福沢諭吉について5
福沢諭吉は徳川幕府の末期、アメリカに2回、ヨーロッパに1回行っている。
まず、1860年に、軍艦奉行木村喜毅(芥舟)の従僕として、勝海舟等とともに、咸臨丸に乗ってアメリカに行き、1862年に、幕府渡欧使節随員としてヨーロッパに行き、1867年に、軍艦受取り委員の一行に加わって再びアメリカに行っている。
福沢諭吉は1834年生まれだから、最初にアメリカに行ったときは26歳である。
特に、私が強調したいのは、1862年の幕府渡欧使節の際のことである。
1882年(明治15年)、福沢諭吉は時事新報の発行を始めたが、その3月28日の社説「圧制もまた愉快なる哉(かな)」で、その渡欧使節の旅の途中のことを次のように書いている。(全集第8巻64ページ)
(原文は、漢語混じりの文語体なので、若い人にも分かりやすいように、私が現代文になおした。
なお、支那と言う言葉が出て来るが、これは、原文の通りにした。
また、原文に当たってみたいと思う人のために、原文の掲載されている全集のページ数、また、比較的手に入りやい福沢諭吉著作集に入っている場合には、福沢諭吉著作集のページ数を記した。収録されている内容の多さから、私は全集に当たることをお勧めする。ちょっとした図書館なら、おいてあるはずだ。)
「(前略)記者(福沢諭吉)が英国の船で香港に停泊している間に、支那の小商人が靴を売ろうとして船に乗り込んできて、船に乗っている人々にしきりに勧めるので、記者も一足靴を買おうと思って、値段をかけあい、船に乗っていて暇なのでわざと手間取って談判していたら、そばにいた英国人が、また例の支那人の狡猾、とでも思ったのか、手早くその靴を取って記者に渡し、2ドルばかりを記者に出させて、それを支那人に与え、ものをも言わず杖でもって支那人を船から追出したので、支那人は靴の値段の高い安いを論じることも出来ず、一言もなく、恐縮しているばかりだった。
外国人のことなので、記者はこの始末を傍観して、深く支那人を哀れむのでもなく、英国人を憎むのでもなく、ただ英国人民の圧制をうらやむほかはなかった。
英国人が東洋諸国を横行するのはまるで無人の里にあるが如くだった。昔、日本国中に幕府の役人が横行していたが、それよりも一層の威力と権力を振るっていて、心中定めて愉快なことだろう。
我が帝国日本も、幾億万円の貿易を行って幾百千艘の軍艦を備え、日章旗を支那印度の海面に翻して、遠くは西洋の諸港にも出入りし、大いに国威を輝かす勢いを得たら、支那人などを御すること英国人と同じようにするだけでなく、その英国人をも奴隷のように圧制して、その手足を束縛しよう、と言う血気の獣心を押さえることが出来なかった。
そうであれば、圧制を憎むのは人の性だというが、人が自分を圧制するのを憎むだけで、自分自身圧制を行うことは人間最上の愉快といっていいだろう。
(中略)こんにち、我が輩が外国人に対して不平を抱いているのは、いまだに外国人の圧制を受けているからである。我が輩の願いは、この圧制を圧制して、世界中の圧制を独占したいと言うことだけである」(「記者」と「我が輩」の混用は原文のまま)
また12月7日から12日まで連載した社説「東洋の政略はたして如何せん」の11日の分に、次のようなことを書いている。(全集第8巻436ページ。著作集第8巻230ページ)
「(前略)およそ人として権力を好まない物はない。人に制止られるのは人を制する愉快に及ばない。言葉を酷にして言えば、圧制を我が身に受ければこそ憎むべしと言うが、自分で他を圧制するのははなはだ愉快だと言うこと出来る。
道徳の点から論ずるとその心情はなはだ不良な物に似ているが、世界始まって以来今に至るまでそれが普通の人情であり、殊に、風俗習慣を異にする外国人との交際においては、最もその事実を見るに違いない。
我が輩は10数年前何度か外国に往来して欧米諸国在留の時、ややもすれば当地の人達の待遇が厚くないことに不愉快を覚えた事が多かった。
ヨーロッパを去って、船に乗ってインド海に来た。
英国の人間が海岸所轄の地に上陸し、または支那その他の地方においても権力と威力を振るって、土人(現地の人間に対する蔑視用語。当時の日本では普通に使われていた)を御するその状況は傍若無人、殆ど同等の人類に接する物と思われず、当時我が輩はその有様を見て、ひとり心に思ったことは、印度支那の人民がこのように英国人に苦しめられるのは苦しいことであるが、英国人が威力と権力をほしいままにするのはまた甚だ愉快なことだろう、一方を哀れむと同時に一方をうらやみ、私も日本人だ。いつか一度は、日本の国威を輝かせて印度・支那の土人らを御すること英国人を見習うだけでなく、その英国人も苦しめて東洋の権柄を我が一手に握ってやろうと、壮年血気の時に、密かに心に約束して、いまだに忘れることが出来ない。(後略)」
私は最初この文章を読んだ時、あまりのことに、気が動転した。
福沢諭吉は、イギリス人が中国人に圧制を加え、人間扱いしないのを見て、圧制を加えるイギリス人を羨み、自分も何時かはイギリス人のように印度・中国の人間に対してイギリス人のように圧制を加えたい。さらには、イギリス人をも自分の奴隷のようにして圧制を加えて、東洋の権柄を我が一手に握りたい、思う。
いや世界中の圧制を独占したい。人に圧制を加えられるのはいやだが、人に圧制を加えるのは人生最大の愉快だろう、と言う。
こんな事は、冗談にも言ってはいけないことだろう。冗談でない証拠に、二度にわたって同じことを書いているのだから、本気なのだろう。
これが、「明治政府のお師匠様」を自認しているのだから、明治政府がどんな政府だったか想像がつくという物だ。
福沢諭吉は、晩年の「福翁自伝」で次のように言っている。(全集第7巻248ページ。著作集第12巻387ページ)
「(前略)この国を兵力の強い商売繁盛する大国にしてみたいとばかり、それが大本願で(後略)」
この福翁自伝の言葉は、先に挙げた「圧制もまた愉快なるかな」と「東洋の政略はたして如何せん」に書かれた言葉を晩年になって再確認した物である。
28歳の時に、福沢諭吉は欧州旅行の際に、イギリス人が印度人中国人を人間とも思えないひどい扱いをしているのを見て、次のように思った。
- アジア人に圧制を加えることの出来るイギリス人がうらやましい。
- 日本も何時か、イギリスのようにアジア人に対して圧制を行えるような国にしたい。
- さらに、そのイギリス人をも、自らの圧制の下に置きたい。
簡単に言うならば、
「兵力を強くして、貿易を盛んにし、アジアを圧制し、イギリスなども自らの圧制に置くような、そんな国に日本をしたい」
これが、「福翁自伝」に書かれた「大本願」なのである。
強者にいじめられている弱者を見ても助けようとは思わず、返って、強者と同じようにその弱者をいじめたいと思い、さらには、今弱者をいじめている強者も、そのうちに自分がいじめてやりたい。
図式的に言うとそうなる。
1862年、28歳の時に「心に約束した」事を、1882年48歳になっても福沢諭吉はその通りに書く。
1862年当時、欧米に比べると日本は経済・文化、全ての面で、大きく遅れていた。
帰国してから、西洋文化一辺倒になったところを見ても、福沢諭吉が欧米の文化から大きな衝撃を受けたことは明らかだ。
当時の福沢諭吉は(福沢諭吉に限らず日本人一般)、自然科学、社会科学の面から言えば、西欧人と比べると、子供同然だろう。
福沢諭吉がこの大本願を立てるに至ったのは、丸山真男風に言えば、「ませた子供が、悪い大人の行状を見て、それをまねして不良化した」と言えなくもない。
だが、子供の時に受けた衝撃が生涯の行動を支配する、と言う説もある。
ただ、人がいじめられているのを見て、自分もいじめたい、と考えるのはかなり特殊な人間だと私は思う。人に圧制を加えることが人生最大の愉快、などと言うのは、嗜虐趣味、サディストではないか。
しかし、それが、真実の福沢諭吉なのである。
私は福沢諭吉が28歳の時に経験したこと、その時に思ったことが終生福沢諭吉を支配していたと思う。
まさに、「大本願」に支配されていたのだ。
その「大本願」が、福沢諭吉の思想の原点だと考えると、その後の、福沢諭吉の言うことがどんなにころころ変わっても、福沢諭吉とは何者なのか見失うことはない。
これから、私は、この福沢諭吉の大本願について何度か言及する。
読者諸姉諸兄に置かれては、この「福沢諭吉の大本願」を福沢諭吉の思想の原点として心にとどめて、これから先の私の文章をお読みいただくようお願いしたい。
福沢諭吉について、実に多くの本が出ている。
しかし、みんな福沢諭吉の云うことがころころ変わるそこの所にいちいち気をとられて道に迷っている。
福沢諭吉の目的は、「大本願」の成就である。
その「大本願」成就のためなら、時世に合わせて、何でも言うのである。
時世に合わせてその時々に違うことを言う福沢諭吉の言葉をいちいち真に受けていては、混乱するだけである。
「福翁自伝」をよむと、福沢諭吉は実に大変な男であることが分かる。才があって頭が切れて、度胸が良く、大変な勉強家・努力家である。多くの人を引きつける魅力を持った人物だった事は間違いない。「福翁自伝」は実に面白い。自伝としては第一級の物だ。
福沢諭吉は慶應義塾を作り、自分の弟子をアメリカに送って農園作りをさせたり、時事新報という新聞社を作ったり、単なる思想家に留まらず社会的に大きな働きをした。
たしかに、260年続いた徳川幕府の封建制度の後で、福沢諭吉の西洋文明を持込んだ「文明開化」思想が、日本の社会に大きな影響を与えた功績は大きい。
ただ、それは、西欧文化の紹介者であり、翻訳家としての功績であって、福沢諭吉自身は世界に通用する普遍的な思想を作り出した思想家ではない。(もっとも、そんな思想家は日本には一人も存在したことはないが)
福沢諭吉は生涯に大量の文章を書いたが、端から並べてみると、「大本願」がその中心を貫いていることが分かる。
殆ど全てが、目の前の「今」に向かっての言葉である。従って、状況が変われば、言うことも違う。
しかし、違うことを言っているようであってもその意図は「大本願成就」で貫かれている。
一つ一つの文章のベクトルを合成すると、「大本願」成就のためという、一本の大きなベクトルが出来上がる。
身も蓋もない言い方をすれば、福沢諭吉は屋台のバナナの叩き売りと同じで、あれこれ面白い口上を言うが、それは結局福沢諭吉のバナナを買わせるのが目的である。
バナナの叩き売りの口上には、矛盾もあれば前に言ったことと正反対のことも平気で混ざる。
その口上を面白がって聞いている分にはいいが、真に受けて何か真剣な意味でもあるのではないかと考え始めると、頭がおかしくなる。
バナナの叩き売りの目的はバナナを売りつけることだと早く見極めを付けることだ。
その見極めを付けられなかったのが、戦後の進歩的知識人たちだ。
福沢諭吉はバナナの叩き売りである。叩き売りの口上が下品だったり、偏見に満ちていても、それは客を引きつけるためだから仕方がない。
しかし、売りつけるバナナがひどかったらこれは問題だ。
私は福沢諭吉の売りつけるバナナ、すなわち「福沢諭吉の大本願」はひどすぎると思うのだ。
先に挙げた丸山真男など、福沢諭吉を「近代的民主主義者」と言って持ち上げた戦後の進歩的知識人たちは、福沢諭吉の叩き売りの口上に煙に巻かれて、福沢諭吉がどんなバナナを売っているのか分からなくなった人達だ。
(続く)