男組についてー2
漫画は大変な力を持っている。
荒唐無稽な設定で、あり得ない筋書きで、あり得ないアクションで話を展開して行きながら、書く側は読者へのメッセージを伝えることが出来るのだ。
それも、普通に文章などで伝えるより、はるかに強力に読者の心に訴えかける事が出来る。
それは画で刺激を与えて最初に感性に訴えかけるからだろう。
画で感性が高ぶっている状態では、生なメッセージも抵抗なく受け入れられてしまう。
さて、横山茂彦氏が
「男組の時代 番長たちが元気だった季節」名月堂書店刊
で取り上げてくださった、「男組」の論点について、話したい。
前にも記したが、私と横山茂彦氏の一致した論点は、「権力に対する闘い・抵抗」だ。
「男組」では流全次郎と神竜剛次との闘いが前面に出ているが、実は、その背後に「影の総理」という存在がある。
「影の総理」とはその名の通り、総理大臣の背後にいる存在で、総理大臣を動かしているものである。
実際に日本を動かしている権力・暴力装置のことである。
例えば現在、安倍晋三首相は一応首相として権力者であるように見えるが、実際はそうではない。
現実問題として、日本を動かしている権力とは、アメリカとアメリカに屈従することで利益を得ている政界、財界、官僚、言論機関、学者たち、なのだが、それを抽象的に一人の人間にしたのが、「影の総理」なのだ。
「男組」は「少年サンデー」という週刊少年漫画雑誌に掲載される漫画だから、基本的に娯楽作品である。面白いことが第一だ。
面白くないと読者は読んでくれない。読んでもらえなければ、幾ら自分の言いたいことを伝えたいと思っても、不可能だ。
私は子供の頃から漫画が大好きだったから、漫画の面白さとはどういうものかよく分かっていた。
だから、「男組」を書くときにも、かつて自分が夢中になった漫画のように書こうと思った。そうすれば読者もついて来てくれる。読者がついて来てくれれば、自分の言いたいメッセージをこめることが出来る。
池上遼一さんにも言ったことだが、「堀江卓風に行こう」と考えていた。
「堀江卓」というマンガ家は、1950代半ば過ぎから「矢車剣之助」などで人気を博した漫画家で、実に荒唐無稽で面白い漫画を書く作家だった。「矢車剣之助」の中では、「無限の弾数をもつ拳銃」や「戦車のように動く城」などという途方もない場面が出て来る。
実に全く荒唐無稽と言うしかないのだが、その荒唐無稽さが私達子どもの心を引きつけ、興奮させた。漫画の世界でなければ存在できない荒唐無稽さだ。
「男組」は不思議な漫画で、あれこれ手を変え品を変え、男同士が戦う場面を作り上げているが、主人公の流全次郎と敵役の神竜剛次が戦う場面では、それぞれの意見を相手にぶつけ合うのだ。
横山茂彦さんは、次のように書いている。(「男組の時代」P80)
「『男組』はきわめてメッセージ性のつよい作品である。神竜剛次と流全次郎が一騎討ちをしながら、いや、激しく演説しながら一騎討ちをする。」
「男組」全編を通して、基本的な図式は、流全次郎と神竜剛次の闘いなのだが、闘いながら、政治について、大衆について、目指す社会の形態について、自分の考えを相手にぶつけ合うのだ。
二人の言葉は極めて生なものである。
普通の状態でそんな生なことを言われては白けてしまって、とても、まともに聞くことは出来ないのだが、これが、荒唐無稽な設定の漫画の中だと、あまり抵抗なく聞けてしまうのだから不思議だ。
流全次郎と神竜剛次は人間と社会のあり方についての考え方が違う。
神竜剛次は次のように言う。
「大衆は豚だ。奴らは人より多くエサを貰おうと、人を押しのけたりするが、真理や理想のために戦ったりしない。
豚を放っておくと社会全体を豚小屋のように汚らしくてしまう。この社会はすでに汚されてしまった。高貴な人間のための理想社会に建て直す必要がある。
豚に人間の言葉をかけてやっても無駄だ。豚に必要なのはムチだ。ムチで叩いて分からせてやるのだ。」
それに対して流全次郎は言う、
「大衆は豚だなどと人間を侮辱する権利は誰にもない。豚は自分が豚であることに気がつかない。人間は自分が人間であることを知ることが出来る。知ろうと努力することも出来る。だから人間は希望を抱くことが出来る。
その希望とは、人間はいつか平等で平和な社会を作ることが出来るという希望だ。誰かが支配することもなく、支配されることもなく、争うこともない。自由な社会を作ることが出来るという希望だ。」
それに対して神竜剛次が反論する、
「希望を抱くことの出来る人間が一体どれだけいるというのだ。
おれは、この世の90パーセント以上を占める、大衆という生き物について言っているのだ。
奴らは豚だ。百年経っても千年経っても豚のままだ。
この世にはほんのわずかな人間と、圧倒的に大多数の豚がいるだけだ。
受験勉強に精を出している若者たちをみろ。奴らは人よりいい大学に入ろうと受験勉強に青春を浪費している。それは人よりいい会社に入って出世するためなのだ。そんな物が人生の真実か。
大学を卒業するまでには、人より少しでも多くのエサを取ることしか考えぬ利己的で強欲で卑劣な豚に出来上がっているというわけだ。そんな連中に希望をかけられるか。
人格的に優れた人間が豚共に秩序を与えてやり、間違いを犯さぬよう指導してやるのだ。
豚共に汚された社会を建て直し、高貴な人間性を回復した理想社会に作り上げるためにはそれしかない。」
それに対して流全次郎が反論する。
「神竜、お前は人間に絶望している。
そんな人間に社会を語る資格はない。
人が子を産み、子に期待をかけるのは人間は無限に素晴らしいものになることが出来るという希望があるからだ。お前のやり方はその希望を否定し、人間を鎖でつなぐことだ。希望を実現するのは難しい。しかし、その希望を否定するものとは徹底的に戦う。その強い意志こそが歴史を動かしてきたんだ。
神竜、人間に絶望することは自分自身に絶望することなんだぞ。自分に絶望しながらよく生きてこられたな。」
この神竜が人間について言っていることは現実だ。人類はこの世に発生して以来、神竜の言うような生き方をして来たのだ。
それを、神竜は力尽くで支配して、理想的な社会に変えようという。
一方流が人間について言うことはきれい事だ。
こうあって欲しいと思う理想的な人間の姿だ。
流は、人間の社会をこのようなこうあって欲しい理想的な姿に変えたいと言う。
神竜も流も自分の考える理想の社会の姿がある。
しかし、それが、互いに全く相容れない理想なのだ。
ここで二人は決裂して命をかけた闘いに突入する。
流全次郎と神竜剛次の共通の敵、影の総理の考え方は流全次郎とも神竜剛次とも違う。
神竜剛次は影の総理に言う、
「私は自分の力をあなたを倒すために使う気はありません。一般大衆の豚共に秩序を与え、このドブ泥のように汚されて、乱れ果てた社会を理想社会に作り替えるために使うつもりなのです。」
それに対して、影の総理は言う、
「剛次、それだ。それがいかんのだ。理想などと言う物が一番いかん。
大衆は豚のままで良い。ドブ泥の様な社会に、放し飼いにして置いて、エサに釣られてどんななことでもこちらの言うことをきくようにしておくことが、権力を保つコツなのだ。」
流全次郎も神竜剛次も方向こそ違え、理想社会を作ろうと言う意気に燃えている。
しかし、影の総理は、理想などと言う物が一番いけない、と言う。
豚はドブ泥のような社会に放し飼いにしておくのだ。
この影の総理の考えこそ、 安倍晋三首相を表に出した日本の支配層の本音だろう。
形こそ違え、理想社会を作ることを目指している、流全次郎と神竜剛次にとって、影の総理こそは倒さなければならない共通の敵だ。
最後の二人の死闘で、流全次郎が勝つのだが、それは、神竜剛次が勝ちを譲ったとしか思えない。
神竜剛次は流全次郎に言う。
「おれとおまえは、同じカードの裏表だったのかも知れぬ・・・・。
おまえは光を見つめ、おれは闇を見続けた・・・・・
闇は人間に対する絶望であり、光は人間に対する希望だ・・・
どこまでも人間に対する希望を失わぬ、おまえのその強さが、おれを圧倒したのかも知れぬ。」
神竜剛次は最後に、流全次郎に、自分の母親が自殺するのに使った短刀を渡して言う。
「これは、おれの母親が自裁するときに使った短刀だ。
だから、それは影の総理を刺すための短刀なのだ。
流、それをおまえにやろう。
その意味は分かるな。」
そこで二人は見つめ合う。
ややあって、流全次郎は短刀を受取って言う。
「分かった!これはおれが貰おう。」
短刀を受取ることは、神竜剛次の言ったように、その短刀で影の総理を刺すことを承諾したことになる。
それで、流全次郎の仲間たちは驚いて、
「あっ、兄貴・・・」
「そ、それは・・・」
と言う。
流全次郎は仲間たちの驚きをみても、短刀を受取る。
流たちが立ち去った後、流に倒された神竜は学校の校庭に大の字になって倒れて息を引き取る。そのとき、天は曇り、雷が鳴る。
落雷の中で、神竜は息を引き取る。
ここは「男組」の中でも、一番と言って良い場面だ。
流全次郎は神竜剛次を倒した後で、考える。
「神竜、おまえの見続けた闇はどんなに深かったことか・・・・
人間の本質については神竜の方が正しいのかも知れぬ。
だが、おれは、絶望よりも希望を選んだのだ。
生きる力のある限りは希望を持ち続けようと心に決めた。
しかし、神竜は最後の土壇場でおれに勝ちを譲ることによって、希望に賭けようとしたのではなかったか・・・
神竜は人間の醜さ故に汚れ果てたこの社会を、建て直そうと真剣に考えていたのだ。
であれば、もっと早く別の出会い方をしていれば、二人で協力して、この社会を支配している巨大な腐敗した権力を倒すことが出来たのではなかったか・・・・」
ここで、流は実際に起こったことを考え直す。
「だが、おれと神竜は戦い合う以外に違い相手を理解し合う道はなかったのだ。」
そして、流全次郎は決心する。
「いずれにせよ、神竜の分もおれば戦わねばならぬ。」
実に不思議な話だが、もともと「男組」は一つの学園内の暴力問題として始まった。それが、話が進むにつれて、いつの間にか、社会全体を対象にした話になってしまっている。
このような、荒唐無稽な筋立ては、漫画でなければ許されないものである。
普通に語ったのでは「臭くてたまらぬ」という生な言葉を使っても漫画だと受け入れられてしまうのだ。
最後に、流は神竜との共通の敵「影の総理」を倒すために神竜に貰った担当を持って、「影の総理」が催す園遊会に乗込む。
結局物語は、テロリズムに帰結する。
テロというと、最近はイスラム過激派の無差別テロのことになってしまっている。
しかし、政治的テロというのは遙か昔から存在する。
問題はテロを道義的に許せるのかどうかということだ。
これについては、「男組の時代」で私が横山茂彦氏とのインタビューで語っているところを、同書から引用する。
横山「『男組』はけっきょく、暴力に。テロリズムに向かいます。
雁屋「そこで、テロリズムを容認するのか否定すべきなのか、と言う問題に逢着するわけです。
じつは、ぼくのペンネームは、最初は「雁屋F(カリヤーエフ)」だったんです。
ロシア革命前夜に活動した、ロシア社会革命党のテロリスト、
カリヤーエフから取ったものなんです。
横山「はぁ、そうだったんですか」
(註)カリヤーエフはロシアのロマノフ王朝の一族、セルゲイ大公を殺害する任務を背負って、セルゲイ大公の馬車に爆弾を投じようとしたが、大公の馬車の中に小さな子供たちが乗っているのに気がついて、爆弾を投げることができない。
アジトに戻って仲間たちに、カリヤーエフは「僕の行動は正しかったと思う。子供を殺すことはできない」という。
この暗殺計画は立てるのは難しい。大公の行動をきちんと摑まなければならないし、それは大変に危険を伴う作業である。しかし、仲間たちはカリヤーエフを責めない。再び、セルゲイ大公の暗殺計画を半年かけて練り直し、今度も爆弾を投げる役をカリヤーエフに任せる。
そして、二度目には、カリヤーエフは大公を爆弾で殺すことに成功する。
サヴィンコフの「テロリスト群像」にその話は書かれている。
私は、この心優しいテロリスト、カリヤーエフが好きだったので、筆名を「雁屋F(カリヤエフ)」とした。
しかし、私が人間がすべての器官から排出する固体・液体・気体について書いた「スカトロピア(スカトロジーとユートピアの合成語)」を出版したら、あちこちで取り上げられたのだが、ある新聞が私の筆名にFというローマ字が入っているのをおかしいと思ったのか、Fの上の横棒を左に伸ばした。すると、Fが下という字になる。雁屋下だ。(かりやしも)とでも読ませようというのか。
これは、あまりにその本の内容に合いすぎている。
で、次からものを書くときには、本名の一字を取って、雁屋哲、としたのだ。
雁屋「テロリズムの可否については、結論を得られません。最後にテロリズムとするべきかどうかは、じつはずいぶんと悩んだんです。
司馬遷が「史記」の刺客列伝に、殺さなければならない相手には必ず失敗し、殺してはいけない相手は必ず殺してしまう。という皮肉を書いているんですが、そう言う意味では流は失敗するはずなんです。
そこでテロにするべきかどうかずいぶん悩みました。悩んだ末に、相手は影の総理という個人ではなく、権力という得体の知れない集合体なんだ、それを倒すためには、テロリズムでいいだろうと言う結論に至ったんです。
(最後、流が突っ込んでいく場面では、影の総理の顔は黒塗りになっている。流が倒そうとしているのは、影の総理個人ではなく、集合体としての権力であることをしめすためだ)
影の総理を倒しに行く前に、流は仲間たちに、暴力を肯定する意見を述べる。
「日本では、今や正義も理性も闇に閉ざされ眠っている。自分たちの政府の高官の汚職を自分たちの手であばく勇気も無く、ひとにぎりのボスが悪徳政治家と結びついて政財界を裏から支配しているのに、だれも摘発する者がいない。
誰も真実をあばく勇気がない。社会全体が悪い方向に傾いていっているのに、誰も立ち上がる者がいない。
正義と理性を目覚めさせることができるものはただ一つ。暴力だ。
暴力一般を否定するのは偽善だ。巨大な悪が権力を振るって正義を踏みにじり、社会を腐敗させ我々を堕落と破滅に追いやろうとしているのに、その巨大な悪を倒すための暴力まで否定するのは人間に対する裏切りだ。」
流の言や良し。
しかし、今の社会では暴力についてこんなに簡単に話せるものではなくなっている。
「男組」を書いて40年経つ間に、色々なことが起こった。
40年前と今とでは、状況が違う。
40年前には通用した単純な暴力肯定論は、今は通用しない。
ただ、流の暴力論は基本的に正しいと言っておこう。
暴力について論じ始めると長くなるので、今回はやめておく。
と言うわけで、最後は流が銃に守られた影の総理に突っ込んでいくところで、「男組」は終わる。
流が仲間たちに別れを告げて影の総理を倒すために出発する場面では、司馬遷の史記、刺客列伝の内、秦の始皇帝を倒しに行って失敗する刺客・荊軻(けいか)が出立するときに歌った詩を流した。
「風は蕭蕭として易水寒し。壮士ひとたび去ってまた帰らず」
そして、流が影の総理めがけて突っ込む場面では、ワルシャワ労働歌を流した。
「暴虐の雲、光を覆い、敵の嵐は荒れ狂う、ひるまず進め我らが友よ、敵の鉄鎖を打ち砕け、
自由の火柱輝かしく頭上高く燃え立ちぬ、今や最後の闘いに勝利の旗はひらめかん。
立てはらからよ、行け戦いに、聖なる血にまみれよ、砦の上に我らが世界築き固めよ勇ましく」
ちょっとやりすぎだったかな。しかし、「男組」全編つうじて、けたたましく荒唐無稽なので、ここまでやらないと収まりがつかないところがあった。
流が影の総理に向かって突っ込んでいくのと並行して、流の仲間たちが、更に仲間を集め新たなる闘いに向かう姿が描かれる。
その姿を背景にして、「男組」のメッセージが書かれる。
「戦うことを忘れた若者たちに、怠惰との無気力の中に流されている若者たちに、流全次郎の熱い血潮を伝えるのだ。
今こそ流全次郎の後を次いで立ち上がるときだと告げるのだ!」
これこそが、私が「男組」で当時の若者たちに伝えたかったことなのだ。
そして、現在2019年、正義というものがほぼ死に絶えたこのドブ泥のような日本の社会でものを言う気力も失い、力のある者の言いなりになって、その日を暮らしている若者たちに「男組」のメッセージを伝えたいのだ。
不正に対しては戦え。自分の生存を脅かされたら戦え。自由を脅かされたら戦え。自分の誇りを傷つけるものに対しては戦え。権力に隷従するな。
それが、「男組」のメッセージだった。
そして、それこそが私が東大闘争と組合運動を通じて自分自身に叩き込んだ考えなのだ。
「男組」は、小学館のホームページから読むことができます。
◎小学館 eコミックストアの男組のページ、
https://csbs.shogakukan.co.jp/book?book_group_id=6746
◎小学館、「サンデーうぇぷり」
◎横山茂彦著 「男組の時代 番長たちが元気だった季節」 名月堂書店刊、
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