雁屋哲の今日もまた

2020-03-19

国境のエミーリャ

実に不思議な漫画に出会った。

ゲッサン(月刊少年サンデー)に連載中の、「国境のエミーリャ」である。

作者は池田邦彦。

私はこのマンガ家の作品を見るのも名前を聞くのも初めてだ。

 

この漫画の何が不思議かというと、その場面設定だ。

非日常的な場面設定や、SFのような常識を越えた空想による場面設定なら、驚かない。

この「国境のエミーリャ」の場合、歴史空想漫画と言えるのかも知れないが、この漫画が語るのは1962年の日本でのことであり、それはまだ、まだ歴史の中に収めるには余りに近い過去だ。

1962年のことは自分の生きてきた時間として記憶に残っている人間がまだ数多くいる。例えば私のように。

そのような人間にとって、この漫画の1962年は私達の記憶にある日本の1962年ではない。

だから、私はこの漫画の設定に異様な感じを受けるのかも知れない。

 

実際の日本の歴史では、第二次大戦は、日本がポツダム宣言を受け入れて、無条件降伏をして、終結する。

しかし、この漫画では、日本は徹底抗戦派の主張によってポツダム宣言を受け入れなかったという設定になっている。

その結果、卑怯にも日ソ不可侵条約を破って宣戦布告をしたソ連が日本に攻め込んできた。それに対応して、英米豪が上陸して、各地で激しい戦いが行われた。その結果、日本は分割統治された。

北海道と東北6県、茨城、栃木、埼玉、群馬、千葉県がソ連の統治地区となり、残る地域は米英による統治地区となった。

やがて、それぞれが、日本人民共和国(東日本国)、および日本国として独立した。

そして、東日本国は、国境を封鎖した。首都東京も分断されて、東側の約半分が東日本国の領土となったと設定されている。

それはかつて、ソ連側と西側によって東西に分断されたドイツの状況をそのまま模している。当時はベルリンも東西に分割されていた。

この物語の東トウキョウと西トウキョウの間にも実際にベルリンにあったような壁が作られている。

この物語の主人公、エミーリャはこの東トウキョウに住んでいて、東トウキョウから西トウキョウに逃れたいという人間の手助けをする、脱出請負人である。

物語は、希望する人間をいかに脱出させるか、ソ連や東日本国の官憲とエミーリャの闘い、などと、いかにも東西冷戦を舞台にしたものとして展開する。

ドイツが東西に分裂していた時期に、このように東から西へ脱出しようとする人間の話を幾つも聞いた。

ベルリンの壁を越えようとして射殺された人間も数多くいた。

しかし、2020年現在に、当時の東西の緊張を描いて上手く行く物だろうか。

 

エミーリャは19歳、名字は杉浦、父親は日本人、母親はロシア人らしい。

異母兄(母親が日本人)がいたが、5年前に亡くなった。

母親は微笑みに通じるからとエミーリャと名をつけたのだが

兄を失って以来、エミーリャは笑わない女になった。

この兄を失う時の話はハンガリー動乱を絡めてあり、感動的である。

エミーリャは上野駅(十月革命駅と名が変わっている)にある人民食堂のウェートレスをしている。

十月革命駅とか、人民食堂とか、日本が東西に分割されていたらそんなことになっていたのだろう。

東日本国、東トウキョウでは、食糧が不足していて、エミーリャはしょっちゅう人民食堂で「昼食は売り切れ」「食べ物は全部売り切れよ」と客に叫んでいる。この「昼食」にロシア語で「アビェト」とふりがなが振ってあるところが、芸が細かい。

このセリフ一つで、東トウキョウの生活がどんな物なのかよく分かる。

 

と、以上紹介しただけでも、かなり、変わった物語であることは想像できるだろうと思う。

物語も変わっているが、その絵柄も変わっている、というか今時の漫画の絵ではない。この物語が設定されている1962年当時の漫画なら、こうもあったかも知れないと思われる絵柄だ。

早い話が大変に古い絵柄だ。

編集部もこの絵柄の古さに乗ってしまったのか、単行本の装丁も、使っている字体、ロゴ、もえらく古い。

単行本第一巻の表紙ときたら、これはおどろく。古本屋で見つけてきた本か、と思わず言いたくなる。

わざわざ表紙を古びた紙の色にしてある。

主人公、エミーリャの表情も殆ど変わらない。

服装も1962年を設定してあるから古い。ファッショナブルとはとても言えない。

 

さて、私はこの漫画について、古い、異様、2020年に1962年当時の東西の緊張を描いて上手く行くのか、エミリーリャの表情が変わらない、などと、否定的な言葉を並べた。

では、この漫画は面白くないか、というとその逆だ。

大変に面白い。

私は妻に、「変わった漫画だよ。舞台も設定も古いんだよ」といってこの本を渡した。妻は、「ふうん」と言って受取ったが、翌日「面白かったわ」と喜んでいた。

ううむ、妻は、東西の冷戦当時のスパイ物が好きだったからな、と私は思ったが、当時のスパイ物を読んでいる人間は下手な漫画だったら受け付けないのではないか。

と考えると、やはり、この漫画の面白さは、スパイ物にすれた人間でも受け入れる物なのだ、と納得した。

 

漫画の世界には、つぎつぎに、新しい才能を持った人間が現れる。

そこが、日本の漫画界の強いところである。

新しい才能に出会う喜びに勝るものはない。

「国境のエミーリャ」は読むべき漫画だ。

雁屋 哲

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