共和国の友人たち7(完)
前回まで、明治以降日本が共和国・韓国に対してどんなことをしてきたか大雑把にまとめて見た。
全く荒っぽいまとめで、抜けが沢山あるし、ざっとかい撫でしただけなので、極めて底は浅い。この日記では、この程度書くのが精一杯だ。
私が前に挙げた本を読んで頂ければ、ちゃんと深い理解が行く。是非お読み下さるようお願いしたい。
共和国・韓国の人々と友人になりたいと思ったら、日本人は最低限私が挙げた事柄を知識として持っていてもらいたい。
共和国・韓国の人々は学校でしっかり学んでいるから、江華島事件以降、韓国併合を経て1945年の日本の敗戦による解放の時期まで日本が朝鮮・韓国に何をしたか良く知っている。
ところが、日本人の大半、特に若い人達は何も知らない。
初めて聞いて驚く。
驚くのはまだ良い方で、そんなことは嘘だという。
こんなことを言う私は、共和国・韓国、中国に洗脳されているんだろう、とまでいう。
それも無理はない。日本の学校では明治以降の日本のアジア侵略の歴史はまともに教えられないからだ。
1945年の第二次大戦敗戦後に生まれた日本人の大半は、明治以降日本が朝鮮・韓国、中国に何をしたか良く知らない。
日本人は知らなくても、外国人はみんな良く知っている。
他の国の人間が良く知っていることを、我々日本人は知らない。これでは、国際的に勝負にならない。眞の友好関係も結べない。
「閔妃暗殺」を書いた角田房子氏は、次のように書いている、
「(前略)両国関係の歴史を学ぶ間に私は何度か『日本はこんなひどいことをしていたのか』と言う驚きに打たれた」
私もその通りだった。
角田房子氏がこの「閔妃暗殺」を書かれたのは1987年、その時氏は73歳。
その年代であっても、日本がしてきたことを御存知無かったのだ。
また、それより前の部分でこうも書いている、
「(前略)及ばずながら日韓関係の事実を知ったことで、私は実感の伴う”遺憾の念”を持つようになった。私の使い慣れた言葉で言えば、”申しわけなさ”がその基礎となった感情である。」
(中略)」
「『閔妃暗殺』をお読み下さる方々の一人でも多くが、どうぞ隣国への”遺憾の念“を持ち、それを基とした友好関係、相互理解を深めて下さるようにと、私は切に願っている」
(ところで、この角田房子著「閔妃暗殺」が新潮文庫で出ていることを知った。文庫本なら、入手しやすいと思うので、読者諸姉諸兄におかれては是非購入一読して頂きたい)
日本人は自分たちがしてきたことを、きちんと認識し、その結果朝鮮・韓国の人々に対して与えてきた被害の大きさをはっきりと認識しないと、共和国・韓国の人々が心の底に持っているわだかまりに気がつかない。
わだかまりなどではなくもっと強く言うなら「反日感情」である。
相手がそのような物を心の底に持っているのに、何も知らない日本人がのこのこ出かけて行って友好だ、相互協力だ、などと言っても上手く行くはずがない。
まず、共和国・韓国の人々が胸に深く抱いている日本に対するわだかまり・反感をしっかりと認識して、そのうえで、いかにして友好関係を樹立できるのか考えなくてはいけないだろう。
自分の国が過去に犯した間違いを認めるのは辛いことだが、自虐的だ、などと言って逃げたりしてはいけない。
過ちを過ちときっちり認めることは辛いが、それを避けていたらいつまで経っても卑怯な弱虫のままだ。真実から逃げ続けているその姿こそ自虐的ではないか。
最近NHKの大河ドラマで司馬遼太郎原作の「坂の上の雲」が放映されている。
このNHKのドラマのおかげで、また「明治時代は明るかった」「日本の明治時代は、溌剌とした青年のようだった」などと喧伝されことになるだろう。
前掲中塚明氏著「歴史の偽造を正す」の162頁に引用されているが、1996年3月2日の毎日新聞に、《歴史万華鏡》岡本健一「『司馬史観』再考―『近代化の原罪』からの解放」、と言う文章が転載されている。
その中で、岡本健一氏は次のように言っている。「明治維新によって近代化の扉を開いた若き群像、彼我の実力を知って日露戦争を戦った指導者。いずれも、ドグマで裁断されず、共感を込めて活写された。
誰もがさわやかな快男児で、抑制の効いた美しい「侍の倫理」と「合理精神」の持ち主として描かれた。
つまり、司馬さんは「太平洋戦争の否定」から出発して「明治の肯定」に至った。
暗黒史観とは対象的だ。
おかげで、私たちは、明治の近代化と共に背負わされた《原罪》――生まれつきの侵略国家感――から解放された。
このような文章を読むとめまいがする。
この人は、日本の歴史に全く無智なのか、それとも、意図的に事実を曲げているのか。
これまで私の挙げた点だけで、明治政府がどれだけの権謀術数と暴力を用いて朝鮮・韓国を侵略して行き日本に韓国を併合してしまったか、まともな知能を持つ人間なら、間違える事なく理解できるだろう。
江華島事件以降、韓国併合に至るまで、関わり合った日本の軍人、政治家、官僚、その誰が「さわやかな快男児」で抑制の効いた美しい「侍の倫理」と「合理精神」の持ち主だったか。
そんな言葉は聞いただけで気恥ずかしくなる。
「坂の上の雲」は日露戦争を舞台にするようだが、日露戦争は、日清戦争の続きであり、日清戦争と日露戦争は切り離して考えられない。
日本は朝鮮に対して攻撃を重ね、朝鮮の権利を奪って行き、朝鮮王宮を占拠して日清戦争に韓国を巻込んだ。
そこの所を司馬遼太郎氏は書いていない。
その朝鮮を支配して日露戦争に導くまでの日本のやり方は、権謀術数と暴力にまみれた陰険極まりないものであって、「さわやかな快男児」で、抑制の効いた美しい「侍の倫理」と「合理精神」の持ち主のすることではない。
正に日露戦争までの日本の近代化の歴史は生まれつきの侵略国家と言う原罪から逃れる訳にはいかない。
司馬遼太郎氏は小説家である。
歴史家ではない。
小説家としてどんなに事実を脚色して面白く一般受けのする物語を書いても構わないが、読む方は、それを実際の歴史と混同してはいけない。
歴史物語は、あくまでも、歴史を題材に取った小説であって、歴史書ではない。
そこを間違えてはいけない。
司馬氏は日本人が喜びそうな部分にだけ光を当て、大いに美化して描く。日本人とっては辛いところは伏せる。結果的に、明治の日本を賛美して、実際の明治の姿と異なった明治像が描かれている。
小説だったら何を書いても良いというものではない。
歴史小説であるからには歴史の本質を曲げた物を書くべきではない。
司馬遼太郎氏のおかげでどれだけ多くの日本人が、史実に反する物語を史実と思い込まされてしまったことだろう。
司馬氏の本を読む際には、実際の歴史の本を横に置いて、事実と対応させながら読むことをお勧めする。
だが、一般読者は普通歴史の本を対照しながら司馬遼太郎氏の小説を読んだりしない。
すでに、司馬遼太郎という名声のある小説家が書くものなら、その通りに鵜呑みにするだろう。
司馬遼太郎氏の書くものは真実を認める勇気のない人間には心地よい。
しかし、その偽りの心地よさは、過酷な歴史の真実を隠す物であり、それを真に受けて良い気持ちになっていると、現実から必ず手ひどいしっぺ返しを食うことになることを肝に銘じて欲しい。
明治がどんな時代だったか、朝鮮・韓国・中国を離れて日本国内だけについて考えてみよう。
早くも1875年(明治8年)「讒謗律(ざんぼうりつ)」「新聞紙条例」、1893年(明治26年)「出版法」が制定公布された。
「讒謗律」は個人の名誉毀損を禁止する法律だが、実際は政府に対する批判を取り締まった。政府高官などに対する批判はそれが私的な物でなく、政治的な公的な物でも、名誉毀損とされたから、結果的に政府に対する批判は出来なくなった。
「新聞紙条例」「出版法」で政府に都合の悪い内容の出版は禁止された。
1880年「集会条例」が制定され、集会や結社を厳しく取り締まった。これは、典型的な「言論の自由のない国」の姿である。
1880年「不敬罪」、1882年「大逆罪(たいぎゃくざい)」の制定。
「不敬罪」とは、天皇および皇族だけでなく、神宮や、歴代天皇の稜(墳墓)に対しても、その尊厳を損なうような一切の行為を罰する法律。
「大逆罪」とは、天皇、太皇太后(天皇の祖母)、 皇太后(先代の天皇の皇后)、皇后、皇太子に危害を加え、あるいは危害を加えようとした者は死刑に処する、と言う物。
「危害を加えようとした」などと言うことは、でっち上げようと思えばいくらでもでっち上げられる。
幸徳秋水ら、政府にとって邪魔な社会主義者たちはでっち上げの大逆罪で死刑にされた。
「大日本憲法第29条」では「日本臣民は法律の範囲内に於いて言論著作印行集会及び結社の自由を有す」と決められていた。
しかし、問題は、その「法律の範囲内に於いて」という所であって、すでにある「讒謗律」「新聞紙条例」「出版法」「不敬罪」「大逆罪」などの範囲内ということだから、実質何の自由もなかった。
さらに、1900年(明治33年)に制定された「治安警察法」で言論の自由も、集会の自由も、一切規制された。
宮武外骨は1889年、「頓智協会雑誌」で明治憲法発布のパロディとして、宮武外骨が「頓智協会憲法」を授けると言う図を描いた。宮武外骨(みやたけがいこつ)の外骨は骸骨に通じるので、骸骨が憲法を授ける図を書いたところ、その図が天皇が憲法を授ける所を思わせ、「天皇を骸骨に書いたことが不敬罪に当たる」として3年8カ月勾留された。
人々は言論の自由もなく、警察の目におびえて小さくなって暮らしていた。
このような明治が、どうして明るい時代と言えるのか。
戦前の軍国主義の暗い時代は既に明治に始まっていたのだ。
その上、1925年(大正14年)に制定された「治安維持法」は「国体の変革と私有財産制度の否認を目的とする結社や行動を処罰する物で1928年に改正されてからは、反政府的あるいは共産主義的とみなされた言動は厳しく取り締まられた。
その中には「予防拘禁制度」というのがあって、それは、まだ何も罪を犯していないが、これから犯すかも知れないと当局が思ったら、その人間を勾留することが出来ると言うむちゃくちゃな物だった。
国内でさえこうなのだから、日本の植民地となった朝鮮で、政府がどんな態度で朝鮮の人々に接したか容易に察することが出来る。
2004年に亡くなってしまったが、本田靖春という優れたノンフィクション作家がいた。
もともと、読売新聞の社会部の記者として活躍していたが、読売新聞の保守化が進んだことで耐えられなくなり、退社して、ノンフィクション作家として活躍した。
反骨精神の旺盛な人で、読売新聞在社中も、1962年から反売血キャンペーンを紙面を通じて行って、日本の輸血を売血から献血によるものに変えさせるのに大きな役割を果たした。
(1962年当時、日本の輸血の100パーセント近くは売血によるものだった。
当時山谷のドヤ街でその日暮らしをしている労務者たちから血液を買う会社があり、その会社が病院などに売った血で輸血が行われていた。
1回200ccの血液を本来なら一ヶ月一回しか採血してはいけない規則なのに、貧しい労務者の中にはひどい人になると月に50回も採血をして売ったという。
頻繁に採血すると脊髄の造血作用が追いつかず、血液の色が本来の鮮紅色を失い薄汚れた黄色になってしまう。
これを「黄色い血の恐怖」として、氏はキャンペーンを張ったのである。
世界中で、輸血の血液を売血に頼っているのは日本だけで、各国から批判を浴びていた。それ以前に、この売血によって得られた血液を輸血された患者は高い確率で肝炎にかかり、やがて肝臓がんで死んでいく。
血液会社、血液会社からリベートを貰う医師たち、厚生省の役人たち、この三者の癒着は強固で、とても勝てるキャンペーンではなかった。
しかし、氏は粘り強く、献血運動も続け、1962年に度輸血全体の0.5パーセントだった献血が1966年度には49.9パーセントに達する。
氏は足かけ5年にわたるキャンペーンを続け、日赤の村上省三氏、早稲田大学の学生木村雅是氏らの協力で献血事業は進み、1985年には日本の献血者は869万人に上り、日本の献血率は7.4パーセント(全国民の7.4パーセントが献血をしている)となり、世界一となる。
日本で労務者たちから売血をしていた吸血鬼「日本製薬」「日本・ブラッドバンク」の両社の経営者はともに、中国で捕虜を使って生体実験をしていた悪名高い第731部隊の残党たちだった。
日本ブラッドバンクは世の動きを見て売血から手を引いて、後にミドリ十字と改名し、血液製剤を作ることに方向転換したが、血友病患者にアメリカから売血してきた血液を基に作った血液凝固剤を売って多くのエイズ患者を作り出してしまった。
731部隊の一党が如何に人間性を無視した人間達だったか、考えれば考えるほど恐ろしく浅ましい。
ミドリ十字は、吉富製薬との合併を経て、現在田辺三菱製薬となり、日本で最大の化学会社三菱ケミカルHDの傘下にある。731部隊の歴史を受け継いだことは三菱にとって名誉ある事とは言えまい)
その本田靖春氏は、父親の仕事の関係でソウルで生まれ、敗戦によって日本に引き揚げてきた。
その時の事を書いた、本田靖春氏の文章を氏の最後の本「我、拗ね者として生涯を閉ず」(講談社)から引用しよう。
氏は、日本に帰ってきて、日本の川や海が朝鮮と違って水が澄んで美しいのに感動した。
『別天地に遊ぶような心地で上陸したのだが、そこで私はもう一つの驚愕的な「発見」をする。
それは港で立ち働く人びとすべて日本人である、ということであった。
朝鮮では、単純労働者はみな朝鮮人であった。
思い返してみて、私の周囲でそう言う仕事に就いていた日本人は、一人もいない。
それこそが植民地の姿なのだが、その中で生まれ育った私たちは、そうした不自然さをしごく当然のこととして受けとめていたのである。
私たちにとっては、日本人が港で立ち働くことの方が、極めて不自然であった。
だから、自分を納得させるために、いちいち母を煩わせた。
「ねえ、おかあさん、あの人も日本人?」
「ええ、そうよ」
と答えていた母は、同じ質問があまりにも度重なるので、叱りつけるように言った。
「あなた、何度同じことを訊いたら気が済むの」(中略)
私にとって、港で繰り広げられる光景は、まさしくカルチャー・ショックであった。
差別的表現をあえてするなら、「下層」も全て日本人によって占められているという現実が、「山紫水明」の景色と同様、この世のものとはどうしても思えなかったのである』
こう言うことを書けば、多くの人々から反感を買う。
そう分かっていても、反骨のジャーナリスト本田靖春氏は真実を書いた。
氏のこの文章を読めば、日本人が、朝鮮でどのように振る舞っていたか、どのように朝鮮の人びとに対してきたか身にしみて良く分かる。
私自身北京で生まれて、日本人が中国人にどんなことをしてきたか、身をもって体験しているので本田靖春氏の書いたことに深い共感を覚えるのだ。(私の中国経験は、また、別の時に)
日本が明治以来朝鮮に対してどんなことをしてきたかその歴史をしっかり認識して貰うために、今まで、色々と例を挙げて来た。
日本は世界中の国と友好関係を結ばないといけないが、すぐ隣の中国、共和国・韓国とは、特にしっかりした友情をもって手を結び互いに協力し合っていかないと21世紀以降の世界の中で日本は生き延びることが出来ないと思う。
そのためには、まず、ごまかしのない正直な過去の歴史の認識が第一に必要だ。
日本が、朝鮮・中国を侵略したことは間違いのない事実なので、「今世紀の一時期において、不幸な過去が存在したことは、まことに遺憾」とか、「迷惑をかけた」とか、言われた方が返って腹が立つようなことを言って謝罪したつもりになっていないで、きちんと侵略の事実に対して謝罪をし、それに応じた補償を行うべきである。
日本は毎年アメリカの駐留軍の家族相手に思い遣り予算とか言って途方もなく巨額の金を支払っている。
そんなことを出来るなら、どうして、中国・朝鮮で日本の被害にあった人達に補償をしないのか。
アメリカは今非常な危機に立っているが、アメリカが崩壊しようとしまいと、そんなことには関係なく、日本、中国・共和国・韓国との関係は日本にとって決定的に重要なのだ。
今私たちが使っているこの日本語も、中国と朝鮮の文化がなかったら存在し得なかった物だ。
文化の根底である言語を、我々は、中国と朝鮮に深く負っていることを忘れてはならない。
その、中国、共和国・韓国と友好関係を結べずに、どうするか。
そう言う訳で、私はできるだけ多くの共和国の人びとと友人になりたい。
そう言うと、こんなことを言ってきた人がいる。
「金正日氏はノドンを日本に打ち込むと脅しているし、拉致被害者は返さないし、国内で強烈な反日教育を行っている。そのような共和国の人間が、日本人と友人になりたいと思う訳がない」
また、
「中国では言論の自由が制限されていて、一般の中国人は天安門事件のことさえ知らされていない。教科書は強烈な反日的な内容で埋まっている。その中国人が日本人と友人になりたいと思うか」
確かにその通りで、今の金正日氏の支配する共和国の政治体制下では難しいところがあるだろう。
中国も、天安門事件で動揺した中国の社会を引き締めるため、鄧小平、江沢民以後、反日教育を強めた。明治初期に、不平士族をなだめるために、征韓論を立ち上げて、不平を外に向けさせて内部を治めようとしたのと同じ形である。
特に、江沢民自身が個人的に非常に日本人嫌いだったこともあって、江沢民が主席になってからの中国の反日感情は、インターネットの普及に伴って中国中に燃え上がった。
2004年に中国で行われたサッカーの「アジアカップ」で、応援に行った日本の若者達が、観客席の中国人から猛烈な反日的な罵倒を受け、ペットボトルまで投込まれ、うろたえていたのをテレビで見た。
あの時の中国人の、日本人に対する態度は、あまりに凶暴で私も腹が立ったが、現在の中国人の反日感情がそこまですさまじいものになっていると言うことを認識するのには役に立った。
私は、日本と、中国、共和国・韓国とのこれからの関係を期待を持ってみている。
一番大きな問題は、共和国、中国とも、その政治体制が極めて専制的で、人びとの自由な言論を許さない形にあることだ。
歴史を振り返ってみれば分かることだが、このような専制的な政治体制が、長く続くことはあり得ない。
私たちのするべきことは現在の政治体制に関わらず、生身の人間どうし、接触できるところから接触して行って、友人の連鎖を広げることだ。
共和国と中国の政治体制は必ず変わる。言論の自由を受け入れざるを得ない体制に必ず変わる。
(もっとも、ロシアの例があるから、能天気に楽観的ではいられない。ソビエトが崩壊してロシアは民主主義国家になるかと思ったら、プーティンの支配する専制的で強圧的な破綻国家になってしまい、反政府的な言論は徹底的に取り締まられるようになった。2007年には、ジャーナリスト、アンナ・ボリトコフスカヤが殺され、2009年にはナターリア・エステミロヴアが殺された。二人とも、プーティンの政策に反対してチェチェン戦争でロシアがどんなにひどいことをしているか報道し続けてきた。ロシアになってから殺されたジャーナリストは200人以上になる。みんなプーティンを批判したからである)
私としては、共和国や中国がロシアの轍を踏まず、開かれた国になることを願うしかない。
政治体制がもっと開かれた状態になったとき、それまでに築いて置いた友人関係が役に立つだろう。
お互いに腹蔵なく話し合い、どうすれば、国同士が和解し合い協力していけるのか、その道を見いだすことが出来るだろう。
中国と、共和国の政治体制が今のままでも、一般の市民同士の間で交友関係を広げて深めて行くことは、次の世代の日本、中国、共和国・韓国の人びとにとって重要なことである。
今は確かに、国として、日本、共和国、中国とは上手く行っているとは言いがたい。
しかし、国同士の関係を改善するのは、国民どうしが友情を築くこと以外にない。
私は、私の子供達、孫達、孫の子供達の世代のために、未来のために、共和国・韓国、中国の人びとと友人になりたいと思うのだ。
私が、出来るだけ多くの共和国の人びとと友人になりたいと言うのは、その意図による物だ。
共和国・韓国、中国は近代以降日本の侵略の被害者だったのだから、日本を憎み恨む根拠がある。
しかし、加害者である日本が、共和国・韓国、中国を嫌悪したり憎んだりするのは、逆恨みと言う物で、その根拠がない。
問われているのは日本人の腹である。
如何にして、共和国・韓国、中国の人びとの過去の歴史に基いた怒りと批判に正面から対応するか。
その腹の大きさが問われているのだ。
最後に、「閔妃暗殺」の中で、角田房子氏が書いている話をここに記そう。
韓国にポスコという、世界でも有数の規模の製鉄所がある。
1973年設立時は「浦項製鉄所」と言ったが、2002年に、POSCOと社名を変更した。
1987年、当時の稲山嘉寛経団連名誉会長が亡くなったとき、当時の浦項総合製鉄会長の朴泰俊(パクテジュン)氏が、その告別式に参列した。
その朴泰俊氏が1987年10月28日付け日本経済新聞朝刊の「交友抄」に書いた文章を角田房子氏は「閔妃暗殺」の「あとがき」に転載されている。ここにそれを記す。
「(前略)一九六〇年代末。世界銀行や米国輸出入銀行が浦項製鉄の事業に対し懐疑的な判断と非協力的な態度をとり、韓国での一貫製鉄所の建設に必要な資本や技術の供与など主な問題が何一つ解決できない状態だった時、最後の頼みの綱として八幡製鉄の社長だった稲山さんら日本鉄鋼連盟の首脳に支援を要請した。このときの稲山さんの姿は終生、私の脳裏から去らないだろう。故人は、経済発展のために国を挙げて努力している韓国に真の発展の土台となる製鉄所を建設するのは至極妥当であるだけでなく、日本が数十年にわたった韓国支配を通じて韓国民に与えた損失を償う意味でも、同事業に協力するのが当然であると力説された。(後略)」
そして、角田房子氏は次のように続けている。
『朴泰俊氏は稲山氏について「浦項製鉄が今日の成功を収めるうえで、決定的な役割を果たしてくれた方であり、片時も忘れられない恩人である」と述べている。
私は日本の財界にこのような方がおられて本当によかったと思い、故稲山氏にお礼を言いたい気持ちにかられた』
私も、角田房子氏に同感である。
自分たちにとって強力な競争相手になると分かっているのに浦項製鉄所の建設に協力した稲山氏は腹が大きい。
稲山氏は、我々日本人が、共和国・韓国、中国の人びとと友情を築き上げる道を指し示してくれているのではないか。
共和国の友人達よ、これからも、楽しくやろうね。
(今回はずいぶん長文になってしまったが、この問題を来年まで持越すのはいやなので、決着を付けるために敢えて長文のままとする)