私の終生上司がシドニーにいらっしゃった
25日から、私が電通に勤めていたときの二年先輩の上司である「に」さんご夫妻がシドニーに遊びに来られている。
私が電通に勤めていたのは、1969年の4月1日から、1972年の12月末日までの3年9か月だったが、一旦会社勤めをしたのが運の尽きで、「に」さんを私は終生上司として崇め奉まつらなければならないのだ。
てなことを言うと、「に」さんは、「てっちゃんさえ、いなければ私はもっと出世したんだ」と言うが、「に」さんは電通の役員になり、その後電通の子会社の社長を勤め上げたのだから、会社員としては功成り名遂げた、大成功者の見本なのだ。
なぜ「に」さんが、「てっちゃんさえいなかったら」と仰るかというと、私は会社員として会社の困りものであり、その最低の困りものである私の面倒を「に」さんが良く見て下さったからである。
結果として「に」さんに多大な迷惑をおかけすることになり、私が電通にいるあいだは、他の社員は、「に」さんが私を厳しく取り締まらないからだ、などと「に」さんを非難がましく思いながらも、「に」さんが保護してくれているので誰も私に手を出せなかったのである。
どうして「に」さんが、私のような会社にとって疫病神の様な男の面倒見てくれ、守ってくれたか、これは、どう考えてもお互いにその理由が分からない。
「に」さんは人柄が優しいので、その優しさに私がつけ込んで、つけ込まれた「に」さんは、私を振り切るに振り切れなくなったと言うところだろう。
「に」さんとにとって見れば、「人生、どこに災難が待っているか分からない」と思っておられるに違いない。
当時の電通は、タイム・カードではなく、出退勤時に、出退勤簿に書名をすることになっていた。
電通の始業時間は9時である。
私はその時間の設定に最初から非常な違和感を憶えた。
人間は、そんなに朝早くから働いて良い物なのか。朝9時から働き始めるなんて、余りに非人間的ではないか。
しかし、会社は9時までに来いと言う。
そこで私は、妥協して、9時までに会社にたどり着くように自分の出来る最大限の努力をすることで良い、と会社の規則を理解することにした。
しかし、人間、どんなに努力しても出来ないことと言う物はあるものだ。
私も、努力はするのだが、殆ど毎日、朝9時には間に合わないことになる。
最初から、その時間設定が気にいらないのだから、仕方がない。
で、どうするかと言うと、途中の駅などから、「に」さんに電話をかけて、「すみません、出勤簿にサインをしておいてください」お願いする。
「に」さんは、最初の内は「またかよ」と怒っていたが、その内に「ああ、わかったよ」と不機嫌に言うだけになった。
「に」さんは、総務課に私の出勤簿に署名するために行く。
総務課長は不思議がって、「はて、『に』くん、君はサインしたじゃないか」という。
そこを、「に」さんは何とかごまかして、私の名前の欄に署名をして立ち去る。
実に、とんでもない部下を持つとひどい災難を蒙る物である。
しかし、私は、非常に恩義を深く感じる男で、必ず受けた恩は返さないと気がすまない。
そこで、「に」さんの退勤簿の署名は私が引き受けた。
大体、私は毎日、午後4時45分まで図書室で寝ていて、4時45分になると自分の机に戻り、全然仕事をしないので散らかることもない机を片付けるふりをして、5時の鐘が鳴ると、さっと立ち上がり、先輩一同に「お疲れ様でした。ではまた明日」と丁寧に挨拶して、さっさと部を出て行く。
「に」さんたちは毎日必ず残業をして、私の分まで仕事をしているので、5時に帰ることなど出来ない。
だから、代わりに私が退勤簿に「に」さんの分まで、署名をして差し上げることが出来るのだ。
ただ、その、「に」さんの退勤簿の署名欄に私が書いたのは、「に」さんのお名前ではなく、ある記号だった。
記号と言っても大変に卑猥な物であり、とてもここで示すことは出来ない。
ただ、言葉で言うなら、「左カーブ、右カーブ、真ん中通ってストライク。応援団長がチャッチャッチャッ」というものである。
このような卑猥な物を毎日退勤簿に書かれた総務課の当惑はいかばかりか。
私と違って「に」さんは、電通では他を寄せ付けない秀才であり、有能で人望も厚く、未来を嘱望されている方だったから(事実、その後電通の海外部門をしょって立つ人間となった)総務課長も、簡単に文句は言えない。
しかし、ある時、ついにたまりかねて総務課長が「『に』くん、いいかげんにしたまえ」といった。「に」さんはそれまで、私が、「退勤簿にサインしておきますから」というのをそのまま信用して、自分の退勤簿に何が書かれているのか注意を払わなかったらしい。
そこで、「に」さんは、私をよんで言った。
「たのむから、てっちゃん、退勤簿にサインしないでくれ」
「いえ、それでは、私の気がすみません」
「いいから、やめてくれ」
「いえ、毎朝出勤簿にサインしていただいているんですから、退勤簿に『に』さんの代わりにサインをして差し上げなければ、私は、恩知らずの人間になってしまいます」
「恩知らずでかまわないんだ」
「とんでもない。恩知らずだけにはなるなというのが、死んだオヤジの遺言です。もっとも、私の父親はまだ生きていますが。とにかく、これだけお世話になっているんですから、退勤簿のサインくらいさせて頂かないと」
「や、やめてくれえ〜」
私が電通を辞めたのは、優秀な「に」さんが会社に選ばれて、アメリカのメリーランド大学に留学してしまい、私を保護してくれる人間を失ったからである。
私を保護してくれる「に」さんがいなくなると、待ってましたとばかりに、会社の上層部は、私をそれまでの居心地の良かった部から、別の部に移動させた。
その部は居心地が悪かったし、そもそも、電通始まって以来という大労働争議の首謀者の一人としてにらまれて、社内全体からしても居心地が悪くなっていた。
(その労働争議では、右翼と共産党が結託して、私に対抗してきた。共産党は組合員総会での議案を「会社案、執行部案、戸塚案」とでかでかと提示したビラを全社に配った(戸塚は私の本名)。「会社案」とは会社の示した回答であり、「執行部案」というのは会社案に対する共産党が支配する組合執行部の案である。
この「執行部案」というのは滑稽で、「二回か三回ストをしたら、闘争を終結する」というもので、それなら、会社はそれまで待っていれば、事は済むわけで、これでは何のための闘争だか分からない。一応、労働争議をいたしました、という共産党の外部に対する言い訳の恰好づけに過ぎない。
「戸塚案」というのは、われわれ正当派の主張で「要求を貫徹するまで闘争を続ける」という実に真っ当な物である。
組合員総会で、私の提案が一番多数の票を獲得したが、残念ながら過半数に及ばなかった。すると、第二次投票で、共産党は会社と結託して会社案に投票し、私達正当派は負けてしまった。組合員に対するひどい裏切りだ。
ついでにいうと、私の友人たちは、全社員に配るビラに、私達正当派の案を「戸塚案」などという個人名を使って書くという事は、私自身を全社的に個人攻撃の的にするための、日共のやり口だと、怒っていた。
共産党は電通労組に共産党の組織を維持することが第一目的で、本気で闘争を組むと組合を私達正当派に取られてしまうと心配して、会社と組んだのである。
共産党は労働者より自分たちの組織を守ることの方が大事なのだ。
東大闘争の時も、日共民青は自分たちの組織保存が第一で、そのために闘争破壊のために躍起になった。
日本共産党は不思議な党である。絶対に革命運動は避けて、組織の温存だけを考えている。
彼らの論理から言えば、日本共産党が選挙で過半数を取ることが革命と言うことらしいが、そんな革命党の存在は、そもそもの革命の意味から外れている。
組織内の話を聞いても、ちょっとしたことで党則違反とか、規律違反という事で除名処分が行われているようだ。組織を維持するためには少しでも先進的な意見を持った党員は追い出すのだ。先進的な意見を持った党員は本気で闘争をする。戦えば、どんな組織でも傷を負う。共産党は少しでも傷を負うことを嫌がる。組織を温存することが第一目的になっていて、革命のために戦うなんて、彼らにとっては悪い冗談という事なんだろう。
政権を取る前から、圧制的な組織運営をしている党が、まさか冗談にでも政権を取ったら、金正日大先生のような政治を行うだろう。)
話が、飛んでしまった。元に戻そう。
私を守ってくれていた「に」さんがいなくなって、私は、居心地が悪くなった電通を突発的に退社してしまった。
しかし、それで「に」さんが私から逃れられたと思ったら大きな間違い。
「に」さんがアメリカから帰ってくると、ちょうどその頃、漫画の原作を書いて忙しくなり始めた私は、「に」さんの家をしょっちゅう襲うようになった。
当時、結婚して横浜に住んでいた私だが、夜遅くなると横浜に帰るのが面倒になり、「に」さんの中目黒の家を襲って泊まり込んだのだ。
夜遅く、突然襲撃して、酒を飲んだり夜食を「に」夫人に作ってもらったりして、さんざん騒いで、翌朝、「に」さんと、当時高校の教師をしていた「に」夫人が出勤した後、昼過ぎまで一人でのうのうと寝て、それから「に」夫人の作っておいてくれた昼食を食べて、やおら活動開始、という贅沢な日々を過ごさせていただいたのだ。
いまでも「に」ご夫妻には、申し訳ないと思っている。
人間、どんな不運が待っているかか分からない。
「に」さんにとっては、私のような人間にとりつかれたことが、生涯の不幸、不運と言うべきだろう。
その後もえんえんとして、私のみならず、私の甥、姪までも、お世話になる有様。
「に」さんがロスアンゼルスに移動になると、ロスアンゼルスに家族で襲撃して、私達のキャンプの準備をして貰う。
ロンドンに移動になれば、ロンドンのレストランを探して貰って、ご馳走になりに行く。
人間の世界、よく、ギブ・アンド・テイクなどと言うが、「に」さんにとっては、私との関係は「ギブ・アンド・ギブ」という不条理きわまりない物だろう。
そのような「に」さんが、シドニーに遊びに見えたので、今までの万分の一でもお返しをしなければならないと思って、ここ数日、シドニーを色々ご案内させていただいた。
「に」さんを患わせたのは、私の家族だけではない。
シドニーの私の親友の娘「ら」が、日本に働きに行ったときには、最初に「に」夫妻に面倒見て貰った。
勝手に私が「に」夫妻に、「ら」の面倒を見てね、とお願いしたのだ。
その「ら」も、日本からシドニーに帰ってきて、今や四人の母親。
27日にその「ら」の家に「に」夫妻をお連れして、お互いに、久し振りの邂逅に楽しい時間を過ごしていただいた。
日本からお客様が来ると必ずお連れする、私の大好きな場所に25日、26日、27日とお二人を案内した。
前回、「さ」さんご一家がいらっしゃったときよりも、時間が取れなかったので十分ではなかったが、それでも、シドニーの私の好きな「芯」の部分は見て頂くことが出来た。
26日は、ブルーマウンテンにお連れしたが、小雨の降るひどい天候。
しかし、ブルーマウンテンの一番の見所、「スリー・シスターズ」という三つの岩を展望するところに行くと、霧で曇って何も見えなかったのが、霧が晴れて、やおら霧の中から有名な三つの岩が姿を現した。
実に、その荘厳なこと。
からっと晴れた晴天の下では味わえない、素晴らしい物を見ることが出来た。
霧が徐々に流れて、三つの岩が姿を現すところは、本当に感動的だった。
二十年シドニーに住んでいて、何度ブルーマウンテンに行ったから分からないが、これほどの感動を味わったのは初めてだった。
その、ブルーマウンテンの「エコー・ポイント」の見晴台に、最近アボリジニーの大男が姿を見せるようになった。
アボリジニーは、平均的に、背が低いのだが、その男は背が高く、腹がでっぷりと出て見事な体格である。
前回「さ」さんご一家をお連れしたときも、今回も、その男は、腰の周りに布を巻いたような出で立ちで、上半身は裸。腰から下もむき出し。何かの毛皮を、肩から羽織っているだけである。
今回、「に」夫妻をお連れしたときにも、その男がいた。
目の前に、ちゃちなブーメランのおもちゃを置き、観光客と写真を撮らせることで小銭を貰っている。
実に、堕落したアボリジニーだと思っていたのだが、今回彼のディジュリドゥーを聞いていて、「はて」と思った。
ディジュリドゥーと言うのは、アボリジニーの伝統的な楽器で、材料は説によって、木の根、木の枝、細い木の樹、と色々あるが、要するに直径6センチほどの、中空の木の筒の一方に口を当て、トランペットを吹く要領でくちびるを震わせて、音を出すのだ。
その音は、「ビューン、ビューン、ビィーン、ビィーン、ブィーン、ブィーン、ブォーン、ブォーン、」という極めて、低く良く響く音 で、オーストラリアの原生林の中では、数キロ四方にまで響いただろうと思うような音である。
この、ディジュリドゥーには独特な吹き方があって、一つの音を吹き始めると、その音を何分間も途切れること無しに吹き続ける。
これはすごいことである。
ためしに、サックスでも、トランペットでも吹いてみていただきたい。
一つの音を20秒間途切れずに吹き続けるのは、至難の業である。
それを、アボリジニーは呼気をもっと必要とするディジュリドゥーを何分間も続けて吹き続けることが出来る。
呼吸法に秘密があるらしく、ディジュリドゥーを吹いているアボリジニーを見ていると、ディジュリドゥーを鳴らすために息を吹き込んでいるのだが、同時に、腹を大きく動かせて空気を取り込んでいる。
この、息を吹くのと、空気を取り込むのと、私達にとってはまるで正反対のことを同時にやってのける。
これは、実際に目の前で見ると、不思議でたまらない。
じつは、1960年代から1970年代にかけて活躍した、ジャズミュージシャンのローランド・カークが同じようなことをしてのけていた。
ローランド・カークは、一度に三本のサックス(一本は普通のテナー・サックスだが、他の二本は、テナー・サックスやソプラノ・サックスを自分で改造した物で、マンゼロ、ストリッチ、という奇怪な名前が付いている)を一度にくわえ、両耳に掛けて吊した糸にぶら下げたフルートを鼻で吹き、合間にはホィッスルを吹き鳴らすと言う異常な才能を持っていたが、異常なのはマンゼロなどを、吹き出すと二分でも三分でも音をとぎらせることなく、吹き続けたことである。
ローランド・カークも息を吸い込みながら、サックスを吹くという、私達の標準的な体から見たら矛盾した行為を平気でやってのけていた。
さて、ブルーマウンテンのエコー・ポイントの見晴台で観光客を相手に商売をしているアボリジニーであるが、そのディジュリドゥーを聞いていると、これは本物だ。
音が途切れない。
これに、興味を引かれた。
「に」夫妻を招いて、そのアボリジニーと一緒に写真を撮らせて貰った。
そのアボリジニーは、日本人の観光客になれているせいか、日本語で私達に礼を言ったのはよいが、大阪弁でも、「おおきに」と言うのだ。
やれやれ、観光客すれがしてしまって、しようがないな、とうんざりしたのだが、「に」夫人が、そのアボリジニーに、裸で寒くないかと尋ねたときに、驚くべき事を体験した。その日は気温が低く、観光客はみんな厚着をしていた。
その、アボリジニーの男が言うには、「私は、体内から熱を発することが出来るから、寒くないのだ」という。
自分の手をかざして、私達に、その手に私達の手を近づけて見ろと言う。
試しに、その男の手のひらに、私の手のひらを五センチほどの間隔で近づけると、なんと言うこと、その男の手のひらから熱が放射されていて、暖かいと感じるではないか。
「に」夫人は、熱だけではなく、その男の体から放射される「気」を強力に感じるという。
確かに、私も「気」のような物を感じた。
一体これは何であるか。
単に観光客ずれしたアボリジニーと思ったら飛んでもない。
私には理解できない能力を持った男だ。
これほど、強力に、他人の人体から発する「熱」や「気」を感じたことはない。
どうも、いままでの、理性一点張りの考え方を変えなければいけないのか、と思うほど、異様な体験だった。
人でも、何でも、先入観で軽く見る物ではない。
あなどる物ではない。
全く、驚くべき体験をした。
これから、ブルー・マウンテンに観光に行く人がいたら、ぜひ、観光客なら誰でも行く「エコー・ポイント」に行って、そこにいるアボリジニーのディジュリドゥーを聞き、手のひらを5センチほどの間隔を置いて合わせてみて貰いたい。
人体とは一体何なのか、不思議な思いにとらわれるから。(その男には、5ドルくらい上げてね)
27日は天気予報を裏切って、すかーっと晴れ上がった晴天。
ウェストヘッド国立公園などを散策し、「ら」とも会い、美しいビーチの前で軽い朝食を取って、のんびりして、夜は、最近開店した日本人シェフ「犬飼」さんの店「Blancharu」(ブランシャル)
フランス語の白「Blanc」と自分の名前春信さん、の「はる」を組合わせた名前。
(Shop 1,21 Elizabeth Bay Road,Elizabeth Bay NSW 2011 Australia Tel:61-2-9360-3555)
その名の通り、店全体は白が基調で、入りやすいカジュアルな作り。
犬飼さんは、それ以前に、シドニーでも人気のブティックホテル、「オブザーバトリー・ホテル」のレストラン「ガリレオ」のシェフとして、「ガリレオ」をシドニー・モーニング・ヘラルドの「Good Food Guide」で一つ帽子のレストランに育て上げた実力者だ。
(Sydney Morning HeraldのGood Food Guideは毎年、レストランの評価をして、最高の店に三帽子、以下二つ帽子、一つ帽子と位をつける。
このGood Food Guideはシドニーでは大変権威があって、帽子を一つでも取れればそのレストランは繁盛する。ホテルのレストランで、一つ帽子を貰っていれば、そのホテルの宿泊客が増える。
それくらいだから、毎年、Good Food Guideが発行される時期になると、シェフたちは胃が痛くなると言う)
「ガリレオ」の時の犬飼さんの料理は、実に正統的なフランス料理で、重かったが、「Blancharu」になって、軽くて味わいの良い物になった。
私は、「ガリレオ」の時より遥かに良くなったと感じた。
「Good food guide」は、味だけでなく、店の雰囲気・店の作りなども点数に入れるので、その帽子の数の付け方は私には分からない。
しかし、味だけでいえば、文句なく、三帽子だと私は思った。
最初に小さなフライパンに目玉焼きが載って出て来た。
「えっ、目玉焼き!」と驚いていると、やおら犬飼さんが出て来て、目玉焼きの上に、サマートリュフを目の前でスライスしてたっぷりかけてくれる。
私はトリュフが大好きのトリュフ狂だ。
しかし、いままでトリュフをかけた目玉焼きなど食べたことがない。
いやあ、参った。
こんな贅沢な目玉焼きはない。
「美味しんぼ」で書かせて貰おう。
その他の料理も、実に見事。
「に」夫妻も痛くご満悦で、終生部下の私としては、面目を施すことが出来た。
シドニーに旅行に来る方には、ぜひ、この「Blancharu」をお勧めする。
料金もセットメニューで一人67ドルに設定されている。(ワインは別料金)
極めてリーズナブルだ。カジュアルで、胃にもたれないので、旅行中でも苦にならないだろう。
シドニーには、和久田哲也さんの「Tetsuya’s」という、今や世界的に有名になったレストランがある。
犬飼さんの「Blancharu」も、「Tetsuya’ s」と一緒に頑張ってシドニーの食の世界を豊かにして貰いたいと、切に願う。
「に」夫妻は、28日にタスマニアに行った。
クレイドル・マウンテンという、秘境とも言える山の中のロッジに宿泊して、山の中を歩き回るのだという。
「に」さんご自身は、大変な怠け者なので、自分から積極的に歩き回ったりはしたがらないのだが、「に」夫人「ぺ」さんが、大変に積極的なので結果的に「に」さんは引きずり回されて、一緒に歩くことになる。
しかし、28日から、タスマニアの天候は最悪だ。
雨の中を、「に」夫妻は歩いているのかしら。
1日にまたシドニーに戻ってこられるが、風邪など引いてこられないようにお願いしたい。