雁屋哲の今日もまた

2008-06-09

不思議なこと

 今日、シドニーはクィーンズ・バースデイで休日。
 クィーンというのはイギリスのエリサベス女王のこと。
 シドニーでは、と断ったのは、州によってクィーンズ・バースデイは異なるからだ。休みを取りやすいように、州によって日を変えるのだ。大体土日を使って三連休になるように組んでである。
 オーストラリアは、英連邦の一員で、正式には王制の国なのだ。(Monarchy という)
 早い話が、まだイギリスの植民地だって事だ。
 これが面白いことに、この王制が気にいっている国民が大半で、共和制に移行しようという話は時々出るのだが、みんなイギリスの王様の下にいたいという。
 随分前に、オーストラリア政府から、オーストラリアの国籍を取って市民にならないか、という誘いの手紙を貰った。
 オーストラリア人たちからも、オーストラリアの市民にならないのか、と聞かれることがある。

 冗談じゃない。そもそも、短期滞在のつもりでシドニーに来たのであって、最初からオーストラリアに移民する気持ちはまるで無い。
 たまたま、どう言う訳か最初から永住ビザを呉れたので、こうしてうかうかと20年も住んでしまったのだが、もし、ビザの問題で面倒なことがあったらとっくに日本に引き揚げていただろう。
 大体日本には、「二君にまみえず」という言葉がありますよ。
 私は、反天皇制主義者だが、日本人である限り、今のところ天皇から逃れたくても逃れられない。
 天皇から逃れても、今度はイギリスの女王の下にはいるなんて、そんなあほなことは、ようでけまへんで。
 日本が、二重国籍を認めてくれたら、便利なんだけれどね。
 日豪両国の市民になれば、行ったり来たりに制限が無くなる。
 いまの私の永住ビザは、5年の内3年以上オーストラリアに住んでいないと、失効する、と言う条件がある。この制限は結構厳しい。
 前回、ビザの更新の時、オーストラリアでの滞在期間がその条件を満たしているかどうか、一生懸命計算しなければならなかった。
 二重国籍になれば、日本とオーストラリアで半分づつ住んでも問題が無くなる。
 早く、二重国籍を認めてくれないかな。

 ところで、今朝、不思議な体験をした。
 5時過ぎに一旦目を覚まし、再び寝た。
 最近、私は7時過ぎには起き、8時前に朝食を済ませ、9時半までにリハビリの運動を終える、と言う予定を組んでいる。
 だから、5時すぎに再び寝る前に、7時には起きなければならない、と言う意識はあった。
 最近眠りが浅く、すぐに目が覚めるし、寝ていても半覚醒の様な感じで、熟睡した満足感が得られない。
 5時過ぎに再び目を閉じて眠ろうとしたが、なかなか寝付けない。
 しかし、その内に、深い眠りに落ちてしまったらしい。
 というのは、隣で寝ている連れ合いが、朝起きてシャワーを浴びて、寝室から出て行く気配に何も気がつかなかったからだ。
 大抵の場合、連れ合いが起きてシャワーを浴びて寝室から出て行くまでの間の、どこかの時点で気がつく。(気がつかないことも、良くあるが)
 今日は何も気がつかなかった。
 そして、突然頭の中で声が聞こえた。その声は「ふちじだよ」という。
 私は、半覚醒の状態で「ふちじ? そんな時間はないよ。7時か? いや、ふちじという言葉の感じから、8時だろう」とうつらうつらと考えた。
 そこで、はっと目が覚めて、寝室に置いてあるデジタルの置き時計を見たら「8:00」と出ていた。

 その時は、しまった寝過ごした、と慌てて起きて身支度をしたが、朝食を摂っているときに、そのことを思い出した。
 勿論、単なる偶然なのだろう。
 だが、不思議な感じがどんどん募ってくる。

 時間を告げる声が聞こえたのは、5時過ぎに再び眠るときに、7時に起きなければいけない、と自分に言い聞かせたからではないか。
 昔から、遠足や運動会の前の日など、遅刻しないために、起きる時間の数だけ枕をたたいてから寝ると、その時間通りに起きられるというおまじないを我が家ではお決まりになっていた。
 確かに、そのおまじないは良く効いた。
 それは、自分の潜在意識に朝早く起きると言う命令を刷り込んだからだ、と言う考え方もある。
 そんなことは科学的にあり得ないという考え方もある。
 しかし、そのおまじないが効いたのは事実だ。
 今朝のことも、些細なことだが、考えれば考えるほど不思議な感じが強まっていく。

 私はこれまでに、科学的には説明のつかないことを随分沢山経験している。

 大学の入試の発表の前夜、デブの男が腹の前に太鼓を肩からぶら下げて、ドンガラドンガラ打ち鳴らしている、夢を見た。
 おかしな夢を見るもんだと思って、翌日発表を見に行ったら、発表の場所で大学の応援部が新入生の入部勧誘を行っていて、その応援部の先頭に立っていたのが夢に見た男だった。
 同じ顔をして、腹の前に抱えた太鼓をドンガラドンガラ打ち鳴らしていた。
 一緒に受けた他の大学の入試結果発表前夜にも、おかしな夢を見た。
 いくつもの小さな建物の建ち並ぶ間を私が歩いているのである。
 変な夢だな、と思って翌日発表を見に行って、合格者発表の場所までその大学の構内を初めて歩いたのだが、校舎からその発表の場までの間に大学の食堂や、学生活動のための部室などの建物が並んでいて、その間を歩いて行かなければならない。
 それが、前日に夢に見たのと全く同じ光景だった。

 ある時、車で銀座方面に行くつもりが、間違って首都高速道路の京橋出口まで乗過ごしてしまい、そこから銀座方面に戻るのに、また道を間違え、一丁目付近の裏道に迷い込んだ。
 イライラして、角を曲がって中央通りと並行しているだろうと思われる道に出た。
 曲がってその道に出た瞬間、私の目の前に、数回前にもこの日記に登場した会社に同期入社して以来の親友の「あ」が飛び出してきた。
「あ」は沖縄にいるはずだ。「あ」もその時私が銀座方面に出て来ることは知らない。
 私は、窓を開け、大声で「あ」を呼んだ。
「あ」は、あっけにとられた顔で近寄ってきて、「てっちゃん、こんな所で、何してるんだ」という。
 何をしているも無い。説明しようとしたが、後ろから他の車は来るし、私の車を停める場所も見あたらない。
「あ」も沖縄から本社に出張に来て、これから仕事で人に会うという。
「じゃ、また、後で、電話するよ」
 といって、其の場は分かれた。
 私が、首都高速の出口を間違えなかったら、出てからも他の道を通ったら、その道を通ったとしても数秒時間差があったら、私が「あ」と出会うことはなかっただろう。

 私は、外に出かけると、思わぬ人間に出会うことが良くあり、横須賀の家から東京に出かけて帰ってくると、連れ合いが「今日はどんな人と出会った?」と尋ねるほどだった。

 勿論、全て偶然だろう。

 このような偶然を、単に偶然だと考えてそれですましてしまう方が理性的という物だろう。
 私が物事を考えるときの基本的な態度はこうだ、
 

     

  1. 同じ条件下で、どの人間が行っても同一の結果が起こる事象、あるいは同一の観察結果を得られる事象を科学的事実とする。
  2.  

  3. その科学的事実を元に、論理を組立て、その論理に間違いないか検証して、間違いがなければ、論理のたどり着くところが、たとえ地獄であってもそれに従う。
  4.  

  5. 科学的事実が判断の基準として存在しない議論は、意味がないからしない。
  6.  

 その規範からすると、今朝の体験や、いままでの不思議な体験は、たんに「不思議だなあ」と思うだけで、それ以上、人間存在の真実に係わる物と考えることは、意味がない。

 しかし、意味がない、とは分かっていても、この不思議な現象は何だろうと考えてしまう。
 意味があるのではないかと、考えたい誘惑に駆られる。
 そこが、私が、自分を、唯物論者ではない、思ってしまうところのゆえんだろう。

雁屋 哲

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