雁屋哲の今日もまた

2008-08-06

パレスティナ問題 その15

 コーランを開くと、114章の殆ど全てで、最後の審判の日について繰り返し語られている。
 前回も取り上げたが、念のために今回も幾つか見てみよう。
 アラーの教えに従って良い行いを重ねて来た人間は、

「信仰を抱き、かつ善行をなす人々に向かっては喜びの音信(たより)を告げ知らしてやるがよい。彼らはやがて潺々と河水流れる緑園に赴くであろうことを。その緑園の果実を日々の糧として供されるとき彼らは言うであろう。『これは以前に(地上で)私たちの食べていたものとそっくりでございます』と。それほど良く似たものを食べさせていただけるうえに、清浄無垢の妻たちをあてがわれ、そこにそうして永遠に住まうことであろうぞ」(第2章 第23節)

 もうひとつ、どうぞ。

「(前略)誠実一筋のアラーの僕は違う。そういう人々だけは、例のおいしい食べ物を頂戴できる。(中略)側に侍るは眼差しもしとやかな乙女ら。眼ぱっちりした美人ぞろいで、体はまるで砂に隠れた卵さながら(ダチョウの卵のことで、純白にうっすら黄色みを帯びたダチョウの卵は最上の女性の体を思わせるのだそうだ)」(第37章 第39節、第47節)

 行いの正しかった者は素晴らしい天国に迎えられ、そこで美しい乙女たちを妻としてあてがわれるのだという。(結婚している男性の場合、妻はどうなるのだろう。妻は天国に連れて行けないのかしら。
 それに、女性の信者の場合は、どうなるんだろうね。
 若い美男子たちがあてがわれるのだろうか。あ、どうも不謹慎なことを言ってしまったかな。しかし、ユダヤ教もそうだが、イスラム教も非常に男性優位の思想がみなぎっているように、私には思えるのだ。)

 で、行いの悪かった者はどうなるかというと、

「(不信心な者達は、最後の審判の日に復活すると聞かされて)『おい、俺たちが骨になり、ばらばらのかけらになってしまったあとで、え、おい、そのあとでも、も一度生まれて生き返るんだって』と彼らは言う。
(骨どころか)石になろうが鉄になろうが、それとも何かお前たち自分で想像できるかぎりのものになろうが(アラーは必ず復活させ給う)と言ってやるがよい」(第17章 第52節、第53節)

 そして、

「いまに、復活の日が来たら、彼ら(不信心な者たち)みんなを召し寄せて、顔で歩かせてくれようぞ(さかさにして、足の代わりに顔で歩かせてやる)。目も見えず、口もきけず、耳もきこえず、落ち行く先はジャハンナム(ゲヘナ、地獄の火)。火力が弱まる度にまた新しく焚きつけてやる。これが当然の報いというもの。」(第17章 第99節)

 と、至る所で、最後の審判の日の恐ろしさを繰返し説く。

 実は私は、小学校の頃から、ルーテル教会の日曜学校に通わされて、キリスト教を信ずるようになった。しかし、十九歳の時に、キリスト教を捨て、それ以後一切の宗教を信ずることが出来ないのだが、それでも、子供の時に教えられた、最後の審判の日の恐怖は、今でもそのかけらが残っていて、ときどき「ああ、俺なんか、こんなことをしていると最後の審判の日には地獄行きだな」などと、ふと思ったりするから恐ろしい。
 この最後の審判の日の恐ろしさを叩き込まれると、人間、神から離れるのが怖くなる。
 イスラム教徒の世界を見ると、幼稚園児くらいから、コーランを教え込む。
 それも、体を前後に揺すりながら、コーランを読むように仕込まれる。
 この、体を揺するというのは大変に効果的で、単に読むより体を動かすから、教えが身にしみ、心にしみこむのだ。
 子供の頃に叩き込まれた、最後の審判の日の恐ろしさは、イスラム教を捨てない限り、終生イスラム教徒を縛り付けるだろう。

 問題は、この最後の審判の日に、イスラム教を信じない者はみんな地獄に落ちる、劫火に焼かれる、と言うところだ。
 イスラム教を信じない者は、無信仰の者も勿論、ユダヤ教徒、キリスト教徒も入る。
 ユダヤ教徒、キリスト教徒は、コーランでは同じアブラハムの神を信じる者として啓典の民として、他の多神教の信者や、全く信仰を持たない者よりは、扱いが上なのだが、ユダヤ教徒もキリスト教徒も、イスラムの教えを受け入れないので、やはり、最後の審判の日には、裁かれるとした。

「『キリスト教徒には根拠がない』とユダヤ教徒は言う。所がキリスト教徒の方でも『ユダヤ人には根拠がない』と言う。ともに聖典を読んでいるくせに。また(啓示というものを全然)知らない連中もこれに類することを言っている。いずれ復活の日にアラーが彼らの論争に判決をお下しなさるであろうぞ」(第2章 第107節)

 この、イスラム教を信じる者以外は全て最後の審判の日に裁かれるという、この教えがイスラム教のイスラム教徒以外に対する非寛容の態度を作った。

 さらに、コーランでは、

「汝らに戦いを挑むものがあれば、アラーの道において(『聖戦』すなわち宗教のための戦いの道において)堂々とこれを迎え撃つがよい。」

「向こうからお前たちにしかけて来た時は、構わんから殺してしまえ。信仰なき者どもにはそれが相応の報いというもの」

「(前略)宗教が全くアラーの(宗教)ただ一筋になる時まで彼らを相手に戦い抜け。」(第2章 第186節から第189節)

「戦うことは汝らに課された義務じゃ。さぞ厭であろうけれど。」(第2章 第212節)

「アラーの道に戦う者は、戦死してもまた凱旋しても、我らがきっと大きな褒美を授けてやろうぞ」(第4章 第76節)

 と、イスラム教のために戦う聖戦を義務づけ、その戦いで死んでも、大きな褒美(天国に迎えられること)を授けてやる、と言う。

 イスラム教の特徴として

  • イスラム教徒以外は最後の審判の日に地獄に落ちる。
  • イスラム教を守るために、イスラム教に挑む者は殺さなければならない。
  • イスラム教のために戦う聖戦はイスラム教徒の義務である。

 と言う所が、あるのは明かだろう。
 最後の審判の日の恐ろしさが、この教えを固く守る態度をイスラム教徒に取らせる。

 一方のユダヤ教も、「カナンの地に住む多くの住民は神に背いたから滅ぼしてその地をイスラエルの民は奪って住め」と言うほど、異教徒には非寛容である。

 今、パレスティナで争っている、ユダヤ人、パレスティナ人、共にかくの如く互いに非寛容で、攻撃的な宗教を原理として行動している。
 これでは、いくら和平会議を開いたところで、和平が成立するわけがない。

 パレスティナ問題は、結局はユダヤ教とイスラム教の争いだ。
 宗教の争いだから、ここまでこじれてしまったのだ。
 これが、パレスティナ問題の一番の根元なのだ。

(つづきは、また明日)

雁屋 哲

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