横尾忠則作品展と木村巴個展
5月12日に私は、町田の町田市立国際版画美術館に横尾忠則の作品展を見に行きました。
私は、この町田市立国際版画美術館には感動しました。
版画専門の美術館というのは、私は初めて見ました。
この美術館には、版画の制作を教える教室と設備があり、そこで実際に版画造りを学び、版画の制作も出来るのです。
シドニーで昔の版画や、映画のポスターを蒐集してそれを売って生計を立てている人物と私の長男は懇意にしていますが、「あの男が、この版画美術館を見たら狂喜するよ」と長男は言いました。
横尾忠則の作品には1960年代に初めて出会ってその度外れた感覚に驚嘆しました。このような感覚を持ち、それをこのように表現できる人間がいるとは信じられないことでした。
それまでの、美術に関する意識をひっくり返したと言って良いのではないでしょうか。
イラストレーションも、ポスターも、版画も、それまでになかった世界を我々の目の前に繰り広げて、私などはただただ圧倒されました。
それから50年も経ちましたが、横尾忠則はいまだに現役で、ますます感性を鋭く研ぎ続け何事にもとらわれず、自分の表現したい物を発表し続けています。
今回、町田市立国際版画美術館で、横尾忠則の作品を、一挙に数百点目にすることが出来ました。
美術館の一室で、横尾忠則の作品に囲まれてソファに座っているとなにかとんでもない世界に入り込んだような異様な興奮に体全体が包まれる、嘗て味わったことのない感覚に包まれて、この世に生きていることを忘れることが出来ました。
横尾忠則は、正真正銘の天才です。
私は横尾忠則の作品群に囲まれた時間を過ごすことが出来たのはこの上もない幸運だったと思っています。
町田市立国際版画美術館は大変に立派な建物ですが、その一階に「市民展示室」があります。
そこでは、版画に限らず、市に在住の美術家の作品を展示しているのです。
この町田市立国際版画美術館の素晴らしさは、版画に題材を限らずに「市民展示室」を設けていることです。
今回、私はその「市民展示室」で、今まで全く知らずにいた素晴らしい画家と出会いました。
当日は、画家、木村 巴の第4回個展が開かれていました。
画風は、最近では余り見ない写実派で、それも繊細だが色使いが豊かな画風で、題材は、子供、若い女性、現代の風俗、それに静物などで、生きる喜びと幸福を見る人に与えたいという画家の意志が横溢しているものでした。
その画の世界は穏やかで、横尾忠則の刺激にあふれた作品を見てきた目には平和で、ゆったりとした物に見えました
しかし、作品群の後半に至って、それまでの穏やかで豊かな世界が一変するのです。
「憤怒Ⅰ」「憤怒Ⅱ」「憤怒Ⅲ」「憤怒Ⅳ」
の連作がそれです。
この個展では、作品の図録が一枚の紙の裏表に作品を縮刷した物だけで、それだけではこの「憤怒」の連作の内容がよく分かりません。
ちょうどそこに、数人の女性がやってきて、なにか話し合っていたので私はこの女性達は展覧会の関係者であろうと見当を付け、写真撮影の許可を得た所、いかにも責任者といった感じの女性が「構いませんよ、どんどん撮ってください」と許可を与えてくれました。
あとで、その女性が当の木村巴氏であること確認しました。
撮影を許可してくださったからには、その写真をこのページに掲載することも許可して頂いたと勝手に解釈し、ここに掲載します。
(木村巴様、ご迷惑であれば仰言って下さい。直ちに画は削除します。)
まずは画を見て頂きましょう。(画はクリックすると大きくなります)
憤怒Ⅰ
憤怒Ⅱ
憤怒Ⅲ
憤怒Ⅳ
この「憤怒」の連作は、50歳過ぎと思われる一人の男性が、四角形の小部屋の壁に新聞の切り抜きを貼って行く過程を描いています。一体どんな切り抜きを貼っているのか。
新聞の切り抜きを拡大してみます。
「憤怒Ⅰの切り抜き1」
「憤怒Ⅰの切り抜き2」
「憤怒Ⅰの切り抜き3」
「憤怒Ⅰの切り抜き4」
「憤怒Ⅱの切り抜き1」
「憤怒Ⅱの切り抜き2」
「憤怒Ⅲの切り抜き1」
「憤怒Ⅲの切り抜き2」
と、こう見てみるとこの男性の興味の対象は、沖縄、原発、平和問題にあるようです。
「憤怒Ⅱ」からは画面にテレビが描かれ、テレビの画面には政治家、不祥事を謝罪する企業の人間、国会審議の様子、首相とおぼしき人物が映っているようです。
「憤怒Ⅰ」から「憤怒Ⅳ」を通してみると、沖縄の米軍基地の縮小・アメリカ領土への移転とは反対の方向に進み、原発も廃炉どころか再稼働が続き、使用済み核燃料の処理の目途も立たず、さらに日本を戦争の出来る国にする安保法案の可決、など、沖縄、原発、平和問題は安倍晋三首相とその周辺のお仲間達(一番強力なのはアメリカでしょうが)によって、この連作に描かれている男性の望まない方向に進んでいます。
それで題名が「憤怒」なのでしょう。
私も安倍晋三が首相になって以来のこの日本の社会の余りの変わり方に激しい怒りを覚えています。
ちょうどそこに、この「憤怒」の連作を見て目のくらむような思いをしました。
「そうか、このような異議申し立ての方法があったのか」「画の力は凄い」と心を打たれました。
「憤怒Ⅰ」で、この男性の眼が見えます。男性の容貌が一部でも描かれているのはこの一枚だけです。
「憤怒Ⅱ」「憤怒Ⅲ」では後ろ姿だけ、「憤怒Ⅳ」では両手で顔を覆っています。
男性が着ているのは作務衣であろうと思われます。
「憤怒Ⅱ」では逞しいふくらはぎが描かれ、手は指先まで全て力がみなぎっていてその男性の強い意思を表しています。
「憤怒Ⅰ」から「憤怒Ⅲ」まで、壁面に貼られる新聞の切り抜きは増えていき、「憤怒Ⅲ」で壁面全部が覆われてしまいます。
男性の怒りがますます強くなっていくことが描かれています。
しかし、「憤怒Ⅳ」になると、その壁面を覆う新聞の紙が赤茶けて記事は白地で書かれています。
これは長い時間が経って新聞紙も赤茶けてしまったことを表すのか、この男性の絶望的な悲嘆を表すのか。
「憤怒Ⅳ」で、この男性は両手で顔を覆っています。
「憤怒Ⅳ」と画題が付けられているからには、この男性は絶望せずに怒り続けているのだと思います。
ではこの男性の怒りは、この絵の中では誰に向けられているのか。
それは、これだけ次から次へ日本を破滅に導くように仕掛け続けている勢力に対して何の反抗もせずに、牧羊犬に追われる羊のように、何の抵抗もせず列も乱さずに黙々と屠場に向かって歩いている日本の社会全体に対してではないでしょうか。新聞紙の色が赤茶けるほどの時間が経つというのに何も行動を起こそうとしないこの社会の人々に対する絶望と怒りがこの絵には描かれていると思います。
或いは、画家はこの男性の怒りを強烈に表すために紙面を赤茶にしたのかも知れません
「憤怒Ⅰ」から「憤怒Ⅲ」までのこの男性の怒りは、このような社会を作り上げようとしている勢力に対して向けられていましたが、この「憤怒Ⅳ」に至り、この男性の怒りは、この絵を見る私達に向かって噴出しているのです。「貴方は、日本がこんな状態になるのを見ていて一体何をしていたんだ。この社会が良いと思うのか。日本をこんな社会にしたのは、他の誰でもない、あなた達なんだぞ」
私はそう受取りました。
この「憤怒」連作では、この男性の顔は描かれません。
その代わりに、仕掛けがあります。
「憤怒Ⅰ」「憤怒Ⅲ」「憤怒Ⅳ」には、茶虎のふっくらとした毛並みの猫が描かれています。
「憤怒Ⅰ」と「憤怒Ⅲ」では、猫はお腹を出してのんびりくつろいでいるような格好をしています。しかし、この猫はただ者ではありません。
見て下さい。
「憤怒Ⅰの猫」
「憤怒Ⅲの猫」
この猫の目を見て下さい。
画を見る私達をにらんでいます。この猫の目から放たれる力。
これは、連作の中でついに顔を見せなかったこの男性の目の力ではありませんか。
そして「憤怒Ⅳ」では、猫は部屋の外に出ています。
「憤怒Ⅳの猫」
猫が部屋の外に出てしまったのは、この男性の絶望的な怒りの表現ではないでしょうか。こんな社会はいやだ、許せない、だから猫は外に出た。
しかし、窓枠にしっかりしがみついてこの社会に安穏としている私達に、これで良いのかと問いを発している。
この猫の目を見て下さい。非常に恐ろし目で私達をにらんでいます。
この連作では卓の上のコップが倒れて水が流れ出すところが必ず描かれています。それも、怒りの表現なのでしょう。
しかし、この猫の目の力には私は参ってしまいました。
まさに「憤怒」の目です。私達の怠慢、卑怯、堕落に対する「憤怒」です。
木村巴のこの「憤怒」の連作、必ず何処かで見て下さい。