)す可きものなり。」 「皇室論」には次のような文章がある。 「帝室は日本の至尊のみならず文明開化の中央たらんことを祈り・・・」 文明開化の中央、と言うことは、世界の中央と言うことである。 天皇が世界の中央というのでは、日本を八紘一宇の戦争に追いやった天皇制思想そのものではないか。 日本の近代民主化の旗頭とされる人間がどうしてこのような本を書いたのか、私は訳が分からなくなった。 しかし、そこが私のいい加減なところで、そこから先を真剣に考えることをやめて他の方に気持ちが行ってしまった。 じつは、その前に、福沢諭吉の書いた「脱亜論」を読んで、たまげていたのだが、正直に言って、福沢諭吉なんか今更どうでも良いと思ったのだ。 私にとって興味ある思想家とはとても思えなかったのだ。 (続く)
- 2009/07/05 - 交通安全協会って何なんだ? 一昨日、運転免許証の更新を受けに出かけた。 オーストラリアの免許更新は実に簡単な物で、日本のように、交通事故の様々な場面を撮影したビデオなど、見せられずに済む。 あのような、残酷なビデオを見せるのは、外国では許されないのではないか。 見たくない物は強制的に見せてはいけない、と言うのが、一般的に国民の意識の進んだ国では当たり前のことだが、日本は遅れているのだろう、悲惨な事故の場面を、免許更新時に見せられる。 危険な運転をすると、こう言う目に遭うんだぞ、と言う警告である。 私は、そのような、事故の例を見るのは非常に役に立つと思うのだが、それが、いやで、更新に中々いけないと言う人間が少なくない。 行っても、そのビデオを見なければならないときには、目を伏せていると言う人間もいる。 やはり、事故の現場のビデオは見るのが辛い。 オーストラリアで、一番、驚くのは、更新手続きの簡単なことである。 日本では、そのために、「交通安全協会」という組織があって、それが必ず、警察署の隣にあって、全ての手続きは、その「交通安全協会」に頼まないと円滑に動かないようになっている。 その「交通安全協会」のボスは全部、もと警察官僚である。 「交通安全協会」は警察官の天下り組織なのである。 「交通安全協会」が無くなったからと言って、免許更新事務に何の影響もないと思う。 むしろ、「交通安全協会」があるために、余計な手間がかかり、余計なお金を我々は払わなければならないと痛感している。 「交通安全協会」で私達が出会うのは、協会の正規の雇用者ではなく、派遣なのか、臨時雇なのか、そう言う身分で、例外なく中年過ぎの女性たちである。「交通安全協会」の内部組織の人間ではない。 実に不思議なことに、「交通安全協会」の組織の人間に一度たりとも会ったことがない。あの人たちは、どこにいるんだろう。 彼女たちが、昔は、仮名漢字タイプで免許更新用の文書を作り、最近は、コンピューターで書類を作り、デジタルカメラで証明用写真を撮る。 その値段がえらく高い。 昔の写真館で取った方が遙かに安い値段である。しかも、今はデジタルだ。私達から見れば、ただ同然の写真である。どうしてデジタルカメラで撮った写真にこんな高い値段を払わなければならないのか。 しかも、必要以上の枚数を買わされる。免許に必要な写真は一枚だけなのに、どう言う訳か、二枚買わされるのである。 こんな写真、他にどう言う利用法があるというのか。 パスボートの写真と微妙にサイズが違うから使えない。 他の証明用の写真に一切使えない。運転免許証独特のサイズなのである。 ようするに、自動車免許証にしか役に立たない写真を二枚買わせるのはどう言う訳か。 オーストラリアの免許証を取るときには、一年有効、三年有効、五年有効、の三つから選べる。 それぞれ値段が違う。 五年有効が一番値段が高い。 更新窓口にカメラがあって、その前に座って撮った写真を新しい免許証にそのまま印刷する。 五分もかからない。使い道のない写真を買わされることもない。 しまった、こういうことなら、ひげも整え、きれいなシャツを着てくれば良かったと思うのだが、それはいつものことで、当日になるときれいさっぱり忘れているので、とても人相の悪い写真がこれから五年間私の免許証に載るわけだ。 アメリカで車を運転する場合、このオーストラリアの免許証で全て通じる。 なるほど、英語国どうしなら、それで良いわけだ。 私が今一番心配なのは、「交通安全協会」について、余計なことを書いたばかりに、つぎに、交通取り締まりで、捕まってひどい罪を着せられるのではないかと言うことだ。 日本の警察は、最近、中国の警察にそっくりになってきたからね。 日本の警察官僚は、何もかも自分たちで支配して、気にくわない奴は、刑事事件で立証して、刑務所に入れて、その人間の持つ社会的地位を破壊することを旨としているように思える。 むかしの、特高警察そっくりの様相を呈してきた。 それに加えて、官僚組織を守るために、平気で、与党とつるんで司法の力を使う、司法のあり方が問題だ。 ここまで来ると、そろそろ、日本も見かぎり時かなと思ってしまう。 おいおい、なにも、自動車免許証の更新くらいでここまで言うことはないだろう。 本当に私は偏っているな。うむ、偏っている。
- 2009/07/03 - 日本の官僚、万歳 しかし、見事な物だと思う。 何がと言って、今回の民主党の鳩山代表献金問題である。 驚くべき事は、鳩山氏は、このような状態の献金問題を何年も続けて来たと言うことである。 更に驚くべき事は、この、選挙直前になって、この献金問題を取り上げてくる連中のやり方だ。 もちろん、鳩山氏は言い訳のしようがない。 献金もしていない人間の名前を勝手に使って、その人間が献金したように見せかける、と言うのは詐欺である。 小沢代表の秘書のような、形式犯ではない。 これは、れっきとした詐欺事件である。 鳩山氏は、議員を辞職するべきだろう。 鳩山氏は清潔な人間だと思うが、政治資金でこのような詐欺的行為を行ったとなったら、このままではすまされないだろう。 私が見事な物だと言うのは、官僚たちのすごさだ。 民主党は政権を取ったら、官僚組織を組み直すと公言していた。 日本の国税の多くの部分を、官僚たちが支配する、特殊法人が無駄遣いしている。 そんなことは、みんな知っていることだ。 その官僚たちが、自分たちを守るために必死になって鳩山氏の政治資金問題を暴いた。 その、官僚たちの協力のすごさ。 実に見事な物だと思う。 このような力を、国のために使っていてくれたら、ここまで日本は落ちぶれることはなかったのだ。 私は、引退した官僚たちが、何か新しい仕事に就くために国費を使うことは悪いことではないと思う。 その仕事が、日本という国に力を与える意義のある仕事であるならば、と言う条件付きで。 しかし、実際は、特殊法人と言う物は、官僚たちが単に贅沢に生き延びるための組織であって、国力の増強には一切役にたっていない。 それは仕方のないことであって、東京大学の法学部に入ったときには同じ年代の人間に比べて優秀だったかも知れない人間が、一級国家公務員試験に合格してから、官僚になった後に、彼らに勉強する機会が与えられない。彼らの生活はえらく忙しいのだ。 我々から見れば、全く無駄なお役所的な仕事に忙殺される。 私は、四十代の、それこそ人間として一番脂ののりきっているはずの大蔵省の役人と何人か会ったことがある。(昔は、財務省ではなく、大蔵省と言っていた)、彼らは全て東京大学法学部出身で、自分たちが日本を動かしているという強烈な自負を抱いていた。 しかし、たかが漫画原作者の私の眼からしても、彼らの知的な劣弱さは恐るべき物だった。 当然、読んでいるはずの書物の話をしても、通じない。読んでいないのだ。なにも、特別な本ではない。トーマス・マンとか、アルベール・カミュとか、唐詩選とか、もし彼らが外国の官僚と話をする場合に当然の常識として話に出る、書物を読んでいないのである。 彼らは、大蔵省(財務省)のなかで、決まり切った仕事をこなすことにかけては大変に優秀なのだろうが、それまで出会ったことのないことに対処する能力は絶対的に欠けていた。それは、基本的な教養に欠けているからである。 彼らと話していて、絶望的になったのは、日本という国全体の進路ではなく、自民党支配の政府の政策についてのことしか語れないと言うことだった。 余りに、歴史的なこと、哲学的なこと、人文的なこと、そのような事に対して、無知である。 これでは、官僚として同じような地位にある外国の官僚に対したときに、話が通じないだろう、馬鹿にされるだろうと危惧したのである。 ある程度、外国語も理解できる。 しかし、欧米の本当の知識人というのは凄いものであって、深い学識と、論理の立て方に秀でている。 欧米の官僚の頭に当たる人間の勉強の度合いは、東京大学法学部の比ではない。 大体、東大法学部の学生は、ほんの一部を除いて、在学中にろくに勉強をしない。 私は、数ヵ月前に、東京大学教養学部で講演をした。 そのあとに、文科系の学生が私に、「先生、僕たち文化系の人間もちゃんと勉強しています」というので、何を勉強しているんだ、と尋ねたら、「司法試験とか、公務員試験の勉強です」と言ったので、私はあきれて、その学生に「試験勉強は本当の意味の勉強ではないんだよ。資格を取るための勉強は、勉強と言えない。勉強というのは、もっと人間のあり方を追及する深いものでなければならないんだ」 と答えた。その学生は、分かったのか分からなかったのか、多分分からなかったのだろう「はあ・・・」と答えて私の前から引き下がった。(この件については以前にも書いた) しかし、このように世界的には通用しない教養しか持っていない東京大学法学部卒業の官僚たちが、実質的に日本の社会を支配している。 この官僚組織に、鳩山民主党代表は、民主党が政権を握ったら手を入れる(もっと、厳しい言葉を使ったと思うが、ここでは、穏当な表現に止めておく)と言った。 それで、官僚たちは、発狂状態になったのだろう。 何が何でも、自民党政府を維持しなければならない。 その結果が、小沢一郎代表の秘書の逮捕であり、今回の鳩山代表の政治資金の不正の追及だろう。 官僚たちは、彼らの持つ組織の力を上げて、民主党をつぶすために動いているのだ。 私は、小沢一郎氏も、鳩山氏も、政治資金の法律に触れたことをしたことで、言い訳は出来ないと思う。 しかし、それなら、どうして、自民党の二階氏、千葉県知事の森田氏、さらには、伊吹文明氏の疑惑を追及しないのか。 二階氏、森田氏、伊吹氏についての追及を行わずに、突然鳩山氏の疑惑に矛を向けるのは、公平ではないと思う。 第一、これだけ、政治家の政治資金が問題になること自体、この国の仕組みがおかしいのだ。 そこを、検察は、普段は全く無言のままで、このような政治の変化が起きようとしているときに、突然正義を装う事が腑に落ちない。 自民党も、民主党も、一つ穴のむじなだ。 民主党には、旧社会党から逃げ込んだ、最低の人間が沢山いる。 社会党が、自民党と結託し、社会党の党首が日本の首相になったあの村山事件は、日本人のもっていた、倫理観念を根底からくつがえした。 というか、結局、あれほど長い間自民党と敵対していた社会党が甘い汁を見せられたら、ころっとひっくり返る、と言う事実を見せつけられて、日本人は政治、あるいは政治家に対して決定的な絶望感を抱いたのだ。(少なくとも私は) しかし、社会党がそれで失敗しても、本当に社会党の党としての意義を自分の信条として持っている人間ならば、自民との結託が破れて再び野に戻ったとしても、そのまま、社会党の立党の本義に立って戦えば良いではないか。 それなのに、大半の社会党の議員が民主党に逃げ込んで、いまや、主義主張などどうでも良く、単に議員であることだけに自分の生きる意味を作り出して、生き延びている。 そのような、社会党くずれ、民社党くずれ、がはびこっている民主党が自民党に代わったところで、この日本が良くなる気配はない。 鳩山氏は、うっかり選挙に勝って首相になったりする前に政治資金の不正の件で、引退する方が、本人のためにも日本のためにも良いことだ。 では、自民党、民主党に代わって、今のどん底に陥りつつある日本を救うことの出来る政党があるかと言えば、ない。 小泉氏が首相になったときに、私は「これまで、最悪の総理大臣が出現した。彼は日本を駄目にする」と何かに書いたが、あの最低の小泉氏が一旦壊してしまうと、日本の社会が再生能力を完全に失ったことを思い知らされて、呆然となる。 ここまで、日本の社会は、力を失っていたのか。 途方に暮れる。 私は、日本が第二次大戦後の廃墟から復活し、世界的な経済大国になるまでを見てきた。そして、その経済大国の地位から転がり落ちて、中国の支配下に陥るのを、今、目の前にしている。 福沢諭吉は、幕末、明治維新、日清戦争を経て「一人の人間が二つの人生を生きるような思いがする」と言った。 私は、三つぐらい、別の人生を送ってきたような気がする。 しかし、日本の官僚たちは見事な物だ。 こうして、民主党をつぶすことで、自分たちは生き延びることが出来ると思いこんでいるのだ。 見事な、アホだな。 日本という国がもうつぶれようとしているのに、国がつぶれても、官僚だけは生き延びることが出来ると思っているのだろうか。 たぶん、そう思っているんだろうな。
- 2009/06/29 - 加藤周一氏の受洗 加藤周一氏は、現代日本で本当の知識人といえる人だったと思う。 氏の若いときの「羊の歌」以来、私は、敬意を払ってきた。 最近は、朝日新聞の夕刊に発表される「夕陽妄語」を読むのを楽しみにしていた。 その、「夕陽妄語」を単行本化した物も数冊持っていて、愛読している。 加藤周一氏が、2008年12月5に亡くなられたとき、私はがっかりした。 NHKテレビに最後に出演されたとき、かなり老けてしまわれた感じがして、心配していたのだが、やはり、1919年生まれと言うことを考えると、仕方がないことと思うしかない。 ただ、最近、氏が亡くなられる前、まだ意識がしっかりしているときに、カトリックの洗礼を受けられて、ルカ、と言う洗礼名を与えられた、と言うことを知り、大きな衝撃を受けた。 私は、昨年、膝を人工関節に入れ替える手術をしたが、その後のリハビリテーションが厳しいので、その苦痛をまぎらわすために、聖書を精読することにした。 旧約聖書、と新約聖書を、それこそ1行1行念入りに読んだ。 興味や不審を抱いた箇所には、ポスト・イットを貼り、線を引き、書き込みをして、徹底的に読んだ。 「日本基督教出版局」の出した「旧約聖書略解」と「増訂新版 新約聖書略解」を助けにし、Harpersから出ている、「The Go-Anywhere Bible」も参考にして、念入りに読んだ。 それだけでは足りなくて、井筒俊彦氏の、岩波文庫の「コーラン」、「コーランを読む」も読んだ。 その結果、どうしてこう言う物を世界中で十数億の人間が信じているのか分からなくなった。 私のように、直線的、単線的に科学的な思考しかできない人間にとって、聖書もコーランも理解不能の物だった。 理解できない物を受け入れること当然できない。 そう言えば、加藤周一氏は以前、寝る前に一時間でも良いから聖書を読め、とどこかで書いていた。 私は不思議で仕方がない。 あの知性的で、理性の固まりのような人間で、論理的に物事を考え追及していく態度を保ち続けた加藤周一氏が、最終的に信仰を選んだと言うことはともかく、「洗礼」という儀式を受け入れたことが私にとって大変な衝撃だった。 私は初めて、カトリックの聖体拝受の儀式を見た時の事を忘れない。 牧師が、「これはキリストの肉である」と言って小さなパンを、跪いて口を開けて待っている信者の舌の上にのせる。 次いで、「これはキリストの血である」といって、赤葡萄酒を与える。 宗教的な儀式という物は、どの宗教でもそうなのだろうが、その宗教外の人間の眼からは、異様な物に見える。 例え、実際はパンとワインであっても「肉と血」を口にする儀式と言うのは、私の理性を越えた物だ。 (どうか、カトリック信者の方、悪く取らないでください。私は、カトリックの悪口を言っているのではありません。私は、あなた達から見れば信仰の門をくぐることのできない罪深い人間なので、こんな風に感じてしまうのです) 宗教には信じる権利がある、信じない権利もある。 しかし、一つの宗教を信じている人間を、その宗教が他の人に危害を加えない限り、非難したり批判することは、してはいけないことである。 私は自分が理解できないからと言って、キリスト教信者を貶めるつもりは全くない。 ただ、私は、加藤周一氏が「洗礼」という儀式を受けたと言うことに衝撃を受けたのである。 様々な思惟を重ねる中で、カトリックについて考え、理解を深めていくのと、「洗礼」という儀式を受け入れることとは、全く違うことだ。 「洗礼」を受けることで、加藤周一氏は、自分自身の全てを、カトリックの世界に埋めることになる。 5月22日のこの日記に、「中江兆民の『一年有半・続一年有半』」を書いた後だったので、余計に私の受けた衝撃は大きかった。 中江兆民は、自分自身の死を目の前にして、一神教についてこう書いている(中江兆民の文章は明治の文語体なので、分かりやすいように私が勝手に要約し現代文に直してある)。 「一神教の説は、超然として俗世間を出て俗臭を脱した様に見えるが、実は死を恐れ、生を恋い、死後においてもなお自分自身の存在を保ちたいという都合良き想像であり、すなわち生命という物を自分自身、あるいは人類だけに限る見地から起こった物である(兆民は人間の命も他の動物の命も同じだと、その前に書いている)。その卑しく陋劣なことは霊魂不滅の説と同じである。」 (霊魂不滅の説についての兆民の考えは、5月22日のこの日記をご覧下さい。) こうも、言っている。(兆民の文の大意をまとめた物である) 「バラモン教、仏教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など唯一神説を主張するものは、推理を本とする哲学ではなく、人をうっとりとさせる妄信である」 中江兆民が亡くなったのは、1901年、55歳。 加藤周一氏が亡くなったのは2008年、89歳。 中江兆民も大知識人だった。 百年経って、二人の大知識人の死に際が、こうも違うのか。
- 2009/06/27 - ますます募る、反捕鯨カルトの狂気 2009年6月26日、オーストラリアでも有数の新聞シドニー・モーニング・ヘラルドに次のような記事が載った。 まず、この写真を見て頂きたい。(写真はクリックすると大きくなります) 「Spaceship」と書いてあるが、本当にSFの宇宙戦争に出て来そうな恐ろしい形をしている。 記事の題名に書いてあるように、この船は、日本の調査捕鯨を妨害するために、南極海に出動するのだそうだ。 記事によれば、この「Earthrace」と言う船は(これが、固有名詞なのか、こう言う船全体を指す名前なのか、私には分からない。まあ、固有名詞だろう)時速40ノットで走る。1ノットは1海里1852メートルのこと。時速40ノットと言えば、約時速74キロ。道路の上でも結構な速さだが、これが海上となると話が違う。すさまじい速さだ。 日本の調査捕鯨の調査母船とされている日新丸の時速が17.49ノットらしいから話にならない。 これで、日本の調査捕鯨を妨害するというのだが、何をする気なのか、この船の形を見ただけで恐ろしくなる。 この船は、昨年61日間でバイオ・ディーゼル燃料で地球を一周したという。 もともと、この船は北大西洋で漁業の監視をする物であって、40ノットの速度で、完全に波にのまれても構わず進むことが出来る高性能を誇る。 ニュージーランド人のオーナー兼船長は、「俺の裏庭である南氷洋で捕鯨をするなんて許せない」という理由で、今年から、日本調査捕鯨の妨害に参加するという。 一方、昨年、毒の入った瓶を投げつけたり、体当たりをして、日本の捕鯨調査船を危険に陥れた、シー・シェパードの旗艦Steve Irwin号は、現在オーストラリアのクイーンズランド州のブリスベンを基地にしているが、50万ドルかけて、(日本捕鯨調査船に体当たりしたために)ゆがんだ船体を直し、強力なWater cannon(水を打ち出す砲。Cannon・大砲と言うからには、消防隊の使うような放水器とは違ってもっと破壊力の強い物だろう)を船首に取り付ける作業が済み次第、タスマニアのホバートに移動すると言う。 シー・シェパードの責任者ワトソン氏は、次に予定されている日本の調査捕鯨妨害作戦を「ワルツィング・マチルダ」と称することにしたと言っている。 昔の海賊のように片眼の眼帯をかけたカンガルーをシンボルマークに使うのだそうだ。 「ワルツィング・マチルダ」は、オーストラリアの国歌にしようという話があったのだが作曲者がアメリカ人だったので、取りやめになったというくらいオーストラリア人の大好きな歌で、この作戦に「ワルツィング・マチルダ」と付けるのを許し、片眼の眼帯のカンガルーをシンボルに使うのを許すといからには、オーストラリア人もシー・シェパードの行為を全面的に応援していると見える。 オーストラリアの国の紋章には、カンガルーとエミューというダチョウのような大きな鳥が使われている。カンガルーはオーストラリアを象徴する動物なのだ。それをシンボルにした上に、「ワルツィング・マチルダ作戦」と名付けるからには、シー・シェパードはオーストラリア全体に応援されているのだろう。 シー・シェパードはオーストラリアのシンボルと考えて良いのだろうか。国際的にそれはまずいと思うのだが。 この宇宙船のような恐ろしい高速船に調査捕鯨船が襲われたらどうなるのだろう。時速74キロの高速で周囲を走り回られたら、捕鯨の妨害どころか、調査船自体も危険な状態になる。 そこに持って来て、今度のシー・シェパードの船は、強力なウォーター・キャノンを備えている。 これは、もうただごとではない。 このような、凶悪な船を二艘用意して、日本の船を襲うと公言している。 今の世界でこのような、テロ行為を公言することが許されるのか。 日本国民である、調査捕鯨船の乗組員の命がこのように公然と脅かされているのに、日本政府は何をしているのか。 憲法の規定上、日本は外国で武力を行使するわけにはいかないが、自衛艦が護衛してこの二艘の凶悪な船と、調査捕鯨船の間に入って、盾のようになって守ることは許されないのか。 自衛艦の派遣自体が憲法違反なのであれば、水産庁の艦船を派遣して、調査捕鯨船を守るべきだ。 この件で一番責任があるのがオーストラリア政府である。 前回、日本の調査船に体当たりをしてあわや大事故を招きかけたテロリスト、シー・シェパードがオーストラリアの港を基地にすることを許し、Water Cannonと言う兇器を据え付けるのを許し、オーストラリアのシンボルである、カンガルーと、ワルツィング・マチルダを、シー・シェパードが自分自身のシンボルとして使うことを許す。 公海上で他の船に危害を加えることは純然たるテロ行為である。そのテロ行為をオーストラリア政府は支援することになる。 この恐ろしいSpaceshipを日本の調査捕鯨の妨害に繰出すと言っているオーナー兼船長はニュージーランド人である。 ニュージーランド政府は、「南氷洋で捕鯨を続ければ、反捕鯨の抗議船を引きつける」などと、他人ごとのように言っているが、このSpaceship Earthraceを調査捕鯨の妨害に送り出すのを許すからには、ニュージーランドも、テロを支援することになる。 こういうことを書くと、必ず、反捕鯨カルトで脳みそがすっかり腐りきっておられる皆様が、醜悪な罵倒記事を沢山送って下さる。 中には、外国から、英文で送って下さる方もおられるが、日本人の書いているブログには、日本語で書き込むくらいの礼儀をわきまえて下さいね。 といっても、反捕鯨カルトに頭がいかれてしまっている人間には通用しないだろうなあ。 どうして私が捕鯨を支持するか、もう一度きちんと書いておくから、反捕鯨カルトの諸君たちも、たまには頭が澄んでいることがあったら、その時にでも読み返してくれたまえ。 人間は、命有る物を食べなければ生きて行けない、罪深い存在である。 ベジタリアンは無罪のように思っているが、それは錯覚である。 植物も命がある。コンクリートの隙間からでも生えてくる雑草のあの「生きたい」という生命力を見れば、よく分かることだ。 したがって、人間は自分の命を支えるためには、どんなものでも食べることを許される。 食べていけないのは、人間だけだが、それも、特別の場合には許されることがある。 以前、アンデス山脈に旅客機が墜落したことがある。運良く生き残った乗客たちもいたが、雪が深くて動けない。 食べるものも尽きた。 そこで、仕方なく、事故の際に亡くなった他の乗客を食べた。 春になって雪が解け、生き残りの乗客たちは、山から下りてきて救出された。彼らは正直に、亡くなった乗客を食べたと言った。 だが、世界中で彼らを非難する人間はいなかった。 自分たちが殺したわけではない。事故で亡くなった人間の体は、ただの物体だ。このような非常の場合には、自分たちが生き残るためには食べることも許されるのだ。 この話は、人間が生きるということ、人間がものを食べると言うこと、その本質を厳しく物語っている。 人間は命有るものを食べなければ一日も生きて行けない。 それが、人間の背負った「原罪」であると私は思う。 私は、犬を食べないから無罪だ、私は馬を食べないから無罪だ。 そんなことを主張する人間は、人間の本質を知らない。 その無知は恥ずべき物だ。 人間は、自分の命を支えるために、農耕をする。 漁をする、狩猟をする。 牧畜をする。 どんな植物を食べるか、どんな動物を食べるか、それは、その人間の住む環境とその人間の趣向によって決まることであり、一切の禁忌はない。 鯨も、マグロ、鮭、鱈、鰯、などと変わりはない。 鱈を解体するところを見て残酷と思わず、鯨を解体するところを見て残酷と思うのは、偏見である。 宗教によっては、ある動物を崇拝する。へび、うし、とら、などを崇拝する宗教がある。 旧約聖書にも、モーゼの時代に、パレスティナ一帯に牛を神として崇める宗教があったことが書かれている。 宗教によっては、この動物は食べてはいけないという禁忌を設ける。 イスラム教徒は豚を食べてはいけない。ユダヤ教徒もひずめの無い動物(豚など)、鱗のない魚(うなぎ、イカ、など)を食べてはいけない。 日本では長い間、仏教の影響か四本脚の動物は食べてはいけないとされていた。(明治以降、許可されるようになったが) 鯨を食べてはいけないというのは、反捕鯨カルト、あるい、鯨カルトという宗教の定めた禁忌である。 だが、ヒンズー教徒は、キリスト教徒に牛を食べるなと強要しない。 イスラム教徒も、キリスト教徒に豚を食べるなと強要しない。 自分たちの宗教の禁忌は、自分たちの宗教の信者の間でだけで守ればよいことで、他者に強要するべきではない、と言うのは世界の常識である。 であれば、反捕鯨カルト、鯨カルトの信者達も、自分たちの禁忌を反捕鯨カルト、鯨カルト、に属していない人間に強要するべきではない。 鯨は、一時、各国の捕鯨競争の結果、著しく頭数が減った。 そのように一つの種が、絶滅しかけたときには保護する必要がある。 しかし、充分に数が増えたら、再び漁の対象にすることに何の問題もない。 日本が計画している捕鯨は、科学的に鯨の生態を調べた上で行うから、鯨の数を減らしたり、ましてや絶滅に追い込んだりすることはない。 持続的に継続可能な漁業の一つとして行うのである。 これがいけないというのなら、全ての漁業は禁止すべきである。 もう一つ問題がある。 鯨の数は最近増えすぎて世界の漁業に打撃を与えている。 増えすぎた鯨が多くの魚介類を食べてしまうのである。 自分たちが獲ろうとしている鰯の群れの中に鯨が突っ込んできて、漁が出来なかったと、漁師が嘆くのを私はあちこちで聞いた。 何しろ鯨の食べる量はすさまじいので、イワシの一群れなどあっという間に食べられてしまって、漁師の取り分が無くなる。 日本だけでなく、東南アジア各地で同じようなことが起こっているだろう。 魚を余り食べない国の人間には何でもないことだろうが、魚を食事の柱としている我々アジアの国の人間にとっては死活問題である。 人と鯨のどちらが大事か、よく考えて貰いたい。
- 2009/06/26 - トリュフ狩り 先週の日曜日、キャンベラ(オーストラリアの首都。シドニーとメルボルンの中間くらいの位地)の近くサットンと言うところで行われた、トリュフ狩りに招かれて参加した。 驚くべし。 オーストラリアでも、フランス風の黒トリュフが、採れるんですよ。 トリュフは、イングリッシュ・オークという樫の木の一種(葉っぱの形は柏の葉っぱそっくり。形はそれより小さいが)の細い根に生える。 トリュフは地面の下に育っているので、見付けづらく、フランスでは、豚、イタリアの白トリュフの場合は犬に匂いを嗅がせて発見する。 こちらでは、犬を使ってトリュフの匂いをかぎ当てさせて発見する手を使った。 イタリアの白トリュフの場合、犬が白トリュフが大好きなので、犬が白トリュフの匂いをかぎつけて地面を掘り始めた瞬間から、飼い主と犬との争いになる。最悪の場合、飼い主が犬の耳に咬みついて犬を引っ込ませてトリュフを奪う。 私は十数年前に、NHKの番組作りのために、イタリアに白トリュフを取りに行って、犬と飼い主の、トリュフを巡ってのすさまじい争いを見てたまげた。 本当に、白トリュフを争って犬と飼い主が激しく戦うのである。 犬と言えば、日本では、「ここ掘れわんわん」、で大変に忠実な動物だと思っていたが、流石の犬も、こと白トリュフになると、飼い主なんかどうでも良い。とにかく食べたい、と発狂状態になる。 イタリアの白トリュ狩りの人間は二匹の犬を使っていたが、その男の両腕は、トリュフを犬が見つけた時に犬と争ってトリュフを奪う際に犬にかみつかれた傷跡が筋状に何本も生々しく残っているというすさまじさだった。 フランスでは、犬ではなく豚を使うから、トリュフ狩りの人間にはそんな危険はないだろうと思っていたら、今回、トリュフ狩りを催してくれた側の人の話を聞いて驚いた。 やはり、豚もトリュフが大好きで、(だから、当然必死になってトリュフを探すわけだが)、トリュフを見付けると猛烈に食べたがる。 そこで、やはり、トリュフ狩りと争いが起きるのだそうだ。 恐ろしいことに、犬はかみつくだけだが、豚の場合、その噛むあごの力がすさまじく1平方センチメートルあたり40キログラム以上の力がかかる。しかも、豚の前歯は薄いから、その薄い前歯にかかる力は凄いことになる。前歯はカミソリのようになる。 したがって、豚に噛まれると、人間の指なんか、軽く切断されてしまう。 フランスのペリゴール地方は、トリュフの産地だが、そのあたりで、指が数本欠けている人間は、トリュフ狩りの人間だとすぐ分かるという。 こうなると、トリュフ狩りの被害は豚を使うフランス人の方が大きいが、その味となると、イタリア産の白トリュフの方が遙かに美味しく、私に言わせれば、比較にならないという感じなので、大変に不公平な感じがする。 腕に傷を負うのと、指を数本失うのとでは被害の程度が違いすぎるし、しかも、白トリュフの方が数段美味しいと来ているんだ。 それにしても、写真で見る、豚を使ったトリュフ狩りなんて優雅な感じだが実際は恐ろしい物なんだと知った。 流石の美味自慢フランス人も、フランスの黒トリュフとイタリアの白トリュフの件になると、口惜しげに、「イタリアの白トリュフはなあ」と夢を見るような表情になる。 その男は日本のことを良く知っていて、日本では指がかけているとやくざだと思われるのにねと、言うので、皆で大笑いした。 それほど、人間だけでなく犬でも豚でも、正気を失うくらいに、トリュフの香りは魅惑的で美味しいのだ。 今回使った犬は、トリュフ狩りのために訓練された犬で、ラブラドールとオーストラリアの牧場あたりで普通に飼われている犬との混血で、大変におとなしく、トリュフを見付けると、その地面の上を脚でひっかいてみせる。「ここ掘れ、わんわん」である。 そこを飼い主が掘るわけだが、その間、犬はおとなしくしている。 犬の言うとおり、トリュフが出て来ると、飼い主は大喜びで犬を讃めて、ちょっとしたドッグフードなど与える。犬はトリュフを食べたい樣子を見せない。 実に、良く訓練されている。 そのトリュフは、駐キャンベラの小島日本大使と友子夫人のご好意で、大使館勤務の料理長関口靖男さんと、同行した、シドニーのレストラン「ブランシャル」の犬飼さんが腕を振るって料理してくれた。(料理の中身は、「雁屋哲の食卓」でもうじきお見せできるはずです。どうも、写真の整理に手間がかかってしまって) 私のようなトリュフ狂の人間には最高の一日だった。 しかし、考えたのだが、トリュフもオーストラリアでは一番高価な食材として扱われているが、栽培するのは、遙かに松茸より簡単だ。 日本でも、絶対に生やせる。 日本の松茸や、本物のシメジは、木の根から菌糸が地面に広がって白という菌糸の充分に育った地域を作らなければならない。松茸はその菌糸の広がった地面に生えるのである。直接松の根から生えるのではない。しかし、人工では地面に菌糸を広げるのが仲々難しく、松茸の栽培は今まで成功したことがない。 ところが、トリュフはオークの細い根に生える。地面から生えるのではないところが松茸と根本的に違う。 地面に菌糸を広げなくて良いので、栽培は松茸より遙かに楽だ。 世界的に言うと、非常に高価で松茸より需要のあるトリュフがこんなに簡単に栽培できるのなら、日本でも、試したらどうだろう。 松茸を愛するのは日本人だけである。他の国の人間は松茸の味を理解しない。 トリュフの方が遙かに世界的な市場が大きい。 私も、やって見ようかな。 秘密で色々教わったノウハウもあるし、物書きなんか止めて、トリュフ栽培で余生を過ごすというのも悪くない。 こんな風にものを書いていると、つい、誓いを破って人の悪口を書いてしまいそうになる。 だが、トリュフ栽培なら、人の悪口とは無縁だ。 そっちの方が、楽しそうだな。 よし、吾が輩は、日本のトリュフ王になってやんべえか。 でも、人悪口を書くのもたのしいしなあ。 き、ひ、ひ、ひ、ひ。 それにしても、トリュフは美味しい。 七月になると、タスマニアからのトリュフが入って来る。 うかうかしてられませんぜ。 もう、気もそぞろ、と言う感じだね。 ただね、本当にトリュフとぴったりというワインは何だろうと、その件については、いまだに頭をひねっていますね。 やはり、メルローかなあ、最近はやりのシラー(Shiraz)は私には向かない。 それしても、どうして最近はどこに行っても、シラー、シラーと人気なんだろう。 流行という物なんでしょうかねえ。 シラーなんて物は・・・おっとっと。 また人の悪口を書きかけしまった。 味覚はその人個人による物だから、他人の味覚をあれこれ言っても仕方がないが、最低の基準と言う物はあるぜ。 でも、シラー、なんてなあ・・・・・・。 ああ、これで、また何人か敵を増やしてしまった。 この辺で、楽しかった、トリュフ狩りの報告は終わり! 実際の樣子は、近日掲載予定の「雁屋哲の食卓」で見てください。
- 2009/06/20 - 辻井さんの件についてのお詫び どうも我ながら軽率すぎるようだ。 バン・クライバーン・コンクールで優勝した辻井さんについて書いた先日の日記にたいして、数人の読者からメールを頂いた。 その中の一人の方は、 「(前略)「一度だけ 目が見えたら、母の顔が見たい」というのは、ご本人や父親が公表している有名なエピソードのようです。 (中略) そうだとすると、(質問の仕方はともかく)、くだんの記者は、 事前に調査した上での質問だったことになります。 いくら何でも、何の予備知識もなく、「もし目が見えたら」とは 聞かないでしょう。 (中略) そういうわけで、6月11日の日記やご友人とのやりとりは、もしかしたら、誤解に基づくものかも知れないと思います。 (中略) 蛇足ですが、「マスゴミ」という言葉を使う人(典型例がネット右翼)の文章や人格で感銘を受けることは、まずありません。雁屋さんも、あまり使わない方がよろしいかなと感じました。」 と書いてくださった。 「マスゴミ」と言う言葉の品のなさまで指摘いただいて恐縮した。 別の方は、 「(前略) 会見で件の質問をしたのはテレビ朝日の記者と聞いておりま す。雁屋さんは、毎日新聞の記者が質問したと取り違えてらっしゃるのではないでしょうか。 また、この質問について報道したのは毎日新聞だけではありません。朝日新聞は天声人語にまで盛り込んでいたかと思います。」 と書いてくださった。 確かに天声人語にも書かれているのを確認した。 であれば、最初の方の仰言るとおり、その言葉は、ご本人からでた物であるようで、一方的に、毎日新聞を批判した私は間違い犯したことになる。 それに、毎日新聞の名前を伏せたつもりでも、沖縄の核持ち込み秘密条項の話を出せば、事情を知っている人にはすぐに私が毎日新聞のことを言っていると分かってしまう。 しかも、文末に「貧すれば鈍する」などと、失礼なことまで書いてしまった。 毎日新聞には、心からお詫びする。 でも、ずっと応援していることだけは確かなんですからね。それだけは信じてくださいね。 と言うわけで、きちんと自分で調べもせずに、毎日新聞の記者を責めるような文章を書いてしまったことを、毎日新聞と、読者諸姉諸兄にお詫びします。 以前にも書いたが、日本ハムで活躍した新庄選手が、ある年の初めに今年の目標はと記者に聞かれて「今年の目標は人の悪口を言わないこと」と言ったことに、私の連れあいがたいそう感心して、私も新庄選手を見習おうと思った、と言うことについては以前この日記か、コンビニ版の「美味しんぼ塾」に書いた。 普通、野球の選手が「今年の目標は」と訊かれたら、「打率三割以上、ホームラン三十本以上」などと答えるところを、新庄選手は「人の悪口を言わないこと」と言ったのだ。野球選手としては不思議な答えだが、実に立派だ。 また、「諸君!」の最終号に、評論家の櫻田淳氏が、次のようなことを書かれていた。 「氏にとっては『諸君!』は言論活動の最初期の主な舞台であって、氏は担当編集者との交わりを通じて二つの『作法』を教えられた。その『作法』の第一は、特段の事情がない限りは、個人を名指しして批判すると言うスタンスの論稿を書かないと言うことである。 言論の世界で展開される様々な批評の対象は、あくまでも言論家が披露する言説の中身であって、言論家個人の人格や姿勢ではない」 実にこの「作法」は立派なことである。 私は新庄選手の教えにも、櫻田淳氏が体得した「作法」も無視したことになる。(もっとも、「諸君!」は二度までも、私の実名を挙げて長文の批評と言うより罵倒としか言いようのない上品な文章を掲載してくれたが) 今度のことに懲りて、新庄選手の教えと、櫻田淳氏の「作法」を守ることにする。 ご親切なメールを下さった読者諸姉諸兄に心からお礼を申し上げます。
- 2009/06/18 - 漫画家の悲鳴《「雁屋哲の食卓」に「イカ釣りとイカ料理」を掲載しました。》 ええ、今回話を始めるに当たって、私が、裏庭のキノコについて書いた箇所で間違いがあったので訂正します。 松茸や、シメジは、菌糸が地面に広がって、そこからキノコが出て来るので、「菌糸菌」と書いてしまいましたが、あれは「菌根菌」の間違いでしたね。 いつも、ちょっとした間違いで、沢山メールを頂くのに、今回はまだ誰も間違いを指摘するメールを送って下さらない。 ふ、ふ、ふ。 読者諸姉諸兄の皆様、見のがしましたね。 ところで、あのキノコの話を書いたら、読者の方から、「自分の地方では、あのキノコを『落葉』と呼んで、味噌汁に入れて楽しむ」というメールを頂いた。 で、実は、今日裏庭で娘たちが、新たに同じキノコが生えているのを発見して採ってきたんです。 乳粟茸です。 で、早速読者のおっしゃるとおりに、今夜は味噌汁に入れて食べました。 本当に美味しいキノコだ。 味噌汁に入れることを教えてくださった読者の方に、感謝いたします。 さて、昨日、自民党党首麻生太郎氏と、民主党代表鳩山由起夫氏との党首会談が行われた。 その途中で、民主党鳩山代表が、麻生首相に次のような質問をした。 「あの2006年からでしょうか、社会保障費、これも聖域ではないとの発言の中で2200億円がどんどん削られてしまった。これは大変な、国民にとっての災難であった、そのように思います。 診療報酬もずっとしばらくの間下がり続けていたわけであります。私どもも診療報酬に対して、すべてとは言いませんが平均して2割上がるくらいの診療報酬に戻さないと厳しいのではないか、そのように感じているところでありまして。都合8000億円程度はどうしても今緊急に手当てをする必要があるのではないか、そのように私どもは計算をいたしております。」 それに対する、麻生首相の言葉は、 「財源がなければこういう話は極めて無責任になりますので、財源を提示して初めて政策が実現しうると思っておりますので、財源というものに関する見解をお聞かせいただければと思います。」 であった。 (毎日新聞による) 私は、発狂しそうになった。 日本はアメリカに駐在するアメリカ兵とその家族のために「思いやり予算」として、毎年、6700億以上の金を支払っている。 しょっちゅう、強盗をしたり、地域の女性を襲って傷つけたりしている米兵を思い遣るために、6700億円使いながら、日本人の健康を保つための財源がないから、それについて民主党についておたずねしたい、とは何事だ! 首相の頭は、完全に、セメント化している。 日本の首相として、一体何に思いやりをしなければならないのか、そこをきちんと考えられないのか。 それどころか、アメリカ軍の事情で、基地をグアムに移す費用も日本が持つという。 日本は、ずっとこの60年間、今の麻生首相のお祖父さんの吉田茂がマッカーサーに平伏して以来、アメリカの植民地だから、どうしようもないのだろう。 しかし、それなら、それで、医療費くらいきちんと予算に組めないのか。アメリカの植民地である限り日本国民に「思いやり予算」は組めないのか。 何が、財源だ。情けないことを云わないで貰いたい。 さらに、あきれるのはアニメの殿堂というか、漫画の殿堂を造るために117億円使うと言う。 私は、漫画の世界で30年以上生きて来た。 その私が言うのだ。そんな物は作らないでくれ。 大げさな言い方かも知れないが、私達漫画家は、この世界みんなに楽しんで貰いたいと思って漫画を作っている。 そんな私達に殿堂なんて絶対にいらない。 そんなお金があったら、医療とか、高齢者福祉のために使って貰いたい。 第一、日本のアニメを支えている、アニメーターと云う、一番最先端の現場で働いている若者たちがどんな苦しい生活をしているのか知っているのか。麻生さん。 日本のアニメは確かに、世界に誇る文化だ。 しかし、その現場で働いている若者たちは、労働時間が長い上に、極端な低給料のせいで、顔色も悪く、髪の毛もぱさぱさで、生きているだけでやっと、と言う有様なのだ。 その若者たちは、何時かは自分たちも、宮崎駿氏のようなアニメ監督になりたいという夢を抱いているのだが、神は残酷で宮崎監督のような才能はそんなに大勢の人に与えてくれない。 私はスタジオジブリの実態は知らないが、他のアニメの製作会社のことは知っている。 若いアニメーターの生活がどんなに苦しいか知っている。 しかし、ある程度の資金が有れば、宮崎監督までは行かなくとも、見る人を感動させるアニメーションを作ることが出来る才能を持った若者たちも少なくないのだ。 本当に、日本のアニメや、漫画を、日本にとって大事な文化産業として考えるなら、そんな建物なんかは必要ない。 漫画家のアシスタント、アニメの制作現場で働く若い人達に、その資金を回して貰いたい。 そうすることでこそ、本当に、漫画やアニメが日本の大事な文化産業となるだろう。 アニメの殿堂なんて建物だけ作ると、儲かるのは、その建物を造るゼネコン、そして、その殿堂を運営するために必要な官僚たち。 結局、そんな、アニメの殿堂なんて物は、ゼネコンと官僚たちに新しい仕事を与えるだけのもので、現実の、漫画やアニメの制作に携わる若者たちにはなんの意味も、助けにもならない物だ。 と言うことは、漫画、アニメを、日本初の文化として輸出しようという趣旨と大きく外れる物だ。 そんな殿堂を造ったら、117億円では済まない。 その管理維持費、その管理に携わる官僚の給料。 そんな物で、馬鹿馬鹿しい金が出て行く。 まさに、官僚のための政策でしかない。 アニメ・漫画産業の首を絞める政策でしかない。 麻生首相は漫画が好きだと云うので大変に好意を抱いた。 秋葉原でも、いわゆるオタクたちに、親しく呼びかけた。 それに対しては、漫画家の端くれとしての私も、嬉しいと思った。 しかし、この、アニメの殿堂は、漫画家の抱えている問題とはかけ離れている。 こんな金があったら、老人福祉に回してくれ。 117億円で建物を建てたら、その後、毎年何億も維持費がかかる。 それは、全部官僚の懐に入る。 頼むから、そんなことは止めてくれ。これ以上、官僚に余計な金を回さないでくれ。 そうでないと、社会が疲弊して、漫画を読んでくれる人がいなくなる。 これは、漫画家としての悲鳴なんだ。
- 2009/06/17 - ああ、負けちゃった! 畜生! 畜生! わあ、わあ、わあーっ! 口惜しいっ! 口惜しいっ! 口惜しいっ! これを百万回喚いても、私の口惜しさは収まらない。 今夜、メルボルンで行われた、サッカーのワールドカップ予選で日本がオーストラリアに負けたのだ。 私は、テレビの前に座り、私の愛する中澤の名前を記した、日本の公式ユニフォームを着て、もう、命がけで応援した。 前半、上手く、闘莉王が頭で入れてくれて、1−0で終わった。 何とか、後半も上手く進めて欲しいと思っている内に、後半に入るとオーストラリアに2点も入れられてしまった。 この、口惜しさは骨身にしみる。 なまじ、私がシドニーに住んでいるからこそ、口惜しいのだ。 ああ、明日から、オーストラリア人に会うごとに、奴らに、なんやかやと言われるのだ。 日本にいるのとは違うぜ。 こっちは、オーストラリアに住んでいるんだ。 畜生! 明日、例えば肉屋に行けば、肉屋がにやにやして、「へっへっへ」という。 八百屋に行けば、「いやあ、残念でしたね」とにやにやする。 ああ、この口惜しさ! でもね、試合を見ていて負けるのは当たり前だと思った。 選手の運動量が全然違う。 日本の選手は子供みたいだ。 体の大きさの問題ではない。 エネルギーが違う。 ここぞという、絶対間違いないと言う場所でシュートして、そのシュートがゴールの遙か上にふらふらと力なく飛んでいく。 あるいは、相手に軽く止められてしまう。 もう、私のような愛国者にとっては、死んでしまいたいくらいの悲しさだ。 なんで、日本の選手は走れないんだ。 大事な所で突っ込めないんだ。 今夜は最低だ。 精神安定剤と、睡眠薬を飲まないと、寝られない。 口惜しい、口惜しい、本当に口惜しい。 長い間患っていた鬱病が一気に悪化した。 私は、フランス大会以来、日本の出場するワールドカップには必ず行っている。 日本が勝ったのを見たのは、日韓共同開催の、大阪会場の時だけだった。 フランスでは、クロアチアに負けた。ドイツでは、クロアチアと引き分けた。 私は、それ以来、クロアチアという名前を聞くと理性が曇る。 勿論、クロアチア人に対して何も悪いことはしない。悪感情も抱いていない。 しかし、サッカーに関してだけは、クロアチアは許せない。 そして、許せないのが、オーストラリアだ。 もう、私の我慢も限界が来た。 こんな国にはいられない。そろそろ、オーストラリアを離れよう、と言ったら、子供たちに笑われた。 次にオーストラリアに勝つまで待てばよい、と言う訳だ。 しかし、今夜は口惜しくて、睡眠薬を飲まなければ、とても眠れない。 ああ、口惜しい、口惜しい、口惜しい、悲しい、悲しい。 本当に口惜しいんだよっ! 誰か、この口惜しさを分かってくれないか!
- 2009/06/12 - 辻井さんおめでとう、それにしても アメリカのテキサスで行われた、バン・クライバーン国際ピアノコンクールで、日本の辻井伸行さんが優勝した。 本当におめでとうございます。 辻井さんは全盲で、一歳半からピアノ練習を始めたという。 ところが、その件で、私達六年二組の掲示板が騒ぎになっている。 同級生の一人が、次のように書き込んだ。 「その辻井さんに 新聞記者が質問をして答えを書いていました。 その質問は、 『一日だけ目が見えたら何がみたいですか??』 『両親の顔がみたい!』と答えが返ってきた・・・って書いてあるのよ!!!! どう思います!!! どうかしてない この新聞記者!!!!! おおばかやろう!!!! じゃない!!!!!」 断っておきますが、この同級生は、とても上品な女性です。 彼女が「おおばかやろう」なんて言葉を使うのは初めて見ました。 そんな言葉は口にしたことのない女性です。 その彼女がそれだけ激高した。 私も含め、他の同級生たちも、怒った。 なんと言う新聞記者だ。 なんと言う無神経な質問をするのだ。 新聞記者以前に、人間として最低だ。 私達の掲示板に怒りの渦が巻いた。 当然だろうと思う。 辻井さんが、楽譜を見ることなしに、あんな複雑な曲を全て覚えてしまうその超人的な能力と、そのすさまじい努力に、それだけで、もう私のような怠け者は頭を上げられない気持ちがするが、そんな新聞記者のような無神経な質問にも怒らず素直に答えたところが、辻井さんは人間的に大きいと思った。 それに引き替え、そんな質問をした新聞記者のなんと卑しいことか。 本当の人間の価値なんて事を考えたことがないんだな。 その新聞記者は、顔の真ん中に、ガラス玉状のものが二つついているが、それは、何も真実を見ることの出来ない、クズの石っころだ。 最近、新聞記者や、テレビの記者・アナウンサーの質の低下が問題になっていて、今や「マスコミ」ではなく「マスゴミ 」でと言われているが、この新聞記者も、こんな記事を通した編集長も、「マスゴミ」の一員だ。 この新聞社は、かつて、佐藤栄作が総理大臣の時に、沖縄に核を持ち込む秘密協定をアメリカと結んだ、と言うスクープをものにして、大騒ぎになった。 佐藤栄作にとっては命取りだし、日米安保条約も危うくなる。 ところが、権力(官僚)の力は凄い。 スクープをものにした記者は外務省の女性職員からその情報を得た。しかも、男女の情を通じて得たという話を流した。 たちまち、他の新聞もテレビも、肝心の核の持ち込みはそっちのけで、新聞記者と外務省の女性職員の「男女の情」についてわいわい騒ぎだし、結果的に、「核の持ち込み秘密協定」はうやむやになり、スクープをした新聞記者と、外務省の女性職員が処分を受けて幕が下りてしまった。 当時、私は学生だったが、あまりのことに、呆然となった。 「核の持ち込み」は真実なのか、どうなのか、その追究は全くなされず、スクープをした新聞記者と外務省の女性職員について、浅ましい憶測記事やニュースだけが日本中を席巻し、佐藤栄作は勝ち誇って「うん、うん、そう言うことなんだよ」などとほざいて一件落着した。 更に驚くべき事は、それ以来、その新聞の部数が激減したことだ。 いったい、日本人はどうなっているんだ。 真実を追究しようとした新聞記者を返って悪者に仕立て上げる、官僚の悪質な手にころっと丸め込まれ、自分たちで真実を追究しようという気概がない。 こんな国が、民主国家であってたまる物か。 それ以来、私はその新聞をひいきにしてきたのだが、ああ、その新聞でさえ、辻井さんについて、そんな記事を載せるのか。 なんてことだ。 貧すれば鈍するとはこのことか。
- 2009/06/09 - 裏庭のキノコ 朝、長女と次女が「裏庭にキノコが生えている。食べられそうだから、採って食べよう」と言う。 私は、ひるんだ。「冗談じゃないよ。日本でも、毎年何人か、それこそ、キノコについては良く知り尽くしている人が、毒キノコを食べて命を落としているんだ。そんな、家の裏庭に生えたキノコなんか、食べちゃ駄目だ」と言った。 すると、娘たちが「とにかく見に来てよ」と言う。 私の家は、斜面に建っていて、裏庭と言っても、キノコが生えているところまで、石段を十段ほど上らなければならない。 面倒くさいな、と思いながら、娘たちにせかされて石段を登っていくと、石段の途中の庭にキノコがにょきにょき生えている。 よく見ると、太くて巨大な松の木があり、その松の木の回りに、松の木を中心とした円を描いて見ると、その円周上に、その地面を覆っている草を押し破ってキノコがてんてんと頭を出している。 「おや」と私は思った。 これは、松茸の生え方と同じではないか。 キノコには腐朽菌と菌糸菌の二通りの種類がある。 腐朽菌とは、たとえば椎茸や、ナメコのように、直接木の樹に生えるキノコである。 生きている木ではなく、死んだ木の樹に生えるので、腐朽菌という。 もう一つ、菌糸菌というのは、生きている木のまわりの地面に、キノコが木の根から栄養を貰って菌糸を張り巡らす。その菌糸のあるところから(なぜ、あるところから、などと曖昧な言い方をするかというと、菌糸菌のキノコのことはまだよく分かっていないからだ)、木からではなく地面からキノコが生える。 松茸、シメジ、などが、その菌糸菌、のキノコである。 (ついでに、現今、スーパーで「シメジ」として売られている物は、本物のシメジはない。人口栽培のヒラタケである。どうして、シメジではない物をシメジと言って通るのか、私は、その、いわゆるシメジを見る度に、心が痛むのである。嘘はいけない。嘘をつくなよ。それに、本物のシメジには及びもつかないが、ヒラタケはヒラタケでとても美味しいじゃないか。嘘の名前を付けられて売られているヒラタケが可哀想だ) 松茸の生産者は、松の周りの地面(松茸の場合は赤松である)に菌糸が広がっていて白く見えるので、その菌糸が充分に育った地面を「白」と呼ぶ。 その「白」は年々広がるが、一本の赤松の周りに広がるので、同心円を描く。 松茸が生えるのは、その「白」の一番外側の円周上である。 したがって、一本松茸を見つけたら、その松茸を包含する円周を赤松の周りに描いてみると、その円周上に、次々に松茸が見つかる。 今日、娘たちが発見したキノコは、まさに、一本の松の木の周りにその松の木を中心とした円周上に何本も生えていた。 中には、落ち葉を持ち上げて、地面の外に頭を出しかけていた物もあった。これは、キノコとして、一番の食べ頃だ。 色や形は、日本の松茸とは違う。 傘は広くて平べったいし、全体の色は黄色っぽい。 しかし、この生え方から言って、松の木と共存する菌糸菌によるキノコではないか。 であれば、食べられるのでないか。 とにかく採ろう。 と言うことになって、私達は、松の木の周りのキノコを採った。 採ってから、娘たちがキノコの図鑑を調べてみたら、どうやら、キノコの名前は、「乳粟茸(ちちあわだけ)」であると判明。学名は、「Suillus granulatus (L.:Fr.) O.Kuntze」イグチ科、ヌメリイグチ属の物だという。 その図鑑の言葉を信じて、食べてみることにした。 まず、昼食に、アサリを使った、スパゲティ・ア・ラ・ ボンゴレを作りそのキノコを混ぜてみた。 薄切りにしてしまったので分かりづらいけれど、フォークで指し示しているのが当のキノコです。 これが、実に美味しい。 ぬめっとした舌触り、しゃっきりとした歯触り、松茸の香りこそないが、味わいが何とも素晴らしい。 「これで、二、三時間経って、誰も死ななければ、大成功だね」と言い合ったが、全く問題は起きない。 そのキノコは、さらに、出汁、醤油、と一緒に煮て、夕食の時に食べた。 いや、これが、また美味しい。 こんなに美味しいキノコは滅多にないと皆で感心した。 出汁と醤油の味付けが良く効いて、ご飯のおかずに最高だった。 この松の木は、秋になると、沢山の松ぼっくりを付ける。 そうすると、どこからか、羽の色が真っ黒の「ブラック・コカトゥー」というインコ、オウムの一種が必ず飛来して、数日間留まって「ギャア、ギャア」大騒ぎしながら、松ぼっくりの中の松の実をほじくって食べ尽くす。 ほら、良くナッツ専門店にいくと、松の実を売っているでしょう。 その、松の実が私の家の三本の松の木になるんですよ。 今までは、そのやかましいブラック・コカトゥーに松の木は明け渡していたが、こうして、素晴らしいキノコを秋になって生やすとなっては、私達も真剣になる。 この、松の木を大事にしなければならない。 ううむ、今日キノコを見つけた松の木以外の、他の二本の松の木の周りも、注意して見廻らなければならない。 実に、旨い物は人の心を浮き立たせますな。 自分ちの裏庭の松の木の周りに生えたキノコを食べて、こんなに嬉しい思いをするなんて、矢張り、シドニーという田舎に済んでいる甲斐があるという物です。 (写真はクリックすると大きくなります)
- 2009/06/03 - 読者の皆様、有り難うございました 前回の、PHについての私の間違いについて、今月コンビニエンス・ストアで発売される、マイ・ファースト・ビッグ版「美味しんぼ」に掲載される「美味しんぼ塾」に以下のような文章を書いた。 《今回は、まずお詫びから始めなければならない。 私のホームページ(http://kariyatetsu.com)に、ある読者がメールを下さって、「前回の『美味しんぼ塾』の冒頭で、地球温暖化と二酸化炭素について述べている中で『海水が酸性化したために、ある地域ではそれまで岩を覆って繁殖していた貝がその数を減らしているところをテレビでは見せた。その時研究者の示したその地域の海のPH値は7.8だった。PH値7が中性だから、その地域の海水は確かに酸性に傾いている。』と、書いているが、PHの値が7以上ならそれはアルカリ性ではないか。PH7.8を酸性というのは、間違いだ。」と指摘された。 私はそのメールを見て、飛び上がった。 PHの値が7以上ならアルカリ性、7以下なら酸性、などと言うことは中学で教わることではないか(今では小学校で教わるかもしれない)。 自分の原稿を確かめたら、本当にそう書いてある。一体どうしたんだろう。 私は全身から力が抜け、気力も失せた。大学では量子力学を学んだというのに、私の老耄もついにここまで来たか。なんという情けないことだ。 私は早速その読者に、PH値について逆のことを書いてしまったことを謝罪し、その研究者の研究自体は間違っているとは思えず、単に私が数字を見間違ったのだと思う、と言う内容のメールを送った。 そのことを、ホームページに書いたら、「pH7.8とお書きになったことを何かの間違いだったと誤解されていらっしゃるご様子がお気の毒に思えたので、メールさせていただきました。 海水はもともとpH8以上のアルカリ性なので、それがpH8に近づき、より中性に近づく今の状態を酸性化と表現されているのをWeb上に複数確認しました。ですから、雁屋様の書かれたことは何も間違ってはいなかったと思われます。どうぞこれ以上このことをお気にやむことのないように。」と言う、大変に心やさしいなぐさめのメールを頂戴した。 その感激もさめないうちに、またもう一人の読者から、 「私は植物プランクトンの研究を専門にしています。海水の「酸性化」そのものが専門ではありませんが、その辺の事情は良くわかっています。 雁屋さんが主張なさった、海のpHが7.8を示すように「酸性化」傾向にあるのだという文自体は、学問的には全く正しいのです。ただ、言葉の定義と背景が一般の方にはわかりにくいために、誤解されかねないかな、とは思います。 場所や時期にも多少左右されるものですが,もともと海水のpHは約8.3付近にあります。なので、もしpH7.8を示す海があるならば(私の常識的には)それは、相当「酸性化傾向」にあると言えます。真水を中性と定義するという中学校の常識から言えばpH7.8は確かに弱アルカリですが、pH7.9がpH8.3より(相対的に)酸性だ、という言い方もまた正しいのです(大学ではそのように教えます) 雁屋さんが、「もともとpH8.3程度であった海が、pH7.8まで酸性化した」とおっしゃるのであれば、100点満点です。 p.s. それとついでですが、海の酸性化は大気中の二酸化炭素が溶け込んだからという単純なメカニズムで起こるわけではありません。ただ、それは余りに専門的になってしまうので、よろしければ本をご紹介しますが、ここでは控えておきます。複雑だということをご理解いただければと思います。」 ああ、何と言う心やさしい方々であろうか。私は、すっかり落ち込んでいた心が、救われたような思いがした。 本当に、助け船を出して下さった方にはなんと言ってお礼を言ったら良いか分からない。 しかし、 一、私がPHの値について反対のことを言った。 二、私は、いつも、魚介類の保護とか、水質保全などと声高に唱えながら、その実、海水自体がアルカリ性であると言う、海水についての基本的な知識を持っていなかった。 と言う二つの過ちは消えない。 読者諸姉諸兄に、あの過ちをお詫びすると同時に、海についてもっと基本的なことも含めて深く勉強し直すことをお誓いして、お許しを請いたいと思います。 如何にうっかりとは言え、本当に、恥ずかしいことをしてしまいました。 それにしても、こんなに優しい読者をもって私は本当に幸せです。 皆さん有り難う御座いました。 これからも皆さんの御期待に沿うように頑張って参ります。よろしくお願います。》 と、まあ、以上の文章で、前回のPHについての問題は、お許し下さるよう、読者諸姉諸兄にお願いします。 また、この文章を編集部に送った後に、私を慰めてくださるメールを頂戴した。原稿を送った後だったので、上記の文章に付け加えられなかったが、深く感謝します。 おかげで、海についてもっと深く勉強しなければならないという意欲が湧いてきた。 鬱も、少しはれました。 次回からは、久しく中断していた、反「嫌韓・嫌中」を開始しようと企んでいます。 読者のみなさま、本当に有り難うございました。
- 2009/05/26 - ああ、恥ずかしい 私は、毎月コンビニエンスストアーで発売されている、マイファースト・ビッグの「美味しんぼ」版に「美味しんぼ塾」という随筆を連載しているが、その件に関して、読者の方からメールを頂戴した。 5月発売のその「美味しんぼ塾」の中に、炭酸ガスが大量に発生されていて、それを吸収した海が酸性化している。 その結果、貝類が減っている地域があることを書いた。 海水が酸性化すると貝類は、殻を作れなくなると言うのである。 そこで、私は、研究者が「PH7.8」という数値を示した、と書いた。 メールを送って下さった方は、「PH7.8」は弱アルカリを示す値であり、私の記事が間違っているか、研究者が間違えているかどちらかだと思うのだが」と書かれていた。 読んで私は飛び上がった。 まさか! そんなことを書くか! 確かめたら、本当に、そんなことを書いています。 PHのことなんか、中学で学ぶことではないか。 それを、何をえらそうに、アホなことを書くのだ。 私は、恥ずかしく、自分の脳みそを取り出して踏んづけてやりたくなりました。 もちろん、PHの値は7が中性、7以下が酸性、7以上がアルカリ性を示す物です。 7.8なら、わずかにアルカリ性で、酸性ではありません。 どうして、そんな中学生にでも笑われるようなことを書いてしまったのだろう。 言い訳をさせて貰えば、あの原稿を書いていた当時は、環境問題の取材の連続で、日本の環境問題の破滅的な状況に直面して、その厳しさにちょっと神経がおかしくなっていた。心身共に疲労の極地にあった。 それで、頭の回路が混乱して、そんなことを書いてしまったのだと思う。 しかし、そんな初歩的な失敗した後で、何を言い訳してもむなしい。 ああ、恥ずかしい、恥ずかしい。 死にたくなった。 激しい鬱がぶり返してきた。 もう、駄目だ。 その研究者の研究と、仮説の立て方は間違っていないと思う。 私が、酔っぱらっていたりしていてその数値を見間違えて、見間違えたまま、愚かにもそんな原稿を書いてしまったのだろう。 このページの読者諸姉諸兄の中には、あの「美味しんぼ塾」をお読みになった方がいるかも知れない。 6月発売になる、マイ・ファースト・ビッグの「美味しんぼ」の「美味しんぼ塾」で、訂正と謝罪の文を書きますが、それ以前に、ここで、「美味しんぼ塾」の多くの読者諸姉諸兄にお詫びしておきます。 今後、こんなアホな、私自身の知性を疑われるようなことは(え?とっくに疑っているって?それは、どうも失礼しました)書かないように、物を書くときには、慎重の上に慎重を重ねるようにします。 今日は、この、惨めな失敗のために、激しい鬱がぶりかえしてしまったので、これ以上何も書く勇気がない。 あーあ、何てことをしてしまったんだろう。 物を書くと言うことは、恥をかくことなんだな。
- 2009/05/22 - 中江兆民の「一年有半・続一年有半」 5月20日は、私達家族にとっては特別の日だった。 1988年5月20日に、私達家族はシドニーに引っ越してきたのである。 だから、5月20日は、引っ越し21周年記念日だった。 私は今までの人生で一番長い間暮らしたのは東京の田園調布だったが、とうとう、シドニーが一番長く暮らした町になってしまった。 こんなことは、予想もしなかったことだ。 どうしてこんなに21年も住み着くようになってしまったかは、拙著「シドニー子育て記」(遊幻社刊)に書いてありますのでお読み下さい。 しかし、いくら何でも21年は長すぎた。 今、私は、21年留守をしている内に朽ちてしまった秋谷の家を建て直している。 8月末に出来上がるはずだ。 これからは、軸足を日本へ戻したいと考えている。 もう、帰って来なくていいよ、なんて言う人がいるかも知れないが、やはり、日本で最後の10年間は活動したい。 せっかく膝の人工関節の手術が上手く行って、痛みを感ずることなく、あちこち歩き回れるようになったのだから、酒量を抑え、勉強に精を出し、残る年月を充実させるのだ。 20日は、次女が忙しくて、作れなかったからと言って、昨日、21周年記念のイチジクのタルトを作ってくれた。(写真はクリックすると大きくなります) イチジクにも皮が緑色の物と、濃い紫色の物があるが、これは緑色の方を使ってある。 ケーキに使うには、緑色の皮の物の方が綺麗だし、美味しいようだ。 ケーキの味は、次女の作る物だから、申し分ない。 早く、獣医なんかやめて、お菓子屋になってくれないかしら。 ところで、今日久しぶりに、中江兆民の「一年有半」と「続一年有半」を読み返した。 中江兆民については、若い人は知らないかも知れないが、百科事典など引いてその人となりを調べて欲しい。 明治年間において、自由民権運動に挺身した、かなり先進的で、先鋭な思想を持った人間で私の好きな人間の一人だ。 「一年有半」というのは、1901年4月に喉頭ガンが発見され、余命1年半と医者に言われ、それなら残り1年半思い切り生きようと、社会評論、人物評、人形浄瑠璃観劇の感想、文学上の感想など、思っていることを徹底的に書き込んだ物である。 私が持っているのは、岩波文庫で、井田進也氏の解説註釈付きのものである。 井田進也氏については、福沢諭吉についての評価などで、色々問題があると思っているが、もともと中江兆民が専門家だから、この本の註釈などは間違いない物と信じることにする。 とにかく、明治時代の知識人の学識たるや、すさまじい物で、中江兆民はフランス語と漢文学の両方を自由に扱う。当然、古今東西の思想に通じている。 したがって、井田進也氏が註釈を付けておいてくれなかったら、正直に言って私などは、手も足も出ない。 「一年有半」も凄いが、それからさらに書いた「続一年有半」がもっと凄い。 その内容は 「霊魂の不滅はない」 「精神は肉体が死ぬと同時に死滅する」 「神は一切存在しない。多神教の神も、一神教の神も存在しない」 「造物主なども存在しない」 「時間も空間も、始めもなければ終わりもない」 などである。 1901年4月に寿命後1年半と言われて「一年有半」を書き、まだ死なないからと言って、「続一年有半」を書くその根性もすさまじいが、その内容も徹底している。 110年前の水準の物理学では最先端の知識を有し、透徹した理論で、全てをしっかり認識し、納得し、自分の死を平然と迎えていのだ。 1901年の12月13日になくなったのだが、11月29日にどこかの坊主がちん入して、病気克服の加持祈祷をしようとしたら、兆民は、喉頭ガンで口がきけないので会話の際に使っていた石版を坊主に投げつける仕草をしたという。実際に投げる力は失われていたのだろう。 死のぎりぎりまで、ここまで明確に自分の意志を保ち続けた兆民という人間は並の人間ではない。 おうおうにして、有名な作家などが、死ぬ直前になって、キリスト教の洗礼を受けた、などと聞いて鼻白む事が多いが、中江兆民はそのような弱い心の持ち主ではなかった。 日頃どんな強がりを言っていても、死が迫ってくると、宗教にすがってしまう人が少なくない。 それまでの、言説や生き方から外れてしまうので、作家の場合など、それまでの読者はだまされたような感じがする物だ。 人間は誰でも死ぬのはいやだ。怖い。 何が怖いと言って、この自分という存在が、消え果て、自分自身が今持っている自分という意識が消えてしまうと言うことが怖い。 中江兆民のように、喉頭ガンを宣告され、しかもそのガンが日に日に大きくなり、ついには、気管切開をしなければ呼吸が出来なくなるまで追いつめられたら、私のような人間はめそめそ嘆いたり、あるいは霊魂不滅を信じて自分を慰めたり、さらには、今は宗教は信じられない、などと言っているが、その時になったら心弱り何か宗教にすがったりするかもしれない。 中江兆民は次のように言っている。 (以後、引用する兆民の言葉は、原文は明治の文語体なので、若い読者のことを考えて私が現代語で要約している。) 「精神は本体ではない。本体は、この肉体である。精神は肉体の働き、すなわち作用である。肉体が滅びれば精神は即時に滅びるのである。それは実に情けない説ではないか。情けなくても、真理ならば仕方がないではないか。哲学の目的は人の心を慰めるための物ではない。たとえ、殺風景なことであっても、自己の推理力が満足しないことは言えないではないか」 「精神と肉体は、炎と薪のような物で、薪が燃え尽きれば炎が消えるように、肉体が滅びれば精神も消え果てる」 「世界は神が作ったと言う説があるが、それではその神というのは世界のどこにいるのか。人間は神の形に似て作られたと言う説があるが、それでは、その顔の大きさ、体の大きさはどれだけなのか。 宗教家は神が色々なところに現れたと言っているが、それは、その宗教の仲間内だけの話で、信じるに足らない」 「ナポレオン、豊臣秀吉も死ねばその体を構成していた元素は、あちこちに散って、虫の体や、鳥や獣の体を構成する物になるか、地中に吸収されて人参大根の栄養になって、誰か他の人に食べられるかも知れない。 人は死ねば、その体はバラバラになるが、その体を作っていた元素は不滅である。 しかし、体の作用である精神は消え去る。 だから、天国を望むこともなく、地獄を恐れることもない。 また、二度と再び人体を受けてこの世に生まれ出るはずもない。この世で自分の命を継ぐ物は自分の子供だけである」 死を目の前にして、これだけのことを言える精神は強靱である。 余命1年半と言われたが、4月に喉頭ガンの宣告を受けて、12月には亡くなってしまったので、実際は8カ月しか、生きられなかった。 しかし、その8ヶ月の間に、浄瑠璃を楽しみ、美味しい物を楽しみ、妻と冗談を言って笑い合い、実に、堂々たる最後だった。 兆民はこうも言っている。 「70、80まで生きると、人は長寿だという。しかし、人の死後は無限に続くのだ。50年生きても、80年生きても、その後の無限の時とは比較にはならない」 まさにその通りだ。 人は如何に深く生きるかだ。 脳髄が死んで精神が消滅するまで、いかに、全力で楽しみ、勉強をし、楽しむかだ。 そこに、虚無ではない、本当に豊かな人間の生き方がある。 ぜひ、一度「一年有半・続一年有半」を読んで頂きたい。
- 2009/05/20 - 長男の裏切り 先日、私の家ある秋谷の近く、長井の釣り道具屋に出かけて仰天した。 この釣り道具屋は全国展開をしている大きな釣り道具チェーン店の一つであり、店舗の規模も巨大で、品数も素晴らしく多い。 しかし、とにかくど肝を抜かれのが、イカ釣りの道具専門のコーナーがあって、ありとあらゆるイカ釣り道具がそろっていることだ。 そのコーナーだけで、シドニーの普通の釣り道具屋より大きいくらいだ。 この釣り道具屋も、10年ほど前にはなかったと思うが、このイカ釣り自体がこんなに盛んになったのもここ10年くらいのことではないだろうか。 以前は、どの釣り道具屋に行っても、これほどイカ釣り道具が並んでいた覚えはない。 私が昔イカ釣りをしたのは、千葉の大原に鯛を釣りに行ったときに、全く釣れず、船頭さんが気の毒がって「何か土産物を持たさにゃあ」と言って、イカ釣りをしてくれたときだけである。 そのときは、イカつの(イカを釣るための疑似餌)を何本も海中に沈めてそれを引き揚げるだけで、何も面白くなかった。 今、イカ釣りが盛んになったのは餌木という、一種のルアーが出来てからだと思う。 餌木は、えぎ、と読む。 その形は、エビと魚を合わせたような奇妙な格好で、お尻に「かんな」と呼ぶ、逆さに生えたはりが2列に並ぶ。 それを何かの餌に見間違えたイカが抱きついて、それで釣れてしまうと言う物である。 それを防波堤や、ボートの上から、竿の先に付けてとばして釣るから、単に深場にイカつのをつり下げては引き上げる、漁業としてのイカ釣りとは比較にならない面白さだ。 同じ場所で釣っても、技術によって釣れるイカの数が違うとなるとなおさらだ。 私は今イカ釣りに凝っていて、シドニーでも、その餌木を買ったのだが、その全てが日本製だった。(もっとも、竿から何から、釣り道具は全部日本製だ。実際は中国製なのだろうが会社名は日本の会社だ)シドニーの人間も餌木は「EGI」という。 長井の釣り道具屋には、その餌木が何千も、いや、何万本も様々な色、大きさ、とそろっている。 宝の山に入り込んだような気持ちになって、興奮した。 すごい、凄すぎる。 日本人は、やるとなったら徹底的にやる。 その日本人の、性情は知っていたが、ここまでやるのか、と思わずうめいてしまった。 しかも、イカを釣り専門の本が何冊も並んでいる。 DVDまでついている。 基本的な知識から、高度な釣り方まで、委細を尽くして書いてある。 DVDは釣り名人が実演してみせる。 その中には、イカが餌木に抱きつく樣子を水中撮影した動画までついているのだ。 私は、長男に命令されたとおり、何種類かの餌木を買い、シドニーはこれから秋から冬になるので、ヤリイカ系の長い形のイカも釣れるようになるのではないかと考え、深海用のイカ釣りの仕掛けも買った。 そのための、釣り竿も、電動リールも買った。 たいそうな値段になった。とても、これが釣り道具とは思えない値段で、連れ合いが目の玉を飛び出させ、非常に苦い顔をした。 さて、これだけイカ釣りの道具を仕入れてシドニーに戻ってくると、私の釣りの相棒である長男の態度がおかしい。 「一体どうしたんだ」と尋ねると、「最近、大物釣りに凝っちゃって」と言って、写真を見せる。 すごい。80センチは優にある、巨大なジュー・フィッシュ(脂がのっていて大変に美味しい魚である)、7キロ有ったという巨大なマゴチなどを、抱えて笑っている長男が写っているではないか。 「ジュー・フィッシュは旨かったよお」「コチはちょっと身が固かったけれど」と長男は自慢する。 私は、はっ、と気がついて長男に尋ねた。「おまえ、餌は何を使った」 長男は、困った樣子で笑いながら、「いや、自分で釣ったアオリイカを餌に使った。」 私は、かっとなった。「おまえ!それは、何ちゅう裏切りだっ!」 長男はにやにやしながら言う。「いや、釣ったばかりのイカを餌にすると、凄いよ、がつんと、すぐに釣れるよ」 ああ、なにをか言わんや。 私はイカを餌にして他の魚を釣るのは好きではない。 以前も、シドニーきっての料理人と、京都から遊びに来た料亭の若旦那と釣りに行ったら、彼らはせっかく釣ったイカ13杯をヒラマサ釣りに使ってしまったので、いまだに私は怒っている。 この間も、私の大先輩がその料亭に行くと仰言っていたので、「若旦那にあったら、イカ13杯無駄にしやがってと、私が怒っていると伝えて下さい」と念を押したくらいだ。 それを、我が長男にやられるとは。 9日にシドニーに戻ってきて、風邪を引き込み(豚インフルエンザではない)昨日になってようやく、お呼ばれで外出できるようになったばかりで、まだ、日本から買って来た釣り道具を試す機会がない。 裏切り者の長男も、「ちゃんと、イカ釣りに行くって」などと言っているので、もう少し元気が出たら、イカ釣りに出かけるつもりだ。 それにしても、恐ろしいのは、私も、長男の誘惑に釣られて、釣ったイカで大物ねらいに走る恐れなきにしもあらず、と言うことだ。 釣り人の共通の心理として、「大きい物を釣りたい」と言うのがある。 これは、実に抗しがたいものである。 今回買って来た釣りの本に、「昔、関西でハエ釣りがはやったが、余り釣り人が沢山釣りすぎて、ハエ自体がいなくなり、ハエ釣りも廃れてしまった。いま、アオリイカ釣りがはやっているが、あのハエ釣りの様になるのを恐れている」と言う記事が載っていた。 ハエというのは、関東で言うハヤの事ではないか。 小さい川魚である。 しかし、関西のハエ釣りの最盛期には一人で一日千匹も釣ったという。釣り師百人で十万匹だ。 それでは、ハエも絶滅してしまう。 アオリイカも一年生の生き物だ。 産卵前の牝を釣ったり、まだ大きくなる前のイカを釣ったりしたら、アオリイカは絶滅してしまう。 餌木を使って、イカ釣りをするのは大変に楽しい。 しかも、アオリイカは、釣ったあとが嬉しい。 自分で釣ったアオリイカほど美味しい物はないからだ。 しかし、釣りすぎには注意したい物だ。 私は、私の家族が6人だから、3杯釣ったらそれでやめることにしている。 アオリイカ1杯で二人分充分に楽しめる。 それを他の魚を釣る餌にしてしまったら、際限なく釣ることになる。 シドニーで有名な釣りのガイドが、「シドニーで、釣りの餌用にイカを釣り始めたのはこの10年ほどだが、当時に比べると今は非常に釣れなくなった」と嘆いていた。 シドニーでは、すでに、アオリイカの数が減少している。 日本では、今の調子では、もっと早く絶滅するのではないか。 なんと言っても、釣り道具が進んでいるもの。 私も、長男の裏切りに釣られて、イカを餌にして他の大物をねらうようになったらどうしよう。 これも環境破壊の一つではないか。 環境を守ろうと、公言している手前、環境破壊は出来ないよな。 先日お会いした、政策研究大学院大学の小松正之先生の御著書「これから食えなくなる魚」と言う恐ろしい題名の本の中に「釣り人による魚資源の減少」と言うことが書かれている。 ひとりひとり、自分釣る数は大した事は無いだろうと思っていても、釣り好きの人間が何万とイカ釣りに励んだら、イカの前途も危うい。 ああ、悩ましい。 イカは釣りたい。 でも、イカが絶滅しても困る。 裏切り者の長男のまねだけはするまいと心がけている。 本当に心がけています。(いまのところ)
- 2009/05/20 - 沖縄の泡瀬干潟を守ろう 私は三月の半ばから五月の初めまで日本で環境問題の取材を行った。 環境問題が食と私達の生活一般にいかなる影響を与えているのか、調べるためである。 沖縄の、那覇から少しの距離にある泡瀬干潟で国が埋め立て工事を計画しているというので、それも見学に行ってきた。 干潟というのは、極めて重要な物である。 様々な小動物、植物が生息していて、干潟がなかったら命の連鎖がたたれてしまい、海はただの水たまりになってしまう。 干潟の小動物、植物、珊瑚などが、海に命を与え、空気もきれいにし、周囲の環境を保つ大きな力を持ってるのである。 その泡瀬干潟を、国は埋め立てるという。 その理由が分からない。 泡瀬干潟のある湾の反対側に既に広大な土地がある。 そこに工業団地を招請するという口実で既に埋め立てた土地なのだが、そこには工業団地など建っておらず、その計画さえもない。 土地は既に有り余っているのである。 それなのに、なぜ、今更、泡瀬干潟を埋め立てるのか。 官僚、ゼネコン、土地の建築業者、政治家の利益のため、それ以外にない。 私が日本を離れる寸前、泡瀬干潟の埋め立て工事は中止に向かったという知らせを聞いて安心していたら、昨夜、田中優さんから次のようなメールを頂いた。 田中さんは、長い間日本中の環境問題にかかわってこられた方で、今回の私の取材にも全面的に協力してくださった。 日本のためを思って、日本中を飛び歩いて日本の環境破壊を救うための運動続けておられる実に、得難い人物だ。 私は昨日遅くまでお呼ばれで出かけていて、メールを開くのが遅くなった。 ちょっと遅きに失したとは思うが、これであきらめてはいけないと思うので、田中さんからのメールを、ここに転記する。 個人情報は入っていないので、田中さんも許してくださると思う。 田中 優です。 結局再開されてしまうようです。 皆様、緊急抗議集会の案内 前川盛治(泡瀬干潟を守る連絡会・事務局長) 今日(19日)午前11時半頃、マスコミから情報があり、国(沖縄総合事務局)は09年度の泡瀬埋立工事の「護岸工事」を明日(20日)から始めるとの事です。明日は、機材搬入、整備となっているそうです。おそらく夜明け前にゲートを開けてクレーン車などを搬入すると思います。 緊急抗議集会は、ゲートを開ける夜明け前が効果的ですが、緊急なため、連絡が不十分で多数の人を結集できません。 やむを得ず、緊急抗議集会を次のように設定します。多数の参加を訴えます。 日時:5月20日(水)午前8時~9時 場所:仮設橋梁前(車は、沖縄県総合運動公園・東側駐車場に駐車) ▼▲▼▲▼▲▼▲▼▲ ☆泡瀬干潟を守る連絡会☆ http://saveawasehigata.ti-da.net/ http://awase.net mailto:save_awasehigata@yahoo.co.jp 今回の集会は、20日の午前八時からなので、これにはもう間に合わないが、泡瀬干潟を守る気持ちのある方はこれからも、どんどん泡瀬干潟に出かけていってください。 「泡瀬干潟を守る連絡会」もこれから、様々な運動を展開すると思うので、多くの方の参加をお願いします。 干潟は一度失われたらもう元に戻りません。 何の意味もないのに、国(官僚)、ゼネコン、業者、政治家の私欲のために、埋め立ててしまったら、海の生態は破壊され、私達の生活も貧しくなります。 干潟が如何に重要な物か、充分にお考えになって、泡瀬干潟を守る運動に多く方が力を貸してくださるようお願いします。
- 2009/05/12 - 環境問題 三月の中旬に日本へ戻って以来、一月半ぶりにシドニーに帰ってきた(戻ると、帰ると、この二つの言葉の意味の深さが私の心を傷つける。私は、いったい何者だ。私は、国際的な浮浪者か) 日本では、環境問題の集材に加えて、「美味しんぼ」の「日本全県味巡り」和歌山県篇の執筆に時間を取られ、生きた心地のしない日々を送った。 「美味しんぼ」の「和歌山県篇」が読者の皆さんに受け入れていただければ有り難いのだが、さあ、どうなることだろうか。 それに加えて、今度は、環境問題を「美味しんぼ」で書こうと思っている。 厳しい取材を重ねて、日本環境破壊の実態の一端を掴むことが出来た。いや、一端などというお粗末な物ではない。日本の環境破壊の根源を掴んだと思う。 なんで、漫画で、こんな面白くもない題材を扱わなければならないのか。漫画というのはもっと面白おかしい物を読者に提供して健全な娯楽として存在するべきなのではないか。 私の漫画の書き方は間違っているのではないか。 そうは、思うのだが、こう言う題材を扱える漫画は他にないので、支持してくださる読者諸姉諸兄をあてにして、こんな漫画を書き続けている。 私は日本の未来に何とか光を見いだしたいと思う。 こう言う時に、本当の「愛国者」はどんな物か、はっきりする。 無闇に、他国を攻撃的し、自分の正しさを強調することで自分の虚栄を充たすだけの人々が「愛国者」を名乗ることが最近多すぎる。 自分自身に自信を失うと、精神的に余裕がなくなり、その不安を外国人攻撃で紛らわせようとする。 これは、世界史を見れば、みんな同じことをしている。 そして、そのような、外国人排斥を行った国は全て滅びてきた。 人類は、科学的な進歩を飛躍的に推し進めた十九世紀以来、非常に攻撃性を増した。 もともと、人間の歴史を見ると争いと戦いの歴史ばかりで、人間の本性はお互いに戦いあい傷つけあう物であるのかと悲観的になるが、科学の力を利用できるようになると、その攻撃性が一層増大して、戦場に赴く人間は、一昔前なら異常な殺人鬼と呼ばれるような人間でなければ勤まらなくなった。 その行く先は人類の滅亡である。 むかし、人類の滅亡というと、SFの空想物語として語られた。 しかし、今は違う。 原子炉が、一つ、二つチェルノブイリ状態を起こしただけで地球は滅びる。 愚かな指導者が、核兵器を、どこかに使用しただけで、地球は滅びる。 最近の、科学の調査の教えてくれることは、地球の今の環境はまるで奇跡的に出来上がった物で、危うい釣り合いの上に成り立っている、と言うことである。 わずか、一部分の綻びが、全体の釣り合いを破壊する。 地球全体が全く奇跡的に出来上がった生き物の連鎖の結果であり、その連鎖の一つながりが壊れるだけで全ての構成が崩れる。 地球は実にか弱い生き物なのである。 永遠に頼りになる大地、なんかではないのである。 こんな時に、人々が争いあってどうする。 環境の保全を図ることと、世界から戦争や争いを失くすことは同時に進めなければならないことだと、深く理解した。 大きな課題だ。 私は、次世代の人間、三十代、二十代の人間に期待する。 というより、脅かしておく。 幸いなことに我々は、地球の最後を見ないですむかも知れないが、君たちはこのままでは絶対に、地球の最後に直面して惨めに苦しむぞ、と。 だから、今何とかしなければならないんだ。 今回の辛い、辛い取材を通して、そのことを痛感した。 ああ、私だって、のんびり楽しく生きたいよ。 文句ばっかり言っている人生はいやだよ。 だから、頼むから、私に文句を言わせるようなことを、しないでくれよ、と官僚や、ゼネコンや、政治家に言ったところで聞きやしない。 では、破滅するしかしないのか。 そこで、必要なのが、我々市民の力だよ。 しっかり、事実を受け止めよう。 地域のボスの圧力なんかに負けるな。選挙で自分の意志を示そう。 自分の子供がちゃんと生きて行ける環境を残すことが出来なくて自分が親だなんて威張るんじゃない。 我々は、かろうじて生きて行けても、私の子供たち、孫たちはどうなる。 党派制を越えてこれは考えて貰いたい問題なのだ。 「美味しんぼ 環境篇」を是非お読み下さい。
- 2009/05/05 - 長良川の現状 5月2日に、天竜川、長良川の取材の旅から帰ってきた。 今回の取材は、肉体的にも、精神的にも厳しかった。 3日は何も出来ずにぼーっとして過ごした。 4日は更にひどくなり、食慾も失せて、へたりきってしまった。 1993年に、「美味しんぼ」の第39巻に私は「長良川を救え」という題で、長良川の河口堰が出来たらサツキマスが滅びると描いた。 それから15年経って、どうなっているか見に行った。 当時の岐阜大学の教授は、河口堰に魚道を造るから、サツキマスの遡上には問題はない。70パーセントのサツキマスは遡上すると言った。 何を根拠にそんなことを言うのか。 毎年70パーセントしか遡上しないことが続いたら仕舞いにはゼロになるだろうと言ったのだが、がんとして自分たちが正しいと言って聞かない。 で、今回、長良川で60年サツキマス漁をして食べてきた大橋さんご兄弟と、大橋さんの釣ってきたサツキマスを全て買い上げてきた料亭「末木」の当代のご主人に事情を伺った。 私の予想より遙かにひどかった。 河口堰が出来るまでは、一晩170本くらい当たり前に獲れた。 それが、私達が行った日は前の晩に3匹だけ獲れただけだという。 脂がのって、特に頭が美味しかった。頭をばりばり食べるのである。 大変に美味しい魚である。 「末木」のご主人によれば、もう、サツキマスは滅びるのではないかと言う悲観的な状況であるようだ。 大橋さんご兄弟に、サツキマスの流し網漁に同乗させていただいた。ご兄弟とも、本当に心優しい楽しい方で、川面を吹く川風のさわやかな心地よさに当然となり、これなら何もつれなくてもいいや。とまで思った。 第一、サツキマスは日没時から釣れる。それでは写真が撮れないので、獲っている姿だけを演じていただこうと言うことで、流し網漁を実施していただいた。 普通二艘の船の間に網を張って流すのだが、大橋さんのお父さんの発明になる流し網は、船と反対に浮きを流し、浮きと船の間に張った網を流して漁をすると言う非常に優れた漁法なのだ。 4キロメートルほど流して一旦網をたぐる。 すると、おお、サツキマスが一匹かかっているではないか。 こんな時間にかかるとは奇跡だよ、と大橋ご兄弟も大喜び。 私も実に嬉しかった。 大橋さんは、河口堰が川をふさぐまでは、このサツキマスを一晩に軽く100匹釣っていたのが、今ではまるでだめ。 サツキマスだけでなく、鮎も、シジミもだめになったと言う。 「第39巻」にも描いたが、その時点で、地域の人は河口堰はいらないと言っているのに、官僚、ゼネコン、政治家が無理矢理作ったものなのである。 いったい日本と言う国はどうなっているのか。 「末木」も大変立派な料亭で客筋も豊かな方ばかりとお見受けした。 「末木」の売り物はサツキマスである。 それなのに、今では、お客さんが「釣れたら連絡してくれ」と言うようになってしまった。 存在する意味の全くない河口堰を作り、長良川の最大の資産である川魚を絶滅の危機にまで追い込んでおいて。国も、県も、学者達も何も反省しない。 あの時、魚道を付けるから、70パーセントのサツキマスは必ず遡上して来るから大丈夫だと言った岐阜大学の教授の名前をここで公表してやっても良いが、武士の情けだ。黙っていてやろう。 もっとも、1993年当時の岐阜大学の河口堰に関わった教授なんて、すぐにばれてしまうけれどね。 いっぺんにあれもこれもと書くと、読む方が大変だろうから、これから、沖縄の泡瀬がたの問題、六ヶ所村の問題、築地市場の豊洲移転の問題、天竜川の問題、など、次々に、書いていく。
- 2009/04/28 - 和歌山県は素晴らしい「美味しんぼ」の「日本全県味巡り」和歌山県篇の最終回を今日書き上げた。 これがスピリッツに載るのは数週間先になるだろうが、原作者としての締切りは、これでぎりぎり一杯なのである。 私は「日本全県味巡り」を始めて見て、日本という国の素晴らしさを決定的に身にしみて感じた。 私が自分のことを「愛国者」だというと、右からも左からも、ひどいことを言われるが、そう言う言論の人は、ぴいいぴいいさえずっていないで、実際に日本各地を回って貰いたい。 和歌山県もそうだが、日本の各県を回ると、どうしてこんなに素晴らしい人達、自分の生き方を決めてそのために努力を尽くす人達が大勢いるのか、それを見て、これだけで、私は日本という国に絶対なる進歩と確実な生き方を見ることができるのだ。 実際に物を生産している地方の人達と、単なる消費者である都会の人間とは、顔つきと心が違う。 地方に来る度に、ああ、よくぞ日本人に生まれけり、と思う。 素晴らしい人達が我々都会に住んでくだらない消費をしながら文句を言う我が儘な人間を支えてくれているのだ。 私は、何度も言うが、日本という国を国土の面積で示せば世界地図上では豆粒のように小さい。 しかし、面積ではなく、文化を単位にして国の大きさを測ったら、アフリカと、南アメリカと、ユーラシア大陸のかなりの部分を合わせた以上の面積を世界地図上に描くだろう。 こんなことを言うと、「ああ、雁屋哲も、愛国主義に陥ったか」と嘆かれる人もいるかも知れないが、そう言う人は、世界の実状をしらない人だ。勉強しなさい。 本当に、和歌山県は素晴らしかった。 険しい山、狭い耕地、それは確かに厳しい。 しかし、それだからこそ養えた、和歌山の人々の心の強さ、明るさに、私は感激した。 私は、和歌山の取材を終えて、この和歌山県篇をスピリッツ誌で連載途中なのに、小学校の同級生たちと、和歌山に行った。 こう言うのは、反則なのかも知れないが、私の小学校の同級生たちは、私が、日本全県味巡りの取材をしたとなると、すぐにそこで見つけた美味しい店に連れて行けと、迫るのである。 いままで、行ってきた日本全県味巡りのいいところは、すべて小学校の同級生たちを連れて行った。 和歌山県も、大好評。 意外に、関東の人間にとって、和歌山県は通り過ぎるだけの県になってしまっている。 新幹線で、東京から新大阪まで良く行くけれど、新幹線の下にある和歌山県には目がいかなかった、などと言う人間が多い。 ふざけるなよ、と言うのが、私の言いたいことだ。 和歌山の恩を忘れたか。 醤油、鰹節、わさび、金山寺味噌、日本人の味の基本は全部和歌山だ。 それに弘法大師様だ。熊野三山の信仰だ。 ちょっとした村や町には熊野神社があるだろう。 みんな、無意識に、和歌山発の精神性に影響を受けているのだ。 私は宗教は信じることの出来ない人間だ。 しかし、他人に悪を及ぼしたり、人の心を操って金を取ったりしない限り、それで気持ちがいいのなら、宗教を信じればよいと思う。 その点から言えば、弘法大師を敬う密教も、自然崇拝の気持ちの強い熊野信仰も、宗教としては害がないものだと思う。 むしろ、文化的に興味深い物を作り出している点で、否定するべき宗教ではないと思う。 特に、高野山の中でも歴史の古い、総持院の宮田ご住職のお言葉は凄かった。ご住職は「私のところの精進料理が動物性のものを使わないのは、動物性のものにタブーを持つ宗教の人でも受け入れるためです。これなら、どんな宗教の人でも大丈夫です」 私はこの言葉に感銘を受けた。 豚を食べたらだめ、イカを食べたらだめ、などと言う宗教のはびこっている時代に、どんな宗教を持つ人達でも自分のお寺には受け入れますよ、と言うこの心の寛大さ。 全ての宗教人が、このように、相手の宗教も寛大に受け入れて、共に幸せに生きて行きましょう、と言えれば、今の世界中を覆っている不幸の、90パーセントが消えるのだ。 宗教は、宮田住職の仰言るように、人の幸せのためのものだ。 それが、今は、宗教が人と人との闘う理由になってしまっている。 私は、改めて、真言宗の、心の広さに感銘を受けた。 和歌山は、美味しいだけではなく、心に強く訴えかける県だった。 今日で、日本全県味巡り、和歌山県篇の原稿を書き上げるのに11週間かかって、とても苦しかったが、同時に、終わってしまうと何かを失ったような寂しさを感じている。 和歌山、素晴らしいところだ。 また、何度も訪ねたい。 読者諸姉諸兄にも言いたい。白浜以外にも、素晴らしいところが和歌山には沢山ある。 もっと、和歌山の良さを知ろう。 こんな良いところに行かないのは、人生の損失ですよ。
- 2009/04/26 - 「諸君!」廃刊を悲しむ 文芸春秋社が発行している「諸君!」が、2009年の6月号で廃刊になるという。 実に残念だ。 私は、「諸君!」と、産経新聞社から発行されている「正論」を二十年以上前から定期購読している。 シドニーに来てからも、OCSを利用して毎月取っているのである。 昨年、会社勤めをしていたときの上司ご夫妻が、シドニー遊びに来てくれて、一週間ほど楽しく過ごした。 その時、我が上司が(どうも、会社を辞めて三十年以上経つのに今でも私には威張っているので、終生上司の尊号を献上した)、私の本棚の一つの前に立って、口もきけないという表情で動けなくなった。 その本棚は、「諸君!」と「正論」の為の物である。両誌のバックナンバーがずらりと並んでいる。 我が終生上司は、「どうして、てっちゃん、こんな雑誌を」と言う。 「こんな雑誌」というのは、両誌を馬鹿にしての言葉ではない。 私の考え方が、両誌の傾向と正反対のものであることを我が終生上司はご存じだったからである。 私が、「諸君!」と「正論」を毎月読んでいるのは、私と考え方の違う人の意見も知っておかなければならないと思うからである。 世間では、両誌の傾向を「保守」「反動」「右翼」と受け止めているようである。 本職の右翼の人が、「大学の先生にあんな過激なことを書かれちゃ、我々本職の右翼がかすんじまう」と嘆いていたのをどこかで読んだが、確かに、両誌に登場される執筆者は、大学の教授、新聞社のえらい役職の人、えらい肩書きを持つ評論家、ばかりである。 そう言う人が、難しい言葉を使って、過激なことを書くから、本職の右翼が、街宣車で何をがなり立てていいか分からなくて困ってしまうのもよく分かる。 確かに両誌の論調を合わせると、「日本は、憲法九条を廃棄し、核武装して、自衛隊を国軍として、外国といつでも戦えるようにしなければならない」と言う物らしいが、仮想敵国と、戦争の目的が分からない。 更に両誌に共通していることは、中国が非常に嫌いで、毎月必ず中国批判の記事が載る。 中には、中国の政治体制の腐敗や、中国の世界戦略についての分析もあって、非常に役に立つこともある。 しかし、両誌はそろって、「中国はもう破綻する」と言ってきたが、それより先に日本が破綻しそうなのは辛いところである。 「どうも『諸君!』が無くなるのは淋しいな」といったら、ある友人が、「WiLL」という雑誌もすごいよ、と言うので2009年の5月号を買ってみた。 は、はあ、見た目には、「諸君!」「正論」よりきれいだ。 グラフィック・デザイナーに仕事をさせていることが分かる。 (「諸君!」や「正論」の古色蒼然とした雰囲気はない) おかしかったのは、その5月号で、「諸君!」を廃刊にしたことで文芸春秋社を非難していることだ。 矢張り、仲間雑誌がいなくなると、営業上まずいのかも知れない。 たしかに、「諸君!」が無くなると、保守論壇は淋しくなる。 「WiLL」には、「諸君!」の持つすごみがない。 二人の老人に「南京陥落の歌」とか、「勝抜く僕ら小国民」などと戦前の戦意高揚歌を歌わせたりしているようじゃなあ。 装丁はきれいでも、何だか心細くなってしまう。 保守論壇の行く先も、この雑誌の行く先も、この二人の老人の姿が暗示しているかと思うと、これは厳しい。 「諸君!」の読者が「WiLL」に移ってくれるかというと、仲々そうはいかないだろう。 「諸君!」「正論」に共通しているのは、「内弁慶」ということだ。(WiLLは一冊読んだだけなので多くは語れない) ここに書いてあることを、外国人に読まれたら、恥ずかしい。そう言う内容の物が多い。外国経験もあり、外国の事情も良く知っているはずの人達が、世界には通用するわけもない論を展開している。 外国の寓話に、井戸の中のボスガエルに外から帰ってきたカエルが、外には牛という我々カエルよりもっと大きな動物がいる、と報告すると、ボスガエルは、「それはこんな物か」(あるいは「俺の方が大きいだろう」)と言って自分の腹を一杯に膨らませてはじけて死んでしまう、と言うのがある。 両誌に執筆されている方は、みんな、その腹を膨らませた井戸の中のボスガエルみたいだ。 そして、やたらと天皇制護持を強調するのに、皇族一人一人に対して思いやりのないことを平気で書く。 特に、皇太子と、皇太子妃は、惨めに扱われている。 「諸君!」「正論」で女系天皇反対論がかまびすしかったころ、皇太子夫妻はそんな論を読んだら死にたくなったのではないか。 私は、天皇制反対だし、昭和天皇に対しては厳しく批判しなければならないと思うが、現在の天皇夫妻、皇太子夫妻、他の皇族の人々、には同じ人間として、幸福に過ごして貰いたいと思っている。 ところが、頑固な天皇制主義者は、女系天皇は許せない、すでに廃止した宮家を復活させてまで、男子の後継者を作れと言いつのった。 それでは、皇太子夫妻の立つ瀬がない。 なんと言う残酷なことを言う人達だろう、と私は激しく皇太子夫妻に同情したものである。 人間より、制度が大事だなんて、そんな国が栄えた試しがないことは世界史を読めば分かることだろうに、大学教授やら、有名評論家などが、口をそろえて、女系天皇はいかん、と言う。 私は、あのあどけない、愛子さんが、こんなことを聞いたときにどんな思いをするか(成長したら、必ず、こんな騒ぎのあったことを読んだり聞いたりするだろう)考えただけで不憫でたまらなかった。 話がずれたが、「諸君!」が無くなることは実に淋しい。 読んであきれて大笑いすることのできる雑誌は中々得難いものだ。あの、品のない巻頭随筆を読めなくなるのも残念だ。 それとも、文芸春秋社は、「文芸春秋」本誌を、「諸君!」のような内容に、変えようとしているのかな。(もっとも今でも、「諸君!」と余り変わらない内容だが) おや、気がついてみたら、私は「諸君!」の大変な愛読者だったんだな。 そういえば、「諸君!」には私を二度ほど取り上げていただいた。 その一つ、「雁屋哲のうすっぺら」という題を今でも憶えているくらいだから、どんなことを書いていただいたか、お分かり頂けるでしょう。 小学校の同級生が、「大変だ、こんなことを書かれているよ」といって、コピーを送ってきてくれたのも、良い思い出だ。 ボスガエルの一匹は、腹が割けてしまったのか、腹が割けるのが怖いので途中でやめたのか。 いずれにしても、「諸君!」廃刊は実に残念。 文芸春秋社には、もっと強烈な雑誌を、新たに出してくれるようにお願いしたい。
- 2009/04/18 - 駒場友の会 4月17日、駒場の東大教養学部で開かれた新入生歓迎の催し物の一つである講演会の講師として出かけていった。 なにしろ、同級生中、成績一番の人間で、駒場で物理の教授をしている「ひ」の命令なので断るわけにはいかないのである。 まず出だしから大変だった。 今私は鎌倉の実家に滞在している。 鎌倉から東大前まで電車で行こうと思った。 ところが、二十年も日本を離れていると、電車の切符を買う機械の扱いがビデオゲームをするような、感覚になる。私はビデオゲームは苦手である。 鎌倉駅に切符売り場の人がいない。 自動販売機に向かって、鎌倉から、東大前まで電車の切符を買おうとしたが、もう、私の理解を超えているので、東急東横線の切符で良いことにした。後は乗り越しで精算すればよいと思ったのだ。ところが、鎌倉で買える東急東横線の切符は学芸大学前までであって(と私は勝手に理解した)渋谷まで行かないのである。 で、切符を買って、ついでにグリーン車の切符を買おうと思ったらこれがまた難しい(私がグリーン車にしか乗らないのは、「美味しんぼ塾」の第一巻にその理由を書いてあるので読んでください。それまで勤めていた会社を辞めるときに、親友に「お前はこれから貧乏になる。貧乏になったからと言って貧乏な根性を持ったら人間駄目になる。例えばウナギ屋に入って、上、中、並と有ったら必ず上を食べろ。電車もグリーン車以外に乗るな。そうしないと心まで貧乏人になる。」と忠告された 素晴らしい忠告だと思って、すぐその男に金を借りてウナギ屋に行って特上の蒲焼きを食べた。親友の忠告を守って、1973年1月1日以来、どんなに金がなくても無理をして、グリーン車に乗ってきたのだ。) 横浜までのグリーン券をどうして買ったらよいのか分からなくてうろうろしていたら、突然、自動販売機の裏の窓が開いて駅の人間が顔を現した。何か言っているのだが、私はグリーン券をどうしたらよいのか分からない。で、その駅員にどうすればよいのか、一つ一つ教えて貰ってボタンを押して買った。そこで、思い出した、「あれ、おれはさっき学芸大学前までの切符を買ったはずだが、それはどこに行ったんだろう」そこで、販売機の裏の駅員さんに、「すみません、さっき私は、学芸大学前までの切符を買ったはずなんですが、それはどうなっちゃったんでしょう」というと、駅員さんは笑って「だから、こうして窓を開いてあげたんじゃないの。これでしょう」と言って、私が買ったつもりの切符を渡してくれた。 ああ、どうして、電車の切符を買うのがこんなに難しいことになってしまったのか。 私は、世界の田舎者になってしまった。 更に、横浜駅で東急、東横線に乗り換えようとして、逆上した。 いつの間にか、あれこれ取り混ぜて、地下の駅になっているのだ。 しかも、「みなとみらい線」などと言う電車も出来ている。 どうしたら、東横線に乗ることが出来るのか、私は、しばし駅のあちこちをかぎ回って、東横線乗り場にたどり着いたのである。 あああ、それは、なんと言うことか地下にあった。 東横線は地下鉄ではなかったはずだ。 でも、とにかく乗りました。 車内は満員で、老人・障害者優先席にも、頑強な若い人達ががっちり座っていて私は座れない。 もっとも、東横線のあの座席では、今の私は座ったところで膝を十分に曲げることが出来ないから、前に立つ人の迷惑になる。 それで、戸口の脇の隙間に立っていました。 すると、日吉からどっと人が乗り込んできて、納豆のように人と人とがくっつき合うことになってしまった。 おお、これぞ、満員電車だ。 私は考えましたね。 私は1972年の12月に会社を辞めてから、満員電車に乗る必要がなくなった。 こうして、満員電車に乗るのは、1972年12月以来なのではないか。 親しくもない人間と、例え洋服を間に挟んだとしてもくっつき合うのは実に気持ちが悪い。 インターネットや、新聞で、痴漢の話を読みますが、あの状態でそのような気分になれる人というのは、やはり、普通ではない。 私は途中で気分が悪くなり、ずっと出入り口近くの隙間の壁に頭を乗せて、目をつぶっていました。 それでも、恐ろしい現実を見てしまった。 「多摩川園前」駅がない。「田園調布」の駅が地下に入っている。 ああ、これが、昔、毎日乗っていた東急東横線なのか。 もう、私は浦島太郎だ。 渋谷の駅に着いたときには、そこから、駒場東大前行きの井の頭線に乗る勇気は失せていて、一刻も早く駅を出て、タクシーに乗ろうと思いました。 ところが、もう、昔の渋谷駅ではないのですよ。 迷路です。 自分がどこにいるのかも分からない。 そこで、とにかく、苦労して地表に近いところに出て行きました。 そこには、様々な店舗が並んでいて、まるで、駅全体がデパートになったような状態だ。 これでは、出口も分からない。タクシー乗り場など、ましてや分からない。 そこで、商店の並んでいる入り口近くでお客を呼び込む仕事をしているとおぼしき青年に、「タクシー乗り場はどこですか」と尋ねたところ、大変に困った、と言う表情をして、「口では説明するのは難しいんですよね」という。 それで、断られるのかと思ったら大間違い。 「ついて来てください、案内します」と言って、私を案内して歩き出すではないか。 ここは青森県かと思いました。(青森の人はみんなとても親切です) 東京の渋谷のこの人間地獄のようなところで、そんな親切な若者がいるのか。 若者は、駅の出口まで私を案内して、「あの横断歩道を越えると、タクシー乗り場があります」と言って、厚くお礼を言う私に笑顔を残して立ち去った。 その青年の、お店の名前も記憶にない。顔だけ記憶に残っている。生涯忘れない。素晴らしいことだ。 おかげでタクシーに乗ることが出来て、実に難しい紆余曲折の道のりをたどって、駒場東大構内まで入ることが出来た。 で、私が行きたいのは、101号館だ。 私がタクシーを降りたのは、駒場の本館、第1号館のそばだ。 どこが101号館なのか、何しろ何十年ぶりに来たので忘れてしまった。 そこで、通りかかった学生を捕まえた。 その学生に「101号館ってどこだっけ?」と尋ねると、その男の学生は、「そこが、第1本館だから、101号館はその中に有るんじゃないでしょうか」と抜かしやがった。 おい、ふざけるなよ。 なんで、第1号館の中に、第101号館があるんだ。 私が、「なにい」と顔色を変えると、その学生は「すみません、新入生なもんで」と言いやがる。 あのねえ、そう言うの、新入生だろうと、二年生だろうと関係ないの。 単なる、常識的な思考力の問題だよ。 1号館の中に101号館がある? それはね、漫画で例えると「美味しんぼ」の第101巻はどこ、と尋ねられて、「第1巻の中にあります」と答えたのと同じだ。 ああ、実に情けない。これが、東大生の実態だ。 論理的な思考能力を欠いた奴等が駒場の東大の中にうろうろしているんだ。 講演自体は、何とかごまかせました。 散々乱暴なことばかり言ったのに、会場に集まってくれた人達はみんな寛大で、質疑応答の時にも、淑女・紳士的な質問ばかりで、助かった。 その後、私を講演会に引き出した同級生の物理学教授「ひ」とそのほかの皆さんと、東大前の料理屋で色々飲み食いして楽しい時間を過ごしました。 しかし、駒場の様子はまるで変わってしまった。 三つあった寮もなくなってしまったし、第一、私の卒業した基礎科学科のあった第4本館がなくなっていた。 何でも、安普請だったので、今や八階建ての建物を新築してそこに引っ越したという。 しかも、第2基礎科言う学科が出来て、それが名前を変えて、駒場には、専門学科が3つになったという。 さらに、東大中の数学科は全部駒場に引っ越してきてしまって、本郷には数学科の事務部門のような物はあるが全ての教授、すべの数学科の学生は駒場にいるのだという。 あまりの変わりように驚いている私を見て、「ひ」が、「しまった、もっと早く来て貰って、構内ツアーをするべきだった」と言った。 私も、あの銀杏並木はどうなったのか、同窓会会館はどうなったのか、色々気になることがあったので、本当に学内を見て回りたかった。 で、みんなと話しているうちに、「駒場友の会」という会のシドニー支部長を仰せつかってしまった。 実は、数年前に、この「駒場友の会」の会報になにやら私は書いたらしいのだが、書いた本人の私が忘れていた。 その罰の意味も込めて引き受けた。 「駒場友の会」というのは、駒場の周りをうろうろしている人なら、東大に入学しようと卒業しようと関係なく入っていただく会である。 東大の学生の父兄まで入っていただいている。 シドニーに、駒場近辺に親近感を持っている人が何人いるか分からないが、東大とは関係有ろうと無かろうと、駒場、と言うことで、是非参加していただきたい。 と言うわけで、何十年ぶりかに、駒場を訪ねることが出来て楽しかった。この機会を作ってくれた「ひ」に心から感謝している。 私は、東大に対する愛校心など皆無だが、自分が若いときに何年か過ごした場所を久しぶりに訪れるというのは、中々感慨深い物があると言うことを実感した。 しかしなあ、東大生よ、勉強してくれよ。
- 2009/04/16 - 環境問題の取材 今回、環境と食の問題を取材して回っている。 青森、岩手、沖縄まで飛び回るので、もはやくたくたである。 取材して回れば回るほど、日本という国は、どうなってしまうのか、その心配が恐怖としてつのってくる。 一番の恐怖は、環境破壊の現場に近い人間が声を上げないことだ。 行政と、ゼネコンにお金を貰って権利を売り飛ばした漁民や、農民の例をいやと言うほど見せられてきた。 一旦お金を貰うと、もう二度と反対することは出来ない。 しかし、お金を貰う段階ではここまですさまじい環境破壊、早い話が自分たちの生活の破壊に至るようなことだとは思っていない。 で、いざ、物事が実際に動き始めると、「え、そんなひどいことだったの」と驚くが、既にお金を貰っているので、もう、何にも言えない。 そう言う人達ばかりではない。 危険物を扱う産業でも、それが地元に来れば、地方にお金が入る。 それ以外、地方が生き延びる道はないのではないだろう、だから、危険などと大声で言わず。そのような施設受け入れることが地方のためになる、と主張する人も多い。 しかも、いまだに地方の選挙は昔からのボスが支配する。ボスが決めた議員は、全て、ゼネコン、行政の言うことに従う人々ばかりである。俗に言う、毒饅頭を食べてしまった人々である。 彼らが言うのには、争点は、環境問題だけではない。地方には地方の解決しなければならない問題がある。環境問題など票にならない。 そう言っておいて、地方の病院の数が少なくなり、出産も他県に行かなければならなくなるようなことには無関心である。 日本中、どこに行っても、環境破壊の構図は同じなので、これでは漫画にならない、と心配している。 そこをどう漫画に書くか、それが、漫画原作者としての私の技量を問われるところだろうと思う。 私は、「日本全県味巡り」の和歌山県篇の次に、「美味しんぼ」で、食と環境の話を書く。 環境は、読者諸姉諸兄、自分自身で解決しようと思えば出来ることなのだ。 毎日、くたくたになるまで、取材を続けている。 読者諸姉諸兄に、この取材の結果を早くお伝えしたいと思っている。
- 2009/04/16 - 子安先生、ごめんなさい ああ、なんと言うことでしょうか。 私の尊敬する、というか、私と私の家族の運命を決めた子安先生のことを、この日記で「小安」と表記してしまいました。 先生、ごめんなさい。 すぐになおします。 そのほかの皆さんにも、心からお詫びします。 私も、私の名前を「雁谷」と書かれると激怒する人間なのに、どうして、こんな間違いを犯したのか、ただひたすら先生、さらには先生を尊敬しておられる方に、謝罪いたします。 でも、子安先生、私はひどくいい加減な人間だということを実際にお会いいただいてお分かり頂けたことと思います、 だから、先生だけは、私の間違いに怒らないでくださいますよね。 また、早く先生にお会いしたいと思います。 いろいろ、もっと深く話し合いたいと願っています。 あの、シンポジウムの席では出せない話題も沢山ありました。 早く、先生にお会いする機会を作れるように、周りの人間に頼んでいます。 そう言うわけで、子安先生を「小安」先生と書いてしまったことを、先生を含め、皆さんに、心からお詫びします。 でも、先生ご自身は「どうでもいいわよ」と笑い飛ばされることと思います。
- 2009/04/15 - シンポジウムのご報告 昨夜、港区のエコセンターで開かれた、シュタイナー教育を中心とするシンポジウムに、多くの方が参加されて、大変有り難く思っています。 港区にエコセンターというと、不思議に思いますが、矢張り環境に配慮して子供たち区民に対してエコロジーを体験し、働きかけをする場を作られているのは素晴らしいことだと思いました。 一番最初に感じたのは木の香りでした。 日本では最近林業が不振で、林業を保つのに絶対必要な、間伐(不必要な木の枝を落としてやることで、木自体の健康を保ち、木々の間の地面に日を当ててやって、その土地の健康を保つために大事な作業なんです)が人手不足、経済的に見合わないと言うことでおろそかにされているのですが、このエコセンターは、その間伐材を使い、床材、そして、間伐材で作ったテーブル、椅子、などを存分に配置しているので、まるで、木の香りにむせるような感じでした。 さて、そのシンポジウムで、私は初めて子安美知子先生にお会いすることができて、感激しました。 私が、今度出版した「シドニー子育て記」を読んで頂ければお分かり頂けることですが、私達、夫婦にとっては、1975年に、子安先生のお書きになった「ミュンヘンの小学生」を読んだことが私達夫婦のみならず。四人の子供たち全員の道を決めてしまったことなのです。 私と連れ合いは、「ミュンヘンの小学生」を読んで、私達も子供が出来たらこういう学校に入れたいね、と言交わしていたのです。 それが、偶然渡ったシドニーに、子安美知子先生がお書きになっていたシュタイナー・スクールが有ることを発見して、もう、興奮して四人の子供を全て、シドニーのシュタイナー・スクールであるグレネオンに入れてしまったのです。 多分、私は自分の人生で一番影響を受けたのが子安美知子先生だと思います。 思った通り、明晰で、活発で、まっすぐ前進をめざすお心の方で、シュタイナーの神秘主義の評価について以外は、本当に、意見が合いました。 私の言葉の足りないところを補っていただいたりして、実に私自身、有り難い集まりでした。 進行役を務めてくださった、河邑さんが、極めて冷静に話を振ってくださったので、シンポジウムとしては極めて上手く行ったと思っています。 何人か質問して下さる方もいて、その方たちには、御納得いただける説明を子安先生などからなされたと思います。 当日、私の小学校の同級生たち、昔の担当の編集者、吉本興業の「の」さんも、足首の骨を折ったというのに松葉杖姿でおいで頂き、いかに、私の仲間たちが、私が飛んでもない失敗をするのではないかと心配し、その時には助けてやろう、という気持ちを持っていたことかと、痛感し、感謝のおもいが私の身を浸します。 シュタイナー教育とは、日本の受験勉強第一の教育体制とは正反対の教育です。 私は、子安先生の本に導かれ、自分の四人の子供を、シュタイナーー教育で教育しました。 私の出版した「シドニー子育て記」にその当たりのこと詳しく書いてあります。 いずれにせよ。私、私の連れ合い、私の四人の子供たちの人生を決めた子安先生にお会い出来て、本当に幸せな夜でした。 当日会場には、教育に熱心な方ばかり集って、私達の話を聞いて下さいました。 私達の話が、その皆さんのこれからの子育てのお役に少しでも立てば、これ以上の喜びはありません。 本当に、当日お集まり下さった方々に心かお礼を申し上げます。 近いうちに、またお会いしましょうね!
- 2009/04/10 - 食と環境、取材は続く 今、東京の築地の市場の豊洲への移転が大きな問題になっている。 私は、現在、日本全県味巡りの和歌山県篇に取り組んでいるが、次は、「食と環境の問題」を「美味しんぼ」で取り上げたいと考えて、今回日本へ来て以来取材を続けている。 東京の築地市場は、東京都民だけでなく、周辺の県の人間も巻き込む大市場である。従って、その影響は大きい。環境と食の問題を考えるときに無視できない。 問題は、移転先の豊洲が、元東京ガスの事業跡地で、ガスを作った際に出た危険な物質が高い水準で検出されていることだ。 移転反対派の人は、そんな土地はとても危険で食品を扱う環境に無いと言い、東京都は専門家の意見を聞いて土壌の安全処理を行うから、食品に危険性はないという。 今日は、築地市場の、豊洲移転反対派の方たちにご意見を伺って、その後に、豊洲の新しい市場の土地の土壌の安全検査を担当された都庁の課長さんに、豊洲の土壌問題について伺った。 数日前には、築地の中卸組合の理事長さんの話も伺った。 移転賛成・反対、それぞれの意見が百八十度違う。 青森の六ヶ所村の、核燃料再処理工場の取材の時と、その構造が実に似ているのに、驚いた。 行政は、再処理工場の推進に多額の金をつぎ込んで、安全を主張しているのに、周辺の住民は不安を抱いている。 東京都も、市場を築地から豊洲に移すのに安全のために大変な予算と努力をつぎ込んでいるのに、肝心の、市場の卸業者たちの過半数が移転に反対している。 行政と住民の思いの乖離である。 いずれの場合にも、行政は、新しい事業を推進したい。 しかし、その事業は、危険をもたらすのではないかと住民や従業者に不安を抱かせる。 住民や、従業者は、したがって、行政のすることに反対する。 住民や、従業者は自分たちの命がかかっているから悲愴である。 行政は、新しい電力や流通市場の建設に、図面を引いて、事業としても大きく育つし、それが未来の日本に役に立つという、上からの視線で物事を見ている。 この両者の態度は、百八十度異なっている。 こういうことが、環境がらみで、日本中で起こっている。 考えれば考えるほど、難しくて、頭が分裂する。 私自身、考えがまとまらない。 明日は、沖縄で、また環境問題の取材だ。 きつい日々が続く。 どうして、こんな歳になってこんな辛いことをしなければならないのか、自分自身を呪いたくなるが、どうしてもしなければ自分の気が済まないのだ。 救いは、明日、沖縄の「あ」と会えることだ。 明日の夜の食事は、「あ」に責任を負わせた。 「あ」よ、まずかったら殺すぞ。 泡盛飲んで騒ごうな。
- 2009/04/09 - 4月14日のシンポジウムのお知らせ お知らせ。 4月14日の18時から、港区立エコプラザで「シュタイナーから考える未来の教育」というシンポジウムを、子安美知子さん、河邑厚德さん、そして、私とで開きます。(受付は17時30分から) 子安美知子さんは、日本に初めてシュタイナースクールを紹介された方で、私も子安さんの御本に導かれて、私の四人の子供たち全員をシドニーのシュタイナースクールで教育しました。 私としては、あこがれの子安さんにお会い出来るので興奮しています。 今の日本の教育の現状は私達が20年まえに逃げ出した時より少しも良くなっていないように思えます。 シュタイナー教育を通じて、これからの日本の教育はどうあるべきか大いに討論したいと思います。 入場無料です。大勢の方のご参加をお待ちしています。 ただ、前もってメール:event@eco-plaza.net または電話:03-5404-7765 にお申し込み下さい。定員百人なので、お急ぎ下さい。 では、会場でお会いしましょう。
- 2009/04/06 - 4月5日から、朝日新聞に連載します おお、うっかりしてしまった。 昨日、4月5日の朝日新聞の「学ぶ」欄をご覧下さい。 私のにやけた間抜け面の写真と一緒に、教育に関する文章が載っています。 私の教育についての考え方、オーストラリアと日本の教育環境の違い、シドニーでのシュタイナー教育などについて、これから数週間連続で書いていきます。 場所が場所なので、このブログに書くような乱暴なことは書けません。 常々、教育に関して思っていること、自分が子供を育てる過程で思ったことなどを、書いていきます。 ただ残念なのは一回当たりの文章が短いことですが、文章を短くまとめる訓練になると考え力を入れていきます。 毎週日曜日に掲載されますので、どうぞ、お忘れなくお読み下さい。 今回、予告し忘れたのは大失敗。 昨日の新聞ならまだ捨てていないでしょう。 どうか、お読み下さい。 とりあえず、お知らせまで。
- 2009/04/05 - 六年二組の和歌山旅行 六年二組の自慢話です。 いつも自慢しているんだが、私達1955年卒業の田園調布小学校六年二組の同級会は常に活発に行動している。 この、4月2〜4日の2泊3日で、和歌山旅行を楽しんできた。 2009年4月現在、ビッグコミックスピリッツで「美味しんぼ」の「日本全県味巡り・和歌山県篇」を連載中だが、その取材は去年の10月から11月にかけて行った。 その時出会った素晴らしい味を同級生たちに話したら、自分たちも味わいたいという。 そこで2つの場所に、同級生たちを連れて行った。それが、どこなのか、まだ、連載中なので、今日ここでは話せない。(今回の旅行が、2泊3日と限られていたので仕方がない。他にもつれていきたいところが山のようにあったのだが) とにかく、いつものことだが、六年二組の旅行は最高なのだ。 今までに、「美味しんぼ」の中にも実名で何度も登場しているので、ご存じの方もおられると思う。 凄いのが、全員、2009年で、平均年齢が65歳を超えたことで、残念ながら、中には体調を崩して旅行に参加出来ない人間もいたが、仕事やそれ以外の理由で参加出来ない人間を除いて、今回は13名参加した。 我々の同級会の面白さは、勝手気まま、と言うところにある。 毎回、幹事が金の計算や、旅程などで頭を患わせるが、我々幹事以外の人間は、幹事の言うとおり動くだけ。と言ってもみんな、勝手気ままに動き回り姿を消したりするので、幹事を引き受けた人間の苦労は大変だ。 私の推薦した料理は二組のみんなが、絶賛してくれて、私も大いに面目を施すことできた。 この料理の件に関しては、連載中の「美味しんぼ」にそのうち出るので、それでご勘弁下さい。雑誌に登場以前に書くわけにはいかないのですよ。 しかし、「美味しんぼ」を良く読んで下さっている方にとってはこの「六年二組」は、おなじみだと思う。 京都での「竹の子山」、椎茸の「椎茸山」、蛤の話、など、我が六年二組の連中は活躍してくれている、 そんなの公私混同じゃないかと言われるかも知れないが「美味しんぼ」は究極の公私混同漫画なのである。 われわれ六年二組がどうして、仲良く頻繁に楽しい会を持つことが出来るのか、それは、この間3月2日の24人集った会を例に挙げて見よう。 まず、一同集る。 適当に席を決めて座って飲み食いを始める。 一旦飲み食いが始まると、それで、もう、席は乱れる。 それぞれ勝手に動いて、数人固まって自分たちの興味を持っている事柄を熱狂的に話す。ところが、それが、五分も経つと、その人間たちがまたバラバラにどこかに別れて、あらたに話の輪を作る。 話題も変化に富んでいる。 現在の教育問題、長唄と民謡の話、ゴルフコースの支配人の苦労、航空幕僚長の愚かさ、パキスタンの安全情報、など、話が広がって止まらない。 しかし、とにかく楽しい。 それは、たとえば政治的に厳しい議論になっても、必ずその過熱を止める人間がいるからだ。 自画自賛させてもらうが、六年二組のような仕組みだったら社会に争いは起こらないと思うのだ。 自分の言い分を誰彼構わず受け入れさせようとする原理主義者。 人のことも考えず自分の利益だけを考える強欲資本主義者、日本の歴史をねじ曲げる人間。 そう言う人間は六年二組は拒否する。 我々六年二組は、ただひたすら、のんびりと、明るく、楽しく、正しく、美しく、生きて行きたいと思っている人間ばかりなのだ。 とはいえ、それぞれに、この厳しい世の中を生きて来た人間だ。 それぞれの、実際の社会生活では、きれい事ではすまされないことの方が多かったに決まっている。 だから、我々は六年二組に帰ってくると、ほっとするのだ。 ここに、私達の本当の姿がある。我々の本来の姿はここにあるのだ。 お互いに乱暴なことを言い合っても、それが絶対に相手を傷つけていないという安心感。 互いが、互いを本当に心から思い遣ることの出来る世界。 それが、われわれ六年二組なのだ。 六年二組について、自慢し始めるととどまることがない。 我が家でも、「今日は六年二組の会だから」というと、家族全員に「楽しんでいらっしゃい」と言われる 私にとって、「六年二組」は人生の最大の宝物の一つである。 「和歌山県の次はどこに旅行に行こうか」と二組連中は計画を立てている。 どこに行っても、六年二組の仲間と一緒なら楽しい。 4月の2〜4日和歌山での3日間は最高に楽しかった。
- 2009/03/24 - 野球は戦争じゃないよ「美味しんぼ」の和歌山県篇の原稿を必死になって書いていたら、沖縄の「あ」から電話がかかってきた。 「おい、WBC見ているか」 「え、見てないよ」 「何だよ、お前韓国の監督の態度はフェアーじゃないなんて書いておきながら、見ないのかよ」 「いや、どうせ韓国に勝てっこないし、原稿も一杯一杯でな」 「ふうん、今、2点差で日本が勝ってるよ」 「どうせ、逆転負けするさ」 「あ、今一点入れられた。一点差になっちゃった」 「ほらな」 「じゃ、最初のところを見てないな」 「何かあったの」 「開会式のセレモニーでさ、国旗掲揚とか国歌斉唱とかするだろう。その時の日本の選手たちの態度が実にだらしないんだ。 ガムなんかくちゃくちゃ噛んでさ、だらだらしてんだよ。 それに引き替え韓国の選手たちは、姿勢はぴちっとしてるし、実に引き締まった、礼儀正しい態度なんだ」 「ガムかあ」 「おれ達が子供のころ学校でガム噛むなんて許されなかっただろう」 「そりゃ、そうだ」 「人前でくちゃくちゃやるなんて最低じゃないか。それも、開会式のセレモニーでだぜ」 「まあな。君が代を歌うのがいやなら、控え室にいればいいんだし、ただ、黙っていてもいいわけだしな。他人にとっては大事なセレモニーを汚すことはないよな」 「だろう、見てて凄く不愉快だった」 「だから日本は韓国に勝てないんだよ。ソニーだってサムソンにこてんこてんだしな」 「どうして日本はこんなになっちゃったんだろうな。腹が立つよ」 「あ」はしばらく愚痴をこぼして電話を切った。 私は君が代も日の丸も大嫌いだ。 だが、サッカーの国際試合の時に両国の国旗掲揚、国歌斉唱となって周りの人間が立つと、みんなの雰囲気を壊すと悪いから一応は立つ。国旗は別に見ないし、君が代なんか、ああいう音楽的に劣悪な物を口にすると、せっかく歌は上手だとみんなに讃められているのに、その歌が下手になるおそれがあるから、死んでも歌わない。 大体、あのあほらしい文句を口にする勇気がない。 立っているのに飽きたら、勝手に座ってしまう。 だからと言って、そこで、儀式を破壊するようなことはしない。踊ったり、騒いだり、ラッパを吹いたりはしない。 しかし、日本の教育委員会のように、国歌斉唱の時には立て、なんて言われたら、寝ころぶか、あるいは、突拍子もない音階を外した全く別物の君が代を歌ってやる。 いや、じつは、この突拍子もなく音階を外した君が代というのを、色々作って歌ってみたのだが、これが面白いのだ。 この日記は、音符を書けないので、私のひどい君が代を乗せられないのは残念である。 と言ってみたら、次男によれば、このブログに音楽も乗せられるそうで、そのうちに、雁屋哲バージョンの君が代をこのページに乗せて、さらに雁屋哲の評判を悪くしようと企んでいる。 私が、見本を示すから、心ある方は、と言うか、君が代を国歌として認めることに反対する人は、私のまねをして、「おもしろ君が代」バージョンを作って頂きたい。 ええと、いつもの事ながら、書いているうちに、何を書いていたのか忘れてしまういい加減なブログだが、「おもしろ君が代」は絶対に作りたいね。 これから、教育委員のあほどもに、君が代を歌えと言われたら、ちゃんと起立して、この、「おもしろ君が代」を大声で歌うんだよ。 それが、馬鹿な教育委員どもをやっつける一つの方法だと思う。 教育委員の連中が、このページを見て対策を考えるおそれがあるので、実際に教育委員から攻撃があったら別の方法があるから、その際には報告をするように。 あ、WBC では、日本が勝ってしまったようだね。 日本ではただ喜んでいるようだが、韓国は大変みたいだね。 韓国では、これは野球の試合ではない。韓国を植民地化した最悪の人間、伊藤博文(言っておきますがね、韓国にとってだけでなく、日本にとっても最悪の人間だったんですよ)と、伊藤博文を殺した安重根をとりあげ、伊藤博文をイチロー、安重根を韓国の投手に見立てて、この試合は単なる野球の試合ではなく戦争だ、などと物騒なことを韓国の有力な新聞で言っておりました。 驚きましたね。 スポーツってそんな物だったんですか。 私は、ナショナリズムと言う物はそれ自体病気だと思っている。 私が、何時も言っている愛国心とは、自分の育った国に対する感謝の念と、その地方で、その文化を共有する人間にたいする愛情だ。 他国にたいする、敵愾心などとは無縁の物だ。 敵愾心ではない。自分のひいきのチームが勝ったら気持ちがいい。 それだけの話だ。 スポーツってのはさ、フェアーに思い切り全力を出して、小ずるいことを考えずにさ、楽しくやろうよ。 野球の試合を戦争に見立てたりするのはよそうよ。 全て、スポーツは楽しむに限ります。 韓国残念。 でも、過去の戦績を見てご覧なさい。韓国の圧倒的勝利の記録。 今回日本が勝てたのは幸運の限りであって、次に試合をすれば韓国が勝ちますよ。 チームというか、一つの団体になったときの韓国人の力は凄いんだから。 そう言う意味から、前回の日本戦の後の韓国の監督の言葉はまずかったね。 とにかく、フェアーに行きましょう、フェアーにね。
- 2009/03/21 - 韓国のWBCの監督はフェアーじゃない WBCの準決勝の1位2位を決める試合を見た翌日の朝鮮日報ネット版で韓国の監督が 「きょうの勝敗にそれほど意味はない。これまで使えなかった選手を中心に起用し、こちらが勝った試合に出場した選手を温存するという戦略で臨んだ」。 と言っているのを読んで非常に不愉快に感じた。 負けた監督がこんなことを言うのかよ、と言うのがまず第一の印象。 試合に勝ったとしても、これは、言うべき言葉ではない。ましてや負けておいて何を言うのか。卑怯だ。汚い。およそフェアー・プレイという態度がない。自分の対戦相手にたいする尊敬の念がない。いかなる試合であれ自分のもてる最大の力を発揮するという、フェアー・プレイの精神が分かっていない。 日本の選手がこの試合に必死に取り組んだのは知っているはずだ。韓国は自分たちの方が強いのは当たり前だから手を抜いたというのか。負けた後で、「こっちは本気を出さなかったからね」、というのは相手を侮辱する最悪の言葉だ。いや、試合に負けた自分自身をも侮辱する最悪の言葉だ。負け惜しみなんてことですむことではない。これだけは、スポーツ選手が言ってはならないことだ。 韓国のWBCの監督よ。 君にはスポーツをする資格がない。 君に率いられるチームの選手が可哀想だ。 君に率いられたチームの選手が、WBCで優勝したとても、それは君たちの国家の名誉になるかも知れないが、スポーツのフェアー・プレイの精神からみたら、敗者だよ。 君の、あの一言は、本当に醜悪だった。 スポーツを愛する人間である私にとって、あんな言葉を眼にしたくなかった。 スポーツ以上に韓国を愛する人間である私にとってはなおさらだ。
- 2009/03/21 - 楽しかった、そして地獄 19日は、現在建築中の秋谷の家で設計士の先生と建築士の方々と半日掛けて打ち合せ。 いやはや家を建てるというのは、大変に細かいところまで気を使わなければならない。電源の取り口はどうする、インターネットの分配はどうする、風呂場のタイルはどうする、もう、何万件もの細かいことを設計士の先生と建築士の方々は考えて実行しているわけで、私のような面倒くさがり屋には絶対に出来ない仕事だ。漫画の原作みたいないい加減な仕事があって本当に助かったと思いました。 帰りに、秋谷の関沢家を襲って、また、和彦さんから甘鯛だの何だのと高級魚を奪ってしまった。 大変申し訳ないと思うが、関沢家は男の子を二人しか産まないのに、もうお孫さんがそれぞれに一人ずつ、合計二人も持っていて「孫は可愛いよ」なんて自慢をしている。私は男女二人ずつ四人も子供がいるのに、一人も孫がいない。しかも、関沢家は、御長男は同居、御次男もすぐ近くに住んでいて、夕食はいつも一緒。 余り私をうらやましがらせたから、魚を強奪しても良心の痛みは軽くなった。 秋谷の家が建って、長期に住むようになったら和彦さんの船に乗せて貰うのだ。そして、釣った魚は誰にもやらないのだ。私は和彦さんのような人格者ではないから。 20日は、小学校、6年2組の同級会。 いつも車で連れて行ってくれる逗子に住んでいる同級生が不埒にもゴルフなんかに出かけたので、自分で車を運転して田園調布まで行った。 途中高速に乗るのを間違えて、ずっと、一般道路で田園調布まで行った。 名前は聞いたことはあるが、通るのは初めてと言うところばかりで、珍しい景色を沢山見る事が出来て面白かった。 日本てえのは凄い国だね。どこまで走っても町のとぎれることがない。 商店が並んでいる。ビルが並んでいる。シドニーは30分も走れば、山と林ばかり。 人家が無くなってしまうんだから。 田園調布に入ってから、もう、まるで勝手が分からず、何度か人に道を尋ねる有様。 しかし、ようやく、目的地に到着。 当日集ったのは24人。 卒業後54年経っているにしては良く集るでしょう。 でも、このような同級会の他に、適当に同級生同士集ったり、仲間の展覧会などと言うと集まるし、新年会、忘年会、真夏のバーベキューの会などと適当な名前を付けて結局年にまとまった同級会だけで、3、4回は開いている。 さらに、例えば今度の4月2日〜4日と和歌山の旅行にも行く。私が「美味しんぼ」の取材で和歌山県に行ったときに見つけた美味しいものを、自分たちにも食べさせろと言うわけだ。 で、集って、何か話さなければならないことがある訳じゃない。 ただ、ぺちゃくちゃおしゃべりをするだけ。 みんなが集まる事だけが楽しいのだ。 今日の午前中に我々のホームページを開けたら、早速昨日の会の写真が99枚もアップロードされていた。素早いんだよ。やることが。 ただ、同級生の一人に「とっちゃん(これ、私の子供のころからのあだな)、ホームページに田園調布の悪口書くのやめて」と言われた。もう、田園調布に住んでいる人間の数は少なくなったが、やはり田園調布は我々の思い出の場所だから悪く書かないで貰いたいと言うのが友人たちの思いだ。 もう、田園調布の悪口は書きません。 成金趣味の品のない家ばかりになった、などと言うことはもう書きません。 頼まれても、ただで土地をくれると言われても二度と住みたくない町だなんて、もう言いません。 矢張り大事な思い出の場所だから。 みんなで、宝来公園まで歩いていって、楽しい思いをした。 いいところだな、田園調布って。(本当だよ) 宝来公園のすぐ近くに住んでいながら、当日出席しなかった同級生の家に一人が押しかけていったら、二日酔で寝ていた。 たたき起こして、公園まで引っ張り出した。 アメリカの土木学会の賞を2回も取っている偉い大学教授なのだが、我々にとっては単なる2組の仲間。 こうして午後四時頃まで、騒いで楽しんだ。 楽しみの後には地獄が待っている。 今日、明日で「美味しんぼ」の和歌山篇 第7回目の原稿を書き上げなければならない。その後は、来週から、「美味しんぼ」の次回の主題「環境問題」の取材にあちこち飛び回らなければならない。 しかも、取材の合間に原稿を書かなければならない。 もう、楽しいことは、和歌山旅行だけ。 一時給付金を、リーマン・ブラザーズのCEOが貰ったくらいの額でくれないかな。 2007年、既に損失を出していたリーマン・ブラザーズのCEOは引退を余儀なくされたのだが、その時の退職金が当時の日本円で150億円! 毎年1億円ずつ使っても150年かかるんだぜ。 人間って、そこまで欲張りになる物なのか。 奴らが世界の経済を、そのどん欲さのせいで壊したのだ。 世界60億の人間の生活を破壊した極悪人だ。 奴等を高くつるせ! Hang them up high!
- 2009/03/19 - 少年サンデー・少年マガジン50周年記念合同パーティー3月17日、少年サンデー・少年マガジンの50周年記念合同のパーティーが開かれた。 私はパーティーと言う物が実に嫌いで、お誘いがあっても出席せず、最後に出席したのは、我が愛する池上遼一さんが小学館漫画賞を受賞されたときのお祝いのパーティーだ。 幾らパーティー嫌いと言っても、私が最初に漫画の世界に入るきっかけを作ってくれたのが少年マガジンの山野さんだし、当時の少年マガジンの編集長の宮原さんだ。 さらに、私が本格的に漫画の世界で食べて行かれるようにしてくれたのは、少年サンデーの白井さんだし、当時の少年サンデーの編集長の井上さんだ。 サンデーとマガジン。強烈な敵対意識を持っていた両誌が合同で50周年記念パーティーを開くという。 いくら、パーティー嫌いでも、両誌にお世話になった私として、これだけには出席しなければなるまい、それに、昔の編集者たち、漫画家たちと会える。これは同窓会ではないかと考え、14日にオーストラリアを出た。 私がこの漫画の世界に出ることの出来たのは池上さんのおかげだ。今コンビニエンスストアーで、「男組」が売り出されている。私と池上さんの多分二人にとっても漫画の世界に本格的に乗り出すことの出来た作品だ。 私の人生で池上さんは特別な意味を持っている。 私は池上さんと握手だけではすまず、堅く抱き合った。 60を過ぎた男二人が抱き合う姿なんて気持ちが悪いなんて言う人がいたら、聞き返したい。君の人生に、それほどの人間に出会ったことがあるか。お互いの出会いがともに二人の人生を切り開いた。そんな人間を持っているか。 あ、いけない、こういうの自慢話になるんだな。 とにかく楽しいパーティーだった。 先輩の漫画家の先生方ともご挨拶が出来た。 一番驚いたのは、受付で、署名するときに、私の前で署名されていたのが、「山根青鬼」先生だった。「山根赤鬼、山根青鬼」のお二人は私が子供のころから愛読していた漫画の先生で、お二人は一卵性双生児、絵柄もほのぼのとした話の内容も非常に良く似ていて、ずいぶん愛読した物だ。 その、山根青鬼先生が目の前におられる。 私は、思わず、失礼をも顧ず話しかけてしまった。 先生は、私が昔からの先生の愛読者だと知って大変喜んでくださった。 ついでに、山根赤鬼先生と秘話もお話し下さった。 とにかく、絵柄もそっくりなので、忙しいとき赤鬼に来た仕事を青鬼がして、それで編集者にも全然ばれなかったそうだ。 今回一番嬉しかったのは、山根青鬼先生にお会い出来たことだ。 そのほか、尊敬するにやまない先生方にも久しぶりにご挨拶できた。 ちばてつや先生、矢口高雄先生、長井豪先生(うっかり、ごうちゃん、などと呼んでしまったが)、 マガジンで、一緒に組んで「海商王」を描いてくれた、かざま鋭二さん。担当をしてくれた工富さん 「炎の転校生」の後、「風の戦士ダン」で私と組んでくれた島本和彦さんにもお会い出来た。 じつはこの、島本さんとの出会いは私には大変大きかったのである。 それ以前、雁屋哲といえば暴力漫画、と決めつけられていた。 「風の戦士ダン」は現代の世の中に昔の忍者が登場して活躍したら面白かろうと思って書き始めたのだが、私としては原作にギャグを入れなかった。ところが、出来上がった作品を見ると、妙におかしいギャグが入っている。普通なら、私の原作にない物を入れたら私はかなり神経質に拒否するのだが、島本さんのギャグは面白いのである。担当編集者も、恐る恐る私に見せたのだが、私は「へええ、こんなことになるの」と怒るどころか、返って面白いと思った。 それが何回か続くうちに、「それなら、原作からギャグを入れてやろう」と思ってギャグを入れ始めた。 担当の編集者が言うことには、他の編集者に「あんなギャグを入れて、雁屋さんが怒っているだろう」と言われた、そこで、私の原稿を見せたら、その編集者がのけぞって「ひゃあ、あの雁屋さんがギャグを書いているんだ」と驚いたという。 確かに私の漫画はそれまで暴力漫画一辺倒だった。 あのまんまだったら「美味しんぼ」は書けなかった。 めちゃくちゃな暴力漫画の後に、島本さんと出会ったから、「美味しんぼ」が書けた。 島本さんのあの、類い稀なギャグの感覚を吸収できたから、「美味しんぼ」を書くことが出来たのだ。 「美味しんぼ」には山岡にしろ、富井にしろ、そのほかちょっとおかしい人物が登場するが、そのような人物の準備は、島本さんと組んで仕事している間に出来上がっていたのだ。 もう一つ嬉しかったのは、高橋留美子先生にお会い出来たことだ。 これには、ちょっとしたいきさつがある。 私の次女が生まれたとき、長女もそうだったのだが頭髪がほとんど無く、産毛程度で、しかも顔全体がぷくぷく膨らんでいた。 どうも、そのころ高橋留美子先生のお書きになっていた漫画の登場人物「チェリー錯乱坊」という坊主を思わせた。(今はそんなことはありません。私の家の女の子は生まれてから髪が生えそろうまで1年以上かかるようである。髪の生えそろった今、次女は親の口か言うのも何だがとても可愛い女の子です) で、その当時高橋留美子先生に、「家の娘が、チェリー錯乱坊みたいなんですよ」と言ったら「女の子に、そんなことを言ったらいけません」とたしなめられ、御著書にチェリー錯乱坊」の絵を描いて贈って下さった。 で、今回、高橋留美子先生にお会い出来たら、もう一度「チェリー錯乱坊」の絵を描いていただきたいと願っていたのだ。 思いは通じて、高橋留美子先生に、新たに「チェリー錯乱坊」の絵を描いていただいた、 色紙を持参すれば良かったのだが、それは返って大げさで不自然と考えて、私の手帳に書いていただいた。その手帳の紙は直ちにきれいに切取って、額に入れて終生の宝物にする。 パーティーの後、3月末で店を締めると言う「ちえ」の店に大挙して繰出した。 人が入れ替われ立ち替わり、いったい誰が来たのかどう言う具合に人が入れ変わったのか分からなかったが私一人はでんと腰を据えて、いったいどれだけ飲んだのだろう。途中で、ウィスキーの新しい瓶を自分のために追加したのは憶えている。何故かというと、私には私のウィスキーの飲み方があって、店の人間に任せておくと、勝手に氷を入れたり、余分な水を入れたりするので、面倒でも瓶を手元に置いておかなければならないのです。 そう言う飲み方をすると、ずいぶん飲んでしまうもので、瓶の底かから何センチ飲んだかなんて、そう言う理性は働きません。 さすがに午前2時半に銀座を出て、3時半に鎌倉に着き、布団に潜り込みましたが、目が覚めたら、午後3時でした。 あわてて、トイレ、シャワー、お茶を飲みましたが、再び沈没。 夕食は、「今日はお酒はやめたら」、と愛する妻に説教されましたが、こういう日に酒をやめると卑怯な人生を送ることになるので、芋焼酎をしこたま飲みました。 18日はまるで棒に振ってしまいましたが、17日のパーティーは本当に楽しかった。漫画家として生きて来て本当に幸せだったと思いました。
- 2009/03/13 - 丸一年検診、その他 昨日、膝の関節を人工関節に入れ替える手術をしてから、丸一年の検診に行ってきた。 本当は、3月18日で丸一年なのだが、14日から日本へ行くので6日ばかり早めたのだ。 結果は見事な物で、人工関節の軸を入れるために上部をぱかっと切開いたすねの部分の骨も、大腿骨を補強するために移植した骨もすでにしっかりとくっついていて、とくに、大腿骨に移植した骨(誰かさんに頂戴した貴重な骨だ)は私の大腿骨の一部に既になっていて、あと6カ月もすれば、完全に私の骨になってしまうと言うことで、我が体ながら人体の不思議さに打たれた。 去年の9月まで、リハビリのために一歩一歩悲鳴を上げながら全身冷や汗にまみれて歩いていたことが嘘みたいだ。 今は、膝の周りにゴムのチューブを巻かれたような違和感こそ感じるが、痛みは全くと言って良い程なく、何キロでも歩ける。 一時はこの手術は失敗だったかと悲観的になったこともあったが、一年経ってみたら、本当に大成功。 しかし、今改めてレントゲンを見ても凄い大手術で、医者に「本当に凄い手術だったんだな」と言ったら、「それを理解してくれて感謝する」と喜んだ。 彼は自信満々医者であるが、流石に、私のような悪条件の重なった患者の手術は初めてで、彼としても、今度の手術の成功は非常に自慢できる物なのである。 だって、ほかの名医と言われている関節の専門医が、出来ない、と言って断ったほどの物だったのだ。 これであと10年は活動できるだろう。 何か意味のあることをしなければならないな。 あ、そんなおこがましいことを考えるのはやめにして、面白おかしく暮らしていくことを考えよう。 大体今書いている「美味しんぼ」の「日本全県味巡り」和歌山県篇が、えらく大変だ。 取材した資料の山を前に、青息吐息。 自分で撮影した写真だけで2000枚以上。これは、完全に私的な物で、作品に使うのは同行してくれた安井カメラマンが撮ってくれた写真だが、これが、1万枚以上の中から厳選し抜いて1000コマ以上ある。(ところで、自分で撮った写真と、安井カメラマンの撮った写真と比べると、これが恐ろしいくらい出来が違う。私の撮った写真は、いかにも素人の撮ったスナップ写真だ。何故なんだろう。写真なんてシャッターを押せば誰にでも撮れる物なのだが、出来上がった写真は、まるで違ってしまう。そこでよくよく考えたのだが、プロのカメラマンは、撮す際に、ファインダーをのぞいてその画面の隅から隅までじっくり見極めてからシャッターを押すのではないか。私なんか、撮したいと思う物しか見ていない。プロのカメラマンは全体の構図と、どう取れば一番美しく撮れるか瞬時にして頭の中で計算しているのだ。やはりプロというのは恐ろしい) ビデオテープが28本。 ライターの安井さんがまとめてくれたリポートが、120枚以上。 本が20冊以上。 これをとっかえひっかえ、目を通しながら、話を作っていく。 一回分書き上げると、がっくりと疲れます。 しかも、和歌山県は広かったせいか、取材した材料が非常に多い。 あるいは、原作者としての腕が落ちて、まとめる手際が悪くなったのか、昨日第6回目を仕上げたのだが、やっと和歌山県全体の半分行ったか、と言う程度なのである。 通常一つの県には9話使う。それが、単行本にしたときに一番収まりがよい。それ以上長いと困る。 しかし、今回は、その困る方に行ってしまいそうだ。 話を縮めるために七転八倒。 去年の暮れから、一旦収まりかけていた鬱病が再発して、朝からその鬱にうちひしがれて、何もする気が起きないのだが、無理矢理に、こうやって字を書き始めると、30年以上も物書きをしてきたことが第二の本性になっているらしく、一瞬鬱を忘れて書くことに没頭してしまう事が出来る。 こんなおかしな鬱はない。本当の鬱病じゃない。 鬱病としても本当に軽い鬱病だ。 などと言ったら、私は怒るぞ。 鬱病は本当に辛いんだ。 この辛さは、鬱病に落ち込んだ人間にしか分からない。 私は文章を書くと言うことにしがみつくことで、なんとか、鬱病の死神の手からのがれているんだ。 だから、本当は一時の休みもなく書き続けていれば良いということになる。 それが、私の文章の長い原因かも知れない。 ただ、この「日記」のような好き勝手を書いている分にはよいが、「美味しんぼ」のような物は、書いていると返って鬱に陥るね。 それは、やはり、漫画の原作という物は厳しい物で、漫画にしたときの効果、主人公を如何に引き立たせるか、全体の枚数、最後をどうやって次回に繋ぐか、などを物語とは別に考えながら書かなければならない。 こう言う面倒な仕事は、やはり精神的に負担がかかるから、鬱病には良くないと思うが、私が、この4年間鬱病と闘ってこられたのも、原稿を書くという仕事に没頭している間は、我を忘れていることが出来たからだ。 去年は人工関節の手術の後リハビリが余り辛くて、鬱病どころではなかった。 はてな、こんなのはやはりちょっとおかしな鬱病なのかな。 でも、本当に辛いんだよ。 ところで最近大変に困る相談を受けた。 会社を定年退職して暇が出来たから、漫画の原作を書きたい。 どうすれば良いのだろうか、と人づてに尋ねられた。 この質問が一番困る。 他にも、漫画の原作を書いてみたいと思われる方がいるかも知れないので、私の返事を書いておくことにする。 実は、漫画の原作には、こう書かなくてはいけないという決まりも、形式もない。 私の原作は、状況の説明、人物が何をするか、人物の台詞、をつなげるだけである。 映画のシナリオとは違うし、小説とも違う。 漫画の原作者の第一人者、というより、漫画の原作という仕事自体の創始者の一人小池一夫先生(もう一人の創始者は、梶原一騎先生)に、私が原作者になりたての頃に、「遊びにおいで」と先生の事務所に呼んで頂いて、ご親切にご自分の原稿を見せてくださったことがあった。 それは、先生の傑作「子連れ狼」の原作で、まあ、その原稿のきれいなこと。 きれいな字で、流れるように、その場面がわかりやすく書かれ、さらに、頭注と脚注がついて、漫画家が何をどう書けばよいのか、完全に分かるように書かれている。 それと私の原稿と比べると、これは、月とスッポン。 私なんか、まだ素人に毛の生えた程度のものだ、とその時思い知らされた。 もう35年前のことだが、小池先生のその寛容さご親切さ、にはいまだに有り難いと思い続けている。 駆け出しの原作者を招いてくださって、原作について色々教えていただき、あまつさえ、ご自分の原稿をそのまま見せてくださるなんて、もう、普通の心の狭い人間に出来ることではない。 漫画の原作を志す者は、目の前に、小池一夫山脈、梶原一騎山脈という巨大山脈が聳え立っていることに気づく。 私は、何とか、そのお二人に迫りたいと頑張ってきたが、どんなに頑張っても、どうしても越えることが出来なかった。 で、漫画の原作を書きたい人に対する、私の答えであるが、どんな形式でも良いから、書きたい物を書きたいように書いて、とにかく漫画の編集者に見せることだ。 たた一つだけ、漫画を書くときに忘れてはいけないのは、漫画は筋書きが第一ではない。 主人公の魅力が第一であると言うこと。 どんな魅力的な主人公を作り出すか、それが、漫画の一番大事なところで、主人公が魅力的なら、その主人公が勝手に動くだけで漫画は面白くなる。 勘違いする人が多いのは、筋書きにまず、専念してしまうことだ。 漫画は筋書きは二の次。 まず、魅力的な主人公を作ること。それが第一。 あとは、原作の形式は、気にする必要は無い。 シナリオ形式でも、小説形式でも、何でも構わない。 中身が面白ければ、編集者が漫画になるように、適当に、教えてくれる。 他の漫画の原作者の原稿を見て、「こんなもんでいいのか」と驚くことがあるが、それで、ちゃんと人気漫画になっている。 だから、漫画の原作者を志す人に対する忠告としては、どんな魅力的な人物を持っているか、ということ。 ただ、それだけです。 形式など、こだわる必要ない。 最近、漫画の原作者を志す人が少なくて、淋しくて仕方がない。 何も難しいことはないんだ。 小池先生は「まず、キャラを立てろ」と仰言る。魅力的な主人公を作ること。 漫画はそれに尽きる。 漫画の原作者を目指す人が、どんどん現れてきてくれればこんなに嬉しいことはない。 絵が描けないからと言って、漫画の世界にはいることをあきらめる必要ない。 原作を書くという手があるんだ。 一度、素晴らしい画家と組んでいい作品を作ると、もう、その快感はたまらない物がありますよ。 私なんか、稀代の絵師、池上遼一さんと最初に組めたのが最高の幸運だった。 作品が出来上がる度に、「ええっ! 私の書いたあんな原作がこんな凄い漫画になるの!」と興奮した物だ。 それは、体の震えるような興奮で、あの興奮を味わったばかりに、私は35年も、漫画の世界に生息してしまった。 どうか、多くの人が漫画の原作に挑戦してください。 本当に面白いから。
- 2009/03/06 - 無能で、汚らしい、日本の官僚たち 私は余り時事問題について話したくないのだが、今回の民主党の小沢代表の件については、暴かれるべきものが暴かれたと言うことだと思う。 もちろん、これは、国策検挙である。 自民党が頼んだわけではなく、日本の官僚組織が企んだことだろう。 日本の官僚にとっては、今の状態が非常に望ましい。 官僚制度に手を突っ込むようなことを言う小沢は早く退治しなければならない。 もっと言うなら、これまで、官僚制度を守ってくれた自民党に恩返しをしなければならない。自分たちを守るためにも、自民党を応援しなければならない。 その官僚たちの一致した思惑があってのことだから、小沢はこのまま無事に過ごすことは出来ないだろう。 最悪の場合、逮捕・下獄と言うことにもなるだろう。 同じ建設会社から献金を受けとった自民党の政治家を、野放しにして小沢に的を絞った所など、実に露骨だ。 戦後の日本が、中々まともな国になれないのは、天皇制を維持したことと、戦前の官僚制度を維持したことがその原因だ。 歴代の中国を振り返ってみると、王朝は様々に変化するけれど、宦官と科挙制度はずっと残った。 幸いなことに、日本に宦官制度は伝わらなかったが、日本風に変形された科挙制度は突然明治になって起こった。 日本風の科挙制度というのは、試験万能ということである。 中国の科挙の場合、最高の位、進士の位を得る最終段階では、皇帝の直々の面接試験を受けることになっていた。 その試験というのも、孔子の思想を基本にした儒学を如何に当時の皇帝の気にいるように表現するかと言うことであって、それぞれの時代の中国の世相から見ると、およそ現実離れした物だった。 如何に当時の支配者の気にいるような思想を述べることが出来るか、それが、中国の進士の条件だったのである。 そんな馬鹿なことを続けたから、次々に王朝が変わったのである。 日本は、宦官制度は免れたが、明治になって、官僚制度を作り直し、その官僚は政府の決めた試験に合格した人間を用いることにした。 時の政府の気にいるような回答を出す人間に、最高点を付け、官僚の頂上に据えたのだ。 中国の、科挙制度とまるで同じ制度を取り入れてしまった。 それが、東京大法学部出身でなければ出世できない、今の日本の官僚制度の実態である。 このように、官の下しおかれた試験で良い成績を収める人間は型にはまってしまっていて、何も大事の起こらない平和な時代においては何となくぶらぶらして難なく過ごすことが出来るが、時代の変化について行くことの出来ない、いや、時代の変化について行ってはいけないという特質を持つので、一旦国の運命のかかるような非常な事態が起こると、まるでそれに対する行動を取ることが出来ない。 いや、そのような行動は取ってはいけないのだ。まず、前例はどうだったかと探す。前例のない物には対処できない。あるいは、同じようなことが起こった場合、先輩のした通りにしなければ、自分の地位を守れない。 画期的な発想など、官僚にとっては命取りだ。 日本が、すぐる大戦で負けたのも日本の軍人の愚かさ故だが、その軍人の支配者たちの殆どが陸軍幼年学校から陸軍大学を最優等の成績で卒業した試験秀才、軍官僚だったのである。 彼らは、国際感覚もなく、敵の力を知らず、己の軍事力の弱さも知らず、全ての実状を見れども見えず、ただ、天皇に忠誠を尽くし精神力で戦争を勝つことが出来ると言う迷信を抱くように教育された人間だった。 現在の金融危機に対処する能力は、日本の財務官僚にはない。 大体、この金融危機を呼び込んだ、金融工学と言う物を理解できる人間が財務官僚にいなかったのだ。 なんという、知的劣弱。 財務官僚が、アメリカの投資銀行の人間に、現在の経済状態の教えを乞うたという話もある。こんな官僚が、何の役に立とうか。 いざという時に役に立たない人間が、官僚の親分として威張っているのだから、この国は救いがない。 今の日本の官僚の最上級の人間たちは、小学校から高校まで、東京大学に合格するのに有利な学校に入り、めでたく東京大学法学部を卒業してそれぞれの役所に乗り込んだ人間ばかりだ。 彼らは、東京大学法学部の入学試験に合格するまでの自分の努力を非常に自分で高く評価していて、東京大学法学部を批判する人間に対しては、「悔しければ、入ってみろ」と言う。 たかが、受験勉強ではないか。そんな物が、人間の価値判断に何の役にも立たないことは、1989年以来の、当時の大蔵省、現在の財務省の人間の役の立たなさを見ればはっきりしているではないか。 さらに、可哀想なことに世界中の大学ランキングを見ると、東京大学法学部なんか、欧米の大学にはまるで及ばない。 そして、我々が戦わなければならないのはその欧米人なのだ。 無能な人間が我々を支配している。 こんな恐ろしいことはない。 清代末期、中国は官吏の腐敗が甚だしく、それで大いに外国に対して不利な状況を作り、結果的に国を滅ぼしたのだが、その官吏は今の日本で言えば東京大学法学部出身者と同じ、科挙で進士の称号を取った人間である。 今回の、小沢民主党代表に対する摘発も、あまりに、時機的に露骨すぎる。 私は民主党なる党には全く信をおけない。 こんな党が政権を取っても、日本が良くなるわけがないと思う。 前にも書いたが、卑怯無残な社会党、民社党の残党が潜り込んでいる汚らしい政党だ。 しかし、今回の小沢追及を検察庁が仕掛けたことは、それとは別問題だと思う。 例の建設会社から、金を貰っている自民党代議士は十人を下らないのに、そっちは無視して、小沢に攻撃を集中する。 ああ、なんと汚い世の中なんだろう。 小沢という人間については、彼が自民党で力をふるっている頃から問題になっていた。 自民党の集金機構を、そのまま受け継いだのが今回の結果であって、当然の報いと言うべきだろう。むしろ、遅きに失したいうべきかも知れない。 政治家は必ず汚職をする物だということは、明治以後、政商という人間が跋扈して日本の経済を蹂躙して以来変わらない。 こういう話を聞いた人々は、ほんの一時「政治家は汚い」とか「きれいな政治をして貰いたい」とか言って怒るが、その根本を正そうという意見を聞くと、「過激だ」とか「日本人の心に合わない」とか「日本の悪口を言うのは反日的だ」などと言って、結局は、支配する側の言いなりになってしまう。 今回の日本の官僚勢力による小沢退治も、過ぎてしまえば、日本人はみんな二年も経てば忘れてしまうだろう。 そして、戦後六十年、同じように続いた、日本という国、日本人という人間のみじめな転落が更にその進展を進めるだけなのだ。 今、世界的な経済の危機状態にある中で、日本の経済を何とか救済しなければならないというのに、このようなあほらしいことで、時間を浪費する。 こんな国は、破綻に向かって真っ逆さま、ではないか。 事が終われば、私達が聞くのは、官僚たちの高笑いである。 自分たちの省庁の利益を守ること、自分たちの権威を守ること、それが官僚たち最大の目的であって、すぐる大戦に負けた後も、ただちに官僚たちは、占領軍の手足となってよく働いたのである。 誰一人、日本を占領している軍司令官マッカーサーと刺し違えて死のう、などという、官僚はいなかった。 私があの時に、マッカーサーに近寄れたら、絶対に殺していたね。 三歳じゃ無理だったけれど。 前回も書いた。 この国を救う人材はいないのか。
- 2009/03/04 - 日本に人材がない 永野護という人がいた(1890〜1970)。 広島県出身で、実弟に、永野重雄(元・日本商工会議所会頭)、永野俊雄(元・五洋建設会長)、伍堂輝雄(元・日本航空会長)、永野鎮雄(元・参議院議員)、永野治(元・石川播磨重工業副社長)がおり、そろって、政財界で活躍し、「永野兄弟」と呼ばれた。 永野護本人も、戦前は、「番町会」という、政治家と結んだ利権団体の重きをなし、戦後は吉田茂の取り巻きとして暗躍し、岸信介内閣で運輸大臣を務め、汚職疑惑などで危うかったこともあるような人間なので、毀誉褒貶甚だしく、戦前戦後にかけて、最悪の人間の一人と言われることもある。 その、永野護が戦後すぐ、1946年に、「敗戦真相記」という本を書いた。 その本は、長く忘れ去られていたが、2002年に、田勢康弘氏(当時、日本経済新聞社論説委員)によって復刻された。 私が手に入れたのはその版(バジリコ社刊)である。 2002年と言えば、1989年のバブル経済破綻以降、日本の失われた10年と言われているその最悪の年月の最中である。 その頃、日本は、「二度目の敗戦」を喫したと言われていた。 1945年の大東亜戦争に続く、第二の敗戦と言う訳である。 (ここで、日本が負けたのは、第二次世界大戦であるか、太平洋戦争であるか、日米戦争であるか、色々議論はあるが、日本自身が大東亜戦争などと言っていたので、その名を使う。大東亜の名前を使うのは、あの戦争を美化するためではなく、逆に、我々日本人の恥をきちんと知るためである) 田勢康弘氏は、第二の敗戦がどうして起こったか、真剣に検討したあげく、第一の敗戦、すなわち大東亜戦争の敗戦の原因を知らなければならないと考えたようである。 そこで、長い間、氏が読み返していたこの永野護の書いた「敗戦真相記」を復刻することにした、と言うことである。 で、この「敗戦真相記」の内容だが、これは既に、多くの近代・現代史家によって説かれていることに尽くされている。 その書かれた項目を、並べてみると、 「日本は完全に負けた」 「元凶は日本本位の自給自足主義」 「戦争は誤解の産物」 「日本の誤算、ドイツの誤算、米国の誤算」 「純粋培養教育が生んだ独善」 「世論の無視」 「危機の時代なのに人物がいない」 「器用な官僚ばかりが・・・・」 「呪われた宿命を持った戦争」 「解放したはずのアジアで嫌われる理由」 「納得出来る大義名分がない」 「己も敵も知らない軍部」 「国内の情報も英米に筒抜け」 「日本に『総力戦』の実態はなっかた」 など、など、極めて具体的に、どうして日本が戦争に負けたか分析している。 決定的に欠けているのは、大東亜戦争における日本の倫理のなさであるが、この本が書かれたのが1946年であることを考えると、永野護自身、日本軍が中国やアジアで行った残虐行為についての知識がないのは仕方がないことなのかも知れない。 いずれにせよ、戦前戦後を通じて権力側にいた人間が書いた本としては極めて、客観的な視線で書かれている。 これを読めば、どうして日本が戦争に負けたか、納得出来る。 (倫理的な面を除いて。純粋に、戦争についてだけ言うならば) 煎じ詰めて言えば、永野護がこの本で言いたかったことは、「日本は愚かだった」と言うことに尽きる。 「愚か」という言葉にも色々な意味がある。 碁や将棋のようなゲームの世界での愚かという言葉もある。 戦略が愚かだったからで、戦略が上手く行ったなら勝てたのではないか。 という、意味もある。 永野護の場合の「愚か」には、倫理的な意味は含まれない。 永野護のその後の政治的な態度をみれば、また、日本経済新聞社の論説委員としての田勢康弘氏の立場を考えれば、倫理的な愚かさはさして強調されていない。 永野護、田勢康弘氏が、共通して言っていることで倫理的な側面に及んでいると思われることは、田瀬氏の解説文を引けば、「戦後の日本にはアジア諸国の植民地を解放してやったのは日本であり、そのことに感謝している国々もある、と言う主張もあった。これに対して永野は満州、フィリピン、タイ、などの例を挙げ、それぞれ人心を把握出来ていなかったと指摘する」にとどまる。 田勢康弘氏の立場を考えれば、大東亜戦争を倫理的な側面から論ずるより、2002年当時の日本の経済的な凋落をどうすればよいか、そちらの方に頭が行くのは当然である。 永野護も、田勢康弘氏もあの大東亜戦争に「勝てていたら良かった」と思っているように思われる(私の邪推かも知れない。そうであって欲しい)。 その上で、両者とも、どうして負けたのか、その敗因を探っているのであって、日本の犯した過誤を、侵略されたアジア各国の人々の目から見ることがないのは仕方のないことだろう。 私は、その点から、田勢康弘氏を批判するつもりは毛頭ない。 永野護を批判する気もない。 ただ、大東亜戦争をこのような戦略論からだけ見ることが、次のもっと大きな失敗に繋がるだろうと言う恐れは抱く。 それはともかく、この本の中で、田勢康弘氏も解説で強調していることがある。 それは、永野護が書いた、次の一文である。 「諸種の事情が、日本有史以来の大人物の端境期(はざかいき—農業で言えば作物が全く獲れない時期)に起こったと言うことでありまして、建国三千年最大の危難に直面しながら、如何にこれを乗り切るかという確固不動の信念と周到なる思慮を有する大黒柱の役割を演ずべき一人の中心人物がなく、ただ器用に目先の雑務をごまかしていく式の官僚がたくさん集まって、わいわい騒ぎながら、あれよあれよと言う間に世界的大波瀾の中に捲き込まれ、押し流されてしまったのであります」 要するに、国家の危機という一番大事なときに、その危機を打ち破るだけの人材がなかったというのである。 これは、昭和天皇も言っている。 いたのは、小才のきく人物ばっかりだったと。 田勢康弘氏は2002年の段階で、今、同じことが起きている、と慨嘆している。 田勢康弘氏の日本という国を心配する気持ちは痛いほど分かる。 それが、氏をしてこの永野護の本を復刻させたのであろう。 しかし、田勢康弘氏よ、今はすでに、2009年である。 この時期において、漢字の読めない首相、酔っぱらって海外に醜態をさらす財務大臣、不正な政治資金を受けとって第一秘書が逮捕される野党第一党の党首を持つ我々である。 過去の歴史を見れば、よく分かる。 一つの国が滅びるのは、その国が、真正な指導者を持たないときである。 アメリカも、レーガン、クリントン、ブッシュと人気取りの人物ばかりが大統領になり、ブッシュに至っては、1000兆円もイラク戦争で浪費し、あげくに、金融破綻で、アメリカの経済どころか、国の礎さえ危うくなった。 アメリカも人材がなかった。 日本は、それ以下である。 その無能なアメリカの大統領に、しっぽを振って、忠誠を尽くす総理大臣ばかりだった。 総選挙があって、政党の勢力が変わったところで、日本の政界に人材がないことに変わりはない。 民主党など、あの恥ずべき、旧社会党から逃げ込んだ政治家のたまり場ではないか。 (社会党が、自民党と結んで、自社連合内閣を作ったとき、私は、本当に見てはならない最悪の醜悪な人間の姿を見たと思った。その時の社会党の代議士が生き残って民主党にいる。 そんな党に、何を期待出来るというのか) ああ、田勢康弘氏よ。 この、人材なき日本をどうすればよいのだろう。
- 2009/02/27 - また、ちょっと宣伝 また、ちょっと宣伝 明日28日の毎日新聞の「人模様」欄に、「シドニー子育て記」の件と、私のインタビューが掲載されます。 ついでに私の家族全員の写真も載ります。 家族全員恥ずかしがっていますが、本の宣伝のためには仕方がない。 皆さんも、いつも、「雁屋哲の食卓」で料理制作につとめている私の子供たちの素顔を見てください。 こんな息子や娘があんな料理を作っているのか、と思うと、ちょっと意外に思うでしょう。 しかし、本を売るというのは難しい物ですね。 私は「子育て記」を出版するために「遊幻社」という出版社を作ったのだが、こんなに本を売るのが難しいとは思わなかった。 現在、出版不況で多くの出版社が困っているという。 そんな時期に、新しく出版社を作るのも無謀だった。ある、大手の出版社の社員が、「うちの会社で出してあげたのに」と言ってくれた。 まあ、そこは、ちょっと私の意地があって(本を読んで頂ければお分かり頂けるが)無理矢理出版社を作ってしまった。 ところが、本を売る現場、書店の実状というのはすさまじく厳しい。 まず、歴史のある大手出版社、実績のある出版社の本は本屋に入ってすぐ人の目につくところに展示されるが、私の出版社のように、何の実績もない、出来たばかりの出版社は、まるで相手にされない。 しかも、今度の本が「子育て記」であり、副題に「シュタイナー教育との出会い」などと付けてしまったために、教育書に分類されてしまった。 教育書は売れないものと決まっているらしく、新宿の紀伊国屋本店でも五階の一番奥に売り場がある。 どこの本屋でも、一番隅の人目につかないところに置かれる。 そこまで普通の人は中々行かない。 それどころか、どうせ売れっこない、というので、私の本が取次店から配送された翌日、中身も見ないで返送したと言う本屋が何軒もあった。これには頭に来た。 これでは売れるわけがない。全然人目につかないんだもの。 私は町の本屋さんを皆で守らなけれいけないと思っているから、本の注文は、昔からのつきあいのある葉山の本屋に全部ファクスで注文する。 Amazonは便利だが、Amazonばかり使っていると、町の本屋さんの経営が苦しくなる。 だから、Amazonはなるべく使わないようにしているのだが、「子育て記」はAmazonなら、すぐに買えます。 本屋が並べてくれないなら、Amazonに頼るしかない。 私が一生懸命町の本屋を守ろうと努力しているのに、本屋さんがそんなに冷たいのなら、私だってへそを曲げる。 本屋で見つからなかったら、その本屋に注文するか(どこの本屋でも、翌日か翌々日には手に入ります)、Amazonで買ってください。 この間、Amazonで在庫を切らしてしまったが、もうそんなことないように、手はずを整えてありますから。 読んでくれれば面白いと思うんだけれどなあ。 ちょっと普通の人が体験しないような、子供の教育体験を書いたので、実際にお子さんを持って、教育に関心のある方からは、好意的な批評をいくつも頂いている。 ま、現在受験勉強一辺倒の日本の教育を批判しているし、東大、特に法学部を厳しく批判しているので、何に付けても日本を批判されると怒る人達には向かないだろう。 しかし、受験勉強に意義を見いだせず、苦しんでいる人たち(私達がそうだった)は読んで頂ければ、助けになるかも知れない。 でも、まあ、この本を出した第一の目的は、私と家族のためにこの二十年間の記録を残すためだったから、売れなければそれでも私は満足。 売れればなお良し、と言うところか。 しかし、売れないと出版社の経営は成り立たない。 最近の不況で苦しんでいる経営者の皆さんの苦境がよく分かりますねえ。 まだ出版したい本が何冊もあので、こんなところで足踏みしているわけにはいかないんですよ。 ま、とにかく、28日の毎日新聞の夕刊「人模様」欄をご覧になって下さい。 宣伝終わり。
- 2009/02/25 - インターネットの問題 2009年3月2日号の「TIME」に、中国のインターネット中毒の話が出ていた。 中国のインターネット人口は3億人(日本の人口の2倍以上だよ)。 もちろん世界最多だそうだ。 今、この中国で、インターネット中毒が問題になっている。 インターネット・ゲームや、掲示板や、ネット・サーフィンなどにはまってしまって、勉強も何もしない若者が増えて困っているというのだ。 そこで、ここが中国らしいところだが、インターネット中毒の人間を矯正するため施設がある。 この記事によると、12歳の少年が母親にコンピューターを禁じられたところ暴力をふるったので、思いあまった両親が、この少年をその施設に入れることにしたという。 その施設は、北京から、南西に1100キロメートルも離れたXian(これで、シャン、と読むのだろうか。私は中国語が出来ないので、中国人の名前や、中国の地名は、漢字で書いて貰わないと何だか分かったような気がしない。しっくり来ないのだ。北京もBeijingでは感じが出ない)にあって、そこに入れられると、朝6時半に起きて、スポーツ、読書など軍隊的な訓練を受ける。期間は三ヶ月ほどらしい。 面白いのは、両親も数週間、一緒にいないと行けないと言うことだ。 この、インターネット中毒は両親の問題でもあるので、両親も子供と同時に教育を受けなければならないと言うことのようだ。 写真を見ると、日本の若者と変わらない、茶髪、つんつん髪の若者たちが軍服を着て整列して、腕立て伏せの運動などさせられている。 この施設にいる間は、コンピューターはもちろん、携帯電話も禁止だ。 せっかく中国でも有数の良い大学に入ったのに、インターネット中毒で授業にも出なくなり、当然成績が悪くなり、この施設に入ったという学生もいる。 中国では、一日ぶっ通しで6時間インターネットを使い、それを三ヶ月間以上繰返すと、インターネット中毒と言うことになると言う。 それでは、経済分析の専門家はみんなインターネット中毒と言うことになってしまうのではないか、と「TIME」は言っている。 日本でも、インターネット中毒の若者は多い。 ゲーム、ファイル交換、チャット、掲示板、ブログ、実にありとあらゆる物が、インターネットにはそろっているから、うっかりはまると、抜けられなくなるのだろう。 全く、世の中の変化はすさまじい物で、十年前にはこんな事は考えもしなかった。 もはや、インターネットが無かったら、世界中が動かないのではないだろうか。 シドニーにも至る所にインターネット・カフェがある。 窓越しに除いてみると、薄暗い室内に、コンピューターが並んで、若者がゲームにふけっている。 韓国では、インターネットによる賭博が盛んで社会問題になっている。賭けるのは、ネット上の仮想のお金なのだが、それを現金交換できるのだそうだ。それで、大損をしている人間が多いというので問題になっている。 そう言う私も、いまや、インターネットがないと仕事が出来ない。 原稿を送るのも、仕事の打ち合わせも、全部インターネットで行っている。 若者向けのインターネット雑誌を読むと、いま、若者たちがどんなことに熱中しているか分かって面白い。 YouTubeなども、あれでどうして商売になるのか分からないが、最近、日本の月探索衛星「かぐや」からの画像が、高画質の動画で送られているのを知って、早速見てみた。 いや、感動した。あんなものを自分の家にいながら見ることが出来るなんて、凄い物だ。 猫の面白い動画も、いくつか見た。連れ合いにも見せてやった。 私は猫が大好きで飼いたいのだが、私の家の事情では猫は飼えない。 犬も、次女が面倒を見ているから飼えるので、私達だけだったら飼えない。だから、可愛い猫の動画など見ると、本当に嬉しくなる。 ああいう動画を作って、それを、アップロードする人間はえらい時間をかけているに違いない。 これでは、インターネット中毒になるのも無理はないと思った。 この、私のブログだって、インターネット上の物だしね。 インターネット恐るべしだ。 ところで、日本にも、インターネット中毒の若者を矯正する施設なんてあるのかね。 まあ、日本じゃそんな施設を作るのは無理だろうな。 しかし、インターネット中毒より、インターネット上のウィルスを何とか出来ないのだろうか。 私は、Macを使っているので、あまりというより、ぜんぜんウィルスにかかったことはないが、ウィンドウズのXPを使っている私の友人の一人は、去年だけで三回ウィルスにかかって、ハードディスクをフォーマットし直さければならなくなった。 実に悪質だ。 数日前、NHKでBotというウィルスの特集をしていた。 Botは知らぬ間に他人のコンピューターに入り込んで、普段は格別の悪さをそのコンピューターにしないのだが、ウィルスを仕込んだ人間は、そのコンピューターを自分の物のように扱えるのだそうで、そういうBotを何万台ものコンピューターに仕込んで、ひとつのBotネットワークを造り、必要に応じて攻撃したい企業や政府のサイトにその何万台ものコンピューターから一斉にアクセスさせる。 アクセスされたサイトは、当然パンクする。 これを悪用するものが少なくない。 企業のサイトに攻撃を仕掛けるとその企業は、特にネットで物品を販売している会社などは仕事が出来なくなる。 それで、競争相手の企業がそのBotネットワークを時間で買って、相手の企業を攻撃する、などと言うことが行われているという。 その巨大な、Botネットワークを作って保持している人間は、大金を得ることが出来るのそうだ。 そんな番組を見たので、番組のなかで紹介されている総務省のセキュリティのページを見たら、その番組の影響でアクセスが殺到して接続不能の人も多いと謝っていたが、私は難なく見ることができた。 ところが、その、セキュリティ対策が可能なのは、ウィンドウズのXPとVistaだけなのだ。 Macなんか、お呼びではない。 MacはBotの心配なはいのかな。 そうだ、最近、凄いジャンクメールが来る。 なんと、差し出し人名が、私のメールアドレスなんだ。 いったいどこから、私のメールアドレスを手に入れたか知らないが、一日に最低で6通は来る。 私は、マイクロソフトのEntourageを使っているのだが、不思議なことに、このジャンクメールは、迷惑メールのフィルタが効かない。 毎日、しっかり入って来る。 Entourageの欠陥なのか、それよりも、そのジャンクメールが上手なのか。 何度、迷惑メールに指定しても入って来るのだ。 ウィンドウズだと、そのメールを開かなくても、プレビューしただけでウィルスにかかることもあるという。 私の場合、実害はないが、毎回削除するのが面倒でたまらない。 こう言う悪質なウィルスを作る人間を何とか取り締まれないものだろうか。
- 2009/02/24 - ちょっと、宣伝 ちょっと宣伝。 「美味しんぼ」の「日本全県味巡り」和歌山県篇、今週月曜日発売からの「ビッグ・コミック・スピリッツ」での連載が始まりました。全国の書店とコンビニエンス・ストアで売っています。 今回は、和歌山県を徹底的に取材した結果の成果です。 和歌山県は素晴らしいところだったなあ。 その証拠に、私の小学校の同級生たち、12人が徒党を組んで和歌山を襲撃することになってしまった。 哲ちゃんが、そんなにいいと言うなら和歌山に行きたい、とこう言うわけです。 実は、今まで、日本全県味巡りで各地を回る度に、その後で、小学校の同級生たちが、「さあ、連れていけ」とこう来るのです。 哲ちゃんだけ、いい思いして、それで、田園調布小学校六年二組が収まると思うのか、と言うのが、同級生たちの言い分なんですが、私の身にもなって欲しい。 取材で訪れたところに、再び行くと言うことは、これは、裏を返すようで大変に良いことだと思うのだが、なんで、私が旅行代理店の役目をしなければならないの。 なんて、うっかり口にしたら大変。 私たちの同級会の実権はどこでもそうだと思うけれど女性陣に握られているからね。 下手なことを言うと女性陣から、槍のような言葉が飛んで来る。 とても優しくて、美しい女性たちなんだが、これは小学校の時からの、もう身に付いた事なんだろうな。男共は、女性たちの決めたことに従うこと。 これが、五十年以上続いているんだ。 ちょっとやそっとのことで変えられるもんじゃないよ。 私達の年代は、女性が非常に強かったんだ。 今、若い男が、若い女性をつかまえて「おまえ」なんて言うのを聞くと、「そんなばかな」と私なんか気が遠くなる。 そんなことを、私達同級生の間で言ってご覧なさい。 同級会、永久追放だよ。 小学校を卒業して五十年以上経つ同級生が集まると、もう、本当に楽しいことしかないんだ。 なんだが、ただ一緒にいるだけで楽しい。 他愛のないおしゃべりをするのが楽しい。 中に、妙にカラオケが上手な人間がいて、皆でそのカラオケに聴き惚れるのも楽しい。まるで、プロの歌手顔負けなんだもの。 とにかく、何をしても楽しいのが、小学校の同級会だ。 みんなと一緒にいる、と言う感覚だけで、素晴らしい幸福感を味わうんだよ。昔の思い出話が何度も蒸し返して出て来るしね。 同じ話だから聞き飽きた、なんて、誰も言わない。 その話の度に大喜びする。 「美味しんぼ」の中にも、何度か、公私混同で我が「六年二組」のことが出て来ます。校歌まで漫画に書き込んじゃったもんね。 楽しいよう。 今度は、和歌山で、また、皆で底抜けの楽しみを味わうんだ。 ああ、待ち遠しい。 最後に、もう一つ宣伝。 「シドニー子育て記」(遊幻社刊)をどんどん買ってくださいね。 この本が売れないと、私は、首をくくらなきゃならない。そろそろ首をくくる日が近づいてきた。 読めば面白いんだよ。書いた本人が言うんだから正しい。 ただ、宣伝を行き届かないので、中々人目につかないんだ。 このページを読んだ、読者諸姉諸兄は、迷わず直ちに本屋さんに注文してください。 お願いしますよ。私が首をくくる前にね。
- 2009/02/22 - オーストラリア政府が正しく対応することを求める次のようなニュースが入ってきた。 引用させて貰う。 シー・シェパードの船を初捜索=日本が要請、ビデオなど押収−豪警察 【シドニー21日時事】米環境保護団体シー・シェパードは21日、南極海で日本の調査捕鯨船に妨害活動をしていた抗議船「スティーブ・アーウィン号」がオーストラリア警察の捜索を受け、ビデオや航海日誌などを押収されたことを明らかにした。豪警察当局による抗議船捜索は初めて。豪ABC放送によると、警察は日本当局からの正式要請を受け、予備的な調査をしていることを明らかにしたという。 捜索は20日、同船が妨害活動を終えて豪南東部のホバート(タスマニア州)に寄港した際に行われた。 さて、さて、問題はこれからだ。 オーストラリア政府が、国際的犯罪行為として認められている、海上での船舶に対する攻撃を、犯罪として認めるのか。 オーストラリア自身、周囲を海に囲まれた海洋国家だ。 日本の科学調査船とその乗組員の生命を襲う海賊や、テロリストを容認したら、次から誰もオーストラリアの船を海上で助けることはなくなる。 日本の科学調査船は、自分たちを攻撃に来た、「シー・シェパード」の乗組員が乗ったゴムボートが濃霧の中で動けなくなったのを救ってやった。(まあ、「シー・シェパード」はなんと言う間抜けな連中なんでしょうか) 連中は、日本の科学調査船を攻撃するための、化学薬品の入った瓶などを、沢山持っていたのである。 それでも、日本の科学調査船は救ってやった。 それに対して、「シー・シェパード」は「当然のことである」と威張っている。(世界中、どこでもテロリストは、いつも、助けて貰いながら、それをありがたがらずに、返って文句を言うよね。人間として、最低だね) 自分たちを攻撃して来る事が分かっているテロリストを助けてやった日本人の寛容さが、どうして連中には分からないのか。 これが、カルトの恐ろしさだ。 カルトに一旦はまると、理性が働かなくなる。 自分たちが、全く不法な攻撃を仕掛けている人間から救って貰っておきながら、それに対して、きちんとした感謝ができない。 こう言う人間は、心の病にかかっている、としか思えない。 しかし、国際的な法は、きちんと守って貰わなければ国家同士のつきあいは出来ない。 タスマニアに入港した、「シー・シェパード」の乗組員の中の犯罪者たちを、オーストラリア政府はどう扱うのか。 ここで、本当に、オーストラリアという国が、公正な国なのかどうなのかが問われる。 国際法を守らないのだったら、国際社会に何かを求めるべきではない。 オーストラリア政府の、今後の対応に対して、日本政府は厳しく対応するべきだ。 カルトによるテロを許すなら、オーストラリアという国の基本的な存在理由が失われる。(国際的に手配されている犯罪者をそのまま見のがすなら、次からどこの国でも、オーストラリアの手配する犯罪者は見のがして良いことになる) オーストラリアという国は、フェアーな国のはずだ。 アン・フェアーなことを許すなら、マルチ・カルチュラリズム(多文化主義)と言うこの国の理想が崩れる。 捕鯨の良否については、きちんと対話をしよう。 了解点を探ろう。 それを、我々日本人は、言っているのに、鯨カルト一派は一切それに耳を貸さない。 ここで、「シー・シェパード」に対してきちんとした対応をオーストラリア政府が取らないのであれば、オーストラリア人全体が、国際法を守るという理性を失った、鯨カルト国民であると世界に宣言する事になる。 少なくとも、テロを批判する事が出来なくなる。 オーストラリア政府よ、どうするんだ。 日本政府も、ここは、きちんと詰めて欲しい。 いい加減なことで妥協するな。 われわれ、日本人の文化を守ってくれ。
- 2009/02/19 - 同じ、酒飲みなんだけど どうも、最近、例の大臣のG7における、酔っぱらい会見で騒がしい。 私も酒が好きで、酒の上で、人間関係を壊したり、しないでも良い喧嘩をしたり(殴り合いを含む)した人間なので、彼に対しては大目に見たいのはやまやまだが、酒飲みには、酒飲みの規則という物があって、彼は、それを踏み外したので、簡単には、「良し、良し」とは言えない。 その規則とはは何かというと「酒を殺して飲む」と言うことである。 酒を飲むと大変良い気持ちになる。 有頂天になる。 でれーっとした気持ちになる。 しかし、次に大事なことを言ったりしたりしなければならないと言うことが分かっているときには、私は、酒を殺す。 要するに、酔っていても、その酔いでもって、自分の行動が他に悪影響を及ぼさないように自分で自分を制する。 だから、大変重要な場合には幾ら酒を飲んでも酔わない。ウィスキーの四分の三、ワインの二本くらいでは屁でもない。 いや、はたから見れば、「酔っぱらってましたよ」くらいのことは言われるが、その場の雰囲気を壊したり、他の人を不愉快にしたりすることは絶対にない。 これは、矢張り、大酒飲みだった父親から仕込まれたことで、「酒を殺せないなら酒を飲むな」と、父に言われた。 別の言葉で言うと「酒を飲んでも、酒に飲まれるな」だ。 これを、私が小学生の時から盗み酒をしても寛大だった父が、酒について厳しく言い渡したことだ。 酒は楽しむべし。 人を不愉快にするべからず。 これが、私の父が、私に酒を飲むのを許すと同時に、厳しく言ったことだ。 要するに、「酒を殺せない人間は、酒を飲んだら人前に出るな」と言うことだ。 あの大臣は、その酒飲みの基本的な規則を知らなかった。 あるいは、知っていて、破ってしまった。 私の連れ合いは、私の酒の被害者で、私が酒を飲むばかりに、酒の勢いでむちゃくちゃなことをするのに、さんざん困ったが、しかし、最低の線は私は守ったつもりで、連れ合いや娘たちに聞いても、「お父さんはお酒を飲むと、うるさくなるが、悪いことはしなかった」とお墨付きを今夜貰った。 私の連れ合いの甥の結婚式の当日、私は、祝辞を述べることを前から頼まれていたが、その前夜、私は大変な深酒をし、しかも、私は酒を飲み過ぎると興奮して寝られなくなるという性質がある。(良く、寝付きを良くするために、寝酒を飲む、なんて言う人がいますね。洒落れて、ナイト・キャップなどとも言う。冗談じゃない。私なんか、夜十時過ぎに酒なんか飲んだら、もう、興奮してしまって、明け方まで寝付けない。) そんな訳で、翌日甥の結婚式だと思うと、とにかく寝なければならないと言うので、睡眠薬を飲んだ。それも大量に。 今回の、大臣より遙かに悪い状態ですよ。 結婚式の式場で、私は二日酔いと睡眠薬で、でろでろ。 目も開けていられない。 母が心配して、「祝辞は哲也はやめて他の人にして貰って」と言うくらい、無残な状態だった。 しかし、一旦、私が祝辞を述べる人間として指定されるや、私は壇上に立って、以前から連れ合いに「これだけは、祝辞の中に入れてね」と言われたことまで、きっちりと入れて、実に整然と祝辞を述べたのである。 この件は、いまだに我が家では語りぐさになっていて「どうして、あんな、酒と睡眠薬ででろでろになって、目も開けられない人間が、突然しゃっきりして、きちんとしたいい祝辞述べられたの」と言われる。 ふざけんじゃねーよ。 こちとら、酒だの薬だの、さんざ、こなしてるんだ。 酒の酔いを殺すなんざ朝飯前だ。 いざとなったら、どんなに深酔いしていても、すっきりさっばり、理路整然と話すことが出来る。 特に、私なんか、見栄っ張りだから、人前となると、絶対に自分が酔っている姿を見せまいと努力する。 だから、普通に付き合っている人は「雁屋さんは酒が強いですね」と言うが、そうじゃない。 私は酒は弱い。 しかし、酒を殺す事を知っている。 あの大臣は、せっかく酒飲みなのに(私は酒飲みが大好き。酒を飲まない人間は、好きじゃないな)、酒を殺す術を未だに体得していなかったようだ。 彼について、ネットで調べると、1953年生まれ。 私より、一回り下の同じ蛇年ではないか。 彼が日常言っていることは、無残な極右的なことで私と意見はまるで違うが、同じ蛇年で酒が好きだ。 ウワバミ同志ではないか。 ここに於いて考えを改めて、私の言うようなまともなことを考えて馬鹿馬鹿しい極右的発言行動をやめることを、その大臣に勧めるね。 そのような、極右的発言をし続けていることが心の負担になってあのような醜態を世界中にさらすことになったのではないか。 正しいことを言い、正しいことをすれば、あんな悪酔いの醜態を世界中にさらすようなことはしなくなりますよ。 私の立場、意見は、あの大臣の考え、言うこととは全く正反対だ。 考えの上から言えば、敵だろう。 しかし、酒飲みの一員として、あの状態は、情けないが理解する。同情するよ。 だが、酒飲みとして言いたいが、人前に出るときには自分の酔いの程度を知ってからにしてくれ。 酒を殺して飲むことを覚えてくれよ。 と言っても、もはや、五十歳を過ぎた人間に言っても無理か。 などと言うのは冷たすぎるな。元大臣よ、ウワバミとして正しい道に戻って元気に頑張ってくれ。人間として正しい道を歩むウワバミだってあっていいんだから。
- 2009/02/17 - 誤解しないでください 一昨日から昨日にかけて、このページが見られないという事態が起こりました。 プロバイダーの故障でした。 せっかく見に来て下さった方に失礼をしました。 ごめんなさい。 ところで、私が「シー・シェパード」のことを書いたところ、あらぬ誤解をされた方がおられるので、訂正しておきます。 私が批判したのは、オーストラリア政府は、フェアーであることを大事にする国なのに、テロリスト・海賊船である「シー・シェパード」がオーストラリアの港を母港に使うことを許し、ICPOから指名手配されている犯人が「シー・シェパード」の乗組員になって加わるのを許し、今回再び、日本人の命に関わるテロ活動を起こすことを許した、そのことを批判したのであって、オーストラリアという国全体を非難・批判しているわけではありません。 オーストラリアがすっかりいやになったという方が何人かメールを下さいましたが、それは誤解です。 オーストラリアはフェアーな国です。 例えば、オーストラリアで一番人気のあるファッション・デザイナーはイソガワという日本人です。 オーストラリアで一番、世界でも五本の指に入るとされている「テツヤ・レストラン」のオーナー・シェフは日本人です。 シドニーで一番とされている寿司屋「ヨシイ」のオーナー・シェフは日本人ですが、オーストリアやシンガポールで開かれた国際料理大会に、オーストラリア代表として出席しています。 私が数年前に、股関節を人工関節に入れ替える手術をしたとき、心臓が乱れました。 担当の医者が、「運良く最高の心臓外科医が明日この病院に来るから見て貰え」と言って紹介してくれたのが、日本人の心臓専門医でした。 その心臓医が私の心臓を検査するときには、他の病院の心臓医たち数人が見学に来て、その腕前に感心していました。 このように、実力さえあれば、日本人であれどんな人種であれ、トップに立てるのが、オーストラリアの良いところです。 日本より遙かに、フェアーで住みやすい国です。 それでなければ、私は、20年も住んでいませんよ。 私は我慢と言うことができない男なので、少しでもいやになったらとっとと出て行きます。 そう言うわけで、私は、今回のオーストラリア政府の「シー・シェパード」に対する扱いに対して批判したのであって、それは、むしろオーストラリアを愛するからです。 これだけのんびり、明るく、気持ちの良い国は滅多にない。 「シー・シェパード」に対する私の怒りを、誤解しないでください。 今回、メルボルン周辺で大変な山火事があり、多くの人が亡くなるという大惨事になりましたが、オーストラリアの凄いところは、全国からボランティアで大勢の人が集まってくることです。 命がけの消火作業に、無償で参加するのです。 その、無償のボランティアたちに、オーストラリアのテレビでは、心から感謝するメッセージをしょっちゅう放送していて、とても感動的です。 「シー・シェパード」も、オランダ政府の働きかけもあって一旦引き揚げました。 来年どうするか。 それを見守りましょう。 とにかく、オーストラリア政府は、指名手配されている犯罪人を国際刑事機構を通じて日本に引渡す義務があります。 その義務を果たすか、どうか、目を離さずに見はりましょう。
- 2009/02/10 - 「Australia fair」について 先ほど、オーストラリアの国歌について、その中の文句、「Australia fair」についての私の解釈が間違っていると、私の子供たちに、抗議を受けた。 英語というのは難しい物で、fairと言う単語が、色々な意味を持っている。 私は、fairを「公明正大」と取ったのだが、子供たちは、それは普通のオーストラリア人の受取り方と違うと言う。 Fairには「美しい」とか「良い」とか言う意味があって、国歌の場合の「Australia fair 」は「公明正大なオーストラリア」という意味ではなく「美しいオーストラリア」という意味で、オーストラリア人はみんな歌っていると言うのである。 おお、それでは、この二十年間、私は、勝手に良い方向に誤解して、オーストラリアに片思いをしていたのか。 もう、がっかりした。 それでは、オーストラリア政府が、「シー・シェパード」の違法犯罪人を日本へ送り返すわけがないよ。 やはり、一つの国の国歌なんて物は、全世界的に平等な美しい精神を歌うことはないのか。 オーストラリアでさえ、自分の国の美しさをたたえるだけの国歌だったのか。 大変、がっかりした。 そう言えば、去年、オーストラリア政府がこの国の先住民であるアボリジニーにいわゆる「謝罪」をしたが、そんなもの、言葉だけでいま虐げられているアボリジニーには何の救いにもならないもの。 私は、オーストラリアを過大評価しすぎていたのかな。 何だかうんざりしてきたね。 オーストラリアに住んでいる人、どう思いますか。 もう、日本へ帰ろうかな。
- 2009/02/10 - ちょっと訂正 先日書いた、「シー・シェパード」の件についての私の文章は、感情が激するままに、筆が走りすぎたところがあるので、一部訂正する。 あれくらい激しく書かなければ薬が効かないと思ったのだが、ちょっと薬が効きすぎたところがある。 まず、海上自衛隊の件であるが、あれは矢張りまずい。 憲法の第9条と、第1条を同時に廃止するまで、自衛隊の海外派遣はまずいだろう。(憲法の第9条と第1条を同時に廃止することは、長い間私が唱えていることである。第9条と、第1条を同時に廃止することで、日本は初めて普通の国になれるのである) 明治以降の日本歴史を見ると、対韓国に対する江華島事件(1875年、日本はまだ国交のない韓国の江華島の水道河口に入り、ボートで韓国の要塞草芝鎮に近づいた。国交もない国の船が要塞に近寄ればそれに対応するのは韓国として当然である。まず草芝鎮から砲撃が開始されたが、草芝鎮の大砲の威力は弱かった。それを口実に、日本の軍艦雲揚の井上艦長は砲撃を命じた。雲揚の大砲の方が威力があった。その後雲揚は江華島の南10キロにある永宗島の要塞を急襲した。永宗鎮には600人の兵がいたが、突然の襲撃に殆ど闘わず逃げた。井上艦長は兵を上陸させ、城内を焼き払い残されていた兵器から楽器に至るまで略奪した。《海野福寿著 「韓国合併」による》 日本側が仕掛けたことであるにもかかわらず、日本はこれを口実に韓国に謝罪を要求し、1876年、韓国にとって不平等な条約『日韓修好条規』を締結した) 1894年7月25日、豊島沖で清国の戦艦を奇襲して沈没させて、日清戦争を始めた。清国に対して宣戦布告したのは8月1日になってからである。 1904年2月4日、日本艦隊は、旅順港のロシア艦隊を奇襲してロシア軍艦を沈没させ、9日に仁川沖でロシアの軍艦2隻を撃沈した。宣戦布告は2月10日になって行われた。 (真珠湾攻撃に限らず、日本は常に、宣戦布告前に奇襲攻撃を仕掛けることで戦争を始めていたのである) 更に、日本の運命を決定づけた、満州事変は、日本の中国駐在の関東軍の支配者、石原莞爾中佐、板垣征四郎中佐などによって、自分たちが爆破しておきながら、満鉄の線路を中国側が爆発したとし、日本人を守るためと称して中国に攻撃を仕掛ける事で満州事変を引き起こし、最終的に日本の傀儡国家満州国の建立まで進んだ。 以上満州事変の開始までを見ると、常に日本の政府と軍部は謀略的である。 今の自衛隊がその血筋を引いていることは、先の航空自衛隊の幕僚長である田母神俊雄氏が、「日本が侵略国家だったとはぬれぎぬだ」などと主張する論文を民間企業の懸賞論文で発表して、日本の自衛隊の幹部の頭はその程度の物か、と世界中に恥をさらした事で明らかだ。 航空自衛隊の幹部がこんな物なら、海上自衛隊の幹部も余り信用ならない。 うっかり、南氷洋まで捕鯨調査船の護衛などと言う名目で派遣すると、「シー・シェパード」が何もしないうちから、「向こうが先に仕掛けてきたから」という口実で、「シー・シェパード」を撃沈させて世界的な問題を引き起こしかねない。 そう言うわけだから、自衛隊の派遣を要求することは取り消そう。 ついでに、オーストラリアドルが安いからと言ってオーストラリアに観光に来たりするなと言ったが、それも取り消す。 せっかく、オーストラリアドルが安い機会にオーストラリアに来て、反捕鯨を主張するオーストラリア人に、その過ちを指摘してやって貰いたい。 しかし、オーストラリアに対する批判は取り消さない。 私がオーストラリアに二十年も住んでいるのは、この国が素晴らしい国だと思っているからだ。 その一番の素晴らしさは、「フェアーであること」(公平、公明正大、 あること)を大事にするからだ。 如何に「フェアーであること」を大事にするかというと、その国歌を聞けば分かる。 「オーストラリア国歌」 [flashvideo file=wp-content/uploads/2009/02/national-anthem-of-australia.mp3 /] (歌詞) 「Australians all let us rejoice, For we are young and free; We've golden soil and wealth for toil, Our home is girt by sea; Our land abounds in Nature's gifts Of beauty rich and rare; In history's page, let every stage Advance Australia fair! In joyful strains then let us sing, "Advance Australia fair!"」 (私の試訳) 「全てのオーストラリア人よ、喜び祝おうではないか、 我々は、若く自由なのだから。 我々は苦労の結果、黄金の土地と豊かさを手に入れた。 我々の国は周囲を海に守られ、 我々の土地は、自然の恵みにあふれている。 それは、豊かでたぐいまれな美しさを持っている。 歴史の中で、どんなときでも、前進せよ、 公明正大なオーストラリア! 喜びに声を張り上げて歌おう 前進せよ、公明正大なオーストラリアと!」 私はオーストラリアの国歌が好きである。実にすがすがしいし、力に満ちている。 歌の文句も実によい。 変に愛国的でなく、「闘おう!」などという文句もない。 「Advance Australia fair!」 と言うところが実にいいではないか。 オーストラリアでは、差別をしたり、ずるをしたり、フェアーでないと厳しく非難される。場合によっては社会的に葬られる。 それくらい、オーストラリアではフェアーであることを大事にする。 だから、今回私はオーストラリアを批判するのだ。 どうして、オーストラリア政府は「シー・シェパード」が日本の科学調査船を攻撃することを助けたのか。 捕鯨については議論することを一切拒否し、たとえ議論しても、日本の言い分を聞こうともせず、一方的に日本を野蛮人と言って非難する。 それが、IWCと「シー・シェパード」これまでの態度だった。 捕鯨がどうしていけないことなのか、科学的な証明は一切行わず、捕鯨を禁止しようという。 IWCの反捕鯨派は、捕鯨と何の関係のない国までIWCに加盟させ、時には、アメリカ人が小さな国の代表になったりもする。 そういう、捕鯨に関係のない国でも、総会では日本と同じ一票を持つからおかしい。 結果として、常に、IWC総会では、日本の捕鯨が反対される。 「シー・シェパード」は過激な行動ゆえに、そのIWCからも離れた団体である。(形式だけかも知れない) その「シー・シェパード」に母港を貸し、去年日本の調査船を襲った人間も、再び「シー・シェパード」に乗ることを許し、結果的に、今回のような、人命に関わるようなテロ行為を行うことを許した。 「Advance Australia fair!」はどこへ行った。 Unfairではないか。 オーストラリア政府は、「シー・シェパード」のテロ行為を許したことを、日本に謝罪し、「シー・シェパード」の乗組員を日本に国際犯罪人として引渡すべきである。 次のニュースを読んで、読者諸姉諸兄よ、どう思われるか。 遭難した反捕鯨団体の活動家2人を日本の捕鯨船が救助 - オーストラリア 【シドニー/オーストラリア 9日 AFP】南極海で9日、反捕鯨団体「シー・シェパード(Sea Shepherd)」の活動家2人が一時行方不明になったが、日本の捕鯨船の支援で約7時間後に無事救助された。 行方不明となった2人はオーストラリア人と米国人の活動家。濃い霧が立ちこめる中ゴムボートに乗り、日本の捕鯨船「日新丸」の活動を妨害しようとしていた最中に行方不明になったが、日本の捕鯨船がこの2人の捜索活動を手助けをしたという。 シー・シェパードのJonny Vasic会長はAFPの取材に対し、「2人を助けてくれた日本の捕鯨船には感謝しているが、今後も妨害活動は続けるつもりだ。こうした海上での救助活動は規則で決まっていることだ。我々も反対の立場にいたら同じことをしただろう」と語った。 よくも、「我々も反対の立場にいたら同じことをしただろう」といえるものだ。 「海上の救助活動は規則で決まっている」などと、船に体当たりする人間が言えた義理か。この、厚かましさはまともではない。 1月7日の読売新聞を以下に引用する。(これは、以前にも引用させていただいた) 「シー・シェパードの船、行方不明者の捜索妨害」鯨研発表 ニュージーランドの南東約3300キロの南極海で調査捕鯨活動中の目視専門船「第2共新丸」(372トン)から、操機手の白崎玄(はじめ)さん(30)(神奈川県横須賀市)が行方不明になった事故で、調査捕鯨を行う「日本鯨類研究所」(鯨研)は7日、反捕鯨団体「シー・シェパード」の抗議船「スティーブ・アーウィン号」に約370メートルまで接近されるなど、白崎さんの捜索活動を妨害されたと発表した。 鯨研によると、抗議船は6日夜(日本時間)、無灯火状態で現場海域に現れ、約370メートルまで近づいたところで、無線を通して「行方不明者の捜索に来た」としながらも、「捜索が終わり次第、調査船団の妨害活動を行う」と宣言したという。この距離は安全航行の上で船同士の進路に影響を与えかねない間隔で、鯨研は接近したこと自体が妨害に当たるとしている。 (2009年1月7日12時04分 読売新聞) 海上で共助するどころか、自分たちは、こう言うことをしているではないか。 「シー・シェパード」はとても正気の団体ではない。 カルトである。それも、テロリストのカルトである。 「シー・シェパード」の乗組員の中には、国際刑事機構で公開捜査されている人間が何人か含まれている。 オーストラリア政府は責任を持って、その人間たちの身柄を確保し日本へ引渡すべきだ。 それが「fair」な態度という物だ。 もう一つ、2009年2月9日の産経新聞の記事を引用する。 シー・シェパードの捕鯨妨害でオランダ公使に抗議 水産庁 米国の環境保護団体シー・シェパード(SS)の抗議船が調査捕鯨に対する妨害を繰り返している問題で、水産庁の山田修路長官は9日、抗議船の船籍があるオランダのミッヘルズ駐日公使を呼び、SS抗議船の取り締まりを求めた。 これに対して、ミッヘルズ公使は「船籍国としての責任を認識している。(抗議船の)船主らと接触し、安全を脅かす行為を止めるよう要請した」とする声明を発表した。ただ、声明の中では「オランダ政府は捕鯨に反対しており、クジラを殺さなくても調査は可能」とも主張した。 「今季の捕鯨妨害終了」 シー・シェパード 南極海で日本の調査捕鯨船への妨害活動を繰り返していた米環境保護団体「シー・シェパード」は9日、抗議船スティーブ・アーウィン号の燃料が尽きたため、オーストラリアの港に戻るとウェブサイトで発表した。 次の捕鯨シーズンは11月末から来年3月末まで。同団体は「日本の捕鯨船のスピードに対抗できる船を用意して(次のシーズンに)南極海に戻る」としている。 シー・シェパードの抗議船は昨年12月下旬、日本の調査捕鯨船に液体入りの瓶を投げ付けたほか、今月に入ってからは船体を何回も日本船に衝突させるなど妨害活動を激化。日本の水産庁は「非常に危険な暴力行為」として非難していた。 昨年12月初め、オーストラリアから出港した抗議船は、給油のため一月に同国に帰った後、再度南極海に戻っていた。(共同) さあ、オーストラリア政府はどうしてくれるのかな。 国際手配されている犯罪人たちをそのまま見逃したら、オーストラリアはunfairどころではなく、無法国家になると忠告しておこう。
- 2009/02/08 - おお、私の知的怠慢 しかしね、自分という人間が如何に、いい加減かと言うことを今度こそ思い知らされたことはありません。 私は、去年三月に右膝の人工関節入れ替え手術をしましたが、その結果、かなり長い間、歩いたり、動いたり、そう言うことは出来ないので、(もちろん、リハビリテーションとして、様々な辛い運動をしましたが)日常的に、本を読むことで時間を過ごしました。(いや、これは、手術に関係なく、生まれてからずーっと、私は一日中本を読んでいるんだが) そこで、思い立ったのが、聖書を徹底的に読もうという言うことだった。 旧約聖書、新約聖書、これを徹底的に読んだ。 それぞれのページに、疑問を持った部分には紙を挾み、書き込みをした。 (その、旧約聖書の分については、この日記の去年の四月から五月にかけて書いている。特に、パレスティナ問題に絡めて書いてあるので、興味のある方は、読み返して下さい。改めて書き直す体力がないので) しかし、その際に、新約聖書を甘く見ていた。 何故かというと、私自身、十九歳まで敬虔なキリスト教信者であり、聖書は今までに充分読んでいたという自信があったからだ。 もちろん、聖書のマタイ伝から使徒行伝まで、聖書をもろに読むと矛盾だらけでどうしようもないと言うことは、分かっていた。 しかし、それは、信仰の力で、どうにかなる物だと、宗教擁護的な考えを持っていたのだ。 私達、戦後民主主義的な考えを持って生きている人間に取って、一番の弱点は、宗教だ。 「信教の自由」 これが、全ての宗教の錦の御旗になってしまった。 見てくれよ、今の日本は様々な新興宗教がしたい放題しているではないか。 今の日本を動かしているのは、創価学会という宗教団体だ。 宗教が政治に関わっていいのか。 政治に宗教団体が関わっていいのなら、当然、宗教を政治的に取り扱っても文句はないはずだろう。 本当は、人を惑わす宗教は禁じなければならないのだ。 それなのに、宗教は絶対に手を付けてはいけない、治外法権的な存在になってしまった。 税金も払わなくいいとは、これはすさまじい。 私自身の立場から言えば、キリスト教がいい、とか、創価学会がいいとか言うつもりはない。 人の心を惑わすことでは、両方とも大差はない。 さて、その、聖書なんだが、マタイ伝の最初の章と、ルカ伝の第三章に、それぞれイエスキリストの系図が述べられている。 私は実にいい加減な人間で、こう言う系図なんて、「まともに見るのはあほらしい」と言う、頭がある。 日本でも、旧家の方にお会いすると、長々と千年前にさかのぼるような系図を見せられることが、特に地方に行くと良くある。 それは、とても感動的である。 地方の歴史を、こう言う形で残しているというとは素晴らしいと思う。 しかし、それが、信仰の段階になると大変に困る。 今まで、マタイ伝の系図も、ルカ伝の系図も、「ああ、イエスはそう言う家系の方なのね」と見過ごして、その歴代の人間を真剣に見ることがなかった。 要するに、「イエスは神の子、それでいんでしょう」と言う、実に投げやりな態度だった。 ところがだ、ああ、一昨日、もう一度、新約聖書を読み返して見たんだ。 そして、ひっりくかえってしまった。 マタイ伝も、ルカ伝も、イエスの父親のヨセフの系図を詳しく語っている。 そんな鬱陶しい詳しい物を、私は、今まで、「ああ、そうですか」と見過ごして来ましたよ。 ところが、それを、もう一度読み返し見ると、「ひゃあああ・・・・」と声をだしてひっくり返った。 マタイ伝では、イエスの父親であるヨセフの父親はヤコブであり、ヤコブの父親はマタンであると書いてある。 ところが、ルカ伝では、イエスの父親ヨセフの父親はエリであり、エリの父親はマタトであると書かれている。 どうして、直近の父親と祖父の名前が一致しないのか。 この辺で驚いてはいけない。 さらに、マタイ伝では、「アプラハムの子、ダビデの子」として、イエスの系図が書かれているが、ルカ伝ではそれが、「創世記」のアダムまで伸びて、結局、イエスは神に繋がるとしているのである。 私も、日本で、あるいは、外国で、貴族だの金持ちだのの家系図を色々見てきた。 だから、イエスが凄い家系図を持っていることに対しては驚かない。 どうか、全キリスト教徒を膝まずかせるのに充分なだけの家系図をイエスは持っていて貰いたい。 しかし、この家系図は何なんだ。 両方とも、イエスの父親のヨセフの家系図として書いてある。 私は、去年膝の関節入れ替えの手術をしたとき、あまりの痛みにモルヒネ系の痛み止めを多用しました。 モルヒネは、人間の脳に作用します。 人間の思考能力を非常に減退させる。 そのような状態で、旧訳・新訳両方の聖書を精読したのが間違っていたのかも知れない。 しかし、一昨日のことです。 稲妻のごとくひらめいたことがある。 この、マタイ伝、ルカ伝に書いてあるイエスの系図と言うのは、イエスの父親、ヨセフの家系図ではないか。 本当に、真面目に読んでください、両方とも、イエスの父親、ヨセフの系図ですよ。 ああ、ところが、なんと言うこと、キリスト教で一番価値の有ることの一つは、マリアが処女懐胎をしたことでしょう。 ヨセフの妻、マリアは、処女懐胎をしたんですよ。要するに、ヨセフとは、性的に交わっていないのだ。もっと具体的に言うと、ヨセフの精子がマリアの卵子と結びつき、マリアがイエスを産むという、子供を作るのに一番大事な性殖行為に関わっていないのだ。それでは、ヨセフの精子の持っている遺伝子の情報がマリアに伝わることはないから、ヨセフがどんな過去の系図を持っていようとも、処女懐胎をして産まれたイエスとの間には伝わりようがない。 ヨセフの遺伝子は、マリアの産んだイエスには全然関わり合いがない。したがって、ヨセフがダビデの子孫であろうと、ルカ伝の言うようにアダムの子孫であろうと、イエスとは何の関係もないではないか。イエスは、ダビデの子孫でもなく、アブラハムの子孫でもない。 ひゃああああ、と私が叫んだはそのところです。 ひゃあああ・・・、それじゃ、イエスは何者じゃいっ! 私は、自分自身のあまりの知的な怠惰に驚きました。 聖書は正しいことを書いている物だ言う思いこみが強くあった。 しかし、ひとつひとつ、読み込んでいくと、「どうして、こんなことを二千年間にわたって多くの人が信じていたのか」 という疑問に強く責められる。 キリスト教の信者達は、こう言うことに対する様々な答え方を持っているのだろう。 それでなければ、二千年も、こんな宗教が生き続けるわけがない。 宗教というのは、恐ろしい物だ。 人間の、理性を否定しない限り信じることの出来ない物だ。 これが、キリスト教ならまだいい。 非信心者を殺すことを正しいこととしている宗教と来たら、とてものことに、耐えられない。 それは、ともかく、私は驚いた。 一昨日に至るまで、マタイ伝とルカ伝のイエスの系図になんの疑問も抱かずに来た自分自身の知的怠惰にどうしようもなく驚いたのだ。 「おれは、ここまで、いい加減な人間だったのか」 私は自分の頭を拳で、がんがん、と殴りました。 「マリアの処女懐胎」は生物学的にあり得ないことだが、宗教なんてものを信じる人達には理屈なんて通じない。 しかし、このマタイ伝とルカ伝のこの系図はひどすぎる。 「マリアの処女懐胎」の意味なんてなくなるじゃないか。 「処女懐胎」を認めるんだったら、そこらの女高生が妊娠したも認めてやらんかいっ。 キリスト教徒の皆さんは、この辺のことはどのように理解しておられるのでしょうか。 ヨセフとマリアが結婚して、そのあと数十日も全然性的な交わりを行わずに過ごしたなんて・・・・・・・ まあ、いいや、そう言うことについては人の好き好きがあるからね。(好きずきの問題じゃないっていう意見も今届いた) 「成田離婚」なんて言う例も少なくないという。 しかし、イエスの系図は無理だよ。
- 2009/02/07 - 「シー・シェパード」のテロとオーストラリア政府を許すな「シー・シェパード」はテロリストだ。 信じられないような犯罪を、また、「シー・シェパード」がやってのけた。 まず、2009年2月5日の読売新聞、ネット版の記事を引用させていただく。 シー・シェパードが調査捕鯨妨害、異臭液体入り瓶を投げる 水産庁は5日、反捕鯨団体「シー・シェパード」が、南極海で活動中の日本の調査捕鯨船団に対し、異臭を発する液体の入った瓶を投げつけるなどの妨害活動を行ったと発表した。 妨害を受けたのは、調査捕鯨船「勇新丸」(720トン)など3隻。日本時間の5日、約4時間にわたり、同団体の抗議船から離陸したヘリコプターや同船から降ろされたゴムボート2隻が接近し、勇新丸などに信号弾のようなものを数回発射したり、瓶を投げつけたりした。 「第3勇新丸」(742トン)のスクリューに、投げ入れられたロープが一時絡まったが、航行には影響はないという。3隻の乗組員にけがはなかった。 (2009年2月5日20時07分 読売新聞) 事態は更にひどくなった。 以下のヤフーの記事をご覧ください。 シーシェパード、捕鯨船に体当たり もう、こうなると、「シー・シェパード」は海賊を通り越してテロリストである。 どうして、こう言うことが、国際的に許されるのだ。 日本の、調査船団の乗組員の命が危険にさらさられているのに、 日本政府は何をしているのだ。 日本政府の義務の一つとして、日本人の海外に於ける安全を守ることがあるだろう。 いまや、日本人の調査船団の乗組員の皆さんが、本当に命の危険にさらされているのだ、日本政府はすぐに行動を起こさなければならない。 自衛隊の艦船を送り込むのは当然である。 水産庁の監視船を送り込むのも当然である。 このような、テロ行為を黙って見ていて、なにが日本だ。 自分の国の国民で、しかも、南氷洋まで出かけていって苦労している調査船団の乗組員が命の危険にさらされているというのに、政府が何の対策も取らないとはどう言う訳だ。 こう言う時に、動けないのなら、海上自衛隊など、さっさと解散してしまえ。 「シー・シェパード」を直ちに拿捕せよ。「シー・シェパード」の乗組員の全員を逮捕拘引せよ。 そして、今回の件で、一番責任が重いのはオーストラリア政府である。 「シー・シェパード」がオーストラリアの港を母港とするのを許し、前年既に犯罪を犯し、日本政府から逮捕要請の出ている人間をそのまま「シー・シェパード」に乗せて、「シー・シェパード」が今回このようなテロ行為をするのを許した。 オーストラリア政府の責任は重い。 日本政府が直ちにするべきことは、オーストラリア政府に、次の各項を厳しく要求することである。 「シー・シェパード」に直ちに、日本の調査船団に対するテロ行為を止めるように命令すること。 「シー・シェパード」の乗組員たち、船長を含め今回の行動に加わった人間全てをテロリストとして、重大犯罪人として、日本の司法の裁きに従うように、それらの人間を、日本政府に引渡すこと。 「シー・シェパード」がオーストラリアを母港とした責任をオーストラリア政府がきちんと認め、今回の日本側の受けた損害に対する賠償を直ちに行うこと。 オーストラリア政府は、このテロリスズムを自分たち政府がそそのかしたことであることを認め、日本政府、日本国民に対して、真摯に陳謝すること。 「シー・シェパード」が二度とオーストラリアを母港としないように廃船にすること。 以上の要求は、極めて妥当で穏当な物である。 それを、オーストラリア政府が聞き入れない場合には、日本政府は直ちに、オーストラリアに対して制裁にふみ切るべきである。 その制裁とは、まず、 オーストラリアと日本が今まで結んでいた友好条約を全て凍結すること。(オーストラリア政府が、日本人の生命を危険に陥れたのだから、これは、当然である。そのような国と友好条約を結んでいる意味がない) オーストラリアの産物の輸入を停止すること。特に、ただちに、南オーストラリアからの畜養マグロの輸入を停止すること。(これは、今回の「シー・シェパード」の件がなくてもすぐに行うべきことは以前に述べた)オーストラリア産の牛肉の輸入の停止。オーストラリア産の小麦の輸入の停止。その他、オーストラリア産の製品の輸入停止。 日本がオーストラリアに与えている貿易上の特恵条件を全て廃止する。 以上のことは最低の制裁事項である。 オーストラリアに、20年住んでいる私だからこそ言えることだ。 オーストラリアの不正をたださなければ、日本とオーストラリアの眞の友好関係など成り立たない。 表では笑顔を見せておいて、裏では、日本に対してテロリズムを行う。 このような国は、まともな文明国ではない。 日本政府が、腰抜けなら、日本人はそれに対抗せよ。 オーストラリアに観光旅行などに来るな。 今、オーストラリアドルが安いから、観光に来たいなどという日本人が多いかも知れない。 しかし、今は駄目だ。 オーストラリア人が反省するまで、来てはいけない。 ここまで日本人を馬鹿にし、日本人に対してテロ行為を行っているオーストラリアになんか、遊びに来るな。 世界にはもっといい場所がある。 オーストラリアが反省するまで、当分、相手にするな。 「美味しんぼ」でさんざんオーストラリアを褒めちぎった私が言うのだ。この気持ちを分かって欲しい。 正しい物は正しい。不正な物は不正だ、と言うのが私の主義だ。 私はオーストラリアという国が好きだ。 しかし、今回のことは許すわけにはいかない。 大好きなオーストラリアという国がこんな、不埒で不公正な悪事をなすことが許せないのだ。 当分、私は、オーストラリアと闘う。 読者諸姉諸兄よ、「シー・シェパード」に襲われている調査船団の乗組員の苦しさを自分の身の上に引き受けて欲しい。 私は、心から、調査船団の乗組員の皆さん、そしてそのご家族の皆様に、我々のこれまでの無力を謝罪し、皆さんの力になり励ます努力をすることを誓いたいと思います。 「シー・シェパード」を許すな、オーストラリア政府を許すな。
- 2009/02/03 - 体調最悪なのに 体調最悪。 「美味しんぼ」の「和歌山県篇」の第二話の原稿が中々進まない。 この最悪の体調の時に、他の仕事も始めてしまって、どうにも困っている。 というのは、この日記で、反「嫌中・嫌韓」を書く度に、メールを頂戴するのだが、私の書くことに非常に反感を示す物が多い。 それは構わない。人それぞれ意見は違う物だから。 しかし、反感のメールをお書きになる方が、どうも実に歴史を知らなさすぎることが気に掛かる。 日本の近・現代史をまるで知らない。というか、史実をねじ曲げたり、大事な史実を無視して、日本に都合の良いようなことを言う。 しかも、書いてくることの内容がどれもこれも実に似通っている。 みなさん、何か同じ種本を読んで、それを信じ込んでお書きになっているのではないかと想像される。 とにかく、こんなことも知らずに何を言うんだ、とあきれるほど、史実をふまえず愚かと言うのも可哀想なほどに無残なことを書き立てる。 どうも、これはいけない。 無知な人間を、無知だと決めつけるだけでは、無知な人間は無知のままで少しも世間は良くならない。 ここは、大変面倒だが、日本と中国・韓国に関する、基本的な歴史を分かりやすく書こうと考えた。 ことは、明治維新に入るやいなや始まったので、そこから史実を年表風にまとめて、分かりやすく説明できるようにすることにした。 と、口で言うのは簡単だが、簡単にまとめる、というのは大変なことだと、始めて見て分かった。 しかし、ここは一つ頑張ろうと思う。 自由主義主観、だとか、自虐史観などと言う言葉が、大手を振ってまかり通っている。 そう言うことを言う人は大きな勘違いをしている。 歴史を、一つの「史観」から見るのは間違いだ。 歴史は、史実を一つ一つ丁寧に、探っていって、何が起こったのか第三者が見ても公平に明晰に判断できるように、偏りなく、科学的に記述するべき物だ。 日本が過去に犯した過ちを点検することが自虐的だなんて言う人は、本当に、真実を見すえる勇気のない、心の弱い、根性のない、嘘で身を飾ることを何とも思わない卑怯者だと思う。そう言う人は、自分のしたことに対しても嘘をついて胡麻化す人だろう。 誰だって、自分の国が美しい国であって欲しいと思う。 しかし、過ちを犯さない人間がないように、特に国際関係が絡むとその政治に関わる人間個人個人の善悪とは無関係に、国は過ちを犯す物である。組織の論理、国の論理はおうおうにして個人の善悪の意識を超えて働いてしまい、結果的に間違いを犯すことがある。 その過ちを点検することは大事なことだ。 なぜなら、歴史という物、歴史的過去と言う物は単に過ぎ去ってしまって、忘却の彼方にある物ではなく、実は今、現実に私達の目の前にあり、私達の将来にまで影響を及ぼすからである。 過去を正しく認識することは、これから先を正しく生きることだ。 「嫌中・嫌韓」を唱える人達は、中国人、韓国人が反日だからと言う。 では、どうして、彼らが反日を唱えるのか。 かれらが、反日を唱えるようになった理由を知らずに彼らを非難するのは、公平な態度といえるだろうか。あるいは、自尊心を持った人間のすることだろうか。 さらに、かれらの、「反日」を解消せずに、日本はこれから先将来を生きて行けるのか。 中国、韓国とわだかまりを持ったままで、日本の将来はないだろう。 私は、少なくとも、私の子供たち、私の孫たちの世代に於いては、日本、中国、韓国が手を取り合って生きていって貰いたいと思う。 そうでなければ、日本、中国、韓国の未来は暗い。 日本、中国、韓国の連帯と協力は、アジアの未来、ひいては世界の未来に大きな影響を及ぼすのだ。 わだかまりをとくためには、きちんと過去の歴史を知ることがまず第一歩だ。 嫌中・嫌韓などと言っている人は、そう言いながら一度鏡を見て欲しい。自分が嫌中・嫌韓を唱えているときに、自分がどんな顔をしているか気がついて驚くから。目がつり上がって、険しい顔をしているよ。美容のためには大変に良くないと思いますよ。 美容に良くないことは心にも良くないんだ。 おおっと、「美味しんぼ」が先だ。 何とか、今夜中に、書き上げないと。 反「嫌中・嫌韓」については、ちょっと時間がかかることをお断りしておきます。
- 2009/02/01 - 入れ墨につられて 入れ墨のことを書いたら、読者の方から、メールを頂戴しました。 入れ墨によるC型肝炎の蔓延がひどいと言うことでした。 ああ、私は愚かでしたね。 入れ墨の件ですが、私はやくざの話をそのまま聞いていていて、医学的な考証をしませんでした。 入れ墨の色素が、そんなに長い間、肝臓に悪影響を及ぼし続けるというのはおかしな話だとずっと思っていたのですよ。 そうか、肝炎だったんだ。 B型は進行が早いが、C型は遅い。 あの、全身クリカラモンモンのやくざは、入れ墨の色素ではなく、肝炎のビールスに感染して、肝臓を壊していたんだ。 ううむ、実は数年前にスペインに行ったときに、バルセロナの繁華街で、入れ墨屋が繁盛しているのを見て驚いたんです。 店の待合室に、入れ墨の順番待ちの若い男女が、無数に集まっていて、タトゥーの模様見本の本を熱心に回覧していたんです。 みんな、見た目に美しい男女でした。 特に女性の場合、どうしてこんな美しい女性が肌を汚すようなことをするのか、他人事だから、口出しは無用と分かっていても、一人一人店の外に連れ出して説得したい気持ちにかられました。 しかし、その時一緒にいた長男が「父ちゃん、関係しない方がいいよ。考え方と感覚が、父ちゃんとまるで違うんだ。父ちゃんとは時代が違ってるんだよ」と意見してくれた。 長男の意見は、中々受け入れがたかったが、現実はその通りで、今や、若い人の間で入れ墨はファッションになっている。 ファッションなんだから、いつかは、また消えてなくなることを私は願っている。 それに、如何に電気針で入れ墨をすると言っても、その針の扱い次第で肝炎は伝染するだろう。恐ろしい話である。 私は、谷崎潤一郎という作家が大嫌いだが、嫌いならきちんと全部読まなければいけないと思って全集を買った。(こう言うところが私のおかしなところだ。最近、私は福沢諭吉全集をそろえました。 福沢諭吉を徹底的に批判するためにね) 谷崎潤一郎が、世に出たのは、「刺青」という短編小説である。 これは、若い女性が、入れ墨をされて、それ以来男を自分のサドの対象にすると言う話で、今読んだら実に面白くも何ともない話だが、これを、その当時、一番若くて西洋帰りで、日本の文学の旗手のように思われていた永井荷風が褒め称えたので、谷崎潤一郎は一躍新進作家として認められて、その後も、大作家としての道を歩んだ。 私は非常に卑怯な人間で、他人様が褒め称える作家は、きちんと読んでおかなければ恥ずかしいという恐怖観念に捕らわれている。 その結果、谷崎潤一郎全集も、永井荷風全集もそろえたが、ああ、二つとも、実につまらない。 面白いのは、荷風の日記だけ。 荷風の小説なんて、何が面白いんでしょう。 面白い物は一つもない。 「墨東綺譚」が荷風の生涯の傑作だ、なんて言われると、読んでいて情けなくなる。 日本人の作家というのは、こんなものしか書けないのか。 そして、日本文学界では、こんなものを傑作というのか。 日本人作家は、外国語を読めないのか。 フランス語や、英語で書かれた小説は読んだことがないのか。 私は大学の時に、Camusの「L’étranger」やMarguerite Durasの「Moderato Cantabile」、それにSherwood Andersonの「Winesburg Ohio」、James Joyce の「The Dubliners」などを読んで、文学とはこう言う物かと思い知らされた。 ヘミングウェイの様々な短編小説にも、圧倒された。 それに比べて、日本の文学はひ弱で、情けない泣き言の繰り返しではないか。 日本文学を読んでいる限りでは、井戸端会議で、つまらん人間たちが、全くその先の発展も展望もない愚痴をこぼしているだけか、底の浅い快楽に酔って、その自慢をしている物としか思えない。 あ、入れ墨の話が、日本の文学の話になってしまった。 で、言って置きますが、私がもう熱烈に愛する日本文学と言えば、 「伊勢物語」と「万葉集」だね。 この二つがあるから、私は、自分は日本人だとしっかり思えるんだ。 この二つのことを考えると、体中が、ふるえるよ。 本当に、よくぞ、日本人に生まれけり、と思う。 この二つに対抗出来る文学作品なんて、他に絶対にない。 読んでいなかったら、是非読んでくれ。 特に、「伊勢物語」は何度も何度も声を出して読んでくれよ。 なんと言うか、ああ、人生って美しい物なんだなとおもう。 文章も短く美しい。その短い文章で、人生の深さを残りなく描き出している。読んでいると、恍惚となる。これが、本当の文学だよ。 万葉集は、人生の悲しさ苦しさ楽しさ、その全ては、千年前と少しも違わないと、教えてくれて、その昔の人々が自分の隣に生きていて息をしているように感じるのだ。年に何回か取り出して読む度に涙が流れる。これも、必ず声を出して読んでくれ。 どうも、またまたま、入れ墨から話がはずれてしまったね。 ま、私の頭は、組織だった考えには向いていないんだろう。 かんべんね。
- 2009/01/29 - ニタリ鯨と入れ墨 先日書いた、捕鯨の記事の中で、Bryde’sが何だか分からないと書いたところ、数人の読者の方から、ご親切なご教示を頂きました。 この日記を読んでくださるだけで有り難いのに、こんなご親切なご教示を頂いて、感謝感激です。 ありがとうございます。 他の読者の方にもお教えしたいとと思います。 Bryde’s whaleとはニタリ鯨のことなんだそうです。 ちょっと辞典を引けば、皆さんにご迷惑をおかけしないですんだのに、大変申し訳ありません。 で、他の読者の皆さんの為に、小学館のスーパーニッポニカから、ニタリ鯨の件を下に引用させていただきます。 ■ニタリクジラ Bryde's whale ■Balaenoptera edeni 哺乳(ほにゆう)綱クジラ目ナガスクジラ科のヒゲクジラ。暖海性のクジラで、北緯40度と南緯40度の間の、水温20℃以上の海に広く分布する。イワシクジラの近縁種であるが、吻(ふん)の上面の左右両側に吻端から鼻孔付近にかけて各1条の隆起線があること、畝(うね)が長く先端がへそに達していること、くじらひげが短くて幅が広いこと、ひげ毛が太いことなどで、外形的に区別される。 体長もイワシクジラよりやや小さく、最大14メートルぐらいである。ニタリクジラはかつて南アフリカ沿岸にだけ生息するとされていたが、第二次世界大戦後、小笠原(おがさわら)諸島周辺で発見され、北太平洋にも広く分布することが判明した。国際捕鯨委員会は1970年に捕鯨条約の付表を修正して、本種とイワシクジラを別種として扱うこととした。南アフリカ沿岸では沿岸型と遠洋型の二つの型があり、外形的にも生態的にも、若干の差が認められている。〈大村秀雄〉 だそうです。 私も、さんざん反・反捕鯨に取り組みながら、こんな基本的な知識を欠いていたとは、ああ、恥ずかしい。 恥の極みですね。 皆さんごめんなさい。 話は変わりますが、数日前にイカ釣りの話を書きましたね。 その中で、フェリーの発着する桟橋で、イカ釣りをしたことを書いたんだが、その際に書き忘れたことがあったので、ちょいと書きます。 いや、その、フェリーに乗り降りする人間が凄いんだ。 何が凄いって、今の季節、オーストラリアは夏で暑いからたいていの人が、半袖やら、タンクトップ姿だ。 それはいい。 それはいいんだが、その中の多くの人が入れ墨をしているんだよ。 タトゥーと言うんだね。 しかし、入れ墨は入れ墨だよ。 18、9の若い女性から、60代の汚らしい男まで、実に様々な人間が、色々な入れ墨を入れている。 本当に驚いた。 特に、若くて肌も白くてプチプチした魅力的な女性が、入れ墨をしているのを見ると、腰が抜けるほど驚く。 折角の美しい肌を、どうして、そんな汚い物にしてしまうんだ。 もう、取り返しがつかないんだよ。 先月だったか、矢張り、シドニーで、大変に美しい若い女性の、タンクトップで露出している背中の肩胛骨のあたりが白くギザギザしている部分があるのに眼がついた。 息子に聞くと、それは、入れ墨をレーザーで焼いた痕だという。 我々の推測では、若い女性は、惚れた男の名前など入れ墨をしてしまったのだが、不仲になって別れてしまって、その名前を自分の背中に残すわけにも行かず、レーザで消したのだろうと言うことに収まった。その醜さ、汚らしさといったらなかったね。 昔、ハワイでは、税関で入れ墨のある人間はやくざ関係とみなされて入国を拒否されたと言うことを聞いたことがある。 今、オーストラリアのフェリーの乗り場だけでこれだけ入れ墨をしている人間を大勢見る時代になると、日本のやくざも大手を振ってハワイに行けるだろう。 良かったね、日本のやくざたちよ。 以前、茶髪・金髪について書いたらすさまじい反発を食らって、それ以来、若い人達の趣味については何も言わないことにした。 だから、入れ墨についても何も言わない。したければどんどんするがいいさ。 昔、東大の五月祭では、医学部の展示場で、入れ墨を展示した。 これは、入れ墨をした人間が死んだあと、医学部でその背中の皮をはいで、板に張り付けたのを、何枚も展示した物である。実に、気持ちの悪いものだった。 今は、多分、人権問題などで展示しないのではないだろうか。 特に最近、若い女性の間で、短いTシャツを着て、その下のジーパンとの間に出来る腰の隙間に入れ墨をするのがはやっているようだ。 私は何も言いたくない。 ただ、なんて勿体無いことをするんだろう、とだけ言いたい。 ある、やくざで、全身に彫り物を入れている男から聞いた話なんだが、入れ墨というのはとても肝臓に悪いそうだ。 あの、入れ墨の色素が、肝臓に回って肝臓の機能低下させる。 そのやくざも、酒も飲めず、実に不健康だった。 入れ墨を入れる前はそんなことはなかった。入れ墨を入れたやくざ者はみんなこうなるよ、と言っていた。 だから、入れ墨をしているやくざは、見た目は格好がいいが、喧嘩は弱いのだそうだ。体力がないからね。 で、分かりましたね。入れ墨なんかで体を飾っているやくざは、相手にして怖くないって。 それ以来、とても、役に立ちました。 半袖の下に入れ墨が見えるようなやくざは、徹底的にからかっていじめてやることにした。 私の方が強いもん。 でも、気をつけなければいけないのは、そう言う弱いやくざに限って刃物を持ち歩くと言うこと。 やくざと入れ墨と刃物、その三つを天秤にかけて、いじめて遊ぶことだね。 あ、私の言いたいことはこんなことではなかった。 美しい肌の若い女性よ、頼むから、入れ墨だけはしないで。 玉の肌というでしょう。 折角の美しい肌を、薄汚い模様の入れ墨で汚さないで。 なんて、また余計なことを言うな、と文句が沢山来るだろうな。
- 2009/01/28 - IWC(国際捕鯨委員会)でのオーストラリアの態度の変化 2009年1月27日の「Sydney Morning Herald」の第1面に、でかでかと、「捕鯨についての秘密取引が明らかになった」という記事が出た。 オーストラリアが、日本に捕鯨の数を増やすのを許す話し合いに入った、と言うのである。 記事によると、IWC秘密部会で、オーストラリア、日本、アメリカ、スウェーデン、ブラジル、ニュー・ジー・ランドで、取り決められつつあると言う。 その内容は、シドニー・モーニング・ヘラルドによれば、 第一案 南半球の海洋での、ザトウクジラとナガスクジラの禁漁 五年間の日本の科学捕鯨の撤退 西北太平洋における、イワシ鯨、Bryde's(これがどうしても、辞書を引いても分からない言葉なのだ。鯨の種類らしい。お分かりになる方のご教示をお願いします)、マッコウクジラの漁獲量の増大 第二案 南極海における、持続可能な量のミンク鯨とナガスクジラの漁 西北太平洋における、ミンク鯨、イワシ鯨、Byder's、マッコウクジラの漁獲量の増大 と言う案が、起草されつつあるという。 この案を起草している国の中に、オーストラリアが入っているというのでさあ大変だ。 オーストラリアの環境大臣、ロックスターのピーター・ギャレットも総理大臣のラッドも許さないと騒いでる。 当然ことながら、「シー・シェパード」は「鯨を捕ることは一匹も許さない」と喚いている。 こうなったのも、IWCの会長、アメリカ人の、ウィリアム・ホーガンが捕鯨賛成国・反対国の間を何とか取り結ぼうとした結果だという。 これは、ちょっと私には俄には信じがたい。 そもそも、IWCで日本の捕鯨を非難し、日本人は捕鯨をする野蛮国だと騒ぎ回ったのがアメリカではないか。 そのアメリカが、どうして、我を日本人にはとうてい充分ではないとは言え、すこしでも妥協的な方向に踏み出したのか。 ついでに、IWCの2007年10月現在の加盟国を記すと、下記のとおりである。 「アンティグア・バーブーダ、アルゼンチン、豪、オーストリア、ベルギー、ベリーズ、ベナン、ブラジル、カンボジア、カメルーン、チリ、中国、コスタリカ、コートジボワール、クロアチア、キプロス、チェコ、デンマーク、ドミニカ国、エクアドル、フィンランド、フランス、ガボン、ガンビア、ドイツ、ギリシャ、グレナダ、グアテマラ、ギニア、ギニアビサウ、ハンガリー、アイスランド、インド、アイルランド、イスラエル、イタリア、日本、ケニア、キリバス、韓国、ラオス、ルクセンブルグ、マリ、マーシャル、モーリタニア、メキシコ、モナコ、モンゴル、モロッコ、ナウル、オランダ、ニュージーランド、ニカラグア、ノルウェー、オマーン、パラオ、パナマ、ペルー、ポルトガル、ロシア、セントクリストファー・ネービス、セントルシア、セントビンセント・グレナディーン、サンマリノ、セネガル、スロバキア、スロベニア、ソロモン、南アフリカ、スペイン、スリナム、スウェーデン、スイス、トーゴ、ツバル、英国、ウルグアイ、米国」 全部で78ヶ国あるが、この中で実際に捕鯨に関わっている国はいったいいくつあると思いますか。 モンゴルが捕鯨をしますか。朝青龍に聞いてみたい。 チェコやスロバキアで捕鯨が出来ますか。マリで捕鯨が出来ますか。 そんなことを言ったら、アンティグア・バーブーダ、ガボン、ガンビア、セントクリストファー、ベリーズ、ベナン、ネービス、スリナム、セントルシア、セントビンセント、ソロモン、トーゴ、なんてよほどの地理通でなければ知らない国でしょう。 全て捕鯨とは関係のない国です。 それでも、アメリカの圧力でIWCに入り、なんと、評決の際には日本と同じ効力のある一票を獲得するんですよ。 ひどい国になると、その国のIWC委員がアメリカ人なんてこともあった。なんで、そんな国の一票が、我々日本一票と同じなんだ。そんな下らない票数のせいで日本はこれまでIWCでアメリカとオーストラリアの言うなりになってきたんだ。何で捕鯨と関係ないモンゴルや、チェコやスロバキアがIWCに入って来るんだ。死ぬまで鯨なんか見ることもない国民なのに。 それに反して、カナダ、台湾、ベトナム、マレーシアなどの漁業大国が加入していない。 もう、IWCなんて、およそ民主主義とは関係のないアメリカ・オーストラリア主導の、捕鯨カルトの集団なんです。私は、ずいぶん前から、IWCから脱退しろと主張している。 IWCから脱退しても、日本は失う物は何も無い。日本がIWCに加入しているのは、アメリカべったりの従属的外交政策のせいだ。日本政府が、自主的に行動する力をアメリカに奪われているからだ。日本はアメリカの奴隷か。 しかし、現在の、日本のIWC代表はきちんとしたことを言っているようだ。それで、そのIWCも流石に最近の日本の断固たる態度に、何とかしなければならないと考えたらしい。 それが、今度の妥協案だ。 しかし、こんな物で、日本は満足してはいけない。 連中に勘違いしも貰いたくないのは、私達が言っているのは、「鯨を沢山捕りたい」というのではないことだ。「鯨が羊や牛や鶏や普通の魚とどう違うのか」と言うことだ。哲学的な問題を問うているのだ。 あの連中の卑しさと一緒にしないでくれ。 きちんと、生息数を減らさないように科学的に計算して捕獲すれば何の問題もないではないかと言っているのだ。 私達は、むかし、散々鯨を殺しまくったアメリカ人、オーストラリア人、ヨーロッパ人が、突然最近になって持ち始めた、鯨信仰がおかしいのではないかと言っているのだ。 人間が、生きとし生けるものを食べなければ一日も生きて行けない罪深い動物であることを忘れて、鯨を殺すことだけを罪だとののしるその無知きわまりない、我々日本人に対する偏見を改めろと言っているのである。 勘違いしないでくれよ。我々は、鯨を特に食べたいわけではない。(いや、鯨は美味しいから食べたいけれど) 私達が主張しているのは、アメリカ人、オーストラリア人の、めちゃくちゃな鯨カルトはやめてくれと言っているのだ。 その、最低なカルトゆえに、日本人にあらぬ非難を浴びせるなと言っているのだ。 自分たちが今までにどれだけ鯨を殺してきたか、その反省もなく、我々日本人を動物迫害の自然破壊の卑しい人種であると非難することだけは許さないと言っているのだ。 アメリカ人よ、オーストラリア人よ、自分たちがどれだけ非人道的なことをしてきたか、少しは反省したらどうだ。 我々、日本人は、鯨を根絶やしにしようなどとは思っていない。 普通の漁業と同じに、鯨漁をしたいと言っているだけなのだ。 こう言う理性的な話が通じない人間は、鯨以下の脳の持ち主と認めざるを得ない。 今回の妥協案が、更に進んで、鯨漁の完全な解禁になることを私は求める。 何度も繰り返すが、鯨を闇雲にとって、殺し尽くすことなど愚の骨頂である。ただ、鯨の数を減らすことのない程度の漁獲は許されるべきだと言っているのだ。 鯨に、余計なカルトを持込むな。
- 2009/01/25 - 「日本全県味巡り 和歌山県篇」出発進行 出だしが上手く行かなくて四苦八苦していた「美味しんぼ」の「和歌山県篇」やっと、とっかかりが見つかって、上手く進行できるようになった。 締切りよりだいぶ遅れてしまったが、パンツのゴムと締切りは伸ばせば伸びる、と言う固い信念の男でありますので、(担当編集者はここの部分を読まないように)何とか切り抜けるつもりです。 しかし、取材記録を見返すと、日本は凄い国だと改めてつくづく思う。 実に実直に真面目に働いている人が多い。 そして、それぞれが伝統の文化を維持している。 有り難いことだと思う。 東京などにいて、日本がいやになった、なんて思う人がいたら和歌山県でも、青森県でも、どこでもいいから地方へ行ってご覧なさい。 日本人の本当の素晴らしさを、しっかりと掴むことが出来るから。 私は自分で熱烈なる愛国者だと思っているが、これは、何か高等なイデオロギーが有っての物ではない。 日本の美しい山や森を見ると心がしびれる、などという、単純なる郷土愛だ。 自分で言うのも何だが、愛国心なんて物は、このような単純な郷土愛程度のものが一番いい。 へんてこなるイデオロギーをくっつけると、厄介になる。 国威発揚とか、外国人排斥とか、外人嫌いとか、領土を拡張しろとか、国を守る気概を持てとか、いやらしいものになる。 和歌山県も、本当に良かった。 「美味しんぼ」であるから、全ては食べ物絡みの話になってしまうのだが、だからこそ、余計にその土地の人間の良さが現われて来るのである。 これが、もっと実際の生活とかけ離れた主題で各県を取材したらこんなに、人々の生活の真実を掴むことは出来ないだろう。 そう言う意味で、「日本全県味巡り」は実に有り難い。 食べることというのは人間存在の根源である。 その、食べ物を通して人々に接すると言うことは、嘘偽りのない人間の姿を見ることが出来ることである。 この「日本全県味巡り」の取材をしていて、良く尋ねられるのが、「どうやって、こんな物を漫画にするんですか」という質問だ。 ううむ、それは、私にも分からない。 しかし、これまで8つの県を漫画で紹介してきた。 和歌山県も、上手く行くだろう。 ところで、今回の取材スタッフを紹介しよう。 今回の取材の最終日、解散前に撮った写真だ。 ここに写っているのは8人だけだが、実際に各取材先に行くときには案内の人がついて来てくれる。 常に10人以上の人間で取材して歩いているのだ。 私の右にいるのが、和歌山県庁の仲さんと山下さん。 漫画の第一回に登場しますよ。 私の左にいるのが、もう長い間、日本全県味巡りを担当してくれているライターの安井洋子さん。彼女の作ってくれる資料がなかったら、日本全県味巡りは書けない。 その左の若い女性が、カメラマンのアシスタントの伊藤さん。 安井さんは大変に厳しくて、ある県で、私がある店を漫画に取り上げたところ、「どうしてあんな店を漫画に書いたんですか」と猛然と抗議された。それには困った。 美人なので、どこに行っても、大変にもてる。 おかげで取材が実に円滑に進む。ある県では「凄い美人さんが来てくれた」と大騒ぎになったことがある。村人たちが次々に安井さんを見にくるのである。 右から二人目が、カメラマンの安井さん。 ライターとカメラマンが同じ安井という名字なので、時に困ることがある。 いちいち、「ライターの安井さん」とか「カメラマン安井さん」などと言わないと私が誰に話しかけたいのか分からないときがある。 左端にいるのが私の甥の真中。この真中が、一月以上かけて、私の取材先を先行取材して、私が取材する意味のある場所を選択する。 真中がいないと、何も始まらない。 一番右にいるのが私の長男。ビデオ撮影担当である。 本来は陶芸家なのだが、陶芸家は自分で時間を作ることが出来るので、私の取材に協力してくれるのである。 もう、最高のスタッフである。 このスタッフあればこその「日本全県味巡り」なのである。 おっと、担当の編集者を忘れてはいけないな。 今回、最終日には、雑誌の締切りがあって、東京に帰ってしまったが、彼の努力がなければ、これだけの取材陣を動かすことは出来ない。 さあ、スタッフの努力を実らせるために、和歌山県篇、面白い漫画にするぞ。 (写真はクリックすると大きくなります)
- 2009/01/23 - 和歌山県篇で苦しんでいます いやはや、もう死にそうだ。 何がと仰言いますか。 もう大変なんですから。(こんな、冗談、林家三平を知らない人間には面白くもなんともないね。今の、林家三平の息子、林家正蔵はこんなことを言いませんよ。ここで、落語論をぶちたいんだけれど、大体私が何か論じると、不快になる人間の数が圧倒的に多くなるという実績があるので、ここはあえて、三平の息子については語らない。天才の息子は何を語られても困るだけだろうと思うからだ) 何が、大変かというと、「美味しんぼ」の「日本全県味巡り」の「和歌山県篇」を今書いているのだが、まあ、これが実に凄いんだ。 最初から、和歌山県に取り組むのは大変だと分かっていましたよ。 異常な土地の構成だし(山と海が分け隔てなく合体している。これだけで、大変だよ)、それに加えて、日本の最大宗教者・弘法大師が今でも、生きているところなんだ。 皆さん、信じられないかも知れませんが、弘法大師は今でも生きているんですよ。 毎日、食事を運んでいます。46億5千万年後に弥勒菩薩として生まれ変わってくるまで御大師様はあの奥の院で生きておられるのです。 御大師様は別にして、和歌山県は険しい山にすぐに海が接している。 こんな難しい土地は、今までに、「日本全県味巡り」で取り上げたことがない。 取材を重ねた結果、スタッフのみんなに集めて貰った文章の記録、写真、ビデオ、その全てを見直して、こんなものどうやって漫画にすればいいんだ、と気が狂いそうになっている。 今までも、ずいぶん難しい県を相手に「日本全県味巡り」を書いてきたが、今回ばかりは難しすぎる。 弘法大師のことなんだが、これは、すごい。 日本全国に、弘法大師伝説が8000以上もあるという。 その、弘法大師伝説を集めた人が言うのには、殆どが同じ状況で同じ傾向の救いを与えているので、その弘法大師伝説の神髄を集めたら、せいぜい数十にしかならないのではないかと言うことだった。 まあ、それは、充分に考えられることであって、今と違って昔の地下水さえも充分に掘り出せないときに、弘法大師が、「杖でさして、ここを掘れ」と言ったら、そこから水が湧いてきた、という典型的な弘法大師伝説は、素晴らしい力を持っていたのだと思う。 私自身は、全くの反宗教論者だが、そのような効果があるとなるとまんざら全部否定することもないのかなと思ってしまうが、福沢諭吉のあの醜悪な帝室論・尊王論を読むと、そのような便宜上役に立つと思っていた物に、結果的には自分自身が縛られて最悪の思想家になってしまったという無惨な例を見てしまうから、安易に、「新年の、お宮参りならいいでしょう」とは簡単に言うべきではないと思うのだ。 日本の最高額の紙幣の顔である福沢諭吉に対して、言いたいことが沢山あるが、(顔つきがとても卑しいと言うことから始まって)それは、今日はやめにして、私自身が「美味しんぼ」の「日本全県味巡り」の和歌山県篇で四苦八苦して、殆ど死にそうになっていることを、どうも、下品だけれど、読者諸姉諸兄に泣きつきたい、とこう言う訳なんですよ。 「美味しんぼ」は私にとってはとても大事な漫画だ。 でも、それを書くのは、はああああ、辛い。 全て、実際の現実しか書かないと言う、自分の法律が自分を苦しめる。 想像だけで、書ければ、楽なんだけれどね。 と書いていて、ふと、思ったんだけれど、想像だけで食べ物漫画を書いたら面白いんじゃないか。 私は、もう、そんなことは出来ないが、これから食べ物に関する漫画を書こうと思っている人間にとって、現実離れした食べ物を書くのも漫画としては面白いんじゃないのか、と思う。 でも、そんな漫画はとても迷惑だけれど。 ああ、これから、また仕事だ。 「美味しんぼ」を書くのは私にとって、最高の喜びであると同時に最高の苦しみなんです。 でも、頑張ります。頑張りますとも!
- 2009/01/21 - イカ釣りの報告 イカ釣りの報告 今日は、朝四時半に起きて、六時から、船を出してイカ釣りに行きました。 いやあ、今日は、シドニーの夏でも一番暑い日で、釣りなんかするのには最低の日だった。 がんがん、日が照って、たっぷり日焼け止めを塗ったのだが、そんな日焼け止めの効くような日差しではないのだよ。シドニーの日差しは。 なんと言っても、オゾン層の破壊の一番の被害を受けているのがオーストラリアですから。これは、すさまじい物です。 それに加えて、潮の具合が悪く、実に低調な釣果だった。 もう一つ、船頭との打ち合わせが悪く、船頭は私達がヒラマサを釣るための餌としてイカを釣る物だと決め込んでいた。 私達は、ヒラマサなんかに興味はない。 イカなんだ。イカが美味しいから欲しいんだ。 だから、イカだけ釣りたい、と言うのに船頭には通じない。 長男が言うには、オーストラリア人と魚の味の話をしても全く通じない、無意味なんだと。 ヒラマサは、こちらではキング・フィッシュという。何だか名前だけでえらくありがたがる傾向があるようだ。 日本のヒラマサに比べると、脂がのっていなくて、私なんかには全く興味のない魚なんだよ。 それなのに、船頭はせっかく釣ったイカのげそと頭の部分を餌にしてヒラマサに挑んで、我々に、「ほら、ヒラマサがかかった、釣れ」と言って竿を渡す。 長男と次男は、かかったキング・フィッシュ相手に大格闘。 我々からすれば見事なヒラマサを二人とも釣った。 しかし、シドニーでは釣った魚の大きさの制限が厳しく、ヒラマサは65センチ以下はその場で放さなければならないという規則がある。 何匹かヒラマサがかかって、その都度、長男次男は「凄い引きだ」と興奮していたが、残念ながら全てのヒラマサが65センチ以下で、その場で放さなければならなかった。 日本でもそうだが、どこの国でも漁師というのは頑固である。 自分の釣りたい魚、あるいは、客に釣らせたいと自分で思いこんでいる魚に異常に入れ込む。 私達は、イカしか興味がない、と言っても承服しない。 どうしても、ヒラマサを釣らせないと気が済まないらしい。 近くの漁師に、私達の船頭が、「今日は、イカ専門だと言うんだよ。どうも、いつもと違うんだ」と愚痴を大声でこぼしているのを聞いた。 そんな大声で愚痴をこぼす奴がいるのかよ、とあきれましたがね。 途中で、次男が船酔いのために、一時、陸地に避難した。 船酔いになると、とにかく堅い地面に落ち着かないとどうしようもない。 その次男の避難に時間がかかって、しかも、潮の具合が引き潮からそのまま止まると言う最低の状況になってしまい、朝6時から午後1時近くまで必死に釣って、6匹ほどしか釣れなかった。 こちらのイカ釣りは、日本と違って、極めて浅瀬で釣る。 海草の生えている付近にイカが潜んでいるので、そのあたりにルアーを落とす。 おお、なんと、そのルアーが全部日本製なんですよ。 釣り道具屋に行くと、並んでいる見事な釣り道具は、リールから仕掛けから全て日本製だ。 使い方が日本語で書かれているのでとても便利だ。 でも、日本語の読めないオーストラリア人はどうしているのかね。 私も、日本製のイカ用のルアーを買いました。 しかし、ルアーが日本製でも、今日の天候にはあってはどうしようもない。 日焼けもひどく、家にたどり着いたときには疲労困憊。 それでも、夕食には、釣ってきたイカで、イカどんぶりを食べられて、母も、連れ合いも、娘たちも、大満足。 こういう釣りなら大歓迎、と言うことになった。 で、折角のイカ釣りを写真でお見せしようと思ったが、ああ、なんと言うこと、写真は全て失敗だった。 NikonのD3にメモリーカードを入れ忘れたのである。 Nikonはなんと言う親切な会社であろうか。 メモリーがなくても、「デモモード」という形で、一応写ったように見せてくれるのである。 で、それでいい気になって、と言うより、画面の「デモモード」という指示を見ずにどんどん写したつもりで、ぜんぜん後には残っていなかったのである。 こう言う「デモモード」なんて、迷惑の限りだ。 私のように、メモリーカードを入れ忘れる人間もいるのだから、こんな余計な親切は、全く迷惑そのものだ。 そう言うわけで、折角の、イカ釣りの写真をお見せできない。 ああ、残念だ。 でも、釣りはいいね。 気分がすっきりする。 釣りをしている間は、余計なことを何も考えずにすむ。 これからも、どんどん釣りに行こう。
- 2009/01/19 - イカを釣りに行きました 今日は、午後から、長男とイカ釣りに出かけた。 長男は昨年の末からイカ漁でよい成績を上げていて、このイカがもう、素晴らしく美味しいので、どうしても私も釣りたい、と言って、今日長男に連れて行って貰ったのだ。 場所は、私達の家からは、ハーバーブリッジを越えた、市の中心部に近く、シドニー最高の住宅地と言われている、Vaucluseの先、Watson’s Bayと言う港の船着き場である。 ちょうど、シドニー湾の北側の出口付近である。 ここで、最近長男はよい成績を上げていると言うので、そこに出かけた。 船着き場であるから、海に向かって、木の突堤があって釣りには非常に便利なのだが、船着き場だけあって、ちょこちょことフェリーが何種類もやってくる。 そのたびに、釣りは中止だ。 おまけに、やたらと人が多く、私がイカ釣りのルアーを投げると、そばにいる娘さんたちが、「今投げた魚は何なの」と聞いてくる。 仕方がないから、ルアーを引き上げて、娘さんたちに見せて「ほらね、人工の物なんだよ。エビなんかに形が似ているでしょう。それで、イカがおびき寄せられてくるのを引っかけて釣るんだよ」などと説明してやらなければならない。 どこの国でも同じことだと思うが、若い女性が魚釣りに持っている知識は果てしなく低い。 どうせ、説明したったしょうがないだろうなと思いながら、それでも、私が、いちいち説明するのは、生きている魚をえさに投げていると思われては、私の釣り人としての腕を疑われることになるからだ。(動物愛護なんてことは、絶対に考えません) ルアーです、正しくは英語で、lure(そのものの魅力でもって誘惑して引きつけると言う意味)です。 最近のルアーは素晴らしい出来で、柔らかいプラスティックで作られていて、本当にこれはエビだろうとしか思えないものばかりだ。 本物のエビとの違いは、そのしっぽに、悪逆な逆さに生えた針を二重に装備していることだ。 善意のイカくんが、うっかり「あ、これは旨そうなエビだ」などと抱きついたが最後、その二重の針がイカの体に刺さって、イカは逃れようなく、私達の手中に落ちるという仕組みになっている。 私も、シドニーに来てきから、色々と釣りをしました。 鯛、アジ、黒鯛、ヒラマサ、カンパチ、など色々釣りましたが、なんと言っても食べて美味しいのは、イカです。 もう、釣ったその場で活け締めにしたイカは、その味がまるで違います。 ここ数ヶ月、長男が、美味しいイカを釣ってきて、しかもそれを釣った其の場で活け締めにしているので、もう、その旨いことと言ったら例えようがない。 凄いんだ。 いや、こんなに美味しいイカ素麺なんか、北海道でも食べたことがない。 と言うほどの旨さなんだ。 で、とうとう今日は、私も出漁しました。 凄かったよ、一匹の大きなあおりイカを住みかの海草の群れから外におびき出したんだ。 もうすこしで、私の、ルアーに食付くと言うところまで来たのに、そのイカはえらく用心深い。 なかなか、食い付かない。 水が澄んでいるし、海草までの水深が浅いので上から見えるんですよ。 もう、私のルアーに、早くしがみついてくれと、釣糸を揺らして誘惑するんだがイカは極めて慎重。 そこで、一旦糸を引き上げて、同じポイントに、ルアーを落とし込んだ。 普通なら、それで食込んでくるはずなのに、そのイカはどうも、非常にすれているらしい。 自分の体を、私の、投げたルアーにすり寄せるが、脚からがっきと抱え寄せることがない。それでなければ、イカは釣れない。 これは、このルアーが、イカさんの気にいらないんだろうと長男に助けを求めて、別のルアーに変えてみたけれど、今度はもう全く反応なし。 長男の言うところによると、「あの海草の群れの中にイカの三兄弟が住んでいて、とにかく奴らはすれているんだよ。」 と言うことである。そんな、イカの三兄弟なんてものがあるのかよ。 なんだか、長男の言うことは、イカ伝説みたいな、神秘の領域に入っているが、私は、もう、目の前で今にもルアーに引っかかりそうになって、そっぽを向いてしまった、イカのことが忘れられない。 四時間以上、その船着き場に陣取っていて、私は、一匹も釣れず。 長男は小さいアオリイカを二匹釣った。 時間が来たので家に帰った。 その途中、どうしても、私はイカを釣らないと気持ちが収まらないので、長男に協力しろと迫った。 長男は明明後日から、大学の仕事が入っているから、明後日が最後の日だという。 よし、あさって、もう一度イカ釣りに挑戦して、大きなイカを何匹も釣ってみせるぞ。付き合えと強要した。 釣りの途中に連れ合いから電話がかかってきた。 「どれだけ釣れているの。」 釣れているわけがないという、先入観の下の電話だ。 長男が、小さいけれど、二匹釣ったといったら、連れ合いはえらく興奮した。 「すごいじゃない!」 そこで、長男は、「小さいイカだから家族八人が、刺身にしては食べられない。イタリア風に炒めて食べるしかない」と言ったが、それだけで、連れ合いは大満足。 六時過ぎまで頑張ったが、もうどうにも釣れないので、竿をたたんだ。 おなじ突堤に、イタリア人、日本人、レバノン人、大勢釣りに来ていたが、小さいとは言え、イカ二匹の収穫を持って帰ったのは私達だけだ。 家に帰って、早速長男が、釣った二匹のアオリイカをイタリア料理風に調理した。 まあ、これが、最高。めちゃくちゃに旨い。 鎌倉の母も、大喜び。 長男は、祖母孝行を果たして、鼻高々。 イカの味を美味しく味わうためには、釣ったら其の場ですぐ、締めること。 活け締めだ。 これを忘れると、イカの本来の味が味わえず、イカ臭い、おかしなにおいがする。 しかし、日本人の大半は、そのおかしな臭いをイカ本来のにおいと思いこんでいる。 冗談じゃない。イカはイカ臭い物ではないんだ。イカ臭さは、死んだ後のイカの体が腐敗を初めて発生する臭みだ。釣ったらすぐに締めないと、イカは死んでもその体は新陳代謝を続ける。その新陳代謝がイカをイカ臭くする。その新陳代謝を止めるためには、すぐに、締めなければならない。 イカは釣ったらすぐに締める。 これだけで、イカの価値が、数千倍までに上がる。 この季節、イカ釣りに行く人は多いと思うが、釣ったら、その場でイカを締めることを忘れないようにお願いしたい。 これを、実行して欲しい。 そうすれば、今まで食べていたいかは何だったのがと言う恐ろしい話になる。 今日、私は、大きなイカを釣ることができなかった。 で、長男に頼んで、明後日、もう一度、今度は船を仕立ててイカ釣りに行こうと言うことになった。 そのてん末は、また、報告します。 とにかく、でかいイカを釣りたいよおーっ!
- 2009/01/18 - NHKの主題曲は良いのが多い(ちょっと時期がずれましたが、今年の我が家のおせちを「雁屋哲の食卓」にのせました。) 昔から思っているんだが、NHKの番組の音楽には良い物が多い。 主題曲と言うのか、その番組の最初、途中、終わり、などに挿入される音楽がよい。 まだ、テレビなどなく、ラジオが一番の娯楽だった頃は考えてみると大変に良かった。 きちんとしたオーディオ装置で音楽を聴くときにはスピーカーの正面の良い位置に座り、耳の周りに音の干渉になるような物がないように気をつけなければならないが、ラジオの音を聞く分には、聞こえればよいと言う気楽さがあったから、家族が、ラジオの音の届く範囲にはいるが、てんでんばらばらに何をしても良かった。 本や新聞を読みながら、アイロンを掛けながら、ちゃぶ台で学校の宿題をしながら、聞いて楽しめた。 テレビになってから、その生活様式が一変した。 みんなテレビの前に集って、テレビの画面を注視しなければならない。お茶を飲んだり、お菓子を食べたりする分にはよいが、本や新聞は読めないね。(というと、反対の声あり、テレビを見ながら、新聞や本も読むし宿題もする人間は多いという。) たしかに、食卓の近くにテレビを持込んでいる家は多くて、そう言う家ではテレビを見ながら食事をする。 吾が輩、それには大いに異議あり。 それじゃ、食べ物の味がわからねえんんじゃねえのけえ。 第一、食事中に家族会話という物が成立しない、家族団らんにな らないではないか。 したがって、我が家は、食卓の周りにテレビは置いていない。 テレビを見ながら食事をするなどと言う下卑たことは絶対に許さない。 ただ一つの例外として、大相撲の時だけ隣室のテレビを付けておいて、扉の隙間からちょろちょろ見ていて、ここぞという取組みの時には、家族そろって、わっと言って飛び出してテレビの前に陣取る。 まあ、これなら、行儀は悪いが家族団らんの妨げにはならない。 ま、それはともかく、私は子供の頃胃腸が弱く(今でも弱いが)前の晩食べ過ぎると翌日気持ちが悪くなって学校を休むことが良くあった。 その気分の悪さも、昼ご飯近くなると治る。 そこで、母が前の晩のご飯を蒸かし直して持って来てくれる。(今のような、保温ジャーなんかない頃だ。前の晩は冷たいまま食べるか、ふかして食べるかどちらかだった。個人的には、保温ジャーで暖め続けたご飯は非常にまずいと思う。一旦冷えたご飯をもう一度蒸気でふかした方が絶対に美味しい) なんせ、胃の具合が悪いのだから、おかずは卵焼きくらいの物である。 その時に、NHKの第一放送から「昼の憩い」の番組が流れ始める。 その、主題曲、また、途中で、地方の通信員からのお便りの時に流れる曲、これが、素晴らしく良い曲だ。 なんと、最近聞いたら、同じ番組が続いていて、主題曲まで同じだった。 あれは、昭和の二十年代に始まった番組だから、もう六十年以上続いている。 「ジャーン、ジャラ・ラ・ラ・ラ・ラ・ラー、ラ・ラ・ラ、ラ・ラ・ラー、ラ・ラ・ラ、ラ・ラ・ラー」(音符で書けばよいのにね。でも、あの曲を知っている人はこれだけで分かると思う) と言う曲を聴くと、あまりの懐かしさに文字通り胸締め付けられる思いがする。 蒸かしご飯と卵焼き、その味が舌の上によみがえってきて、母の声が耳元で聞こえるような気がする。 どうか、あの番組は未来永劫、NHKがある限り続けて欲しい。 今、関東地方を中心に放送されている「小さな旅」の主題曲もいいねえ。 あれは一度、歌詞を付けて誰か女性歌手が歌ったが、歌としては成功しなかったようだ。 しかし、あの曲はいい。 関東の思わぬ小さな町や村を訪ねるという趣向も良いし、それに合わせて流れるあの主題曲が、妙に懐かしさをかき立てる。 「新・日本紀行」の主題曲も素晴らしい。 最近、「新・日本紀行」再訪、と言う番組を放送しているが、そこでもあの主題曲が流れている。 番組の内容は、三十年ほど前に「新・日本紀行」で訪ねた場所を再訪するという物だが(場合によっては、「日本紀行」のフィルムも流れる、三十年で日本はこれほど変わるかと愕然とさせられることが多い。 それはともかく、あの主題曲は素晴らしい。 一頃大当たりしたのが、「プロジェクトX」の主題曲だ。 カラオケで、おじさんたちが、熱唱していたもんね。 あの番組は、日本が経済成長を続けていた頃の賛歌であり、もう、今となってはあんなことがもう一度起こるとは思えない、と言う悲しみをかき立てる番組でもあった。 団塊の世代のおじさんたちは、涙なくしてあの番組を見られなかったのでないか。 団塊の世代を徹底的に馬鹿にしている、今の三十代・四十代の人間は、「プロジェクトX」に対しても批判的だった。 しかし、日本も無惨なことになった物だ。 四十代、三十代、二十代、十代、と年齢が若くなるにつれて、日本の失敗と、没落しか経験できない世の中になった。 こんな社会にしたのは、団塊の世代の責任だ、と言われれば、その通りだが、団塊の世代が食うや食わずの時代から必死に働いて日本の経済の発展を支えたのだ。 確かに今の日本の経済はどん底だが、戦後のがれきの山しかなかった時代に戻ったと思って、はい上がる努力を続けて欲しい。 いや、NHKの番組の音楽の話だった。 「今日の料理」の主題曲も長く続いているねえ。 あの曲を聴くと、ちょっと心が弾むね。 出て来る料理の先生の大半が女性であることがいいな。 細やかな機転の利いた料理を作る人が多い。 男の視点と違うところがあるし、料理屋風でなく、あくまでも家庭の料理という感じなのが大変に良い。 NHKも自民党の政治家の圧力で番組の内容を変えたり、(当然、自民党の政治家は、そんな圧力を掛けた覚えはない、と言う。彼らに何を言っても蛙の面にションベンだ。)問題は多いが、それでも自然の姿を記録した番組や、海外の紀行番組など、非常によい番組が少なくない。 最近出色番組だと思ったのは「世界ふれあい街歩き」という番組だ。 海外取材番組というと、NHKでも、もちろん民法でも、リポーターという人間が、道案内をする。 このリポーターというのが、実に騒々しい。うるさい、黙っていてくれ。と思うことの方が多い。ときには、リポーターがうるさくて番組を見るのをやめてしまうこともある。 その点「世界ふれあい歩き旅」では、リポーター無し。 カメラだけが移動して、多分、そばに付いている通訳が現地の人と話すのだろうが、それが別に録音され、それに合わせて後付の語りがつくので、本当に自分が外国の街を歩いているような気持ちになる。 感心するのは、カメラがぶれないことだ。 まるで、レールを敷いてその上にカメラの台をのせて移動させて撮影しているとしか思えないほど、移動画面がなめらかだ。 一度、番組の問い合わせ係に、どのように撮影しているのか、質問したのだが、返事はもらえず仕舞いだ。 民法の海外取材番組は、みんなクイズ形式になっていて、スタジオに集ったいわゆるテレビ・タレント(何のタレントがあるのか分からない人達)に、いちいち、面白い場面になると問題を出して答えを出させる。 その時間が勿体無い。 そんな、つまらないクイズに時間を使わないで、もっと現地取材の内容をたっぷり見せて欲しいと思う。欲求不満になる。 今の不況で、民放テレビ局は番組制作費を削るのに汲々としているという。 それでは、もう、満足な海外取材番組や、自然を相手にした番組なんか作れないだろう。 スタジオに、若いタレントたちを集めて、騒ぎまくる番組を作るのが一番制作費が安いらしいから、民放の番組はみんな同じようになっていく。 ここでちょっと、2008年11月13日の、インターネットの、Jcast ニュースを、転載する。 メディアから広告引き上げ トヨタ奥田氏「報復宣言」の効果 「財界総理」として君臨した奥田碩(ひろし)トヨタ自動車相談役(日本経団連名誉会長)が政府の懇談会で、マスコミの厚生労働省批判に対して「何か報復でもしてやろうか」と、自社の広告引き上げを示唆した。同社は、業績不振のあおりで広告・宣伝費を前年と比べて3割削減するとも報じられており、メディア関係者からは「すでに広告を削減した理由を『後付け』しているのでは」といったうがった見方も出かねない状況だ。 「あれだけ厚労省だけ叩かれるのは、ちょっと異常な話」 発言が飛び出したのは、奥田氏が座長を務める「厚生労働行政の有り方に関する懇談会」。2008年8月、厚労省の信頼回復に向けた改革策を検討するために設けられたものだ。08年11月12日に首相官邸で開かれた会合で、奥田氏は 「個人的な意見だが、本当に腹が立っている」 と切り出した。その上で、 「新聞もそうだけど、特にテレビが朝から晩まで、名前を言うとまずいから言わないけど、2~3人のやつが出てきて、年金の話とか厚労省の話に関する話題について、ワンワンやっている。あれだけ厚労省だけ叩かれるのは、ちょっと異常な話」 と、テレビ報道を批判。主にワイドショーに批判の矛先が向けられた模様だ。発言はさらにヒートアップし、 「なんか報復でもしてやろうかな。それくらいの感じは、個人的に持っている。例えばスポンサーにならないとかね」 と、広告引き上げを示唆。さらに、 「(テレビ局の)編集権に経営者は介入できないといわれるけれども、本当はやり方がある」 とまで言い放った。 これは、すごいことだ。 こんなことを外国の企業の指導者が言ったらただちに、大問題になるところだ。 去年は二兆円以上の純利益を上げながら、今年は一千億円の赤字という、天国から地獄への急転直下でトヨタの指導者も乱心したか。 それにしても、こう言うことを言うとは恐ろしいことだ。 こういう思い上がりがあるから、二兆円の利益から一千億円の赤字だなんてことになるのではないか。 日本は、何でもかんでも、力のある者の言うなり、と言う国民性だから、こんな発言に対して、なんの反発も起きなかった。 この奥田氏は根底から物事を見損なっている。 誰のおかげで、今までトヨタの自動車があんなに売れたんだ。 民放の宣伝の力によるところが大きかったのではないか。 お互いに持ちつ持たれつだろう。 それを、一方的に、広告費を削ってやろうか、などと、まるでそれではやくざだ。やくざの親分だって、そんなあからさまな、脅迫はしない。やくざに脅迫罪が適用されて、経団連の親玉に脅迫罪が適用されないのは不公平だ。 いくら何でも、奥田氏の言うようなことにはならないだろうが、これでは、本当に民放関係者はやりづらいだろう。 経済が悪くなると真っ先に企業が削るのが広告費だ。 広告費だけで、経営をしている民放各社にとって、現今の不況の辛さは、生きた心地がしないだろうと思う。 しかし、ここは、頑張って良い番組を作って欲しいと、心から民放各社諸姉諸兄を応援したい。 あ、話がずれてしまった。 NHKの番組主題曲が素晴らしいという話だった。 私が中でも、大好きなのは、「ひょっこりひょうたん島」の曲だ。 「波を じゃぶじゃ、じゃぶじゃぶ、かきわけて、 (じゃあぶ、じゃあぶ) 雲をすいすい、すいすい、追抜いて (すーい、すーい、すーい) ひょうたん島は、どこへ行く 僕らを乗せて、どこへいく(ううううー、ううううー)」 と言う物なんだが、今聞いても実に新鮮でよい曲だ。 レコードを買った、その裏面の曲がまた面白くて、「バナナが一本ありました、遠い南の空の下」で始まる曲なんだが、私の子供たちなんか、今までも歌っている。 大昔の曲になると、「やんぼう、にんぼう、とんぼう」の曲も良かったな。 三匹の子猿の話のラジオドラマで、その末っ子の「とんぼう」役をしていたのが、あの、黒柳徹子さんだ。 こんなことを話しているときりがないね。 これからも、NHKには良い主題曲を作るようにお願いしたい。
- 2009/01/16 - 「シー・シェパード」について再び ちょっと古くなったが、私がへばっていた時期に読売新聞電子版に掲載された記事を以下に転載する。 「シー・シェパードの船、行方不明者の捜索妨害」鯨研発表 ニュージーランドの南東約3300キロの南極海で調査捕鯨活動中の目視専門船「第2共新丸」(372トン)から、操機手の白崎玄(はじめ)さん(30)(神奈川県横須賀市)が行方不明になった事故で、調査捕鯨を行う「日本鯨類研究所」(鯨研)は7日、反捕鯨団体「シー・シェパード」の抗議船「スティーブ・アーウィン号」に約370メートルまで接近されるなど、白崎さんの捜索活動を妨害されたと発表した。 鯨研によると、抗議船は6日夜(日本時間)、無灯火状態で現場海域に現れ、約370メートルまで近づいたところで、無線を通して「行方不明者の捜索に来た」としながらも、「捜索が終わり次第、調査船団の妨害活動を行う」と宣言したという。この距離は安全航行の上で船同士の進路に影響を与えかねない間隔で、鯨研は接近したこと自体が妨害に当たるとしている。 (2009年1月7日12時04分 読売新聞) これ以後、この件についての報道に接していないので、この後どうなったのか、どうして「第2共新丸」の操機手が行方不明になったのか、よく分からないが、1月7日に操機手が行方不明になり、その捜索活動を行っている最中に、「シー・シェパード」が370メートルにまで接近したことだけは分かる。 「鯨研」は「接近したこと自体が妨害に当たる」としているが、その通りである。 「シー・シェパード」は「行方不明者の捜索に来た」と言ったと言うが、飛んでもない言い分だ。 それ以前に、「シー・シェパード」は接近して、ゴムボートを下ろし、そのゴムボートから、調査船に乗り移って、調査船の乗組員に暴行を働いたり、つい最近も、人体に有害な酸を入れた瓶を投げつけたりした。 「シー・シェパード」が近づいてくれば、またそのようなことをされると「共新丸」の乗組員たちが思うのは当然だ。 「共新丸」の人々にとって、操機手の捜索と同時に、「シー・シェパード」の攻撃に備えなければならないと考える。二重苦を迫られたことになる 結果として、操機手の捜索に全力を注げなくなる。 海における370メートルという距離は、人間にとっては大きい距離だが、船舶どうしにとっては近い距離である。 しかも、「シー・シェパード」は無灯火状態で接近したという。 本当に、行方不明になった操機手の捜索に協力に来たのであれば事前に連絡を取るべきだしだし、無灯火で近寄るべきではない。 何の連絡もなく「シー・シェパード」が無灯火で近寄ってくれば、これは「共新丸」にとって、脅威以外の何物でもない。 その時の、「共新丸」の乗組員たちの気持ちは察するに余りある。 行方不明の仲間を捜さなければならない、そこに、無灯火で「シー・シェパード」が接近して来る。 仲間の捜索と、「シー・シェパード」にたいする防備と、二つの切羽詰まったことが同時にしゅったいしたことになる。 恐慌状態に陥ってもむりはない。 海賊をのぞいて、船の乗組員は万国共通の「海の男」意識を共有していると言う。 それは、海の上が如何に危険な場所であるか、船に乗る人間なら痛感しており、そのような危険な場所では、国籍の如何を問わず、互いに助け合う物だという思いが自然に湧いてくるからである。 「シー・シェパード」のしたことは、「シー・シェパード」が如何にきれい事を言おうとも、これは、明確な捜索の妨害に他ならない。 「シー・シェパード」の乗組員たちは、「海の男」の誇りを汚した。 というより、人道を踏み外した。 「シー・シェパード」は他の船とその乗組員の安全を脅かした。これは、海賊である。 いったい日本政府は何をしているのか。 このような海賊行為によって、日本の科学調査船の乗組員の命が危険にさらされているというのに、何を黙っているのか。 つい最近、NHKのニュースで、陸上自衛隊の空挺部隊の落下傘降下演習の様子を見た。 全くあきれた。 日本の今の状態で、どうして落下傘部隊が必要なのか。 日本国内で落下傘部隊が活躍するときと言うのは、すでに、敵が日本の国土内に勢力を展開しているときでしかあり得ない。 現代の戦争では、日本を攻める敵があったとしたら、その敵は、まずミサイルや爆撃などで、日本をまず徹底的に破壊してから国土に進入するだろう。 そのときに、落下部隊などとばす力は日本には既にないだろうし、落下傘部隊を投入したところで、敵に日本の国土に進入された段階では、もはや手遅れである。 こんな落下傘部隊が使えるのは、自衛隊幹部が口を滑らせていたが、国外でしかない。国外に空挺部隊を派遣する? そんなことが、今の憲法で出来るわけがない。 憲法で出来ないようなことを、どうして訓練などするのか。 その訓練自体が憲法違反ではないのか。 そんな憲法違反の落下傘ごっこをしていないで、「共新丸」をきちんと守れよ。 水産庁や、自衛隊の艦船を派遣して、「共新丸」に「シー・シェパード」を近づけないようにきちんと見はってくれ。 オーストラリア政府に「シー・シェパード」がオーストラリアを母港にすることを止めさせろ。オーストラリアが「シー・シェパード」に協力することを止めさせろ。「シー・シェパード」に乗組んでいる、犯罪人の引き渡しを厳格に要求しろ。そんなことが出来なくて、なにが政府だ。なにが国家だ。ふざけるなよ。 そんなに落下傘が好きなら、「共新丸」の周りに落下傘部隊を降下させてみてくれ。 日本政府は、「シー・シェパード」の海賊活動をこれ以上許さないように、オーストラリア政府、さらには国際機関にきちんと訴えかけるべきだ。 このような、日本の科学調査船にたいする海賊行為をこのまま許してはならない。
- 2009/01/14 - 絶酒しています 去年の十二月中頃から、体調がひどく下降していたのを、何とかなるだろうと高をくくっていたところ、三が日を過ぎる頃から、心身共に真っ逆さまにどん底に転落。 千仞の谷底から、遙か上方にかすんで見えるか見えないか定かでない世間様をぼんやりみて、生きているのか死んでいるのか自分でも分からない日々を過ごしている。 毎日朝から本ばかり読んで過ごしている。 それも、あれこれと、手当たり次第バラバラに読むだけで、何一つ勉強にならない。 頭の中も脳みそではなく、どぶ泥でもつまっているみたいに感じる。 それで、日記の更新も怠けてしまった。 どうも、格好が悪いことだ。 酒も美味しくないので、今日で7日間絶酒。 鎌倉から来ている母の毎日の楽しみは、食前に、私から見ればほんのわずかの酒(ウィスキーにするとグラスの底から二センチほど)を飲むことだ。 息子として、当然母の酒にはつきあわなければならない。(量は母の十倍は最低行ってしまうが) しかし、今の状態では、飲んでも面白くないので、親不孝を謝りながら絶酒をしている。 私は毎年、一ヶ月、完全に絶酒をするのだが、それは二月と決めていた。それは、二月が十二ヶ月の中で一番短いと言うこともあるが(実に酒飲みは卑しいね)、年末から二月の初めまで母がシドニーに遊びに来てくれるので、母がいる間は孝行息子として絶酒など出来ない。母につきあって酒を飲まなければならない。で、母が鎌倉に帰ってから絶酒を始めるのが毎年の決まりなのだが、今年は、年の初めから親不孝をしている。 実にいかんことだ。 何とか早く飲酒を復活せねばならない。 親孝行のためだ。頑張ろう。 最近、「シドニー子育て記」を読んで下さった方から、メールを何本も頂戴した。 本当はその一つ一つに、返事を差し上げるべきだが、今の私にはちょっと物理的に不可能なので、無礼の段をお許し頂くようにお願いします。 私以外にも、日本の教育制度(受験勉強一辺倒、偏差値最重視、訳の分からぬ規制で子供を縛ることなど)に、不満を抱いている方が多くおられることを知って、私はあの本を出版した意味があったように思えて嬉しい。 先日も、NHKのテレビのニュースで、フリー・スクールに関わる人達の会のことが報道されていた。 フリー・スクールと言うのは、様々な事情で普通の学校に行くことを拒否する児童のために私的に作られた学校で、そこでは、規制のための規制や、種々の差別や、勉強の強制や、偏差値で子どの間に上下の区別を付けること、などがないので子供たちは心を開くことが出来る。 そのニュースの中で、フリー・スクールで初めて救われたと、一人の高校生か中学生かの年齢の女性が発言しているのを聞いて、私は身につまされる思いがした。 「シドニー子育て記」にも書いたが、私の中学・高校時代は毎日砂に埋まって砂を噛むような思いの日々だった。 あんな思いを自分の子供にさせるのはいやだ。それが、日本から子供を連れ出した原因だ。 あの当時、フリー・スクールなどという考えを知っていれば、その運動に取り組みながら日本にいることが出来たのにと悔しく思うが、もう過ぎたことは取り返しがつかない。 今、日本でフリー・スクールの活動に力を尽くしている方たちに、連帯の思いを伝えたい。 (私は中学生の時に、不登校と言う選択肢があることに、全く気が回らなかった。 ああ、そんな手があったのか、と今にして「しまった」と思う。 しかし、多分私には、不登校になるだけの勇気がなかっただろうな。両親の前でいい子のふりをしていたかったし) 文部科学省がフリー・スクールを学校として認めないために、フリー・スクールに通う子供たちは、社会的に様々な不利を背負わされている。また、親の経済的な負担も大変だ。 文部科学省の役人たちにしてみれば、「おれ達の決めた教育制度に従わない奴のことなど、知ったことか」と言うことなのだろう。 日本の官僚は、国民を自分たちの意のままに操るために、様々な規制を設け、法律を作る。 経済官僚は、経済界を支配するために、天下りなどの特権を得るために、規制や法律を作る。 経済は、直接心を縛らない。 しかし、文部官僚の作る規制や法律は人の心を縛る。 教科書検定などで、子供たちが国の支配に逆らわない人間になるように規制し、教育委員会などを通じて教員たちの思想まで支配する。 今問題になっている不登校児童の件も、それは不登校児童自身のせいではない。悪いのは制度だ。 こういう文部行政に携わっている官僚たちが、フリー・スクールをそんなに簡単に認可して、補助金を出したりするとは思えない。 しかし、あきらめてはいけない。 強く、日本の社会に訴え続けていけば、これだけ不登校問題で苦しんでいる日本だ。かならず、フリー・スクールを認可させようとする声が強くなって来るはずだ。 文部官僚が動かざるを得ないまでに、強い声になる日が必ず来る。 フリー・スクールの活動を続けている方たちに是非頑張っていただきたい。 そもそも、ことのはじめに、認識し直して貰いたいことがある。 それは、教育を受けることは権利であって、義務ではない、ということだ。 日本の「義務教育」という言葉自体がそもそもおかしいのだ。 「義務」などと言うから、お上の決めた教育制度ただ一本しか認めないなどと言うことになるのだ。 私のオーストラリアの知人は自分の子供二人を自分の家で自分で教育している。 それでも、オーストラリアでは全く問題にならない。 大学に行きたければ、日本の大検のような試験を受ければいいだけである。 ヨーロッパでも、いくつかの国で、日本のような単線ではなく、複線の教育制度を取っている。 どんな形の教育でも良いのである。 上級学校に入りたいとなれば、その試験に合格さえすればよい。 教育は「権利」である、と認識すれば、どのような形であれ子供は教育を受ける権利があり、そのために国は必要な援助を施さなければならない、と言うことが分かる。 そもそも、国の決めた教育方針に従うのが義務である、などと言うこと自体が間違っている。 繰返すが、我々は教育を受ける権利は断固として持っている。しかし、教育を受ける義務はない。 フリー・スクール運動は、我々個人の人権を根本から問い直す重要な活動だ。 ひとつだけ、頂いたメールの中で、ある方が(その方の知人は)「日本のシュタイナー・スクールは営利主義だという意見持っている」とお書きになっているのが気になった。 私は、日本のシュタイナー・スクール個々のことについて全く知識がない。 だから、メールを下さった方が、日本のどのシュタイナー・スクールについて仰言っているか分からないし、分かったところでその学校の実態について知りようがないから、何とも言えない。 しかし、私の理解している範囲から言うと、シュタイナー・スクールで営利を得ようというのはあり得ないことだと思う。 私は、シュタイナー・スクールといっても、自分の子供たちの通ったシドニーのグレネオンしか知らないが、このグレネオンの創立者たちは、子供の教育に強烈な熱意を持った人達であり、およそ金儲けなど考える人達ではなかった。 現在のグレネオンを見ても、営利どころか、学校を維持するために必死になっている。 また、私の娘を見ても分かるが、グレネオンの教師たちは毎日の授業のために全身全霊を尽くしている。 金儲けのことなど考えたらとても割に合わない。 だが、学校の維持のために、私立学校だから、授業料は取らなければならない。 私立学校に対しても国から援助は出るだろうが、それでも公立とは比較にならないほど学校の維持にはお金が必要だ。 その授業料だけを見て、営利主義と言われたら、これは辛いと思う。 オーストラリアの私立学校の中には、教会が背後についていたり、多額の寄付を集めて潤沢な基金を持っている学校も少なくない。 そのような私立学校は、校舎も大きく立派で、運動場などの施設も目を見はる物がある。 それに引き替え、グレネオンは、校舎は長い間プレハブだったり、新しく拡張した小学校の校舎も、木造の粗末な物だ。 日本の有名私立学校の校舎と比べると、悲しいまでにお粗末だ。(いや、最近の日本は公立の学校の設備も素晴らしい) 教師の給料も、つつましいものだ。 それは、日本のシュタイナー・スクールも余り変わらないのではないかと思う。 日本のシュタイナー・スクールの場合、さらに、生徒数の問題があるだろう。 日本のシュタイナー教育はまだ緒に就いたばかりだ。 シュタイナー・教育に賛同して子供を入れようという親の数はまだまだ少ない。生徒数は、充分に多いとは言えないのではないか。 校舎を造るのにもお金がかかるし、教師たちも、生きて行かなければならない。 生徒数が少なければ、その分、生徒一人当たりの負担は大きくなってしまう。 現在、シュタイナー・スクールを運営している人達は途方もない苦労をしていると思われる。 シュタイナー・教育に携わろうと言う人達は、例外なく教育に強い情熱を持っている。 その理想に合わせた教育をすることがその人たちの生き甲斐なのだ。 まだ、シュタイナー・教育に理解のない日本で、シュタイナー・スクールを運営するのは、よほど強い意志と、努力が必要だ。 これから先、大いにシュタイナー・教育が日本で盛んになり、シュタイナー・スクールが沢山出来て、生徒数も増えて、他の有名私立学校のように盛大になれば、営利を目標にしたくなる人が出て来るかも知れないが、今の段階で、シュタイナー・スクールが営利の目的にかなうとは思えない。 営利の目的でシュタイナー・スクールを運営しようと思う人がいたとしたら、その人は金儲けの道を知らないお間抜けだ。 投資金額、傾ける努力、使う時間、それに比べて入る収入。 それを計算したら、シュタイナー・スクールは営利の目的にはなり得ないと思う。 メールを下さった方の知人が、なぜ、「日本のシュタイナー・スクールは営利主義だ」と仰言ったか分からないが、私には信じられないのである。 日本には、大学合格率を高め、野球部が甲子園に出場したりしてスポーツの面でも成績を上げ、結果として生徒数を飛躍的に増やし、一躍日本でも有数の私立学校になったと言う例がいくつかあるのを私は知っている。 そう言う学校経営は、ビジネス・モデルとしてあり得るだろう。 しかし、シュタイナー・スクールはそう言う学校の対極にあると私は思う。 それとも、日本にはよほど、営利を上げるのに長けた、あるいは営利に執着するシュタイナー・スクールがあるのだろうか。あったとしたら、それはもはやシュタイナー・教育の意味を忘れてしまった学校ではないのかと私は思うのだが。
- 2009/01/03 - 生き甲斐が欲しい 私は整理整頓ということが全く出来ない男で、おかげで、私の仕事部屋はゴミためのようになっている。 で、今日、昨年十月に日本へ行ったときに持っていった薬入れを整理していたら、新聞の切り抜きが丸めて突っ込んであるのを発見した。 何だろうと、広げてみたら、2008年の、いやはや、これが日時を抜かして切抜いてしまったので、十月から十二月までの間の木曜日であることだけしか分からない。 木曜日の朝日新聞の夕刊に、花園大学の佐々木閑氏がお書きになった記事である。 (氏は、毎週木曜日に、この欄にお書きになっている) で、今日発見した切り抜きの内容を、下に記す。(著作権関係のことはごめんなさい。仏の心で許してください) 氏は、私達が絶望することなく毎日を過ごせるのは、なにか素晴らしい「生き甲斐」を持っているからだ。と仰言る。 しかし、その大事な生き甲斐が消えてしまうことがある。突然の災厄や身体の衰えのせいで生き甲斐を奪われると、人は絶望の淵に沈みそうになる。そんな時、人はどうやって生きて行くのか。 八方ふさがりの中、モノクロに沈んだ苦痛の世界を、もう一度、鮮やかによみがえらせるためには自分が変わるしかない。それは少しずつだ。 まず自分に染みついた世間的な価値観を捨てる。そうしないと、幸福な人達とのギャップがいよいよ心に迫ってやりきれない。「世間的な幸せ」はもはや「自分の幸せ」ではないのだ。 そして、「幸せの基準」は自分のあり方だ、と言うことを念頭に置く。邪悪な心を起こさず、誠実に堅実に暮らす。そう言う生活こそが、何よりも得難く、高潔な生き方だと思い至れば、生きることが価値ある物に思えてくる。「正しい心を持つこと」が生きる糧になるのだ。 この「自分のあり方を一番の生き甲斐にする」という考えは、仏道修行の基本である。俗世を捨てて出家した修行者に、世間的な幸せはなにもない。身一つで瞑想する日々が死ぬまで続く。その単調な、しかし誠実な毎日こそが、決して崩れることのない、一番頼りになる生き甲斐になるのだ。たとえ出家はしなくても、修行者と同じ心持ちで暮らすことができれば、必ずそこに、生きる意味が見えてくる。 さて、私はどうして、この文章を切抜いて、旅行の時にいつも持ち歩く薬入れの袋の中に入れておいたのだろう。 それは、この文章を読み返して分かった。 一番最初の、 しかし、その大事な生き甲斐が消えてしまうことがある。突然の災厄や身体の衰えのせいで生き甲斐を奪われると、人は絶望の淵に沈みそうになる。そんな時、人はどうやって生きて行くのか。しかし、その大事な生き甲斐が消えてしまうことがある。突然の災厄や身体の衰えのせいで生き甲斐を奪われると、人は絶望の淵に沈みそうになる。そんな時、人はどうやって生きて行くのか。 という部分に引かれたからだ。 この文章を切抜いて取って置いたからには、それから後の文章にも、共感したからではないだろうか。 しかし、今になって、読み返してみると、これは絶望的な文章である。 まず、 八方ふさがりの中、モノクロに沈んだ苦痛の世界を、もう一度、鮮やかによみがえらせるためには自分が変わるしかない。それは少しずつだ。 まず自分に染みついた世間的な価値観を捨てる。そうしないと、幸福な人達とのギャップがいよいよ心に迫ってやりきれない。「世間的な幸せ」はもはや「自分の幸せ」ではないのだ。 と言うところが、余りに辛い。 私達俗物が苦しむのは、「世間的な幸せ」を得たいからではないのか。 その世間的な価値観をどうやって捨てればよいのだろう。 例えば、リストラにあって、寮から追出され、仕事だけでなくすむ場所もなくなった自動車工場の期間工、派遣労働者たちは、 「幸せの基準」は自分のあり方だ、と言うことを念頭に置く。邪悪な心を起こさず、誠実に堅実に暮らす。そう言う生活こそが、何よりも得難く、高潔な生き方だと思い至れば、生きることが価値ある物に思えてくる。「正しい心を持つこと」が生きる糧になるのだ。 と言う言葉を聞いて、納得が行くだろうか。 「自分が変わるしかない」というのは、いわゆる自己責任か。 そして、佐々木閑氏の結論が、 この「自分のあり方を一番の生き甲斐にする」という考えは、仏道修行の基本である。俗世を捨てて出家した修行者に、世間的な幸せはなにもない。身一つで瞑想する日々が死ぬまで続く。その単調な、しかし誠実な毎日こそが、決して崩れることのない、一番頼りになる生き甲斐になるのだ。たとえ出家はしなくても、修行者と同じ心持ちで暮らすことができれば、必ずそこに、生きる意味が見えてくる。 と言うのでは、明日から食えないことがはっきりしている人に対して、何の救いにもならない。 これが、仏教なら、仏教は現世の人々を救う力は何も無い。 考えてみて欲しい。 ネットカフェでようやく生きている人達に、「自分のあり方を一番の生き甲斐にする」と言って、それがその人たちに納得出来るだろうか。彼らの力になるだろうか。彼らの生活のたしになるだろうか。 「身一つで瞑想」できる修行者って、それはなんだ。 食べる心配、住む場所の心配どうなっているんだ。 私は、良寛さんの書が死ぬほど好きで、何とか死ぬまでに良寛さんの楷書の素晴らしい書を手に入れたいと願っている。 しかし、良寛さんの生き方には、共感を覚えない。 どんなに貧しい暮らしをしていたと言っても、周りの人に生活を支えて貰っていたのだろう。 その生き方を清いと言うのがおおかたの見方だろうが、私はそうは思わない。 食べるために一銭でも稼がない人間は、人間の本当の苦しみなんか分かるはずがない。 佐々木閑氏が仰言るような、「幸せの基準は自分のあり方だ」という言葉も、その日その日の生きる心配があっては言えないことだと思う。 去年、私は右膝を人工関節に入れ替える手術をしたが、その時の辛さは、「早く殺し欲しい」と言うくらいの物であって、「幸せの基準は自分のあり方だ」などと言う考えは、今になってその時の自分の精神状態を考えてみても、冗談としか思えない。 人は、生き甲斐があるから、生きて行けるというのは正しい。 前にも書いた通り、私が、この佐々木閑氏の文章を切抜いて取って置いたのは、最初の しかし、その大事な生き甲斐が消えてしまうことがある。突然の災厄や身体の衰えのせいで生き甲斐を奪われると、人は絶望の淵に沈みそうになる。そんな時、人はどうやって生きて行くのか。 と言う言葉に、ひどく打たれたからだ。 最近、私は自分の体力の衰え、知力の衰え、を強く感じるようになり、自分の能力の限界も見えてきたと思う。 そう思った途端、生きる力が極端に弱まった。 そこに、氏のこの文章を読んだので、おもわず、力づけられたのである。 この佐々木閑氏の文章は私のような人間には本当に有り難い文章である。 隅から隅まで、読んで、私は滂沱の涙を流した。だから、切抜いて取って置いたのだ。 しかし、それは、私自身の限界であり、同時に、佐々木閑氏の限界だと、今読み返して思った。 今のこの凄まじい、崩壊していく世の中で、若者たちはどうしたら生き甲斐を見つけたらよいか、それができなければ、2009年も、前進の年にならない。 佐々木閑氏はこう言う時こそ、面壁三年、ただひたすら、沈潜せよと仰言るのかも知れない。 しかし、その間に、朽ち果てていく若者はどうすれば良いのだ。 彼岸へ渡れず、此岸で苦しんでいる若者たちに言う言葉を, それも実効性のある言葉を、佐々先閑氏を始め、私達は伝達しなければならない。 しわくちゃになった新聞の切り抜きを読み返しながら、今、そう思った。
- 2009/01/01 - 新年あけましておめでとうございます 読者諸姉諸兄の皆様、 あけましておめでとうございます。 ことしもどうぞよろしくお願いします。 凄まじい不況の大嵐で、大変辛い年になりそうですが、何とか生き延びるように頑張りましょう。 私達の世代は、戦後の焼け跡を知っているし、食べ物がろくにない苦しさも知っています。 どんなことが有っても、そこまで悪くなることはないだろう。 幾ら何でもそれはあり得ない。 そう考えると気が楽になりますよ。 でも、贅沢な生活に慣れた若い人達には辛いだろうな。 しかし、めそめそしていても仕方がない。 何とか優秀な指導者を見つけ出して、この国を建て直すように頑張りましょう。 このような、苦しい状況に追い込まれると、私は日本を愛する心が沸々と煮えたぎります。 日本を素晴らしい国にしなければならない。世界に誇れる国にしなければならない。 豊かで、平和で、愛情・友情・同胞愛に満ちた国にしなければならない。 国を愛する気持ちが、炎のように燃え上がって私の体を包みます。 日本を良くするために、一番必要なのは、自分自身をきちんと点検してどこが悪いか見定めようとする勇気です。 具合が悪くなってくると、その原因を自分にあることを認める勇気がなくなり、他者にその自分の上手く行っていない原因を押し付けたくなるのが、人間の弱さです。 最悪の行為は、自分自身を偏愛する態度に身を固めてしまって、他者との関係をきちんと築けず、「俺はえらいんだ、俺は正しいんだ、悪いのはほかの奴らなんだ」と、他者を攻撃することで自分の誇りを保てると勘違いすることです。 それこそが国を滅ぼす最大の原因です。 私は日本を、世界で一番誇り高い国にしたい。 そのためには、時に、日本のあり方を厳しく批判し続けるつもりです。 時には読者諸姉諸兄を怒らせるようなことを書くかも知れない。 しかし、私は、摩擦が互いの理解の最初の段階だと思うので、気にせず思うことを書くつもりです。 でも、なるべく楽しい話題を選んで書きたいな。 さあて、これから、我が家の新年のお祝いが始まります。 鎌倉の母も、来てくれました。 連れ合いと娘たちが、28日から心を込めて作ってくれたお節です。母も鎌倉からかまぼこを持って来てくれた。 友人からも、お節の差し入れがある。 お酒も一杯飲んで、今年こそ充実した豊かな年になるように、家族で誓い合おうと思います。 では、読者諸姉諸兄、今年も楽しくやりましょう。
- 2008/12/31 - 狂気のシー・シェパード(グリーンピース一派)3 読者の方から、シー・シェパードはもとグリーンピースに所属していた人間の中で過激な人間が、独立して作った組織であると言うご指摘を受けた。 直ちに、題名を、狂気のグリーンピースから、狂気のシー・シェパード(グリーンピース一派)に変更する。 ご指摘いただいた方に感謝します。 さて、この、シー・シェパードのテロ行為を支援してきたオーストラリアに対して、日本は黙っていてはいけない。 外交的に、厳重なる抗議をするべきだし、同時に直ちに経済的な制裁を行うべきだ。 どの様な制裁かというと、まず、現在南オーストラリアから輸入している畜養マグロを一切輸入禁止にすることだ。 南オーストラリアで行っている畜養マグロは、マグロ資源の枯渇を促進する、環境を破壊する経済活動である。 南オーストラリアでは、マグロの幼魚(せいぜいの所、日本でメジマグロと呼んでいる程度の、まだ成魚になっていないマグロ)を捕まえてきて、生け簀に飼って、大量の餌を与えて大きくし肥らせる。 この、南オーストラリアの畜養マグロと来たら、大げさに言うと頭のてっぺんからしっぽの先まで「トロ」と言う具合に、脂がごってり乗っている。 トロ信仰の強い日本人は、その脂がごってりの畜養マグロを買う。 回転寿司とか、妙に値段の安い寿司屋で出て来るトロは、この南オーストラリアの畜養マグロであることが多い。 この畜養マグロが何故環境破壊かというと、捕まえられた幼魚は生け簀の中で餌を食べさせられて肥るだけで、性殖の機会が与えられないと言うことである。 幼魚を沢山捕まえてきてそれに性殖の機会を与えなければどうなるか。 マグロは繁殖することが出来ない。 この畜養を繰返していれば、マグロの数が減っていくのは理の当然である。 一方、日本の近畿大学で最近成功したマグロの養殖は、成魚に産卵させ、その卵を孵化させ、生まれた稚魚を生育させる所から始まる。 このマグロの成魚に産卵させ孵化させることが出来たと言うことは大変な技術で、これなら、マグロを増殖することが出来る。 南オーストラリアの畜養マグロは、マグロ資源を枯渇させる環境破壊の行為である。 オーストラリアは、どんなに日本が科学的に、クジラを枯渇しないように数を制限して捕獲する、といっても聞く耳を持たない。 クジラを獲ること自体、大変な犯罪であるように言う。 その一方自分たちは、マグロ資源を枯渇させる活動を大々的に行っているのである。 しかも、その畜養マグロは殆どを日本に売る。 南オーストラリアの畜養マグロを行っている町は全人口の4分の1が畜養マグロ産業に関わっているそうである。 テレビで見たが、畜養マグロに関わっている人達は経済的に大成功していて、マグロ御殿と呼ばれる豪邸が幾つも建ち並んでいる。 今世界的にマグロ資源の枯渇が問題になっている。 マグロの捕獲量制限もヨーロッパなどを中心にして叫ばれている。 実際問題として、マグロの資源保護は重大な問題である。 クジラとは比較にならない世界的に大きな影響を持つ問題である。 それなのに、オーストラリアでは畜養マグロを行っている。 日本が提唱している科学的な捕鯨を行えば、クジラの数が減ることもないし、ましてや絶滅することなど絶対にない。 それを、オーストラリア政府は認めない。 畜養マグロを続ければ確実にマグロ資源は枯渇する。 さて、このような非科学的で偽善的なオーストラリアのやり方を、黙ってみていてはいけない。 彼らが偽善的な人生を送ろうと、かれらがクジラカルトの虜となる非科学的な人生を送ろうと、私達には関係がない。 しかし、シー・シェパードの暴挙を助け、マグロの資源枯渇につながる経済活動を行っているとなると話は別である。 彼らが如何に偽善的で、実際に環境を破壊していること(畜養マグロもそうだが、シー・シェパードの投げた酪酸は前回にも書いたが水中生物に大きな害をなす)を、理解させてやるために、日本はまず、畜養マグロの輸入禁止から始めるべきである。 こう言うと、安いトロが食べられなくなる、と文句を言う人が必ず出て来るだろう。 しかし、よく考えて貰いたい。 畜養マグロなど続けていてマグロの資源が枯渇したら、もう、トロなんか食べられなくなるのだと言うことを。 歳の最後に、また不愉快な話を書いてしまった。 不愉快なまま今年を終わりたくない。 一つ楽しい話題で行こう。 私は何度も書いているが、宗教を信じることが出来ない。 超自然的な事柄も信じることが出来ない。 従って、占いなどと言う馬鹿らしいことは一切信じない。 驚くべき事に、週刊朝日には毎週見開きで、星占いの記事が出ている。週刊朝日は、もう何十年も毎週購読しているのだが、「ロダンの心」をやめたのが許せない。(いま、AERAに移ったので朝日新聞社自体に対しては、少し許してやっても良い気持ちになっているが、以前は、週刊朝日一頁を使っていたのに、現在のAERAではページの一部を使って、しかもたったの4コマだ) 下らない占いなんか載せないで、「ロダンの心」を見開きで載せてくれ。あ、知らない人に説明しますが「ロダンの心」というのは、ロダンという名前の、ラブラドールが主人公の漫画で、飼い主家族とラブラドールの関係がとても心暖かく描かれている。そして、話は常に、ラブラドールであるロダンの目から見た人間社会の面白さを描く形で作られている。繪も暖かく、じつに良い漫画である。なんと言うか、人間を信じられる気持ちにさせてくれる。こんなに、しみじみとした良い漫画はほかにない。週刊朝日よ、占いなんかやめて、「ロダンの心」を復活させてくれ。これは、週刊朝日全読者の気持ちだと思う。 週刊朝日は、一度ペット自慢のページを、やめたが、読者の猛反発を食って再開して、それがいまだに大人気であると言う事実を忘れてはいけない。「パパはなんだか分からない」も永久に続けてくれ。あの漫画をやめたら、暴動が起きるぞ。 いや、そんな私なのに、自分自身が占いをすることは好きなんだよ。 家族の者達に、呆れられている。 あれだけ、宗教を批判し、超自然的な考えを批判し、科学的に物事を考えることを強調し、あれだけ星占いとか、四柱推命とか、スピリチュアルなどを、批判していながらどうして自分が占いなんかするのか、その精神の分裂状態が、理解できない、という。 子供たちには、「お父さんって、本当に理解できない人間だ」などと言われている。 私も、おかしいなと思っている。 人生は決定論では語れないし、未来など人間が読めるわけがない。 ところが、私の占いは、どう言う訳か非常に良く当たるんだよ。 これが気持ち悪いくらいだ。 自分でも、こんな非理性的なことをしていてはいけない、と思うんだが、他人の占いなんて鼻も引っかけないほど馬鹿にしているのに、暮夜ひそかに、「易」の本を広げたり、タロットカードをいじったりしているのである。 占いなんて馬鹿な物は、相手にしてはいけない。あんなものを信じる人間は、頭のおかしい人間。あんなものに頼る人間は、クズのクズと公言している私としては、本当はちょっと恥ずかしくて人に言うべき事ではないのだが、実は昨夜ちょいと日本の来年の運勢を占ってみたんですよ。 これは、三枚の硬貨を使って、中国の「周易」にそった方式で行う占い。擲銭法(てきせんほう)と言って、三枚の硬貨を投げて(投げることを擲という)その裏表の出方で陰・陽を判断する。 これを、六回繰り返す。(書いているだけで、馬鹿馬鹿しくなってきた) これで占うとですね、来年は「萃(すい)」と出ましたね。 萃とは万物が集ることを象徴する。 この「萃」という、占いの意味を簡単に説明すると、 「民心が大いに集る。優れた指導者が立てば、積極的に事業を興しても上手く行く。大きな犠牲を払っても構わない。 前進するのによい。ただし、正しい心がなければ駄目だ。」 と言うことになる。 ううむ、今の日本の世界の厳しい経済状況を考えるとどう言うことになるのかな。 日本が戦争に負けたのは、当時の指導者たちが、外国の指導者たちに比べてひどく能力が劣っていたからだ言われている。 バブル経済が破裂して経済戦争に敗北して失われた十年などと言う苦しみを味わったのも、その当時優れた指導者がいなかったからだという。 来年あたり、日本に優れた指導者が現れ、民心が集ったら日本は立ち直れるだろう。 そういう風に、読むのかな。 総選挙に期待しろと言うことかな。 ま、占いなんて遊びですからね。 こんな物、信じちゃいけないよ。 明治時代初期、高島嘉右衛門という大変に占いを良くし、同時に経済的に大成功した人間がいる。 横浜に高島町という地名があるでしょう。その、高島町は、高島嘉右衛門の名をとってつけたそうだ。 高島嘉右衛門の占いは本当に当たるという評判を取った。 いまでも、高島易断などと言う看板を良く見るが、それは全部高島嘉右衛門にあやかって付けた名前なのだ。(例外はあるかも知れないが) 大変に良く当たるというので、政財界の有力者たちからも大変に尊敬され、大事な決定をするときに頼りにされていた。 「高島嘉右衛門占例集」という本があって、高島嘉右衛門が実際に行った占いの例が沢山でているが、確かにずばずばと当たっている。 これが、本当なら、えらいことだ。 しかし、その高島嘉右衛門、なんぞ計らん、ある時尋ねて来た暴漢に刺されて殺されてしまうのである。 これ一つ見ても、占いなんて、何の意味もないと言うことが分かるでしょう。自分の運命も分からない占い師なんて、お笑いだよね。 だから、占いなんて、絶対に信じてはいけない。 鼻もかけてはいけない。知らん顔をしていなさい。 でも、私の占いは、中々のものですよ。 う、う、なんだか、自分でも支離滅裂になってきた。 ま、年の暮れだ、こんな遊びも許されるでしょう。 では、来年が皆さんによいお歳になりますように。 (私の占いが当たるといいね)、って、まだ言っている。おかしな人間だねえ。 でも、少しは心が明るくなったでしょう。ねっ!
- 2008/12/28 - 狂気のグリーンピース2 昨日の記事を訂正します。 今日、お見せするのは、読売新聞ではなく、MSN産経ニュースでした。 シー・シェパードが体当たり、薬品入り瓶投げつける 南極海で「海幸丸」MSN産経ニュース 水産庁に26日、入った連絡によると、南極海を航行中の日本の捕鯨船団の目視専門船「海幸丸」(新屋敷芳徳船長、乗組員25人)が、米環境保護団体シー・シェパード(SS)の抗議船から体当たりを受け、薬品入りの瓶を投げ込まれるなどの捕鯨妨害を受けた。海幸丸の乗組員らにけがはなかった。 同庁によると、海幸丸は同日午後6時~9時ごろ、SS抗議船「スティーブ・アーウィン号」から、船体の右後方に体当たりを受けたほか、活動家から異臭のする薬品入りの瓶15個を投げつけられた。海幸丸は午後9時ごろ、抗議船を振り切った。船体の破損も軽く、今後の捕鯨調査に影響もないという。 妨害を受けた海幸丸は約860トン。捕鯨船団は6隻で構成されているが、海幸丸は乗組員が目でミンククジラやナガスクジラを探し、観測する役割の目視専門船。直接捕鯨は行わない。 捕鯨船団は妨害を避けるために今年11月中旬、極秘裏に日本を出発したが、SSに発見されていた。今月20日には、船団のうち目視採取船「第2勇新丸」が、約5キロまで接近されていたという。 SSは昨シーズンの南極海での調査捕鯨でも、今年1月と3月の2回にわたって妨害を行い、捕鯨船に乗り組んだほか、薬品入り瓶を投げつけ、乗組員ら3人にけがを負わせるなどしている。さらに、前シーズンの昨年にも妨害を行っており、警視庁は活動家4人を国際手配している。 シー・シェパードの連中が、薬品入りの瓶を投げる樣子を下記のAFPBB Newsの記事で見れる。 「シー・シェパード、日本の調査捕鯨船団を発見 妨害試みる」AFPBB News この薬品とは「酪酸」だと言うことだ。 「酪酸」は非常に不快な臭気を保つ液体で、皮膚などにつくと炎症を起こす。 目にでも入ったら失明の恐れもある。 さらに、水生動物に被害をもたらすから、水中に投じると、水生動物に被害を与える。 航行中の船に体当たりをする、乗込んで乗務員に怪我をさせる、毒液の入った瓶を投げつけて乗務員に肉体的な被害を与え、周囲の環境を破壊する。 この、シー・シェパードの連中のしていることは、海賊行為である。 もし、「海幸丸」が、武装していたら、シー・シェパードを一撃の下に沈没させる権利がある。 一体日本の水産庁や、海上自衛隊はなにをしているのか。 日本の船が、襲われると分かっていて、なぜ護衛をつけないのだ。 シー・シェパードがそのような暴行を働き始めたら、直ちに拿捕して、乗組員全員を海事裁判にかけるべきだ。 日本政府が甘い態度を取っているから、グリーンピースのような、ならず者どもが、したい放題のことをしているのだ。 シー・シェパードが今回したことは、明かなテロ行為である。 このようなテロをどうして許しておくのか。 グリーンピースは論理的に、どうしても反捕鯨を説明できないから、このようなテロ行為に走るのだ。 グリーンピースは狂気の集団である。 狂気に対しては、それ相応の応対をするべきだろう。 しかるべき施設に入れて、精神治療を施すべきだ。 船などを勝手に操縦させてはいけない。 今回の件で、一番責任が大きいのは、オーストラリア政府だ。 そもそも、近頃首相になった、ラッド自体、この不正に加担していると思われても仕方がない。 ラッドは首相になると、すぐに中国に飛んでいき、得意の中国語で演説をして、中国人に大いに歓迎された。 オーストラリアと中国の関係が良くなることは、大変に良いことで、めでたい。 しかし、それから時間が経って、日本へ来たラッドは、福田首相に会うや「日本の捕鯨をやめさせろ」と注文をつけた。 驚くべき事だ。 そのようなことは、外交官の水準で話すべきことだろう。 一国の総理大臣が、訪ねた先の総理大臣に対して言うようなことか。 ラッドは、自分自身を首相以下の一事務官の地位にまで貶めたか、首相同士はどの程度の政治的会談を交わすべきか、その外交のイロハも知らないのか。 それとも、グリーンピースに洗脳されていて、見境もなく、そんな席で言うべき事ではないことを言ってしまったのか。 いずれにせよ、ラッドという男は情けないほど小物である。 こう言う男に率いられている、オーストラリアという国も、未来がない。 その証拠に、この三ヶ月で、オーストラリアのドルの価値は40数パーセン下落した。 世界中がこの国を見かぎった証拠だろう。 私も、こんな国は日本は見かぎるべきだと思う。 よろしいか、ここから先は、きっちりと理性を持って読んで貰いたい。 日本は去年の、日本の捕鯨調査船に対する暴力行為で数人の人間に対して逮捕状を出している。日本とオーストラリアは互いに、罪人を引渡す条約があるはずである。 その日本が求めている罪人をオーストラリア政府は引渡さない。それは、日本とオーストラリアの関係を破壊する目的なのか。 その、本来日本に引渡されるべき犯罪人が、オーストラリアで自由に行動するのを許している。オーストラリア政府は、国際条約を無視している。 その、悪質な犯罪人どもが、オーストラリアの港でシー・シェパードという船を仕立てるのを容認していた。要するに、オーストラリア政府は、去年に引続き、シー・シェパーが日本の捕鯨調査船に対して、海賊行為をすることを知りながら、認めていたのだ。日本との取り決めで言えば、そのような犯罪人は日本に引渡すべきだ。引渡さない段階で、オーストラリア政府は、日本との取り決めを破っている。 そして、今日取り上げた、MSNのニュースだ。 何度でも言うが、この、シー・シェパードのしていることは、世界中の船乗りから見たら、悪夢である。悪辣な海賊行為であって、如何なる弁明も通用しない。 その場で、撃ち殺される行為である。 私は極めて平和を愛する人間だが、平和を破壊する人間に対してはきちんとした行為を取らなければならないと考えている。 この、シー・シェパードのしていることは、まともな理性を持つ人間なら、許すことの出来ない野蛮な行為である。 私は、この狂犬としか言い様のないシー・シェパードと正気ではない行為を批判するが、どうじに、このシー・シェパードの基地を与え、さらに、その乗組み員の中に、日本政府から逮捕状が出ている人間を、そのまま乗組ませたオーストラリア政府を強く批判する。 ラッドの率いるオーストラリア政府はこのテロリズムに対して、責任を取るべきだ。 自分自身が恥ずべき行為の中心であること理解していないのか。 私は、すべての日本人に訴えたい。 直ちに、日本のオーストラリア大使館に抗議の電話をかけて欲しい。 言っておくが、東京のオーストラリア大使館の日本人従業員ほど、態度の悪い人間達はいない。 信じられないほど、同胞日本人に対して滅茶苦茶に態度が悪い。 接近して来る日本人全部、オーストラリアに憧れていて、オーストラリアを最高の国だと思っているからオーストラリアに来たいと思っている。 そんな人間にとっては、どんなに乱暴な態度を取っても良いように考えている。そうとしか考えられない。 こいつらは、日本人か、そう思ったことが何度もある。 あるいは、オーストラリア大使館内で、日本人職員はひどい扱いを受けているから、その反動で、日本人に対して、思い上がった態度取るのかも知れない。 (この、東京のオーストラリア大使館の日本人職員の態度のひどさは、全ての日本人が口にする。どうして、そんな職員をオーストラリア大使館は雇うのか。それとも、オーストラリア大使館自身が日本人に対してそのような態度を取るように規制しているのか。だから、日本で雇った日本人職員はそのオーストラリア大使館の命令に従っているのか。とにかく、凄まじく腹立たしい態度が、日本人のオーストラリア大使館の日本人に対する部局の人間の態度なんだ。 ウソだとと思ったら、直ちに、日本のオーストラリア大使館に電話をしてご覧。 その対応たるや、怒りをどうして収めるか、それが問題になるくらいだ。 こんなことは、世界中で、極めて文化の低い国だけがすることだ。オーストラリアよ、いい加減にしろよ) ここで、きちんと話を決めておこう。 「文明国どうしでは、互いに、犯罪者は引渡す取り決めが出来ている」しかし、シー・シェパードの乗組員の中に、日本から指名手配されている人間がいるのにも拘わらず、オーストラリア政府はそれを無視した。オーストラリア政府は、犯罪者の共犯者になったのである。 今回、シー・シェパードが日本の捕鯨調査船に対する攻撃をしけることは最初から分かっていた。それを、オーストラリア政府は十分に把握していながら、シー・シェパードがこれから何をするのか分かっていて、自由にさせて置いた。オーストラリア政府はシー・シェパードの活動を自由に許していた。 シー・シェパードの今回のテロ行為は、オーストラリア政府の公認の元に行われたと認定せざるをえない。オーストラリア政府はテロリストを支援している。 さあ、読者諸姉諸兄よ、こんなオーストラリアという国が、まともな国だと思うか。 こう言う暴力的な国には、それなりの、制裁を加え得てやらなければならない。 どんな、制裁を加えてやるか、 それは、また、明日。
- 2008/12/27 - 狂気のグリーンピース1 まず、12月21日づけの、ネット版読売新聞の記事を読んで頂きたい。 【シドニー=岡崎哲】日豪関係筋は20日、読売新聞に対し、調査捕鯨船「第2勇新丸」(747トン)が同日午前(日本時間同)、豪州タスマニア島沖の南極海で、米反捕鯨団体「シー・シェパード(SS)」の抗議船「スティーブ・アーウィン号」に接近され、活動を妨害されたことを明らかにした。 日本の調査捕鯨船が、反捕鯨団体に妨害されたのは今季初めて。 勇新丸は調査捕鯨活動を中断し、現場海域を離れようと航行を続けているが、SS側の執拗(しつよう)な追跡を受けているという。 一方、SS側は「『腐ったバターの爆弾』を発射するため、乗員1人を乗せた小型船を向かわせたが、天候悪化のため引き返した」と明らかにした。発射しようとしたのは、原液が目に入ると失明する恐れもある酪酸の可能性もある。 スティーブ・アーウィン号は、今月4日に豪州東部ブリスベーン港を出港。豪州人や米国人など48人が乗船。妨害活動は「非暴力で行う」と発表していた。第2勇新丸を巡っては、昨秋から今春にかけての調査捕鯨でもSS側から妨害を受けた。 (2008年12月21日03時10分 読売新聞) 私は以前から、グリーンピースという団体は、カルトであると認識していた。 カルトとはどう言う物か、 試しに、小学館の百科辞典、スーパー・ニッポニカで見てみると、 「カルトとは、過激で異端的な新興宗教集団をさす。英語圏では正統的キリスト教を「教会」church、その分派を「セクト」sectとよぶのに対し、異端的または異教的小集団を「カルト」とよぶ。ただしヨーロッパでは、カルトの同義語はセクトである。 カルトに分類される宗教集団は、現代では世界中に多数存在し、アメリカでは2000以上ある。カルトが世界的に社会問題となっているのは、強制的な勧誘によって入信させたり、多額の寄付金を強要したりして人権を侵害し、さまざまな反社会的行動をする教団が少なくないからである。反社会的宗教集団としてのカルトには、いくつか共通の特徴がある。 その特徴とは、第一に導師やグルとよばれたり、自ら救世主を名のるカリスマ的教祖をもつこと。第二にマインドコントロールといわれる心理操作のさまざまなテクニックを用いて入信させること。それは洗脳の一種で、信徒は自覚のないまま、主義、考え方、世界観を根本的に変えてしまう。」 と書かれていいる。 ここで、カリスマ的な教祖というのは、反捕鯨団体で言えば、グリーンピースの指導者たちである。 グリーンピースの人間に、どうして捕鯨がいけないのか、どんなに論理的に問いただしても、その根拠を示すことがない。 彼らが言うのは、「クジラは頭がいい」「クジラは可愛い」「クジラは海に住む哺乳動物である」 そのような意味ない感情的なことしか言わない。 海に住む哺乳動物を人間が捕獲して、食用にしてはいけないとなったら、エスキモー・イヌイットの人達はどうする。(エスキモーは差別用語で、イヌイットと言うべきだと私は教えられてきたが、最近、とうのイヌイットの人達が、イヌイット、と言う言葉自体差別用語だという異議申し立てがあった。私はどちらが正しいか分からない。だから、両方の言葉を併記する。どちらが、現代の世界で正しいのかご教授くださる方の言葉をまっている) 反捕鯨運動を起こしたアメリカは不埒にも、イヌイットの捕鯨は許すという。 グリーンピースも、その通りの見解だ。 おい、まてよ、グリーンピース。 同じクジラを捕るのにも、イヌイットはそのままで、日本人は野蛮人だというのか。 ふざけるなよ。 我々日本人が野蛮で、どうして、イヌイットが野蛮じゃないんだ。 そう言う言い方は、イヌイットの人々に対する深い差別行為なのではないか。 グリーンピースは世界の環境を良くしようという運動を進めている。 それ自体は、私も賛成だ。 しかし、捕鯨問題については、彼らは無知な上に意図的に日本の捕鯨を標的にしている。 どこでどうして、クジラが、人間が殺してはいけない特別な動物だという観念を植え付けられたのだろう。 確かに、1940年代から、1950年代にかけて、世界中の国が、クジラを殺しまくった。 捕鯨オリンピックなどと言う言葉もあって、どこの国が一番沢山クジラを獲ったか、などと競い合ったりもした。 しかし、その中で、オーストラリアは中心的な役割を果たしていたのである。 十数年前の話だが、南オーストラリア州のある町に行くと、歯クジラの牙に色々な模様を刻んだ物を土産物として売っていた。店主に聞くと「こんなクジラの歯は、港を探れば、ざくざくと埋まっていますよ」と言うことだった。 この港は、捕鯨の中心地だったの言うのだ。「捕鯨で栄えた町ですが、今は観光客で保っています」と、店の主人が言っていた。 私は、この十数年その町に行ったことがないから、今でも土産物店でクジラの歯に、模様を刻んだものを売っているかどうか、知らない。 だが、私の知っている範囲で、オーストラリアのその町では、クジラの歯を特産物として土産物として観光客に売っていたことは確かだ。港をさらえば、幾らでもクジラの骨や歯が出て来るほど盛んにクジラを獲っていたのだ。 アメリカもそうだ。アメリカの国民的文学とされている「白鯨(モビイ・ディック)、メルヴィル作」は、徹底的にクジラを悪魔のように描いている。 更に、旧約聖書のヨナ記を読んでくれ。信心深いヨナはクジラに呑まれるという試練に遭うのだぞ。 さらに、さらに、ディズニーのアニメの「ピノキオ」を見てくれ。愛するピノキオはクジラに呑み込まれてしまうんだぞ。 ずうっと、長い間、クジラは悪魔みたいな存在だったのだ。 いつから、アメリカ人は、クジラを天使のように扱うようになったのだ。 それは、ひとえにグリーンピースの影響だ。 グリーンピースの最初の活動資金は、アメリカの大変な資産家の未亡人の寄付金によると言う。 アメリカの資産家というと、桁外れの金を持っているから、グリーンピースのような、頭のねじの狂った人間に対して、ポチッとくれてやっても大した事は無い。 しかし、貰った方は、大いに運動が出来るから、これほど有り難いことはない。 私は、何度か、グリーンピースの人間と会って話したことがあるが、彼らは駄目だ。論理的な会話が出来ない。 最初から、クジラが可愛い、クジラは神聖だ。という思いに完全に洗脳されているから、話し合いと言う物が通じない。 彼らは職業としてグリーンピースをやっている。 クジラがいなかったら、他の動物を探して同じような運動をしただろう。 ハンバーガーや、フライドチキンを毎日食べている人間が、どうしてクジラのことになると、まるで罪を犯したことのない聖人のような態度になれるのか。 人間という物は、生きとし生けるものを、自分の生命維持のために摂取しなければならない、極めて罪深い生き物だ、と言うことを彼らは認識しない。 ベジタリアンだって、植物の生命を奪って生きていることでは、肉食の人間とその罪の深さは変わらない。 植物は、動きが緩慢だから、生きているようには見えない。 言葉も発しない。反射的な動きを見せることもない。 だから、植物を食べることは清いことだと言う偏見が世界的に広まっているが、植物の生態に目を向けてみれば、人間はこれから伸びるべき植物の新芽をつんだり、不自然な交配を繰返して、人間の欲求に合うように、植物の生態を操作していることが分かる。我々人間は、植物に対しても、その生命の尊厳を冒すことを繰返してきたのだ。 ベジタリアンが、この世の生物の生命が互いに命を循環させている実態に無関心に自分だけ無罪のつもりでいることの不自然さは、もっと深く論じなければならないことだが、反捕鯨論者が、自分自身は、クジラを食べないからと言って、われわれ、捕鯨で自分の生命を保持したいという人間に対して、文句をつける資格は何も無い。 さらに、グリーンピースは牛、羊、豚を人間が食べていることに対する言及が何も無い。 一度聞いたことがあって、たまげた。 彼らが言うには、「羊は、人間が食べるために神が作って下さった生き物だ。」 これだけで驚くが、私は、オーストラリアの羊の牧場に何度か行って、彼らの言葉を聞いて、衝撃を受けた。 彼らは、目の前で何千という羊を殺しながら 「羊は、愚かだから、何も感じないんだよ」と言った。 本当か、本当にそれでいいのか。 人間が、他の生物の命を取らなければ一日も生きていけないと言う現実をきちんと認識しているのか。 私は、何が何でもクジラを掴まえて食べようと言う、クジラ病の人間ではない。 しかし、人間が他の生物の命を取らなければ生きて行けないと言う原罪を考えたときに、捕鯨だけを非難する考え方には賛成できないのだ。 そんな、反捕鯨の人間には、自分自身の生活を見直せ、と言いたい。 もし、人間以外の動物の生命を考えるのなら、牛乳を呑むのはやめろ、赤ん坊に、牛から取り上げた牛乳を元としたミルクを与えるのはやめろ。 全ての畜産業は、動物の命を奪う物だからやめろ。 ハンバーガーや、フライドチキン、牛丼など、とんでもないことだ。 羊や牛を殺して食べるのと、クジラを食べるのと、その違いを明確に説明して貰いたい。 「クジラは可愛い?クジラは頭が良い? 」 何だそれは。 牛だって、羊だって、可愛くて頭が良いのは沢山いる。 その、牛や羊を殺して食べて、さらに、その子供を育てるための牛乳を奪ってきたのが、人間ではないのか。 この、基本的な、自分自身の罪の意識なさが、グリーンピースの連中に共通している。 罪の意識がないから、更に罪を重ねる。 次に、やはり読売新聞の12月27日のネット版を引用する。 (以下、明日に続く)
- 2008/12/26 - 最近日記の更新が途絶えていますが 最近、日記の更新が途絶えてしまって、自分でも淋しい。 その原因は、「美味しんぼ」のテレビドラマの構成に、時間を取られているからだ。 テレビドラマにするからには、漫画のままではつまらないし、と言って、漫画から余り離れてしまっては、これまた、読者諸姉諸兄を裏切ることになる。 この辺のかねあいが難しい。 今までの単行本を読み返す作業から始めたので、これまた非常に疲れた。 自分で書いておきながら、何でこんなに沢山書きやがったんだ、なんて罵ったりして。 訳の分からないことになっています。 反「嫌韓・嫌中」についても書きたいし、捕鯨問題も書きたい。 ああ、テレビドラマの構成なんて引き受けるんじゃなかったな。 疲れて、疲れて・・・・・・・ しかし、新藤兼人監督なんて、九十歳なのに新しい映画を作っているんだ。 私如きちんぴらが、テレビドラマの構成くらいで泣き言を言うのはちゃんちゃらおかしい、よね。 あ、誤解されるといけないから言っておきますが、私がするのはあくまでも構成ですからね。 私の構成を、プロデューサーに渡して、検討して貰って、当然手直しの要求などもあったりして、最終的に、シナリオライターがシナリオを書くことになる。 私は、テレビのシナリオなど、書けません。 あれは、特殊技能を必要とする物です。 漫画の原作と似ているようで、まるで似ていない。 以前、集英社の新人漫画大賞原作部門の選考委員をしていたことがあった。 そのさいに、映画やテレビのシナリオライターが、原作部門の賞を狙って随分応募してきたが、テレビや映画のシナリオでは漫画にならない。 逆に、漫画の原作の書き方ではテレビや映画にならない。 このあたり難しいもんですよ。 だから、私は構成だけ。 シナリオなんかにはとても手を出す勇気はありません。 全く別の才能が必要なんです。 でも、その構成が辛くてね。 もう、12月の26日だって言うのに、仕上がらない。 何が何でも、あと4日で仕上げて、大晦日の花火大会を楽しむぞ。
- 2008/12/20 - 若い男たちよ これを書くと、「茶髪・金髪」の時のような反撥を招くと思うのだが、書かずにはいられない。 何かと言うと、最近の日本の若い男どもは、私達の年代の男から見ると非常に下品だ。 それは、自分と同年代あるいは年の若い女性を掴まえて「おまえ」と呼び、あるいはその姓、例えば私なら「戸塚」と呼び捨てにすることだ。 私達の世代の人間(1960年代から70年代にかけて青春を過ごしてきた者)は、女性を非常に大事にし(祟めるほどまでに)、傷つけてはならない尊い存在として受け止めてきた。 今の30代以下の人間の女性に対する下品さがとても信じられない。 どうして、自分と同年代あるいは若い歳の女性に対して「おまえ」などと乱暴な呼び方をするのか。 あるいは、姓だけを呼び捨てにするのか。 そう言うことは、男同士の世界ではあり得ても、女性相手にしてはならないことではなかったか。 私は、今流行の「ウーマン・リブ」も、うさんくさいと思っている。 女権論を厳しく称える女性が、まるで男性その物の恰好と口の利き方をするからだ。 それなら、女も男になればすむことなのか、と問いただしたくなるのである。 男みたいな乱暴な口調で、女の権利を主張するのが「ウーマン・リブ」の論者である。 それは、違うだろう。 それは、女性の尊厳を返って傷つける物ではないのか。女性は弱くもなく男より価値の低い存在でもない。 聞いていると、「ウーマン・リブ」論者は、最初から、女性を劣った物・弱い者として捉えているようにしか聞こえない。 だから、女性を解放しろと言う。 ただし、その、女性解放論は絶対に正しい。 これまでの人類の歴史で、女性は、いつも男性の下に見られていた。扱いもそうだった。 旧約聖書を読んで呆れるのは、あのユダヤの神(すなわち、キリスト教の主神)は、女性を物扱いしていることだ。 ユダヤ教の系譜を引いたキリスト教が女性蔑視の態度を取り続けたのは当然のことである。 だから、「ウーマン・リブ」運動が西洋のキリスト教社会で起こった必然性がある。 日本は、本来的に、女性を祟める国だった。 天照大神は女性だ。 日本の中心の神は女性であるとみんな認識していた。 そこに、中国から、もとの仏教から変成した仏教が入って来た。 もともとの仏教は、釈迦が、悟りを開いて最初に食べたヨーグルト風の物をくれたのが女性であることから、女性に対する差別は無かった。 さらに、儒教も入って来た。道教も入って来た。 中国風変成仏教、儒教、道教、神道が入り交じって、日本はおかしな事になった。 もともと、女性の生理時の出血は非常に不思議な物だった。 生理学や、医学生物学を知らない野蛮人にとって、女性が毎月血を流すことが理解できなかった。 で、旧約聖書を書いた時代の人間は、生理の時の女性を不浄とみなす事にした。無知の故である。 人類の、再生産をもたらす女性の眞の意味での聖なる生理を不浄と見なす馬鹿げた考えは、ユダヤだけではなく、他の土地にも存在する。 どうして出血するのか分からない野蛮人にとって、女性の生理は、しかも毎月起こる、ということは人間にとっての何かの呪いと受け止めやすかったのだろう。血は死につながるからだ。 旧約聖書の時代から、四千年も五千年も経った現代、女性の生理の理由ははっきりしている。 けがれ、どころか、我々男性は女性にそのような負担を背負わせていることに感謝するべき時代である。 女性がそのような苦労を背負ってきてくれたから、今まで人類は生き延びて来られたのである。 それなのに、日本相撲協会は女性が土俵に上がることを拒否している。こんなに愚かだから、相撲人気ががっくりと落ち込むのも当然だ。(外人の力士ばかりだから相撲人気が落ちたと言うのは間違いだ。相撲協会の愚劣な旧式な態度が原因だ) 私は、人類の原初は女性だと思っている。 それは、自分の胸についている乳首を見る度に感じることだ。 どうして、授乳することもない男の胸に乳首がついているのだ。 こんなに恥ずかしい物はない。裸になって鏡の前に立つ度にひどく恥ずかしく思う。 この一事でもって、私は、男は人類として女性の副次的存在であることを認識せざるを得ない。 副次的であるからこそ、そして、女性が持っていない暴力的な性質を持っているからこそ、男が女に優位に振る舞ってきたのだ。 もともとの人類の存在の意義を忘れて、男性が女性に暴力的に振る舞うことは、男性が如何に知的に遅れているかを示す物だ。 誇りを持って言うが、日本の私達の世代は(他の国のことは知らない)、女性に対する感謝と畏敬の念と、そして絶対に対等の観念を抱いていた。対等どころか、崇めていた。 それが、最近の若い男どもの、あの野蛮さは何だ。 私は、テレビを見ていて、若い男が、若い女性に「お前」とか、「戸塚」とか姓を呼び捨てにして、言うのを聞く度に、テレビの画面に飛び込んでその男を殺してやろうかと思うのだ。 「お前」と呼んだり、姓を呼び捨てにすることは、その人間に対する尊敬の念を欠いた物である。 (外国のことは知らない。しかし、日本の文化の中ではそうである。日本には敬称という文化がある。 英語では、誰を相手にしても、youである。しかし、姓で他人を呼ぶときには、Mrとか、Missなどと敬称を付ける。) 若い男どもよ、自分の母親のことを、姉妹のことを忘れたのか。 自分の母親、姉妹が粗末に扱われたら、君たちはどうする。 自分の母親、姉妹が、他の男に「お前」とよばれたり、姓を呼び捨てにされたりして、それで平気でいられるのか。 女性は、世界の太陽である。 太陽を曇らせるようなことをするのは、自滅行為だ。 若い男たちよ。 まず、言葉遣いから、正してくれ。 (髪の毛の色が、茶色でも、金色でも、黄色でも構わないよ。女性に対する態度だけは、正しく保ってくれたまえ)
- 2008/12/20 - レディ・ダヴィッドソン・ホスピタル 3月に膝の手術を受けた後、この日記にも詳しく書いたが、術後のリハビリテーションは地獄のように辛かった。 なんども、「この手術は失敗だったか」と絶望的な気持ちに陥った。 しかし、9月に入るや、突然痛みが薄れていき、どんどん歩けるようになった。 最初は信じられなかったが、それまでの、リハビリテーションが功を奏して、骨が成長してきた結果なのだった。 今は、殆ど痛みを感じることなく、どんな距離で歩ける。 10月、11月は和歌山県の取材に行けたほどである。 それも、あの、リハビリのおかげである。 そこで、今日は、私が3月からリハビリテーションを行ってきた、「レディ・デイヴィッドソン・ホスピタル」を紹介しよう。 場所は、シドニーの中心部からハーバー・ブリッジを越えて北上し、車で四十分ほどかかる、North Turrumarraと言うところにある。 病院から、五分も行けば、Kuringai Chase国立公園の入り口になる。 非常にしずかで、穏やかで、のんびりした良い環境である。 病院の敷地は広大だ。 広大な敷地の中に、リハビリ専門の病院が平屋建てでたっている。 このようなリハビリ専門の病院は日本では聞いたことがない。 関節の手術などをした患者が、手術後樣子が落ち着いてリハビリに取りかかれるとなったら、この病院に転院してくるのである。 この病院にしばらく入院して、リハビリテーションを専門に受ける。 そのような患者のために、部屋が幾つもあり、専門の医者もついている。 私の実感では、リハビリを受けているのは私のような外来患者より、入院患者の方が多いようだ。 これが、受付。 受付の女性は、Caroll。 この病院はみんなそうだが、Carollも親切で、リハビリの予定を組んだりするのに、力になってくれた。 リハビリを受けに来るのは、私のように膝や股関節を受けた人間、また何らかの体の不具合から運動機能が低下した人間である。 したがって、老人ばかりである。 たまに、事故で怪我をした後のリハビリを受けに若い人間が来ることがある。 自分自身老いさらばえた身だが、若い人の姿を見るとなんだかほっとする。 これが、リハビリをするジムの内部。 体育館ほどの広さがあり、中央に、フィジオ・セラピストたちが事務を執るブースがある。フィジオ・セラピストたちは、一人一人の患者について、その日の記録を細かくつける。場合によって、他の人間が担当することになっても、その記録を見れば、これまでにどう言う経過をたどって来ているか良く分かる。 この記録をつける仕事も大変な物だ。 ブースの左側に、ベッドが並んでいる。 このベッドを使って、患者たちが、フィジオ・セラピストからフィジオ・セラピーを受ける。 ブースの後ろには、様々なエクササイズの機械が並んでいる。 ブースの右側には、歩行訓練をする、バーが並んでいる。 最初に、このバーを掴んで歩く訓練をしたときは、脚をつくのが怖かった。 それから思うと、現在は進歩した物だ。 患者のリハビリテーションを担当してくれるのは、二三人を除いて二十代の若い女性である。 若いが、技術も知識も確かである。 私を担当してくれたのは、Sarah。 Sarahは非常に優秀である。様々な技術を持っていて、私の回復状況に応じて、リハビリのプログラムを次々に組んでくれた。 3月18日に手術をしたあと、退院してからすぐにリハビリテーションを始めたのだが、最初のうちは、まだ手術による痛みが激しく、リハビリテーションを受けること自体が不可能と思えるくらいだった。 私は、生まれつき臆病なたちなので、こんな痛みがひどい状態でリハビリテーションなど、出来ないと怯えた。 何をするのも尻込みをして、出来ることなら何もしないですませたい、と思っていた。 しかし、Sarahは許してくれない。 「ええっ、そんなこと無理だよ」といっても、 「大丈夫、出来るわよ」とひるむ私を励まして、行く度に運動を厳しくしていく。 こうなったら、私も男だ。ここで、逃げたら日本男子の名折れだ。 侍であることを見せなければならない。 歯を食いしばって、Sarahの指導に従った。 その死にものぐるいの私の顔を見て、Sarahは「Smile, smile!」という。 そう言われれば、意地でも笑顔を作らなければならない。 無理矢理笑顔を作った。 厳しかったのは、膝を曲げる事だった。 早いところ、90度まで曲げないと、「麻酔をかけて、眠らせておいて、その間に無理矢理90度まで曲げる」と医者はおどかす。 医者は、エックス線写真をみて、手術が旨く行っていると確信して、Sarahに「どんどん力を加えて曲げさせろ」という。 それを聞いたSarahはお墨付きを得て勇気百倍。 モーターを使って膝を曲げる機械まで持ち出してきて、とにかく曲げようと努力する。 そして、全力を込めて私の膝を曲げながら、曲がる角度を測る。 ついに、90度に達したとき、私の膝を力一杯押し曲げていたSarahは嬉しそうに「90度、行ったわよ」と行った。 それが、回復の一つの山を越えた瞬間だった。 それから、一つ一つ、痛い痛いと泣きごとを言う私を励まして、Sarahはフィジオ・セラピストとして、最大限のことをしてくれた。 Sarahのこの、献身的な指導がなかったら、今のめざましい回復は得られなかっただろう。 Sarahは素晴らしいフィジオ・セラピストだ。 心から感謝する。 Sarahとは別に、脚の運動や、筋肉トレーニングなどのエクササイズを担当してくれたのが、Eliseだ。 Eliseの名前を聞いたとき、「はて、ベートーベンの曲にエリーゼのために、と言うのがあったな」と言ったら、「親が、その曲が好きで、それでEliseとつけたのよ。私も、エリーゼのために、は弾けるわよ」と言った。 発音は、エリーゼではなく、「エ」にアクセントを置いて「エリーズ」という。 非常に真面目で、快活で、心優しい女性だ。 細かく気を配って、エクササイズを組立ててくれる。 ある週の初め、素晴らしく立派な指輪をしているので、「おお、凄い指輪だな」と言ったら、「先週末に婚約したのよ」と顔を赤らめて嬉しそうに言った。 「君のような素晴らしい女性と結婚出来る男は、幸せ者だ」と言ってあげたら、喜んでいた。 Sarahと一緒の写真もご覧頂こう。 もう一人、エクササイズを担当してくれたのが、Claudiaだ。 陽気で、元気で、沈みがちな患者の気持ちを明るくしてくれる。 下の写真を見れば、その元気なところが分かるだろう。 チョコレートが好きで、仕事の合間にチョコレートをつまむ。 「チョコレート中毒で、肥っちゃうから困るのよ」と言いながら食べている。 Eliseとの写真もご覧下さい。 プールでハイドロ・セラピーをしたが、その際に指導してくれたのが、Skyeである。 今は、ハイドロ・セラピーも自分で決まったメニューを作って、勝手に出来るが、最初の頃は要領が分からず、Skyeにだいぶん助け貰った。 細かいところにまで気がつく、大変に親切で優しい女性である。 本当に助かった。 最初の内、プールに自分で入れなかった。 椅子がクレーンのようになっていて、その椅子に座ったままプールの中に入れてくれる機械がある。 その機械を操作してくれたり、更衣室が空いているかふさがっているか、みてくれたり、面倒をかけたのが、Pranyである。本当の名前はヒンズー語でPu-ra-ni-ti(誠実)だそうだ。 現在は、もう、フィジオセラピーもエクササイズも卒業し、プールも、自分一人で勝手に使ってハイドロ・セラピーをしているので、誰の世話にもならないようになった。 Sarah、Elise、Claudia、Skye、Pranyにも会うことがなくなった。 大変に淋しい。 みんな、フィジオ・セラピストとしても、優秀だし、第一人間的に素晴らしい。 親切で、明るく、責任感があって、技術程度も高い。 厳しいリハビリを何とか乗り切れて、今の回復を得られたのも彼女たちのおかげだ。 リハビリは辛かったが、彼女たちに会えたのは大変に幸せだった。 彼女たちの仕事は、多くの人々、特に老人たちを救い、人生に希望を与える気高い仕事だ。 そのような仕事に励んでいる彼女たちの活気のある姿は美しい。 彼女たちに、心からの感謝を捧げたい。 Lady Davidson Hospital。 素晴らしい病院だった。 (写真はクリックすると大きくなります。) なお、本日の日記の英語版を、レディ・ダヴィッドソン・ホスピタルのスタッフたちのために、別に掲載しました。 日本語版とは、少し違うところがあります。
- 2008/12/20 - Lady Davidson HospitalLet me introduce "Lady Davidson Hospital", the place where I have been going to for my rehabilitation since March. It is situated 45minutes drive from the city in North Turramarra, surrounded by a very quiet and pleasant environment. Only 5 minutes from the hospital and you are at the entrance of the Kuringai National Park. The hospital ground is vast. Amongst this vast area stands the flat building of the rehabilitation hospital. I have never heard of such a specialized hospital like this in Japan. Once those patients who have undergone orthopedic surgery are able to commence rehabilitation, they are transferred to this hospital to have intensive physiotherapy. There are many rooms for such patients, with specialist physicians on site. It appears that most patients are hospital inpatients rather than outpatients like myself. This is the reception with the receptionist, Caroll. Like all other staff at this hospital, Caroll is very caring and have helped me to schedule all my physio sessions. Patients who attend this clinic are those who have had some kind of surgery, or those with reduced motor functions. So naturally, most are aged people. Very occasionally a young person comes after being involved in an accident. Even though I myself categorize amongst the aged, seeing someone young gave me a kind of relief. This is inside the gym. In the center there is an office space where the physiotherapists keep detailed record of each patient. This record keeping alone is a big job. To the left of the office booth are beds where the patients get their physio treatments. Behind the booth are a variety of exercise machines. On the right there are bars used for walking exercises. When I first grabbed these bars to practice walking, I was afraid of touching my toes to the ground. I guess I have made progress since then. The physiotherapists at this hospital are mostly all young women in their twenties. The one who took care of me is Sarah. Sarah is brilliant. She is very skilled and came up with different programs according to my progress and recovery. After my operation on March 18th, I had to start my rehabilitation straight away. The post-op pain however was so incredible, that it seemed impossible to do anything. I am by nature a faint-hearted man, and feared to do any rehab work in this state of great pain. So I backed away from everything, and preferred to do nothing if I could. But Sarah, she wouldn't let me off. Even when I say "What? I can't possibly do that!" "Yes you can, you'll be fine" Sarah would cheer me on to do the exercises. And she would make me do them, adding a little bit more to do every time I went. So I decided to take on the challenge and prove that I was a man. To cower was to shame all Japanese men and the Samurai spirit. I clenched my teeth and followed Sarah's instructions. She would see my face distorted in agony and desperation and say "Smile, smile!" so I smiled. How could I not. The most difficult exercise was to flex my knee. My surgeon threatened me that if I couldn't get it to 90 degrees, he would have to knock me out and bend it by force. He was confident with the outcome of the surgery and told Sarah to apply as much pressure as she liked to flex my knee. To the surgeon's encouragement, Sarah brought out a motorized gadget and would try to bend my leg with every effort. She would push my leg with all her strength until my knee bent no further and measure the angle. When the day came as Sarah pushing against my leg spoke out in joy "we've reached 90 degrees!", I felt I had finally gone over one peak towards my recovery. Sarah encouraged me through each step and did the most she could as a physiotherapist. If it were not for her dedicated guidance, I would not have made such remarkable recovery. Sarah is a wonderful physiotherapist, and I am grateful of everything she has done for me. Apart from Sarah, there was Elise who was in charge of leg muscle training. When I first heard her name, I immediately thought of Beethoven's "Fur Elise". I asked her about it and sure enough her parents had named her after that exact piece. "I can play Fur Elise too", she added. She was a very sincere and cheerful girl. She would pay great detail to putting together my exercise routines. One week I realized she was wearing a very impressive ring on her finger. "I got engaged on the weekend", she told me very happily with a glowing blush. She was very pleased when I said "what a lucky man who gets to marry such a wonderful woman!" This is a photo of Elise with Sarah. This is Claudia, who was also in charge of the exercises. Very bright and happy, she would lift everyone’s spirits. You can see that when you look at this photo She loves chocolates and always snacked on chocolates during her breaks. This is Claudia with Elise, munching on her chocolate as she complains of putting on weight due to her sweet addiction. Hydrotherapy was one of the main components of the rehabilitation. The instructor in the pool was Skye. Now that I'm familiar with hydrotherapy, I can take myself through it, however initially I had no clue of what to do, so Skye taught me everything. She was good at picking up on little things and was very kind and caring. She was of great help. At first I couldn't get into the pool by myself. I needed to sit in a special chair that lowered me into the pool. This was managed with the help of Prany who maneuvered the machinery. And even little things as checking to see if the change room was free for me.(She said to me her real name was "P-ra-ni-ti" in Hindu language. It means "Sincerity" or "Truth". I have now completed the physiotherapy program. I still go and use the pool for hydrotherapy but without any assistance. The only sad thing is that I no longer see Sarah, Elise, Claudia, Skye and Prany. They are all superb physiotherapists, and just great people. They are the sole reason why I managed to go through the tough rehabilitation and make my recovery. It was tough, really tough. But meeting those girls was a blessing. The work they do, it gives hope to many people - especially to the old ones. And when they are at work, they are beaming with beauty. To them I give my sincere gratitude. Lady Davidson Hospital. A truly wonderful hospital. (Please click on the photos, and they will enlarge.)
- 2008/12/18 - 朔太郎と「あ」のこと 今夜、もの凄く、人恋しくなり、1969年以来の友人に電話をかけた。 このブログではとっくにおなじみの、沖縄に住む「あ」にである。 最初電話をかけたら、「あ」は留守だった。 そこで、彼の細君に「後で、電話するから、『あ』に、萩原朔太郎の詩集を用意しておくように」とお願いした。 しばらくして、電話かをかけ直すと、本人が朔太郎の詩集を用意して待っていてくれた。 そこで、私は、朔太郎の詩の中で私の好きなものを選んで、朗読した。 私は、高校二年生の時に、朔太郎の「竹」という詩に出会って、それで人生が変わってしまった。 あの詩は人間としての感性のあり方を根底から変えてしまう詩だ。 日本語の素晴らしさ、日本語で紡ぐ詩の素晴らしさ、高校二年生の私には、凄まじい衝撃だった。 今でも、「竹」を読む度に、深い恐れに似た感動を覚える。 「竹」だけではなく、朔太郎の詩は、それまで私が体験していた日本文学の範疇から遙かにはみ出した物だった。 それ以来、今に至るまで、朔太郎を超える日本文学にはついに出会えていない。 萩原朔太郎は、何世紀かに一人、突然現れる異常な天才である 朔太郎の詩の跡を継げる人間はいないし、朔太郎の感覚を受け継いで表現できる人間も、今まで出現しなかった。 「あ」は朔太郎を愛してくれる人間の一人である。 1969年以来の友人である。 この世で私が本当に心を許すのは、連れ合いと「あ」だけである。 連れ合いと、「あ」とであれば、何日一緒にいても、私の心は苛立たない。 他の人間だと、一緒に過ごすことが出来るのは1日半が限度である。 他の人間だと、その人間の全てが気にさわるようになる。 身振り手ぶり、しゃべり方、食べ物の食べ方まで、気に触る。 終いには、その人間の、呼吸の仕方まで我慢できなくなる。 「どうして、今息を吸うんだ。どうして、今息を吐くんだ。俺に無断で呼吸をするんじゃない!」 とまで、苛立つ。 しかし、世の中に二人だけ、一緒に何日いても心が安らかな人間がいる。 それが、連れ合いと、「あ」なのだ。 朔太郎の詩をお互いに読み合いたい、などと馬鹿げた願いを聞き入れてくれるのは、「あ」だけだ。 そして、今夜、二人で、沖縄とシドニーの距離を隔てて、朔太郎の詩を朗読し合った。 それぞれ、自分の好きな詩を朗読して、「いいな、朔太郎はいいな」と言い合った。 とても幸せだった。 こんな幸せはない。 で、「あ」に、「絶対に、俺より先に死ぬな。俺が先に死ぬからな」と言い渡した。 「あ」は私より、一歳年下なのだ。 四年前に、「あ」と私との共通の親友を、私達は失った。 その時の苦しさは、今でも、私を鬱に落とし込んだままだ。 これで「あ」に先立たれてはたまらない。 早いところ、何としてでも「あ」より先に死のうと心がけている毎日である。 今日、私が「あ」に朗読して聞かせた、幾つかの朔太郎の詩の一つを、下に記す。 と書いて置いて、何がよいだろうかと迷った末に、私が高校二年生の時に衝撃をけた「竹」を記すことにする。 『竹』 「光る地面に竹が生え、 青竹が生え、 地下には竹の根が生え、 根がしだいにほそらみ、 根の先より繊毛が生え、 かすかにけぶる繊毛が生え、 かすかにふるえ、 かたき地面に竹が生え、 地上にするどく竹が生え、 まっしぐらに竹が生え、 凍れる節節りんりんと、 青空のもとに竹が生え、 竹、竹、竹が生え。」 高校二年生の時に、この詩を読んで、私は、感覚と感性が全部変わった。 私は、無宗教者だが、萩原朔太郎だけには、身近に呼吸を感じるような気がするのだ。
- 2008/12/17 - 本屋を大事にしよう 読者諸姉諸兄にお詫びしなければならない。 前回「シドニー子育て記」を買ってください、などと書いたが、ある人から、AMAZONに注文したら、納期が二週間から五週間と書かれていた、と言われた。 そんなに待つのでは買う気が失せる、言うのである。 調べたら、AMAZONでは売り切れて品切れになっていた。 急遽AMAZONに配本する手続きを取ったので、今後ご迷惑をおかけすることはないと思う。 と言っておいて何ですが、本当を言うとAMAZONで買っていただくより、お近くの本屋さんに注文していただく方が嬉しい。 何故ならば、最近の出版不況と、大型店の出現によって、町の小規模な本屋さんが次々に閉店して言っている事実があるからだ。 小規模とは限らない。ある程度の規模で、支店まで持っている本屋が閉店する例が少なくない。 本屋が至るところにあるのは日本の素晴らしい文化の一つだ。日本の本屋で素晴らしいのは、店員が書籍についての知識を豊富に持っていることだ。本屋がなくなるとああ言う人達もいなくなる。それは、重大な損失だ。 あれは、すごい。 ある、大型書店で、三十そこそこの若い女性の店員が私の注文聞いて、広い売り場の中を迷わずに、私の欲しい本のある場所に私を連れて行ってくれた時には感激したな。 本屋を潰さないためにも、読者諸姉諸兄、出来るだけ本は本屋さんで買ってください。 (AMAZONで買うなと言うわけではありませんよ。AMAZONさん、気を悪くしないでね) 私がシドニーで一番不便をしているのは、本屋が無いことだ。 私の家は住宅街にあるとは言え、うちから5キロ離れたショッピング・モールに一軒、新聞や雑誌を売る店はあるが、本屋はない。 何でも良いから本を買おうとなったら、さらに5キロ離れた別のショッピングモールに行かなければならない。 それも、ろくな品揃えではない。 当然英語の本ばかりだが、それにしても、品揃えがひどすぎる。 安っぽいペーパーバックか、装丁だけは立派で重いが、中味はすかすかのアメリカ製のベストセラーか、そんな物ばかりで、英文学の古典はもとより、フランス文学・ドイツ文学・ロシア文学の古典(英訳でいいんだが)など、まず絶対にない。 シドニーの中心部に行くと、一軒大きな本屋がある。 そこに行けば、ある程度の品揃えがある。 しかし、日本の本屋のように、和洋内外の古典はもとより、教養を深めるような本がぎっしり詰まっている、と言うことはない。 この国の人間は、本なんか読まないのか、と本当に心配になってくる。 (日本の大きな書店の出店はある。そこは主に日本の本を売っている。私達シドニー在住の日本人にとって非常なる救いである) オーストラリア人を神保町に連れて行くと、驚く。 大きなビルがそれごと全部本屋であり、そう言う大きな本屋が幾つも並んでいて、さらに、古本屋が軒を連ねている。 そんな光景はオーストラリアでは信じられないことだ。 (オーストラリアだけではない。世界中で、こんな光景は神保町だけだ) 私は神保町に行くたびに、この町は日本の宝だと思う。 しかし、日本に住んでいればどこにでもある程度の良い品揃えの本屋は簡単に見つかる。 シドニーは四百万人に近い人口を持つ。 それでありながら、まともな本屋は数軒だけ。 そういえば、シドニーにまともな古本屋はあるんだろうか。 日本人向けの古本屋があるのは知っている。 これは、シドニーから日本へ帰る人が置いていった本を主に取り扱っている。そう言う本屋だから、漫画や文庫本が主で、固い本は余り置いてない。 パリにも、ニューヨークにも良い古本屋がある。 本は知識の宝庫であって、本を読まないと言うことは、先人が積み重ねた叡智の恩恵を全く受けないと言うことだ。 それは、余りに悲しい。 もうひとつ、シドニーで困ることは、CDやDVDを売る店が少ないことだ。 ロックのCDなら、ショッピングモールで売っているが、クラシックやジャズとなると、これはお手上げである。 日本なら、ちょっとした町にはCD・DVDの品揃えの良い店が幾つかある。 マーラーでも、ショパンでも、バッド・パウエルでも何でも手に入る。シドニーでは、非常に難しい。 (もっとも、長男に頼んでおくと、どこかからかジャズのCDを手に入れてくれたりするが。) LPだって、簡単に手に入る。 そう言えば、外国人のLP愛好家にとって、日本は天国であり地獄でもあるのだそうだ。 何故天国かというと、欲しいLPが手に入るから。 何故地獄かというと、あれもこれも、と欲しいLPが幾らでもあるので、破産してしまうからだそうだ。 シドニーのオーディオ専門店に行っても、実にちゃちなオーディオ機器しか置いてない。 私の持っているオーディオ装置なんか、もう年代物で、日本では恥ずかしいような代物だが、二年ほど前サラウンド用の小さなスピーカーを取り付けて貰うために、オーディオ屋を頼んだら、そのオーディオ屋の主人が私の装置を見て、目を剥いて真剣な表情になって「いい勉強をさせて貰った」と言った。 おい、おい、日本の水準から言ったら私のオーディオ装置なんて、下の下なんだよ。 あのオーディオ屋のオヤジは、日本へ行ったら、気絶するんじゃないのか。私が欠かさず愛読している、「Stereo Sound」誌を見せてやれば良かったな。 本と音楽は私にとって、命だ。 それが、シドニーでは、思うに任せない。 本も、CDも、日本へ行くたびに買い込んで、また姉に送ってもらって飢えをしのいでいる。 本屋のある町、これこそ、日本の宝だ。 本屋を無くしてはいけない。 本屋を盛り立てて行かなければならない。 そう言うわけで、どうか私の本は、本屋さんに注文してください。 (小さい出版社なので、とても、あちこちの本屋さんに置いておくことができません。その代わり注文していただければ、二、三日で届きます。) とは言え、AMAZONは便利だ。 特にシドニーにいると、日本の本を売っている本屋なんて一軒しかないし、品揃えも日本のようには行かない。 で、週刊誌や新聞で、これはという本を見つけると、忘れないうちにすぐにAMAZONで注文する。 葉山に昔から懇意にしている本屋があって、そこからは何冊もの雑誌を定期購読しているし、欲しい本を姉に頼んで注文して貰ったりしているが、AMAZONは姉の手を患わせずに直接すぐに注文できるところが利点だ。 しかし、基本的に私は本は本屋で買うと決めている。 ところで、オーストラリアにはAMAZONも無いんだよ。 この間欲しい本があって、オーストラリアのAMAZONに頼んだら、実はそれはアメリカのAMAZONで、アメリカからの航空運賃込みの値段を請求された。 Apple Storeはあるんだから、AMAZONくらい、オーストラリアにあってもいいと思うんだが、オーストラリア人は本を買わないんだなと痛感した。 あ、とにかく、本屋さんを大事にしましょう。 「シドニー子育て記」を今すぐ本屋さんに注文しましょう。 (って、図々しいというか、厚かましいというか、自分でも宣伝しすぎで下品だと反省しています。反省していると言いながら、取り消さないところが、またひどく下品だね。) でも、本屋とレコード屋を大事にしないといけないことは、絶対に確かだ。 本屋は文化の源だ。本当に本屋を大事にしよう。 本を買いましょう。(図書館なんかで借りたりするのは、出版社や著者としては本当に困ることなんだよ。この事については、後日また話します。私利私欲で言っていることではないんだからね)
- 2008/12/13 - 酒を休む 日本の有名な作曲家が、「毎日酒を飲んではいけない。酒を飲んでいては真剣な大きな仕事は出来ない」と言っていた。 その通りだと思う。 作曲家の場合はどうなるのか分からないが、物書きの場合、酒を飲んで書いた文章は、最低である。 酔いがさめて読み返すと、自己嫌悪で死にたくなる。 酒を飲み続けていると、体力が低下する。 脳の機能も低下する。 結果として根気が無くなるので、まともな大きな仕事は出来なくなる。 ちょこちょこと、ごまかしのきく仕事しか出来なくなる。 それに、酒は飲んだときは陽気になるのだが、翌日激しい鬱になる。 二日酔というわけではない。 体調が悪いわけではないのだが、いや〜な気持ちが、覆い被さってきて、何もする気がなくなってしまう。 実は、10月1日から、長い間断っていた酒をまた飲み始めた。 私はアルコール中毒でも、アルコール依存症でもないので、酒は止めようと思ったらいつでもやめられるのだが、一旦飲み始めると、仲々止まらない。 ついつい、毎日飲んでしまう。 それでも、和歌山県の取材中、何日かは断酒した。 それは、どう言う訳か取材中に胃腸の具合が悪くなったからだ。大勢の方を巻込んでいるのに、取材先で私が「具合が悪くて食べられません」などと言うことになったら、とんでもないことになる。大勢の方が善意で協力して下さっているのに、それを踏みにじってしまう。 それを恐れて、用心のために断酒したのだ。 しかし、その胃腸の不具合も、「取材中に具合が悪くなったら困るな」と、自分に精神的な圧力をかけていたからであって、取材が終わった途端、胃腸がすっきりして、和歌山の帰り大阪で盛大に飲み食いをしても何ともなかった。 実に私は、気の小さな男で、心配性で、些細なことで自分を縛り付けてしまう。 ま、それとは別の話で、やはり、しばらく酒を休もうと思う。 来年の春、放映の予定の「美味しんぼ」のテレビドラマの構成をしなければならない。 何としてでも、視聴率を20パーセント以上取ることが至上命題だ。 前回までのテレビドラマは、プロデューサーに全てお任せしてきたのだが、今回は、最初の構成から私にしてもらいたい、と言うことになった。 今テレビ局も不況で苦しんでいる。 そんな時に、制作費のかかる「美味しんぼ」を作るのだから大変だ。 何としてでも、良い成績を上げなければならない。 構成の締切りの日も近づいた。 もう、とても酒なんか飲んでいられない。 と言う訳なのだ。 仕事は昼間にすればよいのだから、夜酒を飲んでも構わない、と言えばそうなのだが、「ここは、ひとつ、しっかり決めるぞ」と自分に気合いを入れるために、酒を休むのだ。 大晦日は、シドニー恒例の花火大会だ。 大勢の友人たちと楽しむことになっている。 その日は、当然大酒を飲まなければなるまい。 大晦日を楽しみにして、それまで、酒を休む。 ところで、親愛なる読者諸姉諸兄よ。 「シドニー子育て記」はお買い上げ頂きましたか。 まだ買ってくださっていない方、すぐ本屋さんに注文を出してください。 沢山買ってくださいね。 どんどん、宣伝してくださいね。 お願いしますよ。
- 2008/12/12 - Dawkinsの本、「The God Delusion」 Christopher Hitchensの書いた「God is not Great」(副題は、How Religions Poison Everything、「如何に宗教は全てのものを毒しているか」) が面白いと言うことは以前にこのページで書いた。 それを二十年来の、オーストラリア人の友人「D」に贈ったら、しばらくして真剣な声で「てつや、ありがとう。あの本を読まなかったら後悔したところだ」という電話が掛かってきたことも書いた。 その「D」が二週間ほど前に、私に一冊の本をくれた。 それが、Richard Dawkinsの書いた「The God Delusion」である。 Richard Dawkinsは「利己的な遺伝子」という世界的なベストセラーで有名な、オクスフォード大学の教授である。 私は「D」に「God is not Great」を上げるときに、「『D』のような敬虔なカトリック信者は怒るかも知れないが」という、一文を付け加えた。 「D」はアイルランド系だから当然カトリックであり、時々教会に行くのも知っていたが、以前何度か、宗教について話し合ったときに、私が「『D』よ、本当に聖書に書いてあることを信じているのか」と尋ねたら、「D」は困惑していた。 そのことが頭にあったから、「God is not Great」を「D」に読ませようと思ったのであり、冗談半分に「D」を「敬虔なカトリック教徒」と言ったのだが、それが、「D」は不満だったらしい。 「D」は「おれは、敬虔なカトリック教徒なんかじゃない。この本は俺からのリベンジだ」と言って、「The God Delusion」をくれたのである。 「Delusion」とは、錯覚、とか妄想という意味である。 「The God Delusion」で「神という妄想」とでも言うのだろうか。 Dawkinsは日本でも有名なので、この本は既に日本語訳があるのではないかと思う。 「D」が「リベンジ」だと言うとおり、この本も徹底的に宗教、特に一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)を批判している。 まだ全部読み切っていないが、非常に面白い。 キリスト教がらみの話になると、やはり欧米人の知識は深く、私も聖書は随分念入りに読んだつもりだが、DawkinsやHitchensの書くことは私のキリスト教についての理解を深めてくれて、知的な刺激を大いに受けた。 Dawkinsの本をこれまで読んだところまでで、ちょっと面白い挿話が書かれているので紹介しよう。 旧約聖書の神は、おそらく間違いなく、全てのフィクションの中で一番不愉快な性格の主人公だろう、とDawkinsは言う。 以前、パレスティナ問題を論じたときに、ユダヤ教の神がユダヤ人だけえこひいきにして他の民族を滅ぼせとユダヤ人に命令することの理不尽さ。モーセやヨシュアの残虐さ、などを取り上げて書いたので、憶えていてくださる方もおられると思う。 Dawkinsは、旧約聖書の神について、続けて次のように言う。 「嫉妬心が強く、しかもそれを誇りにしている、狭量である、不公正である、人を許さず支配したがる偏執狂、執念深い、血に飢えた民族浄化者、女嫌い、人間嫌い、人種差別主義者、幼児殺害者、実子殺し、悪疫を発生させる者、誇大妄想狂、加虐嗜虐趣味、気まぐれで悪意のある弱い者いじめ」 あまりの言い様だと思うかも知れないが、旧約聖書を丹念に読むと、上記の表現がそのまま該当する神の行為が至る所に記されている。 Dawkinsが言うには、子供の頃から、学校で聖書を読まされてキリスト教教育を受けてきた者達は、余り感じなくなっているが、聖書など知らないまま過ごしてきた者は、その旧約聖書の神の残虐さを明確に受け止めるという。 Dawkinsはその一例として、Winston Churchillの息子、Randolfについて、有名な作家、イヴリン・ウォーが書いた話を紹介している。 戦争中に、イヴリン・ウォーはランドルフと軍隊で同じ部所に配置されたのだが、このランドルフは言動が騒々しい男だったらしい。 そこで、イヴリン・ウォーと仲間の士官が、ランドルフを静かにさせるために、「お前が二週間で聖書を全部読めるかどうか賭をしよう」と言った。 イヴリン・ウォーが嘆いて書いて言うには、ランドルフを静かにさせようと思ってしかけた賭が、全く反対の結果を招いてしまった。 ランドルフはそれまで、聖書は全く読んだことがなかったので、読み始めたらひどく昂奮してしまった。 そして、イヴリン・ウォーたちを掴まえて、聖書の様々な個所を「お前たち、こんな事が聖書に書かれていたなんて知らなかっただろう」と大声で読み続け、そしてクスクス笑いながら「神だってさ、神なんて糞じゃないか」と言う。イヴリン・ウォーたちの、ランドルフを静かにさせようという企みは失敗してしまったのである。 Dawkinsが言いたいのは、前もって牧師などにあれこれ理屈をつけて教え込まれておらず、純粋な心を持っていれば、聖書の内容がどんなにひどいものか、正確に分かる、と言うことだ。 私は、十九歳まで自分は熱心なキリスト教徒だと思っていた。 十九歳でキリスト教を捨てたが、それからしばらくは、キリスト教の呪縛から完全に自由ではなかった。 しかし、三十を過ぎて、聖書をきちんと読み返して、激しく驚いた。 教会の牧師は、モーセはただひたすら神に忠実で信仰深い尊敬すべき人間だと説いたから、そのつもりになっていたが、実際にモーセのしたことを読んでたまげた。 大体、その神その物が、滅茶苦茶だ。 ノアの箱船の話は何だ。 ノアの家族と、何十つがいの動物だけは助けて、他の人間も動物も(当然、子供も老人も全て含まれる)、自分の気にいらないからと言って皆殺しにする。 Dawkinsが言うように、途方もなく不愉快で気持ちの悪い存在だ。 無条件で自分を崇拝することを強要し、人間には理解の出来ない些細なことで機嫌を悪くして、罰として大勢の人間を殺す。 旧約聖書の中の神は、「愛」や「思いやり」や「慈しみ」など示さない。とにかくやたらと怒りっぽく、常に人間が自分を崇拝しているか見張っている。崇拝したご褒美に、何かくれることがあるだけだ。 エホバの言う事はただ自分を崇拝しろ、それだけである。崇拝しないとひどい目に遭わせる。 神に対する態度がよいと、豊かな生活が送れるが、神に背くとたちまち悲惨な生活に落とされる。 ダビデもソロモンも権力欲に燃えた、残虐な殺人鬼であり、現代の基準からすれば性犯罪者である。 しかし、神に忠実だから、王として君臨することを許される。 日本のある仏教家が「ユダヤ教は、神を崇拝すれば豊かに繁栄できると言う、飽くまでも現世的なもので、仏教の言う彼岸にわたる、と言う思想がない」と言っていたが、正にその通りだ。 どうして旧約聖書のようなものが、何千年にもわたって聖書として扱われ、現在でも数億人はいるユダヤ教徒、キリスト教徒が、本気であんな本を読んでいるか、私には理解できないことである。 私はランドルフに大いなる共感を抱く。 旧約聖書の神はユダヤ人には有り難いかも知れない。 しかし、私は真っ平ゴメンだ。 今の私は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、だけでなく、全ての宗教を受け入れられない。 DawkinsとHitchensの本は面白い所が多いので、これからも、時々紹介していこうと思う。
- 2008/12/08 - 「嫌韓・嫌中」について その4〈「雁屋哲の食卓」に「ピピーの焼きそば」を掲載しました〉 さて、「嫌韓・嫌中について」を再開しよう。 何故私が「親韓・親中」を貫くか。 それは人間としての誇りを持って生きたいからだ。 今の日本で「嫌韓・嫌中」を選択することは、人間としての誇りを失うことだと、私は信じている。 少し前に、このページの「お問い合わせ」に次のような投書が来た。 典型的な「嫌韓症状」を呈していて、「嫌韓」の本質を見るのに役に立つので、ここに掲載する。 この方の個人的な内容は含まれていないので、プライバシーの損害にはならないと考える。 (なお、今後も、このように掲載される恐れがありますので、掲載されるのが困る方はそのようにお書き添えください。また、フリーメール、あるいは偽のメールアドレスからの送信は、今後自動的にはじくように設定しましたので、「お問い合わせ」に投書される方は、こちらから返信可能な信頼できるメールアドレスから送信してくださるようお願いします。 私と読者諸姉諸兄との間の信頼関係を保つためです。ご理解下さい) その方の投書は次の通りである。 > 雁屋先生初めまして。 > 歴史を専攻した者です。 > さっそくですが、先生のおっしゃる「親韓」とは何ですか? > 日本人は永遠に韓国人には頭が上がらないのでしょうか? > 韓国は日本と違い永遠に人を許さないという文化を有し、政府主導で反日教育を行っています。 > 竹島に関しても、幼い子が独島の歌を歌う。 > 歴史に関しても韓国が有利になるような数々の捏造があります。 > ご存知でしたか? > 先生は韓国の新聞を見て驚いてるようですが、最近知ったのでしょうか? > 失礼ですが、先生はちょっと韓国に対して無識です。 > 朝鮮人強制連行も分かっているのは200人程でほとんどが朝鮮からの出稼ぎです。 > 慰安婦強制説も信憑性がありません。 > 私は初め韓国を好きでしたが、韓国を知るにつれ嫌いになりました。 > 彼らが変わらなければ。 > しかし韓国政府、メディアが反日を煽って政治利用しているので当分無理です。 > 彼らは反日が生きがいなのです。 > 日本人がアメリカを恨んでいないのはなぜか分かりますか? > 日本は親米教育だからです。 > 生まれつき植え付けられた韓国人の反日感情は簡単にはなくなりません。 > 先生はもっと勉強されて下さい。 > にわか仕込みの素人韓国論をマンガで展開しないでいただきたいです。 > 何も知らない子供に有害です。 > いくつかURLを貼っておきます。 > 今後の参考にされて下さい。 この人はのっけに、「歴史を専攻した者です」と書いている。 「専攻」という言葉は通常高校以上の教育課程でその学問を専門に学んだ事を意味する。 しかし、この人のそれに続く文章のあまりの幼稚さ、程度の低さから見て、到底「歴史を専攻した人間」とは思えず、これはいわゆる「煽り」と称される投書であって、まともに相手にしてはいけないと考えるべき物だろう。(中学生あたりの書いた文章に見える) だが、日本で出されている本や雑誌の中に、有名作家や、大学教授を名乗る人で、この人と同じような程度のことを書いている例が多いので、敢えて、この投書を取り上げることにした。 私は、今の日本で「嫌韓・嫌中」を選択することは人間としての誇りを失うことだ、書いたが、この人の書いた文章を読むとその感をますます強くする。 この人は、 「失礼ですが、先生はちょっと韓国に対して無識です。朝鮮人強制連行も分かっているのは200人程でほとんどが朝鮮からの出稼ぎです」 と書いている。(この「無識」という言葉は夏目漱石あたりが使っている言葉で、最近使われることはあまりない。私は、この人を中学生くらいかと思ったが、もしかしたら、老人なのかも知れない) 今、私の手元に「神戸学生青年センター出版部」刊行の、「1991朝鮮人・中国人・強制連行・強制労働 資料集」がある。 これは、主に1990年3月6日から、1991年6月11日までに、殆どが日本で発行された新聞記事を複写して集めた物である。 複写機で複写しただけで、編集した人の意見などは一切書かれていない。正に新聞の切り抜きを集めたような物で、その分客観性がある。 わずか一年ちょっとの間に、日本各地で、朝鮮人と中国人の強制労働に関する記事が、様々な新聞に掲載されていることに、私はまず驚いた。 北海道から九州まで、全国で朝鮮人と中国人の強制連行と強制労働が記録されているのである。 炭砿で働かせ、地下工場で働かせ、松代の大本営の地下壕で働かせ、と手当たり次第、朝鮮人・中国人を連行して強制労働をさせている。 (第二次大戦末期、軍は大本営と皇居を長野県松代に移す工事を実行した。それに使われたのは多くの朝鮮人と・中国人たちだった。松代大本営は完成前に日本が降伏し、今では歴史資料として公開されている。) ちょっと調べてみると、まさかと思うような県にも、強制連行と・強制労働の記録が残っている。 私は十数年前に、日本軍に捕らえられたオーストラリア兵の日本における待遇を調べるために、オーストラリアのキャンベラの、オーストラリア戦争博物館を訪ね、そこの資料室で様々な捕虜たちの残した記録を読んだ。 その中で一番多かったのは、自分たちが日本軍から、残虐な待遇を受けた記録だったが、同時に、九州の炭砿で強制労働させられたオーストラリア兵は、自分たちと一緒に、強制連行されてきた朝鮮人と中国人がそれこそ奴隷に劣る状況で無惨な強制労働をさせられていたことが記されていて、そんなことを予想もしてなかった私は、激しくたじろいだ。 日本政府による、朝鮮人・中国人の強制連行、強制労働を否定する人達は今でも少なくないが、まさかオーストラリア兵がその証言をするとはその人たちには思いも寄らぬ事ではなかったか。正に思わぬ所に伏兵あり、である。 日本でも、官僚の上層、政界の上層部、大会社の上層部あたりの地位に足が掛かると人々は突然、舌がねじれてしまい、まともなことを言えなくなるようだが、新聞に登場する普通の人達は率直に事実を物語る正しい心を失っていない。 多くの日本人が、朝鮮人・中国人を強制連行して強制労働させたことに対して、申し訳のないことをしたと、罪の意識を持っておられる。 さてこの資料集に、幾つかの記事がある。 ☆その1、「神戸新聞 1991年3月6日」 「労働省は、約9万人分の強制連行者の名簿の写しを外務省を通じて韓国大使館に手渡した。 これは、米戦略爆撃調査団がまとめた連行数66万7千6百84人の13パーセントにとどまり、韓国政府や韓国世論は満足していない。」 ☆その2、「神戸新聞 1991年9月11日」 「国立国会図書館に保存してあった特高作成資料で、強制連行朝鮮人は24万人に上ることが、日本辯護士連合会と、朝鮮総連で組織する『朝鮮人強制連行真相調査団』の調べで分かった。」 ☆その3、「毎日新聞 1991年5月23日」 「昭和十八年に当時の厚生省健民局が作成した文書が発見された。中には『強制連行した朝鮮人の契約期間終了後も、戦時下で生産能力増強のため日本国内で働かせる必要がある』とも記された文章が付け加えられている。」 書き出すときりがない、日本各地にこのような例無数にがある。 これらの例はすでに歴史的に確定した事実である。 この人の書いてきた「200人程度で、ほとんどが朝鮮からのでかせぎです」と言うのは、一体何なのだろう。 もう20年も前に明らかになった事実なのに、この人はいまさらなにを200人程度などというのだろう。 好意的に見て、無知(その人風に言えば「無識」)と言うことになるが、「歴史を専攻した者」がこの程度の基本知識を持っていないことは、信じられないことだ。 この程度の基本的な知識も持たずに、歴史について、他人に語ること自体、無知を通り越して犯罪的である。真実を損なうからだ。 知っていて、こんな事を言うとしたら、それは嘘つきか、デマを飛ばして人を扇動しようとする人である。 無知も、嘘つきも、デマを飛ばして人を扇動する人間も、恥ずべき存在である。 人間としての誇りを失っている。 この人は「日本人は永遠に韓国人には頭が上がらないのでしょうか?」 と書いている。 どうしてこの人は「日本人は韓国人に頭が上がらない」と考えているんだろう。 人の深層心理というもは、思わぬ片言隻句に表れる物で、この人はこんな事を言う事で、自分自身、気がつかないうちに心の底で「韓国人に頭が上がらない思いをしている」心理状態を示してしまっている。 この人が、心の深いところで「韓国人に頭が上がらない思いをしている」理由は、韓国人に対する罪の意識を深く持っているからだろう。 この人の文章の特徴は、「韓国人が反日的である」事を強調するだけであって、どうして韓国人が「反日的」になったのか、その原因を少しも書かないところである。 本当に「歴史を専攻した者」であれば、十九世紀から、日本が朝鮮に対してどの様なことをしてきたか、知らないはずがない。 日本が朝鮮・韓国、そして中国どんなことをしてきたか、そんなことを今更ながら復習するのは馬鹿らしい話だが、この投書を送ってきたような人が日本には少なからずいるようなので、馬鹿らしいと、高みの見物にとどまらず、馬鹿馬鹿しいことは一つ一つしらみつぶしにいていかないとならないと思う。 ああ、こんなに、辛いことはないのだが、乗りかかった船だ。 愚者を愚者とを罵るだけではだめで、悪質な愚者に誘われかねない、無垢な人のために、きちんとしたことを書いていかなければならないと思う。 ここから先は、日を改めて書くことにする。
- 2008/12/07 - ネットの世界は鬼ばかりではない コンピューター雑誌の「ネトラン」の2008年8月号の表紙に、「渡るネットは鬼ばかり」とでかでかと書かれているので、思わず笑ってしまった。 この「ネトラン」という雑誌は、以前は「ネット・ランナー」という名前だったのだが、最近「ネトラン」に変わった。 インターネットで遊んでいると夜更かしどころか夜明しをするので「寝ておらん」すなわち、「ネトラン」となったのではないか。 この雑誌は若者向きで、インターネットから様々なファイルをダウンロードする方法、DVDをコピーする方法、など、わざわざ「悪用厳禁」とか、「これはひどい!」というぎょっとする惹句をつけるくらいに、「ここまでするかい」と言いたくなるような、ぎりぎりの技を毎号ご披露してくれる。 実は私は、コンピューターを使う仕事の99・9パーセントはMacを使っているので、このWindows専門の「ネトラン」を読んでも、そこに書かれている記事は、全くと言って良いほど、私には実用的な意味がない。 (私は一時、コンピューターの自作に凝って、何台かWindowsを走らせるコンピューターを組立てたが、組立てて「よし、世界最速のコンピューターが出来た」と思うと満足してしまって、実際には使うことがないので、コンピューター自作熱も冷めてしまって、今持っているのは三年ほど前に作った物が一台だけだ。 コンピューターの世界は日進月歩で、どんどん新しい規格がつくられ、新しい部品やら、CPUが次々に現れてくる。 私の自作機は、当時は世界最速だったが、今はもはや、骨董品の世界にはいるようだ。) 私がコンピューターを使ってする仕事は、文章作成、デジタルカメラで撮った写真の整理、自分で撮影したビデオの取り込み・整理・DVD作成、新聞や雑誌の記事、更に昔の写真ののスキャニング・取り込み、ネット・ブラウジング、メールの送受信、ブログの製作、などが主だから、Macで不自由しない。 ましてや、「ネトラン」で書かれているような、裏っぽいことには無縁なので、実用性はないのだが、「ネトラン」を読んでいると、インターネットの世界が今どうなっているか、インターネットの世界で若者たちがどんなことをしているか知ることが出来て面白い。 やはり、世界中のコンピューター使用者の90パーセント以上がWindowsである訳で、Macの雑誌を読んでいるだけでは分からない事が多くて、感心する。 それに、記事も面白い物が多い。 いつだったか、ハードディスクはどうすれば本当に駄目になるか、と言う実験をしていた。 トンカチでたたく、冷蔵庫に入れる、お湯で煮る。 こんな事を実際のハードディスクで試してしまうのだから、その突貫精神に感動してしまった。こんなこと、普通思いつきませんよ。思いついても実行できないって。それを、やっちまうんだから、若いって凄いことです。 読者の質問に編集部が答えるのがこの雑誌の特徴だが、質問と、それに対する答えの文章が、面白い。 たとえば、 「キー連打しても文字がついてこねぇぇぇぇぇぇ!」 と言う質問に対する答えが、 「キーボードのプロパティをイジれえぇぇぇぇ!」 などと言うのだから、たまらない。 これに比較すると、Macの雑誌は実につまらない。 アップル社の、広報誌みたいだ。 私は、コンピューターの情報が欲しいというのに、iPod、iPhone、など、アップル社の製品を特集する記事が毎号満載だ。 Macの雑誌だけを読んでいると、コンピューターの技術革新の実情から甚だしく疎くなる。 どうも、前振りが長くなったが、その「渡るネットは鬼ばかり」という言葉だ。 正にその通りで、フィッシング詐欺、ワンクリック詐欺、ブログの炎上攻撃、ネットオークション詐欺、など実世界よりおどろおどろしいことがインターネット上で繰り広げられている。 他人の、中傷・攻撃など、普通のことで、人間匿名で責任を持たなくて良いとなると、ここまでひどいことを言うのかと、人間性に絶望してしまう。 そのような、インターネットの世界にも、ほっとするサイトがある。 私好きなサイトを二つ紹介しよう。 一つは、 「けんけんのきつねワールド」 だ。 これをたどっていくと、おなじ人間が作っていると思われる、 「神奈川のきつねワールド」 と、「東京のきつねワールド」 に行ける。 これらのページでは、神奈川県と、東京の、稲荷神社を発見して歩いて、その写真を載せてある。 私は、宗教は何一つ信じることが出来ない人間なので、稲荷信仰も、「へええ」と思うだけだが、日本人の稲荷信仰の広さと厚さには感心する。 このページを見ると、東京と神奈川の、思わぬ所に稲荷神社が存在することが分かる。 稲荷神社には、キツネがつきものだ。 このページの作者は、丁寧に、それぞれのキツネの写真を撮り、神社によってキツネが様々に違うことを、語っている。 そのキツネが、それぞれ独特の姿態、表情で、実に面白い。 どれも素人が作った物のように見えるほど、稚拙な物が多いのが、また楽しい。 このページは、民俗学的な資料としても価値が有るのではないか。 しかし、それ以前に、思いも寄らぬ飛んでもないところに稲荷神社があることの面白さ、キツネたちの可愛さ楽しさが、実によい。 気分の鬱屈したときなど、このページを開いて、様々なキツネを見ているとほっとする。 神奈川県で55、東京で19の稲荷神社を取り上げている。 どんどん続けて行って欲しいと思う。 もう一つは、 「四国競輪」 である。 私は賭け事は嫌いだが、競馬と競輪は大好きだ。 広い芝生の馬場をサラブレッドがたてがみと尾をなびかせて走る姿は何とも言えず美しいし、競輪は、最高の競走競技だと思う。 鍛え上げた選手同士が、戦術を練り、駆け引きを繰返し、最後に、全力でゴールに駆け込む。 それを見ていると、実に、胸が熱くなる。 競輪は最初の数周は選手たちが様子を見ては駆け引きをしているが、後2周となると、係員が赤い板を出す(これを、あかばん、と言う)、そして最後一周となると鐘を鳴らす(これを、じゃん、と言う) 競輪の本当の勝負はその赤板からで、それが、じゃんで、選手たちは死にものぐるいになり、ゴールに突っ込む。 こんなに素晴らしい競技はない。 私は、車券を買うが、それは博打の意味ではなく、こんなに素晴らしい競技を見せて貰うお礼のつもりで車券を買うのだ。 私は会社勤めをしているときに、会社をさぼり、競輪新聞をズボンの尻ボケットに突っ込んで、花月園競輪場に乗込んだときには、「ああ、俺もついにいっぱしの男になったな」と自分でひどく感動した物だ。 その花月園競輪場の特別観覧席はすごかった。 あの辺を縄張りとするヤクザの大集合だ。 親分が子分たちを引き連れて、一番良い席にどっかと座る。 ヤクザの下っ端が、高利貸しの男に、「10日で1割の利子でよいから、いくらか貸してくれ」と頼んでいたり。 ヤクザの飲屋(違法私設車券売り)が、私の所にやってきて「兄さん、ちょっとうちから買って貰えないかね」と言ったり、実に面白かった。 しかし、そこの立ち売りのうどんが、ある時から、カップうどんになってしまったのにはガッカリした。 それ以前は、茹でおきのうどんをおばさんが湯に通してどんぶりに入れてそれに化学調味料だけで味を付けたと思われる汁をかけくれる。普通であれば、まずくて食べられないが、競輪場の片隅で、みんなが車券で熱くなっている中で、どんぶりを抱えて立ち食いをしていると、実に自堕落でいい感じで、味よりも、その感覚にしびれた。 しかし、それも、カップヌードルでは、まるで感じが出ない。 あの、茹で置きのだらりとした麺、まずい汁、貧相などんぶり、それが何とも言えず良かったのだ。 この競輪を、オーストラリアに来てみられなくなった。 実に残念だ。 と思っていたら、いつの間にか、インターネットで競輪が見られるようになった。何とも有り難い話である。 競輪場は、日本全国にあって、その全国の様子を知りたければ、 「競輪ブロード・バンク」 が良い。 日本中の競輪場の、結果や、過去のレースの動画を見ることが出来る。 私が、とくに「四国競輪」を取り上げたのは、四国の、「小松島競輪」の女性アナウンサーの実況放送が好きだからだ。 日本全国どこの競輪場でも、実況放送を流しているが、女性が実況放送のアナウンサーを務めているのは、この「小松島競輪」だけだろう。 ホームページを見ると、茂村華奈さんという、如何にも元気そうな女性である。 競輪は男の世界のように思われているが、その競輪の実況を若い女性の声で「3番手ガチンコ勝負、さあ、後方から8番車まくってきた! そのままもつれるか、1番車残っている、まくりきれるか!」 などと、放送されると、実に新鮮でどきどきする。 気持ちが落ち込んでいるときに、茂村華奈さんの元気の良い声を聞くと、気持ちが晴れる。 インターネットも、鬼ばかりではないのだ。
- 2008/12/06 - 有田芳生さんを応援します 私は基本的に政治に関わらないことにしている。 政治家にも近寄らないようにしている。 私は政治には関心があるのだが、如何なる党派にも関わるのがいやだからだ。 しかし、個人的に政治家、あるいは政治家を目指す人を応援するのは、その人間が私と考えを同じくする人なら、構わないだろうとおもう。 今度の総選挙で、評論家の有田芳生さんが、東京11区から立候補されるというので、是非有田さんを応援したい。 以前から有田さんのブログを私は熱心に読んでいて、大変に真面目な方だと思っていた。 「有田芳生の酔醒漫録」 一度東京でお会いして一緒にお酒を飲んだことがあるが、ブログを読んで受けていた印象どおりの方だった。 何度かメールを交換していて、真面目でいちずな方であるという印象は余計に強まった。 実は最近、有田さんのブログに、オーストラリアからアクセスできなくなった。 私の家からだけでなく、私の使っているISPから直接試して貰ってもつながらない。 私の使っているISPの技術者は、有田さんがブログを載せているISPが、オーストラリアからの、あるいは私の使っているISPからの接続を拒否しているからだ、と言う。 有田さんの使っているISPに接続を許可するように頼んでくれと技術者は言う。 しかし、どう頼んで良いのか分からない。 この十月に日本へ行って、久し振りに、有田さんのブログを読んだら、衆議院に立候補する、と書かれていたので驚いた。 参議院の選挙で懲りたかと思ったら、再び挑戦すると知って、その勇気に感心した。 メールを交換して、有田さんが教育問題に真剣に取り組む意志を持っているのを確認したので、ここは一つ応援しなければなるまいと考えた。 応援すると言っても、オーストラリアに住んでいる私に出来ることと言ったら、ブログで応援する程度のことしかない。 それでも、こうしてブログに書けば、少しは応援のお役に立てるのではないかと期待している。 私は、日本の受験勉強本位の教育制度が耐えられなくなって、二十年前に日本を飛び出したのだが、日本の教育環境は二十年前に比べて確実に更に悪くなっている。 このままでは日本は立ち腐れてしまう。 受験勉強本位の教育制度はますます強固になっていくし、それに加えて、二十年前にはなかった「君が代・日の丸」で締め付ける思想統制まで始まった。 国と教育委員会が校長を締め付ければ、校長は教員を締め付ける。 次に教員は生徒を締め付ける。結果として、教育全体が統制される。 こうして生徒は国の方針に従うように強制される。 従わないと、落ちこぼれなどと言って、疎外される。 私は、自分の中学・高校時代、ただひたすら受験勉強ばかり強いられて、砂を噛むような思いをした。そんな思いをするのなら二度と生まれて来たくないとまで思った。 そんな思いを自分の子供たちにさせたくないと思い詰めたあげく、日本から逃げ出した。(その辺の経緯は、この日記の「子育て記」にも書いてあるので、読んで頂ければ、私の考えが分かっていただけると思う) 今の、小学校・中学校・高校の生徒たちは、私の時代より更に厳しく辛い状況にあるのではないか。 AERAの2008年10月13日号に、「勝ち組襲う早すぎる挫折」という特集が載っていた。 一体何のことかと思って読んで、気が滅入った。 「勝ち組」というのは、小中学校で勉強が出来て、その上の受験校の試験に合格して進学した生徒のことである。 有名受験校に合格して進学したから「勝ち組」である。 ところが、進学した学校では、小中学校の時のような良い成績が取れない。そこで偏差値の低い学校に移る。最悪の例は退学してしまう。 それが「挫折」だと言う。 しかし、これは生半端な「挫折」ではなく、その生徒の心を深く傷つけ、将来にも厳しい影響を与える。 学業成績、それも試験の成績だけでその生徒の人間としての価値を判断する教育とは一体何なのだろう。 こんな物が教育であっていいはずがない。 11月に上梓した「シドニー子育て記」の中で、ある有名受験校のことを書いた。 その学校は中高一貫の受験校で、毎年東大を始め有名大学におおくの合格者を出している日本でも有数の受験校である。 ここには、日本中から受験秀才が集まってくる。 一学年200人だが、中学三年までのあいだに50人が脱落する。 試験の度に、成績の悪い生徒には、教師が「君、ここにいても辛いでしょう」「他の学校に行けばもっと楽になるよ」「君なんかこの学校にいない方がいいよ」などと言って、退学を促す。 中学三年までに減った50人は、高校で新たに新入生を取って補うと言う。 その学校の卒業生が、そんな話を書いているのを読んだときに、私は唖然となった。 試験の成績だけがその人間の価値判断の基準で、試験の成績が上がらなければ、上げるように助けてくれるのではなく、退学させる。 退学させられた生徒は深い傷を負う。 AERAの記事にある、「挫折」した勝ち組だ。 こう言う生徒たち負った傷は一生癒えることがない。 「自分は駄目だ」と、自分で自分を低く評価して一生を過ごす。 何と無惨なことか。 こんな物が教育であって良いはずがない。 教育とは、人間の心を豊かに育て上げる物であるべきだ。 心豊かな人間が集って、初めて、思いやりのある、暖かい、ウソのない社会が出来るのだ。 受験秀才が、この世を支配する限り、人を押しのけ、自分の利益のみを追求し、社会的責任を負わない人間ばかりの、今のひずんだ社会は、更に悪くなる一方だ。 学力を身につけることは確かに大事なことだ。 勉強は大事なことだ。 死ぬまで勉強を続ける精神を身につけることは大事なことだ。 しかし、受験勉強では本当の学力、本当の教養は身に付かない。 本当の学力を身につけるにはどうすれば良いか「シドニー子育て記」の中に書いた。 東大法学部出身者が如何に教養がないかは、以前にもこの頁で書いた。 私は、今の教育制度を正さないと、日本は今まで以上にぎすぎすと荒廃した社会になると恐れている。 今、一番大事なのは教育を改革することだ。 その教育問題に、有田さんは取り組んでくださると仰言る。 その有田さんの言葉を信じて、私は有田芳生さんを応援しようと思う。 有田さんの立候補する東京11区を見てみると、自民党の下村博文氏が、ずっと支配している。 有田さんにとっては厳しい戦いだ。 だからこそ、応援したい。 今の日本で政治家になれるのは、元議員の二世三世か、官庁や大企業が背後についている者か、あるいは、テレビなどで虚名を獲得した者か、に限られている。 これは何を物語っているのか。 選挙民が、あまりに政治のことを真面目に考えないと言うことだ。 今の政府の内閣の顔ぶれを見てご覧なさい。大半が二世三世だ。 その二世三世議員の政治家の資質がどんな物か、ここ数年の日本の総理大臣を見れば良く分かる。 無能であるのに、父親、祖父の威光を笠に着て議員になり、総理大臣になった結果が、いまの体たらくだ。 二世三世議員を選ぶ選挙民は、江戸時代の封建的な感性をそのまま持っている。 殿様の子供を有り難がる。 それに尽きる。 あるいは、官庁や大企業の押す者に投票する。 そこには理性がない。存在するのは権力と権威に無条件に従う愚かな群衆だ。 今の無惨な政治状況を作り出している政治家達は、みんな選挙民によって選ばれて国会に出て来た者達である。 政治が悪いのは、政治家が悪いのではない。 そんな政治家を選んだ選挙民、(あなたですよ!)が悪いのだ。 いい加減に目覚めて欲しい。 東京11区の皆さん。 ここは、理性と知性のあるところを示して、政治に新風を吹き込んでくれる、有田芳生さんに投票してください。 有田さんがどんな人柄かは、有田さんのホームページを読むと良く分かる。是非読んで下さい。 また、有田さんのホームページの最初に、選挙資金の送り先が書かれている。 有田芳生さんは、テレビに良く出ていたとは言え、芸能人のような人気のある人ではない。 応援してくれる背後の組織もない。 一人でも多くの方に、少しでも良いから、選挙資金を援助してくださるようお願いします。 アメリカの、オバマは、一人あたり5000円とか10000円とかの小口資金を何百万人の人から集めて、選挙に勝つことが出来た。 アメリカ人に出来て、日本人に出来ないはずがない。 一人でも多くの方が、選挙区に関係なく、有田芳生さんの選挙資金を援助してくださるようお願いします。 有田芳生さんが国会に出れば、日本の政治が良くなる芽が出来る。 少なくとも、東京11区は住みよい所になる。 私は、心から、有田芳生さんを応援する。 有田さんが、当選することを、有田さんのためだけではなく、東京11区の皆さんの為にも祈る。
- 2008/12/03 - 「に」夫妻が帰国された 11月25日からシドニーに遊びに来て下さっていた、私が電通で働いていたときの先輩「に」さんご夫妻が、今朝の飛行機で日本へ帰られた。 「に」さんとは1969年以来のおつきあいで、一方的に私が「に」さん御夫妻にご迷惑をかけ続けてきた。 今回、また私の昔の悪行が暴かれた。 私が電通をやめて、漫画の原作を書き始めた頃のことだが、「に」夫妻がそろそろ寝ようかという夜11時頃に、突然私が電話かけて来て「これから、行くから」と言って電話を切ってしまう。「に」夫妻にだって都合というものがある。 来られたら困るときだってある。そんなことには私は全く無頓着に「これから行くから」と一方的に言って、しばらくするとどたどたと乗込んでくる。 「に」夫妻は、全然お酒を飲まないのだが、海外出張の折など、高級な洋酒を誰かに贈り物にするために買って置いたりする。私のために買ったわけでいない。 それを、勝手に私は開けて飲んで、明け方の2時3時まで、大騒ぎする。 「に」夫妻は仕事を持っている。 翌朝、「に」さんは電通に、「に」夫人は教師を務めている高校、二人とも寝不足の頭を抱えてに出勤する。 その二人を尻目に私はぐうぐうと高いびきをかいて、昼過ぎまでゆっくり寝ている。 「に」夫人は、「こちらがいいとも悪いとも言わないうちに、勝手にこれから行くから、と言って来ちゃうでしょう。本当に参ったわよ。」と言う。 昔の色々なことを、思い出しては、四人で涙を流しながら腹を抱えて笑った。 本当に昔からの長いつきあいという物は良い物で、「に」夫妻の存在は、私にとって人生の宝物である。 「に」夫妻に、どれだけ助けていただいたことか。 「に」夫妻に帰られてしまって、ひどく淋しくてたまらない。 気が抜けた思いである。 今度日本へ帰ったときには、「に」夫妻の家を襲って、また、どんちゃん騒ぎをして困らせてやろう。 私は自分では友人の数が少ないと思いこんでいたが、連れ合いに指摘された「そんなこと無いわよ、いいお友達が沢山いるじゃないの」 考えてみると、交友関係が広いわけではないが、一人一人、心の深くまでつき合っている友人が、何人もいる。 みんな家族ぐるみでつき合っている。 そしてみんな、私に優しい。 連れ合いが言うには、「みんなてっちゃんの我が儘を、とがめたりしない、心優しい人達ばかりよ。感謝しなければ駄目よ」 たしかに、みんな、私の我が儘はもう、諦めているようである。 上手に適当にあしらってくれる。 古い友人ほどありがたい物はない。 人生の色々な場面を共有しているのだから、互いに顔を見合わせて、にやりとするだけで、気持ちが通じてしまう。 四年前に、私は親友の一人を失い、あまりの衝撃に、ひどい鬱病に陥ってしまった。 私の尊敬する料理人、西健一郎さんと西さんのお父上、西音松さんの料理を春夏秋冬に渡って記録する漫画を描かせていただいたが、その際に、天才料理人の岡星が鬱病に罹って苦しんでいると言う設定にした。 岡星が、西さんの料理を体験するにつれて、鬱病から立ち直っていく、と言う筋立てにしたのだが、それは、そのままなんとか、鬱病から立ち直りたいという私自身の、苦しい心の格闘を描く物でもあった。 実際に、鬱病の治療は難しいもので、素人が手を出すべき事柄ではないことは良く知っていたが、私は何かすがる物が有れば、鬱病から回復する助けになるのではないかと思ったのだ。 漫画の中の岡星がすがったのは西さんの料理であり、私がすがったのは、そのような漫画の原作を書き続けることだった。 鬱病をあのように取り扱うことで、いろいろと批判を受けたが、こちらも死ぬ思いで書いたので、そう言う批判は聞流すしかなかった。 死ぬか生きるか、そんなことばかり考えながら、七転八倒しながら書いていたのであって、なにか精神病の教科書から引き写してきたような意見は、笑止千万、人の実際の苦しみも知らずに、何を言うのか、とその批判の浅さに腹が立った。 今も、鬱病は完治していない。何かの拍子に、どーんと谷底に落ち込む。 しかし、自殺だけはしない、と言う自信はついた。 先日も、私の小学校の同級生が、朝の散歩に出たときに心筋梗塞で急死した。 私の学級一の模範生、優等生であり、みんなに慕われていた。 彼が死んだことで、私達の同級生が持っている掲示板には、彼を悼む文章が連なった。 友人を失うことは、本当に悲しく、辛い物である。 この辛さ、悲しさから逃れる道は一つだけある。 私が誰よりも先に死ぬことである。 そうすれば、友人を失う悲しみを味わうことはない。 私の人生は、病気を除けば、大変幸せな物だった。 これだけ幸せを味わえば、いつ死んでも構わない。 大事な人に死なれる悲しみを味わう前に、早く死んでしまいたいと思っている。 といいながら、未練がましく、執念深く、生き続けようとするんだろうな、私という人間は・・・・・・。
- 2008/12/01 - 今日の中華料理 今日は、タスマニアからお帰りになった、終生上司「に」夫妻を、シドニーの中華街で私が一番信頼している店にご案内した。 しかるに、何たること。 最初に注文した、スキャロップ(日本では、ホタテ貝)の清蒸がよろしくなかった。 いつも私を担当してくれる人間が、他にも客が立て込んでいて、上手く対応できなかったということだが、そのホタテ貝は生きているホタテ貝ではなかった。 極めて新鮮ではあるが、すでに死んだホタテ貝だった。 生きたホタテ貝と、如何に新鮮であろうと、死んだホタテ貝との味の差は、これは歴然とした物で、私は、怒った。 その担当の男には、アワビのしゃぶしゃぶの調理の仕方の「いろは」から教えたのに、どうしてこんな物を食べさせるのか。(もっとも、注文を取ったのは、別の男だったが)。久し振りに、私は、その店で声を荒げて怒った。 大事なお客様である「に」夫妻は、そのように、料理人を怒ることは大嫌いな人達である。 私が怒るのを聞いていて、「に」夫妻は非常に辛そうな顔をしておられた。 「に」夫妻は品の良い人間である。私とは、人間の格が遙かに上の方たちである。 しかし、であるからこそ、私は「に」夫妻にシドニーで一番美味しい物を食べていただきたかったのだ。 それを、はぐらかされたから、私が怒るのは当然だろう。 もっとも、最初のホタテ貝以降、私のいつもの担当の人間が驚き慌てて、店もしっかり料理に取り組んだので、全般的に見ると、最初のホタテ貝以外は、素晴らしく美味しかった。 中でもマングローブ・クラブ、(オーストラリアでは、マッド・クラブと言うが)を、餅米と一緒に蒸した料理は最高だった。 「に」夫妻にも満足していただけて幸せだった。 ところで、昨夜アップロードした、記事を取り消した。 読み返してみて、私自身が、大変下品な感じがしたので、急いで取り消した。 政治や、政治家について、何か言うときに、自分の品性まで考えないと、あとで、じんみりと後悔することになる。つい、けんか腰になってしまって、品が悪くなる。 日本の政治家と、同じ舞台に立ってしまっては、どうしようもない。 それだけは避けるべきなのだ。 と言いながら、たぶん、明日か、明後日のこの欄で、ある方を政治家として推薦する記事を書くことになると思う。 それは、その方が、我々の意見を代弁してくださると思うからだ。 ま、とにかく、私が応援するその方は本当に大変なんだろうと思う。 まず、生活が成り立たないと仰言る。 昔から、政治と言う物は「井戸、塀」と言われた物だ。 政治に関わると、最後には、全ての財産を失い、残るのは、家の周りの塀と、井戸だけだ、と言うわけである。 しかし、最近の政治家は、政治家になることで財をなそうとする。真面目に政治に取り組むと、自身の生活が成り立たなくなる。おそろしく、情けないことである。 分からんことばかりなので、頭がぐらぐらする。
- 2008/11/30 - 奇怪なデマ 一昨日、仙台の伊澤さんから電話が掛かってきた。 伊澤さんは、「勝山」という酒造会社を持ち、東北の日本酒醸造協会の重鎮、江戸時代からの仙台藩の御用倉を務め、お金も融通してきたというお金持ちで、ご自分でもレストランを経営し、料理学校を経営していて、日本の料理の世界では著名な方である。(ついでに言うと、東北大学の敷地のかなりの部分は、伊澤家が寄付した物だそうだ) 「美味しんぼ」でも、無添加ソーセージを作ったり、「日本全県味巡り」の「宮城県篇」の際にはお世話になっている。 伊澤さんは、70を越えられたのだが、いまだにアイス・ホッケーをやめられない。 なんと言っても、自分でアイス・ホッケーをするためにスケート・リンクを作ってしまった人だから、その思い込みが強烈だ。 毎年頂く年賀状には、前年のアイス・ホッケーの成績が書かれている。 もう、いい加減に止したら如何です、と言うのだが、歳は70でも、心は15歳なので、がむしゃらのまんまで、手がつけられない。 (伊澤さんが60を越えて間もない頃、私達夫婦と伊澤さんご夫婦とで札幌に美味しい物を食べに行ったことがある。すると、昼間、夕食まで時間があるから映画を見ようと、私達をお誘いになる。何の映画かと尋ねると、「頑張れ、ベアーズ」というアメリカのアイス・ホッケーの映画だという。そんな物はいやだと断ったのだが、なにしろ精神年齢15歳の方だから、言い出したら聞かない。 無理矢理、映画館に連れて行かれた。 しかも、その際におかしかったのは、伊澤さんは自慢げに「私は60を越えたので、映画はシニア料金で見られるんですよ」といって、シニア料金で入場したことである。 それが、仙台一の金持ちのすることか。 じつに、面白い方である。ついでに言うと、その映画は子供のアイス・ホッケーチームの話で、最初から結末が分かっている、幼稚な内容なのだが、伊澤さんは、アイス・ホッケーと言うだけで、昂奮して熱を入れて見ているのだ。 まったく、ひどい目に遭った) 伊澤さんお電話の内容は、私にとって、キツネにつままれたような、奇怪な話だった。 伊澤さんは東京で、何とかと言う名の「美食の会」に入っていて、数日前にその会に参加したのだが、伊澤さんのとなりに、「は」さんがいた。 「は」さんは、調理師学校を経営しており、食の評論家として良くテレビに登場しておられる有名な方である。 私は、「は」さんの調理師学校で十数年前に講演をしたことがある。何かの拍子にある料理屋で偶然「は」さんと隣り合ったことがある。 また、何かの機会に「は」さんから真空調理に関する資料をいただいたことがある。 「は」さんとのおつきあいは、その程度で、親密なおつきあいという物はしたことがない。深い話もしたことがない。 何かの拍子にどこかでお会いすると、ご挨拶をする程度である。 それも、この十年ほど、テレビや雑誌ではお顔は何度も拝見しているが、実際にお目に掛かったことはない。 その「は」さんが、伊澤さんに、次のように言ったというのだ。 「来年の2月9、10、11日の三日間、有楽町の国際フォーラムで『食のサミット』と言うのを開く。日本のみならず、世界中から私の友人の有名シェフたちを呼んで料理を作ってもらって食べる会を開き、同時に食に関するパネル・ディスカッションを開く。その会に雁屋さんが出ることを確約してくれたので、伊澤さんも如何ですか。お招きします」 それを伊澤さんに聞いて、私は、呆気にとられた。 そんな話、聞いたことがない。 一体何のことですか、と私は伊澤さんに尋ねた。 伊澤さんは驚いて、「なんだ、違うんですか」と言う。 伊澤さんにお聞きすると、その「食のサミット」という会は、食品大企業が協力しているという。 その食品大企業はいずれも、私が「美味しんぼ」の中で批判した会社である。 それで、伊澤さんは驚かれたのである。 「そんな大企業の息の掛かった会に雁屋さんが出て、一体雁屋さんは何を喋るつもりなのか。その場で、大企業をがんがん批判することを言ってくれるのか」 伊澤さんは、どうにも腑に落ちないので、わざわざシドニーまで電話をかけて来られたというわけだ。 私は何度も伊澤さんに確かめた。 「本当に、「は」さんがそんなことを言ったんですか」 伊澤さんは、真剣な声で、怒鳴るように、 「『は』さんは、確かに雁屋さんが参加すると言ったんですよ。しかも、私を招待すると言ったんですよ」 と言う。 今までの長いおつきあいを通じて伊澤さんは出鱈目を言う人でないことは良く分かっている。 全く冗談じゃない。 有名シェフを集めた料理会だの、大企業肝いりの食についてのディスカッションだの、考えただけで気持ちが悪くなる。 私が顔を出すような場所ではない。 私とは世界が違う。 伊澤さんの驚きは止まらない。 「私はおかしいと思ったんですよ。なんで雁屋さんがそんな会に出るのか。一体雁屋さんは、どうかしちゃったのか、余りにおかしい、と思ったんですよ。 しかし、どうして「は」さんは、そんなことを言ったんだろう」 私も、どうして「は」さんはそんなことを言ったのか不思議で仕方がない。 しかし、考えている内に腹が立ってきた。 実際に、その「食のサミット」に伊澤さんが行ったとする。 当然私はいない。伊澤さんは「は」さんに、「雁屋さんはどうしたんですか」と尋ねるだろう。 すると、「は」さんは、まさか、「最初から、あれはウソです」とは言えないから。 「ああ、雁屋さんは急に具合が悪くなってこられなくなりました」などと答えるのではないか。 そう聞けば、伊澤さんは、「雁屋哲はいい加減なやつだ。土壇場でキャンセルしやがって」と思うだろう。 私が心配になったのは、「は」さんは、伊澤さんに言うくらいだから、他の人間にも「食のサミット」とやらに、私が来ると言っているのではないか。 そして、当日、みんなは「雁屋哲は急にキャンセルした」と言われる。 これは、ひどい。 私の名誉を傷つける物だ。 信じられないことだ。 読者諸姉諸兄、ここではっきり言っておきます。 私は、「食のサミット」などと言う会には、一切関係していません。 その会に、出席するという約束をしたこともありません。 第一、そんな会が開かれることさえ知らなかったのだから。 悪質なデマに引っ掛からないでください。 しかし、「は」さんは何を考えているんだろう。 実に不愉快千万きわまりない。
- 2008/11/29 - 私の終生上司がシドニーにいらっしゃった 25日から、私が電通に勤めていたときの二年先輩の上司である「に」さんご夫妻がシドニーに遊びに来られている。 私が電通に勤めていたのは、1969年の4月1日から、1972年の12月末日までの3年9か月だったが、一旦会社勤めをしたのが運の尽きで、「に」さんを私は終生上司として崇め奉まつらなければならないのだ。 てなことを言うと、「に」さんは、「てっちゃんさえ、いなければ私はもっと出世したんだ」と言うが、「に」さんは電通の役員になり、その後電通の子会社の社長を勤め上げたのだから、会社員としては功成り名遂げた、大成功者の見本なのだ。 なぜ「に」さんが、「てっちゃんさえいなかったら」と仰るかというと、私は会社員として会社の困りものであり、その最低の困りものである私の面倒を「に」さんが良く見て下さったからである。 結果として「に」さんに多大な迷惑をおかけすることになり、私が電通にいるあいだは、他の社員は、「に」さんが私を厳しく取り締まらないからだ、などと「に」さんを非難がましく思いながらも、「に」さんが保護してくれているので誰も私に手を出せなかったのである。 どうして「に」さんが、私のような会社にとって疫病神の様な男の面倒見てくれ、守ってくれたか、これは、どう考えてもお互いにその理由が分からない。 「に」さんは人柄が優しいので、その優しさに私がつけ込んで、つけ込まれた「に」さんは、私を振り切るに振り切れなくなったと言うところだろう。 「に」さんとにとって見れば、「人生、どこに災難が待っているか分からない」と思っておられるに違いない。 当時の電通は、タイム・カードではなく、出退勤時に、出退勤簿に書名をすることになっていた。 電通の始業時間は9時である。 私はその時間の設定に最初から非常な違和感を憶えた。 人間は、そんなに朝早くから働いて良い物なのか。朝9時から働き始めるなんて、余りに非人間的ではないか。 しかし、会社は9時までに来いと言う。 そこで私は、妥協して、9時までに会社にたどり着くように自分の出来る最大限の努力をすることで良い、と会社の規則を理解することにした。 しかし、人間、どんなに努力しても出来ないことと言う物はあるものだ。 私も、努力はするのだが、殆ど毎日、朝9時には間に合わないことになる。 最初から、その時間設定が気にいらないのだから、仕方がない。 で、どうするかと言うと、途中の駅などから、「に」さんに電話をかけて、「すみません、出勤簿にサインをしておいてください」お願いする。 「に」さんは、最初の内は「またかよ」と怒っていたが、その内に「ああ、わかったよ」と不機嫌に言うだけになった。 「に」さんは、総務課に私の出勤簿に署名するために行く。 総務課長は不思議がって、「はて、『に』くん、君はサインしたじゃないか」という。 そこを、「に」さんは何とかごまかして、私の名前の欄に署名をして立ち去る。 実に、とんでもない部下を持つとひどい災難を蒙る物である。 しかし、私は、非常に恩義を深く感じる男で、必ず受けた恩は返さないと気がすまない。 そこで、「に」さんの退勤簿の署名は私が引き受けた。 大体、私は毎日、午後4時45分まで図書室で寝ていて、4時45分になると自分の机に戻り、全然仕事をしないので散らかることもない机を片付けるふりをして、5時の鐘が鳴ると、さっと立ち上がり、先輩一同に「お疲れ様でした。ではまた明日」と丁寧に挨拶して、さっさと部を出て行く。 「に」さんたちは毎日必ず残業をして、私の分まで仕事をしているので、5時に帰ることなど出来ない。 だから、代わりに私が退勤簿に「に」さんの分まで、署名をして差し上げることが出来るのだ。 ただ、その、「に」さんの退勤簿の署名欄に私が書いたのは、「に」さんのお名前ではなく、ある記号だった。 記号と言っても大変に卑猥な物であり、とてもここで示すことは出来ない。 ただ、言葉で言うなら、「左カーブ、右カーブ、真ん中通ってストライク。応援団長がチャッチャッチャッ」というものである。 このような卑猥な物を毎日退勤簿に書かれた総務課の当惑はいかばかりか。 私と違って「に」さんは、電通では他を寄せ付けない秀才であり、有能で人望も厚く、未来を嘱望されている方だったから(事実、その後電通の海外部門をしょって立つ人間となった)総務課長も、簡単に文句は言えない。 しかし、ある時、ついにたまりかねて総務課長が「『に』くん、いいかげんにしたまえ」といった。「に」さんはそれまで、私が、「退勤簿にサインしておきますから」というのをそのまま信用して、自分の退勤簿に何が書かれているのか注意を払わなかったらしい。 そこで、「に」さんは、私をよんで言った。 「たのむから、てっちゃん、退勤簿にサインしないでくれ」 「いえ、それでは、私の気がすみません」 「いいから、やめてくれ」 「いえ、毎朝出勤簿にサインしていただいているんですから、退勤簿に『に』さんの代わりにサインをして差し上げなければ、私は、恩知らずの人間になってしまいます」 「恩知らずでかまわないんだ」 「とんでもない。恩知らずだけにはなるなというのが、死んだオヤジの遺言です。もっとも、私の父親はまだ生きていますが。とにかく、これだけお世話になっているんですから、退勤簿のサインくらいさせて頂かないと」 「や、やめてくれえ〜」 私が電通を辞めたのは、優秀な「に」さんが会社に選ばれて、アメリカのメリーランド大学に留学してしまい、私を保護してくれる人間を失ったからである。 私を保護してくれる「に」さんがいなくなると、待ってましたとばかりに、会社の上層部は、私をそれまでの居心地の良かった部から、別の部に移動させた。 その部は居心地が悪かったし、そもそも、電通始まって以来という大労働争議の首謀者の一人としてにらまれて、社内全体からしても居心地が悪くなっていた。 (その労働争議では、右翼と共産党が結託して、私に対抗してきた。共産党は組合員総会での議案を「会社案、執行部案、戸塚案」とでかでかと提示したビラを全社に配った(戸塚は私の本名)。「会社案」とは会社の示した回答であり、「執行部案」というのは会社案に対する共産党が支配する組合執行部の案である。 この「執行部案」というのは滑稽で、「二回か三回ストをしたら、闘争を終結する」というもので、それなら、会社はそれまで待っていれば、事は済むわけで、これでは何のための闘争だか分からない。一応、労働争議をいたしました、という共産党の外部に対する言い訳の恰好づけに過ぎない。 「戸塚案」というのは、われわれ正当派の主張で「要求を貫徹するまで闘争を続ける」という実に真っ当な物である。 組合員総会で、私の提案が一番多数の票を獲得したが、残念ながら過半数に及ばなかった。すると、第二次投票で、共産党は会社と結託して会社案に投票し、私達正当派は負けてしまった。組合員に対するひどい裏切りだ。 ついでにいうと、私の友人たちは、全社員に配るビラに、私達正当派の案を「戸塚案」などという個人名を使って書くという事は、私自身を全社的に個人攻撃の的にするための、日共のやり口だと、怒っていた。 共産党は電通労組に共産党の組織を維持することが第一目的で、本気で闘争を組むと組合を私達正当派に取られてしまうと心配して、会社と組んだのである。 共産党は労働者より自分たちの組織を守ることの方が大事なのだ。 東大闘争の時も、日共民青は自分たちの組織保存が第一で、そのために闘争破壊のために躍起になった。 日本共産党は不思議な党である。絶対に革命運動は避けて、組織の温存だけを考えている。 彼らの論理から言えば、日本共産党が選挙で過半数を取ることが革命と言うことらしいが、そんな革命党の存在は、そもそもの革命の意味から外れている。 組織内の話を聞いても、ちょっとしたことで党則違反とか、規律違反という事で除名処分が行われているようだ。組織を維持するためには少しでも先進的な意見を持った党員は追い出すのだ。先進的な意見を持った党員は本気で闘争をする。戦えば、どんな組織でも傷を負う。共産党は少しでも傷を負うことを嫌がる。組織を温存することが第一目的になっていて、革命のために戦うなんて、彼らにとっては悪い冗談という事なんだろう。 政権を取る前から、圧制的な組織運営をしている党が、まさか冗談にでも政権を取ったら、金正日大先生のような政治を行うだろう。) 話が、飛んでしまった。元に戻そう。 私を守ってくれていた「に」さんがいなくなって、私は、居心地が悪くなった電通を突発的に退社してしまった。 しかし、それで「に」さんが私から逃れられたと思ったら大きな間違い。 「に」さんがアメリカから帰ってくると、ちょうどその頃、漫画の原作を書いて忙しくなり始めた私は、「に」さんの家をしょっちゅう襲うようになった。 当時、結婚して横浜に住んでいた私だが、夜遅くなると横浜に帰るのが面倒になり、「に」さんの中目黒の家を襲って泊まり込んだのだ。 夜遅く、突然襲撃して、酒を飲んだり夜食を「に」夫人に作ってもらったりして、さんざん騒いで、翌朝、「に」さんと、当時高校の教師をしていた「に」夫人が出勤した後、昼過ぎまで一人でのうのうと寝て、それから「に」夫人の作っておいてくれた昼食を食べて、やおら活動開始、という贅沢な日々を過ごさせていただいたのだ。 いまでも「に」ご夫妻には、申し訳ないと思っている。 人間、どんな不運が待っているかか分からない。 「に」さんにとっては、私のような人間にとりつかれたことが、生涯の不幸、不運と言うべきだろう。 その後もえんえんとして、私のみならず、私の甥、姪までも、お世話になる有様。 「に」さんがロスアンゼルスに移動になると、ロスアンゼルスに家族で襲撃して、私達のキャンプの準備をして貰う。 ロンドンに移動になれば、ロンドンのレストランを探して貰って、ご馳走になりに行く。 人間の世界、よく、ギブ・アンド・テイクなどと言うが、「に」さんにとっては、私との関係は「ギブ・アンド・ギブ」という不条理きわまりない物だろう。 そのような「に」さんが、シドニーに遊びに見えたので、今までの万分の一でもお返しをしなければならないと思って、ここ数日、シドニーを色々ご案内させていただいた。 「に」さんを患わせたのは、私の家族だけではない。 シドニーの私の親友の娘「ら」が、日本に働きに行ったときには、最初に「に」夫妻に面倒見て貰った。 勝手に私が「に」夫妻に、「ら」の面倒を見てね、とお願いしたのだ。 その「ら」も、日本からシドニーに帰ってきて、今や四人の母親。 27日にその「ら」の家に「に」夫妻をお連れして、お互いに、久し振りの邂逅に楽しい時間を過ごしていただいた。 日本からお客様が来ると必ずお連れする、私の大好きな場所に25日、26日、27日とお二人を案内した。 前回、「さ」さんご一家がいらっしゃったときよりも、時間が取れなかったので十分ではなかったが、それでも、シドニーの私の好きな「芯」の部分は見て頂くことが出来た。 26日は、ブルーマウンテンにお連れしたが、小雨の降るひどい天候。 しかし、ブルーマウンテンの一番の見所、「スリー・シスターズ」という三つの岩を展望するところに行くと、霧で曇って何も見えなかったのが、霧が晴れて、やおら霧の中から有名な三つの岩が姿を現した。 実に、その荘厳なこと。 からっと晴れた晴天の下では味わえない、素晴らしい物を見ることが出来た。 霧が徐々に流れて、三つの岩が姿を現すところは、本当に感動的だった。 二十年シドニーに住んでいて、何度ブルーマウンテンに行ったから分からないが、これほどの感動を味わったのは初めてだった。 その、ブルーマウンテンの「エコー・ポイント」の見晴台に、最近アボリジニーの大男が姿を見せるようになった。 アボリジニーは、平均的に、背が低いのだが、その男は背が高く、腹がでっぷりと出て見事な体格である。 前回「さ」さんご一家をお連れしたときも、今回も、その男は、腰の周りに布を巻いたような出で立ちで、上半身は裸。腰から下もむき出し。何かの毛皮を、肩から羽織っているだけである。 今回、「に」夫妻をお連れしたときにも、その男がいた。 目の前に、ちゃちなブーメランのおもちゃを置き、観光客と写真を撮らせることで小銭を貰っている。 実に、堕落したアボリジニーだと思っていたのだが、今回彼のディジュリドゥーを聞いていて、「はて」と思った。 ディジュリドゥーと言うのは、アボリジニーの伝統的な楽器で、材料は説によって、木の根、木の枝、細い木の樹、と色々あるが、要するに直径6センチほどの、中空の木の筒の一方に口を当て、トランペットを吹く要領でくちびるを震わせて、音を出すのだ。 その音は、「ビューン、ビューン、ビィーン、ビィーン、ブィーン、ブィーン、ブォーン、ブォーン、」という極めて、低く良く響く音 で、オーストラリアの原生林の中では、数キロ四方にまで響いただろうと思うような音である。 この、ディジュリドゥーには独特な吹き方があって、一つの音を吹き始めると、その音を何分間も途切れること無しに吹き続ける。 これはすごいことである。 ためしに、サックスでも、トランペットでも吹いてみていただきたい。 一つの音を20秒間途切れずに吹き続けるのは、至難の業である。 それを、アボリジニーは呼気をもっと必要とするディジュリドゥーを何分間も続けて吹き続けることが出来る。 呼吸法に秘密があるらしく、ディジュリドゥーを吹いているアボリジニーを見ていると、ディジュリドゥーを鳴らすために息を吹き込んでいるのだが、同時に、腹を大きく動かせて空気を取り込んでいる。 この、息を吹くのと、空気を取り込むのと、私達にとってはまるで正反対のことを同時にやってのける。 これは、実際に目の前で見ると、不思議でたまらない。 じつは、1960年代から1970年代にかけて活躍した、ジャズミュージシャンのローランド・カークが同じようなことをしてのけていた。 ローランド・カークは、一度に三本のサックス(一本は普通のテナー・サックスだが、他の二本は、テナー・サックスやソプラノ・サックスを自分で改造した物で、マンゼロ、ストリッチ、という奇怪な名前が付いている)を一度にくわえ、両耳に掛けて吊した糸にぶら下げたフルートを鼻で吹き、合間にはホィッスルを吹き鳴らすと言う異常な才能を持っていたが、異常なのはマンゼロなどを、吹き出すと二分でも三分でも音をとぎらせることなく、吹き続けたことである。 ローランド・カークも息を吸い込みながら、サックスを吹くという、私達の標準的な体から見たら矛盾した行為を平気でやってのけていた。 さて、ブルーマウンテンのエコー・ポイントの見晴台で観光客を相手に商売をしているアボリジニーであるが、そのディジュリドゥーを聞いていると、これは本物だ。 音が途切れない。 これに、興味を引かれた。 「に」夫妻を招いて、そのアボリジニーと一緒に写真を撮らせて貰った。 そのアボリジニーは、日本人の観光客になれているせいか、日本語で私達に礼を言ったのはよいが、大阪弁でも、「おおきに」と言うのだ。 やれやれ、観光客すれがしてしまって、しようがないな、とうんざりしたのだが、「に」夫人が、そのアボリジニーに、裸で寒くないかと尋ねたときに、驚くべき事を体験した。その日は気温が低く、観光客はみんな厚着をしていた。 その、アボリジニーの男が言うには、「私は、体内から熱を発することが出来るから、寒くないのだ」という。 自分の手をかざして、私達に、その手に私達の手を近づけて見ろと言う。 試しに、その男の手のひらに、私の手のひらを五センチほどの間隔で近づけると、なんと言うこと、その男の手のひらから熱が放射されていて、暖かいと感じるではないか。 「に」夫人は、熱だけではなく、その男の体から放射される「気」を強力に感じるという。 確かに、私も「気」のような物を感じた。 一体これは何であるか。 単に観光客ずれしたアボリジニーと思ったら飛んでもない。 私には理解できない能力を持った男だ。 これほど、強力に、他人の人体から発する「熱」や「気」を感じたことはない。 どうも、いままでの、理性一点張りの考え方を変えなければいけないのか、と思うほど、異様な体験だった。 人でも、何でも、先入観で軽く見る物ではない。 あなどる物ではない。 全く、驚くべき体験をした。 これから、ブルー・マウンテンに観光に行く人がいたら、ぜひ、観光客なら誰でも行く「エコー・ポイント」に行って、そこにいるアボリジニーのディジュリドゥーを聞き、手のひらを5センチほどの間隔を置いて合わせてみて貰いたい。 人体とは一体何なのか、不思議な思いにとらわれるから。(その男には、5ドルくらい上げてね) 27日は天気予報を裏切って、すかーっと晴れ上がった晴天。 ウェストヘッド国立公園などを散策し、「ら」とも会い、美しいビーチの前で軽い朝食を取って、のんびりして、夜は、最近開店した日本人シェフ「犬飼」さんの店「Blancharu」(ブランシャル) フランス語の白「Blanc」と自分の名前春信さん、の「はる」を組合わせた名前。 (Shop 1,21 Elizabeth Bay Road,Elizabeth Bay NSW 2011 Australia Tel:61-2-9360-3555) その名の通り、店全体は白が基調で、入りやすいカジュアルな作り。 犬飼さんは、それ以前に、シドニーでも人気のブティックホテル、「オブザーバトリー・ホテル」のレストラン「ガリレオ」のシェフとして、「ガリレオ」をシドニー・モーニング・ヘラルドの「Good Food Guide」で一つ帽子のレストランに育て上げた実力者だ。 (Sydney Morning HeraldのGood Food Guideは毎年、レストランの評価をして、最高の店に三帽子、以下二つ帽子、一つ帽子と位をつける。 このGood Food Guideはシドニーでは大変権威があって、帽子を一つでも取れればそのレストランは繁盛する。ホテルのレストランで、一つ帽子を貰っていれば、そのホテルの宿泊客が増える。 それくらいだから、毎年、Good Food Guideが発行される時期になると、シェフたちは胃が痛くなると言う) 「ガリレオ」の時の犬飼さんの料理は、実に正統的なフランス料理で、重かったが、「Blancharu」になって、軽くて味わいの良い物になった。 私は、「ガリレオ」の時より遥かに良くなったと感じた。 「Good food guide」は、味だけでなく、店の雰囲気・店の作りなども点数に入れるので、その帽子の数の付け方は私には分からない。 しかし、味だけでいえば、文句なく、三帽子だと私は思った。 最初に小さなフライパンに目玉焼きが載って出て来た。 「えっ、目玉焼き!」と驚いていると、やおら犬飼さんが出て来て、目玉焼きの上に、サマートリュフを目の前でスライスしてたっぷりかけてくれる。 私はトリュフが大好きのトリュフ狂だ。 しかし、いままでトリュフをかけた目玉焼きなど食べたことがない。 いやあ、参った。 こんな贅沢な目玉焼きはない。 「美味しんぼ」で書かせて貰おう。 その他の料理も、実に見事。 「に」夫妻も痛くご満悦で、終生部下の私としては、面目を施すことが出来た。 シドニーに旅行に来る方には、ぜひ、この「Blancharu」をお勧めする。 料金もセットメニューで一人67ドルに設定されている。(ワインは別料金) 極めてリーズナブルだ。カジュアルで、胃にもたれないので、旅行中でも苦にならないだろう。 シドニーには、和久田哲也さんの「Tetsuya's」という、今や世界的に有名になったレストランがある。 犬飼さんの「Blancharu」も、「Tetsuya' s」と一緒に頑張ってシドニーの食の世界を豊かにして貰いたいと、切に願う。 「に」夫妻は、28日にタスマニアに行った。 クレイドル・マウンテンという、秘境とも言える山の中のロッジに宿泊して、山の中を歩き回るのだという。 「に」さんご自身は、大変な怠け者なので、自分から積極的に歩き回ったりはしたがらないのだが、「に」夫人「ぺ」さんが、大変に積極的なので結果的に「に」さんは引きずり回されて、一緒に歩くことになる。 しかし、28日から、タスマニアの天候は最悪だ。 雨の中を、「に」夫妻は歩いているのかしら。 1日にまたシドニーに戻ってこられるが、風邪など引いてこられないようにお願いしたい。
- 2008/11/26 - つかびれた いやはや、今回の日本復帰は実につかびれた。(つかびれた、と言うのは私の造語。つかれたと、くたびれた、を合わせた物で、「つかびれた〜」というと、実に感じが出る。) 21日朝にシドニーに到着して、家へたどり着きそのままベッドに潜り込み、午後2時過ぎまでこんこんと、寝てしまった。前の晩飛行機の中で寝続けていたのにである。 それでも、疲れが取れない。 中々、コンピューターに向かう気力が湧かず、この日記の更新も、延び延びになってしまった。 三月に手術を受けて以来、日本へ行ったのは今年初めて。 流石に体力の低下は甚だしく、和歌山県の取材は、体にこたえているのが分かる。 しかし、和歌山県の取材が上手く行ったので、深い満足感を味わっている。 日本は本当に素晴らしい国だ。 地方へ行くたびに、ああ、ここに本当の日本人がいる、と感激する。 地方の人々は、心が優しくて、正直で、親切で、真面目だ。 地方を回って帰って来る度に私は熱烈な「愛国者」になっている。 日本の素晴らしさ、日本人の素晴らしさは、都会にいては分からない。 都会の人間も、もともと、純粋、正直、真面目な日本人なのだが、現在の強盗資本主義の強いる苛酷な競争に疲れて、本来の日本人の良さを見失っているのではないだろうか。 都会で、自分の居場所を見失っている若者たちよ、田舎へ行きなさい。 田舎で、例えば農業でも、養鶏業でも、今までとは違った価値を付加するやり方で取り組めば、絶対に明るい未来がある。 現実に、有機農法で、都会にいたときより遥かに良い生活を送っている若者たちが沢山いる。 ネットカフェや漫画喫茶で寝泊まりしている若者たちよ、派遣でリストラされた若者たちよ、地方へ行け。 地方には未来があるぞ。 都会にはもう何もない。 前回の第一次和歌山県取材の時のことで、もう一つ付け加えたい。 今までに、捕鯨問題で取材に行ったことのある、和歌山県の捕鯨の町、太地に今回も行った。 私は、クジラの皮を油で揚げた、コロのおでん、が大好きである。 クジラの舌の、さえずりも大好きだ。 今回は、その、コロを揚げている所を取材に行ったのだ。 訪れたのは、重大屋由谷商店(重大屋と書いて「じゅうたや」と読むようだ)の、コロ製造所。 製造所の前で車を降りた途端、強烈なにおいが鼻を突いて、一瞬たじろいだ。 クジラの脂のにおいである。 製造所の中に入ると、青年が一人大きな釜の前に立って、長い柄のついた大きな手網で釜の中をかき回している。 釜の中は、白い泡が湧いていて中味がよく見えない。 しかし、この強烈なクジラの脂のにおいはこの泡の沸き立つ釜の中から立ち昇って来ているのだ。 釜の中には、クジラの皮が入っていて、それを揚げているのだ。 作業をしているのは、油谷商店、由谷金三さんのお孫さんの、恭兵さん。 まだ若く、颯爽としている。 釜の中が最初泡立っていたのは、生のクジラの皮を入ればかりだったのであって、クジラの皮が揚がって行くにつれて、泡はなくなっていく。 これが、原料のクジラの皮。これは、ごんどうクジラの皮だそうである。 そして、これが揚げて仕上がったコロ。 揚げたてを食べてみろと、恭兵さんに勧められて食べてみたら、おでんで食べるコロとはまるで違う。ぱりぱりと、まるで揚げ煎餅のような歯触りで、噛むとさらさらと砕けてしまう。香りも良い。 これには、驚いた。 もっと驚いたのは、コロを揚げていたクジラの油で、サツマイモを揚げて食べさせていただいたことである。 その時までには、クジラの脂のにおいにも慣れてきていたが、それでも、クジラの油で揚げたサツマイモとなると、一体どんなものか、ちょっと尻込みをする。 サツマイモは、クジラの皮と一緒に釜の中に入れられ、やがて頃合いになると引き上げられる。サツマイモの下、釜の中は揚げられているクジラの皮。 そして、これが、揚げたサツマイモ。 おそるおそる食べてみると、おお、なんと言うこと! クジラの脂の強烈なにおいはまるでせず、ほっこりと甘く仕上がっている。 ふかし芋、焼き芋、色々食べてきたが、クジラの油で揚げたサツマイモは生まれて初めて。 これは、おいしい。 サツマイモ好きな人なら、たまらない旨さだ。 そこに、近くでクジラの内臓を煮ていると言うところから、クジラの腸を煮たものが届いた。 輪切りにしてみると、まるでソーセージ。 食べてまた一驚。 今まで色々とソーセージを食べてきたが、これだけ自然な味の美味しいソーセージは初めてだ。 早速クジラの内臓を煮ているところを訪問した。 クジラを煮ていたのは、竹内章さん。 本業は、クジラの追い込み漁で、内臓を煮るのは本業ではなく、数日後に控えた太地のクジラ祭りで出すために、臨時で煮ているのだという。 竹内さんと、クジラの内臓を煮る大釜。 大釜の中で煮られている内臓。 「へええ」と感心してみていたら、内臓を煮る係りの人が「見ているだけじゃ分からないよ」といって、煮上がったばかりの、横隔膜のあたりを刻んだ物を、私の口に押し込んだ。 「わっ」と、ひるんだが、一口噛んでみると、その香ばしいこと、美味しいこと。私は、牛のもつ煮込み、牛肉の佃煮、など牛肉を煮込んだ物が大好きだが、クジラの内臓の煮込みは、その牛肉を煮込んだものとよく似た、良い香りで、濃厚だがすっきりした良い味だ。 これにも、また驚いた。 竹内さんの話では、昨日、十数頭のクジラを追い込んであるという。 早速、クジラを追い込んだ畠尻湾に見学に行く。 湾と行っても、入り江のような感じで、素晴らしく美しい。 見ると、いた。クジラが十数頭。 二日後に、水揚げの予定だという。 竹内さんの話では、グリーンピースの人間が、この湾に入ってきて、湾の入り口に張ってある網をナイフで切って、クジラを逃がすことがあるのだそうだ。 連中は、英雄気取りで、悪いことをしたという気持ちは全くないという。 グリーンピースは、理性的な人間の集団ではない。 カルトである。 少し前に、日本の調査捕鯨船に攻撃をしかけてきた。 あれは、明らかに海賊行為であり、船乗りの命を危険にさらす凶暴な犯罪である。船の危険を冒す人間は、海賊としてその場で射殺されるのが、この世界の掟である。 グリーンピースの連中は、日本政府がおとなしいので図に乗って、そのような犯罪行為を平気で行い続けている。 調査捕鯨船の乗組員の命を危険にさらした、グリーンピースの連中は重刑に処すべきである。 日本政府は、どうしてこんな弱腰の態度をとり続けているのか。 船の航行を危険にさらし、漁民の財産の網を切ってしまう。 そのような犯罪行為をかさねて恬として恥じない。 捕鯨が、他の漁業と何ら変わるところがない、といくら理性的に説明しても聞く耳を持たない。 クジラ教というカルトにとり憑かれた、狂気の集団である。 日本政府が、正当な対応を取らないから、このような狂気集団をのさばらせるのだ。 最後に、私が、恭兵さんに貰った宝物をご紹介しよう。 ゴンドウクジラの歯で作った、釣り針型の飾り物だ。 恭兵さんは、自分の携帯のストラップにつけていたのを外して私に、下さった。 (携帯のストラップではなかったかも知れない。しかし、恭兵さんが自分の身につけているものから外して、私に下さったことは確かだ) これは、私は終生の宝物として、大事にする。 こんなに、素晴らしい物を頂いて、感激した。 本当に有り難い。 有り難いと言えば、恭兵さんのような若者が、コロ作りを続けて行ってくださることだ。 コロは、日本の大事な食文化の一つだ。 その食文化を、恭兵さんのような若者が守り続けてくれる。 こんな有り難いことはない。 恭兵さん、頼むぞ! 下の写真は、当日の記念写真。 右から、恭兵さん、私、由谷金三さん、恭兵さんのお母さんの恵さん。 素晴らしい方々だった。 ところで、前回、神保町の「地方出版物の店」のことを書いたら、多くの方から、その店についての情報を頂いた。 その店の名前は、正確には「書肆アクセス」であり、2007年の11月に閉店したこと、しかし、経営母体の「地方・小出版流通センター」は健在であること。 http://www.bekkoame.ne.jp/~much/access/actop.html 三省堂本店の四階に、「地方・小出版コーナー」として約3千点ほどの規模で棚があること、など、色々と貴重な情報を頂いた。 情報を送っていただいた皆様に、心から、感謝いたします。 ありがとうございました。 さて、「シドニー子育て記」だが、刊行して二週間経つ。 十数年かけてやっと刊行できた私としては、この本が売れないと言うことは、私の人生を否定されるに等しい。 この本が売れなければ、首でも吊ろうと思う。 何とか、売れるように、皆さんのご協力をお願いします。 (写真はクリックすると大きくなります)
- 2008/11/22 - シドニーに帰ってきました 17日は、東京FMで、「エンカレ」と言う番組の新年放送の分の録音をした。 ライターの、矢張岳史さんとの対談で、今度刊行した「シドニー子育て記」のことについて、三週分を一度に録りためた。 矢張さんは初めてお会いしたが、極めて暖かな人柄で、こちらの話を上手に引き出し、丁寧に聞いてくださる。 こういう方との対談は、していても気持ちがよい。 気持ち良く録音が出来た。 録音後、ディレクターの方が、私の声を讃めてくださった。 私は今までに色々な方から声がいいと讃めていただいているが、誰一人いい男だと言ってくれた方がいない。 女性にもてるためには、声より、容貌なんだよな。 午後、姉と妻がホテルに迎えに来て、電通の同期会の会場に向かう。 同期会と言っても、それぞれが電通で外れくじを引いた人間ばかりで、みんな電通を辞めてえらく人相良くなった。 場所が新宿なので、これが困った。 私は新宿にはひどくうとい。 駅ビルの中の店だというのだが、もう、私なんか浦島太郎もいいところで、まるで、何かなんだが分からない。 とにかく凄まじい人間のかず。どれをどう取っても見分けのつかないビルの燐立つ。 新宿近辺に入ってから1時間ウロウロして神経がいらだちの極まりに至ってしまった。 会場は、スペイン料理屋で、スペイン料理を食べさせるだけでなく、なんと、フラメンコまで踊ってくれる。フラメンコと言っても、歌手スペイン人だが、踊るのは、男も女も日本人である。 日本人というのは凄い。 スペインまで出かけていかなければ中々あれだけの、技は身に付くまい。 凄い情熱だ。 我々の仲間は、フラメンコなどの細かいことに気を使わない。 皆でわいわい出来ればそれで良いのだ。 会話がそれぞれに、二重三重に飛び交って、全体として何を話したのか分からない。 しかし、最高に楽しい時間だ。 心が完全にくつろいで、悪口の言い放題。 「てめえ、ばかやろう」の言い放題。 でも、とても気持ちがよいのだ。 最高の仲間だ。 十分に楽しんで、レストランの外に出る、妙に魅力的な屋台のラーメン屋がある。こう言うとき私の悪いくせで、ちょっと試してみたくなる。 みんながやめろやめろと言うのに、一杯注文する。 その味たるや、空前絶後だ、一口すすって、友人たちに進めて、逃げ出す。友人たちは今までの私の仕打ちからして、半信半疑と言うより、これは駄目に決まっているとおもいつつ、ひとすすりずづすする。 その間に、私は、百メートルくらい逃げ出している。 あとで、店主が、ラーメンを残したことに怒って、ののしりつくしたそうである。 まずいラーメンを、作る人間と話し合っても仕方がない。 これは、固い人生観の基に作っているのだから、私達が何を言っても味を変えることがないだろう。 でも、世の中には、その味が好きで、これ一番だという人がいるのだから、 それはそれで上手く行っているのだ。 18日は、疲労が体中からあふれ出てきて、コンピューターの整理だけでくたびれ果てた。 それなのに、19日は、午前と午後、二つのインタビューをこなした。 私は、こんどの「シドニー子育て記」の宣伝になればと思って受けるのだが、みんな興味があるのは「美味しんぼ」の話ばかり。 「子育て記」宣伝にはならなかった。 久し振りに、神保町の「スィートボーズ」で餃子を食べたが、今日はどう言う訳か、皮が生焼け風でいつもの味がなかったのが残念。 長い間にはこんな事もあるのだ。 所で、スィートボーズのすぐ近くにあった 「地方出版書籍」の店が見つからなかった。 潰れたのだろう、移転したのだろうか。 もしなくなったとしたら、どうしたら良いのだろう。 あんな良い本屋がなくなるようでは日本の文化は、行き先望みがない。 どこかに移転していくれたら嬉しいんだが。 20日は、帰り支度だけで、疲労困憊。 今回から、日本発が一時間早まったので、東京で食事をしてから飛行機に乗ることが不可能になった。 空港で食事をしなければらない。 一軒だけ化学調味料がそれほど強烈でない中華料理店を見つけたので、気持ち良く食べることが出来た。 睡眠薬を飲んで、熟睡したが、それでも、午前8時すぎにシドニー空港に着いたときには、酔眼朦朧。 次男が迎えに来てくれた車に乗るとすぐに睡魔が襲ってきて、家まで意識無し。 家にたどり着くと、そのままベッドに潜り込んで、午後2時すぎまで、こんこんと寝る。 夕食、7時になって、ようやく意識を取り戻す。 しかし、折角戻った意識を、ウィスキーで濁らせてしまう。 困ったもんだね。 さあ、明日からは、このページ、気合いを入れて書くぞ。 せっかく「シドニー子育て記」を出版したのだから、日本の教育制度ついて、しつこく書いていこう。 「シドニー子育て記」には書けなかった所も書かないとね。 そう言うわけで、当分面倒くさい話が続きます。 最近、気がついたんだけれど、私って随分真面目だね。 というか、矢鱈事細かい議論を重ねるのが好きだね。 こう言うものは読みたくないよね。 多くの人達の趣味と、どうして私の趣味がこんなに違うのか残念です。 とまあ、そんなこんなで 疲労が回復次第、色々書いていきます。 ほんとうにつかれたんだよお・・・・・・。
- 2008/11/17 - 奥沢のキング堂さんと、お寿司屋さんのこと 今夜は、12日発売になった「シドニー子育て記」にも登場していただいている「に」さん、(シドニーに引っ越して以来の友人で、自分で自分のことを「時次郎」と呼べと私達に命令する人です)、の家におじゃました。 「に」さんの家では、プードルを二匹飼っている。 この犬たちが、私に非常に敵対的で、吠えたり、ひっかいたりなさいますので、私は、私の方がボスなのだと教えるために、犬の首を絞め、犬のほほをひっぱたいてやった。 それを見ていた、「に」夫妻は、私のあまりの残酷さに、二人で涙ぐみ、二人で犬が私のそばに近寄らないように抱えっぱなしであったのは、私も反省しなければならないところが多いように、今になって思う。 しかし、私は人前で泣き叫んだり、我が儘を言う子供、お客さんに敵対的な態度を示す犬猫は、其の場で処分してやろうと思う人間なので、これは仕方がない。 「に」夫妻は二度と私を自宅に招くことはないだろう。 自分の可愛がっている犬の首を絞めるような人間を歓待する人がいるわけがない。 昨日和歌山から帰って来て、鎌倉の実家に一泊して、今日は東京に出て来て、東京で一泊だ。 たまに、日本に帰ってくると、様々な仕事が待っていて、休む暇もまない。 このページが更新できなかったのも、そんな事情のせいなので、お許し下さい。 今夜、大変な感激が、その「に」さんが、美味しいお寿司屋があるからと行って、奥沢まで連れていてくれたことで起きた。 「入船」という名前の寿司屋なのだが、その店が、なんと奥沢商店街の入り口にある。 奥沢商店街、といえば、私が54年間に渡ってお世話になっている靴屋「キング堂」のある通りだ。 寿司どころではない。 さっそく、「キング堂」さんに行って当代のご主人にご挨拶をした。 私は、六歳の時に股関節結核にかかり、右脚が左足より短い。 その左右の脚の長さの差が、年齢を経るに従って大きくなる。 その私のために、脚の長さを補い、なおかつ靴の底を安定の良いように作ってくださったのが、「キング堂」の先代だ。 右の脚は成長を止めているので、歳を取るにつれて左右の脚の長さが変わってくる。 その変化に応じて、私のために親身になって特殊な靴を作ってくださったのが先代であり、当代の「キング堂」のご主人なのだ。 今、私が曲がりなりにもあちこち歩いたりできるのも、「キング堂」の先代と当代のご主人が作ってくださってきた靴のおかげだ。 「キング堂」がなかったら、私の人生は大変に不便な物になっただろう。 奥沢「キング堂」は私の命の恩人と言っても過言ではない。 「キング堂」あってこそ、今の私の活動が可能になったのだ。 「に」さんが、お寿司を食べに行こうと、奥沢まで誘ってくれたおかげで、恩人の「キング堂」のご主人にお会いして、お礼を言うことが出来た。 すぐにまた、靴を作っていただかなければならない。 その点をよくよくお願いして、寿司を食べに行った。 で、肝心の「入船」だが、久しぶりの当たりだった。 マグロの質が大変に良かったこと、寿司の作りが昔どおりの東京風の作りを守っていて、変に時代に媚びていないこと。(マグロの大トロのニンニク醤油漬け乗せはちょっと困った。そう言う作り方は私には受け入れがたい。最後に、口直しに大トロをわさびで握って貰って、不満を解消した。) 銀座の寿司屋は、最近ひどい物だ。美味しい寿司を食べたければ、銀座を離れて奥沢まで脚を伸ばしなさい、と言いたいほど、美味しかった。 ただ、店の客がひどい。私の両側で、たばこを盛大に吸われて、私は気持ちが悪くなり、もっと食べたかったのだがどうにも我慢が出来なくなって、店を離れた。 寿司屋で、たばこを吸うのだけは勘弁してくれないか。たばこ吸いの皆様方よ。 明日は、以前会社勤めをしていたときの同期の仲間との夕食会だ。 私は、自分では友人の少ない人間だと思っていたが、飛んでもない。 素晴らしい友人が、大勢いる。 会社を辞めて三十年経つ。 それで、同期の仲間が集まってくれるのだから、ただひたすら有り難い。 明日は、仲間同士、遠慮のない楽しい騒ぎを楽しもう。
- 2008/11/16 - 和歌山取材、無事終了 昨日、11月14日、「美味しんぼ」の「日本全県味巡り」和歌山県篇の為の和歌山県取材を完了した。 10月の第一次取材に加えて、今回の第二次取材で、和歌山県の姿をかなりのところまでつかめた、と思う。 今回の取材には、和歌山県の全面的な協力を得られて、おかげで円滑に進めることが出来た。 この、「日本全県味巡り」は、最初に私の考えや好みを良く知っている私の甥の真中が、まず各県に乗り込む。 そこで、いったい各県に何があるのか、まるで探検隊のような仕事をする。 「日本全県味巡り」でまず一番大事なのが、この「先行取材」である。 この先行取材で、「美味しんぼ」の「日本全県味巡り」に取り上げるのにふさわしいと思われる物を、まず探し出す。 まず、多くの人から情報を集めて、あるいは推奨されて、「ここなら」と思われるところを回る。 そして、その当たる確率は低い。 今回も真中は、三十軒以上の料理屋を試したが、結果的に取り上げることが出来たのは四軒のみ。 その、「先行取材」には今回、和歌山県庁の食品流通課の山下主幹、仲主査、のお二人にひとかたならぬお世話になった。 真中は一度ならず、二度、三度と「先行取材」を重ねる。 県庁の方も、いったい我々が何を望んでいるのか最初は見当もつかなかったそうである。それはそうだろう。和歌山県の観光、名産品、などの話なら簡単だが、「美味しんぼ」のように、郷土の文化、郷土の料理文化、と来ると、なかなか分かりづらい。 仲さんが仰言るには「二度目の先行取材のおしまいになって、やっとこの人間が何を求めているのか分かりましたわ」 こうして県下くまなくめぼしい物を探し回って、真中が、「美味しんぼ」の「日本全県味巡り」の目的に合致する取材先を決め、取材予定を立てる。 それから、今回の例で言えば、私、担当編集者、記録係のライターの安井さん、カメラマンの同じく安井さん、(私は、この二人と『W安井』、として吉本興業に売り込みたいと、吉本興業の野山さんに掛け合った。カメラマンの安井さんは大阪出身で極めて機転が利き、細かく目の届く人で、つっこみも鋭いし、ぼけも上手だ。ライターの安井さんは仕事の面では一つの隙もなく記録するべきことは全て記録してくれる緻密さを誇るが、仕事を離れるとおっとりとしていて、私達男どものでたらめな冗談に簡単に引っかかったりする。この二人を組み合せて漫才界に新風を吹き込む、と言うのが私の企みなのだ。) 話を元に戻すと、さらに、カメラマンの助手の伊藤さん、ビデオ撮影係の私の長男、それに真中。 そして、主導してくださる、県庁の、山下主幹、仲主査、総勢9人で、県下を回るのだから、大変だ。 どんなに綿密に「先行取材」をしても、実際に行くと、私の気にいらなかったりする物もある。 そう言うときには全員意気消沈である。 一方、取材するつもりではなく気軽に食事をするつもりで入った店が、めっぽう面白く、急遽取材に切り替え、などと言うこともある。 その時は全員、幸せになる。 全く、この取材は、実際にこの目で見てみるまで何がどうなるか分からないところがある。 今回の取材が上手く行ったのは、和歌山県が県を挙げて協力してくださったおかげだ。県の皆さんに心からお礼を申し上げたい。 なかんずく、十日間の取材に同行してくださった、山下主幹、仲主査には感謝感激雨あられだ。 仲主査の口癖、言葉の終わりと、途中に入れる、音声「あう〜」を漫画の中で如何に表現するか、その表記の方法に今苦しんでいる。 単純な「あう〜」ではないのだ。「お」、と「あ」の中間母音であり、さらに「あ゛う〜」、あるいは「お゛う〜」のように、喉の奥からうなり声のような音が出る。これを表現するのが実に難しい。 和歌山取材については日を改めて、このページに書く。 14日の夜は、そのまま、大阪に移動して、以前「日本全県味巡り」の大阪取材以来親しくしていただいている、洪(ほん)さんと、吉本興業の野山さんと今回日本滞在中二度目の大阪での食事を楽しむ。 洪さんは、2002年の日韓共同開催のサッカー・ワールドカップ大会以来だが、相変わらず、二十代にしか見えない若さで、最近はますます実業の方で大きく伸びていて、事業の話など伺うと、実に精力的に頑張っておられるので心から感心する。 連れて行っていただいたのは、鶴橋から桃谷の間のややこしい場所にある韓国料理屋「韓味一(かみいち)」。 前もって野山さんに「食べられないくらい出ますよ」と言われていたが実際に出て来た量は驚くべき物で、その前菜の豊富で美味しいこと、驚嘆すべき物があった。 取材のスタッフ一同の慰労も兼ねていたので、W安井にもたいへん気にいってもらって幸せだった。 主菜の一つで出て来た、「鞍下」の部分の牛肉は、あっと驚く大きさで、脂のさしが盛大に入っている。女主人がそれをグリルの上にのせて、はさみで切り分けてくれる。 柔らかで、脂の味がとろりと濃厚で、よそでは食べたことのない肉だ。 最後は参鶏湯(さんげたん)で締めたのだが、突然ここに至って、強烈な化学調味料の味。 それまで、純粋な味だったのにどうしたことか。 一同、それまで美味しい、美味しいと騒いでいたのに、突然沈黙。 あとで、野山さんが悔しがっていた。「当日、女主人一人だけだったので、手が回らず、其の場で作ることが出来ず、通信販売で送る物を、使ったのではないか」という。通信販売で送る物については、化学調味料を入れないと味が足りないと文句を言う人がいるので、化学調味料を入れざるを得ないのだそうだ。 日本を含む、アジア各国は今や完全に化学調味料に毒されてしまっている。 純粋な味覚を失った人々がこんなに増えたと言うことは恐ろしいことである。 化学調味料も、隠し味程度、味を補う程度に入れれば、悪いものではない。 しかし、化学調味料が味の主役なってしまっては、何もかもぶちこわしになる。 化学調味料には不思議な力があって、使うにつれて舌が麻痺していって、使う量をどんどん増やして行かないと満足できなくなる。 そんな問題もあったが、それ以外のものは非の打ち所のない美味しさで、楽しい美味しい一夜だった。 洪さんと話していると、韓国人のエネルギーの強烈さに圧倒される。 日本の芸能界、スポーツ界、文学の世界でも韓国人が活躍しているのも当然だと、改めて痛感した。 天皇も言ったように天皇の祖先には朝鮮の血が入っている。 歴史的に見て、日本人はかなり濃厚に朝鮮の血を受け継いでいるはずだが、今や朝鮮・韓国の勢いは強く、様々な面で日本を圧倒している。 どうも、この辺りで日本も気を取り直して、頑張らないと韓国の後塵を拝することになりかねない。 洪さんは、もともと画家で、素晴らしい豪快な絵を描かれる。 その画家だった洪さんが、お父さんの、韓国食品を日本に輸入する事業を継がれて、実業家として大成長した。東京にも、韓国にも、色々な事業を持たれている。 豪快で、精力に満ちていて、韓国人が日本で様々な分野で日本人の心を引きつける理由が洪さんを見ていると分かる。 洪さんには、戦後の日本と韓国の問題、韓国内での例えば済州島での問題など、色々話していただいた。 日本と韓国の問題も考えさせられる夜だった。 書きかけの、嫌韓・嫌中問題を考えるのに、洪さんに意見を伺おうと思っている。 15日の昼食は、野山さんの案内で、「一芳亭」のシュウマイを、W安井さんも参加して全員で食べに行く。 素晴らしく美味しいシュウマイで、母と連れ合いのためにお土産に二折り、買ってしまった。 伊丹空港で今回の取材班全員解散。 この取材班がいればこそ、「美味しんぼ」の「日本全県味巡り」は書けるのだ。 10日間に渡る、W安井さんのご尽力に感謝して、次の取材のご協力もお願いしてお別れする。 ライターの安井さんは、可愛がっていたリスを取材中に友人に預かって貰っていたのだが、昨夜、一匹のリスが急死したと言う知らせが入ったと言うことで、夜の間にずいぶん泣いたのだろう。朝お会いしたときには、まぶたを腫らしていた。 留守中に可愛がっている動物に死なれたら、これはたまらない。 しかし、取材旅行に連れて来るわけにも行かないし。 私は犬と猫を飼いたくてたまらないのだが、この、死なれたときの悲しさを思うと、もう飼うのはいやだと思ってしまうのだ。 安井さんは、今夜帰ってから、リス君のお葬式をすると言うことだ。 リス君の冥福をお祈りする。 羽田空港には、五時前に着き、鎌倉の実家には六時前に着く。 弟の息子二人も加わり、7人で豚のしゃぶしゃぶを食べ、取材旅行中の話に花を咲かせる。 久しぶりに我が家でくつろいで、明日は、また小学校の同級会である。 こんなに頻繁に同級会を開くのは、珍しいと言われるが、これが私たちには普通のことなので、明日が楽しみだ。 ところで、長い間、私の心にかかっていた「シドニー子育て記」が、12日に発売になった。 日本の教育制度を思い切り批判しているので、反感を買うことは必死だと思う。 東大法学部や、東大に多く学生を入れることで有名な受験校の批判も書いている。 反感どころか、怒りも買うのではないかと思う。 しかし、私が日本の教育制度がいやでシドニーに逃げ出したことは真実なので、仕方がない。 日本の教育制度がいやだからと言って日本を逃げ出すような、おかしな人間がいたと言うこと、どうしてそこまで日本の教育制度をいやだと思うのか。 その辺のところを、不快感を我慢して読んで頂ければ有り難いと思う。 私にとっては、この二十年間の人生の記録でもある。 あまりに私的な内容で、独りよがりのところが多い。 それでも、出来るだけ多くの方に読んで頂きたいと想う。 日本の教育制度を真剣に多くの人々に考えていただきたいからだ。 第一章の終わりの部分を、「子育て記」に追加しておきます。
- 2008/11/05 - 和歌山県第一次取材、その後 10月27日から31日まで、「美味しんぼ」の「日本全県味巡り」和歌山編の為の第一次取材に行ってきた。 どこの県に行っても、感心するのは地域の「婦人会」の存在である。 それぞれに名称が違うが、その地域の伝統料理を残すこと、食生活の改善を目指すことなどで目的を同じくしている。 婦人会の方々を見ていると、日本と言う国は女性で持っていると言うことがはっきりと分かる。 日本の女性は凄い。有り難い。 「美味しんぼ」の「日本全県味巡り」の目的は、日本の各地の伝統料理、伝統文化を記録し、後世に伝えること。若い人達にその価値を認識して貰い、自分たちの祖先の残した尊い財産を受け継いで貰うこと、である。 その「日本全県味巡り」の主旨に一番合致した料理を作ってくれるのが各県の地域の婦人会の方々なのだ。 和歌山県も例外ではなく、海草郡「生活研究グループ」、みなべ町「梅料理研究グループ」、串本「生活研究グループ」、「串本町生活改善グループ」、那智勝浦「生活研究グループ」の婦人会の皆さんに数々の素晴らしい料理を作っていただいた。 まずは海草の生活研究グループの皆さんとの記念写真 海草の生活研究グループの皆さんに作っていただいた料理を二つばかり紹介しよう。 左が「あせの葉寿司」、右が、大根の葉のかやの実あえ。 あせの葉というのは、ススキの葉に似ているがそれよりは幅びろで緑色が美しい。このあせの葉で締めた鯖を包む。あせの葉の香りが良く、殺菌力もあるので、用いられるのだそうだ。 実にさわやかな味わいの寿司である。 かやの実は、煎ると非常に香ばしく甘い良い味になる。 そのかやの実をすり鉢ですり下ろし、味を付けて、刻んだ大根の葉を和える。 大根の葉がしゃくしゃくして気持ちの良い歯触りで、またこのかやの実の香ばしさが素晴らしい。私は、色々な地方で、その土地独特の産品を使った和え物を何種類も食べてきた。 このかやの実の和え物は、鬼ぐるみ、エゴマの実、の和え物と並ぶ、極めて秀逸なうまさだ。 次に、みなべ町「梅料理研究会」の皆さんの調理風景。 なんと言っても、みなべ町は梅の町。 町中の人達の大部分が何らかの形で梅と関わりのある仕事をしているという。 梅干を実際に作るだけでなく、その周辺の仕事だけでも産業になる。 例えば、梅干の容器作りだけでも大変な産業になる。 町中見渡すと梅の木で埋まっている。 みなべ町は梅で成り立っている町なのだ。 そのようなみなべの町だからこその「梅料理」だ。 その、梅料理を紹介しよう。 左は梅床の漬け物、右は梅床漬けのできあがり、下はひじきの梅和え。 ぬか床の漬け物は良く知られている、私も大好物。しかし、梅干しをすり潰し下ろした梅床に野菜を漬けた梅床漬けというのは初めての体験だ。 梅だけの味で、ぬか漬けのように発酵した味ではないのだが、実にさっぱりとして、野菜の持ち味を良く引き出す漬け物だ。 ひじきも、ひじきだけでなく色々な野菜を混ぜて梅であえて味を付けると、ひじきの癖が和らいで、ひじき嫌いの人も、ひじきが好きな人も、どちらも「ひじきは旨い!」と本気で思わせる味だ。 ついで 串本の「生活研究グループ」の皆さんとの記念写真 ここで面白かったのはウツボ料理。 左の写真は、ウツボの乾物。これを、右の写真のように、小槌でたたいて柔らかくして、 はさみで細く切って、右の写真のように揚げ煮にする。 私も、ウツボは各地で食べたが、この串本の、乾物を揚げ煮にするのは初めてだった。 香ばしくて、かみしめればかみしめるほどうま味が出て来る。 つい、一杯飲みたくなって困りました。 那智勝浦の「生活研究グループ」の皆さんに作っていただいた、目張り寿司が美味しい。 目張り寿司にも三通り有る。 そして、ここに写真はないが、上に写っている物に倍以上有る巨大なもの。 その巨大な寿司をほおばるときに目をむいてほおばるので目張り寿司という。 左の目張り寿司は、まだ新しい高菜の漬け物で刻んだ高菜を混ぜたご飯を包んだもの。 右の目張り寿司は、麦飯に里芋を混ぜた物を高菜の古漬けで巻いた物。 この色の対比が凄いですね。 新しい漬け物は緑色が鮮やかだし、古漬けはぐわっと訴えてくる力があります。 その中を見てみると、 左はご飯に高菜の漬け物が入っているのが見えるでしょう。ただ、焦点深度が浅かったので、左側だけが鮮明です。素人なのでごめん。 右の古漬けの物は、ピントがちゃんと合っています。里芋の隣に押し麦が見えますね。良かった、良かった。 新しい高菜で漬けた目張り寿司はさわやかでいくつでも食べられる感じ。 古漬けの方は、麦飯、里芋、古漬けと三つ力のある物が重なって、実に食べ応えがある。しかも、後を引く。 そして、串本町「改善グループ」の皆さんとの記念写真。 ここでは、野いちごの葉で包んだ押し寿司を作っていただいた。 野いちごの葉を裏返しにして、押し寿司の型の底に敷き詰める。 野いちごの葉の裏にはとげがある。そのとげを包丁で削って使う。 野いちごの葉は香りも良く、殺菌力が有ると言う。 あせの葉と同じ意味があるんだね。 野いちごを敷いた上に酢飯をつめ、その上に、具を乗せる。 具は、下の写真をご覧ください。 左が締め鯖の細切り、右が、椎茸、ニンジン、高野豆腐、ゴボウ、昆布。 これを丁寧に酢飯の上に並べて行って、その上を更に、野いちごの葉で覆う。 更にその上に酢飯をのせ、具を乗せる。 二段の押し寿司になるわけだ。時には、三段にすると言うから贅沢な物だ。 二段詰めて、更にその上を野いちごの葉で覆って、押しぶたをして、できあがり。 これを、食べやすい大きさに切る。 葉を取ると、おお、美しい。 これは二段になっているから、一段ずつ食べる。 そのときに、1段目の下に着いている野いちごの葉をはがさないと、痛い目に遭います。 この野いちごの葉の押し寿司は、今までに食べた様々の押し寿司の中でも最右翼のうまさ。 味わいが優しくて、心がうきうきする美味しさなのだ。 磯間のシラス漁も楽しかった。 シラス漁の船に乗せて貰って、漁の後漁師さん手作りの料理をご馳走になった。 漁師さんの一人が、「これが楽しみ」と言って持って来ていたワンカップのお酒を私は横取りしてしまった。 漁師さんたちの言葉は、私のように関東で育った人間には聞きとりづらい。 乱暴に聞こえるのだが、皆さんとても優しいのだ。 私に酒を捕られた漁師さんも「全部飲んだらあかんで」と小声で言うだけ。 取れたばかりのしらすで作ったみそ汁で、飲む酒のうまさと来たら、こたえられませんぜ。 と、まあ、こんな具合に、和歌山の取材を続けています。 あまりここで、色々紹介すると、漫画を読んで頂く楽しみが減るから、この辺にしておきます。 11月10日から、第二次取材に和歌山に行きます。 今度はどんな物に巡り会えるのか、楽しみだ。 脚の具合も快調。 シラス漁の船にも乗れたし、炭焼きの山にも行けた。 膝の曲がり方が十分ではないので、不自由だが、痛くないのが何よりだ。 こんなに上手く行くとは思わなかった。 手術をしてくれた、ウッドゲイト医師に感謝。 和歌山のみなさんにも感謝。 10日からまたお世話になりますから、よろしくお願いしますよ。 11月3日は、日比谷公園で山梨県のワイン祭りに参加した。 7百円払えば試飲のし放題、と言うので、1万人を超える人が行列を作って参加した。 大盛況。 山梨の、甲州種のワインは、世界で一つだけ日本食と合うワインだ。 味噌、醤油、米酢という、シャルドネなどのワインが苦手とする食材とぴったり合う。 素晴らしいワインだ。 世界中に日本食が広まっているのだから、この甲州種ブドウのワインも是非、日本食ともに世界中に広めて貰いたい。 その後、広瀬義龍の義龍会が主催する、日式散打の会に参加する。 義龍は私の弟のような存在で、大学を卒業して日本でも一、二を争う大商事会社に勤めたが、中国拳法をあきらめきれず、会社を辞めて、自分で義龍会という拳法の会を立ち上げて、もう二十年近く師範を務めている。 この、散打(実際に打ち合うことを中国拳法では散打という)の会も来年で丸十年。流派を問わず、全国の拳法を修業している若者たちが参加して、防具を付けるが真剣勝負をする。 その気合いの入った一途な姿は見ていて気持ちがよい。 私は一応、顧問、と言うことになっていて、私が見ていて一番気合いの入った良い試合をした青年に「雁屋哲賞」を贈った。 夜は、五十年以上のおつきあいの私の姉の友人の母、と言うと他人じみているが、もう私達は親戚同様のおつきあいをしている。義理の母みたいな関係だ。 今92歳だが、お元気で嬉しかった。 無理矢理に誘って、目黒ドレメ通りのレストラン「Arcachon(アルカション)」にお連れする。 「Arcachon」は東大医科研の先生に連れて行って頂いたのが最初だが、へんぴなところにあるのに、味は超一流。 食材も選び抜いている。 美味しい物を食べたい、と思う人で、このレストランを知らないのは可哀想だ。 美味しい物を食べたかったら、今夜にでも行くべき店だ。 私は、前菜に、鹿肉と牛肉とフォワグラの三種のテリーヌ、主菜に豚のほほ肉の料理を食べたが、どれも満点の出来。 ワインも、イスラエルのワインがあるし、ブルゴーニュの良い物もあるし、完璧に満足した。 92歳の私にとっては母のように大事な女性も、しっかり食べて満足してくれた。 さて、たまに日本へ来ると、用事がたまっていて、これから毎日が大変。 疲労も、たまってきた。 これからが、頑張りどころだんべえなあ。 (写真はクリックすると大きくなります)
- 2008/10/27 - 昆布の話 22日、十時から、大阪谷町の「こんぶ土居」で催し物があった。 「こんぶ土居」の土居成吉さんは、三十年前から真昆布の名産地の北海道の南茅部地区の昆布漁師たちと親しい関係を結んできた。「美味しんぼ」の第77巻の「日本全県味巡り・大阪編」にその辺のところを取り上げているので、機会があったらお読み下さい。 土居さんは三十年以上も南茅部に通い、その土地の昆布漁師たちのその年の収穫、品質などを克明に記録に取ってこられている。 南茅部と言っても、ご存じのない方が多いと思うので、土居さんの作られた図を下に掲載する。 北海道の、本州よりの地域である。 何についても本物の味を追求される土居さんは、南茅部地区の真昆布が世界最高だと確信しておられ、その昆布漁が衰えることのないように支えておられる。 土居さんは南茅部の川汲地区磨光小学校で、毎年小学生たちに、南茅部地区の昆布がどんなに素晴らしい物であるかを自覚して貰うための講演や、寸劇の上演などを行っておられる。自分たちの浜で取れる真昆布の真価に子供のころから目を開いて誇りを抱いて貰わなければ駄目だと考えられてのことである。 土居さんの息子さんの、純一さんも土居さんの情熱を受け継がれ、自分でも南茅部地区の真昆布の良さをまず土地の人に認識して貰うように、講演会を開いている。 22日は、その南茅部地区の高校、南茅部高校の生徒さんたちが校長先生に引率されて大阪の土居さんの店に尋ねてくると言うことになった。 実は、今年の南茅部高校の修学旅行の目的地は京都なのだが、その中の五人が特に大阪の「こんぶ土居」に行ってみたいと言い出した。 学校の規則としては、旅行の目的地以外の場所に行くことは原則禁止なのだが、その五人の生徒たちの意志が強く、またその目的も自分たちの土地で取れた昆布がどのように評価されているか知りたいと言う、極めて真面目な物だったので、特別に校長先生が引率して、京都から大阪まで横滑りでやってきたというわけだ。 そもそも、私に土居さんを紹介してくれたのが「吉本興業」の野山さんで、土居さんを紹介してくれるくらいだから本人も食べもののことにうるさい。 野山さんの名言を一つ紹介しよう。 「ぼく、東京に転勤になって、何で東京に食べ物屋の案内の本がこない仰山あるのか、最初不思議に思うたんですわ。けど、すぐにその理由が分かりました。東京はほんまに美味しい店が少ない。だからいちいち本で調べなあかんのですわ。ところが、大阪は、どの店も美味しい。本なんかで調べんでも、目についた店に入ったら、それでよろし。美味しい物が食べられる。そやから大阪には食べ物屋の案内の本やなんていらんのです。大阪と東京では味の水準が違うんですな」 我々関東の人間にとっては実に憎たらしいことを言うじゃありませんか。 しかし、大阪に来る度に美味しい物を食べさせて貰っているから仕方がない。 その野山さんから「こういう素晴らしい催し物が土居さんのところで行われるから参加しないか」と声がかかった。 尊敬する土居さんのところでそんな催し物が開かれるとあっては、是非参加したい。運良く、日本に帰って来ているし、和歌山に取材旅行に行く前の準備運動としてももってこいだ。 一も二もなく参加させていただくことになったのだ。 22日、前夜京都の「な」大先輩ご一家と私の連れ合いとともに、祇園で伝統古典芸能保存振興協会実行委員会(ただし会員も委員会も私達だけ)の例会を開き、まだ三味線の音が耳に残っている状態で、朝九時半に大阪に着いた。 今日の集まりのために現在勤務先の東京から飛んで来た野山さんと一緒に土居さんの店に向かう。 土居さんのお店は相変わらず、日本中から集めた本物の食べものが並んでいる。これだけ、いい加減な食疑惑で世間が揺れている時に、絶対本物、安全と自信のある食べものを扱い続けるのは、実に気持ちの良いことだろうと思う。 どんどん手を広げてもうけを大きくするより、更に本物で安全な物の数を増やすことに力を注いでいる。 本当にうらやましい、立派な人生だと思う。 やがて、南茅部高校の生徒諸君が到着。 髪型も服装も、まさに今時の若者。 私のような時代に取り残された化石人間には大変まぶしい。 しかし、純真率直で礼儀正しく、気持ちの良い生徒諸君だった。 早速、土居さんのお店に置いてある、南茅部地区の昆布を見る。 「おお、自分たちの浜で取れた昆布がここにある」と非常に喜んでいたのが印象的だった。 一番右が、土居さんだ。その隣が、純一さん。 確かに、自分たちの浜で取れたものが北海道から遠く離れた大阪でこんなに大事にされているのを見たら、嬉しいだろう。 その嬉しそうな樣子が見ていて気持ちが良かった。 土居さんのお店の二階に上がって、純一さんが用意してくれた、南茅部郡の昆布と他の地域の昆布の味比べをした。 それはもう圧倒的に南茅部郡の昆布の方が美味しいことを、生徒諸君も改めて認識して、喜んでいた。 生徒諸君を紹介しよう。 写真の左から、斎藤巧一朗君、佐藤駿君、山田本気君、雲母(きら)大地君、高谷恵太君、そして校長の溜雅幸先生。 生徒諸君の前にあるのが南茅部地区特産の見事な真昆布。手前のひょろひょろの昆布は比較のための物。 これほど、南茅部の昆布は素晴らしい。 生徒諸君の中で、昆布漁を続けると手を挙げてくれたのが 佐藤君と、 雲母君、高谷君の三名。 もう、こんな嬉しいことはない。 実は、土居さんが仰言るには、昆布漁は、仕事として大変厳しい物なのだそうだ。 特に、一昨年、去年と、災害のために昆布が流されてしまって、収穫量が平年の5パーセントにしかならなかったそうだ。 そのように、危険率の高い職業をこの若者たちが選んでくれたことに、土居さんは心を動かされて、ありがたがっていた。 昆布がなかったら、日本の味はあり得ない。 日本料理の味の基本は昆布だ。 どれだけ良い昆布を手に入れるか、それが日本料理屋が命を賭けるところだ。 試みに、化学調味料で味を付けた出汁と、昆布と鰹節で取った出汁を比べていただきたい。 今回も、南茅部高校の生徒諸君が自分たちで、「昆布と鰹節で取ったらこんなに美味しい味が出るのか」と感動していた。 その、日本料理の根幹、これが無くては日本料理は存在できない昆布の漁を、この若者たちが受け継いでくれるというのだ。 なんと言うありがたさだろう。 私は、この若者たちに後光が差しているように感じた。 今後、何か私に出来ることが有れば、精一杯の協力をしようと決心した。 日本は素晴らしいぞ。 この見事な若者たちが、次の世代を担ってくれると言っているのだ。 うれしくて、うれしくて、私は日本という国をますます誇らしく思った。 こういう若者たちがいてくれるからには日本は大丈夫だ。 ありがたい、ありがたい。 南茅部高校の生徒諸君、頑張ってくれ。 私達も、出来る限りの応援をするぞ。 その日は、土居さん御父子のご人徳で、色々と素晴らしい方々が助っ人として協力してくださった。 今、大阪で大変人気のある「豚玉」の今吉正力さんが、なんとたこ焼きを焼いてくださった。 その趣旨は、南茅部地区で取れた昆布で取った出汁で作ったたこ焼きは素晴らしく美味しいと言うことを、南茅部高校の生徒諸君に実感して貰おうと言うことである。 たこ焼きの生地を、南茅部の昆布で取った出汁で溶いて、それで作ろうと言うわけである。 大阪の人なら皆知っていることだが、この「豚玉」という店はわずか二十席しかなく、予約を取るのが大変に難しい人気店である。 私は、残念ながらまだ行ったことが無いのだが、野山さんの話によると、イタリア料理など、次々に美味しい物が出て、最後が「豚玉」というお好み焼きがで締めくくるのだそうだ。 で、「豚玉」では、たこ焼きはメニューにないと言うことなのだが、当日は、南茅部の昆布で取った出汁の美味しさを南茅部高校の生徒諸君にしっかりと認識して貰うために、今吉さんが特別に作ってくださったというわけだ。 今吉さんは、南茅部高校の生徒諸君にたこ焼きの作り方を特訓してくださった。 しかし、このたこ焼きの美味しさと言ったら、これは仲々簡単に表現できない。 ふわり、もちもち、柔らかく、気持ちがよい。 味は昆布と鰹節出汁で、はんなりと案配がよい。 普通のたこ焼きは、青のりを掛けのウースターソースを掛けの、といった具合で、三個も食べれば後はごめん、だが、今吉さんのたこ焼きはそんなたこ焼きとは次元が違った。 何もつけず、たこ焼きをただそれだけ食べて、恐ろしく美味しいのだ。 たこも新鮮でぷっつりといい感触。 私は、生まれてから、こんなに沢山のたこ焼きを食べたことがない。 二十個以上、あるいは三十個を越えたかも知れない。 いくら食べても食べ飽きないのだ。 こんなに美味しいたこ焼きを食べたことがない、と言ったら、今吉さんは不本意そうな顔をされた。 「たこ焼きは、家のまかないの食べ物で、本職は違います」 「豚玉」の料理はよほど美味しい物に違いない。 今度は、「豚玉」を食べるために、大阪に来るぞ。 吉本興業の、野山さん、責任取ってくれよ。 私が、生徒諸君に「たこ焼きをやらないか」と言ったら、土居さんは「昆布漁の妨げになったら困る」と本気で心配される。 で、私が、「昆布漁の合間に副業でしたらいいんじゃないでしょうか」と言ったら、土居さんも「それなら、いいかな」と仰言った。 土居さんは、とにかく、昆布命の方なのである。 ここで、当日集った人間の記念写真を掲載する。 これだけの人間が、南茅部の昆布を大事にする土居さんの心意気に動かされて集ったのだ。 右から二人目、土居さんの隣で凄んでいるのが、吉本興業の野山さんです。 その日来てくださった方々の中に、いま大人気の日本料理の店「伊万邑」の店主、今村規宏さんがいた。 夜は、土居さんにその「伊万邑」に連れて行っていただいた。 今村さんはまだ33歳。 信じられない若さだが、店を開いたのが26歳の時だと言うから更に驚く。 そして更に驚いたのは、その料理の見事さだ。 味のしっかりしていること、味の際が立っていること、素材の素晴らしさ、料理の流れの美しさ、一つとして間然とすることがない。 この若さでどうして、と私は美味しさに喜びながら、同時に信じられない思いに打たれた。 味の一つ一つがみずみずしく、力があるのだ。 ああ、世の中は恐ろしい。 こういう若者がいるのだ。 今村さんと奥様。二人とも顔をしているではありませんか。 奥様の支えが強力であることを、私はお二人のやりとりを見ていて感じました。 これぞ夫婦です。 南茅部高校の生徒さんたち、土居さんの息子さんの純一さん、「豚玉」の今吉さん、そして「伊万邑」の今村さん。 なんと言う素晴らしい若者たちだろう。 私は、異常な愛国者である。 その愛国者が、もう、感動の涙を抑えられない体験をさせて貰った。 本当に、最高の一日だった。 ああ、日本人に生まれて良かったとつくづく思ったぞ。 明日、27日からは、「美味しんぼ」の「日本全県味巡り」の取材で和歌山県に行きます。 途中で、報告できたらいいのですが。 あまり、当てにしないでね。 でも、脚の具合は、もう大丈夫。 和歌山の山の中でも、浜辺でも、ずんずん突進するぞ。 (写真はクリックすると大きくなります)
- 2008/10/20 - おら、日本さ来ただ 10月15日に日本に到着。 成田から、すぐに四谷の寿司屋に直行。 久しぶりに、最高のマグロなど食べて、ああ、大満足。 そこで、今まで漫然として食べていたコハダの本当の味わい方を教えて貰った。 言われなければ、知らずに、この歳になるまで「ああ、美味しい」と言って食べていたのだ。 東京の寿司というのは本当に奥の深いものだ。と言うか、私の知識の浅さは嘆かわしい物がある。 寿司職人の考えの深さ、これには感動した。 近いうちに、「美味しんぼ」に絶対書くぞ。 美味しいお寿司を食べて、鎌倉の実家にたどり着き、インターネットに繋ごうとしたら繋がらない。 その夜はあきらめて、16日、朝からインターネットと格闘するも繋がらない。 午後は、仕事の打ち合わせがあって、インターネットに関われない。 夕方から、取り組むが、だめ。 ついに、NIFTYのサポートに電話をする。 これが中々繋がらない。 あの、NIFTYのサポートにはうんざりする。 必要に応じた番号をプッシュボタンで押せというのだが、その説明だけで1分40秒かかる。 機械的な声でのんびりと、説明して下さりやがるんですよ。 私はせっかちなので、1分40秒も、どのボタンを押せと指示が出るまで待っているのが死ぬほど辛い。 しかも、私の家の電話が悪いせいか、指示されたボタンを押しても、冷たい間延びした声で、「認識できませんでした」と、相手の機械の女性は仰言いやがるんですよ。 何とかかんとか繋がって、指示通りしても駄目。 サポートの人間は、私の使っているルーターがおかしいのだという。 おかしいわけはない。ルーターを設定し直しても、繋がらない。 その日はそれで、沈没。 17日、再び、NIFTYのサポートの助けを借りる。 ついに、ルーターを通さず、モデムから直接コンピューターに繋ぐ。 セキュリティの面から言えば大変に危険なのだが、仕方がない。 ああ、それでも繋がらない。 NIFTYは、自分のところはちゃんと繋がっている。もしかしたら、NTTのせいではないかという。 そこで、NTTに電話をする。 その時点で既に夕方だったが、急遽、技術者が来てくれて調べてくれる。 なんと、光ケーブルがどこかで断線しているという。 家の中ではない。家の外だという。 外に出て調べてくれたが、既に暗くなって調査不可能。 翌日早朝に来てくれることになって、その日もおしまい。 18日、朝10時にNTTの技術者たち来てくれて、ついに断線箇所発見。 私の鎌倉の実家は、いわゆる谷戸の中にあり、山に囲まれている。 家の前の山には、りす、うさぎ、たぬき、が跋扈している。 台湾リスが何匹か住み着いていて、電線を伝って我が家の庭に入り込み、母が大事に育てている甘夏ミカン、柿などを食い荒らす。 今の季節、次郎柿が色づき始めて、りすが毎日襲いに来る。 りすもシマリスは可愛いけれど、台湾りすは体が大きくねずみ色で、顔つきも悪く、実に憎々しい。東京駅の下水道に住み着いている巨大なドブネズミそっくりだ。 私は、その日は、小学校の同級会があるので、あとはNTTの方にお願いして、田園調布まで、近くに住む同級生の車で出かけた。 帰って来たら、モデムがちゃんと動いている。 母の話によると、NTTの技術者たちは、道の向こうの電柱と電柱の間のケーブルにリスのかじった痕を発見したそうだ。 最新の技術も野生動物には敵わないと言うところが恐ろしく皮肉ではありませんか。 その夜、ルーターもつなぎ直して、やっとインターネット開通。 くたくたになった。 私は1956年に大田区立田園調布小学校を卒業した。 私達の六年二組は、非常に仲が良く、年に数回同級会を開く。 一緒の旅行も良く行く。 ホームページも持っていて、毎日何か書き込んでいる。 私は、三月に膝の手術をして、今回が今年初めての日本帰国なので、私にとっては今年初めての同級会だが、他の同級生たちは何か口実を作っては集っているので、ことし5回目くらいの集まりだ。 卒業当時は、1学級に63名もいた。 18日は、そのうち22名が集った。 集って何か特別なことをするわけではない。 ただ、食事をしながら、おしゃべりをするだけだ。 しかし、それが何よりも楽しい。 全員小学生に戻って、浮き世のことなど忘れて、わいわい騒ぐ。 女性はみな美人揃い。 一次会が終わって、久しぶりに皆で、田園調布の町を歩いた。 私の昔の家の近くにある宝来公園まで行く。 何もかも懐かしく楽しかったと言いたいところだが、田園調布の町はあまりに変わりすぎてしまった。 昔はどの家も、広い庭があって、塀など作らず生垣で、それぞれの家の庭や家が見えた物だ。 それが、今、庭のある家が滅多にない。 土地が細分化され、家と家が建て込んでいる。 とても昔の田園都市としての田園調布の面影はない。 信じられないくらい醜い町になってしまっていた。 また、どの家も金がかかっているのは分かるのだが、醜悪だ。 腰が抜けるほど醜怪な家が少なくない。 こんな家を建てるのをどうして許可したのか、と責任ある人に問いただしたいほどの家が多いのだ。 今の田園調布は、昔の田園調布とは違う。 もう住みたいとは思わない。 シドニーの方が百倍以上きれいだ。 その日は、4500歩あるいた。 その疲れと、インターネット修復の疲れが出て、19日は、一日ぼんやりしていた。 今日、20日は、長男と秋葉原にカメラのレンズなどを買いに行く。 秋葉原も変わってしまった。 新しく出現した大きな店に完全に客が吸い取られて、昔からのなじみの店に客が殆どいない。 繁盛している店は、他の店には出来ない値引きをしている。 昔からのなじみの店が無惨に寂れているのを見て、悲しくなった。 しかし、同じ商品なら一円でも安い店で買いたいのが人情だ。 DVDやCDを買いたかったのだが、疲れてしまって、私としては異例に短時間の滞在で秋葉原を後にした。 夕食は、母と連れ合いの料理。 母の漬けてくれるぬか漬けは最高だ。 とくに、なすはシドニーでは味わえない美味しさで、なすのぬか漬けだけでご飯をお代わりしてしまう。 鎌倉の駅近くにある魚屋は、地の魚を豊富に入れるので、これがまたたまらない。 今の季節の戻り鰹のうまさと来たら、シドニーに帰るのがいやになるうまさだ。 明日からは、京都、大阪の旅だ。 脚の具合は大変に良い。 重いカメラをぶら下げて歩いても何ともない。 京都では、伝統文化保存振興運動に協力する。 何のことはない、ただ祇園の御茶屋に行くだけです。 舞妓さんの数は減るし、三味線が上手で本当に気品のあった芸者さんも亡くなってしまった。 それでも、京都に行ったら祇園に行かなければ義理が立たない。 23日は、大阪で大事な集まりがある。 コンピューターを担いでいくことに、連れ合いが難色を示しているので、大阪からこのブログに報告することは出来ないかも知れない。 しかし、本当に意義のある集まりなので、必ず報告します。 さあ、明日に備えて今日は早く寝るぞ。
- 2008/10/14 - 15日に日本へ出発 15日に日本へ行く。 「嫌韓」「嫌中」にけりをつけたいのだが、日本へ行ってしまうと、資料がない。 11月21日にシドニーに戻ってくるまで、「嫌韓」「嫌中」問題はお預けだ。 11月7日に、長い間私の心を負債で苦しめていた「子育て記」が出版される。 これで、十数年来の重石が私の心から取れることになる。 しかし、この本は、地味な内容なので、売れるわけもない。 売れないと分かっている本を出すのは辛い物だ。 出発に備えて、準備が大変だ。 持って行く物、取材の準備、薬の準備、いやはや、毎回日本へ行くたびに大変だ。 もう、日本へ戻ってしまいたい。 私自身としては、もはや、オーストラリアに滞在する意味がない。 のんびり暮らせることはよいことだが、まだまだ、したい仕事が沢山ある。 私は日本語でしか物を書けないから、日本の読者だけが頼りなのだ。 私は中国生まれで、三歳の時に中国から引き揚げてきた。その時に味わった、日本に対する違和感がいまだに尾を引いている。 だから、日本に故郷という感じを抱けるところは一個所も持てないのだが、どうしても、日本人であることに束縛されていて、異常な愛国心の塊である。 それは、実に良くないことで、愛国心なんて物は、さっさと振り捨てなければならないのだが、中々そうは行かない。 どうしてなんだろう。 日本はいやでいやで仕方のないところが多いのだが、心の底まで震えるほど日本人に生まれて良かったと思うことも多いのだ。 ま、愛国心を基本に据えて、日本という国を批判して行くしかないんだろうな。 私の心はどう見ても分裂していて、子供たちにも、お父さんは矛盾しすぎていると呆れられる。 そりゃそうだよね。全くの無神論者なのに、「俺の占いは良く当たるぞ」などと言う物だから、子供たちは、私をどう捉えて良いのか分からなくなる。 私だって自分のことは良く分からない。 子供たちに私のことが分かるわけがないだろう。 所で面白いですね。 ピタゴラスは、あの大昔に、星占いなんて物はまるで下らないと喝破した。 その理由は簡単で、一卵性双生児の運命がそれぞれに違うのを見て、同じ星の下に、同じ時間に生まれた人間の運命が違うのでは、そんな星占いなんて嘘っぱちだと喝破した。 それなのに、いまだに週刊誌には毎週星占いが載っている。 全く人間という物は度し難く、愚かで非理性的だ。 血液型占い、なんて、日本人以外の人に言うと、何のことだか分からずきょとんとなる。 説明すると、私のことを、理性を欠いた、科学的精神のひとかけらもない人間と思いこまれる。 そこで、あわてて、それは、脳みその代わりにどぶ泥を頭に詰め込んだ人間が反吐として吐き出している言葉が、脳みそが空っぽの人間の頭に妙に相性が良いだけの話で、こう言う現象は、欧米に昔からあったでしょう。と例を上げていくと納得する。「日本は、科学技術が進んでいるが、遅れているところもあるんだね」と安心する。 前回話したヒッチンスの「God is not Great」を日本語に訳す人がいないのなら、私が訳して出版しようかな。 その本を読むと、占いとか、奇跡、などと言う物が如何に馬鹿馬鹿しい物であるか、すっきりと分かる。 あの、マザー・テレサに関しても、随分下らない奇跡物語が流布しているんだね。 たしか、数年前のTIMEだったと思うんだが、マザー・テレサ自身、キリスト教に対する信仰が揺らいでいた、と言う話を読んだ記憶がある。 それなのに、マザー・テレサの持ち物を体に当てると子宮ガンが治ったなどと言う奇跡物語が有名になっている。 くそだ。 それとも、私が、ヒッチンスよりもっと、分かりやすく、日本人向けに宗教とか、占いとか、そんな物のくだらなさを書いてみようかな。 天皇制を批判し、ユダヤ教を批判し、キリスト教を批判し、イスラム教を批判し、仏教を批判し、当然、日本の新興宗教全部を批判し、とこうなると、誰かに殺されるね。 でも、世界中を覆う、この宗教の下らなさ、無惨さ、非人間的な残酷さ、こんなのもを、「信教の自由」なんていい加減な言葉で、放ったらかしにしておくのは、人間としての責任の放棄だ。 糞は糞とはっきり言わなければならない。 そして、糞は掃除しなければならない。 ああ、あ。 いい歳をこいて、少しも、私は穏やかな気持ちを持てないんだなあ。 さあ、日本へ行く準備だ。 いそがしい。 幸い、脚の痛みが、上手い具合に抑えられている。 痛み止めを飲まずに、2キロ近く歩ける。 流石に、夕方になると痛くなるが、そんな物、手術以前の膝の痛みに比べたら天国だ。 和歌山取材は厳しくなると思うが、勇気凛々だ。
- 2008/10/12 - お客様がお帰りになってから「子育て記」を仕上げてすぐに、日本からいらっしゃったお客様と楽しく遊んで、気がついてみると、色々しなければならないことがたまっているのに気がついた。 インターネットの接続を換えたときに新しいモデムをISPが持込んできた。 やたらとでかい。据え付けに来た人間はいい加減で中身について説明しないまま、「ああつながった」と言って帰って行った。また私の助手のオーストラリア人もインターネットに詳しくないので、そのまま使っていたが、調べてみると、モデムがでかいはずで、無線用のアンテナを内蔵していた。 しかも、モデムとルーターが一体になっていて、ルーターをつける必要がないのだ。 ポートもちゃんと四つある。そのうちの一つを、スイッチング・ハブにつなげば、家の家族全部がインターネットを使うようにすることが出来る。 全く、ルーターなんて必要がなかったんだ。 で、ルーターを外し、おまけにファイアー・ウォール内蔵なので、ノートンなどのファイアー・ウォールソフトを無効にしたりして、その上、私の書斎内部では、ノートブック・パソコンは二台とも無線接続するように変える作業をした。 しかし、驚きましたね。 マックの場合、無線接続なんか、暗号を入れればそれで一発で終わるのに、ウィンドウズの場合、面倒くさい。 無線接続という同じ作業なのに、マックは一発、ウィンドウズは数段作業が必要。これは、大きい。 更に、数週間前「God is not Great 」という本を買った。 著者は、アメリカのジャーナリスト、Christopher Hitchens。 内容は、要するに「宗教は如何に全てのものを毒しているか」ということで、主にユダヤ教、キリスト教、イスラム教を批判している。 私は去年、イスラエルに行って以来、パレスティナ問題を考えるに当たって聖書を熟読して、ユダヤ教に端を発する、キリスト教、イスラム教の何たるかをしっかり理解したつもりだ。 そして、余りのことに呆れかえった。 私には、どうしてこう言うことを信じることが出来る人間がいるのか、到底理解できない。 この三つの宗教の肝は、「神は全ての創造主である」と言うことだが、それを支えるのが、旧約聖書、ユダヤ教の聖書、の「創世記」だ。 もし、あれを信じられなければ、宗教の土台がなくなるので、あの三つの宗教は無意味になる。 で、「創世記」をどうすれば信ずることが出来るのか。 色々な人がいて、あれは、たとえ話みたいな物で、あれを一字一句あげつらうのは不信心者のすることだ、という。 それはないでしょう。 科学がここまで進むまで、「創世記」は一字一句本当に起こったことだと長い間信じられてきたのだから。 今でも、ノアの箱船が、洪水の後着地したと言われている場所に多くの人々が出かけていって、箱船の残骸を探そうとしている。 ヒッチンスの本は、非常に具体的で素朴な疑問から説き起こすので分かりやすい。 つまらない宗教論や形而上学的なことにページを費やさず、日常の生活で、如何に宗教が人々を害しているか、これでもかと言うくらいに書いているのでとても面白い。 ただ、進化論については、私には満足できないところがある。 生命とは何なのか、どうして生物は進化していくのか、その辺の所がはっきりしない。 だが、余り面白いので、もう一冊買って、22年来の友人「D」に贈った。 「D」は、アイルランド系のオーストラリア人で、アイルランド系だからカソリックだ。奥さんの「J」は、オランダ系で、「J」はただのカソリックではなく、敬虔なカソリックだ。 贈ってから、何の音沙汰もないので、これは怒らせてしまったかと思った。 私達と違って、生まれついてのカソリックに、こんな反宗教的な本を贈ったのは間違いだったか。22年の友情を傷つけたか、と心配した。 すると、日本からのお客様一行とブルーマウンテンから帰った翌日、「D」から恐ろしく真剣な声で電話が掛かってきて、「三分前に読み終わった。よく調べてあって、とても勉強になって良かった。この本を読まずにいたら、とても後悔しただろう」と言って、私に感謝した。 私は「私は『D』を怒らせてしまったかと心配していたんだよ。」と言ったら、「D」は「飛んでもない。『J』も読みたいと言うから、これから読ませる」という。 私は「『J』は敬虔なカソリックだから、それはやめた方がいいんじゃないか」と止めたが、「D」は「いや、『J』が読みたいと言っているから読ませる」という。 私は、まだその本を読み終わっていなかったので、慌てて全部読み直すことになった。今度、「D」夫妻と会ったときに、かならず、細かいところまで話し合うに決まっているからだ。 こちらが、全部読んでいないと話にならない。 しかし、私の英語力はひどいもので、もともと聞き取り能力はお粗末な上に、歳のせいで昔は知っていたはずの単語もぼろぼろ忘れている。 だから、辞書(と言ってもコンピューターの辞書だが)と首っ引きで読まなければならない。 それに、TIMEなんかと違って宗教の話だから、どうしても他の学者の文章など引用する。一部分引用するから前後関係が良く分からず、とても難しい。 TIMEも易しくないが、殆どが時事的な内容なので、理解しやすい。 単語だけ分かっても、英語の文章を理解するのは、大変に難しいことを改めて痛感した。 しかし、本の内容が内容だけに、特殊な単語が多く、こんな単語を覚えてもこれから先使うところがないな、と思いながら辞書を引いた。 英語の話が出たついでに、書いておこう。 「美味しんぼ」の「アラカルト版」がアメリカで翻訳出版されることになって、その中に含まれる「美味しんぼの日々」も翻訳されて見本が送られて来た。 自分の文章が英語になったのを見て、愕然となった。 全く面白くないのだ。 それで、気がついたのだが、私の随筆なんて物は、日本語の言い回し、日本語の雰囲気で持たせている部分が多いと言うことだ。 内容は希薄なのに、語り口だけで持たせているというわけだ。 英語に翻訳してみるとそのあたりの事が分かって、大変にガッカリした。 「God is not Great 」は是非大勢の人間に読んで貰いたいと思う本だ。 日本語訳はまだ出ていないのだろうか。 誰か、早くに翻訳を出し欲しい。 この本に時間を費やして、「日記」がおろそかになってしまった。 「嫌韓」「嫌中」問題にもけりをつけなければならない。 てなところで、昨日、ニュー・サウス・ウェールズ美術館に、中国からやって来た仏像の展覧を、連れ合いと次女とで見に行った。 6世紀頃に出来た仏像だが、色々な事情があって(その事情には様々な説があってどれが正しいのか分からない)12世紀に僧たちが、布に包んで地中に埋めた物だそうで、石灰岩で出来ている彫像だが、金箔も赤や緑の色もかなり残っていて、素晴らしい物だ。 1996年に、山東省の青州で中学の運動場を整備しているときに運動場を掘ったら出て来たのだそうで、その辺りに、昔、龍興寺という寺があったそうで、それに関係があるのでないかと言われている。 実に精緻な彫像で、当時の中国の文化程度の高さが偲ばれる。 日本では、まだ、埴輪かなんか作って喜んでいた時代だからなあ。 その中で、私と連れ合いが特に魅せられた仏像を、展覧会のカタログからスキャンしてお見せする。本当は、著作権の問題からこんな事をしてはいけないのだが、展覧会の宣伝のためだと大目に見て貰おう。 「貼金彩繪石雕菩薩立像」と言う。金箔を貼り、彩色を施した、石彫の菩薩立像、と言う意味だろう。 紀元500年から550年代に作られたと推定されている。(写真はクリックすると大きくなります) どうですか、実に品の良い美しいお顔でしょう。 これだけ美しいお顔の仏像は、京都の弥勒菩薩以外では私は初めてだ。 色彩も1500年前の物とは思えないほど鮮やかに残っている。 着ている衣も素晴らしい。 僧たちが布に包んで埋めたときにすでに仏像はかなり壊れていたようだ。 何か、争いがあって、残った仏像を保存するために埋めたものらしい。 私は宗教は全く信じられないのだが、人が何かに祈る気持ちは理解できるのだ。 この菩薩像には、人が求めている物は何か、美しく表れていると思う。 ところで、日本から見えたお客様だが、有名な方なので敢えてお名前を出さなかったのだが、子供たちのご注進に寄れば、向こうが自分のブログにどんどん書いているというので、私も、その方のお名前を出すことにする。 最兇の漫画家として名高い、西原理恵子さんである。 私の家族は、西原理恵子さんと亡くなられたご主人鴨志田穣さんの大ファンで、書棚に一列西原夫妻の本が並んでいる。 我が家は西原一家の会話に毒されていて、家族でいつも西原用語で会話をしているくらい西原ワールドの家庭である。 であるから、お子さんたちもアシスタントの愛ちゃんも、勿論西原さんとも初対面とは思えず、親戚の人が来たような感じで楽しい日々を過ごさせていただいた。 最兇の漫画家なので、以前のスピリッツの編集長からは「絶対に西原さんに近づいてはいけない」とおどかされていたので、怯えていたが、ご本人は実に物静かな、気持ちの良い人だった。それに美人です。 娘たちは、「西原さんはどうしてあんなに肌が綺麗なのか、その秘密を知りたい」と騒いでいた。 しかし、目が一時も休むことがない。 常に、あれこれ鋭く観察している。その観察力があるからああ言う漫画を描けるのだろう。 私のことも、突き刺すような視線で見ていたので、後でまた、恐ろしいことを描かれるだろう。 お子さんたちが素晴らしかった。 もの凄く素直で、気持ちが良くて、礼儀正しくて、今時こんな子供が日本にいたのかと嬉しくなった。 私の次女は、実は子供が大嫌いで、家に誰か子供連れて来るとすっと姿を隠してしまうのだが、西原さんのお子さんたちは「私、めろめろよ」と言うくらい仲良くなってしまい、私達が大人だけでレストランに食事に行った夜は、二人のお子さんを長女と次女が預かってくれた。 その晩、二人とも長女の部屋に泊まった。 長女も、「二人ともとても可愛かった」と喜んでいた。 子供を見れば、その親がどんな人間が分かる。 二人のお子さんを見て、私は西原さんという漫画家が良く分かった。 恐ろしい漫画を描く一方で「ぼくんち」のような、すみきった美しい漫画を描く。恐ろしい漫画は、仮面で、西原さんの真の姿は「ぼくんち」などの純粋で深い愛情に溢れた世界にあると言う事が分かった。 子供たちは、西原さんがお帰りになった後、「しまった、サインして貰うの忘れた」「あ、握手して貰うのも忘れた」と残念がっていた。 でも、いいじゃないの、西原さん一家と三度も一緒に食事を出来たんだから。 西原さん、また、お子さんたちを連れて遊びに来てね。
- 2008/10/05 - ブルー・マウンテンで自信がついた 1日に日本から大事なお客様「さ」さんご一行がシドニーに見えて、それ以来ずっと遊んでいただいている。 「さ」さんご一行は、ご長男「が」くん(10歳)、ご長女「ひ」ちゃん(8歳) 兄上「た」さん、お仲間の「あ」さん、「や」さん、の6人。 最初の日に、私の大好きなウェストヘッドの国立公園に拉致して、アボリジニーが地面に残した筋彫りなどの遺跡を見て頂いた。 3日から5日まで、ブルー・マウンテンにお連れして、ブルー・マウンテンの雄大な自然を楽しんでいただいた。 私は、大変な晴れ男で、雨の予報の時でも私が旅行に行くと旅先はかんかん照りになると言う伝説がある。 一方「さ」さんは、悪質な雨女だと言うことで、晴れ男と雨女のどちらが勝つか、真剣勝負だったが、最初の10月3日は素晴らしい上天気。ブルー・マウンテンの雄大な景色の見るべき所は全部見て貰えた。ところが、その夜から、雨になり、翌日4日は、昼まで大雨。雨の中を、ブルー・マウンテンのおもちゃの博物館など見て回ったが、午後から雨がやんで、この時期、ブルー・マウンテンの素晴らしい庭を持った家は、観光客に公開していて、それガーデン・フェスティバルというのだが、その一つの素晴らしい屋敷の庭を気持ち良く見ることが出来た。 3日4日ともブルー・マウンテン地域では一番評判の高いストランを予約することが出来て、「さ」さんのお子さんたちも楽しんでいただけて、充実した楽しい夕食を取ることが出来た。 5日は、晴れ男と、雨女の力の配分の中間で、くもりだったが、幸いに雨は降らず、ブルー・マウンテンの谷底に降りていって、「さ」さんの長女の「ひ」ちゃんは、ポニーに乗馬して上機嫌だった。 そのあと、「フェザーデール・ワイルドパーク」という、オーストラリアの様々な動物を集めた動物園のような所に行き、私も初めて見るような様々な動物を見ることが出来て、大人も子供も全員たのしめた。 そのまま、我が家に拉致して、餃子大会。 実は、明日6日が私の誕生日で、私の誕生日は餃子大会と決まっていて、明日が餃子大会だったのだが、せっかく「さ」さんご一行がいらしているので、私の誕生祝いを一日早めて、今日、餃子大会を決行することにした。 私の家では、餃子を包むのに、お客様にも手伝わせることになっているので、「さ」さんご一行は、旅行でつかれているのに、むりやり、餃子包み作業に駆りたてられて、しかも私が一々自分の気にいった包み方を強制するので辟易しておられたが、大人数で包むと実にはかが行く物で。十三人分の餃子を、あっという間に包んでしまって、そのまま、水餃子、焼き餃子、長男得意のローピン大会に突入した。 何が楽しいと言って、気持ちの合う連中と一緒に餃子を包んで食べることほど楽しい物は他に滅多にない。 たちまち満腹になり、動けなくなったところで、次女が私のために作ってくれたバースデイケーキの登場だ。 私の大好きなイチゴのショートケーキをバースデイケーキに仕立てた物で、私は感涙にむせんで人の一倍半の量を食べた。 余りに幸せで楽しく、今誰かが殺してくれたら喜んで死にたい、と思うほど幸せの絶頂を味わった。 四人の子供たち全員で私のために、一所懸命、努力して作ってくれた。 餃子の皮だって、きちんと美味しく作るのは大変なんだ。 出来合いの皮で作るような餃子は私の家では餃子とは呼ばない。 小麦粉を練るところから始めてこそ、ぎょうざだ。 だから、ローピンという我が家独特のネギ餅も出来る。 これが、私の大好物。 四人の子供たちが連繋も見事に、全部を作ってくれる。 今回もう一つ嬉しかったのは、3月18日に手術をして以来、はじめて車で遠出をして、近間とはいえ二泊三日の旅をすることが出来たことだ。 しかも、ブルー・マウンテンの景色の良い所をお客様にお見せしたいから、結局私自身が車を運転し、要所要所では自分で歩いて案内しなければならない。 それが、全部出来たのだ。 もはや、痛み止めは一切取っていない。 それなのに、3日は3900歩以上歩いた。 痛いが、我慢できる痛さなのだ。 これで、大いに自信がついた。 和歌山県の取材もこれで大丈夫だ。 しかし、それにしても、3月18日以来、こんなに体を動かしたことは初めてだったので、いやはやは、実につかびれた(つかれてくたびれた、と言う意味)。 つかびれたけれど、この脚で活動できるという自身がついたのが大きい。 非常に快適だ。 夜、長男と、昔のレコード(LP)を聞いた。 ドナルド・バードとジジ・グライスの演奏で、「I remember Cliford Brown」。 CDでも持っているのだが、LPの音は、ねっとりときめが細かく情感に溢れていて、もう、五十年代・六十年代のジャズはLPでなければ駄目だ、と何度目かの痛感をした。 楽しかった。 自分が何歳になったのかも忘れて、夜遅くまで音楽を聴いた。 最近iPodなどで、音楽を聴くのが流行っていると言うが、まったく涙が砂に変わるほど情けない。 あんなものは音楽ではない。 こんど、じっくり、iPodなど、イアフォーンで聞く音が音楽ではないことをじっくり話してあげて、また大勢の人達から、非難の嵐を浴びることにしよう。
- 2008/09/30 - 「子育て記」完成! ついに完成。 「子育て記」を書き上げた。 前書き、後書き入れて、全部で十一章。 400字詰めの原稿用紙で510枚。 それに、写真が41枚。 くたびれたなあ。 やり遂げたという高揚感が湧いてくるかと思ったら、別になんて事もないのがつまらない。 ああ、物書きとしてすれてしまったのか。 本当は打ち上げ花火でも打ち上げて、どんちゃん騒ぎをしなければならないのになあ。 まあ、とにかくこれで、自分自身に対する心の負債は返済できたのかしら。 今これを書いている背後に流れているのは、Franckの「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ」。 今日はこれでは弱いな。 もっと刺激的な曲の方がしっくり来る。 ところで、突然ですが、私は学歴で人を判断します。 私は東大法学部卒と聞くと、まず一歩退いてしまう。 東大法学部卒の人間に対する私の評価は甚だしく低い。 それは、これまで、あまりにひどい人間を東大法学部卒の人間の中に見過ぎたからだ。 東大法学部卒と聞いただけで、私の心の中では、その人間に対する警戒警報が鳴り響く。 「こいつはやばそうだぞ。気をつけろ」 この数十年間を振り返って頂きたい。 汚職をした高級官僚の殆どは東大法学部卒だ。 今でも忘れられないのは、日本のバブル経済が破裂して、いわゆる失われた十年に突入した1990年代初め、当時の大蔵省の高級官僚が、とても恥ずかしくてここには書けないような接待を受けたり、大蔵省の中枢である主計局の官僚が勤務時間中に事務室で賄賂を受けとったりして、問題になったことがある。 そもそも、バブル経済を、軟着陸させることが出来ず、一億人以上が乗っている「日本号」という飛行機を墜落大破させてしまった張本人が東大法学部卒の官僚どもだ。 その日本の一番苦しい時期に、日本そこまで苦しい状態に追い込んだ張本人の東大法学部卒の連中が、下劣な汚職をしていた。 考えてみて欲しい。 一つの大学の一つの学部から、これだけ毎年のように汚職官僚を産み出す例が世界中にどこにあるか。それも、官僚として最高の位置にある、一番責任の重い官僚たちがだ。 日本を背負うべきなのに、日本を食い物にして、破壊している。 官僚だけではない。銀行でも、大企業でも東大法学部卒がのさばっている。 日本の銀行が最近、アメリカの金融機関が崩壊したのに乗じてアメリカの銀行を買いに出たりしている。 ふざけるなよ。 自分たちが失敗した尻ぬぐいで、われわれ国民は、銀行に預金をしても殆どゼロに近い利子しか貰えない。 この制度を作ったのも東大法学部卒の官僚たちだ。 日本の銀行は利子を殆ど支払わずに集めた金を、高い利子を付けて貸す。 こんな商売、子供でも出来る。 そうして儲けた金をアメリカに持っていく。 見ていてご覧。 東大法学部卒の連中は、実はひどく無能だから、またアメリカにしてやられて、日本の国民から巻き上げた金を、アメリカに取られてしまうよ。 東大法学部卒がどうしてここまで、程度が低いか、それは彼らが人間としての教養にかけるからだ。 東大法学部を卒業して、国家公務員試験で高得点を取って、高級官僚になる。 その連中は、秀才である。 ただし、受験秀才である。 一番の問題は、受験勉強は本当の意味での人間の教養を深めるための勉強ではないことだ。 読者諸姉諸兄、ご自分が高校の時に、日本史、世界史、哲学、文学、この分野でどんなことを学んだか、思い出していただきたい。 歴史なんて、重要事件の年代か、歴史の節目の人物名か、そんなことしか学ばなかったでしょう。 それも、教わるのは明治維新までの古いことばかりで、昭和に入ってからの歴史は殆ど教わらなかったのではないか。 第二次大戦前後のことなど、学校で教わった人はほんのわずかしかいないと思う。 さらに、哲学、世界史、文学、となったら、単に人名を覚えるだけではなかったか。 大学の入試なんて、そんな物で合格するんですよ。 受験勉強でよい点を取ったと言っても、そんな上っ面のクイズの問題みたいな物が出来たと言うだけだ。 そして、日本の受験勉強第一の教育は、受験が終わったところで教育は終わる。受験校というのは大学受験が目的なんだから、大学受験が終われば、その学校の意味はもうない。その学校の教育はそこで終わりだ。 大学に入った若者たちも、もう、そこで勉強は終わったような気持ちになる。 まだ、理科系は、一つの理論の検証をしたり、実験の成果を提出したりしなければならないから、勉強せざるを得ない。 しかし、文化系は、呆れるほど勉強をしない。 受験勉強で勉強が終わったと大抵の者は感じているから、自分から更に勉強しようという動機付けが出来ない。意志がない。 だから、英文学を専攻しておきながら、英語の小説の日本語訳を読んで、それを使って卒論を書いて終わり、などと言う学生が大勢いる。 日本の大学は、卒業するのは簡単だ。 東大の英文科を出ても、英語の新聞、週刊誌が読めない、英語で電話もかけられない、などと言うものが大半だ。 語学力がその程度だから、日本の歴史、世界の歴史、世界の社会状況、哲学、文学、そのような基本的な教養を身につける勉強などしていない。 文化系でも司法試験や、公務員試験を受ける学生は勉強する。 しかし、そのような資格試験は、人間としての教養を深める物ではない。 昭和天皇が、こぼしていたな。 みんな小才のきく人間ばかりで、本当に優秀な人間はいなかった、と。 戦争に突入したときの軍部の指導者たちは、全員陸軍大学を優等で卒業した恩賜の軍刀組だ。(優等生には天皇から軍刀が与えられる) 陸軍大学の成績は、試験で決める。それも、紙の上での模擬戦術が教官の意に沿うか沿わないかで決めた。そんなのが実戦に役に立つわけがない。実際に役に立たなかったのは歴史が証明している。 日本は他に人物の評価基準を持っていないのか、試験秀才を異常に祟める。 アメリカに戦争をしかけるような愚かなことをしたのが、その「恩賜の軍刀」組の最優秀とされた軍人たちだ。 アメリカの実力も知らず、世界における日本の地位も知らず、戦争を始めるなんて、本当に愚かだと思わないか。 その愚かな軍人を支えた官僚が、東大法学部卒の秀才たちだ。 日本が贅沢は敵だ、など言っていって、国民が惨めな生活を強いられていたとき、アメリカでは、ディズニーが「ダンボ」という素敵に贅沢で楽しい映画を作っていた。そんな国と戦争して勝てるはずがないことがどうして分からなかったのか。 軍人だって、外交官だって、アメリカに行ったことがあったはずだ。 それなのに、実情を掴めないほどおろかだったのだ。それは、基本的な人間としての教養を欠いていたからだ。 試験秀才は、小才がきく。 試験で良い点を取る能力はある。賢そうに見える。口は上手い。 しかし、本当の教養は試験秀才にはない。 教養がないから、事の善悪も判断できず、日本が一番困っているときに平気で汚職をしたりするのだ。 十年ほど前、東大法学部を卒業して、農水省に入ったばかりの新人官僚に「どうして雁屋さんは、東大法学部のことを、こんなに悪く言うんですか」と文句を言われたことがあった。 私は仕方がないから、「君の先輩たちのしたことを見てご覧。私が文句を言うのも当然でしょう。君は、先輩たちのようなことはしないでくれ」と言った。 あれから十年経ったが、その間にも、東大法学部卒の官僚の汚職は絶えない。 なぜ、突然東大法学部の事を書き始めたかというと、わずか五日間で昨日国土交通大臣を辞めた中山某と言う人間が、やはり東大法学部卒だったからだ。 中山某は「成田空港整備への住民の反対を『ごね得』」と言い、 「日本は内向きな単一民族」と言った。 これは、一人の人間として信じられない言葉だ。 成田に空港を作ると突然政府が決めた後、どれだけ多くの人間が苦しんだか、その歴史を知らない。 知らずに、住民を貶める発言をする。 「ごね得」だなんて、本当に下品な言葉を使った物だ。 また、「日本は単一民族」だなどと言うのは、日本史をきちんと学んでいないからだ。 全く無知としか言いようがない。 中山某は天皇が自分の祖先には朝鮮系が入っている、と言ったのを聞かなかったのか。桓武天皇の母親高野新笠は百済王族の末裔であると続日本紀にはっきりと書いてある。 中山某は天皇を侮辱した。 私は天皇制を批判するが、天皇を侮辱するような恥ずかしいことは死んでもしない。 徳川幕府の親玉は家康を始め「征夷大将軍」の官名を朝廷から貰って、その権威の基に全国を支配していた。 その「征夷大将軍」とは何のことか、中山某は知らないだろうな。 「征夷」とは、「夷」すなわち、「アイヌ」を征服すると言う意味だ。 昔、朝廷は東国を支配しているアイヌと戦うために、軍隊を派遣し、その将軍に「征夷大将軍」という言う称号を与えた。 軍人の中で一番、位が高く、だから、それ以後、幕府を開く武士は「征夷大将軍」の官名を貰ってその権威によって国を支配したのだ。 それほど、当時は大勢のアイヌ民族が日本にいたのだ。 いまでも、日本各地にアイヌ語の地名が沢山残っている。 中山某は日本に住んでいながら、そんなことも知らないのだ。 さらに、平安時代特に名高い征夷大将軍に坂上田村麻呂という人物がいたが、この人物は、前漢の王家が日本に移住したその子孫だと言われている。 中国人だったのだ。 坂上田村麻呂はその後大変に英雄扱いされて、国に異変が起こると、坂上田村麻呂の墓は鼓を打つが如く、雷が轟くが如く、音を立てて揺れ動いた、と言われている。 その国家的英雄も、中国人だったのだ。 それも、中山某は知るまい。 この中山某が東大法学部卒だ。 東大法学部卒の人間が如何に教養がないか、見事に示してくれている。 東大法学部卒の中で、特にこの中山某だけ教養がないというわけではない。 東大法学部卒の教養程度はこんなものなのだ。 中山某は「日教組をぶっ壊せ」と言った。 私も、日教組には言いたいことが沢山ある。 しかし、日本には労働組合を組織する自由がある。基本的人権として認められている。 その労働組合をぶっ壊せとは何事か。 基本的人権を、認めないことではないか。 中山某の言っていることは憲法に違反している。 日教組をぶっ壊す前に、これだけ悪質な人間を次々に輩出する東大法学部をぶっ壊さなければならない。 東大法学部は日本の恥だ。 こんな下衆っぺたを自分たちの代表として選出した宮崎県人は間違いを犯しましたね。 間違いは直ちに正しましょう。今度の総選挙で、またこんな男を選出したら、宮崎県は、世界の恥さらしですよ。 憲法に違反する人間を、自分たちの代表に選出したら、自分たちも憲法から守って貰えなくなるんですよ。 勿論、東大法学部卒の中にも、良い人はいるでしょう。 しかし、悪いのが多すぎる。 東大法学部卒で良い人間と言うのは、生まれつき非常に心が美しく、しかも強い人に違いない。 これだけ、悪い連中が集まっている学部を卒業してなお良い人間でいられるとは、すごいものだ。 繰返すが、一つの大学の一つの学部からこれだけ悪質な国家的な犯罪人を輩出する例は世界中に他にない。 東大の文一の学生諸君、今からでも遅くない、転部しなさい。 さもなければ、本当の教養を身につけるべく猛勉強をしなさい。 東大の学生の知的水準は、欧米の一流大学の学生に比べて、非常に低いと言うことを自覚して、勉強し直して貰いたい。 そして、君たちの醜悪な先輩たち、中山某のような人間にならないように、しっかりした正しい心を持って貰いたい。 ああ、あ。 折角「子育て記」が完成した目出度い日だというのに、こんないやな文章を書いてしまった。 でも、「子育て記」にも、同じようなことを書いているんですよ。 日本の受験勉強第一の教育制度に対する批判ついでに、東大法学部についても書いています。 であれば、今日の「日記」は、「子育て記」の続きみたいな物だ。
- 2008/09/25 - あと少し あと少しだ。 「子育て記」全部で、八章、それに加えて、「総括」の章と「後書き」。このうち、残るのは、第六章の三分の一。それに「総括」と「後書き」だけになった。 「総括」と「後書き」は半日もあれば出来る。 第六章の残り三分の一は、今日中に仕上がる。 後は、掲載する写真を整理するだけだ。 この分で行けば、明後日には、完成するだろう。 この「子育て記」は以前にも書いたが、随分前に書き上げるはずだった。 それが、子供たちが、大学を出てしまった今になって書くのは遅すぎるかもしれないが、私にとって、とにかく書いておかなければ、自分の人生の大事な仕事をし忘れたような気がしてならないので、何が何でも書こうと決めたのだ。 長い間、自分の心の中に、自分自身に対する負債として、この本を書き上げる仕事がずっしりと居座っていたので、これで明後日全てが出来上がったら、どんな気持ちがするだろうか。 晴れ晴れとして、新しい仕事に取り組める。 久し振りに、酒を飲んでみようかな。 しかし、この間、二日間痛み止めをやめてみたときに、酒を試してみたが、別に感動もしなかったし、格別美味しいとも思わなかった。 考えてみれば、三月の十八日に手術をしてから、七月一日まで一切酒を飲まなかった。 七月一日から十八日までウィスキーとワインと焼酎を飲んだら、痛み止めと干渉仕合って、大変に体調が悪くなったので、再び禁酒した。 九月に入って一日だけ飲んだが、上記のように少しも酒を美味しく思わなかった。 もう、体が酒と仲良くできなくなったのかしら。 考えてみれば、私が生涯で二番目に長い禁酒期間だ。 一年半禁酒したことがあったが、その禁酒あけに飲んだビールは涙が出るほど美味しかった。 それなのに、今回はこんなに長い間禁酒していたのに、どうして美味しく感じないのだろう。 不思議だ。 実につまらない。 連れ合いは、もう、これまでに他の人の人生二回分くらい飲んでいるから、十分じゃないの、と言う。 はあ、そんなもんですかね。 十月一日から、酒飲みのお客様が来るので、それからはお酒のつきあいをしなければならない。 それに備えて、今日から、痛み止めを飲むのをやめた。 モルヒネ系の痛み止めを長く飲み続けると、中毒になるという。 薬が切れると、体の具合が悪くなると言うのだ。精神も薬に依存してしまっていて、飲まないと精神もおかしくなるという。それで、無性にその薬を飲みたがるのだという。 冗談じゃない。 こんな薬の、中毒患者になってたまるものか。 あれほどの大酒飲みが、飲むまいと思ったら、何ヶ月も酒を飲まなくても平気でいられるのだ。 意外に私は自分を律する意志が強いように思ったが、何のことはない、単に臆病なだけなんだ。 私は、アルコール中毒に陥るのが怖い、糖尿になるのが怖い、麻薬中毒になるのが怖い、その恐怖故に、酒でも、麻酔薬でもやめられるのだ。 臆病は体に良いのかな。 さて、これで、あさってから、「子育て記」から解放されて自由になるから、長い間休んでいた「嫌韓」「嫌中」について、を書き始めよう。 すでに、このページ当てに、数人の方から、私を批判するメールを頂戴している。 その方々のためにも、きちんと「嫌韓」と「嫌中」について書かなければならないだろう。 昨日のニュースで、日本の新しい内閣の顔ぶれを見た。 色々な識者と称される人達が、新内閣の首相から閣僚までについて色々批判しているが、政治家を批判しても仕方がないのではないか、と私は思った。 この政治家達は、全部、国民によって選ばれて出て来た人達だ。 むりやり、暴力で議員になり、閣僚になったわけではない。 選挙区の人達によって、自分たちの代表として送り出されてきた人達だ。 批判するなら、こう言う政治家を議会に送り出した国民を批判するべきだろう。 民主党は今度の総選挙で、またもや、テレビなどで知名度の高い人物を候補者として送り込むそうだ。 以前テレビで人気のある芸能人を参議院議員に仕立てたが、六ヶ月でその人間が議員を辞めてしまったことを忘れたのだろうか。 こう言う政治体制を、何とかいったな。 民主政治だったかな。 いや、衆愚政治と言うのではなかったか。 衆愚政治の根本を批判せずに、政治家を批判しても、全く無意味なのではないか。 最近、久し振りに、私が「雁屋哲」の名前で劇画原作者として認められることになった作品「男組」を読み返したら、その中で、敵役の「神竜剛次」が凄いことを言っている。 日本刀を振り回して「大衆は豚だ」なんて言っているんだよ。 神竜剛次は自分のような優れた人間が支配しなければ、社会は豚である大衆が汚らしく乱すだけだという賢人独裁主義的な意見の持ち主。 主人公の流全次郎は大衆の側に立つ民主主義的な正義漢。 「男組」という漫画は、そんな二人の対立を描く、えらく不思議な漫画なのだ。 1974年には、こんな漫画が平気で少年誌に掲載されたんだね。 今こんなせりふを書いたら、たちまち「人権派」の人達に寄ってたかって袋叩きにされて、出版停止、作者は土下座して謝罪しなければならなくなるだろう。 作家生命もそれで終わり、と言うことになる。 しかしね、今度の総選挙の結果を見たら、神竜剛次は同じせりふを言うんじゃないかな。 三十四年前にこんなせりふを言った神竜剛次はえらい。 しかし、それから何も変わらないどころか、ますます悪くなっている日本の社会はどうすればいいんだ。 神竜剛次のせりふは、原作者である私が作って書いた物だが、なんだか、神竜剛次という人物がどこかに本当にいて、「大衆は豚だ」というせりふは、その人間がいまだに叫び続けている様な気がするのだ。
- 2008/09/23 - 調子は良好〈「シドニー子育て記」に「第一章 その6」を追加しました〉 沖縄の「あ」から、「最近日記をさぼっているが、体調に揺り戻しでも来たか」と心配するメールが来たので、あわてて、日記を書くことにした。 体調は非常によい。 長い間苦しんでいたのが、ウソみたいに、突然痛みが軽くなった。 連日、1.7キロメートル(雨の日は1.4キロメートル)歩いている。 痛みはあるが、折り合いをつけていける痛みだ。 今の調子なら、更に痛みは軽減していく希望を持てる。 十月の半ばに日本へ行くことにした。 最初は、クラッチを二本ついて行こうと思っていたが、ここ一週間ほどの進捗状況を見ると、クラッチ二本ではなく、普通の木のステッキ一本で大丈夫だという自信がついた。 和歌山県に、「美味しんぼ」の「日本全県味巡り」の取材に行くが、ステッキ一一本で問題ないと思っている。 一時は手術前より痛みがひどくて、これは失敗したのではないかと悲観的になっていたが、毎日倦まずたゆまずリハビリに励んだ結果が出てきて、今の状態はもはや手術前より遥かに良い。 手術以前は、膝が痛くてちょっとした距離はクラッチ二本をつかなければ歩けなかったのだから、比べものにならない。 随分苦しんだが、この手術は大成功だった。 今日、医者に会ってきた。 エックス線写真を見ても、全て完璧で、医者は自慢していた。 私も、それまでクラッチ二本をついて会いに行っていたのを、きょうは木のステッキ一本だけで行って、「どうだ」と自慢したら、医者は非常に喜んで、「私が言ったより回復が早いじゃないか」と鼻高々に言った。 医者の名前は、Woodgateと言う。 感謝の印に、日本名をつけて上げた。Woodgateだから、「木門」である。 漢字で書いて、説明して上げたら喜んでいた。 こんなに急激に良くなると、実に気分がよい。 これから、十年間はばりばり活動するぞ、気合いが入る。 前途に光明が見えてきた。 ここずっと日記をさぼってきたのは、「子育て記」がいよいよ完成に近づいて忙しくてたまらないからだ。 四人の子供たちが残した、何百冊ものノートを一冊ずつひっくり返して、グレネオンのシュタイナー教育を説明するのに役に立つ物を選び出し、写真に撮るのが、大変な労働だった。 シュタイナー・スクールではメイン・レッスンと言って、一つの教科を三週間ぶっ通しに学ぶが、その時に教師は教科書を使わず、自分の勉強してきたことを黒板に書いたり、プリントを渡したり、様々な教材を使って説明したりする。それを生徒たちがノートに取る。 単にノートに取るだけでなく、そのノートに、自分が勉強してきたことなども書き込む。 しかも、シュタイナー・スクールでは、芸術性を重んじるから、数学のノートでも、美しい色を沢山使って仕上げる。 同じ科目でも、生徒一人一人で個性を発揮してノートを作る。 四人の子供が同じ科目について取ったノートが、表紙から中味まで、その表現方法がまるで違って面白い。 ノートを取ると言うより、一冊の本を作る意気込みでノートを作るから、創意工夫に富んでいて、我が子のノートながら感心する。子供たちにとっても、メイン・レッスンのノートは宝物で、それぞれ段ボール箱にため込んである。 そんな作業をしているので、つい「日記」の方がおろそかになってしまっている。 何が何でも30日には全ての原稿を送らなければならないので、ここしばらく、また厳しい日々が続く。 しかし、なんとか、時間を見て「日記」を書きたい。書くつもりだ。 うっかり、更新を忘れていた「シドニー子育て記」の続きを、載せたので、お読み下さい。 この「シドニー子育て記」を十月中に出版する。 途中まで、どんどん、アップロードするので、試し読みとしてご覧頂いて、実際に出版したら、どんどんお買い上げ頂いて、あちこちで宣伝していただきたい。
- 2008/09/14 - 驚くべき進歩 ここ数日、急速にリハビリテーションの効果が表れてきたようで、自分でも驚くほどの進歩だ。 今日は、雨降りなので、屋内の廊下40往復1440メートルを歩いたが、最初の内、殆ど痛みを感じないのだ。 25往復目くらいから痛みを感じ始めたが、今までの厳しい痛みとはまるで違う。 問題なく我慢できる痛みなのだ。 これが本物なら、有り難い。 杖もつかずに、20メートルくらいなら歩けるようにもなった。 ちょっと信じられないくらいの進歩だ。 自分の仕事部屋の中では、杖を使わずに動き回れる。 こいつは嬉しい。 このまま、進んでいってくれたら、大丈夫だ。 保険会社から、リハビリテーションは今月から、週一回五時間のコースを受けろと言ってきた。午前中から病院に行って午後までかかる。 そんなことはとても出来ないので、保険会社とは関係なく、自費でハイドロ・セラピーだけを週二回受けるようにした。 病院の受付の女性は、一日五時間のコースを保険会社が言って来るのは、嫌気がさしてやめることを狙ってのことだ。私が断ったので、保険会社はお金を払わないですむ。保険会社の企みは上手く行った、と言った。口惜しいがその通りだ。 フィジオ・セラピーを受けなくなったので、フィジオ・セラピストの若い女性たちと会う機会がなくなった。 どうも、プールで、老人の煮込み鍋ばかりで、若い女性に会う機会がなくなったのは淋しい。 しかし、フィジオ・セラピーはもはや、卒業の時期なので、仕方がない。 それだけ、私の回復が進んだと言うことで、いつまでもフィジオ・セラピストの厄介になっているようでは困る。 シドニーも大分春らしくなってきた。 梅、杏、の花は終わり、藤が咲き始めた。 近くの公園に、見事な藤のトンネルを造っているところがあるので、こんど写真を写してご覧に入れよう。 だが、藤の花の香りは強いね。 ちょっと強すぎる感じがする。 私はフリージアの様な香りの方が好きだ。 日本は相変わらず、ごたごたしていますなあ。 自民党も末期的な症状を呈していますね。 福田さんのことを、首相の座を放り出したと言って、みんな悪く言うけれど、安倍前首相の後、誰が引き継いでも上手く行くはずがない。 福田さんは悪い人ではなかったと思う。むしろ、人が良すぎたのではないだろうか。私自身、良い感じを抱いていた。 今度の五人の総裁候補の顔を見ていて、私は、なにかとても不吉な予感がする。 誰が総裁になるか分からないが、今度総裁になった人は・・・・・・・ と言うことになるのではないか。(とても不吉で・・・・・の個所ははっきり書けません) さて、そろそろ、「日記」を再開するかな。 「嫌韓・嫌中」を書かないと。
- 2008/09/09 - オーボエ奏者 渡辺克也さん 先日、嬉しいことがあった。 一月以上前の事になるが、担当編集者から、荷物が届いた。 中には、CDとお手紙が入っていた。 オーボエ奏者、渡辺克也さんが、新作のCDを送って下さったのだ。 渡辺克也さんは、1966年生まれで、東京芸大卒。 大学在学中から、日本フィルハーモニー交響楽団に入団。 1990年、第7回、日本管打楽器コンクール、オーボエ部門で優勝、合わせて大賞も受賞。 その後、1991年に渡欧し、ベルリン・ドイツ・オペラ歌劇場管弦楽団の首席奏者などを歴任し、現在、ヨーロッパを中心に活躍しておられる。 渡辺克也さんの写真を下に載せます。(写真はクリックすると大きくなります) その渡辺克也さんは有り難いことに、「美味しんぼ」を愛読して下さっていると言うことで、今回、新しいCDを出されたおりに、勿体無くも私に一枚ご恵贈下さったというわけだ。 私は早速お礼のお手紙を書いたのだが、編集者から送られてきた包みには、渡辺克也さんの住所がない。 困り果てて、インターネットで探したら、渡辺克也さんの後援会を発見した。 そこに、メールを送って、渡辺克也さんのご住所を知らせてくれるようお願いしたのだが、全く音沙汰がない。 さて、これは、何とか他の手段を用いて、渡辺克也さんの住所を調べなければならないと思っていたところに、当の、渡辺克也さんからメールを頂戴した。 「後援会」は、私のメールを取り次いで下さっていたのだ。 これで、一月以上心に抱えていた負担が解消した。 お礼のお手紙を、ベルリンのご自宅に発送した。 私は、音楽が大好きで、高校生の時からオーディオに凝ってしまっていて、連れ合いににらまれている。 と言うのは、オーディオ装置は、高価な物が多いからだ。連れ合いにとっては、そんな物を買うのは正気の沙汰ではない、と思えるらしい。 私の仲の良いオーディオ屋さんは、私の家に姿を見せる度に、連れ合いに「また今度は何を持って来たの」と厳しく追及されるので、参っていた。 四年近く前に、ひどい鬱病におちいって、まるで音楽を聴かない日が続いていたが、最近、大分回復して、また家中に鳴り響く大音量で音楽を聴くようになった。 私が聞くのは、主にクラシックと、モダンジャズである。 タンゴもいい。 クラシックの中でも、オペラは、駄目。苦手だ。 バッハ、モーツアルトが一番しっくり来る。ブラームス、マーラー、ブルックナーがその次あたりか。 ジャズでも、チック・コリアと、キース・ジャレット以後の、サウンド中心のジャズは駄目。 ロックは曲による。 そして、突然がらりと変わるが、小林旭が好きだ。 小林旭の歌は難しいねえ。あの高音がとても出ない。口惜しい。 ビートルズは結婚した時に、親友たちに、それまで出ていたレコード(LPの時代ですよ)全部を結婚祝いに買って貰った。 (友人たちは、私が会社を辞めて貧乏のどん底だったときだから、もっと実生活に役に立つ物にしろと言ったが、どうしても、と言い張ってビートルズにして貰った。友人たちは、ぷんぷん怒りながら、買ってくれた。) ラップはお手上げ。 それ以外は、好き嫌いなく聞くが、オーボエの独奏というのは、今回、渡辺克也さんに送っていただいた物が初めてだ。 非常に新鮮に感じた。 オーボエの音色は、人間の声に近く、情感に溢れて響く。 それで、あまりに情緒纏綿たる曲を演奏されると、もたれるが、今回の渡辺克也さんのCD「Impression」は、選曲が良く、清澄きわまりない印象だ。 聞いた後に、すがすがしい気持ちに包まれる。 暑い夏に、冷たい清水に手を浸したときのような、涼しい風が吹き渡ったような、いい気持ちになる。 たった一本の管楽器で、良くもあれだけの表現が出来る物だと、つくづく感心した。 この「Impression」はもう市販されている。 良い気持ちになりたい人には、おすすめする。 LPとCDを売るほど抱え込んでいる私が言うんだから信用しなさい。 渡辺克也さんは日本で活動を終えて、9月7日に、ベルリンに帰られた。外国で暮らすことの鬱陶しさは私も良く分かる。 渡辺克也さんの今後の一層のご活躍をお祈りしたい。 さて、現在シドニー時間で深夜を過ぎた。 こんな時間に、「日記」を更新するのは初めてだ。 どうも、仕事が渋滞して進まないので、気晴らしに、「日記」を書き始めた。 読者諸姉諸兄がお読み下さるのは、昼過ぎのことだろう。 今日(8日)は、朝から期するところがあって、痛み止めを一切飲まなかった。 最近、リハビリの効果が上がってきて、昨日は、1.6キロ強の距離を、24分強で歩いた。 しかし、痛み止めを飲んでいるので、これは本物ではない。 一体、痛み止めを飲まずにどれほど歩ける物か、試してみようと思ったのだ。 いつも、昼食時と夕食時に痛み止めを飲むのだが、今日は、二回とも飲まず、夜九時半を期して、室内歩行に突入した。 玄関の戸口から、廊下の一番奥まで、一往復36メートル。それを40往復。 全部で、1440メートルである。 流石に最初の5往復ほどは痛くてたまらず、もうやめよう、もうやめよう、と思ったが、口惜しいので必死になって続けたら、10往復目くらいから、なんだか楽になった。 よおし、と勢いづいて続けたら、15往復目くらいからまた痛くなった。 そこを根性で頑張って続けたら、20往復くらいから、また少し楽になった。 ところが、25往復を過ぎたら、また痛くなる。 無理をしないでやめた方が良いと思うのだが、一昨日40往復したことが頭にあって、意地になってしまい、どうしてもやめられない。 最後の10往復は、何が何だか分からない状態で、歩き続けた。 その結果、2670歩。28分57秒。 一昨日は2167歩だったから、大分歩数に差があるし、時間も掛かっている。 痛み止めを飲むのと飲まないのでは、これだけ違うか、と改めて驚いた。 しかし、痛み止めを飲まずに、28分57秒歩き続けられたことは、非常に自信をつけてくれた。 しかし、終わってみると、もうくたくた。 よく、運動の後の心地よい疲れなどと言うが、いやはや、痛みと道連れで歩くと、ちっとも心地よくなんかない。体より神経が疲れる。 体中汗びっしょり。下着を替えて、しばらくへたばっていた。 歩きながら、馬鹿なことを考えた。 川や、海の水の上を、歩いて渡る方法ってご存知ですか。 知らない? では、教えて差し上げましょう。 まず、水の上に右の足を出す、その右の足が沈まないうちに、左の足を出す。その左の足が沈まないうちに、右の足を出す。 これを繰返せば、沈むことなく水の上を歩ける、と言うんですがね。 昔の少年雑誌には、こんなおかしな事を書いた小さな本が付録として付いてきたものだ。 私が歩くときも、右脚を踏みだして痛いと思う前に左脚を出す。また右脚を出して痛いと思う前に左脚を出す。こうすれば、痛みを感じないで歩けるのではないか。 そう思って、できるだけ早足で歩いたんですよ。 一歩一歩、ゆっくりじっくり歩くと余計に痛く感じる様な気がするので、追われるようにして、歩いたんです。 賢くないね、我ながら。 明日は、(あ、すでに9日だ。もう明日になっている)プールでハイドロ・セラピーだ。 ハイドロ・セラピーは厳しいから、痛みを抑えないと十分に運動できない。 明日は、痛み止めを飲んで行く方が良いだろうな。 いや、しかし、今日は自信がつきました。 私は自分で自分を讃めるのが大好きな男だから、今日も讃めてやるべえか。
- 2008/09/06 - 今日は1440メートル ところで、昨日言及した「子育て記」ですが、私は、その本を出版するために、自分で出版社を立ち上げてしまったんですよ。 十数年前にこの「子育て記」を出版する話が持ちあがった。 シドニーの日本人向けの雑誌「ジャパン・プレス」に毎月、「子育て記」を連載していて、それをまとめて本にしようという事になったのだ。 作業は進んで、残りの原稿の仕上がりも間近という時期に、担当編集者から、「論を入れないでくれ」という注文が入った。 教育について鬱陶しいことを論じたりしないで、漫画原作者がシドニーで子育てをしているというその実態だけを、読者に興味を持たせるように書いて欲しいと言うのである。 はてよ、と私は考え込んでしまった。 私が、日本からシドニーに来たのは、日本の教育制度から逃げ出すためだ。 シドニーに来たからと言って、何も教育の当てはなかったが、子供たちを一旦とにかく日本の教育制度から引っぺがしてやって、二度と日本の教育制度に戻れないようにするのが目的だった。 いい中学、いい高校、いい大学、いい会社、あるいは国家公務員などのいい職業。 そのような、日本の制度がたまらなくいやだった。 遊び半分、楽しみを求めてシドニーにやって来たわけではない。 子供たちを日本の教育制度から引っぺがすなどと、暴挙と言われてもしたがない。 しかし、日本の受験勉強第一の教育制度から逃れたかった。 そこまで、切実な思いを抱いてシドニーに来たのだ。 子育て記に、そのような思いが反映するのは当然で、教育について論じるのも自然なことだ。いや、論じなければいられない。 論じなければ、自分の子育て記を書く意味がない。 七面倒くさいことを論じたりせず、漫画原作者の、異国での面白おかしい日常記なんか書けば、当たるかも知れないが、それは私にとって、むしろ自分の大事な物を台無しにすることだ。 締め切り直前で、降りた。 その出版社では、出版の予定を組んでいて、広告だの販促だの、全社的に体制が出来ていたのに、寸前で私が降りたので大変な迷惑が掛かったと言われた。 その点については大変申し訳なく思うが、論を封じられては、そんな本は書く意味がない。 その後も「子育て記」を自分と連れ合いと、そして子供たちのために、書いて残しておきたいという気持ちは強く持ち続けていた。 しかし、最初の件で懲りたので、どこか出版社に持っていくのはやめようと決めた。 内容について、あれこれ言われるのは、もういやだ。 大事な物だから、自分の書きたいように書く。 そのためには、自分の出版社を持って、自分で出版することだ。 そう思って、出版社を作った。 出版社の名前は「遊幻社」とした。人生は、遊びと幻だ、と言う意味でつけた。 しかし、失敗した。有名な大出版社で「幻冬舎」というのが有るのだそうだ。 「幻」という一字が、その出版社の名前に重なっている。 独創性を本分とする者としては、これは痛い失策だ。 余りに長い間日本を離れていて、日本の出版界の事情を知らなかった報いだ。 しかし、登録してしまった物は今更取り消せない。 私の出版社の方が大きくなればいいんだろうと腹をくくった。 最初に、岸朝子さんとの対談本「美味しんぼ食談」を出版し、つぎに「クジラから世界が見える」を出版した。 収支はとんとんだが、人件費を入れると大赤字だ。 いや、出版は難しいもんですよ。 今度の「子育て記」も中々厳しいだろう。 どこかの出版社に頼んだ方が、売り上げは望めるだろう。 しかし、一度つまずいたので、意地になっている。 どうしても、自分の出版社で、自分の思うような本を出したい。 これからの予定もあるから、どうしても、十月中に出版しなければならない。 そのために、今、必死で書き続けているんです。 出版したら、読者諸姉諸兄のみなさん、売り上げに協力して下さいね。 一人最低十冊以上買って、みんなにばらまいて下さい。 書評なんかで取り上げてほめて貰えるように協力して下さい。 どんどん宣伝して下さい。 へ、へ、へ、図々しすぎますな。 ま、そう言うわけで、今追い込みで大車輪なんです。 今日、シドニーは冬に逆戻り。木枯らしのような風が吹き渡り、雨が降り続けている。 寒い。 とても、外を歩けないので、玄関の戸口から、一番奥の長女の部屋までの廊下を40往復した。 1往復36メートルだから、40往復で1440メートルの計算になる。 2167歩。昨日より、190歩ほど少ない。 数歩に一度、「いて、て、て、て」となるが、そこは根性で歩き続ける。 40往復したら、流石にぐったりとなった。 歩く前に、40分ほど、予備運動をする。 一つ辛いのは、仰向けに寝て、足首に、1キロの重りをつけて、脚をまっすぐ上に延ばす運動だ。 上に延ばしきったところで連れ合いに足首を支えてもらう。そこで一旦、力を全部抜く。 そして再び、筋肉に力を入れて、脚を突っ張ったところで、連れ合いは手を離す。 そこから、ゆるゆると出来るだけゆっくり、脚をベッドの上に戻す。 この、ゆるゆるというのが辛い。太ももの筋肉が思い切り力んでいるのが分かる。 他にも幾つか運動を取り混ぜている。 私の人生で、こんなに運動をするのは初めてだ。 しかし、大分光明が見えてきたから、ここを先途とがんばるぞ。 と言うわけで、日記の再開は、もうちょっと・・・・
- 2008/09/05 - ちょこっと、ご報告 ちょこっと、ご報告。 今取りかかっているのは、このブログにも載せている「子育て記」を完成させる仕事だ。 これをまとめて、どうしても、10月中に発行したい。 そのために、必死になっているんです。 本当は、5月に出版の予定だったのが、手術で延びた。 さらに、7月、9月、と延期して、どうにもこうにも、10月に出版しないとこれから先の人生計画が全て崩れると言うところまで追い込まれた。 まだ、あと10年はがんがん突っ張っていきたいので、この辺でもたもたしていられない。 ところが、このリハビリに非常なる精力を奪われ、中々仕事がすすまない。 一つには、痛み止めのせいもある。 なにしろ、モルヒネ系だから、痛みは軽減するが、頭がボーッとなる。 ただでさえ、濁った頭が余計に濁り、働きも悪くなる。 コンピューターの前に、ボンヤリ座っていて、気がつくと時間だけが経過している、などと言うこともある。 もう一つ、ルドルフ・シュタイナーに苦労した。 私の子供たち四人は、「子育て記」を読んで頂ければ分かるが、シドニーのシュタイナー・スクールで教育した。 その、シュタイナー・スクールが最近ヨーロッパや、オーストラリアで、いわれのない中傷を受けている。 四人の子供をシュタイナー・スクールで教育した私としては、それに対して何か言わなければならない。 そのために、シュタイナーの本を何冊も丁寧に読み返さなければならなかった。 これが、想像以上に大変な作業だった。 シュタイナーの思想は、カトリックを基とした、「神秘思想」というもので、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などを到底信ずることの出来ない私にとって、自分の物として理解することは不可能であり、他人の意見として客観的に理解するのに、七転八倒した。 そんなことがあって、心身共にくたくたとなる作業が続いたが、昨夜、一つの山を乗り越えた。 心底、ほっとした。 後は一気呵成に進めることが出来ると思う。 リハビリの成果も、上向いてきた。 今まで私の人生では、何か上手く行かなくても、とにかく諦めずに懸命に努力していると、あるとき、ポッカリと風穴が開いて、そここら一気に事態が好転する、と言うことを何度か経験してきた。 もうだめだ、死ぬしかない、などと思っても、いさぎ良く諦めたりしない。 しつこく未練がましく、じたばたとあがき続ける。(蛇年生まれだからしつこいんだ) そうすると、光が差してくるのだ。 今回も、右の脛の痛みに苦しんでいるのだが、数日前からなんだか痛みとうまく共棲できるような感じになってきた。 痛いことは相変わらず痛い。 しかし、突き刺すような強烈な痛みは、10歩いたうちの1歩くらいに感じる程度に改善されてきた。 毎日休まず続けている運動のおかげで、脚の筋肉が復活してきたのだ。 関節を入れ替えるために、必然的に、右脚の筋肉を切開かなければならない。 それも、通常より遙かに大規模な手術だったので、切開いた部分も通常の数倍だ。 当然、筋肉の力が非常に落ちていた。 それでは、脛の骨をしっかり支えられないから、脛の骨の中の人工関節の金属製の軸が安定せず、余計に痛みを発生することになる。 筋肉がついて来て、脛の骨をしっかりかためることで、痛みが和らいできたのだと思う。 このまま、医者の言うとおり、骨が成長してきて、骨の中の金属軸をしっかり押さえるようになれば、痛みは更に軽減し、最終的には(来年中には)消えるだろうという、希望が湧いてきた。 この四日ほど、家の外の道を杖一本で歩いている。 昨日は、1.5キロ強の距離を24分弱で歩いた。 2357歩。 痛いが、歩ける。 非常に自信がついた。 家の中では、すでに杖一本だけで過ごせるようになった。 書斎の中では、ここ数日、杖もつかず、自力で動くように努めている。 これは、やはり痛いのだが、痛さを押え付けて訓練しなければ、痛さが消えないのだから仕方がない。 だが、一気に回復してきた自信の力は大きい。 私はえらい!よく頑張っている! 体が弱くてくよくよしている人、私を見習いなさい! てなわけで、10月半ばには、勇気凛々、日本へ行くぞ。 「美味しんぼ」の「日本全県味巡り」の取材をするのだ。 今度の「日本全県味巡り」は和歌山県を襲撃してみたいと思う。 古い文化を持つ県なのだが、意外に地味だ。 こう言う地味な県には何か、隠された大きな宝がある。 その宝を見つけるのが楽しみだ。 で、今日はこれから、プールでハイドロ・セラピーだ。 さあ、老人の煮込み鍋の中で、頑張ってくるぞ。 「日記」の本格再開は、仕事が、もう一山越えてから。 ま、その間にちょくちょく、こうやって顔を出しますから、見逃さないでね。
- 2008/08/28 - ちょっと、休みます〈「雁屋哲の食卓」に「キング・バナナ(モンキー・バナナ)の熟成実験」を掲載しました〉 今日は、8月28日。 なんと、もうすぐ9月ではないか。 5月末までに仕上げるべき仕事が、まだ仕上がっていない。 流石に、切羽詰まってきた。 このまま、ずるずると遅れ続けると、精神状態が最悪になる。 すでに、発狂的鬱状態に落ち込みかけている。この「日記」を書く余裕がなくなってきた。 「『嫌韓・嫌中』について」を書き続けるゆとりもない。 今さしかかっている山を一つ越えて、仕事の仕上がりの目途がつけば、精神的な余裕を取り戻せると思う。 当分その仕事に全力を注ぐ。 精神的な余裕を取り戻せるまで、しばらく、「日記」は休むことにする。 お詫びに、バナナの実験を「雁屋哲の食卓」に載せて置きました。 絵に描いた餅、ならぬ、ブログのバナナで、胡麻化されてください。
- 2008/08/27 - 老人煮込み鍋 今日は、プールで行うリハビリ、ハイドロ・セラピーが12時30分から。 それから逆算すると、11時に昼食を取って、出発しなければならない。 11時に昼食というのは、どうも困る。わずか1時間通常からずれるだけだが、体調が狂う。無理に食べるという感じだ。 そこで、痛み止めを飲んで、プールに向かう。 私の父親は何でもやり出すと徹底しないと気がすまない性分で、健康のためにと運動しすぎて逆に首を痛めてしまって、家族の顰蹙を買った。 その父親の性格を受け継いでいるらしく、私も、リハビリをするとなると、徹底的にしないと気がすまなくなる。 痛みをこらえて運動をしていると、知らず知らずのうちに、凄い表情をしている。担当のセラピストが、「スマイル、スマイル」というので、こちらも口惜しいから、無理矢理笑顔を作ろうとするが、どうも奇怪な笑顔になってしまう。 プールのハイドロ・セラピーも、色々な運動があって、その中から痛くてたまらない運動を選んで行っている。 私はマゾヒストの傾向はないはずなのだが、今の痛みを乗り越えないと、この痛みはなくならない、と思うと頑張らざるを得ない。 痛みから逃れるために、痛い思いをしなければならない、と言うのはなんだか腑に落ちないが、仕方がない。 しかし、手術をした医者は、18か月以内に、痛みが消えると言ったが、それはもしかしたら、18か月もこの痛みに耐えていれば、そのままこの痛みに慣れる、いや、慣れてしまえ、と言うことなんじゃないだろうか、と心配になってきた。 リハビリに来るのは老人ばかりである。 プールの中ではみんな水着姿だ。老人の水着姿は、ちょっと凄いです。 皮膚は皺だらけ、体は、ぶよぶよ、あるいは枯木そのもの。 手足が不自由で、みんな曲がったり、固まったりしている。 痴呆症の始まったような人もいる。 そう言う老人の中にいると、「人生って何なのだろう」と深く考えてしまう。 枯木のような曲がった体で、油紙のようべかべかした皮膚の老女も、「昔はウグイス鳴かせたこともある」のだろう、と思うと、見も知らぬその女性の過去の人生がその女性の頭の上に映画みたいに浮かんで見えるようである。 どこからどう見ても、私も含めて老人というものは、汚らしい。 中には、「こんなになるまで生きていたくないな」などと、思わず冷酷な感想を抱いてしまうような老人もいる。 しかし、私はそのような老いさらばえた人々に対して深い情愛を抱く。 「よく頑張ってきたんだな」「色々あったんだろうな」「ここまで生きながらえてきたのはえらい」 などと、思うのだ。 先日紹介した、アメリカの女子水泳選手、Dara Torresのような人間は、全く特別であって、普通の人間が肉体の美しさを維持できるのは三十半ばまで。 そこから先は、皺だらけの肉袋になるだけである。 私は、プールに浸かって周りの人々を見回して、「ああ、おれも、十年後にはこんな風になってしまうんだ」と感慨にふける。 若いときには、歳を取るということは、単に年齢の数が増えていくことだと思っていたが、実際に歳を取ってみると、年齢の数が増えるだけではなく肉体が確実に衰えていくのだ、と言うことが分かってくる。 と言って、歳を取って老いることが悲しいことだとか、惨めだとか、そんな風には思わない。 少年の時代もあった、青年の時代もあった、壮年の時代もあった、そして今老年に入った。 赤塚不二夫先生風に言えば、「それでよいのだ」。 膝の関節を入れ替える手術をしたのも、これから、まだどんどん活動を続けるためである。 老いることが悲しい、だなんて言っていられませんって。 歳を取ると良いことがあって、非常に物の考え方が、広く柔軟になりますね。 若いときには、剛速球一本槍だったピッチャーが、歳を取ると硬軟自在になって、打者を煙に巻いて打ち取る。 その辺の呼吸も分かってきた。 今まで、見て来たこと、経験して来たことが、堆肥のように良い具合に発酵してきて、物書きとしては、今までよりもっと豊かな物を書けるようになると思う。今までの人生は、これから物を書くための準備段階だったと思う。本番はこれからだ。本当のお楽しみもこれからだ。 プールの中で、老人の煮込み鍋状態の中で、来し方のことなどゆくりなくも考えて、なんだかしみじみとした感じになりましたね。 それにしても、ふと我に返って、非常に不思議な感じがした。 どうして、この私が、日本から遠く離れたシドニーのリハビリ病院でこんなことをしているんだろう。 どうして、こんな事になってしまったんだろう。 北京で生まれて、日本をあちこち移り住んで、シドニーに流れ着いて、老人煮込み鍋に飛び込んでしまった。 実にいい加減な人生だ。 今日私が、プールの中で行った一番きつかった運動。 痛い方の脚一本で、立つ。 その脚一本で、プールの底を蹴って、ぴょんぴょん跳ねて左右に移動する。 水の中だから出来ることで、地上では出来ることではない。 痛かったなあ。 今でも、脛がずきんずきんとうずく。 流れ流れてシドニーまできて、プールの中で、ぴょんぴょん跳ねている姿なんて、二十歳の頃には想像も出来なかったね。 人生は転がる球の如しだ。 どこへ行くのか自分でも分からない。 これから先はどうなるんでしょう。 自分で占いなどしてみようかな。(私は宗教を信じないし、他人の占いなんて馬鹿馬鹿しくて、聞くのもイヤだが、自分の占いについてだけは、どうしてだか信じているんですよ。子供たちは、私のそのような滅茶苦茶な矛盾した態度が理解できないと言う。当たり前だ。子供たちなんかに理解できる物か。当の本人が理解できないんだから)
- 2008/08/26 - レバ刺しは危険だそうです「『嫌韓・嫌中』について」は、今日も中断。 体力気力の衰えている時には、こう言う話題はきつい。 で、食べ物の話に一時避難する。 2008年8月22日の朝日新聞の「私の視点」欄に、藤井潤九州大学准教授が「牛レバーの生食、危険伝えよ」という意見を載せている。 そのコピーを下に掲載する。(写真はクリックすると大きくなります) 要点は 牛の生レバーやユッケなどを食べて、0−157などに感染する人が目立つ。 厚生労働省は1998年に、牛と馬の生食に関する衛生基準を定めたが、強制力がないので、多くの飲食店は加熱用の肉を生で客に出している。 牛の肝臓には、一定の割合で食中毒原因菌カンビロバクターが存在する。 厚生労働省は、特に牛のレバーの危険について、積極的に国民に知らせて欲しい。 牛の生肉は時に人を死に至らしめることを良く認識し、飲食店は加熱用牛レバーを生食用として提供するのはやめ、消費者も口にすることは避けて欲しい。 と言うわけだが、どうも、参りましたね。 焼肉店で出している、「レバ刺し」や「ユッケ」が生食用の物ではなく加熱用のものだったとは露思わなかった。 我々日本人は、魚の刺身になれているから、肉の刺身の安全性も疑うことがない。 それに、刺身で出し来るからには、生で食べられるように、屠場の段階からきちんと生食用に分別されていると信じていた。 実は、そうではなかったとは、これは、ひどい裏切りだ。 私は、ステーキはレアで食べるが、ステーキのレアと、肉の刺身とは、根本的に違う。ステーキは、いくらレアでも、中まで火を通す。中の冷たいレアのステーキなんて、そんなのはステーキではない。 レアと言っても、ステーキの場合、ちゃんと熱が通っていないと、肉が活性化しないから美味しくない。 肉の刺身とは全く違った味わいなのだ。 魚の刺身だって、下ろすところから清潔でなければ食べる気にならない。 作る方も、魚の刺身の場合神経を使っている。 ところが、ユッケに、加熱用の肉を使っているとは全く驚いた。 魚は鮮度が落ちると臭みが出るので刺身には使えないが、肉の場合は魚ほど足が速くない。 それに、ユッケの場合、濃い味のタレをかけ、ニンニクなどの香辛料も使うので、ごまかしがきく。 今まで焼き肉屋に行くと、ユッケ・ビビンパを喜んで食べていたが、この藤井先生の話を読むと、ちょっと手が出なくなる。 私は若いときにははレバ刺しを好んでよく食べたが、最近は、体が弱くなったせいか妙に勾いに敏感になり、レバーの血の勾いが強くて辟易するようになった。 それに、素人考えだが、肝臓というのは、体内の毒素を分解する臓器だ。 と言うことは、肝臓には、分解前の毒素が溜まっているのではないか。 そんなことを考えて、最近はあまりレバ刺しは食べなくなった。 しかも、肝臓の中には一定程度の割合で食中毒原因菌カンビロバクターが存在する、と知っては、もうだめだ。 私の友人の中には、レバーの刺身は強壮剤だと言って、喜んで食べている者がいる。 私が、「今日のレバーは、においが良くない」などと言うと、「何を虚弱なことを言ってるんだ」と威嚇する。 今度から、その友人に、レバ刺しはやめろと言ってやろう。 「美味しんぼ」の中でも、レバーの刺身を推奨するような話を書いたんじゃないかしら。 困った、困った。 こんなこととは知らなかったからなあ。 だが、事実を知れば改めるのに遅すぎることもないし、恥じることもない。 これからは、漫画や、随筆の中で、レバーの刺身を推奨するのは止めにしよう。 とはいえ、生肉全般が駄目とは言えないだろう。 ちゃんと処理した生肉なら、危険はないはずだ。 ただ、どれが本当に生食用の肉のなのか分からないところが問題だ。 これは、食品の偽装とは問題が違うが、食の安全性から言えば、加熱用の肉を刺身で食べさせている方が、遙かに危険なのではないか。 今夜の我が家の夕食は、牛のタンシチューだ。 安全性の心配をせずに食べられる。 どうも、こんな話を読むと、食に対して保守的になってしまいますな。
- 2008/08/25 - 資料が見つからない「『嫌韓・嫌中』について」は、ちょっと休憩。 「嫌韓」を論じるのに必要な、大事な資料が見つからないのだ。 これは、困った。 日本が韓国を統治しているときの、様々な統計資料の載っている本なのだが、韓国問題をまとめて置いてある本棚の一角に有るはずなのに見あたらない。 三十年近く前に買った本なので、もう、どこに行っても手に入るわけがない。 この資料をなくしたのは、おおごとだ。 もしかしたら、子供たちに勉強しておけと渡して、そのままどこかに紛れ込んでしまったのかも知れない。 日本の韓国統治時代のことを書いたもう一冊の本は、やはり子供に貸してあって、次女が見つけてくれたが、統計資料の載った本が行方不明なのだ。 以前、私が親韓的な内容の話を「美味しんぼ」で書いたら、右翼の政治団体から、韓国の肩を持つのはけしからんという内容の手紙が来た。 そこで、私の意見を色々と書いて、その中に、今行方不明の資料から引用した統計などを明記して、送ったら、実に立派な右翼であって、「その辺の所は当方の勉強不足だった。勉強し直す」という返事が返ってきた。 右翼も説得出来るだけの、統計資料なのだ。それが、見あたらないので、今日の午前中と、午後は、その本を探すのに、家中の本棚をひっくり返して、くたくたになってしまった。 こんな商売をしていると、やたらと本がたまる。 横須賀の秋谷の家を建て直すので、家の中の片付けをした。思い切って色々捨てたのだが、捨てきれずに、新しく建つ家に持越す本が、段ボールに五十箱になった。 シドニーの家に溜め込んだ本はその数倍有る。 十年間読まなかった本は、もう捨てよう、と思ったのだが、時々、古い本が必要になるときがあるので、そうも行かない。十年に一度使うかどうか分からない本も、溜め込んでおかないと、実際に今度のように困るのだ。 今日は、その資料が見つからず、激しくイライラして、おさまらない。 日頃の自分の整理整頓の悪さに腹を立てているわけだが、このだらしなさが直るわけがなく、そう思うと余計にイライラする。 よく、雑誌などで、大変にきれいな内装の家を見ることがあるが、そう言う家に共通しているのは、部屋の中に本がないことである。 別に書庫があるのかも知れないが、きれいな室内には本がない。 私の家は、全ての部屋が本で埋まっているので、どこをどう写真に撮ってもきれいには写らない。 私の友人にも本好きがいて、彼は、本のためにだけアパートを借りていた。 私もそうしようかと思ったが、人が住まずに、本だけのためと言うのではアパートを貸してくれない、と言われて諦めた。友人は、上手い手を使っていたらしい。 家をきれいに片付けるコツは、何でも捨てることだという。 私も連れ合いも、欲が深いせいか、物に未練と執着を持って、仲々捨てられない。 本に至っては、捨てるというのは良く良くのことである。 裏社会の話、腐敗した政治家の話など日本の社会に批判的なことを書いて人気の出た作家がいる。私も、その作家の本を何冊か買った。 ところが、その作家は公安とつるんでいることが発覚した。 私は腹が立って、その作家の本数冊をゴミ箱に叩き込んだ。 その作家の書くものは面白いと思ったが、学生時代日本共産党の戦闘部隊を率いて、反日共系の学生を暴力で叩きのめしたと、自慢しているところがイヤだった。日本共産党の学生組織「民青」は黄色いヘルメットをかぶっていたので「黄ヘル軍団」と呼ばれていて、反日共系の学生に対する残虐行為は有名だった。 その「黄ヘル軍団」の頭目だったわけだ。 そこの所が非常にイヤだったが、歳を取って改心したのかも知れないと思って、その作家の本を読んでいた。 しかし、公安とつるんでいたとは、驚き呆れた。 「日本共産党」と「公安」か。 おかしな取り合わせだと思ったが、考えてみると、両者は良く似ているね。 こんな風に、本をゴミ箱に叩き込むなどと言うことは、滅多にない。 あ、最近も一冊有ったな。 それは・・・・。 おっと、差し障りがあるだろうから、詳しくは書かない。 ただ、漫画を実際に描いている立場からすると、インテリの人の書く漫画論は実につまらないね。 インテリの人は漫画なんか読んでいないで、もっと世のため人のためになるような勉強をしなさい。 とにかく、探している資料が見つからないと、イライラが昂じて金縛り状態になってしまう。 昨日は、午後一杯、深夜まで落語のDVDを見て過ごした。 東京に住む私より一回り年下の親友「と」が送ってくれた物だが、中に、1983年の新春寄席の録画があった。 25年前ですよ。 小朝が出ていたが、今のようなキューピーか、タマネギか、と言うような頭ではなく、ちょうど良い具合に短く刈った頭で、非常によい男で、話も弾みがあってみずみずしくて大変に良かった。 志ん朝も二つめの頃にすでに、滅茶苦茶に上手かった。それが、歳を取るにつれて、どんどん芸が大きくなり深くなった。志ん朝のCDやDVDは何度聞いても、見ても、飽きることがない。聞く度、見る度に、話に引き込まれて、気持ちが浮き立つ。志ん朝に並ぶ落語家は、もう出て来ないだろう。 1983年の小朝を見て、今の小朝と引き比べて、芸人が成長するということは何と難しいことなんだろうと痛感した。 落語のDVDを続けざまに見て、嬉しい発見をした。 春風亭小柳枝の「中村仲蔵」はいい! 「中村仲蔵」は、そう言う名前の江戸時代の歌舞伎俳優が、忠臣蔵の芝居で、それまで全然人気のなかった「定九郎」役を全く新規の演出で演じて、一躍大人気の俳優になったと言う筋立てだ。後の彦六、林家正蔵の物が良く知られているが、小柳枝の「中村仲蔵」は林家正蔵風の演出でありながら、正蔵より話が細部まで丁寧なので、歌舞伎を知らない者にも良く分かるし、仲蔵と仲蔵の妻の間の情愛も上手く表現されている。 情感たっぷりの話っぷりで、大いに堪能した。 私は、小柳枝のファンになったぞ。 それに反して、私が大好きな、志ん生の「中村仲蔵」は実につまらない。 志ん生なら、何でも良いというわけではないことを知った。 中村仲蔵、と言う落語は、地味だし、よほど腕が良くないときちんと話しきれない。それで、余り聞く機会がないのだが、読者諸姉諸兄におかれては、機会を見つけて、是非お聞きいただきたいと思う。 小柳枝の「中村仲蔵」は90点つけてしまう。 面白、おかしい話ではない。芸談と人情話の混ざった物で、聞き終わると良い気持ちになる。 今日も、深夜まで落語のDVDを見て過ごそうかな。 しなければならない仕事があって、そのことを考えると気が狂いそうになるのだが、やる気が全く起きないので仕方がない。
- 2008/08/24 - 今日も、うずくまって 今度の谷は深いなあ。 今日もまだ、うずくまっていたい。
- 2008/08/23 - 人生谷有れば、また谷あり「人生山有れば谷あり」とか「人生谷有れば山あり」という。 しかし、最近の私の場合「人生谷有れば、また谷あり」である。 昨日、谷に落ち込んで、今日は這い上がれると思ったら、また更に深い谷に落ち込んでしまった。 こう言う時は、むやみに這い上がろうと足掻いたりせず、谷底にうずくまって、周囲の霧が晴れ、体力が回復するのを待つしかない。 今日は、これまで。
- 2008/08/22 - 今日は寒いし、雨が降っているので ちょっと韓国疲れがしてきたので、今日は一息つく。 先日、甘い物を食べすぎる、と言う話を書いたところ、有る読者の方から、「甘い物を食べすぎるのは非常に危険。糖尿病になる恐れがある」と言う、懇情溢れるご忠告を頂いた。 私も、いくら何でも、最近の甘い物の取り方はひどすぎる、良くない、と思っていたので、その方のご忠告が身にしみた。 幸い、その時の文章にも書いて置いたと思うが、手術後に血糖値が上がったような気配があるので、ブドウ糖を飲んでから、一定時間が経った後の血糖値を調べる、対糖負荷試験を受けたところ、全く正常だった。 だから、今のところ糖尿病の恐れはないが、しかし、こんなことをしていると、糖尿病にならなくても、健康に良い訳がない。 そこで、昨日から、甘い物を今までの十分の一以下に減らした。 私は毎朝自家製のヨーグルトに果物と蜂蜜を入れて食べているのだが、連れあいの報告によると、一週間で蜂蜜を百五十cc上、食べているという。 で、昨日の朝から、ヨーグルトに入れる蜂蜜の量も、それまでの三分の一以下に減らした。 昼食の後は、いつもバターたっぷりのジャムパンを食べていたのだが、それをすっぱりやめた。 夜も、次女の手作りのカステラ、一切れ、バナナを使ったマフィン一個、に留めた。(いや、実は、ジャムを一サジ、小皿にとって舐めました) 糖分の摂取量を大幅に減らした。 私は、酒をやめるとなると、すっぱりやめて全然苦痛を感じない。 甘い物を減らしても、全然苦痛を感じない。 これくらいの、糖分摂取量なら、危険ではないだろう。 ご忠告下さった読者の方に、感謝する。 まったく、私はいつも言っていることだが「読者様は神様です。」 また、有る読者からは、私が弟に「日記の文章は長すぎる」と言われて、短く書くと言ったことに対して、「論議を尽くすためには長くなるのは当然で、時には短すぎると思うくらいだ。今まで通りに書け」というご意見も頂いた。 ほかにも、個人的に、何人かの方から「長すぎることはない」と仰言っていただいた。 昔から、私は自分が何でも長く書きすぎることに、頭が悪いせいだと、悩んでいたが、「長すぎることはない」というご意見を頂いて、(まあ、少数意見だとは思うが)大変に嬉しかった。 これからは、長すぎることを苦にせずに、書いていこうと思う。 もともと、この日記は、自分の文章の鍛錬のために書いているのだから。 今日は非常に寒い。 おまけに雨が降って、最悪の天候だ。 こう言う日は、精神のエネルギー・レベルが大幅に低下する。 エネルギーの低い日には、静かにしているのが一番だ。 あしたは、また「嫌韓・嫌中」について書きます。
- 2008/08/21 - 「嫌韓・嫌中」について その3 2008年7月24日の朝日新聞に、君島和彦東京学芸大学教授の「教育の現場におしつけるな」と言う意見が掲載された。 下に、そのコピーを掲載する。(写真はクリックすると大きくなります) この文章の中で、君島和彦氏の述べている要点は、次の通りにまとめられるだろう。 中学の学習指導要領解説書の中で、竹島(独島)について記述したことは、事実上「竹島は日本の固有の領土」と教えることになる。 政府は、外交関係で韓国政府に「大人の関係」を求めると言うが、これでは日本側の主張を認めなさいと言う一方的な押し付けでしかなく、これでは「未来志向の関係」は築けない。 今度の措置で見過ごせないのは政治的・外交的に解決出来ない問題を教育の場に押し付けたことである。 政府は、解説書を改訂し、以前のように「竹島・独島」について記述のない段階に戻してから話し合いを求めるべきだ。 日本政府が記述を撤回したなら、韓国政府も話し合いの席に着くべきである。 この記事に対して、韓国の「中央日報」紙は、「日本内部から出る良心の声」という題の社説を書いた。 その要旨は次の通りである。 「大勢に対立してひとりで声を上げるということはたやすいことではない。真実を追い求める良心と勇気なしにはできないことだ。学生たちに独島(トクト、日本名・竹島)は日本領土だと教えることにした日本政府の方針に正面から反旗を掲げた日本の教授の例から、我々は日本人に知性が生きているということを確認できた。」 「独島が韓国領土であることを裏付ける歴史的・国際法的資料は多い。学者的良心を持ってアプローチすれば異なる主張ができない。徹底的な史跡検証のあげく内藤正中島根大学名誉教授が1905年2月、日本閣議の決議による「無主地先行獲得論」を日本政府が独島に対する領有権主張の根拠として提示してきたのは過ちだと結論づけたのはよく知られた事実だ。君島教授も内藤教授の主張に同調している。」 「真実を追い求める良心的な学者がいて、良心の声に紙面を割く勇気あるメディアがあることは日本の底力だ。問題は政治家と高位官僚など国家運営の主体がどれだけその声に耳を傾けるかという点だ。少し早ければ周辺国家に言えない苦痛と被害を与えた軍国主義的侵略戦争の過ちも避けることができたのではなかっただろうか。日本政府は周辺国との未来指向的関係を言う前に中から聞こえる良心の声から聞かなければならない。」 私が不快に感じたのは、この社説の「日本内部から出る良心の声」と言う題名であり、そのなかに、「良心的な学者」「良心の声」と言う言葉を使っていることだ。 それでは、君島和彦教授以外の日本人は、良心のない人間だというのか。 竹島・独島問題は、以前にも書いたが、純然たる領土問題である。 領土問題は、日本と韓国の間だけでなく、世界中で起こっている。 それぞれの国にそれぞれの主張がある。その主張を述べ合い、話し合って解決をする。それが、一番理性的な領土問題の解決法である。 領土の主張をするのに、良心などを持ち出すのは、奇怪なことだ。 韓国の言うことは何でも正しく、日本の言う事は何でも間違っていて、韓国の望むようなことを言う人間は、日本人の中でも「良心のある人間」というのか。 君島和彦教授が良心的な学者であるのは当然である。 しかし、その「良心的」という意味が、この「中央日報」の社説を読むと、韓国を満足させることを言う、と言う意味にされている。 こんなことを、書かれては、私だったら我慢が出来ない。 それこそ、君島教授は学者としての良心から物事を言っているのであって、韓国を満足させるために言っているのではない。 現に、君島和彦教授は、最後に、「韓国も話し合いの席に着くべきだ」と書いているではないか。 このようなことをされると、私だったら非常に不快を感じる。 私の言う事を、このように、韓国の都合の良いように歪曲して、韓国の宣伝として使われたら、まことに迷惑だ。 一方、「朝鮮日報」は、『「独島は韓国領」 日本のある大学教授の勇気』と題した記事で、君島和彦教授にインタビューをして、次のような談話を掲載した。 『-歴史学者の立場で独島の領有権をどう判断するか。 「竹島専門家ではなく、一次資料を研究したことはない。しかし、(独島は歴史的に韓国領だと主張する)内藤正中・島根大名誉教授の意見に同意する。竹島は韓国領だという主張が正しいと思う。それに反対する主張は説得力がない」』 これに対して、同じ「朝鮮日報」の鮮于鉦(ソンウ・ジョン)特派員が、「記事に掲載されなかった君島教授の話」という題のコラムで、 『25日付の本紙総合1面インタビュー記事で、東京学芸大学の君島和彦教授(東アジア近代史)には失礼申し上げた。第一に、約40分間の長いインタビューで十以上の回答をいただいたのにもかかわらず、たった二つの短い回答しか掲載されなかった点、第二に、インタビューの終わりに、ご自身が「竹島専門家ではない」ことを前提として述べた「独島(日本名:竹島)は韓国領土だという研究を支持する」という見解が大見出しになったという点だ。その日、わたしたちが聞きたかった内容だけが掲載され、ほかの内容はすべて消えてしまったのだ。 聞きたかった内容というのは、「日本人も“独島は韓国領土”と話している」という言葉だったと思う。もちろん、君島教授もそのように考えていたが、同教授は独島の研究者ではない。知韓派学者として君島教授が言いたかったのは「韓日の未来のために中学校の新学習指導要領解説書にある独島領有権の記述は白紙化すべきだ」ということだった。このように、趣旨が一方的に変わったとき、好意的だった人々ですら韓国に対し戸惑う様子を、わたしは日本で何度も見てきた。』 と言う書き出しで、君島和彦教授とのインタビューを更に詳しく再現した。 この鮮于鉦(ソンウ・ジョン)特派員、の態度は公正で、好感が持てる。 しかし、最初に書かれた『「独島は韓国領」 日本のある大学教授の勇気』と言う記事が世間に伝えた印象は消えない。 君島和彦教授は「韓国も話し合いの席に着くべきだ」と言っていることが、どこにも反映されていない。 君島和彦教授が、「竹島(独島)は韓国領」であると、考えているのは確かなのだろう。 しかし、君島和彦教授の趣旨は「政治的・外交的に解決出来ない問題を教育に持込むな」と言うことであり「韓国政府は話し合い席に着くべきだ」と言うことで有ることは明らかだ。 「朝鮮日報」は、自分たちの聞きたかった言葉だけを大見出しにし、君島和彦教授の言わんとした趣旨を変えてしまった。 鮮于鉦(ソンウ・ジョン)特派員も書いているように、こう言うことをされると、「好意的だった人々ですら韓国に対し戸惑う」のは、当然である。 この、君島和彦教授の文章を自分たちの都合の良いように利用する韓国のやり方を見ていると、私も、私の意に反して自分の書いた物を歪曲して利用されることを非常に恐れるのである。 それでも、私は、「親韓」を貫く。 (続きはまた明日)
- 2008/08/20 - 「嫌韓・嫌中」について その2 韓国では、「日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法」という法律が、2004年に成立して、それに基づいて「親日反民族行為真相糾明委員会」が設立され、日本の韓国統治時代に、日本に協力した人間を「親日派」と規定し、同じく2005年に成立した、「親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法」によって、設立した「親日反民族行為者財産調査委員会」が、「親日派」とされた人間の財産を調べあげ、それを没収することにした。 「親日派」に指定されるのは、日本統治時代に爵位を貰ったりした政治家にとどまらず、大学の教授、画家、などにまで広がる。 2005年に、高麗大学は、「親日教授」10人の名簿を発表した。 この名簿にはこの大学の設立者である金性洙(キム・ソンス)氏をはじめ、兪鎭午(ユ・ジノ)氏、申奭鎬(シン・ソクホ)氏、高元勲(コ・ウォンフン)氏、張徳秀(チャン・ドクス)氏、趙容萬(チョ・ヨンマン)氏、崔載瑞(チェ・ジェソ)氏など、同大学の総長や教授をしていた7人と、李丙燾(イ・ビョンド)氏、イ・カクジョン氏、ソン・ウスン氏など、同大学の卒業生3人が含まれていた。(朝鮮日報) また、韓国の次期高額紙幣には、朝鮮王朝時代の女流画家で、 李栗谷(イ・ユルゴク)の母として知られる申師任堂(シンサイムダン、1504~1551)の肖像が有力視されていたが、申師任堂(シンサイムダン)の故郷である江原道江陵市が、これまで標準として使用されてきた申師任堂の肖像画を変更する方向で検討している、と報道された。 烏竹軒(オジュクホン)市立博物館にある申師任堂の肖像画は以堂・金殷鎬(イダン・キム・ウンホ、1892~1979)の作品で、1986年に政府が申師任堂の標準の肖像画として指定した。 しかし、最近、親日人名辞典の編纂過程で、以堂・金殷鎬(イダン・キム・ウンホ)が親日派として記載されたのを受けて、肖像画を描き換えると言うのである。 「親日派」とされると、画家の作品まで否定されるのである。 芸術的な価値より、「親日派」という政治的な判断が優先する。 さらに、大田(テジョン)国立墓地に埋葬されながら、親日行為が判明した徐椿(ソ・チュン、1894~1944)の墓の移転を市民団体が要求し、徐椿の息子(74)ら遺族が「父の墓が国立墓地にとどまることで国に迷惑がかかるのはわかっている」とし、「秋夕(旧盆)前に必ず移転するので、移転先を見つけるまで待ってほしい」と要請した。 徐椿と言う人間について、我々日本人は良く知らないが、徐椿は1919年2月8日の東京留学生の独立宣言当時、実行委員11人の一人として参加した功労が認められ、大統領表彰および愛国志士敍勲を受け、1989年に大田国立墓地に埋葬されたが、朝鮮総督府の機関紙「毎日新報」社の主筆を歴任するなど親日行為が判明し、1996年に敍勲を取り消された、のだそうである。(朝鮮日報) 朝鮮日報に掲載されたその徐椿の墓の樣子を転載する。(写真はクリックすると大きくなります) 個人の墓を、破壊するとは、すさまじい。 私は、韓国の内政に干渉する気はない。 韓国人の、日本の統治時代に対する恨みと怒りも良く分かる。 それに対してどの様な行動を取ろうと、韓国の問題だ。 しかし、現在決めた法律で、過去の人間を裁くというのはどう言う物だろうか。 通常の法治国家でこのような法律が存在する物なのだろうか。 これでは、政権を握った者が、過去の政敵を葬り去るのに利用できるのではないか。 それに、「親日派」と指定された人間は既に亡くなっている。その「親日派」の財産没収というのは、「親日派」と指定された子孫から、財産を没収することである。 特に、親の墓の移転を迫られた人は可哀想だ。日本人もそうだが、韓国人にとって先祖の墓というのは大事な物なのではないのか。その墓を壊し、移転しろと迫るとは、肝が冷える思いだ。 親の罪を子が引き受けて、その償いをする、と言うのは、普通の法治国家ではあり得ないことだ。 しかし、それもあくまでも韓国の内政問題だ。 私にとやかく言う権利はない。 しかし、看過できないのは、この「親日派」というレッテル張りが現在にも及んでいることだ。 昨日取り上げた、歌手の趙英男(チョ・ヨンナム)氏も「親日派」とされて、テレビの司会を下ろされた。芸能人としては、死活問題だ。 これでは、韓国で、芸能人に限らず全ての人間が、日本と親密であることは悪とされる。 高麗大学で「親日派大学教授を指定」した問題を取り上げた「朝鮮日報」はその記事を 「学生たちに“親日派教授”という烙印を押されれば、それを乗り越えることができる教授はいないだろう。特に、日本植民地時代について研究する教授らは、研究と教育でも学生たちの監視の視線を意識せざるを得ないだろう。そんな大学は結局、文化大革命時代の中国の大学に似ていくだろう。」 と締めくくっている。 この「親日派」にたいする処断は全韓国民に対する大いなる見せしめだ。 「親日派」というだけで、韓国では、人間としての尊厳も何かも奪われてしまう。 こうなれば、韓国人で日本人と親しくしようと思う人間はいなくなる。 少なくとも、日本人と親しいところを見せては、まずい、と思うのは自然の成り行きだろう。 韓国では「親日」は絶対的な悪、とされている。 それも昔の問題ではない。現在の問題なのだ。 現在も、「親日」は悪なのだ。 日本と親密にすることは、現在の韓国では、「悪」なのだ。 こう言う状況を知れば、「嫌韓派」の人達の韓国に対する嫌悪感は、増すばかりだろう。 私個人にしても、私がいくら「親韓派」と言って、日韓友好に力を尽くしたいと思っても、相手の韓国がこれでは、どうにもならないのではないか、と疑問を抱くこともある。 韓国の、反日に利用される恐れがある。 実際に、その例もある。 (続きはまた明日)
- 2008/08/19 - 甘い物の食べすぎ・再録〈これは、8月18日に載せた物ですが、手違いで、削除してしまったので、改めて掲載します。今日の日記はこのすぐ下にあります。〉 近くにフランス人が経営している洋菓子店があって、結構美味しいケーキを作っているので、つい買いに行ってしまう。 そこは、店の人間全員がフランス人で、彼らはフランス語で話している。 余り食べ過ぎるので、とうとう連れ合いに、その店でケーキを買うのは一週間に一度だけ、と制限されてしまった。 しかし、他の日も、色々甘い物を食べてしまうので、その店でケーキを買っても買わなくても、私が甘い物を食べすぎることには変わりはない。 次女は、お菓子作りが趣味で、洋菓子も和菓子も、上手に作る。 獣医なんかやめ、菓子屋になれとそそのかしているのだが、その気にならない。 そそのかしておいて言うのも何だが、食べ物を職業にするのは大変だ。 お菓子も趣味で作っている方が、楽しいだろう。 そんな訳で、次女はお菓子を作ってくれるし、ジャムも作ってくれる。 自家製のジャムは、市販のものとは比較にならぬ美味しさだ。 市販のものは、煮すぎてしまって、果物本来の風味が欠けている。 その点我が家のジャムは、自分の家でだけ食べれば良く、売る訳ではないので、そんなに煮る必要がない。煮方が浅いので、果物の風味がたっぷり味わえて、美味しいのだ。 私は、バターをたっぷり載せたパンに(私はパンにバターを塗ったりはしない。載せるのだ。3ミリ厚ほどのバターをパンに載せて、パン全面を覆う。バターをこすってパンに塗るなんて、そんな下品ことはしない。)その上に、ジャムを載せる。これも塗るのではない。載せるのである。マーマレードなんか、1センチ厚ほどに盛り上げて載せる。 バターとジャムの合わさった味は、もう、たまらない。 よっぽど出来の良い洋菓子でないと、この、ジャム・バター・パンに対抗できない。 そんな風だから、うっかりすると、一度に、コーヒーカップ5分目ほどのジャムを一度に食べてしまう。いや、正確に言うと7分目ほどだな。 片面にチョコレートを塗ったクッキーに、ジャムを載せて食べるのもたまらなくいい。 パルミエ(パイ生地で作ったクッキー)にジャムを載せるのも私のお気に入り。 終いには、ジャムだけをそのまま舐めたりする。 連れ合いや娘たちが、糖分の取りすぎだと心配する。 しかし、つい最近、ブドウ糖の溶液を飲んだ後に血糖値を計る、対糖負荷試験をしたが、全く異常なしだったから、糖尿病になる恐れはない。 何故こんなに甘い物を食べたがるかというと、最近、酒をやめているからだ。 アルコールは、今飲んでいる痛み止めと一緒に取ると体に不都合を起こす。 それに、骨の成長を遅らせると言う。 骨の成長が遅れると、今の痛みが止まらないことになる。 それは大変に困るので、酒を断っている。 医者は、適当な量なら良いと言う。適当な量とはどれくらいかと尋ねると、ワインをグラスに、1、2杯だという。 そんなものは、私にとって酒を飲むうちに入らない。 連れあいの報告によると、私は一週間にウィスキーを三本消費するという。 それは、晩酌程度に飲んでのことであって、ちっと調子がよいと、一本近く行く。 大体私にとって案配の良い量は、日本酒の4合瓶一本くらいだ。ワインなら一本半か。 これくらいだと、飲んで、2、3時間経てば、仕事に戻れる。 それ以上飲むと、更に飲みたくなって、時間を忘れてしまう。 ワイングラスに1杯や2杯のワインなんか飲むくらいなら、飲まない方がいっそ、気持ちがよい。 それに、私はアル中でもアルコール依存症でもないので、飲まないと決めると、全然アルコールを飲まないで平気だ。 アルコールと糖分とは密接な関係にあるようだ。 アルコールを取らないと、その分、甘い物が欲しくなる。 もともと、私は酒を飲みながら甘い物を食べるくらい、甘い物が大好きな人間なのだが、酒を飲まないと、その甘い物欲しさが更に昂進する。 とは言え、どうもね、いい歳こいて、白髪の交じりかけた髭を生やした男が、ジャムをなめているのは、見ていて気持ちの良い図ではないだろう。 昔の化け猫映画では、猫が殺された飼い主の血を舐めて、飼い主を殺した人間に復讐をした。 あんどんの油をなめたりする。 こんな汚らしい男が、ジャムをなめる姿は、あんどんの油をなめる猫よりおぞしいな。 といって、やめるわけにも行かない。 身体の芯が要求するのだ。 今夜も、夕食の後に、甘い物をたっぷり食べようっと。 ふ、ふ、ふ、楽しみだな。
- 2008/08/19 - 「嫌韓・嫌中」について その1 数日前に書いた「竹島(独島)問題」が、かなり、「嫌韓派」の人達を刺激したようである。 その人たちの反応を見ていて、私は、「嫌韓派」の人達を、「外国人嫌い」「歴史に無知」「自分自身も知らない」などと、批判するだけでは、意味がないと悟った。 人でも、物でも、ある対象を嫌うと言うことは、極めて感情的なことであり、理性の通じないところがある。 「嫌韓」「嫌中」というのも、感情の問題だから、その間違っているところを、いくら理性的に、論理的に説いたところで、「嫌韓派」「嫌中派」の人達には受け入れられる訳がない。 そう考えてみると、「嫌韓派」「嫌中派」を嫌う私の態度も、感情に支配されているのではないかと、思う。 「嫌韓派」「嫌中派」の人達を、「外国人嫌い」「歴史を知らない」「自分自身を知らない」などと言う言葉は、かなり感情的な響きを持っている。 これでは、いけない、と反省した。 感情と感情がぶつかり合ったら、解決することも解決しなくなる。 私は「嫌韓派」「嫌中派」の人達の言っていることは、根本から間違っていると思うが、その人たちがどうしてそのような「嫌悪感」「反感」を抱くようになったのか、その理由は分かる。 私は、日本国内でこうして堂々と自らを「親韓派」「親中派」と言っているが、韓国や中国で、自分のことを「親日派」と言ったらどうなるか。 それこそ、民族の裏切り者として、袋だたきにあう。 2005年に、韓国の人気歌手、趙英男(チョ・ヨンナム)氏が、「殴り殺される覚悟で書いた親日宣言」という本を書いたところ、韓国国民の激しい反発を買い、凄まじい非難を浴びて、テレビで13年間続けていた番組の司会を下ろされてしまった。 趙英男(チョ・ヨンナム)氏はその本についての朝鮮日報とのインタビューで、「親日宣言という言葉で韓国社会が持つ何らかの固定観念を壊したいと思ったのか。」という問いに対し、 「そうだ。韓国で親日という単語はひどい意味が盛り込まれている。親日という単語には“売国”の意味が含まれている。しかし、60年経った今も過去と同じような意味で使うべきかというのが私が提起したい質問だ。勇気を振り絞ってその単語を使い、本当の意味、親しいという意味としての親日の言葉が広く使われることを希望した」 と答え、さらに、 「本を通じて伝えたかったメッセージは何か。」という問いに対して、 「米国を行けば日本という国が違って見える。私が大げさに言っているのかも知れないが、米国で見た日本は一等国民だ。しかし、韓国だけは唯一、日本を最下位に評価している。この部分を誰かは指摘すべきだと考えた。過度に日本を低評価するのは大きな問題だ。われわれは商売をし、利益を得なければならない国なのに、このような姿勢ではあまりにも損が大きい。誰かがこれを指摘しなければならないが、政治家や知識人はこのようなことを恐れている。しかし、私は道化師なのだから、こんなことを言っても別に・・・」 と答えている。(朝鮮日報) この程度のことを言った趙英男(チョ・ヨンナム)氏に対して、インターネット上では、 「国民の税金で運営する公営放送で親日派が司会を務めるのは国民の感情に反する。どんな弁解も許されない」 「国の自尊心を踏みにじった」 「趙氏はこうした言葉を口にしながら、果たして日本大使館の前で沈黙デモを行っている元慰安婦女性を考えたことがあるのか。情けない」 「趙氏の発言は韓国国民の感情に火をつけるかのようなとんでもない話だ。大韓民国の国籍を捨て日本へ出て行け」 などと言う激しい非難が溢れ、氏はテレビの司会を下ろされ、歌手としての仕事も干された。 私は「美味しんぼ」の中で、随分、「親韓」的な話を書いているが、一部の「嫌韓派」を除いて、大部分の読者は冷静に読んでくれている。 小学館が「美味しんぼ」を連載中止にすることもなかった。 韓国で「親日」的な内容の漫画を描いたら、それで、漫画家としての生命は終わるだろう。 このような、韓国人の姿を見れば、「嫌韓」感情が起こるのも、無理はないと思う。 さらに、「嫌韓派」の人達の神経を逆なでするようなことも、韓国では起こっている。 (この続きはまた明日)
- 2008/08/17 - 伊藤華英、良くやった! 今度の北京オリンピックで、伊藤華英はメダルに手が届かなかった。 昨日の、メドレー・リレーの予選では、第一泳者として、一位で第二泳者に引き継ぐ成績を上げたが、今日の決勝では、背泳の泳者として中村礼子が選ばれ、華英ちゃんは出られなかった。 しかし、華英ちゃんは本当に良くやった。 もともと、体を丈夫にするために母親がスイミングスクールに通わせたのが、予想以上に競泳の才能を発揮して、とうとう、オリンピックの代表になったのだ。メダルを取れなかったと言っても、世界中の背泳の選手の中でオリンピックの決勝まで残れることの出来るのはわずか十数人しかいないのだ。 その中に入っただけで、見事だ。 私達家族全員、非常に誇りに思う。 これからも、頑張って貰いたい。 昨日、取り上げた、Dara Torresのように、どんどん挑戦を続けて貰いたいものだ。 いずれにせよ、私達にとって北京オリンピックはこれで終わった。 いつもの事ながら、日本の選手は実戦になると力が出ない。 これは、日本の新聞やテレビが、過剰な期待をかけて報道するから、我々も本当に日本の選手に力があるように思いこんでいただけのことで、本当の実力はこんなものだったと言うことなのかも知れない。 柔道などは体重別に階級が分かれているのだから、日本人は体が小さいからと言う言い訳は通用しない。 あれだけ大騒ぎした野球も、キューバと韓国に負けては、もうお終い。 実に淋しいものだ。 日本は不調だが、オーストラリアは次々にメダルを取る。 オーストラリアの人口は2000万人。それ対して日本の人口は1億2800万人。 人口一人あたりのメダル獲得数から言えば、世界一だろう。 もともと立派な体格をしている上に、スポーツをする環境が非常に良く整っている。 そして、何よりスポーツをするのが好きだ。 加えて、恐ろしく活動的で、挑戦好きな国民性だ。 それが、オリンピックなどで良い成績を上げることにつながるのだろう。 サッカーのワールドカップの予選にも、オーストラリアはアジア地区に入って来た。 オーストラリアでは、ラグビーやオーストラリア式フットボールに人気があるが、ヨーロッパの一流のサッカーのクラブで活躍しているオーストラリアのサッカー選手は多い。日本人より活躍している。 今度のオーストラリアのオリンピックの結果を見ていると、サッカーのワールドカップの予選も、オーストラリアにやられてしまうのではないかと心配だ。 今日の水泳の男子1500メートル自由形には、日本選手は出場していないので、オーストラリアのハケットを応援した。 日本の選手が出ないときには、オーストラリアの選手を応援して楽しめるので、オーストラリアに住んでいると便利である。 昨日オリンピックレコードを出したのに、決勝でハケットは二位になってしまった。 私達が応援したせいかしら。 私の通っているリハビリの病院のジムの内部には、大小様々なオーストラリアの国旗がオリンピックが始まると忽然としてかざられるようになった。 私が、セラピストを「おう、おう、みんな愛国者だな」とからかうと、照れたような顔で笑う。 やはり、オリンピックはそれぞれの国の愛国心を駆り立てるのだろうか。 今日、家の裏の公共の広場で次女がフリージアを摘んできて、小さな花瓶に挿して私の部屋においてくれた。 一つの枝に五、六個の花がついている。それが三本小さな花瓶に入っている。 それだけで、部屋中が素晴らしい香りに包まれた。春が近いことを知らせる香りだ。 こうして、コンピューターに向かっていても、その香りで、気持ちがすがすがしくなり、鬱屈した心ものびのびと広がる。 フリージアと、次女の思いやりに、ただひたすら感謝だ。 ありがたい、ありがたい。 最後にもう一度、華英ちゃん、良くやった! 私達は、大満足だ。 これからも、がんばってね!
- 2008/08/16 - Dara Torres 弟に、私のこの日記が「長すぎて、誰も読まないよ。短くした方が良い」と言われた。 はあ、そんなものかね。 実は私は、短く書くのが苦手で、何でも書き出すと長くなるのだ。 小学校の作文の時間のことを思い出す。 最初に先生が各自に一枚ずつ四百字詰めの原稿用紙を配る。 それで足りない人は、もらいに来るようにと言って教壇に、原稿用紙を何枚かおく。 私はすぐに一枚埋め尽くして、足りないからもらいに行く。それを繰返す。 一度の作文の時間に、何枚か原稿用紙をもらいに行った。 みんな一枚書くだけでうんざりしているのに、何枚ももらいに行く私のことをおかしな奴だと言っていた。 連れ合いに、そのことを話すと、「私も、原稿用紙半分埋めるのがやっとだった」と言う。 すると、昔から、だらだら長く書くのが私の性分なのだろう。 で、今日から、短く書くことに挑戦する。 私にとっては、長く書くより、短く書く方が辛いのだ。 これも、文章を書く訓練の一つになるだろう。 8月4日号の「TIME」の表紙に、Dara Torresと言うアメリカの女子水泳選手の写真が出ていたので、転載する。(写真はクリックすると大きくなります) 凄い体だが、これで、Dara Torresは41歳。 しかも、100メートルの自由形で、20年前の1988年に出した記録を、現在2.47秒縮めた。 Dara Torresは9回もオリンピックのメダリストになった記録を持つ。 2000年に一旦引退して、子供を産んだ。ちゃんと母乳で育てたそうだ。 2006年に競技に復帰し、北京オリンピックで5回目の代表の座を掴んだ。 41歳でオリンピック代表ですよ。 北京では、50メートルの自由形に出るらしい。(もう、終わったのかな) 41歳の女性にしては余りに見事な体なので、当然、ドーピングしているんじゃないかという疑いがもたれることがあり得る。 Dara Torresは「自分から潔白を証明しない限り疑われても仕方がない」と言って、自分から進んで、何度もドーピング・テストを受けている。 勿論、潔白である。 Dara Torresが取っているのはアミノ酸のサプリメントだけだ。 それでこれだけの体を保つのだから凄い。 彼女はトレーニングに、resistance-stretchingを取り入れている。 これは、例えば足を上に持ち上げようとするときに、誰かにそれを押さえさせる。そうすることで、筋肉に負荷が掛かり、ストレッチの効果が上がると言うものだ。 Dara Torresは「大勢の中年の女性たちが私を憧れの眼で見ているに違いない。 私は彼女たちに、自分たちが始めたことは成し遂げられるという誇りを持って貰いたい。だから、私は絶対に彼女たちを失望させるようなことはしない」 と言っている。 このDara Torresの不断の努力は凄いもんだ。 私なんか、「ああ、腹がぶくぶく出てしまった」などと嘆くだけで、腹筋の運動もしないし、甘い物の制限もしない。 今、私がしているリハビリだって、Dara Torresが見れば、「そんなの、当然のことで、朝飯前よ」なんて言われるんだろうな。 私は、自分を叱咤激励するために、この「TIME」の表紙をスキャンして、Dara Torresのこの姿を、永久保存することにした。
- 2008/08/15 - パレスティナ問題 その18 さて、パレスティナ問題もいよいよ最後。 これまで、パレスティナ問題について、私の観点から見てきたが、では、一体パレスティナ問題はどうすれば良いのだろう。 どうすれば良いのだろうと言っても、私のような部外者には出来ることは限られている。 こんな風な文章を書いて、少しでも多くの人にパレスティナ問題に関心を持って貰えるように努力することだ。 日本人は余りにパレスティナ問題に無関心すぎる。 もっと、関心を持って、今苦しんでいるパレスティナの人々に何かできることはないか、考えて貰いたい。 現実的な解決は、今まで見てきたように、ユダヤ教とイスラム教という二つの宗教の対立が根底にあるから、容易なことではない。 私のような無信仰の人間から見ると、どうして一神教が多神教より良いのか、一神教の方がより真実なのか、正しいのか、それが全く分からない。 ユダヤ教徒、イスラム教徒は偶像を崇拝している人達に「そんな木や石で出来た偶像は何も作り出せないではないか。我々の神は、天地を創造し、人間も作った。 だから、我々の神が本当の神だ」という。 となると、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の信仰の根本は、「創世記」の神による天地創造にある。 その、神による天地創造を信じなかったら、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教はその存在の根拠を失う。 もし、天地創造を信じなかったら、神は我々の創造主ではないので、信仰に値しなくなる。 しかし、今時、どうして「創世記」に書かれた天地創造を文字通り受け入れられようか。 神が作ったという大地、天球、太陽、月、それらのあり方は全て四千年前の自然観に基いているもので、今の時代は小学生でも、その考え方のおかしさに呆れるだろう。 今の時代に、天地創造を受け入れるとしたら、何か寓意を持った話として受け入れるしかない。 しかし、寓話は信仰の根拠になるのか。 寓話を信仰の根本とした宗教と、偶像を礼拝する宗教と、何か違いがあるのだろうか。偶像も寓意の塊だからだ。 私は、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教を貶めようというのではない。 彼らの誇る一神教がけっして、全人類に普遍的なものではない、と言いたいのだ。 モーセや、ヨシュアが、カナンの地に侵略して先住民族と戦うところになると、神が出て来て加勢をする。 ユダヤ教徒でもなく、そのカナンの地の先住民族とも何の関係もない、全くの第三者の私から見ると、「ずいぶん、不公平な神様だ」と思う。 イスラエル人をひいきにして、イスラエル人が他民族の領土を侵略し、他民族を虐殺するのを、励ます。 聖書の神ヤーヴエは、結局のところ、ユダヤ人・イスラエル人の氏神様だ。 そのヤーヴエをキリスト教はキリスト教徒の氏神樣、イスラム教はイスラム教徒の氏神様に仕立て上げた、というのが、無信仰の第三者の私の見方である。 その三つの宗教のどれも、全人類に普遍的な意味や価値を持つものではない。 その宗教の信者にのみ、有効な宗教であり、神様だ。 他の宗教と変わるところはない。 どの宗教も全人類にとって、唯一絶対の宗教ではない。 「吾が仏、尊し」と言う言葉がある。 自分の信仰している宗教は、何より大事に思えるのだ。 それは、他の宗教を信じている人も同じだ。 自分の信じている宗教以外の宗教を信じている人間は、人間扱いしない、と言う態度は、人類の歴史を振り返ってみれば分かるが、全ての悪の元凶である。 その宗教が、他人に害を及ぼさない限り、他人がどんな宗教を信じていようと干渉するべきではないし、宗教の違いで互いに差別し合ったり、攻撃し合ったりするべきではない。 ましてや、ユダヤ教も、イスラム教も、同じアブラハムの宗教だ。 相手の宗教に対して寛容になるべきだ。(といっても、なれないんだね、あの人たちは) パレスティナ問題はイスラエルの建国によって始まった。 であるから、パレスティナ問題の解決は、イスラエルにまず責任がある。 このまま、パレスティナ人を追いつめて行けば、事態は一層悪くなる。 聖書に書いてある通りにしようと思えば、パレスティナ人を皆殺しにしなければならない。 ヨシュアの時代とは違う。そんなことは不可能だ。 (しかし、実際にイスラエル政府のやり方を見ていると、ヨシュアと同じことをしようとしているとしか思えない) イスラエル政府は、パレスティナ人との円満な共存を計る責任がある。 1800年前に祖先が住んでいたから、この土地は自分たちのものだ、などと言って、強引に建国したそのつけを払うべきだ。 1800年間の歴史の積み重ねを無視して、いきなり1800年前に戻す、と言うこと自体が、そもそも無理な話だったのだ。 しかし、現実に建国して既に60年以上が経った。 いまさら、イスラエルに国家として解散しろと言うのも、もはや無理だ。 しかし、パレスティナ人との共存を計らないと、イスラエル自体の存続も危うくなることを、イスラエルは認識するべきだ。 イスラエルは長い間アメリカの全面的な援助に依存して来た。 アメリカは過去十年以上毎年30億ドルもイスラエル援助している。 イスラエルの軍事費の20パーセントはアメリカの援助によるものだ。 第4次中東戦争では、イスラエルはアラブ側の奇襲攻撃を受けて、一時危うかったが、アメリカに緊急の援助を仰いで反撃することが出来た。 イスラエルが、今まで生き残ってこられたのも、アメリカの援助が合ってのことである。 しかし、世界の情勢は大きく変わりつつある。 アメリカは、アフガニスタン、イラク、に攻め込んで以来、多額の軍事費を消費し、それに、サブプライム問題などの金融不安によって、国力が大きく衰えている。 今までのように、アメリカがイスラエルに対する援助を続けられるとは思えない。 続けられたとしても、原油価格の高騰で世界中の富がアラブ・イスラム諸国に集っている。 アメリカは自国の金融機関の破綻を防ぐためにアラブ諸国から投資をして貰わなければならない状況になってしまった。 世界の力関係は、ここ数年で大きく変わった。 アラブ・イスラム諸国が一致して、イスラエルを攻撃した場合、たとえ持ちこたえられたとしても、壊滅的な打撃を受けるだろう。 イスラエルが今のような態度をとり続ける限り、その様な事態を招く危険性は大きい。 イスラエルは、自分たちが生き延びるためにも、パレスティナ人との和解を図る必要があるだろう。 パレスティナ人も、全く意味のない自爆テロなどをやめて、イスラエルとの和解を図るべきだ。 そんなテロ行為を続けても、何の効果もないことは、この六十年間ではっきりしたことではないか。 パレスティナ出身で、後にアメリカに渡り、コロンビア大学の教授を勤めた、エドワード・サイードは比較文化が専門だが、パレスティナ問題について、様々な論文を書いている。 その「無知の衝突」という小論の中でサイードは、インドで生まれアメリで活躍した政治学者、イクバール・アフマドの論文を紹介している。その一部を読んでみよう。 「イクバール・アフマドはムスリムの読者に向けて、宗教的右派の根元と名付けたものを分析している。 絶対論者や狂信的な暴君は、個人の行動を規制しようという考えにあまりにも強くとりつかれているため、『イスラムの秩序からヒューマニズムも美学も知的探求も宗教的帰依もことごとく取り去ってしまい、単なる刑法へと矮小化されたもの』を推進するようになり、イスラムの教えを台無しにしている、と彼はこっぴどく非難している。 ここから、必然的に『宗教の中の、ある一つの、それもたいていは前後の文脈から切り離された一側面だけを取りだして絶対化し、ほかの部分は全く無視するということが起こってくる。そのような現象は、それが展開するところでは必ず、宗教をゆがめ、伝統をいやしめ、政治手続きを歪曲させる』。」 「アフマドは『ジハード(聖戦)』と言う言葉が本来含蓄に富み複雑で多元的な意味を持つものであるのに、現在はもっぱら『敵と定めたものに対する無差別の戦い』の意味だけに限定して使われていると批判する。これでは、『イスラムの宗教や社会や文化や歴史や政治を、ムスリムたちが太古の昔から実生活で体験してきたものとして理解する』ことは不可能だとアフマドは主張する。 現代のイスラム主義者たちは、『魂ではなく権力にばかり関心を寄せてきた。政治的な目的を実現するために人々を動員することばかりにかまけていて、困難や理想をみなで分かち合い和らげることには興味がない。彼らが追求するのは、極めて限定的で時間に縛られた政治課題である』と言うのがアフマドの結論だ。事態を一段と悪くしているのは、同じような歪曲と狂信が、『ユダヤ教』や『キリスト教』の世界の言説においても起こることである」(E.W.サイード 「戦争とプロパガンダ」 みすず書房刊より引用) この最後のサイードの言葉「同じような歪曲と狂信が『ユダヤ教』や『キリスト教』の世界の言説においても起きることである」は重い。 イスラム教徒が「ジハード」と称してテロ行為を行うこと、それに対しててイスラエルやアメリカが、「対テロ作戦」として対応すること。 その両方共、それぞれの宗教の歪曲と狂信によるものなのだ。 その、宗教の歪曲と狂信を押さえない限り、パレスティナ問題の解決は難しい。 実際、いまのイスラム教徒とユダヤ教徒の対立は、簡単には解けないだろう。 しかし、双方共に、自分の主張を押し通すだけでは駄目で、妥協し合い、和解しなければ、共倒れになるだろう。 このような状況で、一方の側の完全な勝利などと言うことはない。 我々日本人も、パレスティナ問題を他人事と知らん顔をしているだけではなく、出来ることをしていかなければならない。 パレスティナ問題が悪化して、中東で争いが起きたら、世界中、勿論我々日本も、影響を受けるのだ。 それよりも何よりも、これほどのひどい人権無視の状態が続いているのを無視していては、良心を疑われる。 我々日本人も何かパレスティナ問題の解決について協力できることを見つけて始めていかなければならない。 パレスティナ問題を締めくくるには余りに力のない結論だが、少しでも、読者諸姉諸兄のパレスティナ問題を考える糸口を作ることが出来たら、私は、それで満足だ。
- 2008/08/14 - パレスティナ問題 その17 さて、パレスティナ問題に戻って、PLO(Palestine Liberation Organization、パレスティナ解放機構)について考えよう。 パレスティナ問題については、パレスティナ側にも問題があると言ったが、このPLOが問題の解決を厄介にした。 PLOは1964年に結成されたが、設立当時は汎アラブ主義の枠組みのなかでパレスチナ運動を管理下に置こうとするエジプトの大統領ナセルの思惑が強く、初代議長も親エジプトのアハマド・シュケイリであった。 しかし、1967年の第三次中東戦争で、アラブ側が大敗すると、PLOはナセルから離れ、1969年にファタハを率いる、ヤセル・アラファトを議長に選んだ。 (この第三次中東戦争は、シリアで政権を握ったバース党がパレスティナ・ゲリラに支援を行い、エジプトとヨルダンは同盟を結んで紅海とアカバ湾を結ぶティラン海峡の封鎖にふみ切ったことで、危機感を抱いたイスラエルが、周辺のアラブ諸国に先制攻撃をしかけたものである。イスラエルにとって、アカバ湾はインド洋への唯一の出口で、ティラン海峡を封鎖されることは生命線を断たれることに等しい。 この戦争は後に6日戦争と呼ばれるが、わずか6日間で、イスラエルはアラブ諸国に大勝し、シナイ半島、ヨルダン川西岸地区、ゴラン高原などを占領した。) アラファトは1929年生まれ。 エジプト軍に入って第二次中東戦争に従軍し、退役の後、1957年、パレスティナ解放を目指す組織アル・ファタハ(以下、ファタハと記す)の創立に加わり、議長となった。 ファタハはイスラエル相手に、ゲリラ攻撃を繰返してきた。 ファタハを率いてアラファトがPLOに参加すると、PLOもイスラエルに対するテロを行った。 PLOはヨルダンに本部を置いていたが、ヨルダンの人口約200万人の内74万人がパレスチナ人となってヨルダンの政治情勢が不安定になったことと、イスラエルとの戦争を嫌ったヨルダンによって、追放されて、レバノンのベイルートに本部を移し、そこからイスラエルに対する攻撃をしかけていた。 1982年、イスラエルがレバノンに侵攻し、ベイルートを包囲したので、PLOはチュニジアの首都チュニスにまたもや移さざるを得なくなった。 アラファトはずっと、アラブ諸国からの援助金でPLOを維持してきたが、1990年から1991年の湾岸戦争で、イラクを支持したために、アラブ諸国からの援助金を断たれ、苦境に陥り、1993年イスラエルとのパレスチナ暫定自治合意(オスロ合意)に踏み切った。 オスロ合意では、アラファトはイスラエルの生存権を認め、すなわちイスラエル国家を承認し、テロを取締り紛争を平和的に解決することを約束し、一方当時のイスラエルのラビン首相は、PLOをパレスティナの正式な代表として認め交渉を開始する意思を表明した。 このオスロ合意で、パレスティナ暫定自治政府が成立し、1994年からガザ地区と、ヨルダン西岸のエリコで自治が開始され、PLOは本部をガザに移した。 1996年のパレスティナ自治選挙でアラファトは大統領に選出され、PLOの国会に当たるパレスティナ民族評議会(PNC)によってパレスティナ民族憲章から「イスラエル破壊条項」の破棄が決定された。 PLOは最初から、イスラエルを壊滅することをその目的としていたのだが、1970年代半ばから、アラファトはそれが不可能なことを悟り、イスラエルと和議を結ぶ、柔軟な態度に変わってきていたのだ。 暫定自治合意を形成する過程で、イスラエルのラビン首相、ペレス外相ともども、平和に貢献したと言うことで、アラファトは、1994年にノーベル平和賞を授与された。 このまま、イスラエルとパレスティナの間の和平が成り立つかと世界は期待したが、この和平には、イスラエル、パレスティナの双方から強い反対が起こり、イスラエルでは、ラビン首相がシオニスト原理派の青年に暗殺され、パレスティナでも和平反対の過激派によるイスラエルに対するテロ活動が盛んになった。 さらに、イスラエルでは、右派リクードのネタニヤフ、さらに、ネタニヤフより強硬派のシャロンが首相になり、イスラエルとパレスティナは和平どころか、更に激しく対立するようになった。 とくに、シャロンは、レバノン包囲戦の時にアラファトを殺し損なったことをいつまでも悔やんでいたほど、強硬な人物で、2000年9月28日、護衛を引き連れて、エルサレムにあるかつてエルサレム神殿があったユダヤ教の聖地を訪問し、エルサレムはイスラエルのものだと誇示した。この場所は、イスラム教徒にとっては、ムハンマドが昇天したとされる聖地であり、シャロンの行為はイスラム教を冒涜するものとされた。この訪問はイスラム教徒を刺激し、挑発し、パレスティナ人は、イスラエル人に対する投石などの攻撃を始めた。(民衆蜂起 インティファーダ) シャロンはそうなることを望んで、パレスティナ人を挑発したのだ。 シャロンは2006年に脳卒中で亡くなったが、イスラエルとパレスティナの対立はその後も激しくなるばかりである。 そもそも、シャロンの例に見られるように、ラビン首相が暗殺されて以来、イスラエルのパレスティナとの和平を否定する勢力が強くなったことが、現在の対立の激しさを招いたものだが、同時に、PLOを率いるアラファトの問題も大きい。 アラファトは、イスラエルと和平の道へ進むかと思えば、強硬な姿勢を取ったり、その方針が常にぐらついていた。それは、アラファトがパレスティナ人全体をまとめることが出来なかったからである。 それもそのはずで、アラファトの率いるPLOは、その内部が甚だしく腐敗しており、パレスティナ人からの信頼を失っていたのである。 アラファトは、2004年に亡くなったが、その際に、遺産を四千億円以上残していることが明らかになった。 アラファトには、若い妻がいたが、その妻はパリにずっと住まわせている。 アラファトの死後、その妻は、アラファトの遺産を相続する権利があると主張している。 全く、驚くべきことである。 アラファトのもとに集った資金はみんな、周囲のアラブ諸国の寄付金である。 それを、アラファトは、身辺の取り巻きと共に、自分の懐に入れていたわけだ。 アラファトは最後は、シャロンによって、自宅に幽閉状態に置かれていた。 それでなくとも、パレスティナでPLO議長、大統領として働いていれば、どんな大金を持っていても使い道があるはずがない。 それなのに、そんな巨額のカネを溜め込んでいた。 パレスティナの人々は、医療、教育、などの施設が十分でなく苦しんでいる。 四千億もの金があれば、幾つ病院が建てられたか、幾つ学校が建てられたか。 使い道もないのにそんな巨額の金を貯め込んだアラファトの神経が分からない。 アラファトがそうだから、PLOの幹部たちの腐敗も凄まじく、それでは、人心が離れるのは当然だ。 アラファトはパレスティナ人のためではなく、自分が生き残るためだけに全精力を使ってきた。 その様な人間が、指導者として君臨していたのだから、PLOが、パレスティナ問題の解決に役立つわけがない。 イスラエルとの真の和解など、PLOでは出来るはずがなかった。 むしろ、PLOはイスラエルとの和解を阻害した一因となっていたのだ。 事態は、更に悪化の一途をたどり、イスラム原理主義で、パレスティナの解放、イスラエルの崩壊をめざすハマス(イスラーム抵抗運動)が、2006年に、パレスティナ評議会で過半数を占め、さらに、2007年6月にはガザ地区を武力占拠して、ファタハと対立しパレスティナ内部で内戦状態になっている。 ハマスはイスラエルに対する自爆テロ、ガザ地区からのロケット攻撃などを続けており、それに対するイスラエルの締め付けは、ますます厳しくなっていて、ガザ地区のパレスティナ人は、生存するのがぎりぎりの状態にまで追い込まれている。 イスラエルがイスラエルなら、パレスティナもパレスティナだ。 一体、どうすれば良いのか。 (続きは、また明日)
- 2008/08/13 - 開会式のスキャンダル 8月8日の、シドニー・モーニング・ヘラルドの万里の長城を聖火リレーランナーが走る写真につけられていたキャプション、「Olympic torchbearers get lost in the smog....」について、読者の方からメールを頂いた。 その「get lost」は「消え失せろ」という意味ではないかと、ご指摘になっている。 たしかに、「get lost」には、「消え失せろ」という意味があるが、それは、例えば気にいらない人間に、面と向かって「Get lost! 」(うせろ!)などと言うときに使われるのだと思う。 この、ヘラルドの文章は、いわゆる平叙文であり、その場の情景を描いたものなので、「消え失せろ」というのは、文脈から考えて合わないと思う。 やはり、オーストラリア人らしく、皮肉を効かせて「スモッグがひどいので、道に迷っちゃうよ」とか「スモッグの中で迷子になっちゃう」などと言う意味だと思う。 いずれにせよ、こう言う細かいところまで気を配って読んでいただいていることに、感謝します。 書く方も張り合いがあるというものです。 で、開会式の話ですが、一人で歌を歌った可愛い女の子、私はすぐに口パクだと分かった。 私は、子供なので、開会式の雰囲気に飲まれて間違うといけないから、前もって録音しておいて、それに合わせて口をパクパクさせたのであって、当然、流れた歌声は、あの女の子が、前もって歌ったものだと思っていた。 だが、今日のシドニー・モーニング・ヘラルドには、開会式のスキャンダルとして、その女の子のことについての記事が載った。 それによると、開会式で口パクをした可愛い女の子は、Lin Miaokeと言う子で、会場に流れた歌声は、別のYang Peiyiと言う女の子の歌ったものだったと言う。 最初から、Yang Peiyiちゃんが歌うことになっていたのを、開会式直前になって、Lin Miaokeちゃんに変えられたのだそうだ。 リハーサルを見に来ていた共産党の政治局員が、Lin Miaokeちゃんに変えろと命令したのだという。 その理由は「国家の利益」だそうだ。 Yang Peiyiちゃんは声が素晴らしいが、見た目はLin Miaokeちゃんの方が良い。 で、開会式に出るのはLin Miaokeちゃん。 しかし、歌声はYang Peiyiちゃんのもの、としたのだそうだ。 二人の写真を、転載する。 左が、開会式で口パクをやらされた、Lin Miaokeちゃん。 右が、本当に歌を歌った、Yang Peiyiちゃんだ。 私は、二人とも、可愛いと思う。 共産党の政治局員はてめえの面を鏡で良く見ろよ。Yang Peiyiちゃんの容姿に文句をつけられるような、顔かたちをしているのか、ってんだ。(写真はクリックすると大きくなります) 寸前になって引っ込められた、Yang Peiyiちゃんも可哀想だが、Lin Miaokeちゃんも、自分が歌っているものだと思いこんでいて、会場に流れている歌も自分の声だと思ったと言う。 どうも、ひどいことをするもんだと、腹が立ったね。 なにが、「国家的利益」だ。 そう言っては何だが、あの、中国の共産党の幹部たちって、実に人間味のない顔つきをしているね。 中国共産党の歴史を読むと、余りに残酷無惨で、寒気がする。 権力争いの激しさと言ったら、凄まじいもので、その権力争いに生き残って共産党の政治局員になった人間は、どんな人間か想像がつく。 顔つきも非人間的になるわけだ。 顔だけじゃないね、心も非人間的だ。 今回のことで、中国政府は、二人の女の子を傷つけた。 Yang Peiyiちゃんは容姿を問題にされて、開会式直前に下ろされた。 これは、Yang Peiyiちゃんにとっては、死ぬまで忘れることの出来ない屈辱だ。人生の大きな傷となる。こんなひどい目に遭って、これを乗り越えていくのは大変だ。 Lin Miaokeちゃんも、自分で歌ったと思っていたら、実はそれが、Yang Peiyiちゃんの歌声だったと知ったとき、どれだけ驚いたことか。 自分は単なる人形として扱われたことに気がついてひどく傷ついたことだろう。 Lin Miaokeちゃんの受けた傷も大きい。 ああ、ほんとうに厭だねえ。 北朝鮮と言い、中国と言い、何が国家の利益だよ。 共産党のお偉いさんたちの、個人的な欲望のためではないか。 開会式を派手にやり遂げれば、国威発揚、中国共産党の権威拡大、自分たち共産党幹部の繁栄。 こんな図式だろう。 そのために、二人の可愛い女の子を、生涯掛かっても瘉されないほど深く傷つけた。 レーニン・スターリン・毛沢東・金日成主義は、人間性を圧殺する思想だ。 共産主義とは全く無縁の、権力者の暴力で人民を圧制の下に置く、最悪の体制を作った。 なんてことを書いていたら、パレスティナ問題に話が行かなくなった。 また明日。
- 2008/08/12 - 竹島(独島)問題 その3 私は「日本全県味巡り」の一つとして、第98巻に「長崎編」を書いた。 その中で、対馬を訪れ、朝鮮通信使の話を書き、いかに明治維新以前の日本は朝鮮(韓国)を文化的に高く評価し、こちらから頼んでまで、友好的な交流を続けていたか、改めて、日本人に知って貰うことに努めた。 また、2005年には4万人弱の韓国人観光客が対馬を訪れ、日韓友好の窓口になっていることを強調した。 こう言う歴史的な事実を書くだけで、嫌韓派の人達は、あれこれ難癖をつけて来るのだが、そんなおかしな人達はほんの一部で、私の読者の大多数は、真面目に読んでくれて、これまで朝鮮通信使のことを知らなかった、書いてくれて良かった、と言う声を色々なところで聞いた。 私の書いた「美味しんぼ」長崎編の対馬に関する話は、日本人の中に確実に韓国に対する好感を強めた。 しかし、その対馬で、私が顔を背けざるを得ないようなことを、韓国人がしてくれた。 何があったのか、2008年7月23日の長崎新聞を引用する。 中学社会科の新学習指導要領の解説書に竹島(韓国名・独島)の領有問題が初めて記述されることを受け、韓国の退役軍人ら21人が23日、対馬市役所前で、日本側に謝罪と撤回を求める抗議行動を展開した。これに反発する一部市民も駆け付け、現場は一時怒号が飛び交うなど騒然となった。 韓国側は「竹島は慶尚北道に所属している」と主張しており、「大韓民国傷痍(しょうい)軍警会」の鄭政浩(チャン・ジョンホ)大邱支部長(63)や慶尚北道の会員らが21日から来島していた。 抗議は午前10時から20分間、市役所前の歩道で実施。「独島は韓国領土 対馬も韓国領土」と主張する横断幕を掲げ、同様の主張を書いたTシャツを着用。日本に謝罪と撤回を求める声明書を呼み上げたり、拳を突き上げてシュプレヒコールを上げた。 このうち6人が韓国旗を身にまとい、バリカンで頭を丸刈りにした。また、一部メンバーが指先をかみ切り、流れ出た血で韓国旗に「独島は私たちの土地だ」とハングルで記し、抗議の意志を示した。 一方、一部の市民が道路の反対側で日本国旗を掲げ、「韓国は間違っている」「対馬は日本領土だ」「帰れ」など抗議した。現場は報道陣が取り囲み、怒号が飛び交うなど騒然とした雰囲気に包まれた。 見物していた市内の30代の自営業男性は「なぜ対馬に来なければいけないのか意味がわからない。本当に抗議したければ国会議事堂など中央でやってほしい」と困惑した表情で話した。 抗議団は対馬市役所敷地内での抗議行動を22日に市に申し入れたが、市は拒否していた。財部能成対馬市長は「対馬が韓国領土というのはあり得ない。間違った歴史認識は撤回してほしい。竹島問題は国の問題であり、市では対応しようがない。両国間で早期に問題解決され、未来志向の日韓友好交流への進 展を期待する」とのコメントを出した。 抗議団は同日午後、比田勝港から出国する予定。 対馬市では、8月に開かれる日韓交流イベントの朝鮮通信使行列で「正使」として招いていた釜山市影島(ヨンド)区庁長が竹島問題を理由に欠席を伝えており、外交問題の波紋が国境の島対馬で続いている。 この韓国人たちがしたことの問題点を挙げていく。 この人たちは観光ビザで入国した。政治的な行動を取るのに観光ビザで入国するのは、不法である。 上の問題とも関連するが、日本ではデモをする場合には、警察などに届けを出さなければならない。デモをするのは自由だが、国際的にどの国でも、デモに関する法律がある。 韓国人なら日本の法律を破って良いことにはならない。 竹島の問題をなぜ対馬で持出すのか。 竹島問題は、日本政府と韓国政府の問題である。 デモをするなら、東京の国会議事堂、あるいは自民党本部で行うべきだ。 日韓の友好関係を深める努力をしてきた対馬でこんな破壊的なことをしたのは韓国にとって損失となる。 対馬が韓国領であるというのは、昨日も書いたように、全くの間違いである。 人前で指を噛み切って血を出し、それで字を書くなど、そんな野蛮な行為を認める国が世界中にどこにあるのだろうか。 人前で指を咬みちぎったり、頭を丸刈りにしたり、日本人の感覚からすれば野蛮で暴力的としか思えないことをして、日本人に自分たちの意見を伝えるためのデモであったはずが、返って、日本人に反発心を抱かせてしまった。まるで逆効果だ。 しかも、この韓国人たちの行為に対して、韓国からは非難の声が上がらない。 この、元軍人たちは英雄気取りだ。 私は非常に悲しく思った。 「日本全県味巡り」「長崎編」で日韓の友好を願って書いたことが裏切られたと言う思いがまず第一。 韓国人は、一切の話し合いを認めず、暴力で相手に迫って自分の要求を呑ませようとするのか。 日本が、百年前に、暴力で韓国を併合したことは大きな罪だ。 では、今度は韓国が当時の日本がしたのと同じことを日本に対してしても良いというのか。 それでは、人間として何が正しいかを議論することが出来ない。やられたからやり返す権利がある、という、何千年も前から続く暴力による争いの連鎖をこれからも、広げていくことになる。 韓国は、日本に併合され植民地にされた、と言う経緯から、日本に対して道徳的な非難をする権利があった。 日本には、韓国に対して道徳的な負い目がある。 しかし、韓国が自分たちは日本に対して道徳的に優越していると思いこんで、このような乱暴な、非理性的な行為を続けるなら、その道徳的に優位な立場は消え去ることを認識して欲しい。 そして、第二に、落胆した。 これは、対馬に限らず、竹島問題が起こって以来の韓国人の一連の行動に対する落胆である。 しかし、誤解して貰いたくないが、これは韓国人を拒否し、突き放す意味での落胆ではない。 親しい友人が何か間違ったことをしたときに感じる、落胆、である。 友人であるからこそ感じる落胆なのだ。 以前、銀座のクラブで友人たちと酒を飲んでいたときに、その店に身なりの良い、如何にも金回りの良さそうな男が入って来た。その店の常連らしく、態度が大きい。年齢は六十くらいだった。店の女性たちも、大事に扱っている。 しかし、その男のすることが、無作法で下品だ。 見ていて不愉快になる。 そこで私は友人に言った。「どうして、あの歳で、あんな下品なことをするんだろう」 それに対する友人の答えは、実に簡潔で、ことの肯綮に当たるものだった。 友人は言った。 「あの男は、ちゃんとした友人を持っていないんですよ。ちゃんとした友人がいたら、そんな下品ことをするなと忠告するはずでしょう」 私は友人の言葉に、感心した。 良い友人は、相手の間違いをきちんと正してくれる存在なのだ。 相手が間違いを犯しても、その間違いを正しもせず、相手の言うとおりにさせておくことは、結果的に友人を駄目にすることだ。そして、友人が駄目になると、そう言うえせ友人はさっさと姿を消す。 私の友人は、私の間違いを正してくれる。私は良い友人を持ったと幸せに思った。 私は韓国と友好関係を深めたいと心から願っている。 私自身、韓国に対して友情を抱いている。 韓国人を友人と思っているから、こうして苦言を呈しているのである。 韓国人を、諦めたら、こんな事は書かない。 私は韓国人に、もっと理性的になって貰いたいと思う。 感情の激するまま、乱暴な言動に及ぶことは、決して韓国のためにならない。 日本が韓国を併合して植民地化したことを、非難する権利は韓国人にあるが、その件は、全てに有効な切り札ではない。 また、やたらに振り回しては切り札としての価値が無くなる。 竹島問題は、純粋に二国間の領土問題であって、話し合いでしか解決のつかない問題だ。 この問題に、日本の韓国併合問題を絡ませるのは、間違いだ。 日本の韓国併合という歴史的な問題と、領土問題とは、無関係だ。 竹島問題を話し合おうというだけで、韓国に対する侮辱であるとか、日本が竹島を奪おうとする陰謀だと言ったり、韓国人でこの問題を国際的な機関で裁定して貰おうという人間がいたら、その人間は、日本の韓国併合の道を決定づけた、1905年の第二次日韓協約を結んだときの、韓国の親日派、李完用と同罪だと極め付けたりするのは、余りに感情に走りすぎていて、結果的に竹島問題の解決を困難にするものだ。 私は、以前にも言ったように、排他的経済水域(EEZ)さえ、円満に日韓両国で運用するように決めさえすれば、竹島を韓国領土とすることは問題ないと思っている。 しかし、今の、韓国の余りに非理性的な態度を見ると、その考えを保留せざるを得ない。 このような態度の韓国に、韓国の言うがままに竹島を渡すと、今度は日本国内で、韓国に対する激しい反感が起こる。 それは、両国の友好のためにならない。 韓国は、あの島とも言えない小さな岩礁に韓国人の誇りの全てが掛かっていると言うのか。 韓国人の誇りは、あんな小さな岩礁に代表されるようなちっぽけなものなのか。 まさか、そうではあるまい。 繰返すが、竹島問題に、日本の韓国併合という歴史問題を絡ませるのは正しくない。 竹島が、日本の韓国併合の象徴だ、などと言うのは、余りに感情的で、世界に通用することではない。 竹島問題は、話し合いでしか解決出来ない。 韓国が、竹島に対してそこまで深い思い込みがあるのなら、話し合いできちんと解決するべきだ。 如何なる国際紛争も、感情的な行動で解決した試しはない。 韓国が感情的になって話し合いを拒否すれば、日本人も、それに引きずられて感情的になる。 解決は遠のくばかりで、しかも、友好関係は破壊される。 大体、今、日本と韓国は揉めているときではないのである。 中国がますます強大になっていき、日本は没落の一途をたどり始めている。 韓国も、経済状態が思わしくない。 こんな時に、日本と韓国が揉めていては、何も良いことはない。 私は、日本と韓国が協力し合えば、世界的に強力な存在になりうると信じている。 日本の緻密さ、韓国の馬力、この二つを合わせれば、怖いものがないくらいだと思う。 そもそも、日本は韓国とうまが合うのである。 その証拠に、日本の芸能界、スポーツ界、文芸の世界、で活躍している在日韓国人の数は大変なものになる。 文学の世界でも、芥川賞、直木賞を取った人間の中に、在日韓国人が何人もいる。 野球、ボクシング、プロレス、など日本人に人気のあるスポーツも在日韓国人がいなかったら今の隆盛はあり得ない。 NHKの紅白歌合戦も、在日韓国人がいなかったら成り立たないと言われている。 俳優、芸能人の中にも韓国人が大勢いる。 小池一夫先生と共に劇画の原作の創始者として有名な梶原一騎先生も(漫画原作者として、小池一夫、梶原一騎のご両人は、先生とお呼びしないと気がすまない)「韓国人はスター性がある」と言っていた。 日本人は、韓国人に引かれるというのである。 正にその通りであることは、今取り上げた、芸能界、文芸界、スポーツ界の実情を見ても明らかだろう。 韓国人も、日本のテレビ番組、アニメ、漫画、などを好んでみる。 互いに、相手のことを気にいっているのである。 それを、歴史的なこと、政治的なことが、邪魔をして、お互いにぎくしゃくした感情を抱いている。 こう言う馬鹿げたことは止めにして、日本と韓国は単に友好関係を深めるだけでなく、経済的に政治的に協力して世界に対していかなければならない。 そうしないと、日本も韓国も、これからの世界で生き延びられない。 そのためにも、今度の竹島問題を、韓国側は感情の激するまま、行動することなく、話し合いで解決するように、考えて貰いたいのだ。 私は韓国を大事な友人だと思っている。 友人の忠告には、韓国人は度量を持って耳を傾けて貰いたい。 日本人も、韓国人の感情を察して、友好関係を深めるように行動して貰いたい。
- 2008/08/11 - 竹島(独島)問題 その2 私が、仰天したのは、「中央日報」「東亜日報」と共に、韓国の三大新聞の1つとして評価の高い「朝鮮日報」が、「韓日もし戦わば」と言う記事を載せ、竹島をめぐって日本と韓国が戦った場合を想定して、様々な検討を行ったことだ。 考えても貰いたい。日本の三大紙とされる「朝日新聞」「毎日新聞」「読売新聞」で、「もし韓国と戦えば」などと言う記事を載せたら、一体どうなるか。 日本人の読者は、ごうごうたる非難をその新聞社に浴びせるだろう。 第一、韓国が、国を挙げて大騒ぎするだろう。 これほど、韓国を侮辱することはないからだ。 そもそも日本は韓国と戦争をすることなど考えたこともないから、日本の三大紙にはそんな記事が紙面に現れることはあり得ない。 さらに、当然のことながら、日本の三大紙には理性と知性がある。 相手が韓国であろうと、どこの国であろうと、戦争を煽るような、無礼な記事を書くようなことはしない。 「朝鮮日報」は「もし韓中戦わば」とか、「もし韓露戦わば」、「もし韓米戦わば」などと言う記事を書けるのだろうか。 最近の韓国は、牛肉輸入問題で、反米感情が高まっている。それにしても、「もし韓米戦わば」などと言う記事は流石に書けないだろう。 それが、日本相手なら書ける。 韓国は、日本に対してはどんな無礼なことをしても許されると思っているらしい。 その記事の締めくくりは、 「宋永武(ソン・ヨンム)元海軍参謀総長は『韓国の海軍力が日本の70から80%のレベルになれば、日本が独島問題で挑発できなくなる。昨年夏に海軍が合同参謀本部に提案した内容、すなわちイージス艦3隻、5000トン級駆逐艦(KDX‐Ⅱ)6隻の追加建造計画を直ちに実行に移す必要がある』と述べた。」 となっている。 こんなことを、元海軍参謀長が言い、それをまた「朝鮮日報」が記事にする。 信じられないことである。 三大新聞と言えば、正しい報道を行い、韓国人に真実を知らせ、正しい道に導くのが、その使命なのではないか。 戦争を煽り立て、軍備増強を煽り立てる。 これが、韓国人の、理性と知性なのか。 私は日本の軍備が、韓国軍を圧倒するほど増強されていることを知って驚いたが、我々日本人の圧倒的大多数は、二度と戦争をしてはいけない、と考えている。 ましてや、かつて侵略したことで深い罪の意識を持っている、朝鮮・韓国、中国などアジアの国々に対して武器を取る、などと、ちらとでも考えたことのある日本人はいないと、私は百パーセントの確信を持って言う。 1945年に戦争に負けて以来、この63年間、日本は海外で一発の銃弾も発射したことはなく、ただの一人も外国人を殺傷したことがない。 アメリカに強要されて、イラクに駐留した自衛隊も、自分を守るための武器だけを携帯して行き、それも使用を厳しく制限されていた。 日本人の平和を守る、戦争は二度としない、という思いは老人から子供まで全ての世代に浸透している。 日本人の平和に対する信念は揺るぎがない。 絶対に戦争だけはしない、それが日本人の信念だ。 「朝鮮日報」は日本に特派員を送っている。その特派員は日本人の心情を掴んでいないのか。 それでは、何のための特派員なのだ。 その日本を相手に戦争をしようと煽り立てるとは余りに理性を欠いている。 これほどの侮辱を、他国から受けたら、韓国人はどう言う態度を取るのか、自分の身になって考えて貰いたい。 他国を侮辱することは、自国を侮辱することだ。 これ程までに思慮を欠いたな記事を堂々と掲載したことで、「朝鮮日報」は自分自身を貶めてしまった。 「朝鮮日報」のために、非常に残念なことだと悲しむ。 さらに、「朝鮮日報」は呆れ果てるしかない記事を掲載した。 それは、 「『対馬は韓国領』説に歴史的根拠あり」 と題した記事である。 その中には、 「倭寇の侵略が続発するや、世宗元年(1419年)、上王太宗は対馬征伐を決心した。以下はその際に下した教諭文の序だ。 「対馬は島であり、本来わが国の領地だ。ただ、辺境にあり、土地が険しく、また狭く汚いことから、倭のものどもが居留するよう置いていたら、犬のように盗みをはたらきねずみのように物をくすねる癖を持ち、庚寅年からは暴れ回り始めた」 太宗の教諭文は、一種の宣戦布告となっている。そして征伐が終わった後には対馬島主に教諭文を送り、太宗は対馬が再び朝鮮の領土になったことを明確に宣言した。 「対馬は島であり、慶尚道鶏林(慶州)に隷属していたところ、この度わが国の領土だということが文籍に載っており、確実に調べることができる」 もちろん、対馬は済州島や巨済島のような韓国領ではない。李承晩大統領も当時、対馬は韓国に朝貢を行っていた地だ、と言ったに過ぎない。しかし、太宗代に対馬が日本の地でなかったことは明らかな事実だ。こうした点から、15世紀初めの太宗・李芳遠(イ・バンウォン)の対馬認識と、20世紀中盤の李承晩大統領の対馬認識には、相通ずるものがある。 その後の対馬に対する朝鮮の態度は、一貫して消極的で、倭寇の根拠地の役割を果たさなければそれでよい、という程度だった。後に起きた壬辰倭乱が、対馬の運命を決定付けた日朝双方に二股をかけていた対馬島主は、壬辰倭乱を契機に日本化し、倭乱直後の17世紀初めには日本の幕藩体制に組み込まれた。 朝鮮前期のみとはいえ、朝鮮の臣下であることを堂々と明らかにしていた対馬島主が日本へと渡って行ったわけだ。 李承晩大統領が指摘した通り、1870年代には完全に日本化した。現在、対馬は日本が実効支配している。しかしその根拠は、韓国が独島(日本名竹島)を実効支配している根拠に比べればはるかに弱い。日本が独島を自らの領土だと称することに比べれば、「対馬は韓国領」だという主張は、大いに説得力がある根拠を有している。」 と書かれている。 さらに、「中央日報」は次のように伝えている。 「与・野党議員50人が対馬返還要求決議案発議に対し、国民の半分が賛成していることが調査で明らかになった。 世論調査機関リアルミーターが全国19歳以上男女700人を対象に国会で発議された対馬返還決議案に対して世論調査した結果、賛成は50.6%だったと25日、ノーカットニュースが報道した。反対は33.5%だった。 地域別で見ると大邱、慶北で賛成が58.0%、反対が26.7%で、対馬返還要求がいちばん強かった。釜山、慶南(賛成57.2%、反対31.7%)、全北(賛成56.1%、反対9.4%)の順だった。 回答者の支持政党別では創造韓国党支持層の77.3%が対馬に対する領有権主張に賛成し、支持率が最も高かった。自由先進党支持層は54.0%が賛成し、民主党支持層は51.3%が支持した。 民主労働党の支持者のうち51.2%が賛成すると回答した。ハンナラ党は支持者のうち49.8%が賛成すると回答した。性別では男性(55.9%)が女性(45.0%)に比べ賛成者が多かった。 年齢別では40代(57.2%)、50代以上(51.6%)、30代(49.8%)の順で返還要求世論が高かった。今回の調査の標本誤差は95%、信頼水準から±3.7ポイントだ。」 最近、韓国では、台湾の新聞などが韓国を歴史泥坊だと言って非難していることに対して、厳しく反応している。 「朝鮮日報」は台湾の新聞と、有力ケープル・テレビ局が次のような内容の物を伝えたと書いている。 「老子、孔子が韓国人だと言ったと思えば、釈迦までも韓国人だと主張している」(中国時報) 「韓国外大哲学科の呉可能教授は2007年7月に学術誌『追理』に寄稿した論文で、万里の長城は韓国人が築いたことを明らかにした」(聯合報) 「豆乳は中国が発明したことは世の中に知られているが、韓国が発明したと言い張るなど泥棒行為だ」(TVBS) これに対して、「朝鮮日報」は「荒唐無稽な台湾メディア」として、台湾の報道を批判している。 それなら、「朝鮮日報」も、対馬について「荒唐無稽なこと」を言うのはやめた方が良い。 「日朝双方に二股をかけていた対馬島主は、壬辰倭乱を契機に日本化し、倭乱直後の17世紀初めには日本の幕藩体制に組み込まれた。」と言っているが、「朝鮮日報」は対馬と対馬藩主である宗氏の歴史を読まずに、こんなことを言っていることが明らかだ。(「朝鮮日報」は「対馬島主」などと書いているが、その様な物は存在しない。存在したのは対馬藩主である。歴史用語はきちんと使って貰いたい) 対馬藩主の宗氏の出自は、大宰府官人惟宗(だざいふのかんにんこれむね)氏であり、対馬との関係では1274年(文永11)の元寇(げんこう)で戦死した資国(すけくに)(助国とも)が最古、確実とされている。資国は対馬国地頭代(じとうだい)。鎌倉末から南北朝にかけては守護大宰少弐(だざいのしように)氏のもとで対馬の支配にあたり、その後守護となる。15世紀初頭に北九州から対馬に本拠を移し、ほどなく島内支配と朝鮮関係の掌握を確実なものとした。 1587年(天正15)豊臣(とよとみ)秀吉の九州平定に応じて服属。91年朝鮮通信使の来日実現の功により、従四位下侍従(じゆしいげじじゆう)、対馬守(かみ)に補任(ぶにん)。この官位は近世の例となった。近世では対馬藩主として義智(よしとし)から義達(よしあきら)(重正)まで16代続いた。(小学館スーパーニッポニカから) 要するに、宗氏は九州の太宰府官人を出自とし、既に1274年から対馬を支配していた。それも、守護大宰少弐氏の代官だったのが守護大名になり、豊臣秀吉が九州を平定すると、秀吉に従った。宗氏は、中世以来の守護大名が近世大名に転化した数少ない例であり、朝鮮と二股をかけることも、壬辰倭乱を契機に日本化したりすることもあり得ない。飛んでもない話である。 もともと日本人なのに、どうして「日本へ渡って行った」り「日本化」しなければならないのか。 宗氏は1443年、朝鮮と嘉吉条約を結んで、朝鮮との貿易を独占することに成功した。 二股かけていたら、わざわざ条約など結ぶ必要はないだろう。 更に、「朝鮮日報」は、1607年(慶長12)から1811年(文化8)まで12回来日した「朝鮮通信使」のことを知らないのだろうか。 「通信使一行は正使以下300人から500人で構成され、大坂までは海路、それ以東は陸路をとった。一行が日本国内を往来する際の交通宿泊費や饗応(きょうおう)はすべて日本側の負担であったが、通信使の来日は両国の威信をかけた外交行事でもあり、その接待は豪奢(ごうしゃ)を極め、経費は50万両とも100万両ともいわれた。近世中期以降の通信使は将軍の代替りごとに来日するのが例となっていた。」 その通信使は、まず対馬に入り、そこから、対馬藩が通信使の守護の任を負って江戸までの全行程に従い、江戸では側役を務め、幕府の朝鮮外交に大きな役割を果たした。 この「朝鮮通信使」の実現には、宗氏が大きな働きをした。 秀吉の朝鮮侵略で傷ついていた日本と朝鮮の関係を修復するためにも、宗氏自身の経済的な繁栄のためにも、朝鮮との国交の修復は是が非でも必要だったのである。 宗氏の出自の問題、朝鮮通信使がまず対馬で日本への入国の儀礼を取ったこと、これらを見れば、対馬がはるか以前から、朝鮮自身が認める日本の領土であったことが明らかだ。 対馬が朝鮮の領土だったなどと、荒唐無稽なことを言う事は、韓国人の知性が疑われることになる。思い込みでものを言うのはやめて、きちんと歴史を学んで欲しい。 対馬については、もう一つ、飛んでもないことを韓国人が引き起こして、私は心底傷ついた。 私が傷ついた件については、また明日。
- 2008/08/10 - 竹島(独島)問題 その1 突然だが、パレスティナ問題を離れて、竹島(韓国では独島と呼ぶ)問題について考えてみたい。(こっちの方が、日本人にとって、喫緊の問題だと思うからだ) 今、韓国では、日本の文部省が中学校の学習指導要領で竹島について言及したことで、強烈な反日感情が起こっている。 私は以前から竹島のような小さな島とも言えない岩礁のことで日韓両国が争うのは下らないことだと考えている。 最近までは、それほど韓国が欲しがっているのなら、排他的経済水域(EEZ)は両国で共同管理することにして、竹島は韓国に渡してしまえば良いと考えていた。 しかし、今回の、韓国政府と韓国人の竹島問題に対する対応を見て、考えを変えた。 この状況で、安易に竹島を韓国に渡すことは、両国の今後の友好関係のために良くないことだ。 まず、今回文部省が学習指導要領の中で竹島についてどう書いたか、それをきちんと見なければならない。 学習指導要領には、 「我が国と韓国の間に竹島をめぐって主張に相違があることなどにも触れ、北方領土と同様に我が国の領土・領域について理解を深めさせることも必要である」 と書いた。 これを、 「解説書は『北方領土は我が国固有の領土』と明記しており、竹島の扱いを『北方領土と同様』とすることで、間接的に『日本固有の領土』と教えることを求めた。」(朝日新聞) と取るのは主観的な問題だろう。 私は、政府自民党の右派勢力のやることの汚さは十分承知している。 「日の丸・君が代法案」を考えても、成立時は、「日の丸・君が代」を強制する物ではないと言っておきながら、今や、「君が代」は教員を支配するための強大な武器となってしまっている。 「君が代」を歌うことを拒否したり、歌うときに起立するのを拒否したりしただけで、教員は懲罰を受ける。 私の、小学校の同級生で長い間東京都の小学校の教員をしていた女性は、「『日の丸・君が代法案』の後、小学校の校長は、小学校で小天皇と呼ばれる権力を握るようになった」と言う。 「日の丸・君が代法案」を武器に、校長・教頭は教員を支配する権力を握ったのだ。 「日の丸」と「君が代」が、かつての戦争に国民を駆り立てるのに使われたことから、国旗、国歌は新しく見直そうという動きがあるのを無視して、アジア各国を侵略した日本軍の先頭に翻った「日の丸」を国旗とし、天皇を崇める物とされた「君が代」を相変わらず国歌とする。(実は、「君が代」の歌詞は、単に年賀などの意味合いの物でしかないのを、天皇と皇室の永遠の弥栄(いやさか)を祝う物と取り違えていると言う基本的な間違いがあるが、長い間に、「君が代」は、天皇と皇室の弥栄を願う歌とされてきた) 全国民がこぞって気持ち良く歌える国歌、誇りを持てる国旗を選ばず、戦前の八紘一宇の皇国史観の象徴である、「君が代」と「日の丸」を国歌と国旗に制定したのは、政府・自民党・官僚・財界の右派勢力の力であって、日本が真の民主国家になる道を大きく曲げた。 その「日の丸・君が代法案」のやり方を見ても、今回の、指導要領をそのまま延長して、竹島を日本領土と、中学生に教え込むようになるだろうと、考えるのも、間違ってはいないだろうと思う。 しかし、今回の記述に関しては、日本が竹島を日本領土と宣言した、かのように取って、大騒ぎする韓国の態度は間違っている。 私は、韓国、中国との友好を進めなければならないと考えている。 韓国と中国に親しみを覚える人間である。 「美味しんぼ」の中でも、何度も韓国と中国との友好を進める内容の話を書いていて、おかげで、私について愉快に思わない人間の数を増やしたようだ。 日本に「嫌韓派」「嫌中派」と言う人達がかなりの数存在していることは知っている。しかし、その様な「外国人嫌い(ゼノフォービア)」の人々は世界中どこの国にも存在する。世界中の「外国人嫌い」に共通するのは、「嫌っている当の外国人に対する無知」「自分自身についての無知」「歴史に対する無知」「世界の中で自分がどの様な位置にいるかについての無知」「世界情勢についての無知」「人間性の欠除」「劣等感の裏返しと言うべき、根拠のない優越感」などの塊であることだ。 その様な人達から私が「親韓派」「親中派」と呼ばれるのは願ってもないことで、大変に名誉なことだと思う。 私は、死ぬまで、「親韓派」「親中派」でいたいと思う。 私は、韓国人も、中国人も大好きである。 どんなことが有っても、韓国人と中国人とは仲良くしていきたいと思っている。 これは、信念などと言う、知的にこしらえ上げた物ではなく、身体の底、心の底から湧いてくる自然な思いである。 その、親韓派の私であるからこそ、友人として、今の韓国に対して苦言を呈したい。 そもそも、隣り合う国同士が、領土問題で争うのは昔から世界中で起こっていることである。 竹島だけが特別なのではない。 特に、竹島のように日韓の間に存在する、島は問題になりやすい。 確かに、日本が竹島を島根県に編入した1905年は韓国側にとって屈辱的な年である。 1905年11月に、英米の諒解を取り付けた日本は、韓国との間に「第二次日韓協約」(保護条約とも言う)を、日本軍の圧力の元に締結し、1906年韓国統監府を開設して、韓国を保護国とし、日本政府の代表者である統監が韓国の外交権を掌握した。諸外国にあった朝鮮の外交機関は全部廃止され、外国の外交機関はソウルから去った。 こんな年に、島根県に編入したのだから、韓国人が、日本の韓国併合の一環として竹島を奪った、と主張する気持ちも分かる。 しかし、領土問題は、その歴史の一時代だけで決められる物ではない。 日本と韓国の間にある島とその周囲の海域は、それ以前から、両国の漁民がどこの国の物とも考えずに利用していた。 ヨーロッパのように国同士が地続きの地域には、昔から領土問題は存在したが、日本と韓国の間には、その様な問題意識は、少なくとも小さな島に関しては無かったはずだ。 だから、韓国側が竹島は昔から韓国領と考えられていたという古い文書を出してくれば、日本側も、それに対応する文書を出してきて、いや、竹島は昔から日本領として考えられてきた、と主張する。 そのような、小さな島の帰属問題は、両国で話し合って決めれば良いことではないか。 両国が対立して解決しなければ、しかるべき国際機関に裁定を委託すればよい。 しかし、韓国は、その様な国際機関の裁定にゆだねること自体が、韓国の権利を侵害する物だと言って強固に反対する。 何が何でも、竹島は韓国の物であって、それに対して、検討しようということ自体が許せないことだと言う。 日本と話し合うことも拒否する。 ただひたすら、竹島は韓国の物だと認めよ、と日本に要求する。 話し合いも拒否するのでは、問題は解決しない。 さらに、驚くことに、この問題が起こった途端、それまで、友好都市として交流関係を築いてきた日本の各都市に、韓国側から次々に友好関係を断絶の通告をしてきたことだ。 例を挙げると、 京畿道楊平郡は、姉妹血縁を結んでいる日本の静岡県御前崎市の港祭りに参加する計画を取り消した。 楊平郡の金善教(キム・ソンギョ)郡守ら関係者4人は8月2日、2泊3日の日程で港祭りに参加する予定だった。 楊平郡側は「最近日本が独島(日本名:竹島)の領有権を主張したことに対し、政府の方針に同意する意味で、港祭りへの参加を見送った」と明らかにした。 郡は先月、御前崎市の要請で姉妹血縁を結び、農業や観光、青少年のホームステイなどの分野で交流を深めていくことにしていた。(朝鮮日報) 江陵市は、日本が中学校の新学習指導要領に独島(日本名:竹島)の領有権問題を盛り込んだことと関連し、姉妹都市である埼玉県秩父市との交流を中断することにした。 同市は最近、調整委員会を開き、「日本の独島領有権主張は受け入れがたい内容で、市民の情緒などを考慮し、秩父市との交流を中断することにした」と22日、明らかにした。 また、今年下半期に計画している「両都市を象徴する造形物制作事業」も、やはり中断する方針だ。市は、今年8月2日から江陵芸術文化団体総連合会の主催で行われる「第7回江陵国際青少年芸術祝典」(江陵市後援)に参加する予定だった日本の青少年60人余りの招請公演も取り消すことにした。 さらに「日本の独島領有権の明記と関係し、日本の姉妹都市と進められているすべての交流を中断することにした」と述べた。江陵市は1983年に秩父市と姉妹提携を結んで以来、25年間にわたって文化、体育、青少年などさまざまな分野で交流してきた。(朝鮮日報) このほかにも、幾つもの韓国の自治体などが、これまでの日本との友好関係を断ち切ってきた。 敢えて言うが、なんと言う浅はかなことをしたのだろうか。 これまで、両国の間に友好関係を築くのにどれだけの時間とどれだけの努力が費やされてきたことか。 それを、日本政府のあいまいな文書1つで、全てをぶちこわしてしまうのか。 韓国側はこれで2つ大きな物を失った。 1つは、日本人に対して、竹島問題を真剣に考えさせる機会を失ったことだ。 正直に言って、大多数の日本人は、竹島について良く知らない。 どうして、韓国人が竹島にそんなに思いをたぎらせるのか、理解していない。 竹島について、真剣に考えたことのある日本人はごく少数だろう。 その日本人に、韓国人が直接自分たちの思いを語り、何が問題なのか説明すれば、日本人の竹島に対する態度も変わってきたはずだ(説明の仕方にもよる。一方的に日本を非難する形で語れば逆効果だ)。 日本人は、政府のすることを、自分たちの問題として真剣に考える習慣がない。 その日本人に、韓国人が、友好の催し物の際に来て、友好都市の人間に竹島のことについて自分たちの考えを話したら、友好都市の人々は、韓国側の考えを理解しただろう。 韓国側は、折角、日本人に対して、自分たちの考えを説明する絶好の機会を失った。 もう1つは、日本人の韓国に対する友好感情だ。 突然、友好関係を断ち切られた日本の各都市の人間は 「友人だと思っていたのに。 友人なら、率直にそちらの考えを話してくれればよいのに、いきなり絶交とはどう言うことだ。今までの友情はウソだったのか」 と思うだろう。 友好関係を断ち切られた日本の各地方の人達は、今、途方に暮れている。 「どうして、こんなことになったのか」 日本人は、政府のしたことと、国民一般の気持ちとは違う、と考えている。 一旦断ち切られた友好関係を元に戻すのは、最初から作るより難しい。 日本の各都市の人間は、「裏切られた」という感情を抱いている。 こう言う感情を、抱かせてしまったら、次にどの様にしたら友好関係を取り戻せるのだろうか。 さらに、仰天するような事態になった。 (つづきは、明日)
- 2008/08/09 - 何度目かの失敗 またまた、痛み止めで失敗した。 一ヵ月ほど前に上手く行かなかった痛み止めを、最近体調が良くなったから大丈夫かも知れないと思って、再試行したのだが、やはり駄目だった。 今日試したのは、オキシコドンと言って、モルヒネ類似の、アヘンから合成するアルカロイドで、モルヒネより鎮痛作用が強い。 今日使ったのは、十二時間かけてゆっくり体に吸収されるように作られた錠剤で、医者は、これを飲めと言う。 しかし、やはり、私には合わない。 前回、コデイン60ミリグラムを取ったときほどではないが、やはり、ボーッとなって、細かい考え事が出来ない。 痛み止めで失敗を繰返すなんて、愚かだと思われるだろうが、こればかりは体に合うかどうか、実際に試してみないと分からない。 試行錯誤しかない。 鬱陶しいことだ。 こう言う状態ではPLOのことなど書けないので明日に延期します。 ところで、昨日のオリンピックの開会式、見ましたか。 まあ、大変に大がかりなもので、準備がさぞ大変だっただろうと思った。 様々な衣装を着た人が登場した。あの衣装のデザインをしたのは石岡瑛子氏だが、仲々、見事な衣装だった。 一番、驚いたのは、何十本もの四角柱が上下に動いて、それで全体に様々な字を形作って見せた演出だ。 あれは、技術的には簡単で、それぞれの四角柱を動かすプログラムを組んで、機械で四角柱を上下するだけのものだ。 と思っていたら、最後に、四角柱の中から人が現れたので驚いた。 四角柱は機械で動かしていたのではなく、中に入っている人間が、立ったり座ったりして、上下させていたのだ。 全員、耳にイヤホーンを付けていた。イヤホーンを通して一人一人の動きを指令するのは簡単だが、実際に生身の人間がそれを行うのは大変だ。 体中に発光ダイオードをつけた男たちの見事な動きにも感心した。 北朝鮮のマスゲームも有名だが、こう言う統制の取れた動きは、全体主義国家でなければ出来ないことだ。 しかし、可愛い女の子が歌を歌ったのはいいが、口パクだったのは白けたな。 今日の、シドニー・モーニング・ヘラルドは「The Eighth Wonder of The World」という見出しで、開会式を讃めていた。(世界の七不思議にこの開会式を加えて、八番目の不思議。世界の七不思議に匹敵すると言う訳だが、昨日の意地の悪い記事と比べると、随分讃めた物だ。) この開会式で、世界中の北京・オリンピックに対する印象は好転しただろうか。 大会初日、早速日本の選手は負け続きだ。 外国に住んでいると、非常に愛国心が強くなる。日本選手の成績が悪いと、がっくりと落ち込む。 とにかく、日本選手全員、頑張ってくれ。
- 2008/08/08 - 北京オリンピック開幕 今日は北京オリンピックの開幕日。 パレスティナ問題を離れて、オリンピックをお祝いしましょう。 家の長女と次女は昨日早朝シドニーを出発し、途中シンガポールで中継ぎをして北京に夜到着した。 シンガポール空港から電話をかけてきて、空港の食堂で長男が薦めた「チキン・ライス」を食べた。長男の言うとおり、とても美味しかった、と言う報告があった。 次女は、次女の愛犬ポチが、出発前から具合が悪く、出発前日にも食べ物を戻したので、ひどく心配して、本当は北京に行きたくなかったのだが、ここで行かないというと、長女が怒るから仕方なく行く、と言う風情だった。 それで、ポチが元気かどうか、シンガポールから電話をかけてきたのだ。 娘たちは今日の開会式は見ることが出来ず、今日、明日は紫禁城、万里の長城を見て回り、10日に何か試合を見ることが出来るらしいが、何を見られるのかまだ分かっていない。オーストラリア人の団体だから、オーストラリアの選手の出場する試合を見られるのだろう。 今日のシドニー・モーニング・ヘラルドは第一面にでかでかと、万里の長城を走る聖火リレーの一行の写真を載せ、大きな活字で「The Great Pall of China」と見出しを付けている。 万里の長城は英語で「The Great Wall」という。 「Pall」とは、幕、とばり、特にお棺や霊柩車などにかける布、などの意味がある。 「The Great Wall」とかけて「The Great Pall」と言っているのである。 たしかに、その写真を見ると、全体に凄まじいスモッグに包まれている。そのスモッグを「Pall」に見立てたのだろう。 写真を見ると、スモッグの中を聖火リレーの走者が走っているのだが、長城のてっぺんの、人が歩ける10メートルくらいの幅の通路の両側には、黄色の帽子、黄色のシャツと言うユニフォーム姿の人間がびっしりと並び、黄色と赤に染められた長い布を振り回している。 その間の狭い空間を、護衛に囲まれた走者が走る。 その樣子もスモッグに包まれて、40メートルほど先はかすんで見えない。 写真の説明文に「Olympic torchbearers get lost in the smog....」と書いてある。 スモッグの中で、「get lost」とは「道に迷う」、「迷子になる」などと言う意味の言葉だ。まさか、道に迷うわけがないが、見ている方が、走者を見失う、ということは十分にあり得る。いや、実際、スモッグと異常な警備陣のせいで、一面半分を占める巨大な写真で見ても、誰が走者なんだか一目では分からない。 それにしても、この樣子は異常だ。 黄色の帽子、黄色のユニフォームを着た人間は、動員された人達だろう。 普通の市民ではあるまい。 この人間達が万里の長城を延々と埋め尽くしているのだ。 この人間の数だけで圧倒される。 聖火に近寄れるのは、このユニフォーム姿の人間達と、テレビカメラだけである。 一般の人間は誰も聖火を見ることが出来ない。 今回のオリンピックの聖火リレーは見ている方が気持ちが悪くなるほど、過剰な警備の中で行われた。 走るコースも秘密にされ、一般市民が近づけない様にし、こっそり走る。 最後の最後、北京に入る段階でも、このような、異常な警備の中で、一般人を遠ざけて行われる。 形だけ聖火リレーが行われれば、それで良いと中国は考えているのかも知れないが、世界中の人間は、こんな聖火リレーをみて、呆れ果てている。 こんな聖火リレーはオリンピック精神に反している。 反対派の妨害があるから仕方がない、と中国は言うのだろう。 それなら、いっそのこと聖火リレーは中止すれば良かったのだ。 この聖火リレーの異常さが、世界中の人々に中国に対していやな感情を抱かせた。 中国にとっては国威発揚のためのオリンピックだったのが、中国の問題点を大きく世界中にさらしてしまって、全くの逆効果だった。 これだけ、人々に祝福されないオリンピックは今までになかったのではないか。 今日のヘラルドの第一面の見出しが、世界中の人々が、中国に対してどんな感じを抱いているか、良く表している。 ある日本の新聞で、北京に行くと記者が周りの人間に言うと、「大丈夫か」「気をつけろよ」とか、まるで戦地に赴くかのように言われた、と書いてあった。 私達も、娘二人が、心配だ。 オリンピックのうきうきした、お祭り気分は全くない。 不思議なオリンピックだ。 昨夜、日本のサッカーがアメリカに負けてしまった。 一敗してしまえば、第一次予選を通過するのは難しい。 これで、今回のオリンピックでの日本のサッカーは終わりだ。 がっかりだ。 残るは、伊藤華英だ。 華英ちゃん、頑張ってくれ。 日頃の実力を出してくれればいいんだ。 力まずに、自然体でのびのびと泳ぐんだ。 結果は、自然についてくる。 シドニーの我々の気持ちは北京まで届いて、華英ちゃんの後押しをするぞ。 頑張れ、華英ちゃん!
- 2008/08/07 - パレスティナ問題 その16 パレスティナ問題は、イスラエルの建国によって始まった。 ローマ帝国によって、パレスティナの地から追放されて、世界中に離散していたユダヤ人が、1800年以上も経って、再び、パレスティナの地にイスラエルという国を建てたのだ。 1800年間とは長い長い年月である。 その間に、パレスティナの支配者は次々に入れ替わってきた。 近世に限って言えば、16世紀の初頭から、第一次大戦までの400年間、オスマントルコが支配し、1917年から、1948年まではイギリスが統治していた。 しかし、オスマントルコも含めて、7世紀中頃から、ずっとイスラム教徒がパレスティナを支配していた。 パレスティナには、は少数のキリスト教徒、ユダヤ教徒もいたが、7世紀から大多数がイスラム教徒でずっとアラブと一体化していたのだ。 そこに、19世紀半ば過ぎから盛上ってきたシオニズムに乗って、次々にユダヤ人たちが入植してきた。 ユダヤ人は、ロスチャイルドなど、海外の富裕なユダヤ人の援助によって、パレスティナの土地をアラブ人から買い集めていった。 パレスティナ人は、ユダヤ人たちはろくに字も読めず、諸般の事情に疎いアラブの老人から土地を買い上げた、などと批判する。 その批判の妥当性はともかく、アラブ人たちがユダヤ人がパレスティナの土地を手に入れて行った事に対して強い反感を持っていることが分かる。 その後、前述のように複雑な経過をたどって、1947年の国連のパレスティナ分割決議案を踏まえて1948年に、イスラエルが建国を宣言した。 モーセの後継者ヨシュアがパレスティナを征服したのは大体紀元前1240年頃とされている。 それから、紀元後135年に追放されるまで、ユダヤ人がパレスティナに住んでいたのは、約1400年間である。 それに比べて、追放後の不在期間1800年間は如何にも長い。 自分たちの先祖が暮らしていた1400年間を遙かに超える1800年間、その土地を不在にしたあと、一体何十代を経たか分からない遠い子孫が、その土地は祖先の土地だったから、我々の土地だ、と主張するのは無理がある。 しかも、その土地は、七世紀以降イスラム教徒であるアラブ人が住み続けてきた。 いや、イスラム教が成立する以前からアラブ人はそこに住んでいたのだから、アラブ人にとっては、パレスティナの地はユダヤ人が追放されて以来1800年間住み続けてきた自分たちの土地だという権利がある。 実際にユダヤ人が住んでいた1400年間より長い間住み続けてきたアラブ人たちが、パレスティナに対する居住権を主張するのは当然のことだ。 そのパレスティナに、1800年間の不在の後に、そこは我々の祖先の土地だったから、我々の物だ、といってシオニストたちがイスラエルという国を建国するのは無理がありすぎるのではないか。 1800年前以前の1400年間より、その後の現在につながる1800年間の方が、現在に生きる人間にとっては遙かに重みがある。 1800年間、不在にしておきながら、ここは祖先の土地だから我々の物だというシオニストの主張は、私には身勝手であると思える。 シオニストの主張の根拠となる物は、聖書だけである。 聖書で、神がパレスティナの地をイスラエルの民に与えると約束したから、という、ただそれだけである。 ただそれだけであると言っても、聖書の中に記された神の言葉だから、決定的な意味がある、とシオニストは言う。 ユダヤ教徒にとって、聖書は、現代の毎日の生活の中で生きている。 だから、その神の約束は、昨日された物のように生々しい。 しかし、ユダヤ教の聖書を信じない者にとって、その神の約束というのは理解できないことである。 シオニストはパレスティナをまるで住民の住んでいなかった土地であるかのように言う。 また、アラブ人は土地を放ったらかしにて、有効に使っていなかった。ユダヤ人が入植して、荒れ果てた土地を豊かな土地に変えたと言う。 それは、事実と違うだろう。 パレスティナには1800年以上も前からアラブ人が住んでいた。 アラブ人が自分たちの土地を有効に使っていたかどうか、それはアラブ人が決めればよいことで、有効に使っていなかったからユダヤ人が取り上げてそれを有効に使う方が、神の意に叶う、と言うのもイスラエル側の一方的な論理だ。 現代のイスラエルは、3000年以上前の、モーセとヨシュアが、多くの住民が住んでいるパレスティナに攻め込んで、その住民たちを滅ぼして自分たちの土地にしたのと同じことを繰返しているように、私には思える。 モーセとヨシュアのしたことは、神に祝福された。 イスラエルが、現在パレスティナでしていることも、神に嘉されているとユダヤ人たちは考えているのだろう。 一方、パレスティナ人たちも、自分たちのイスラム教は、最後の預言者ムハンマドによって与えられた教えであり、アブラハムの宗教を完成するもので、ユダヤ教徒も、キリスト教徒も、イスラムの教えに従うべきだと考えているから、一番正しいのは自分たちであり、従って、パレスティナは自分たちイスラム教徒が神から与えられたものだ、と強固に信じている。 パレスティナ問題の発端は、イスラエル建国にあるが、パレスティナ人、アラブ諸国にも、責任がある。 2008年4月30日の朝日新聞に掲載された、パレスティナ問題特集で使われた、歴史地図を転載させて貰う。(私は長い間の朝日新聞の購読者だ。シドニーにいてもOCSで取り寄せて購読している。週刊朝日も、AERAも、論座も購読している。これだけ、朝日新聞社に貢いでいるのだから、地図を転載するのを許して貰いたい) (写真はクリックすると大きくなります) この地図で1947年の国連分割決議によるものと、現在の状況を比較してみると、パレスティナ人の土地は縮小している。 パレスティナ人の多くは、追出され、ヨルダンに185万人、シリアに44万人、レバノンに40万人、難民として逃れ出ている。 これは、1948年にイスラエルが建国宣言をしたと同時に、エジプト・シリア・ヨルダン・レバノン・イラクが同国に侵攻した第1次中東戦争に起因する。 アラブ人・パレスティナ人たちは、1947年に国連決議に不満を持ち、戦いを始めたのだが、これが逆にパレスティナ人を追いつめ、上記のように、土地は奪われ縮小し、多くのパレスティナ人が難民として、逃れ出ることとなった。 イスラエルと、アラブ諸国との戦い、中東戦争は、1948年の第1次、1956年のエジプトのスエズ運河国有化宣言に伴う第2次、1967年の第3次、1973年の第4次と続くが、パレスティナ人の立場は弱くなる一方である。 パレスティナ問題はイスラエルの建国が第一の要因だが、イスラエル建国直後のこのアラブ諸国のしかけた第一次中東戦争が、現在に続くパレスティナ問題を決定づけた。 アラブ諸国は、余りに性急に乱暴に事をすすめた。 4次に渡る中東戦争を見ると、アラブ諸国の戦いのまずさがはっきりする。 イスラエルが緻密に、そして強靱に戦うのに比べて、アラブ諸国は情に任せて戦い、負けるとなるともろい。 いきなり戦争をしかけずに、外交努力を重ねて、国連や国際社会の支持を得るように動いたら、状況は変わったのではないだろうか。 第1次中東戦争をしかけた段階で、アラブ・パレスティナ側の今日に至る救いのない状態を招いた。 パレスティナ側にはもう一つ大きな問題があった。 それは、PLO(パレスティナ解放機構)とその指導者、アラファトだ。 (続きは、また明日)
- 2008/08/06 - パレスティナ問題 その15 コーランを開くと、114章の殆ど全てで、最後の審判の日について繰り返し語られている。 前回も取り上げたが、念のために今回も幾つか見てみよう。 アラーの教えに従って良い行いを重ねて来た人間は、 「信仰を抱き、かつ善行をなす人々に向かっては喜びの音信(たより)を告げ知らしてやるがよい。彼らはやがて潺々と河水流れる緑園に赴くであろうことを。その緑園の果実を日々の糧として供されるとき彼らは言うであろう。『これは以前に(地上で)私たちの食べていたものとそっくりでございます』と。それほど良く似たものを食べさせていただけるうえに、清浄無垢の妻たちをあてがわれ、そこにそうして永遠に住まうことであろうぞ」(第2章 第23節) もうひとつ、どうぞ。 「(前略)誠実一筋のアラーの僕は違う。そういう人々だけは、例のおいしい食べ物を頂戴できる。(中略)側に侍るは眼差しもしとやかな乙女ら。眼ぱっちりした美人ぞろいで、体はまるで砂に隠れた卵さながら(ダチョウの卵のことで、純白にうっすら黄色みを帯びたダチョウの卵は最上の女性の体を思わせるのだそうだ)」(第37章 第39節、第47節) 行いの正しかった者は素晴らしい天国に迎えられ、そこで美しい乙女たちを妻としてあてがわれるのだという。(結婚している男性の場合、妻はどうなるのだろう。妻は天国に連れて行けないのかしら。 それに、女性の信者の場合は、どうなるんだろうね。 若い美男子たちがあてがわれるのだろうか。あ、どうも不謹慎なことを言ってしまったかな。しかし、ユダヤ教もそうだが、イスラム教も非常に男性優位の思想がみなぎっているように、私には思えるのだ。) で、行いの悪かった者はどうなるかというと、 「(不信心な者達は、最後の審判の日に復活すると聞かされて)『おい、俺たちが骨になり、ばらばらのかけらになってしまったあとで、え、おい、そのあとでも、も一度生まれて生き返るんだって』と彼らは言う。 (骨どころか)石になろうが鉄になろうが、それとも何かお前たち自分で想像できるかぎりのものになろうが(アラーは必ず復活させ給う)と言ってやるがよい」(第17章 第52節、第53節) そして、 「いまに、復活の日が来たら、彼ら(不信心な者たち)みんなを召し寄せて、顔で歩かせてくれようぞ(さかさにして、足の代わりに顔で歩かせてやる)。目も見えず、口もきけず、耳もきこえず、落ち行く先はジャハンナム(ゲヘナ、地獄の火)。火力が弱まる度にまた新しく焚きつけてやる。これが当然の報いというもの。」(第17章 第99節) と、至る所で、最後の審判の日の恐ろしさを繰返し説く。 実は私は、小学校の頃から、ルーテル教会の日曜学校に通わされて、キリスト教を信ずるようになった。しかし、十九歳の時に、キリスト教を捨て、それ以後一切の宗教を信ずることが出来ないのだが、それでも、子供の時に教えられた、最後の審判の日の恐怖は、今でもそのかけらが残っていて、ときどき「ああ、俺なんか、こんなことをしていると最後の審判の日には地獄行きだな」などと、ふと思ったりするから恐ろしい。 この最後の審判の日の恐ろしさを叩き込まれると、人間、神から離れるのが怖くなる。 イスラム教徒の世界を見ると、幼稚園児くらいから、コーランを教え込む。 それも、体を前後に揺すりながら、コーランを読むように仕込まれる。 この、体を揺するというのは大変に効果的で、単に読むより体を動かすから、教えが身にしみ、心にしみこむのだ。 子供の頃に叩き込まれた、最後の審判の日の恐ろしさは、イスラム教を捨てない限り、終生イスラム教徒を縛り付けるだろう。 問題は、この最後の審判の日に、イスラム教を信じない者はみんな地獄に落ちる、劫火に焼かれる、と言うところだ。 イスラム教を信じない者は、無信仰の者も勿論、ユダヤ教徒、キリスト教徒も入る。 ユダヤ教徒、キリスト教徒は、コーランでは同じアブラハムの神を信じる者として啓典の民として、他の多神教の信者や、全く信仰を持たない者よりは、扱いが上なのだが、ユダヤ教徒もキリスト教徒も、イスラムの教えを受け入れないので、やはり、最後の審判の日には、裁かれるとした。 「『キリスト教徒には根拠がない』とユダヤ教徒は言う。所がキリスト教徒の方でも『ユダヤ人には根拠がない』と言う。ともに聖典を読んでいるくせに。また(啓示というものを全然)知らない連中もこれに類することを言っている。いずれ復活の日にアラーが彼らの論争に判決をお下しなさるであろうぞ」(第2章 第107節) この、イスラム教を信じる者以外は全て最後の審判の日に裁かれるという、この教えがイスラム教のイスラム教徒以外に対する非寛容の態度を作った。 さらに、コーランでは、 「汝らに戦いを挑むものがあれば、アラーの道において(『聖戦』すなわち宗教のための戦いの道において)堂々とこれを迎え撃つがよい。」 「向こうからお前たちにしかけて来た時は、構わんから殺してしまえ。信仰なき者どもにはそれが相応の報いというもの」 「(前略)宗教が全くアラーの(宗教)ただ一筋になる時まで彼らを相手に戦い抜け。」(第2章 第186節から第189節) 「戦うことは汝らに課された義務じゃ。さぞ厭であろうけれど。」(第2章 第212節) 「アラーの道に戦う者は、戦死してもまた凱旋しても、我らがきっと大きな褒美を授けてやろうぞ」(第4章 第76節) と、イスラム教のために戦う聖戦を義務づけ、その戦いで死んでも、大きな褒美(天国に迎えられること)を授けてやる、と言う。 イスラム教の特徴として イスラム教徒以外は最後の審判の日に地獄に落ちる。 イスラム教を守るために、イスラム教に挑む者は殺さなければならない。 イスラム教のために戦う聖戦はイスラム教徒の義務である。 と言う所が、あるのは明かだろう。 最後の審判の日の恐ろしさが、この教えを固く守る態度をイスラム教徒に取らせる。 一方のユダヤ教も、「カナンの地に住む多くの住民は神に背いたから滅ぼしてその地をイスラエルの民は奪って住め」と言うほど、異教徒には非寛容である。 今、パレスティナで争っている、ユダヤ人、パレスティナ人、共にかくの如く互いに非寛容で、攻撃的な宗教を原理として行動している。 これでは、いくら和平会議を開いたところで、和平が成立するわけがない。 パレスティナ問題は、結局はユダヤ教とイスラム教の争いだ。 宗教の争いだから、ここまでこじれてしまったのだ。 これが、パレスティナ問題の一番の根元なのだ。 (つづきは、また明日)
- 2008/08/05 - 嬉しい話 昨日はとても嬉しいことがあった。 十年以上のつきあいである、シドニーのフランス料理のシェフ、犬飼春信さんが、自分のレストランを開くことになって、その報せが届いた。 犬飼さんは、シドニーで洒落たブティック・ホテルとして人気のある、Observatory Hotelのレストランのシェフ勤め、このレストランを、シドニー・モーニング・ヘラルド紙のレストラン評論で帽子1つを取るまでに育て上げた。 シドニーでは、このヘラルドのレストラン評論は権威があって、毎年、ヘラルドがその年のガイドブック、「Good Food Guide」を出す頃になると、レストラン関係者は胃が痛くなると言う。 3つ帽子が最高点だが、帽子を3つ取る店は、シドニー中で7店しかない。 帽子が1つ取れただけで大成功で、自力で1つ取ると、シェフとしてもレストランとしても一流の扱いを受ける。 Observatory Hotelとしても、犬飼さんの貢献でレストランが1つ帽子を取ったことで、ホテル自体の評価も一層高まった。 だから、ホテルも犬飼さんを離したがらず、最後には後継者を連れてきてくれ、と言うことになった。犬飼さんは日本の後輩を連れてきて試験をさせて、ホテルはその日本人シェフを気にいり、後継者として据え、めでたく犬飼さんは独立できたと言う経緯らしい。 犬飼さんの料理は、基本はフランス料理だが、それと日本の味わいを融合させた物で、なかなか、独創的で楽しい料理だ。基本がしっかりしているので、新しいことを試みても安心だ。 シドニーには和久田哲也さんの「Tetsuya's」という世界のレストランのベストテンに選ばれ続けている、凄い店がある。 この、テツヤ・レストランは世界中から美味しい物を求める、食いしん坊の人々が集まってきて、百五十人くらい客席のある店が、連日満員で、予約は5ヶ月くらい先まで一杯という状態が何年も続いている。 犬飼さんも、和久田哲也さんの成功を追って、素晴らしい店を作ってくれることを信じている。 ホテルの時より、料金を低めに設定して、利用しやすくする、と言う。 それも、今の時代に、初めて自分の店を開くのには賢明だろう。 味は、私が太鼓判を押す。 シドニーに来る機会があったら、是非立ち寄って、食都シドニーの美味を楽しんでいただきたい。 犬飼さんの、新しい店の名前は「blancharu」。 フランス語で白いと言う言う意味の「blanche」と自分の名前の「はるのぶ」とを結びつけた名前だという。「白いお皿に自分の思いますが伝えたい」と言う気持ちを表しているのだそうだ。 場所は、ポッツ・ポイントと言って、シドニーではお洒落な町として知られている。キングス・クロスの近くだが、上品で高級な店の並ぶ町だ。 「blancharu」 Shop1,21 Elizabeth Bay Road, Elizabeth Bay NSW Tel: 61-2-9630-3555 シドニーにお出での節は是非、どうぞ。 日本人が外国で活躍しているのを見るのは、嬉しい物だ。 レストランの話など書いたら、今日は、息苦しいパレスティナ問題について書く気が起こらなくなった。 何か楽しい話をしたいところだ。 以前にも書いたと思うが長女がビザ・カードの抽選に当たって、北京オリンピックの観戦ツアーに参加することになった。 次女を連れて、女の子二人で、今週の木曜日から出発する。 オリンピックの試合を見るのは一日だけで、万里の長城見学、紫禁城見学などをするようだ。 長女は北京には以前、私と私の姉と一緒に行ったことがあり、その時の印象が余り良くなかったらしい。 たしかに、その時は、随分念入りに選んだつもりだったが、行くレストラン、行くレストラン皆外れで、私も「一体中国人はどうなっちゃったんだ。北京でこんなまずい思いをしたことはない」と呆れた。 既にその時(四年前か)空気はひどく悪く、四十メートル先はかすんでよく見えない。店やホテルの人達の態度も荒々しく、その前に韓国で大変楽しい思いをし、韓国の人々に親切にして貰ったので、余計にその落差を感じて、落胆した覚えがある。 空気は、その時以上に悪くなっているそうだ。 最近、アメリカの保険衛生局だったかな、日本の厚生労働省のような機関が、「北京に一週間から二週間いると、大気中の微粒子のせいで肺での酸素取り入れが上手く行かず、結果的に血液が汚れて、どろどろになる。 その状態で十二時間以上飛行機に乗ると、エコノミー・症候群を引き起こす」と発表した。 また、アメリカのオリンピック委員会は、参加する選手団600人全員に悪い空気を吸わないためのマスクを配ると決定した。 選手団は、そのマスクをつけて開会式に出るのかしら。 そんなことをしたら、中国は面子丸つぶれだと言って怒るだろうな。 しかも、最近中国で暴動や、テロ爆発が起こっている。 そんなニュースを読むと、娘たちが北京に行くのが心配になってくる。 長女はあっけらかんとした物で「そういうもんでしょう。しょうがないわよ」などと、言う。 ま、私も心配しても仕方がないと思うが、ふと考えてみて、こんなオリンピックは前代未聞だと思った。 聖火リレーだって、人目につかないように厳重な警戒の下に、ウソのように形だけ行った。そんな形だけの聖火リレーなんて、何の意味があるのだろうと、世界の大部分の人が首をかしげた。オリンピック競技場の周りには地対空ミサイルが配備されているという。 大気汚染、土壌汚染、食物汚染、政治不安、そしてテロの危険、中国政府の厳しい締め付け。 中国は、何が何でもオリンピックを成功させることで国威発揚を願っているようだが、これまでの所、逆効果だった。 中国の抱える問題を、世界中にさらけ出してしまった。 オリンピックの後どうなるのかな。 観光客が増えるとは思えないな。 あ、楽しい話をしたかったのに、また変な話をしてしまった。 暗い話は厭だな。 明るく楽しい話をするように心がけよう。
- 2008/08/04 - パレスティナ問題 その14 赤塚不二夫さんが亡くなった。 私の家では、赤塚不二夫の漫画の主人公が今でも人気者だ。 連れ合いは、ニャロメやケムンパスを描くのが上手い。 「おでかけですか、れ、れ、れのれー」とか「シェーッ!」というのは我が家の日常用語である。 二十数年前に二度ほど、新宿でお会いしたことがある。大変にお酒を召し上がっていて、顔をくしゃくしゃにして笑っていた。 若い編集者が、マジックインキで顔に悪戯書きをしても、喜んで笑っていた。 「家のマネージャーがさあ、2億円懐に入れちゃったんだよ。いくら稼いでも、稼いでも、全然お金がないからおかしいなあと思ってたら、奴が使っちゃってたんだよ」 と仰言るから、 「警察に届けたんですか。お金を取り戻せたんですか」 とお尋ねすると、無邪気に笑って 「いやあ、しょうがないよお。そのまんまだよお」と仰言る。 当時の2億円と言えば、今だったら5億円以上の価値が有るのではないか。 それだけ、信頼しているマネージャーに横領されたのに、何か面白い事でもあったように、笑っている。 私のような小人物とはけたが違った。 なんとも、天真爛漫な方だった。 いま、赤塚不二夫さんのような、心が温かくなるような、しかも、爆発的に面白いギャグマンガを描く漫画家がいない。 二人と無い天才だった。 残念だ。 気分を入れ替えて、パレスティナ人の宗教、イスラムについて考えて見よう。 イスラム教は、ムハンマドが40歳の頃、610年に、突然神の啓示を受けた事から始まる。 最初は、ムハンマド自身、それが唯一神アラーのお告げとは信じられずに、苦悩するが、ムハンマドの妻、ハリージャが最初にムハンマドが受けたのは本当にアラーのお告げだと信じ、最初の信者になった。 ムハンマドはアラーの神を信ずる宗教(後にイスラム教と言うようになる)を宣教し始める。メッカの住民には馬鹿にされ迫害されて、ムハンマドはメディナに移り、そこで布教に成功し、イスラムの信仰を実践する共同体(ウンマ)を作り、メディナからユダヤ教徒を追い払い、アラブの部族を教化して、勢力を広げ、ついにメッカも征服する。 ムハンマドは、アラーの神の啓示を伝える預言者としてだけでなく、政治的指導者としての力も発揮して、亡くなる632年までに、アラビア半島の殆ど全てをイスラム教の信仰で統一した。 その後のイスラム教の発展、変遷、などの歴史は極めて入り組んでいてとても一口には語れない。 イスラム教と、イスラム教国家の歴史は色々な本があるのでそれを読んでいただくとして、ここでは、イスラム教とはどんな物なのか、その本質を考えることにする。 私が最初、イスラム教の経典、コーランを読んだとき、はてこれは読んだことがある、と思った。 内容が、ユダヤ教の聖書(キリスト教の旧約聖書)と、新約聖書に良く似ている。 というより、ユダヤ教の聖書の要点をもう一度語り直しているように思った。 それも、そのはずで、イスラム教の神アラーは、ユダヤ教、キリスト教の神と同じエホバ(ヤーフェ)なのである。 コーランでは、イスラム的一神教を「アブラハムの宗教」という。 アラーは、アブラハムの神なのだ。 アブラハムの神に、イスラム教の源泉がある。 要するに、世界の最初から唯一の神の支配が続いていて、それが「永遠の宗教」、「アブラハムの宗教」であり、それが、ユダヤ教、キリスト教と経て、神はムハンマドを最後の預言者として教えを与え、イスラム教で「アブラハムの宗教」「永遠の宗教」が完成する、と言うのが、イスラム教の考えである。 この「永遠の宗教」を初めて信じたのがアブラハムだから、イスラム教は「アブラハムの宗教」というわけである。 イスラム教にとって、ユダヤ教、キリスト教は、イスラム教の前段階と考えられる。 神は、最初、アブラハムやモーセという預言者たちに、神の言葉を伝えた(旧約聖書 ユダヤ教)。しかし、人間は良くならない。そこで、イエスを預言者として、神の言葉を伝えた(新約聖書 キリスト教)。しかし、それでも人間は良くならず社会も良くならない。 そこで、最後の預言者としてムハンマドを選び、真の神の言葉を伝えた。 それがコーランであり、その教えによるものがイスラム教、と言うわけである。 コーランを読むと分かるが、ユダヤ教、キリスト教、もイスラム教の前段階のものとしてイスラム教に含まれている。 アブラハムは、イブラヒーム、モーセはムーサ、イエスはイーサーとして登場する。 イスラム教の考えから行くと、それまで何人もの預言者が出たが、ムハンマドが最後の預言者だから、ムハンマドの教えが、一番正しい。 ユダヤ教徒も、キリスト教徒も、イスラム教に従うべきだと、イスラム教徒は考える。 イスラム教はユダヤ教もキリスト教もイスラム教に先立つものとして認めていて、それを一番良くしたのがイスラム教だと言う。 要するに、神はアブラハムの時からのただひとつの神であり、その間に、ユダヤ教、キリスト教があって、最後にイスラム教が来る、と言う。 ムハンマドは、最初はユダヤ教徒もイスラム教えを受け入れるだろうと考えていたようだが、ユダヤ教は、キリストも認めない。ムハンマドが最後の預言者だと言っても認めるわけがない。 そこで、イスラム教はユダヤ教を排するようになる。 キリスト教もイスラムの教えを受け入れないので、キリスト教も排するようになる。 このあたりの事をコーランで見てみよう。 コーランは全部で114章から成り立ったいる。 各章はそれぞれ、「開扉」、「牝牛」、「イムラーン一家」、「女」、「食卓」などと名前が付いている。「開扉」を除いてその名前と各章の内容とはあまり密接な関係はないようである。 その第2章「牝牛」の第133節でアラーは次のように言う。 「(ユダヤ教徒やキリスト教徒に)言ってやるがよい。お前たち、アラーのことで我々と言い争いをしようというのか。アラーは我々の神様でもあれば、お前たちの神様でもあるものを」(筒井俊彦訳 岩波文庫) 第131節では、 「そこでもし彼ら(ユダヤ教徒やキリスト教徒)が汝らと同じ信仰に入るなら、彼らも正しい道に踏込んだというもの。だがもしそれに背を向けるなら、明らかに仲間割れの徒」 と言っている。 明らかに、イスラム教は、ユダヤ教徒キリスト教に続くもので、しかも、最終的に一番正しい宗教である、とイスラム教は考えているのである。 同じ一神教であり、授かった神の言葉(啓典)を信じているので、ユダヤ教徒もキリスト教徒も、同じ啓典の民としてイスラム教徒は扱う。 この預言者を通して神に授かった言葉に従うと言うのが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の特徴である。 イスラム教によれば、天国に大元の聖書があって、その内容が預言者に伝えられたと言う。 仏教にはその様な預言者などと言う物は存在しないし、神に与えられた言葉と言う物も存在しない。 釈迦は、考えに考え苦しんだ挙げ句に悟りを開いた。 仏教の要諦は、釈迦の開いた悟りを、教えるものだ。 イスラム教徒にはその様な宗教は人間の言葉だから意味がない。 預言者を通して与えられた神の言葉でなければ意味がないのだ。 ユダヤ教の聖書(旧約聖書)はユダヤ民族の歴史の流れを語る、物語となっている。 新約聖書は、イエスの教えの道筋をたどる物語となっている。 旧約聖書も新約聖書も物語性に富んでいる。 しかし、コーランは一貫した物語性というものがない。 何か一つの事柄毎に、アラーの教えが語られる形になっている。 それも、その教えの基本はアブラハムの宗教だから、旧約聖書の教えと重なる部分が非常に多い。 ただ、コーランの一番大きな特徴は、終末論がその基盤をなしているということだ。 この世の終わりの日は必ず来る。今日か明日か、更に何年先か、それは分からないが、必ず終末の日が来る。 その日には、死者は復活し、神による厳しい裁きを受けて、アラーの教えを正しく守ったものは天国に迎えられ、背いたものは地獄に堕ちて罰を受ける。 コーランでは、繰り返し繰り返し、この最後審判について語られる。 それも、その表現が、極めて具体的で、恐ろしい。 ちょっと長いが、第70章の第8節から第15節までを、見てみよう。 最後の日には 「大空は溶けてどろどろの銅のごとく、山々は色とりどりに(風に吹き散る)羊毛のごとくなる日、もはや親しい友も友の安否を問いはすまい、たとい顔つきあわせて眺め合ったとて(他人のことなどかまっていられない)罪を犯した者は、もしこの日の罰さえ免れることができるなら、己が息子、己が伴侶(妻)、己が兄弟、己れを庇ってくれるた親戚縁者はおろか、地上の人間そっくりそのままでも差し出しかねない気持ちであろう。それでもし自分が救われるものならば。 だが、そうは行くものか。ほれ、ぼうぼう火が燃える。頭の皮を剥ぎ取ろうとて、尻込みし、逃げ出す者を呼んでいる」 どうも、大変に恐ろしいが、コーランは旧約聖書や新約聖書には見られない、この恐ろしい最期の審判の日についてのおどろおどろしい場面を、繰り返し、なまなましく表現している。 イスラム教の特徴は、この終末論にあり、イスラム教が極めて強烈なのもその終末論に支えられているからだと思う。 さらに、この終末論にもう一つの要素が入っている。 それが、パレスティナ問題を難しくしている要因の一つなのだ。 それについては、また明日。
- 2008/08/03 - 今日も、また失敗 今日もまた大失敗。 痛み止めの件を医者に相談したら、医者が別の痛み止めを出してくれた。 リハビリの前にそれを飲んだところ、頭がぼーっとするどころではない。 ぐらんぐらん、となって、胸が苦しくなり、気持ちが悪くなった。 運動も途中でやめてしまった。 それでは、何のための痛み止めか分からない。 もう、ぐったりとなって、ベッドに横になって、気持ち悪さに耐えるのが精一杯。 調べてみたら、一錠あたりにコデインが30ミリグラム、入っている。それを二錠飲んだから、コデインを60ミリグラム取ったことになる。 これは、いくら何でも多すぎるのではないか。 馬みたいに体の大きいオーストラリア人なら二錠で良いのだろうが、やはり体の小さい日本人に二錠はきつすぎたようだ。 それとも、私の体が、モルヒネ系の薬に異常反応するようになってしまったのだろうか。 コデインは、アヘンのアルカロイドで、モルヒネのメチル化合物。 コデインは咳止めに入っている。このコデイン欲しさに、咳止めを大量に買う人がいると言うが、こんなコデインみたいなものを何故欲しがるのか、分からない。薬物に中毒する人は、特殊な体質の持ち主なのではないだろうかと、思ってしまう。 何故痛み止めを飲むのか。 骨の医者は、運動を続けていれば、骨が丈夫になって痛みが軽減する。 しかし、痛みがひどいと運動が十分に出来ない。 だから、痛みがひどい間は痛み止めを飲んで、とにかく運動を続けることが必要だ。骨が丈夫になれば、痛み止めも必要なくなるだろう。 それまでは痛み止めを飲め、と言う。 痛み止めを飲んでまで、骨を強くする運動を続けなければならない。 ここが、厳しいところだ。 とにかく、今日は、午後一杯棒に振ってしまった。 本を読む気にもなれない。 参りました。 ユダヤ教だのイスラム教だのについて、余計なことを書いているので、彼らの神がシドニーまで私に罰を与えに来たのかな。 桑原、桑原。 てな訳で、本日は休業。 イスラム教などについては、また明日。
- 2008/08/02 - 私も犬も、痛み止めに弱い〈「シドニー子育て記」に「第一章 その5」を掲載しました〉 今日は大失敗。 リハビリをするのに、久し振りに痛み止めを飲んでみたら、頭がぼーっとして、眠くてだるくなり、物を考える気力が失せてしまった。 どろーんと、体中の力が抜けた感じだ。 もしかしたら、麻薬中毒患者は、この感じを気持ち良いと感じるのかも知れない。 今日は、イスラム教のことを考えるつもりだったが、こんな頭の状態で、おかしな事を書いたら、大変なので、明日に延期する。 代わりに、「シドニー子育て記」に「第一章 その5」を追加したので、それでも読んで下さい。 私の家の14歳の犬、ラブラドールのポチが、歳のせいで歩くときに脚を痛がるようになったので、獣医の次女が痛み止めを飲ませたところ、すいすいと歩くようになったのだが、その薬が胃に来たようで、食べた物を戻すようになってしまい、次女は自分の勤めている動物病院に入院させた。 ううむ、痛み止めが、体に合わない所など、私に同じではないか。 飼い主に似たのかな。 次女は、このポチの面倒を見たいが為に獣医になってしまったので、ポチの具合が悪いとなると、半狂乱になる。 吐いて食べられないので、点滴をするために入院したのだが、次女は家にいても心ここにあらずという感じで、ついに、夜、寝袋を持って病院に行ってしまった。病院は、夜になると人がいなくなるのでポチが心細がって泣いている、と言うのである。 ポチは、入院犬の為のケージの中に入っているのだが、次女はそのケージの前の床に寝袋をおいて寝た。 まったく、そこまでするのかね、と私はあきれた。 朝、看護婦が来たので、後を託して家に帰ってきた。 午後、また病院に戻り、ポチを連れて戻ってきた。 ポチは、年齢のせいもあるのだろうが、ひどくやつれて見えた。 私達家族の心配は、ポチに何かがあったら、次女はどうなるのだろうと言うことだ。長女は、その時には絶対に家にいたくないと言う。 私もいやだ。 しかし、動物であるからには寿命という物がある。 ラブラドールの平均寿命をポチは既に越えている。 私達家族は、はらはらしながら、ポチの樣子を見ているのである。 私達人間は犬を飼っているつもりだが、結局犬に飼われているのではないか。 そんな気がする。 痛みを止めようと痛み止めを飲むと、副作用が辛いのは、人間も犬も同じことなのだ。人間も犬も、生きるのは大変なことですよ。
- 2008/08/01 - パレスティナ問題 その13 月日が経つのは早いもんですなあ。 あっという間に、八月になってしまった。今年も残りわずかになりました。 もうじきお正月だ。 ところで、シドニー総領事「粗」さんのお名前の読み方。 皆さん、分かりましたか。 ある読者は、「懸詞で、『もらさず』となっていて、困っています」という回答を下さった。なんで、困るんだろうねえ。 で、正解の発表です。総領事は外交官だから、ここでお名前出しても構いませんよね。 在留証明書なんかに馬鹿高い料金を取ったんだから、このくらい我慢してくださいね。 で、何とお読みするかというと、「ほぼ」さんです。 これは、難しいよね。私も、難読地名辞典はすぐ手元にあるのだが、難読人名辞典がどう言う訳か行方不明。よって、辞典で調べることは出来ないが、これは、難読人名の中でも、最右翼だろう。 難しい字を使うのなら、読み方も難しいのは分かる。 しかし、「粗」という字は当用漢字にもあるだろう。一般的な漢字だけに、余計にこの読み方が難しい。 恐れ入りました。 さて、聖書の続きに行こう。 私は、最初、神がアブラハムやイスラエル、イサクなどに、カナンの地を与えると言ったと聞いた時、そのカナンの地というのは、例えばエデンの園のように、素晴らしい土地だが、神が特別にユダヤ人のために取って置いてくれた手つかずの、誰も今までに人が入ったことのないまっさらの土地だと思った。 ところが、聖書を読んでみると、なんと、神がアブラハムに与えると言った段階で、既にそこには、他の民族が住んでいるではないか。 例えば、あなたが誰かに、あの土地をあげますよと言われたとする。 喜んでその土地に行ってみると、そこには既に前からの住民が住んでいた。 それと同じことだ。 神はモーセにも、カナンの地を与えるという。 要するに、カナンの土地に住んでいる住民を滅ぼして、その土地を取れ。 神はイスラエルの民に味方して、応援してやる、とこう言うわけだ。 どうして神がそんなことをするのかというと、 「この国々の民が神に逆らうから、主があなたの前から彼らを追い払われるのである(申命記 第9章)」なのだそうだ。 これでは、先住民族に救いはない。神が追い払えというのだから、イスラエルの民は当然神の言う事に従うまでである。 イスラエルの民は神が選んでくれた民族だから、先住民を追い払って良いのである。 神の助力を得て、カナンの地に侵入し、その地の先住の民族を滅ぼして、その土地をイスラエルのものにする。 この、基本的な構造は、現在のイスラエルのあり方にそっくりだ。 1948年の建国以来、アラブ人たちが攻撃を仕掛けたとは言え、その後どんどんアラブ人を追いつめ、ガザと、ヨルダン川西岸に閉じこめてしまった。 三千数百年前と同じことを、現在のイスラエルはしている。 そう、思えてならない。 カナンの地は、イスラエルの民が自分たちで攻め込んで先住民を滅ぼして獲得しなければならないのだから、イスラエルの民は極めて好戦的である。 カナンに向かう途中でも、幾つもの部族と戦う。 ネゲブに住むカナン人とイスラエルの民は戦ってその町々を絶滅させ、そこの名をホルマ(絶滅)と呼んだ。(民数記 第21章) このとき、 「イスラエルは主に誓いを立てて『この民をわたしの手に渡してくださるならば、かならず彼らの町を絶滅させます』と言った。主はイスラエルの言葉を聞き入れ、カナン人を渡された」(民数記 第21章) とある。 実に、神は徹底的にイスラエルの味方なのである。 しかし、必ず絶滅させますと神に誓うとは、凄い物だ。そして、町の名前を「絶滅」とするなんて。 イスラエルは、アモリ人の王シホンにその領内を通過させてくれるように頼んだが、シホンはそれを許さず、全軍を出してイスラエルと戦う。 しかし、イスラエルは、シホンを剣にかけ、その領土全てを占領する。 こうして、イスラエルの民はアモリ人の地に住む。(民数記 第21章) イスラエルの民は、カナンの土地に進むまで、まだまだ戦う。 モーセは神に命じられて、イスラエルの民に異教の神を拝むことを教えたメディアンを滅ぼす。 「彼らは(イスラエルの兵士たち)は主がモーセに命じられたとおり、ミディアン人と戦い、男子を皆殺しにした。(中略)イスラエルの人々はミディアン人の女と子供を捕虜にし、家畜や財産、富のすべてを奪いとり、彼らの町々、村落や宿営地に火をつけて、ことごとく焼き払った。」 こうして、戦利品と女子供の捕虜を連れて帰ると、モーセは軍の指揮官たち、千人隊長、百人隊長に向かって怒り、彼らにこう言う。 「女たちを皆、生かしておいたのか。(中略)直ちに、子供たちのうち、男の子は皆、殺せ。男と寝て男を知っている女も皆、殺せ。女のうち、まだ男と寝ず、男を知らない娘は、あなた達のために生かしておくがよい」(民数記 第31章) 神はモーセに言う。 「捕虜として分捕った人間と家畜の数を調べ、分捕ったものを戦いに出た勇士と共同体全体とに折半しなさい」(民数記 第31章) この章を読んだときの私の驚きをなんと表現したらよいのだろう。 異教の神を信じる異教徒は徹底的に皆殺しにして、財産も何も奪いつくし、家も焼き尽くし、男も女も子供まで皆殺しにし、男を知らない娘は自分たちのために取っておく。 しかも、神は、分捕ったものは皆で山分けにしろと言う。 これが、聖なる書、聖書か。 この残虐さ、冷酷さ。 現在のイスラエルのユダヤ人たちが、聖書のこう言う個所を行動規範としているとしたら、恐ろしいことだ。 「エリコに近いヨルダン川の対岸の平野で主はモーセに仰せになった。 イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。ヨルダン川を渡ってカナンの土地に入るときは、あなた達の前から、その土地の住民をすべて追い払い、すべての石像と鋳像を粉砕し、異教の祭壇をことごとく壊しなさい。あなた達をその土地を得て、そこに住みなさい」(民数記 第33章) さらに、ここで、神はモーセにイスラエルの民のものとなる土地の範囲を示す。 現在のイスラエルは、聖書の示すとおりの土地は自分たちのものだと主張しているのだ。 モーセは神の言葉として、これからイスラエルの民が行って所有する土地に住む多くの民を 「あなたの前から追い払い、あなたの意のままにあしらわせ、あなたが彼らを撃つときは、彼らを必ず滅ぼし尽くさねばならない。彼らと協定を結んではならず、彼らを憐れんではならない。」(申命記 第7章) という。 神はモーセの従者ヌンの息子、ヨシュアをモーセの後継者に任命する。 モーセはカナンの地を前にしてモアブで死ぬ。 死ぬ前に、神はイスラエルの民に与えたカナンの地をモーセに見せる。 モーセの後継者、ヨシュアはついにイスラエルの民を率いてヨルダン川を渡り、エリコの町を攻めて陥れる。 エリコの町に攻め入るときの樣子は、次の通りである。 イスラエルの民はエリコの町の城壁の周りを回り、 「角笛が鳴り渡ると、民は鬨(とき)の声を上げた。民が角笛の音を聞いて、一斉に鬨の声を上げると、城壁が崩れ落ち、民はそれぞれ、その場から町に突入し、この町を占領した。彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした」(ヨシュア記 第6章) これを、手始めに、イスラエルの民は先住の民を次々に滅ぼして行って、ついにカナン全域を支配する。 この後、聖書は、イスラエル王国の成立、ダビデ王、ソロモン王、などの話を続けるが、私はパレスティナ問題を考えるときに、このヨシュア記までを読んでおけば十分だと思う。 ここに、シオニズムの基礎があるし、現在のイスラエルの建国の精神もある。 パレスティナ問題でイスラエル側の持つ問題点は全て、このヨシュア記までにある。 極く簡単に、まとめると、次のようになる。 神は、イスラエルの民にカナンの土地を与えると約束した。 しかし、カナンの土地には既に多くの民が住んでいた。 神はその先住民が神に逆らうから追い払うのだという。 その言葉が、イスラエルの民が、カナンに攻め込んでその土地を奪うことを正当化する。 神の命令どおり、イスラエルの民はカナンの地に攻め込み、多くの民を滅ぼし尽くして、カナンの地を自分たちのものとする。 現在のイスラエルは、三千数百年前に、モーセとその後継者ヨシュアがしたことを、再び行っている、と私には思える。 それが、パレスティナ問題の根本的な原因だ。 詰まるところ、パレスティナ問題はユダヤ教の教えその物に根ざしている。 問題の根は、ユダヤ教という宗教だ。 現在のイスラエルが、聖書に書かれた、モーセやヨシュアのように他民族に対するとしたら、これは、どうにもパレスティナ問題は解決のしようがないではないか。 では、イスラエル人に敵対するアラブ人の信仰する、イスラム教はどんな宗教なのだろう。 この続きは、また明日。
- 2008/07/31 - 川上馨さん、追悼 昨日、悲しい知らせが入ってきた。 私は二十数年前から、「酒仙の会」という日本酒愛好家の会に入っている。 「美味しんぼ」にも酒仙の会のことには書いたからご存知の方もおられるかと思う。 二十数年前、地方の日本酒の良さを発見する動きが盛んになったが、その先鞭をつけたのが「酒仙の会」だと思う。 日本酒の世界では、第二次大戦中に軍の要請で始めた、少量の米でとにかく酒らしい物を作る、という三倍醸造酒(通称三増酒という)がいまだにはびこっていて、なんと、その様なまがい物を普通酒という。 純米酒や、純米吟醸酒は特定名称酒となっているから驚く。 まがい物が普通で、本物が特定酒と来たのでは、何もかも逆さまだ。 そんなことをしているから、テレビで紙箱入りの酒などを宣伝している大手の酒造会社は売り上げが下がっていって困っているのだ。 フランスのワインでも、本物のシングルモルトウィスキーでも何でも手に入る世の中に、何が悲しくて、あの臭くてまずい三増酒を若い人間が飲むかと言うのだ。 しかし、地方の造り酒屋では頑固に、米だけしか使わない純米酒を造り続けている所が幾つもある。 そういう造り酒屋は、テレビなんかで宣伝しなくても酒好きの間に口伝えに名前が広がって行って、経営も安定し、むしろ注文に追いつかないところも少なくない。 「酒仙の会」はそのような、本物の酒作りをしている蔵元を訪ね、その酒を会員に紹介して来た。 日本酒を盛り上げるのに力を尽くしてきたと、会員として、誇りに思っている。 その会の副会長をしておられた、川上馨さんが亡くなったと言う報せが昨日入った。 九十近いご高齢だった。 洋服の仕立ての店を経営しておられ、いつもお会いするときには、自分で仕立てたしゃれた上着を軽やかに着て、大変お洒落な方だった。 気持ちがまっすぐだが、非常に心の優しい方で、いつも笑いを絶やさず、怒ったり、人のことを悪く言ったりすることが無い。 私が初めてお会いした頃は、吟醸酒の人気が出始めた頃で、猫も杓子も吟醸酒、大吟醸などと騒いでいた。 私も、大吟醸のあの果物のような香りに魅せられて、吟醸酒をあれこれ飲んで喜んでいたが、あるとき、川上さんに「雁屋さん、酒は純米酒です。吟醸酒は飽きますよ」と言われた。 そのときは、まだ私は、吟醸酒を有り難いと思って飲んでいたのだが、沢山飲んで行くにつれて、その香りが鼻につくようになった。 香りだけで、味わいが薄いことにも気がつくようになった。 終いには、吟醸酒に飽きてしまって、いや、それどころか、吟醸酒は敬遠するようになってしまった。 今私は、どこかで酒を飲むときに、「吟醸酒は駄目。純米酒にして」と注文する。 何もかも、川上さんの仰言る通りだった。川上さんは全て経験してお見通しだったのだ。 川上さんは、評判などに惑わされず、実に的確に旨い酒を選ぶ方だった。 私は、酒については随分川上さんに教えていただいた。 十年ほど前、私が初めて股関節を人工関節に入れ替える手術をしたとき、川上さんは私にふんどしを作ってくれた。洋服の仕立ての名人としてはふんどしを作るなど、沽券に関わるところもあるだろうに、川上さんは私の不自由を察して、ふんどしを作って下さったのである。 手術をして体が不自由なときに、下着の交換は非常に大変である。 その点、越中ふんどしだと、紐で結ぶだけなので、簡単至極で助かる。 川上さんは、普通の越中ふんどしともうひとつ、「もっこふんどし」という物も作って下さった。 越中ふんどしは、左右両側の紐は前後別々になっていて、身につけるときに両側でその紐を縛る。 ところが「もっこふんどし」は一方の紐が切れておらずつながっている。 だから、身につけるときは、パンツをはくような感じで足を通し、腰まで引き上げて、開いている側の紐を結ぶ。 これも、大変に重宝した。 今回、膝の関節の入れ替え手術をしたときも、そのふんどしを使った。 ふんどしを使う度に、川上さんのご懇情に感謝した。 世間に人多しと言えども、ふんどしを自分で作って送ってくれる人なんているもんじゃない。 酒とふんどし、変な取り合わせだが、この二つで私にとって川上さんは大恩人となった。 人の寿命には定めがある。人の世に別れは避けがたい。 とは言うものの、敬愛する大先輩を失った悲しみは深い。 このところしばらくお会いしていないので、今度日本へ行ったら、是非お会いしようと思っていた矢先のことだった。 残念でたまらない。 今回は、大先輩、川上馨さんに追悼の意を表して終わることにする。 参考までに、本物の美味しい日本酒を飲みたかったら、「酒仙の会」です。例会を頻繁に行っていて、その席で、素晴らしい日本酒を楽しめます。 「酒仙の会」 〒103-0013 中央区日本橋人形町 3-7-13 日本橋センチュリープラザ103 ボローニャ内 電話 080-6542-6889 (年会費3000円)
- 2008/07/30 - パレスティナ問題 その12 聖書(旧約聖書)は読み物としても実に良くできていて、波瀾万丈、不謹慎な言い方かも知れないが、実に面白い。 その聖書の中でも、一番読み応えがあるというか、この聖書の中の芯が、今回取り上げる、出エジプト記から申命記、ヨシュア記までの部分だと思う。 前回までの聖書の話で、イスラエルの子孫たち(ユダヤ人)がエジプトで数を増して、それがエジプト人に疎まれて、虐待と迫害を受けるようになったところまで進んだ。 イスラエル人と言ったり、ヘブライ人と言ったり、ユダヤ人と言ったり、混乱する。 ここで、きちんと、イスラエル、ユダヤの名称について整理しておこう。 小学館のスーパーニッポニカを引用する。 「ユダヤ人とは、セム語族に属するが、早くからヘブライ人とカナーン人とが混血した民族。元来はヘブライ語を用いていたが、紀元前6世紀以後アラム語にかわった。ユダヤの名称は『旧約聖書』中の太祖ヤコブの子ユダの子孫であることに由来するが、バビロン捕囚ののちはイスラエル人(ヘブライ人)の総称となった。」 この「バビロンの捕囚」について簡単に言うと、モーセより遙かに後、紀元前1020年頃、イスラエル人はサウルを最初の王として、イスラエル王国を建設する。その後、ダビデ、ソロモンなど強力な王が出て繁栄するが、ソロモンの死後王国は、北イスラエルと南ユダの二つに分裂する。 紀元前722年にアッシリアによって北イスラエルが滅ぼされる。 更に、紀元前586年に、ユダ王国はバビロニアに滅ぼされ、ユダ王国の住民はバビロニアに連れて行かれ、捕囚となる。 これを「バビロンの捕囚」という。 これは、後の話で、まずは「出エジプト記」に取りかかろう。 出エジプト記はモーセの話であり、ユダヤ教の律法が神から与えられるという所から見てユダヤ教の原点と言える部分である。 モーセがいなかったら、中東から西洋にかけての歴史は、今とはまるで違った物になっただろう。 世界史にこれほどの影響を与えた人物は、他にいない、と言って良いほどだ。 モーセがいなかったら、ユダヤ教は成立しない。となると、キリスト教も、イスラム教も成立しない。 キリスト教徒イスラム教のない世界を考えられるだろうか。 この二つの宗教がどれだけ世界に影響を与えてきたか。 では、聖書を追いかけよう。 エジプトでは、イスラエル人がますます増えたので、ファラオ(エジプトの王)はイスラエル人の男児は生まれたらすぐに殺せと命令を出す。 モーセはイスラエル人の子供として生まれたが、母親は隠しきれなくなって、パピルスで作った籠をアスファルトとピッチで防水して川に流す。 それを、ファラオの王女が拾って育てる。 神がモーセを召命し(神に選ばれること)、イスラエルの民を連れてカナンに戻れと言う。 神はモーセに 「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブ、に与えると手を上げて誓った土地にあなたたちを導き入れ、その地をあなたたちの所有として与える。わたしは主である」(出エジプト記 第6章) ここでも、神はカナンの地をユダヤ人(イスラエル人)に与えると言っている。 実は、モーセにアロンという兄がいる。聖書では、モーセが命を助けられたことは書いているが、アロンについては何も書いていない。ファラオがイスラエル人の子供を殺せと命令する以前に生まれていたのだろうか。このところは良く分からない。とにかく、「出エジプト記」の第4章でアロンが登場し、以後、モーセと行動を共にする。 モーセと、アロンは、ファラオにイスラエル民を解放するように言うが、ファラオは聞かない。 そこで、神はファラオを罰するために様々な災厄をエジプトにかける。 様々な災厄をかけたにも拘わらず、ファラオはイスラエル人を解放しないので、最後に神は、エジプトの全ての初子(最初に生まれた子供)を殺すと言う。 さらに、神がエジプト中をまわってエジプトの全ての初子を殺すときに、イスラエル人は家の入り口の二本の柱と鴨居に仔羊の地を塗っておけば、その家は過ぎ越して、初子を殺さない、と言う。 聖書の神は徹底的にイスラエル人を愛していて、イスラエル人のためにエジプト人の初子を全て殺すのである。 このとき、イスラエル人の家だけは、仔羊の血のおかげで過ぎ越してくれたので、今でも、ユダヤ教では「過ぎ越しの祭り」を持つ。 エジプト中の人間も家畜もその全ての初子が一夜にして殺される。 さすがに、ファラオも折れて、モーセにイスラエル人とともにエジプトから去れ、と言う。 モーセとアロンは、エジプトの全イスラエル人60万人を連れて、エジプトを脱出する。 神は昼は雲の柱となって一行の前に先だって進んで導き、夜は火の柱となってイスラエル人たちを照らしたので、モーセたちは昼も夜も行進することが出来た。 ファラオは一旦イスラエル人の出国を許したが、後悔して、軍隊に後を追わせる。 モーセたちが葦の海にさしかかったときに、ファラオの軍勢は後ろに迫って来た。 神に命ぜられてモーセが杖を高く上げ手を海に向かってさしのべると、海は二つに分かれて乾いた地に変わった。両側が水の壁になっている間をイスラエル人は渡りきった。 そこで再び神に命ぜられてモーセが海に向かって手をさしのべると、海は元に戻ってファラオの軍勢は水に飲まれてしまい、イスラエル人たちは助かる。 イスラエル人たちはカナンに向かう荒れ野に入る。 この後、イスラエル人たちは四十年間荒れ野をさ迷い続ける。 シナイ山にたどり着き、モーセはシナイ山に登り、そこで神から「十戒」を授かる。 同時に、神に生け贄を捧げる儀式、除麹蔡、安息日などの細かな指示を神から受ける。 ここで、「出エジプト記」は終わる。 聖書は、更に、レビ記、民数記、申命記、ヨシュア記、と続く。 レビ記、民数記、申命記では更に細かな律法が神からモーセを通じて与えられる。 それで、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記までを「モーセ五書」といい、「律法の書」とも言う。 エジプトを出てから荒れ野をさ迷うばかりで、食べ物のこと、水のことなどでイスラエルの人々から強い不満が上がる。 その度に、モーセは神に救いを乞う。 イスラエルの共同体全体が不満を言ったり泣き言を言ったりすることが十度に及ぶと、神は怒って 「自分に不平を言った者、二十歳以上の者は誰もカナンの地に入ることはない。荒れ野で四十年間罰として、羊飼いとなって生きて行き、この荒れ野で倒れる」(民数記 第15章) と言う。 実に何とも恐ろしい神ではないか。エジプトから連れ出しておいて、荒れ野をさ迷うのが辛いと文句を言ったら、それを罰して四十年間荒れ野で羊飼いとして生きて死ぬ。カナンの地に入れない、と言うのだから、どうもエジプトから連れ出されたイスラエル人にしてみれば、えらい災難だ。 カナンに向かう途中で、モーセの兄でこれまで最大の協力者だったアロンが死ぬ。 民数記、申命記では、カナンに向かう途中の幾つかの部族との戦いが記録されている。 私には、どう言うことなのか理解できないのだが、カナンの近くパランの荒れ野に宿営しているときに、神はモーセに、「人を遣わして、わたしがイスラエルの人々に与えようとしているカナンの土地を偵察させなさい」という。 神はカナンの地を与えると約束したが、それはすんなりとくれるのではなく、既にその地に住み着いている人達をイスラエル人が戦って滅ぼして手に入れなければならないのだ。 このところが、私は、パレスティナ問題の大きな原因の一つだと思う。 いかにして、イスラエル人たちがカナンの地を手に入れるか、それは、また明日。
- 2008/07/29 - 今日は、色々ありまして しまった! 今日は昼から眼科に行ったり、総領事館に行ったりして、帰ってきたら、午後も遅くなって、くたびれた。 眼科に行ったのは、膝の手術後視力がひどく悪くなったから。 なんと、調べて貰ったら、手術時間が7時間と長かった上に5リットルも失血したために、網膜に対する血行が悪くなり、その間に網膜の血管が数箇所詰まってしまったのだという。 危うく失明するところだったが、肝心の黄斑は大丈夫だったので、時間と共に視力も回復するだろうと言うことだった。 まさか、膝の手術が眼に影響するとは思わなかった。 人間の身体って、実に微妙な連繋で出来ている物だとしみじみと感じた。 今日会った眼科医は、ユダヤ人。 私のホームドクターもユダヤ人。 私の所で働いてくれているかつて青年、今は中年初期のオーストラリア人の男の妻の父親もユダヤ人で産科医。 シドニーにはユダヤ病院があるくらい、医者にはユダヤ人が多い。 だから、パレスティナ問題を書いていて、聖書を取り上げても、何だか実感が湧く。 彼らに会う度に、興味津々、ユダヤ人とはどんな人間が、じっくり観察している。向こうは私が観察していると知ったら気持ち悪がるだろうけれど。 産科医のユダヤ人はすでに七十歳を超えていて現役を退いているが、彼の母親が亡くなったときに、まっ先に妹に、「豚肉を食べさせてくれ」と頼んだそうだ。 ユダヤ教で豚肉は食べてはいけない物になっている。 そう言うことから、彼は、敬虔なユダヤ教徒とは言えない。 七十過ぎても、頭は切れて話は面白く、とにかく議論好きなので会うと二人で相手に話題を取られないように牽制しながら話す。 なんと言っても、私の英語はひどいから、相手の土俵に上がると負ける。 だから、私の得意な話題に相手を引きずり込まないと、言葉で負ける。 いや、友人同士なんだから、負けるも勝つもないもんだが、私の性格かなあ、相手に喋らせっぱなしと言うのはいやなんだ。 私のヒアリング能力が極めて低いと言うこともある。 相手にぺらぺら喋られると分からなくなるから、こちらの話題に巻込んで、私がとにかくしゃべり続ける形にしないとまずいんだ。 眼科医のユダヤ人は、慈善団体の依頼で今までに十数回ビルマに治療に出かけている。 ところが、例のサイクロンで大被害が出た後、軍事政権が、慈善団体の医療班まで入国禁止処分を敷いているために、一月以来、行きたくてもビルマに行けないのだという。 ビルマは、白内障で失明する率が世界で一番高い、とその医者は言う。 その原因は、軍事政権が医療に金を使わず、金は自分たちで使ってしまうかスイスの自分たちの口座に送ってしまうからなのだそうだ。 その眼科医は、大勢の人が困っているのに、と嘆いていた。 私は、平和主義者だが、ビルマの軍事政権の人間達は一人残らず重罰に処すべきだと思う。連中は人間ではない。凄まじい顔つきをしている。 顔の造作を言っているのではない。その精神が顔に出ていて、まあ、あれだけ無惨な顔つきになるためには、どれだけ悪いことをしなければならないか、考えただけで寒気がする。 国際社会も、四川大地震などで、すっかりビルマに対する関心が薄れてしまったように見える。 ビルマに多額の援助をしている日本政府に何とかするように迫らないといけない。日本政府、援助に関わる日本企業、日本の政治家、ビルマの軍事政権、この4者が利権構造を作っている。 我々の税金が軍事政権を潤し、それがかえってビルマの人民を苦しめているんだ。 何とかしなければならない。 総領事館には、在留署名書と私のサインの証明書をもらいに行ったのだが、4通で58ドルも取られた。 窓口で、「ええっ!日本国民から金を取るのか」と係員に喚いたが、彼女の責任じゃないものねえ。 しかし、驚いたなあ。こんな証明書で、こんな値段を取るか。 中華街で四人で飲茶を腹一杯食べても、こんな金額にならないぞ。 日本政府よ、ビルマの軍事政権に対する援助を直ちにやめろ! おれは、怒ったぞ。 ところで、現在のシドニーの総領事のお名前の苗字は読み方が大変難しい。 総領事となると、プライバシー問題は関係ないから、ここで書いても構わないと思う。 苗字が「粗」さんと書く。 私はどうしても何と読んで良いのか分からないので、領事館の係員に聞きましたね。 聞いて、びっくり。しかし、考えてみて、確かに意味は通じていると思った。 何と、お読みするか、考えてみてください。 明日までの宿題にしよう。 てなことで、パレスティナ問題の続きは明日。
- 2008/07/28 - パレスティナ問題 その11〈「雁屋哲の食卓」に「ベビー・スピナッチのサラダ」を掲載しました〉 さて、ユダヤ教だが、キリスト教で言う旧約聖書がユダヤ教の聖書だ。 一番最初の創世記では、皆さんご存知の通り、神が六日間で天地のすべて、生き物も全てを作ったと書かれている。 宇宙物理学が進んで、ビッグ・バン理論などで宇宙の始まりなどが論議されている時代に、神が大地を作り、太陽や月を作った、などと言う話を読むと白けるが、三千年以上も前は画期的な発想であっただろう。 しかし、いまでも、ユダヤ教徒や、キリスト教徒、イスラム教徒はこの天地創造説を心から信じているのだろうか。 そうだとしたら、それも凄いことだ。 聖書は、律法、預言書、諸書の三つから成り立っている。 律法とは、最初の五書「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数(みんすう)記」「申命(しんめい)記」のことを言う。 この五つの書には、モーセがシナイ山などで、神から伝えられた律法が編纂されているので、「モーセ五書」とも言う。 この「モーセ五書」がユダヤ教の根本だろう。 聖書を順に読んでいくと、ユダヤ人の動きが分かる。 まず、アダムとイブが神によって作られる。 アダムとイブが最初に持った子供が、カインとアベルである。 カインがアベルを殺した後、アダムとイブは、セトを持った。 十代目に、ノアが生まれた。 神は余り人間達が悪いのに嫌気がさしてみんな殺してしまうことにしたが、ノアだけは神に従う無垢な人間だったので、ノア一族と動物たちだけを箱船にのせて、大洪水を起こし地上の生き物を全て殺した(ノアの大洪水) ノアの子孫は大いに栄え、地上の諸民族は洪水の後、ノアの一族から別れでたものである。 ノアから十一代目に、アブラムが生まれた。 アブラムは、神に「父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」と言われて、甥のロト、妻のサライを連れて、カルデアのウルを出て、カナン地方に入った。 ここで、どうして突然神が現れてくるのか分からない。唐突に現れるのだ。 聖書では、神による召命という。召命とは「神に選ばれて救いを与えられること」だ。神が、アブラムを選んだのだろう。 カナンに入った時神が現れて、アブラムに 「あなたの子孫にこの土地を与える」(創世記 第12章) と言った。 (注意!ここで初めて神がユダヤ人にカナンの地を与える約束をした) アブラムは旅を続け、ネゲブからエジプトへ行き、再び、ネゲブを経てカナンに戻ってきた。 そこでまた神が現れて、アブラムに 「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見える限りの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える」(創世記 第13章) という。 (神がカナンの地をユダヤ人に与える約束の、第二回目) アブラムは、ヘブロンにあるマムレの樫の木の所に住む。 周辺の王たちとアブラムは戦って勝つ。 その後、また、神が現れて、アブラムと契約を結んで言う。 「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで、カイン人、ケナズ人、カドモニ人、ヘト人、ペリジ人、レファイアム人、アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の土地を与える」(創世記 第15章) という。 神がユダヤ人にカナンの土地を与える約束の第三回目。ここで、驚くのは、カナンの土地には既に他の人間が住んでいることだ。 他の人間が住んでいる土地をユダヤ人に与えると、神は約束する。 ここのところが、のちのち、大変重要になってくる。 アブラムが九十九歳になったとき、また神が現れて言う。 「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。 あなたを多くの国民の父とするからである。(中略) わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立てて、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。わたしは、あなたが滞在しているこのカナンのすべてのとちを、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える。わたしは彼らの神となる」(創世記 第17章) 神がユダヤ人にカナンの土地を与える約束の、第四回目。実にしつこいね。同じ約束を四回もする。 しかし、これが、ユダヤ人にとっては、本当に大事な約束なのだ。 このあと、いろいろと興味深い話が沢山続くのだが、それを追って行っては切りがない。 パレスティナ問題に関係のあるところに的を絞って進もう。 アブラハムの子供イサクの子供ヤコブは神に祝福されて 「あなたの名はヤコブである。しかし、あなたの名はもはやヤコブと呼ばれない。イスラエルがあなたの名となる。」(創世記 第35章 イスラエルという名前の登場) また、神は言う。 「わたしは、アブラハムとイサクに与えた土地をあなたに与える。 また、あなたに続く子孫にこの土地を与える」(創世記 第35章) ついに五回目だ。まったくしつこい神様だ。 アブラハム、改めイスラエルの一番年下の息子ヨセフは優れていたのでイスラエルに可愛がられた。 そのために、兄たちに憎まれ、エジプトに売られてしまう。 エジプトで、ヨセフは才能を発揮し、エジプトの王に認められ、宮廷の責任者として、エジプトを支配する者となる。 当時、世界的に飢饉が起こり、イスラエルもヨセフの兄十人にエジプトに穀物を買いに行かせる。 ヨセフの兄たちはエジプトの支配者が自分の弟ととは気がつかないが、ヨセフは気がつき、仇を討つどころか、帰って兄たちに良くしてやる。 イスラエル一家は、飢饉でますます困り、とうとうヨセフを頼って一家を挙げてエジプトに移り住む。 こうして、イスラエルの子孫はエジプトの地で大いに数を増した。 聖書は「出エジプト記」に入ると、アブラハムの子孫を「イスラエル人」と記すようになる。 イスラエルとヨセフさらにその兄弟の死後も、イスラエルの子孫はエジプトで数を増していった。 ヨセフのことを知らない新しい王が、「イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。ぬかりなく取り扱い、濃い上の増加を食い止めよう」という。 こうして、イスラエル人は強制労働を科せられ、虐待された。 「しかし、虐待されればされるほど、彼らは増え広がったので、エジプト人はますますイスラエルの人々を嫌悪し、イスラエル人々を酷使し、粘土こね、れんが焼き、あらゆる農作業などの重労働によって彼らの生活を脅かした。彼らが従事した労働はいずれも苛酷を極めた。」(出エジプト記 第1章) アブラハムの子孫、イスラエル人(ユダヤ人)は飢饉のために逃げて来たエジプトで大いに数が増えたのだが、それが返って、エジプト人の反発を買って、ひどい虐待にあうようになった。 イスラエル人は窮地に陥った。 イスラエル人にとって、エジプトは異郷の地。自分たちの土地は神に与えられたカナンの地だ。 このままでは、異郷の地のエジプトで野垂れ死にしてしまう。 そこに登場したのが、モーセ、である。 このモーセが、イスラエルの民を率いてエジプトを脱出して、カナンの地に向かう所が、聖書の一番光り輝く個所だろう。 今回覚えて置いて頂きたいのは、神が、アブラハム、ヤコブ改めイスラエルに通算五回も「カナンの地を与える」と約束したことだ。 これが、パレスティナ問題の大事な鍵なのだ。 (つづきは、明日)
- 2008/07/27 - パレスティナ問題 その10〈「美味しんぼ塾」に「嗜好品 その2」を掲載しました〉 今日は朝から良い天気だったのに、午後から突然雷が轟き、ヒョウが降り始めた。 この晴天から、雷・ヒョウというのはシドニーで良くある天候の変化で、もう驚かないが、最初は本当にうろたえた。 東京や神奈川では、ヒョウなんて降った覚えがないくらいだから、ビー玉くらいの大きさのヒョウが降ってくると、本当に怯えてしまう。 今日のヒョウは豆粒くらいの小粒だったから被害はないだろうが、ときに、テニスボールくらいの大きさのヒョウが降ることがあり、そうなると木の枝はなぎ倒され、家の屋根は壊れる。もちろんガラス窓は全部吹き飛ぶ。 今日は何ともなくおさまって何よりだった。 さてパレスティナ問題に再び取りかかろう。 2008年4月30日から、三日続けて朝日新聞で、パレスティナ問題を特集していた。 なかなか、要点を良くまとめてあるので、それを利用させて貰うことにする。 まず、そこに掲載されている、パレスティナをめぐる動き、と言う表を写させて貰う。 パレスティナをめぐる動き 1947年11月 - 国連がアラブ・ユダヤ分割決議。 1948年5月 - イスラエルが独立を宣言。第1次中東戦争。 1967年6月 - 第3次中東戦争。イスラエルがヨルダン川西岸、ガザ、ゴラン高原などを占領。 1987年12月 - 西岸、ガザで、パレスティナ人の抵抗運動(第1次インティファーダ) 1993年9月 - オスロ合意。翌年暫定自治開始。 2000年7月 - 米仲介のイスラエル・PLO中東和平会議が決裂。9月末に第2次インティファーダ。ハマスなどの自爆テロが頻発。 2003年4月 - 米、EU、ロシア、国連が2005年のパレスティナ国家樹立を目指す中東和平構想を発表。 2005年9月 - イスラエル軍、ガザ完全撤退。 2007年6月 - ハマスがガザ制圧。 ちょっと短くまとめ過ぎの感もあるが、イスラエル独立後のことを細かく書き出すとえらく面倒くさくなるので、その辺は興味のある方がご自分で本などお読みいただくことにして、問題は、原因と、現状なので、今までの動きはこのまとめで良しとする。 さて、私が6月20日から22日まで、私が去年イスラエルに行ったときの話を書いた。忘れた方は、もう一度読み返してください。 イスラエルで、パレスティナ人たちの惨めな状況を見て、私は非常に大きな衝撃を受け、パレスティナ問題を自分の問題として考えなければいけないと思った。 その時は、イスラエルのパレスティナ人の取り扱いに逆上して、イスラエルに対して憤激した。 しかし、パレスティナ問題を調べるにつれて、とてもこれは、イスラエル一人を悪者にしてすむ話ではないと言うことが分かってきた。 双方の言い分を聞けば聞くほど、これは複雑怪奇で、私はどう手をつけて良いのか分からないと、頭を抱えた。 とにかく、ユダヤ人もアラブ人も、凄まじく強烈な性格で、ともに一切妥協をしようとしないのだ。 これまで、アメリカ、など様々な国、更に国連なども、パレスティナ問題の解決に協力しようとしてきたが、上手く行きそうになっても、結局駄目になる。 互いに自分の言い分を主張して譲ろうとしないのだから、話がまとまるわけがない。 一体どうして、ここまでもつれてしまっているのか。 その根底にあるのが宗教だ、と私は思う。 朝日新聞の4月30日のパレスティナ問題の紙面には、ガザを支配するハマスの次の言葉が載っている。 「(イスラエル領を含む)パレスティナ全土は神からイスラム教徒に与えられた。神の決定は覆せない」 これは、ガザのパレスティナ人の共通の思いだろう。 同じ5月1日の紙面には、アメリカから移住してきたユダヤ人男性の次の言葉が載っている。 「パレスティナは神からユダヤ人に与えられた土地だ」 これは、イスラエルのユダヤ人、シオニストの第一の信条だ。 両方が、この土地は神から、自分たちが与えられた土地だ、と主張している。 両方共、神を持出す。 どんなに、討論をしても、最期に神の問題が出て来れば、どうにも動きが取れない。 パレスティナ問題の根底は宗教問題だ。 では、ここまで、イスラエルとパレスティナ人を妥協の余地がないほど対立させているそれぞれの宗教はどんな物なのだろう。 イスラエル・ユダヤ人にとってのユダヤ教。 パレスティナ人・アラブ人にとってのイスラム教。 パレスティナ問題を考える前に、このユダヤ教徒イスラム教の問題を考える必要がある。 (続きは明日)
- 2008/07/26 - 今日から再開 今日から再開します。 休んでいる間に、ある読者の方からメールを頂きました。 6月14日の私の書いた日記の中に「薩長土肥」の「肥」を「肥後-熊本」としているのは、「肥前-佐賀」の誤りだ、とご指摘を受けました。 まことにご指摘の通りであり、幕末時代熊本藩は他藩のような下級武士の活躍が無く、徳川幕府側についていました。 それに反して、肥前・佐賀藩は、藩主鍋島直正の力が強く、政治路線としては必ずしも明確な反幕派ではなかったけれど、江藤新平、大隈重信などが、維新政府で重要な役割りを果たしました。 私の完全な勘違いでした。「肥」をつい「肥後」と取り違えたのが運の尽き。 江藤新平なんか、幕末には京都に上って三条実美らとまじわり、尊攘運動に加わって活躍し、明治維新後佐賀の乱を起こした人間で、忘れるはずはないのに、間違いを犯すときは、思いもよらない間違いをします。 魔が差したと言うんでしょうね。 間違いのご指摘に感謝し、直ちに訂正しました。 これからも、何か私の書くことに間違いがあれば、読者の方は、どんどんご指摘下さるようお願いします。 この季節、シドニーの住宅街を歩くと、薪を燃やすにおいが漂っている。 多くの家で、薪ストーブや、薪の煖炉を使っているからだ。 私の家には煖炉もあるのだが、これが煙突の設計が間違っていたらしく薪を燃やすと煙が室内に広がってしまって使い物にならない。 で、今では、CDを置く棚になってしまっている。 居間には薪ストーブがあって、今朝も連れ合いと二人で薪に火をつけた。 これには、こつがあって、やたらと新聞紙を沢山詰め込んで火をつけてその上に薪を乗せれば上手く行くという物ではない。 今日は、新聞紙の上に段ボールの箱のかけら、卵のパック、木の繊維、細い枝、などを乗せ、その上にやや細めの薪(といっても、丸太をばさばさと八つ割か十割り程度にしたものだから太さ十センチ以上ある。日本で使う薪のように上品な物ではない)を置いて、新聞紙に火をつけた。 順番に火が上手く広がって行って、細めの薪に火が移ったところで、本格的に太い薪を入れた。これは、もともと太い木を八つ割りか十割りにした物なので、長さ三十センチ、断面は扇を狭く広げた形で、その広げた角度が四十度程度、扇の要に当たる薪の一番尖ったところから、外側の木の皮の部分まで十五センチ程度ある。 これに火がついたところで、更に太い薪をつめて、がんがん燃えさかったのを見て、大満足。 てな事を書いていますが、北半球は暑くて大変そうですね。 テレビで見たら、土用の鰻が相変わらず大人気らしい。 くやしいねえ。シドニーでは、鰻だけは食べられない。 日本から帰ってくるとき、私の好きな鰻屋で買った蒲焼きを冷凍にしてシドニーに運び込み、それを大事に食べている。 しかし、冷凍にしておいて美味しく食べられるのは、一ヵ月くらいまで。 それでも、勿論、日本で買った当座よりかなり味が落ちるが、しかし、こちらで売っている出来合いの冷凍蒲焼き(日本食スーパーで売っているんですよ)より数百倍美味しい。 リハビリは相変わらず苦労しております。 どうも、痛み止めと相性が悪く、痛み止めを飲むと気持ちが悪くなる。 それも当たり前で、痛み止めの中味は、モルヒネ系だ。 色々な注意書きには、この痛み止めは中毒になって常習する恐れがあると書いてある。 いやあ、こんな物を常習するなんて、考えられない。 私は絶対に麻薬中毒にはなれないね。 で、痛み止めを飲むのを中止したのだが、そうすると脛の痛みはますますひどい。 考えてみたら、脛というのは、「弁慶の泣き所」だ。 歩く度に、その「弁慶の泣き所」を先の鋭い金属の棒で突かれたら、とお考え頂ければ、私の感じている痛みがどんな物かお分かりになるでしょう。 だから、杖一本で、右脚に体重をかけて歩く練習をするときは、私は生まれつき弱虫だから、己に鞭をくれて勇気を振りしぼらないと、最初の一歩が出ない。 昨日は、ジムのなかを、一週35メートルの円を四回まわった。 120メートルだ。 ぐわ、ぐわ、と声を上げながら歩きました。 死ぬかと思いましたね。 一周終わる度に、担当のフィジオ・セラピストの女性が、無理しないでいいのよ、これでやめますか、などと言う。 相手が、若いオーストラリア人の女性だからね。そう言われたからって、はいそうですかと引っ込めないや。ここで、日本男子の根性見せなければならない、なんて、妙に意地を張りたくなって、頑張って四周もしてしまった。 やはり、外国にいると日本人の看板背負っている気持ちが強くなり、つい強がってしまう。 これが、日本の女性に、無理しないでいいのよ、なんてやさしく言われたら、すぐに「はい」といってやめてしまうところだが。 となると、リハビリを進めるには外国にいた方が良いと言うことなのかな。 しかし、無理なくリハビリを進めるためには、痛みがおさまるまで、痛み止めを飲んだ方が良いと、医者もフィジオ・セラピストも言う。 しばらくたって、様子を見て、痛み止めをまた試してみようと思う。 もしかしたら、皆でよってたかって私を麻薬中毒患者に仕立て上げようとしているのかも知れない。
- 2008/07/25 - 明日再開 明日から「日記」を再開します。 所が、来週の日程を見たら、毎日リハビリと病院通いで埋まっている。 果たして、どうなることやら。 昨日のマーマレードは次女がケーキに使って、オレンジケーキを作ったが、やはり、オレンジの香りも味もしない甘いだけのケーキになってしまった。 オレンジケーキだと思わず、ただのケーキと思えば美味しいので、そう思うことにした。
- 2008/07/24 - 再開予告 そろそろ、再開しようかな。 日本では酷暑だそうだが、こちらはこの二三日寒くて大変。 一昨日の夜十時の気温が4度。それから更に冷え込んだから、昨日の朝、シャワーを浴びるのもおっくうなほどだった。 今日も寒い。 昼食はお雑煮。 更に、トーストにバターたっぷりとマーマレードを塗って食べたが、自家製のマーマレードではなかったので、美味しくなかった。 有機オレンジで作った地元では有名な会社の瓶詰めで、使っている材料も混じりっけなしの物だったが香りと味が足りなかった。マーマレードやジャムは自家製に限る。
- 2008/07/22 - 休業 第4日 本日休業。 ああ、毎日忙しい。 忙しい、忙しい。 もう少し休みます。
- 2008/07/21 - 休業 第3日 本日休業。 近日再開。 な忘れそ。
- 2008/07/20 - 休業 第2日 本日休業 25日再開の予定。
- 2008/07/19 - 本日休業 身辺多忙のために、5日ほど、日記を休みます。 体調が悪いためではないので、ご心配なく。 25日に再開しますので、忘れないでね。
- 2008/07/18 - パレスティナ問題 その9 さて、イスラエル建国までの事だが、前回に続いて箇条書きに記します。 パレスティナでアラブ民族主義が興ってから、情勢が変わってくる。 6)アラブ人の中に様々な政治結社がうまれ、過激な行動を取るようになった。 1936年、ヤッフォでアラブの暴動が発生した。 アラブ諸派会議はハジ・アミン(グランド・ムフティ)を議長とするアラブ高等委員会を設置し、大規模なゼネストを行い、テロ活動も行った。 7)イギリス政府は、調査団を派遣し、ユダヤ人とアラブ人から様々な事情を聴取した。 調査団は、「パレスティナ分割案」を提出した。 パレスティナをユダヤ人国家(ガリラヤ地方全域、レオポットを南限とする沿岸平野部)と、アラブ人国家(サマリヤちほう、ジュディア地方、ネゲブ地方)の二つに分けるという案だった。 シオニスト側も、アラブ人側も、意見が対立し、分割案は成立しなかった。 8)1938年になるとアラブの暴動を更に激しくなった。 その間に、1938年9月29日に英仏伊とナチスドイツの間のミュンヘン協定が成立してから、世界大戦に備えてアラブを味方につけ置きたいという思惑から、イギリス政府は態度を変え、アラブ宥和政策を取るようになった。 9)1938年11月9日、イギリスはパレスティナ分割案を放棄し、ユダヤ人アラブ人が話し合うための会議をロンドンで開いたが、ユダヤ人アラブ人が互いに話し合うことを拒否し、何の成果ももたらさなかった。 10)しかし、その会議の後、1939年5月17日、イギリスの植民地相マルコム・マクドナルドは新しい白書を発表した。 イギリスはアラブの要求を呑む方針に変更した。 これによると、ユダヤ人移民はユダヤ人人口がパレスティナ全体の3分の1までを目途に、年間1万人で帰艦を年間に限定し、それ以降はアラブの同意を必要とする。ただし、ヨーロッパのユダヤ人難民に対しては特別に2万5千人の移住許可を与えるとした。 一方でユダヤ人に対する土地売却は制限されることとなった。 この白書で、バルフォア宣言は消滅したことになったのだ。 ここにも、イギリスという国の身勝手さが表れている。 その時、その時の都合で、対外政策をころころ変える。 ユダヤ人もアラブ人もイギリスにいいようにあしらわれている。 11)このマクドナルド白書は後に大きな意味を持つ物となる。 第二次大戦が始まっても、1942年までには、まだパレスティナのユダヤ人たちはヒトラーがユダヤ人を大量に虐殺し始めたことを知らなかった。 それを知ってから、パレスティナのユダヤ人は、ヨーロッパ・ユダヤ人を助けるために、パレスティナに帰還させようとしたのだが、このマクドナルド白書がユダヤ人の移民数を制限していることで、それは上手く行かなかった。 イギリスは白書を楯にとって、ヨーロッパ・ユダヤ人がパレスティナに逃げ込むことを拒否したのである。 なんとも、無惨なことである。 12)第二に大戦が終わり、パレスティナのユダヤ人はイギリスが政策を変更して大量のユダヤ人移民を許可することを期待した。 しかし、イギリスは、ますます石油の重大さを認識し、アラブを敵に回す事はしたくなかった。 マクドナルド白書を堅持して、ユダヤ人の不法移民を強制送還することまで行った。 13)そこで、パレスティナユダヤ人のイギリス政府に対する抵抗運動が始まった。 後にイスラエルの首相を務めたメナハム・ベギンの率いる武装組織イルグンは数々のテロ活動を行った。 ホテルを爆破して、28人の英国人、41人のアラブ人、17人のユダヤ人が犠牲になったこともある。 14)その、ベギンらによるテロ活動はイギリスに、パレスティナ撤退を決意させた。 15)1947年5月国連で、パレスティナ問題が議題にのぼり、ユダヤ人こっかとアラブ人国家を創設し、エルサレムを国連の管理下に置く、というパレスティナ分割案を可決した。 16)そして、1948年5月14日、ベングリオンはイスラエルの独立を宣言した。 と、まあ、イスラエル建国までを、駆け足で見てきた。 本格的なパレスティナ問題はこの時から始まるのだ。 (このつづきは、また)
- 2008/07/17 - 本日の私の顔 本日の私の顔です。 これでは、とても物なんか書けません。 と、ほ、ほ、ほ、ほです。 明日は、元気になるでしょう。 クリックなんかしてくれなくてもいいけれど、クリックすると写真は大きくなりますよ。(写真じゃないや、私のいたずらがきです)
- 2008/07/16 - パレスティナ問題 その8 パレスティナ問題は、パレスティナがイギリスの委任統治領になってから、どんどん複雑化し、困難になっていった。 それは、一口に言えば、ユダヤ人の移民が増え続けたこと、それに対するアラブ人の反感が強まったこと、そして、ユダヤ人側にアラブ人に対する配慮があまりに掛けていたこと、に尽きる。 パレスティナの地は、誰も住んでいない無住の地ではない。135年にユダヤ人がイスラエルから追放された後、1800年以上にわたって様々な民族が住んできたが、シオニズム運動が進められ、ユダヤ人が次々に移民し始めた頃には、主にアラブ系の住民が住んでいたのである。 そこに、どんどんユダヤ人が移住してくれば摩擦が起きるのが当然だろう。 イギリスの委任統治領になってから、第二次大戦後にイスラエルが建国するまでには余りに多くのことが次々に起こったので、それを細かく書いていると大変に煩瑣になってしまい、このページには似つかわしくないことになる。 そこで、主な出来事、事態の推移などを以下に箇条書きにしていくことにする。 1)一つ大きな問題は、ユダヤ人指導者たちも内部分裂をしていたことだ。 ヴァイツマンは忍耐強く長い年月を掛けてシオニスト国家を建設しようと考えていた。 下部組織と基盤が強固に建設されれば、国家の永続性と繁栄はより確かな物になると考え、優れた恒久的な社会、文化、教育、経済関係の諸機関を作り上げることを第一とした。 ロシア領ポーランドのブロンクス出身のベン・グリオンは1920年代にイスラエルに登場した天才的な政治家だった。 ベン・グリオンはマルクス主義者と自称していた。彼には三つの原則があった。 第一は、ユダヤ人の郷土帰還を優先順位の第一にすること。 第二は、新しい共同体の構造は社会主義の枠組みで計画されなければならない。 第三は、ヘブライ語をシオニスト社会を文化的に結合する物とする。 ベン・グリオンは1930年にシオニスト労働党マパイ党を創立し、また、1921年に、シオニスト労働組合運動のヒスタドルートの書記長に就任して、ヒスタドルートを単なる労働組合以上のものに変えた。 ヒスタドルートは工業、住宅、運輸、金融など組合方式で運営し、教育組織も持ち、職業安定所を運営し、医療制度も作り上げた。 こうして、ヒスタドルートは政府に近い役割を果たすようになり、シオニスト社会主義機構の主柱となり、後のシオニスト国家の基本的な制度を作り上げた。 しかし、ベン・グリオンは社会機構の制度作りに力を注ぐ余り、ユダヤ人移民を増加させるところまで手が回らなかった。 ロシアのオデッサ出身のジャボチンスキーは戦闘的な攻撃的なシオニストで、強力な軍隊の元となるハガナーという自衛組織を作った。 ジャボチンスキーは最大限のユダヤ人を可能な限り早期にパレスティナに移民させたいと考えていた。 ヴァイツマンの言う事も、ベン・グリオンのしていることも正しいが、まずユダヤ人の数が必要だとジャボチンスキーは考えた。 後に、ジャボチンスキーはヴァイツマンと敵対し、ヒスタドルートを分裂させてシオニスト社会に混乱を引き起こした。 2)ユダヤ人の移民(アリア)は1919年から23にかけての第三アリア、1924年から1928年にかけての第四アリア、1929年から始まった第五アリアと続き、特に1933年にヒトラーが政権につくと、雪崩を打って流入し、1936年春までにはパレスティナの総人口の30パーセントを占める40万人にまで達した。 3)人口の増加と共に、資金が大量に流入してユダヤ人社会は繁栄していった。 農工業の開発も進んだ。 自衛組織ハガナーも増強された。 教育体系も整備された。 4)シオニストたちは最初からアラブ人を軽視していた。 シオニストたちのアラブ人に対する考え方は「アラブ人は芝刈りと水くみをする者でしかない。ユダヤ人に非常に便利なサービスを提供してくれるだろう」というものだった。 「パレスティナ入植以来、われわれは常にアラブ人を存在しない者と見なしてきた」と言った者もいる。 がいして、シオニストたちはアラブ人を単なる人間社会の風景の一部として無視した。 そもそも、ここに、パレスティナ問題の起こる根っこがある。 シオニストたちは、自分たちが世界中でユダヤ人として差別されたのに、パレスティナでは今度は自分たちがアラブ人を差別したのである。 現在のイスラエル政府のアラブ人に対する態度も、変わらない。 5)しかし、ユダヤ人の人口が増え、シオニスト社会が繁栄して行くにつれて、アラブ民族主義が芽生えた。 1929年には、アラブの暴動が起こった。 それ以前に、ロイド=ジョージ によってパレスティナの高等弁務官として派遣されていたハーバート・サミュエルは、ハジ・アミン・アル・フセイニをグランド・ムフティ(イスラム最高法官)に任命していた。 サミュエルが結成促進をしたイスラム最高協議会をハジ・アミンは恐怖支配の強権道具にした。 ハジ・アミンはアラブ人をたきつけて、激しい暴動を引き起こしたのである。 グランド・ムフティとしてのハジ・アミンは穏健派のアラブ人を殺し、パレスティナにおいてアラブ人がユダヤ人に徹底的に敵対するように扇動した。 ハジ・アミンは、ユダヤ人とアラブ人指導者層の間に、それ以後決して修復されることのない深い亀裂を生じさせた。 ポール・ジョンソンは「ハジ・アミンをグランド・ムフティに任命したことは、二十世紀最大の悲劇的かつ決定的な誤りだった」と言っている。 シオニストも、シオニストなら、アラブの指導者も、アラブの指導者だ。 双方共に、相手を軽蔑し、憎み、妥協や協力をする良識を持っていないのである。 このアラブ民族主義の勃興と、アラブの暴動が、イギリスの態度も変えさせてしまった。 (明日に続く)
- 2008/07/15 - 削除しました 三十分ほど前に、アップロードした日記を削除しました。 娘に「人に嫌がられるようなことを書かないで」と言われていたのに、嫌われそうなことを書いたのですが、やはり気になって削除することにしました。 わずか三十分ほどだけれど、読んでしまった方がいるかも知れない。 それは、仕方がない。 忘れて下さい。
- 2008/07/14 - 120メートルで、くたばった どうも、今日はリハビリに力を入れすぎた。 いよいよ、本格的に杖一本だけで歩く運動を開始した。 ベランダの直線距離12メートルを5往復した。 合計で、たった120メートル程度だが、これがえらく長い距離に感じた。 体重を右脚に掛けると、右の脛に痛みが走る。 その痛みは、鋭い刃物で突き刺されるような厳しさで、最初の一歩を踏み出すのに、私のような生まれつきの弱虫には、大変な勇気が必要だ。 12メートル歩いて、そこで振り返って逆方向に歩き出すときに、もう、やめておこう、と言う弱気が襲ってきて、体が押しつぶされそうになる。 しかし、ここでやめたら、いつまでたっても歩けるようにならない。 とにかく、あと12メートル、と自分に鞭打って、一歩ごとに、胸の中でひいひい悲鳴を上げながら、反対方向に歩き始める。 それを5回繰返して、へとへとになった。 最初から余りやりすぎても、よろしくないだろうと、言い訳を作って、5往復で今日は止めにした。 終わって、書斎に戻ってきて、コンピューターの前に向かって座ったが、わずか120メートルで、精根尽き果ててしまっているのが分かった。 痛み止めのせいかもしれないが、腕の肘から下、特に手首に力が入らない。 キーボードを打っても、ミス・タッチばかり。 これでは仕事にならない。 しょっちゅうお休みして格好悪い話だが、仕方がない。 今日も、格好悪く、お休みにします。 明日は、何とか・・・・・・
- 2008/07/13 - パレスティナ問題 その7 ヴァイツマンはヘルツルを受け継いで、シオニズムを主導して行ったのだが、その言葉に、シオニストが何を考えているのか、その根本を見いだすことが出来るので、紹介しよう。 最初イギリスは、ユダヤ人の主権国家を作るのにウガンダを提案した。最初にシオニズムを主唱したヘルツル自身はウガンダでもかまわないと考えていた。 しかし、他のユダヤ人がウガンダを拒否し、ヘルツル自身も、「パレスティナこそ唯一の土地」と認めたことは先に記した。 その件で、バルフォアがヴァイツマンを叱責すると、ヴァイツマンは言った。 「ミスター・バルフォア、あなたにロンドンの代わりにパリを提供すると言ったら、貴方は承諾なさいますか」「しかし、ヴァイツマン博士、わたしたちはロンドンを所有しています」「確かにそうです。しかし、ロンドンが沼地だったころわたしたちはエルサレムを所有していました」 このヴァイツマンの言葉こそ、シオニストユダヤ人の考えの大元がはっきり表れている。 ロンドンがまだ沼地だったころユダヤ人がエルサレムを所有していたから、今もその所有権がユダヤ人にあるとシオニストは言うのである。 シオニズムは大分乱暴で身勝手な議論だと私には思えるが、その最大の原因は、「歴史を無視することである」 ユダヤ人が135年にイスラエルを追放されてから1800年という時間が流れている。 1800年という時間は、非常に長い時間である。 その間には色々なことが人間社会には起こった。 勿論、パレスティナの地にも様々なことが起こった。 幾つもの国が興り滅び、様々な人々が移り住んできては姿を消した。 パレスティナの地を現在発掘するとさまざまな文明の遺跡が姿を現す。 ユダヤ人が追放された後、パレスティナの地はユダヤ人以外の多種多様な人々が移り住んできてそれぞれの文明を築き上げて来たのである。 パレスティナの地ではめまぐるしく、次々に多種多様な民族が興り、繁栄し、やがて滅び去る、と言うことを1800年間にわたって繰返してきた。 パレスティナはユダヤ人が追放された後、ユダヤ人の帰りを待って静かに眠っていたわけではない。 多くの人達が自分の土地として住んでいたのである。 常識的に考えて、一つの民族、あるいは部族が一つの土地に100年住み続けたらその土地は自分たちの土地であると考えるのは極めて自然だろう。 ある土地に、民族Aが100年続けて住んでいたとする。 そこに、民族Bがやって来て、この土地は我々の祖先が200年以前に住んでいた土地だから、自分たちに所有権がある。出て行け、と言ったらどうするだろう。 民族Aの祖先が、民族Bの祖先からその土地を直接奪ったものだったとしても、民族Aにとって100年も住み続けたこの土地を、民族Bの子孫たちに返すことは無理な話だ。祖先同士のやり取りの結末を子孫同士でつけると言うことはあり得ない。 ましてや、民族Aの祖先が、民族Bの祖先から直接奪ったわけではなく他の民族から獲得した物であったら、それは全く話にならない。 100年という年月は既に歴史を形成している。 歴史を無視して、歴史の始まった時点に全てを戻せと言うのは、無理も甚だしい。 ところが、シオニストは、100年でもなく、200年でもなく、1800年の歴史をなかったことにして、パレスティナをユダヤ人に戻せ、と要求しているのだ。 135年にユダヤ人が出て行った後、パレスティナに住んでいた人々にとって、シオニストの要求を受け容れることが出来るだろうか。 土地の証文でもあれば話は別かも知れないが、1800年も有効な土地の証文など存在するはずがない。 ところが、シオニストは、1800年でも3000年でも、未来永劫有効な証文があると言う。 その、証文こそが、ユダヤ人にとっての聖書、一般的に旧約聖書と呼ばれている文書である。 話をヴァイツマンに戻そう。 ヴァイツマンは有能で人を説得することにも長けていた。 バルフォアとの間の極めて重要な挿話を紹介しよう。 ヴァイツマンがシオニストの計画をバルフォアに話していたとき、バルフォアが当時の反ユダヤ主義者、コジマ・ヴァーグナーの名を挙げて、「ユダヤ人が同化しない」という理由から、ヴァイツマンの計画に懐疑的な態度を示すとヴァイツマンは言った、 「彼女(コジマ・ヴァーグナー)はユダヤ人はドイツの文化も科学も工業も支配していると言ったのでしょう。 しかし、大多数の非ユダヤ人が見過ごしている主要な点であり、ユダヤ人の悲劇を形成する最も重要な問題は、そのエネルギーと頭脳をドイツ人に捧げているユダヤ人たちは、ドイツ人の資格でそうしているのであって、彼らが放棄したユダヤ人としてではないということです。(中略)ドイツ人が彼らの頭脳や能力を好きなように利用できるように、彼らは自分がユダヤ人であることを隠さなければならいのです。偉大なドイツを形成するために彼らがした貢献は小さくありません。すべての悲劇は私たちが彼らをユダヤ人と認めていないのに、ヴァーグナー夫人が彼らをドイツ人と認めないことにあります。このようなわけで、わたしたちは最も搾取された人間としてあそこにいるのです」(註・この時点でヴァイツマンは既に英国市民になっている) そのヴァイツマンの言葉を聞いたバルフォアは感動の涙を浮かべてヴァイツマンの手をとり、「偉大な苦難の民族がたどった道がはっきりした」と言ったという。 こうして、バルフォアはシオニストを支持するようになり、後に、バルフォア宣言を書くことになるのである。 初代、ロード・ロスチャイルドも重要な役目を果たした。 第一次大戦が勃発したとき、ロイド=ジョージは大蔵省にロード・ロスチャイルドを招いた。かつて、ロイド=ジョージはロスチャイルド家を非難したことがあったので遠慮して「ロード・ロスチャイルド、これまでわたしたちは政治的に少々不愉快な状況にありましたが」と切出すと、ロード・ロスチャイルドは「ミスター・ロイド=ジョージ、その様なことを思い出しているときではありません。お手伝いするためにわたしは何をしたらいいでしょうか」と言った。 その、ロスチャイルドの態度は、ロイド=ジョージに大きな感銘を与えた。 これが、ロイド=ジョージをシオニズムを支持させることとなった。 これが無かったら、イスラエル建国は絶対にあり得ないだろう「バルフォア宣言」は、外務大臣のバルフォアが英国のユダヤ人共同体の首長であるロード・ロスチャイルドに宛てた書簡の形式を取った。 この時のロスチャイルドはロイド=ジョージに感銘を与えたロスチャイルドの息子、ウォルター・ロスチャイルドだった。 ロスチャイルドはヴァイツマンらの助言を受けて、重要な三原則を含む英国の誓約草案をバルフォアに手渡した。 その三原則とは、 第一に、パレスティナ全土をユダヤ人の民族の郷土として再編成すること、 第二に、無制限のユダヤ人移民、 第三に、ユダヤ人の内部自治 だった。 ヴァイツマンはそのまま承認されると思っていたが、政府内部の反対などがあり、パレスティナ全土がユダヤ人民族の郷土としては認められず、無制限のユダヤ人移民も、ユダヤ人の内部自治も消え、かえってアラブ人の権利を保障していた。 1917年11月2日づけで発表された文書の主要部分は、 「陛下の政府はユダヤ人のためにパレスティナに民族の郷土を建設することに好意を寄せ、この目標を達成するために最善の努力を払うものである。このことは、パレスティナに現存する非ユダヤ人諸共同体の市民的権利と宗教権利、あるいは他の国家においてユダヤ人が享受している権利と政治的地位にいかなる不利益も蒙らせるものではないということは、明白に理解されなければならない」となっている。 たしかに、ここにはパレスティナにおけるアラブ人の権利が保障されており、ヴァイツマンの望んだとおりの物ではなかった。 しかし、この「バルフォア宣言」が無かったら、イスラエル建国は絶対にあり得なかった。 ヴァイツマンの功績は大きかった。 (今日の内容は、ポール・ジョンソン著 「ユダヤ人の歴史」によっている) (明日に続く)
- 2008/07/12 - パレスティナ問題 その6 昨日は大変失礼しました。以下の文を作成してアップロードしようとしたのだが、どうしてもアップロードできない。 丸一日掛けても通らない。今日になって管理人に見て貰った。さてこれで通るかどうか。 さて、パレスティナもイギリス委任統治時代に入り、これからいよいよ話は面白くなるのだが、話を進める前に、これから登場する重要人物を数名紹介しておこう。 歴史というのは、まず人物だ。 ある時点で、この人物が登場しなかったら世界の歴史はまるで違ったものになっただろうと思われる人物が少なくない。 ヒトラーのように、あの人物一人が世界中に地獄は存在することを知らしめた。 人道的に言えば全ての人間は生きる価値が有ることになっているが、その人道的見地からして生まれてこなかった方が人類のためになった人間はいるものなのである。 以下に紹介するのは、存在して良かった人間も、しない方が良かった人間もいる。 「シオニズム」の主導者、テオドール・ヘルツルについては以前に書いた。 ヘルツルは、ユダヤ人の主権国家が建設できるならウガンダでも良いと言った。 そのヘルツルの意見は多くユダヤ人の反感を買い、結局ヘルツルは、第六回シオニスト会議で、「パレスティナこそわれわれの民族が安住できる唯一の土地である」といい、第七回シオニスト会議でウガンダはユダヤ人の国を建国する地として正式に却下された。 ヘルツルの後、シオニズムの有力な指導者となったのは、ハイム・ヴァイツマンだった。 白ロシアのモトルで生まれたが、ヴァイツマンの家庭は完全に伝統的ユダヤ人雰囲気に包まれていた。当時のロシアはツアー体制で、ユダヤ人が高等教育を受けることを阻む様々な制約があったが、ヴァイツマンは強固な意志と努力で、当時自然科学の分野で最高の大学の一つだったベルリン工科大学に入学した。 その後、1904年イギリスに移住し、マンチェスター大学で生化学の講義を担当したが、シオニズムに目覚め、大英帝国の存在とその支配階級の好意を利用して、ユダヤ人の為の国を建設する計画を立てた。 ヴァイツマンはシオニストの指導者として世界の政治家達と交渉する際にヘルツルに匹敵する才能を示した、ユダヤ人史上特筆大書すべき偉大な人間である。 ヴァイツマンは、イギリスの有力者たちと次々に親しくなっていき、その多くをシオニズムの支持者にしていった。 ヴァイツマンが親しくなったイギリスの有力者たちには、 バルフォア宣言を書いた、保守党の政治家で後の外務大臣アーサー・バルフォア、 後の首相ロイド=ジョージ。 同じく後の首相ウィンストン・チャーチル、 自由党の国会議員ハーバート・サミュエル。 サミュエルはユダヤ人支配階級に属していた。 ヴァイツマンはサミュエルと連携して、シオニズムを進めていったのだ。 なかでも、バルフォアを味方にしたのは大きかった。 バルフォアは外務省官僚に大きな影響力を持っていたが、極めて意志の強い人間であり、簡単には自分の意志を変えない鋼鉄の意志の人物であった。 その、バルフォアをいかにして、ヴァイツマンが抱き込んだか、非常に興味深い挿話がある。 と、書いていて、時間がなくなった。 続きは、また明日。
- 2008/07/10 - パレスティナ問題 その5 パレスティナ地域は歴史的に幾多の変遷を経てきており、余り時代をさかのぼりすぎると面倒くさくなるので、近代以降に話を絞っていきたい。 パレスティナ地域は1516年以降、オスマントルコに支配されてきた。 135年にローマ帝国によってイスラエルから追放されたユダヤ人だったが、1880年当時のパレスティナには2万から2万5千人のユダヤ人が、主にエルサレムに居住していた。 そのユダヤ人の大半は「ハルカ」という、海外のユダヤ人社会から送られてくる義捐金で生活を支えていた。 当然ユダヤ人社会は貧しく、社会的地位も低く、アラブ人はユダヤ人たちを「死の子供たち」と呼んでいたと言う。 1881年にロシアでポグロム(ユダヤ人を対象とした集団的な略奪、虐殺、破壊行為のこと)が発生し、ルーマニアでもユダヤ人迫害がひどくなった。 これに、対抗して、ヒバット・チオン(シオンの愛)運動がおこり、ロシア、東欧からユダヤ人の帰還事業が始まった。 1882年に多くの若者たちがアリヤとして移住してきた。アリヤとは、エルサレムに上る事を表し、移民という意味になった。 1882年のアリヤを、第一アリヤという。 移民たちは農業開拓地を開きその村落はモシャバと呼ばれたが、この開拓運動を援助したのが、パリ在住のユダヤ人億万長者、エドモンド・ド・ロスチャイルドだった。 1904年になると、度重なるロシアでポグロムで、ロシア、東欧から再び大量のユダヤ人がパレスティナに流れ込んできた。 これが、第一次大戦まで続く、第二アリヤである。 1914年の時点でユダヤ人人口は8万5千人となった。 パレスティナ全体の人口の12パーセントを占めた。 新しく移民してきたユダヤ人は、農園など経営し、海外から投資する人も現れ、近代的な都市作りも行われ、鉄工場、精油所なども開設された。 ユダヤ人の数が増え経済的にも豊かになってくると、アラブ人との間の争いも起こるようになってきた。 現在にまで続く、イスラエルとアラブ諸国の争いは既にこの時期に芽生えていたのだ。 1914年から始まった第一次世界大戦はパレスティナのユダヤ人に大打撃を与えた。 オスマン・トルコはドイツなど枢軸国側に属しており、パレスティナはトルコを始めとする枢軸国側の基地として使われ、戦力資材の供給地して扱われ、青年は動員され、住民は重税を課せられた。資材を徴発され、強制労働につかされ、ユダヤ人は非常に苦しんだ。 更にトルコ政府は、戦時下にあって反ユダヤ政策を取った。 大戦勃発と同時に、政府はユダヤ人から武器を没収し、外国籍のユダヤ人を追放した。 1917年、パレスティナが戦場となるに及んで、ヤッフォとテルアビブのユダヤ人は全員追出された。 1917年、イギリス軍は大攻勢を掛け、トルコ軍は敗走した。 これによって、1516年から始まったオスマン・トルコのパレスティナ支配は終結した。 しかし、この第一次大戦の結果、戦前に8万5千人いたユダヤ人は、追放、流出、衰弱死などによって5万七千人に減っていた。 しかも、この第一次大戦の最中に、後のパレスティナ問題の混乱の源が作られたのだ。 大戦中に、各国は戦争に勝つために駆け引きを行い、秘密外交を重ねた。 中でも、狡猾なのはイギリスで、フランスとサイクス・ピコ協定を1916年に秘密裏に結び、大戦後オスマン・トルコ帝国の領土をイギリス、フランスで分割する事を取り決めた。 それによると、シリアをフランスの勢力範囲とし、イラク南部などをイギリスの勢力範囲とすることとした。 更にイギリスは、戦争に勝つためにアラブ人の協力を得ようと、メッカのカリフであったフサインとイギリスのエジプト駐在高等弁務官マクマホンとの秘密往復書簡の中で、オスマン・トルコ帝国からのアラブ人の独立運動を支持することを約束した。(1916年) これは、サイクス・ピコ協定と矛盾する。 更に、イギリスは、ユダヤ人の戦争協力を取り付けるために、バルフォア宣言によって、パレスティナをユダヤ人に与えると発表した。(1917年) この宣言は明らかに、フサイン・マクマホン協定と両立せず、サイクス・ピコ協定とも矛盾する。 当時、まだイギリスは世界中に植民地をもつ大帝国だった。 そのイギリスの狡猾きわまりない、二枚舌どころか三枚舌が、のちのち、パレスティナのユダヤ人、アラブ人たちを苦しめる元となったのである。 日本人は、イギリスを紳士の国などという。 英国風の紳士などと言われて悦に入っている日本人も少なくない。 冗談じゃない。 歴史上、イギリス人ほど、アジア、アフリカ、オセアニア、アメリカ大陸の原住民を殺戮し、その富を奪った国民はいない。 イギリスの繁栄は他国民の血の犠牲の上に築かれたものだ。 ロンドンの大英博物館は、イギリスの犯罪記録館である。 世界各国から奪ってきた宝物を恥ずかしげもなく陳列しているから恐れ入る。 略奪してきた獲物自慢をする人間が紳士の訳がないだろう。 パレスティナ問題の責任の大きな部分はイギリスにある。 さて、これで、パレスティナ問題の根っこの部分は掴めたと思う。 本当の問題は、パレスティナがイギリス委任統治領になってから始まる。 この続きはまた明日。
- 2008/07/09 - また、休憩 一日良いと、次の日が良くないな。 昨日、右脚に体重を掛ける運動を少し大目にし過ぎたみたいだ。 だいたい、生身の骨の中に金属の軸を挿入すれば、骨と金属が当たって痛いのは当然だろう。 他の人はこんな痛みを感じないのか。 私の右脚は子供の時から成長を止めているので細いから仕方がないと医者は言うが、これで、本当に痛みの止まるときが来るのだろうか。 昨日は、別の痛み止めを飲んで上手く行ったと思ったが、痛み止めは、痛み止め、やはりこたえるです。 疲労感と、激しい鬱の気分。そして、痛みだ。 右脚で立つために左脚でかなり支える。その無理が左の腰に来た。 パレスティナ問題を書こうと思ったら、リハビリに行く時間になってしまった。 なかなか進まないなあ。 これから、面白くなるところなのになあ。 明日は、パレスティナがオスマントルコに支配されていた時期のことについて書きます。 全くパレスティナというのは複雑怪奇な場所で、人間の欲のぶつかり合いが四千年以上続いている所なんだね。 戦争に一度負けただけでこてんこてんにへこたれてしまった我々日本人には考えられない強い人々が争いあっている所だ。 他人が苦労しているのを面白いなどと言っては失礼だが、こんなに人間の欲と我がぶつかり合い、渦を巻いているところは滅多にない。 気合いを入れて取り組みましょう。
- 2008/07/08 - パレスティナ問題 その4 昨夜は、シドニー・シンフォニー演奏のマーラーの交響曲一番、堪能したなあ。 指揮者は日本では知られていないと思うが、Gianluigi Gelmetti と言うイタリア人で恐ろしく肥っていて、最近は指揮をするときに椅子に座るようになった。以前は、指揮台の手すりに寄りかかっていたのだが肥満が進んだようだ。 Gelmetti のシドニーでの人気はなかなか大したもので、今年で十年近く主席指揮者を務めているのではないか。 シドニーの良いところは、コンサート・ホールの近くによいレストランが沢山あって、演奏会前に美味しい物を食べてワインも飲んで豊かな気持ちになったところで演奏を楽しめるところだ。 レストランに前もって、七時の開演と言っておくとそれ間に合うように食事を作ってくれる。 東京じゃ、演奏会が始まるのが六時なんてことが多いから、夕食を食べる暇がない。それに、コンサート・ホールの周りの食べ物屋はろくなものがない。従って、東京では空腹を抱えて音楽を聴くことになる。楽しくない。気持ちが豊かにならないね。 終わったところで、周りによいレストランのあるところは少ないから、音楽の余韻を楽しむ間もなくレストランを求めてうろつかなければならない。 で、昨夜、コンサートを楽しんでいて、つくづくと西洋文化の偉大さを痛感しました。非常に普遍性がある。 マーラーはユダヤ人だ。交響曲、はドイツ音楽の形式だ。それをイタリア人が指揮をして、東洋人から何から色々な人種の混じったシドニー・シンフォニーが演奏をし、日本人の私が感動する。 義太夫や小唄じゃ、こうはいきやせんでがしょう。 さて、あの麻薬系痛み止めの副作用が大分鎮まってきたので改めて気を取り直して、パレスティナ問題にとりかかろう。 その前に訂正を一つ。 私の弟から「にいちゃん、ボブ・ディランのことをカントリー・ロックと書いたなあ。みんなに怒鳴り込まれても知らんけんね」と脅迫状が来た。 確かめてみると、そんな風に書いてあるね。 これは間違いだな。一時ボブ・ディランがロックを始めたので、フォーク・ロックと書くつもりが、フォークとカントリーを混同した。 いずれにせよ、ボブ・ディランはフォークの神様なんだから、フォークシンガーとして置いた方が安全だ。 よって、ボブ・ディランはフォークシンガーと訂正。 もう一つ、ある読者から次のようなお便りを頂いた。 「紀元四世紀初めにコンスタンティヌス一世の時にキリスト教がローマ帝国の国教となってから、(以下省略)」 と雁屋さんは書かれておられますが、コンスタンティヌス1世はローマ帝国において、それまで信仰が禁止されていたキリスト教を313年のミラノ勅令によって「公認」したのであって、キリスト教を「国教」としたのは、その後に登場するテオドシウス1世(380年)です。 これは、失礼ですが、誤読です。 こう言う誤読は、世界史の教科書をちゃんと読めば起こらないことなので、このような投書はそのままにしておくのが私の方針ですが、他にも同じような誤解をする人がいるやも知れぬので、敢えて、説明することにします。 私は「コンスタンティヌス一世がキリスト教を国教とした」とは書いてありません。「コンスタンティヌス一世の時に、キリスト教がローマ帝国の国教となって」と書いてあります。 「コンスタンティヌス一世のときに国教となった」というのと「コンスタンティヌス一世が国教にした」というのとでは、若干の違いがあります。 歴史的に言うと、最初ローマ帝国はキリスト教を迫害してきました。 それが、コンスタンティヌス一世がキリスト教に改宗すると同時に、313年にリキニウス帝と協定を結び、キリスト教を公認しました。 これがいわゆるミラノ勅令と言われるものですが、厳密にいえば、ミラノでそのような勅令が出された歴史的事実はなく、ただ、両皇帝のミラノでの協定に基づいてリキニウスが同年ニコメディアで両皇帝の名において発した訓令の内容の記録が伝わるにすぎないが、後世の史家がこれをミラノ勅令とよんだのだそうです。 コンスタンティヌス一世は325年に小アジアのニカイアで公会議を開き、キリストを父なる神と同質とする「ニカイア信条」が制定されました。 379年に皇帝になったテオドシウスは宗教的内紛の解決に意を注ぎ、ニカイア信条をカトリック(普遍的)と認めて、380年2月全臣民にこの「正統信仰」を信ずることを課した、いわゆるカトリック国教化勅令を発しました。(ついでに、カトリックとは、「普遍的」「公同的」「一般的」という意味で、ニカイア信条を信じている教会が、全人類のための唯一の救いの機関であると主張している訳です) このように、国教化勅令を出したのはテオドシウスですが、それ以前にコンスタンティヌス一世のときに、公認されています。 キリスト教公認の実質を重く取るか、皇帝による国教化勅令を重く見るかで言い方は違ってきます。 私は、キリスト教が公認されたことをすなわち国教化ととらえ、それが、コンスタンティヌス一世の「ときに」、行われた、と言っているのです。コンスタンティヌス一世が国教化勅令を出したとは言っていません。(しかし、それも勅令という形があったかどうかの違いだけで、実質コンスタンティヌス一世が国教にしたように思えます) 現在、「コンスタンティヌス一世のときに、国教化が行われた」という言い方は通例となっているように見受けられます。 さて、もう一つ問題がある。これも弟に脅迫されたんだが それは、ユダヤ人とはそもそも誰なんだと言うこと。 135年に、イスラエルを追放された時点では、ユダヤ人はアブラハムやモーセの子孫であることははっきりしていたが、それから、世界中に離散し、各地で迫害を受け、移動するうちに、様々な民族と交雑しただろう。 現在、全世界のユダヤ人はスファラディー系ユダヤ人、とアシュケナージ系ユダヤ人の二つに大きく分けられる。 スファラディー系ユダヤ人はスペイン、ポルトガル、など西欧系。 アシュケナージ系ユダヤ人はロシア、など東欧系、である。 最近になって、ハンガリー生まれのジャーナリスト、アーサー・ケストラーの著書「第十三支族」の影響を受けて、全世界の約90パーセントを占めるアシュケナージ系ユダヤ人は、7世紀頃カスピ海北岸から黒海北岸に掛けて草原地帯に栄え、800年頃にユダヤ教を国教としたが12世紀に滅んだハザール人の子孫であるという説が唱えられている。 アシュケナージ系ユダヤ人は実はトルコ系白色人種のハザール人で、セム系であるアブラハムやモーセの子孫ではないと言うのである。 その説の真否を問いただすのが私の書き始めた「パレスティナ問題」の本筋でもないし、たとえその説が正しく、イスラエルの国民の90パーセントが、アブラハムやモーセの子孫でないとしても、パレスティナ問題の本質は変わらないので、その説にはさわらないでおく。 そもそも、ユダヤ人は誰かを決定するのには、ユダヤ人を大虐殺したナチスも、困ったのである。 以前にも紹介した「ラウル・ヒルバーグ」の「ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅」という本は、被害者であるユダヤ人の立場からでなく、虐殺を行ったナチスの側からのユダヤ人絶滅行為を綿密詳細に研究したものだが、そのなかの一章に「ユダヤ人の定義」というのがある。 そのなかの一節に、 「ユダヤ人を定義する問題は決して単純ではなかった。(中略)1890年代における反ユダヤ主義的な帝国議会議員ヘルムート・フォン・ゲルラッハは、回顧録の中で帝国議会の16人の反ユダヤ主義派のメンバーがどうして反ユダヤ主義的な法案を一度も提出しなかったかを説明した。彼らはユダヤ人の有効な概念定義を見つけられなかったのだ。皆が口をそろえて次のように言った。 ユダヤ人がなにを信じようがかまやしない。 その人種には不快感が湧くんだ。」 とある。 1933年の法令によって「非アーリア系人の家系」の官吏は退職させられることになった。 「非アーリア系」という用語は、ユダヤ人の父母か、ユダヤ人の祖父母を持つすべてのものの呼称と定義された。 父母や祖父母がユダヤ教の信者であればユダヤ人とみなされた。 しかし、「アーリア人」か「非アーリア人」かのグループに分類する基準は宗教、それも当人の宗教ではなく、如何なる場合でも祖先の宗教だった。 ヒルバーグは言う、「いずれにせよ、ナチスは『ユダヤ人の鼻』に感心があったのではなかった。かれらは『ユダヤ的影響力』に感心があったのである」 ナチスに協力する様々な人間が、ユダヤ人の定義に取り組んだ。 これが、非常に入り組んだ問題であり、二分の一ユダヤ人とか、混血児とか、様々な問題を引き起こした。 ヒルバーグは、結果的に、ナチスが絶滅の対象とした「非アーリア人」は以下の通りである、とまとめている。 第二級混血児・・・ユダヤ人の祖父母を一人もつ者 第一級混血児・・・1935年9月15日にユダヤ教に属しておらず、ユダヤ人と結婚しておらず、ユダヤ人の祖父母を二人もつ者。 ユダヤ人・・・・・1935年9月15日にユダヤ教に属していたか、ユダヤ人と結婚した場合はユダヤ人の祖父母を二人もつ者、それにユダヤ人の祖父母を三人ないし四人もつ者。 これには、スファラディー系ユダヤ人も、アシュケナージ系ユダヤ人も関係ない。 「人種的」にユダヤ人を定義できない。 ユダヤ人と定義できるのは、宗教によるだけであることが分かる。 これを、「日本人とは何か」を定義する場合と比べていただきたい。 「日本人とは何か」を定義するのにこんなに複雑な問題は起こらないだろう。(アイヌなどの少数民族については問題があるが) では、現在のイスラエルでは、ユダヤ人をどう規定しているのだろう。 1970年に改訂された帰還法では、イスラエルに受け容れられるユダヤ人とは「ユダヤ人の母親から生まれた者、あるいは正規の手続きを踏んでユダヤ教に改宗した者(この改宗は簡単には認められない)」で、「他の宗教に帰依していない者」とされている。 これでは、見た目ではだれがユダヤ人と決められない。 アフリカから戻ってきたユダヤ人には、アフリカ人の血が入っていて見た目は肌の色が黒く顔かたちもアフリカ人としか思えない者もいる。 それでも、ユダヤ人なのである。 どうも、話が複雑になってきた。 このままでは、パレスティナ問題の主役であるユダヤ人が誰なのかあいまいになってしまう。 イスラエルの法律に従うのが今のところ一番確実なところだろう。 (明日に続く)
- 2008/07/07 - Oxy-Contin 今朝は一旦起きて、連れ合いに助けて貰ってリハビリの運動を四十分ほど行う。 右膝は98度くらいまで曲がるようになった。 リハビリが終わると、その疲労で十二時近くまで眠ってしまった。 一昨日の痛み止めの影響が大分薄れてきて、頭は何とか動くが、身体の芯が疲労困憊して何か物事を考えようとする気にならない。 私の飲んだ薬は、Oxy-Contin といって、モルフィネに属する習慣性のある麻薬みたいなものらしく、えらく、取り扱いが厳重です。 その20ミリグラムの錠剤を飲んだのだが、私には多すぎるのではないかと思って半分に割ってのもうとしたら、錠剤はまるごと飲んでゆっくり溶けるように設計されているのであって、砕いてしまったら急速に溶けて危険なのだそうだ。 素人はうっかりしたことをするもんじゃないね。 明日にでも、医者に行って相談してきます。 今日は、キーボードを打つ気力もない。 これから、再びベッドに潜り込みます。 気力の衰えているときには寝るしかない。 しかし、夜には、シドニー・シンフォニーの演奏するマーラーの交響曲一番を聞きに行くんだ。 これで、心が晴れればなあ。 パレスティナ問題、気がかりだが日延べになります。
- 2008/07/06 - 麻薬系の薬は怖い 昨日は失礼しました。 一昨日、麻薬系の強力な痛み止めを飲んでリハビリに行き、右脚に体重を掛ける運動を厳しく行った。 その際に、どうしても左脚で右脚をかばう形になり、おかげで右の腰の筋肉を痛めてしまった。 家に帰ってくると、この痛み止めが切れていくその時の強烈な苦しさが襲ってきて、布団の間で身動きもできず、まともなことを考えることも出来ず、夕食は辛うじて食べて沈没。 そして、昨日、朝から、体中が動かない。 頭がぼーっとして、まるで頭の中で誰かがすき焼きでもしているようにぐつぐつ煮えて、体の奥深いところまで打ちのめされたような感じ。 体も動かないし、気力も湧かない。 しかも、腰が痛くてコンピューターの前に坐れない。 強烈な痛み止め、(麻薬系)と言うものが、どんなに凄いものなのか痛感した。 かつて、友人にヘゲタミンとか、ベゲタミンとか言う薬を、睡眠薬にいいよと進められて飲んだら、2日半起きられなかったことがある。 痛み止めや、抗精神剤などむやみに手を出すものではないと思い知らされた。 それにしても、こんな強力な痛み止めを一日二回飲んで平気とは、オーストラリア人の体は一体どうなっているんだろう。 そんな訳で、昨日は痛み止めに負けて、完璧にお手上げでした。 痛み止めの悪影響は、今日も、まだ続いています。頭が動かなくては何も仕事はできません。 明日あたりから、正常に戻りたいと思っています。 まったく、どうしてこんな目にばかり会わなければならないのか。 神様がいたとしたら、どうも、その神様と私とは折り合いが悪いようだな。
- 2008/07/04 - 前半のまとめ さて、ここまでの前半を整理し、大まかにまとめてみよう。 パレスティナ問題は、1948年のユダヤ人によるイスラエル建国に始まる。 紀元135年に、ローマ帝国に対する最後の反乱に敗れてユダヤ人はイスラエルから追放されて、世界中に離散して行った。 四世紀にキリスト教がローマ帝国の国教となって以来、ユダヤ人はキリスト教徒の敵として迫害されるようになった。 中世を通じて、ユダヤ人に対する迫害は続き、1800年代も後になると、アンティ・セミティズムがヨーロッパ各国で激しくなった。ユダヤ人は個人の尊厳も認められず、暴行、虐殺など、肉体的にも激しい迫害を受けていた。 そんな状態にあるユダヤ人を救うただひとつの道は、ユダヤ人のための国を造ることだと、テオドール・ヘルツルは考え、「シオニズム」が広まり、それが、イスラエル建国につながった。 以上、大まかにまとめたが、この前段を前提として、しっかり掴んで置いて頂きたい。 1800年間にわたってユダヤ人が受けてきた迫害の大きさ、ひどさ、残酷さはどんなに強調しても強調しすぎることはない。 今、パレスティナ問題で中東から欧米の世界はさまざまな苦しみを味わっているのだが、それは自分たちが1800年間にわたってユダヤ人たちに、全く理不尽きわまりない迫害を加え、いため続けてきたことのつけが回って来ているのだ。 このつけを、如何にきれいに清算するか。 それが、世界の抱えている問題なのだ。 ところで、最近、人工関節を入れた方の脚の脛が痛くてたまらない。 これでは、歩くにも歩けない。骨に異常があるのでは、何をすることも出来ない。 昨日、医者に診て貰ったら、手術の経過は順調だが、脛の骨の中に挿入されている人工関節を支える金属の軸と、私自身の骨とが、折り合いが悪く、それで痛みが発生しているのだという。 これは、骨と金属という異質の物質がくっついているのだから当然の現象で、この痛みを消すための方策はない。 骨が成長して金属と上手く共存できるようにするしかない。 そのためには、どんどん脚を使って骨に負荷を掛け、金属となじむように成長させなければならないと言う。 当面、痛さを押さえて運動を続けるために、痛み止めを飲めと言って、医者は痛み止めを処方してくれた。 痛み止めを飲みつつ運動を続けると言うのは、厳しい。 さて、その薬を飲んだところ、かなり強い麻酔作用を持つらしく、頭がぼーっとして、だるい。意欲も減退する。 現在、その影響下で書いている。 ちょっと辛いので、パレスティナ問題を今日は書くことができない。 今日一日様子を見て、あまり、悪影響が続くようだったら、薬を変えるしかないだろう。 今日はこれからリハビリに行くので、専門家にこの痛み止めをどう制御していくか考えてもらって、すっきりした頭になって、明日から、パレスティナ問題を続けたい。
- 2008/07/03 - パレスティナ問題 その3 イスラエルを建国し、維持している思想と運動は「シオニズム(Zionism)」と呼ばれるものである。 シオンは聖地エルサレム南東にある丘の名で、「シオンの地」は、迫害され続けて来たユダヤ人にとって解放への願いを込めた象徴的意味を持つものだった。 その「シオン」を取って「シオニズム」と言うのである。 シオンへ帰れ、と言うわけだ。 1860年、ハンガリーのブダペストに生まれた、テオドール・ヘルツルは大富豪の娘と結婚して巨額の持参金を得たことから悠々自適の生活を送った。だから、「シオニズム」運動に時間を使うことができたのだろう。 ユダヤ人が如何に迫害されてきたか、そしてヘルツルの時代にもロシアでポグロムと言うユダヤ人に対する虐殺事件が多発していたことは、昨日述べたとおりだ。 そのユダヤ人問題を解決するために、最初、ヘルツルは、ユダヤ人をドイツなどヨーロッパ各国に同化させようと考えた。自分はユダヤ教から改宗しないが、自分の子供の将来のことを考えると子供はキリスト教に改宗させよう、とまで考えていた。 ところが、1800年代も終わり近くになると、ヨーロッパ中に反ユダヤ運動(アンティ・セミティズム)激しくなってきた。 (アンティ・セミティズム Anti-Semitism とは反ユダヤ主義のこと。Semite はセム語族の意味。西アジアから北部および東部アフリカにかけて、人種を区別するのにその話す言葉で、セム語族、ハム語族と呼んでいる。セム語の中には、ヘブライ語も、アラビア語も入るが、この「アンティ・セミティズム」の場合には、ユダヤ人を指す。) どんなにユダヤ人が同化しようとしてもそれを認めない。 「ユダヤ人はゲットーのユダヤ教に執着したなら、それが理由で彼らは異質だとされた。ユダヤ人が世俗化し自らを『啓蒙』したならば異質な文明社会の一員となった」(ポール・ジョンソン「ユダヤ人の歴史」) 例えば、アンドレ・ジィドは次のように、言っている、 「今日フランスにはユダヤ文学があるが、それはフランス文学ではない。(中略)誰か異質な人間がフランス人の名において、フランス人に代わってその役割を演ずることを許すよりも、フランス人が消えてしまうほうがよほどましであろう」(同上) こんなことを言われてしまっては、ユダヤ人は生きる場所がなくなってしまう。 ユダヤ人は離散民族である。各地に散らばっている。しかし、行く先々でその土地の社会に貢献している。 それにも拘わらず、ヨーロッパ人はユダヤ人を自分たちの社会から排除しようとする。 ジィドの言葉は、反ユダヤ感情の持つ愚劣さ、人間性の根幹に関わる低劣さ、無神経な冷酷さ、残虐さを表している。 政治の世界でも、アンティ・セミティズムが進み、アンティ・セミティズム運動を掲げた議員が1895年にはドイツの上院の過半数を占め、ウィーンでは、自由主義者71議席に対して、アンティ・セミティズムの議員が56議席を獲得した。 こうなると、ユダヤ人の中にも諦めが広がってくる。 ロシアのユダヤ人、レオン・ピンスケルは次のように言った。 「生きている者にとってユダヤ人は死人だ。ある国民に取っては異邦人であり放浪者、資産家にとっては物乞いだ。貧乏人にとっては搾取する者であり億万長者、愛国者にとっては国なき人間だ。あらゆる階級の人々にとって憎むべき敵なのである」(同上) 実際、もし私がその頃のヨーロッパにユダヤ人として存在したらどうだったろうと考えるだけで寒気がする。 人間、そこまで自己を否定され、肉体的な迫害を受け続け、良く生き延びることができたものだと、ユダヤ人の根性には感心するばかりだ。 ヘルツルも、その様な状況を見て、同化しても無理だと考えるようになってきた。決定的なのは、フランスでおこったドレフュス事件だった。 これは、フランスの陸軍大尉ドレフュスがスパイの冤罪を掛けられて投獄された事件である。はっきりした証拠もないのに、ドレフュスがユダヤ人であると言うだけの理由で有罪とされ、士官としての名誉を剥奪され投獄されたのだ。 この、ドレフュス事件については、小説家のエミール・ゾラなどが、批判の声を上げ、最終的にドレフュスの冤罪は雪がれ、将軍に復職するのだが、それは随分後のことで、ヘルツルはそれを見ることができなかった。 そのドレフュス事件は、ヘルツルに決定的な衝撃を与えた。 ユダヤ教を捨ててまで、ヨーロッパの国々に同化しようとしても、ユダヤ人はユダヤ人として受け入れられない、ことを思い知らされた。 では、一体どうすれば良いか。 そこで、ヘルツルは、 「これだけ、アンティ・セミティズムが激しくなっていけば、ヨーロッパ全土からやがて間もなくユダヤ人は追放されてしまうだろう。 その追放されるユダヤ人に、代わりの緊急避難所を考え出すことが緊急に求められている。ユダヤ人は彼ら自身の国を持たなくてはならない」と考えた。 これが、「シオニズム」の原点だろう。 ここで興味深いのは、最初、ヘルツルは、ユダヤ人を収容するのに十分の広さの土地で、ユダヤ人の主権が与えられるところであれば、どこであってもかまわない、と考えていたことだ。 アルゼンチンでもウガンダでも良いと考えていたのだ。 ヘルツルのこのユダヤ人のための新しい国を作る、と言う考えは当時のユダヤ人の有力者たち、知識階級から受け入れられなかった。乱暴で馬鹿げた考え方で、そんなことをすれば、ヨーロッパでのユダヤ人の立場をますます危うくする、と有力者、知識階級はヘルツルに反応した。 ヘルツルはまずユダヤ人の間に、自分の考えを説いて回らなければならなかった。 1897年8月29日にスイスのバーゼルで第一回シオニスト会議を開き、それ以降も、ヨーロッパ中を回って、ユダヤ社会の有力者たちを説得して回った。 ヘルツルの意見は徐々にユダヤ人社会に受け入れられていったが、ヘルツルは1902年に44歳の若さで亡くなった。 「シオニズム」の展開、イスラエルの建国は、後の人間に託さざるを得なかった。 しかし、ヘルツルの生前、後にイスラエル建国に力を尽くす、ハイム・ヴァイツマン(イスラエルの初代大統領)、ダヴィッド・ベン・グリオン(イスラエルの初代首相。イスラエル独立の象徴とされている)は、既にヘルツルについてよく知っており、二人とも、ヘルツルをメシア(救世主)と思ったと語っている。 ヘルツルの展開した「シオニズム」こそ、イスラエルを建国させたものであり、パレスティナ問題を産み出した、根幹なのである。 (明日に続く)
- 2008/07/02 - パレスティナ問題 その2 現在のパレスティナ問題は、1948年5月14日に、イスラエルが建国されたときに始まる。 紀元135年に、ローマ帝国によってイスラエルから追放されたユダヤ人が、1800年以上も経った後に、かつてユダヤ王国があったイスラエルにユダヤ人国家を再興したのである。 イスラエルを追放された後、世界各地に離散していたユダヤ人がどうして再びイスラエルの地に戻って来て自分たちの国を建設したのか。 それは、一昨日話した、ユダヤ人が離散した後世界各地で受けて来た迫害が最大の原因だ。 キリスト教は、ユダヤ教を基本にし、ユダヤ人であるイエスを神の子として崇め、ユダヤ人であるパウロの樹立した教義を絶対の物としている。ユダヤ教の中でも一番重要なユダヤ人モーセを、キリスト教徒も崇拝する。 それなのに、ユダヤ人に反感を抱き迫害してきた。 私のような無信仰の者には、全く理解が行かない。 自分たちが拝んでいる十字架の上にいる人物はユダヤ人ではないか。 それなのに、どうしてユダヤ人に反感を抱き、ユダヤ人を迫害するのか。 ユダヤ人に対する迫害はナチスに対するホロコーストで我々日本人にも良く知られるようになったが、それはナチスが始めた物ではない。 キリスト教が盛んになるまではローマ帝国は宗教や信仰を束縛したり、自分の宗教をおしつけたりしなかった。しかし、紀元四世紀初めにコンスタンティヌス一世の時にキリスト教がローマ帝国の国教となってから、キリスト教会はユダヤ人にキリスト教に改宗することを要求し始めた。 キリスト教会にとってキリスト教は唯一絶対の宗教であり、キリスト教を信じない人間は愚かで間違っている。キリスト教を信じない人間が地獄に陥るのを防ぐため、キリスト教に改宗させるのがキリスト教会の役目だとさえ考えていた。 ユダヤ人達は、最初の内キリスト教をユダヤ教の一分派と考えていたが、キリストが神格化され、神の子であるとされると、とても信じることが出来なくなった。 ユダヤ教で神とはエホバのみであり、エホバ以外の神を信じることは許されない。したがって、キリストと聖霊と神とを一つに捉えるキリスト教の「三位一体説」など受け入れることは出来ない。 キリストを神とは信じられない。 キリスト教を信仰することはユダヤ教を放棄することであり、ユダヤ人には受け入れられるところではなかったのだ。 キリスト協会側では、暴力を振るってまでユダヤ人をキリスト教に改宗させようとしたが、大多数のユダヤ人は強固であり、ユダヤ教を固く信じキリスト教に改宗することを拒んだ。 改宗が進まないところから、キリスト協会側では、ユダヤ人をキリスト教徒とは異なった、キリスト教に耳を傾けない、キリスト教徒にとっては危険で特殊な人間の集団とみなすようになった。 これが、キリスト教徒が、ユダヤ人を迫害する根拠となった。 本当に宗教は恐ろしい物である。その宗教を信じている者は自分たちの信仰が絶対に正しいと信じて疑わない。必然的に、この自分たちの宗教を信じない者は、自分たちに敵対する悪であり、地獄に堕ちる者となる。その様な者は人間扱いする必要がないから、どんなに迫害したところで心が痛まないし、むしろ、迫害して絶滅させることが神の御心に叶うことであるとさえ考える。 十六世紀、宗教改革で有名な、マルティン・ルターは次の様なことを言っている、 「民族というものは、15世紀間も苦しみながら、なおかつ自分たちが選ばれた民族だと信じることは出来ないものだ。しかしユダヤ人は蒙昧であった。神罰をこうむった。神は彼らを狂ったように、やみくもに、激怒して、そうして永遠なる業火をもって苦難の目にあわせた。その永遠なる業火について、預言者たちは言う、神罰はたれびとも消し去ることのできない炎のように投げつけられるだろう、と。」 更に、こんなことも言っている。 「彼ら(ユダヤ人)は1400年以上にもわたって、全てのキリスト教徒にたいする血に飢えた追跡犬である殺害者である。実際、彼らは、彼らが飲用水や井戸に毒を入れたり、また子供をかどわかして切り刻んだという告発を受け、しばしば火あぶりにされた。それはユダヤ人が、キリスト教徒の血をもって、ひそかに彼らの気分を静めるためであった」 ルターの、ユダヤ人像は、 彼らは世界を支配しようとしている キリストと全キリスト教世界の最も重大な犯罪人であり、その殺人者である。 ユダヤ人は、疫病、ペスト、純然たる災厄である。 と言うものだった。 (この辺のことは、「ラウル・ヒルバーグ著 『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』柏書房刊」を参考にした) 全く途方もないことを言うものだと呆れ果てるが、宗教指導者がこんなことを言うのだから、キリスト教徒の世界でユダヤ人が人間扱いされなかったのは当然のことだ。 十九世紀の有名な音楽家ワーグナーもユダヤ人の「消滅」を唱道して、次のように言っている。 「ユダヤ人種は、純粋な人間性とそこにある高貴なものすべてに対する生まれながらの敵だ、とわたしは考えている。われわれドイツ人は彼らの前に破滅することになるであろう。芸術を愛する者としてわたしは、すでにすべてを支配しはじめているユダヤ的なものに対して、どのように立ち向かえばよいかを知るおそらく最後のドイツ人である」 要するにユダヤ人は絶滅させろと言っているのである。 このように、ユダヤ人の受けた迫害たるや、凄まじい物で、まず徹底的に人格を否定される。 卑しく、汚らしく、淫らで、狡猾で、強欲で、嘘つきで、などなど、人間として耐えることのできない言葉で罵られるだけでなく、肉体的にも激しい攻撃を受けた。 帝政ロシアでは、ポグロムというユダヤ人相手の虐殺が繰返し行われた。 ヨーロッパでも、至る所でユダヤ人に対する虐殺が行われた。 しかも、14世紀のドイツの法令では、「ドイツの都市で殺害されたユダヤ人の財産は、公的財産とみなされる」と規定されている。 虐殺された上に、その財産まで国に奪われるとなったらもはや救いがない。 このように徹底的に迫害され、悲惨な状況にあるユダヤ人に対して、一つの救いの道を見いだしたのが、1860年にブダペストで生まれたヘルツルだった。 ヘルツルが、今のイスラエルの建国に導く、シオニズムを確立したのだ。 (明日に続く)
- 2008/07/01 - 好事魔多し〈「雁屋哲の食卓」に「白菜のサラダ」を掲載しました〉 好事魔多し、とはこの事だ。 昨日の続きを勇んで書こうと思ったら、車のエンジンがおかしな音を立てるので、いつも私を助けてくれているオーストラリア人の助手に見て貰ったら、何も異常はないという。 仕方がないので、一緒にドライブに行き、私の感ずる異常音を確認させなければならなかった。 しばらく走ってようやく、私の言う異常音を理解して貰った。 彼は、いつもベンツに乗っていて、私の車と違うので、私のエンジンの異常音が一緒に乗って説明しないと分からなかったのだ。 私の車は日本車ですよ。とても静かないい車だ。 で、整備に出すことになった。 それが終わってコンピューターに向かったら、今度は仕事の打ち合わせをビデオチャットしたいという申し込みがあって、それに、三時間以上取られた。 おかげで、パレスティナ問題の第二回が、途中までで止まってしまった。 この状態ではアップロードできないので、第二回は明日に延ばします。 大事な所なので、延ばしたくないんだけれど、仕方がない。 その代わりに、「雁屋哲の食卓」に「白菜のサラダ」を載せました。 それで、今日の所はご勘弁。
- 2008/06/30 - パレスティナ問題 その1 さて、読者諸姉諸兄に「宿題」として出しておいた、パレスティナ問題について、考えて行こう。 これは、ちょっと長くなりますよ。 我慢してくださいね。 なぜ、我々日本人がパレスティナ問題を考えなければならないのか。 遠くの国の問題に首を突っ込むことはないという意見もあるだろう。 しかし、これは決して他人事ではない。 ユダヤ人とアラブ人の争いだと単純に考えてしまえばそれまでだが、 これには、アメリカが絡んでいる。中東の産油国も絡んでいる。 イスラエルとアラブ諸国の間の争いが拡大すれば石油の多くをアラに頼っている日本は打撃を受ける。 その様な現実的な利害関係だけではなく、我々日本人が個人的に、考えなければならない多くのことがパレスティナ問題には含まれている。 国家と民族の問題。 宗教問題。 人権問題 テロリズムの問題 など、だ。 いずれも我が身に引きつけて考えなければならない問題だ。 私は昔からユダヤ人に非常に興味を抱いてきた。 きっかけとなったのは、二冊の本である。 フランクルの「夜と霧」 アンネ・フランクの「アンネの日記」 ともに、第二次大戦中のナチスによるユダヤ人迫害について書かれている。 両方共に有名な本なので、読者諸姉諸兄におかれては、夙(つと)にご存知の事と思うが、念のために簡単に紹介しておく。 「夜と霧」はオーストリアの心理学者、ヴィクトール・フランクルがアウシュビッツの強制収容所に入れられた体験を元に書いた物で、 ナチスの行った非人間的な残虐な所業と同時に、本人が心理学者であるから、収容所に入れられた人間の心裡の動きを描いていて、私は最初に読んだとき、あまりの恐ろしさに心より体がひどく苦しくなった。 「アンネの日記」はナチスの迫害を逃れて、オランダのアムステルダムのある家に隠れていたアンネが書いた日記である。 フランクルも、アンネもユダヤ人で、フランクルは命拾いをしたが、アンネは収容所に送られて殺された。 写真で見るとアンネはまだあどけなさの残る愛らしい少女で、その少女が隠れ家で厳しい生活を送り、挙げ句の果てに強制収容所で殺される。その、過酷さ、悲惨さに、心が重くふさがった。 ナチスが殺したユダヤ人の数は600万人以上と言われている。 一体どうしてナチスはそこまで、ユダヤ人を憎んだのか。 何故、当時のドイツ人は、ナチスに同意してユダヤ人の虐殺に積極的に、あるいは消極的に協力したのか。 上記二冊の本を初めて読んだ時、私は十代の終わりだったが、それ以来ユダヤ人のことはいつも気に掛かっていた。 色々なことを学ぶに連れて、ユダヤ人は他に例を見ない特性を持つ民族だと言う事が分かってきた。 世界史は、様々な民族の興亡の歴史である。いくつもの民族が、次々に興って非常に栄えるが、ある時期を過ぎると滅びるか、滅びないまでもその勢力は著しく縮小する。 例えばイスラム帝国(サラセン)はムハンマド(モハメット)の死後7世紀半ばから急速に勢力を伸ばし、アラビア半島は勿論、スペインのあるイベリア半島、北アフリカ、インドまでその版図を広げたが、13世紀半ばに、蒙古帝国に滅ぼされた。 そのイスラム帝国を滅ぼした蒙古帝国は、一時、中国に元王朝を築き、その勢力は東ヨーロッパまで広がったが、14世紀半ば過ぎに元王朝の滅亡と共に崩壊した。今、蒙古はモンゴルとして存在しているが、昔日の勢いは無い。 所が、ユダヤ人は紀元後135年にローマ帝国によってイスラエルから追放され世界に離散するが、離散した各地で生き延びて、1900年経った現在まで、世界中の人間に影響を与える様々な業績を残している。 前に、イスラエルについて書いたときにも指摘したが、中東からヨーロッパの歴史の転回点にはユダヤ人が大きな役割を果たしている。 モーセがいなかったら、ユダヤ教はもとより、キリスト教もイスラム教も成立しなかっただろう。 イエス・キリストがいなかったら、キリスト教は生まれなかったし、イスラム教も成立しなかっただろう。 そして、パウロがいなかったら、イエス・キリスト自身は、ユダヤ教の中の異端の指導者で終わっていただろう。パウロが、イエス・キリストの死後、イエスを救世主とするキリスト教の構造を作り上げたのだ。 パウロの凄かったのは、キリスト教を、ユダヤ教を源にしながらユダヤ人以外の民族誰でも信仰できる形に作り上げたことだ。 パウロがいなかったら、ヨーロッパを始め世界中にキリスト教が受け入れられることはなかっただろう。 ムハンマド(モハメット)がその影響を受けることもなかっただろう。 モーセ、イエス・キリスト、パウロ、と言う三人のユダヤ人が、中東からヨーロッパにかけての文化の根底に関わっている。 我々アジア人も、ヨーロッパの影響を強く受けているから、モーセ、イエス・キリスト、パウロを無視することは出来ない。 近代以前も世界各地でユダヤ人は業績を上げているが、分かりやすいように、近代以降世界に影響を与えたユダヤ人の名前を数人挙げてみよう。 カール・マルクス(世界中に共産主義革命を起こす種をつくった) フロイド(精神分析学を創始し、それまで人類が持っていた人間観を変えた) アインシュタイン(相対性理論によって、物理学や思想の根底に影響を与えた) フォン・ノイマン(コンピューターを発明した。ノイマンがコンピューターを発明しなかったら、今我々が重宝しているインターネットも存在しなかっただろう) リーヴァイ・ストラウス(ジーンズを世界中の人間に着させた人間。リーヴァイスのジーパンを知らぬ者はいないだろう) メンデルスゾーン(音楽家。自身も作曲家として有名だが、それまで忘れ去られていたバッハを再発見したことの業績が大きい。メンデルスゾーンがいなかったら、バッハは埋もれたままだったのだ) バーンスタイン(ウェストサイドストーリーの作曲家、指揮者) ボブ・ディラン(カントリー・ロックの神様と言われている人) と挙げていけば切りがない。 ユダヤ人は、特にアメリカで大きな力を持っており、新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、映画などの世界、そして金融の世界でも、その力を発揮している。 アメリカは、世界ただひとつの超大国だが、その大統領選挙にもユダヤ人の影響力が強く働く。 日本の様なアメリカの属国は勿論のこと、アメリカの力は世界中に及ぶから、世界中の人間が、ユダヤ人に対して無関心ではいられないのである。 2004年現在の時点で世界の人口60億の中に占めるユダヤ人の人口は約1500万人に過ぎない。 ホロコーストで殺されなかったとしても、全世界のユダヤ人の人口は世界の人口の0.5パーセントにも及ばない。 紀元135年に世界中に離散してからも、その人口の全世界の人口に占める割合はこれ以上多いことはなかっただろう。 さらに、ナチスによるホロコースト以前から、ユダヤ人は行く先々で迫害を受けてきた。 その迫害も単なる差別と言うだけではなく、多くの場合虐殺を伴っていた。 これだけ長い間他民族による迫害を受け続けてきた民族も他に例がない。 そして、その迫害を1800年以上に渡って受けながら生き延びて来たのも驚くべき事だが、迫害されながらも、世界に影響を及ぼす多くの業績を上げてきた事実は、驚きを通り越して、ユダヤ人に対する畏敬の念を呼び起こす。 生物学的に、人種間に肉体的な差異はあるが(髪の色、皮膚の色、背の高さなど)、優劣はない。 ユダヤ人が歴史上これだけの多くの業績を残したのはユダヤ人が人種として優れていたからからではなく、ユダヤ人の生活文化がそれを可能にしたと言われている。 旧約聖書はもともと、ユダヤ教の聖書である。もっとも我々が知っている旧約聖書と、ユダヤ教の聖書は違いがあるが、基本的な内容は同じと考えて良いようだ。 旧約聖書を新約聖書、コーランと比べてみると、その量、書かれている内容の多種多様な豊富さで、図抜けている。物語性にも富んでいる。 ユダヤ教はあの膨大な聖書を読み、解釈・理解することに自分を捧げる。 旧約聖書の説くところは、抽象的な宗教概念だけでなく、具体的な身の回りの事柄についても詳しく及ぶ。 ユダヤ教の基本的な態度は聖書を学び、論理的に考えることである。それも、日常の細かなところにまで目を届かせる その旧約聖書を読むことが、ユダヤ人の生活文化となっている、それこそがユダヤ人が離散生活を1800年以上続けて来ても、ユダヤ人としての自己同一性を失わなかった力の元である。 この、良く学び論理的に物事考えると言う態度が、ユダヤ人の身に染みつき、それが更に論理の導くところ、それまでなかった新しい物を得るための跳躍の出来る素地を作った。 それが、ユダヤ人が他の民族に見られない多くの業績を残す力となったのだろう。 その理由はともかく、ユダヤ人は長い間の苛酷な迫害を乗り越えてきた極めて聡明な民族である。 その、人類の中でも極めて聡明なユダヤ人がこのパレスティナ問題の主役なのだ。 (以下、明日に続く)
- 2008/06/29 - 一日延期 ウウープス! 「パレスティナ問題」に取りかかっところに、こちらに留学している美容師の資格を持った女性が来てくれた。 今の私は床屋に行けないので、その女性が頼りである。 若いときは汚らしくしていても良いけれど、歳を取ると身ぎれいにしないと、社会の迷惑になるからね。 「パレスティナ問題」を途中まで書きかけたところでアップロードするわけにも行かないので、一日延期します。 人間身だしなみが第一だ。 頭をさっぱりして貰ってきます。 ついでに、茶髪か金髪に染めて貰おうかな。 ほーっ、ほっ、ほっ、ほっ・・・・・・
- 2008/06/28 - 久し振りに車を運転した〈「子育て記」に「第一章 その4」を掲載しました〉 私のためにこの17年間働いてくれているオーストラリア人の青年(いや、17年前には青年だったが、今は中年になってしまった)が、突然右腕が動かなくなると言う奇怪な状態に陥ったので、心配になって見舞いに行ってきた。 脳には異常がないので、あとは、延髄、脊髄、腕の神経系を検査するという事だ。 とにかく訳の分からない症状で、肝が冷える。 幸い症状が軽減したので、月曜日には私の家に出勤して来るという。 私自身、こんな状態なので、災難が重なった感じだ。 見舞いに行くのに三ヶ月ぶりで車を運転した。 右脚を使えないので、左脚一本で運転した。オートマチック車はこう言う時に便利だ。 それにしても、人間、慣れれば何でも出来る物である。 最初、左脚でクラッチ・ペダルを踏む感覚で、ブレーキ・ペダルを思い切りぐいと踏んでしまい、凄まじい急ブレーキになって、同乗者が前方につんのめって悲鳴を上げたことがある。 久し振りに車を運転したら気持ちが良かった。ただ、シドニーは至る所にスピードカメラが設置してあるので、スピードを出せない。 何度もスピード違反で捕まっているから、最近は用心深くなり、スピードを出せないので、つまらない。 オーストラリアではスピードの出る車を買っても無駄だ。 帰りに市場により、日本人の経営する魚屋で、本マグロのトロ、赤身、まとう鯛、クエ、真鯛の刺身を買った。 今夜は、お刺身大会だ。 日本の最上の刺身とは比べるべくもないが、それなりに美味しい。 やはり日本人の経営する店だけあって種類も豊富だし新鮮だ。 市場で発狂状態に陥り、果物、野菜、蜂蜜、など手当たり次第に買ってしまった。私の家ではジャムは手作りと決めているのだが、ブルーマウンテンの小さな店が作っている有機栽培の果物を使ったジャム、マーマレードがあったので試しに買ってしまった。 肉屋では、和牛のステーキ肉まで買ってしまった。 こんなに食べ物ばかり買ってどうする気なんだろう。我ながら、よろしくないことだと、反省した。 市場は品揃えが非常に豊富だが、やはり、このご時世で、値上がりは甚だしい。 このところの石油の値上がりで、産油国に全世界から120兆円流れ込んだと言うことだ。ロシアのマフィアとアラブの金持ちのふところに世界中の富が転がり込む。 われわれの生活は厳しくなるばかりだ。 こう言う不公平は何とかならないのかね。 オーストラリアは質の良い石油を産出しているのに、それを全部、石油メジャーに支配されていて、ガソリンの値段は、日本と変わらない。 今日は、プレミアム(日本で言うハイオクタン・ガソリン)が1リットル、円換算で170円した。 こんなにガソリンの値段が上がると、車を使った遊びは出来なくなる。 四輪駆動でブッシュ・ドライヴィングをするのが私の楽しみだが、私の四輪駆動車は1リットルあたり5キロ走るかどうかだ。 これではたまらない。 見舞いに行ったり、買い物をしたりしていて、このページの更新を忘れていた。 あわてて、更新している。 ところで、明日から、いよいよ、パレスティナ問題に取り組みます。 私と一緒に考えてください。
- 2008/06/27 - 茶髪・金髪について その2(昨日の続き) 3)「若者たちよ、茶髪・金髪で身をかざる暇があったら、その頭の中味を鍛えろよ。」と書いたことについて。 私の真意は、若者たちに自分たちの手で新しい時代を切開いて貰いたいと言うことだ。 昨日の1)にも書いたが、もはや茶髪・金髪は一過的な流行にとどまらず、現在のところ日本の社会に定着している。(いつまた突然廃れるかも知れない。今までの流行がそうだったように) 社会の流行・風潮に乗ることは、楽で、心地よい。 自分の周りの人のすることを見て、その人たちと同じことをしていれば、間違いがない。自分も、その人たちの仲間になれて心強い。 社会の流れに乗って生きていれば、とにかく安楽で、自分の居場所も確保できる。 しかし、社会の流れに流されて生きることが、本当に生きることなのか。 他人の定めた価値判断の基準を、自分で点検することもなく有り難く受け入れる。 それは他人に動かされているのであって、自分で自分の人生を生きることにならないだろう。 自分の価値判断の基準は自分で作らなければ、自分の人生は自分の物ではない。他人に操られた人生だ。 私は若者たちに、この流れの中で一旦立ち止まって、この流れが本当に自分を幸福に導く物なのか、これが本当に価値ある人生を過ごす道なのか、考えて貰いたいのだ。 茶髪・金髪だからといって、この世の中の流れ流されているわけではない、と言うかも知れないが、昨日も言ったようにお洒落や髪型のように自分で選択した自分の外観は、自分の中味に密接な関係がある。 茶髪・金髪にすることは、 「社会の今の流れに自分は同調している」。「今の社会の流れが心地よい」。「今の社会の流れに逆らう気持ちはない」。 と言う自分の心を表現しているのだ。 今の社会の流れに流されていれば、余計な摩擦もないし、抵抗も受けない。 何度も言うが、安楽で、心地よい。 しかし、流れ流されていくうちに、飛んでもないところに流れ着いて驚く。 小泉純一郎が総理大臣になり、「改革だ、自民党をぶっ壊す」と喚くと、日本人はみんな何が何だか分からないのに喝采を送り、非常に高い支持率を示した。 そして、いま、小泉が作った流れに日本人が乗ってきた結果が表れている。 大企業と、高級官僚は、たっぷり潤っているが、一般大衆は悲惨な状態に追い込まれてしまった。 全労働者の内三分の一が非正規雇用。 年収二百万円以下の給与所得者は一千万人を超えた。 昔は、労働者と、雇用者の間に、口入れ業者が入ることを制限していたが、構造改革という美名の元に、派遣会社などと言うこれまた結構な名前の組織が出来、大企業の要請に合わせて、必要な期間、必要な人間を働かせる、社会保障は企業が負わない、と言う仕組みが出来上がった。 大手の派遣会社の年間売り上げは三千億円を超す。 この三千億円はもともと労働者が得るべき賃銀から、派遣会社がピンハネをした物だ。 先日秋葉原で通り魔事件を起こした青年は、派遣労働者で、いつ首にされるかも知れないという不安を抱いていたという。彼は、派遣会社の用意したアパートに住んでいたから、首になった瞬間ホームレスになる。 彼が事件を引き起こした要因はそれだけではないだろうが、大きな要因の一つではないか。 そして、同じような境遇にいる若者は、何万、何十万といるだろう。 この、今の社会の流れに、安閑として流されていって良いのか、と私は若者たちに問いたいのである。 幕末に徳川政府を倒し、新しい日本を作ろうとした、いわゆる明治維新の志士たちは、運動を開始したとき、いずれも20代の青年だった。 坂本竜馬が土佐藩を脱藩して、勝海舟の門下に入ったのが28歳の時、それから、32歳で暗殺されるまで、大活躍したのはご存知の通りだ。 伊藤博文は22歳の時に、長州藩の藩命を受けてロンドンに留学し、その後長州藩で指導的な立場に立ち、維新運動を進めた。 明治政府が成立したとき、伊藤博文は27歳だった。 いつの世も、新しい時代を切開くのは、先に目覚めた若者たちである。 今、日本は激動の時代を迎えている。それも、良い方の激動ではなく、悪い方の激動だ。 日本はエネルギーの90パーセント以上、食料の60パーセント以上を外国に頼っている。 ところが、このところの異常な原油価格の上昇、世界の穀倉地帯の干ばつ、などで、エネルギーも食料も危うい状態になっている。 この状態が、改善する見込はない。中国やインドという10億、13億という人口を持つ国が、経済発展を続ける訳だから、その分、日本の取り分はなくなっていく。 一度、世界の経済状況の統計などじっくり見て貰いたい。 このままでは、十年後の日本は惨憺たる物だ。 世界から相手にされない貧乏国に転落しているだろう。 本当に、日本は危機に直面しているのだ。 こんな時に、若者たちに、この流れに身をまかせて安閑としていないで、立ち上がって新しい時代を切開いて貰いたいと私は願う。 老人たちに支配されていて何も出来ない、などと弱音を吐くな。 選挙運動、市民運動、新しい労働組合を作る運動、いくらでも出来る道はある。 この、閉塞状況を打ち破り、新しい時代を若者たちに切開いて貰わないと日本は滅びる。 私は、若者たちが立ち上がってくれることを切に願っているのだ。 茶髪・金髪でも、そんなことは出来る、と言うのなら、それは結構だ。 茶髪・金髪を批判した、私の挑発に乗って、若者たちよ、安閑としていずに、次の時代を切開いていって欲しい。 4)クリエーターについて。 茶髪・金髪のクリエーターたちは、自分たちが今の社会の流れに乗っていることを示している。 今の流れに乗ったクリエーターは、今の同じ流れに乗った人達を満足させる物しか作れない。それは、真のクリエーター(creator=創造する人)ではない。そう言う人間の作った物は、作った瞬間に消費されてしまう。保って2、3年の命だ。 本当のcreatorは新しい流れを創造する。 歴史を振り返ってみて欲しい。後世に作品を残し、後世に影響を与えた creatorは全部、自分で新しい流れを産み出している。 流れに埋没していて、新しい流れは作れない。 茶髪・金髪でも新しい流れを作れるというのなら、それも結構。私の挑発に乗って新しい流れを作り出して見せて欲しい。 以上が、「茶髪・金髪」に対する、私の更なる考えだ。 そう言うわけで、23日の日記を読んだ方々の多くに不快感、反撥を感じさせたかも知れないが、そしてそれに対しては、私は非常に遺憾に思うが、私は、あの意見を変えるつもりは毛頭無い。 私の意見は私の意見、私に反対する意見は又それで一つの意見。 こうして、意見を正しく交わし合うことで、私も、私に反対の方も、自分の考えを深めることが出来るだろう。 意見を交わし合うことについての、この私の態度を読者諸姉諸兄、諒とせられよ。
- 2008/06/26 - 茶髪・金髪について その1 茶髪・金髪に対する、書き込みが絶えない。 私のホームページにコメントを寄せるためには、自分のメールアドレスを明記しなければならず、いい加減な匿名の書き込みはお断りするようになっている。 それでも、これだけ、この問題に対する書き込みがあるのだから、もし、何の制限もなかったら、このホームページは炎上していたかも知れない。 こうなると、「人の外観について余計なことを言う物ではないと反省した」などと、澄ましているわけにはいかない。 書き込んでくださった方一人一人にお返事を差し上げることも物理的に無理なので、その方々に対する返事の形で、ここでもう一度、茶髪・金髪について私の考え述べてみよう。 1)まず、驚いたのは、茶髪・金髪が日本の社会に深く浸透していることだ。それも、肯定的に受取られている。 私の小学校の同級生の女性(私は、小学校の段階で病気で二年遅れているから、彼女は私より二歳年下だが、既に六十を越えている)が、「私も茶髪よ、何が悪いの」と言ってきた。 そこで、私が「ある年齢から上の人は、白髪染めの意味もあるから茶髪も仕方がないんじゃないか」と答えたら、「年齢とか白髪染めとか言われると、返って眉根がつり上がる」と言われてしまった。 いやはや、難しいものだと痛感したが、これだけ日本の社会にしみこんでいることを改めて知らされた。 白髪染めなら、黒くすればよいことである。茶色に染めると言うところが、私の同級生の年代でも、すでに、茶髪・金髪を好意的に受け入れていることを示すものだ。 結局、茶髪・金髪に染めている人は、それで心地よいのだろう。 自分で心地よく思っているところに、私の意見を聞くと、悪口を言われたような気がするのだろう。 私は、このブログを書き始めるに当たって、元日本ハムの新庄選手のことば「今年の目標は、人の悪口を言わないこと」を取り上げて、その精神で行きたいと言った。 24日の茶髪・金髪についての文章は、その精神から外れていたようである。遺憾に感ずる。(この遺憾という言葉は、日本の政治家がよく使う言葉で実にいい加減な意味合いの言葉だ。しかし、今使って見て、大変に便利な言葉であると実感した。) 2)「外観と中味は別だ」という意見もあった。 敢えて言うが、その考え方は人間の存在についての考察を欠いており、完全に間違っている。 人間が、お洒落をしたり、化粧をしたりするのは、自分を表現して、自分の存在を社会的に認めさせたいからだ。 そもそも、人間は自分を表現しなければ生きて行けない動物である。 そのために言葉がある。話し言葉でも、書き言葉でも、言葉があってこそ人間である。 人間は言葉以外にも自分を表現する手段を持っている。 音楽、絵画、彫刻、などがそうだ。 同じように、人間は、服装、化粧で自分を表現する。 人間に自己を表現させる物は何か。 それは、その人間の心だろう。中味だろう。 ロック・シンガーは長髪に派手な服装をして、自分がロックシンガーであることを表現する。 ヤクザは、パンチパーマ、太い金のネックレス、黒一色か、ストライプの入った背広、金張りの腕時計、金のブレスレット、時に白い靴などで身を固め、自分がヤクザであることを表現する。 このように、人間の外観は自分がどんな人間であるかを社会的に表現する物であって、その人間の心のあり方の表れである。 人間の外観と言っても、生まれつきの肉体的特徴(皮膚の色、背の高さなど)、後天的に受けた障害による特徴、などは、その人間自身の責任による物ではないし、自分の心のあり方に関係のある物でもない。 この意味でなら、「人間の外観と中味は違う」と言うのは正しい。 しかし、服装、化粧のように、自分の意志で自分を表現するために選択した物は、その人間の心、中味の表れであって、「外観と中味は関係ない」のではなく、「外観は中味を語るもの」なのだ。 したがって、茶髪・金髪は「生来の黒い髪ではなく、茶髪・金髪を選んだその人間の心」を露わに表現する物であって、その人間の中味と密接な関係がある。 (この続きは明日)
- 2008/06/25 - 「美味しんぼ」の登場人物 中松警部「美味しんぼ」に警察官が二人出て来る。 中松警部と、大石警部である。 そもそも、私は余り警察とは折り合いが良くない。 私は病気、浪人、留年などを重ねて、大学を出るのに人様より5年遅れたので、東大闘争に間に合った。 1969年1月本郷の東大に政府が機動隊を導入したときに私は現場にいた。 闘争服を着てヘルメットをかぶり、楯を持って怒濤のように押し寄せる機動隊は実に恐ろしかった。 そして、あの催涙ガスだ。 あれは一旦吸い込んでしまうと、涙鼻水が止まらないだけでなく、あまりの苦しさに思考能力が衰え、方向感覚も失う。 ただ、逃げなければいけないと焦るだけで、逃げる方向を自分で定めることも出来ない。東大構内をどう逃げたか記憶にない。 催涙ガスにはハンカチ程度では何の役にも立たない。 ところが、そこで一学年下の後輩と運良く出会って、後輩が「これを使って下さい」とタオルを貸してくれた。 これで鼻と口の周りを覆うように包むといくらかは楽になった。 (そのタオルを家に持帰って母に、「後輩が親切に貸してくれた物だからきれいに洗って」と頼んだら、そのタオルを受取って母が怪訝な顔をして言う「これがタオル? 雑巾じゃないの」良く見れば真っ黒に汚れ果てた布きれである。機動隊に追われていたから、どんなタオルか確かめる暇もなかったのだ。後輩は、安田講堂に籠城していて洗濯などする機会がなかったのだろう。その真っ黒に汚れたタオルを見て、余計にその後輩の情けが身にしみた) 機動隊が、どんな凄まじい破壊力を示したか、当時の記録写真やビデオなど見れば分かるだろう。 全共闘がいくら頑張っても、ゲバ棒と石ころだけでは、機動隊に敵うわけがない。 全共闘の砦安田講堂は陥落し、その後全共闘運動は一旦は七十年安保に向けて盛り上がりはしたが、結局衰退していった。 そんな経験があったし、速度違反で捕まったりするし、私は警察に対して良い感情を抱いていなかった。 ところが、連れ合いの姉のご亭主、つまり私の義兄の親戚には警察官が何人かいる。 連れ合いには、姉と義兄の前で警察の悪口を言ってはいけないと固く言い渡されているのだが、ついそれを忘れて、一緒に車に乗っているときに警察官を見かけると、なにか悪口か言いたくなる。それも、かなり口汚い言い方で言う。連れ合いにはそれで何度かこっぴどく叱られた。 そんな私だから、警察のことを良く書くわけがないのだが、中松警部の場合は違った。 最初は一回限りの登場人物のつもりだったのだが、花咲アキラさんの描いた中松警部が非常に魅力的だったので、二回、三回と出すうちに、すっかり「美味しんぼ」の常連になってしまった。 不思議な物で、あんな風に楽しい性格に警察官を描いていくと、私自身の警察官に対する印象も変わってきた。 時々警察官の不正や、怠慢が大きな問題になると、流石に腹を立てるが、最近は警察官の仕事の重大さ、大変さを理解して、警察官に対して、良い感情を抱くようになった。 頑張ってくれと応援し励ましたいと思うのだ。(あくまでも普通の警察官の事ね。高級警察官僚とか、昔の特高に似た公安関係はどうも敬遠しますね) 中松警部は落語に良く登場する典型的な古い型の東京の人間であり、 乱暴だが、気が優しく、人情にもろく、妻子を大事にする。 本当にこんな人物がいるわけ無いよな、と思いつつ、一方では、こんな人物が実際にいたら楽しいな、と考えて描いている。 「美味しんぼ」の材料である食べ物や、料理は無限にあるから困らない。 困るのは、その様な材料を使ってどんな話を作るか、と言う点である。 時に、その回に活躍させる人間を考えることで話作りが進むことがある。 そう言う点では中松警部は、私の「美味しんぼ」の話作りに随分役に立って貰った。 警察官という設定は、色々な事件に関わらせることが出来るので便利である。 中松警部が常連になって何度も登場すると、何だか実在の人間のような気がしてきて、何か困ったことがあったら、中松警部に相談に行こうなどと、ふと考えたりする。 こんな風に、自分の作中の登場人物と仲良くなるのも漫画原作者の楽しみの一つなのだ。
- 2008/06/24 - 日本の若きフィジオ・セラピストたち〈「雁屋哲の食卓」に「レンズ豆のサラダ」を掲載しました〉 昨日の、茶髪・金髪に対する批判は、色々な人から文句が来た。 やはり、人間の外観に余計なことを言う物ではないと反省した。 ところで、昨日リハビリに行ったら、そのリハビリ専門の病院に日本の若者たち(男性ばかり)が十人ほど来ていた。 私が世話になったこともあるフィジオ・セラピストの女性がいろいろと講義をしている。 取りまとめ役と思われる女性に聞いたら、多摩地区のフィジオ・セラピストの学校の学生さんたちだと言うことだった。 驚いたことに、オーストラリアは、フィジオ・セラピーの分野で進んでいるので研修に来たという。 私は、医学なんか日本の方が進んでいると思っていたので意外な感じがした。 で、その若者たちであるが、うっすら茶髪の人間が一人、残りは全員黒い自然な髪をしていた。 髪の色で云々するわけではないが、みんな真面目な感じで、頑張ってくれと励ましたくなった。 フィジオ・セラピストは私が最近世話になっていて痛感するが、困っている人を助けて、動けない体を動けるようにしてくれる、大変に尊い仕事だ。 昨日、レディ・ダビッドソン・ホスピタルに来ていた若者たちが、フィジオ・セラピストとして立派な活躍をしてくれることを、心から祈る。 昨夜仕事のしすぎで、眼の奥から頭が痛くなり、背中もひどい疲労感を覚え午前一時に寝てしまったが、今日もその疲労が残っている。 こんな日は、寝っ転がってボンヤリしているに限る。 で、ボンヤリすることにします。
- 2008/06/23 - 茶髪・金髪は何とかなりませんか 今日は、このままパレスティナ問題に突っ込もうかと思ったが、一呼吸おいた方が、良いだろう。 それに、今日は先週の水曜日以来休んでいたリハビリに行かなければならない。 二三週間前から、右脚に体重をかける運動を始めて以来、すねに、ピンポイント的に、一個所痛みを感じるようになった。それが、筋肉の痛みなら、この二週間、かなり、すねの運動を控えているから、消えるはずだが、以前として消えない。したがって、右脚に体重をかけられない。 それでは、歩けない。何のために、手術をしたか分からない。 骨の問題なのか、筋肉の問題なのか。 筋肉の問題であれば、鍛錬のしようで何とでもなるが、骨の問題となると厄介だ。今日、その結果が分かるはずだが、果たしてどうなることやら。 ところで、先日入れ墨の話を書いたが、入れ墨もさることながら、あの茶髪、金髪は何とかなりませんか。 十数年前にはやり始めたとき、一過的な流行で終わるだろうと思ったら、すっかり定着したようで、テレビに出て来る芸人で茶髪ではない人間の方が少ない。 金髪もひどい。 金髪は日本人の顔には絶対に似合わない。日本人だけでなく、蒙古系の顔には絶対に似合わない。 以前シドニーで茶髪・金髪にしているのは日本人だけだったが、最近は韓国人も茶髪を始めた。しかし、その数は日本人に比べると少ないようだ。 大体金髪・茶髪は日本人に似合わないだけでなく、西洋人にひどく馬鹿にされているのを知らないんだろうか。 西洋人は日本人は西洋人に憧れて、西洋人になりたいんだと嘲っています。 日本人は肉体的に西洋人には敵わない。 対抗するとしたら、頭の内容・知性を以てするしかない。 ところが、茶髪・金髪に染めたその顔からは、一切の知性が感じられない。 もし、それが、何か物を作るクリエーターという職業だったとしたら、そんな流行に乗ったクリエーターは本物の作品を作ることが出来るわけがないと、私だったら考える。 茶髪・金髪のクリエーターの作る物は、泡みたいな物で、二年も寿命がない。 茶髪・金髪にした段階でクリエーターとしては最早負けだな。 若者たちよ、茶髪・金髪で身をかざる暇があったら、その頭の中味を鍛えろよ。 勉強しろよ。世界中の若者は一生懸命勉強しているぞ。 日本の若者は携帯にしがみついて受け身の文化に身をまかせていて、自分で何かを作ろうとすることがない。 日本の今の若者は団塊の世代の残した遺産を食いつぶしているだけだ。 茶髪・金髪の若者たちを見ると、今の世代は「くずだんご」の世代だなと悪口を言いたくなる。 とにかく似合わない。汚らしい。 茶髪・金髪は「私の頭は空っぽです」と宣伝する看板だ。 何度でも強調するが、似合わないのだ。 その、似合っていないことが分からない神経が鈍すぎる。 自分の娘のことで恐縮だが、オーストラリア人の女性は私の娘の髪を見て「黒くてきれいでうらやましい」という。 自分の本性を失ってしまっては何もならないと思うけれどね。
- 2008/06/22 - イスラエルで その3 私は長い間、ユダヤ人を素晴らしい民族だと考えてきた。 アジアの歴史には余り縁がなかったが、中東からヨーロッパの、歴史的転回点に関わってきたユダヤ人は多い。 欧米の文化は、そのままキリスト教の文化と言えるほど、キリスト教がなかったら欧米の文化は骨なしになってしまう。 そのキリスト教の大本を作ったイエス・キリストはユダヤ人である。 欧米文化は、事の始まりから、ユダヤ人に依っているのだ。 初めて金融の国際化に手をつけ、現在の国際金融システムの基本を作り上げたのはロスチャイルドである。 その後、近代以降だけでも、共産主義を理論づけたカール・マルクス。 精神分析学を始めたフロイド。 相対性理論を確立したアインシュタイン。 新しい文学の境地を開いた、カフカ、プルースト。 原爆を開発したオッペンハイマー など、欧米のみならず、世界的に大きな影響を与えた人物を輩出している。 その他、思想家、芸術家、など取り上げ始めるときりがない。 一つの民族でここまで世界中に影響を与えた民族はない。 2004年現在、全世界人口約60億人の内、ユダヤ人は約1500万人ほどで、 全人口に占める割合は0.25%。しかない。 ホロコーストで600万人のユダヤ人が殺されたと言うが、その人たちが生きていたとしても、ユダヤ人の全世界あたりの人口比は、0.5パーセントにも行かない。 生物学的に、人種間の優劣はないとされている。 しかし、この人口比と、ユダヤ人の成し遂げた様々な業績を考えると、ユダヤ人にはやはり何かがあると私には思える。 公式には、ユダヤ人が家庭で学習を大事にするからだと言う。 常に何事かを学び真理を追究する精神的な傾向を強く植え付けられることが、ユダヤ人が成功する理由だというのである。 いずれにせよ、歴史の中でこれだけの業績を上げてきたユダヤ人は優秀だと思わざるを得ない。 紀元後135年にローマ帝国によってイスラエルの地から追放されたユダヤ人たちは世界各地に離散していった。 その離散した各地でユダヤ人たちは逞しく生きたが、同時に激しい迫害を受けた。 ユダヤ人が受けてきた迫害の歴史はそれだけで、数冊の本になるくらいである。 だが、一番大きかったのはナチス、ヒットラーによるホロコーストだろう。 定説では前述のようにホロコーストで600万人のユダヤ人が殺されたとされている。 私は、2006年のサッカー・ワールドカップ・ドイツ大会の日本対クロアチア戦を見るためにニュルンベルグまで行ったが、ついでにポーランドまで脚を延ばし、アウシュビッツのナチスによるユダヤ人の強制収容所跡を見学してきた。 それまで、さんざん本で読んだり、記録映画を見たりして、アウシュビッツで何が行われたか十分に承知していたが、その現場を実際に見ると、本や写真や記録映画からでは得られなかった凄まじい現実感を味わった。 これほどの冷酷にして暴虐な所業をしてのけたナチスの非人間性に凍るような恐怖を覚えると同時に、その様な苦難を乗り越えてなお世界中で活躍しているユダヤ人に深い畏敬の念を抱いた。 ポーランドのワルシャワには有名なユダヤ人のゲットーがあった。 ユダヤ人たちは高い塀に囲まれたゲットーに押し込められて暮らさなければならなかった。塀の外に自由に出ることは許されず、食べ物なども自由に持込むことは出来なかった。 ゲットーの中で、貧窮の末に飢えて死ぬユダヤ人は大勢いたのである。 ナチスがポーランドを支配すると、そのゲットーのユダヤ人たちは強制収容所に送られて殺された。 正に生き地獄だった。その様なゲットーに押し込むことは、人間が人間に対して行うことが許されることではない。 読者諸姉諸兄も見たことがあると思うが、有名な写真がある。 鳥打ち帽をかぶり、胸にユダヤ人である証拠のダビデの星の印を付けさせられた十歳くらいの可愛らしい少年が、ナチスに連行される所の写真である。 少年は怯えた表情で、両手を挙げている。 その無惨な写真を見る度に私は、胸の奥深くまで刺されるような痛みを感じる。 こんな可愛らしい少年を連行して殺すとは何と無惨なことをナチスはしたのか。 また、この少年はユダヤ人であるという理由だけで、どうしてこんな悲惨な目に遭わなければならなかったのか。 その少年の姿は私にとってユダヤ人を象徴する物だった。 さて、話を昨日の塀に戻す。 私が激高したのは、ワルシャワゲットーを体験したユダヤ人が、同じことをパレスティナ人に対して行っているのをこの眼で見たからである。 私は、ホロコーストを体験したユダヤ人は、ナチスのような他民族に対する残虐行為はしないだろうと期待していた。 あの聡明なユダヤ人は、自分たちの味わったワルシャワゲットーの苦しさを他民族に味わわせることは無いはずだと思っていた。 それが、物の見事に裏切られたのだ。 それまで、エドワード・サイードの著作を何冊か読んで、パレスティナ問題を真剣に考えてきたが、サイード自身パレスティナ出身だから、その言うところもかなり偏りがあるだろうと考えていた。 今の私は、サイードのイスラエル批判をその通りに受取らざるを得ない。 下の写真を見て頂きたい。 私が塀の写真を撮影していたら、近くで遊んでいた子供たちが興味を示して近づいてきた。 可愛いので、記念のために写真を撮った。 後で見直して愕然とした。 なんと言う残酷な写真を撮ってしまったことか。 非人道的な塀の前に立っている無心な表情の子供たち。 この子供たちに、私は、ナチスに連行されて行くユダヤ人の少年の姿を思い浮かべずにはいられなかった。 私はユダヤ人に裏切られたと切実に感じた。 そして、憤怒が、私の体中を満たした。 手を振ると、指の先から怒りが火の粉となって飛び散る、そんな感じになった。 私は憤怒の塊となって日本へ帰り、そのまま、昨日言ったような感情的な文章を「美味しんぼ塾」に書いてしまったのである。 それから今まで私は旧約聖書を読み返し、ユダヤ人の歴史を読み直して来た。 そして、パレスティナ問題の根源は、旧約聖書にあると確信した。 私のパレスティナ問題についての考えは、また日を改めて述べることにする。 写真はクリックすると大きくなります。
- 2008/06/21 - イスラエルで その2 イスラエルでは、「お」くん一族の誉れとされている方が色々と面倒を見て下さって普通の旅行者では行けないような所まで見学できるように手配して下さった。 「お」くん一族にぶらさがって、私もその恩恵にあずかった。 その方のお名前をここで分かるように書くと、ご迷惑をおかけすることになるかも知れないので単に「氏」としておく。 「氏」は我々の旅行の便を図ってくれただけでなく、「氏」自身美味しい物好きなので、幾つか日本では味わえない物を食べさせる所に連れて行って下さった。 その一つに、イスラエルでも古い地中海に面した港町ヤッホの魚貝類・レストランがあった。 港の倉庫街を抜けていくと、海を前にしてレストランがある。レストランの前にテント張りの大人数が坐れる席があり、われわれはそのテント張りの席に陣取った。 目の前が地中海であり、魚貝類はどれも新鮮で美味しかった。しかも、ユダヤ教ではイカは食べてはいけないとされているのに、我々日本人のために特別にイカも料理してくれた。 量も食べきれないほど出て、われわれはすっかり満足した。 所が、イスラエルから帰って、コンビニエンス・ストア版の「美味しんぼ」に掲載している随筆「美味しんぼ塾」に、私はイスラエルについて激しい調子で殆どぼろくそに書いた。驚いた編集長が、全く異例なことに電話をしてきて「あの文章は雁屋さんらしくない。雁屋さんは人を批判するときには、いつも理性的なのに、あの文章は感情的できつすぎる。何とかならないか」と言った。私は原稿の中で、強すぎると思われる表現を弱めて「これが、精一杯だ」と答えた。 しかし、本が出来上がってきて自分の文章を読んで私は仰天した。 イスラエルに対して自分でも理解できないようなひどいことを書いているではないか。 しかも、その中に、「イスラエルの魚はみんな紅海から運んで来る冷凍物ばかりでまずい」などと書いてある。 ヤッホで、地中海の新鮮な魚貝類を食べておきながらである。 これでは、「お」くん、お世話になった「氏」、旅行に混ぜてくださった「お」くんの親族の皆さんに、申し訳ない。 そこで、直ちに「お」くんと、イスラエルの「氏」にその原稿の写しを送り、私の過ちを謝罪して、次の月の「美味しんぼ塾」に訂正稿を掲載することで、許しを乞うた。 「お」くんも、「氏」も私の謝罪を受け入れてくれた。 しかし、どうして私は感情的になってイスラエルを強烈に批判する文章を書いたのか。 それは、昨日の日記に書いた「イスラエルで見たある物」が私の心を甚だしくかき乱し、私を激高させたからだ。 そのある物とは何か、まず、下の写真を見て頂きたい。 全体にもやが掛かっているので、余り鮮明な写真ではないが、丘の上をうねうねと大蛇のように塀がのたくっているのがお分かりになるだろう。 この塀は、ヨルダン川西岸のパレスティナ自治区とイスラエルの間を仕切る塀である。 パレスティナ人がイスラエル領内に入れないようにするための物だ。 写真の手前がイスラエル領内である。 その塀には幾つか出入り口があるが、その出入り口は下の写真のように、イスラエル兵によって厳重に警備されている。 その塀は、パレスティナ側に入ってみるとこうなっている。 非常に高く威圧的だ。このように、道のぎりぎりに立っているところもある。 パレスティナ人が塀に落書きをしている。この奇怪な怪獣の絵が、パレスティナ人のこの塀に対する思いを表していると思う。 塀はパレスティナ人の人家のすぐ近くに迫っている。塀に見張りの望楼がついているのが見えるだろう。 こんな状況で住まなければならないパレスティナ人の思いはどの様な物だろうか。 塀のあちこちに、落書きが書かれ、人物の写真が貼られるている。 人を、馬鹿にした表情の人物ばかりである。 塀は聳え立ち、望楼が威圧的だ。 この望楼の、なんと言うまがまがしさ。 望楼の中に、イスラエル軍の兵士がいる。 私の心を甚だしくかき乱し、激高させたのがこの塀だったのだ。 どうして私は、この塀を見て、理性を失って感情的な文章を書いてしまうほど激高したのか。 編集長に注意されても、なおその言葉を理解しないほど逆上していたのか。 それには理由がある。 写真はクリックすると大きくなります。
- 2008/06/20 - イスラエルで その1 一昨日、小学校の同級生の「お」君から、この「日記」で私が以前から出している宿題「パレスティナ問題」についての彼の回答が送られて来た。 私がそもそも、パレスティナ問題を真剣に考えるようになったのは、去年「お」君にイスラエルに連れて行ってもらったことがきっかけだ。 私達小学校の同級生は仲が良く、毎年何回も集ってただなんとなくわいわい騒いで楽しんでいる。 六十過ぎているのだが、みんなが集ると突然時計の針が五十年逆転して、小学生の時に戻ってしまい、互いに「〜ちゃん」「〜くん」などと呼び合い、お喋りに時を忘れる。最高に楽しい時間である。 数年前に、「お」君が、写真を載せられる掲示板を作ってくれて、大変に便利になった。みんなが集まったときの写真を載せ、同時に色々お喋りをする欄がある。このおかげで、集まりの時の連絡などが素早く円滑に行くようになって、われわれの同級会はますます上手く行くようになった。 所が、世の中には悪い奴がいるもので、その掲示板にはパスワードが掛からないようになっていたために、勝手に侵入してきて我々の写真を盗んだ。 盗むだけならまだしも、「お」くんと、我らがマドンナ「い」さんが並んだ写真をなんと中年向きの出会い系サイトの広告用に使いやがったのである。 ある時、私が東京のホテルに滞在していることがあって、同級会が終わった後に何人かが私を部屋まで送ってきてくれた。ホテルの部屋には十分な椅子が無く、「お」くんと「い」さんは並んでベッドに腰をかけた。私達は何の気なしに記念写真を撮った。 悪党は、その写真を盗んで出会い系サイトの宣伝に使いやがったのである。 中年の渋い男と、いい女が並んでベッドに座っている。我々は考えもしなかったが、それだけ見れば、中年向け出会い系サイトにはもってこいだろう。 「お」君の友人がそれを発見して「お」君に知らせてくれた。 それで、恐れをなして、パスワードをかけて外部の者が入れない掲示板に移った。 その、我々のサイトを管理している人間が、「凄い使用量だ」と驚くほど我々は掲示板を活用して楽しんでいる。 小学校の同級生同士仲が良いのが我々の自慢の種である。 その「お」くんが、2007年に親族が揃ってイスラエルに行くのでその団体に参加しないかと誘ってくれた。 私は、以前からイスラエルには興味があったが、なかなか単独では行く弾みがつかない。 既に膝の具合が非常に悪かったのでためらったのだが、「お」くんが、車椅子に乗せてでも連れて行ってやると熱心に誘ってくれたので、連れ合いと二人で参加した。 私は、クラッチ(手で横木を掴み、肘で支える西洋風の杖)を両方につかなければならなかったが、この機会を逃してなるものかと己に鞭打って参加させてもらった。 「お」くんの親族は神道関係者ばかりで、現役の神主さんも何人か居られた。 「お」くん自身、ずっと銀行勤めだったが神主の資格を持っている。 その様な立派な人達に私のような下品な人間がまじるのは気が引けたが、小学校の同級生が誘ってくれたんだからと、ずうずうしく居直った。 この、イスラエル旅行は私の人生の中でも非常に大きな意味を持つものとなった。 イスラエルを見て歩いて、私はそれまで漠然と理解していた旧約聖書をはっきりと生々しく掴むことが出来た。 砂漠と岩山、乾いた荒野、所々に点在するオアシス、それが私の見たイスラエルの土地だ。 旧約聖書で神はモーセにカナンの地を「乳と蜜の流れる土地」と言っている。 一体、このどこが「乳流れ、蜜流れる地」なんだ、私は呆気にとられた。 イスラエルの土地は近年になってこんな風に乾いたわけではなく、旧約聖書の頃から変わらぬ風土だったと言う。 確かにオアシスの周りにはナツメヤシの木などが生えて緑がある。 しかし、それ以外は荒れ野である。 勿論、昔から小麦など取れたからパンも作ることが出来たわけで、市場に行けば野菜も豊富に売られているから畑もちゃんあるのだろう。 しかし、緑豊かな山河の姿に慣れた我々日本人から見れば、厳しい荒れ野である。 どうして、こんな土地を、ユダヤ人とアラブ人が争い合うのか分からない。 こういう風土では、羊を飼って羊に草を食べさせ、その羊を人間が利用するのは非常に重要な生きる術なのだ。 私は聖書でやたらと羊に関する記述が多いのを、不思議に思っていたが現実にこの地では昔から羊に頼って人々が生きていたことを実感し、聖書に羊があちこちに登場する意味が分かった。 「神の仔羊」などと言う言葉も、この土地の特性に由来するのだ。 旧約聖書の神は極めて恐ろしい。 ユダヤ人たちが少しでも、偶像を崇拝したり、他の神に心を移したり、その気配を示したりするだけで、途方もない罰を加える。 信仰を試すために、アブラハムにその息子イサクを生け贄にしろと命じたり、善良なるヨブの信仰を試すために、ヨブに信じられないような残酷な試練を課したり、エジプトから脱出してきたモーセの一行の多くが仲々約束の地カナンに到達出来ず、ろくな食べ物もないと文句を言ったからと怒って、彼らは死ぬまでカナンの地に入れない荒れ野で死なせると言う。モーセ自身、カナンの地に入れずに死ぬのである。 旧約聖書の「エゼキエル書」と来た日には、神の教えを守らなかったユダヤ人たちをこれでもか、これでもか、と痛め付ける残酷きわまりない神の姿を記している。 神の教えに少しでも背いたり、戒律を守らなかったら、激しい罰を加えられる。 全く血も涙もない神だと私達日本人には思える。 その様な厳しい宗教が生まれたのも、この厳しい風土故なのかと私は、イスラエルの地に立って初めて全身的に理解した。 さて、私がパレスティナ問題を真剣に考えるきっかけとなったのは、その旅行の際に見た、ある一つのものだった。 そのある一つのものとは何か、それは、又次回に。
- 2008/06/19 - 本日はだめ 昨夜から、心身共にエネルギー・レベルが極端に低下し、何もする気になれない。 よって、今日はこれまで。 ところで、昨夜のNHKのBSで「男組」を取り上げていたようだけれど、見てくれた方はいるだろうか。 見た方は感想など聞かせて下さい。
- 2008/06/18 - 最近のお笑い芸人〈「子育て記」に「第一章 その3」を掲載しました。〉 昔のお笑いというのは、今にしてみれば中々に高級であって、ヴェルレーヌの詩、 ちまたに雨の降るごとく 我が心にも雨が降る ・・・・・ なんて文句を漫才で使っているのを聞いたことがある。 しかし、最近のお笑いというのは、私には何が何だか分からない。 NHKの番組で「爆笑オンエアバトル」というのがある。 若い芸人たちがそれぞれの芸を披露して、会場にいる観客が面白いと思った芸人(芸人たち)に投票する。その投票結果でどの芸人の芸がテレビで放映されるか決まる。 テレビの視聴者は、観客が選んだ芸人の芸をビデオで見ることになる仕組みだ。 毎週十組くらい出演して、そのなかの五組くらいの芸が放映されるが、中には連続何週間も放映の栄誉を獲得している芸人もいる。 時々私は、もしかしたらと言う期待を抱いてその番組を見る。 私は昔からお笑いが大好きで、優れたお笑い芸人のビデオやDVDを集めているくらいだ。 優れたお笑いは、心がよじくれている時など、その心のもつれを解きほぐして、すっきりさせてくれる。 笑うことは、人間にしかできない高等な精神の働きだ。 笑うことを下品と思う人もいる。男子は一年に一度、片頬をゆるめる程度でよい、などと馬鹿げた侍精神を立派なことと思っている人もいる。 笑うことは人間の精神の働きの中で一番高等な物であり、笑うことを知らないのは、精神の発達が遅れた下等動物である。 それで、私は、若い新しいお笑い芸人を発見出来るかもしれないと期待して、その番組を見るのだ。 ところが、その番組を見ても、何一つ面白く感じない。 面白くないどころか、心が寒々と冷え込み、白けてかさかさした気持ちになる。 拷問にかけられたような気分になって、途中でスウィッチを切ることがしばしばだ。 一体どうしてしまったのだろうか。 会場の観客は笑っている。その観客は非常に若い。 今の若い人達には、あの芸人たちの芸が面白いのか。 すると、悪いのは私であって、私が時代に遅れてしまったと言うことなのか。 笑いの質は時代によって、こんなに変質する物なのか。 ここで、最近の芸人は芸がないとか、見た目がまず汚らしい、貧相だ、大声を張り上げて、意味不明な行動を取って、それで観客をとまどわせて失笑させる、それをお笑いと勘違いしている、とか、それを見て笑っている若い人達の頭の程度もひどいもんだ、とか、そんな批判をするつもりはない(と言いながら、しちゃってらあ) この訳の分からなさは何なのだろう、と不安になってくるのだ。 この番組に出る芸人は正確に言うと芸人志望の段階であって、本職として認められた芸人ではない。 では、本職として認められた若い芸人の笑いが面白いかというと、私には少しも面白くない。 日本で民間放送の番組を見ていると、良く若いお笑い芸人が出て来るが、これが、「爆笑オンエアバトル」に出て来る芸人志望の連中と全く変わらない。 どうして、こんな事でお金を貰えるのだろうと不思議になる。 見ていて、笑うどころか、不愉快になるだけである。 彼らを見ていると、笑いとは高等な精神の働きである、などと言えなくなってしまう。 若者が持っているはずの、若々しい、みずみずしい、そして生き生きとした反抗的な感じが何もしない。 廃墟を見るような無惨な感じ。荒廃した心を見せつけられた時の嫌悪感。そんなものだ。 昔から、老人は、若者のすることをけなし、世も末だ、人間はどんどん悪くなる、社会は崩壊の一途をたどっている、と言うことに決まっているらしい。 私も、ついにその老人の仲間入りをしたと言うことなのかも知れない。 老人は若い者を批判するが、その若い者を育てたのは自分たちだという責任を忘れている。 若い人達をけなすことは、自分をけなすことなのだ。 それは分かっているが、自分の子供だって思うように育ってくれないのが現実だ。ましてや、よそ樣の子供たちとなったら手も足も出ない。 どうして、こうなってしまったんだろう、とため息をつくしかない。 お笑い番組をいて、気持ちが沈んでしまっては、これはお終いだ。 はあ・・・・・、なんと言ったらよいのやら。
- 2008/06/17 - フランス語の発音について 最初に、昨日書いたフランス語の件で、ある読者から、いろいろ有意義な事を教えていただき、私の誤りも指摘していただいた。 まず、その誤りを正したい。 フランス語の広い「イ」と狭い「イ」と昨日書いたのは間違い、前田陽一先生が仰言ったのは、「日本語の『イ』はフランス語の『イ』より、広くてゆるい。フランス語の『イ』の音は、くちびるを横に大きく引き、上下の歯の間隔を1〜2ミリくらいに狭めて、鋭く発音する。フランス語の『イ』は日本語の『イ』より狭い」と言うことだったことを、思い出した。 広い、狭いの比較は、フランス語の中でなく、日本語とフランス語の間の比較だった。 昨日の記事もその様に訂正しておきます。 そのとき、前田陽一先生は仰言った。「フランス人の口元は緊張している。だから、ピエール・ランパルのようなフルートの名奏者が出る。日本人がフランス語を喋るときには、まず、口笛を吹くとき以上にくちびるをとがらせ、次に思い切りくちびるを横に引く。この運動を数回繰り返すと、良い発音が出来る」 確かに、この準備運動は、英語の時も役に立つ。 日本人は言葉と言葉の間のつなぎや、何気なく声を出すときに「アー」という。 しかし、フランス語や英語を母国語とする人間は「ウ」と「エ」の中間、あるいは、「オ」と「エ」の中間の、いわゆるあいまい母音で声を出す。 日本人の方が、普段喋るときに口の周りを緊張させないので、一番楽な音を出そうとすると「アー」となる。口の周りを緊張させているフランス語や英語を母国語とする人間にとって一番楽な音は、あいまい母音となるのだ。 そこの所が、我々日本人と、フランス語、英語を話す人間との身体にまで及ぶ違いなのだろう。 私は、フランス語に限らず、外国語の発音を学ぶには、一つ一つの発音について、くちびるの形、舌の位置、息の吐き方、など、まず解剖学的に図式的に頭に入れることが大事だと、その時に痛感した。 その方には、pain(食べるパン)とlapin(ラパン、うさぎ)が、「パン」という同じ音を持つことを使ったフランスの謎々を教えていただいた。これは語呂合わせに似た言葉の遊びで、大変に面白い。 また、その方はフランス語の詩が韻を踏むことを取り上げて、それも語呂合わせと同じような物ではないかとも書かれているが、漢詩も同じだが、それは、詩の一節ごとの最後の音の響きを合わせることで、中国人やヨーロッパ人は快感を感じるのであって、語呂合わせとは別のものだと思う。 このような貴重なご意見を頂いて、本当に有り難いし、嬉しい。 私は、このページは自分のために書いている。 ちょっと、「美味しんぼ」を休んでいるので、その間に物を書く能力が落ちるとまずいので、訓練としてこのページを書いている。 物書きも、ピアニストや、運動の選手と同じで、練習を怠るとたちまち腕がさび付く。 私は子供の頃からピアノを弾いていたが、1972年に親の家を出てアパート住まいをするようになってから、ピアノを弾くのをやめた。 大変に貧乏なアパート住まいでピアノなんか持ち込めなかったので、練習することが出来ない。 しばらく経って実家に帰ったときに、ピアノを弾こうとしたら、(酔っぱらっていたせいもあるが)間違えてばかりだった。 それで厭になって、以来、ぷっつりとピアノを弾くのをやめた。 もっとも、グレン・グールドは全然ピアノを弾かない日が何日もあるくらい練習をしなかったそうだが、それは天才の話で、私のような凡人はそうは行かない。 もともと、自分はからっきし下手なのに人の演奏について能書きを垂れる方だったので、自分のピアノのひどさに愛想が尽きたのだ。 物を書くことも、ピアノみたいになっては困るから、こうして毎日書く練習をしているのである。 書く以上出来るだけ大勢の人に読んで貰いたい、というのが職業として物を書いてきた人間の(純文学と違って出来るだけ多くの読者を獲得しなければならないマンガの原作者だから)物書き根性であって、読者の反応がないと「誰も読んでいてくれないのかな」と闇夜に空鉄砲を撃っているような空しい、淋しい気持ちになる。 それが、今回のような有り難いご意見を頂くと、本当に嬉しくなる。 「ああ、読んでいて下さる方がいる。しかも、こんな有意義なご意見まで頂いた。有り難いことだ」 とすっかり、良い気持ちになってしまった。 いくら、自分の訓練のための書いていると言っても、こうして読者からの反応があると、私も張り切ってしまう。 これからも、どんどん書き続けようと思う。
- 2008/06/16 - だじゃれをいうのはだれじゃ だじゃれは日本語独特のものだと思っていた。 日本語は同音異義語が多いからだ。 大学の時にフランス語を、先生一人に学生二人という贅沢な環境で学んだが、何人かの先生の中で前田陽一先生は大柄でふくよかなお顔で、大変に愉快な授業をしてくださった。 前田陽一先生は、日本人は、フランス語の発音を耳から聞いたのでは覚えられない、唇の形、舌の位置、顎の開き具合、それを各母音ごとに頭の中に図を描いて覚えなさい、と教えてくださった。 日本人には区別して発音するのが難しい広い「エ」と狭い「エ」、広い「イ」と狭い「イ」の音の区別など、解剖学的に分析して教えてくださった。 それは、私がフランス語を発音するときに大変に役に立った。 先生は、紙でご自分の口元を隠して、「イ」「エ」「ア」などを発音して、「今のは広い『エ』か、狭い『エ』か」などと、私達を試される。 フランス人にフランス語を習っていては絶対に分からないことだったと思う。 私は大学を卒業したときには結構フランス語が出来たつもりだが、今はすっかり忘れてしまって、前田陽一先生に申し訳ないと心の中で思い続けている。 それでも、随分前だが、パリの古本屋で、デュマの本と、ラブレーの本を注文したとき、店のおばさんに、あなたの発音はきれいだ、と言われて、前田陽一先生に改めて深く感謝した。 で、ある時、前田先生に、「フランス語でもだじゃれはありますか」とおたずねしたら、少しお考えになってからきっぱりと「フランス語は、単語に冠詞がつくし、名詞には男性形女性形の区別があり、動詞には語尾変化があるし、文脈内での単語の前後の連関が厳しいから、だじゃれはありません」と仰言った。 それから、注意して、各国の落とし話、英語で言うところのジョークを色々読んでみたが、確かに、だじゃれの落とし話はない。(私の見落としかも知れない。なにか、フランス語でだじゃれがあったら教えてください) ところが、日本のジョークと言われているものの多くが、だじゃれである。 通称「オヤジギャグ」と言われるものもそうだろう。 落語の落ちも、語呂合わせ、だじゃれの物が多い。 あの、だじゃれ、語呂合わせは、し始めると止めどがない。 私も実は、語呂合わせのだじゃれが大好きである。私の子供たちはそれに辟易していて、なにか、私がだじゃれを言うと、うんざりした顔で、「はい、きょうは、それでお終い」などと言う。 確かに、だじゃれを言う方は、一種の病気みたいになって連発するのだが、聞かされる方はたまらない。 最初は笑ってつき合うが、それが重なると、疲れてげんなりする。 しかし、不思議なもので、他人のだじゃれは不愉快だが、自分でだじゃれを言うのは気持ちがよい。 自分のオナラはしみじみとかぐわしいが、他人のオナラは耐え難い毒ガスと思うのと、同じ感覚かしら(わ、きったねえっ!)。 いや、それで、最近面白いジョークを聞いて、英語にもだじゃれがあることを発見した。そのジョークは、 「オーストラリアの Cultureは、ヨーグルトのなかの Cultureより少ない」 というものである。 Cultureには、文化という意味と、培養菌、と言う意味がある。 文化と、菌をかけて言ったオーストラリア人の自虐的なだじゃれである。 それは、どこの国の文化だって、ヨーグルトの中のヨーグルト菌の数に比べれば少ない。 しかし、これは厳密な意味ではなく、オーストラリアの歴史が浅いので文化の底が浅いと比喩的に言っているのだ。 確かにオーストラリアは、スポーツ大国だが、文化的には重層的な深みがない。 食べ物に関しては、この二十年で飛躍的に進歩したが、やはり日本やヨーロッパのような、文化のひだがない。 シドニーは住んでいて、こんなに快適なところはないと思うが、本屋、オーディオ屋、レコード屋、コンピューター屋、などはあっても恐ろしく貧弱である。 シドニーで望みのクラシックやジャズのCD、DVDを手に入れることは殆ど不可能である。通信販売にでも頼るしかない。 コンサートホールもまともなものは、オペラハウスしかなく、しかもそこの音響効果は日本のコンサートホールに比べると、悪い。 数年前、シドニー・シンフォニー・オーケストラが日本公演に行ったが、帰ってきて、オーケストラの団員が驚いて言った。 「日本にはどこに行っても素晴らしいコンサートホールがある。しかも、その音響効果が良いので、自分たちの演奏がいつもより遥かに良く聞こえた」 どうも、コンサートホールなんてものは西洋のもので、それをちゃっかり輸入して自分の文化のような顔をしている日本人も、私には、「何だかなあ」、と思えるが、それにしても、そう言う良いコンサートホールが沢山あることは素晴らしいことだ。 それに比べて、日本は、ありとあらゆる文化が氾濫している。 神保町の本屋街、秋葉原の電気街、CD、DVDの大きな専門店はあちこちにある。神保町の本屋街は、日本の宝である。 美術館も、博物館も地方毎に揃っている。 食べ物も、その種類の多さと味の多彩さ、深さは、世界で一番だ。 いま秋谷に家を建てる準備をしているが、家が出来たら昔どおり秋谷を根城にして日本中を歩き回って、楽しもうと計画しているのである。 私の人生も、競馬に例えると、第4コーナーを回って最後の直線に入ったところだ。 最後の直線で、ヒカルイマイのように一気に伸びて(なに? ヒカルイマイとは何か、だって?1971年、日本ダービーの優勝馬だ。私の一番好きな馬なんだ。覚えておいて下さいね。凄いんだ、直線入り口までどん尻で、直線一気に伸びて、風のように他の馬をかわしてゴールに飛び込んだ。今まで最高の馬だ。それも、血統の悪い、駄馬とされた安馬だ。残念なことに血統が悪かったので、引退後も種牡馬としてまるで認められなかった)最後を飾りたいと願っている。 そのためには、やはり日本の文化に今一度どっぷり浸かることが必要だ。 この二十年間、日本にいる時間が短すぎた。これからは、その失われた時を取り戻したい。 だじゃれを言いながら、温泉巡り、名所巡り、なんて老人臭いこともいいな。 それも、立派な文化だもんね。
- 2008/06/15 - 「美味しんぼ」の登場人物 辰さん「美味しんぼ」の登場人物は、原作者の私が思い浮かべ、それを花咲アキラさんが、具体的な人物像に仕上げてくれて出来上がる。 いくら私が、こんな人物を、と頭で考えても、具体的な人物の形を画家が作ってくれなくては、何の意味もない。 その点、花咲さんは極めて優れていて、私が言葉だけで説明した人物像を私の思った以上に魅力的に仕上げてくれる。 花咲さんからの絵が届いて、その中に私の考えた登場人物が具体的な姿で表れて、それが私の考えたとおり、あるいはそれ以上のものだったとき、「あ、これは動かせる」と私は思うのである。 漫画の原作を三十年以上書き続けてきて、一体何人の漫画家と組んで仕事したか分からないが、この、私の頭の中にある人物像を見事に具現化してくれた漫画家はそんなに多くはない。 漫画の成功、不成功は、漫画家の画力に掛かっている。 私は、「これは絶対」と意気込んで渡した原作が漫画として仕上がってきた段階で意気消沈してしまったことは何度もある。 当然、その様な漫画は成功しない。 勿論漫画家だけが悪いわけではない。漫画家に、想像力、創造力を十分に掻き立てさせるだけの力を私の原作が持っていなかったことも大きな原因だろう。 また、相性という事もあるだろう。 そう言う意味で、私は、花咲アキラさんという画家と出会った事は生涯の幸せだと思っている。 花咲さんは数々の魅力的な人物像を作り上げてきてくれた。 その、登場人物について、これから時々語っていこうと思う。 最初は、浮浪者の辰さんである。 私は、これは自分の勝手な思い込みで、浮浪者を美化しすぎているのだろうとは思うが、浮浪者が大好きである。 浮浪者は、この世の人々を縛り付けている人間関係から完全に自由である。 浮浪者は、生きて行ければそれで良いので、それ以上のことは望まない。 当然、会社などの組織には絶対に属さないし、人に使われるのも好まない。 人に指図されるのも、人に指図するのも嫌いだ。 社会の隅で、人様の迷惑にならずに、自分の存在も誇示せず、のんびりと生きていくことだけを考えている。 1970年代始めまでは、その様な浮浪者は現実にいた。 今もいるだろうと思う。 しかし、最近は、ホームレスと言う人々が多くなって誰が浮浪者なの分からなくなった。 ホームレスは浮浪者とは言わない。彼らは、追いつめられて仕方が無く、あのような生き方を選んでいるのであって、十分な職が得られれば明日にでもホームレスをやめるだろう。 辰さんは真正の浮浪者であって、職を持とうとか、家を持とうとか、健康保険に入ろうとか、そんな考えは抱かない。 交通事故や、病気で倒れたりして、周りの人間によって病院に担ぎこまれれば、治療を受けることを拒まないが、自分から毎日健康のことを気にかけて、定期健康診断など受けたりはしない。体の具合が悪くても自分から病院に行ったりもしない。 野生動物と同じで、死ぬときが来たら、静かに死ぬ。 一切の欲がないから、嫉妬もないし、焦りもない。失望もない。 澄み切った、清明な気持ちの持ち主である。 私は辰さんの生き方に憧れる。 一切の人生のしがらみが無く、ふわふわとシャボン玉のように生きて行く。 シャボン玉はパチンと割れれば、きれいさっぱり姿を消す。 私は若い頃、そんな生き方をしようと、固く心に決めていたのだが、世の中そんなに甘くなかった。 私も、読者諸姉諸兄と同じように、様々なしがらみでがんじがらめになって、動く度に体中ぎしぎし音がするような人生を送ってきた。 それは、欲と煩悩から逃れられなかったからである。 そう言う私から見ると、辰さんの生き方は理想的だ。 今度生まれることがあったら、辰さんのように生きたいものだ。 「美味しんぼ」には、花咲アキラさんのおかげでいろいろと面白い人物が登場する。 しかし、こんな生き方をしたい、と原作者である私自身が思うのは、辰さんだけだ。 考えてみると、辰さんは、私の抱く聖人像なのかな。 「美味しんぼ」の第1巻第4話「平凡の非凡」の中で、辰さんと他の浮浪者たちが地下鉄構内で酒盛りをする場面が出て来るが、あれは実際に私が見たことである。 1960年代の末、地下鉄銀座駅には数人の浮浪者が殆ど住み込み状態で存在していた。 浮浪者同志、仲が良く、楽しげに車座になって酒を飲んだりしていた。 それを見て、たいていの人は眉をしかめ嫌悪感を露わにしたり、怖がったりしたが、私は「おお、いいな」と思った。 だから、漫画に描いたのだ。 他にも、銀座から築地界隈で良く出会った「みの虫おじさん」がいた。 この「みの虫おじさん」というのは私が勝手に付けた名前で、勿論浮浪者だから本当の名前は分からない。 みの虫と私があだ名を付けたのは、そのおじさん(当時で50歳を過ぎていたように見えたが本当のところは分からない)がみの虫のような恰好をしていたからだ。おじさんは、雑巾みたいな布をビニールで包み、それを何枚もつぎはぎにして、外套のように着ている。 体に近い順に古くなると捨てていって、新しい布をビニールで包んで新たに一番上に縫いつけると私は見た。そのようにして、つぎつぎに布を継ぎ足して着ている姿がみの虫みたいに見えたのだ。 このおじさんは、体や着ている物を洗ったりしたことはないようで、たいへんかぐわしいにおいを周囲に発散していた。 中央通りの銀座と築地の中間あたりで、おじさんと遭遇することが多かったが、姿は見えなくても、そのかぐわしいにおいで、おじさんが近くにいるのが分かる。「あ、みの虫おじさんがいるぞ」と私が感じ取ると、確実にすぐにおじさんの姿が目に入ってくる。 どうも、このおじさんは、1970年代初頭に、築地電話局の前に寝ているところを若者に襲われて殺されたようだ。 最近若者の残酷な犯罪が問題になるが、1970年代から、そんな若者は沢山いたのである。 若者たちに面白半分に浮浪者が殺されたという新聞の記事を読んで、その記述から私は殺されたのが、あの愛すべきみの虫おじさんだと直感的に思った。 その後、銀座築地あたりでおじさんの姿を見かけなくなったし、私の友人も、殺されたのはあのおじさんだと言っていたから、私の直感は正しかったのだろう。 最近はホームレスを追い出すために、ちょっとした空間にわざわざ石を置いたりする自治体が増えてきた。 ホームレスはもとより、浮浪者も住みづらい世の中になった。 浮浪者がのんびり暮らすことを許さない社会は、ろくな社会じゃない。 私は辰さんに現実の社会で会いたいな。
- 2008/06/14 - 「日本全県味巡り」次はどこに〈「美味しんぼ塾」に「嗜好品 その1」を掲載しました。〉 いま、「美味しんぼ」はお休みを頂いているが、出来るだけ早く「日本全県味巡り」を開始するつもりである。 手術前は、非常に甘く考えていて、七月には日本へ行けるから、「夏の北海道」の取材から始めよう、などと、編集部とも話していた。 ところがどっこい、そうは行かなかった。 七月に日本へ行けるとしても、松葉杖を二本ついて、移動するのがやっとの事で、取材に飛び回るなどと出来るわけもないことが分かってきた。 となると、秋から初冬にかけて、収穫の秋を取材することにしようか。 もし、それも駄目ならば、二月の北海道だ。私は流氷の時期に是非北海道に行きたいと思っている。 テレビで見ただけでも、流氷は圧倒的な迫力だ。実際に目の前にしたらさぞかし壮観だろうと思うと胸が躍る。(お、こんな気持ちになるなんて、鬱から回復したかな・・・・・・、なんて喜ぶと、その後の反動がひどいんだ。余り喜ぶのはやめよう) 私は寒いのも暑いのも苦手だが、流氷を見るためなら、寒さも我慢できる。 それに北海道の冬は美味しい物が沢山揃っていることを知っている。 しかし、二月に取材をしたのでは、「日本全県味巡り」を再開するには遅すぎる。 北海道の流氷は、後の楽しみにとって置いて、まずは秋の味覚から始めようかな。 「日本全県味巡り」で次はどこの県に行こうか、と考えるのは実に楽しい。 私は、白状すると、今までにまだ行ったことのない県がある。それは、山口県だ。 私の母方の伯父の一人は大変な勉強家で、同時に演劇青年だった。 一度、葉山の寿司屋で、伯父と一緒に、早稲田の河竹登志夫先生と同席させていただく機会があった。演劇青年だった伯父は河竹黙阿弥全集を持って愛読しているくらいだから、先生とお会いしたことを大変に光栄に思い、狂喜して色々と演劇のことについて先生にお話をした。 先生も、伯父の熱意に辟易しておられたが、伯父が「築地小劇場」の話をすると、先生は「築地小劇場をみたことのある人間がまだいたとは」と驚かれた。 それで、伯父は調子に乗って、またまた、演劇の話を続けた。 その夜、伯父は、私に「河竹先生にお会い出来て本当に嬉しかった」と目を輝かせていった。私は河竹先生のおかげで、伯父孝行ができて幸せだった。 当時既に、九十歳近かったが、九十三歳でなくなるまで、いつまでも演劇青年の魂を持っていた。 その伯父は、明治以降の薩長閥が動かしていた政治を激しく批判していた。 「特に長州がいかん。連中が日本を滅ぼした。」と強調していた。 この考えは、伯父の偏見ではない。 明治維新で権力を握ったのは、薩長土肥(鹿児島、山口、高知、佐賀)の下級武士たちだった。 明治以降の政界、官界では薩長土肥にあらざれば人間にあらずとまで言われたのである。 「昭和史の語り部」の半藤一利氏は、「永井荷風の昭和」の中で、永井荷風の薩長土肥に対する嫌悪を表した文章を引用している。それを、ここに再引用する。 「薩長土肥の浪士は実行すべからざる攘夷論を称え、巧みに錦旗を擁して江戸幕府を顚覆したれど、原(もと)これ文華を有せざる蛮族なり」(「東京の夏の趣味」) 「明治以降日本人の悪くなりし原因は、権謀に富みし薩長人の天下を取りし為なること、今更のように痛嘆せらるるなり」(「断腸亭日乗」昭和19.11.21)(断腸亭日乗は荷風が書き続けた日記) 1)については全くその通りだ。日本の最初の総理大臣になった伊藤博文を始め、木戸孝允、大久保利通らは尊皇と共に攘夷論を称え、幕府を攻撃して、十四歳の明治天皇を「玉」と称して抱え込み、「玉」の威力で「官軍」を名乗り、錦の御旗をうち立てて、幕府を倒した。 倒してみれば、何のことはない、攘夷など出来るはずもなく、欧米各国に国を開いた。 「攘夷」は単に幕府を攻撃する口実に過ぎなかったし、「尊皇」も、自分たちに権威をつけるための手段でしかなかった。 かれらは、十四歳三ヶ月の少年を明治天皇として担ぎ上げ、その権威を強調し、その権威を利用して政治的な力をつかんだのだ。 それが、近代天皇制の始まりであり、その時に、第二次大戦での破滅の路線が出来上がってしまったのだ。 2)については、半藤一利氏は次のように書いている、 「慨然たらざるをえない対米英戦争直前の陣容をみるとーーーーー軍令部総長の永野修身(おさみ)の高知をはじめ、沢本頼雄(よりお)(海軍次官)、岡敬純(たかずみ)(軍務局長)、中原義正(人事課長)、石川信吾(軍務第二課長)、藤井茂(軍務第二課員)、が山口県出身、高田利種(としかず)(軍務第一課長)、前田稔(軍令部情報部長)、神重徳(作戦課員)、山本祐二(作戦課員)が鹿児島県出身。これに父が鹿児島県出身の大野竹二(戦争指導班員)を加えれば、薩長閥の左官クラスのそろい踏みなのである。 藤井茂中佐は昂然としてこういうのを常とした。 『金と人とをもっておれば、このさき何でも出来る。予算をにぎる軍務局が方針を決めてその線で押し込めば、人事局がやってくれる。自分たちがこうしようとするとき、政策に適した同志を必要なポストにつけうる。』 荷風が言うように、大日本帝国は薩長がつくり、薩長が滅ぼしたといえるのである。」 永井荷風も半藤一利氏も東京出身で、薩長土肥の野蛮な田舎武士が江戸の文化を壊した、と怒っているから、薩長を嫌うのは自然の成り行きである。 さらに、半藤一利氏の祖母は新潟県長岡の出身である。 明治維新の際に、薩長土肥の官軍は長岡藩を攻撃したことを恨みに思っているその祖母から、薩長に対する批判を耳に叩き込まれたと言うからなおのことである。 史実を見ると、陸軍も海軍も、薩長閥で始めから終わりまで支配されていた。 それを考えると、2)の記述にも、私は同意したくなる。 私の伯父は、更に極端で、歴史上の薩長批判だけでなく、現代の世の中に於いても「山口県の人間はいかん」と言っていた。 戦前の薩長閥による支配の記憶が抜けなかったのだろう。 私が山口県にいままでに行ったことがないのは、伯父の言葉に影響されたからではない。 ただの偶然である。 私自身、近代日本史を読むと、薩長閥について批判的にならざるをえないが、それがそのまま山口県民の本性だとは思わないし、ましてや現代の山口県民に如何なる偏見も抱いていない。 むしろ、あれだけ力を振るった長州閥を産み出した山口県とはどんな県なのか好奇心が湧いてくる。 萩など見ても古い文化が残されているようだし、第一如何にも食べ物が美味しそうだ。 三方を、日本最高の漁場に囲まれているからには、さぞ魚介類は旨かろう。 山口県のフグは日本一と言う評価を聞いたことがある。 山の産物も良い物がありそうだ。 古い文化を保ち、美味しい食べ物の宝庫らしく見える山口を攻略しない手はない。 今度の「日本全県味巡り」は晩秋から冬の始めの山口県にしようかな。 もっともそれでは、まだフグに白子が入っていない。 悩むところだ。
- 2008/06/13 - 「こ」ちゃんのこと 昨日、シドニーの新聞、Sydney Morning Herald を開いて驚いた。 オーストラリアのラッド首相夫妻が、天皇皇后と会談をした写真が載っているのだが、皇后と、ラッド首相夫人の間に「こ」ちゃんが通訳として座っているではないか。 数年前に、私たちがシドニーに来た当初色々お世話になった「い」夫人から電話があった。夫人の友人が今度シドニーに行くことになったから、よろしく、と言うことだった。 「い」さんは、私達がシドニーに引っ越した当時シドニーに駐在していた日本の大企業の社員で、その夫人は極めて聡明にして有能、人柄も明るく親切で、西も東も分からない私達夫婦にシドニーで暮らしていくために必要な様々なことを教えてくださった。 その方から、電話を頂戴しては、こちらも本気にならざるを得ない。 夫人が「友人だからよろしく」、と言われるからには、三十代から四十代で、余り英語も出来ず、外国にも慣れていない女性を私は想定した。私達が、シドニーに来たばかりの時に「い」夫人にお世話になった恩返しをするときが来た、精一杯お世話をしなければならない、と張り切った。 ところが、「い」夫人の友人という女性が登場してみると、大学を出て外務省に就職したばかりのうら若い女性ではないか。「い」夫人から電話を頂いたとき、私は酔っぱらったりして、きちんと話の内容を聞かずに勘違いしたのだろう。私はあっけにとられたが、更にあっけに取られたことに、英語が不自由どころか、外務省に合格したくらいだから英語はぺらぺらで、しかも、恐ろしく有能で私達がお手伝いする所など何も無い。 それが、「こ」ちゃんだった。シドニーに来たのは研修のためだという。 「こ」ちゃんは私の長女と同い年で、たちまち家の娘たちと仲良くなった。 私は、娘が一人増えたような気持ちになって、ほくほく、した。 「こ」ちゃん自身非常に有能だし、外務省もついているから、私達はお手伝いする必要は何も無かったが、私の娘たちときゃあきゃあ言って騒ぐのが楽しかったのだろう、「こ」ちゃんは私の家に良く登場してくれて、家族で外食するときにも参加してくれた。 「こ」ちゃんは、頭脳が優秀なだけでなく、周りを明るくする楽しい性格で、しかも極めてまめで、自分であんパンなど作って持って来てくれるのである。 ある時、連れ合いの誕生日だったかに、「こ」ちゃんがクーポンを何枚かくれた。 『「こ」ベーカリー、何でも作ります』と書かれたクーポンで、それを「こ」ちゃんに渡すと「あんパン」でも「ケーキ」でも作ってくれる、と言う物である。 何とも、味のある贈り物ではないか。 その当時、私の小学校の同級生のお嬢さんもシドニーに滞在していて、私の家は、娘が四人になって、賑やかで華やかで、とても楽しかった。 その「こ」ちゃんも二年の研修の後、キャンベラの日本大使館に二年間勤めてから、本省勤務になって日本に戻った。 娘たちとは、メールのやり取りと続けており、去年長女がヨーロッパに長期滞在していたときには、自分の休みを合わせて、パリまで来てくれて一緒に過ごしたりもしている。 東京に行ってしまっても、私達にとっては「こ」ちゃんは、私達の娘同然である。 その「こ」ちゃんが皇后と、ラッド首相夫人の間で、姿勢も良く、いい笑顔で座っている写真を見て、嬉しくなった。 昨日は、家族中で大騒ぎをした。 私は、人間として皇后や天皇に好意を抱くが、なにしろ反天皇制主義なので、皇后のそばに寄っただけで感激するとか、有り難いとか、その様な特別な感情は抱かないだろう。(いや、これで、意外に権威に弱いから、皇后を前にしたら震え上がったりして) だが、外務省の職員となったら、そうは行くまい。 かなり緊張しただろうし、やはり晴れの舞台だろう。 反天皇制主義の私でも、その様な晴れの舞台に「こ」ちゃんが登場したのは嬉しい。「こ」ちゃんの、外務省での働きが高く評価されていることの表れだと思うからだ。 「こ」ちゃんは、東京の本省勤務になって、大変な忙しさだという。 周りの職員も凄い働きようだという。 しかも、「こ」ちゃんが言うのに、周りで働いている外務省の職員は頭の良い人ばかりで、素晴らしいのだそうだ。 非常に優秀な人間が必死に働いていると言うのが、「こ」ちゃんの伝える外務省の内情である。 は、はあ・・・・、と私は腑に落ちない思いがする。 何故なら、昔から日本ほど外交下手の国はない。 日本がアメリカに戦争をしかけた時にも、当時の駐米外交官がパーティーか何かに出ていて、日本の宣戦布告をアメリカに伝えるのが遅れたために、日本は未来永劫アメリカに奇襲攻撃をかけた卑怯な国、という汚名に苦しむことになった、と言われている。 第一、当時の外交官たちが正確に欧米の事情を伝えていたら、軍部もあんな無謀な戦争を始めなかったのではないか。(いや、それは無理だったろうな。当時の軍部の指導者たちの頭は狂っていた。どんなに正確な情報を与えても狂った頭では何も判断できない。) しかし、戦後六十年以上、様々な節目で日本の外交能力のなさが指摘されている。 アメリカの属国として、アメリカの背中に隠れているばかりで、世界の中での日本の影は薄い。 「こ」ちゃんの言うように、そんな優秀な外交官たちが揃っているなら、どうして日本の外交がここまでしょぼいのか。 と考えていて、当然のことに思い当たった。 外交は、外交官だけが独自に行える物ではないと言うことだ。 結局、政治家だ。 外交方針を決めるのは、外務省ではなく政府だ。 携帯電話の方式も、カーナビの方式も、柔道の規則も、全て欧米の決めた形に世界が従い、日本は結局独自方式として世界の中で非常に不利な形に追いやられている。 資源の確保も、食糧の確保も、相手国の言うなりだ。 そんなところに私は日本の外交能力のなさを見て嘆くのだが、それは、政府と産業界の指導者たちのせいだな。 外務省の職員のせいではない。 となると、日本の外交下手は、日本の政治家達と、産業界の指導者たちの能力のなさ故か。 そして、その政治家達を選んだ日本の国民自身のせいか。 はあ、それが結論か。つまらん。 私も何人か日本の官僚を見てきた。(東大法学部出身の高級官僚ばかり)みんな如何にも頭が良く回りそうだが、小才が利くだけで、自分がこの国の未来の為に先頭に立って働くという気概のある者はいなかった。中の一人は、後に汚職事件に係わって新聞に名前が出た。 頭が良くても、もっぱら保身と自分の栄達のことにその頭を使うような狡猾な人間が特に高級官僚に多いように感じる。 だが、「こ」ちゃんの言う事だから、「こ」ちゃんの周りの優秀な外務省の職員は私の知っているような官僚ではなく、本当に真面目な人達だと、信じよう。 「こ」ちゃんの、すがすがしくも気合いが入っている笑顔を見て、日本の官僚が全員「こ」ちゃんみたいだったら、日本の未来も明るいのだが、とつくづく思った。
- 2008/06/12 - 「子育て記」の遅れ〈「雁屋哲の食卓」に「奇妙な昼食」を追加しました〉 リハビリに行くのはいつも午後なのに、今日は病院側の事情で午前になった。 ひどく疲れた。 帰ってきて遅い昼食を取ったら、疲労感が耐えられないまでになり、ベッドに倒れ込んだ。 しばらく、うとうととしたが、この日記と、自分で設定した期日の迫った仕事のことも思いだし、ベッドから這いだし、コンピューターに向かっている。 自分で期日を決めた仕事というのは、このページに分割連載している、「シドニー子育て記」である。 本当は、五月に出版するつもりだったが、膝の手術で遅れ、七月に延ばしたが、それも延ばした。 何が何でも、九月には出版したいので、七月半ばまでに原稿を仕上げなければならない。 シュタイナーについてどう記述するか、その点で苦しんでいるのが、原稿の遅れの一番の原因だ。 「子育て記」はシュタイナーの思想を説くのが目的ではないし、日本には子安美智子さんという、シュタイナー教育を初めて日本に紹介した方がいる。他にも、シュタイナー教育を実践されている方たちもいる。 シュタイナー教育について説くのは、そう言う方たちに任せておけばよいのだが、子供たちにシュタイナー教育を受けさせたので、子育てについて語る時にシュタイナー教育についてある程度のことは言わなければなるまい。 どの程度まで書くか、その案配が難しい。 血液の大半を入れ替えるような大きな手術の後はやはり色々と体調が優れない。 気持ちも弾まない。 仕事が思った通りに進まないので、余計に気持ちが沈む。 もともと、自分の楽しみとして、また、家族に思い出を残しておいてやりたいと思って書き始めた「子育て記」だが、シュタイナー教育について悪意に満ちた風評を流す手合いがオーストラリアにいるので、その様な風評に対抗した内容を盛り込まなければならなくなった。 実に鬱陶しいことだ。 そんな風評を飛ばす連中のことなど無視すればよいのだが、これについてもきちんと書いておかなければ、気持ちが悪い。 楽しむつもりだった「子育て記」で、こんな格闘をしなければならないとは、予想もしなかったことだ。 振り返ってみると、シュタイナーをどう書くかで一月空転してしまっている。 シュタイナーの件は早めに片付けて「子育て記」を仕上げたい。 きょうもこれから、夜中まで楽しみつつ格闘だ。
- 2008/06/11 - 入れ墨 最近、耐え難く不愉快なのは入れ墨の氾濫である。 欧米での若い人達の間で、ファッションとなっていて、それが何でも欧米の真似をする日本人の間にも広がっている。 昔は日本で入れ墨をするのはやくざ物と決まっていた。以前、ハワイのパスポート検査の際、入れ墨のある人間は「ヤクザ」とみなされて入国禁止処分になると聞いたが、いま、そんなことを言っていたらハワイは欧米からの観光客のかなりの数を入国禁止にしなければならなくなる。 呆れたことに、日本の若者の間では、入れ墨を、タトゥーと言い、タトゥーはおしゃれな物と考えられていることだ。 最近NHKテレビを見ていたら、有名な女性歌手が、長時間のインタビュー形式の番組に出ていたのだが、むき出しの二の腕に入れ墨をしていた。その可愛らしい顔と、その入れ墨の模様の愚劣さ、汚らしさとの対比が吐き気を催させたし、第一、NHKの倫理規定に、入れ墨は抵触しないということに驚いた。 私は昔からある日本の入れ墨は、自分では入れたいとは思わないが、評価する。 唐獅子牡丹や昇り龍の図柄の入れ墨には、はっとさせる美しさがある。 谷崎潤一郎はその作品「刺青」を、永井荷風に絶賛されて、それで一躍世に出て文豪と称されるまでになった。 私はあまり世間が谷崎潤一郎を文豪、文豪といって褒めそやすので、三十年以上前に全集を買ったが、私にとって谷崎潤一郎の作品は何一つ心を打つものがなく、こんな作家を文豪と祟める日本の文学の世界を甚だしく軽蔑した。 日本は「空気」と言う物に支配される国である。 一旦何かの拍子に文豪などと言われ始めると、大半の人々はその作品の価値を自分自身で確かめもせず、文豪と崇め奉まつる。みんなが文豪というのだから、崇めておこう、と世間の「空気」に従うのだ。 文学に限らず、絵画の世界も同じである。 日本で文化勲章を貰った画家の作品は世界ではまるで通用しない物が多い。 谷崎潤一郎の小説は、確かに文章は立派だ。語彙も豊富だし、その背後に漢文学を始め様々な古典を勉強した教養の深さがあるのがうかがえる。 しかし、その内容は、戦後の日本のいわゆるSM小説と大差ないものが大半だ。 私は谷崎潤一郎の小説を読むと、濡れ雑巾を顔におしつけられたような厭な気持ちになる。 大体、何故、あんなSM小説作家に文化勲章などを与えるのか。 私は文化勲章に限らず、勲章などと言う物は犬の鑑札と何ら変わらない、下らないものだと思っているが、少なくとも、天皇の名において国家が勲章の中でも最高位に位置する文化勲章をSM小説に与えるとは、日本という国は奇怪な国だと思う。 谷崎潤一郎に文化勲章を与えた天皇自身、谷崎潤一郎の作品を読んだことがあるのかね。昭和天皇というと、天皇服を身につけ白馬にまたがった大元帥としての印象が強い。その天皇と、あのSM小説との組み合わせは冗談みたいな物だ。 私は谷崎潤一郎の作品は評価できないが、「刺青」は、悪くないと思う。 江戸時代、入れ墨はヤクザ者だけではなく、とび職、町人、侍も入れていた。 江戸末期の町奉行、遠山左衛門尉景元、「遠山の金さん」も背中に桜吹雪の入れ墨をしていたというのは時代劇でおなじみだ。 小説「刺青」はその時代の江戸を舞台にしていて、清吉という彫り物(入れ墨のこと)の名人が、ある時料理屋の門口に駐まっていた駕籠の簾の隙間からこぼれ見えた女の素足の真っ白な肌の美しさに心を奪われるところから始まる。 その娘は、偶然清吉の馴染みの芸妓の妹分で、ある日その芸妓に用を言いつかって清吉の家に来る。 清吉は、その十六、七の娘が、あの駕籠のすだれからこぼれ見えた美しい素足の持ち主であると気がつく。 中国の殷王朝の紂王は暴君として知られているが、その妃、末喜(ばっき)(谷崎潤一郎はこう書いているが、史書では妲己⦅だっき⦆とされている)が、残虐な刑に処せられようとしている男を、酒を飲みながら眺めている絵、更に「肥料」という題の、若い女が桜の幹に身をもたれて、足元に累々と倒れている男たちの死体を喜びに溢れた眼で見下ろしている絵、を清吉は娘に見せる。 「お前はこの絵の女のように、男を肥料にし、美しい女になっていくのだ」と娘に言う。 そして清吉は、娘の背中に大きな女郎蜘蛛の入れ墨を彫る。 入れられた娘は、最後に自分の背中の女郎蜘蛛に満足して、末喜のように、「肥料」の中の女のように、男を支配する女に変身して、清吉に言う。「親方、私はもう今迄のやうな臆病な心を、さらりと捨ててしまひました。・・・・・・おまえさんは真先に私の肥料(こやし)になったんだねえ」と言う。 谷崎潤一郎が凄いと思うのは、この小説の中で、娘の名前は記されず、最初は娘、と書かれる。しかし、入れ墨を入れられた後、突然、女、と記される。 娘から女へ。入れ墨を入れることで、変身する。 そこのあたりは、見事だと、思う。 白く美しい、十六、七の娘の背中に彫られた女郎蜘蛛の「刺青」とは、どんな物か、想像しただけで、怖いような美しさを感じる。 こういう、刺青なら、納得する。 しかし、いま、世界中に氾濫している、タトゥーは、その柄がまず低劣、愚劣、醜悪、稚拙、見るも無惨な物ばかりだ。 しかも、色が殆どくすんだ紺色だ。実に汚らしい。 最近の若い女性は、丈が非常に短いブラウスやTシャツを着て、股上が非常に浅いパンツをはく。ブラウスやTシャツとパンツの間に隙間が空く。 腰の上の肌が丸見えになる。その部分にタトゥーを施す女性が多いのだ。 腰全体に広がるような巨大なタトゥー。 もう、それを見ると、何とも言えない厭な気持ちになる。がっかりする。 ベッカムがユニフォームを脱いで上半身裸になったら、めちゃくちゃなタトゥーで上半身を埋めているのが分かった。非常に落胆した。 入れ墨は一度入れると消すのは困難だ。一生ぬぐい去ることは出来ない。描き直すことも出来ない。 それなのに、若い人達が、その美しい肌に、どうしてあんな愚劣な模様のタトゥーを入れるのか。 その気持ちが分からない。 折角の美しい肌を台無しにして何が嬉しいのだろうと思うし、こんな愚劣な模様を彫り込むなんて、その知的程度の低さ、美的感覚のなさ、を世界中に宣伝して歩いていることではないかと、呆れる。 ポルトガルのリスボンの街に、タトゥーの店があった。その店の通りから見える待合室では大勢の若者が順番を待ちながら、タトゥーの図案集を熱心に見て、自分に入れる入れ墨の模様を選んでいた。 私はそれを見て、たまげた。時代が変われば人の好みも変わる。仕方のないことなのかも知れないが、余りに美的感覚が荒廃していないか。 先日、病院に膝の人工関節の検診に行ったら、エックス線科の受付の三十代の男数人が全員腕に入れ墨をしていた。 病院の職員でもこうなのか、とうんざりしたが、撮影して貰ったエックス線写真を持って外科医の所に行こうとエレベーターに乗ったら、後から乗ってきた四十代と思われる男が耳の下にどくろの入れ墨をしているのを見て、すっかり気分が悪くなった。 本当に、厭な世の中になった物だ。
- 2008/06/10 - 時の記念日〈「美味しんぼの日々 中華料理」を追加しました〉 今日は6月10日、時の記念日。私のすぐ下の弟の誕生日だ。 子供の頃、他の何とか記念日というのは学校が休みになるのに、自分の誕生日である時の記念日が休みにならないのは不公平だ、と弟は怒っていた。 そりゃそうだな。最近海の記念日なんて休日も出来た。船舶振興協会の圧力かしら。 時計産業振興協会(そんな物、本当にあるのかね)もひとつ頑張って、私の弟のために、時の記念日を休日にするようにあちこちに働きかけて貰いたいものだ。 いつも、時間に追われてせかせかしている現代人に、時の記念日で休みを与えるなんて、ちょっと粋だと思いませんか。 時間に追われると言えば、私は長い間物書き稼業をしているが、この仕事をしている人間にとって一番厭な言葉は「締切り」という奴だろう。 先年亡くなった、吉村昭氏は、私が尊敬愛読する作家だったが、非常に真面目な人で、どんな作品も締切り前に出来上がっていたという。 新聞連載小説など、連載が始まるときには最後まで全部書き上がっていた、と言うから驚きだ。 私の担当編集者は、私が締め切りを守らないので、みんな苦しんできた。 吉村昭さんの話など、私の担当編集者に絶対聞かせてはならないことだ。 しまった。このページは、私の担当編集者者たちも読んでいるな。 編集者諸君、吉村昭さんの話は極めて特殊な例だから、私と比べないで下さいね。こんなことはすぐに忘れてね。 ただ、締切りの効用という物もある。 締切りがなかったら、私のような怠け者は絶対に作品を仕上げられない。 締切りがあって、編集者が脅迫してきて初めて作品を仕上げる強い気持ちが湧いてくるのだ。 それが証拠に、いつかは書こう、などと思っていた多くのことも書かず終いで終わっている。 色々と書こうと思った物の覚え書が書いてあるノートが、私の仕事机の上の棚に並んでいる。 それを時々取りだしてひっくり返してみて、「あ、これは書かなきゃ」などと思うが、思うだけで書き出さない。 ああ、私のノートには、書かれないままの名作が沢山眠っているのだ。(へ、へ、へ、書いてないのだから本当に名作かどうか分からない。分からなければ、そう言ってしまった方の勝ちだね) やはり、締切りという時間に追われることが必要だ。 鞭がなければ走れないなんて、競馬馬にも劣る人間だな、この私は。 おお、リハビリに行く時間になった。 こう言うことで時間に追われるのは、生産的じゃないなあ。 いや、活動力を取り戻すことは生産につながる。 生産的なのか。 そう、思って、また厳しいリハビリで悲鳴を上げにいこう。 ああ、辛抱我慢、辛抱我慢。
- 2008/06/09 - 不思議なこと 今日、シドニーはクィーンズ・バースデイで休日。 クィーンというのはイギリスのエリサベス女王のこと。 シドニーでは、と断ったのは、州によってクィーンズ・バースデイは異なるからだ。休みを取りやすいように、州によって日を変えるのだ。大体土日を使って三連休になるように組んでである。 オーストラリアは、英連邦の一員で、正式には王制の国なのだ。(Monarchy という) 早い話が、まだイギリスの植民地だって事だ。 これが面白いことに、この王制が気にいっている国民が大半で、共和制に移行しようという話は時々出るのだが、みんなイギリスの王様の下にいたいという。 随分前に、オーストラリア政府から、オーストラリアの国籍を取って市民にならないか、という誘いの手紙を貰った。 オーストラリア人たちからも、オーストラリアの市民にならないのか、と聞かれることがある。 冗談じゃない。そもそも、短期滞在のつもりでシドニーに来たのであって、最初からオーストラリアに移民する気持ちはまるで無い。 たまたま、どう言う訳か最初から永住ビザを呉れたので、こうしてうかうかと20年も住んでしまったのだが、もし、ビザの問題で面倒なことがあったらとっくに日本に引き揚げていただろう。 大体日本には、「二君にまみえず」という言葉がありますよ。 私は、反天皇制主義者だが、日本人である限り、今のところ天皇から逃れたくても逃れられない。 天皇から逃れても、今度はイギリスの女王の下にはいるなんて、そんなあほなことは、ようでけまへんで。 日本が、二重国籍を認めてくれたら、便利なんだけれどね。 日豪両国の市民になれば、行ったり来たりに制限が無くなる。 いまの私の永住ビザは、5年の内3年以上オーストラリアに住んでいないと、失効する、と言う条件がある。この制限は結構厳しい。 前回、ビザの更新の時、オーストラリアでの滞在期間がその条件を満たしているかどうか、一生懸命計算しなければならなかった。 二重国籍になれば、日本とオーストラリアで半分づつ住んでも問題が無くなる。 早く、二重国籍を認めてくれないかな。 ところで、今朝、不思議な体験をした。 5時過ぎに一旦目を覚まし、再び寝た。 最近、私は7時過ぎには起き、8時前に朝食を済ませ、9時半までにリハビリの運動を終える、と言う予定を組んでいる。 だから、5時すぎに再び寝る前に、7時には起きなければならない、と言う意識はあった。 最近眠りが浅く、すぐに目が覚めるし、寝ていても半覚醒の様な感じで、熟睡した満足感が得られない。 5時過ぎに再び目を閉じて眠ろうとしたが、なかなか寝付けない。 しかし、その内に、深い眠りに落ちてしまったらしい。 というのは、隣で寝ている連れ合いが、朝起きてシャワーを浴びて、寝室から出て行く気配に何も気がつかなかったからだ。 大抵の場合、連れ合いが起きてシャワーを浴びて寝室から出て行くまでの間の、どこかの時点で気がつく。(気がつかないことも、良くあるが) 今日は何も気がつかなかった。 そして、突然頭の中で声が聞こえた。その声は「ふちじだよ」という。 私は、半覚醒の状態で「ふちじ? そんな時間はないよ。7時か? いや、ふちじという言葉の感じから、8時だろう」とうつらうつらと考えた。 そこで、はっと目が覚めて、寝室に置いてあるデジタルの置き時計を見たら「8:00」と出ていた。 その時は、しまった寝過ごした、と慌てて起きて身支度をしたが、朝食を摂っているときに、そのことを思い出した。 勿論、単なる偶然なのだろう。 だが、不思議な感じがどんどん募ってくる。 時間を告げる声が聞こえたのは、5時過ぎに再び眠るときに、7時に起きなければいけない、と自分に言い聞かせたからではないか。 昔から、遠足や運動会の前の日など、遅刻しないために、起きる時間の数だけ枕をたたいてから寝ると、その時間通りに起きられるというおまじないを我が家ではお決まりになっていた。 確かに、そのおまじないは良く効いた。 それは、自分の潜在意識に朝早く起きると言う命令を刷り込んだからだ、と言う考え方もある。 そんなことは科学的にあり得ないという考え方もある。 しかし、そのおまじないが効いたのは事実だ。 今朝のことも、些細なことだが、考えれば考えるほど不思議な感じが強まっていく。 私はこれまでに、科学的には説明のつかないことを随分沢山経験している。 大学の入試の発表の前夜、デブの男が腹の前に太鼓を肩からぶら下げて、ドンガラドンガラ打ち鳴らしている、夢を見た。 おかしな夢を見るもんだと思って、翌日発表を見に行ったら、発表の場所で大学の応援部が新入生の入部勧誘を行っていて、その応援部の先頭に立っていたのが夢に見た男だった。 同じ顔をして、腹の前に抱えた太鼓をドンガラドンガラ打ち鳴らしていた。 一緒に受けた他の大学の入試結果発表前夜にも、おかしな夢を見た。 いくつもの小さな建物の建ち並ぶ間を私が歩いているのである。 変な夢だな、と思って翌日発表を見に行って、合格者発表の場所までその大学の構内を初めて歩いたのだが、校舎からその発表の場までの間に大学の食堂や、学生活動のための部室などの建物が並んでいて、その間を歩いて行かなければならない。 それが、前日に夢に見たのと全く同じ光景だった。 ある時、車で銀座方面に行くつもりが、間違って首都高速道路の京橋出口まで乗過ごしてしまい、そこから銀座方面に戻るのに、また道を間違え、一丁目付近の裏道に迷い込んだ。 イライラして、角を曲がって中央通りと並行しているだろうと思われる道に出た。 曲がってその道に出た瞬間、私の目の前に、数回前にもこの日記に登場した会社に同期入社して以来の親友の「あ」が飛び出してきた。 「あ」は沖縄にいるはずだ。「あ」もその時私が銀座方面に出て来ることは知らない。 私は、窓を開け、大声で「あ」を呼んだ。 「あ」は、あっけにとられた顔で近寄ってきて、「てっちゃん、こんな所で、何してるんだ」という。 何をしているも無い。説明しようとしたが、後ろから他の車は来るし、私の車を停める場所も見あたらない。 「あ」も沖縄から本社に出張に来て、これから仕事で人に会うという。 「じゃ、また、後で、電話するよ」 といって、其の場は分かれた。 私が、首都高速の出口を間違えなかったら、出てからも他の道を通ったら、その道を通ったとしても数秒時間差があったら、私が「あ」と出会うことはなかっただろう。 私は、外に出かけると、思わぬ人間に出会うことが良くあり、横須賀の家から東京に出かけて帰ってくると、連れ合いが「今日はどんな人と出会った?」と尋ねるほどだった。 勿論、全て偶然だろう。 このような偶然を、単に偶然だと考えてそれですましてしまう方が理性的という物だろう。 私が物事を考えるときの基本的な態度はこうだ、 同じ条件下で、どの人間が行っても同一の結果が起こる事象、あるいは同一の観察結果を得られる事象を科学的事実とする。 その科学的事実を元に、論理を組立て、その論理に間違いないか検証して、間違いがなければ、論理のたどり着くところが、たとえ地獄であってもそれに従う。 科学的事実が判断の基準として存在しない議論は、意味がないからしない。 その規範からすると、今朝の体験や、いままでの不思議な体験は、たんに「不思議だなあ」と思うだけで、それ以上、人間存在の真実に係わる物と考えることは、意味がない。 しかし、意味がない、とは分かっていても、この不思議な現象は何だろうと考えてしまう。 意味があるのではないかと、考えたい誘惑に駆られる。 そこが、私が、自分を、唯物論者ではない、思ってしまうところのゆえんだろう。
- 2008/06/08 - 今日は日曜日〈「美味しんぼ塾 牛肉の旨さ その4」を追加しました〉 今日は日曜日。 朝から雨が降って、気持ちが滅入る。 娘たちが昨日キャンベラに、ターナーからゴッホまでの風景画を集めた展覧会を見に行った帰りに、美味しいパンを買ってきてくれたので、それで昼食を取った。 マッシュルームと椎茸、エノキダケ、を煮て、生クリームを加え、ハンド・ミキサーでトロリと仕上げたスープ。(これは、大変に美味しかった。近いうちに、「雁屋哲の食卓」で紹介します。といってもスープは、見た目には余り面白くないな。) そのスープにパンを浸して食べると、大変気持ちが和む味になる。 生ハム、サラミ、チーズ各種(この中で、ワインの名産地ハンター・バレーで買ってきた、ウオッシュ・タイプの臭いチーズが美味しかった。全国区の商品ではなく、ハンター・バレー地域だけでしか手に入らない。中味はオレンジ色で周りに茶色とも何とも言いようのない色のカビが生えている。その臭さは、古くなった納豆と沢庵の古漬けを合わせたようで、苦手な人は一嗅ぎしただけで逃げ出すだろうと言う代物である。私はそんな臭いチーズが大好き。パンに、サン・ドライ・トマトを置き、その上にその臭いチーズを載せて食べると、これは最高。) それに、マーマレード、プルーンとイチジクのジャム。 一体どこの国人間の食べる昼食なのか訳の分からない昼食になった。 昼食後、連れ合いに手伝って貰って、リハビリの運動をした。 金曜日に、リハビリのフィジオ・セラピストの女性が、何が何でも今週中に膝を九十度まで曲げようと意気込み、私もその意気に応えて、ついに九十度まで曲がるようになった。 しかし、さすがに力を入れすぎたのか、昨日から筋肉が腫れて足がむくんでしまった。連れ合いは怖がって、膝を曲げるのを手伝うのに力を入れない。どうも、連れ合いはフィジオ・セラピストとしては失格である。 その後、疲れてしまい、この日記を更新するのを忘れてしまった。 先日、「美味しんぼ塾」に「牛肉の旨さ その4」を追加したつもりが、されていなかったので、慌てて追加した。 雨の降る日は気持ちが沈む。ここまでで、今日は力が尽きた。
- 2008/06/07 - DVDは有り難い 昔、フランス映画で「冒険者たち」というのがあって、当時私は大変に気にいった。 俳優はリノ・ヴァンチュラ、アラン・ドロン、ジョアンナ・シムカス、の三人で、アフリカの沖に沈んでいる飛行機から財宝を引き揚げるという話だ。 ジョアンナ・シムカスが可愛らしく、いい感じで、リノ・ヴァンチュラが格好良く、アラン・ドロンがいつもより控えめなので好感を抱けて、結末は悲しいのだが、見終わった後、良い余韻を残す映画だった。 その、DVD版を日本で買ってきたので、それこそ三十年数年ぶりかで、見直した。 やはり、とても良かった。 ジョアンナ・シムカスは当時思ったほどではなかったが、可愛かった。 アラン・ドロンもいやらしさを全然出さない好演だし、なにより、リノ・ヴァンチュラのかっこうよさが際だっていた。 昔つきあいのあった或る出版社の編集者が、自分の持っているクルージング・ヨットに、「レティシア」と名前を付けていたのを思い出す。 彼も、「冒険者たち」が好きで、ジョアンナ・シムカスが好きで、ジョアンナ・シムカスがその映画の中で演じていた役の名前「レティシア」をヨットの名前につけたのだ。 私と同じ年代の男たちには人気のある映画だ。 そんな古い映画をまた見ることが出来るなんて、DVDは有りがたい物だとしみじみ思った。 最近の大当たりは1969年に録画録音された、カール・リヒター指揮によるミュンヘン・バッハ合唱団の「バッハのロ短調ミサ曲」のDVDだった。 私は、1969年に、カール・リヒターとミュンヘン・バッハ合唱団が日本に来たときに、上野文化会館に聞きに行った。 最初の「キリエ、エレイソン」の「キリエ」という歌い出しを聞いた瞬間、あまりの感動に、私は下半身から力が、ざーっと抜けて行くのを感じ「ああ、あ、もうだめだ」と思った。 日本から帰って三ヶ月後に作成されたものだと言うから、私が上野で聞いたときと同じ合唱団員が中にいるはずだ。 1969年に音楽の映像をどの方式で撮影したのだろう。時々、画面に白いノイズが入るので、フィルムによるものかと思ったが、それにしては画面が鮮明である。 音も、やや固くてダイナミック・レンジが狭い感じがするが、普通フィルムで撮った音楽物よりは遥かに良い。 しかし、凄いのは全部で128分ある全曲を一枚のDVDに収めたことである。 私は、「ロ短調ミサ曲」はLPでもCDでも持っているが、LPは勿論のこと、CDでも一枚には収まらない。 画像まで入れて、それが一枚で収まるのは有り難いことだ。 この曲は、LP時代から何度聞いたか分からないほどで、始めから終わりまで私の体にしみこんでいる。 それを、映像と共に聞いていると、たまらない。 私は、信仰心は全くなく、ましてキリスト教の教えは何一つ私の心に響かないのだが、このミサ曲が私の心の深奥を震わせるのはどうしたことだろう。 私はつらつら考えるに、完全なる唯物論者ではないらしい。 何故なら、人が何ものかに祈る、その心を理解するからだ。 神も仏も信じない人間がそんなことを言うのはおかしいが、私も、一体何を対象にしているのか自分でも分からないまま、頭を垂れて祈ることがある。 自分の希望、自分の願い、自分の救済を、何ものかに祈るのだ。 私は、何かに祈るという心を、唯物論的に否定できない。 ミサ曲の歌詞を見ると、白ける。神の仔羊だの、天国だの、主を誉め讃えよ、だの、何だの、そんなことは私には空虚なものでしかない。 しかし、「キリエ、エレイソン」(主よ、救い給え)というその祈る心は、実感として理解できるのだ。 そんなこととは別に、幸い、言葉が分からないからミサ曲も純粋に音楽として聞いてしまう。その場合、音楽として「バッハのロ短調ミサ曲」は全ての音楽の中で一番深い感動を私に与えてくれる。 日本から買ってきて、仲々聞く機会がなかったのだが数日前に大音響に体中埋まるようにして聞いて、心の奥まで揺さぶられた。 それ以来、頭の中には「ロ短調ミサ曲」の、あの曲、この曲が次々に鳴り響いている。 昨日も、リハビリをしながら、「ロ短調ミサ曲」を鼻歌で歌っていて、一緒にリハビリをしている人達にいぶかしがられた。 こうして、コンピューターに向かっている今も、頭の中に「ロ短調ミサ曲」が響いている。 私は困った習性があって、時に飛んでもない曲が頭の中に浮かんで消えないことがある。それが凄いんだ。「未練の波戸場」だとか、「東京だよおっかさん」だとか、「昭和枯れススキ」だとか、「(一週間に十日来い、とことん、とことん、の)温泉芸者」とか、どうしてこんな歌を知っているんだ、と自分でも考え込んでしまうような歌が頭に浮かんで執拗に消えない。 これは大変に苦しい。 「未練の波戸場」の文句なんて「もしも、私が重荷になったらいいの、捨てても恨みはしない。お願い、お願い、連れて行ってよこの船で、ああ、霧が泣かせる、未練の波戸場」というのだから、厳しい。(歌っていたのは、松山恵子) それが、いまは「ロ短調ミサ曲」なので、気持ちが静まってよろしい。 (「未練の波戸場」と「ロ短調ミサ曲」との落差は凄いと我ながら思う。どっちが上とか下とか言うのではないが。) それにしても、演奏が行われているのが、ミュンヘンの古い教会で、実に荘厳な作りである。(金があちこちに使ってあって金ぴかぽい感じもするが。) そこで、ごうごうたるパイプオルガンの音と共にミサ曲の合唱が響き渡ると、ああ、これが西洋文化なのだ、と改めて圧倒される。 同じ時代、日本では、四畳半の座敷で三味線をチントンシャン、なんてやりながら小唄など唄っていたかと思うと、どうも、しょぼいと感じざるを得ない。 そして、あそこまでの物を作り上げさせたキリスト教の力をしみじみ考えさせられる。 ところで、三十年以上前に、初めてギリシャに行ったとき、第二人称の呼びかけ、「あなた」を、「キリエ」と言うので驚いた。 「キリエ」は教会の文書の中だけの死語ではなく、ギリシャではいまだに日常生活で使われている生きた言葉なのだ。 それを知ってから、「キリエ、エレイソン」の文句をすんなり受け取れるようになった。 「キリエ」は主でも、キリストでも無くても良いわけだ。 誰か、自分以外の何ものか、でいいわけだ。 であれば、キリスト教徒ではないけれど、しかも、祈る対象が誰だか、何なのか自分でも分からないのに祈る心を持つ私が「キリエ、エレイソン」と歌ったところで少しも悪くはないだろう。 などと言うと、キリスト教徒に怒られるかも知れないな。 まあ、寛大にお願いしますよ。 キリスト教徒ではない人間さえも感動させるところがバッハの音楽の偉大さなのだろう。 DVDはありがたい物だ。
- 2008/06/06 - 死に向き合う〈「雁屋哲の食卓 ドラゴン・フルーツ」を追加しました〉 日本は梅雨に入ったが、シドニーも、先週末からずっと雨降り続きで、厭になる。 雲が高く、厚く、いっかな晴れそうにない。 こんな時に、シドニーに観光に来た観光客は可哀想だ。シドニーは雨が降ったら何も楽しくないところなのだ。 カンタス航空が、日本便を減らすことを発表した。日本人の観光客が減ったからだという事だが、日本とオーストラリアのビジネス関係も弱くなったのだろう。ビジネスがらみで来る日本人の数も減った。 いまや、オーストラリアの最大の貿易の相手は中国だ。 去年まで日本が最大のお得意様だったのだが、日本の不況と中国の勃興が裏表で重なって、日本が沈んだ。 オーストラリアの新しい首相は、中国語が堪能で、中国に招かれていって、中国語で演説した。 外国の元首で日本に来て日本語で演説をしたと言う例はない。 シドニーでアジア人を見かけたら、まず中国人、次に韓国人だ。 日本人の数はえらく減った。 その割に、日本料理店は増えている。オーストラリア人の間に日本料理の人気が高まっているという事だろう。 私と仲の良い店主の経営する日本料理店は、シティの真ん中にあって大繁盛しているが、日本人の客は少数派で、大半がオーストラリア人と、中国人、韓国人である。 中国人や、韓国人が日本料理を好きなのが面白い。 反日感情と、料理の好みは結びつかないようだ。 もっとも、シドニーで会う中国人、韓国人に反日感情を示されたことはない。 私の隣の家の住人は韓国人で、私達と大変仲良くやっている。 お互い自分の国に帰るとお土産を持って来てやり取りをする。 他にも仲の良い韓国人夫婦がいて、特製のキムチを届けてくれたりする。 針治療をしてくれる中国人の医師は、私のために、休診日にわざわざ診療所を開いてくれるほどだ。 外国に住んでいると、それぞれの歴史のしがらみから離れることが出来て、人間どうしの本当のつきあいが可能になると言うことなのかも知れない。 それでも最近微妙に力関係の変化を感じるようになってきましたね。 以前は、日本が一番、と言う感じだったのが、韓国人も、中国人も、「日本何する物ぞ」という気持ちを持っていることを感じる。 これは仕方がないな。 電気屋に行くと、韓国の電機製品が溢れている。日本の電機製品は皆無だ。 携帯電話など、日本製は韓国製に圧倒されている。 コンピューターのディスプレイは一時日本の独壇場だったが、いまや高級品は韓国製、中級以下は台湾製となってしまった。 テレビなど、辛うじて日本製があるが、韓国製に比べて値段が高いので、負けている。 テレビ局の一番視聴者に目につくスタジオのディスプレイも韓国製が圧倒的だ。 衣料品、雑貨などは中国製だし、中国は石炭、鉄鉱石を大量に買うお得意様だ。世界における日本の地位が目に見えて低下していっていることを、シドニーにいると痛感する。 こんな日常生活の面から見て、私は日本が危ないという危機感にとらわれて、いてもたってもいられない気持ちになるのだが、日本国内の在日日本人は全く危機感を抱いていないようだ。 ガソリンの価格が高くなったと嘆くだけで、その原因も、ではそれに対してどう対処するのかも思いつかず、政治家も官僚も困った、困ったと言うしか能がないから救いがない。 今発売中の小学館の雑誌「サライ」08年、6月19日号(この雑誌は素晴らしい。私は創刊時から全巻保存している。これだけ価値のある内容が盛り沢山の雑誌は他にない。全て永久保存に値する。)の39頁、「老い先案内人」と言う欄に、中沢正夫氏が、「死に神に仁義を切っておく」と題して、胸に響く事を書いている。 氏は「必ず来る自分の死に、一度は正面から向き合ってみるこをと勧めたい。自分がこの世から消滅すると考えるだけで、恐怖と焦燥で耐え切れなくなった青春の日々を、誰でも持っていよう。」 と書き始めて、死の恐怖について書いている。 氏は色々本を読んだが、「死をどう受け入れるかという本は本はたくさんあるが、『死とはなにか』に答えるものはなく、ジリジリは増すばかりであった。信仰のない私は死後の世界や輪廻転生を信じられず、救いはなかった」と続け、「結局、私が行き着いたところは、『死はそれが来たときに考えればよい』という、作家・中村真一郎の投げやりな居直りであった(『死を考える』より)。中村は《生きている間は、よりよく生きることに専念すべきであり、死はそれが到来してから対処しようというのが私の態度である》と述べる。」と言っている。 この、中沢正夫氏の「老い先案内人」は、若い人が読んでも、意味がある。 決して老人専用の文章ではない。 むしろ、若いときにこそ「死」について真剣に考え、気の狂うような恐怖を味わうものだ。お釈迦様が、「生病老死」の苦しみにどう対処するか命がけで取組み始めたのも、まだ若い頃だ。若い人がこの文章を読めば、考える方途が見つかるはずだ。 中沢正夫氏と中村真一郎の、死に関する考え方には私も大いに同感する。 どうせ死ぬのだから、死が来る前に死について思いわずらうことは意味がない。 で、日本についてだが、どうせ没落し破綻するのは分かっているのだから、いまから思いわずらう事は無い、となるのだろうか。 国については、そうではないと信ずるのだが、いまの日本の政治家や官僚の態度を見ていると、そんな風に考えて、行き当たりばったり、私利私欲のために動いているだけではないかと思えてならない。
- 2008/06/05 - 因果は巡る〈「雁屋哲の食卓 巨大マッシュルーム」を追加しました〉 これから、針の治療に行くのだが、してくれるのは中国人の医師である。 オーストラリアの医療制度の細かいところは良く分からないが、中国人の漢方医は、こちらの普通の医師とは立場が違うらしい。 西洋医学的なことは一切しない。 漢方薬の処方と、針治療だけである。 それでも、毎日満員で、待ち時間も結構長い。 また、この漢方薬の種類と量が半端ではない。日本でも漢方薬を貰ったことがあるが、一回あたりの量は、わずかなものだった。 ところがこちらで呉れる漢方薬の量は、日本で言えば中型のやかんの大きさの土瓶一杯になるほどある。その内容も、訳の分からない木の皮、木の葉、木の幹、木の実、白い石灰質のもの、など、不思議な物ばかりだ。 ある時、他の人の薬を処方しいるところを見たら明らかにセミの抜け殻が入っている。確かめたら、やはりセミの抜け殻で、それが沢山ある。 一体何に効くのかと尋ねたら、体のかゆいときに効くという。 セミの抜け殻とは恐れ入った。 しかし、私が今貰っている、鹿の角というのも我々日本人の常識からすれば分からない。 牡蛎の殻は胃の病気に効くと言う。 セミの抜け殻、鹿の角、牡蛎の殻、そんな物の効能を一体誰が最初に発見したのだろうか。 中国四千年の歴史というが、長い間人体実験を重ねた結果、効き目が証明されているわけだから、我々はそれを有り難く服用すればよいわけだ。 これまで、実験台になってくれた中国人よ、有り難う。 針も、日本のように、ちくちく浅く刺すのではなく、深く、びりびり感じるまで刺して、三十分ほどそのままにしておく。 結構辛い。時々、医者が戻ってきて、針をくるくる回す。その度にびりびり感じる。ちょっと怖い。 さらに、テニスボール大のガラスの球の内部にアルコールを塗って火をつける。 その火を消してすぐに私の背中に押しあてる。火が燃えて、球の中の酸素が無くなって、気圧が低くなっているので私の背中にその球が吸い付く。 かなりの圧力で吸われているのを感じる。 それも、三十分くらいそのままにしておく。 球を三個も四個もつけられると、背中に大きな甲羅を背負った様な気持ちになる。 かなり、吸引力が強いので、痛いほどだ。 この、針と、ガラス球を合わせた治療が効くようだ。 日本にも一人私の体に合う針治療をしてくれる先生がいたが、もうお年だから、治療はやめておられるのではないか。 こちらの、漢方医の、打った針をそのまま長い時間置いておくというのは、日本の針治療とは違うようだ。 この針治療も、受ける度に、この経絡なんてものを発見して、そこを針で刺激する治療法を産み出した中国四千年の文化はすごいもんだ、と感心する。 それに、日本で漢方薬を飲もうとすると、効果が出て来るまで二三ヶ月続けなければ駄目、というが、この漢方医の薬は三日で効果が出る。だから、薬も長くて一週間分しか出さない。 最初は三日分しか呉れなかった。 素晴らしい即効力なのだ。 胃の悪かったときなど、二日目で、あれっ、と不思議に思うほど良く効いた。 日本で抱いていた漢方薬についての印象が完全に変わった。 問題は、最近中国製の食品や医薬品の危険性があちこちで指摘されていることだ。 漢方薬の材料は全て中国から来る。もし変な物が入っていたら大変だ。 薬のつもりで、毒を飲むことになる。 そこで、ちょっと敬遠したいところだが、手術後の体力を回復するためには仕方がない。医者を信じて、漢方薬を飲み、針治療を受ける。 何のことはない、こんどは私が、実験台になる番か。 因果は巡ると言うから、仕方がないな。 では、針治療に行ってきます。 昨日はリハビリ、今日は針、そして明日はまたリハビリ。 なんと言う人生なんでしょう。
- 2008/06/04 - 血糖値の検査〈「シドニー子育て記 第一章 その2」を追加しました〉 余りに大きな手術だったので、その後体調がひどく乱れた。 夜手洗いに頻繁に行くようになり、のどが渇く。 試しに、指に針を刺して血を採って血糖値を計る機械で調べてみたら、血糖値が正常値の上限すれすれ、時にはわずかに超える。 これは一大事、糖尿病になったかと思った。 シドニーに来て以来、いろいろとお世話になっている大先輩が、軽い糖尿だと伺っていたので、私の家にお見えになったとき、「糖尿かしら、心配です」と言ったら、私の数値を聞いて、鼻先で笑われてしまった。 「そんなもん、糖尿なんかじゃない」と言うことである。 それでも心配だから、医者に相談したら其の場で尿の検査をしてくれて、「尿に糖は出ていない。問題ないが、心配なら、対糖負荷試験を受けなさい」となり、その試験を受けることになった。 朝、空腹時に血液を採り血糖値を計り、其の場でブドウ糖液を200だったか300CC飲み、2時間後に再び採血して血糖値を計る。 そのために、検査日まで3日前までの食生活の指針が渡される。 糖分を摂らずに検査を受けても意味がないので、いつもより炭水化物をたくさん摂るように指示される。しかし、その内容を見ると、オーストラリア人にとってはいつもより多いと思われる炭水化物の量が、私の通常の生活で摂っている炭水化物の量と変わらない。 如何に日本人は普段炭水化物を沢山摂っているのか良く分かった。 それでも、私は検査の値を厳しくするために、検査前三日間は徹底的に甘い物をたくさん食べた。ケーキ、アイスクリームにジャムかけ、クッキーにジャムかけ、ヨーグルトに蜂蜜、ジャムかけ、と、これでもかというくらい、甘いものを食べた。 もちろん、麺類も、油物もしこたま食べた。 そして検査を受けた。 昨日、その結果が出た。 尿も血液も全く問題がないと出た。 次女によれば、猫でもストレスがあると血糖値が22に上がることがあるという。 (血糖値は、日本はデシリットル・dlあたりのブドウ糖のグラム数で言う。 正常値は、日本の糖尿学会では、空腹時血糖80mg〜110mg/dl、食後二時間で80mg〜140mg/dl 未満となっている。 オーストラリアでは、70〜105mg/dl が正常値とされている。 さらに、オーストラリアでは、これを、通常、ブドウ糖の重量でなく、1リットルあたりの分子量・モルグラム数で示す。 ブドウ糖、C6H12O6の分子量は、180.156g/mol であるから、正常値は、3.8〜5.8mmol/l となる。mmol はミリmolの事、1/1000mol である。 次女の言った猫の22と言う数値はこれから判断すると、凄まじい血糖値と言うことになる) 私は、これが時に6.2まで上昇したので心配したのだが、全くの杞憂という事になった。 私も猫並みにストレスに弱い人間なんだろう。 のどが渇くことは、夜睡眠中に寝室で電気ヒーターをつけっぱなしにしていることが原因だと分かった。(今、シドニーは冬なんです) 去年までは何でもなかったことだが、手術で体調が変わったのだろう。 ヒーターを止めたら、ぴたりとのどの渇きが収まった。 それに不思議なことに、検査の後、夜中に手洗いに行く回数が一回にまで減った。これも正常だろう。 結局何だったんだといぶかしく思うが、やはり、手術後の体調異常による一過性のものだったのだろう。 どうも、気が弱くて心配性な物だから、つい、つい、先走って不安になって検査を受けてしまう。 検査の結果が出る前まで、「検査の結果、糖尿と分かったらもう食べられないのだから」と言って甘い物をしこたま食べ続けた。 検査の結果、心配ないと分かって、「これで安心」とまた甘い物をしこたま食べ続けている。 もともと、私は酒を飲んだ後に必ず甘い物を食べなければ気がすまなかった。お菓子を食べながら、ウィスキーやコニャックなどの強い酒を飲むのもおつな物だ。和菓子だったら焼酎だな。 酒飲みは甘い物が嫌い、などと言う図式は私には当てはまらない。 それがなにしろ、10週間以上酒を飲んでいないので、余計に甘い物が無性に欲しくなるのだ。 私は最近酒が弱くなった。 連れ合いに言わせると、2〜3時間でウィスキーを一瓶の60パーセントほど飲むと、足元が乱れるそうだ。 それで、転んだことはないが、いまの状態で転ぶのは大変に危険である。 だから、リハビリが進んでも、足元にしっかり自信がつくまで酒は飲むまいと決めている。 以前も酒について未練がましいことを書いたな。 酒飲みとは実に卑しい物だ。 酒は憂いを払う球箒(たまぼうき)と言うけれど、実は酒は鬱病に非常によろしくない。私もこの身で体験した。 最初に軽く酔いが回って来るところまでは良いが、酔いが深くなると、鬱が忍び寄ってくる。酔っぱらって寝込んだ翌日、完全にしらふになるとこんどは徹底的な鬱がのしかかってくる。 それは凄い物で、自分の体中が、泥になったような感じがする。 生きる希望も、喜びも、働く意志も、何も無くなる。 笑うどころか、何も感情が働かなくなる。死んでしまおう、とまで思う。 酒は鬱病には大変よろしくない。 08年2月28日の東京新聞電子版に共同配信の以下のような記事を見つけた。 「憂さ晴らしに酒を飲んでもむしろ逆効果?嫌なことを思い出した直後にアルコールを摂取すると、かえってその記憶が強められることを松木則夫東京大教授(薬理学)らがラットの実験で見つけ、28日までに米専門誌の電子版に発表した。人の場合なら、嫌なことを忘れようと酒を飲んで一時的に楽しくなっても、翌日には楽しいことを忘れ、嫌な記憶が強く残ることを示しているという。松木教授は「酒を飲まずに、嫌な記憶に楽しい記憶を上書きしてしまうのが良いのでは」と“しらふの気分転換”を勧めている。実験で、かごに入れたラットに電気ショックを与え、恐怖を学習させると、かごに入れただけで、身をすくめて固まるようになる。チームはいったん固まった直後のラットに飲酒相当のアルコールを注射した。その結果、注射しないラットと比べると、かごの中で固まり続ける時間が長くなった。その効果は2週間続き、記憶が強くなったと判断されたという。(共同)」 こんな記事を読むと、本当に気持ちが萎えますね。 しかし、私はくじけないぞ。 上の実験結果は「やけ酒は逆効果」であると言っていると取ればよい。 やけ酒でなく、楽しい酒なら良い訳だ。 早く、脚を丈夫にして、もとどおりがぶがぶ飲むんだい。 だって、コレステロールも、血糖値も全く正常だし、心臓の検査をしたら「こんなきれいな心臓は見たことがない。動脈の内側がすべすべしている。一切の動脈硬化がない。あなたは心臓が原因で死ぬことは絶対にありません」と言われたくらいだ。 鬱病も、大分良くなったし、脚さえ良くなれば心配有るまい。 早く我が脚よ丈夫になれ、と自分を励ましつつ、今日もこれからリハビリに行ってきます。
- 2008/06/03 - 宮澤賢治について 昨日、朔太郎の詩を引用したときに、私としたことが(と言うより、間抜けな私だから)誤変換や、間違いがあった。 朔太郎を好きだと言っておきながら、おお、恥ずかしい。 訂正しておきましたので、朔太郎に興味のある方は、昨日の分を読み直してください。 で、朔太郎を紹介しておきながら、宮澤賢治を紹介しないのは片手落ちだから(今、この、「片手落ち」という言葉が、差別語だというので、新聞雑誌では使用禁止用語になっているという。これは、手に障害を持っている人に対する差別用語とは違う。この場合の「手」は肉体的な「手」ではなく、「手配」「手回し」などと同じ、人間が何かに配慮することを言う抽象的な概念である。それを、実際の肉体の手であると取るのは、日本語を知らない人間が、かえって手に障害を持つ人間を傷つけていることになる。脚に障害を持つ私のような人間を「びっこ」とか「ちんば」と言うのとは訳が違う)、一つ宮澤賢治の詩を紹介したい。 宮澤賢治というと、「風の又三郎」「銀河鉄道の夜」「アメニモマケズの詩」などが良く知られていて、幻想的で心優しい詩人であると言う印象が広まっている。 もちろん、宮澤賢治ほど心優しい文学者は、他に見あたらない。 (ところで、「銀河鉄道999」という漫画がある。あれは、宮澤賢治の描いた絵と全く同じで、名前まで同じだ。どうして、そんなことが許されるのだろうか) 宮澤賢治は優しいだけではなく、人間の生き方のぎりぎりの所まで考え表現する作品を残している。 宮澤賢治はこの世を修羅の世界と考えている。 修羅の世界とは、弱肉強食の争いの世界である。 その世界から何とか抜け出したい、と宮澤賢治は考えていた。 その考えが一番良く表れているのは「よだかの星」という童話である。 「よだか」とは「夜鷹」のことで、この鳥は、口を大きく開けて空中を飛び回り、その際に口の中に飛び込んできた昆虫などを食べて生きて行く、とされている。 「よだかの星」という童話は、そのよだかの悲しみを通じて、修羅の世界に生きる人間の悲しみを描いた物である。 「よだかはじつにみにくい鳥です。(中略) (鷹はそのみにくいよだかが、自分と同じ「たか」という名前であることが気にいらず、名前を変えなければ殺すとおどかす) よだかは不安になってくらくなった空にとび出します。一匹の甲虫がよだかの咽喉にはいって、ひどくもがきました。よだかはすぐにそれをのみこみましたが、その時なんだかせなかがぞうっとしたように思いました。多くの羽虫とともにまた一匹甲虫がのどにはいりました。よだかは悲しくなって大声をあげて泣き出しました。泣きながらぐるぐるぐるぐる空をめぐったのです 『ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただひとつの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい。つらい。僕はもう虫をたべないで飢えて死のう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。いや、その前に、僕は遠くの空の向こうに行ってしまおう』 (そうおもったよだかは、お日様や、夜の星たちに、その世界に連れて行ってくれと頼むが、お日様も、夜の星たちも、よだかを受け入れてくれない。絶望したよだかは地面に落ちていくが、地面に落ちる寸前、からだをゆすって毛を逆立て、夜の星に向かってまっしぐらに昇って行く。) よだかは、夜の空に星をめがけてまっすぐに昇ってゆきました。寒さや霜がまるで剣のようによだかを刺し、よだかははねがすっかりしびれてしまいました。しかし、星の大きさは少しも変わりません。よだかはなみだぐんだ目をあげてもう一ぺんそらを見ました。そうです。それがよだかの最後でした。もうよだかは落ちているのか、のぼっているのか、さかさになっているのか、上を向いているのかも、わかりませんでした。ただこころもちはやすらかに、その血のついた大きなくちばしは、横にまがっていまいしたが、たしかに少しわらっていました。 それからしばらくたってよだかははっきりまなこをひらきました。そして自分のからだがいま燐の火のような青い美しい光りになってしずかに燃えているのを見ました。 すぐとなりはカシオピア座でした。天の川の青じろいひかりが、すぐうしろになってゐました。 そして、よだかの星は燃えつづけました。いつまでもいつまで燃えつづけました。 今でもまだ燃えています。」 と言う物なのだが、どうだろうか。 この、よだかの悲しさこそ、グローバリゼーション、だとか、格差社会だとか、実績主義だとか言う、いまのぎすぎすした競争社会に生きる人間が等しくいだく悲しみなのではないだろうか。 よだかは天に昇って、よだかの星、となった。 それは、この修羅の世界から抜け出して、全ての苦しみから解脱した清らかな世界に移りたいという宮澤賢治の願いを表した物だ。 宮澤賢治本人は、ではどうしたかというと、徹底的な「利他主義」で、他人のために尽くすことで自分も社会も救おうとした。 良く知られたことだが、宮澤賢治は死の前日まで、農業のことを教えてもらいに来た人に親切に教えたという。 「アメニモマケズ」の詩もその利他主義の精神を表していて、それが多くの人の心を引きつけるのだろう。 宮澤賢治は、肺結核を病んで、39歳で亡くなった。 死の直前に書いた「眼にて云ふ」という詩がある。 だめでせう とまりませんな がぶがぶ湧いてゐるですからな ゆうべからねむらず血も出つづけるもんですから そこらは青くしんしんとして どうも間もなく死にさうです けれどもなんといい風でせう もう清明が近いので あんなに青ぞらがもりあがって湧くやうに きれいな風が来るですな もみぢの嫩芽(嫩は、ふたばの意味、音では「どん」だが、嫩葉をわかば、と言うので、ここでは、わかめ、とよむのが適当か)と毛のやうな花に 秋草のやうな波をたて 焼痕のある藺草(いぐさ)のむしろも青いです あなたは医学会のお帰りか何かは判りませんが 黒いフロックコートを召して こんなに本気でいろいろ手あてもしていただけば これで死んでもまづは文句もありません 血が出てゐるにもかかはらず こんなにのんきで苦しくないのは 魂魄なかばからだをはなれたのですかな ただどうも血のために それを云へないがひどいです あなたの方から見たらずゐぶんさんたんたるけしきでせうが わたくしから見えるのは やっぱりきれいな青ぞらと すきとほった風ばかりです 死の直前に、自分の死を見つめて、これだけのことを書くことの出来る精神力の強さと、悟りの深さ。 こんな詩を読んでしまっては、もうだめですね。 最初この詩を読んだとき、ちっぽけな私の死生観なんて、実にひ弱に思えたことでした。 朔太郎は人間の感覚の世界を隅から隅まで探って行って、人間の心の深奥に降りていった。 宮澤賢治は、人間の心、人間存在のあり方を突き詰めていって、天上の高みにのぼっていった。 朔太郎は深く、賢治は高い、と言うのが私の抱いた感じです。 萩原朔太郎と宮澤賢治、この二人は日本の産んだ最高の文学者です。 この二人の作品に出会ったことが、私の人生の最大の幸せのひとつでした。
- 2008/06/02 - 朔太郎のこと さて、六月は梅雨の季節である。 私は雨が大嫌いで、梅雨の明ける七月半ばまでの間、毎年死にたくなるような思いをしてきた。 ここ数年オーストラリアの穀倉地帯は、大干ばつで、小麦も、稲も、牧畜も、ワイン作りも難しくなってきている。 その干ばつは凄まじい物で、去年胸までの深さのあった川が、完全に干上がって川底の土が乾いてひびが入っている。 地球温暖化が進む限りこの干ばつは進むばかりというのだから、オーストラリアの未来は暗い。 日本の梅雨に降る雨をオーストラリアに運んで行ってやりたい。 しかし、梅雨の時期の日本にも救いがある。 それはあじさいの花である。 咲き始めは青い色で、日が経つに連れて桃色に変わっていく。 その変化も楽しいし、全体の感じが非常にすがすがしく、派手な割に可憐である。 北鎌倉に「あじさい寺」として知られる寺がある。「名月院」と言ったかな。 かつて、その寺は有名ではなく地元の人間しか訪れなかった。 寺の入り口の階段の前に、小さな箱が置かれていて、その気持ちのある人は寄付をしてくれるように書かれていた。 私達は、毎年のんびりとその寺に咲き誇るあじさいの花を楽しみに行った物である。その寺の庭の奥で弁当を食べたこともある。 所があるとき女性雑誌に取り上げられてから、様子が一変した。 北鎌倉の駅から、その寺まで、行列が出来るようになった。 寺の中も、ぎっしりの人が隙間無くならんで順番に移動するというまるで、移送される家畜の群れのようになってしまった。 それまで、入り口に小さな木の箱が置かれていただけだったのが、入り口に門が作られ、拝観料を徴集されるようになった。 そうなると、あじさいを見に行くのか、人の群れに圧殺されに行くのかわからない。 寺の周りにおみやげ屋も沢山出来た。 私はガッカリして、行く気を失ってしまった。 今でも、毎年混んでいるのだろうな。 所で、最近、詩は読まれなくなったのだろうか。(今、ATOKを使ってかな漢字変換をしたが、詩、は何と18番目まで出て来なかった。こんな所にも、詩の衰退が洗われているのだろうか) 丸善が、丸の内に巨大な店舗を作ったというので出かけてみた。 三好達治の詩を読みたくなったのだが、私の持っている三好達治の本は秋谷の家の本棚のどこかに収まっていて、その当時東京に滞在していた私は、秋谷に取りに行くより、丸善で、新しい本を買った方が便利だし、他にも色々詩の本があるだろうと期待して、出かけたのだ。 丸善の丸の内店は実に巨大な規模だった。 一体幾つの階があるのか確かめなかったが、大きな建物の各階が本で埋まっている。本好きの私は、テントを張って泊まり込みたい気持ちになった。 で、詩の本の売り場を探してたどり着いてみると、なんと、書棚が二つあるだけで、現代詩の本はほんのわずかしかない。 三好達治の全集はおろか、萩原朔太郎の全集もない。 わずかに文庫本でそれぞれ詩人の特に知られた物をまとめた物が何冊か有るだけである。 三好達治の本も文庫本で一冊有るだけだった。 昔は、少し大きな書店に行けば、現代詩の本を並べている書棚が幾つもあって、明治以降の現代詩の詩人の本は、全集から、詩集まで容易に手に入った。 それが、店全体で何十万冊もの本を並べている丸善でこの体たらくだ。 書店も商売だから売れない本は置かない。 要するに、詩の本は売れない。詩を読む人は極めて少ない、と言うのが現状なのだろう。 そんなことを考えると、ひどく淋しくなった。 私は学生の時に、自費で詩の同人雑誌を仲間と一緒に作ったほどで、もともと、物書きを志したのは、詩人になりたかったからだ。 詩から漫画の原作は恐ろしく距離があるが、私が漫画の原作を始めたとき、漫画はまだ、人間に例えると少年期で、とにかく勢いがあって面白く、つい漫画の虜になってしまったのだ。それでも、詩に対する思いは少しも変わらない。 今でも、明治以降の日本の文学者の中では、萩原朔太郎と宮澤賢治の二人が一番で、他の文学者はその二人より大分落ちると思っている。 中でも、萩原朔太郎が大好きである。高校生の時に初めて「竹」という詩を読んだ時の衝撃は忘れられない。 「光る地面に竹が生え」で始まる、あの詩である。 結婚してしばらくして、連れ合いの亡父の蔵書目録を見て驚いた。 連れあいの父は、大変な趣味人で、本や絵に極めて造詣が深かった。 その蔵書目録を見ると、稀覯本と言われる物が揃っている。 中でも、朔太郎の「月に吠える」と「青猫」の初版本があるのには仰天した。 私が欲しいと長い間願っていた本である。 連れあいの父は、医療事故で、突然亡くなってしまったが、亡くなったと聞いた古本や押しかけてきて、夫を亡くして呆然としている連れ合いの母から残された蔵書を全部引きとっていったという。 当然金は支払ったが、私が判断するに、あの蔵書の量と質はただ事ではなく、だから古本屋が慌てて飛んで来たのだろうが、一財産と言える価値が有った。連れ合いの母に聞くと、そんな大金は貰わなかったと言うことで、古本屋は突然夫を失って呆然としている未亡人を相手に、阿漕なことをしたのだ。 いまでも、連れあいの父の蔵書目録に載っていた、「月に吠える」と「青猫」の初版本の行方が気に掛かって仕方がない。 私には、会社勤めをしたときの同期入社で、それ以来の親友がいる。 「あ」という名前で、私の書いた「美味しんぼ塾」に、一緒に酒を飲んで遊んだこととか、彼が鍋奉行を通り越して、鍋閻魔大王であることなど、何度か書いている。 その「あ」は沖縄に住んでいる。 やはり、詩が好きである。 ある時、私と「あ」は二人だけの詩の朗読大会を挙行した。 沖縄とシドニーの間で、電話で詩の朗読をし合うのである。 もちろん、朔太郎の詩である。 それぞれ手元に朔太郎の詩集を用意して、自分の好きな詩を互いに次々に朗読するのである。 私が「じゃ、青猫から『鶏』いくぞ」と言って、朗読を始める。 しののめきたるまへ 家家の戸の外で鳴いているのは鶏です 声をばながくふるはして さむしい田舎の自然からよびあげる母の声です とをてくう、とをるもう、とをるもう、 などと朗読する。 「あ」は、聞き終わって、「いいなあ、朔太郎はいいな」と感激してくれて、「よし、つぎ、おれが、純情小曲集から、『再会』行くぞ」と言って、 皿にはをどる肉さかな 春夏すぎて きみが手に銀のふほをくはおもからむ ああ秋ふかみ なめいしにこほろぎ鳴き ええてるは玻璃をやぶれど 再会のくちづけかたく凍りて ふんすゐはみ空のすみにかすかなり。 みよあめつちにみずがねながれ しめやかに皿はすべりて みてにやさしく腕輪はづされしが 真珠ちりこぼれ ともしび風邪にぬれて このにほふ舗石(しきいし)はしろがねのうれひにめざめむ と朗読する。「あ」は朗読するときに独特の節を付ける。それが、また良い。 聞き終わって、私は、「朔太郎はいいなあ」という。 二人で、電話で「いいな、いいなあ」と言い合って、次々に朔太郎の詩を朗読し合う。 楽しい時間だった。 今の若い人はそんなことはしないんだろうな。 詩が読まれなくなったなんて、何と殺伐とした世の中なんだろう。 淋しいのを通り越して、恐ろしくなる。 さて、あじさいに戻るが、朔太郎のやはり純情小曲集から、「こころ」をここにひく。 良く知られた詩であるが、若い人にはどうだろうか。 若い人も、この優しい詩を手掛りにして、朔太郎に親しんで貰いたいものである。 「こころ」 こころをばなににたとへん ここはあぢさゐの花 ももいろに咲く日はあれど うすむらさきの思ひ出ばかりはせんなくて。 こころはまた夕闇の園生のふきあげ 音なき音のあゆむひびきに こころはひとつによりて悲しめども かなしめどもあるかひなしや ああこころをばなににたとへん こころは二人の旅びと されど道づれのたえて物言ふことなければ わがこころはいつもかくさびしきなり ああ、朔太郎はいいなあ。 あじさいの美しさ、その悲しさが目に浮かび、心にしみ渡る。 朔太郎を知って私の心は豊かになった。
- 2008/06/01 - 男どもよ、座れ! ひやあ、6月になっちゃったい。 3月18日に手術を受けてからの日々が、まるで空白のように思える。 幾ら時の経つのは早いものだと言っても、これは早すぎる。 これだけ、空虚に過ごした二ヶ月半もない物だ。 いや、常に自分の膝の調子と向き合っていたから、自分の体とは濃密なつきあいをしてきたわけで、その点からすると空虚という事は無い。濃い密度の毎日が続いている内に時間が経ってしまったと言うことか。 しかし、リハビリの手伝いから、リハビリに行く車の運転から、日常の細々としたことから全て連れ合いにおんぶにだっこで、連れ合いがいなかったら、私は一日も生きて行けない。 手術前なら自分で出来たことが今は出来ないことが多い。どうしても、連れ合いの手を借りなければならなくなる。 自分をこんなに無力に感じたこともない。 連れ合いは私の面倒を見ながら、他にも家事で忙しい。 コマネズミのように働き続ける連れ合いの姿を見ると、実に申し訳なくなる。他の男と結婚していればこんな苦労をせずにすんだろうに。 私みたいに手の掛かる男と結婚してしまって、貧乏くじを引いてしまった物だ。と言っても、返品期間はとっくに過ぎてしまったから、亭主の返品は出来ないし。可哀想に。 昔流行った浪曲で「壺坂霊験記」というのがある。もともとは文楽の物らしい。視力を失った夫、沢市を、妻のお里が面倒を見る、と言う筋書きだが、その冒頭の文句と節を今でも私は憶えていて、最近、その一節を唸って連れ合いに聞かせる。(若い人には分かりづらいだろうから、説明すると、浪曲は歌うと言わずに、唸る、と言うのだ。浪曲を聞いた感じでは確かに、唸る、と言う語感がぴったり来る) その文句は次のような物である、 「妻は夫を労わりつ、夫は妻をしたいつつ」 正に私の家は今や、「壺坂霊験記」状態である。 といっておいて、こんち、尾籠なお話で失礼します。 最近、どこのお宅に行っても、手洗いに男性用の立って放水作業をする便器はなく、座って用を足す便器が一つだけのことが多い。 レストランでもそうだ。 そこで、男性は如何に放水作業を行っているか。 これは、圧倒的に立ったまま行っている男が多いでしょう。 私も長い間、便座を上げて放水作業を行っていたのだが、ある時、しみじみ観察してみると、これは大変に不潔であると言うことが分かった。 不潔であるゆえんを列挙しよう。 男性はしばしば狙いを外す。 遠くに飛ばしすぎて、便座の奥を超えたところに着弾させてしまう。 右や左にそれて、便器の外にこぼす。酔っぱらっていると、その狙いの外し方が激しくなる。 しぶきが立って飛び散る。 運良く、便器の中に着弾しても、放水の勢いが強いと便器の内壁、あるいは便器の底に溜まっている水にぶつかって、しぶきが立つ。 そのしぶきは、細かい飛沫となって便器の周りの床や壁に飛び散る。 これは暗い手洗いでは分からないが、明るいとよく見えて愕然となる。 男性は己を過信する。 男性は己の放水器の寸法を過大に考える傾向がある。 便器に立つのも、己の放水器の寸法に対して適正な距離より遠く離れて立つ。 その結果、放水器と便器の間に距離が出来て、放水の最後の段階で放水の勢いが落ちると、便器まで水は届かず、便器の手前の床にぼたぼたと落ちる。 過信はいけない。己自身を知れ。 私はシドニーと日本の間を年に何度か往復するが、その度に、うんざりするのが、飛行機の手洗いが、離陸して数時間経つと汚くなることである。 特に、便器の前の床に液体が落下しているのが恒常的になる。 客室乗務員は結構まめに手洗いを清掃しているようだが、客席数に比べて、飛行機の手洗いの数は少ない。乗務員が清掃してもすぐ数分後には、己を過信した男性客が、便器の前の床を汚していく。切りがない。 男性は己の放水器の構造を良く理解していない。 男性の放水器の中には管があり、放水作業完了後も、管の中には水が残っている。 男性は、作業終了後、犬がしっぽを振るのを真似た動きを己の放水器に、大抵の場合上下に、念を入れる人は回転させて加えて、それで管の中の水は全て放出できた気になっているが、それは大きな間違いである。 数回犬のしっぽふりをしただけでは、水を完全に放出することは出来ないし、大抵の男性は、徹底的に放出し終わったかどうか確認しない。 更に、もう一つの問題として、放水作業は通常両手を離しては行えないという事実がある。 従って、放水器の寸法に合わせて、片手あるいは両手で放水器を保持するのが一般的である。 しかも、放水作業の後の、犬のしっぽ振りの段階では、放水器をしっかり掴む必要があるから力が入って、その部分の管は圧迫される。 圧迫された管の前方部分に残る水は完全に振り切れたとしても、圧迫した部分から後ろに残った水はその段階では外に出て行きようがない。 男性が、犬のしっぽ振りを終えて、これで良しと思って放水器を掴んでいる手をゆるめた途端、背後の管に残っていた水が、流れ出る。 男性が放水器を自分の衣服の中に格納するまでの間に、その水は、便器の前にしたたり落ちることになる。もちろん、格納された下着の中にも残留分が出て来る。 私はこの世の中で、男性の裸体を見ることほど厭なことはない。 しかし、温泉などに行くと、否が応でも男性の裸体を見なければならない。私が温泉の雰囲気は大好きだが、温泉に入るのは嫌いなのは、湯当たりしやすい体質であることに加えて、男性の裸体を見るのが気持ち悪いからである。 その温泉に更衣室という物がある。そこで、浴衣など脱ぎ、下着も脱ぎ、裸になる。 そこで、不運にも他の入浴客と一緒になることがある。私は自分で自分を呪うのであるが、そう言う場合、私の眼は、見なければよい物を必ず見てしまう。 私は男性の下着の中で、ブリーフと言う奴が、大嫌いである。生地の感じと言い、形と言い、あれだけ恥ずかしい物は滅多にない。 あんなものを身につけるくらいなら、私は新聞紙を身体に巻き付ける方がましだと思う。 時にとなりの客がそのブリーフを脱ごうとしているところに目がいってしまう事がある。「あ、早く目を離さなければいけない」と自分では思うのだが、眼が勝手に動いて、身の毛のよだつような物を見てしまう。 ただでさえおぞましいブリーフの一部分が黄色に変色しているのを私の眼は捉えてしまうのだ。 ブリーフに限らない。トランクス型の下着でも何でも、殆どの男性の下着のしかるべき部分は黄色に変色していると断言しても間違いない。男性諸君、直ちに自分の下着を点検し給え。私の正しいことが分かるはずだ。 それも、ひとえに、放水作業の後の始末が上に述べたとおりに間違っているからである。 どんなにおしゃれをした紳士でも、その下着のある部分が黄色く変色しているかと思うと、気が抜ける。 さて、1)から、4)までに述べたことが原因となる、手洗いの汚れ、下着の汚れ、に対してどう対処するか。 それは、 男性も、便器に座って小用を足すこと。 私は、家に遊びに来る男性客には、必ず放水作業は座って行うように厳しく言う。 男性の中には、座って小用を足すのは、男の沽券に係わるなどと言って、嫌がる者が多い。 そんな奴は私の家では手洗いを使わせない。 立って小用を足すことのどこが男の誇りに係わるというのか。 そんな事を言い張る男は実に肝が小さい。貧相である。 手洗いを汚しておいて、男の誇りもないもんだろう。 アラブでは男も座って小用を足す習慣になっているという。 当然のことだろう。 これで、手洗いのの汚れのかなりの部分が解決する。 で、下着の汚れの問題だが、それは、 放水作業後、トイレットペーパーで、放水器をきれいに拭うこと。 そんなことはおかしい、と言う男は、汚れた下着を着ても平気な男であって、不潔きわまりない存在である。 どうして、水をきれいに拭わぬまま放水器を格納するのか。ああ、きったねえ、と私は思うね。 実際に拭ってみると、如何に大量の水が残っているか分かって驚くだろう。 イスラムの世界では、放水作業後、水で洗うという。 実に正しいではないか。 長女は去年、数ヵ月フランスを中心にヨーロッパを旅してきたが、帰ってきて、私にお土産をくれた。 それは、ドイツ製のステッカーで、手洗いの便器の前に貼る物である。 そのステッカーには、男性が放水作業を行っている姿が、非常口などの案内板に国際的に使われている、頭は丸、身体は楕円形の略画(あのデザインは日本が作った物で、その企画をロシアの案と競ったと言うことだ)で描かれているが、立って作業をしている人間には×、便座に座っている人間にはよろしいと言う印が付いている。 なんと、ドイツでは男性が立って放水作業をすることが法律で禁止されているのだそうだ。 私が何時も口やかましく、男どもに座って作業をするようにと言っているのを知っている長女が、それをドイツで見つけて買ってきてくれたのである。 流石はきれい好きのドイツ人だ。 法律で決める所など、立派だ。 私はそのステッカーを、私の家で客が使う手洗いの便器の前に貼った。 残念なのは、ドイツ語で書かれていることだが、世界共通の略画が描かれているので、オーストラリア人にも日本人にも理解できる。 流石のドイツ人も、上記ロ)の項目については法律では決められていないようである。 しかし、清潔を真剣に考えるなら、慣習にとらわれず、格好悪いなどと思わず、ロ)を実行していただきたい。 どうせ人に見せて行うことではないのだから。 おかしいとか、変だという人には、それなら、あなたは大きい方の場合にもお尻を拭かないのかと尋ねたい。同じことではないか。 これは真剣なことなんだ。 真面目に受取っていただきたい。 幾ら上品なことを言っても、美味しい物を食べても、おしもが不潔だったら話にならないぜ。 手洗いを汚し、汚い下着を着ている男なんて、気持ちが悪い。最低だな。
- 2008/05/31 - 針治療に行きますどうも、肩こりがまたひどくなってきて、これからまた針治療に行くことになった。 あと、二、三回行けば良くなるはずだ。 膝は昨日のリハビリの際に計ったら、85度まで曲がるようになった。 私の人工の膝の仕様では、最大120度まで曲がることになっている。 日本の人工膝関節なら、正座できるように180度まで曲がるのかしら。 まあ、120度曲がれば正座できなくても、日常生活に不便はないから、それで良いとして、さて、85度から120度までは、大変な道のりだ。 しかし、これに肩こりまで加わっては二重苦、三重苦の人生ですよ。 ここで、おきまりの呪文、「辛抱我慢」「辛抱我慢」 そんな訳で、きょうはこれにて。
- 2008/05/30 - 卵焼き 最近食べ物の質が低下したと思う。 特に卵が美味しくなくなった。 私は卵が大好きで、卵を食べるとコレステロールが増える、などと言ううるさいことは無視して、殆ど毎日食べているが、コレステロールの値などまるで上がらない。 そりゃ、一日十個も二十個も毎日食べ続ければどうなるか分からないが、一日一個や二個食べ続けてコレステロールの値が上がるなんてのは、どこか他に体が悪いのだろう。私はまるで気にせずに食べ続けている。 私の家では、有機飼育で放し飼いの鶏の卵を買っている。鶏を育てる条件は良いはずなんだが、その卵の味は私が以前日本で食べていた卵に比べるとひどく落ちる。 日本でも、最近、いわゆる高級スーパーで思い切って高価な卵を買ってきても、最早昔の味ではないのでガッカリさせられる。 日本に住んでいた頃は、ある鶏農場から定期的に卵を送ってもらっていた。 私はその農場まで見に行って、その育て方が素晴らしいので、送ってもらうことに決めたのだ。 私が住む横須賀から遙か離れた知多半島にその鶏の農場はあった。 そこの卵は、皿に割って横から見ると三段になっているのが分かる。 一番下に白身が広がり、中央近くから透明に近い白身が盛上り、更にその中心に尖ったようにまん丸な黄身が乗っている。 この卵はどんな食べ方をしても美味しかった。 私の子供たちはいまだに卵掛け御飯が好きだが、あんな美味しい卵を食べさせたからだろう。 勿論、どの様に調理しても美味しい。 卵料理の中で、一番難しいのは、目玉焼きではないだろうか。 (これには異論が沢山あるだろう。世の中には無数の卵料理があるからね。 目玉焼きが難しいなんて笑わせるんじゃない、なんて声も聞こえるな。 そんな声は無視するが、ふと考えると、私の自慢の「ふっくらぽんぽん」だってとても難しい。 連れ合いや子供たちにも教えたのだが、まだまだ、免許皆伝には至らない。 え?その「ふっくらぽんぽん」とは何か、だって? かつて何度か書いたと思うが、美味しい物については何度書いても良い。後ほど、お話しましょう) で、その目玉焼きだが、白身の一番外側がうっすらとこげていて、白身は柔らかく、黄身は半熟、と言う具合に焼けた物が私は好きだ。 白身の外側が焦げて茶色になった部分は実に香ばしくて人の心を奮い立たたせる。 そして、黄身を三分くらいに火が通った状態に仕上げると、トロリと柔らかくしかも、熱によって黄身が活性化し味もふくらむので、何よりも香りが豊かになる。口に掬っていれると、その香りが鼻にふんわりと抜ける。 その心地よさったらたまらないな。 卵の黄身のあの香りは、豊穣なる優しさというか、蠱惑的な喜びというか、そんな物を感じさせて、しかも人の心をやんわりと揉みほぐしてくれて、食べていると、さあ、元気を出しなさい、と言う声が聞こえてくるような感じだ。 目玉焼きには、英語で言うと、Sunny side upと、Turn overの二つの形態がある。 Turn overは、焼く途中で目玉焼きをひっくり返して両面を焼く物、 Sunny side up、はひっくり返さずに片面だけを焼いた物である。 ひっくり返すと黄身の部分も表面の膜が焼けて白くなって黄身の黄色い色が見えなくなる。 ひっくり返さないと、黄身の黄色い色がそのままで、それが太陽のように見えるから、Sunny、と言うのだろう。 私は、このTurn overが好きなのだが、最近の卵では、Turn overを作るのが難しくなってしまった。私の腕が悪いせいだけではない。卵が変わってしまったのだと思う。 良い卵を使えば、Turn over も簡単に出来た。 フライパンにバターを落とし、その上に卵を割り入れる。 周りが焦げてきた段階でまだ、黄身は生である。 その焦げた卵の端を、箸でつまんでひっくり返し、数秒おいて更にひっくり返して皿に取ると、きれいな半熟の、Turn overが出来た物だ。 ところが今の卵は、そもそも白身がしっかりしていない。 だらだらとしまりがないから、焼いた目玉焼きの端を、箸で掴んでひっくり返すと言うことが出来ない。白身が破けてしまう。 更にひっくり返すと、実にしばしば、黄身が破ける。 以前私が食べていた卵は、黄身だけを箸で掴んで持ち上げても、黄身は破けるなどと言うことはなかった。 今の卵の黄身は、箸でつまむどころか、うっかりすると割り入れる段階で卵の殻の端に引っ掛かると破けてしまう。 では、箸なんかでつままずに、卵返しを使えばよいように思うが、それでも駄目だ。かなりの確率で、ひっくり返したときに黄身が破れるし、それを皿に取るときに表に向けようとひっくり返すと、破けたりもする。最後の段階で破れると泣きたくなる。 最近は、その失敗が厭なので、仕方なく、Sunny side upばかり食べている。 それに、以前の卵は、皿に割ってもこんもりと盛上って、目玉焼きにしても、ちょうど良い具合の大きさになった。 何にちょうど良いかというと、私は、目玉焼きを焼いたらフライパンからそのまま、バターをたっぷり載せたトーストパンに移動させ、そのまま、あんぐあんぐ、と食べるのが好きなのだ。 目玉焼きを一旦皿に取ると、冷えてしまう。それが面白くない。 フライパンから直接パンの上に乗せると、舌を焼くほど熱い。 それがたまらなく美味しい。卵全体の香りが立って、無我夢中でがつがつと食べてしまう。 ちょうど良い大きさというのは、トーストパンに載せるのにちょうど良い大きさのことだ。 ところが、最近の卵は、その白身がだらしなく広がる。 結果として焼き上がった目玉焼きは、やたらと平べったくて大きい物になる。 パンに載せると、白身がだらりと外にはみ出す。 実に面白くない。 シドニーで、有機食品の店など何軒も回って、これが一番という卵を買っても満足できる物に出会ったことがない。 東京や鎌倉で探しても、満足できる物にお目に掛からない。 やはり、あの農場から送ってもらうしかないようだ。 しかし、私の子供の頃は、特別に農場から送ってもらわなくても、そこらの店で買っても、その三段構造の素晴らしい卵が普通に手に入ったのだ。 ま、確かに昔は卵は高価な物だった。 今の若い人には信じられないかも知れないが、昔は病人のお見舞いに卵を桐の箱に入れて送ったりしたのである。 それに比べれば、今、スーパーなどで売っている卵の値段は安い。 スーパーの特売になると、一パック百円などど言う値段が付けられていて、そんな物を見る度に、私は卵農家のことを考えて胸が痛くなる。 あんな苦労をして、こんなお金しか貰えないのではひどすぎる。 結局、今の卵の味が落ちたのは、買う方が安くしろ、安くしろ、とそればかり要求してきたからだろう。 安く作るためには何かを犠牲にしなければならない。 最初に食べ物の質が低下した、と書いたが、実は消費者の質が低下したと言う方が正しいのだろう。 で、ふっくらぽんぽん、の焼き方です。 中華鍋(普通のフライパンでも良い)にたっぷりのごま油を取る。 私が、ふっくらぽんぽんを焼いているのを初めて見た連れ合いが、「それは、卵の天ぷらじゃない」と言ったが、天ぷらほどではないにしても、油の量は気合いを入れてたっぷり使うことが必要だ。 その鍋を強火で熱して、鍋に接する部分の油からうっすらと煙が立ち上がる頃合いに、溶いて良くかき混ぜた卵を、流し込む。 卵は一気にふくらむ。端の方が焼けて盛上る。 そこを箸で掴んで持ち上げると、まだ生の部分の卵が油の中に流れ落ちていって、これも直ちにふくらむ。 箸でつまんで持ち上げることを二三回繰り返すと、卵全体が、ふくれ上がる。 そこを、手間取らずにさっと鍋からあげて皿に取る。 調理時間は十秒かかるかどうか。手早くするのが肝心だ。 その瞬間の卵の姿は、ふっくらと膨らんでぽんぽんしている。 それで、「ふっくらぽんぽん」と名前が付いた。 これに生醤油をかけて食べるのだが、醤油をかけた途端、ふっくらと膨らんでいた卵が、ぺしゃんと縮む。 しかし、そこまで膨らませておくと、縮んでも、口の中での感触が違う。 膨らませることのない卵焼きでは、この、柔らかでふんわりした感触は味わえない。 その、「ふっくらぽんぽん」はそのままで食べても有り難みが少ない。炊きたての熱い御飯に載せて食べなければ真価は味わえない。 熱い御飯の上に、焼きたての、これまた熱い「ふっくらぽんぽん」をのせて、がばっと、掻き込むと、ああ、あなた、凄いスよ。 こんな単純な物が、どうしてこんなに旨いのか。 不思議でならないと言いながら、涙目になって御飯を掻き込み、あっという間に御飯をお代わりしてしまうことになる。 卵もそうだが、「ふっくらぽんぽん」で大事なのは、ごま油だ。 他の油では駄目。ごま油。それも、球締め極上のごま油で作ったら最高のご馳走だ。 この、「ふっくらぽんぽん」が上手に焼けるようになったら、卵の扱いも一人前と認めてやるんだが。
- 2008/05/29 - 「有機」について 普段何気なく使っているが、その意味を深く考えたことがない言葉は幾つもある。 私が、「美味しんぼ」の中でさんざん使った、「有機」という言葉も、そうなのではないだろうかと、ふと考えた。 と言うのは、先日も、夕食の時に子供たちと話していて、Organic と言う言葉は、Organ から来ているんだよ、と言ったら、長女が「あ、そうだったのか」と驚いたので、私の方が驚いた。 長女は大学で環境科学を専攻したので、有機物とは、「昔は生物によって作られる物と考えられていたが、ウェーラーが1828年に、無機物を材料にして有機化合物の一つである尿素を合成したことから、必ずしも生物に依ってのみ作られる物ではないことが明らかになった」、と言うことは知っていたが、それが、生物の器官、Organ、と言う言葉と結びつくと言うことは考えなかったのだ。 しかし、意外にそんな物なのかも知れない。有機物の取り扱いや、性質については詳しくても、その語源など、余り考えないのではないか。 そう考えると、「有機」の意味など、一般に余り考えられていないのではないかと思った。 別に言葉の語源を知らなくても、困ることはないが、「有機」の場合、知っていた方が、理解が深まるような気がする。 今まで、「美味しんぼ」の中で、「有機」の持つ意味について、語源から述べたことがないのを、今さらながら気がついて、この機会に、一寸書いておこうと思う。 繰り返しになるが、確認のために言うと、いわゆる「有機物」「有機化合物」は、かつては生命力を持つ生物によってのみ作られる物と考えられていた。 英語で「有機」の事を Organic、というのは、有機物質は生物の器官、すなわち、Organ によって作られた物と考えられていたからだ。 Organic、とは、生物の器官 Organ、に由来する物なのだ。 では、日本語の「有機」とはどう言う意味か。 それも、「有機物」「有機化合物」は生物によって作られる物、と言う概念に依って作られた言葉だ。 この場合の「機」とは機能の「機」だ。 何の機能かというと、生活機能、生命機能、であって、「有機物」とは「生活機能、生命機能、を持つ物質」と言うことになる。 昔は、有機物は生物の生命力によってのみ作られる、と思われていたのが、ウェーラーの無機物を使った尿素の合成によって、必ずしもそうではないことが分かって、有機物と無機物の間の本質的な相違はなくなったのは前に述べたとおりである。 「無機物」とは、「生活機能、生命機能、を持たない物質」のことであって、「有機物ではない」という意味だから、「有機物」に対応するために出来た言葉で、「有機物」という概念がなかったら、生まれなかっただろう。 英語では、「無機物」は Inorganic、という。inはその後に続く言葉の意味を否定する働きをする。 Inability(無能、無力)、independent(頼らない、独立の)などである。 だから、Inorganic とは、Organic ではない、と言う意味になる。 Organic が無かったら生まれなかった言葉と概念である。 では、具体的に「有機物」とは何かというと、これが、なかなかすっきりした説明がないのだが、簡単、単純、かつ強引に、 ◎炭素を含む分子から成る物質であって、生物の身体の構成要素になる物。 と考えればよいのではないか。 「有機農業」になるとその「有機物」の意味を更に教義に捉えて、「生物由来の物」となる。 有機農業は、農薬、除草剤を使わないだけでなく、用いられる肥料は、基本的に「生物によって作られた有機物」であり、無機物も、化学合成された物ではなく、天然由来の物である。 こんな所で、「有機」という言葉の意味が、かなり明確に掴めるだろうと思う。 語源について云々するのは、言語学者だけにとって意味があるのではない。 実際の我々の生活のなかで、見落としがちな事柄を思い出させてくれると言う意味もある。 「美味しんぼ」のなかで、こんな事をきちんと書いておけば良かった、と反省している。 で、その有機農業で、また中国の話になりますが、中国では、共産党幹部、富裕階級のために、有機農産物が沢山作られていると言うことだ。 もしかしたら、世界最大の有機農業国かも知れないという。 中国という国は凄いですね。 共産党の幹部になると、安全で美味しい有機農産物を食べ、一本何百万円という朝鮮人参など、漢方の高貴薬を摂り、みんな長生きをする。 数年前、北京に行ったとき、昔に立てられた高い塔のついた立派な建物があったので、あれは何かと案内人に尋ねたら、「清朝末期の王妃西太后の別荘で、今は江沢民が住んでいる」と教えてくれた。 大抵のことには驚く私だが、これにも驚きましたね。 西太后の別荘に、共産主義国家の元国家主席が住むのか。 そんなの、有りかよ。 無いだろう。有っちゃいけないだろう。 中国革命とは何だったんだ。 これでは、皇帝と共産党幹部が入れ替わっただけではないか。 圧倒的な大多数を占める下層階級の苦しい生活は、革命前も革命後も変わらない。 小数の権力者が、大多数の人民を支配して安楽な生活をする。 革命なんて、小数の権力者同士の争いであって、一般大衆・人民を救う物ではない、と言うことになる。 いや、本当の革命はあるはずなんだがなあ。 本日も、体調悪し。 で、きょうはここまで。 ところで、以前に私が出した宿題、憶えていてくれていますか。 パレスティナ問題を考える、と言う宿題です。 そろそろ、取りかかるかな。 用意しておいて下さいね。 旧約聖書の最初の部分を読んでおくと分かりやすい。 パレスティナ問題は、他人事ではありません。世界中に影響を及ぼしている。 我々日本も、アメリカに追従しているから、完全にパレスティナ問題に取り込まれている。 一緒に考えましょう。
- 2008/05/28 - 「気」が弱っているそうです〈「雁屋哲の食卓」に「ターキッシュ・ブレッド・サンドイッチ その2」を掲載しました〉 今日は駄目だ。ひどく体調が悪い。 日記を書く気力が湧かない。 これからリハビリに行かなければならないし。 今日の日記はお休みです。 昨日、手術をしてから初めて、家から車で十五分ほどの所にあるチャッツウッドという町のショッピング・センターに行った。 そのショッピング・センターの中に、漢方医がいて、彼の漢方薬と針治療は私に非常に効く。 どう言う訳か、最近肩こりがひどく、仕事を続けられないほどになった。 主に眼の疲れから来るようで、こうしてコンピューターに向かって仕事をしていると、眼の奥がいたくなり、それが首、肩、背中と広がり、苦しくなる。 手術後、人混みに出るのも、駐車場から漢方医の所まで一寸した距離を歩くことになるが、それも初めてなので、緊張した。 やはり、エスカレーターはまだ危ない。 乗るとき、降りるときの、足の踏み出しが難しい。 もつれでもしたら転倒する。 漢方医の診療所から、駐車場までの往復でかなり、良い運動になった。 と言うより、一寸応えた。 私の「気」がひどく弱っている、という医者の見立てで、「気」を奮い立てるための薬を処方し、肩こりを治す針治療をしてくれた。 鹿の角と、亀の甲羅の成分が入っていて、大変に精力をつけ、長寿にする効能を持っている薬だという。 ただ、その味が凄くてね。今まで色々漢方薬を飲んだが、今回のが一番厳しい味だ。良薬口に苦しと言うから仕方がないのだろうが、たまりませんよ。 肩こりは、直ったと思ったが、昨夜遅くまで仕事していたらぶり返した。 今までの経験から、二、三度針を打って貰うと、肩こりは治り、一年以上はもつ。 近近二度目の治療を受けに行くことにしよう。 リハビリに行ったり、漢方に行ったり、なんと言う人生だ。 これが、あと何ヶ月続くんだろう。ああ、鬱が進む。 全く、辛抱我慢、辛抱我慢、の日々ですよ。
- 2008/05/27 - 酒は百害の王〈「美味しんぼの日々」に「ローストビーフ」を掲載しました。 昨日に続き、写真が上手くアップロードできないので、「雁屋哲の食卓」の追加は明日に延期します。〉 3月18日に手術をして以来、私は一滴も酒を飲んでいない。 手術後3ヶ月は抗生物質を飲み続けなければならないので、アルコールを摂るわけには行かないのだ。 アルコールを飲むと抗生物質は効力を失う、と言う説と、アルコールを飲んでも抗生物質を倍量飲めば良い、と言う説がある。 いずれにしても、アルコールは抗生物質と仲が良さそうではない。 それに、今飲んで酔っぱらって足元が怪しくなって転びでもしたら大事だ。 これまでの苦労が水の泡になる。なんと言っても、今の私の右脚は工事中で、極めてもろいのだ。 で、もう二ヶ月以上も酒を飲んでいないわけだが、このまま禁酒を続けると我が人生で二番目に長い禁酒期間になりそうだ。 私は酒飲みだから良く分かるが、酒の益と害とどちらが大きいかと言えば、圧倒的に害の方が大きいと思う。 酒は昔から「キチガイ水」と言われている。アルコールは脳に影響を与える。 「美味しんぼ」に登場する富井副部長のように、酒を飲むと暴れたり絡んだりする人間は少なくない。 酒飲みなら、誰でも、酒の上の過ちに覚えがあるだろう。 私自身、酒のせいで人間関係を壊したことは何度もある。 今考えても、きゃー、っと叫びたくなるような恥ずかしいことをしたことも何度もある。 大酒を飲んだ翌日、前の日の己の行状をふと思い出して、死にたくなったことも数え切れないほどある。 私は酒に酔っぱらった人間を見る度に、肉体を超越した人間の霊魂や魂などと言う物は存在しない、と考えてしまう。 結局、私という自我、私というこの精神的な存在と思いこんでいる物も、脳の細胞が作り上げた幻影に過ぎないのではないか。 その証拠に、アルコール如きで、人格がころりと変わる。 アルコールが脳に作用すると、意識までも変わってしまう。 そんな人間の心や、意識や、魂や、霊魂が、永遠不滅の物であるはずがない。 私という、この存在、かけがえのない尊いこの自分というもの、この意識、自覚。 そんな物も、脳みその化学的作用でたまたま発生した蜃気楼みたいな物で、霊魂の不滅などと言うこともあり得ず、死んで、脳みそが破壊されれば、それでこの自分自身も完全に消え去るのだ。 などと、二日酔の苦しみのなかで、ぐじぐじと考えているとなおさら二日酔がひどくなっていく。 酒を飲んで一番良いのは、飲んで一分後くらいに感じる、あのほわーっとなる解放感、体中が空中に舞い上がるような浮揚感、だろうな。 あの時の気持ちよさは、アルコールでなければ得られないものだ。 酒を飲まない人間は、あの感覚を味わったことがないのだ。 なんと可哀想なんだろう。 あんまり気持ちがよいので、もっと飲めばもっと気持ちが良くなるだろう、と思って次々に杯を重ねる。 ところが、世の中そうは上手く行かない。 最初のあの、全てのものから解放されるような高揚感はいつの間にか、でろでろした、だらしのない自堕落で懶惰な動物的な情感に支配されて、精神はどつぼにはまる。 感傷的になり、怒りっぽくなる。自分の感情、衝動を自分で統制することが出来なくなる。 酒を飲むとまるで人格が変わる人も多い。 非常に尊敬していた人間が酒を飲んで本性を現し、ガッカリさせられた経験を私は幾つも持っている。 ああ、酔っぱらいは厭だ、本当に厭だ。 しかも、アルコールは身体に良くない。 まず、頭に良くないのは、今言ったとおりだ。 アルコールを飲むと、脳は一種の浮腫の状態になり、脳細胞と脳細胞を結ぶニューロンの結合が外れてしまい、それは酔いが醒めても元に戻らないという。 電気回路の配線が切断されるような物である。 それでは、脳はまともに動かなくなる。 酒を飲むと、まるで記憶を失うことがあるが、それはアルコールが脳を破壊している証拠だ。 私の連れ合いの姪に、数学の天才がいて、今アメリカの超一流大学の数学の教授をしているが、彼女は、頭に悪いと言ってアルコールは一滴も飲まない。 「今、私の取り組んでいる問題を理解できるのは、全世界で、私も含めて六人しかいない」などと、恐ろしいことを言う姪である。 そんな天才的な頭脳の持ち主に、アルコールは頭を駄目にする、と言われると、心底アルコールを飲むのが怖くなる。 アルコールの悪影響が及ぶのは脳だけではない。肝臓、胃腸、膵臓、腎臓、心臓、全てに悪い。 アルコールを常習的に飲むと確実に身体をこわす。 大酒飲みの人間は、四十代ですでに老人に見える。 眼はどろんとして、白眼が濁り、皮膚はかさかさして、反射神経が鈍くなっているから、何かにつけて、反応が遅い。 味覚、嗅覚が衰えるから、物の味が分からなくなる。歯も汚らしくなる。 糖尿にもなるし。 酒は百害あって一利もない。 煙草と同じくらい悪い。 酒を飲むと暴力的になって、家庭内の不和を産み出したりする。 酔っぱらった亭主が暴れて、妻を殴る、などと言う話はあちこちに転がっている。 酒の上の犯罪などと言うと目も当てられない。 そう言うわけだから、酒は飲むべきではない。 絶対に飲んではいけない。 ふ、ふ、ふ、 飲まないときには何とでも言えるなあ。 しかしね、飲んで良いとなると、私もがらりと変わるのだ。 ああ、いつになったら、酒が飲めるようになるのだろう。 八月かな、九月かな、それとも来年かな。 飲んで良いとなったら、まず、何を飲むかな。 日本酒だろうな。ワインも、焼酎もいいな。 酒は百薬の長ですよ。 「く、けけーっ! ほら、酒を持って来んかあっ!」 って、まるで、富井副部長みたいになってしまった。 酒を飲みたいのに飲めないこの欲求不満。 それがこんな文章を書かせたのだが、読み返してみると、私の脳はとっくにアルコールで破壊されていることが分かった。 ただし、アルコールの害について言っているところは全く正しい。 悪いと分かっていて飲むところが、酒の恐ろしいところだ。 やはり、酒は慎もう。 飲めるようになったら、慎みつつ飲もう。(実に、嘘くさいね)
- 2008/05/26 - 厭な、横綱二人 昨日の、朝青龍と白鵬の態度は最低だったな。 勝負がついたのに、余計なだめ押しをした朝青龍も悪いが、それにカッとなって喧嘩を売るような態度を見せた白鵬はもっと良くない。 両方共、横綱の資格はない。 あの二人は、大相撲の伝統をぶちこわした。 横綱の条件は、心、技、体に秀でた者と定められている。最初に大事なのは、心だろう。 あの二人は、横綱の第一に必要な条件、「心」が崩れている。 相撲はただのスポーツではない。日本人にとって、心の琴線に訴えかけてくるものだ。 勝てばよい、強ければよいと言う物ではないのだ。 私にとって相撲は、大事な物だった。 吉葉山、鏡里、千代の山、大起、大内山、栃錦、鳴門海、信夫山、成山、松登、大鵬、柏戸、岩風、千代の富士、琴櫻、(古い名前ばかりで恐縮だが)、と数々の名力士の名前と顔とその勝負の樣子が目に浮かぶ。 ハワイから来た、高見山、曙、小錦、武蔵丸、も立派な力士だった。 相撲の精神をきちんと理解していた。 潔さ、すがすがしさ、礼儀正しさ、それがなかったら相撲ではない。 土俵の外で、どんなやんちゃをしても良い。しかし、一旦土俵に上がったら、人間として最高にきれいな姿を見せなければ、相撲ではない。過去の名力士は、時に崇高なまでの人間の姿を見せてくれた。 朝青龍と白鵬は、これまでの相撲の歴史で培われてきた伝統をぶちこわした。 大事な物を穢された怒りと悲しみを、私は感じる。 かれらは、相撲ではなく他の格闘競技に行くが良い。 などと、怒っている内に、リハビリに行く時間になってしまった。 リハビリが週に三回になってから、えらく忙しい。 その割に、進歩が遅い。 仲々思うように、進まない。 三日ほど前に、医者に会って、手術したところのエックス線写真を改めて見たが、凄いや。 手術というより、これは工事だ、と思いましたね。 あんなことを人の身体に良くできた物だ、とその医者の顔をつくづく見てしまった。 ああ、リハビリは辛いよ。屠所に引かれる羊の気持ちだ。 今日は、「雁屋哲の食卓」に新しい項目を加えようとしたんだけれど、写真のアップロードが上手く行かず、時間切れになってしまったので、明日挑戦することにします。
- 2008/05/25 - 動物の針治療 私の仕事部屋は、玄関ホールの脇の扉を開き、ガレージに通じる裏の入り口の奥にある。 この家の前の持ち主は、ビリヤード台を置き、小さなバーを作って遊戯室に使っていた部屋を、私が仕事部屋に改造したのだ。 部屋の扉を閉め、玄関ホールに通じる扉も閉めると、隔離された環境になる。 私の部屋だけ、私の家全体から見ると、穴蔵みたいに見える。 次女の部屋は、玄関ホールから伸びる廊下の突き当たり、私の部屋の真反対にあり、普通なら次女の部屋の音や声は私の部屋からはまるで聞こえないのだが、昨日の夕方、突然、次女の部屋から、けたたましい嬌声が上がった。 その声が爆発的に凄まじい。しかも、何度も何度も繰り返して叫んでいる。しかし、それは、何か悪いことがあったときの声ではなく、狂喜しているときの声である。 その声を聞きつけて二階から次男が、「どうした、どうした」と駆け下りて次女の部屋に飛んでいくのが聞こえる。 私は、コンピューターに向かって仕事をしていたが、「はて、一体何の騒ぎだろう。悪いことではなさそうだが」といぶかしく思っていた。 しばらくして、次女が飛び込んできた。 上気して、顔を真っ赤にさせている。 次女は、「お父さん、試験に受かったよ」と言って私に飛びついてきた。 私も、「おお、良かった! やったな! おめでとう!」と言って、次女を抱きしめた。 次女は獣医なのだが、二ヶ月以上前に、動物用の針治療の資格試験を受けた。 最初、その話を聞いたとき、私は、「動物に針治療なんて効くのかい」と半信半疑だったが、次女によると、針は、動物にも良く効くと言う。 次女の勤めているクリニックに、歩けなくなってやって来た犬に針治療をしたら、歩けるようになった、とか、色々効果のあった事例がある。 馬に針治療というのは、ずっと以前から行われていて、標準的な治療に組込まれているという。 日本と違って、オーストラリアは獣医の地位が高い。大学の獣医学科に入るのも、人間の医者になるのと同じ点数が必要だ。 次女が高校を卒業するとき、折角良い点数を取ったことだし、医学に興味があるのなら人間の医学部に行って貰いたいと私は言ったのだが、次女は自分の飼っている犬の面倒を見たい一心で、どうしても獣医学部に行くと言い張って、自分の意志を通した。 私は、高校を卒業した時点で、自分の人生は子供自身で決める権利があると考えているから、次女の好きなようにさせた。 次女は今は、毎日、犬や猫の面倒を見て幸せそうである。 考えてみれば、犬や猫は人間の勝手でペットとして飼われているわけであり、口もきけず、病気になってもその苦しさを伝えることが出来ない。 私の家で飼っていた二匹の犬のうちの一匹が去年突然死んだ。 全然何の前触れもなく、突然嘔吐を始め、それまで食欲旺盛だったのが何も食べられなくなった。 驚いて、次女の勤めているクリニックに連れて行って診察したら、何と末期の肝臓ガンで、最早あと数日の命である、と判明した。 何も食べられず、さすがに苦しそうなので、安楽死させることにした。 家族はみんな、泣いた。 私も矢張り辛くて、もう、犬なんか絶対飼うものか、と思った。 子供の頃から何度味わったか分からないが、飼っている犬や猫に死なれると辛い。その辛さは、歳を取る毎に厳しくなっていくようだ。 私はもっと歳を取って、絶対に私の方が先に死ぬと分かるまで、犬も猫も飼わないつもりだ。 次女は自分が獣医でありながら、自分の家の犬がそこまで悪くなっていることに気がつかなかったことに、自分で狼狽していたが、それほど、犬や猫は自分の体調の悪さを表現することが出来ない。 脚を折ったとか、皮膚病に罹ったとか、目に見える物はすぐに分かるが、内臓の病気は、私の家の犬のように、決定的な症状が出るまで分からないことがある。顔色、皮膚の艶、そんなものも犬では分からない。 人間と違って、動物の定期健康診断などと言う物もない。 そんなことに思いを致すと、自分で体調の悪さを訴えることの出来ない犬や猫が不憫である。 最近の次女の働きぶりを見ていると、そのような犬や猫の命を救うのも人間の命を救うのと変わらない尊い仕事だと思うようになった。 次女は、針治療の資格を取ると、獣医としての格が上がる。 そこで、去年から熱心に勉強して試験を受けた。 試験はシドニーで受けたが、動物の針治療の資格を与える団体がアメリカにあるので、実地試験はシドニーで受け、学科試験の答案はアメリカに送られ、アメリカで採点されて当否の判断はアメリカから伝えられる。 しかし、これが、大変な難関である。簡単には資格は取れない。 試験後、次女はすっかり悲観的になっていた。 実地試験は、「試験官が積極的に合格させてやろうという態度みたいだった」と言うくらいで、自信があったが、学科試験が大変に難しく、しかも合格線が70点なのだという。 次女は、70点なんて絶対に取れていない、としょんぼりしている。 「いいじゃないか、今年駄目でも、来年受け直せば」と言ったところ、「この試験は、次は三年後にならないと受けられない」という。 ひゃ、それは大変。 私達夫婦は、それ以来、針治療資格試験の事は次女の前で口に出さないように気を使った。 連れ合いは、次女宛に、事務的な郵便物が届くと、それが試験の結果の通知ではないかと思って、震え上がる。 そんな日々を過ごしていて、昨日の夕方、次女は、一緒に試験を受けた同級生から、試験の結果がメールで届いている、と教えられて、慌ててメールを開いた。 すると、70点どころではない。85点取っていて、合格という知らせが入っていた。 それで、冒頭の大騒ぎとなったのだ。 次女は私に抱きついた後、興奮のあまり体中の力が抜けて、床に四つんばいになってしまった。 それほど、嬉しかったのだ。 夕食の時に、家族全員で、337拍子の手拍子と、関東の一本締め、で決めて合格祝いとした。 私達もとても嬉しかった。 次女は、治療用の針を持っていて、自分の脚の三里のつぼなどに打って、「効くわよ」と言っている。 「お父さんもして貰おうかな」と言ったら、「私は獣医だからね。二本脚の動物だと、良く分からない。四つんばいになったら、診てあげるよ」という。 いやはや、四つんばいになって治療を受けるのもなあ・・・・ やはり、人間の医学部に行かせれば良かった、と今さら思ったりする。
- 2008/05/24 - ポッサムの話 私の家は、シドニーの中心部から、ハーバーブリッジを越えて車で五、六分の所にある。 シドニーの中心部まで車で十分弱である。 こんなに都心に近いのに私の家の周りには結構野生動物がいる。 最近私の家の家族が迷惑をしているのが、ポッサムという動物である。 ポッサムは、小型の猫くらいの大きさで、オーストラリア独特の有袋類で、夜行性の動物である。 有袋類というのは実に不思議な動物で、カンガルーにその特徴が顕著だが、赤ん坊は極めて小さく産んで、それを自分の腹の前の袋に入れて育てる。乳首は腹の袋の中についている。 カンガルーの赤ん坊は生まれたとき、人間の人差し指ほどの大きさしかない。生まれるとすぐに自分で母親の腹によじ登り袋の中に収まる。そのままかなり大きくなるまで母親の腹の袋の中で過ごす。 そのカンガルーの生殖の面白い話を娘に教えて貰った。 カンガルーは、子供を生むと交尾する。卵は受精する。 しかし、腹の袋の中には子供がいるから、すぐに新たに子供を産む訳には行かない。 ではどうなるかというと、受精した卵が発生を途中で止めるのである。 発生とは、受精した卵が、どんどん分割(卵割という)を繰返していって、それぞれの生物の形に発展していって最終的には赤ん坊の形になる過程を言う。 カンガルーは状況に応じて、発生を途中で止めることが出来るのだそうだ。 それも、袋の中に赤ん坊がいるときに限らず、生活環境が悪いとき、(食糧が不足している、干ばつに襲われている、などの時)にも、受胎はしておいても受精卵が発生の過程を進むのを押さえることが出来るのだという。 驚くべき、自然の仕組みだ。 こう言う事実を見ると、私はダーウィンの進化論を激しく疑わざるを得ないのである。 「自然淘汰」と「適者生存」は分かる。 しかし、生物の変化がどうして起こるかについての説明がない。 ダーウィンの学説を継ぐ人達は、変化は「突然変異」であり、突然変異によって獲得した形質が環境に適応していれば、その生物は生き延びて、その形質を子孫に遺伝する、と言う。 要するに、変化は、神のような超越的な存在が作った計画に基いた物ではなく、機会的に起こる物だというのだ。 そこには、生物当人の意志は考慮に入れられていない。 例えばこう言う場合に良く例に取り上げられるキリンだが、ダーウィンの説に従えば、「たまたま、首の長いキリンが生まれ、それは木の高いところにある葉を食べることが出来て、他の首の短いキリンより生き延びるのに有利だった。そこで、その首の長い種類のキリンの子孫が栄えて、今日のキリンになった」と言うことになる。 「たまたま、首の長いキリンが生まれて」というところが、「突然変異」説だろう。 そんな都合の良い話がある物かと私は思う。 私の考えるところはこうだ。 キリンの祖先、首短かキリンは、「ああ、高いところの葉っぱを食べたい。首が長ければなあ」と激しく強く思った。 それが、そのキリンのDNAを作る機能を司るところに「首が長くなりたい」という信号となって伝わる。 すると、キリンの思いが伝わることで、キリンのDNAの一部に首が長くなる遺伝子が組込まれる。 そして、生まれた子供は、親よりも首が長くなる。 それを、何代も繰返して、今の首の長いキリンになったのではないか。 生物の変化は、生物自身の願い、欲求、それが反映した物、あるいは何かの意志が働いてのことであって、闇雲にむやみに変化する物では無かろう、と私は考えるのだ。 私に、この考えを撤回しろと言うのなら、キリン以外の生物も突然首が長くなるという変化を示す物であることを見せて欲しい。 普遍的に、全ての生物は一旦は首が長くなるという証拠を見せてくれ。 ゾウも、ライオンも、首の長いものが生まれたが環境に適さなかったから今の首の長さの物に落ち着いた、というのなら分かる。 ゾウや、ライオンの仲間には首が長くなるという突然変異は起こらず、キリンにだけ、首が長くなるという突然変異が起こった、というのはおかしな話だ。 それは、「突然変異」とは言わないのではないか。「意図的、選択的変異」という物なのではないのか。 先日私は膝の関節を人工関節入れ替える手術をしたが、その際に関節、筋肉、血管、神経系、そのあたりの事情をじっくり観察して、どうしてこんなに何もかもよく考えられて作られているのか、と心底感嘆した。 膝なんかまだ原始的な部分だ。 心臓や、腎臓、そして頭から上の様々な器官。その働き、仕組みを見ると、こんな物が偶然起こった「突然変異」の積み重ねで出来た、なんて事を信じろという方が非科学的だと思う。 私は無神論者だから、創造物としての神の存在は考えられない。 最近、アメリカあたりで流行っている「インテリジェンス・デザイン論」(地球上の生命は知性ある存在〈インテリジェント・エイジェント〉によって意図的に設計〈デザイン〉されたものである、と言う説)などと言う怪しいものも、受け入れられない。 しかし、何かがあると思わざるを得ない。 実は私のような考え方をする人間は、これまでにも大勢いて、ことごとく、非科学的であると切捨てられてきている。 そりゃそうだ。 一つの説が、科学に正しいと認められるためには、説を立証するための客観的な事実がまず必要で、その事実の上に狂いなく論理の筋道を立てて導かれた説でなければならない。 私の言う、キリンが「首が長かったらなあ、と願った」、などと言うことは客観的な事実として提出のしようがない。 私の言っていることは、客観的な事実に基いて居らず、論理的にも出鱈目だ。 私の言うことは科学的ではない。 そもそも、科学は根底の所に行くと、How(いかにして)は語れるが、Why(どうして)は語れない。 如何に生物は進化したかは語れるが、どうして進化したかは語れないのである。 だから、「機会的に変化する」とか「突然変異した」と言うにとどまる。 しかし、私はどうして変化したのか、そのところに一番興味がある。 そこで、私は科学の境界をはみ出してしまうことになる。 カンガルーにしても、どの様にして発生の段階を遅らせるかは分かるが、どうしてそんなことが出来るようになったのかは分からない。 で、私としては、カンガルーが生き延びたいと思ったから、その様な形質が出来た、あるいは、何らかの意志が働いてそうなったと考えてしまう。 偶然その様なカンガルーが生まれて、それが環境に適応したからその子孫が繁栄した、と言うのでは納得がいかないのだ。 おっと、ポッサムの話だった。 ポッサムは、木の葉や木の実を主に食べる。 私の連れ合いが大事にしている、柑橘類の新芽を全部食べてしまう。 折角実ったレモンの実も食べてしまう。 そんなことから、連れ合いは、最近ポッサムに敵意を抱いている。 私は、連れ合いに、「それなら、市場で一番安いリンゴをバケツで買ってきて、それを庭に置いておけば、ポッサムはリンゴを食べて、君の大事な柑橘類には手を付けないだろう」と言ったら、「それじゃ、私がポッサムを飼うことになるじゃないの。そんなの、いやだわ」と文句を言う。 もうひとつ、連れ合いがポッサムを嫌うのは、どう言う訳か、私の家の犬が、ポッサムの糞を喜んで食べることだ。 どうして、犬がポッサムの糞を食べるのか、訳が分からないが、去年死んだ、もう一匹の犬もやはりポッサムの糞が好きで、二匹の犬が争ってポッサムの糞を食べるところは、異常な感じがした。 ポッサムは木の葉や木の実を食べているので、その糞は緑色がかっている。ライオンも獲物を倒したら最初に、獲物の大腸を食べるという。植物を食べることのない肉食動物のライオンにとって、草食動物の糞の詰まった大腸は大のご馳走なのだそうだ。 それと、同じことなのかも知れない。 連れ合いが犬を散歩に連れて行くと、犬はポッサムの糞を食べたがって、それを引き離すのが大変だ、怒っている。 人を罵るのに「糞喰らえ」などと言うが、我が家の犬に、「ポッサムの糞を喰らえ」と言ったら、喜ぶだろう。
- 2008/05/23 - 石油価格の異常さ 昨日、ニューヨークの原油相場は1バレル135.09ドルをつけた。 一年で、倍以上になったことになる。 遙か昔のことになるが、1973年に第一次オイル・ショックが起こった。 1973年10月6日の第四次中東戦争が勃発すると、ペルシア湾岸の産油国6カ国はイスラエル支持国に打撃を与えるのを目的に、原油の価格を1973年10月から12月下旬までの間に、3.87倍値上げした。 この石油危機はエネルギ- 資源の大半を輸入に依存するわが国の経済に大きな打撃を与えた。 11 月上旬に産油国 が25%減産の決定を発表したころから、石油輸入量の減少による日本経済の停滞・減速・後退が恐れられ、企業は石油関連の原材料・燃料に限らず、必要な物資を手に入れるために必死になった。 個人も消費物資の買い焦り、狂乱状態になった。11月には各地でトイレットペーパー、洗剤、砂糖などの買いだめ騒ぎが発生した。 ある年齢以上の人は、あの当時の、スーパーでのトイレット・ペーパーの奪い合いを憶えているだろう。みんな殺気立っていた。 お尻を拭く紙がないとなると、あそこまで狂乱する物かと呆然とするほどの騒ぎだった。 至るところで、買占め、売り惜しみ、物隠し、便乗値上げが発生し、物価は急騰し、翌年2月までの3、4か月の間、朝鮮戦争時以来の暴騰となった。 私の耳には「狂乱物価」と言う言葉がまだ残っている。 もう何もなくなる、と言う殺気だった雰囲気に国中包まれていた。 私はその時、漫画原作者として、一歩を踏み出したところだった。 漫画の原作は、1頁いくら、と言う原稿料で支払われる。 ところが、新連載が始まったと思ったら、オイルショックで製紙工場も値上げで、紙の単価が高くなるから雑誌全体のページ数を減らす以外はない。物書きの世界の重鎮と言われる人は影響がないが、私のような駆け出しは、雑誌全体のページ数が減るのだから仕方がないだろうと言われて、毎週のページ数を減らされる。 ページ数を減らされると、原稿料が減るから、収入問題で大変に困る。しかし、物書きとして、私は不器用なので、短い分量できれいにまとめることが出来ない人間なのだ。 それが、短くしろと言われて、もうだめだ、漫画の原作なんかやめてしまおうと思いましたね。 こうして漫画家の生活までも破壊しかねない第一次オイルショックだったのだが、原油の値段は、ではその当時、いったい、どのくらい上がったと思いますか。石油危機と大騒ぎしたときですよ。 3.87倍上がったと言いましたが、それだけ上がって、原油の値段は幾らになったかというと、なんと1バレル3.01ドルから、11.65ドルに上がっただけだったのです。 それで、国が潰れるような大騒ぎをしたんですよ。 ちょっと意外でしょう。 昨日の値段、135.09ドルはそれに比べれば、如何にべらぼう無比な物なのか分かる。 日本ではガソリンの値段が1リットル160円を超す。 これはもう、「自動車禁止令」みたいな物だ。 昔のように、気晴らしに、一寸ドライブに行こうなんて訳には行かない。ガソリンの値段を聞いて返って気が滅入って、スタンドまで行きながらガソリンを入れずに帰ってきてしまうなんて事になる。 奇怪なのは、この原油高で、石油メジャー4社の、1月から3月までの利益が3兆円を超えたことである。 これをおかしいと思わない人はおかしい。 普通の商売を考えて貰いたい。例えば自動車会社だ。 原料の鉄鋼や化学製品が値上がりするから、車の生産原価が上がる。といって、原価の上昇分を車の価格に乗せると売れなくなるから、泣く泣く、販売価格を据え置いたりする。その分利益が減少する。 電機会社も、食品産業も、町の八百屋も肉屋も、原価が上がれば利益が少なくなる。あるいは、やって行けなくなって商売が潰れる。 それなのに、どうして、石油メジャーだけ、原価である原油の値段が上がったのに利益が空前の物になるのか。 あの、ガソリンの値段なんてものは、原油価格が上昇したことをいい口実にして、原油価格上昇分より異常に高く設定しているのだ。 そうとしか考えられないだろう。 ブッシュは石油メジャーがイラクの原油を確保できるようにイラク戦争を始めたと言う説を色々なところで聞かされるが、ブッシュが石油メジャーと深い関わりにあることを思えばそれもむべなるかなと思う。石油メジャーはブッシュに戦争をさせるくらいの力を持っているから、やりたい放題で世界中の富をかき集めているのだ。 どうして、世界中の人間が、石油メジャーに対して抗議の声を上げないのだろう。 何故、唯々諾々と1リットル160円もの金を払って石油メジャーをうはうは言わせて、黙っているのか。 石油メジャーに鉄槌を下せ。 このまま放って置いて良いわけがない。 石油で大儲けをしているのは産油国の人間だ。 先日、NHKテレビで、ドバイの特集をしていた。 ドバイ自身は既に原油は枯渇したと言うことだが、世界の金融センターとして、異常な好景気に沸いている。 椰子の木の形の人口の島を作ったり、700メートル近い世界最高のビルを建てたり、目のくらむような一大金満国家として繁栄している。 ちょうど、先週のTIMEが、アラブの特集をしており、その中でドバイも取り上げていた。 サウジアラビアは女性の権利が認められていないから、ドバイで働いて大成功をしている女性、9/11以降、アメリカではアラブ系の人間に対する悪意が横行し、とてもいられないので、ドバイに戻ってきたというアラブ人、移民の子供としてカナダで生まれたが、ドバイに逆移民してきたアラブ人。そう言う人達の成功話が載っている。 彼らはいずれも、経済的に大成功していて、超高級アパートに住み、ヨーロッパ製の高級車を乗り回し、毎月贅沢な海外旅行に出かけ、別荘も持って、と言う生活をしている。 ドバイでは、フェラーリに乗っていないと、相手にされないという。 成功したサウジアラビア出身の女性は、自分のアパートの駐車場にベントレーが五台とまっている、と誇らしげに言う。(その様な高級アパートに私は住んでいるんですよ、という意味) 私は、その記事を読んで、「何だろうなあ」と白けたような気持ちになった。 経済的に豊かになった。大金を掴むことが出来た。 は、はあ、「それが、一体どうしたの」、英語で言えば、「So, what?」だ。 ドバイ特集のNHKテレビでは、ドバイの人々の、贅沢な大豪邸、超高級車、高価な商品で一杯の有名ブランド店、そんな物を次々に見せつけるのだが、それを見ていた長男が「自分に必要な物は何一つ無い。欲しいと思う物は何一つ無い」と言った。 私は、我が息子ながら、よく言った、思った。 ドバイに限らず、産油国の金満家たちの生活は、その金の使いっぷりに、ただひたすら驚くが、私には少しもうらやましく思えないのだ。 ひがみ根性だろう、と言うなら言ってくれ。 私は、金くらいのことでひがむような貧しい心根は持っていないつもりだ。 何故、ドバイの人達の金満生活を見ていて白けたかというと、それが全部欧米の借り物文化だからだ。 イタリア・フランス製のブランド物、イタリア・イギリスの高級車、フランスの高級ワイン、欧米の有名建築家に設計させたビル。 そんな物のどこに、ドバイ独自の物があるのか。 伝統も何も無い、自分たちの物は何も無い、そんな事で豪華絢爛な金満都市を造っても、それは、ハリウッド映画のセットみたいな物ではないか。 真実は何も無い。 私は、ドバイを見て、金の力の凄さに驚くと同時に、金の力の限界も感じた。 文化を育むのに金は必要だが、金だけでは文化を創れないということだ。ドバイには文化がない。文化がないのは人間の魂がないと言うことだ。 金で人間に魂は入れられない。それが、金の力の限界だ。 原油価格の異常な高騰の原因は、投資ファンドが金を注ぎ込んでつり上げているからだという。 実際に、現在の原油の生産量は十分で、今の消費の状態で石油の供給が逼迫することはないのに、ファンドは「もうじき石油は枯渇する」と煽り立てて、原油の値段をつり上げているのだとも言われている。 ファンドの腕前は見事だ。135ドルまで上昇する間に、投資ファンドは大儲けをしただろう。 しかし、原油は安定的に供給できるのが本当だとしたら、今の石油価格はバブルと言うことになる。 何とか、このバブルを弾けさせないといけない。 恐ろしいことではないか。ファンドを動かす一部の大金持ちと産油国のそれも石油に関われる人だけが金満を謳歌し、世界中の99.9パーセントの人間が、石油の値段の高騰のおかげで困窮する。 こんな異常な世界がいつまで続くのだろう。 無信仰の私がこんなことを言うのはおかしいが、神はこのような世界をお望みになっただろうか。
- 2008/05/22 - コシヒカリの疑惑 5月16日の朝日新聞に、おかしな記事が載っていた。 「コシヒカリ『BL』で迷走」という題名で、米の新たな品種「コシヒカリBL」の問題について報告している。 以下、その記事を引用しながら、話を進める。 発端は、新潟県が「いもち病」に強い品種として十五年かけて開発した「コシヒカリBL」にある。 「コシヒカリBL」はコシヒカリと、いもち病に強い品種を何代か掛け合わせて、殆どがコシヒカリの性質であるが、いもち病に強い品種の性質をも受け継いでいる。 問題は、「コシヒカリBL」はコシヒカリに他の品種を掛け合わせた物だから、種苗法では、従来のコシヒカリとは別の品種だが、JAS法ではコシヒカリとして通用することだ。 新潟県では、農薬使用量を減らすことの出来る、環境に優しい米として05年から一斉導入した。 ここで問題が起こった。 現在、新潟産のコシヒカリとして売られているのは、従来のコシヒカリではなく「コシヒカリBL」である。 それを、「BL」の表示を付けずに、従来のコシヒカリと同じ表示にしている。 それが「情報隠し」ではないかという、批判が起こったのだ。 消費者618人を対象にした調査では、首都圏で77パーセント、新潟県で62パーセントの人が、「BLの表示が必要」と答えた。 一方、首都圏、関西圏、新潟県の流通業者に対して行った調査では、回答してきた23社中、約7割が「表示の必要はない」という反対の結果を出した。 生産者、流通業者が「BL」の表示を嫌がる理由は、 「BL」と表示すると、遺伝子組み換え米か、ブレンド米かとの誤解を招く。 新潟の生産者は必死にコシヒカリのブランドを育ててきた。名前が変われば消費者が離れ、今までの苦労が水の泡になる。 環境に優しいという宣伝がどこまで消費者に届くか疑問だ。コシヒカリのファンが求めているのは、「食味」と高級米を食べている「充足感」。コシヒカリなら説明はいらないが、BLという名前が付けば、小売店への説明も必要になり、こちらとしても売りにくくなる。 という。 現実に、3番目の意見に対応するように、新潟県の一人の主婦の次のような意見が記されている。 「東京の知人に良くコシヒカリを贈ってきた。知らない人が『BL』と言う文字を見たらびっくりすると思う。贈り物には従来のコシヒカリをあげたいから、きちんと表示して欲しい」 この記事を読んでいて、非常にもどかしい思いをしたのは、では、「コシヒカリBL」の食味はどうなのかと言うことが、全く書かれていないことだ。 食味という物は主観的な要素が多く、記者一人では決めがたいだろうが、米の味に詳しい評論家数人の反応を載せれば、「BL」米について私達読者として理解しやすかっただろうと思う。 それがないので、肝心の食味についての判断がこの記事からはつけられないから、ひどくもどかしく感じる。 最初に「おかしな記事」と書いた理由はここにある。 そこで思い出したことがある。05年から一斉導入したと言うからには、去年07年に私が鎌倉で買って食べた魚沼産コシヒカリも「コシヒカリBL」だったわけだ。 勿論、袋にはどこにも「BL」の表示はなかった。 ここからは、私が体験した個人的な事実である。私個人の経験が統計的に現在の新潟県産コシヒカリ全てに当てはまるとは言えない。 たった一つの個人的体験だから、そこの所を誤解しないでいただきたい。 で、その私の体験であるが、一言で言えば「驚き、ガッカリした」に尽きる。 「魚沼産」とはっきり明記してあった。値段もいわゆる高級スーパーでも一番高い米だった。 期待して炊いたのだが、家族一同、一口、口に入れて、顔を見合わせた。 「あれ、なに、このお米」 「魚沼産のコシヒカリの一番値段の高い物よ」 「おかしい、これは粘りもないし、ぴかぴか光っていないし、舌触りも滑らかじゃないし、歯ごたえも悪いし、味わいもないよ」 「本当に、これ、魚沼産のコシヒカリなの」 そこで、私達は、米の袋をもう一度点検した。 はっきりと「魚沼産コシヒカリ」と書かれている。なにやら、有り難そうなことも書いてあって、どこからどう見ても高級米である。 私達は首を捻ったが、次から、この包装のコシヒカリは買わないようにしようときめた。それは、鎌倉の実家での話である。 しかし、しかし、である。 今年になって、日本からシドニーに来たお客に、何袋もの「新潟県産コシヒカリ」を運んで来て貰った。 たしかに、オーストラリア産の米や、カリフォルニア産の米よりは美味しい。 だが、どうも違う。 以前に感動した、コシヒカリの味わいがない。 コシヒカリの味はこんな物ではなかったはずだ。 納得が行かない思いをずっと抱いていた。 そこに、この記事である。 私は、「もしや」と思った。 この記事の記者が、「コシヒカリBL」の食味について一切言及しないのには意味があるのではないか。 知らずに「コシヒカリBL」を従来のコシヒカリと思って食べていた私、しかも「魚沼産」というブランドに目がくらんでいた私。 その私が、その記事を読んで「疑心暗鬼」の塊、と化した。 「『コシヒカリBL』はまずい米なんじゃないか。それを胡麻化すために『BL』の表示をしないんじゃないか」 新潟県の農業関係者に言いたいが、「疑心暗鬼」の塊になった私を非難することは許さないぞ。 ちゃんと、「BL」という表示をして、従来のコシヒカリとの味の比較を我々消費者にさせない諸君らが悪いのだよ。 上記2)の生産者の言葉は、言っている人間が如何に不誠実であるかを示している。 「名前が変われば消費者が離れる」だって。 何を言っているんだろう。変わったのは名前じゃないでしょう。米の種類その物でしょう。種苗法が言うように、「コシヒカリBL」は従来のコシヒカリとは別の種類の米だ。 どうして、そんな基本的なことを理解せずに、被害者みたいな言い方をするんだろう。 農薬の使用量が大幅に減るのはよいことだ。 しかし、最近は、有機農法で従来のコシヒカリを栽培して、とても美味しい米を作っている人達が大勢いる。 日本人一般が、コシヒカリを有り難がるのは、その食味が素晴らしいからだ。 一体「コシヒカリBL」と従来のコシヒカリのコシヒカリに味の違いはあるのか。 それを、我々消費者が判断できるように、「BL」の表示は付けるべきだ。 新潟県の米生産者は、最近相次いで起こった「食品の不当表示問題」などを真剣に捉えていないのだろうか。 「コシヒカリBL」を従来のコシヒカリと思わせるように、「BL」の表示を敢えて付けないのは、これは不当表示だ。 まず自分たちで確かめて見るが良い。 本当に「コシヒカリBL」の食味は従来のコシヒカリと変わらないのか。 変わらない、あるいは更に美味しいのなら、堂々と、「コシヒカリBL」と表示するべきだ。 もし、「コシヒカリBL」の食味が従来のコシヒカリに劣ると認めざるを得ないのなら、絶対に「BL」の表示を付けなければ、従来のコシヒカリの好評を騙った詐欺になる。 いずれにせよ、「BL」の表示は付けなければいけない。 私は、最近の一連の食品の不当表示問題で、日本人の不誠実さ、不正直さを、これでもかと言うくらいに思い知らされて、「日本という国、日本人という人間はこんなに卑しかったのか」とひどく落ち込んでいる。 そこに、この問題だ。 いい加減にしてくれ。 日本は「瑞穂の国」と言うくらい、米は日本人にとって特別に大事な物なのだ。 日本人の食の基本だ。 その米までも、いい加減な表示で胡麻化そうというのか。 それだけは勘弁できない。 米の生産者たちよ、今でも若者たちの米離れが問題になっているのを知らないわけではあるまい。 そんなときに、こんな誤魔化しをしていると、本当に若者達は米を食べなくなるぞ。 不当表示などの不正行為をしたばかりに、潰れた食品会社の例を知らないとでも言うのか。 消費者を怒らせたらお終いだよ。 こんな事を続けていたら、もう、だれも新潟の米なんか買わなくなるぞ。 私も、「BL」表示がきちんとつくまで、新潟の米は買わない。 絶対に買わない。 新潟の米生産者よ、はっきりしてくれ。不正直は自殺行為だと認識しないと、お終いだ。 とにかく、「コシヒカリBL」の食味が従来のコシヒカリを比べてどうなのか、われわれがはっきり判断できるように、正当な表示をして貰いたい。
- 2008/05/21 - 昨日は我が家の記念日(昨日の続き) 「ミュンヘンの小学生」以後に、子安美智子さんの書かれたシュタイナー教育に関する本を読み、また、NHKで放送されたシュタイナー・スクールの番組も見て、私達は自分たちの子供もシュタイナー・スクールに入れたいと思っていたが、私の子供たちが小学校に入る頃、日本にシュタイナー・スクールは存在しなかったので、最初から諦めていた。 また、オーストラリアに引っ越したときには、日本の教育制度から、子供を引っぺがすことしか考えておらず、シュタイナー・スクールの事など、頭になかった。 それが、ひょんな事から、シドニーにグレネオンというシュタイナー・スクールがあることを知り、私と連れ合いは、昂奮して子供を四人とも、グレネオンに入れてしまったのだ。 ところが、最近、ヨーロッパを中心にして、シュタイナー・スクールに対する批判が強まっている。オーストラリアでも、「シュタイナー・スクールではカルト教育をする」などと言うおかしな風評が流れて、それまで各学年満員で、入学の順番待ちが何人もあったグレネオンも、生徒の数がこの二、三年減ってきて、学校側は困惑している。 ある日本人が、自分の子供をグレネオンに一旦入れたが、他の日本人から「あんな恐ろしい学校に良く入れたわね」と言われて他の学校に転校させた、と言う話も聞いたことがある。 他の州でシュタイナー・スクールに子供を入れた母親が「カルト教育をされた」と騒いで、子供をシュタイナー・スクールをやめさせたと言う話が全国的に広まったりした。 その原因はシュタイナーの思想にある。 シュタイナーは、「人智学」という学問をうち立て、「神秘学」とか、「霊学」などと言う言葉も使い、霊魂は存在すると言う。 そのような「神秘思想」をとらえて、シュタイナーの思想はオウムなどのようなカルトであると言う批判が、ヨーロッパで高まっているのである。 私も、シュタイナーの本を何冊か読んだが、シュタイナーの神秘思想は私には理解しがたい。 しかし、その理解しがたいと言う意味は、私にとってキリスト教、イスラム教、真言密教、親鸞の思想を理解しがたいのと同じ意味である。 オウムや、統一協会のように、犯罪的で人間の精神を破壊するカルトを理解しがたい、と言うのと理解のしがたさの質が違う。 もともと、シュタイナーは子供の頃から熱心なカトリックの信者であり、キリストに見られる聖霊が人間の肉体と一体になったことに、至上の価値を認めている。 シュタイナーの思想の根は、キリスト教、中でもカトリックの思想にある。 ユダヤ教と、それを受け継いだキリスト教、イスラム教は、最後の審判の日に、全ての死者は甦って神の前で裁きを受けるという。 私は、子供の頃にルーテル教会に通わされて、十九歳まで真剣にキリスト教を信じていたことがある。その頃の影響は今でもあって、「最後の審判の日に、お前は裁かれる」という言葉には未だに恐怖を感じる。 この「最後の審判の日」という言葉は、人間の心に深く食込む言葉だと私は思う。生前の行いによって、最後の審判で、天国に行けたり地獄に落とされたりする。 「最後の審判」という言葉は天国に行けるという至福の思いと、地獄に落とされるという底なしの恐怖を、同時に人間に叩き込む言葉である。 「最後の審判」は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、その三つの宗教が人を動かすところの、最大のゆえんではないか。 シュタイナーはキリスト教に基礎を置いているが、その「神秘思想」には「最後の審判」のような途方もない恫喝で人を動かそうとするところは一切無い。 ただ、霊魂とか霊について、見てきたような踏み込んだ意見を述べているところが、普通のキリスト教の教会では教えない所だろうが、基本的にシュタイナーの思想はキリスト教の範囲内にあると私は考える。 キリスト教の一派を新たに立て、キリスト教のふりをして、立てた教祖を生き神樣のように崇め、金を集め、信者の自由を奪い教祖に従わせたりするどこかのカルトとは別物だ。 そもそも、「最後の審判の日」などと言う途方もないことを信じる人間が、シュタイナーの思想をカルトと言うこと自体、私から見れば滑稽だ。 シュタイナーについては、「シドニー子育て記」で一章を立てて語ることにするので、ここでは、この程度で収めておきたい。 ただ、私自身、子供たちをグレネオンに入れてから初めて、シュタイナーの本を詳しく読んで驚いたことは記しておかなければならない。それ以前のシュタイナー・スクールについての知識は、子安美智子さんの著作と、NHKの番組による物しか持っていなかった。 だから、入れてしまってから、私と連れあいは話し合って「もし、グレネオンで、霊だの何だの、神秘思想みたいなことを教えるようだったら、すぐにやめさせよう」と決めた。 私は注意深く子供たちを観察していたし、子供たちから学校でどんなことを勉強しているか、とくに宗教的なことを教えられていないか、話を聞いて確かめもした。 結果的に、グレネオンでは神秘思想じみたことは一切教えられなかった。 グレネオンでは、宗教教育をしない決まりになっているのである。これがどうして、カルトになりうるだろうか。 更に決定的なのは、シュタイナー自身、自分の持つ「人智学」の思想についてさえ「子供たちにドグマ(教義、教説)を教えてはいけない」とはっきり述べていることだ。 まだ、知的に十分な発達を遂げる前の子供にドグマを教え込むと、子供の精神の自由な発展を妨げるから、と言うのである。 その考えは、カルトの対極に立つ物だろう。カルトなら、子供たちにドグマを叩き込むのに狂奔している。 私は、自分の四人の子供をグレネオンで育て上げた経験を元に、今ヨーロッパを中心にして広まっているシュタイナー教育に対する批判は、無知と誤解、悪意に基づく反感、偏見による物だと断じることが出来る。 保守的で偏狭な人間は、自由で新しい物事に関して本能的な嫌悪を感じるようである。シュタイナー・教育たたきをしている人々はその様な人々であることが多い。 私は自分の四人の子供をグレネオンに預けて、我が身で確かめたがグレネオンの教育は、子供たちの心をのびのびと豊かにし、創造力を養い、基本的な人間としての倫理観と優しさを育むものだった。 私は、今「シドニー子育て記」を書いているが、そのために子供たち四人が残した膨大な量のノートを読み返していて、「ああ、良くもこんな素晴らしい教育をしてくれた物だ」と感動しているのである。 しかし、ここに私達のはまった罠があった。 余りに素晴らしい学校なので、一旦入れたら、途中で辞めさせるのは勿体無い。おまけに、私には子供が四人いて、長男・長女が卒業しても、まだ次女、次男がいる。 上の二人だけシュタイナー教育を受けさせておいて、下の二人だけ日本へ連れて帰るのも不公平な話だ。 そんな訳で、四人ともグレネオンを卒業させなければならないことになり、結果として、ずるずるとシドニーに居続けることになってしまったのである。 たまたま、昨日、我々のオーストラリア進攻二十周年の日に、次男が大学を卒業した。 角帽をかぶり、黒いガウンを着て、いつもは締めたこともないネクタイを締めて、卒業式に出た。 私は、残念ながら、今の状態では外出もままならないので欠席した。 夜は、私達と仲の良い日本料理店から、お寿司と、料理の取り合わせを取って、次男の卒業と、我が家のオーストラリア進攻二十周年を祝った。 これで、我が家には学生が一人もいなくなった。 長男・長女、次女は、既に大学を卒業して働いている。 こうなると、子供たちは、日本へ帰りづらくなった。 日本の教育制度からは引き離したかったが、子供たちを日本から引き離すつもりは毛頭なく、日本へ帰ってからより良い人生を送ることが出来るようにと思ってシドニーに来たのだが、グレネオンという罠にはまってしまって、こんな事になってしまった。 しかし、私は人間地球上のどこに住もうとかまわない、と思っている。私自身、北京に生まれて日本に戻ってきたという事情があるせいか、日本にも、ここが自分の故郷である、とか、ここが自分の根っこの土地である、とか思える場所を持っていない。 日本にいる時も、いつも根無し草のような気分でいた。 事の成行で、子供たちが、オーストラリアで暮らすというならそれもかまわない。人間(じんかん)、至る所青山ありだ。 考えてみれば、四十歳を過ぎてから、二十年日本から離れているような私自身、正に根無し草その物だ。 私は、横須賀の家を取り壊した。今年、新しい家を建てる。 来年からは、日本で暮らす時間が長くなるだろう。 本心から言えば、もう、オーストラリアを撤収して日本に戻りたい。 日本語でしか書けない物書きとして、残りの人生は日本で物を書いていきたいと思うからだ。 二、三年のつもりで、うかうかと二十年オーストラリアで過ごしてしまった。 なんと言うおかしな人生だろう、と最近つくづく考える。 その私の人生も、オーストラリアで二十年過ごして、そろそろ別の局面に入ろうとしている。
- 2008/05/20 - 今日は、我が家の記念日〈「子育て記」に「第一章 その1」を掲載しました〉 今日、5月20日は我が家の記念日だ。 何の記念日かというと、我々は1988年の5月20日にオーストラリアに引っ越して来た。その記念日だ。 オーストラリア進攻20周年記念日というわけだ。 月日が経つのは早いと言うが、そんな言葉では言い表せないほど、この二十年間を短く感じる。 本当に二十年も経ってしまったのか。 信じられないような思いである。 最初から、こんなに長く住むつもりは毛頭なかった。二、三年のつもりだったのだ。 「シドニー子育て記」を読んでいただけばお分かり頂けるが、そもそも、シドニーに来たのは、私の子供たちを日本の教育制度から引っぺがすのが目的だった。日本の社会では、良い大学を出て良い会社、あるいは官公庁に勤めたり、医者や学者になったり、良い勤め先に収まるのが一番価値のある事とされている。 とにかく良い大学を出ることが成功の第一条件とされている。 そのために、中学から、高校、大学まで、入学試験が厳しく、学校教育とはすなわち受験教育となってしまっている。 勉強の目的は、良い中学校、良い高校、良い大学に入る為であり、その道から外れると「落ちこぼれ」などと言って馬鹿にし、馬鹿にされる方はひどい劣等感に苛まれる。 「子育て記」にも書いてあるが、私自身、中学、高校と、受験のことしか考えてはいけないと言う学校で砂を噛むような思いを味わってきて、こんな中学、高校時代を過ごさなければならないとしたら、二度と生まれて来たくない、と思い続けてきた。その思いは強烈で、今でも、中学、高校時代のことを考えると、身体の芯を焼かれるような苦しさを感じる。 小学校と大学の同級生たちとは今でも親しくつき合っているが、中学、高校の同級会など絶対に行かない。当時のことを思い出すのも厭なのだ。 だから、私は、私の味わったような、愚劣な受験一辺倒の教育を自分の子供たちに味わわせたくなかった。 それより何より、私は「良い大学、良い勤め先」と言う日本の社会の支配的な価値観を受け入れられず、そんな価値観に自分の子供を染め上げたくないと思った。(この、「良い」と言うのは、本当の意味で人間としての価値が有って良いのかどうかと言うことではなく、社会的に地位が高いと認められているということである。そして、この社会的地位という物ほど嫌らしい物はない) では、どうすれば良いか。 一旦日本の教育制度から引っぺがしてやらなければならないと考えた。 だが、日本にいてはこのまま引きずられる。ひっぺがす為には一旦海外に飛び出すしかない。 一旦日本の教育制度から引っぺがしてやれば、二、三年経って帰って来ても、もう、良い中学、良い高校、良い大学、良い勤め先、というはしご段を昇ることは出来ない。 そう言う、決まり切った生き方はできない。 その代わり、子供たちそれぞれの個性にあった生き方を見いだすような教育を与え、自分自身の価値観を作り出して、それに従って生きて行けるように導いてやろうと考えた。 十八くらいになって、大学に行きたいと思ったら、その時は大学受験の準備をすればよいし、本心から何かつきたい職業を見つければ、そのための勉強をすれば良い。 そう考えて、オーストラリアにとりあえず、二、三年住むつもりで引っ越して来た。 ところが、なんと言うことか、あっという間に二十年過ぎてしまい、いまだにシドニーで暮らしている。 こんな事になったのは、シドニーで、グレネオンというシュタイナー・スクールを見つけてしまったからだ。 この辺のことは「子育て記」を読んで頂いた方が良いが(現在、「前書き」と、「第一章 その1」まで、掲載していますが、引き続いて、第一章の続き、第二章と、掲載します)、簡単に言うと、私達が結婚してすぐ後、1975年に、子安美智子さんの書いた「ミュンヘンの小学生」と言う本が評判を呼んだ。これは、子安美智子さんがご自分のお嬢さんをミュンヘンのシュタイナー・スクールに入れた時の経験をまとめた物で、この本で私達日本人は、シュタイナー教育という物の存在を知った。 私も連れ合いもこの本を読んでシュタイナー教育の素晴らしさに感動し、「自分たちにも子供が出来たらシュタイナー学校に入れたいね」と話し合った。 しかし、私の子供たちが小学校に入る頃までに日本にシュタイナー・スクールは存在しなかった。 私たちは受験させてまで私立の小学校に入れるのは厭だったので、近くの公立の小学校に子供たちを入れた。だが、長男・長女(双子です)が小学校の高学年になった時に、私は、このままでは私の子供たちも私の味わったような競争、競争に明け暮れる受験勉強の鎖につながれてしまう、という現実が目の前に迫ってきていることに震え上がり、色々検討した結果、オーストラリアを選んで逃げ出してきたのだ。 最初から、日本の教育制度、日本の支配的な価値観から子供たちを引きはがすのが目的であって、日本から引きはがす意図は全く持って居らず、二、三年経ったら日本へ帰るつもりだった。 ところが、ひょんな事から、シドニーにグレネオンというシュタイナー・スクールがあることを知り、私と連れ合いは、驚き、喜んで、家の子供たち四人全部をグレネオンに入れてしまった。 さあ、それが、最初の計画が狂った全ての原因だ。 グレネオンに子供たちを入れてしまったばかりに、シドニーから動けなくなってしまったのだ。 この続きは、また明日。
- 2008/05/19 - 水は命の元「美味しんぼ」の第一回は水と豆腐の味を云々する物だった。 1983当時、水については、どこの水が旨いとか、水道の水がまずいなどと言うことで話はすんでいた。 ところが、どうだろう。今は水はペットボトル入りの物を買うのが普通になってしまった。 これは恐ろしいことではないだろうか。 日本に住んでいながら、水を買うなんて。 昔から日本の水は美味しいので有名だった。 外国航路の船は、みんな水のタンクを空にして、横浜港にやってきて、日本の水でタンクを満たした物である。その水も、水道水だった。 「Always三丁目の夕日」の時代、日本の水は世界で一番美味しいと言われていたのだ。 その日本で、水道の水がまずいから、ペットボトル入りの水を買うようになろうとは、夢にも思わなかった。 私は日本に来ると、東京のホテルに泊まることが多いが、ホテルの水は「飲料可」と書いてあるが、飲んでも伝染病にならないと言うことであって、匂いと味は私にとって「飲料可」ではない。仕方がないから、近くのコンビニエンスストアで、水を買ってホテルに持込む。 もっとも、これは世界中どこのホテルに行っても同じことで、ホテルの水道の水が「飲料可」であるだけ、日本はましと言うところか。 水道の水も生で飲んではいけないと言う国も少なくない。 横須賀の私の家の近くに、湧き水の出ているところがあって、日本にいる時には、飲料水は全部その湧き水を使う。 自然で、柔らかで、正に甘露そのもの、有り難みのある水である。 シドニーに来て、湧き水の出ているところを発見したが、如何にも私の家から遠い。 だから、私の家では、大型の浄水器を台所の流しの下にすえて、消毒の臭みと雑味を取って、飲料に使っている。 ところが一歩外に出ると、水飲み場もろくにないから、ペットボトル入りの水を買わなければならない。 しかし、これが高い上に、時に飛んでもない水を飲まされることがある。 最近入院していたとき、病院でペットボトル入りの水を呉れたのだが、その水が、プラスティックくさいのである。とても飲めた物ではない。ペットボトルの内容物が水に溶け出したりする物なのだろうか。とにかく、プラスティックくさくて、口に入れただけで吐き出したくなる。病院のくせに、こんな物を飲ませて良いのか、と怒っては見たが他の人はみんな文句を言わずにその水を飲んでいる。 私が、文句の多すぎる男というのだろう。 仕方がないから、家から水を運んで貰っていた。 シドニー空港で、水を買ったら、500か、600ミリリットル入りの1瓶が3ドル50セントもする。日本円にして(1ドル80円として)280円だ。これは幾ら何でもべらぼうすぎる。 オレンジジュースよりも高い。 最近オーストラリアの物価の高くなったことは、信じられないほどで、以前はオーストラリアから日本へ行くと何もかも余りに高いと思った物だが、今は逆に日本へ行くと物価が、特に飲食店の料金が安いと思うようになった。 家賃などもひどく高くなり、日本から来ている若い人達は、それで苦しんでいる。 水一つ取ってもこの値段だ。シドニーもひどく暮らしづらくなった。 いや、日本でもコンビニでペットボトル入りの水が大量に売られている。それも、どうしてこれが水の値段なんだと、腹が立つような値段で売られている。 ただ、車で旅行するときには便利かも知れない。 私は「日本全県味巡り」で、地方取材に行くときには移動は車で行わざるを得ない。その際、ペットボトルの水が有れば、車の中でいつでも水が飲めるので便利である。 しかし、考えてみれば、水筒を持っていけばよいだけの話だ。 ペットボトルを大量に使用し無造作に捨てる。こんな事を続けていて良いわけがないだろう。 ただ、ペットボトルは便利だ。あれを、毎回捨てずに何回も使えば少しは環境破壊を少なくすることが出来る。 私の家では、一度手に入れたペットボトルは簡単には捨てない。水道の水を浄水器で濾した物を詰めて車で出かけるときにはそれをもって行く。ペットボトルは壊れるまで使う。 どんなに美味しい天然の水でも、ペットボトルに詰めてしまえば、その味わいは失われる。 自分の家で、水道の水を浄水器で臭みと雑味を取って、それをそのままコップに汲んだ物の方がペットボトル入りの水より美味しい事が多い。 ペットボトルに入れてしまえば、売っている物とまるで変わらない。ときには、売っている物の方が、遙かにまずい。 浄水器にも色々あるが、最新の、繊維型・フィルターと、活性炭を組合わせた物なら、かなり満足できる水になる。 天然の銘水には及ぶべくもないが、都市近くに住んでいればそんな物はしょっちゅう手に入る訳もないから、高性能の浄水器を手に入れることが、一番容易で確実かつ安価な方法だろう。 お茶やコーヒーに使う水まで一々買っていては破産してしまう。 水は命の元だ。その水が、こんな事になって、これから先一体どうなるのだろう。 日本はまだ島国だから良いが、アジア、ヨーロッパは、一つの大陸がいくつもの国に分かれている。 一つの川の、下流にある国は、上流にある国の影響を大きく受ける。 上流で、灌漑などに多くの水を使われたり、水を汚染されたりしたら下流にある国は大いに困る。 日本は都会の水はまずくて飲めないが、地方に行けば美味しい水をふんだんに飲むことが出来る。 富山県や長崎県では、町の人が湧き水を皆で管理して利用しているのを見た。 その水がまた素晴らしく美味しいのだ。 こんな事はオーストラリアでは考えられない。オーストラリアの国土は広大な面積を持っているが、その内、人間がすんで農業など出来る土地は、十五パーセントくらいしかない。 その農業の出来る土地でも、慢性的な干ばつに苦しんでいる。特にここ数年、干ばつ続きで、小麦や米などの大幅な減産が続いている。 日本では、自分の家で水道の水を使って自動車を洗っているが、シドニーでは、それは許されない。 舗装された地面の上で水を使うと水は下水に流れてしまって、土地に戻らず無駄になるから、車を洗うのは、舗装されていない裸の地面の上で、しかも、ホースから水を流しっぱなしにして洗うことは許されない。バケツに汲んだ水を大事に使って洗うのだ。 それを守らないと罰金だ。 その点、日本はまだ恵まれている。 これから、世界の人口は増えるばかりだという。 アフリカは、飢饉やAIDSの蔓延にもかかわらず、人口はどんどん増えていくから、食料のみならず水が足りなくなる恐れがあるという。 地続きの国同士では水争いも起こりかねないそうだ。 今でも、日本は外国から、ミネラルウオーターを輸入している。水は、立派な商品なのだ。 となると、資源小国の日本も、ミネラルウオーターを輸入するのではなく、逆に水を輸出して金を稼げるのではないか。 年間の降雨量が極端に多い屋久島あたりの水を、アラブの産油国に石油並みの値段で売付けたらどうだ。 立山から流れ出る大量の清水を特別の値段を付けて、金満家のアラブ人に売りつけるのだ。連中はブランド名に弱いから、日本の聖なるやまから流れ出た清水と言うことになると、飛びつくぞ。 石油で世界中の金をかき集めているアラブの産油国の連中の鼻をあかしてやりたい物だが、所詮は水だ。そこまでの値段では売れないだろうな。口惜しいなあ。石油成金のアラブの連中を、水で痛めつけてやりたいね。何か手はないかなあ。 私は、最近、日本へ行くたびに、ペットボトル入りの水の氾濫を見て、心細くなる。 高い金を出して、素性の分からない水を漫然と飲んでいては駄目だ。 安全で美味しい水をふんだんに飲めるように、身の回りの環境を考え直さなければ、日本の未来はないぞ。 むかしは、水道の蛇口に口を押しあてて、鉄管ビールだ、などと言ってがぶがぶと飲んだ物である。 ペットボトルの蓋を、きこきこと開けて、ちびちび飲むのが現代人の風俗だ。こんなのおかしいよ。 自分たちが環境を破壊してしまったからこんな事になってしまったんじゃないか。それを反省せずに、ペットボトルの水なんか飲んで、いい気になっていてどうする。 行列の出来るラーメン屋も、客に臭い水を出しているようじゃ意味がない。三つ星レストランもフランスのミネラルウオーターなど出して威張っているんじゃないよ。 身近の所で、手軽に安全で美味しい水が飲める国。日本は、かつての、その姿を取り戻さなければならない。 水なんか、買うのは惨めだ。全部自分たちのせいなんだからね。 本当に惨めだ。その惨めさを、きっちりと認識してくれよ。 この惨めさから何とか抜け出さなきゃ、日本はお終いだ。
- 2008/05/18 - 調理道具〈「美味しんぼ塾」に「牛肉の旨さ その3」を掲載しました〉 私はどうも道具類が好きで、中学生の頃からラジオを組立てるのが趣味だったりするので、電気工作用の道具を見ると、今でも胸がキュンとなり、思わず欲しくなる。 中学、高校の時に一番欲しかったのはバルボルと言って、真空管を使った電流、電圧計だった。 普通のテスターでも電流・電圧は測定できるのだが、バルボルだとテスターより正確に測定できた。 とても高価で手が出なかったが、第一買えたとしても、何もそれほどのものを作るわけではなく、せいぜいの所、真空管を五、六本使ったオーディオ・アンプだから、本当は必要はない。 しかし、そこが素人の赤坂見附(古いシャレで、すまん)。 なにか、高級な機械を持っていると、それだけで自分が高性能のものを作れるのではないかなどと、妄想を抱くのだ。 料理にしても同じことで、私は、デパートの調理器具売り場に行くと離れられなくなる。 実に便利で、面白そうな調理器具が並んでいて、あれもこれも欲しくなる。 欲しくなると、前後の見境なく買ってしまうが、それを家に持帰ると、連れ合いが呆れた表情をして、以前に私が買ってきた同じような調理器具をどこからか持出してきたりする。 いつだったか、「あ、家にフードプロセッサーがない」などと買おうとしたら、連れ合いが、「有ります。以前買って来たの忘れたの」という。「見たことがないぞ」というと、「図体が大きくて邪魔だから調理台に置いてないのよ」と答える。 それではあっても意味がない。 そこで、積極的にフードプロセッサーを使うようにしたら、連れ合いも便利であると認めてくれて、今は調理台の端に鎮座ましましている。 私の家では、人間が食べる挽肉は店で買ってこない。店で売っている挽肉は、他の部位に比べて安い。それがどうも気にいらない。安いのには何か理由があると勘ぐりたくなる。 そこで、普通に食べて美味しい肉を買ってきてフードプロセッサーで、挽肉にする。 買ってきた挽肉とは比較にならない旨さである。 私の家でも挽肉を買うが、それはもっぱら、毎日家に餌をもらいに来る野鳥に与えるためである。 オーストラリアでは、野鳥に餌付けをしないようにお達しが出ているが、家に来て欲しがる物は仕方がない。 ただ肉だけを与えたのでは、野鳥の栄養のために良くない、と獣医の次女が言うので、次女の指示に従って、何か栄養分を含んだ粉をまぶして挽肉を与えている。鳥の練り餌に使う粉だそうである。 餌をやらないと、凄まじい大声で鳴き立てて、我々を脅迫する。 私達は野鳥に飼われているような物だ。 スパイスを潰すための鉢がありますね。 石で出来たごつい鉢に、石で出来たすりこぎ状の棒。 鉢に、様々なスパイスや、ニンニクを入れて、その棒で突き潰す。 その鉢も、大きさ、色合い様々有るのだが、私が大きいのを買おうとすると、連れ合いは必ず「それは大きすぎる。置く場所を考えなさい」と人を牽制する。 大体、妻という物は夫のしようとすることを、なるべく控えめに持って行こうとする傾向がありませんか。 それは、私の家だけなのかな。 鍋一つ取ってもそうですよ。 私が気にいった鍋を、「よし、これを買おう」というと、必ず連れ合いが、ひっくり返し、裏返し、蓋をはめたり外したりしてから、「深すぎる」とか、「把っ手が気にいらない」とか、色々文句を言って買わせてくれない。 だから、本当に欲しくなったら「いやだ、どうしてもこれを買うんだい」と突っ張って買うしかない。 あるいは一人で出かけていって、連れ合いに邪魔されずに買い込むしかない。 そんなこんなで、私の家には様々な調理器具が、台所と、食料品置き場の部屋に重なり合っています。 日本で買ってきたイタリア製の土鍋などと言う馬鹿馬鹿しい物もある。 この土鍋は、えらくいびつでいい加減な作りであって、日本の陶工だったら恥ずかしくて売りになんか出せないだろうと思われる代物である。 しかし、平べったくて大きくて、私の家では、その鍋一杯にグラタンを作ったりするときに役に立っている。 京都の錦小路にある「有次」は私の大好きな店で、錦に行くと、ついふらふらと入ってしまう。 包丁も色々買わせていただきました。 素人のくせに、玄人の料理人が使う包丁を買うような愚かな真似をしている。 包丁が幾ら良くても、腕が良くなくては、刺身なんかきれいに作れないって事は分かっているんだが、良い包丁を手にすると、実にどきどきして、いい気分になる。 「有次」の銅の鍋類もいい。 私は二十年以上前に、銅の八角鍋を買った。鍋をするのにも、湯豆腐をするのにも重宝して、長年使い込んでいるが、そこが銅製品の良いところで、使えば使うほど貫禄が出て味わい深い姿になる。 使っていて実に気分がよい。それだけで料理の味が一段上がる。 買ったときには、その値段を聞いて連れ合いは絶句していたが、その値段を二十数年で割ってみると、一年あたり幾らにもならない。 私の主義は、高くても良い物を買って長く使うことだ。 良い物は使っているときに気持ちが豊かになるし、長持ちをするから、結局長い目で見れば安い買い物になる。 包丁も「有次」の包丁はいい。きちんと研いでいれば、一生使える。 ときに、自分の持っている包丁を眺めることがあるが、いい包丁は鉄の色がいい。 澄んで深みのある色合いだ。 出刃包丁の刃先を魚の背にぐさりと刺して、ぐ、ぐーっと引回すと、寒気がするほどいい気持ちだね。 包丁がよいと、刺身の断面も滑らかにきれいに仕上がる。 もっとも、連れ合いや、娘たちは、「有次」の包丁でもステンレスの方を使っていますね。 やはり、包丁を砥石で研ぐのは女性には無理なのかも知れない。 「有次」は東京の高島屋に支店があって、数年前まで、そこに木村さんという方がいて、いろいろ、面倒を見て下さった。 ゴマ煎り器だの、焙烙だの、銅のやかんだの、包丁だの色々見立てて貰ったが、ある時、店の飾り棚に真鍮の素晴らしいおでん鍋があった。一目で気に入って、「これ貰おう」といったら、木村さんの顔色が変わった。「ええっ、これ持って行っちゃうんですか。ほんとに持ってっちゃうの。これ、一つしかないんですよ。持ってかれちゃ淋しくなるなあ」と売りしぶる。 木村さんは「有次」の商品に心底惚れ込んでいて、自分の気にいった品物をお客に勧めて、お客が気にいると、大喜びする。 だが、たしかに、そのおでん鍋は立派で、一品物で滅多に出て来る物ではない。木村さんが売りしぶりたくなるのも無理はない。 木村さんとしては、その鍋を身近に置いて楽しんでいたかったのだろう。 それに、店の看板にもなるし。 しかし、私は、欲しくなると抑えが効かないたちで、渋る木村さんをせかせて包装させて、家に送ってもらう手続きを取った。 木村さんは、一寸悲しげに、「大事に使って下さいよ」と言った。 おでんも、鍋がいいと、味が格段に引き立つ。 おお、シドニーは今は初冬。今夜あたり、あの鍋を引っ張り出してきておでんと行こうか。 木村さんは、数年前に「有次」を辞められた。 今、どうしておられるのかな。 おでん鍋も、銅のやかんも、大事に使っていますよ。使う度に、木村さんのことを思い出していますよ。 木村さんがこのページを読んでくれたらなあ。
- 2008/05/17 - 昨日の疲れが尾を引いて 昨日のリハビリが非常に身体に応えた。 一時間以上、猛烈にしごかれて、完全にへばった。 その疲労を今日まで持越してしまい、気分がよろしくない。 そんな時に、何を書いても面白くない。書かない方が良い。 そう言うわけで、今日の日記はお休みです。 リハビリをしてくれる、フィジオセラピストは若い女性で、大変に熱心なので、その熱心さに応えたいのだが、どうも、何かが私の身体の中で上手く行っていないようだ。 最初の予定では、手術後三ヶ月で、日本へ行けるまで回復するつもりだったが、どうも甘かった。 今の状態では、七月も日本行きは難しいようだ。 通常の、人工膝関節の手術なら、二ヶ月から三ヶ月で普通に歩けるようになるということだが、フィジオセラピストも言うように、私の場合は非常に複雑で大きな手術だったので、時間は掛かるようだ。 ま、明けない夜はない、亀でもアキレスに勝てる(これは、一寸違うね。知ってますよね、足の速いアキレスが、絶対に亀に勝てないと言う理屈。亀を追い越そうとするアキレスが亀のいた地点に達するまでに、亀はその地点より少し先に進んでいるから、アキレスは亀に無限に近づくことはできるが追い越すことはできない、というインチキな論理。紀元前四百年以上前のギリシアのぜノンという男のこねくり回した理屈だが、でも、面白いよね)。 そう思って、辛抱我慢で頑張るのみです。
- 2008/05/16 - 日本も危ないのではないか〈「雁屋哲の食卓」に「リコッタ・チーズとリンゴのパンケーキ」を掲載しました〉 ミャンマーのサイクロン、中国四川省の大地震、と立て続けに大災厄が襲ってきた しかし、サイクロンも、大地震も自然現象だが、それによる人々の被害の大きさは、人為的な部分が大きいように思われる。 ミャンマー(この国の名前はもともと、ビルマであり、今の軍事政権が、1990年にミャンマーと変えたのである。欧米の報道機関の中にはいまだに、ビルマで通しているところが少なくない。今の軍事政権を認めない、と言う意志の表明でもあるのだろう)の場合、これは軍事政権の極悪非道さの故であることは世界中の人間に知れ渡った。 48時間前にインドから、ビルマに(私も、今の軍事政権が不愉快だから、ビルマ、と呼ぶことにしよう。ところが、私の使っているかな漢字変換ソフトの、ATOKは、私がビルマと入力する度に、《ビルマ地名変更→ミャンマー》と一々うるさく警告を出しやがるんだ。こらあ!ATOKはミャンマー軍事政権の回し者かあっ!)サイクロン情報を伝えた。普通の政治家なら、国民を災害から守るために最大限の努力をするはずだ。 ところが、ビルマの軍事政権は、自分たちの周辺の安全を確保することに懸命で、サイクロン情報など流して国民が騒ぐと面倒だから、と言う訳か、一切サイクロンの情報を流さなかった。 軍事政権は、自分たちに都合の良いように憲法を改正する為の選挙の準備に血道を上げていて、サイクロンの被害者が苦しんでいる最中に、被害者を助けもせずに、憲法承認の国民投票を行った。 外国から援助のために人を派遣したいと申出ても、物資は受けとっても人間は入れない。 うっかり、外国人が入って来て、ビルマの国民に、世界の情勢、ビルマ国民の置かれている情勢、など真実を知らされては自分たちの政権が危なくなると考えてのことだと言う。 軍事政権は、ビルマ国民のことなど何も考えずに、自分たちの体制維持に必死だと言うが、それにしてもひど過ぎはしないか。 15日現在、ビルマ軍事政権の発表した数字でも、死者・行方不明合わせて7万人、国連の推定では10万人を超すという。 今になって、軍事政権のお偉方が、被災者を見舞う映像などがビルマのテレビに流されているが、白々しいというか、鉄面皮というか、自分たちのせいで苦しんでいる人達に情けをかけて見せているのだ。 国民も、本当なら、そんな軍事政権の連中をつるし上げにしなければならないのだが、人間、とことん暴力で虐げられると、その日、その日、生きて行くだけが精一杯になり、抵抗する気力も失せてしまう。自分たちを苦しめている張本人が目の前にいても、その人間を倒す気力も意志もなくなってしまうのだ。 それにしても、ビルマ軍事政権の権力者たちの顔の醜さには、思わず息を呑んだね。 顔の造作について云々するのではない、その、内面から出る残虐さ、冷酷さ、無神経さが、分厚いゴムのように顔全体を包んでいる。 あれは、人間の顔ではない。怪獣ランドに展示すべき顔だ。 中国もひどい。 中国は今や日本を抜いて世界第二の経済大国なのだそうだが、その経済大国が、地震の被害者の救出に何故こんなに手間取るのか。 中国も外国からの援助の人間が入るのを拒否している。ようやく、世界の国の中で初めて日本の救出隊の入国を許可した。 それも、たった六十人だ。 中国も、ビルマと同じ、世界の情報が入ってきて、中国の人民に自分たちの真の姿を認識されたら、支配者たちは大いに困る。 中国には言論の自由が全くない。 この間も、オリンピック聖火リレーで、チベット問題で批判する外国に対して、中国の主に若者たちが猛烈に反撥して、世界中で中国の国旗を振り回して、聖火リレーを妨害しようとする者だけでなく、チベット問題で抗議をしようとする者達に対しても、激しい攻撃を加えた。 New York Timesの動画ニュースを見ていたら、可愛らしい顔をした中国の女子学生が、「世界中が中国に嫉妬して居るんだ。チベットは大昔から中国の一部だ」と力説していた。 その女子学生が、世界の常識から完全に外れたことを言うのも無理はない。中国では、政府に都合の良い報道以外許されない。インターネットでさえ、政府に都合の悪いページにはアクセスできないというから、呆れる。 中国の若い人達の愛国主義は政府によって植え付けられ、煽り立てられた物である。 皇国精神以外一切の思想を禁じられていた日本が、1945年の敗戦をきっかけに、悪い夢から覚めたような日が、中国にも来ることを望む。 4月28日の朝日新聞の朝刊には、「五輪の囚人」と呼ばれる男性の記事が載っていた。 男性は弁護士で、「北京五輪に巨費を投ずるより人権状況を改善して欲しい」という署名活動をしただけで「国家政権転覆扇動」の罪で懲役六年の判決を言い渡されたが、逮捕後の拘置所ではベッドに手足を縛り付けられたまま食事や排泄をしいられたと言うから、恐ろしい。 他にも、少しで、政府に批判的だと思われると、「公安」に拉致されたり、誰とも分からぬ暴漢に暴行されて、それを警察に訴えても相手にしてくれない、などと言うことが幾つも起こっていることが報道されている。 中国では、政府に都合の悪いことを言う人間は、でっち上げの理由で投獄されたり、襲われたりする。 5月12日のNHKスペシャルで、ロシアのプーチン政権が、テレビ局を全て押さえ、新聞雑誌も、支配下に置き、言論を完全に押さえ込んでいる実態が報道された。 プーチン政権になって、数十人のジャーナリストが殺されたり、不審な死を遂げている。 ただ一つ、プーチンを批判して頑張っている新聞「ノーバヤ・ガゼータ」で、果敢にプーチン批判をしてきた女性記者、アンナ・ポリストコフスカヤは2006年10月に、自分のアパートのエレベーターの中で射殺された。死体の傍に、拳銃が残されていた。それは、典型的な処刑射殺の儀式のだそうだ。 他の人間に、アンナ・ポリストコフスカヤのように殺されたくなかったら、余計なことを言うなと言う訳だ。 私はアンナ・ポリストコフスカヤの書いた本を数冊読んだ。ここまでプーチンを批判したらただではすむまいと心配していたが、やはり殺された。プーチンは恐ろしい人間である。 今やロシアは、テレビも新聞も、プーチンを褒め称える事しかしていない。 これを見ていて、北朝鮮と何も変わらない、と思った。 北朝鮮も、人民が飢え死にするというのに、金正日はフランスの最高のぶどう酒をがぶがぶ飲んで得意になっている。 少しでも、金正日を批判した者は、裁判無しの銃殺だ。 食べる物はろくにないし、少しでも批判したら殺される。 朝鮮の人民は、反抗する気力も全て失ってしまっている。 ビルマ、中国、ロシア、この三国は国民が政府によって暴力的に支配され、世界の真実を知ることも許されず、一部の金満階級を除いて、一般の人々は苦しい生活を強いられている。 人間、生まれるところは選べない。 あんな国に生まれなくて良かったなどと、脳天気なことを考えていて、日本の現実に思い至って、ぞっとした。 日本も、個人情報保護法案などで、国会議員や権力者、有力者、大企業の経営者などに対する批判を封じこめようとしている。 その他、青少年を守ると言う口実で、インターネットなどの取締りも行われようとしている。 このままでは、日本でも、ビルマ、中国、北朝鮮、ロシア、と同じように、人々は「見ざる、言わざる、聞かざる」を強いられて、権力者のいいように支配される状況に追いやられる。 後期高齢者保険法や、障害者自立法、などの美名の元に実際は、高齢者と障害者を切捨てていく法律を作った小泉がいまだに人気があると言う、この国だ。 私の心配するような事態に落ち込んでも不思議はない。 こんな不愉快な話をして申し訳ない事で御座います。 「雁屋哲の食卓」にとても美味しい「リコッタ・チーズとリンゴのパンケーキ」の作り方を載せたので、それを見て口直しをしてください。
- 2008/05/15 - 「雁屋哲の食卓」の協力者「雁屋哲の食卓」を作っている主役は私の連れ合いだが、連れ合いには協力者がいる。 それは、子供たちである。 私の家では私の父が料理が好きだったので、その影響で私も台所に入るようになった。 私の姉の亭主も、これがまた大の料理好きで、土曜日曜には人を集めて自分の料理を食べさせるの趣味である。姉の息子たちも必然的に料理が好きだ。 料理の出来ない男は、我が家の男として認めない、と言うのが我が家の掟である。 男子厨房に入らず、なんて言葉を私の親族の間で使ったら、徹底的に馬鹿にされる。 私は、息子によく言って聞かせた。「男は、戦わなければならない。戦場で自分で食べ物を作れなかったら、戦えない。料理は男の必須の教養だ」 この場合、戦場というのは、本当の戦争の場とは限らない。仕事の場もまた戦場だ。例えば、物書き商売でも、腹が減ってはいい物を書けない。その時に、人に頼んで作って貰える身分なら良い。しかし、若いときにはそんなことは出来ない。 では、外食をすればよいのか。 若いときには、毎日外食をするだけの金は稼げない。現在ならコンビニ弁当を食べればよいと言うかも知れないが、それでも自分で作った方が安くて安全で栄養のある物が食べられるのだ。 旨くて栄養のある物を食べている者が、やはり最終的には勝つ。 だから、男は料理が出来なければ駄目なのだ。 私の長男は、大学を出てから一年近くヨーロッパ各国を放浪していたが、その間、最初に友人の所に泊めて貰い、次に、友人の友人、更には友人の友人の友人、と言う具合に次から次に縁を頼って泊まり歩き、ついにホテルはおろか、ユース・ホステルなど、金のかかるところには一切泊まらずに過ごした。 長男は、極めて人付き合いの良い男で、誰からも好かれるのだが、それにしても流石のヨーロッパ人たちでさえ、長男の話を聞いて驚いたと言うくらいだから、私達も驚いた。 一体、どうしてそんなことが出来たのかと、長男に尋ねたら、長男は言った。 「父ちゃん、連中、簡単だぜ。チャーハン作ってやったら、もうそれだけで感激して、ずっと居てくれと言うんだよ。カレーなんか作った日には大変だよ」 は、はあ・・・・・ 芸は身を助ける、と言うが、料理の腕で、ヨーロッパで生き延びてきたとは、立派なもんだ。 そんな長男だから、「雁屋哲の食卓」の「焼き鶏」をご覧になっていただければお分かりの通り、時間があれば色々な料理を作ってくれる。自分の作った料理を、家族が「美味しい」と言って喜ぶと、眼尻を下げて嬉しげに笑う所など、私の父にそっくりである。 シドニーには様々なアジア系の料理屋がある。 そう言う店は学生でも食べられる安直な店が多い。そんなところに出入りしているせいか、長男は、東南アジア系のスパイスの利いた料理を得意にしている。 カレーを作るとなると、私も、どう使えばよいのか良く分からない香辛料を上手く使いこなして、日本風のカレーとはまるで違う味のカレーを作ったりする。 長女と次女も、料理が好きだ。 二人とも、小さいときから、料理をする連れ合いの傍にくっついて、自分でもあれこれ手伝いたがった。 まだ小学校に入ったばかりの頃の次女が、手伝わせてくれと余りせがむので、連れ合いが人参を与えて、刻ませていたこともあった。 長女は完璧主義者で、自尊心が極めて強い性格なので、自分が絶対に美味しく作ることが出来ると自信のある料理しか作らない傾向にあるが、次女は冒険心が強いので、色々な料理に挑戦する。 次女の料理好きは、大変な物で、普段の日は仕事などが忙しいから料理の本を読むことで我慢をしているが、休みの日になると、それを一気に爆発させるように、色々と作り始める。 次女は獣医なのだが、私は次女に、「獣医なんかやめて、料理の道に進んだらどうだ」などと、煽り立てている。 次女の友人たちも次女の料理好きを知っていて、誕生日の贈り物として、オーストラリアで発行されている料理の月刊誌を一年間届けてくれる人間もいる。 次男は末っ子でみんなが甘やかしたせいか、自分は食後の食器洗いをすればよいと決め込んでいるところがあるので、これではならじと、最近になって私がステーキの焼き方など、びっちりと教え込んだ。 性差別感を持っている訳ではないが、私には「肉料理は男の仕事」という観念がある。 ステーキやローストビーフを焼けなくて、それで男か、と思う。 だから、次男にはまずステーキの焼き方から教えた。 上手い具合に飲み込みが良く(私の教え方が上手だからね、と、子供自慢と自分の自慢を一緒にしていれば世話はないな。ちょいと、恥ずかしいんでないかい)いい具合にレアにステーキを焼けるようになった。 そんな訳で、次男はまだ駆け出しなので、今のところ、連れ合いの協力者は、長男と、二人の娘である。 「美味しんぼ」の原作を書くときは、料理の資料写真を花咲アキラさんに送る必要のあることが良くあった。 そこで、何度か、連れ合いと、長男、長女、次女に料理を作らせて、それを写真に撮り、花咲さんに資料写真として送った。 花咲アキラさんはそれを元に漫画を描いたので、読者諸姉諸兄は知らない間に、私の家族の作った料理を「美味しんぼ」を通してご覧になって居ることになる。 私の親戚一同、集っては皆で物を作って食べて喜んでいるという、実に食い意地の張った下品な一族だが、上品より下品な方が気が楽だ。 前にも、「お総菜主義」と言ったが、そんな言葉は私の家族の生活から自然と導き出された物なのだ。 家族一同揃って美味しい物を食べるのは私にとって一番幸せなときであるが、その食べ物を家族総出で作るのも、これはまた一際楽しい物だ。 その様なことの次第から「雁屋哲の食卓」には、私の家族総出で作った料理が並ぶことになる。 こんな、食い意地の張った家族もあるのかと、笑いながらご覧下さいませ。
- 2008/05/14 - 「雁屋哲の食卓」を作っているのは〈「美味しんぼの日々」に「御飯」を掲載しました〉 「雁屋哲の食卓」でお見せする我が家の料理は誰が作っているのか、と言うのが、今日のお話です。 主役は勿論、連れ合いです。 実は結婚した時に、連れ合いの出来る料理はトンカツと出汁巻き卵だけでした。 結婚前にピクニックに行ったとき、連れ合いは、カツ・サンドと出汁巻き卵のお弁当を作って持って来てくれた。それが、仲々美味しかったので、「うん、料理の腕は大丈夫だな」と思って結婚したのですが、ああ、なんと、連れ合いが作ることの出来る料理は、トンカツと出汁巻き卵だけだったことが、結婚してから判明したので御座いますですよ。(この話はあちこちでして、連れ合いに嫌がられています。それを、またここに書いちゃった。ごめんね、かあちゃん) 麺の茹で方から、肉の焼き方から、全て何も知らなかった。 私は、料理好きの父親の影響で、子供の頃から台所に親しんでいて、自分で料理をするのが得意だったので、連れ合いに料理を一から教えた。 今でも、時々連れ合いが文句を言うが、そんな頃私は友人に電話をして、「おーい、えらいことしちゃったよ。俺は嫁を貰ったつもりだったのに、娘を貰っちまったよ」と言ったそうだ。 どうもね、私は極めて忘却性能の高い頭脳を持っているので、大抵の記憶は行く水の流れるが如くするすると消え去っていって、頭に残るものが何もなく、大変さっぱりしていい気持ちなのですが、女性は違うようですな。 私なんかがとっくに忘れたことを、しっかり憶えていて、何かの拍子にそれを、攻撃の道具に使う。 こっちが忘れていることを、向こうが憶えているってことは卑怯ですよねえ。 連れ合いは、三人兄弟の末っ子。一番上の姉も、すぐ上の兄も、両親も、たっぷり甘やかして育ててくれたから、末っ子特有の、何でも誰かがしてくれるもの、という気質を持っていて、おまけに連れあいの母親が非常に活発な人で、子供なんかに仕事をさせてぐずぐずしていられたら、面倒くさくて仕方がないと言って、さっさと何でも自分でしてしまう。 それで、連れ合いは、料理なんか、趣味のトンカツと、出汁巻き以外はしたことがなかったと言うことが判明したのであります。 ま、それはともかく、私は丸一年間みっちり連れ合いに料理を仕込みました。丸一年経ったときに、忘れもしない(こう言うところは記憶力がよい。しかし、連れ合いに言わせると、それは私が都合良く脚色した物語だそうですが)ある昼食時に、連れ合いが「スパゲティは二人分で何グラムだったかしら」と聞きに来たので、私は言いました。「俺は君に一年間教えてきた。もう十分だ。これからは、料理は自分でやってくれ」 連れ合いは、愕然となって、極めて不安げな表情になりましたが、そう言われれば仕方がない。 自分で何もかも料理を始めた。 すると、これが仲々才能があると言うことが分かった。 料理の材料を一緒に買いに行って、あれを作ろう、これを作ろうと言うと、結構上手に作る。 その料理の腕は年々上がってきて、二年も経たないうちに、文句のない料理を作るようになった。 結婚した翌年から私は漫画の原作を業とすることになり、当時は今と違って、編集者が原稿を私の家に取りに来るのが普通だったから、仕事の量が増えると、殆ど毎日のように、各誌の編集者が家に来るようになった。私はその頃は、非常に仕事が速く、昼過ぎまでごろごろしていても、午後から仕事に掛かれば夕食までには連載原稿一本を仕上げることが出来た。 編集者には、夕食時に来て貰うようにしてあった。 原稿を仕上げて、それを編集者に渡して、さあ、酒盛りだ、と言うのが私の当時の生活でした。楽しかったなあ。毎晩大騒ぎだもの。 放歌高吟は当たり前。公式の卓球台を部屋に持込んで、酔っぱらった編集者たちと夜中まで卓球をしたこともあったな。 ここで大変なのは連れ合いでしたね。毎日、編集者にご馳走する物を作らなければならない。 これが、我が妻ながらえらいと思ったのは、連れ合いは献立の記録を全部つけていたことです。 献立だけでなく、それを誰に出したかも記録してあった。 何月何日、少年サンデーの佐藤編集者には、これこれの料理、と言う具合に、記録してあって、次に佐藤ちゃんが来たときには以前に出した物は出さない、という塩梅です。 だから、今日は誰々が来ると言うと、過去の記録を確かめて、以前とは違う物を作る。 年月が経つうちに、その記録が随分分厚い物になった。 調味料のシミなど付いて、大変に貫禄のある見事な物になった。 今でも、連れ合いはその記録を保存してあるはずだ。 そのくらい熱心だったし、才能もあったのだろう。 私は、今では連れ合いの料理にすっかり飼い慣らされて、連れ合いの料理が一番美味しいと思うようになった。 勿論、私は自分で食べて美味しいと思った料理屋には殆ど全部連れて行っています。私の体験した美味を、連れ合いにも体験して貰うためです。(取材などで行った地方の店には仲々連れて行くのは難しい) 世の旦那方の中には、自分だけ美味しい料理屋で食べて、奥方は連れて行かないなんて方が少なくないようですが、それでは、奥方の料理の腕は上がりませんぜ。 自分の家で美味しい物を食べたかったら、奥方にも美味しい物を食べさせて、その味を覚えて貰わなければ駄目でげすよ。 そんなこんなで、私みたいな、口うるさい男と暮らしている内に、連れ合いは料理上手になりました。 自分の家で食べる御飯が一番美味しい、と言うのは有り難いことです。 私が嫌いなのは、素人が玄人の真似をした料理です。 良く料理自慢の人にいるんです。どこそこのレストランのシェフ直伝とか、どこそこの料理屋に負けませんよ、などと言って、玄人の料理のコピーを作る。 そう言うのは、面白くないなあ。 私の家には、オーストラリアで一番、世界でも五本の指にはいるという大変に有名なシェフがよく遊びに来ますが、彼が大好きなのは、私の連れ合いの作るお総菜料理です。 ひじきの煮物なんて、歓声を上げて食べますね。 レストランや、高級な料理屋の食べ物は、あれはよそ行きの物です。 才能のある料理人が、命がけで創造する、芸術品です。 それを素人が真似をしたところで、みっともないだけだ。 私の家の料理なんて、家族が多いせいもあるが、大皿にドカンと載せて、それを皆で取り分けるという、雑ぱくな形の物が多い。 でも、そこに家庭の料理の良さがあるんじゃないだろうか。 「雁屋哲の食卓」には、連れ合いの他に、貴重な協力者がいます。 それは・・・・・ と書いたところで、リハビリに行く時間になってしまった。 今週から、週に三回もリハビリで痛めつけられることになってしまった。 まともに歩けて、活動できるようになるために、この辛さを乗り越えなければならない、と頭では分かっているんですがね、とにかく痛くて痛くて。 さあ、悲鳴を上げに行ってきますよ。この続きは、また明日。
- 2008/05/13 - 「雁屋哲の食卓」について 先日から開いた「雁屋哲の食卓」について一言書いておきたい。 私の子供から聞いた話だが、まだ私達が日本にいる時、私の子供が学校にお弁当を持っていったら、近所の主婦が「一寸見せて」と言って、家の子供の弁当の中味を見て、「美味しんぼの弁当だから、どんなかと思ったら、普通のお弁当なのね」と言ったという。 「美味しんぼ」を書いてきて、非常に誤解されるのは、私や私の家族が、いつも大御馳走を食べているのではないか、と言う事だ。 とんでもない。 それは「美味しんぼ」自体を見ていただくと分かるが、主人公の山岡も、社員食堂、町場の居酒屋、文化部付属の調理場で作った自作のうどんなど、普通のサラリーマンと変わらない物を食べているし、山岡とゆう子の家での食事もありふれた日本人の家庭のお総菜である。 勿論、山岡は、例えば「京味」などの、特級の料理屋にも行くし、高価なワインも飲んだりするが、それは「究極のメニュー」を作成するという職務上やむを得ないことであって、「美味しんぼ」の食べ物の殆どは、その気になればだれでも手に入る物ばかりである。 それでもやはり、読者諸姉諸兄の中には、「雁屋哲はいつもどんな物を食べているんだろう」と知りたがる人が多いと聞いた。 現実に、私自身、その様な質問をいろいろな人から厭になるほど何度もされてきた。 それなら、「美味しんぼ」も一区切りつけたことだし、読者諸姉諸兄の好奇心を満たすと同時に、私の実像を知って貰うために、私が日常的に食べている物を、お見せしようと決めた。 ただ、私の家族や、周りの者からは、「なあんだ、美味しんぼの原作者はこんな物を食べていたのか」と読者諸姉諸兄をガッカリさせることになるからやめた方が良いと言う意見も出た。 それも一理ある。 自分の私生活については何も言わず、見せず、秘密めかすのは自分の価値を高める一つの手段である。一種の神秘化、と言うのかな。 だが、私は「美味しんぼ塾」の中で、さんざん私生活について喋っているから、今さら、神秘化もないもんだ。 むしろ、私自身の毎日の食事をお見せした方が良いと思われることもある、と私は考えた。 その理由は、「お総菜主義」にある。 私は、家族と外食に出かけるのが大きな楽しみの一つとしているが、それは、多くても月に三度くらいで、後は三食家で食べている。 私は、物書きで、一日中家にいるから、必然的に家で三食食べることになる。 以前、「亭主は元気で、留守がいい」などと言う言葉が流行ったことがあった。私の連れ合いも、ご近所の主婦連とお喋りをしているときに、「亭主が毎日家にいるなんて、いやねえ」と言われたそうである。 それからすると、私など、主婦にとって迷惑きわまりない亭主、と言うことになるのだろう。 会社勤めの人からすると考えられないくらいに毎日家にいて、しかも、毎日連れ合いに「美味しい物を食べさせてくれ」と言い続けるのだから、連れ合いにとっては私と結婚したことは、生涯の災難と言うべきだろう。 連れ合いの迷惑も顧みずに言えば、私にとって夕食の時の一家団欒が一番楽しい時間である。 そのために一生懸命働いている所がある。 私は色々と、何が一番人生の中で幸せなことだろうかと考えてみたが、この、家族揃って楽しく食事をすることほど幸せなことは考えられない。 巨万の富を持つことも、美女四千人を擁する後宮をを構えることも、私のような小人物にとっては有り難くない。 子供たちの顔を眺めながら、お喋りをし、笑いさざめき、そして美味しい物を食べる。私には、これ以上の幸せという物は考えられないのだ。 そこで重要になってくるのが、お総菜である。毎日の食事だ。 私は、美味しい店を食べ歩くのも好きだ。変わった味を探検して歩くのも好きだ。 しかし、私の食の根底は家庭のお総菜、毎日の家庭で作る食事なのだ。 お総菜こそが、一番価値のある食べ物である。 それが、私のお総菜主義である。 そこで、「雁屋哲の食卓」である。 ここには、基本的に、私の家で作った物を並べてある。 勿論、どこか美味しい店に食べに行ったときは、その美味しかった物を紹介もするが、基本的に、我が家のお総菜である。 私の食べているお総菜をご覧に入れて、私のお総菜主義とはどんな物か、読者諸姉諸兄にお分かり頂きたいのだ。 ときに、トリュフなどと言う、家庭料理にはそぐわないと思われる物が出たりするが、あくまでも、自分の家で、家庭料理として作ったところに意味がある。 お総菜主義とは、家庭で美味しい物を作り、皆で和気あいあいと食べて、家族が幸せになることだ。 それをいいたいが為の「雁屋哲の食卓」なのであります。 家庭の食事を人様に見せるなんて、私生活をさらすことで、一寸やり過ぎの感がないこともないが、ま、これも流れに身をまかせると言うところか。 お総菜主義とは何かお考えいただいて、ついでに楽しんでいただければ、大変に幸せである。
- 2008/05/12 - 今日は、特別の日 今日、5月12日は私にとって特別な日である。 今日発売の、ビッグ・コミック・スピリッツ2008年度、第24号で、1983年以来続けて来た「美味しんぼ」に一区切りをつけるからだ。 25年、単行本102巻、589話、自分でも良く書いたと思う。 1話がその1とか、その2とか、複数回にわたることが多いから実質的に書いた話の数は、589ではなく、1000を超える。 最初の頃は手書きの原稿を直接編集者に渡し、次に手書きの原稿をファクスで送り、10年ほど前から原稿はインターネットを使ってメールの添付書類にして送っている。(まてよ、最初の頃はインターネットが今ほど進んでおらず、いわゆるコンピューター通信、の形で送っていたな。私はNIFTYのごく初期からの会員だ) 25年前と今とでは、日本の食の環境は大きく変わった。 当時私が書いて、読者が「へええ」と感心したようなことが今は常識になってしまっている。 始めた頃、私は自分で食についての知識は持っているつもりだったが、今は私より遙かに沢山の知識を持った若い人が増えている。 ただ、その知識が、食の楽しみ、面白さ、珍しさ、と言うところに的が絞られていて、食の安全、本物の食品という点については、まだ本気で取り組んでくれる人の絶対数が足りないのが残念だ。 25年間の間には色々なことがあった。 本物、安全、と言うことを追求していくと、どうしても今の食品業界を批判しなければならないときがある。 食品業界の反応は、その批判を受け入れるのではなく、誤魔化しと、私に対する攻撃だった。 最近の、食品の偽装、危険物の混入、など食品業界の道義は地に落ちている。 それを批判すると、広告主としての金の力で、出版社やテレビ局に迫ってくる。 企業だから儲けなければ成り立たないのは分かるが、倫理観念のない業者、会社が多すぎる。 そのあたりの事をもっと厳しく「美味しんぼ」で追求したかったのだが、力不足で及ばなかったのが残念だ。 一漫画原作者の力は所詮カマキリの斧程度の物でしかなく、相手は本物の巨大な斧を振りかざしてやって来るのだから、勝負にならない。善戦すれども及ばずと言うところだ。 それに、業界の不正などについて書いていると、書いているこちらの気が滅入ってしまって、「こんな、暗い話は面白くないや」と、途中でやめてしまったことが度々ある。 もう一寸踏ん張るべきだったと、そこの所が口惜しい。 第101巻を読んで下さい。あれが、業界を批判できるぎりぎりの所なんですよ。 お金のことを言うのは卑しいようだが、それにしても、「美味しんぼ」は対費用効果の悪い作品だった。 もともと私は美味しい物でなければ食べたくない、と言う主義で、漫画の原作を書き始めてから稼いだ金の多くを食べ物に注ぎ込んできた。その損を取り戻そうと思って、食べ物漫画の原作を書き始めたと言うところもある。 「美味しんぼ」以前に私の担当だった編集者たちは、私をご馳走してやるのに、私が一々文句を言う物だから、うんざりしていた。 だから、私が「美味しんぼ」を書き始めたとき、「ああ、雁屋さんが食べ物について書くのは当然だよ」と言ってくれた。 しかし、「美味しんぼ」も最初の4巻くらいまでは自分のそれまでの食べ物経験で書けたが、それ以降は意図的に食べて回ることが多くなった。 フランスのミュシュランの三つ星レストランは1980年代に全て食べ歩いた。フランスの最高のワインも、随分集めて飲んだ。今でも、私のワインのコレクションを見ると、飲むのが怖いようワインが何本も転がっている。 しかし、フランスのレストランを幾つ回っても、「美味しんぼ」には書けなかった。それは、日本の読者が、三つ星のフランスレストランの話などにはまるで興味を示さなかったからだ。やはり、あまりに日常からかけ離れた食べ物について書かれても興味の持ちようがないと言うことだろう。 であるが、こちらとしては、フランス料理も、イタリア料理も、本場の最高の物を食べておかないと、世界の中での日本料理について云々出来ない。そこで、フランスやイタリアや、ヨーロッパ各国、アジア各国を食べ歩くのであるが、それは、単に自分の中に蓄積されるだけで、一銭のお金にもならない。 頂く原稿料と、単行本の印税のかなりの額が食べ物で消えた。ただ、私としては、「これは読者に代わって、食べ、飲んでいるのだ」といつも考えていた(ウソつくんじゃないよ。調子の良い、言い訳だね。本当のところは、美味しいもの、美味しお酒を飲みたかっただけなのにね)。 とは言え、「美味しんぼ」が想像だけで書ける話だったらもっと楽だったのになあ、と不埒なことを考えることもある。 さて、これからの「美味しんぼ」だが、昨日も書いたように、やめるわけではない。ただ、今までとは進め方が違う。 私は、地方を回る毎に、地方がどんどん疲弊していっているのを痛感する。地方の人口が減り、なかんずく若者の数が減っていると言う事実に激しい悲しみを覚える。 このままでは日本は、根っこを失う。日本の根っこは地方にある。 都会に人間生活の真実はない。 都会は地方という土壌から栄養を摂って咲く花である。地方が疲弊してしまったら、都会も疲弊する。もう、その兆候は日本中顕著に表れている。 私は日本の文化を守りたい。私達の後の世代に伝えたい。 文化の中で、一番人間に密接しているのは食べ物である。だから、郷土料理は日本の宝物として、大事にし、後世に伝える義務が我々にはある。 その意味で私は、力の続く限り、小学館がさせてくれる限り「美味しんぼ」で「日本全県味巡り」を続けたい。 現在までに、大分、宮城、山梨、大阪、富山、高知、長崎、青森、そして一寸半端な形だが沖縄、の9県を回ったに過ぎない。 日本は47都道府県がある。 私が生きている間に全部回れるかどうか分からないが、出来るだけ多くの県を回って、郷土の食文化を記録にとどめておきたいと思う。 我田引水で、思い上がった言い方に聞こえるかも知れないが、私は一つの漫画の寿命は長いので、何かを記録しておくのに力があると考えている。雑誌や記録文をまとめた活字の本は、出版された当時は話題になるが、長い年月持続して読まれると言うことがない。 それに比べて、漫画は息長く読み継がれる。 「美味しんぼ」など、20年以上前の漫画を改めて編集し直して出すと若い読者が読んでくれる。「私の生まれる前の漫画です」とか、「私が小学生の時に父が読んでいたのを、今、読んでいます」などと言う読者の声を聞くと、漫画の寿命の長さを実感する。 だから、「日本全県味巡り」で各県の郷土料理、郷土の文化を「美味しんぼ」に記録しておくことには意味がある、と思うのだ。 もう一つは、やはり、昨日も言ったことだが、「食の安全」の様な大事な事柄について、一冊の単行本にまとまるように書いていきたい。 と言うわけだから、一区切りをつけると言っても、「美味しんぼ」は終わりません。 これまでとは違った形になるが、命の続く限り、読者諸姉諸兄のご愛顧が続く限り、書き続けるつもりです。 いや、本当に読者諸姉諸兄だけが頼りです。 これからも、どうか、ご愛顧を賜りますように。 よろしくお願いします。
- 2008/05/11 - 明日は、特別の日 明日、5月12日は私に取って特別の日になる。 明日、5月12日、月曜日発売の、ビッグ・コミック・スピリッツ誌の2008年度第24号に掲載される「美味しんぼ」第489話その11で、1983年の暮以来連載を続けて来た「美味しんぼ」に一区切りをつけることになったからだ。 「美味しんぼ」をやめてしまうわけではない。 「日本全県味巡り」は続けるし、他にも、第101巻の「食の安全」のように、意味のある主題に出会えばそれで単行本一巻を作るつもりだ。 現在、「美味しんぼ」の単行本は年に4冊でているが、当面「日本全県味巡り」中心で、年に2冊出せればと考えている。 それでも、今までのように、毎週話をつらねて行く形とは違った物になるだろう。 私は1973の暮れに「男組」を書き始めてから、今日まで、35年間毎週週刊誌に連載物を書き続けてきた。 一番忙しかった頃は、週刊誌、隔週誌、月刊誌合わせて5つの連載を持っていたこともある。 明日でそれもお終いになる。 人生の一区切りというものだろう。 編集部は一区切りつけることを仲々承諾してくれなかったし、花咲さんは「死ぬまで描きましょうよ」と言ってくれていた。 今回一区切りつけたのは、ひとえに私の我が儘からである。 読者の皆様ご愛顧は変わらないし、編集部も私を大事にしてくれるし、花咲さんはますます絵が上手になる。 区切りをつける理由は何も無い。これで、「美味しんぼ」を一区切りなどと言うのは許されざる我が儘だ。 それは分かっているのだが、どうにもこうにも、身体が続かなくなってきたのだ。 「美味しんぼ」の最初の頃は、1回分の原稿は3、4時間もあれば書けた。 20年以上前に、「キハチ」の熊谷喜八さんと、京都に遊びに行ったことがある。京都には、仲良しの料理人が何人もいて私達を歓待してくれる。 その晩は花脊の「美山荘」に泊まり、先代の中東吉次さんが最高のもてなしをしてくださって、夜2時過ぎまで酒を飲んで楽しく過ごした。 そのまま、寝室に喜八さんと、枕を並べて寝た。 そこから先は、何度も喜八さんから聞かされた、ご本人の話を記そう。「いや、驚きましたよ。2時過ぎまでお酒を飲んでいたのに、5時頃になったら、突然雁屋さんが起き出して、枕元の電気スタンドをつけて、そのまま寝床に腹ばいになったまま、何と原稿を書き始めた。そのまま、朝ご飯まで、ずっと書きっぱなし。あんなにお酒を飲んでいたのに、私なんかいい気持ちで寝ていたのに、それで、朝ご飯の時には、仕上げちゃったと言うんだから」 当時はどこにでもファクスがある時代ではなかったから(随分昔の話だねえ。インターネットで原稿を送っている今から考えると信じられないような気がする)、その朝、花脊から京都の街中まで降りて行って、電話局から編集部に原稿を送った。 その時は、締切りのぎりぎりの時だったからそんなことをしたんだろうが、昔はそれで原稿が書けたのだ。 ところが、現在はと言うと、毎週の原稿を書き上げるのに最低で4日から5日、ひどいときには1週間以上かかって、書き上げた途端に次の週の締切りが来ることになったりする。 「締切りと、パンツのゴムは、伸ばせば伸びる」と言うのが私の口癖で、原稿が書けないイライラを発散するためにそんなことを言っているのを娘たちが聞きとがめて、「まあ、編集さんが可哀想」「私、絶対に編集者にはならないわ。お父さんみたいな人を担当することになったら悲劇だもん」などと言う。 以前は机に向かうと、独りでに案など出て来た物だが、いまは体中逆さにして振っても何も出て来ない。脳みそが空っぽになったというのか、硬直してしまったというのか、何も案が浮かばない。 「ああ、今週こそ何も書けない。おっこちだな」(業界用語で、締め切りに間に合わずに、雑誌に穴を開けることを、落とす、と言う) と毎週のように思う。 それでも、さんざん苦しんだ挙げ句、一寸手洗いに立ったりした瞬間に案が浮かび、浮かんだとなると、2、3秒以内に、話の始めから終わりのオチまで、一気に出来上がってしまう。 これが不思議だ。 この一瞬のひらめきは、天からの贈り物のように思える。 とは言え、こんな事を毎週続けていると、心底消耗する。 私が一番恐れるのは、作品の質の低下である。 今でも、初期に比べると大分質が低下していると思う。 読者諸姉諸兄が甘やかしてくださるからと言って、だらだらと惰性で作品を書き続けるのは恥ずべき事だと思う。 「美味しんぼ」は1983年から始めたから、今年で丸25年になる。 一つの作品を25年も続けていると、どうしても最初の頃の輝きが失せてくる。 それでもいいじゃないかという声もあるが、私は厭なのだ。 私は、「立つ鳥跡を濁さず」という言葉が好きだ。 きれいに引いてこそ、人間の価値が有ると思う。 そう言うことを考えて、一旦区切りをつけることにしたのだ。 私の小学校の同級生の一人からは、「毎週楽しみにしている読者のことを考えろ。勝手なことをするな」と叱られた。 そう言って貰えるのは有り難いことだ。 しかし、そう言って貰える間に区切りをつけた方が良いと私は思う。 実は、明日発売になるスピリッツ誌に掲載される区切りの原稿は、3月の初めに書いた物だ。 3月の18日に手術が決まっていたから、それ以前に書き上げようと必死になって仕上げたのだ。 手術の後は非常に辛く、原稿など書ける状況ではなかったから、その選択は正しかった。 だが、と言うことは、すでに2ヶ月以上漫画の原作を書いていないことになる。 この35年で初めてのことだ。 大きな忘れ物をしたようで、とても落ち着かない気持ちがする。 その漫画の原作を書く仕事がないから、この、ホームページを頻繁に更新することが出来るわけだ。 と言うと、このホームページは私の失業対策事業みたいなもんだな。 この続きは、また明日。
- 2008/05/10 - ワールド・ユース・デイ2008〈「雁屋哲の食卓」を開設しました。 まずは、「我が家の焼き鶏」 「山羊のチーズ」 「そば二種」の三つです。 お楽しみ頂ければ幸せです。〉 今年の7月15日にシドニーで、ワールド・ユース・デイ2008と言う催し物が開かれる。 これはカソリック教会の主催によるもので、若者たちがカソリックに対する信仰をより深め、祝い合う為の集いで、ローマ法王ベネディクト16世もオーストラリアに初めてやってくる。 この、催し物には世界中から少なくとも十二万五千人が集まるという事で、その数は2000年のシドニーオリンピックの時に訪れた外国人環境客の数を抜くと言われている。 国内からも大勢集って、全部で五十万人くらい集まるのではないかと噂されている。 1970年代に、今や伝説となっている野外ロックコンサートがアメリカのウッド・ストックで開かれたが、オーストラリアの人間は、今度のワールド・ユース・デイ2008は二十一世紀のウッド・ストックだなどと言っている。 なんでも、警備だけで大変な騒ぎになるらしい。 最近は人が集まると、テロが行われるという恐れがある。 しかも、カソリックという宗教組織の集まりとなると、カトリックに反感を持っている人々の中で、頭のねじの狂った人間にとっては絶好の狙い所となるだろう。今から、シドニー中が、ざわついているところがある。 ところで、このワールド・ユース・デイ2008に合わせて、私にとっては一寸不気味に感じる事が催されることになった。 1925年に24歳の若さで亡くなったイタリア人、ピエール・ジョルジオ・フラサッティの遺体が、シドニーに運ばれてきて、展示されるというのである。 ピエール・ジョルジオ・フラサッティは1901年にイタリアのチューリンの裕福な家庭に生まれた。子供の頃から、宗教に目覚めていて、各種のカソリック教会の活動に参加し、また、慈善に熱心で自分の持っている物やお金を貧しい人々に与え続けた。 ピエール・ジョルジオ・フラサッティが学生の時代のイタリアは、ファシストがのし上がってくる時代だったが、ピエール・ジョルジオ・フラサッティは、「慈善だけでは人は救えない。社会を変えなければ駄目だ」という信念を抱き、社会的な活動も始め、ファシスト政府に捕まって投獄されたりもした。 彼の父親は、地域の新聞社の社長で、後に駐ドイツイタリア大使になるくらい、地位も金力もあったから、父親の力に頼れば投獄などされずにすんだが、仲間と一緒に投獄される方をピエール・ジョルジオ・フラサッティは選んだという。 ピエール・ジョルジオ・フラサッティは二十五歳の時にポリオに罹って急死したが、死ぬ直前まで彼が面倒を見ていた貧しい人々に配る金のことをノートに記して姉に後を頼んだ。 ピエール・ジョルジオ・フラサッティは、貧しい人々に対する時は、彼が尊敬していたルネッサンス時代の牧師、ジロラーモの名前を使っていたので、ピエールの死後、彼に助けて貰っていた大勢の貧しい人々は、ピエールが本当は大変裕福な家の出であることを初めて知って驚いたという。 ピエール・ジョルジオ・フラサッティの貧しい人々に対する献身的な奉仕ぶりは並大抵のものではなく、彼の死後、彼の世話になった貧しい人々が、カソリック教会に、彼を聖者の列に加えるように要求した。 ローマ・カトリック教会では、中世以降、教えのために身を犠牲にした殉教者や、伝道に英雄的な徳行があった人物を審査して聖人に列している。 日本のキリシタン迫害のよって長崎で殉教した人々26人が、聖人に列せられた事は日本人にも良く知られているのではないだろうか。 しかし、聖人に列せられるのは簡単ではないらしい。様々な審査を経てのことであるようだ。長崎の26人が殉教したのが1596年、聖人に列せられたの1862年。その間、三百年近く経っている。 ピエール・ジョルジオ・フラサッティの場合、1932年に審査が始まり、1990年に、法王ジョン・ポール二世の時に、Blessed(神聖で、天福を与えられた者)、として認められた。 この、Blessedの次が、Saint(聖人)になる。 ピエール・ジョルジオ・フラサッティは聖人になる一歩手前まで来ているのである。 ピエール・ジョルジオ・フラサッティがここまで崇められるのは、生前の立派な行いによるだけではないようだ。 じつは、ピエール・ジョルジオ・フラサッティの遺体は83年後の今に至るまで、全然腐敗することがなく、生きていたときそのままなのだという。 親類の者によると、肌は生き生きとして完全である、と言う。 この、死んだ後の死体が腐らないと言うのが、キリスト教の宗派によっては意味があるものらしい。たしか、「カラマーゾフの兄弟」の中で長老が死んだ後、死臭がし始めてその長老の聖性が疑われると言うような個所があったような気がする。(大昔に読んだので記憶が定かではない) で、カトリック教徒として、これだけ立派な行いをした青年だから、神が祝福し給うて、その証として死体が腐らないで生きていた時のままである。従って、ピエール・ジョルジオ・フラサッティは聖人として扱われてしかるべきだ、と言うことらしい。 いずれにせよ、ピエール・ジョルジオ・フラサッティの遺体がイタリアからシドニーに運ばれてきて、聖マリイ聖堂で展示されることになった。 一体どんな形で展示するのだろう。 棺の蓋を閉めたままでは、ピエール・ジョルジオ・フラサッティの遺体は生きたときそのままである事を見せられず、有り難みがない。 すると、やはり蓋を開けて、八十年前に死んだ人間の身体を見せるのだろうか。 私はカトリックのことは何も分からないので、オーストラリア人のカトリック信者の一人に訊いてみたら、顔をしかめて、「自分は見に行かない」という。彼は、そんなことをするのは、カトリックの教えとは関係がないのではないか、と言う。 私はかつて、ソ連で、レーニンやスターリンの遺体を保存処理して、モスクワを訪ねてくる人々に展示している事を知って、レーニン・スターリン主義というのは、科学的な思想ではなく、愚劣な個人崇拝の宗教であると認識した。 私は無宗教だが、仏教の影響は受けているかも知れない。 仏教では一切は無であるという。 その考え方は非常にすっきりしていて受け入れやすい。 死んだ人間の身体は鄭重に葬るべきだが、それでお終いだろう。死んでただの物体に戻った遺体にそれ以上の意味はない。 それに、キリスト教の聖書、旧約聖書を読んでも、死んだ人間の身体に何か意味を見いだすような事は書かれていない。 私は、その、ピエール・ジョルジオ・フラサッティが大変に立派な青年だったのだと言うことについては異議がない。 しかし、その遺体を有り難がる、と言うことについては全く理解が行かない。 むしろ、遺体をその様に外国に持出して他人に見せるなどと言うことは、故人に対して失礼なことなのではないか、と思う。 私だったら、私の死後、私の身体を見も知らぬ大勢の人に見られるなんて厭だな。 それに、幾ら尊敬する人であってもその遺体を拝みたいとは思わない。 今度、ピエール・ジョルジオ・フラサッティの遺体をシドニーに運んで来ることを企画した人々は、ワールド・ユース・デイ2008で世界中から集まる若者に、ピエールの遺体を見せて、カトリックに対する信仰を深め、ピエールのような立派な行いをしようという気持ちを抱かせようと意図しているのだろう。 しかしねえ・・・・・・・ 私なんか蝋人形館だって気持ち悪くて入っていられないのだ。実際のミイラも見たが、その時も、たまらなく厭な気持ちがした。 ましてや、83年前に死んだのに生きて見えるような遺体をみるなんて、考えただけで寒気がする。 これが宗教という物なのだろうか。 私には宗教という物が全く分からない。 一つ解せないのだが、どうして、ピエール・ジョルジオ・フラサッティの遺体が腐らず、生きていた時のままだと言うことが分かったのだろう。しょっちゅう、墓を開き、棺を開いて見ていたのだろうか。 それなら、それで、また奇怪な感じがする。 とにかく、色々考えさせられたことでした。
- 2008/05/09 - ごめんなさい〈お詫び。「雁屋哲の食卓」の店開きは、明日に延長します。昨日、リハビリでこてんこてんに痛めつけられて、午後一杯、へたばっていて、コンピューターに向かう気力も失ってしまい、何も出来なかったのです。明日は必ず開きますので、ご勘弁下さい。 その代わり、「子育て記」に「長い前書き その6」を掲載しましたので、それにてお許しを〉 今日はシステムの具合が悪く、日記のアップロードが遅れました。 実は、数分前にようやくアップロードできたのですが、アップロードしてから、内容が、どうも気にいらなくなったので削除しました。 中国の胡錦涛主席の事を書いたんだけれど、読み直したら、どうも愉快な内容ではない。 自分で読んで不愉快な物は、他の人に読んで貰う価値はない。折角オーストラリアの情報なども取り入れて書いたのだが、削除することにしました。 そんなこんなで、今日の日記はなくもがな、と言う結果になりました。 ま、こんな日もあります、と言うことで、ごめんなさい。
- 2008/05/08 - 鮎の味 最近、魚釣りに行っていないことを思いだし、無性に行きたくなった。 私が好きなのは海釣りである。深山渓谷での渓流釣りも悪くないが、川釣りというのは向う岸が見えるのでつまらない。 向う岸が見えたんじゃ、何だか限られた空間でうごめいているだけの感じがして、気持ちがすかーっと晴れない。それに、川釣りでは釣れる魚の種類があらかじめ分かっている。 その点、海で釣りをすると、仲々向う岸は見えないし、魚の種類も一応狙いはつけはするが、実際にやってみないと何が釣れるか分からない(釣り名人ならそんなことはないんでしょうが、私は、五目釣りの哲ですからね。釣れる物なら何で釣ってやろうという、非常なる博愛精神に富んだ釣り師なんだ)。 もしかすると、鯨を釣ってしまうかも知れない、シーラカンスを釣ってしまうかも知れない、てな妄想を描けるところも海釣りの良いところだ。 それに、食べて美味しいのは、やはり海の魚に多いね。 と言うより、川の魚は種類が少ないので味の多様性がないと言うことか。 私は京都が好きで、東京以外の都市の中であれだけ頻繁に訪れたところはないのではないだろうか。毎年一二度は行かないと気がすまない。京都の食べ物は美味しい。 私の京都行きは食べ物狙いのところが大きい。 しかし、京都に三泊もして、あちこち料理を食べ歩くと、時にうんざりする。京料理は季節の味を大事にすると言うことは分かっている。しかし、アユの季節に行けば、どの料理屋に行ってもアユが出る。タケノコの季節に行けば、どこに行ってもタケノコばかり。 アユは確かに美味しい魚だが、三日続けて食べれば飽きる。 そこの所が海沿いの町に行くと違う。 富山、高知、青森、どこへ行っても、海の魚が出されるが、これが一つ一つ味が違うから、飽きることがない。 高知の、鰹のたたきにしても、料理する人によってまるで味が違う。 高知に取材に行って、取材中何度も鰹のたたきを続けざまに食べたが、その度に味が違うので楽しめた。 そこの所が、アユなどの川魚の弱いところではないか。 大分の日田市の三隈川沿いにある料理屋「春光園」では、三隈川で取れた最高のアユとスッポンを食べさせてくれるが、ここのアユ料理は美味しい。 単に塩焼きにするだけでなく、刺身にして、アユの塩辛であるところのウルカをまぶしたり、様々な工夫をする。 アユ自体が素晴らしいところに、その工夫が見事なので、飽きることがない。 はてよ、と言うと、京都の料理屋は研究が足りないのかな。どこへ行っても塩焼きばかりだもんな。 有名なところへ行けば行くほど、塩焼き一辺倒ですね。 その代わり、そのアユの穫れた川を自慢するね。 何々川のアユが日本で一番です、そのアユの真価を味わって頂くためには塩焼きが一番です、と言うことになる。 これが面白いねえ。人によって、どこのアユが美味しいか、言う事がまるで違う。お国自慢も入るから、一体誰の言うことを信じていいのか分からない。 随分前だが、佐藤垢石という変わった人物がいた。 もともと、報知新聞にいたが、その頃から酒を飲んでは出鱈目なことをして、何度も首になるのだが、首になっても平気で出社してきて元の自分の席を占領してしまって、他の人間を寄せ付けず、結局そのままずるずると居座ることを続けたりした強者で、会社を辞めたときの退職金を、数日で、料理屋で芸者を上げてどんちゃん騒ぎをしてスッカラカンに使い切ったと言うから、われわれ肝っ玉の小さい人間はただひれ伏すばかりである。 その佐藤垢石は釣りの名人、中でも、アユ釣りの名人として知られていて、日本中あちこちの川でアユ釣りをしている。 自分で釣って試してみた結果、どこの川のアユが美味しいかなどと書いている。 佐藤垢石は先にも書いたように放蕩無頼な感じを受けるが、昔の人は、現在の我々とはその教養の深さがまるで違う。漢籍も読みこなし、古今東西の歴史にも通じていなければ書けないと思われる文章を沢山残している。 後年「釣り人」という雑誌を興して、余計に釣りの神様みたいに祭り上げられたが、佐藤垢石の随筆を読むと、その該博な知識と体験に感嘆する。 木下謙次郎の「美味礼賛」は日本でもかなり初期に出た食の本で、これが大当たりして三巻まで出たが、その第三巻は佐藤垢石の代筆らしい。 木下謙次郎は大分県選出の代議士でもあったから、忙しくて佐藤垢石に代筆させたのかも知れない。 木下謙次郎もまた大変な人で、その「美味礼賛」は教養の固まりと言うべき本である。昔の日本人の教養の基礎は漢文にあったことが良く分かる。私など、返り点レ点が有っても漢文を読むのは苦労するが、木下謙次郎の本には返り点もレ点もつかない、漢文そのまま(いわゆる白文)が書かれていて、こうなると私には手も足も出ない。その木下謙次郎が代筆を任せたことから、佐藤垢石がどれほどの教養の持ち主であったかが分かる。この本は当時のベストセラーになった。昔の人はこんな本を自由に読んだのかと思うと、昔の人と我々との教養の差に、愕然となる。 私から見ると、今の二十代の人間はまるで教養がない。こうして、年々人間は劣化していくのだろう。 いや、アユの話だが、佐藤垢石の経験によれば、「水成岩の古生層の地帯を水源地方に持つ川に育った鮎が、最も肉も豊かに香風も高いようである。それに次ぐのが、火成岩の岩塊が河床に転積している川がよろしい。味と香りの最も劣るのは、火山岩や火山灰に埋まった川の鮎である」と「狸のへそ」という随筆集に書いてある。 さらに、「鮎は大体に於いて暖国の魚であるだけに、西国の方が味に富み、東北地方から北海道へ行くと姿も味も劣ってくるようである。しかし、これも川の岩の成り立ちによって、風味を異にし一様であるとは言えない」と言っている。 鮎の味が川の岩の成り立ちで変わって来るというのは、佐藤垢石ならではの洞察である。 私は自分で詳しく調べたわけではないから、佐藤垢石の説が正しいかどうか言う事は出来ない。 しかし、佐藤垢石の鮎に対する深い思い入れが分かる。 京都の料理屋も、それぞれに、自分の仕入れた鮎に対する思い入れがあるのだろう。だから、一番味の分かる塩焼きにして食べさせたいのであって、私のような味の分からぬ人間が、「また鮎か」などと言うのはおこがましすぎるという物だろう。 いや、釣りの話だった。 シドニーにも釣り好きの人間は沢山いて、大抵の町にはつり道具屋があって、生きた餌を置いてあるところも少なくない。 釣り道具屋に置いてある釣り竿、リールの類の殆どは日本製である。 かつて、リールはアメリカ製、スエーデン製が一番と言われていた物だが、今は日本の釣り具会社のリールが一番信頼性が高く人気がある。 明日は釣りに行くぞ、と張り切って釣り道具屋に入っていくときほど心が高鳴るときはない。 釣り道具屋も心得ていて、あの辺は今良く釣れるよ、などと煽る。 煽られた挙げ句、 よし、魚屋を開けるくらい釣ってくるからな、と余計に様々な釣具や餌を買うことになる。 で、釣果ですが、二十年前は大きい鯛が厭になるほど入れ食い状態で釣れた物だが、いまはシドニー近辺も釣れなくなった。環境破壊がここでも進んでいるのだろう。 それでも、一寸大きいボートを仕立てて湾の外に出るとまだまだ、大物がかかる。 一度、私の友人が釣ったカンパチは、これまで食べたカンパチの中で最高の味だった。 う、う、う、そんなことを考えていると血が騒ぐ。 早く釣りに行きたい。そのためにも、リハビリだ。 さあ、今日もリハビリに行って、悲鳴を上げてくるぞ。 「雁屋哲の食卓」は明日から、開きます。
- 2008/05/07 - 「こしあぶら」とは、 昨日の検診の結果は、順調に回復していて、膝は七十度までしか曲がらないが今のところはそれで結構、と言うことになった。麻酔を打って無理矢理曲げる、なんてのは、脅しだったんだな。 あの、医者め。たちが悪いぜ。更にたちの悪さを見せつけるように、リハビリの担当者に、これからもっと厳しい訓練をするようにという手紙を書きやがった。 もっとも、これからがリハビリの正念場で、これから本当に悲鳴を上げつつ膝を曲げる訓練、筋肉をつける訓練、を重ねないと、いつまでたってもまともに歩けるようにならない。辛抱我慢、辛抱我慢、と自分に言い聞かせて、鬱へ落ち込む谷のへりに手でしがみついて、鬱の底へ転がり落ちるのを必死にこらえている。 一昨日、私たち小学校の同級生の掲示板に「いのさん」(掲示板上の通名)がお嬢さんの結婚した相手の実家から「こしあぶら」という山菜を送ってもらったと言う書き込みがあった。 天ぷらにしても何にしても美味しくて、あの「タラの芽」より希少価値のある山菜だとある。 私は山菜が好きで、地方に行くたびに色々な山菜を食べた。その中で、「タラの芽」は、大好物中の大好物。しかし、その「タラの芽」より希少価値のあると言われている「こしあぶら」なる物については、口惜しいが知らなかった。 昂奮して、もっと詳しくその「こしあぶら」について教えて欲しいと書き込んだら、本人と、また別の級友「定さん」(これも、掲示板上の通名)から、詳しい報告が来た。 我が、田園調布小学校1956年度卒業の六年二組の仲間には物知りや、知恵者が多いので助かる。 「いのさん」は子供の頃から絵の名人で、三年生くらいで、当時人気のあった樺島勝一ばりのペン画で戦艦大和や零戦の絵を細密に描いて見せて級友一同を驚かせた。(樺島勝一、だの、ペン画などと言っても、若い人には分からないでしょうね。分かる人だけ分かってください)卒業文集の表紙絵も、「いのさん」が描いた。 三つ子の魂百まで、あるいは、本当の才能は子供の頃から芽吹くというが、そのとおりで「いのさん」はデザイナーになり、いまは時々絵の個展を開く。 我々、六年二組は結束が固いから、「いのさん」の個展などと言うと、級友共が大挙して押しかける。 去年だったか、おととしだったかの展覧会の時に、会場の係りの人が、あまりの大勢の若者たち(我々のことですよ)が集ったので、驚いた、ということもあった。 私の寝室の本棚に、「いのさん」が描いてくれた「田園調布の宝来公園の入り口」の絵が置かれていて、私は毎日、朝晩、見て楽しんでいる。私が大学四年生まで、毎日家から田園調布の駅まで行くのに通った公園の入り口の絵だ。その絵を見ていると、子供の頃、その公園で過ごした楽しい日々の思い出が、次々に甦ってきて、懐かしく、そして少し悲しくなる。素晴らしい絵だ。そんな絵を描いて呉れるのも、小学校の同級生ならではのことだ。 グーグルで検索してみたら、「こしあぶら」の写真まで載っていた。栽培キットを売っているところもある。 なんと言うことだ。知らなかったのは私だけだったのか。 良くこんなことで「美味しんぼ」なんて食べ物の漫画を描いてきたもんだ。慚愧に堪えません。 写真を見ると、「こしあぶら」の芽の生え方も、「タラの芽」に似ている。 最近市場で売っているタラの芽は、殆ど栽培物で、たらの木の枝を何十本も畑に植えて、そこから出た芽をつんで市場に出す。 如何せん、栽培物は、天然物に比べて味も香りも薄い。 一度、ちょうど良い時期に長崎に行って、そこで野生のタラの芽をご馳走になったが、これは美味しかった。美味しいだけなく、体中が洗われたような、自分の血液がきれいになったような、壮快な気分がした。 ただ、タラの芽は、たらの木の枝のてっぺんについて、しかもそのたらの木の枝にトゲが生えているので、採取するのは手間が掛かる。 山に入ってタラの芽を集めるのは、大変な労働だ。 「こしあぶら」もこれは採取するのに手間が掛かりそうだ。 今年は間に合わないが、来年は必ず、この季節に日本へ行って、「こしあぶら」を堪能してくるぞ。 てなこと、を考えると、「美味しんぼ」の種は尽きないねえ。 「美味しんぼ」に「こしあぶら」の話を書けたら面白いな。 それにしてもねえ、日本の山は荒廃の一途で、おかげでマツタケが採れなくなり、北の将軍様から日本の政治家が拝領して喜ぶ、なんて悲喜劇が起こったりもする。 「こしあぶら」も「たらの芽」もこれからもずっと我々を楽しませてくれるように、我々は自然を守らないといけないな。 自然を守らなければいけないなんて、自分で言っておきながら、実に無責任なきれい事を言うもんだと、直ちに恥ずかしくなった。 先日入院したときに気がついたのだが、最近の医療器具は全部使い捨てなんだね。昔は、ピンセットや注射器など煮沸消毒して何度も使った物だが、今、注射器はもちろん、はさみなども一度使ったら捨てる。 傷口をふさぐのに、最近はガーゼなど当てない。薄いプラスティックのフィルムを傷口に張り付ける。その方が衛生的だし、傷の治りが早いという。 傷口に直接プラスティックのフィルムを貼るなんて、一寸乱暴すぎると思ったんだが、それは私の考えが古いようだ。 問題はその様なフィルムが大げさに包装されていることだ。それは衛生上、万全を考えてのことだろうが、じつに大げさな包装だ。それを破ってフィルムを取り出し、包装は無造作に捨てる。 傷口を消毒するのも、昔は、丸めた脱脂綿の球が瓶に詰まっているのを医者や看護婦がピンセットでつまんで、それで消毒した物だが、今は違う。アルコールと消毒薬のしみこんだ紙だが布だか分からないものが二つ折りになって、ひとずつ内部に薄い金属膜を貼った袋に収まっている。その袋を破いて、消毒用の布だか紙だか分からないものを取りだして消毒して、その全てを捨てる。 一事が万事この通りで、私一人のために使った、医療器具、医療器材は膨大な量に上る。 その全てがリサイクルの効かない化学製品である。 これだけ大量に使った医療器具、医療器材は、どこに行くか。 それを考えると暗然となる。燃やすにしても、どこかに捨てるにしても、結局は環境破壊につながる。 だからと言って、私は自分の膝の治療を、ご遠慮するという気持ちにはなれない。 こんな具合に、自分一人を例に取ってみても分かるが、人間は生きるだけで環境を破壊せざるを得ないのだ。 朝から晩まで自分の食べたり飲んだりする物、その排泄物、使った電力、消費する紙類(新聞、雑誌、原稿用紙、ファクスの紙、トイレットペーパー、など、今の生活を維持するのに欠かせないもの) 利用する交通機関。 そんなことを、一つ一つ考えると、我々の生活は必然的に環境破壊につながっていることが分かる。 だから、本当に環境を守りたかったら、これ以上の生活の便利さと安楽さを求めるだけでは足りない。いま昭和三十年代を懐かしがる映画「ALWAYS三丁目の夕陽」が人気があるが、環境を守りたかったら生活の水準を、あの昭和の三十年代まで戻すことだ。 それが、あなたには出来ますか。私には出来ない。多分、全員が出来ない。 後進国の人間は、先進国並みの便利さを手に入れようと必死になっている。現実に、後進国がどんどん先進国並みの消費を重ねるようになっている。 かれらに、環境破壊になるから、おれ達みたいな便利な生活をしちゃいけない、なんて言えますか。言えないよなあ。 だから、アル・ゴアが幾ら不都合な真実などと言っても、地球温暖化が収まるわけもなく、マツタケの収穫量が増えるわけもなく、その内、「こしあぶら」も「たらの芽」も危なくなるに決まっている。 何とかしなければならないとは分かっていても、自分を含めて、では具体的にどうするか、その答えを出すのは難しいし、答えが出たところでその答えの通りに生活を変えるのはもっと難しいだろう。 石油と石炭が無くなるまで待つしかないのか。 どうも、悲観的だが、自分の生き方を考えても、省エネなどしても気休めだと言うことが分かるから、思い切り悲観的にならざるを得ない。 あ、あ、美味しい山菜の話から、どうしてこんな暗い話になるんだ。 今度は、もっと、明るい話をしますからね。 「雁屋哲の食卓」は明後日、開きます。
- 2008/05/06 - 90度曲がるか〈「美味しんぼ塾」に「牛肉の旨さ その2」を掲載しました〉 今日はこれから、医者の診察を受けに行くので、日記は休みです。 二週間前に、医者は「今度までに膝が九十度以上曲がらなかったら、麻酔をかけて一晩眠らせてその間に無理やり曲げてしまう」と私を、脅かしやがった。リハビリで私を担当している、フィジオテラピストにそのことを言ったら、「そんなことはあり得ない。あと二ヶ月は無理よ。それは、医者の単なる脅かしよ」と言ったが、この医者は乱暴者だから、ほんとうに、麻酔をかけて無理矢理曲げ兼ねない。 はたして、今日の診察の結果はどうなりますことやら。おおむね、七十度近く曲がるようになっているので、これで今日の所は良し、としてくれるといいんだけれどね。どうしても九十度以上と言われたら、困るなあ。 「美味しんぼ塾」に「牛肉の旨み その2」を掲載しましたので、それで今日の所は、ご勘弁。
- 2008/05/05 - こどもの日日本は、今日はこどもの日か。 こどもの日というと、鯉のぼり、武者人形、柏餅だ。 懐かしいなあ。 子供の頃、柏餅が大好きだった。今でも大好きだが、昔は今のようにあれこれと贅沢なお菓子がふんだんにあるわけではなかったから、年に一度の柏餅が、黄金の価値を持っていたな。 しかし、その内に、味噌餡入りの柏餅を食べさせられたことがあってその時は本当に驚いた。 それも、白味噌ではなく、味噌汁に使うような茶色っぽい味噌だったと思う。それに甘い味付けがしてあり、奇妙な味わいだった。 柏の葉の裏面を表にして包んであれば小豆餡、表の面を表にしてあれば味噌餡と言うことを後に知った。 今は味噌餡は白味噌を使うんだろうな。 などと、曖昧なことを言うのは、実は味噌餡の柏餅は苦手で、敬遠しているからだ。 「美味しんぼ」なんて漫画を描いていると、どんな物でも、美味しい、美味しいと言って食べるのではないかと思われるかも知れないが、実は、これで仲々好き嫌いが多く、連れ合いを困らせている駄目男なのである。 また、体調が悪いとやたらと神経が過敏になって、食べ物の匂いや味に過度に鋭く反応する。 昨夜も、次女が夕食後柿をむいてくれたのだが、そこで一悶着起こった。大きな柿が二つあって、次女は一つの柿を八等分にした。そうすると、一つづつフォークで刺して食べるのにちょうど良い大きさになる。(今シドニーは秋。柿が美味しい季節なんですよ) 私が自分でフォークで刺して取ろうとすると、次女が「ちょっと待って」と言って、私のフォークを取り上げ、自分で柿を選んで私に渡してくれた。その柿を一口囓った途端、イヤな匂いが口中に広がった。「わ、この柿はなんだ。ネギを切った包丁でむいたな」と思わず私が大声を出すと、次女は「しまった」と言う。 実は、一つめの柿をむきだして、その包丁は先ほどネギを切るのに使った物だと気がついて、二個目から新しい包丁で切った。 だから、私に柿を選ばせないで、臭いのしない方を次女は自分で選んだのだが、それが外れて臭いのする方に当たってしまったというわけだ。 しかし、体調が悪いと良いこともある。体調の良いときなら、そんな時には「ぐわわわーっ! そんな物全部捨ててしまえ!」などと喚くところだが、なんせリハビリ中の哀れな身でごぜえますですからなあ。「はあ〜、臭くないのを選んでくれよ」と弱々しく次女にお願い申し上げ、余計な波風を立てずにすんだのでごぜえますですよ。 物に好き嫌いがあるのは仕方がない。 しかし、私は世の人が美味しいという物は、殆ど全て自分も美味しいと思う。とは言うものの、多くの人が涙を流して美味しいと言って喜ぶ食べ物の中にも、実は私は嫌いで食べられないと言う物が少なからずある。 それは何かと言えば・・・・・ と、白状するわけにはいかない。「美味しんぼ」なんて物を書いている立場として、実はあれが嫌いだなんて言うわけには行かないんだ。 「あれが美味しい、好きだ」と言う言葉は、人を幸せにするが、「あれがまずい、嫌いだ」と言う言葉は人を不幸にする。 「美味しんぼ」と言う漫画の目的は、読者に幸福感を味わって頂く物だから、「まずい物、嫌いな物」についてなど書いたら面白くなくなってしまう。 あ、そうでもなかったな。不正な食品、料理の仕方を間違えた物、などについては、きついことも書いたな。 大手食品会社や、食品業界、とも幾つか揉めたことがある。 しかし、私は批判をするときには、常に十全の資料と、正しい知識を持って、正確な論理で、きっちりと筋道立てて攻めていくから、私が負けるわけがない。百戦百勝、さあ、誰でも掛かって来なさい、という経歴がある。常に私が正しいのである。 しかし、敵は広告を雑誌やテレビに出すスポンサーとしての力を振り回すから、「美味しんぼ」を連載している「ビッグ・コミック・スピリッツ」の発行元の小学館には随分迷惑をかけてしまった。 私も時には、せりふの調子を落としたりして、相手を余り刺激しないように気を使ったこともある。 私の敬愛する作家、城山三郎さんは、去年亡くなってしまわれたが、城山さんは日本銀行についての小説を雑誌に連載している最中に、日銀関係からの強烈な圧力を受け、結局、削って削って、作品になったのは書いた物の三分の一になったと、語っておられる。 日本は言論の自由が守られた民主主義の国だなど思ったら大間違い。 権力、金力を持った人間が日本の言論を支配しているのである。 こどもの日と言えば、「柱の傷はおととしの、五月五日の背比べ。ちまき食べ食べ兄さんが、測ってくれた背の丈」という歌を思い出す。 鎌倉の実家の、以前私が使っていた部屋の入り口の壁に沢山の線が引かれ、年月日と名前が書いてある。 私は、甥や、姪などが遊びに来ると、連中を捕まえて壁の前に立たせて、本などを頭に載せて背の高さを測り鉛筆で印を付け、名前と年月日を書いたのである。 独立してからも実家に帰ったときに、甥や姪を捕まえて背の高さを測って印を付けた。私の子供たちも、連れて行って同じことをした。甥達も、私がいなくても、鎌倉に行くと、自分たちで計って名前と年月日を書き込むようになった。私自身のものも、連れ合いのものもある。 今になってみると、その壁面は、我が家の家族、親類の子供たちの成長の記録にもなっている。一人の子供が年ごとに成長していき、途中で背の伸びが止まっているのが分かったりして面白い。 去年、母が鎌倉の家の壁を塗り直すときに、壁のその部分だけは塗り直さずに取って置いてくれたので、今でも、無数の背丈の記録が残っている。1968年以来の記録だから、貴重である。 その壁は、私の親族に人気があって、鎌倉に来るとその壁の記録を見て、それぞれに楽しみ、感慨にふける。 親族で一番背の高い姉の次男が、自分の背丈の線の横に「俺を抜いたら殺す」などと、従兄たちを牽制しているのも面白い。 幸か不幸か、だれも、姉の次男の背丈を越せた者はいないようだ。 最近は厭な事件が立て続けに起こる。どこの家の子供も、幸せに成長していって貰いたいものである。
- 2008/05/04 - 日本の若者よ、頑張ってくれ 先月八日、文部科学省所管の財団法人・日本青少年研究所などが、日米中韓の4カ国を対象にした「高校生の消費に関する調査」の結果を発表した。 その中で、大いに気になることがあった。 それは、日本の高校生の、96.5パーセントが携帯電話を持っている。これは、四カ国の中で最高である。 一方、日本の高校生でパソコンを持っているのは、21.0パーセントで四カ国中最低。一位は、アメリカの高校生の60.7パーセントとなっている。 この結果を見て、私は日本のIT産業の未来は暗い、と思った。 携帯電話は、何も作り出さない。携帯電話の持つ機能は、コンピューターを使って作ったプログラムによって動かされている。コンピューターがなければ、携帯電話の様々な機能を作ることが出来ない。日本の高校生は、だれか頭の良い人が作ってくれた便利な機能を受け身で使っているだけである。 今でもIT部門で韓国は日本より進んでいる。二三年も経てば、日本の高校生は、韓国人、中国人の作ってくれた携帯の機能を有り難がって使うことになるだろう。このようなことをなんと言うか。日本の知的没落。外国に対する知的な隷属。知的二流・三流国家としての日本。韓・中の知的奴隷になる日本。幾らでも言葉は見つかる。端的に言えば、高校生がこれほど馬鹿なら、日本の未来はないと言うことだ。たかが、携帯とコンピューターの組み合わせだけで大げさなことを言うなだって。それなら、今の高校生の生活を見てみるがいい。 携帯を片時も離さず、メールを打ったり、携帯のインターネット・サイトで遊んでいる。完全に受け身で、携帯を作った側にいいように操られている。こう言う生活を続けていると、何か物を作り出すという機能が脳から失われていく。 私の家の隣に最近、奥さんがデンマーク人の一家が越して来た。旦那はオーストラリア人である。 その奥さんは三歳の時に産みの母を失ったと言うことで、その時から乳母に育てて貰った。私達が、となりの一家を昼食に招待したら、その乳母がちょうどデンマークから来ていると言うので参加した。 乳母は、十五歳の孫を連れてきていた。その少年は、とてもきれいな英語を話し、非常に聡明である。色々話していると、自分は将来IT技術者になるという。しかも、既にプログラムも組んでいるという。そこで私が、「C++」なんて知っているかい、と尋ねたら(「C++」というのは、コンピューターのプログラミング言語で、これくらい出来ないとコンピューター技術者にはなれない)、その少年は今自分はその言語でプログラムを組んでいる、と言う。 コンピューターのプログラミングは実は大して難しい物ではない。数学や物理のように、もの凄い頭の回転と、洞察力と過去の問題の解決法の山のような蓄積が要求されるものではない。 ただ、論理的に物事を追い込んでいく能力と、根気が要求される。 何も難しいことはない。コンピューターのプログラミング言語はコンピューターを動かし易いように考えられた物で、言語というくらいだから、人間の脳が理解しやすいように作られている。 ただ、面倒くさい。 考えてみれば、コンピューターは人の作った機械であり、それ自体が何一つ知恵を持っているわけではない、簡単なことをするのにも、いくつもの命令を重ねなければならない。うんざりする。 プログラムを書くこと自体、創造的な作業とは言えない。 しかし、どんなプログラムを作るか、どんな機能を持たせるか、そのプログラム全体でどんな仕事をさせるか、その基本設計をするのには大変に独創的な創造力が必要となる。 しかし、誰かが作ってくれたプログラム、携帯電話の機能を使っているだけでは、その様な創造力が生まれるわけがない。 実際に面倒くさいプログラムを組んでいる内に、はっと素晴らしい考えが閃いて、全く新しい機能を持つプログラムを考えつくことがある物だ。 そのデンマークの十五歳の少年は、今どんなプログラムを組んでいるのか聞き漏らしたが、この調子で進んで行けば成功間違いなしと言う感じの、勢いのあるすがすがしい少年だった。 日本のコンビニエンスストアの前で、地べたにぺったりと尻をつけて座っている、ひ弱で一切の知的な物を感じさせない、薄汚い若者たちと比べて、実に羨ましかった。 てなことを考えて、日本の将来について悲観的になっていたら、昨日、NHKワールド(NHKの海外放送)で、良い番組を見た。日本では過去に放送されているが、北海道で農業に取り組む青年の姿を描いた物である。農業高校を出た23歳の青年が、農業高校の恩師の協力を得て、農業実習生として、農業に取り組んでいる。去年は実習生として2年目で、独立して食べて行けるだけの収入を上げるのが目的だった。高級レストランに収めるために、プチトマトとピーマンに力を入れていた。高い値段で売ることを狙って無農薬有機栽培で取り組んだ。 ところが、途中でピーマンに虫が付き、どうしても農薬を使わざるを得なくなった。 そのために収穫の時期もおくれ、無農薬有機ではなくなったので、ピーマンの売上代金は予想の七分の一になってしまった。 大失敗である。しかし、青年は気力を失わない。 恩師もしょっちゅう眼をかけてくれて、励ましに来た恩師が作ってくれた具だくさんのみそ汁を二人で食べる所などもあった。 その青年の姿を見ていると、胸にじんと来た。実に溌剌として爽やかである。 天職を見つけ、その仕事に人生をかけて取り組んでいる若者の姿のなんと美しいことか。 また、その、農業高校の先生も素晴らしい人柄だ。 自分も農家出身で農業に就きたかったが、次男だったので農家を継げず教師になったと言う。その分思い入れがあって、自分の育てた生徒たちが、農業に進むのに様々な形で協力している。 この農業高校の先生、そしてピーマン作りに励む青年。 その二人を見ていたら、こう言う人達がいてくれる間はまだまだ日本は大丈夫だと心強く思った。 しかし、ここで問題なのは、その様な若い農業就業者に対する国や県の助成体制の不十分さである。 役にも立たないイージス艦や、米軍に対する思いやり予算、金満国家中国に対するODA、など愚劣なことに使っている金の百分の一でも、日本の農業をもり立てるために使えば、日本はずっと良くなるのだ。 私は、ピーマン作りの青年の姿に日本の未来をかけたいと思った。 そのために、我々は、出来るだけの協力をする必要があるとも思った。あの青年が、今年こそは、狙い通りの収入を上げることを心から祈っている。 「雁屋哲の食卓」は近日、公開の予定です。今しばらくお待ちを。
- 2008/05/03 - 蜘蛛とヤモリ〈「美味しんぼの日々」に「カレー」を掲載しました〉 今朝、寝台に横たわり、寝室の窓の方に目をやると、きらりと光る物が見えた。 破れた蜘蛛の巣の、一本の太い糸が斜めに垂れ下がっていて、その糸が朝日を受けてガラスの鋭い切り口のように光っているのだ。 その蜘蛛の巣は三週間ほど前に大きな女郎蜘蛛が、寝室の上のたひさしと、外の木の枝を利用して、器用に張り巡らした物である。私と連れ合いは、「こんな所に巣を張って、獲物が引っ掛かる物だろうか」と心配した。寝室の窓近くに、窓に平行になるように張ってあって、素人考えでこんな所は他の虫の通り道ではないように見えた。 途中、ひどい雨と風の日があったが、翌日、蜘蛛は破れた巣を一生懸命補修していた。 それを見ると、まだこの場所に居続けるつもりらしく、それなら成果も満更ではないのだろうと思った。 しかし、巣を良く見てみると掛かっているのは小さな羽虫ばかりで、とてもその大きな女郎蜘蛛の食慾を見たすものとは思えない。 女郎蜘蛛は日がな一日巣の真ん中でじっとして、獲物が掛かるのを待っている。その姿を見ていて、「おぬしも辛い人生よのう」と声をかけてやりたくなった。しかし、蜘蛛は人語を解さない。ましてやオーストラリアの蜘蛛だ、日本語を理解するはずがない。だから、声をかけるのはやめた。 その蜘蛛の巣が、今朝見れば、無惨に破れて窓の外のひさしの端から、垂れ下がっている。 その蜘蛛の巣が朝日を浴びてきらきら光っているのは美しいが、同時にひどくもの悲しい。 ここ数日、天気は良かったから、雨風で蜘蛛の巣が破れたとは思えない。あの女郎蜘蛛がこの巣を見捨てたのだろう。やはり、蜘蛛の巣は毎日補修を続けないと、たちまち無惨に破れ果ててしまうことが分かった。 心配なのは、あの女郎蜘蛛の身の上である。 もっと良い場所を見つけたから引っ越して、そこで上手く行っていれば良いが、虫の世界のことだから、もっと悲しい結末をたどってしまったのかも知れない。 大体、私の寝室の窓の外に巣を張ったこと自体、その女郎蜘蛛は余り賢いお方だとは思えなかった。 名前がいけないや。女郎蜘蛛だなんて。女郎の身の上と言えば厳しい物に決まっている。 ああ、あのお女郎さん元気で頑張っていて欲しいよ。 などと、破れた蜘蛛の巣を見て感傷的になるほど私の心は弱っているのかしら。己の老残の身を、破れ蜘蛛の巣に重ね合わせているのかしら。 冗談じゃないよな。 ただ、破れた蜘蛛の巣の糸が朝日を受けて光っているのが妙に美しく見えただけだ。 そうに決まっているとも。 小動物について言えば、私の家のガレージの中にヤモリが住んでいる。トカゲも時々姿を現す。 このヤモリという動物は大変に愛嬌のある顔をしていて、私は大好きである。 どうも、向こうも人間が好きと見えて、日本の家にもヤモリは沢山住んでいた。ヤモリは「家を守る」とも書くらしい。「家守」だ。 それほどまでに、ヤモリと人間の関係は深く、お互いに仲良く共存してきたようだ。 横須賀の家の書斎の窓ガラスの外に夜になるとヤモリが現れて、私の部屋の明かりにおびき寄せられて飛んで来る虫をぱくり、ぱくりと食べるのを見るのは楽しい物だった。 今の家のガレージに住み着いている数匹のヤモリだが、やはり人間が好きだから、あるいは居心地がよいから住んでいるのだろう。私達も格別の好意を払っている。 しかし、如何せん相手は身体が小さい。必ずしも我々の目に留まるとは限らない。 そこで何が起こるかというと、車が一台出て行った後に、車に轢かれて平べったくなったヤモリの無惨な姿を発見することになる。 これは辛い。 こちらに、そんなつもりはなかったし、ヤモリがいることが分かれば轢かないように気をつけたのだ。 これが、季節によって頻繁に起こることがある。 「また、轢いちゃったわ」と連れ合いは悲しげにつぶやきながら平べったくなったヤモリを始末する。どうも、その轢かれたヤモリを見ると、どれも小さい。ひょっとして、まだ世の中の危険も良く分からない子供のヤモリなのではないか。 そんなことを考えると、心が痛む。 許してくれい。轢くつもりはなかったんだ、と言っても死んだヤモリには分からない。 こう言う時には神様なんて物が本当にいたら便利だろうと思うね。神様に頼んで、ヤモリに悪く思わないでくれと伝言することが出来そうだから。 どうも、きょうは、蜘蛛だのヤモリだの、話が世捨人臭くなってきていけないね。 もっと、俗臭ふんぷんたる話を書きたいところだが、最近の私は自分自身世間様と交わることが殆どなく、テレビと、インターネットだけが世間との窓口という生活を続けていて、おかげさまで、俗っぽさが大変に抜けてきて、心が澄んできましたな。(ウソつけ) 心が澄むと、虫の世界などにも心が及んで、その分心が豊かになるんですよ。 あなたね、デイ・トレーダーや、ファンド・マネージャーなどと言う、朝から晩まで株の値動きばかりに集中する生活をしている人達を考えてご覧なさい。 幾ら金を儲ければ気がすむのか知れないが、私にはそう言う人達より、破れた巣の元の持ち主の女郎蜘蛛や、私の家のガレージでのんびり過ごしているヤモリたちの方が比較にならないほど美しく見えるんだけどな。 今日もとりとめのない無駄話で失礼様でした。(この、〜さま、と言う言い方。面白い言い方だね。ご苦労さま、おかげさま、お疲れさま、色々あります。しかし、失礼様と言うのはなかったかな。なければ、私の創作である。有ればあったで良し。って、何を威張っているんだか) 私の宿題、忘れないで考えてくれていますか。 パレスティナ問題は。我々にとっても重要な問題なんだ。考えてくださいね。 「雁屋哲の食卓」は鋭意準備中です。近日開きますので、お待ち下さい。
- 2008/05/02 - サイトの構成変更 突然ですが、このサイトの構成を変更します。 今までこの日記の中で食べ物の写真を載せ、その食べ物について短い文章を添えてきましたが、それが中途半端である、と感じました。 折角食べ物の写真を載せていながら、その食べ物についての説明が足りない、その食べ物について話すべきことを十分に話していない。 「美味しんぼ」の著者であるからには、もっと食べ物に力を入れた方が良い、という忠告も受けました。 そこで、きょうから、日記は文章だけを書く。 その代わり「雁屋哲の食卓」というページを新たに設けて、そこで食べ物についてあれこれ書き、写真も載せる、と言う形にします。 その方が、すっきりします。 「雁屋哲の食卓」の方は、準備に手間取るので、開設まで一寸お待ち頂きます。 そ んな訳で、衣替えしますので、よろしくお願いします。 で、ふと考えてみたら、この「雁屋哲の美味しんぼ日記」を始めて、もう一月経つ。 一月なんてあっという間だ。 と言うことは、退院してから一月以上経つことになる。 手術をしたのが3月18日だから、もう、一月半以上身動き取れない状態のままだ。 いろいろと、しなければならない事が山のようにあるのに、動けないから何も出来ない。 しかし、不思議な物で、六歳の時から長期の入院、自宅療養、に慣れているので、「私の人生はこんな物か」と、諦観が身に付いているらしく、じたばたすることもない。毎日本ばかり読んでいる。 しかし、この本を読んでばかりというのは、今の状況だから特別というわけではない。私は子供の頃から、本ばかり読んでいた。 活字中毒などと言う言葉もあるが、私は手洗いにまで本を持込むくらいで、以前逗子の家に住んでいた頃には手洗いに本棚を据えて連れ合いに呆れられたくらいだ。 手洗いに本を持込むと、本に夢中になって、何をしに手洗いに入ったのか分からなくなり、はっと我に返って、手洗いに入った目的を思い出していきんだりする。 手洗いに時間が掛かるから本を持込むのは止めなさい、と連れ合いに言われても、これが仲々やめられない。本を持たずに手洗いに入ると、不安で仕方がない。 私は良く外出間際になって、突然手洗いに行きたくなることがある。大変急いでいるからすぐにすまさなければならないのに、それでも本を持込むので、家族から顰蹙の声が上がる。 私は老眼になるのが早かった。五十を過ぎるとすぐに老眼になった。 最初は何が起こったのか分からない。妙にコンピューターの画面が見づらい。本を読むのにえらく疲れる。その内に、活字の一つ一つがぼやけているのに気づく。 それで眼科に行って、老眼だと言われて愕然とした。 老眼とは老人がなる物だと思っていた。すると、五十歳はすでに老人なのか。 最初はそれを認めたくなかったから眼鏡をかけようとしなかったが、どんどん本が読みづらくなり、ついに降参。 それ以来、あれこれと眼鏡を作り続けてきた。不愉快なことに老眼は歳を取るとどんどん進む。 最初に作った眼鏡が二年ほどで合わなくなる。 そんなこんなで、一体今までに幾つ眼鏡を作ってきたことか。 いまでも、デスクトップ・コンピューター用、ラップ・トップ・コンピューター用、読書用、長距離用、外出用の頑丈な物、さらに、書斎用、寝室用、食堂用、手洗い用、と自分でも幾つあるのか分からないほどあちこちに持っている。それほど持っているのに、肝心なときに、肝心の眼鏡が見つからないことがしょっちゅう起こる。 私は一日の内のかなりの時間を、眼鏡を探したり、電機の部品や文房具の小物を探したりして無駄にしている。 眼鏡を外すと其の場に起きっぱなしにしてしまい、次に使おうと思ったときに、どこに置いたか全然憶えていないからである。 そんな苦労をするのも、読書のためだ。 読書なんかやめてしまえば眼鏡もいらない快適な生活が出来るだろう。現に一切読書をしないという人を知っている。八十をとっくに過ぎているが、子供の頃から読書は嫌いだったと言うから年季が入っている。それでも、立派な人生を送って来たのである。本なんて人生に必要はないという良い見本だ。 私も見習うべきだ。 ましてや、自分であれこれ書いて人様に読んでいただこうなんてことは、人様の老眼を早める犯罪的行為なのではないか。 私の家が散らかっているのは、家中のあちこちに本が山積になっているからだ。それに、レコードと、CDと、DVD、それにいくつものコンピューター、電気機器が重なる。私の家の乱雑さは救いがない。 家をきれいに片付けるこつは、とにかく捨てることだそうである。 私みたいに、何もかも捨てられない貧乏性では、家が散らかるばかりだ。 思い切って、この家中に積み重なっている本を全部捨てたらさぞかし気持ちがいいだろうなあ、と思う。 大体、十年以上読んでいない本は必要がない物と認めて捨てるべきなんだ。捨てよう捨てよう。 なんて言っておきながら、今回みたいに動けない日々が続くと、十年以上読んでいなかった本を本棚から引きずり出してきて読んで、「ああ、なんて良い本を俺は持っていたんだろう」と感激することになるから、うっかり本は捨てられないのだ。 これでは、早めに老眼になるのも仕方がない。 あ、てなことを、とりとめなく書いている内に、またリハビリに行く時間になってしまった。 やれ、やれ、日常生活早期復帰を目指して、今日もリハビリで悲鳴を上げてきます。 私は自分を聖人君子とは言わないが、それほど悪いことをして来たつもりはないのに、どうしてこんな辛い目に遭うんだろうなあ。 リハビリに行く前に、リハビリの痛みに備えて痛み止めを二種類飲むんです。 一つは、普通にそこらの薬局で売られていて、オーストラリア人には一番馴染みの深い痛み止め、もう一つは、医師の処方箋がないと買えない痛み止め。これには、モルヒネ系の薬が入っていて、悪用する人間もいるという。沢山飲むと、アヘン、ヘロイン、などを服用したような感じを得られるらしい。 私が取るくらいの分量ではそんなことは起こらない。ただ、便秘になりやすい。そういえば、昔、神経性の下痢で、どうにもこうにも止まらなかったときに医者が「アヘンチンキ」を呉れた。これは効いた。さしものしつこい下痢も止まった。 その時に考えましたね。すると、ヘロイン中毒の連中はみんな便秘に苦しんでいるんだな、と。 私の今飲んでいるくらいの薬の分量でも、便秘になって、苦しい時がある。 その一つを取ってみても、私は絶対、ドラッグなんかに近づきたくないね。 私がこの間入院していた病院の近くには、怪しげな店の建ち並ぶ繁華街があり、薬の密売人もうろうろしているという。そのせいで、救急病棟には麻薬中毒患者が頻繁に担ぎ込まれるので有名だ。私も一度、救急病棟の入り口で、やつれ果てた若者が膝を抱え込み、うなだれて座り込んでいるのを見たことがある。その髪の毛はいつ洗ったか分からないほど汚れてよじくれている。シャツもズボンも、タールに漬け込んだみたいだ。足は裸足で、爪が伸びて、爪の間は真っ黒の泥のような物が詰まっている。顔色は土気色。 正に、生きたしかばね。典型的な、薬中である。 本当に、ドラッグは恐ろしい。 といいながら、その痛み止めを飲む。 さあ、勇気凛々リハビリに行ってくるぞ。
- 2008/05/01 - 北京の屋台 ひゃああ、もう、五月になっちゃった! 光陰矢の如しと言うが、正に、Time flies!(英語で言っても日本語で言っても、この恐ろしさは変わらないね) もうじき六月で、うかうかすると七月八月が過ぎて、あっという間に九月十月十一月と飛びさって、気がつくと十二月で、では良いお年を、なんて言うことになる。本当にもうそろそろお正月ですよ。年賀状の準備は出来ましたか。(って、それは早すぎるか) ああ、例年と少しも変わるところがない。 変わるところと言えば、確実に老衰が進行していくことだ。 今朝も鏡を見て驚きましたね。鏡の中に、見たこともない老人がいやがるんだ。で、私が右手を上げると、その老人も向かって右の手を上げやがる。にやっとしてみると、その老人も醜い笑いを浮かべやがる。あっかんべーをすると、その老人もあっかんべーをする。 右手で鼻をいじるとその老人も、向かって右の手で鼻をいじりやがる。目をつぶると、その老人は見えなくなる。目を開くと、またいやがる。 ああ、こんちきしょう! その、醜い汚い老人は、私自身に他ならないんだ。認めたくない真実。アル・ゴア風に言えば、「不都合な真実」だよ。 (もっともねえ、大変な美男子が、歳を取って昔の美しさを失ってしまったな、と嘆くのは分かるけれど、私みたいに若いときから醜男だった人間が、歳を取って醜くなったと嘆いても、他の人間から見れば、別に変わらないよ、同じじゃん、と言うことになるんでしょうね。ああ、くやしい) 「不都合な真実」と言えば、中国政府の今の心境だろうね。 オリンピックで中国の国威発揚を計るところが、逆に、チベット問題が起こって世界中に、反中国感情を植え付けてしまった。 一番まずかったのが、あの聖火リレーだね。 青い服を着た屈強の男たちに聖火の周りを走らせ、聖火の妨害を防ぐと言うのだが、あれは、他国の国家主権を侵す物だろう。 治安維持に係わるのはその国の警察であって、なんでもって、中国の人間が外国の治安取締をしていいってえんだよ。 中国の警察は世界の警察だというのか。 あの連中凄かったね、オーストラリアでも、警官が青服の男たちが聖火に近寄らないように必死に押さえようとするんだが、大男揃いで有名なオーストラリアの警官より、青服の中国人の方がでかいんだから驚いた。あの連中は中国全土から選ばれた特に優秀な警官と軍人だと言うことだ。日本では、あの青服隊の連中について曖昧な呼び方をしているが、英語圏の国々では、Paramilitary(準軍事的組織の一員)とはっきり書いているよ。彼らは軍人なんだ。 また、その表情が、固くこわばっていて人間らしさが一切無い。 良く訓練された警察犬に、「この品を守れ」と命令すると、他の物に眼を呉れず、その品に全ての注意を注ぎ続け、そばに近寄る人間には猛然と牙をむく。 中国のあの青服隊の人間達には、その様な印象を受けましたね。 あれは、とても中国の印象を壊した。中国は怖い国だとあれを見た人間はみんな感じただろう。 更に凄かったのが、韓国での中国人たちだ。 在韓中国大使館から支給されたという中国の国旗を掲げた中国人の大群衆がソウルの街を埋め尽くす。 そして「中国、加油」をわめく。「加油」とは頑張れという意味なんだそうだ。油を加えると確かに火は余計に燃えますな。漢字の本家の人間の漢字の使い方には学ぶべきことがあるね。 その、中国人の大群衆が、韓国の警察の制止に従わず、チベット問題に抗議する人間、中国が北朝鮮から逃げて来た人間を北朝鮮に送り返すことに抗議する人間、を見つけると、人津波を起こしたようにどーっと押しかけていって、旗の棒を投込んだり、ペットボトルを投込んだり、石を投げ込んだり、更には殴る蹴るの乱暴狼藉。それが、全てテレビの画像に収められているからたまらない。 どうして中国人は他国の首都で、このような傍若無人の振る舞いを平気でするのか。 昔、朝鮮は中国の冊封(さくほう、中国の王朝が、周辺の諸民族の国王に称号を与えること)を受け、中国の属国となっていた。それで、今でも中国人は韓国・朝鮮を自分の属国同然に考え、あのような国際的な礼儀を欠いた無法を働いたのだろうか。 とにかく、あのソウルでの中国人たちの乱暴狼藉はただ事ではなかった。 この、聖火リレーで世界中に、中国人は恐ろしいという印象を深く植え付けてしまった。それだけでなく、いったいそこまで中国人が感情的になるチベット問題って何なんだろうと、それまでチベット問題について知らなかった人間までも、インターネットなどで、調べると、あっという間にチベットでの中国の残虐無比な行状が目の前に広がることになる。 中国政府は、この聖火リレーで大失敗を犯したと思う。 私だったら、まず、パリあたり聖火リレーの妨害が予想されるところに、中国国旗ではなく、オリンピックの旗を持った中国人を大勢配置する。そこで、聖火リレー妨害が起こったら、中国人たちは、それに対する行動は一切取らず、世界中のメディアが集っている前でさめざめと泣いて見せて、「私達は、平和にオリンピックを開催したいと言っているのに」とかなんとか、るると訴えさせるのだ。 そうしたら、世界中の同情が中国に集まり、聖火リレーを妨害する奴らは平和スポーツの祭典を政治的に利用しようとする不純な人間、と言うことになり、中国の立場は大いに良くなったことだろう。 それが、各国で中国大使館の動員した中国人留学生たちは、オリンピックの旗など一本も持たず、中国の旗で周囲を埋め尽くし、オリンピックについては何も言わず、「中国加油」「チベットは中国の物」「中国は一つ」そんなことばかり叫び、少しでも中国に反対する人間に対しては肉体的な暴力を振るった。 日本の長野でも、中国人による随分ひどい暴力事件があったが、日本政府の方針で見て見ぬふりをするように警察官に通達が下されていたようで、警官の目の前で暴力を振るわれている日本人が警官に助けを求めても警官は知らん顔だったという報告がある。 何のことはない。中国は、わざわざ、世界中を回って中国に対する反感、批判を掻き立てたのである。 私が提案したようにしたら良かったのにねえ。 これで、オリンピックは上手く行くのかなあ。 オリンピック期間中一人でも外国人が中国人に危害を加えられたら、それで全てはおしまいだ。 日本のサッカーチームに見せたような態度を他の国に対しても見せたら、それだけでもお終いだ。 難しいことになってきたもんだ。 私なんか、北京に決まったときから北京オリンピックを楽しみにしていたのに、今の状態では、先行きが不安だ。 伊藤華英が金メダルを取るオリンピックだ。絶対に問題なく幸せなオリンピックにして貰いたい。 もともと、北京は雰囲気のあるいい町なんだ。 数年前、私が北京に行って、わざわざ探し回って食べた屋台の食べ物を紹介しよう。私は、北京の朝食は屋台が一番好き。 屋台のある町並みはこんな風です。 まず、焼餅から。鉄鍋で、細長い餅(小麦粉で、中味が入っている)を焼いている。 焼き上がり。 その中は、こんな具合。ネギ、肉などが入っている。ぱりっとして、しかも、汁がたっぷりで、たまらない。 次は、中国風クレープ。 クレープ台に生地を敷き、ひろげる。 以後の写真は、プラスティックの覆い越しなので不鮮明です。ご勘弁。 広げたら、卵の黄身を落として広げ、ネギやゴマなどを振りかけ さらに、たれを塗り、揚げた湯葉のような物を載せる。 この物が、看板にある緑豆と関係があるのかな。 おりたたむと、出来上がり その中味はこうなっています。 いや、この単純なクレープが、実に味わい深いのだ。香りが良くて、しっとりとして、旨みがふわっと口中に広がる。大したもんだ。これで屋台だからね。 と言うわけで、我が愛する北京でのオリンピックの成功を祈りたい。 写真はクリックすると大きくなります。
- 2008/04/30 - 甘い物 昨日のリハビリの際に確かめたら、右の膝は六十度まで曲がるようになっていた。大いなる進歩だ。もっとも、来週の火曜日までに九十度まで曲げられないと、麻酔を打って、一晩寝かせてその間に無理矢理九十度以上曲げるようにしてしまうと医者におどかされているので、私としても必死である。 ただ、どうも、水の中で運動するハイドロセラピーが苦手で、三十三度ほどしかない水温なのだがそれでも私には温かすぎる。湯当たりをしてしまうので、二十分以上入っていられない。その話をセラピストの若い男に話したら、彼も富士山の近くの温泉に行ったことがあるが、温泉の水温が四十二度で五分しか入っていられなかったという。私は、冗談じゃない、私なら三分もたないよ、と言って二人で笑った。 もう少し長時間、ハイドロセラピーが出来れば、リハビリの成果ももっと上がると思うのだが、こればかりは体質でどうすることも出来ない。 だから、良く、サウナなんか好きな人がいるけれど、あんなものは私にとっては地獄だ。一二度、友人に誘われて行ったことがあるが、もう、こりごりである。 それに、サウナに行くと、周り中裸の男ばかりなんだ。私は、男の裸を見るのが大嫌い。実に汚らしい。 自分も男であることを棚に上げてこんなことを言うのはおかしいが、男の裸ほど見て気持ちの悪いものはない。男風呂に男は私以外入ってはいけないという法律を作りたいな。女性は老若を問わず入って来てもよろしい。 昔の暴君だったら、こんな法律を作れたんだろうな。昔の暴君に生まれたかったよ。 さて、昨日から南風が吹き始めてシドニーはひどく寒くなった。 南風が吹いて寒い、なんて、北半球にお住まいの方にはいぶかしく思われるでしょうが、北半球から見て南は赤道だが、南半球から見て南は南極なんですよ。地図を見て下さい。オーストラリアの南には南極しかない。 それで、毎年大晦日に、シドニーの旅行会社が南極ツアーを催す。南極ツアーと言っても、飛行機に乗って、南極点まで行って、着陸もせずそのままシドニーに引き返してくると言う物である。全然無着陸の南極旅行である。それでも、南極ではかなり低空を飛んでくれるので、十分に南極の雰囲気を楽しめるという。面白いのが、途中で客席の右と左を交代するという仕組みである。こうすると、不公平無く全員が南極の光景をまんべんなく見られるというのだ。 しかし、考えてみると、もし一直線上を往復するとしたら、右側と左側と入れ替えることで、行きも帰りも同じ光景を見ることになるはずで、返ってこれは不公平だ。(図に書いてみると分かりやすいですよ) ま、この南極ツアー飛行の場合、一直線上を往復するのではなく、大きく周回するから、良いのかも知れない。それにしても、途中で右左を入れ替えるのが余り意味のあることだとは思えないね。 その南極からの南風が吹くと、オーストラリアも本格的な冬に入る。 昨夜の、深夜の気温は、4月ではこれまで観測史上最低の9℃。 ついに、寝室にオイルヒーターを入れました。 オーストラリアのシドニーのあるニューサウスウエールズ州と、メルボルンのあるビクトリア州の間にスノウウィ・マウンテン(雪の山だね、文字通り)というオーストラリアで珍しく雪が積もってスキーの出来るところがあるが、そのスノウウィ・マウンテンで、昨日は、10センチから15センチの積雪があった。この季節としては記録破りだそうだ。 どうも、おかしいねえ。地球温暖化なんて言っているのに、これはどうしたことだ。 温暖化、一転して寒冷化なんて事にならないだろうね。 私は、暑いのも寒いのも苦手なんだ。ちょうど良い気温が望ましい。 それからすると、シドニーはかなり快適な場所で、真冬でも、9℃くらいまでしか下がらない。氷点下に下がることは絶対にない。 真夏は、時に四十度を超えることがあるが、そんな熱さは三日と続かない。しかも、湿度がないからからっとしている。 日本の夏のように、気が狂いそうな蒸し暑さが一月以上も続くという事は無い。 2004年、私は、病床にある親友が気がかりでしょっちゅう日本に帰って来ていたが、その年の夏の東京の暑さには、心底応えた。 気象庁の発表する気温は、よほど環境の良いところで計測した物だろう。都心はビルが建ち並び、ヒート・アイランド現象が起こっているから、気象庁の発表する気温より四、五度は高いと思った。 私は暑がりだから、暑いところにいると精神がおかしくなる。機嫌も悪くなる。自分でもおかしいと思うのだがやたらと不愉快になって、人に対して乱暴なことを言ったり、無礼なことをしたりする。 ああ、ここで二三発誰かを殴ったらすっきりするんだが、と殴るきっかけを探して周りを見回したりする。 そうだ、その殴ると言うことについてだが、去年新橋の路上を、友人たちと歩いていたら我々の歩いている歩道の前方から凄い勢いで自転車が突っ込んできた。危ない、と思って私は体を交わした。その私の身体をすれすれに自転車は走っていく。私はかっとなって、「こら、待て」と叫んだ。どう言う訳かその男が止まったので近寄っていって、「なんと言う乱暴な走り方をするんだ。俺がよけなかったらぶつかっていた。危険じゃないか」と文句を言ったら、へなへなした若い兄ちゃんだったが、その男が言う事がすごい「それは、主観の相違でしょう。あんたが勝手に危ないと思っただけだ」と抜かしやがる。 私は、心が波立ってきましたね。 「これは、一発喰らわしてやらなければなるまい」と思った。 すると、その私の気配を察して、私の友人の一人がすっと、私とその若い兄ちゃんの間に身体を入れてきた。その友人は身体も大きく、強面で、その友人にらまれたら、大抵の男はびびる。 私の友人は場慣れしているから、静かに諭すようにその兄ちゃんの非を説いて聞かせる。それでも、いい加減なことを兄ちゃんが言うので、私が、詰め寄ろうとすると友人が身体で私をさえぎる。ついに私は兄ちゃんに、「お前、一体何歳なんだ」と年を聞いた。すると、奴は「二十八歳」と答えた。 それで、私は気が抜けた。二十八にまでなって、そんなことの善し悪しが分からないようなお粗末な奴を相手にしても仕方がない。 「もう少し、物事を考えて行きて行けよ」と言って、放してやった。 しかし、参ったのはその後だ。 私とそのアホの兄ちゃんの間に割って入った友人に「二度と、街中で喧嘩などしないでくれ。何かがあったらどうするつもりだ」とこんこんと意見をされた。三十年来の友人に説教されるとやはり応える。 私は、喧嘩に負けたことが無く、今でもいつでも喧嘩で負けないように鍛えているのだが、それが危ない。うっかり相手を殴って、相手が倒れた拍子に打ち所が悪くて頭でも打って死んだりしたら飛んでもないことになる。 それに、私は常に喧嘩に勝つことしか考えていないが、最近の若い連中は刃物など持ち歩く者もいる。そんな奴に出会ったら、えらい災難だ。 それにねえ、六十を過ぎて、まだ殴りっこなんて、格好悪いと思わなくちゃね。 私は深く反省して、その友人に二度と喧嘩はしないと誓約した。 それにしても、最近歩道を自転車に乗って凄い勢いで走る奴が大勢いる。以前にも私は、日本橋で危うく自転車にぶつけられそうになった。そのことがあったから、新橋で兄ちゃんを捕まえたんだ。やはり、あの時一、二発お見舞いしておけば良かったな(あ、全然反省していないじゃないか)。 いや、ま、こんなリハビリもままならない状態では、喧嘩どころじゃないよ。 喧嘩なんか、もっと脚の具合が良くなって、足元に自信がつくまでするのはよそう。(やっぱり、反省していない) ま、そんな訳で、リハビリに励んでいることをご報告いたします。 今日は喧嘩の話なんかで殺伐としてしまった。そんな時には甘い物を食べるのがよい。甘い物は、神経をなだめるからね。 私の横須賀の家の周りの住民はみんな親切で色々な貴重な物を恵んでくれる。有り難いのが、テングサだ。目の前の海で取った物を、雨ざらしにして干しておくと、最初赤かったのが黄色がかった白い色に変わる。それを煮て溶かして、かためると、寒天が出来る。 棒寒天の材料だが、リンゴ羹を作るのにも、棒寒天を使うのとテングサ自体を使って作るのとでは、鉛と黄金ほどの違いがある。香りが良く甘味があり、歯ごたえも違う。一度、テングサを使うともう、棒寒天など使う気にならない。粉末状の寒天など論外である。 そのテングサを使った我が家のリンゴ羹。リンゴをなるべく形のまま使ってある。これが私の大好物。 おなじ、テングサを使ったところてん。これに、黒蜜をかけて食べる。酸っぱいところてんも良いが、この黒蜜のところてんはすっきり・さっぱり・しゃっきり、実に幸せな感じを与えてくれます。 そして、これは、今や世界中で五本の指にはいるとまで言われるようになった、シドニーの誇る「テツヤ・レストラン」のアイスクリーム。イチジクの上に乗っています。 どんな状態かというと、こうなっています。 イチジクとバニラのアイスクリームの取り合わせは、たまりません。 これで少しは、心が穏やかになったかな。 写真はクリックすると大きくなります。
- 2008/04/29 - またもリハビリ〈「子育て記」に「長い前書き その5」を掲載しました〉 今日もこれからリハビリに行きます。 どうも、以前に入れ替えた人工の股関節の案配が悪く、膝のリハビリを開始したら、股関節に痛みを感じるようになってきてしまった。 膝も股関節も、と両方抱えたらもう駄目、お先真っ暗という感じ。 何とか活路を見いだしたいのだが。 そんな訳で、今日も日記はお休み。 宿題は考えておいてね。宿題の題がちょっと抽象的だったかも知れないので、改めてきちんと書こう。 「宿題」イスラエルとパレスティナの問題の根っこは何か。 どうすれば解決出来るか。 です。 この問題を考えるのに、まず第一に必要なのは、旧約聖書を読むこと。 全体を読む必要はない。創世記から、出エジプト記、くらいで十分。 その中に、今日のパレスティナ問題の根っこが隠れている。 「子育て記」長い前書き その5」を掲載したので、今日はそれでご勘弁。
- 2008/04/28 - ミラノのレストラン 連れ合いと私の会話 「霊魂だの、生まれ変わりだの信じている人は、単純な算数が出来ないんだな」 「どうして」 「だって、人が生まれて、死んで、そして生まれ変わるんじゃ、人は生の世界と死の世界を循環している訳だろう。それじゃ、人間の数は常に不変で増えることはない。ところが、地球上の人口は増える一方だ。計算が合わないじゃないか」 「あら、昆虫や、動物から人間に生まれ変わることだってあるのよ」 「え!昆虫や動物から人間に生まれ変わる!」 「魚や鳥からだって人間に生まれ変わるのよ」 「うは、それは考えなかったな」 「霊魂とか、生まれ変わりとか言う人達は、どうとでも言うわよ」 「それじゃ、最近、生息数が減って絶滅が危惧されている動物のことなんか心配する必要はないんだ」 「え?」 「彼らは絶滅しているんじゃなくて、みんな人間に生まれ変わっているんだ」 「は、はあ・・・・。それじゃ、今度は人口が減っても心配ない。その分、他の動物に生まれ変わっていると言う事ね」 「ヒンズー教じゃ、低い階級のカーストに生まれた人間は前世の行いが悪かったせいだと言うね。すると、おれが、こんなに脚のことで苦労するのは、俺は前世でよっぽど悪いことをしたと言うことなのかな」 「ヒンズー教的に考えるとね」 「誰かの脚を、ちょん切ったりしたのかしら」 「そうかも知れないわね」 どうも、私達夫婦は宗教心と言う物を全く持っていない罰当たりなので、そんな馬鹿な会話をしている。 私は、自分は宗教を信じないが、他人がどんな宗教を信じようと全く気にしない。ただし、その宗教を信じない人間に対して危害を加えたり、その宗教を信じるようにしつこく勧誘したり、信じることを強制したり、他人迷惑な言動をしない限りに於いてである。 色々な宗教があるが、神の前で全ての人間が平等ではない宗教はイヤだな。 生きている教祖様を祟める宗教もイヤだな。 また、生け贄を強要する宗教もイヤだ。 昔のメキシコの宗教は、毎日神に新鮮な人間の心臓を捧げなければならなかった。その心臓を取るための人間を確保する必要があるから、周りの部族に戦争を仕掛け、捕虜を捕まえて、神に捧げる心臓を補給したという。 冗談じゃないよ。麻酔もかけずに心臓手術をするんだろう。しかも、それは心臓を治療するためでなく、もぎ取るためだから、される方はたまらない。 その様な宗教は、他人迷惑だな。 オウム真理教なども、ひどいものだったが、オウム真理教どころじゃない無惨な仕業を繰り広げている巨大な宗教集団が世界には少なくとも、数個存在する。 そのどれもが政治勢力と密接につながっているから、まともに批判すると、批判する方は有無を言わさず簡単に殺されてしまう。 私は、深夜ひそかに鼻などほじりながら考えることがあるのだが、人間の歴史を振り返ってみて、宗教によって救われた人間の数と、宗教によって迫害されたり虐待されたり殺されたりした人間の数のどちらが多いのだろう。 ここで、私の考えついた答えを公表すると、数日後に私の生首が私の家の前に転がっている、なんてことになりかねないので、深くは言うまい。 宗教を信じている人にとってその宗教は自分の命なのだから、批判、すなわち自分の存在の否定と捉える。自分の全ての価値を否定する者は許しておけないと考えるのは当然の成行である。 イタリアのミラノで、あの有名な大聖堂、ドゥオモを見学したときには驚いたね。 正面に、巨大な青銅の扉が有るんだが、その扉にそれまでキリスト教徒が受けて来た殉教の歴史がレリーフとして、何百も描かれている。そのどれもが、凄惨きわまりない。キリスト教徒が異教徒に弾圧されて殺される場面が、無数に描かれている。 何だか人間の殺し方の百科辞典みたいだ。 感心したのは、流石に西洋だね。馬車などが普及していたのだろう。馬車の車輪を使って処刑する場面が幾つもあった。大男の処刑人が、車輪で受刑者の身体を砕くのである。 ミラノの大聖堂の前に立って、その大扉の残酷なレリーフの数々を見ると、何か知らないが、宗教という物の業の深さをしみじみと感じて、寒気がしてくる。 西洋の美術館に行くと、絵画の半分以上がキリスト教関連の宗教絵画で、聖人たちを描いた絵をうんざりするほど見せられる。 キリスト教徒ではない私にとって退屈きわまりない。 しかし、ある時、その聖画が実に残酷趣味に彩られていることに気がついて、西洋で美術館に行くたびに、あら探しのように残酷な絵を見つけて感に堪えるという趣味を身につけてしまった。 だいたい、聖人の受難の場面を描いた絵が多いのだが、三島由紀夫がえらく気にいったという、聖セバスチャンの殉教場面の絵は大抵の西洋の美術館なら二三枚はあるのではないか。 それだけ、聖セバスチャンの殉教はキリスト教徒にとっては意義のある物なのだろう。しかし、絵の中には、妙に写実的で残酷すぎて、こんな物を子供に見せて良いのだろうか、などと心配になる物もある。だって、至近距離から兵士たちが、縛られたセバスチャンの身体にばしばし矢を打ち込む場面なんて、見て気持ちの良い物ではない。血だってだらだら流れるし、セバスチャンは苦悶に顔を歪めているし。(もっとも、三島由紀夫はその裸の男が痛めつけられ血を流しているのを見て昂奮したと言うから、人の嗜好と言うものは分からない)キリスト教徒は、ああ言う物を見て、さらに信仰を深めるのだろう。 凄いのもあったな。「死の乙女」という処刑具の有るのを知っていますか。人間の身体をすっぽり包む形に出来た鎧のような物なのだが、内部に無数の鋭く長く太い針が生えている。その中に人を押し込んで閉じると、無数の針が人の身体を突き刺して、ひどい苦しみを与えながら死に導くという物だ。 私がミラノの美術館で見た絵の一つには、女性の殉教者が描かれていて、今にもその「死の乙女」の中に入れられようとしている。「死の乙女」の恐ろしい樣子が克明に描かれている。 そこに、天からラッパを吹きながら天使の軍団がその女性を救いに来る、と言う場面なのだ。 実際には、その女性は殺されてしまったのだろうが、その女性を悼む信者が、殺される寸前に天使の軍団が駆けつけたと言う絵を描かせたのだろう。いや、それは私の想像だ。本当に助かったのかも知れない。 もっと、むごいのもある。 昔の刑罰に、生きながら体中の皮を剥ぐ、と言うのがある。 私の見た絵では、男の殉教者を、数人の人間が取り囲んで、その皮を剥いでいるところが描かれていた。皮を剥ぐ方も剥がれる方も不思議に平穏な表情をしていて、それが余計に気持ちが悪かった。 あ、どうも、おかしな方に話が行くな。 キリスト教の悪口なんか言うつもりは毛頭無いんですからね。 何てったって、私自身十九歳までは、真剣にキリスト教を信じていたんだから。今になって思うと熱心だったな。夜寝る前にお祈りをするんだが、その時に、自分の知っている限りの人を思い浮かべて、その人が幸福でありますように、と祈るのだ。あの人のことを祈っておいて、この人のことを祈らない、という不公平なことは出来ない。私の知っている大勢の人間全員一人一人について祈るのだから、最低で毎晩四十分ほどはかかった。 それほど熱心なキリスト教信者だった私が、一夜にして、棄教者となった。遠藤周作は「沈黙」という小説を書いた。神に助けを求めても神は何も答えない。それが返って信仰を深める、と言う物らしい。旧約聖書のヨブ記のヨブと同じだ。 私は、げすな人間だから神の沈黙に絶えられなくなって棄教したのだ。それ以来、如何なる宗教にも、毛一筋ほどの興味も抱かない。 般若心経は仲々気にいっているが、あれは、宗教ではなく哲学だろう。現に、イスラム教の人間によると、仏教は人間が頭で考え出したから価値がないという。コーランのように唯一神アラーの言葉に導かれない物は価値がない物だそうだ。 いかん、いかん、今日は話がどんどんおかしな方に行くね。 こんな日は、早じまいにするのがいいだろう。 ミラノの大聖堂について余りよく言っていないので、お詫びにミラノで私の行った素晴らしいレストランと、その料理を幾つかご紹介しよう。 まず、このレストラン。詳しい場所はミラノのホテルに泊まってそのコンシェルジュにお尋ね下さい。大抵のホテルのコンシェルジュなら知っているはずだ。日本のガイドブックには載っていないが、実に素晴らしい。もてなしも味も最高で、実に満足した。 そこで食べたのが、まず、イタリアの生ハム、パンチェッタ。 舌の上でとろけましたね。香りも最高。やはり、美味しい生ハムを食べたかったらイタリアに行かなければ駄目だ。 そして、手長エビのパスタ。私は余りエビカニの類をパスタに合わせるのは好きではないのだが、この手長エビは旨かった。面倒くさいけれど、その面倒くささを補って余りある美味しさだった。パスタもしっかりアルデンテだったし。 そして、骨付きの仔牛のコトレッタ(カツレツ)。これが、柔らかくてジューシーでね。イタリアまで来て、カツレツもなかろうと思ったんだが、そこの給仕長のお爺さんが、顔をくしゃくしゃにした笑顔で是非にと勧めるので食べたら、本当に美味しかった。 あの給仕長の顔写真を写し損なったのが残念だ。 てなことで、少しは口直しをしていただけたでしょうか。 では、また。 あ、昨日の私の宿題、忘れないでね。 写真はクリックすると大きくなります。
- 2008/04/27 - 宿題〈「美味しんぼ塾」に「牛肉の旨さ その1」を掲載しました〉 今日は、朝から考え事をしていて、それが大変に込み入った事柄なので、頭を非常に使わなければならず、日記を書く余裕が無くなってしまった。 そこで、皆さんに、宿題を出しておいて、今日の所は、日記は、休みます。 「宿題」 どうして、イスラエルとパレスティナは争い続けるのか。 実は去年、友人に誘われて、イスラエルに行ったんだが、その時、イスラエル人がパレスティナ人に対して行っていることを見て、私は激しい衝撃を受けた。 私は今でもユダヤ人というのは、非常に優れた人々だと思っているし、その前年、ポーランドに行って、アウシュビッツの収容所を見学して、ユダヤ人に対して、それまで以上に、その過ごしてきた苦難の日々のむごさに深い思いを抱いた。それは、単なる同情心というのではなく、どうして、このような優れた人々がこのような無惨な目に遭わなければならなかったのかという、義憤の心だった。 それが、イスラエルに行って、私はどんでん返しを喰らった。 ユダヤ人を虐待した人々に対して抱いた義憤を、逆にイスラエルのユダヤ人に対して抱いてしまったのである。それから今日まで、何とかユダヤ人を理解しようと様々な本を読んだ。 その結果、ある程度の理解を得た。 そこで、皆さんにも考えていただきたいから、この宿題を出す。 宿題を考えるのには時間が必要だと思う。 皆さんの考えがある程度まとまった時期を見て、私の考えをご披露します。 今日は、「美味しんぼ塾」に「牛肉の旨さ その1」を掲載したから、それでご勘弁。 宿題はちゃんと考えておいてくださいよ。 パレスティナ問題は、他人事じゃない。我々日本人にとっても深く関わってくることなんだから。 んじゃね。
- 2008/04/26 - 「美味しんぼ日記」の仲間入り 私は大抵のことには驚く人間だが、これにもやはり驚いた。 何に驚いたかというとですね、この「美味しんぼ日記」を始めてしばらく経ってから弟から電話が掛かってきた。「あんちゃん、Googleで『美味しんぼ日記』を検索してみなよ」という。言われたとおり検索して見て仰天した。 なんと「美味しんぼ日記」というページが幾つもあるではないか。 同じ人のページが重複しているが、Googleで十頁にもなるほど、「美味しんぼ日記」がある。 「美味しんぼ」という言葉は私の作った言葉であり、私個人に属する物と考えていたので、他の人が自分のページに「美味しんぼ」という言葉を使うとは、夢にも考えなかった。 それで、驚いたのである。 驚くと同時に思いましたね。「しまった。いまさら『美味しんぼ日記』なんて始めたのは間違いだった。ページの名前を変えなければなるまい」 実は、最初このページは「雁屋哲書館」としようと、考えていたのだが、ある人から、「折角、『美味しんぼの雁屋哲』として知られているのだから、どこかに『美味しんぼ』を使った方が良い」と忠告されて、なるほど、それも確かだし、「書館」という言葉は固すぎるかな、と考えて、予定を変更して「美味しんぼ日記」とした経過がある。 しかし、現実に「美味しんぼ日記」というページが既にこれだけあるところに、今さら、のこのこ、しゃしゃり出てきても、もう遅すぎると悲観した。 とは言え、ここまで動いてしまった物をいまさら名前を変える訳には行かない。今ある「美味しんぼ日記」のページの仲間入りをさせて貰うしかない。 あ、勘違いしないでくださいね。「美味しんぼ日記」のページを開いている人達に、「美味しんぼ」は私のものだから使うな、なんて文句を言っているわけではありません。 その逆です。 最初、あの漫画を始めるときに、題名をどうするかで、私と編集部の間に色々あったんですよ。 私は面倒くさくなって、編集部で勝手に題名をつけてくれ、と言ったら、編集部の出してきた題名が凄かった。「味で勝負」「味キング」「食い倒れ王将」「旨いもん一直線」「食いまくり人生」など、などという題名が出て来た。流石に私も、これは駄目だ、と思って、自分で考えることにした。 そこで、「美味しいものを食べたがる食いしん坊」という意味で「美味しん坊」とした。すると、当時の編集者の一人が、「それより、美味しんぼ」のほうが、いいんじゃないですか、と言った。あ、それ、それ、と私はすぐに乗った。 最初は「美味しんぼ」なんておかしな前は読者に反発を買うのではないかと思っていたのだが、意外にすんなり受け入れられた。 私は、「美味しんぼ」を始めて一、二年経って「自由国民社」から、「究極のメニューの『究極』」で「新語大賞」をもらった。授賞式の席上で、「『究極』は昔からある言葉で新語ではない。新語大賞をくれるなら『美味しんぼ』でいただきたかった」と、図々しくも、賞を貰って置きながら文句を言った。すると、主催者側の責任者があわてて、「昔からある言葉でも長い間死語になっていた物を甦らせたら新語と認める」と言った。 その時も、「美味しんぼ」について、皆さん新しい言葉とか、違和感のある言葉とか、思わないのか、といぶかしく思った。 すると、その後、あちこちで「美味しんぼ」という看板を掲げた料理屋を見かけるようになった。 他の人からも、「美味しんぼ」という料理屋を見たが、あれはお前が経営しているのか、などと思いもよらぬことを聞かれることが何度か有った。 それで、私は、「へええ、みんな『美味しんぼ』と言う言葉に違和感を持つどころか、昔からある普通名詞のように思っているんだろうか」と思った。 そして、今回の、「美味しんぼ日記」である。 何人もの方が「美味しんぼ」という言葉を使ってくださったと言うことは、「美味しんぼ」が完全に一般名詞化した、あるいはそれだけ親しみを抱いていただいている、と言うことで、その言葉の産みの親の私としては非常に嬉しい。 自分の書いた漫画の題名が、これだけ、世間様に受け入れられているなんて、これは物書き冥利に尽きるという物。 実に、光栄で、有り難いことである。 中には、嫌らしい人間が居て、「美味しんぼ」が始まってしばらくして、ある人から「『美味しんぼ』が、色々な分野で商標登録されていますよ」と聞かされて、呆れたことがある。 なんでも、商標登録は誰でも早い者勝ちで出来るのだそうで、これから先「美味しんぼ」を使った商品を誰かが売り出そうと思ったら、商標権を持った人間にお金を払わなければならないのだという。 それは、当の私でも、「美味しんぼ」を使ったら商標権をその人間に払わなければならないのだという。もっとも、裁判に訴えれば著作権者として、その商標権は取り戻すことが出来るとも言われたが、「美味しんぼ」を使って商売などする気もないし、裁判なんて面倒くさいからそのままにしてあるが、金儲けをしようという魂胆で、人の漫画の題名を商標登録する奴の根性ってのは最低だね。 「美味しんぼ日記」のページを作っておられる方は、そんな卑しい人間ではない。単に「美味しんぼ」という言葉が好きだから使って下さったのだろう。 そこまで「美味しんぼ」という言葉を認めて貰って、私は本当に嬉しい。 願わくは、今さら、のこのこと、「美味しんぼ日記」などと言う看板を掲げて出て来た私ですが、どうか「美味しんぼ日記」の仲間に入れていただきたい。 今さら、遅いぞ、出て行け、などど邪険にしないで下さいね。 私も、私の「美味しんぼ日記」を面白くするために頑張りますので、皆さんも一緒に頑張りましょう。 考えてみれば、それぞれ人によって異なる「美味しんぼ日記」があるなんて、面白いよね。 最初は驚いたが、今は、とても幸せな気持ちがする。 できたら、それぞれの「美味しんぼ日記」の主催者の皆さんと懇親会を持ちたいな。 「美味しんぼ日記」のページをお持ちの皆さんに心からの連帯の挨拶をお送りします。 「美味しんぼ」どうしで大いに楽しみましょう。 と言うわけで、今回は「美味しんぼ日記」のページを作っておられる方たちに、仲間入りさせていただくご挨拶として、私が、昼に食べている、うどん、そばを幾つかご紹介しよう。何故、うどんやそばかですって? だって仲良くなるのには、気楽な物を食べた方がいいじゃない。 まずは、焼いた油揚げ、焼いたネギ、ちくわの薄切りを載せたうどん。出汁は、アジの焼き干し、昆布、鰹節、と言う最強の取り合わせ。美味しいのはいいんだが、美味しすぎてこの汁を残すのが辛い。全部飲むと塩分超過だと分かって居るんだが、 つづいて、甘辛く煮た油揚げ、ちくわ、自家栽培の紫蘇の細切り、自家製の梅漬け、エノキを酒と醤油で煮た物、すりごまを載せたうどん。出汁は、例の通り。梅と紫蘇がさっぱりした味を産み出して、つるつると、食べきってしまう。 次は、我が家自慢のわかめのメカブのとろとろそば。 横須賀の知人に貰うワカメのメカブをたたいてトロにしたのものと、焼いた油揚げを載せたそば。全部をかき混ぜて、一味唐辛子をかけて食べる。潮の香りの高いわかめのメカブのとろとろした感触、焼いた油揚げのぱりっとした食感、力強いそばの味、全部合わさって、体中の血液がきれいになる感じ。これは我が家の定番。以前、シドニーに遊びに来た、今は小学館の専務に昇進している人間に食べさせたら、いたく気にって、それから何度も、あのそばをもう一度食べたいといわれる。他にも美味しい物を沢山食べさせたのに。 そして、これが我が家名物の牛肉煮込みうどん。牛肉の薄切りを酒、醤油、ショウガで煮込んだ物を、エノキをやはり酒、醤油で煮た物と一緒に載せて、ネギの小口切りを散らす。 だしは、いつもの最強の出汁、それに牛肉の旨みが加わるから、もう、これは最高。麺は勿論有機小麦で作った麺 そんな訳ですので、「美味しんぼ日記」を書いておられる皆さん、よろしく仲間に入れてくださいね。 写真はクリックすると大きくなります。
- 2008/04/25 - 美輪明宏さんに捧げる、ロブスターのトリュフ料理 週刊朝日の4月18日号から三回にわたって連載された「美輪明宏『毒』演会」が、非常に良かった。 美輪明宏さんの、人物批評、世相分析など、ずばずばと正論一直線、向かうところ敵無しの気持ちよさ。 美輪明宏さんという人はよほど、人生を達観している人なのだろう。普通の人間だったら、怖いとか、遠慮するとか、躊躇するとか、妥協するとか、権力者におもねるとか、そのような卑怯な心の動きが出て来る物だが、美輪明宏さんのばあい、その様な汚らしい物が一切無い。 いや、汚らしいことを徹底的に嫌う人なのだ。 ひさびさに、まっとうな言葉の数々を読んで気持ちがすっきりした。 美輪明宏さんを初めてテレビで見たのは、私が中学生か高校生の頃だった。まだテレビはモノクロだったが、それでも、美輪明宏さんの美しさは、際だっていた。当時は、丸山明宏さんと言っていた。 まあ、その美しいこと。美貌はもとより、その体の美しいこと。 白いシャツ(シャツなんて無粋な言葉は適当ではないのかな)に脚にぴったりとした黒いパンツをはいて、背筋をまっすぐにして、鋭いきらきらした眼で周囲を睥睨して踊り、歌う。 私は、こんな美しい人間がこの世の中にいるのか、と感嘆した。 男女を超越した、全く美しい別世界の人間のように思えた。 その後、最初の「メケメケ」とはうって変わった「よいとまけの歌」を歌うようになり、ただ見た目に美しい人間と言うだけでなく、内面の美しさを表に出すようになった。 私はそれまでゲイという人間について全く知らなかったが、美輪明宏さんによって、ゲイの存在を知った。それはとても良いことだった。 おかげで、そこらのアホ男共が持っているゲイに対する偏見を持たずにすんだ。 もっともテレビなどでは、最近ゲイを売り物にする芸人が増えてきて、かなりの部分のそうした芸人が、汚い声で下品なことをおねえ言葉で喚き散らす。あれは不愉快だ。全く無内容きわまりない人間は、ゲイであろうとそうでなかろうと、やはり、愚劣なことしか言えない物である。それが日本の芸能界では、ゲイは治外法権と言うことになっているらしく、ゲイの芸能人が毒舌と称して他人を中傷して傷つける言葉をまき散らしても許されている。その手のゲイ芸能人は志もなく、この世にこびへつらって、演技として毒舌を振りまいているだけであって、自分自身の存在をかけて他人を正しく批判する勇気はない。 そこが、美輪明宏さんとの決定的な違いである。 大体、その様なゲイ芸能人がどれもこれもひどく不細工なのはどう言う訳か。ある時、美輪明宏さんがその様なゲイ芸能人に「あなたのようなブスのおかまには分からないだろうけれど、私のようなきれいなゲイには色々苦労があるのよ」と言ったときいて快哉を叫んだ。 良くぞ、言ってくれた。あのように厚かましく、騒ぐだけのゲイ芸能人にそんな鉄槌を下せるのは美輪明宏さんだけだ。 (あ、ピーターさんは別。ピーターさんは人の悪口を言わないし、相変わらず美しい。おまけに、私の横須賀の家のご近所にお住まいと聞いて、嬉しくなった) 私は、週刊朝日が、ぜひ、毎週一頁、美輪明宏さんに自由に語らせるページを作るべきだと思う。 私は週刊朝日をこの三十年以上定期購読している。朝日新聞も、AERAも、論座もだぞ。シドニーに来てまで、定期購読して居るんだぞ。 この古い読者が、週刊朝日を愛しているから言っているんだ。 美輪明宏さんのページを直ちに作りなさい。 いま、これだけの、洞察力に満ちた、正しいことを言う人は滅多にいない。他の週刊誌に取られないうちに(まてよ、もう取られているのかな。)それでもかまわない。週刊朝日には絶対に必要なページだ。 しかし、週刊朝日に美輪明宏さんを毎週出す勇気があるかな。 最近、週刊朝日は、右顧左眄が目立つからね。 ジャーナリストとしての、厳しさが薄れているよ。 美輪明宏さんのページを作ったら大いに讃めてやるぜ。 週刊朝日よ、どうするね。 そうだ、ついでに週刊朝日に文句を言おう。どうして「ロダンの心」を止めたんだ。 バンダナを首に巻いた可愛いラブラドールのロダン。 あのロダンの可愛さを、毎週待ちこがれていた我が家一同の気持ちをどうしてくれる。 私達家族だけではない、日本中のロダンファンが泣いている。 はやく、ただちに、「ロダンの心」を再開してください。 週刊朝日ついでに言うと、4月25日号に載った「福田首相が『胃ガン』を打ち明けた夜」という記事には驚いた。 驚いたのは、福田首相がガンだったと言うことではない。 あの年でガンの一つや二つあっても、特別なことではない。 驚いたのは、朝日、毎日、日経などの有名かつ有力記者、TBSなどの有名ニュースキャスターなどが、福田首相を囲んで豪華な夕食会を年に二三回持っていると言うことだ。その席上で、福田首相は何年か前に胃ガンの手術をした、と言ったのだ。 その日のレストランも、人気の高級レストランで、高級ワインもがぶがぶ飲んだという。 一体日本のジャーナリストの感覚はどうなっているのか。 人間というのは弱い生き物で、一緒に何度も食事をしたりすると、その人間に対してきついことを言えなくなる。 私自身、ある男のことをぼろくそに書きたいのだが、その様なことをすると私自身の品位をおとしめることになるし、それに一度か二度、その男と食事をしたことがあって、それが、私の肘を押さえるのである。(食べ物のお金は私は自分の分は自分で払いましたよ) ところが、各新聞を代表する大記者、テレビの有名キャスターなどが、首相と贅沢な宴を持つ。 情報を得るために会談を持つとか、頻繁に合うとか言うのは分かるが、こんな懇親会と言うより私的な宴会に何度も出席していいのか。 そりゃ、駄目だろう。 福田首相でもこんなことをしているからには、他の政治家も同じようなことをしているに違いない。 これで、日本のジャーナリストが、腰抜けであることが分かった。 政治家と、豪華フランス料理を食べ、豪華ワインを飲み、でろでろしている様な記者や、キャスターが、政治家をまともに批判できるわけがない。(会費は自分たちで払ったんだろうな) 読売の某渡辺という社主は(今の肩書きは知らない)政治部記者として自民党の政治家とつき合う内に、どっぷりと自民党の湯に浸かり、新聞記者なのか、政治家なのか分からないようになってしまった。 私は、今でも憶えているが、中曽根氏が首相になった夜、NTVの番組にその某渡辺という社主が出て来て、ある大学教授兼政治評論家と話をした。その中で、大学教授が中曽根新首相を批判すると、某渡辺という社主は、傲然と威嚇するように、馬鹿にするように、その教授に言った「あんたたちなんか、我々がテレビに出してやってるから食えるんじゃないか」 随分昔のことで、一つ一つの言葉は正確ではない。しかし、言った言葉の意味は、その通りの物だった。 言われた、教授は言い返す気力もなく、弱々しい笑いを浮かべて黙ってしまった。 私はこれが日本一の部数を誇る新聞社の社主の姿かと茫然となった。 あとで、色々な政治の裏幕物を読むと、この某渡辺という社主が様々な政治工作を自民党のためにしていたことが書かれているので、日本という国が本当に厭になった。 その某渡辺という社主は、「中曽根を首相にしたのは俺だ」と豪語しているとも聞いた。こんな連中に日本と言う国は支配されているのかと思うとしみじみ悲しい。 読売新聞の某渡辺という社主の言動以来、日本のジャーナリストは当てにならないと確信していたが、4月25日号の週刊朝日を読んであらためて日本のジャーナリストは屑だと痛感した。 週刊朝日の編集部としては、福田首相がガンだったという、スクープを物にしたと、悦に入っているだろうが、私は、おかげで、日本のジャーナリストを絶対に信用してはならないと言う教訓を得て、有り難かった。週刊朝日よ有り難う。しかし、きみたちも、その日本のジャーナリストの仲間。一つ穴のむじな、なのかな。 そうはならないように、頑張ってくださいね。 とりあえず、美輪明宏さんのページ創設と、「ロダンの心」の再開をぜひお願いしますね。 それだけで部数は十万は伸びます。請け合います。私の言う事は常に正しい。私の言う事を信じなさい。 あ、美輪明宏さんに、一つだけ。 私は霊魂とか、生まれ変わりとか言う話は、まるで理解できないんです。アレルギーがあると言っても良い。そこの所が、美輪明宏さんとは食い違うところです。 で、今日は、美輪明宏さんにご馳走するつもりで、我が家の特製、ロブスターのトリュフソース、をご紹介しよう。 こんな、ロブスターを使います。 それを熱湯で茹でる(おお、残酷)。我が家の庭の高温専用コンロの調理場なので、背景が汚いのはご勘弁。 ゆで上がるとこんなに真っ赤になる。 その尾の身を剥がす。 こんなにきれいに剥がれます。 それを、メダリオンに切っていく。 このような、ロブスターのメダリオンが出来る。 そのメダリオンを、バターで焼いて、マッシュルームとインゲンの上に乗せる。 その周りに、トリュフを刻んだ物をふんだんに入れたトリュフソースをかける。 その上に、薄く切ったトリュフをたっぷり載せて出来上がり、 ソースにもたっぷりトリュフが入っているし、新鮮なトリュフの薄切りを三枚も載せているから、そのトリュフの素晴らしい香りで、目眩がしそうに美味しい。私はトリュフ狂なので、トリュフの季節になると自制心を失ってトリュフを買い込んで色々とトリュフ料理を作る。 その内、別のトリュフ料理をご紹介しよう。 このページ、美輪明宏さんが見てくれたらなあ。 写真はクリックすると大きくなります。
- 2008/04/24 - 今日は失礼〈「美味しんぼの日々」に「どんぶり物」を掲載しました〉 急遽、リハビリに行かなければならないので、今日は日記はお休み。 その代わり、「美味しんぼの日々 どんぶり物」を掲載したのでご勘弁。 リハビリは痛いんだ。これから痛み止めを飲んで、ひいひい喚いてきます。 膝を無理矢理に曲げるんだからたまりません。 なんで、こんな目に遭わなければならないのか。 んじゃ。
- 2008/04/23 - 鰹のたたき 今の時代に、カール・マルクスが生きていたら、どんな「資本論」を書いただろう。 マルクスが生きていた十八世紀から十九世紀の社会の資本主義と、現在の資本主義は、基本的には同じでも、更に一層凶暴化した。 私は、今の社会を、「強盗資本主義」「追いはぎ資本主義」「ぶったくり資本主義」「凶悪資本主義」の横行する社会だと思う。 「資本主義は、資本家が労働者を搾取して、金を儲けるシステム」と言うのが、古典的で初歩的で単純な資本主義の理解であるが、それは今でもそのまま同じであるどころか、さらに資本を持つ側の強欲さ、凶暴さが、普通の人間の理解の範囲を超えて肥大・拡大して、正気の沙汰ではない状態になってしまっている。 2008年4月18日の朝日新聞の夕刊で、東京地検特捜部の元検事の、堀田力氏は「お金の魔力にとりつかれた人を諭すのは本当に骨が折れる」と言っておられる。ロッキード事件などの経済事件に係わった実感だそうだ。 どこまでお金をためれば気がすむの、こんなに金塊をもっていてどうするの、と容疑者らに言ったところで、効かないのだそうだ。 「『世の中金を持っていたほうが勝ちじゃないか』などと開き直られてしまう」と言う。 この二十年、政治家と官僚の愚かしさ故に日本の社会は世界的に没落を続けている。 そうすると、まともに働かず、博打同然の投資で金を稼ごうというハイエナのような根性の人間があちこちに輩出する。 ライブドアの堀江氏、村上ファンドの村上氏、などが一時社会をにぎわせたが、堀江氏、村上氏など、世界的に見れば、可愛い物で、世界には途方もないファンドマネージャーや、買い占めでどんどん自分の会社を大きくしていく人間がいる。 アメリカに投資関係の問題を扱うAlpha Magazineと言う雑誌があるが、2008年、4月16日のインターネット版の紙面によれば、世界のヘッジファンドマネージャーの2007年度の稼ぎは以下の通りである。 John Paulson Paulson & Co. $3.7 billion George Soros Soros Fund Management 2.9 billion James Simons Renaissance Technologies Corp. 2.8 billion Philip Falcone Harbinger Capital Partners 1.7 billion Kenneth Griffin Citadel Investmentt Group 1.5 billion Steven Cohen SAC Capital Advisors 900 million Timothy Barakett Atticus Capital 750 million Stephen Mandel Jr. Lone Pine Capital 710 million John Griffin Blue Ridge Capital 625 million O. Andreas Halvorsen Viking Global Investors 520 million *Earnings include managers’ shares of fees as well as gains on their own capital. 一寸分かりづらいかと思うので、説明すると、この金額の単位はドル。millionは百万ドル、一ドル百十円として、一億一千万円。billionは十億のことで、1billionドルは、一千百億円、と言うことになる。 すると、一番の、John Paullssonは三千八百億円、二番目のSorosは三千億円、十位のHalvorsenで六百億円弱、となる。断っておくが、これは個人の収入である。企業でもこれだけの利益を出せるのはそんなにはない。 本当にたまげる。ここまで、お金を稼いでどうするつもりなんだろう。しかも、ソロスは77歳、23位に入るピケンズ(昔日本で買占め事件を起こした人物)は八十歳。ピケンズは四百億稼いだ。 歳を取っても金に対する執着心は衰えないのだ。 日本にもこのようなファンドが入り込んできている。 この間ブルドックソースを買収しようとしたスティール・パートナーの件が記憶に新しい。このファンドのオーナーはソース作りにはなんの興味も持って居らず、単に金稼ぎのためにブルドックソースを狙ったのである。ブルドックソースの持っている資産を売って、株の配当に回せなどと、これまでにブルドックソースが長い間かけて蓄積した資産を全部吐き出させる要求をしてきた。結果的にブルドックソースの企業防衛策が働いて、買収は免れたが、スティール・パートナーは株価の上昇で六十億円儲けた。 世界最大の鉄鋼会社、アルセロール・ミッタルという会社がある。1989年にインド人のミッタルがミッタルという会社を始め、ミッタルは、次々に鉄鋼会社を買収して、リストラして儲けの出る体質にして、新たな資本の投資を呼びかける形で、あっという間に、ルクセンブルグのアルセロール社に次ぐ世界第二の売上高の会社にのし上がったが、ついに、そのアルセロールも買収し、アルセロール・ミッタルとして、世界一の売り上げを誇る鉄鋼会社になった。 ミッタルは、その内に世界一の富豪になってみせると豪語している。 ミッタルの手法は、買収した会社を徹底的にリストラして利益の出る形にして、資本家たちの更なる投資を呼び込むと言う物で、鉄鋼の生産自体に他の鉄鋼会社に比べて優れた技術を開発してきたわけではない。ただの、マネーゲームで、わずか二十年足らずで世界一の鉄鋼会社を作ってしまう。 しかし、買収した会社を育てるのではなくリストラなどで、利益を出す手法だから、技術力が不足している。ミッタルは買収した会社に新たに高炉の一つも作ったことがない、と批判されている。 そこで、ミッタルが狙っているのが、日本の新日鐵である。 新日鐵は世界最高の鉄鋼技術を持っている。鉄は鈍重に見えるのでそれと分からないが、実は技術の固まりである。日本の車が世界中で燃費がよいと評判がよいのは、日本の自動車会社の使う鋼板が軽いのに丈夫だからである。その様な鋼板を作るには大変な技術の蓄積が必要である。ミッタルは、金の力に任せて新日鐵を買収し、新日鐵の持つ技術全てを自分の物にしようというのである。ミッタルは、今のところ、アルセロールを買収するのに金がかかったから、しばらくは、おとなしくしているが、来年あたりから新日鐵買収に動き出すと言われている。 まことに恐ろしい話で、PCを作ったIBMが、そのPC部門を中国の会社に買収されてしまう。 中国のレノボは一気にそれまでのIBMが蓄積した技術を、全部自分の物にしてしまった。 工業技術というのは文化である。大勢の技術者が心血を注いで作り上げた物である。その技術を作り上げた技術者の大半は無名のまま、大した報酬も受けとらず終いで、ただ、技術者としての誇りをもって人生を過ごす。 そうやって、大勢の技術者が心血を注いで作り上げた技術を金の力で自分の物にしてしまう。 資本主義の社会だから、株を買うのは誰にでも許されることだから、会社の買収は違法ではない。違法ではないが、ここまで巨大なカネを振り回す人間が全ての企業を思いのままに動かすのは、もはや人倫に反すると私は思う。しかも、かれらは金儲け第一で、儲かれば買った企業を簡単に売りはらう。企業を育てる企業人としての感覚はないし、従業員のことなどこれっぽちも考えない。 日本の優秀な人材も海外のファンドや金融機関にどんどん移っていく。外国の金融機関やファンドが日本の会社を買収するのを日本人が手伝うのである。しかし、日本の社会がその様な優秀な人材に対して満足できる待遇をしないから、彼らも外資の元に走るのだ。 これから、どんどん日本の企業が海外の物になっていくのを私達は見なければならないだろう。 日本の政治家と、官僚たち、それに時代後れの頭を持った経営者がのさばっているからには仕方がない。日本が滅亡への道を転げ落ちているのは、自業自得、己の愚かさを自覚して直そうとしないからだ。 ああ、私のような、老いた愛国者は、日本の未来を考えると、心配で、居ても立ってもいられなくなる。 そんなに心配すると、食慾が減退するだろうだって? 飛んでもない。腹が立てば腹が減る。腹が減っては戦が出来ぬ。 だから、日本の未来を心配すると、心配と怒りの余り、余計に腹が減るです。 腹が立つときには、力のつく物を食べましょう。 それも、日本の豪快な味を楽しむのがよい。 「美味しんぼ」第87巻の「日本全県味巡り」高知篇で、高知県佐賀町の「黒潮カツオ探検隊」の皆さんに作っていただいた、鰹のたたきをお見せしよう。 まず、この見事に太い鰹を使う。 鰹をさばくのには、鰹割きという特殊な包丁を使う。 三枚に下ろす。 それを、鰹のたたきを作るとき専用の鋤に載せ、藁を沢山詰めたドラム缶の上に置く。 そして、藁の火で炙る。 炙ったら、厚めに切って更にならべて、塩をたたいてなじませる。 その上に、ワケギの小口切りをしき、濃い口醤油と味醂の合わせダレをかけ、ニンニクを添えて出来上がり。 藁で炙ると、鰹の味が一際深くなり、体中から力が湧いてくる。 こう言う物を食べて、日本の経済界の人間も力を出して、外資に負けないように頑張って欲しいものだ。 写真はクリックすると大きくなります。
- 2008/04/22 - 羊のチーズ 私達小学校の同級生は仲が良く、私達のホームページを持ち、掲示板に毎日誰かが書き込む、という話は以前に書いた。 今日、その掲示板を覗いたら級友の一人、さださん(掲示板用の筆名)が、鮭の頭で三平汁を作り、余った鮭の頭と三平汁の作り方を書いてご近所の知人に差し上げたら、そのお礼として、その知人から今朝、堀りたてのタケノコが届いた、などと羨ましい話を書き込んでいる。 三平汁も、タケノコも、オーストラリアにいる私にとっては夢のまた夢で、読むだけでよだれが垂れた。 オーストラリアは、食品の持込みが厳しく制限されている。全ての肉類、植物製品、そして、川魚。これはみんな、日本の土地に固有の病原菌や微生物がついている恐れがあるからである。オーストラリアは、長い間、外界から隔絶されてきた大陸なので、オーストラリア固有の動植物が沢山ある。それらが、外来の動植物によって被害を受けるのを避けるためである。 で、タケノコが駄目なのは分かる。しかし、鮭もダメなのだ。何故なら、鮭は稚魚の間日本の川に棲んでいる。鮭は生魚になって海に出るとは言え、日本の川にいる間に日本の土地に固有の微生物を体内に溜め込んでしまっている恐れがあるからだという。 シドニー空港の税関では、オーストラリア人の係官が、おかしな日本語で「サケ、アリマスカ、サケ、アリマスカ」と大声で怒鳴っていることがある。うっかり、あります、などと答えると、直ちに没収である。 私の知人の奥方は、そうとは知らず、手に鮭をぶら下げてきて、有無を言わせず没収されて嘆いていた。 オーストラリアにも鮭はある。オーストラリア人は鮭が好きである。比較的、生臭さが少ないからだろう。刺身なども、鮭の刺身に人気があるし、寿司ネタにも鮭が盛んに使われる。味は悪くはない。しかし、北海道の「とき知らず」の味を知っている私にとって、有り難がるほどの物ではない。 タケノコと来た日には、日本で言う篠竹のような細い竹があって、そのタケノコは自分で竹林に獲りに行って食べるが、日本の孟宗竹のタケノコのように太くて、甘くて、柔らかくて、ほっこりしていて、などと言う物とはほど遠い。 そう言うわけで、今日の我が級友、さださんの書き込みは、読んでいて、実に羨ましかった。 シドニー空港の税関は、その時によって、人によって厳しかったり、緩かったりする。 私は日本から帰ってくるときには段ボール箱を幾つも持込む。何せ本や、CD、DVD、日本食など、こちらで手に入らない物が沢山あるから持込むしかない。食べ物もきちんと申告して、それが安全な物なら難なく通る。申告しないで、食べ物が発見されるとこれは大事になる。虚偽の申告をしたと言うことで、厳しく追及される。場合によっては大変な罰金を科せられる。そこの所は私は良く承知しているから、段ボールの表面に中に何が入っているか書いておく。あまりの多くの段ボールなので、係官も全部開く勇気はない。食べ物の入っている箱だけ係官に示すと、係官はその箱だけ開いて検査して、残りのスーツケースなどは開かずに、通してくれる。堂々として、さあ見てくれという態度だと、向こうも信頼する。 しかし、これが東南アジアから来たとなると大変だ。東南アジアからは麻薬の密輸が多いと言うこともあるのだろうが、どうも、係官の偏見もあるように感じてならない。一度など、中国人の老人がスーツケース全てを開けさせられ、中国の食品全部を没収されて泣きべそをかいているのを見たことがある。その老人は英語が不自由できちんと説明できないと言うこともあるが、係官の態度から、アジア人に対する差別意識を私は感じた。全く没収する必要のない食品まで没収しているのだ。係官の無知と差別感の故だと私には思えた。 私もアジア人だから、差別されてもおかしくないが、さあ、どこからでも掛かっていらっしゃい、と言う態度が微妙に相手に影響を与えるようで、この二十年間で、不愉快な思いをしたのは二三回しかない。一度は、アメリカから帰ってきて、冬なのに、「ああ、暑い」と言って汗を拭っていたら(私は無類の暑がりで、冬でも空港内を歩くと汗が出るのだ)係官は、目を光らせて、「そうか、暑いか」と言って、スーツケースまで開かせて、スーツケースの内張まで探った。我が暑がって汗をかいているのを、ドラッグを持っているので、緊張して汗をかいた物と、思いこんだらしい。 見ていて、明らかに、東南アジアの人々には異常に厳しい。どうしても私には差別のように感じてならない。 オーストラリアは、移民の国で、様々な国から人がやってきているから、人種差別は禁物である。Fairと言うことを非常に大事にする国で、そうでもなかったら、移民の国は維持できない。Fairではない。人種差別をした、となると、その人間は社会的に非難される。公的な仕事に就いている人の場合はその地位を失うこともある。 とはいえ、やはり、1975年まで白豪主義と言って、白人しか移民を認めなかった国である。現在も七十五パーセントがイギリス系の白人国家である。わずか三十年やそこらでそう簡単に差別が無くなるわけがない。 こんど、オーストラリアの政権は、11年ぶりに、労働党が取った。新しい首相、ケビン・ラッドは、中国語が堪能である。 これでおかしかったのは、そのことをオーストラリア人は「西側諸国の首相で中国語を喋ることの出来る初めての首相」だと言ったことである。 オーストラリア人は自分たちを西欧諸国の一員と考えていることを白状したのだ。 おい、おい、それなら一寸考えて貰いたい。 サッカーのワールドカップの予選で、オーストラリアはアジア地域に強引に入り込んできた。自分たちはアジアの一員だというのである。 東アジアサミットにも入り込んでいる。 スポーツでよい成績を上げたいとき、金を儲けたいとき、など調子の良いときにだけアジアの一員と言うが、心の中では西欧の一員なのである。狡いんじゃないか。マレーシアの首相は、オーストラリアは絶対にアジアの一員にはなれないと言った。その態度も一寸頑なだが、問題はオーストラリアに方にあるだろう。 先日、ラッドは中国に行って、得意の中国語で演説したが、その中で中国のチベット問題を批判した。 私も、中国のチベットに対する態度には大いに憤りを感じている。 しかし、中国に招かれて、公式の場での演説で、チベット問題を批判するのは、それは違うだろうと思う。 その様なことは、別の場所で外交的に行うべきで、歓迎の場で得意の中国語で言うべきことではないだろう。中国に対して無礼である。折角ラッドを歓迎した中国の面子を丸つぶしにする物だ。 以前、江沢民が日本に来たときに、天皇に向かって日本の戦争責任について非難したのと同じだ。日本の戦争責任を問うことはかまわない。しかし、公の場で、面と向かって天皇にそんなことを言うのは無礼だ。 江沢民は、イギリスの首相にアヘン戦争以来1997年まで、イギリスが香港を自分の物にしていたことを公式の場で公然と文句を言ったか。日本が中国から撤退したのは1945年。イギリスがアヘン戦争を起こしたのが1840年。それから1997年まで、157年間、イギリスは香港を自分の物にしていた。イギリスが中国に対して行った行為は日本のそれより軽いというのか。重い軽いは何で決めるのだ。 ラッドも、アメリカで、イラク戦争という犯罪を批判したか。 チベットにおける中国を批判するなら、イラクにおけるアメリカをその千倍は批判しなければウソだ。 ラッドの態度は、実に偽善的だ。 今度の、オーストラリアの政府は偽善的である。 環境相にはかつてのロックミュージシャンのピーター・ギャレットがなった。この男はあの偽善の固まりのグリーンピースの役員も務めたこともあるというだけで、その本性が良く分かる。 日本の捕鯨船にはオーストラリア軍隊の艦船も出して捕鯨を妨害する、と言うと同時に増えすぎたカンガルーを四百頭殺すことを認めたりする。カンガルー問題は反対派の意見が強く立ち消えになったが、捕鯨を残虐だと批判する、ヘッドスキンの環境相がカンガルーは殺せと言うのである。 こう言うのを、何が何だか分からない偽善者というのだ。 おっと、オーストラリアの悪口を言い過ぎた。 口直しに、オーストラリアの美味し羊のチーズを紹介しよう。 日本では、羊のチーズは余り知られていない。 大体に於いて、においが強い。よほどのチーズ好きでないと、臭くてイヤだと日本人は言う。日本人は、クサヤや塩辛などが好きな癖に、乳製品のにおいの強い物を敬遠する傾向がある。しかし、一度病みつきになると、癖になる。 これは、比較的熟成の若い物。 この中味は、こうなっている。 外側が、ブリーチーズのように、白く固くなっている。 その中は、トロリと柔らかい。 ちゃんとしたチーズの形を見るために、ひっくり返してみた。 そのチーズは、天然酵母で焼いたサワードウのパンに付けて食べる。 パンを薄切りにして、それに、チーズを載せて食べる。 チーズの複雑玄妙な味、香り、それに酸味のあるパンの豊かな味が混沌として、これはたまりません。 オーストラリアの悪口を言うのはやめようと思う美味しさだ。 食べ物の旨さで簡単に口を閉じるなんて、私も軽薄だね。 写真はクリックすると大きくなります。
- 2008/04/21 - リハビリへ行くので〈「子育て記」に「長い前書き その4」を掲載しました〉 今日はこれからリハビリに行かなければいけないので、日記はお休み。 代わりに、「子育て記 長い前書き その4」を載せましたのでご勘弁を。 リハビリは辛いんです。手術をしたらすぐに楽になるかと思ったら大間違い。 色々と、膝を曲げる運動などしなければならない。これが、痛いんだ。 ジムの中をぐるぐる歩き回るのも辛い。 しかし、一番辛いのは、ハイドロセラピーと言って、温水プールで運動することだ。 私は、お風呂が苦手、すぐに湯当たりする。だからこの二十年ほど、風呂に入ったことがない。毎日シャワーだけですましている。温泉も雰囲気は好きなんだが、三分以上、湯に入っていられない。三分入るとそのあと三十分以上扇風機の前にしがみついていなければならない。とにかく暑がりなんだ。うっかり長湯すると、三時間以上気持ち悪くて寝てしまう。 温水プールは、風呂のように温度は高くないが、やはり三十三℃くらいに設定してある。これくらいの温度は何ともないようだが、三十分も入っていると湯当たりして気持ち悪くなる。 それがとても辛くてね。 ま、とにかく「辛抱我慢、辛抱我慢」と唱えて毎日リハビリに取り組んでいます。
- 2008/04/20 - 片栗の花 私の長女は環境科学を専攻したせいかやたらと環境問題にうるさい。私が、朝洗面をしているときに、水を流しっぱなしにして歯を磨いていたら、それを見とがめて、蛇口をさっと閉めて「使わないときに水を出しっぱなしにしちゃ駄目でしょう」とお説教を垂れる。無駄な電気は消して回る。長女の言う事は常に正論なので私は従うしかない。 この間も、「もう寒いからストーブをつけよう」と言ったら、長女は「寒ければセーターを着なさい。余計な燃料を使うのは良くないわ。エコを考えなければ」というので、私は「エコよりエゴだい」と言ったら、長女は「まあ」と目を剥いたが、「あら、それ、何かのキャッチフレーズに使えるわね」と言った。勿論、エコを推進するためのキャッチフレーズだろう。きっとひっくり返して、「エゴよりエコ」として使うに決まっている。 私のような男を父親として、どうして長女のような真面目な人間が育ったのか、実に不思議である。 それにしても、地球の温暖化が二酸化炭素のせいだというのは本当だろうか。 地球が温暖化しているのは事実だ。二酸化炭素が増えているのも事実だ。 しかし、その二つを結びつけて、温暖化の原因が二酸化炭素だと、言えるのだろうか。 私は、二酸化炭素が地球温暖化の原因であるとは俄には信じがたいのだが、私のような、現在の地球温暖化説に懐疑的な人間は、東北大学大学から出されている「地球温暖化問題懐疑論へのコメント」(http://www.cir.tohoku.ac.jp/~asuka/)を読むことをお勧めする。 その中で、このコメントを書いた研究者たちは最初に次のように言っている。(文章を要約し、それぞれの文章に番号を付けたのは、読者に分かりやすいように私がしたことである。原文は、このように文章は分かれていない。) 1)少なくとも世界およびアメリカの学問の世界では、地球温暖化が人為的な影響による物であると言う点について「合意はある」とするのが状況認識として正確である。 (学会では、二酸化炭素が地球温暖化の原因であるとの合意が出来ていると言うことだろう) 一方、懐疑論者は圧倒的な少数であり、かつ全く専門分野が異なる専門外の研究者か、非研究者である場合が少なくない。 議論をするなら、世界中の様々な分野の学会に於いて多くの研究者が行ってきた議論の帰結や最新の知見などを十分に踏まえて議論をして欲しい。 2)温暖化は二酸化炭素が原因という温暖化説は、科学の議論の大部分と同様、仮説であるが、一つの決定的な証拠によって真偽が決まるという仮説ではない。 様々な観測事実、物理法則、シミュレーション結果に基いて、気候に影響を与える因子(二酸化炭素、フロン、メタン、水蒸気、太陽活動、硫黄酸化物、すす、など)の大きさを総合的に説明するように考えられた仮説である。前述のようにほぼ全ての気候学者が同意した議論であり、少なくとも現時点に於いては、その信憑性を否定するような観測事実は皆無に等しい。そして、今私達に求められているのは、このような状況のもとでの予防原則に基づいた政策的判断によるリスク管理なのである。 一寸引用が長くなったが、要するに、二酸化炭素による地球温暖化を正しいと考えることに、まともに気候を研究している学者の殆どは合意している。 しかも、この問題は、様々な要因が絡まった複雑な問題だから、それらを総合的に研究分析した専門家の言う事は正しい。 この件に関してろくに知りもしないで、懐疑論を唱えるのはおかしい、と言うわけだ。 私なんか、上に揚げられた「非専門家」である。 非専門家ではあるが、いや、非専門家だからこそ、専門家の意見を素直に受け取れないと思う直感は働く。 地球の歴史を振り返ってみると、恐ろしい気候変動、地殻変動が何度も起こっている。人類が誕生したのは氷河期の真っ最中であり、現在は、一万年前に終わった氷河期と次に来るであろう氷河期との間の間氷期と言われている。次に氷河期が来たら温暖化も何もあった物じゃない。 温暖化の研究者たちは、氷河期の問題も、太陽の燃焼の問題も、地軸の傾きの問題も、全部計算に入っている。だから、それだけ一つだけ取りだして云々しても駄目だ、と言うのだ。 私は研究者たちの真摯な研究態度を認めるし、その方法論も納得する。しかし、それでも、本当に二酸化炭素かよ、と言う気持ちは強く残る。 最近どうも気になるのが「二酸化炭素排出権利の売買」という奴である。 国、あるいは国際機関が、企業毎に二酸化炭素排出量の規制値を決める。企業Aは、二酸化炭素を規制値よりΔAだけ余計に排出し、企業Bは規制値よりΔBだけ少なく排出したとする。 すると、企業Aは、企業Bから、企業Bの規制値より少なかったΔBを購入して、自分の規制値を超えた分を補う、と言う仕組みである。これを国際的に広げる動きがある。 ところが去年、EUでは、この二酸化炭素排出権の取引をした結果、二酸化炭素の排出は減らず、逆に増えた。 この方式は、二酸化炭素の排出を減らすために有効ではなかったのである。有効にするためには、規制値をもっと高くしなければならないが、そうなると、経済活動にかなりの影響が出て来ると言う。 さて、私はこの報道を聞いて、実にいぶかしく思った。これで儲けているのは誰か。 結局、間に入って排出権の取引の仲介をする銀行などの金融機関だ。 二酸化炭素などと言う、そもそも、ただのガスを金に換えるとは、まるで手品みたいな物だ。 これこそ、現代の、強盗資本主義を推し進める、金融機関の企みなのではないか。良心的に、二酸化炭素を減らしましょうと運動している人々の裏で、銀行がたっぷり金を儲けているのだ。 これが、私をして、地球温暖化は本当に炭酸ガスが一番の問題なのか、と懐疑を抱かせた元である。 他人が、あぶく銭を稼ぐのに嫉妬しているということじゃないぞ。 何だかおかしい、と言っているのだ。何か陰謀があるような気がするよ。 大体、世界中に何億頭もいる牛、羊、などの家畜のゲップとオナラを止めるだけで、温暖化問題はかなり軽減するという説もある。 人間のオナラも駄目だね。呼吸もするなよ。ゲップもするな。 全部、エコのためだ。 あ、真面目な研究者の方をおちょくる様なことを言って、申し訳ないっす。ただね、生来のあまのじゃくがつい頭を持ち上げまして。 しかし、地球温暖化の影響は甚だしいね。 自然環境がどんどん破壊されていく。 昔日本でありふれていた植物の多くが今は絶滅を危惧されている。 そのなかの一つが、片栗である。片栗粉というのをご存知だろうが、本来片栗粉は、片栗の根の澱粉で作った物である。現在日本では片栗は稀少になってしまったので、とても片栗から片栗粉は作れない。市販の片栗粉は殆ど全部が、ジャガイモの澱粉である。一部、韓国あたりから輸入している物もあるという。 その片栗の花は美しい。今回は食慾を離れて、その片栗の花の美しさを堪能いただきたい。 あるところに片栗の花の群生地がある。敢えて場所は記さない。うっかり記すと、大勢の人が押し寄せて、折角の群生地が駄目になってしまうからである。不埒な奴になると花を盗掘していくと言うから、許せない。 こんなに群生している片栗の花を見ると、あまりの美しさに陶然となる。 その、片栗の花の可憐さ。たまらない。 なんてきれいなんだろう。これで、根から取れる片栗粉は、本当に美味しいのだ。 しかし、今の日本では、この本物の片栗粉を取るほどの片栗は無い。 気候の変化のせいか、日本の国土の荒廃のせいか。 この片栗の花を見て、温暖化、自然の荒廃を真剣に考えてくれい。 写真はクリックすると大きくなります。
- 2008/04/19 - 今日はお休み〈「美味しんぼ塾」に「ワイン その3」を掲載しました。長文です〉 今日は、朝から心身共に調子が悪く、まるで床の底が抜けて、地の底にはまりこんだような気分なので、日記はお休みします。 代わりに、「美味しんぼ塾」に「ワイン その3」を長文で掲載しました。 それで、ご勘弁を。 私は二千四年の十二月からひどい鬱に苦しんでいるのですが、最近大分良くなったと思ったら、突然今日のように、鬱にはまりこむ。 こんなのんきな文章を書いているからには、鬱病なんかである物かという方がいたら、それは大きな大間違い。 鬱病にもいろいろな形がある。 苦しいのは同じ。 私は鬱のどん底で、「美味しんぼ」を一度も休まず書き続けた。 それで、主要登場人物の岡星を鬱病にして、「京味」の西健一郎さんの料理でなんとか良い方向に向かうという話を書いた。 あれは、私の鬱からの脱出の願いを込めた話なのだ。 ああ、書いているうちに鬱がひどくなってきた。 今日はこれにて。
- 2008/04/18 - 伊藤華英頑張れ! 伊藤華英バンザイ! 昨日の、北京五輪代表選考会をかねた競泳の日本選手権戦で、伊藤華英が百メートル背泳で、59秒83の日本新記録で優勝し、北京オリンピックの代表の座を獲得した。 宿敵、中村礼子を最後の二十メートルでぐいぐい抜いてゴール板をタッチしたときは、本当に昂奮した。 華英ちゃん、良くやった。 何故、私が、こんなに喜んでいるかというと、伊藤華英、華英ちゃんは、私の縁続きなのである。 私の連れ合いには兄がいたが、31の時に1歳半の息子を残して心臓の発作でなくなってしまった。当時義兄の妻はまだ二十の前半。しばらくして、息子を連れて再婚した。再婚して生まれたのが伊藤華英である。 華英ちゃんは、父親の違う兄とも仲が良く、その兄が数年前結婚するときに、結婚式の席上、挨拶をする段になって、「お兄ちゃんが結婚することになって、お兄ちゃんが、お兄ちゃんが・・・・」とそこまで言って、感激のあまり泣き出してしまい、挨拶にならなかった。結婚式に集った客たちも、華英ちゃんにつられて涙を流し、大変に感動的な結婚式になった。それ以来、私の親族の間では「なんて、いい子なんだろう」と華英ちゃんの株は大暴騰した。 だから、昨夜も、私の家族全員がテレビの前にしがみついていたのである。 華英ちゃんの母親が熱心で、三歳か四歳の頃からスイミングスクールに通っていた。両親共に良い体格をしているので華英ちゃんも立派な身体で、アテネオリンピックの時も有望視されていたのだが、残念ながら、選にもれた。 今回は見事に、日本新記録で出場をかざって、もう言う事はない。良くやったの一言だ。 しかし、困ったのが私だ。 何故かというと、私は以前から「華英ちゃんが、オリンピックに行くなら、おれは、華英ちゃんの名前を書いた大きな旗を持って北京に乗込むぞ」と公言してきたからである。 さて、現実に、華英ちゃんが北京に行くとなって大弱りである。 前にも書いたが、四年前に北京に行って、あまりの変わりように幻滅をした。しかも、四十メートル先が見えないほどの空気の悪さ。開発という名の破壊の激しい進行。そんな物にうんざりした。 そこに持って来て、今度は、何を食べ、何を飲んだらよいのか分からない不安がある。ミネラルウオーターとして売られている瓶詰めの水の半分以上が、ミネラルウオーターなどではなく水道水などであると言う。北京の水道水は飲む前に煮沸しろと言われたことがある。煮沸しなければ飲めない水をそのまま瓶に詰めた物を、売付けるとは、凄まじい神経だ。 と言って、日本から水を運び込むことは許されないし。 どこで何を食べれば安全か、何を飲めば安全か、そんなことを考えながら、北京の街を歩くのはイヤだ。 オリンピックの選手たちはどうするのだろう。 驚いたことに、北京の共産党幹部たちの住む中南海という地域の水は、汚染されていないことがはっきりしている河川から特別に引いているのだそうだ。野菜なども、有機栽培の特別の物を幹部たちは食べているという。 その、特別の水と、特別に安全な食品を、オリンピック村に回すから、外国の選手団は心配ない、と言う事らしい。 共産党の幹部たちはみんな恐ろしく長生きだ。しかも、歳を取ってもぴんしゃんしている。 よほど、特別の食べ物を食べているからだろう。 昔から中国の皇帝は不老不死の薬を求めるのに必死だった。 中国革命で変わったのは支配者の顔ぶれだけ。農民、労働者などの下層階級の生活難は少しも改善されない。なんのための革命だったのか。 胡錦涛の後継者は、習近平国家副主席だという。この習近平は、いわゆる太子党と言って、共産党幹部の子弟の一団の一人である。 共産党なのに、権力の世襲制が行われようとしている。 北朝鮮の、金日成、金正日と同じだ。 これで、何が共産主義というのか。中国革命と、その後の文化大革命で失われた中国人の命は数千万と言われている。 その、巨大な犠牲の上に、今の中国共産党の指導者たちは君臨しているのだが、自分たちの子供にその権力を譲ろうとしている。これは共産主義の思想とは違うだろう。 聞こえてくるのは、共産党幹部と、官僚たちの腐敗の話ばかりだ。 そこに、今度のチベット問題だ。聖火リレーもあちこちで騒ぎが起こり、オリンピックで国威発揚を目論んだ中国政府にとって、飛んでもない逆風となった。 これで、オリンピックはすんなりといくのだろうか。 きっと、中国政府は厳しい警戒態勢を敷くだろう。 聖火リレーの走者の周りを取り囲んで走る「青の軍団」とあだ名が付いた、屈強な警察官、軍隊の特別部隊の兵士たちが、北京の町中を固めるのだろう。 それでは、オリンピックのお祭りとしての楽しさが消えてしまう。 とは言え、私は、オリンピックをボイコットしろと言う意見には反対だ。日本だって、東京オリンピックは国威発揚が目的だった部分が大きい。韓国のオリンピックもそうだった。それなのに、中国のオリンピックだけ反対するのはおかしい。北京オリンピックは楽しく盛大に、成功させよう。 チベット問題は、別の方法で議論するべきだ。 私は、何度も言うように、中国人が好きだ。 立派な中国人は日本人が足元にも及ばないような、人格の大きさを持っている。私の父は中国生活が長かったが、中国人は実に立派な国民だと、事ある毎に私に言っていた。大体、私達日本人は、いまだに中国の古典文学を超えるような文学を物にしていないではないか。 そう考えると、最近のちぐはぐな出来事で、中国を否定することは間違いだと思うが、中国にお願いしたいのは、我々一般の旅行者にも安全な食べ物と水を確保してくれということだ。 ふむ、そう考えると、今度北京に乗込むのも悪くない。 華英ちゃんの応援を兼ねて、北京の食の実態を調査してくるか。もっとも、最近の北京政府は、中国に都合の悪いことを書く人間は入国を許可しないそうで、そうなると、こんな事を書いている私は、入れて貰えないかな。 もし、入れてくれなかったら、それもまた面白い話の種になって、色々書けると言う物だ。 中国政府よ、中国人が好きな私を入国禁止なんかにしないでよ。好きだから、心配して、あれこれ言うんだからね。 反中国であれこれ言うのとは違うよ。分かってね。 北京オリンピックでの、華英ちゃんの勝利の前祝いとして、私の大好きな中華料理を、紹介しよう。シドニーの中華街で食べた、鳩の揚げ物である。 鳩は、前もって十分に味の付いたたれをつけて乾かす。このたれが、良い味を出す共に、全体の艶を出す。生乾きにして、油で揚げる。皮はぱりっと仕上がっている。 鳩というと日本人の中には敬遠する人がいるが、それは、人生の楽しさを失うこと。鳩ほど美味しい鳥は滅多にない。 身は柔らかくしっとりしているし、香りはいいし、味は深い。一度食べると病みつきになる。 フランス人も鳩を食べるが、矢張り、鳩はこの中国風の料理が一番美味しい。 さて、鳩の中で一番美味しいのが、この頭と首の部分である。 頭の中の脳みそは、良い物に当たるとトロリとして、ウニと白子を混ぜたような深い味わいがする。 この、顔の皮を歯でこそげて食べる。パリパリして実に旨い。 この首の皮も、歯でこそげて食べる。首には細い筋肉が通っていて、その筋肉がまた、歯ごたえがしっとりとして、噛むと旨みがにじみ出て、応えられない。 なに、華英ちゃん、鳩の首なんて気持ちが悪いって。 そんなこと言っていては駄目。オリンピックでは相手の首を取るつもりで戦うんだよ。取るのは、相手の選手の首だ。 鳩なんかでびびっていちゃ駄目だよ。 頑張れ、華英! 写真はクリックすると大きくなります。
- 2008/04/17 - 病院の食事2 ただ、膝の関節を人工関節に入れ替えるだけでなく、大腿骨の骨移植もするのだから、これは大変な手術であることは予想できた。 大腿骨の周りに他人の骨を添え木に当てて、ワイヤーで縛り付けるなんて、そんな場面を想像しただけで気持ちが悪くなる。平気でそう言うことをやってのける外科医と言う物は凄いものだと思った。 手術は7時間かかり、血液を5リットル失った。 人体の血液量は、男性で体重の8パーセント、とか13分の1とか言われている。私の体重は69キロだから私の血液量は、5.6から多くて6リットル。要するに私は自分の血液の殆どを失ったのである。当然輸血をして貰った。 あとで、私が冗談に、「オーストラリアだからカンガルーの血を輸血するんだよ」と言ったら、本気にした人間がいた。 どうも、私は非常に真面目な人間だから、そんなことを冗談で言うとは思わなかったらしい。普段真面目すぎるのも考え物だな、と思いましたね。 手術の後が凄かった。 麻酔に使ったモルヒネの副作用で、手術の翌日、集中治療室から通常の病棟に戻ってから、二度、けいれんを起こし、意識を失い、再び集中治療室に舞い戻った。 それから三日間、私は、きれいな幻影を見続けた。これが不思議なことに、自分でこれは幻影だと分かっていて幻影を見るのだ。 天井の吸音板の穴の一つ一つが漢字や平仮名に見えて、それが見ているうちにどんどん変わって行く。見たこともない漢字が、数百数千とならんで滝のように目の前を流れる。 雑誌のページが何百も続けざまに流れる。そのなかの文章の難しいこと。私は、どうしてこんな難しい文章が自分の頭の中に入っているんだろうと驚きがらそれを見る。 不思議な市場に行くと、様々な奇怪な商品を売っている。その、市場の無数の商店の間を私が通り過ぎていくのである。 また、相撲を女性にも開放しなければならないと言って、女性の相撲取りが出て来るのだが、その女性の横綱が、朝青龍なのである。 朝青龍が女性になった姿を想像してご覧なさい。凄いから。 素晴らしく美しい景色の中を歩いたりもした。川が流れ、河岸には緑豊かな木々が生い茂り、地面には花が咲き乱れている。 これが不思議なことに、壁や、天井の、一寸したへっこみなどがあると、そこを起点にして幻影が展開するのである。 今度はどんな幻影が見られるんだろうと、楽しみにして、天井の吸音孔や壁のシミなどを見つけて、幻影が始まるのを待った。 余りにきれいなので、写真に撮っておこうと思って、まてまて、これは幻影だからカメラには写らない、と自分を止める。 幻影とはっきり分かって幻影を見ると言うのは、実に不思議な体験で、もしかしたら、LSDなどを使う人は、こんな幻影を楽しんでいるのだろうかと思った。 しかし、この幻影も、三日経って、モルヒネが完全に抜けてしまうと起こらなくなった。ちょっと、がっかりしたが、あんな幻影をしょっちゅう見ていたら人間おかしくなる。 その時思いましたね。ドラッグなんて絶対に近寄ったら駄目だと。 しかし、その間、私が意識を失ったり、意識を取り戻した後も変なことばかり言うので、私の連れ合いも娘たちも、「お父さんは頭が駄目になってしまったのかもしれない」と本当に心配したそうだ。 そんなこんながあって、三十一日に退院したのだが、その入院中に本当に感心したのは、看護士たちの態度である。全員とにかく優しい。夜中に何か頼んでも、笑顔でやって来る。一所懸命私の気にいるようにしてくれる。手が足りなくて、呼んでも仲々来ないこともあったが、その時は「遅くなってごめんなさい」と謝りながらやって来る。御多聞にもれず、オーストラリアでも医療関係の人手は足りない。一人の看護士が面倒を見る患者の数は多いから、そう言うことが起こるのも仕方がない。しかし、かれらの、働きぶりを見ていると、文句のつけようがないのである。中に一人中国人の男の看護士がいて、彼は中国人らしく、なんでも独り合点で、やって行くので、彼だけは困った。それに、中国人の話す英語は私には非常に聞取りづらいのだ。中国人は、語尾の子音をきちんと発音しない。 一つの単語の、アクセントのある部分だけを発音するようだ。 そこで、私と彼との間に意志の齟齬が起こる。しかし、彼も基本的に非常に熱心に私の面倒を見てくれるのである。 医師もそうである。日本の医師の中にはやたらと威張る者がいるが、オーストラリアの医師はみんな気持ち良く、私が納得のいくまで徹底的に説明してくれる。 このように、医師と看護師が親切にしてくれることが入院患者にとって心から助けになる。 退院してからそろそろ三週間近くなる。 一昨日は、病院に行くと言って、このページをお休みしたが、痛いのでファミリードクターに見せたら、彼は手術後初めて私の脚を見たので、腫れていて熱があって、傷口が一個所ふさがらないところがあるのを見て、気が動転したらしく、直ちに手術をした医者に診て貰うように手はずを取ってしまった。 それで、急遽、病院に行くことになったのだ。 結果は、エックス線写真も血液検査も全て正常で、傷口もすぐに乾くし、痛みも腫れも氷で冷やせば楽になるだろう。心配しないでこのまま、Take it easy.で行こうと言うことになった。 医者は、「とにかく大きな手術だったんだから、仕方がない」という。 そう言われてしまえば、そんな物かと思うしかない。 今日になってみると、痛みも大分取れてきたし、このまま頑張れば良い日が来ると信じている。 さて、病院の食事の続きに行こう。 まず、メニュー そのメニューから取ったのが、これ、レッグハム。 ぶたの脚のハムにパスタと野菜が付け合わせに乗っている。 手の込んだ料理より、ハムなどの簡単な物の方が無難である。 もう一つのメニュー そのメニューから取ったのが、鮭を焼いてマスタードソースをかけた物。これは香ばしくて、悪くなかった。 後は料理だけ並べよう。 牛肉の煮込み クスクス タンドーリチキン 鶏のパルミジャーナ(パルミジャーナを乗せて焼いた物) などである。 さて、味の方であるが、それは、次の私の顔で判断してください。 白状すると、実は、毎晩連れ合いに家から夕食を運んで来て貰っていた。連れ合いは、勿体無いのと、面白半分で、私の病院食を食べていた。 そんな訳で、入院中も、私は連れ合いの作ってくれた料理を食べていたのであります。連れ合いが言うには、なかなか、ちゃんとした味の物もあると言うことでした。 写真はクリックすると大きくなります。
- 2008/04/16 - 病院の食事1 昨日、ちょっと書いたが、私は三月十八日に右膝の関節を人工関節に入れ替える手術をした。 普通、この膝の人工関節入れ替え手術はそれほど大した手術ではないのだが、私の場合は特別だった。 私は六歳の時に、右の股関節結核を患った。三年近く入院と自宅治療を続けた。その間、当時の医者の行った治療は、牽引療法という物で、右脚全体を絆創膏でぐるぐる巻きにして固定し、その先端に紐を結び、紐の先に重りをつけ、脚全体を引っ張るという物だった。引っ張ると、股関節の、大腿骨と骨盤が接触する部分に隙間が出来る。その隙間を作ることで、治療がしやすくなると言うわけである。 それはいいのだが、三年近く、いや、中学二年の時に股関節結核が再発して半年入院したから、それも合わせると三年以上、引っ張ったので、その影響が膝に来た。膝の関節が変形してがたがたになった。 若い間は、筋肉がしっかり膝を固定しているから問題がなかったが、五十を過ぎて筋肉が衰えると膝を固定することが出来ず、同時に膝の変形が進んで、激しい痛みを覚えるようになった。 股関節も同じことで矢張り筋肉の衰えと共に、痛みがひどくなって歩くのに不自由になった。そこで、十年ほど前に人工股関節に入れ替えた。数年間は調子が良かったのだが、その内に、再び痛くなった。調べるとその人工股関節に使われていたプラスティックが擦れて小さな粒子になって周囲の筋肉に入り込み、それがまた新たな痛みの原因になっていることが分かったので、四年ほど前に、股関節の入れ替え手術を再び行った。そんな人工関節を使った医者の責任なのだが仕方がない。当時は、そんな材料しかなかったのだ。 その手術をした医者W氏は、オーストラリアでも権威のある関節専門医で、年間の手術数は三百を超える。 そのW氏に、膝も痛いから人工関節にしてくれと頼んだら、それは出来ないという。なぜなら、私の右脚は子供の時から成長を止めてしまって、左脚より十八センチ以上短い。(だから、私は、特別に靴の底を高くした靴を右足に履いている。一頃、若い女性の間に異常に底の高い靴が流行ったことがあった。当時、私の娘たちは、靴のデザイナーの誰かが、お父さんの靴を見て、それを真似たのよ、と言った。しかし、両方共ならともかく、片方だけ、異常に底の高い靴を履いているのは余り美しいとは言えない。初めて私に会う人はみんな私の靴を見てびっくりする。人様を驚かせて申し訳ないが、この靴を履かないと歩けないので仕方がない) 短いだけでなく、右脚の骨は子供のように細い。 その細い大腿骨に、既に人工股関節の軸が上から入っている。 そこに今度は、膝の人工関節の軸を下から挿入すると、骨が細いから折れてしまうというのである。 では、どうすれば良いのかと尋ねると、痛み止めを飲んで我慢するしかないという。 言われるとおりの痛み止めを飲んだが、この痛み止めは大して効かず、しかも、飲むとなんだか眠くなり、胃腸の具合も悪くなる。生活の質が大幅に下がる。 これではたまらない、ファミリードクターに、誰か他に医者はいないか調べてくれと頼んだ。すると、もう一人権威がいると言って、股関節の手術をしてくれた医者より若い医者WG氏を紹介してくれた。 そのWG氏は、私の脚のエックス線写真を見るやいなや、「大丈夫、出来る」と言うではないか。私は驚いて、あの権威のあるW氏が出来ないと言ったんだ、と事情を説明すると、今度の医者、WG氏は、自分が過去に行った手術のエックス線写真を見せて説明してくれた。 大腿骨の周りに、他人が献体で呉れた骨を添え木のように当ててワイヤーで縛り付ける。そうすると、上下から人工関節の軸を入れても骨が折れることはないというのである。これを、骨移植という。 二年経つと他人の骨が私自身の骨になって血も通い始めるという。 実例を見せながら自信たっぷりに言われると、こちらもその気になる。それで、手術を頼むことにした。股関節の手術をしたW氏に、一応報告すると、W氏は、ちょっと口惜しそうな顔をして「Bone graft(骨移植)をするのか」と言った。 そんな訳で、痛みが取れること、それだけを願って、三月十八日に手術を行った。そして、三月三十一日に退院した。 手術の詳しい話はまた後にするとして、病院の食事についてお話しよう。 以前股関節の手術で入院したときもそうだが、オーストラリアの病院では、昼前に、夕食と翌日の朝食、昼食のメニューが配られる。 この中から、自分の好きなものを選ぶのである。 私が、このメニューで選んだ、のは、 まず、Vegetable pasta bake。野菜と、パスタ(ペンネ)をマッシュルーム、グリーンピース、タマネギなどと、ホワイトソースで炒めた物。 付け合わせは季節の野菜。ズッキーニと人参。 スープは、人参とオレンジスープ それに、パンと、デザートの、Peach Semolina pudding。 とこんな物である。 夕食にパスタだけかと日本人は驚くが、オーストラリアでは、パスタだけの夕食はごく普通である。 この、ペンネは恐ろしく食べでがあった。付け合わせの野菜も食べると、腹一杯になる。 メニューが出て来たり、料理の名前も立派で、まるでホテルみたいだ。贅沢なもんだ。 では、味は、とお尋ねか。 それについては、また明日。 写真はクリックすると大きくなります。
- 2008/04/15 - 今日は休み〈「美味しんぼの日々」に「鍋料理」を掲載しました〉 今日は、これから緊急に医者に行かなければならなくなったので、「美味しんぼ日記」はお休みします。 その代わり、「美味しんぼの日々」に「鍋料理」を掲載しました。それでご勘弁下さい。 実は私は、三月十八日に、右膝の関節を人工関節に入れ替える手術をしたのですが、その予後が悪く、腫れて痛いので、急遽病院に行くことになりました。 手術の件に関して後日、日記に書きます。 病院の食事についても書きたいので。 今日はこれにて、失礼。
- 2008/04/14 - 天皇制とのしイカ 私は天皇制反対主義者だが、現在の皇族の人々に何らの反感も抱かない。むしろ、現在の天皇、皇后には良い感じを抱いている。 阪神大震災の際に、どこかの体育館のような広い場所に避難している被災者たちを、天皇・皇后がお見舞いに行ったとき、天皇・皇后は、さっと被災者の前に膝をついて、被災者の手を取って、「大変だったでしょうね」と慰めた。それが、実に自然に心からでた態度だったのでみんな感銘を受けた。さらに、美智子皇后は、帰る車の中で両のこぶしを胸前で握って「頑張るのよ、頑張るのよ」という仕草をした。言葉は聞こえなかったが、くちびるの動きから、そう言っているのが、理解できた。 それに引き替え、当時の首相、社会党の村山富市は、被災者の待つ避難所に入ってきて、両手を後ろに組んだまま「ふん、ふん」と被災者たちを見回すだけで、励ましの言葉もかけず、すたすたと出て行った。被災者たちから、流石のことに、落胆と非難の声が上がった。慌てたお付きの者が大声で、被災者たちに「首相によく言っておきますから。首相も、皆さんのことは考えておられますから」と必死になって取りなした。 そもそも、それ以前に長い間自民党に反対してきた社会党が突然自民党と組んで、首相まで出したこと自体、それまで社会党が自民党の過ちを糺してくれると信じていた多くの日本人に対する裏切りである。社会党で党の議員になれるのは、組合運動を続けて来た人間の長年の功労に対する恩賞だと言われてきた。 私はその時の村山首相を見て「ああ、所詮は組合幹部上がりか」と落胆した。日本人は馬鹿ではなく、その様な節操を欠いた党は、完全に見放され、昔は自民党とあらそう力があったのに、今は無力な極小政党に陥落した。権力の誘惑は恐ろしい。何十年もかけて築き上げてきた信頼を社会党(社民党)は一夜にして失った。 その村山富市と、天皇・皇后とでは、人間の格が天と地ほど違うと思った。 天皇・皇后に限らず、皇族の他の人達も好感の持てる人達が多い。 その様な人達が、一切の自由を認められず、赤坂の区切られた土地の中に皇族全員が押し込められているのは、余りに理不尽と言うしかない。天皇制賛成主義者は、表面では天皇崇拝を言うが、その実天皇や皇族の身の上のことなど何も考えていないのではないか。天皇を自分たちに都合よく使うために崇拝するふりをしているのではないか。 天皇の行事予定表を見て仰天した。それこそ分刻みに様々な公務が入っている。それも、天皇を利用したいという人間共の要請でおこなされる公務である。みんな、天皇にひどい労働を課している。 本当に天皇を崇拝し愛しているのなら、天皇と皇族にもっと楽しい人生を送ることが出来るように配慮するべきだ。 例えば、修学院離宮を建てたのは後水尾上皇だし、桂離宮は八条宮家の別荘だった。昔の天皇・皇族はそんな別荘を造る自由もあった。何も、今の天皇や皇族に贅沢をさせろと言うのではない。住みたいところに住めるようにして上げるべきだ。したいことをさせて上げるべきだ。 一番耐え難いのは、皇位を誰に譲るかそれまで他の人間に指図されることだ。 皇太子には愛子さんという娘がいる。皇太子のあとの天皇を次ぐのに愛子さんで何が悪いのか。 女系天皇反対派というのがいて、彼らが強硬に女性が天皇になることに反対している。 早い話が、愛子さんを天皇にするなと言うのである。そんなことは、皇太子家に任せておけばよいだろう。よその人間が口を差し挟む問題ではない。 奇怪なのが、ある女系天皇反対派の親玉の大学教授が、「Y染色体が大事なのだ」と言いだしたことだ。彼が言うには、Y染色体は男子にしかない。愛子さんは女性だからY染色体を持っていない。それで、他の男と結婚したら、生まれた子供は神武天皇から続いたY染色体を持たないことになり、そこで、皇統が途絶える。だから、愛子さんを天皇にしたらいけない、と言うのである。 私の大学の同級生で東大の物理の教授をしている男がいる。私は彼に、東大の生物学の教授に事の真偽を問いただしてくれ、と頼んだ。彼は、直ちに生物学の教授に尋ねたところ、Y遺伝子が男性の特性を伝えることは間違いないという。Y遺伝子には神武天皇からの遺伝的特性が伝わっているという。 すると、女系天皇反対派の大学教授の説は正しいように思えるが、ところがどっこい、そうは行かない。現在の天皇は第百二十五代目である。大正、昭和の両天皇はそうではないが、明治天皇以前の天皇は多くの側室を抱えているの普通だった。だから、子沢山で十人やそこらの子供を持つ天皇は珍しくなかった。その中で、何人かは皇族として残したが、かなりの数の男子が、臣籍降下と言って、皇族の身分を離れて一般市民になった。それが百五十代続いたのである。一体何人の男子の皇族が一般市民になったことか。 彼らは、全員神武天皇のY染色体を持っている。臣籍降下した男子からも次々に男子が産まれる。百五十代、二千年の間にそれが重なると、一体どれだけの日本の男子が神武天皇のY染色体を持つようになったことか。弥生時代の日本の人口は六十万人、奈良時代には四百五十万人、平安時代に六百八十万人、と言われている。 その人口が今の一億一千三百万人にまで増える過程で、神武天皇のY染色体を持った男の数も爆発的に増えたことは容易に推測できる。常識的に考えて、日本人男性はかなりの割合で、神武天皇のY染色体を受け継いでいるのは明らかだ。 だから、愛子さんが結婚するとして、その相手が、神武天皇のY染色体を持っている確率は非常に高いのである。 女系天皇反対派の大学教授の説は日本の歴史を考えたときにおよそナンセンスな物と言わねばならない。 それよりも、そんなことを言い散らかすことで、皇太子夫妻をどれだけ傷つけていることか。女系天皇反対派は皇太子夫妻に、皇太子夫妻の愛娘を天皇にするなと言っているのである。 なんと残酷なことを、皇太子夫妻に対して言うのだろう。 これでは皇太子妃が精神を病むのも無理はない。 彼らは、天皇、皇太子夫妻、皇族に対する尊敬心も、人間としての同情心も何も持っていない。天皇を尊敬するふりをして、自分たちに都合の良い、天皇制を維持したいだけなのだ。 このような非人間的な制度は早く廃止するべきだ。 これまで、日本のために色々と犠牲になったのだから、天皇家を国が守るのは当然だが、天皇制を廃止して、天皇家と皇族を自由の身にしてあげるべきだ。 私は、天皇・皇后、皇太子夫妻、その他の皇族をテレビなどで見る度に気の毒でたまらない。 あの人たちにこれ以上辛い思いをさせるべきではない。 こんな残酷な制度は世界の恥だ。 去年、柴又の帝釈天に行ったとき境内で面白い屋台が出ていた。 のしイカの屋台である。 スルメをコンロの上で焼いて、右に見える大きな丸い鉄ののし板で平らにして、ローラーにかける。 すると、イカがのされてにょろにょろと出て来る。 さらに出て来る。 ここまで出て来て出来上がり。これを丸めて袋に詰めて売る。これが懐かしくて、乙な味だ。 私はその時思った、天皇も皇太子も、こんな楽しくて美味しい物を知らないだろうな、可哀想だ。 天皇や皇族が、帝釈天の縁日に自由に遊びに来られるようにしてあげるべきだ。 写真はクリックすると大きくなります。
- 2008/04/13 - 参鶏湯(さんげたん) 私はいつも年月日を表記するのに西暦を使っている。私は現在の天皇制に反対する者だが、西暦を使うのは、それが理由ではない。 昭和、大正、明治など元号を使って表記すると、計算が面倒くさいからだ。私の父の生年は明治四十二年だが、はて、生きていたら今何歳だろうと考えても、すぐに答えは出て来ない。平成元年は昭和六十四年と、昭和元年は大正十五年と、大正元年は明治四十五年と、それぞれ重なるし、それを織り込んで各年号毎に数を重ねて計算するのは非常に手間が掛かる。その点、西暦は、ずっと一続きなので便利だ。 私は、天皇制反対主義者だが、もし、皇紀を使うのなら、年号を使うより遙かに便利なので、そちらの方を取りたい。 で、今年はなんと、平成二十年というので驚いた。 二十年と聞くと、私達の世代の人間は、ぎくりとなる。 それは昭和二十年という特別な年を思い浮かべるからだ。 昭和二十年が何故特別か。それは、日本が開闢以来初めて戦争で外国に負けて、外敵による占領という屈辱を味わった年だからである。 昭和元年から二十年まで、日本は激動の内に大破滅に向かって真っ逆さまに陥っていった。途中、昭和十年頃は、日本もかなり豊かだったようだが、それからは、日常の物資にも事欠くような状態になり、戦争が始まると乏しい配給食料でかつかつの生活を送らなければならなかった。 私は、その昭和二十年に北京から引き揚げて来たのだが、その当時の日本はどこへ行っても焼跡だらけ。アメリカは徹底的に都市爆撃を行い、日本中の主な都市は全て爆撃で破壊され尽くしていた。 一般市民を殺すための無差別爆撃は明らかな戦争犯罪なのだが、誰もアメリカを非難しないのはどうしてだろう。日本の無差別爆撃を指導して数百万の日本人を焼き殺したアメリカの責任者、カーティス・ルメイを記録映画で見たが、小太りで凶悪な面構えで葉巻をくわえて、まるでマフィアのボスみたいな感じで、日本の地図を広げて冷酷に日本人殺戮計画を立てていた。本人の言うことがいい。「これで、もし戦争に負けたら、俺は戦争犯罪人で死刑になる」 その、日本人を数百万も人道に反する無差別爆撃で殺したルメイに、なんと日本政府は、勲一等旭日大綬章という二番目に高い勲章を与えたのである。信じられないことである。 今も、日本の政府はアメリカの言うなりである。 日本に本当の右翼はいないのか。なぜ、ルメイに勲一等を与えた政治家、授かりに来たルメイを放って置いたのか。テロを扇動するわけではない。右翼なら、日本人を大量虐殺したアメリカ人が勲一等を与えるなどと、これほど世界中に無惨な恥をさらす行為を、やすやすと許すのはおかしいだろう。 昭和二十年の日本は、がれきの山に埋まっていた。人心も荒廃していた。 その、中から日本人は再び立ち上がり、1980年代には二十一世紀は日本の世紀などと威張れるようになっていた。 そして、昭和六十四年、平成元年、日本の経済の崩壊が始まった。 それから、二十年、日本の経済の崩壊は止まらない。 二十一世紀は日本の世紀どころか、世界中から日本は相手にされなくなってしまった。イギリスの経済雑誌「エコノミスト」は日本の経済の最盛期に「陽もまた沈む」と言う題で、日本の経済の崩壊を予言した先見の明のある雑誌だが、せんだって、JapanとPain(苦痛)をかけ合わせた「Japain」という題で、日本の経済の行く先が難しいことを書いていた。 特に、小泉純一郎が首相になってから、それまで何とか踏みとどまっていた日本の経済が一気に悪化した。小泉某は、「自民党をぶっ壊す」とわめいて人気を取ったが、自民党は壊れず、日本を壊した。 以前、シドニーの豪華なホテルの殆どは日本の持ち物だった。それが、今は全て外国に買われてしまった。日航ホテルも、全日空ホテルも、リージェントも、インターコンチネンタルも、何もかも失った。シドニーにあった日本の会社の支社の殆どは撤退し、日本人学校は生徒数が激減して一学年一学級を成り立たせるのが大変だという。 私は、自分の目の前で、日本という国が衰亡していくのを見るとは夢にも思わなかった。こんなに情けないことはない。 そこで、平成二十年である。 昭和二十年をどん底として日本が繁栄を取り戻したのと同様、この平成二十年をもって、日本がまた繁栄を取り戻して貰いたいのだ。 日本人は、能力がある。こんなことになったのは、思い上がった東大卒の官僚と、愚かな二世、三世政治家たちのせいである。 腐れ官僚と、屑政治家を追い払って、新しい日本を作ろうじゃありませんか。 で、元気の出る食べものを一つ。 参鶏湯です。私の家の近くの肉屋では常に有機飼育の鶏を置くようになって、我が家の食卓は非常に豊かになった。その有機飼育の鶏は、味が濃厚で純粋で、ブロイラーのような臭みが一切無い。それどころか、鶏本来の食欲をそそる良い香りがする。 その鶏に、朝鮮人参、クコの実、ニンニク、ナツメ、それに餅米少々を加えて、圧力鍋で煮る。 まあ、この参鶏湯の美味しいこと。韓国で参鶏湯の専門店に行ったが、その専門店の参鶏湯に劣らない、いや鶏がいいからうちの方が美味しいかも知れない。 翌日、体中に力がみなぎっているのが分かる。元気を出すのには最高の食べ物だ。 それに添えて食べても美味しいのが、キムチジャガイモの千切りをマヨネーズで和えてお好み焼き風に焼いた、ジャガイモとキムチのガレット。 香ばしくて、キムチの辛さと酸っぱさが効いて、それに、マヨネーズがこくを出して、不思議な味わいで、病みつきになる。 こんな物を食べて、元気を出しましょう。 写真はクリックすると大きくなります。
- 2008/04/12 - ブランド信仰の下らなさ〈「子育て記」に「長い前書き その3」を掲載しました〉 私は銀座が大好きなのだが、その銀座の街の姿が最近つまらなくなった。昔の味わいのある雰囲気が失せてしまった。その原因は、外国、主にイタリア・フランスのブランド物の店が建ち並んでしまったからである。 実にけばけばしく下品な感じがする。 文藝春秋の二千八年二月号に、塩野七生さんが「ブランド品にはご注意を」という題で、イタリアの国営放送が流したイタリアのモード界の実情を暴く番組を紹介している。塩野七生さんと言えば、イタリアに長い間住んでいて、イタリアを視点にして西洋文化を捉える様々な作品を書いている。私は、はるか以前に「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」を読んで、非常に心を打たれた。きびきびとした文章、深い洞察、人物を描くのに当てる光りの角度の見事さ。並みの作家ではないと思った。いま、塩野七生さんの作品は、各国で翻訳されているという。考えてみれば、西洋文化の基盤はローマ帝国によって築かれたような物だ。今、我々日本人は、アメリカに余りに引きつけられて、イタリアを軽視しているが、イタリアを捉え直すと、西洋文化の根底がはっきり見えてくる。そこの所が、塩野七生さん作品の凄さだろう。 その、塩野七生さんの紹介したイタリア国営放送の番組によれば、イタリアでは、製品の三十パーセントがイタリア製なら、全部イタリア製と認められるのだという。そこで、イタリアのブランド物の会社は、材料とデザインを中国に持込んで、七十パーセントまで仕上げて、それを輸入し、残りの三十パーセントをイタリアで仕上げて、イタリア製として売っている。問題は残りの三十パーセントもイタリアにいる、不法滞在労働者である中国人にさせていることだ。 何のことはない、百パーセント中国人によって作られているのに、イタリアのブランド物として、世界中に売られているのだ。 材料費、デザイン費、工賃、合わせて五十ユーロ(今日の為替相場では、一ユーロ、約百六十円、したがって五十ユーロで、八千円)、くらいと塩野七生さんは推測する。それが、店頭に出ると五百ユーロになる。八万円だ。それが日本に上陸すると、値段は一倍半になるから、十二万円になる。八千円の物が十二万円。 こんな馬鹿げた物を有り難がる日本人はどうかしているし、そんな馬鹿げたものを売る店が銀座に立ち並んでいることが情けない。 良く中国製の模造のブランド物が問題になるが、当のイタリアのブランド物の会社が、自分の製品を百パーセント中国人に作らせているのでは、本物と、模造品の違いなどないではないか。 今、書いたのは、布を使ったブランド物のことである。良くあるでしょう。ブランド名を織り込んだ布で作ったバッグなどが。 そう言う物が、百パーセント中国人によって作られた物なのだろう。 塩野七生さんは付け加えている。革を使ったブランド物は、安全らしい。何故なら、イタリアの職人の革のなめしと色づけの技術はおそらく世界一で、それに製造技術を加えれば、中国人は遙かに及ばないからだ、そうだ。 しかし、若い人が喜んで買ってぶら下げているブランド物は布製品が圧倒的に多い。もともと八千円のものを十二万円で売れば、その儲けは甚だしい。銀座の一等地にビルを建てるのも簡単だ。中国人をこき使い、日本人を騙し、ブランド物の会社が大儲けをする。 実に馬鹿げた話だ。お嬢さん方、目を覚ましてくださいよ。 あなたが喜んでぶら下げているブランド物のバッグの正体は何なのか、考え直して貰いたい。 だいたい、布製のバッグが十万円以上するなんておかしいと思わない方がおかしい。たかが布だよ。ブランドに目くらましを受けているんだ。 また、日本の十代や二十代の女性がブランド物のバッグをぶら下げていること自体不自然だ。その年で、どうして十万円以上もするバッグを買えるのか。 私の家の娘たちは、ブランド物と聞いただけで、そばに近寄らない。それは、お金持ちの世界の物で、自分たちの持つ物ではないと心得ているからだ。 銀座の街が最近下品になったのは、そんな下品なブランド物の店がはびこっているからだ。 何だか偽物の話をしていると気分が悪くなった。 口直しに、先だって、シドニーの中華街で食べた、ピピーの焼きそばをご紹介しよう。 ピピーというのは、日本で言うとアサリと言うところか。 貝殻の形はアサリより長いし、味もアサリより淡白だが、癖が無く美味しい。これで、スバゲティ・ア・ラ・ボンゴレを作ることもある。 ぴりっと辛いXO醤による味付けだが、ピピーの味を良く引き出していて、非常によい案配である。 細めの麺を、全体は柔らかいのに、表面は焦げ目をつけてぱりっと仕上げている。それに、ピピーの旨さが絡むと、もう、たまりませんという味。 ううう、中華街に行きたくなった。 写真はクリックすると大きくなります。
- 2008/04/11 - 落語の華と蜂蜜 私は落語が大好き。一番好きだったのが、志ん生、先代の可楽、そして、志ん朝だった。志ん朝が亡くなったときには、本当にがっかりした。 亡くなる寸前に、小学館の雑誌、サライが催したサライ寄席に志ん朝が出演した時に、サライ編集部のご好意で紹介していただいて、ほんの数分だったがお話しする機会を得、二人ならんで写真を撮ることも出来た。 その写真は、私の生涯の宝物である。 あれほど、艶があって、言葉が切れて、勢いがあるのに温かく、情感たっぷりに演ずる咄家は、もう私の生きている間にお目に掛かることは出来ないだろう。 志ん朝は、まだ二つ目の頃に「狸さい」を聞いて、その素晴らしさに驚いたことがある。志ん朝は生まれついての天才だったと思う。 ああ言う人が、早くに亡くなるとはまったく神も仏もない物だと口惜しくてたまらない。 今生きている落語家の中では、小三治が一番好きだ。 ただ、どう言う訳か、二十年くらい前から突然枯れ出して、何だか艶っぽさが失せてしまった。小三治の師匠の小さんも、非常に勢いの良い咄家だったのだが、ある時から突然、暗くぼそぼそ話すようになってしまって、驚くと同時にがっかりした。夫人を亡くしたのが応えたのかも知れない。 その頃から小三治も、妙につまらなさそうに、ぼそぼそ話すようになって、一体どうしたことかと、落胆した。そんなことまで、師匠の真似をすることはないのに、と思った。 しかし、最近、大分明るさを取り戻したような気がする。 「卵掛け御飯」とか、ホームレスの人に自分の駐車場を占領される漫談っぽい話をするようになって、それが良かったようだ。 しかし、最近聞いて驚いたのは、桂歌丸が素晴らしく良くなったことだ。桂歌丸というと、日本テレビの「笑点」で、座布団の数を争ったりするテレビ芸人みたいに思っていたが、最近の歌丸は、ちょっと三遊亭円生っぽいが、実に丁寧でしっかりした噺をする。 よほど精進を重ねたに違いない。テレビの人気に溺れず、芸を磨いたその心意気に感心する。 長生きをして、さらに、味わいを深めて貰いたいと期待している。 この、落語というのは、若い人に受けないと思ったら大間違い。私の姉が、私の息子や、弟の息子を寄席に連れて行ったら、一遍で落語が大好きになり、私の息子などは、日本に帰るたびに寄席へ行きたがる。「目黒のサンマ」を聞いたときには、矢も楯もたまらず、サンマを食べに行った、という。 やはり、落語は永遠の命のある芸だ。 私は、林家三平の全盛時代を知っているが、当時はただ騒々しく笑わせるだけで、本格的な落語の出来ない落語家と思って、少し低く見ていた。しかし、最近、三平のビデオを見て、がんと、頭に一発喰らったような気がした。とにかく温かく、気持ち良くさせてくれるのである。その中で、三平が噺をしている最中に、客が入って来てごそごそ、座席に着く場面があった。すると、三平はそのお客に「いやあ、いらっしゃいませ、もうそろそろおいでになるんじゃないかと、お待ちしてたんですよ」という。 それで、会場は爆笑に包まれ、言われた客も、照れはするが悪い気持ちではなさそうに席に着いた。 私は、最近、中途半端なテレビ芸人が、客いびりをするのが不愉快でたまらない。ろくに芸も出来ないのにタレントと称する人間が、客に向かって乱暴な口を聞いて、からかったりする。 それに引き比べ、三平の見事なこと。 自分が演じている最中に、客が入って来てごそごそ人をかき分けて席に着かれたら、三平だって気分が悪くなるはずだ。それを、おくびにも出さず、上手に、会場を笑わせる方向に持っていく。 私は、そのビデオを見ながら、「ああ、昔は本当に、素晴らしい芸人がいたんだなあ。これだけ、人の心を温かく気持ち良くしてくれる芸人が今時いるだろうか。私は、三平の素晴らしさを、評価し損なっていた」と深く反省し、もの悲しい気持ちになった。 三平もそうだが、志ん朝にも、華という物があった。いま、華があると言える落語家が果たしているだろうか、と考えると、ちょっと淋しくなる。 華と言えば、皆さんは、ユーカリの花をご存知だろうか。 オーストラリアの木の八十パーセントはユーカリだそうだが、ユーカリにも様々な種類がある。 下にお見せするのは、美しい花をつける種類のユーカリである。こんな木が、歩道の真ん中に植えられているのだから、オーストラリアは面白い。 その花の部分を良く見て下さい。蜂が沢山いるのが分かるでしょう。 その、ユーカリの花の蜂蜜です。さっぱりしていて、癖がないので万人向きだ。 これは、容器がまた優れている。 いつも、蓋の部分を下にして置くが、それには意味がある。 容器を押すと、このように、蓋の部分から蜂蜜が出て来て、押すのをやめると、ぴたりと切れる。 これまで、蜂蜜を使うのに、特殊な蜂蜜すくいのサジを使ったり、容器を使ったりしたが、どれも、切れが悪く、蜂蜜が無駄になったり、あとがべたべたして具合が悪かった。しかし、、この、容器が蜂蜜を使うときの面倒くささを全て解消してくれた。 私が、いつも愛用しているのはこの、レザーウッドの蜂蜜。 こちらは、香りも強く、癖がある。しかし、病みつきになると離れられない。私は毎朝蜂蜜なしではいられないのである。 この瓶のままだと使いづらいので、上の容器に移し替えて使っている。 写真はクリックすると大きくなります。
- 2008/04/10 - お詫び 今日は、システムの具合が悪く、写真がアップロードできないので、写真入り日記はお休みします。 いやはや、昼前から、不具合が生じて直らないんですよ。 この時間まで掛かって、直らないので、今日は写真入りは諦めた。 こう言う時に、コンピューター・システムと言う物は、便利なようで不便ですね。 私は、有田芳生さんのブログ「酔醒漫録」を毎日読むのを楽しみにしているのだが、この一週間ほど、その「酔醒漫録」にまるでつながらなくなった。有田さんのブログだけでなく、有田さんのブログのある、OCNのブログ全てにつながらない。 さては、OCNの不具合かと思って、次男に頼んで、別のプロバイダーを使っている次男の友人の家からつないで貰ったら、これが、ちゃんとつながる。 これで、OCNではなく、私の使っているプロバイダーに何らかの不具合があることが分かった。 さて、これを、どう直させるかだ。 この問題を、こちらのプロバイダーが、分かるだろうか。 とにかく、早速直すように申入れなければならないが、こちらのサービス部門の窓口は、インドにある。 電話をかけると、インド人特有の不思議な、聞き取りづらいなまりのある英語で応答してくる。 何故インドかというと、インドにサービス部門を置いた方が安上がりだからである。 電話のセールスも、インドから掛かってくる。 インターネット電話の普及で、電話賃が安いから、人手の掛かる部門はインドに置くのがこちらでは流行である。なまりがあっても、インド人は英語を話す。賃銀が安いから、オーストラリアの会社は助かる。 私のような英語の得意でない人間にはインド人の英語は聞き取りづらいが、英語を母国語とする人間にとって、なまりがあっても、聞き取れるから問題はない。東京の人間が、東北弁を聞き取るのと同じくらいの感覚らしい。 シドニーの、プロバイダーの本部と交渉しなければ解決出来ない問題だが、その間に挟まるインド人と如何に対応するか、頭の痛いことである。 まことに、インターネットやコンピューターは便利だが、一旦不調になると、実に困る。 慣れ親しみ、頼りにしすぎているのが、こう言う時に、仇となる。 今日中に、システムを直し、明日からは、写真入り日記を再開しますので、ご容赦の程を。
- 2008/04/09 - 餃子とローピン〈「美味しんぼ塾」に「ワイン その2」を掲載しました〉 農薬入りの中国餃子の騒ぎは、中国では、あれは日本人の陰謀と言うことになったそうである。 今さら、何を言っても中国人は聞く耳を持たないという。 我々日本人は唖然とするばかりだが、中国人は本気だから、どうしようもない。 中国では、江沢民が主席になって以来、反日感情を煽り立ててきた。私の見るところでは、そもそも江沢民が日本嫌いなところへ持って来て、天安門事件以降の中国をまとめるのに、反日感情を煽るのは非常に具合が良かったからではないか。 指導者が自国民を操るのに、外敵を措定してその外敵にたいする憎しみを煽り立てると、国民は外敵憎しでまとまって、指導者たちに対する批判がそれるから、指導者にとっては非常に都合がよい。ナショナリズムを煽ることが独裁的な政治体制にとって良い武器になることは、歴史の本を読めばすぐに分かる。 農薬入り餃子は日本人の陰謀と、中国人が思いこんでいるのも、中国政府の情報操作による物だろう。 中国では、現在のチベット問題を取り扱った外国のニュースは、そのチベット問題の所に来ると画面が写らなくなり、チベット問題が終わるとまた見られるようになると言う。 中国人は外国の情報に制限無く接する自由を奪われている。 オリンピックを控えて、中国では、政府を批判する自由主義的な運動家を次々に逮捕して行っている。中国に言論の自由はない。そんな国で、政府が、中国の食問題を国際的に拡大させないように、餃子問題も日本の責任にすると決めたら、中国人はそれに乗るだろう。「毒入り餃子は日本の陰謀」と煽られたら、ナショナリズムと反日感情が燃え上がって、中国人全体がそう思いこむのも無理はない。 しかし、食の安全の問題は自分たちの問題でもあるのに、中国人はそのあたりをどう考えているのだろう。 私は以前は北京に行くと、ホテルで朝食を取ることはせず、わざわざタクシーに乗って庶民的な街の方へ出かけ、そこで屋台の饅頭や、餃子などを食べるのを楽しみにしていたが、これだけ、中国の食の安全性を疑う話が続くと、もう、屋台では食べられない、いや、それどころか、中国に行って、うっかりした店に入れない、と思うと我が愛する中国に行こうと言う気持ちが萎えてくる。 私は北京生まれなので、北京には大変な愛着を抱いていて、中国人が大好きである。初めて香港に行ったとき、香港と北京はまるで違うところなのに、周りが全部中国人という環境が、私にひどく懐かしい思いを抱かせ、昂奮して町中を歩き回った。 オーストラリアで、シドニーに住もうと決めたのは、シドニーの中華街が充実していたからだ。(シドニーの中華街には仲の良いレストランの支配人などが何人もいて、私に大変良くしてくれる。私が中国人を好きなことがすぐに通じるらしい)中華街にいると実に心が和み、浮き浮きとする。 最後に北京に行ったのは四年前だが、その時は一緒に行った姉の努力で、なんと、昔私達家族が住んでいた家を発見して、深い感慨にふけった物である。 それほどの、中国好きの私が、今の中国に行くのはちょっと辛く感じる。 中国が経済的に発展して豊かな国になるのはめでたいことだが、日本も、経済発展の途上で公害問題に苦しんだ。今の中国は、ちょうど高度成長期の日本に似た過程にあるのではないだろうか。 で、あれば、前車の轍、後車の戒め、と言うことわざもある。 日本は公害問題を克服するのにひどく苦労した。そこの所を、中国人も研究して、環境の破壊を押しとどめて、安全な食品を作るように努力して貰いたいものだ。今のままでは、中国は自分たちの健康問題で大きな苦しみを抱え込むことになる。 ナショナリズムに煽られて、「毒入り餃子は日本陰謀」などと、ふんぞり返っていると、その毒が中国人本人に返ってくる。 オーストラリアの市場では、全ての野菜に生産地が表示されている。 オーストラリア人は、オーストラリア産の野菜を選んで買う。 Produce of China(中国産)とあると、みんな手を引く。 中国の食品に信頼を置かないのは日本だけではないのだ。中国人よ、目を覚ましてくれ。 そんな中国好きな私の家なので、中国に十年近く住んだ父親がおぼえて来た餃子と、ローピンが、我が家の大事なご馳走である。 餃子は勿論皮から作らなければ美味しくない。買ってきた皮で作った餃子は我が家では、本物と認められないのである。 我が家では、水餃子が主である。中身は、豚の挽肉、白菜、椎茸、ネギ、ニンニク、赤味噌少々、ごま油。 自分で皮を作るから、ローピンも作ることが出来る。 餃子と同じ小麦粉を練った物を、出来るだけ薄くのばして、ごま油を塗り、刻んだネギを一様にばらまき、それをくるくると丸めて棒状にして、その棒状になった物を丸くまとめて、平らにして、ごま油で焼く。 生地が、パイのように何層にもなって、そこにごま油と蒸し焼きになったネギの香りと甘味が加わって、我が家に来たお客に食べさせると、みんな昂奮する。 実に美味しい。 中国人よ、私はこんなに中国を愛しているのだから、安全な食べ物を作ってね。って、何だか意味のないことを言っているな。 写真はクリックすると大きくなります。
- 2008/04/08 - 犬のためのバースデイ・ケーキ 良く、犬派、猫派、などと言う人がいる。犬の好きな人と猫の好きな人は違う、という訳だ。 しかし、その意見に私は反対だ。私は、犬も猫も大好きだ。 子供の時から犬猫がそばにいなかった時期は極めて少ない。 私は北京で生まれたが、三歳くらいの時には犬を飼って貰って、テーブルに犬を乗せて、その犬の目突っついてテーブルから落として遊んでいて、親にしかられたという。(どうも、凶暴なガキだったんだな) 私は東京の田園調布に二十年住んだが、私の家のすぐ近くに宝来公園という公園があり、そこに、しょっちゅう子犬、子猫が捨てられていた。朝、学校に行くときに、公園のなかを抜けていくのだが、公園の入り口に、段ボール箱に入れて生まれたばかりの子犬や子猫が捨てられている。学校に行くのに、拾っていくわけにはいかない。 そんな日は、学校にいても気もそぞろで、何も手につかない。 学校が終わると、一目散に帰るのだが、その間に始末されて子犬も子猫も姿を消していることもあるし、体力のある子猫や子犬は箱からはい出して公園のどこかにさ迷っていて姿が見えず、残っているのは弱り切ったもの、と言うことも良くあった。 それでも、何匹か拾っていって、育てた。 両親はよい顔をしないが、頼み込んで飼わせて貰うのである。 しかし、昔はジステンバーや、フィラリアなどに対する治療法が無く、犬など三四年で死ぬことが多かった。 ある時、犬が死んで、その悲しさに、家族の目を避けて裏庭の井戸端で泣いていたら、弟も泣きに来て、「あ、お兄さんもかよ」と弟が言って、二人で泣き笑いしたこともある。その度に、庭を掘って埋めた。その家は敷地が百五十坪あったが、私達が引っ越してから、不動産屋が、三つに割って三軒分の土地にした。 昔はのんびりした風情だった田園調布も、その様に土地の細分化が進んで、息苦しい街になってしまった。 私の家のあった土地を造成するときに、庭のあちこちから、犬や猫の骨が出て来て、工事をする人は驚いたのではないか。 オーストラリアでは、最初はこんなに長くいるつもりはなかったし、日本に残してきた犬や猫に義理立てをして一切動物を飼わなかったが、次男が異常に犬を怖がるので、これはまずいと思って、ラブラドールを飼うことにした。 それが大間違いのもと。次女は異常な犬好きで、私が禁じたにもかかわらず、犬を自分のベッドに入れる。他の兄弟もいるのに、自分で完全に独占してしまう。 挙げ句の果てに、大学に進学する際に、この犬の面倒を見たいから獣医学科に行くという。オーストラリアは、畜産大国なので獣医の地位が高い。高校卒業試験で高い点を取らなければ入れない。幸い、次女は人間の医学部にも進めるだけの点を取ったので、人間の医師になってくれと私が頼んでも、この犬のために獣医になるといって聞かず、とうとう獣医になってしまった。私としては、人間の医師になって貰いたかったので残念である。 次女は、大変に料理が好きで、ケーキなども上手に焼く。 なかなかの腕前で、私は、獣医なんかやめて、料理の道に行けとけしかけるのだが、料理は趣味にとどめる方が良いかも知れない。 その次女の愛する犬。ポチ。十四歳である。 その、ポチの誕生日に、次女はポチのためにバースデイ・ケーキを焼いてやった。バースデイ・ケーキを焼いて貰う犬なんてそんなにいるものではないだろう。 犬なんかにバースデイ・ケーキなんて、贅沢だと怒ったが、次女は、私の誕生日にも、私の大好物のイチゴのケーキを焼いてくれたので許す。 家族中、次女がケーキを焼くのを楽しみにしている。そこらのケーキ屋なんか、相手にならない美味しさである。何でも真面目な材料を使って、しっかり基本に忠実に作れば、美味しい物が出来る。それに、根気と才能があれば。 写真はクリックすると大きくなります。
- 2008/04/07 - 真夏の正月 日本とオーストラリアは季節が逆なので、時々とまどうことがある。 日本の四月は春の真っ盛り。桜前線が北上して行って、それを追いかけると言うのも楽しいものですな。 三年ほど前の四月に、突然福島に行きたくなって、連れ合いと、姉と三人で、車で飛び出した。 大学の時に、福島県伊達郡の霊山神社にお世話になったことがあって、その霊山神社を訪ねてみたくなったのである。 霊山神社の周辺は大きく変わっていた。神社も変わっていた。私の面倒を見てくれた当時の宮司、阿曽さんのことを尋ねても、現在の神社の人は私の顔を見ようともせず「何も知りません」と相手にしてくれない。 がっかりしたが、帰りに、会津若松の鶴ヶ城に寄ったら、鶴ヶ城の桜の見事なこと、身も心も浮き立つ思いがした。日本の春は素晴らしい。すっかりいい気持ちになった。 で、こちらの四月は、秋深まると言う所なんです。 オーストラリアも州によって違うがシドニーのあるニュー・サウス・ウエールズ州では、十月の末から翌年の三月の末まで、デイ・ライト・セイヴィング・タイムと言って、時間を一時間進める。日本との時差は、もともと一時間あるのが、デイ・ライト・セイヴィング・タイムになるとそれが二時間になる。 日本のテレビを見ようとすると、とても不便である。 夜七時のニュースを、こちらの九時に見る。相撲も、打ち出しが、こちらの八時になる。 例年、三月の最終土曜日の夜から、普通の時間に戻るのだが、今年はどう言う訳か、四月の第一週にまで延びたので、いろいろと間違いが起こったようだ。来年から、期間を延ばして、年の半分はデイ・ライト・セイヴィング・タイムにすると言う。そうなると、どちらが本当のシドニー時間なのか分からなくなる。私の家は、NHKに依存しているので、時差が二時間になるのは不便だから勘弁して貰いたいと思うのだが、こちらの人間にとっては、五時に会社が終わってもまだ明るいので、外で遊べて具合がよいらしい。日本と違って、普通の会社員は残業などしない。するのは、アメリカ系の金融会社くらいのものである。 調子が狂うのが、真夏に正月を迎えることである。 二年前までは、十七年間にわたって十二月二十八日に我が家で餅つき大会を開いていた。Tシャツで、汗みずくで餅つきというのも不思議な物だった。 真夏でも、私の家では、お節は欠かさない。 連れ合いと、娘たちで三日かけて作るのである。 今年の、お節をお見せしましょう。 この、梅花卵とリンゴ寒天は我が家のお節に欠かせない。 今度は、逆の方向から。やはり、お重が中心です。 今年は鯛の代わりに、秋谷の友人が釣ってくれた赤ムツを冷凍にして日本からもってきたので、それを焼いて、魯山人の器「緑釉長鉢」にいれた。 それを加えると、全体が豪華になる。 最近は日本でも家庭でお節料理を作ることが無くなったそうだが、私の家では、何十年も作り続けていて、子供たちにも、その技は確実に引き継がれた。私の子供たちも、独立しても、正月にはお節を作ることだろう。 こう言う時に、日本人に生まれて良かったな、と思うんです。これが真の愛国心と言う物ではないかしら。 写真はクリックすると大きくなります。
- 2008/04/06 - ターキッシュ・ブレッド・サンドイッチ〈「子育て記」に「長い前書き その2」を掲載しました〉 この、日記の最初の回に「人の悪口を言わないようにしよう」と書いたら、小学校の同級生の一人から、「批判をしないあなたはワサビ抜きのお寿司みたい」と言われた。彼女は、あだ名が「級長さん」。ずっと成績優等で真面目で、私など余りに不真面目で乱暴なので、ある時、目に涙をためた彼女に「どうして、戸塚君はそんなことをするの」と怒られて、しょぼんとしたことがある。(私の本名は、戸塚と言います)私を含めて、私達小学校の同級生は、皆、彼女に頭が上がらない。彼女が最近になって「私は、小学校の遠足の時なんか楽しい思いは全然出来なかったのよ」と言ったので、同級生みんなが驚いた。彼女が言うのに、遠足に行って、現地解散をする。その時に人数をきちんと数えておく。帰る時に集合する際に人数を数え直す。大抵、数人足りない。そこで探し回って、集める。人数が揃ったところで担任に報告して帰途につく。「みんな、勝手に動き回るから、それを見張ってまとめるだけで私は神経を使って、楽しむどころじゃなかったのよ」 六十を過ぎてそんなことを言われて、一同、ああ、「級長さん」には悪いことをしたと、シュンとなった。 その級長さんの御言葉どおり、私が、何か社会批判をしないのは自分でも物足りないと思うが、鋭い社会批判をしているブログは沢山あるし、私は、「美味しんぼ塾」の中で結構きついことを言ったりしているので、この日記では、当分の間(あくまでも、当分、です。いつ爆発するか分からない。そりゃ、今の日本の社会について何も言わないなんて、それも不自然だもの)楽しい気分で行きたいと思います。でも、批判はするけれど、読む人が気分を悪くするような悪口じみたことは、今までも書いたことはないし、これからも書きません。 昨日、私の昼食は基本的に麺類と書いたが、勿論、他の物も食べる。麺類が多いだけだ。 オーストラリアには中近東からの移民も多いので、ターキッシュ・ブレッド、はあちこちで売っている。本場のトルコには様々な形態のパンがあるようだが、こちらで、ターキッシュ・ブレッドというと、平べったくて大きいパンである。 それを、油揚げを開く要領で開いてサンドイッチを作る。 このサンドイッチが、我が家の昼食の定番の一つである。 パンにはゴマなどがまぶしてあって、香ばしくて美味しい。 中身は、ルッコラ(ロケット)、生のマッシュルーム、セミ・ドライ・サン・ドライド・トマト、レッグハム、ブリー・チーズ、などである。 問題は、このレッグハムで、日本ではどうしても手に入らない。生ハムではない。欧米で普通にハムというとこれが出て来る。ところが日本でハムというと、プレス・ハムか、ロースハムである。どちらも、煮豚のような物で、この新鮮な美味しさがない。どうして、この普通に欧米で手に入るハムが日本にはないのだろう。逆に、日本のロースハムみたいな物は、少なくともオーストラリアではお目にかかれない。 こうしてみると、中身が充実しているのがお分かり頂けるでしょう。このサンドイッチ一つで、午後中、腹は持ちます。 写真はクリックすると大きくなります。
- 2008/04/05 - 焼き干し 私がこうして毎日日記を更新すると言ったら、小学校の同級生の一人が、そんな大変なことはやめておけ、と言った。私は、後ほど説明するが、ちょっとした手術を受けて、三十一日に退院してきたばかりで、友人は、こんなことに力を使うよりリハビリを第一にしろと忠告してくれたのである。 持つべき物は、友人で、親身になって心配してくれる。 しかし、私にとって、こんな日記を更新することは、何も負担ではないのである。 物書きにとって、文章を書くのは病気というか、第二の天性というか、書くなと言われても書かずにいられないのだ。高校生の時から、色々と書き始めて、それ以来毎日何か書かずにはいられない。 むしろ辛いのは、このようなインターネットのページの場合、長すぎると読む方が迷惑するから、余り長く書くなと、インターネットに詳しい人達に言われていて、思い切りたっぷり書けないことだ。 漫画の原作を書くのにも、とにかくページを沢山くれ、と編集部に頼み込んできた。生まれつきしつこい性格のせいか、頭が悪いせいか、短く、すっきりと切上げられない。くどいのである。 言いたいこと、書きたいことは胸の中に山ほどたまっていて、毎日どれだけ書いても、書きたいものが減ることがない。 問題は、私の書くものが面白いか面白くないかであって、そこの所は、1973年以来物書き商売を続けて来ても、まだ分からない。 自分で面白いと思うものの大半が、読者に面白くないと思われてきたのが実情だ。これだけ長い間漫画の原作を書いてきても、当たったと言えるのは三本しかない。 実に厳しいものである。 だから、この「美味しんぼ日記」も、本当にこのページに立ち寄ってくださった方々が、何度も来て下さるように面白くしたいと思うのだが、果たして、どうなりますことやら。 今日は私の昼食をお見せしよう。 私は、昼は基本的に麺類と決めている。 うどん、そば、スパゲッティ、などが代る代る出て来る。 ここにお見せするのは、うどんである。 麺は、オーストラリア製の有機小麦で作った乾麺、上に乗っているのは、焼いたネギ、ちくわの薄切り、焼いた油揚げの薄切り。 何の変哲もないが、実は、この出汁は、靑森の焼き干しと、北海道南茅部町の昆布で取ってある。 焼き干しと、昆布で取った出汁は最強である。素晴らしく旨い。うどんやそばのつゆにするには無敵だ。 焼き干しは、取れたての鰯、アジの頭と内臓を取り除き、串に刺して焼いて、干す。(「美味しんぼ」第百巻 日本全県味巡り、靑森篇に詳しく書いてあります) 煮干しは、頭も内臓もまるごと煮る。煮るから味が抜けるし、内臓の苦みがつく。その点、焼き干しは、頭と内臓を取って焼くので、内臓に苦みは残らず、旨みも抜けない。(アジの焼き干しは、内臓は取るが頭は取らない) ご覧下さい。 ボールペンに比べると小さいのが分かるでしょう。これを一つ一つ手で仕上げるのだから大変だ。 それを、昆布と一緒に出汁を取ると、こうなる。 しかし、昆布も北海道の南茅部町の昆布だ。これを捨ててしまうの勿体無い。そこで、鎌倉から来ていた母が、出汁を取ったあとの焼き干しと昆布を刻んで、酒と醤油で煮てくれた。すると、おお、素晴らしい佃煮になるではないか。 御飯の友として最高。酒のつまみとして上々。 問題は、この出汁で作ったうどんの汁は、余りに美味しいので、どうしても全部のみ干してしまいたくなることだ。塩分摂取過多が怖いな。 写真をクリックすると大きくなります。
- 2008/04/04 - 月下美人 日本は、桜が満開で、皆様方には春爛漫の美しさを満喫して居られるようですが、こちらはいよいよ秋が深まってきて、自分の部屋にいても、長袖を着なければならなくなった。今年の夏、オーストラリアは冷夏で、真夏であるはずの二月が雨ばかり降ってろくなことがなかった。 おかげで、毎年夏になるとオーストラリア中山火事が発生して大変なのだが、今年は山火事騒ぎが無くてすんだ。その代わり、オーストラリアの夏を楽しみに来た観光客はひどい目に遭っただろうな。 オーストラリアなんて、雨が降ったら、何も面白くないところですからね。 私は、連れ合いに「張り子の哲」とからかわれるくらいに、雨に弱い。雨が降ると外に出るのが厭になる。会社勤めをしているときも、雨の降る日は「雨の降る日まで出社するほどの給料は貰っちゃいねえ」と言って休んだ。私は、雨の日の電車の中の、あの、気持ちの悪いじっとりとした湿った匂いが耐え難く嫌いで、しかも、みんな雨具を持っているでしょう。あの雨具がこちらの身体に触れたりすると、死にたくなるほどいやだった。 ある時、雨が降るので会社を休んでいたら、普段出かけているはずの父がいて、「今日は会社は休みの日か」と尋ねるから、「今日は雨が降っているから休む」と言ったら、父は激怒した。父は、会社で努力して出世するのがまともな生き方だと思っている世代の人間だったから仕方がない。 そんなつまらない、シドニーの夏だったが、花は正直なもので、真夏の二月十七日に、「月下美人」の花が咲いた。 月下美人は夜に開き、その夜の内にしぼんでしまう。じつにあでやかで、香りも濃艶なのだが、はかない。花は昆虫を引き寄せるためのものだと思うのだが、夜だけしか咲かない花なんて、どう言う意味があるのだろうか。そう言えば、夜になると活動する昆虫は結構いましたね。その夜遊び好きの昆虫を引き寄せるために、かくも、あでやかに装っているのだろうか。 お見せしましょう。 きれいでしょう。でも、こんなきれいな花を、私の家では食べてしまうんです。野蛮かしら。 花を湯がいて、エリンギと一緒に酢の物にします。 赤っぽいのは一番外側の花びらです。 味は、甘くて、歯ごたえはしゃきしゃき。それに、ほら、こんな風にねっとりねばねばするんです。 不思議な味わいです。月下美人だけあって、艶なる味わいです。 写真はクリックすると大きくなります。
- 2008/04/03 - 美味しんぼ日記を始めます 2008(二〇〇八)年は末広がりの年で縁起が良く、何もかも上手く行く年だそうだが、2008の数字全てを足すと末尾が0。オイチョカブなら最低の手、ぶたである。 果たして、末広がりに行くのか、ぶたになるのか・・・・ こんな年に、雁屋哲の新しいホームページ「雁屋哲の美味しんぼ日記」を始めます。 日記は基本的に毎日更改します。 楽しい内容にしたいと思います。 数年前私の連れ合いが「新庄選手ってすごいわよ」と私に言った。スーパースターの新庄選手について今さら何を言うのかと思ったら、連れ合いは続けて「インタビューで、今年の目標はと聞かれたら、人の悪口を言わないこと、って答えたの。野球の選手が今年の目標はって聞かれたら、普通、打率三割、ホームラン三十本なんて答えるものでしょう。それなのに、今年の目標が人の悪口を言わないこと、なんて言うのは、凄いわよ。私、新庄選手のファンになっちゃったわ」 それを聞いて私も唸った。「うーむ、すごい」 私の連れ合いも人の悪口を言ったことのない人間であるが、私は人の悪口を言うのが大好きと言う下劣な人間である。 しかし、この「美味しんぼ日記」では、人の悪口を言わないようにしよう。 てなところで、今日の私の朝食をご紹介しよう。 有機低温殺菌牛乳で連れ合いが作ってくれるヨーグルトに、キウイを入れた物です。 それに、タスマニア産の、レザーウッドの蜂蜜をかける。 レザーウッドは、日本で言えばギンモクセイのように大きな木に小さな花を沢山つける。 その花の香りが素晴らしい。したがって蜂蜜も香りが強い。私の一番好きな蜂蜜です。 写真をクリックすると、大きくなります。
該当記事が見つかりませんでした。別のキーワードでお試し下さい。