久しぶり
長い間、ご無沙汰してしまったが、久しぶりにこのページに書き込むことにする。
去年から今年にかけて、体調の不備に加えて母を見送るということもあって、このページにたどり着くことが出来なかった。
再開第一回は中国旅行の報告である。
私は7月31日から、北京、新疆・ウィグル地区を旅してきた。
旅と言っても、極めて短い物で、8月11日に日本に戻ってきた。
旅の目的は、新疆・ウィグル地区にあった。
最近、イギリスのBBCの番組で、新疆・ウィグル地区での、中国政府によるジエノサイドとも言えるような、ウィグル族に対する過酷な施策が報道されている。
BBCの番組はどれも高い水準を保っていて、でたらめな報道をすることはまずない。
報道されたことは概ね真実であると考えて間違いはないと思う。
報道されたところによると、
イ)ウィグル地区各地に、合わせて二百個所以上もの強制収容所があって、多くのウィグル人が入れられている。
ロ)収容所に入れられるのは、性別、年齢に関係ない収容所内での、ウィグル人の処遇は過酷である。
ハ)収容所内での女性に対する性的な虐待が組織的に行われている。
ニ)女性に対して強制的に避妊手術をしている。
ホ)男性は、何処かに連行されていく。その男性たちは臓器移植のための臓器提供者とされると言う説もある。
そうでなければ、どこにどうして連行していくのか説明がつかない。男たちは、目隠しをされ、家畜のように連行されていく。
ヘ)ウィグル人の女性は、中国人・漢族との結婚を奨励される,と言うより、無理矢理に結婚させられる。
ト)収容所では、中国共産党を褒め称える事を強制される。
チ)ウィグル語は禁止、中国語を強制される。
リ)最悪なのは、両親が収容所に入れられている間に、その子供たちが孤児院などに入れられて行方不明になっていることである。
親にとって、子供を失うことがどれだけ悲惨なことか、四人の子供と、1人の孫を持つ我が身の上に引き換えてみると震えが走る。
実に途方もない人権侵害である。
どうして、このような人権侵害が行われているのか。
それについては、新疆地区の成り立ちから考えなければならないが、それは少しばかり長くなるので、そこの所は次回以後に回して、現在の中国政府のウィグル人に対する暴虐行為を中心にして考えて行きたいと思う。
私が新疆に行くと言ったら、私の友人たちは心配した。中には、強硬にやめろという友人もいた。
最近、中国で日本人が中国政府に捉えられた事例がいくつか重なっている。
友人たちはお調子者で口が軽い私の性格を知っているから、中国で政府官権の目に触れるようなことを言ったりしたりして、お縄を頂戴、と言うことになるやも知れぬと心配してくれたのだ。
今回の旅の同行者と言うより案内人は1985年以来の付き合いの中国人Fさんである。
私と両親が1983年に桂林に旅行に行ったときに、当時北京の大学生だったFさんがガイドとして案内をしてくれた。
それがきっかけで、初対面から私の父とFさんは仲良くなった。
父は戦前中国で働いていて、中国人に非常な親近感を抱いていた。父は口癖のように「中国人は偉大だ。今に日本なんて中国にペちゃんとやられてしまうぞ」と言っていた。
1980年代の中国は日本より大分遅れていたのだが、それから、わずか30年の間に日本を追い越す経済大国になってしまったのだ。
私の父の予言は正しかったと言うべきだろう。
当時まだ日本より遅れていた中国の学生を日本へ招んで勉強させて上げていと父は望んでいた。
戦前日本が中国を侵略していたことが、父には非常に精神的に負担になっていて、何とか中国人にお返しをしたいと言っていたのだが、Fさんと出会ったのを好機と捉えて、日本で勉強をしたいとFさんが言うのを聞いて日本に招いたのだ。
Fさんはその当時、中国ではまだ新しかった、ホテル学科を専攻した。
その後日本でホテルに勤めるのを皮切りに、日本で様々な職業に就いた。
私はその間にシドニーに行ってしまったので、しばらく私はFさんと付き合いのない時があったが、両親とFさんは変わらず親しく付き合っていた。
8年ほど前に私の家から十分もかからない佐島にFさんは家を建てて、それ以来、私との付き合いも以前に増して深くなった。
Fさんは私の親族の一員となっていて、親族の集まりの際には必ず参加してくれる。
そのFさんには2016年にも、西安、上海、南京旅行の際に同行して貰って世話になっている。
そんなFさんなので、私が新疆に行きたいと言ったら、今回も自分が世話をすると意気込んでしまった。
私としても、Fさんの助けがなければ自力では無理なので、すっかりFさんに頼ってしまうことになった。
さて、まずは北京へ向かった。
その巨大さがただ事ではない。
日本人の規模の感覚とは数段違う。
例えば、香港から進出してきたホテルだが、一体これはなんなのだ、と言うくらいに、ただひたすらでかい。
建物全体の大きさも勿論、内部の作りもあっけにとられるほど大きい。
そのホテルに比べれば、その規模だけから言えば我が帝国ホテルもこぢんまりしたビジネスホテルにしか見えないかも知れない。
もっとも、ホテルで大事なのは規模や作りの大きさ、豪華さではなく、心のこもった客のもてなし方が一番大事なので、規模で負けても、帝国ホテルはびくともしないだろう。
今回、北京では何を置いても北京ダックを食べたかったので、北京ダックの名店「全聚徳」に有機飼育の家鴨を日本から予約しておいたが、その他に、北京で一番と言われている中華料理を食べたいと思った。
Fさんは色々調べてくれたが、なんと、その巨大なホテルの中華レストランが大変に評判が良いという。
では、そこで食べようということになった。
そのホテルは巨大で豪華なだけあって、客層も私たちを除けば明らかに富裕層だった。
私達がホテルに着いたとき、ホテルの入り口に、ベントレーがとまり、中から40代のチャラい感じの男と、ケバい女性が降りたって、男は、車の鍵をポーターに渡した。
男性はジーンズのパンツに白のTシャツを着て、その上に薄い水色のジャケットをボタンをかけずにはおっていた。
サングラスをかけいるのだが、眼鏡のレンズの部分は頭に乗せていた。
一頃、はやったサングラスの小道具としての使い方だ。
そうすると、格好良く見えるのだろう。
(チャラいだの、ケバいだの、一時代前の若者用語を用いる所など、私も老衰したなと痛感します)
皆さんご存知かと思うけれど,ベントレーとは,ロールスロイスと同格の高級車で、価格は聞かない方が精神衛生上よろしいかと思う。
要するにそのホテルはそのような富裕層御用達なのだ。
それではまるで、モナコに集まるヨーロッパの富裕層の生活そのもので、30年前道を埋めて走っているのは自転車ばかりで、自転車にまたがっていたのは貧しい服装の労働者たちだった光景とはまるで違う世界だ。
30年で一つの国の姿が、ここまで違ってしまうものなのか。
30年前のことをなまじ知っているばかりに、私はただただ呆れてしまうばかりなのだ。
これは、一気にここまで経済的な発展を遂げた中国を賞賛するしかないだろう。
さて、そのレストランであるが、私は今までにこんなに大規模なレストランは見たことがない。
なぜ物を食べるだけのためにそこまで大げさにしなければならないのか。
何でも、大げさに、贅沢にしなければ気が済まないのが中国人の国民性というものだろう。
四畳半の畳の部屋でちゃぶ台の前にぺったり座って、アジの干物と、沢庵と、ワカメの味噌汁というわびた日本人の生活とは感覚が違うのだ。
そのレストランは巨大で、幾つもの部屋に分かれていて、一つの部屋には二組のテーブルしか置かれていないが、レストラン全体で一体幾つの部屋があるのか、幾つテーブルがあるのか、何人客が入ることが出来るのか、私たち客からは知ることが出来ない。
まあ、何人客が入ろうが、料理の味さえ良ければ私たち客の立場からすれば何の文句もない。
レストランの入り口から、私達のテーブルのある部屋に達するまでの間に、ガラ張りのワインセラーがあって、何千本とあるワインを客は見ながら自分たちの席に向かうというしくみになっている。
この20年ほど、フランスのワインは中国人の買い占めにあって、私達には既に手の出ない価格になってしまったが、そのワインセラーを見て、ああ、そうだったのか、と私は納得した。
私達の大きな部屋にはもう一つテーブルがあって、そこには既に中国人の客が入っていた。
十人以上いた。
女性の服装、化粧から、このホテルにふさわしい富裕層であることが分かった。
そのテーブルでは私達が席に着いたときには既に食事が始まっていたが、私達が席に
ついてメニューを選択しているときになって、向こうのテーブルに、先ほど玄関で見かけた、ベントレーの男性と女性が登場して、参加した。
他の客の態度から、どうやら、その男性が主客か、一同を招待した人間だったらしい。
その男性は、レストランの自分の席についても、頭にサングラスを載せたままだった。
中国では、まだサングラス頭乗っけが流行っているらしい。
私達のテーブルにも料理が次々に運ばれてくるので、隣のテーブルの観察は中断した。
途中で、何気なくそのテーブルに目をやると、頭サングラスの男は、ワインを飲んでいた。
あのワインセラーから選んだ高価な物で有るに違いない。
ワインを飲みながら、中華料理か。
中国の三十年間の経済的発展の凄まじさが、巨大ホテル、ベントレー、頭サングラス、中華料理とワイン、に表象されているように私は思った。
さて、肝心の料理だが、私は甚だしく落胆した。
決してまずいわけではない。
私は以前から、和洋中華の中で中華料理が一番好きだった。
香港には10日いて中華料理を朝昼晩と食べ続けても飽きることがなかった。
飽きるどころか大変に幸せだった。
一方、京都には3日いるとうんざりした。
それがここ数年、私の嗜好に大きな変化があった。
美味しい、美味しいと言って中華料理を食べていたのが、ある時、食べている最中に箸を置くようになってしまった。
それは、中華料理は何を食べても同じ味じゃないのか、と思い始めてしまったのだ。
そう思い始めると、百年の恋が一度に冷めるとはこのことか、全ての中華料理が同じ味付けでしかないと感じるようになってしまったのだ。
この、中華料理の味についての話は、また別の機会にたっぷりとすることにして、今回は私が味覚の端境期にあったと言うことだけ記しておくことにする。
そのような状況になってしまったのは不幸なことで、その日、食べた中華料理も私の味覚の端境期の影響を受けてしまったと言えるだろう。
まあ、端的に言えば、どれをとっても「おおう、これだよ、これだ」と騒ぎたてるようなものがなかったのだ。
私は、北京で一番と言われている料理店で、そのような端境期の私を再び中華料理第一に鼻面を引回してくれるようなものを願っていたのだが、それは、叶わぬ願いだった。
おっと、ここまででかなりのページ数を使ってしまった。
これから先は、次回以降に書き継ぐことにする。
新疆で,私がどんな体験をしたか、書いていく。
では、次回「新疆・ウィグル」編、その2でまた。