共和国の友人たち4
私はできる限り多くの共和国の人々と友人になりたい。
共和国だけでなく、韓国人とも、中国人とも友人になりたい。
それにはお互いに心を開かなければならない。
そのために、まず私達日本人がしなければならないことは、明治開国以降に、日本が、朝鮮・韓国、中国に対して行ってきた侵略行為を、しっかり、正々堂々と認めることである。
ごまかしはいけない。
ごまかしは、そのごまかしをする人間、ひいては国自体を卑小にする。
間違った行為は、間違った物であると、正直に認めなければその人間、あるいは国は誇りを失う。
自分たちが被害を与えた相手に対して、自分たちの身勝手な論理を押し通して相手を心から納得させることなど、出来るわけがない。
若い人の名誉のために言うと、ごまかしている訳ではないだろう。学校できちんとした歴史を教えられていないから事実を知る機会がなかったのだろう。
私達の世代も、日本史の時間では江戸時代までは念入りに教わるが現代史になるとそこで学年が終わる。後は自分で勉強するように、と言うのが中学高校を通じて言われ続けて来たことである。
長い間、日本では明治以降の日本の侵略の歴史を教えなかった。だから、大抵の日本人は日本が朝鮮・韓国で何をしてきたか知らない。
事実を指摘すると、「そんなはずはない」「日本人そんなことをする訳がない」「そんなことを言うお前は反日日本人だ」と言うことになる。私は読者諸姉諸兄にお願いする。小学館ライブラリー、河出文庫、中公文庫などで、日本の歴史が史実を重視した形で書かれて出版されているので、明治威維新以降の分だけでも読んで欲しいと願う。
全く不幸せなことに、日本が明治維新で国の形を変えると同時に、日本は、朝鮮(韓国)、中国、に対する態度を、極めて挑戦的なものに変えた。
明治になってすぐに、日本では征韓論が起こった。
征韓論について話すと、新井白石までさかのぼらなくてはならなくなるので長くなるから省略するが、開国してすぐに、それ以前に結んだ不平等条約の故に、欧米諸国の半植民地に近い状態だった日本が、アジア諸国に対して欧米並みの手法で侵略を開始したのである。
話を朝鮮だけに絞って要点だけ上げて行くことにする。
(この部分を書くのには、海野福寿著「韓国併合」(岩波書店)、藤村道生著「日清戦争」(岩波書店)、井上清著「日本の歴史第20巻 明治維新」(中公文庫)、李進煕、姜在彦著「日朝交流史」(有斐閣)、角田房子著「閔妃虐殺」(新潮社)、中塚明著「歴史の偽造を正す」(高文研)、などを参考にした。この中で、海野福寿著「韓国併合」が入手しやすく良くまとまっているのでお勧めする)
1)「江華島(カンファド)事件」
1875年、日本の軍艦「雲揚」が、朝鮮の要塞のある「江華島」に接近し、ボートを下ろして近づいたところ、江華島の要塞「草芝鎮」から発砲があったので、「雲揚」が「草芝鎮」に砲撃を加え、ついで「江華島」付近の「永宗島(ヨジョンド)」を襲撃して、島の城内の建物・民家を焼き払った。多くの人間を殺し、兵器から楽器まで略奪した。
地図を見れば分かるが、江華島は、当時の李朝の首都漢城(ソウル)の近くにあり、漢城を守るためには重要な場所である。
図版はクリックすると大きくなります。
(前記、海野福寿著「韓国併合」から、コピーさせて頂きました。海野寿福氏と岩波出版社にお礼を申し上げます)
そのようなところに外国船が無断で近寄れば、守備する側が発砲するのは当然であり、それを、口実に「雲揚」が砲撃を加えるのは理不尽なことである。さらに、「永宗島」を襲撃して建物・民家を焼き払い、多くの人を殺し、略奪までするとは、理不尽を通り越している。
さらに、日本政府は、この事件を自分たちが被害にあったように主張し、当時の朝鮮の宗主国だった清も巻込んで、1876年に「日朝修好条規」を強引に結ばせた。
この「日朝修好条規」では、
- 釜山以外の二つの港を開港すること
- 自由貿易の確認
- 「江華島」事件を、日本ではなく、逆に朝鮮側が謝罪する、こと
などが、決められた。
その後、1880年になって、「日朝修好条規」では、認められていなかった日本の公使が漢城に常駐することも、なし崩し的に行われるようになった。
(この、日本の暴虐ぶりは、こうして書いていて恥ずかしくなる)
「江華島」事件は、日本の朝鮮侵略の第一歩であり、朝鮮の悲劇の始まりであり、日本を第二次大戦による破滅に導く道がこれによって定まったのである。
2)「壬午軍乱」
この件については、当時の朝鮮の政治状況を知る必要がある。
当時の李朝26代国王高宗はその父親・興宣君昰応(フンソングン ハウン)の画策によって1863年に満11歳で即位したが、実権は昰応が国王の父親、大院君として握った。
その後、高宗はやはり大院君の画策で、閔(ミン)氏の娘を王妃に迎えた。
(王妃はいまだに、閔妃(ミンビ)と呼ばれているが、「閔妃暗殺」を書いた角田房子氏は、様々な資料に当たっても「閔致禄の娘」と言うだけで、その名前は分からなかったと言う)(この件について、読者の方から、お教えを得た。閔妃の幼名は、閔紫英(Ji Yeong)だそうです。なお、この頁は、その読者のご指摘を受けて、最初に発表した物を訂正してあります。高宗と閔妃の年齢なども訂正しました)
李王朝には不思議な習わしというか、伝統があって、実際の政治権力を王妃とその一族が握るのである。それを勢道政治という。
高宗が結婚したときは満13歳、相手の閔妃は満14歳。
閔妃は美しいだけではなく、大変に頭の切れた女性であったという。
高宗は閔妃の言うなりになり、閔妃の親族が政権に多数入り込み、日本が「日朝修好条規」を結ばせる以前1873年に、大院君は実権の座から追われ、閔妃とその一族が政権を握った。
「壬午軍乱」は1882年に起きた。(当時の暦法で1882年は壬午の年になる)
その前年、閔氏政権下で新編成された軍隊に比べて、旧軍隊の兵士たちの差別的な待遇を受けていてその不満が高まっているところに、旧軍兵士に与えられた米は石が入っていたりする粗悪な物だったのがきっかけとなって暴動を起こした。
政権から追いやられていた大院君は、それを利用して閔氏政権を倒そうとして兵士たちに日本総領事館襲撃をそそのかす。
兵士たちは勢いに乗って、兵器庫から兵器を奪い、政府要人を殺し、前年編成された新式軍隊の日本から派遣されていた教官堀本礼造少尉も殺した。
日本の総領事、花房義質(はなぶさよしもと)等は、公使館を抛棄し、仁川からイギリスの船で長崎まで逃げ帰った。
大院君は政権を奪取し、閔妃は変装して脱出して近くの村に隠れた。
日本政府は怒って、軍艦とともに花房公使を漢城に送り、
- 朝鮮政府の公式謝罪
- 犯人に及び責任者の処罰
- 外交使節の内地旅行権
- 通商条約上の権益の拡大
などを求めた。
ここに至って、清も介入してきて、国王に逆らったとして大院君を天津に連れ去った。
大院君がいなくなって、閔妃は宮廷に戻ってきて、朝鮮政府は清に依存して日本と交渉した。
その結果、日本の要求を大きく入れた「済物浦(チェムルポ)」条約を日朝政府は結んだ。
この「済物浦」条約で、日本は朝鮮に対して更に優位な状況を手に入れた。
3)「甲申政変」
当時の朝鮮は清の支配下にあり、清国に追随する守旧派に対して、西欧的に近代化しようとする開化派が力を持ち始めた。
日本は朝鮮の支配を進めるのに清に対抗するために、その開化派を利用した。
1884年(甲申の年)12月、開化派の中心人物、金玉均はクーデターを起こし、守旧派の重臣たちを殺し、新政権を樹立したが、わずか3日後に清国軍によって打ち破られた。
この計画は、福沢諭吉によって立てられ、福沢諭吉は軍資金も、武器も金玉均に与えた。
福沢諭吉を神のように崇め、福沢諭吉全集を編纂した石河幹明はその「福沢諭吉伝」で、福沢諭吉によってソウルに送られた福沢諭吉の弟子、井上角五郎の言葉として大略次のように記している。
「福沢諭吉は、自分は作者で、筋書きを作るのみである、といっていたが、今度の件は作者に留まらず金玉均などの役者を選び、道具、立地など万端を指図した事実がある」
さらに、石河幹明は、「福沢諭吉は、井上角五郎と金玉均の間でだけ通じる電信暗号を持っており、横浜の商人に数十口の日本刀を井上角五郎の元に送らせた」と記している。
クーデターには、日本公使竹添進一郎と日本軍が加わったが、日本軍の兵力は弱く、強力な清国軍に打ち破られ、竹添、金玉均らは仁川から日本へ逃げ帰った。
福沢諭吉は、現在でも明治以来最も日本人に尊敬されている偉人の一人である。その福沢諭吉が朝鮮のクーデターを主導したとは俄に信じられない人が多いのではないだろうか。
現在中断しているが、私はこの「日記」で福沢諭吉について書いてきた。読み返して頂ければ分かるが、一般の日本人が福沢諭吉に対して抱いている民主主義的・自由平等主義的な印象は戦後になって丸山真男などによって作られた虚偽の物で、実際の福沢諭吉は、明治政府の言論弾圧にも抵抗せず、明治政府のお師匠様を自認し、アジアを蔑視する意識を日本人の中に広め、朝鮮・中国への侵略を扇動する思想家だった。
福沢諭吉は、自分が筋書きを書いた朝鮮のクーデター「甲申政変」が失敗した後、「脱亜論」を書いた。
その「脱亜論」の主旨は、「日本は既に西洋文明を受け入れたが、朝鮮・支那(当時清国を日本は支那と呼んだ)の両国は、昔の風習・習慣にとらわれ、百千年の昔のままである。このような国と付き合っていると、日本も世界中から、遅れた国と思われる恐れがある。
であれば、日本は、支那・朝鮮から離れて西洋の文明国と進退を共にし、支那・朝鮮に接するのも隣国だからと言って特別扱いすることなく、西洋人と同じように処分するべきである」ようするに、「主義とするところは唯脱亜の二字にあるのみ」と言うのである。
「西洋人と同じようにする」とは、「西洋がアジア諸国を侵略したと同じように日本も朝鮮・中国を侵略する」と言うことだ。
クーデターに失敗した後に、こんな文章を書くとは、福沢諭吉の人間性を疑わざるを得ない。
事実、福沢諭吉はその後、「朝鮮・清国に兵を進め北京までおとしいれろ」とまで言っている。
日本のアジア侵略を進めることを既に明治の段階で煽っているのである。日本はその後福沢諭吉の言うとおりにアジア諸国の侵略を進めた。
こう言う福沢諭吉のような人間を偉人として崇めている間は、日本人は世界から尊敬されることはないだろう。
(福沢諭吉については、もっと詳しく書いた本を来年春に出版する。福沢諭吉の真実の姿を知りたい方は、その本をお読み下さるようお願いする)
さて、この「甲申政変」の後始末が、何ともおぞましい物である。
金玉均のクーデターが失敗した後、怒った朝鮮の軍民は居留日本人29人を惨殺し、竹添公使も公使館に火を放ち、仁川まで逃げたのである。
その後始末にやってきた特派全権大使井上馨は「竹添公使が金玉均と共謀した事実はなく、保護を求めた国王の要請に従って王宮に入っただけである」と主張し、「漢城条約」を朝鮮との間に結んだ。
その「漢城条約」の内容は、朝鮮が日本に公式謝罪し、殺された居留日本人の遺族の救済と保障のために11万円(当時としては巨額の金額)を支払う、などと言う物である。
これは、逆だろう。日本が謝罪して、賠償金を支払うのが当然ではないか。
日本は常に朝鮮に対して加害者のくせに、被害者として振る舞って、朝鮮に賠償させる。(壬午軍乱は被害者の面が強いが)
福沢諭吉と言い、日本政府と言い、その行為は恥ずべき物である。
読者諸姉諸兄はもはやうんざりされたと思うが、日本の朝鮮・中国に対する非道の行為はまだまだ続く。
それは、また、次回で。