中国ショック3
中国に4月に行った目的は、西安の大雲寺に保存されている褚遂良の「雁塔聖教序」を見ること、また、2004年に、西安の工事現場で偶然発掘された日本人留学生〔遣唐使)井真成の墓誌が、西安の西北大学に保存されているというので、それを見ること、そして南京の、「南京虐殺記念館」を訪れることでした。
褚遂良の「雁塔聖教序」を見るのは長い間の夢だったのですが、ああ、なんと言うこと、碑自体は残っていましたが、その表面に、私が見たかった石碑にその碑文を拓本に取った紙がかかっているではありませんか。
拓本に取ると碑が傷むので、それは仕方がないのかも知れませんが、碑自体はきちんと元のままに見せて、拓本を取ることだけを禁止すれば良いのではないかと、がっかりして腹を立てました。なんと言うことだ。この数十年の私の夢は何だったのだろう、と無念が募りました。もっと早くに来れば、石碑の表面を見ることが出来たかも知れないと思うと、余計に口惜しくなります。中国から帰ってきて数ヵ月経つ今でも口惜しくてたまらない。
最初の日に、きちんと写真に撮り損なっていたことが、その夜ホテルで写真を点検して分かったので、翌日三脚を担いで長男の協力を得て再び、褚遂良と、井真成の墓誌を撮影に行きました。
褚遂良の碑も、上部の飾りの部分は覆われていなかったので、碑の名前など重要なものは、撮影し直して、あの条件ではこれ以上は撮れないというところまで撮影しました。実際に難しい角度からの撮影は長男に頼みました。今の私の脚の具合では写真を撮るのに上手い具合に態勢を取ることが出来ません。
誰か政府の高官につてでもあれば、あの拓本の紙を剥がして、碑面を見ることが出来たのでしょうが、そんなつては無いから仕方がないことです。それにしても、どうしてあんな処置をとったのか、理解に苦しむこと甚だしい物があります。
褚遂良については皆さんご存知でしょうから、井真成について、ちょっと語りましょう。
2004年に、西安市内の工事現場で、パワーシャベルが一つの物を掘り出しました。
表面に字が書いてあるから意味のある物だろうと、西北大学に持込まれて、これが、700年代の、日本から遣唐使としてやってきた一人の青年のための墓誌であることが確認されたのです。
その後、日本の専修大学と、西北大学の共同プロジェクトで、その墓誌の研究が進み、朝日新聞社から「遣唐使の見た中国と日本」という本が発行されました。私はその本を読んで、どうしても、西北大学に来たかったのです。
この墓誌によれば、
専修大学の矢野健一教授の解読する所では、
「七一七年の遣唐使として一九歳で中国に来て、開元二二年(七四二年)に三六歳で亡くなった。玄宗皇帝はその死を悼み、尚衣奉御の位を追贈し、葬儀も国で費用を支払う物とした。同年二月、埋葬された」
とあります。
私はその本を読んで、思わぬ出来事に興奮して西北大学まで行ったのです。
墓誌とは、昔の中国の風習で、身分の高い人が亡くなると、身分に応じて立派な墓を作り、その棺の傍に、亡くなった人間の業績などをたたえる文章を書いた物を置いたものであって、墓誌には蓋と、その下の業績を書いた文章を掘られた物とに別れています。両方とも石です。
墓誌の蓋の部分は長い年月の間にいたんでも、蓋の下の墓誌は蓋に守られていてきちんと残っています。(とは言え、肉眼では判読しづらく、拓本にとってはっきりと読むことが出来たのです)
ところが、西北大学でも、専修大学でも、昔の文献など調べてもどうしても、この井真成という人間のことが分からない。
西北大学と専修大学のそれぞれの専門家が、日中両方の文獻を調べても、この、井真成という人物のことが分からない。
ところが、この墓誌を見ると、「尚衣奉御」という唐の官僚として位を与えられていることが分かります。
「尚衣奉御」と言うのは、皇帝の身の回りの着る物を整えるという仕事で、官僚の位としては低い物ですが、皇帝や高官の子弟はこの「尚衣奉御」を最初の一段として、次々に高い位に上っています。
であれば、この井真成は、かなりの人物であったのではないかと思われるのです。
現実に、玄宗皇帝が井真成の死を悲しんで、この官職名を与えたとも西北大学の研究では言われています。
私にとって、最大の魅力は、遣唐使の時代に、日本の記録に残っていなかった青年の死を玄宗皇帝自身が悼み、このような官職名を与えて、葬ったと言う所にあります。
日本の歴史にも、中国の歴史にも、全然姿を現さなかった人物が、西安の建設現場でその姿を1300年後に現した、というその歴史のすごさに私は圧倒されたのです。
日本と中国の文化的な交流の奥深さの素晴らしさがここにあります。
これを、深く感じて、どうしても、西安に行って、西北大学を訪問したかったのです。
最近世界の大学ランキングで、中国の大学が日本を追い越し、日本の大学がどんどん下流に落ちて行っているのもむべなるかな、と言うのが西北大学を見るとよく分かります。
というほど西北大学は立派な豪勢な大学で(世界の大学ランキングで西北大学がどの程度の地位を占めているのか私は知りませんが)、その、歴史的文物を展覧する階は非常に見応えがありました。
その中に、井真成の墓誌がガラス張りのケースの中に収められていました。
紀元700年代の物を、こうして目の前にすると、あまりの感動故にうろたえてしまいました。
私達日本人は、こうして中国の文化を学び、自分の物として取り入れ、漢字を学び、それを簡略化して音だけを表す「かな」を作りだしましたが、日本人の教養の原点は、「四書五経」を元にした中国の文化であることを、私は、この「井真成の墓誌」を見て、しみじみと思い、その中国文化を学ぶために、この700年代に大変な苦労の末に中国に渡りながら(当時は航海術も低く、船も今のような立派な物ではなく、中国への航海自体が冒険でした。遣唐使として日本を出て途中の航海で遭難して亡くなった人間も数多くいるといいいます)、志半ばで中国で亡くなってしまった井真成という青年の志を察して、涙せざるをえなかったのです。
さて、今回の旅の主要目的である、「南京大虐殺記念館」ですが、これはちょっと期待外れでした。
と言うのは、私は南京虐殺については30年以上前から様々な本、雑誌の記事などを集めて持っており、「南京虐殺否定派」の人々の言うことが如何に無残で浅ましい欺瞞に満ちているか、様々な実際の資料を基に認識しています。
その私の目からすると、「南京大虐殺記念館」の展示は物足りない。
展示されている写真などは、殆ど全てが、特に主要な物は、既に私が今までに見た物ばかりで、私の家の書棚の「南京虐殺」の資料に及ばないと思ったのです。
興味をひかれたのは、「南京虐殺」当時の、南京の一般の人々の住居の内部を再現した物と、発掘された虐殺されたという人々の遺骨でしたが、無残に散らばった遺骨だけからは、虐殺の実状を想像することは難しい。一度に一万人以上もの人間を、機関銃の銃身が真っ赤に焼けるまで撃ち続け、撃たれて倒れた人々の山の上を歩いて、生き残っていた人々を銃剣でさして回ったという日本兵の、実際の記録のすごみが伝わらない。
写真や新聞記事の複写だけでなく、大虐殺記念館自身、あるいは、中国政府自身が本気になって集めた資料を展示して欲しいと思ったのです。
まあ、これでも南京虐殺のことを知らなかった人にとっては事実を知る糸口になるとは思いますが、学術的には物足りないのではないでしょうか。
「大虐殺記念館」の入り口には、当時の被害者の姿を表現した彫刻が並んでいて、その彫刻は虐殺された人々の無念さ虐殺の血も凍るような無残さを表現していますが、その彫刻の表現を裏付ける資料が記念館には足りないと私は思いました。
記念館には、当時の雑誌や新聞のコピーなどではなく、中国自身が独自に集めた疑いのない第一次資料をもっと数多く展示して、記念館を充実させて欲しいと思います。
ユダヤ人虐殺の、アウシュビッツの展示に比べると、力不足であると私は思います。
ところで、最近、思わぬことがありました。「文藝春秋社」から、「『南京事件』を調査せよ」という本が出たのです。出版社の名前からして、また、本を書いた人間が読売新聞系の放送局日本テレビNNNの記者であることから、さらに、「南京虐殺」を「南京事件」としていることから、この本も今までに多く出されてきた「南京虐殺」を否定するための本だと思いました。「南京事件」では何のことだが分からないではありませんか。このような曖昧な表現は、「南京虐殺」を認めたくない人がよく使う手です。
この本もそのような本だろうと思い込んでしまいました。
ところが違ったのです。この本の著者の、清水潔氏は、南京虐殺を行った兵士たちの陣中日記の本物を求めて探し当て、その陣中日記から、実際に虐殺に手を下した兵士たちの記録を集め、その兵士達自身が書き留めた記録から、南京虐殺が疑いのない事実であったことを証明したのです。
清水潔氏の作った番組「NNNドキュメント’15『南京事件〜兵士達の遺言』」は2015年10月4日に放送されると、ギャラクシー賞など幾つもの賞を取りました。この番組は、現在、Youtubeで見ることが出来ます。このような番組を、読売新聞系の放送局が作り放映し、幾つもの賞を取り、それを文藝春秋社が出版するとは、私にとっては思いもよらぬことで、日本の中にもまだ良心が残っているのだと、心強くおもいました。
しかし、そこはさすがの産経新聞で、J-CASTによれば、
「10月16日付朝刊に「『虐殺』写真に裏付けなし 日テレ系番組『南京事件』検証」と題した記事(東京最終版)を載せ、番組内で紹介されていた1枚の写真に焦点を当てた。連載「歴史戦」の1本で、3面に8段にわたり大きく掲載された。
写真は防寒着姿で倒れている多くの人々を写したもの。冒頭で「南京陥落後の中国で日本人が入手した写真と言われている」と紹介され、番組最後に再び登場した際には、現在の揚子江付近から見える山並みと、写真の背景の山の形状が似ていることが指摘されていた。
産経記事では「南京陥落後、旧日本軍が国際法に違反して捕虜を『虐殺』。元兵士の日記の記述と川岸の人々の写真がそれを裏付けている―そんな印象を与えて終わった」と指摘した。
また、番組が取り上げたものと同じ写真(日テレによると「類似写真」)が、「南京大虐殺、証拠の写真」として毎日新聞の1988年記事に掲載されていたと指摘。NNNドキュメントでは、毎日記事と同様に「被写体が中国側の記録に残されているような同士討ちや溺死、戦死した中国兵である可能性」に触れていないとして、これを問題視した。また、日本テレビ広報部のコメントとして「番組で紹介した資料の詳細についてはお答えしておりません」との回答も載せている。
これに対し、日本テレビは10月26日、NNNドキュメントの公式サイトにお知らせ文を掲載し、先の産経記事の内容は「番組が放送した事実と大きく異なっていた」と反論した。
日テレ側は「『虐殺』写真に裏付けなし」という大見出しが「事実ではない」と主張。例の写真については「虐殺写真と断定して放送はしていない」と強調し、「類似写真」を掲載した毎日新聞の記事と「番組の内容と混同し、批判した」とも指摘した。
「一場面を抽出して無関係な他社報道を引用し、『印象』をもとに大見出しで批判し、いかにも放送全体に問題があるかのように書かれた記事は、不適切と言わざるをえません」
また、見出し以外の複数個所についても反論し、「以上のように産経新聞の記事は客観性を著しく欠く恣意的なものであり、当社は厳重に抗議します」と結んだ。
産経新聞は27日、J-CASTニュースの取材に「当社の見解は産経新聞10月16日付の当該記事の通りです」とコメント。抗議文は25日付だったという。」
産経新聞のやり口は、いつも「南京虐殺否定論者」が使う物で、一つ何か疑わしいものがあると彼らが思い込むと、「これが疑わしいから、南京虐殺も全部嘘だ」とする、「一点突破全面否定」方式です。
産経新聞は、福沢諭吉の創立した時事新報の後継紙です。
産経新聞のホームページによると、昭和8年(1933年)「日本工業新聞」を創刊し、昭和17年(1942年)に「産業経済新聞」に改題し、昭和30年(1955年)に東京本社が時事新報と合同し新聞の題号を「産経時事」にし、昭和33年(1958年)に、「産経新聞」に統一、とあります。
福沢諭吉は時事新報を発行する際に、「本誌発兌(発行)の趣旨」の中で「(時事新報の)求める所は国権皇張(拡張)一点にあるのみ」と書き(国権を拡張すれば他国を侵略せざるを得ない。国権拡張を求めるとは、侵略することも求めることです)、その後時事新報で「大企業優先、格差無視、下層階級の貧困化無視」「天皇制推進」「明治憲法に感激して泣く」「教育勅語にも感激して泣く」「当時の朝鮮人、清国人に対する、ヘイトスピーチの繰り返し」「国権拡張、即ち他国への侵略に国民を扇動し続け」「天皇のために、天皇の臣民である日本人は命を捧げるのが当然」「台湾などの植民地の人間で日本に逆らう者は皆殺しにしろ」「朝鮮人民のためにその滅亡を賀す」などという論説を次々に大量に書き続けました。(まさか、福沢諭吉がそんなことを書くわけがないと、多くの方は思うでしょう。だったら、11月20日頃には書店の店頭に並ぶ私の書いた本「まさかの福沢諭吉」をぜひお読み下さい。その「まさか」がずらりと並んでいます。
福沢諭吉の著作を実際に読むと、皆さんが抱いていた「福沢諭吉は日本の民主主義の先駆者」という思いこみが如何に間違ってすり込まれたものであるか分かります。
産経新聞は、まさに、その福沢諭吉の時事新報の精神を見事に引き継いでいます。
最近、「花伝社」から発行された、伊東秀子著「父の遺言」を是非読んで頂きたいと思います。
伊東秀子さんの父親は戦前満州(中国東北部に日本が作った植民地国家・偽国家とも言う)の憲兵隊長を務め、多くの中国人を、731部隊で生体実験に使うために送り込みました。
日本が中国で行ってきたのは、南京虐殺だけではありません。731部隊では、化学兵器を研究し、中国人を捕まえて実験の対象にし、実際にペスト菌を中国各地にばらまいて成果を試しました。
「戦艦武蔵」など、数多くのノンフィクションを書いた吉村昭は「蚤と爆弾」(文春文庫)でその事実をきちんと丁寧に書いています。
731部隊どころではなく、日本軍は、1939年から北支那方面軍による「燼滅(じんめつ)掃討作戦を展開しました。「燼滅(じんめつ)掃討作戦」とは、抗日・抗日ゲリラ地区に対して徹底して、殺戮、略奪。砲火、破壊を行うことで、「殺し尽くす」「奪い尽くす」「焼き尽くす」というものであり、共産軍・八路軍は、この「燼滅掃討作戦」を「三光作戦」と呼びました。
また植民地国家「満州」では、日本の中央政府の計画の元に、アヘンを中国人に売って金を稼ぐというアヘン政策を行いました。
みすず書房刊「続・現代史資料(12)アヘン問題」、また、江口圭一氏の著書、「日中アヘン戦争」(岩波書店)などに、日本が史上最悪最大のドラッグ・デイーラー国家であることが記録されています。
研究者によってその数には異同がありますが、アヘンによって、多くの中国人が死んだことは確かです。
以上に書いたことから、日本が中国で殺した人間の数は正確な資料が残されていないので、研究者によって、その数は異動しますが、大雑把に見て、一千万人から二千万人以上とみられています。
伊東秀子氏は、御父君が中国で行った犯罪を、この本の中で書き記しています。
これは、御父君を心か愛しておられる伊東秀子氏にとってこの上なく辛いことだと思います。
しかし、伊東秀子氏は、御父君の名誉のためにこの本を書かれたのです。
伊東秀子氏は、この本を書かれて、自分のしたことを率直に語られた御父君の偉大さをきちんと伝えることで、御父君の名誉をこの上なく高められたと私は思います。
私は伊東秀子さんの誠実さと勇気に心から敬意を払い、人間の尊厳を高める努力に感謝します。
南京虐殺の三十万人など、日本が中国全土で殺した中国人の数から言えば、上に書いたように恐ろしいことにほんのわずかな数であると言わざるをえません。
日本人全体が、「南京大虐殺記念館」を作らざるをえなかった中国人の心を理解せず、安倍晋三首相があっけらかんとして言った「侵略かどうかは後世の歴史家の判断に任せる」などと、と言う言葉に批判を加えない限り、日本は未来永劫、「自分の過去を正直に振り返ることの出来ない、最低の国」という現在国際社会で受けている評価に甘んじつつづけなければならないでしょう。
さて、今回の「南京大虐殺記念館」の話で、2016年4月に行った中国の話は一区切とします。
中国の話をすると、切りがありません。
中国については、また話す機会があるでしょう。