パレスティナ問題 その12
聖書(旧約聖書)は読み物としても実に良くできていて、波瀾万丈、不謹慎な言い方かも知れないが、実に面白い。
その聖書の中でも、一番読み応えがあるというか、この聖書の中の芯が、今回取り上げる、出エジプト記から申命記、ヨシュア記までの部分だと思う。
前回までの聖書の話で、イスラエルの子孫たち(ユダヤ人)がエジプトで数を増して、それがエジプト人に疎まれて、虐待と迫害を受けるようになったところまで進んだ。
イスラエル人と言ったり、ヘブライ人と言ったり、ユダヤ人と言ったり、混乱する。
ここで、きちんと、イスラエル、ユダヤの名称について整理しておこう。
小学館のスーパーニッポニカを引用する。
「ユダヤ人とは、セム語族に属するが、早くからヘブライ人とカナーン人とが混血した民族。元来はヘブライ語を用いていたが、紀元前6世紀以後アラム語にかわった。ユダヤの名称は『旧約聖書』中の太祖ヤコブの子ユダの子孫であることに由来するが、バビロン捕囚ののちはイスラエル人(ヘブライ人)の総称となった。」
この「バビロンの捕囚」について簡単に言うと、モーセより遙かに後、紀元前1020年頃、イスラエル人はサウルを最初の王として、イスラエル王国を建設する。その後、ダビデ、ソロモンなど強力な王が出て繁栄するが、ソロモンの死後王国は、北イスラエルと南ユダの二つに分裂する。
紀元前722年にアッシリアによって北イスラエルが滅ぼされる。
更に、紀元前586年に、ユダ王国はバビロニアに滅ぼされ、ユダ王国の住民はバビロニアに連れて行かれ、捕囚となる。
これを「バビロンの捕囚」という。
これは、後の話で、まずは「出エジプト記」に取りかかろう。
出エジプト記はモーセの話であり、ユダヤ教の律法が神から与えられるという所から見てユダヤ教の原点と言える部分である。
モーセがいなかったら、中東から西洋にかけての歴史は、今とはまるで違った物になっただろう。
世界史にこれほどの影響を与えた人物は、他にいない、と言って良いほどだ。
モーセがいなかったら、ユダヤ教は成立しない。となると、キリスト教も、イスラム教も成立しない。
キリスト教徒イスラム教のない世界を考えられるだろうか。
この二つの宗教がどれだけ世界に影響を与えてきたか。
では、聖書を追いかけよう。
- エジプトでは、イスラエル人がますます増えたので、ファラオ(エジプトの王)はイスラエル人の男児は生まれたらすぐに殺せと命令を出す。
- モーセはイスラエル人の子供として生まれたが、母親は隠しきれなくなって、パピルスで作った籠をアスファルトとピッチで防水して川に流す。
それを、ファラオの王女が拾って育てる。 - 神がモーセを召命し(神に選ばれること)、イスラエルの民を連れてカナンに戻れと言う。
- 神はモーセに
「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブ、に与えると手を上げて誓った土地にあなたたちを導き入れ、その地をあなたたちの所有として与える。わたしは主である」(出エジプト記 第6章)
ここでも、神はカナンの地をユダヤ人(イスラエル人)に与えると言っている。
- 実は、モーセにアロンという兄がいる。聖書では、モーセが命を助けられたことは書いているが、アロンについては何も書いていない。ファラオがイスラエル人の子供を殺せと命令する以前に生まれていたのだろうか。このところは良く分からない。とにかく、「出エジプト記」の第4章でアロンが登場し、以後、モーセと行動を共にする。
- モーセと、アロンは、ファラオにイスラエル民を解放するように言うが、ファラオは聞かない。
- そこで、神はファラオを罰するために様々な災厄をエジプトにかける。
- 様々な災厄をかけたにも拘わらず、ファラオはイスラエル人を解放しないので、最後に神は、エジプトの全ての初子(最初に生まれた子供)を殺すと言う。
さらに、神がエジプト中をまわってエジプトの全ての初子を殺すときに、イスラエル人は家の入り口の二本の柱と鴨居に仔羊の地を塗っておけば、その家は過ぎ越して、初子を殺さない、と言う。
聖書の神は徹底的にイスラエル人を愛していて、イスラエル人のためにエジプト人の初子を全て殺すのである。
このとき、イスラエル人の家だけは、仔羊の血のおかげで過ぎ越してくれたので、今でも、ユダヤ教では「過ぎ越しの祭り」を持つ。 - エジプト中の人間も家畜もその全ての初子が一夜にして殺される。
さすがに、ファラオも折れて、モーセにイスラエル人とともにエジプトから去れ、と言う。 - モーセとアロンは、エジプトの全イスラエル人60万人を連れて、エジプトを脱出する。
- 神は昼は雲の柱となって一行の前に先だって進んで導き、夜は火の柱となってイスラエル人たちを照らしたので、モーセたちは昼も夜も行進することが出来た。
- ファラオは一旦イスラエル人の出国を許したが、後悔して、軍隊に後を追わせる。
- モーセたちが葦の海にさしかかったときに、ファラオの軍勢は後ろに迫って来た。
神に命ぜられてモーセが杖を高く上げ手を海に向かってさしのべると、海は二つに分かれて乾いた地に変わった。両側が水の壁になっている間をイスラエル人は渡りきった。
そこで再び神に命ぜられてモーセが海に向かって手をさしのべると、海は元に戻ってファラオの軍勢は水に飲まれてしまい、イスラエル人たちは助かる。 - イスラエル人たちはカナンに向かう荒れ野に入る。
この後、イスラエル人たちは四十年間荒れ野をさ迷い続ける。 - シナイ山にたどり着き、モーセはシナイ山に登り、そこで神から「十戒」を授かる。
同時に、神に生け贄を捧げる儀式、除麹蔡、安息日などの細かな指示を神から受ける。
ここで、「出エジプト記」は終わる。
聖書は、更に、レビ記、民数記、申命記、ヨシュア記、と続く。
- レビ記、民数記、申命記では更に細かな律法が神からモーセを通じて与えられる。
それで、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記までを「モーセ五書」といい、「律法の書」とも言う。 - エジプトを出てから荒れ野をさ迷うばかりで、食べ物のこと、水のことなどでイスラエルの人々から強い不満が上がる。
その度に、モーセは神に救いを乞う。
イスラエルの共同体全体が不満を言ったり泣き言を言ったりすることが十度に及ぶと、神は怒って
「自分に不平を言った者、二十歳以上の者は誰もカナンの地に入ることはない。荒れ野で四十年間罰として、羊飼いとなって生きて行き、この荒れ野で倒れる」(民数記 第15章)
と言う。
実に何とも恐ろしい神ではないか。エジプトから連れ出しておいて、荒れ野をさ迷うのが辛いと文句を言ったら、それを罰して四十年間荒れ野で羊飼いとして生きて死ぬ。カナンの地に入れない、と言うのだから、どうもエジプトから連れ出されたイスラエル人にしてみれば、えらい災難だ。
- カナンに向かう途中で、モーセの兄でこれまで最大の協力者だったアロンが死ぬ。
- 民数記、申命記では、カナンに向かう途中の幾つかの部族との戦いが記録されている。
- 私には、どう言うことなのか理解できないのだが、カナンの近くパランの荒れ野に宿営しているときに、神はモーセに、「人を遣わして、わたしがイスラエルの人々に与えようとしているカナンの土地を偵察させなさい」という。
神はカナンの地を与えると約束したが、それはすんなりとくれるのではなく、既にその地に住み着いている人達をイスラエル人が戦って滅ぼして手に入れなければならないのだ。
このところが、私は、パレスティナ問題の大きな原因の一つだと思う。
いかにして、イスラエル人たちがカナンの地を手に入れるか、それは、また明日。