大分旅行
2月20日、21日と、田園調布小学校六年二組の同級会で大分県に行ってきた。
「美味しんぼ」では、「日本全県味巡り」というシリーズを続けているが、その最初の県が大分県なのである。
そのきっかけは、当時の木下敬之助大分市長が我が六年二組の仲間の一人と大学で同級だったことで、その同級生の仲立ちで、大分県に来てみないか、と言うことになり、大分県を取材して回ったのがそもそもの「日本全県味巡り」の始まりだったのである。
大分県に私が行ったのはその時が最初だったが、実に驚いた。
大分県は地図を見てもお分かりの通り大きな県ではない。
で、あるのに、様々な多様な文化を持っている。
これが一つの国なら分かるが、一つの県である。
大陸からの文化の入り口と言うこともあったのだろうが、実に面白い。
ここで書き始めると、止めどがないので、美味しんぼの第71巻に大分県の特集をしてあるので、是非お読みいただきたい。
私は、「日本全県味巡り」を始めるときに、読者が地方の郷土料理などに興味を抱くかどうか自信がなかった。
当時の日本は、フレンチだ、イタリアンだ、ファーストフードだ、とやたら欧米の食文化が旺盛を極めていて、郷土料理などには見向きもしないのではないかと恐れた。
私が、「日本全県味巡り」を始めようと思ったのは、当時のその風潮を耐え難く思っていたからだ。
自分たちの生まれ育った郷土にこんなに素晴らしい料理があるのに何が悲しくて欧米の食の真似をするのか、それも、ファーストフードなどアメリカでもジャンクフード(ジャンクとは、クズ、のこと)と呼ばれているような物を何を喜んで食べているのか。
かつてフランスに、皆さんご存じの、美食家、ブリア・サヴァランという男がいて、「どんなものを食べているか言ってご覧なさい。そうしたら私は貴方がどんな人間か当ててみせよう(手元に本がないので正確に引用できないが、大体そう言う意味の事を言った。要するに、何を食べているかでその人間が分かる、ということだ。高級なものばかり食べていれば高級な人間かと言えばそうではない。毎日高級レストランで食事をすることは家庭的に極めて惨めであることを示してもいる。この言葉は、使い方によっては嫌みだが、正しく使えば、役に立つ。
ある時、若い編集者が、『毎日深夜から明け方まで働いているので夕食は買って来た弁当だけです』というので、それは健康に悪い、だらだら仕事をしているから遅くなるんだ。さっさと仕上げて早く家に買って家で食事をしなさい、と言ったら、『印刷会社の仕事が始まる時間に合わせて原稿を送るために、こういう時間帯で働いているんです』と言ったので、そうとは知らず、勝手なことを言って悪かったと謝ったが、今になって考え直すと矢張りおかしい。夜の6時過ぎに全部仕上げて印刷会社に送っておけばいいわけではないか。やはり、何か出版社独特の文化があって、明け方まで会社に居残っていないと気が済まないのだろう。
サヴァラン風に質問して、毎日弁当を買って来て食べています、と答えたら、編集者か、IT産業の労働者か、いや、今はかなりの多くの人が弁当で夕食をすましているようだから、今の日本ではサヴァラン風の質問は余り意味がないかも知れない)」
しかしですね、今回大分で、色々と気楽な料理屋で昼食を取ったが、大分の郷土料理である「団子汁」をメニューに載せている店が多かった。
「今日の昼は『団子汁』を食べました」などと答えたら、その人には、100点を差し上げたいね。
20日の夜は、大分に詳しい方に紹介していただいて大分市城崎町の「寿楽庵」でふぐを楽しんだ。
ここのふぐは東京のふぐ屋のふぐの二切れくらいの厚みがある
厚いからと言ってもったりなどしておらず、私はその二切れで鴨頭ネギ(あさつきのこと)を巻いて食べました。
歯ごたえは勿論、しゃっきりもちもち、香りも味も深く、堪能しました。勿論白子も太くて大きい物が出て来て、同級生たちは泣いておりました。
この店を紹介して下さった方が、なんと、モエ・エ・シャンドンのブリュット・アンペリアル(フランスの最高のシャンペンの一つ。ブリュットbrutは辛口の意味)の3リットルもの大瓶を差し入れて下さって、ふぐとシャンペンを合わせるという機会にめぐまれた。
シャンペンはワインの持つ不純物を徹底的に取り除いた物なので、ふぐとも衝突することがなく、実に案配が良かった。
ふぐとシャンペンの取り合わせなど、私なら思いつかないところで、その方のおかげで新しい味の世界を開くことが出来て、感動した。
湯布院では、以前一泊して食事をした「亀の井別荘」で夕食を楽しんだ。
それはいいいのだが、驚いたことに、湯布院に来てみれば、10数年前とは様変わり。
ひなびて静かで上品なところだったのが、何と「ここは原宿か」言いたくなるような風情。
色々と小じゃれた店が並び、大きな駐車場が出来て、大型の観光バスが何台も並んでいる。ハングルで一行名を書いた札を付けたバスが二台も停まっている。
韓国にまで知られる有名な観光地になってしまったのだ。
若い人達はこれでよいのだろうが、我々、昔の湯布院の姿を知る者としては落胆した。
この喧噪では、湯布院がかつて持っていた心洗われるすがすがしさを感じられない。
しかし、「亀の井別荘」の料理の味は、以前と同じ極上。
ご主人の中谷さんの厳しい目が行き届いているからだろう。
料理で一番大事なのは、料理の腕前もさることながら、料理を貫く思想だ。
東京に、私の愛していたレストランがあった。
シェフは数人変わったが、味はいつも極上だった。
それが、オーナーが亡くなったとたんに味が落ちた。
その時私は痛感した。レストランとは、プロデューサーが一番大事なのだと。
プロデューサーを失ったレストランは、船長のいない船と同じだ。
そのレストランは、結局つぶれてしまった。
「亀の井別荘」の料理の味が極上を保っているのは、プロデューサーとしての中谷さんの料理の思想が全ての料理人に伝わっているからだ。
この時期にスッポンは時季はずれだが、「湯布院は不思議なところで、この季節でもスッポンを飼っておけるんですよ」と中谷さんは仰言る。
味付けもしっかりしていて、実に美味しいスッポン鍋を味わった。
女性は美容に敏感である。「この、スッポンを食べるとお肌がつやつやになるんだよ」といったら同級生の女性たち、喜んでスッポンをしっかり食べた。
スッポンはグロテスクだと言っていやがる女性もいるのだが、我が六年二組の女性にそのような柔な神経の持ち主はおらず「こんなスッポンならまた食べたい」と意気軒昂。
鯉の洗いも、川魚臭さが全くなく、さらりとしていて、しかも脂の乗り具合も良く、川魚は苦手なんだと言っていた同級生も、「これはおいしい。すごいよ」と感服していた。
何から何まで、「亀の井別荘」の味は、他の料理屋とは格が違うと思わされた。
実に堪能した。
料理は素晴らしかったが、今度の旅行は実に疲れた。
と言うのは、良く歩いたからだ。
私は、宇佐八幡というのが昔から不思議で仕方がなかった。
例の、道鏡の件である。
道鏡は、孝謙上皇、のちの称徳天皇の信任が厚く、人臣最高の地位である法主に任ぜられた。
ついに、796年に宇佐八幡宮から「道鏡を天皇にすれば天下太平になるだろう」というご神託が下ったと伝えられた。その真偽を確かめるために、宇佐八幡宮に和気清麻呂が遣わされ、和気清麻呂はそのご神託は詐りであると報告したために、道鏡は天皇になれなかった。
称徳天皇が女性であるために、称徳天皇と道鏡の間のことについて、後生、道鏡をロシアの怪僧ラスプーチンまがいに扱った下卑た話が流布したが、実際は道鏡自身は優れた人物だったと言う説もある。
いや、何が不思議と私が思ったかというと、天皇家にとって一番意味があるのは伊勢神宮なのに、どうして宇佐八幡宮が道鏡を天皇にすると天下太平になるなどと言うご神託を出し、それを宮廷が確かめに行ったかと言うことだ。
宇佐八幡宮と天皇の権力はそんなに近い物だったのだろうか。
長年それを不思議に思っていたので、今回、とにかく宇佐八幡宮を見てみたかった。道鏡と宇佐八幡宮の謎は、きちんと歴史の本を読まなければ分からないのは当たり前だが、とにかく、その宇佐八幡宮を実地に見てみたかったのだ。
そこで、同級生たちと行ったのだが、いやはや、その境内の宏大なことといったらあきれるばかり。延々と歩いて本殿まで達したときには、最早くたくた。
くたくたになるまで歩いたところで、分かったのは、神社とは実に空虚な空間だと言うことだ。
元々神道と言う物は、空虚だ。
悪い意味の空虚ではない。
神道を理解するためにいったいどれだけの本を読んだか分からないが、書いてあることはみな同じ。ただ敬う、そのことだけだ。
教義という物がないのだ。こんな宗教は他にあるだろうか。
神社によって、その祀る神が違うと言うことが他の宗教では絶対に考えられないことだ。
例えば、江戸っ子に愛されてきた神田明神は、大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀る神社だが、境内には、平将門(まさかど)を祀る将門社がある。創建当初、近傍に将門の首塚があったことから、相殿(あいどの)にその霊を祀り、この地の守護神としたとも伝えられている。
江戸っ子は、その気っ風からして、お上に逆らった平将門を愛していて、神田明神と言えば平将門と思っていたのだが、明治の天皇制専制主義になって、天皇に逆らった平将門を祀る神社はまずいというので、色々ともめたらしい。
そもそも宇佐八幡宮は、、八幡大神(はちまんおおかみ)、比売大神(ひめおおかみ)、神功(じんぐう)皇后を祭神とし、八幡大神、八幡大菩薩(だいぼさつ)を信仰の対象として建てられたのだが、宇佐八幡宮の縁起によると、571年頃、3歳の童児が現れ竹葉を立てて八幡神は八幡神応神(やはたがみおうじん)天皇の霊であると託宣したとある。そこで、その八幡神というのがそもそも、第十五代天皇の応神天皇だとされていて、その本宮が宇佐八幡宮なのである。
こんなことを、ユダヤ、キリスト、イスラムのような一神教を信じる人が聞いたら呆れるだろう。
訳が分からないことに、この道鏡が天皇になることを防いだというので八幡神を鎮護国家神とする信仰が生まれて、それが、八幡神は王城鎮護、勇武の神として敬われるようになったというのだ。
とくに、武士には厚く信仰されて、鎌倉幕府の建てた鶴岡八幡宮など、日本中に八幡信仰が広まった。読者諸姉諸兄の家の近くにも、何とか八幡という神社があるのではないか。
実際に宇佐八幡宮の本殿に向かってみても、訳が分からないことには変わりはない。
ただひたすら、歩き疲れた。
帰り道、同級生たちと話したのだが、この宏大な神社をどうやって維持しているのだろうと不思議になった。
国からの援助があるわけがないし、氏子と言ったって周囲にそれだけの人口もない。やはり、八幡信仰を持ったお金のある人達によって維持されているのだろうと言うことになった。
私は、宗教心という物を全く持っていない。と言うより、宗教と聞くと寒気がするような人間である。
私からすれば、宗教こそ、人類がもつ最悪の病気だ。
宗教によって救われた人間と、宗教によって精神も肉体も殺された人間と比べると、圧倒的に後者の人数が多いことは世界史を少しでも読めば分かることである。
そのような他者を絶対的に否定する宗教が多い中で、明治以後の国家神道を別にすれば、神道はただ敬って清潔に生きるということだけしかないさっぱりした宗教で、宗教の中では一番良いのではないかと思う。
明治以後の国家神道は、この清新な神道を汚した物であり、これは史上最悪の宗教の一つで、いまだに日本人のかなりの部分に悪影響を及ぼしているのは、情けないことである。
宇佐八幡宮だけではない。
大分には他にも、青の洞門やら色々見て歩くところが多く、いつもは書斎に閉じこもっている私にとっては久しぶりの大運動会になった。
帰って来た翌日は、午後3時まで、起きられなかった。
体中が綿になった、と言う比喩はよく使われるが、その比喩を実感した。
くたくたに疲れたが、小学校の同級生たちとの旅行は最高である。
小学校の時の遠足を泊まりがけでしているようなもので、こんなに楽しいことはない。
すばらしい、同級生たちをもてたことが私の誇りであり、生き甲斐でもある。
有り難きかな、田園調布小学校六年二組(1956年卒業)。