谷口ジロー氏と、三館王のこと
谷口ジロー氏が亡くなって、もうじき2年が経つ。
氏が亡くなって以来各出版社が氏のこれまでの著作を次々に出版した。
私は氏の作品を大変に愛しているのだが、年の半分以上をシドニーも含めて海外で暮らしていると、氏の作品が出版されたことを見逃すことが多かった。
この際に、できるだけ多く氏の著作を購入した。
驚いたことに、私は氏を私の遙かに先輩だと思っていたのだが、実は漫画の世界に出たのは私とほぼ同じ時期だと言うことが分かった。
あまりに完成度が高く、気品があるので私は氏を私の遙かな高みにある先輩のように思っていたのだ。
新人の時からあんなに精緻で凄い画を描いていたのだからただ者ではなかった
氏の画力は恐ろしいくらいで、極めて精密緻密である。
まあよくここまでと思うほど、細かく書き込む。
久住雅之、川上弘美、両氏との鼎談の中で、1コマに1日かけると言っているのを読んで驚いた。
ただ、氏の描写を見ると、日本の市街地が妙に綺麗に見える。
私は日本の町並みほど醜い物はないと甚だしく嫌悪しているのだが、私の良く知っている醜い町の風景も氏の手にかかると、実際よりはるか綺麗に見えてしまう。
人物画について言うと、人物の主要部品、目、鼻、口が顔の真ん中に集中して、顎、頬の面積がそれに比べて広いように思える。
もっとも、頬や顎がたっぷりあるので「孤独のグルメ」で主人公の井の頭五郎がものを食べるときに、むさぼり食うという感じが上手い具合に描かれたのではないだろうか。
氏の書く人物には味がある。人格というものを感じさせるのだ。
作品全体が豊かな感じに包まれているのも登場人物に味わいがあるからだろう。
私は以前にも書いたことだが、谷口ジロー氏と組めるかも知れないという希望を抱かされたことがあった。
ある編集者が谷口ジロー氏とどうか、と言ってきたのだ。
私は飛び上がるほど嬉しかった。
「美味しんぼ」を書く以前の私は「バイオレンスの雁屋哲」と言われるほど、暴力活劇ものを沢山書いてきた。
私は谷口ジロー氏が、関川夏央氏と組んで書いたアクションものをいくつか読んでいて、私も是非谷口ジロー氏と組んで書いてみたいと思ったのだ。
それまでの暴力路線とは違った味のものを書く自信があった。
しかし、その話しはいつの間にか立ち消えになってしまった。ひがんだ言い方をすれば、谷口ジロー氏は私の作品を見て、「こんな乱暴な原作を書く人間とは組めない」と拒否したのではないだろうか。
確かになあ。谷口ジロー氏が本領を発揮し始めたのは、アクションだけでなく、しっとりとした人情を描くようになってからだ。
谷口ジロー氏は内海隆一郎氏の作品をいくつか漫画化している。
内海隆一郎氏は芥川賞候補になった「蟹の町」の後しばらく作家活動を休止していた。
15年経って執筆を再開すると、その内容は「蟹の町」のような暗い、如何にも純文学といったものから、市井の人々の心のひだを描く人情ものに変わっていた。
内海隆一郎氏は「人びとの季節」「人びとの旅路」「欅通りの人びと」など、「人びと」がつく題名の本を何冊も出版している。
その中から、谷口ジロー氏はいくつか選んで漫画化しているのだが、こう言うことを言っては内海隆一郎氏に失礼だとは思うが、内海隆一郎氏の小説よりも、谷口ジロー氏が漫画化した物の方が味わい深いものになっているように私には思われる。
例えば「再開」という内海隆一郎氏の作品がある。
それは、こんな話しである。
50歳になる主人公の岩崎さんという男性は成功したグラフィックデザイナーである。(内海隆一郎氏は、登場人物にすべて「さん」をつける。これが仲々良い効果を生み出している。いつか真似してやろうかな)
ある地方都市にデパートの仕事で行くが、そのホテルで読んだ新聞に23年前に離婚した相手の写真を見つける。
元妻はその地方の大病院の院長と結婚して幸せに過ごしている。
新聞には元妻と、その夫と、もう一人娘が写っている。
その娘は、岩崎さんと元妻との間の娘である。
新聞の記事は、その娘が絵の個展を開くことを記している。
岩崎さんは個展会場に行く。
30点ほど展示してある油絵は緑と黄を基調にした淡く温かい色彩で心に和む懐かしい絵だった。今はグラフィックデザイナーをしているが、かつては絵描きを志した岩崎さんは、その娘の絵を見て、「この子は若い頃の私と同じ世界を追い求めているようだーーーやはり親子だ」と思う。
その背後を元妻が通り過ぎる。香水の匂いでそれと分かる。
しかし、岩崎さんは名乗らない。
岩崎さんは一枚の絵の前に立つ。
その絵は、それまでの絵と雰囲気が違う。
人形を抱いた少女の絵だが、「絵の中の少女には他の絵の少女のような優しさは微塵もなかった。胸に抱いたピエロの人形に見覚えがあった。いびつな人形は『娘』の初めての誕生日に『妻』が作ったものだ。とすると、この少女は娘自身なのだろうか。」
その絵の少女は、「貴方は本当に父親のつもりなの」と岩崎さんの心の底を見透かしている思いがして、ため息をついた。
岩崎さんはその絵を買うことにしてから、もう一度絵の前に戻る。手に入れた絵をもう一度検分するふりをして「娘」を見ておきたかったからだ。
そこに娘が現れて、絵を買ってくれたことに対する礼を言う。
「買って貰った画は自分でも気にいっている。少し怖い顔だが。
これを、父や母に頼まれた方に選んで貰ったことが嬉しい。売約済みになっている絵は皆父や母のお付き合いで買ったくれた方ばかりだから」という。
岩崎さんは、「あなたの絵は本当に魅力があります。みなさんも私と同じように喜んでお求めになったんだと思いますよ」という。
娘は親しみのこもった眼差しを残して立ち去る。
岩崎さんが会場を出ようとすると、背後に元妻と娘が立っていて「有難うございました」と礼を言う。元妻は娘の横で微笑みながら岩崎さんを見つめている。
会場の出口の階段を下りながら、岩崎さんの頬を不覚にも涙がつたう。
会場の外に出て歩き出して、ふと振り返ると、会場入り口に元妻が立っていて、振り向いた岩崎さんに丁寧にお辞儀をして寄こした。
岩崎さんは「いい娘に育ててくれたね」と言いたかったのだが、そのまましばらく立っていて「元妻」見つめていた。
やがて言葉の代わりに深々と頭を下げた。
と言う話なのだが、内海隆一郎氏の作品もいいが、谷口ジロー氏が漫画化したものの方がもっと深く私には感じられた。
内海隆一郎氏の作品ではそう言う事はなかったが、谷口ジロー氏の漫画化したものを読んで私は鼻の奥がジンとなった。
谷口ジロー氏の表現力の凄さと言うものだろう。
小学館刊の「欅の木」は内海隆一郎氏の作品を谷口ジロー氏が漫画化したものを集めたものだが、全編素晴らしい。
内海隆一郎氏の作品は谷口ジロー氏によって、深く広く人々間に残っていくものになったと私は思う。
とここまで、谷口ジロー氏のことを書いて来たが、その意は実は次の事を書きたかったからなのだ。
谷口ジロー氏の作品「父の暦」が小学館から刊行されている。
大変に良い作品だ。
私は読んで大いに感動した。
しかし、谷口ジロー氏が書いた後書きを読んで、文字通り椅子の上で飛び上がった。
そこにはこう書いてあった、
「こうして、『父の暦』が完結し単行本化され、ひとつの形となったのも友人や知人の助言や指導に支えられての事だ。ビッグコミックの旧知の担当者、佐藤敏章氏の、
『今度の作品はコミックイコール娯楽というワクから少しはみ出さなければ語れないテーマだと思う。人気の事は余り考えなくていいから、自分の書きたい事を読者にどれだけ伝えられるか、それだけ考えてやってみてくだい』
と言う心強い言葉が連載を続ける原動力となった。」
これを読んでなぜ私は椅子の上で飛び上がったか。
それは、この佐藤敏章氏と言う編集者は、私が「男組」という漫画を「少年サンデ−」に書き始めたときに、私を担当してくれた編集者だからだ。
私は佐藤敏章氏を「佐藤さん」と呼んだ事はない。「サトちゃん」「びんしょう」「三館王」と呼んでいた。(「三館王」というのは、高校が修猷館、大学が立命館、務めた会社が小学館、だからだ。)
私は佐藤敏章氏から「人気の事は考えなくていい」などと言われた事がない。
いつも、読者の人気投票の結果がどうのとか、人気が落ちると困るとか、人気が落ちないように手を打てとか、人気の事ばかり言われ続けて来た。
その同じ人間の口から、谷口ジロー氏には「人気の事は気にするな」という言葉が出て来るのか。
私が「男組」で佐藤敏章氏に担当をして貰ったのは1974年の事。
私が、「父の暦」のあとがきを読んだのは2018年のこと。
ああ、44年後に明らかになった真実。
私は人気を稼がなければいけない「娯楽作家」
谷口ジロー氏は人気など気にせずに書きたいように書く事が許される「芸術家」
私は「娯楽作家」である事を少しも恥じないし、多くの人々に娯楽を与える事の出来る自分の仕事を誇りに思っている。
しかし、同じ1人の編集者が私と谷口ジロー氏を別種の作家と見なしていたという事は、やはり衝撃だった。
と言ったって、サトちゃんよ、私は君の事を怒ったり恨んだりしていないよ。
それどころか、君の言うとおりに生きてきて良かったと思う。
「美味しんぼ」で多くの人が楽しんでくれた。
それも、サトちゃんのお導きですよ。
「美味しんぼ」を再開したら、また、人気トップの漫画にしますよ。
だって、サトちゃんに仕込まれたせいか、その人気トップというのがとても気持ちがいいんだもん。
谷口ジロー氏と同列に並ぼうなんて夢思わない。
大体、絵が自分で描けない漫画原作者が画家と張り合えるはずがないじゃない。
私は自分の分を心得ております。
これからも何かヒット作を書こうと、企んでおります。
また、助けてね。
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