雁屋哲の今日もまた

2008-08-14

パレスティナ問題 その17

 さて、パレスティナ問題に戻って、PLO(Palestine Liberation Organization、パレスティナ解放機構)について考えよう。

 パレスティナ問題については、パレスティナ側にも問題があると言ったが、このPLOが問題の解決を厄介にした。
 PLOは1964年に結成されたが、設立当時は汎アラブ主義の枠組みのなかでパレスチナ運動を管理下に置こうとするエジプトの大統領ナセルの思惑が強く、初代議長も親エジプトのアハマド・シュケイリであった。
 しかし、1967年の第三次中東戦争で、アラブ側が大敗すると、PLOはナセルから離れ、1969年にファタハを率いる、ヤセル・アラファトを議長に選んだ。
(この第三次中東戦争は、シリアで政権を握ったバース党がパレスティナ・ゲリラに支援を行い、エジプトとヨルダンは同盟を結んで紅海とアカバ湾を結ぶティラン海峡の封鎖にふみ切ったことで、危機感を抱いたイスラエルが、周辺のアラブ諸国に先制攻撃をしかけたものである。イスラエルにとって、アカバ湾はインド洋への唯一の出口で、ティラン海峡を封鎖されることは生命線を断たれることに等しい。
 この戦争は後に6日戦争と呼ばれるが、わずか6日間で、イスラエルはアラブ諸国に大勝し、シナイ半島、ヨルダン川西岸地区、ゴラン高原などを占領した。)

 アラファトは1929年生まれ。
 エジプト軍に入って第二次中東戦争に従軍し、退役の後、1957年、パレスティナ解放を目指す組織アル・ファタハ(以下、ファタハと記す)の創立に加わり、議長となった。
 ファタハはイスラエル相手に、ゲリラ攻撃を繰返してきた。
 ファタハを率いてアラファトがPLOに参加すると、PLOもイスラエルに対するテロを行った。
 PLOはヨルダンに本部を置いていたが、ヨルダンの人口約200万人の内74万人がパレスチナ人となってヨルダンの政治情勢が不安定になったことと、イスラエルとの戦争を嫌ったヨルダンによって、追放されて、レバノンのベイルートに本部を移し、そこからイスラエルに対する攻撃をしかけていた。
 1982年、イスラエルがレバノンに侵攻し、ベイルートを包囲したので、PLOはチュニジアの首都チュニスにまたもや移さざるを得なくなった。
 アラファトはずっと、アラブ諸国からの援助金でPLOを維持してきたが、1990年から1991年の湾岸戦争で、イラクを支持したために、アラブ諸国からの援助金を断たれ、苦境に陥り、1993年イスラエルとのパレスチナ暫定自治合意(オスロ合意)に踏み切った。
 オスロ合意では、アラファトはイスラエルの生存権を認め、すなわちイスラエル国家を承認し、テロを取締り紛争を平和的に解決することを約束し、一方当時のイスラエルのラビン首相は、PLOをパレスティナの正式な代表として認め交渉を開始する意思を表明した。
 このオスロ合意で、パレスティナ暫定自治政府が成立し、1994年からガザ地区と、ヨルダン西岸のエリコで自治が開始され、PLOは本部をガザに移した。
 1996年のパレスティナ自治選挙でアラファトは大統領に選出され、PLOの国会に当たるパレスティナ民族評議会(PNC)によってパレスティナ民族憲章から「イスラエル破壊条項」の破棄が決定された。
 PLOは最初から、イスラエルを壊滅することをその目的としていたのだが、1970年代半ばから、アラファトはそれが不可能なことを悟り、イスラエルと和議を結ぶ、柔軟な態度に変わってきていたのだ。
 暫定自治合意を形成する過程で、イスラエルのラビン首相、ペレス外相ともども、平和に貢献したと言うことで、アラファトは、1994年にノーベル平和賞を授与された。

 このまま、イスラエルとパレスティナの間の和平が成り立つかと世界は期待したが、この和平には、イスラエル、パレスティナの双方から強い反対が起こり、イスラエルでは、ラビン首相がシオニスト原理派の青年に暗殺され、パレスティナでも和平反対の過激派によるイスラエルに対するテロ活動が盛んになった。
 さらに、イスラエルでは、右派リクードのネタニヤフ、さらに、ネタニヤフより強硬派のシャロンが首相になり、イスラエルとパレスティナは和平どころか、更に激しく対立するようになった。

 とくに、シャロンは、レバノン包囲戦の時にアラファトを殺し損なったことをいつまでも悔やんでいたほど、強硬な人物で、2000年9月28日、護衛を引き連れて、エルサレムにあるかつてエルサレム神殿があったユダヤ教の聖地を訪問し、エルサレムはイスラエルのものだと誇示した。この場所は、イスラム教徒にとっては、ムハンマドが昇天したとされる聖地であり、シャロンの行為はイスラム教を冒涜するものとされた。この訪問はイスラム教徒を刺激し、挑発し、パレスティナ人は、イスラエル人に対する投石などの攻撃を始めた。(民衆蜂起 インティファーダ)
 シャロンはそうなることを望んで、パレスティナ人を挑発したのだ。

 シャロンは2006年に脳卒中で亡くなったが、イスラエルとパレスティナの対立はその後も激しくなるばかりである。

 そもそも、シャロンの例に見られるように、ラビン首相が暗殺されて以来、イスラエルのパレスティナとの和平を否定する勢力が強くなったことが、現在の対立の激しさを招いたものだが、同時に、PLOを率いるアラファトの問題も大きい。
 アラファトは、イスラエルと和平の道へ進むかと思えば、強硬な姿勢を取ったり、その方針が常にぐらついていた。それは、アラファトがパレスティナ人全体をまとめることが出来なかったからである。
 それもそのはずで、アラファトの率いるPLOは、その内部が甚だしく腐敗しており、パレスティナ人からの信頼を失っていたのである。
 アラファトは、2004年に亡くなったが、その際に、遺産を四千億円以上残していることが明らかになった。
 アラファトには、若い妻がいたが、その妻はパリにずっと住まわせている。
 アラファトの死後、その妻は、アラファトの遺産を相続する権利があると主張している。

 全く、驚くべきことである。
 アラファトのもとに集った資金はみんな、周囲のアラブ諸国の寄付金である。
 それを、アラファトは、身辺の取り巻きと共に、自分の懐に入れていたわけだ。
 アラファトは最後は、シャロンによって、自宅に幽閉状態に置かれていた。
 それでなくとも、パレスティナでPLO議長、大統領として働いていれば、どんな大金を持っていても使い道があるはずがない。
 それなのに、そんな巨額のカネを溜め込んでいた。
 パレスティナの人々は、医療、教育、などの施設が十分でなく苦しんでいる。
 四千億もの金があれば、幾つ病院が建てられたか、幾つ学校が建てられたか。
 使い道もないのにそんな巨額の金を貯め込んだアラファトの神経が分からない。
 アラファトがそうだから、PLOの幹部たちの腐敗も凄まじく、それでは、人心が離れるのは当然だ。

 アラファトはパレスティナ人のためではなく、自分が生き残るためだけに全精力を使ってきた。
 その様な人間が、指導者として君臨していたのだから、PLOが、パレスティナ問題の解決に役立つわけがない。
 イスラエルとの真の和解など、PLOでは出来るはずがなかった。
 むしろ、PLOはイスラエルとの和解を阻害した一因となっていたのだ。

 事態は、更に悪化の一途をたどり、イスラム原理主義で、パレスティナの解放、イスラエルの崩壊をめざすハマス(イスラーム抵抗運動)が、2006年に、パレスティナ評議会で過半数を占め、さらに、2007年6月にはガザ地区を武力占拠して、ファタハと対立しパレスティナ内部で内戦状態になっている。

 ハマスはイスラエルに対する自爆テロ、ガザ地区からのロケット攻撃などを続けており、それに対するイスラエルの締め付けは、ますます厳しくなっていて、ガザ地区のパレスティナ人は、生存するのがぎりぎりの状態にまで追い込まれている。

 イスラエルがイスラエルなら、パレスティナもパレスティナだ。
 一体、どうすれば良いのか。

(続きは、また明日)

雁屋 哲

最近の記事

過去の記事一覧 →

著書紹介

頭痛、肩コリ、心のコリに美味しんぼ
シドニー子育て記 シュタイナー教育との出会い
美味しんぼ食談
美味しんぼ全巻
美味しんぼア・ラ・カルト
My First BIG 美味しんぼ予告
My First BIG 美味しんぼ 特別編予告
THE 美味しん本 山岡士郎 究極の反骨LIFE編
THE 美味しん本 海原雄山 至高の極意編
美味しんぼ塾
美味しんぼ塾2
美味しんぼの料理本
続・美味しんぼの料理本
豪華愛蔵版 美味しんぼ
マンガ 日本人と天皇(いそっぷ社)
マンガ 日本人と天皇(講談社)
日本人の誇り(飛鳥新社)
Copyright © 2024 Tetsu Kariya. All Rights Reserved.
掲載の記事・写真・イラスト等のすべてのコンテンツの無断複写・転載を禁じます。