調理道具
〈「美味しんぼ塾」に「牛肉の旨さ その3」を掲載しました〉
私はどうも道具類が好きで、中学生の頃からラジオを組立てるのが趣味だったりするので、電気工作用の道具を見ると、今でも胸がキュンとなり、思わず欲しくなる。
中学、高校の時に一番欲しかったのはバルボルと言って、真空管を使った電流、電圧計だった。
普通のテスターでも電流・電圧は測定できるのだが、バルボルだとテスターより正確に測定できた。
とても高価で手が出なかったが、第一買えたとしても、何もそれほどのものを作るわけではなく、せいぜいの所、真空管を五、六本使ったオーディオ・アンプだから、本当は必要はない。
しかし、そこが素人の赤坂見附(古いシャレで、すまん)。
なにか、高級な機械を持っていると、それだけで自分が高性能のものを作れるのではないかなどと、妄想を抱くのだ。
料理にしても同じことで、私は、デパートの調理器具売り場に行くと離れられなくなる。
実に便利で、面白そうな調理器具が並んでいて、あれもこれも欲しくなる。
欲しくなると、前後の見境なく買ってしまうが、それを家に持帰ると、連れ合いが呆れた表情をして、以前に私が買ってきた同じような調理器具をどこからか持出してきたりする。
いつだったか、「あ、家にフードプロセッサーがない」などと買おうとしたら、連れ合いが、「有ります。以前買って来たの忘れたの」という。「見たことがないぞ」というと、「図体が大きくて邪魔だから調理台に置いてないのよ」と答える。
それではあっても意味がない。
そこで、積極的にフードプロセッサーを使うようにしたら、連れ合いも便利であると認めてくれて、今は調理台の端に鎮座ましましている。
私の家では、人間が食べる挽肉は店で買ってこない。店で売っている挽肉は、他の部位に比べて安い。それがどうも気にいらない。安いのには何か理由があると勘ぐりたくなる。
そこで、普通に食べて美味しい肉を買ってきてフードプロセッサーで、挽肉にする。
買ってきた挽肉とは比較にならない旨さである。
私の家でも挽肉を買うが、それはもっぱら、毎日家に餌をもらいに来る野鳥に与えるためである。
オーストラリアでは、野鳥に餌付けをしないようにお達しが出ているが、家に来て欲しがる物は仕方がない。
ただ肉だけを与えたのでは、野鳥の栄養のために良くない、と獣医の次女が言うので、次女の指示に従って、何か栄養分を含んだ粉をまぶして挽肉を与えている。鳥の練り餌に使う粉だそうである。
餌をやらないと、凄まじい大声で鳴き立てて、我々を脅迫する。
私達は野鳥に飼われているような物だ。
スパイスを潰すための鉢がありますね。
石で出来たごつい鉢に、石で出来たすりこぎ状の棒。
鉢に、様々なスパイスや、ニンニクを入れて、その棒で突き潰す。
その鉢も、大きさ、色合い様々有るのだが、私が大きいのを買おうとすると、連れ合いは必ず「それは大きすぎる。置く場所を考えなさい」と人を牽制する。
大体、妻という物は夫のしようとすることを、なるべく控えめに持って行こうとする傾向がありませんか。
それは、私の家だけなのかな。
鍋一つ取ってもそうですよ。
私が気にいった鍋を、「よし、これを買おう」というと、必ず連れ合いが、ひっくり返し、裏返し、蓋をはめたり外したりしてから、「深すぎる」とか、「把っ手が気にいらない」とか、色々文句を言って買わせてくれない。
だから、本当に欲しくなったら「いやだ、どうしてもこれを買うんだい」と突っ張って買うしかない。
あるいは一人で出かけていって、連れ合いに邪魔されずに買い込むしかない。
そんなこんなで、私の家には様々な調理器具が、台所と、食料品置き場の部屋に重なり合っています。
日本で買ってきたイタリア製の土鍋などと言う馬鹿馬鹿しい物もある。
この土鍋は、えらくいびつでいい加減な作りであって、日本の陶工だったら恥ずかしくて売りになんか出せないだろうと思われる代物である。
しかし、平べったくて大きくて、私の家では、その鍋一杯にグラタンを作ったりするときに役に立っている。
京都の錦小路にある「有次」は私の大好きな店で、錦に行くと、ついふらふらと入ってしまう。
包丁も色々買わせていただきました。
素人のくせに、玄人の料理人が使う包丁を買うような愚かな真似をしている。
包丁が幾ら良くても、腕が良くなくては、刺身なんかきれいに作れないって事は分かっているんだが、良い包丁を手にすると、実にどきどきして、いい気分になる。
「有次」の銅の鍋類もいい。
私は二十年以上前に、銅の八角鍋を買った。鍋をするのにも、湯豆腐をするのにも重宝して、長年使い込んでいるが、そこが銅製品の良いところで、使えば使うほど貫禄が出て味わい深い姿になる。
使っていて実に気分がよい。それだけで料理の味が一段上がる。
買ったときには、その値段を聞いて連れ合いは絶句していたが、その値段を二十数年で割ってみると、一年あたり幾らにもならない。
私の主義は、高くても良い物を買って長く使うことだ。
良い物は使っているときに気持ちが豊かになるし、長持ちをするから、結局長い目で見れば安い買い物になる。
包丁も「有次」の包丁はいい。きちんと研いでいれば、一生使える。
ときに、自分の持っている包丁を眺めることがあるが、いい包丁は鉄の色がいい。
澄んで深みのある色合いだ。
出刃包丁の刃先を魚の背にぐさりと刺して、ぐ、ぐーっと引回すと、寒気がするほどいい気持ちだね。
包丁がよいと、刺身の断面も滑らかにきれいに仕上がる。
もっとも、連れ合いや、娘たちは、「有次」の包丁でもステンレスの方を使っていますね。
やはり、包丁を砥石で研ぐのは女性には無理なのかも知れない。
「有次」は東京の高島屋に支店があって、数年前まで、そこに木村さんという方がいて、いろいろ、面倒を見て下さった。
ゴマ煎り器だの、焙烙だの、銅のやかんだの、包丁だの色々見立てて貰ったが、ある時、店の飾り棚に真鍮の素晴らしいおでん鍋があった。一目で気に入って、「これ貰おう」といったら、木村さんの顔色が変わった。「ええっ、これ持って行っちゃうんですか。ほんとに持ってっちゃうの。これ、一つしかないんですよ。持ってかれちゃ淋しくなるなあ」と売りしぶる。
木村さんは「有次」の商品に心底惚れ込んでいて、自分の気にいった品物をお客に勧めて、お客が気にいると、大喜びする。
だが、たしかに、そのおでん鍋は立派で、一品物で滅多に出て来る物ではない。木村さんが売りしぶりたくなるのも無理はない。
木村さんとしては、その鍋を身近に置いて楽しんでいたかったのだろう。
それに、店の看板にもなるし。
しかし、私は、欲しくなると抑えが効かないたちで、渋る木村さんをせかせて包装させて、家に送ってもらう手続きを取った。
木村さんは、一寸悲しげに、「大事に使って下さいよ」と言った。
おでんも、鍋がいいと、味が格段に引き立つ。
おお、シドニーは今は初冬。今夜あたり、あの鍋を引っ張り出してきておでんと行こうか。
木村さんは、数年前に「有次」を辞められた。
今、どうしておられるのかな。
おでん鍋も、銅のやかんも、大事に使っていますよ。使う度に、木村さんのことを思い出していますよ。
木村さんがこのページを読んでくれたらなあ。