雁屋哲の今日もまた

2010-12-15

シドニーは初夏です

 三ヶ月ぶりにシドニーに戻ってきた。
(どうも、この「戻って来た」と言う、言い方が気になる。秋谷に帰る時にも「戻る」と言う。おかしな二重生活はそろそろやめにするべき時に来たようだ)
 シドニーは本当に美しい町だ。

 シドニーに戻る度に、どうして、日本は、特に東京は、その町並みを美しく作れなかったのか、それを、本当に残念に思う。
 例えばドイツやボーランドだ。日本と同じ戦災で町を破壊されながら、昔どおりの町並みを復元した。
 おかげで、日本人の間にドイツを巡る「メルヘン街道」などのツアーが盛んである。ポーランドのワルシャワでは空襲の後再現された昔の町の美しさに酔う事も出来る。
 昔の自分たち祖先の生きていたまんまの姿を見せてそれで観光客を呼び寄せる。
 日本では、それは無理だ。

 京都だって、美しいところがあるのは、地図で見ると、点でしかない。
 一つの点、例えば銀閣寺は美しい。しかし、その周りの市街はどうだ。
 とても、目の肥えた外国の観光客が満足出来る物ではない。
 京都は実に汚らしい町である。その中に、点、点と、美しいところがある。
 点と点とを結んで歩く間に、周りを見ないですめばよい。
 しかし、そうは行かない。観光名所の間に存在する京都の町並みの醜さと来たら、これは世界中に特筆すべき物である。
 銀閣寺から、苔寺に至るまでの道筋の町並みの無残なこと。
 とても、外国の観光客に見て貰いたくない。

 ところが、驚いたことに、江戸時代の版画を見ると、江戸でも、京都でも、その町並みが非常に美しい。
 それは、考えてみれば、昔の建物は全て木造だったからだ。
 東京は、関東大震災と第二次大戦のアメリカによる無差別残酷空襲によって町並みを破壊され、その日その日の生活に追われる人々の要求によって、今すぐ住める家を建てなければならず、美しい町並みを再び作り直すことは出来なかった。

 四十年近く前、私が、劇画の原作を始めて、ある程度の収入が入るようになってから、日本の文化の原点である京都を知らなければならないと思って、レンタカーを借りて、当時運転免許証を持っていなかった私の代わりに、連れ合いに運転して貰って、京都の地図が全て頭に入るくらいに回った。
 その時期には、京都の町並みも美しさを保っていたところが多かった。
 それから、十数年経つうちに、京都の姿がひどい物に変わってしまった。

 1957年に亡くなってしまったが 小林古径という日本画家がいた。
 彼の描いた、京都の、「御池通り」の絵は、御池通りの町並みの屋根だけを連ねて描いた物だが、日本建築の美が作り出す美しい光景を描いた類のない素晴らしい絵だった。その本当に日本的な美しさは、「御池通り」から完全に失われてしまった。
 今の「御池通り」は小林古径には見せたくない醜い物である。
(ああ、人は早く死ぬべきである。あるいは、早く死んだ人は幸せである)

 こんな個人的な感慨を文章にしている時に、日本滞在中にシドニーに届けられてたまっていた雑誌の中から、12月6日付けのTIME誌を発見した。
 その最後のページの、Joel Steinのコラムが興味深かった。
 日本で、コラムというと、1ページの中の、数行だが、TIME誌でコラムというと1ページ丸ごとである。
 この、コラムの中で、Steinが言っていることで興味深かったのは、「今や、ジャーナリズムは、個人に乗っ取られた」と言うことだ。
 Steinは色々な人の発言を引用している。
 Steinの言うところでは、1997年に、TIME誌にコラムを書くようになってから、この業界から手ひどく非難された。
 その理由は、Steinに言わせれば、彼があまりに自分自身のことをコラムの中に書いたからだそうだ。
 2000年のニューヨーク・タイムズではSteinのコラムについて、

「彼は、三つの話題だけに焦点を絞っている。それは、彼自身、彼の生活、そして、彼自身の私的な問題に関わる深い考察である」

 と書かれていたそうだ。
 要するに、Steinは自分自身にしか興味のない人間とされたのである。

 Steinはそれから13年経って、今になって、自分は勝ったと思うという。
 それは、現在の、インターネットのブログやFacebookやツィートなどを見てみろ。みんな、自分の個人的な話ばかりしているではないか、と言うのが理由である。

 同時に、Steinは注意深く、心理学者ジーン・トゥインジ(Jean Twenge)の「Narcissism Epidemic(ナルシシズムという流行病)」と言う本の中のトゥインジの言葉を引いている。(Steinがトゥインジを好きなのは、彼女がSteinを例に取り上げいるからだという)
 トゥインジは言う、

「我々は個人主義の時代を生きている」
「人々は、自分自身のイメージとブランドを作らなければならないと思われている。そんなことは10年前まで聞いたこともない事だった」
「人々が自分に期待するように振る舞うのか、それとも、『自分自身そのままである』のか、という葛藤があったが、結局『自分自身そのままであればいい』という考え方が勝ちを収めた」
「一般的に、『他の人が貴方のことをどう思うおうと気にすることはない』と十代の人々に、説かれている」
「しかし、他の人が自分のことを気にかけない世界とは、それはどんな世界なんだろう」

さらに、Steinはかつて自分のことを非常に嫌ったコラムニストについて書いているが、彼の言葉も引用している。

「物書きたちは、自分の内部のことばかり書いて、外の世界のことを書くことを永久に抛棄してしまっている」

 たしかに、Steinの書くコラムの内容は、自分自身の目から見た世界、世界に対する自分自身の個人的反応、そういう物である。
 Steinは自分自身のことをコラムで書く。
 従って、読者は、Steinの家族のことも、彼の私的なことまでも知ることになる。それはうんざりだという読者もいる。(私の読者みたいだ)

 Steinは最初にTIMEという雑誌の題名を考えろ、という。
 その中に、「I 」と「ME」があるではないか。
「I=私」、「ME=me=ミー」、だから、Steinが自分自身の立場から書くのは当然だという訳だ。

 Steinは鋭敏な感性を持ったコラムニストである。
 彼の書くコラムは、常に時代に対する批判がこめられている。
 それも、政治評論家のように、第三者的に,大所高所の見地から言うのではなく、個人的にそのような政治的局面に対してどう反応するか、を書いている。
 私はSteinの熱心な読者ではないが、TIMEを読んでいて、時々、彼のたっぷりの毒とユーモアを含んだコラムを面白いと思っている。

 ここでも、彼は、非常に刺激的なことを書いている。
 他人の言葉を引用してのことであるが、

「他の人が自分のことを気にかけない世界とは、それはどんな世界なんだろう」
「物書きたちは、自分の内面のことばかり書いて、外の世界のことを書くことを永久に抛棄してしまっている」

 という、二つの言葉は、非常に重い。
 特に、彼が挙げているように、インターネットの世界での文章は「おれが、おれが」という自己主張中心主義に完全に偏っている。

 ただ、私は、この二つの弊害は、インターネットの匿名性による物だと思う。
 インターネットでの発言は、極めて限られた人々以外、匿名で行われている。
 匿名での発言については、

  1. 政治的に言論の自由が認められていない場合、自分の意見を言う。
  2. 政府や大企業などの組織に属した人間が内部告発を行う。

 そう言う場合に、発言者の身の安全を守る、と言う点では評価出来る。
 しかし、最近のインターネットでの発言を見ると、そのような身を守るという正当防衛的な物は少なく、自分の身を隠して、自分自身は全く安全な立場に身を置いてそこから他人を攻撃・揶揄するという、悪質な物が少なくないように私には思われる。
 そのような浅ましい行為をジャーナリズムとはとても呼べないが、しかし、一定程度以上、世論の形成に力があるのは事実である。
 日本以上にインターネットが生活に深く食込んでいる韓国では、インターネット上の誹謗を苦に病んで自殺した芸能人の例が最近数件報告されている。

 Steinはこのような弊害をきちんと見た上で、「自分を中心にして語る言論」を続けている自分たち一派が勝ったと言っているのかどうかは分からない。
(Steinはgloatと言う言葉を使っている。gloatとは「満足して、いい気味だと、ほくほくしている」と言う意味である。単に、「勝った」と言うだけではない)

 しかし、Steinは「何か物事を語る時に、その中に必ず自分についてのことを語る」という行き方を正しいと思っているようである。

 Steinの提議した問題は、わずか1ページの彼のコラムではとても論じ尽くせない、深くて、深刻な問題だと思う。
 こうして、自分自身、ブログを公表している者にとっては、非常に深刻な問題である。

 だが、私自身、自分の身元をはっきりさせて発言しているのだし、この世界で起きたことを論じる場合に、それが自分にとってどんな影響を与えるか、それを考えての上での発言だし、また、私の言うことが他の人にはどう捉えられるか、腹をくくっているので、「自分の内部のことばかり語っている、ナルシシズムという流行病に捉えられている」とは思わない。

 私は、これまでのSteinの行き方は正しいと思う。
 どんなことであれ、第三者的に遠くから無関係な者の視線で見るのではなく、自分の問題として引きつけてみることが大事だが、そうすると必然的に自分を語ることになる。
 自分を語らずして、事象だけを語ることは、過去の歴史を語るについても許されることではない。
 自分自身、旗幟鮮明にしなければ、過去も語れない。
 過去は現在に繋がるし、で有れば、未来を見渡す自分の現在の立場につながる。自分自身を語らないと未来も語れないのである。
 Steinの今度のコラムの記事は、何か発言しようとする人間にとって非常に意味の深い物だと思う。

 私は、Steinの今度のコラムを、読んで、以下のような教訓を得たと思う。

  1. 安易に、自己愛に満ちた言論を吐くな。
  2. 自分自身のことばかり言うな。自分は外部と密接な繋がりがあることを忘れるな。
  3. 全てのことを、自分自身の身に引きつけて考えて、自分自身を巻込んで、言論にせよ。(純粋な第三者的な立場という物はない。)

 そんなわけで、これからも、このページでは、私の感性にまかせて勝手なことを書きますのでよろしくお願いします。
(Steinさん、だしにしてご免よ)

雁屋 哲

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