共和国の友人たち6
(前回からの続き)
韓国併合後のことを挙げていこう。
細かいことを挙げていけばきりがないので、大きな所だけ拾ってみる。
◎ 併合後、「大韓帝国」はなくなり、「朝鮮」という地名を使うようになった。(したがって、これ以降1945年の日本の第二次大戦の敗北までの間を韓国に変えて朝鮮と呼ぶことにする)
◎ 「朝鮮総督府」が作られ、総督が天皇の代理として政権と軍事権力の一切を握る専制君主のような存在として、朝鮮に君臨した。
◎ 朝鮮で法律を必要とする事項は、総督の命令を制令とした。
例えば、民法は民事令、教育法は教育令とされた。
同時に、日本の法律も必要とする物は天皇の命令として朝鮮にも適用された。
日本国内の「治安維持法」なども、そのまま、朝鮮では天皇の命令・勅令として、適用された。
要するに、朝鮮の人間は、法律ではなく、総督の命令か、天皇の命令に従わなければならなかった。
◎ 「集会取り締まり令」を作って、朝鮮の人々の言論・集会・出版・結社の自由を奪った。
(その点では、日本国内でも同じことだった。1875年には「讒謗律」が制定され、政府に対する批判を一切禁じられた。
それどころか、日本が韓国を併合した1910年に、国内では、幸徳秋水ら社会主義者達を捕らえて死刑にした「大逆事件」が起こっている。それを見た、永井荷風は「以後、一切社会的なことに関わらず、戯作者として生きて行こう」と決意した。明治憲法下の日本の政府は国の内外を問わず、民衆の自由を認めない専制的な支配を行ってきたのだ)
◎ 「朝鮮教育令」を作って、朝鮮の公立学校では朝鮮語が禁止された。
学校内は勿論、家庭でも日本語を使っているか教師が見回りに来たという。
言葉を奪われるとはこれ以上の屈辱はないのではないか。例えば、日本人が、全ての言語は英語だけにしろと言われたら、私達はどのように感じるだろうか。
(余談だが、私が、シドニーで仲良くなった韓国人の友人のお母さんは戦前の日本の教育を受けた人で、日本語が上手で、文章も字も我々の世代の日本人は及びもつかない見事な物である。頂いた手紙を読んで、その字と文章の見事さに驚くと同時に、如何に日本が朝鮮の人々に日本語を強制したか、そのことに思いを致して、粛然となったことがある。もう80歳を過ぎておられるがシドニーと、ソウルで、何度かお会いして、一度はソウルで犬料理を食べるのにご一緒して頂いた。気品があって教養があって誇り高く、素晴らしい韓国人女性である)
◎ 「土地調査事業」で、朝鮮農民から土地を奪った。
1910年から1918年にわたって、総督府は朝鮮全土の土地を調査した。
それまで、朝鮮では土地の所有関係は緩やかで、農民は誰の物ともはっきり決めず土地を耕して来た。それを、総督府はその土地の所有の由来を文書で申告することを命じた。
そのような証明をする文書はないし、第一、大半の農民が文盲だから、申告できず、またしなかった。
すると、その土地は所有者不明として総督府に取り上げられた。祖先伝来の土地を奪われた農民は、大地主の小作人になるしかなかった。
伊藤博文が皇族を社長として作った「東洋拓殖株式会社」は総督府からその土地を譲り受け、植民地最大の地主となった。
結果的に、朝鮮の農民耕作地を日本人が奪ったことになる。
小作民にたいする税は過酷で生産高の6割を超えたという。地主は農民から取り立てた年貢米を日本に輸出する。
統計によれば、1917年から1921年までの日本への米の年平均輸出高は244万3千石、1932年から、1936年までの年平均輸出高は873万5千石、さらに1938年には1千万石を超えた。
それだけ供出してしまうと農民の食べる分がなくなり、「春窮農民」(春に食べるものがなくなり困窮する農民という意味である)が生まれた。農民はどんなに増産しても、供出で取り上げられるから、秋に取り入れた米を食べ尽くすと、翌春、麦の実るまでの間、食べるものがなくなり、木の皮木の根をかじって命を繋ぐ姿が珍しくなかったと言う。
多くの農民が村を離れ、都市や外国に流れて行った。
◎ 「皇民化政策」
総督府は、朝鮮中のあちこちに神社を建て、学校では毎日宮城遙拝を行わせ、毎月8日には日の丸掲揚、宮城遙拝、「皇国臣民の誓詞」を唱和させられた。それは、
「私共ハ、大日本帝国ノ臣民デアリマス。
私共ハ、心ヲ合ワセテ天皇陛下ニ忠義ヲ尽シマス。
私共ハ、忍苦鍛錬シテ立派ナ強イ国民ニナリマス。」
というものである。
こんなことを、今の日本人の若者に言えと言ったらどうなるか。
紀元節には教育勅語の奉読が行われた。
現在の日本はアメリカの半植民地だが、毎朝星条旗に敬礼することもなく、星条旗よ永遠なれ、などを歌わされることもなく、アメリカの独立記念日に、独立宣言を唱和させられることもない。もし、そんなことを強制されたら、いくらアメリカに従順な日本人でも反発するだろう。
しかし、日本は朝鮮でそのようなことを強制していたのである。
◎ 「創氏改名」
1940年、第7代総督南次郎は「創氏改名」を強行した。
明治以前の日本人で姓を持っているのは武士階級と、特別に許された人間だけで、大半の日本人は姓を持っていなかった。単に、権兵衛、おさん、などと言う名前だけで一生を過ごした。
1870年に明治新政府は平民・農民に苗字を持つことを許すことにした。
1898年の明治民法の親族編の制定で、家の称号としての氏が制定された。
明治民法では、家長としての戸主に、その一家に対しては疑似天皇のような権限を与えて、その家が天皇と結びついているという観念を形成して、天皇制を支える役割を果たさせた。
(この封建的な明治民法による家制度が廃止されたのは、第二次大戦敗戦後のことである)
明治民法以前は夫婦別姓が一般的で、法律上も夫婦同氏の原則は定められていなかったのだ。
朝鮮では、昔から戸籍が作られていて、戸籍には、本貫・姓・名の順番に記載されていた。
本貫とは、一つの宗族集団(氏族)の始祖の出身地とされる地名であって、同じ金という性でも本貫によって金海金氏、慶州金氏、羅州金氏などと宗族集団としては区別されるので、本貫も名前の一部とされて、高麗時代以降現在の韓国まで戸籍には本貫が記載されている。
韓国では2008年以降戸籍制度がなくなり、個人を単位とする「家族関係登録簿」に替わったが、この戸籍でも本貫の記載は残っている。ただし、同じ本貫でも派閥に別れる物があるために、同じ本貫・姓でも同族と意識しない場合がある(このあたり、水野直樹著「創氏改名」から)。
明治民法で日本に家制度を確立した日本政府は、同じことを朝鮮でも行おうと思ったのだろう。
朝鮮では宗族意識が強く、父から受け継いだ姓は死ぬまで変わらない。夫婦別姓である。
それでは、各人の帰属意識が宗族にあり、天皇制で支配するのに不都合だ。
そこで、日本式の家制度を朝鮮にも実施させ、家長を通じて天皇に結びつかせることを考えたのだろう。
「創氏改名」のうち、「創氏」は義務であって、自分で新しい氏を作らなければ、それまでの、金、李などの姓を自動的に氏として、妻もそれまで別姓だったのを夫と同じ氏とする。
「改名」の方は任意とした。しかし、戸籍上これまで、姓名だったのが氏名になり、夫婦同姓になり、宗族に対する帰属意識が強く「家」の伝統のなかった朝鮮に家制度を持込んだことは、朝鮮の人々を大いに傷つけた。
(一般に、「創氏改名」というと、朝鮮の人々に、日本風の名前を名乗らせることのように捉えられているが、そんな単純な物ではない。前掲の水野直樹著「創氏改名」は、それ以前の宮田節子、金英達氏らの研究を踏まえ、さらにそれ以外の新しい研究も取り入れて説いているのでお勧めしたい。
なかなか難しい問題であって私自身、この問題は腹の底から分かったとは言えない)
強制的に日本式姓名に変えさせられた例、それに抗議して自殺した例、など多くの事例が様々な本に書かれている。
自分の姓名を強制的に変えさせられるのが、どれだけ屈辱的なことか、読者諸姉諸兄におかれても少し想像力を働かせて頂きたい。
私の名前の雁屋哲を、金雁珍などに変えろと言われたら徹底的に抵抗する。そんなことを強制する人間は、私なら、殺してやろうと思う。
読者諸姉諸兄は如何ですか。平気ですか。
◎ 労働力動員(強制連行、「国民徴用令」による強制労働)によって、多くの朝鮮の人々に過酷な労働を強いた。「慰安婦」も朝鮮人の女性に強いた。
1972年、韓国原爆被害者協会の発表によると、広島の原爆で被爆した韓国人は50000名、死亡者30000名
長崎の原爆で被爆した韓国人は20000名、死亡者10000名となっている。
数字の正確度は明かではないが、多くの朝鮮の人々が、広島と長崎の原爆で被害に遭っていることは確かである。
その理由は、広島、長崎ともに軍需工場が多くあり、その軍需工場に朝鮮から連れて来られた労働者が働いていたからである。
今、広島の「平和記念公園」内に、「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」が建っている。
強制連行については、そんな物はなかったという人が1990年以降大量に出現して、真面目にこの方面のことを研究してきた歴史家は、いちいち実在の資料を示してその過ちを指摘するのだが、モグラ叩きみたいに、一つつぶしても、また、とんでもないところから事実を否定する馬鹿げた論が次々に現れて、消耗することが続いている。
「神戸学生青年センター出版部」から、1994年までに、日本の各新聞に書かれた当時生き残りの人々の証言、また日本の戦前の朝鮮・中国の人々をどのように強制連行したかその記録をを集めた本が出版されている。当時の新聞をコピーした物である。
私は、この本を見る度に、1990年代の日本人は正しい心を持っていたと思う。
自らの過ちを新聞できちんと書いていたのである。
今は、逆で、如何に過去に自分たちがしたことを隠し、美化するかに新聞雑誌が狂奔している。私からすれば、1990年代の日本は既に右傾化していたと思うが、昨今の右傾化はただならないものがある。
(この場合の、右に位置する人とは、日本が過去にどのようなことをしたか、公平な目で見ることが出来ず、全て日本が正しかったと言い張る人のことである。
正統右翼の人々は、日本が朝鮮・中国に対して行ったことを、非常に悔いている)
「慰安婦」について言えば、日本では、朝鮮の女性を強制連行して慰安婦にした記録がない、と言うことで、「慰安婦=強制連行」という図式を否定する人が多いが、彼らの主張するのはそのような「文書による証拠がない」という一点である。
馬鹿げている。
戦争に負けたと分かった途端、日本の官僚は全ての部所でそれまでの記録文書を焼いたことが分かっている。
自分たちに都合の悪い文書は些細な物まで全部焼いた。強制連行に関する文書は真っ先に焼いただろう。
しかし、実際に、研究者によって、そのような文書が発掘されている。
一つでもあれば、そのほかの場所でも同じことが行われていたことは明白だ。日本の官僚組織は、例外と言うことを許さないからだ。
さらに、実際に慰安婦だった韓国の女性が名乗りを上げている。
我々にとっては認めたくない恥ずかしい先代の罪悪だが、これを公式に認めないから、我々日本人全体に人間としての誇りがあるのか、全世界から疑われている。
朝鮮の人々を強制的に働かせる「徴用令」もそうだが、第二次大戦に入ると、日本は朝鮮に「徴兵制度」をしいた。
多くの朝鮮人青年が日本軍の軍人として組込まれた。
第二次大戦後の戦争犯罪裁判で、朝鮮人でありながら日本軍に所属して日本軍の命令通りに戦争捕虜に対応したばかりに死刑になった朝鮮人が少なくない。
朝鮮の人々にとってこの口惜しはをなんと表現して良いのだろう。
このような、日本の残虐な支配に対して、朝鮮の人々は反逆したし、良く戦った。
しかし、そのあたりの事を書き続けるのは、この頁の限界を超える。
日本が朝鮮・韓国にどんなことをしたか、まだまだ書かなければならないことがあるが、以前に挙げた本を読んで頂ければ良く分かる。
いちいち本を買うのは大変だろうから、地域の図書館に行って私の挙げた本を読んで頂きたい。最近の図書館は、そこにない本はあれこれ手を尽くして手に入れてくれるようである。
(本当は、本は絶対に買って頂きたいのだ。物書きにとって、図書館で本を借りて読んで頂くと言うことは、絶体絶命のことである。
本は売れてこそ、その本を書いた人間にとって収入があるのであって、図書館で読んで貰っても、あるいはブックオフのようなところで新中古の形で買われても、書いた人間には何の経済的な利益がない。その経済的な利益がなければ、生活が維持できないから、次の本を書けない。物書きが本を書けなければ、そもそも本などと言う物が存在し得ない。
出版文化を維持したいと思うなら、ぜひ、町の本屋さんで自分の欲しい本を注文して買って欲しい。町の本屋さんに頼めば二日で注文した本が手に入る。
私が読者諸姉諸兄にお願いしたいことは、町の本屋さんにしょっちゅう足を運んで頂くことだ。思わぬ、素晴らしい本に出会うことが出来る。
町中にこれだけ本屋さんがあるのは、日本だけであって、如何に日本の文化が高い物であるか、その証なのだ。アメリカや、オーストラリアのように、本屋がそこらに見あたらない、と言うような無残な状況にしないで欲しい。そのためには、みんなで、本屋さんに足を運んで欲しいのだ。
私について言うと、私は、欲しい本はまずいつも自分が本を買っている葉山にある本屋に注文する。そこで、絶版と言われたら神保町の古いつきあいの古本専門店に手に入れてくれるように頼む。
私はシドニーに住んでいても、その流儀は守っている。それぞれの町に本屋があること、これ以上に文化的なことはない。その姿を壊してはならない。
読者諸姉諸兄よ、頼むから町の本屋に足を運んでくれ!)
いけない。
今回で終わるつもりが、長くなりすぎた。
締めくくりは次回にする。