ますます募る、反捕鯨カルトの狂気
2009年6月26日、オーストラリアでも有数の新聞シドニー・モーニング・ヘラルドに次のような記事が載った。
まず、この写真を見て頂きたい。(写真はクリックすると大きくなります)
「Spaceship」と書いてあるが、本当にSFの宇宙戦争に出て来そうな恐ろしい形をしている。
記事の題名に書いてあるように、この船は、日本の調査捕鯨を妨害するために、南極海に出動するのだそうだ。
記事によれば、この「Earthrace」と言う船は(これが、固有名詞なのか、こう言う船全体を指す名前なのか、私には分からない。まあ、固有名詞だろう)時速40ノットで走る。1ノットは1海里1852メートルのこと。時速40ノットと言えば、約時速74キロ。道路の上でも結構な速さだが、これが海上となると話が違う。すさまじい速さだ。
日本の調査捕鯨の調査母船とされている日新丸の時速が17.49ノットらしいから話にならない。
これで、日本の調査捕鯨を妨害するというのだが、何をする気なのか、この船の形を見ただけで恐ろしくなる。
この船は、昨年61日間でバイオ・ディーゼル燃料で地球を一周したという。
もともと、この船は北大西洋で漁業の監視をする物であって、40ノットの速度で、完全に波にのまれても構わず進むことが出来る高性能を誇る。
ニュージーランド人のオーナー兼船長は、「俺の裏庭である南氷洋で捕鯨をするなんて許せない」という理由で、今年から、日本調査捕鯨の妨害に参加するという。
一方、昨年、毒の入った瓶を投げつけたり、体当たりをして、日本の捕鯨調査船を危険に陥れた、シー・シェパードの旗艦Steve Irwin号は、現在オーストラリアのクイーンズランド州のブリスベンを基地にしているが、50万ドルかけて、(日本捕鯨調査船に体当たりしたために)ゆがんだ船体を直し、強力なWater cannon(水を打ち出す砲。Cannon・大砲と言うからには、消防隊の使うような放水器とは違ってもっと破壊力の強い物だろう)を船首に取り付ける作業が済み次第、タスマニアのホバートに移動すると言う。
シー・シェパードの責任者ワトソン氏は、次に予定されている日本の調査捕鯨妨害作戦を「ワルツィング・マチルダ」と称することにしたと言っている。
昔の海賊のように片眼の眼帯をかけたカンガルーをシンボルマークに使うのだそうだ。
「ワルツィング・マチルダ」は、オーストラリアの国歌にしようという話があったのだが作曲者がアメリカ人だったので、取りやめになったというくらいオーストラリア人の大好きな歌で、この作戦に「ワルツィング・マチルダ」と付けるのを許し、片眼の眼帯のカンガルーをシンボルに使うのを許すといからには、オーストラリア人もシー・シェパードの行為を全面的に応援していると見える。
オーストラリアの国の紋章には、カンガルーとエミューというダチョウのような大きな鳥が使われている。カンガルーはオーストラリアを象徴する動物なのだ。それをシンボルにした上に、「ワルツィング・マチルダ作戦」と名付けるからには、シー・シェパードはオーストラリア全体に応援されているのだろう。
シー・シェパードはオーストラリアのシンボルと考えて良いのだろうか。国際的にそれはまずいと思うのだが。
この宇宙船のような恐ろしい高速船に調査捕鯨船が襲われたらどうなるのだろう。時速74キロの高速で周囲を走り回られたら、捕鯨の妨害どころか、調査船自体も危険な状態になる。
そこに持って来て、今度のシー・シェパードの船は、強力なウォーター・キャノンを備えている。
これは、もうただごとではない。
このような、凶悪な船を二艘用意して、日本の船を襲うと公言している。
今の世界でこのような、テロ行為を公言することが許されるのか。
日本国民である、調査捕鯨船の乗組員の命がこのように公然と脅かされているのに、日本政府は何をしているのか。
憲法の規定上、日本は外国で武力を行使するわけにはいかないが、自衛艦が護衛してこの二艘の凶悪な船と、調査捕鯨船の間に入って、盾のようになって守ることは許されないのか。
自衛艦の派遣自体が憲法違反なのであれば、水産庁の艦船を派遣して、調査捕鯨船を守るべきだ。
この件で一番責任があるのがオーストラリア政府である。
前回、日本の調査船に体当たりをしてあわや大事故を招きかけたテロリスト、シー・シェパードがオーストラリアの港を基地にすることを許し、Water Cannonと言う兇器を据え付けるのを許し、オーストラリアのシンボルである、カンガルーと、ワルツィング・マチルダを、シー・シェパードが自分自身のシンボルとして使うことを許す。
公海上で他の船に危害を加えることは純然たるテロ行為である。そのテロ行為をオーストラリア政府は支援することになる。
この恐ろしいSpaceshipを日本の調査捕鯨の妨害に繰出すと言っているオーナー兼船長はニュージーランド人である。
ニュージーランド政府は、「南氷洋で捕鯨を続ければ、反捕鯨の抗議船を引きつける」などと、他人ごとのように言っているが、このSpaceship Earthraceを調査捕鯨の妨害に送り出すのを許すからには、ニュージーランドも、テロを支援することになる。
こういうことを書くと、必ず、反捕鯨カルトで脳みそがすっかり腐りきっておられる皆様が、醜悪な罵倒記事を沢山送って下さる。
中には、外国から、英文で送って下さる方もおられるが、日本人の書いているブログには、日本語で書き込むくらいの礼儀をわきまえて下さいね。
といっても、反捕鯨カルトに頭がいかれてしまっている人間には通用しないだろうなあ。
どうして私が捕鯨を支持するか、もう一度きちんと書いておくから、反捕鯨カルトの諸君たちも、たまには頭が澄んでいることがあったら、その時にでも読み返してくれたまえ。
- 人間は、命有る物を食べなければ生きて行けない、罪深い存在である。
ベジタリアンは無罪のように思っているが、それは錯覚である。
植物も命がある。コンクリートの隙間からでも生えてくる雑草のあの「生きたい」という生命力を見れば、よく分かることだ。 - したがって、人間は自分の命を支えるためには、どんなものでも食べることを許される。
食べていけないのは、人間だけだが、それも、特別の場合には許されることがある。
以前、アンデス山脈に旅客機が墜落したことがある。運良く生き残った乗客たちもいたが、雪が深くて動けない。
食べるものも尽きた。
そこで、仕方なく、事故の際に亡くなった他の乗客を食べた。
春になって雪が解け、生き残りの乗客たちは、山から下りてきて救出された。彼らは正直に、亡くなった乗客を食べたと言った。
だが、世界中で彼らを非難する人間はいなかった。
自分たちが殺したわけではない。事故で亡くなった人間の体は、ただの物体だ。このような非常の場合には、自分たちが生き残るためには食べることも許されるのだ。
この話は、人間が生きるということ、人間がものを食べると言うこと、その本質を厳しく物語っている。 - 人間は命有るものを食べなければ一日も生きて行けない。
それが、人間の背負った「原罪」であると私は思う。
私は、犬を食べないから無罪だ、私は馬を食べないから無罪だ。
そんなことを主張する人間は、人間の本質を知らない。
その無知は恥ずべき物だ。 - 人間は、自分の命を支えるために、農耕をする。
漁をする、狩猟をする。
牧畜をする。
どんな植物を食べるか、どんな動物を食べるか、それは、その人間の住む環境とその人間の趣向によって決まることであり、一切の禁忌はない。 - 鯨も、マグロ、鮭、鱈、鰯、などと変わりはない。
鱈を解体するところを見て残酷と思わず、鯨を解体するところを見て残酷と思うのは、偏見である。 - 宗教によっては、ある動物を崇拝する。へび、うし、とら、などを崇拝する宗教がある。
旧約聖書にも、モーゼの時代に、パレスティナ一帯に牛を神として崇める宗教があったことが書かれている。
宗教によっては、この動物は食べてはいけないという禁忌を設ける。
イスラム教徒は豚を食べてはいけない。ユダヤ教徒もひずめの無い動物(豚など)、鱗のない魚(うなぎ、イカ、など)を食べてはいけない。
日本では長い間、仏教の影響か四本脚の動物は食べてはいけないとされていた。(明治以降、許可されるようになったが)
鯨を食べてはいけないというのは、反捕鯨カルト、あるい、鯨カルトという宗教の定めた禁忌である。
だが、ヒンズー教徒は、キリスト教徒に牛を食べるなと強要しない。
イスラム教徒も、キリスト教徒に豚を食べるなと強要しない。
自分たちの宗教の禁忌は、自分たちの宗教の信者の間でだけで守ればよいことで、他者に強要するべきではない、と言うのは世界の常識である。
であれば、反捕鯨カルト、鯨カルトの信者達も、自分たちの禁忌を反捕鯨カルト、鯨カルト、に属していない人間に強要するべきではない。 - 鯨は、一時、各国の捕鯨競争の結果、著しく頭数が減った。
そのように一つの種が、絶滅しかけたときには保護する必要がある。
しかし、充分に数が増えたら、再び漁の対象にすることに何の問題もない。 - 日本が計画している捕鯨は、科学的に鯨の生態を調べた上で行うから、鯨の数を減らしたり、ましてや絶滅に追い込んだりすることはない。
持続的に継続可能な漁業の一つとして行うのである。
これがいけないというのなら、全ての漁業は禁止すべきである。 - もう一つ問題がある。
鯨の数は最近増えすぎて世界の漁業に打撃を与えている。
増えすぎた鯨が多くの魚介類を食べてしまうのである。
自分たちが獲ろうとしている鰯の群れの中に鯨が突っ込んできて、漁が出来なかったと、漁師が嘆くのを私はあちこちで聞いた。
何しろ鯨の食べる量はすさまじいので、イワシの一群れなどあっという間に食べられてしまって、漁師の取り分が無くなる。
日本だけでなく、東南アジア各地で同じようなことが起こっているだろう。
魚を余り食べない国の人間には何でもないことだろうが、魚を食事の柱としている我々アジアの国の人間にとっては死活問題である。
人と鯨のどちらが大事か、よく考えて貰いたい。