雁屋哲の今日もまた

2013-11-19

内田先生ご乱心、いや本心か

私は内田樹氏を尊敬している。

今の日本の思想・言論界で,どんなことでもこれだけ明快な論理で解き明かしてくれる人は滅多にいない。

ヘドロに埋まってしまった今の日本の社会で、ヘドロに足を取られながら歩くのに,氏の意見は非常に頼りになる。

氏の著書も何冊か購入したが、裏切られたことは無い。

また、以前私がお世話になったことがある朝日新聞の竹信悦夫さんと高校の同級生だったと知って、勝手に親しみまで感じている。

日本で一番頼りになる知識人だと思っている。

しかし、それは、今年の11月までのこと。

 

その内田樹氏が、AERAの13年11月18日号に書いた、

「『直訴』行為にメディアが『例外性』を強調した意味」

という記事を読んで、驚いた。

その驚きも、生やさしい物では無く思わず「内田先生ご乱心!」と叫んでしまったくらいである。

そして、読めば読むほど気持ちが悪くなってきて、吐き気がした。

内田樹先生の思想の根底にはこんな考えというか心情が潜んでいたと悟って、私は、身動き取れない感じに陥った。

よく読めば、これは、一時のご乱心では無い。内田樹氏の本心なのだと言うことが分かる。

「内田先生、貴方もそうだったのですか」と言いたい。

もう、頼れる人はいないのか。

 

ことは、園遊会の際に山本太郎氏が天皇に手紙を手渡したことについてである。

「山本太郎参院議員が園遊会で天皇陛下に『直訴』した件では議員の非礼を咎める声のある一方で、『天皇の政治利用という点では、自民党に他人を批判する資格はない』と言う反論もある。どちらの言い分もそれぞれもっともだが,私は『誰も言っていないこと』に興味が有る。それは天皇陛下に直訴をしたのが1901年の田中正造以来だったという『例外性』をメディアが強調したことである。それは何を意味するのか。」

と氏の文章は始まっている。

ところが、私は7月末に右の脛の骨を複雑骨折してしまい、そのために大きな手術を一週間置いて2回受けたので、その時の強力な麻酔の影響がまだ残っていて頭が上手く働かないようで、氏の全文を読んでも「『例外性』をメディアが強調したことが何を意味するのか」分からないのである。

ただ、氏の以下の文章が、私の脳髄に鉄条網に使うバラ線のように絡みついていて苦しいのだ。

 

氏は書いている、

「あらゆる機会を政治的に利用して自己利益を増大させ、おのれの意思を実現しようとじたばたしている『公人』たちの中にあって、ただひとり、いかなる党派的立場にも偏することなく、三権の長にさえ望むべくもない『公平無私』を体現している人がいる。その事実が天皇陛下の『語られざる政治的見識』への信頼性を基礎づけている。天皇陛下の政治的判断力への国民的な信頼がここまで高まったことは戦後はじめてのことである。」

このような文章を内田樹先生のお書きになった物として読もうとは長い間内田樹先生の文章を拝読してきた私には予想も出来なかった。

「三権の長にさえ望むべくもない『公平無私』を体現している人がいる。」

とは何のことだろうか。

内田氏がここで取り上げている天皇の行為は、

1)9年前の園遊会で、米長邦夫東京都教育委員長が「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させる事が私の仕事で御座います」と言ったことに対して、「強制になるということでないことが望ましい」と答えたこと。

2)「沖縄の主権回復の日」の式典で安倍首相を始め出席していた人間が「天皇陛下万歳」を三唱したときに曖昧な笑顔を浮かべていたこと(これを、内田氏は当惑の表情と取った)。

3)今回、園遊会で山本太郎氏の差し出した封書を受けとったこと。

である。

この3項目から、どうすれば「三権の長にさえ望むべくもない『公平無私』を体現している」ことを読み取れるのだろうか。

他にも天皇が「公平無私」を体現するような事があったのかも知れないが、内田氏がこの文章で上げているのはこの3項目であり、文脈に従えばその3項目から天皇が「公平無私」を体現していることを読み取るしかない。

だが、この3項目をどういじっても、どう深読みしても、「公平無私」を体現している事を私は読み取れない。

これは、無理筋という物だろう。

次はもっと難しい。

「その事実が天皇陛下の『語られざる政治的見識』への信頼性を基礎づけている」

と来た。

その事実とは、「天皇が『公平無私』を体現している」であることにしよう。

で、次の「語られざる政治的見識」とは何か。

「語られざる」とは、天皇が語らなかったのか、或いは一般的に語られていないと言う事なのか。

なぜ、「語られるざる」なのか。

「政治的見識」とは何のことか。

そして「信頼性を基礎づける」とは何のことか。

「信頼性とは」だれが、何を信頼するのか。

このように、今回内田先生がAERAに書かれた文章は語句に分解して意味を理解しようとしても、理解するのが私には難しい。

だが、一本補助線を引くことで、するすると意味が分かる。

その補助線とは、ああ、口にするのもおぞましいので、それは後回しにする。

 

次はもっと、もっと難しい。

「天皇陛下の政治的判断力への国民的信頼がここまで高まったことは戦後初めてである」

これは、本当に難解極まる。

「天皇の政治的見識」が「天皇の政治的判断力」へと一気に次元を飛び越えてしまっている。

「政治的見識」と「政治的判断力」の間には、大きな跳躍がある。

「見識」までは、まだ安全だが、「判断力」となると、読む方の心臓がどきどきする。「判断力」は行動へ繋がるからだ。

 

「天皇陛下の政治的判断力への国民的信頼」とは何のことか。

この国民の中には私も入っているのかね。

私のような非国民ではなく、善良なる国民の事なんだろうが、私は今思い浮かべる友人・知人たち誰をとっても、そして彼らは全て温順・善良な国民であるが、「天皇陛下の政治的判断力への国民的信頼」という言葉を理解できないと確信する。

内田氏個人が、「天皇陛下の政治的判断力への信頼」を抱くのは構わないが、それをいきなり「国民的」と言われると、漫才の「こだま・ひかり」風に言えば、「往生しまっせ」。

普通の人間には理解できない言葉である。

政治的行動へと繋がる「天皇の政治的判断力」に国民の信頼感が高まる、と言うことは、国民が天皇に何か判断して貰ってそれに従って行動したがっているということなのか。

そんな恐ろしいことを氏は言いたいのだろうか。

 

これまで、私は内田氏のこの文章に対する疑問を書き連ねて来たが、氏のこの文章の最後の段落に、私の疑問に対する答えがあるようだ。

その文章は、以下の通りである。

 

「今国民の多くは天皇の『国政についての個人的意見』を知りたがっており、できることならそれが実現されることを願っている。それは自己利益よりも『国民の安寧』を優先的に配慮している『公人』が他に見当たらないからである。私たちはその事実をもっと厳粛に受け止めるべきだろう。」

 

こうして、氏の文章を書き写すだけで、私は体の奥底から吐き気というか、脊髄の中に強酸を注入されたらかくもあらんかという、死んだ方が良いようないやな気持ちがこみ上げてきて、正気を失いそうになる。

氏はこんなことを本気で書いているのだろうか。

国政についての個人的意見を天皇に聞いて、どうするのか。

「できることならそれが実現されることを願っている」という、「それが実現される」とは、天皇の意見を聞くことが実現されることであって、天皇の意見が実現されるという物ではあるまいな。いや、本当に天皇の意見を実現させたいと考えているのかも知れない。この辺の氏の文脈がいつもの氏に似合わず曖昧なのだ。

とにかく、天皇の意見を聞くだけでは意味が無い。ただ聞いて「はあ、はあ、そうでごぜえますか」と感心するだけでは,話は収まるまい。

聞くからにはその意見に従って国政を実現させようと動くのが順序という物だ。

突き詰めれば天皇の言葉通りに国政を進めようと言うことになる。

このような言葉は、以前に聞いたことがある。

2.2.6事件の青年将校たちが同じことを言っていた。

内田氏の言うことは、青年将校たちが希望した「天皇親裁」と同じではないか。

氏は、2.2.6事件の青年将校たちと同じように、天皇に対する恋闕の思いを強く抱いているようだ。

前に書いた、氏の文章を理解するための補助線とは、この、「天皇に対する恋闕の情」だと私は思う。

氏の書く文章は常に論旨は明快で、論理の筋道も通っているので読む度に「勉強をさせて頂いた」という感謝の念を抱く。

しかし、この、AEREAの文章は論理の筋道も見つけがたい難解な文章である。

二日酔でぐんにゃりしている蛸に胃の上に這い上がられたような気分になる。

 

そのいやな気分のいやな原因が分かった。

氏の天皇に対する恋闕の情である。

それを理解すると、氏がこのねっとりと濃度の高い非論理的な文章を書いた理由が分かる。

氏は、文章の最初から「天皇陛下」と書く。

天皇なしで、単独に「陛下」とも書く。

「陛下」とは、天皇の尊称である。

外国の王に対しても使う。

しかし、イギリスのエリザベス女王に「英国国王陛下」というのと、日本の天皇に「陛下」を付けるのとでは、意味が違うと私は思う。

その意味の違いを論じ始めると、長くなるので、今はここでとどめる。

一つだけ言っておくと、「天皇陛下」という言葉は、1945年に破綻した明治憲法下の天皇制下で最も熱く特別な意味を持って使われた言葉だということだ。

ましてや、天皇なしで「陛下」というのは、明治憲法下で天皇の臣下と自らを認めた人間の言葉である。

 

国政についての天皇の意見をききたい、などと言う言葉を2013年の時点で、私は自分の尊敬する内田樹先生の言葉として読もうとは夢にも思わなかった。

日本の戦後民主主義などろくな物では無かったということを、この内田樹氏の文章で私は思い知らされた。

 

雁屋 哲

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