長男の裏切り
先日、私の家ある秋谷の近く、長井の釣り道具屋に出かけて仰天した。
この釣り道具屋は全国展開をしている大きな釣り道具チェーン店の一つであり、店舗の規模も巨大で、品数も素晴らしく多い。
しかし、とにかくど肝を抜かれのが、イカ釣りの道具専門のコーナーがあって、ありとあらゆるイカ釣り道具がそろっていることだ。
そのコーナーだけで、シドニーの普通の釣り道具屋より大きいくらいだ。
この釣り道具屋も、10年ほど前にはなかったと思うが、このイカ釣り自体がこんなに盛んになったのもここ10年くらいのことではないだろうか。
以前は、どの釣り道具屋に行っても、これほどイカ釣り道具が並んでいた覚えはない。
私が昔イカ釣りをしたのは、千葉の大原に鯛を釣りに行ったときに、全く釣れず、船頭さんが気の毒がって「何か土産物を持たさにゃあ」と言って、イカ釣りをしてくれたときだけである。
そのときは、イカつの(イカを釣るための疑似餌)を何本も海中に沈めてそれを引き揚げるだけで、何も面白くなかった。
今、イカ釣りが盛んになったのは餌木という、一種のルアーが出来てからだと思う。
餌木は、えぎ、と読む。
その形は、エビと魚を合わせたような奇妙な格好で、お尻に「かんな」と呼ぶ、逆さに生えたはりが2列に並ぶ。
それを何かの餌に見間違えたイカが抱きついて、それで釣れてしまうと言う物である。
それを防波堤や、ボートの上から、竿の先に付けてとばして釣るから、単に深場にイカつのをつり下げては引き上げる、漁業としてのイカ釣りとは比較にならない面白さだ。
同じ場所で釣っても、技術によって釣れるイカの数が違うとなるとなおさらだ。
私は今イカ釣りに凝っていて、シドニーでも、その餌木を買ったのだが、その全てが日本製だった。(もっとも、竿から何から、釣り道具は全部日本製だ。実際は中国製なのだろうが会社名は日本の会社だ)シドニーの人間も餌木は「EGI」という。
長井の釣り道具屋には、その餌木が何千も、いや、何万本も様々な色、大きさ、とそろっている。
宝の山に入り込んだような気持ちになって、興奮した。
すごい、凄すぎる。
日本人は、やるとなったら徹底的にやる。
その日本人の、性情は知っていたが、ここまでやるのか、と思わずうめいてしまった。
しかも、イカを釣り専門の本が何冊も並んでいる。
DVDまでついている。
基本的な知識から、高度な釣り方まで、委細を尽くして書いてある。
DVDは釣り名人が実演してみせる。
その中には、イカが餌木に抱きつく樣子を水中撮影した動画までついているのだ。
私は、長男に命令されたとおり、何種類かの餌木を買い、シドニーはこれから秋から冬になるので、ヤリイカ系の長い形のイカも釣れるようになるのではないかと考え、深海用のイカ釣りの仕掛けも買った。
そのための、釣り竿も、電動リールも買った。
たいそうな値段になった。とても、これが釣り道具とは思えない値段で、連れ合いが目の玉を飛び出させ、非常に苦い顔をした。
さて、これだけイカ釣りの道具を仕入れてシドニーに戻ってくると、私の釣りの相棒である長男の態度がおかしい。
「一体どうしたんだ」と尋ねると、「最近、大物釣りに凝っちゃって」と言って、写真を見せる。
すごい。80センチは優にある、巨大なジュー・フィッシュ(脂がのっていて大変に美味しい魚である)、7キロ有ったという巨大なマゴチなどを、抱えて笑っている長男が写っているではないか。
「ジュー・フィッシュは旨かったよお」「コチはちょっと身が固かったけれど」と長男は自慢する。
私は、はっ、と気がついて長男に尋ねた。「おまえ、餌は何を使った」
長男は、困った樣子で笑いながら、「いや、自分で釣ったアオリイカを餌に使った。」
私は、かっとなった。「おまえ!それは、何ちゅう裏切りだっ!」
長男はにやにやしながら言う。「いや、釣ったばかりのイカを餌にすると、凄いよ、がつんと、すぐに釣れるよ」
ああ、なにをか言わんや。
私はイカを餌にして他の魚を釣るのは好きではない。
以前も、シドニーきっての料理人と、京都から遊びに来た料亭の若旦那と釣りに行ったら、彼らはせっかく釣ったイカ13杯をヒラマサ釣りに使ってしまったので、いまだに私は怒っている。
この間も、私の大先輩がその料亭に行くと仰言っていたので、「若旦那にあったら、イカ13杯無駄にしやがってと、私が怒っていると伝えて下さい」と念を押したくらいだ。
それを、我が長男にやられるとは。
9日にシドニーに戻ってきて、風邪を引き込み(豚インフルエンザではない)昨日になってようやく、お呼ばれで外出できるようになったばかりで、まだ、日本から買って来た釣り道具を試す機会がない。
裏切り者の長男も、「ちゃんと、イカ釣りに行くって」などと言っているので、もう少し元気が出たら、イカ釣りに出かけるつもりだ。
それにしても、恐ろしいのは、私も、長男の誘惑に釣られて、釣ったイカで大物ねらいに走る恐れなきにしもあらず、と言うことだ。
釣り人の共通の心理として、「大きい物を釣りたい」と言うのがある。
これは、実に抗しがたいものである。
今回買って来た釣りの本に、「昔、関西でハエ釣りがはやったが、余り釣り人が沢山釣りすぎて、ハエ自体がいなくなり、ハエ釣りも廃れてしまった。いま、アオリイカ釣りがはやっているが、あのハエ釣りの様になるのを恐れている」と言う記事が載っていた。
ハエというのは、関東で言うハヤの事ではないか。
小さい川魚である。
しかし、関西のハエ釣りの最盛期には一人で一日千匹も釣ったという。釣り師百人で十万匹だ。
それでは、ハエも絶滅してしまう。
アオリイカも一年生の生き物だ。
産卵前の牝を釣ったり、まだ大きくなる前のイカを釣ったりしたら、アオリイカは絶滅してしまう。
餌木を使って、イカ釣りをするのは大変に楽しい。
しかも、アオリイカは、釣ったあとが嬉しい。
自分で釣ったアオリイカほど美味しい物はないからだ。
しかし、釣りすぎには注意したい物だ。
私は、私の家族が6人だから、3杯釣ったらそれでやめることにしている。
アオリイカ1杯で二人分充分に楽しめる。
それを他の魚を釣る餌にしてしまったら、際限なく釣ることになる。
シドニーで有名な釣りのガイドが、「シドニーで、釣りの餌用にイカを釣り始めたのはこの10年ほどだが、当時に比べると今は非常に釣れなくなった」と嘆いていた。
シドニーでは、すでに、アオリイカの数が減少している。
日本では、今の調子では、もっと早く絶滅するのではないか。
なんと言っても、釣り道具が進んでいるもの。
私も、長男の裏切りに釣られて、イカを餌にして他の大物をねらうようになったらどうしよう。
これも環境破壊の一つではないか。
環境を守ろうと、公言している手前、環境破壊は出来ないよな。
先日お会いした、政策研究大学院大学の小松正之先生の御著書「これから食えなくなる魚」と言う恐ろしい題名の本の中に「釣り人による魚資源の減少」と言うことが書かれている。
ひとりひとり、自分釣る数は大した事は無いだろうと思っていても、釣り好きの人間が何万とイカ釣りに励んだら、イカの前途も危うい。
ああ、悩ましい。
イカは釣りたい。
でも、イカが絶滅しても困る。
裏切り者の長男のまねだけはするまいと心がけている。
本当に心がけています。(いまのところ)