雁屋哲の今日もまた

2008-05-25

動物の針治療

 私の仕事部屋は、玄関ホールの脇の扉を開き、ガレージに通じる裏の入り口の奥にある。
 この家の前の持ち主は、ビリヤード台を置き、小さなバーを作って遊戯室に使っていた部屋を、私が仕事部屋に改造したのだ。
 部屋の扉を閉め、玄関ホールに通じる扉も閉めると、隔離された環境になる。
 私の部屋だけ、私の家全体から見ると、穴蔵みたいに見える。
 次女の部屋は、玄関ホールから伸びる廊下の突き当たり、私の部屋の真反対にあり、普通なら次女の部屋の音や声は私の部屋からはまるで聞こえないのだが、昨日の夕方、突然、次女の部屋から、けたたましい嬌声が上がった。
 その声が爆発的に凄まじい。しかも、何度も何度も繰り返して叫んでいる。しかし、それは、何か悪いことがあったときの声ではなく、狂喜しているときの声である。
 その声を聞きつけて二階から次男が、「どうした、どうした」と駆け下りて次女の部屋に飛んでいくのが聞こえる。
 私は、コンピューターに向かって仕事をしていたが、「はて、一体何の騒ぎだろう。悪いことではなさそうだが」といぶかしく思っていた。
 しばらくして、次女が飛び込んできた。
 上気して、顔を真っ赤にさせている。
 次女は、「お父さん、試験に受かったよ」と言って私に飛びついてきた。
 私も、「おお、良かった! やったな! おめでとう!」と言って、次女を抱きしめた。

 次女は獣医なのだが、二ヶ月以上前に、動物用の針治療の資格試験を受けた。
 最初、その話を聞いたとき、私は、「動物に針治療なんて効くのかい」と半信半疑だったが、次女によると、針は、動物にも良く効くと言う。
 次女の勤めているクリニックに、歩けなくなってやって来た犬に針治療をしたら、歩けるようになった、とか、色々効果のあった事例がある。
 馬に針治療というのは、ずっと以前から行われていて、標準的な治療に組込まれているという。

 日本と違って、オーストラリアは獣医の地位が高い。大学の獣医学科に入るのも、人間の医者になるのと同じ点数が必要だ。
 次女が高校を卒業するとき、折角良い点数を取ったことだし、医学に興味があるのなら人間の医学部に行って貰いたいと私は言ったのだが、次女は自分の飼っている犬の面倒を見たい一心で、どうしても獣医学部に行くと言い張って、自分の意志を通した。
 私は、高校を卒業した時点で、自分の人生は子供自身で決める権利があると考えているから、次女の好きなようにさせた。
 次女は今は、毎日、犬や猫の面倒を見て幸せそうである。

 考えてみれば、犬や猫は人間の勝手でペットとして飼われているわけであり、口もきけず、病気になってもその苦しさを伝えることが出来ない。
 私の家で飼っていた二匹の犬のうちの一匹が去年突然死んだ。
 全然何の前触れもなく、突然嘔吐を始め、それまで食欲旺盛だったのが何も食べられなくなった。
 驚いて、次女の勤めているクリニックに連れて行って診察したら、何と末期の肝臓ガンで、最早あと数日の命である、と判明した。
 何も食べられず、さすがに苦しそうなので、安楽死させることにした。
 家族はみんな、泣いた。
 私も矢張り辛くて、もう、犬なんか絶対飼うものか、と思った。
 子供の頃から何度味わったか分からないが、飼っている犬や猫に死なれると辛い。その辛さは、歳を取る毎に厳しくなっていくようだ。
 私はもっと歳を取って、絶対に私の方が先に死ぬと分かるまで、犬も猫も飼わないつもりだ。
 次女は自分が獣医でありながら、自分の家の犬がそこまで悪くなっていることに気がつかなかったことに、自分で狼狽していたが、それほど、犬や猫は自分の体調の悪さを表現することが出来ない。
 脚を折ったとか、皮膚病に罹ったとか、目に見える物はすぐに分かるが、内臓の病気は、私の家の犬のように、決定的な症状が出るまで分からないことがある。顔色、皮膚の艶、そんなものも犬では分からない。
 人間と違って、動物の定期健康診断などと言う物もない。
 そんなことに思いを致すと、自分で体調の悪さを訴えることの出来ない犬や猫が不憫である。
 最近の次女の働きぶりを見ていると、そのような犬や猫の命を救うのも人間の命を救うのと変わらない尊い仕事だと思うようになった。

 次女は、針治療の資格を取ると、獣医としての格が上がる。
 そこで、去年から熱心に勉強して試験を受けた。
 試験はシドニーで受けたが、動物の針治療の資格を与える団体がアメリカにあるので、実地試験はシドニーで受け、学科試験の答案はアメリカに送られ、アメリカで採点されて当否の判断はアメリカから伝えられる。
 しかし、これが、大変な難関である。簡単には資格は取れない。
 試験後、次女はすっかり悲観的になっていた。
 実地試験は、「試験官が積極的に合格させてやろうという態度みたいだった」と言うくらいで、自信があったが、学科試験が大変に難しく、しかも合格線が70点なのだという。
 次女は、70点なんて絶対に取れていない、としょんぼりしている。
「いいじゃないか、今年駄目でも、来年受け直せば」と言ったところ、「この試験は、次は三年後にならないと受けられない」という。
 ひゃ、それは大変。
 私達夫婦は、それ以来、針治療資格試験の事は次女の前で口に出さないように気を使った。
 連れ合いは、次女宛に、事務的な郵便物が届くと、それが試験の結果の通知ではないかと思って、震え上がる。

 そんな日々を過ごしていて、昨日の夕方、次女は、一緒に試験を受けた同級生から、試験の結果がメールで届いている、と教えられて、慌ててメールを開いた。
 すると、70点どころではない。85点取っていて、合格という知らせが入っていた。
 それで、冒頭の大騒ぎとなったのだ。
 次女は私に抱きついた後、興奮のあまり体中の力が抜けて、床に四つんばいになってしまった。
 それほど、嬉しかったのだ。

 夕食の時に、家族全員で、337拍子の手拍子と、関東の一本締め、で決めて合格祝いとした。
 私達もとても嬉しかった。

 次女は、治療用の針を持っていて、自分の脚の三里のつぼなどに打って、「効くわよ」と言っている。
「お父さんもして貰おうかな」と言ったら、「私は獣医だからね。二本脚の動物だと、良く分からない。四つんばいになったら、診てあげるよ」という。
 いやはや、四つんばいになって治療を受けるのもなあ・・・・
 やはり、人間の医学部に行かせれば良かった、と今さら思ったりする。

雁屋 哲

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