福島報告 その1
5月11日の早朝、福島から秋谷に帰ってきた。
3日に大雨の中を横須賀、秋谷を車で出発した。
午後2時頃に出発して、福島に着いたのは10時半過ぎだった。
いつも取材で写真撮影をお願いしている安井敏雄カメラマンが運転してくれた。
3日は低気圧が南から北へ移動していて、私達はその低気圧の動きに合わせて走ることになった。
結果的に、すさまじい大雨の中を走り続けた。
東北自動車道に乗ったが、大雨のために佐野藤岡から先は通行止めになっていて、東北自動車道から降りなければならなくなった。
次の栃木入口まで一般道を走り、大渋滞の中を栃木入口にやっとのことでたどり着いたが、なんとそこも通行止め。
入口の料金所でUターンして再び一般道に戻り、宇都宮インターまで、大雨大渋滞の中を走り続けて、ようやく東北自動車道に戻ることが出来た。
しかし、その頃から雨がただ事ならぬ勢いとなった。ワイパーを全力で回しても、殆ど効果がない。
前方が水のカーテンに閉ざされたようで、道もよく見えない。
三十年近く前、メキシコ第二の都市グアダラハラからメキシコ・シティーまで、深夜運転したことがある。
メキシコの道路には、路側帯も、中央線も引かれていない。
そして、街灯もない。
そのとき、路側帯、中央線の有り難みを初めて知った。
真っ暗闇で路側帯も中央線もないと、道がどこにあるか分からないのだ。道のありかが分かるのは対向車が走ってきたときだけ。
後は、ヘッドライトの届く10数m前方を、目をこらして見続ける事しかできないのだが、ヘッドライトで照らされた地面も、道なのかどうなのかそこまで走って行って見ないと分からない。
メキシコ・シティーの手前で夜が明け来て道が見えるようになったときには、本当に一命を取り留めた、と思ったものだ。
今回の福島までの大雨の中でのドライブはその時に次ぐ恐ろしい物だった。
とは言え、運転したのは安井敏雄カメラマンである。
私も、途中で運転を代わろうと思ったが、万が一運転を誤ったら、私はともかく、安井敏雄カメラマン、記録係のライターの安井洋子さんまで巻込むことになると怯えて、卑怯にも福島まで安井敏雄カメラマンに運転してもらった。(カメラマンとライターが同じ姓なので、名字だけで呼んだのではどちらを読んだのか分からない。で、私は、いつも、敏雄さん、洋子さんと名前で呼んでいる。)
私は助手席に座っていただけだが、視界が最悪の中を走っていると運転している敏雄さんの半分くらいは疲れる。
福島に着いたときには、全員(特に敏雄さんは)くたくたになっていた。
救いは、車がスバルだったことだ。
全輪駆動はこう言う時に本領を発揮する。
川のように水が流れる高速道でもしっかり道に張り付くように安定して走ってくれた。
しかし、最初のこの疲労が、取材の最後まで祟った。
今回の取材は、この肉体的な疲労に、精神的な疲労が加わって、今での取材の中で一番厳しい物になった。
精神的な疲労は、福島の真実を知ることがもたらした物だ。
真実を知ることは、辛い物である。
今回、取材したのは、
◎ 会津喜多方、
◎ 会津若松、
◎ 中通り三春、田村市船引町、
◎ 浜通り、相馬、飯舘村
◎ 浜通り、南相馬、小高、
◎ 浜通り、南相馬、原町
の地域である。
去年の11月に行き、今度行き、又次回は6月初めに福島に行く。
この3回で福島の南から北まで、見るべき肝心なところは見ることが出来ると思う。
取材の成果は、9月頃から始める「美味しんぼ」福島の真実篇、にまとめるが、今回取材した中で一番気になったことこれから、2、3回にわたって書いてみよう。
去年立ち入り禁止だったが、今年の4月から入れるようになった地域がある。
飯舘村だ。
飯舘村は「いいたてむら」読む。よく、「いいだてむら」、と「たて」を「だて」と濁って言う人がいるが、ただしくは、「いいたてむら」である。
飯舘村には農業を営んでいた方に案内して頂いて行ったのだが、飯舘村に入って、その美しさに感嘆した。
背景に阿武隈山脈が控え、手前に農地が広がる。
私が行ったのが、一番良い時期だった。山は新緑が芽吹き、その鮮やかな緑がみずみずしく光り、その緑の間に山桜が点々とあでやかに華やいで咲いている。
絵描きだったらすぐに絵筆を取りたくなるに決まっている、美しい景色だ。
しかし、この飯舘村は放射能の汚染の激しいところである。
今は殆どの住民がよその土地に避難している。
農地もよく見れば、人の手が入っていないことが歴然と分かる。
去年今年と、農業は行われていないので、農地は荒廃の一歩手前である。
天婦羅にしたら最高に美味しい、タラの芽を栽培している畑を見たが、誰もタラの芽を取らないので、タラの芽が伸びて、葉っぱになっている。
私は、最初桑の木と間違えてしまった。それほどタラの葉は良く育っているのだ。
飯舘村は、全村上げて有機農業に取り組んでいた村である。
だが、今は有機農業どころではない。
かつては、無農薬でプチトマトを育てていたビニールハウスも今は骨組みしか残っていない。
飯舘村に村民が帰還して、もとのような価値ある農業を開始出来るのはいつのことか、誰にも分からない。
ただ、それが、二年や三年と言うことではないことは、みんな理解している。
飯舘村の人達数人と話したが、早く村に帰って昔どおりの農業をして暮らしたいと切実に願う気持ちと、同時に、幾ら農産物を作っても誰も買ってくれないだろう,と言う絶望感が同居している。
常識的に考えて農作物を作るのは無理だと分かっている。
しかし、その心の奥底で、「やって見れば何とかなるのではないか」という期待心が頭を持ち上げてきて、「駄目だ」という気持ちと「やれば何とかなる」という気持ちの葛藤に苦しむと言った。
美しい新緑と咲き誇る花々に包まれて広がる農地。
しかし、その農地は雑草が生い茂り、荒れている。
建ち並ぶ家には、人の影が見えない。
荒れた農地と無人の家。
車は走るが、村人の姿は見えない。
景色が美しいだけに、余計にその痛ましさが胸に迫った。
(つづく)