竹島(独島)問題 その2
私が、仰天したのは、「中央日報」「東亜日報」と共に、韓国の三大新聞の1つとして評価の高い「朝鮮日報」が、「韓日もし戦わば」と言う記事を載せ、竹島をめぐって日本と韓国が戦った場合を想定して、様々な検討を行ったことだ。
考えても貰いたい。日本の三大紙とされる「朝日新聞」「毎日新聞」「読売新聞」で、「もし韓国と戦えば」などと言う記事を載せたら、一体どうなるか。
日本人の読者は、ごうごうたる非難をその新聞社に浴びせるだろう。
第一、韓国が、国を挙げて大騒ぎするだろう。
これほど、韓国を侮辱することはないからだ。
そもそも日本は韓国と戦争をすることなど考えたこともないから、日本の三大紙にはそんな記事が紙面に現れることはあり得ない。
さらに、当然のことながら、日本の三大紙には理性と知性がある。
相手が韓国であろうと、どこの国であろうと、戦争を煽るような、無礼な記事を書くようなことはしない。
「朝鮮日報」は「もし韓中戦わば」とか、「もし韓露戦わば」、「もし韓米戦わば」などと言う記事を書けるのだろうか。
最近の韓国は、牛肉輸入問題で、反米感情が高まっている。それにしても、「もし韓米戦わば」などと言う記事は流石に書けないだろう。
それが、日本相手なら書ける。
韓国は、日本に対してはどんな無礼なことをしても許されると思っているらしい。
その記事の締めくくりは、
「宋永武(ソン・ヨンム)元海軍参謀総長は『韓国の海軍力が日本の70から80%のレベルになれば、日本が独島問題で挑発できなくなる。昨年夏に海軍が合同参謀本部に提案した内容、すなわちイージス艦3隻、5000トン級駆逐艦(KDX‐Ⅱ)6隻の追加建造計画を直ちに実行に移す必要がある』と述べた。」
となっている。
こんなことを、元海軍参謀長が言い、それをまた「朝鮮日報」が記事にする。
信じられないことである。
三大新聞と言えば、正しい報道を行い、韓国人に真実を知らせ、正しい道に導くのが、その使命なのではないか。
戦争を煽り立て、軍備増強を煽り立てる。
これが、韓国人の、理性と知性なのか。
私は日本の軍備が、韓国軍を圧倒するほど増強されていることを知って驚いたが、我々日本人の圧倒的大多数は、二度と戦争をしてはいけない、と考えている。
ましてや、かつて侵略したことで深い罪の意識を持っている、朝鮮・韓国、中国などアジアの国々に対して武器を取る、などと、ちらとでも考えたことのある日本人はいないと、私は百パーセントの確信を持って言う。
1945年に戦争に負けて以来、この63年間、日本は海外で一発の銃弾も発射したことはなく、ただの一人も外国人を殺傷したことがない。
アメリカに強要されて、イラクに駐留した自衛隊も、自分を守るための武器だけを携帯して行き、それも使用を厳しく制限されていた。
日本人の平和を守る、戦争は二度としない、という思いは老人から子供まで全ての世代に浸透している。
日本人の平和に対する信念は揺るぎがない。
絶対に戦争だけはしない、それが日本人の信念だ。
「朝鮮日報」は日本に特派員を送っている。その特派員は日本人の心情を掴んでいないのか。
それでは、何のための特派員なのだ。
その日本を相手に戦争をしようと煽り立てるとは余りに理性を欠いている。
これほどの侮辱を、他国から受けたら、韓国人はどう言う態度を取るのか、自分の身になって考えて貰いたい。
他国を侮辱することは、自国を侮辱することだ。
これ程までに思慮を欠いたな記事を堂々と掲載したことで、「朝鮮日報」は自分自身を貶めてしまった。
「朝鮮日報」のために、非常に残念なことだと悲しむ。
さらに、「朝鮮日報」は呆れ果てるしかない記事を掲載した。
それは、
「『対馬は韓国領』説に歴史的根拠あり」
と題した記事である。
その中には、
「倭寇の侵略が続発するや、世宗元年(1419年)、上王太宗は対馬征伐を決心した。以下はその際に下した教諭文の序だ。
「対馬は島であり、本来わが国の領地だ。ただ、辺境にあり、土地が険しく、また狭く汚いことから、倭のものどもが居留するよう置いていたら、犬のように盗みをはたらきねずみのように物をくすねる癖を持ち、庚寅年からは暴れ回り始めた」太宗の教諭文は、一種の宣戦布告となっている。そして征伐が終わった後には対馬島主に教諭文を送り、太宗は対馬が再び朝鮮の領土になったことを明確に宣言した。
「対馬は島であり、慶尚道鶏林(慶州)に隷属していたところ、この度わが国の領土だということが文籍に載っており、確実に調べることができる」もちろん、対馬は済州島や巨済島のような韓国領ではない。李承晩大統領も当時、対馬は韓国に朝貢を行っていた地だ、と言ったに過ぎない。しかし、太宗代に対馬が日本の地でなかったことは明らかな事実だ。こうした点から、15世紀初めの太宗・李芳遠(イ・バンウォン)の対馬認識と、20世紀中盤の李承晩大統領の対馬認識には、相通ずるものがある。
その後の対馬に対する朝鮮の態度は、一貫して消極的で、倭寇の根拠地の役割を果たさなければそれでよい、という程度だった。後に起きた壬辰倭乱が、対馬の運命を決定付けた日朝双方に二股をかけていた対馬島主は、壬辰倭乱を契機に日本化し、倭乱直後の17世紀初めには日本の幕藩体制に組み込まれた。
朝鮮前期のみとはいえ、朝鮮の臣下であることを堂々と明らかにしていた対馬島主が日本へと渡って行ったわけだ。李承晩大統領が指摘した通り、1870年代には完全に日本化した。現在、対馬は日本が実効支配している。しかしその根拠は、韓国が独島(日本名竹島)を実効支配している根拠に比べればはるかに弱い。日本が独島を自らの領土だと称することに比べれば、「対馬は韓国領」だという主張は、大いに説得力がある根拠を有している。」
と書かれている。
さらに、「中央日報」は次のように伝えている。
「与・野党議員50人が対馬返還要求決議案発議に対し、国民の半分が賛成していることが調査で明らかになった。
世論調査機関リアルミーターが全国19歳以上男女700人を対象に国会で発議された対馬返還決議案に対して世論調査した結果、賛成は50.6%だったと25日、ノーカットニュースが報道した。反対は33.5%だった。
地域別で見ると大邱、慶北で賛成が58.0%、反対が26.7%で、対馬返還要求がいちばん強かった。釜山、慶南(賛成57.2%、反対31.7%)、全北(賛成56.1%、反対9.4%)の順だった。
回答者の支持政党別では創造韓国党支持層の77.3%が対馬に対する領有権主張に賛成し、支持率が最も高かった。自由先進党支持層は54.0%が賛成し、民主党支持層は51.3%が支持した。
民主労働党の支持者のうち51.2%が賛成すると回答した。ハンナラ党は支持者のうち49.8%が賛成すると回答した。性別では男性(55.9%)が女性(45.0%)に比べ賛成者が多かった。
年齢別では40代(57.2%)、50代以上(51.6%)、30代(49.8%)の順で返還要求世論が高かった。今回の調査の標本誤差は95%、信頼水準から±3.7ポイントだ。」
最近、韓国では、台湾の新聞などが韓国を歴史泥坊だと言って非難していることに対して、厳しく反応している。
「朝鮮日報」は台湾の新聞と、有力ケープル・テレビ局が次のような内容の物を伝えたと書いている。
「老子、孔子が韓国人だと言ったと思えば、釈迦までも韓国人だと主張している」(中国時報)
「韓国外大哲学科の呉可能教授は2007年7月に学術誌『追理』に寄稿した論文で、万里の長城は韓国人が築いたことを明らかにした」(聯合報)
「豆乳は中国が発明したことは世の中に知られているが、韓国が発明したと言い張るなど泥棒行為だ」(TVBS)
これに対して、「朝鮮日報」は「荒唐無稽な台湾メディア」として、台湾の報道を批判している。
それなら、「朝鮮日報」も、対馬について「荒唐無稽なこと」を言うのはやめた方が良い。
「日朝双方に二股をかけていた対馬島主は、壬辰倭乱を契機に日本化し、倭乱直後の17世紀初めには日本の幕藩体制に組み込まれた。」と言っているが、「朝鮮日報」は対馬と対馬藩主である宗氏の歴史を読まずに、こんなことを言っていることが明らかだ。(「朝鮮日報」は「対馬島主」などと書いているが、その様な物は存在しない。存在したのは対馬藩主である。歴史用語はきちんと使って貰いたい)
対馬藩主の宗氏の出自は、大宰府官人惟宗(だざいふのかんにんこれむね)氏であり、対馬との関係では1274年(文永11)の元寇(げんこう)で戦死した資国(すけくに)(助国とも)が最古、確実とされている。資国は対馬国地頭代(じとうだい)。鎌倉末から南北朝にかけては守護大宰少弐(だざいのしように)氏のもとで対馬の支配にあたり、その後守護となる。15世紀初頭に北九州から対馬に本拠を移し、ほどなく島内支配と朝鮮関係の掌握を確実なものとした。
1587年(天正15)豊臣(とよとみ)秀吉の九州平定に応じて服属。91年朝鮮通信使の来日実現の功により、従四位下侍従(じゆしいげじじゆう)、対馬守(かみ)に補任(ぶにん)。この官位は近世の例となった。近世では対馬藩主として義智(よしとし)から義達(よしあきら)(重正)まで16代続いた。(小学館スーパーニッポニカから)
要するに、宗氏は九州の太宰府官人を出自とし、既に1274年から対馬を支配していた。それも、守護大宰少弐氏の代官だったのが守護大名になり、豊臣秀吉が九州を平定すると、秀吉に従った。宗氏は、中世以来の守護大名が近世大名に転化した数少ない例であり、朝鮮と二股をかけることも、壬辰倭乱を契機に日本化したりすることもあり得ない。飛んでもない話である。
もともと日本人なのに、どうして「日本へ渡って行った」り「日本化」しなければならないのか。
宗氏は1443年、朝鮮と嘉吉条約を結んで、朝鮮との貿易を独占することに成功した。
二股かけていたら、わざわざ条約など結ぶ必要はないだろう。
更に、「朝鮮日報」は、1607年(慶長12)から1811年(文化8)まで12回来日した「朝鮮通信使」のことを知らないのだろうか。
「通信使一行は正使以下300人から500人で構成され、大坂までは海路、それ以東は陸路をとった。一行が日本国内を往来する際の交通宿泊費や饗応(きょうおう)はすべて日本側の負担であったが、通信使の来日は両国の威信をかけた外交行事でもあり、その接待は豪奢(ごうしゃ)を極め、経費は50万両とも100万両ともいわれた。近世中期以降の通信使は将軍の代替りごとに来日するのが例となっていた。」
その通信使は、まず対馬に入り、そこから、対馬藩が通信使の守護の任を負って江戸までの全行程に従い、江戸では側役を務め、幕府の朝鮮外交に大きな役割を果たした。
この「朝鮮通信使」の実現には、宗氏が大きな働きをした。
秀吉の朝鮮侵略で傷ついていた日本と朝鮮の関係を修復するためにも、宗氏自身の経済的な繁栄のためにも、朝鮮との国交の修復は是が非でも必要だったのである。
宗氏の出自の問題、朝鮮通信使がまず対馬で日本への入国の儀礼を取ったこと、これらを見れば、対馬がはるか以前から、朝鮮自身が認める日本の領土であったことが明らかだ。
対馬が朝鮮の領土だったなどと、荒唐無稽なことを言う事は、韓国人の知性が疑われることになる。思い込みでものを言うのはやめて、きちんと歴史を学んで欲しい。
対馬については、もう一つ、飛んでもないことを韓国人が引き起こして、私は心底傷ついた。
私が傷ついた件については、また明日。