男組と私-1
私が漫画の原作者として認められたのは、1974年、少年サンデーでの連載「男組」によってだ。
「男組」が世に出たのは、2019年現在からすると、45年も前のことになる。
その時に15歳だった読者は、今は60歳になっている。
およそ半世紀近い昔の作品だ。
平成生まれの人達にとっては、
「へえー、大昔に、そんな漫画があったのかい。何だ、そりゃ」
ってなもんだろう。
ところが、今、その「男組」を取り上げて本を書いてくださった方がいる。
横山茂彦さんといって、雑誌「状況」の編集長、などいくつかの雑誌に関わり、複数の筆名で、小説の他に、「日本史の新常識」(文春新書)など様々な著書を持つジャーナリストであると同時に作家であり、時代、政治状況に敏感な方である。
横山茂彦氏が書いてくれた「男組」の本は、題名を
「男組の時代 番長たちが元気だった季節」
と言う。
名月堂書店刊 定価1500円。
なぜ、横山茂彦氏は、今頃「男組」についての本を書こうと思い立たれたのだろう。
私は今の日本の社会は、卑しい人間が力を握り、正義を踏みにじって心正しい人間を迫害し、大多数の人間はそれに抵抗する気力も無く、卑しい権力者にこびへつらい、卑しさが社会全体を覆っており、今の安泰を求めて結果的には破滅の道に進む、「自発的隷従」に人びとが身を任せている、ドブ泥のような社会だと思う。(自発的隷従については、私のブログ、「自発的隷従論」を参照のこと、https://kariyatetsu.com/blog/1665.php#)
横山茂彦氏が、「男組」について書こうと思ったのは、このドブ泥のような社会で生きていることにうんざりして、何か気分転換をしたかったからではないかと拝察する。
「男組」の設定はこうなっている。
都内に青雲学園という高校がある。
その青雲学園は、神竜剛次という生徒によって暴力的に支配されている。
神竜剛次は、日本政財界の有力者を父に持ち、自分自身政治的な支配欲をいだき、そのために神竜組という暴力組織を作り、その政治的活動をまず青雲学園から始めて、関東全域の高校の支配に進めようとしている。その先は、高校だけでなく、社会全般に自分の支配を広げて行こうと考えている。
それに対して、青雲学園の校長は、青雲学園を神竜組の支配から解放するために、父親殺しの罪名で少年刑務所に服役している流全次郎を呼び寄せる。
流全次郎は、手錠をかけたまま、青雲学園に生徒として登校してきて、神竜剛次と対決する。
いやはや、こうして書いただけで、あきれるほど突拍子もない設定である。
そんな設定の漫画が人気を博したのだから、あの時代は面白い時代だった。
「男組」で私が意図したところのものを記していきたい。
「男組」の発端は、青雲学園という高校だ。神竜剛次はその高校を暴力支配している。
神竜剛次は高校生である。最初から最後まで、「男組」の物語の中では、学生服を着ている。
日本の学生服は不思議な服装で、実際に見ると、実に不細工で汚らしい服装なのだが、こうして、漫画に描くと引き締まって見える。漫画の登場人物に着せる衣装としては優れたものなのである。
そこに、神竜剛次を押さえるために入って来る流全次郎は、少年刑務所に収容されているが、年齢は神竜剛次と同じ。やはり高校生である。少年刑務所内では、囚人服。外に出るときには学生服を着ている。
流全次郎の仲間たちも学生服を着ている。
これからすると、「男組」は「学園もの」という少年漫画の中の形式の一つである。
だが、「男組」は「学園もの」の枠をはみ出している。
しまいには、武器を持った公安部隊などが登場してきて、銃を流全次郎とその仲間に向けて発射するのだから異常だ。
最後には、流全次郎が日本の権力を象徴する影の総理を倒しに行く。
学園で起こった話が、現実の権力と対決するところまで行ってしまう。
こんな学園ものはないだろう。
だが、それは、私が次のように意図したからだ。
「自分たちを抑圧する権力と闘うことを主題にする。
学園内の暴力的支配者・ボス=権力。
学園内の権力と闘うことを、そのまま実社会で権力と闘うこと重ねる」
要するに、私の伝えたいメッセージは「闘え」と言うことだった。
学園内の闘いを、そのまま、社会での闘いにまで引き延ばすというようなことは、漫画だから出来ることなのだ。
「男組」を書き始めた1974年当時は、60年代末からの学園闘争の余波があり、三里塚の闘争もあり、「男組」を書いている間に、ロッキード事件も起こった。
学園闘争は、学校側が学生側に理不尽な処分をしたり、学生を抑圧したことに怒った学生たちが立ち上がったのが発端だ。
三里塚闘争は、国が勝手に決めた国際空港建設のために農地を奪われた農民たちが立ち上がったのが発端で、学園闘争で権力に対抗する意識を強く持つようになった学生たちも加わって成田空港建設に反対する闘いになった。
ロッキード事件は、今になっては、アメリカが仕組んだ田中角栄を追い落とすための陰謀という見方も強くなっているが、当時としては「総理大臣の犯罪」として捉えられ、政財界の腐敗をさらけ出したもので、社会の怒りを買った。
そのように権力側の圧制と、権力側の腐敗が目の前にある状況で、それに対して何も行動を起こさないのはおかしいと私は考えた。
私自身、大学を卒業してから勤めた電通という会社の労働運動で、共産党の支配する労働組合の執行部とは行動方針の違う協議会を仲間と組織して、かなりの数の社員の賛同を得た。
形としては、年末の賃上げ闘争だが、私達はそれを単なる賃上げ闘争ではなく、社員の意思を会社に認めさせるための闘争と捉えていた。
社員は会社に完全に従うのではなく、自分たちの処遇については自分たちの要求を会社の方針に反映させるようにしたい、と考えていた。
要するに私達は会社の言うなりになって、奴隷か家畜のように働かされるのはまっぴらだ、と言うことだ。
私達は全組合員を13階の大会議室に集めて、階段を1階まで下りて行きながらシュプレヒコールを繰返す階段デモ。
本社前を隊列を組んでシュプレヒコールを繰り返しながら、何度も周回する、本社周回デモ。
ストライキ中に、入り口を固めて、スト破りをする組合員を社内に入れないピケ張り。
本社一階玄関ホールに、要求を書いた紙札を下げた風船を沢山飛ばして天井を風船で覆う、風船デモ。
など、それまで執行部が考えたこともない戦術を実行した。
執行部と私達とは闘争方針が大きく違った。
執行部は、これから3回ストライキを打った後妥結する、と言う方針を打ち出した。
私達はあきれた。そんな方針を前もって打ち出してしまえば、会社としてはその3回のストライキが終了するのをただ待てば良いだけになる。
そんな馬鹿げた方針はない。ストライキを無期限に繰返すと宣言して会社に我々の要求を呑むように迫るのだ、と私達は主張した。
それに対して、執行部は、電通労組の勢力を温存することが大事だ、いま過激な闘争をしてつぶされたら困る。会社側の挑発に乗らないことが大事だ、と言う。
執行部は、電通労組を、広告会社数社の労働組合が集まって作った広告労協の重要な拠点と位置づけていて、執行部としては広告労協を維持するために電通労組はあるのだと考えていた。
要するに、執行部としては、早い話が共産党としては、広告労協という組織を維持することが大事なのであって、電通労組の組合員のことは二の次なのだ。
だから、あと3回ストをしたら妥結するなどと、馬鹿馬鹿しい方針を公言して会社側に足元を見られても構わない。闘争したという形がつけば良いのであって、厳しい方針をとって、会社側の反撃を食らって組織が弱体化したり、最悪の場合組合が潰れたらこまる。組織温存が第一だというのだ。
闘うことのない組織を温存してそれが一体何のために役に立つのだろう。
私は電通労組の執行部の委員に尋ねた。
「君たち共産党は、革命のために闘う党なんじゃないのか」
「勿論闘う」
「いつ闘うんだ」
「状況をよく読んで、こちらの力が充分に強くなったときに、闘う。それまで、時機を待つんだ。」
私は笑った。
「今こそ闘うときなのに、もっと状況が良くなったら、自分たちの力がもっと強くなったら闘う、なんて言うのは、今闘わないことの言い訳でしかない。今闘わない人間は、これから先も絶対に闘わない」
「君は冒険主義だよ」
「冒険しないで、勝つ闘いってあるのかね」
そして、組合員大会が開かれて、行動方針を決めるための投票がおこなわれた。
会社側に立つ社員は、則妥結。
執行部は三回ストをやって妥結。
そして私達は目標獲得まで無期限に闘争を続ける。
どの立場を取るか。
最初の投票では、私達の案が最多数を獲得したが、過半数に至らなかったので再投票となった。
再投票では、執行部が会社側に立つ社員と組んで、過半数を獲得し、闘争妥結が宣言された。
共産党が右翼と結託したのだ。
今闘うことを望まない社員たちに私達は敗北したのだ。
一つの会社内の労働組合運動と、社会的な政治的運動とは違うという見方がある。
しかし、会社組織というのは社会の組織そのままであり、会社が労働者に加えて来る圧力は、この社会の権力が人びとに与えてくる圧力の最先端であって、会社経営者が労働者に対して加えてくる圧力こそ、暴力的支配の生の形なのだ。
生きるための絶対条件である給料の増減、社員の都合も考えない勤務場所の移動(転勤など)、生きる場所を奪う解雇。このような事柄では、それに逆らう社員に対しては最終的には警察という、権力の持つ暴力装置が会社側に立つ。
労働組合運動も、つまるところは、この社会を支配する権力との対峙の場所なのだ。
電通では、かつての労働組合の委員長が北海道支社にとばされて、数年ぶりに本社に呼び戻されたが、その部署は労働部長だった。
労働組合を取り締まる部の部長だ。
私達は、かつての労働組合の委員長を、日経連からやってきた労務対策の専門家と一緒にして、現在の組合員に対峙する労働部長にすえる、という会社側の残酷な仕打ちに心が凍る思いがした。
これこそ、暴力ではないか。
あるとき、安酒場で酒を飲んでいたら、そこに労働部長が来た。
何か打ちひしがれたという表情で呆然として酒を飲んでいる。目はうつろで魂を抜かれた人間の表情だ。
これほど哀れな人間の姿を私は見たことがない。
私は労働部長の横に立った。私は社内の要注意人物になっていたから、当然労働部長は私のことを知っている。
私は、労働部長に対して「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」と言った。
(この・・・・・・の部分は、あまりにひどい内容なので、自己検閲する)
隋分ひどいことを言った物だと思うが、私はその惨めに打ちひしがれた労働部長を見て胸が潰れるような思いがして、こうでも言わずにおられなかったのだ。
ここまで人間としての誇りを失った人間の姿を見たことがなかったし、かくも冷酷残虐なことをした会社に対する怒りが私の中で燃え上がって、自分を抑えきれなくなって、会社に対してでなく、労働部長にひどいことを言ってしまったのだ。
それに対して、労働部長は何一つ反論せず、うなだれてしまった。
権力という物は、1人の人間の誇りを奪い、生きているのが苦しいような状況に平然として追い込むのだ。
労働組合運動は、決して、この世の実態からかけ離れたお遊びではない。
労働組合で闘争と言ったら、この世での自分の人生を賭けた厳しいものなのだ。
私が体験した東大闘争も同じことだった。
闘争を続けようという全共闘に対して、日共の学生組織民主青年同盟・民青と学校側に立つノンポリ学生たちが野合して、票数で全共闘を圧してスト解除宣言をした。
東大闘争は、医学部から始まった。その医学部の闘争の中で、春日医局長との揉め事で、医学部は17人に学生を処分したが、その処分された学生の中の粒良君は春日局長事件の時は九州の大学に他の件で出掛けていてその場にいなかった。
学生たちの抗議を受けて、医学部が粒良君の処分を取り消すと発表したが、その内容は事実認定の誤りを認める物ではなく、粒良君のアリバイについても不明としながら、教育的見地から処分を取り消す、と言う物で、要するに粒良君の言うことは正しくないが教授会がお情けで処分を取り消してやると言っていたのだ。
私はこのいきさつを知って、吐き気がするほど激しい怒りを感じた。
医学部教授会という権力が、粒良君という学生を自分のいいように取り扱っている。
自分たちの過誤を認めず、「本当は悪いことをしたんだが、特別に今回は教育的見地から許してやる」と言ったのだ。
医学部教授会は、自分たちの過ちを認めず、えらそうに、上から見下ろして、今回は特別に許してやる、といったのだ。
この医学部教授会の行為は、自分たちを守るために粒良君の人間としての誇りを傷つけ人格をないがしろにするものだ。
これこそ、権力による暴力的な支配そのものではないか。
私はそれまでに社会思想的な、政治的な本など色々読んでおり、権力というものについては考えていたが、私の考えていた権力とは、帝政ロシア、王政のフランス、などで人民を圧制していた権力で、もっと巨大なもので、身近にあるものではない。
しかし、大学の中でも、大学当局という権力が、学生を自分たちの思うように支配しようとしているのを目の当たりにした。権力は身近なところで力を振るっていたのだ。
学校当局はそのまま国家に繋がる。
学校当局が学内で振るう権力は国家の権力に繋がる。
学内で学校当局によって行われる学生に対する圧制は国家の権力が生に露出したものだった。
それが証拠に、結局大学当局は全共闘をつぶすために、機動隊を学内に入れた。
警察・機動隊こそ、権力の持つ暴力装置の一つだ。
私は全共闘の無期限ストで闘うという方針に賛成した。
学校側に立つノンポリ学生と日共・民青はそれに反対してスト解除、闘争終結方針を立てた。
日共・民青は、今は闘うときではない、挑発に乗って闘って革命勢力を弱めてはならない。権力に対抗する力がつくまで、闘うのを待つのだ、と言った。
電通労組の執行部と、同じ考えだった。
私は二度にわたって、闘わない勢力によって敗北を味わった。
その欲求不満と怒りが、私の心の中にマグマのようにたまっていたのだ。
(その2につづく)