この国民と、この自民党
一体これはどう言うことなんだ。
7月11日現在、安倍晋三氏はいまだに首相の座に居座っています。
森友学園、加計学園の問題では安倍晋三首相の責任が明らかになっているのに、安倍晋三首相は知らん顔です。蛙の面になんとやらといいますが、まさにそのままです。
冬季オリンピックに姿を現したり、トランプアメリカ大統領のご機嫌伺いに行ったり、G7の会議に出たり、羽生選手に国民栄誉賞を贈ったり、水害地を回って天皇をまねして被害者の前に膝をついて座って見せたり、恥知らずにもどんどん表に出て来る。
北朝鮮によるミサイル危機、今回の未曾有の大雨被害などがあると国民守るような発言をします。
汚職まみれで、公文書改竄などという民主主義の根幹を揺るがすことを官僚にさせてきた人間が、どうして恥ずかしげもなく偉そうに振る舞うのでしょう。
それに対して、大多数の国民は声を挙げません。
それどころか、毎日新聞の最近の調査によると安倍晋三内閣の支持率が44.9パーセントをこえ、不支持率の43.2パーセントを超えました。
安倍晋三首相を支持する人間が全体の半数近いとは・・・・・。
また、自民党の議員たちは安倍晋三首相を辞職させるように動くことをしません。
自民党の議員たちに対しては、陳舜臣の「続・中国任侠伝」が書いている中国の隋の煬帝(ようだい)の時の話が参考になります。
隋は、後漢が220年に滅びたあと、分裂状態だった中国を581年に一つにまとめた王朝で、楊堅(文帝)が開き、その息子が文帝を殺して帝位に就きました。
その二代目皇帝が煬帝です。
煬帝は洛陽に都を建設し、中国の南北を結ぶ運河を作りました。万里の長城と並ぶ大工事で、この工事のために数百万の人民が駆出されました。
父の文帝が倹約家だったのに比べて、煬帝は大変な浪費家で、運河の建設だけでなく、外征も頻繁に行い、皇帝の独裁を強めて、仏教の僧侶にも皇帝を礼拝させました。
また、長安、洛陽、揚州、と各地を回りましたが、それぞれの地方に離宮を作り、そこに多数の美女を集めました。
この煬帝の権力に恐れをなし、誰も反抗しようとしませんでした。
陳舜臣は煬帝について登場人物に語らせています。
陸統という人間が 李修と言う人間に言います。
「天子(皇帝)は確かに強い。だが、じっさい以上に強くしているのだ。分かるか?人間の心の中にある、あの恐怖心だよ。虎は強い。だが、人間が虎をむやみにこわがるので、虎はそれだけ強くなるわけだな」
「こちらが、天子をおそれるので、天子はよけい強くなるのだな?」
「そうだ。・・・・・天子を弱くするには、たった一つの方法しかない」
「それは?」
「天子がおそろしくないということを、みんなにしらせることだ。・・・・」
「そのためには?」
「そのためには、天子をおそれぬ人間もいることを、世の中の人たちにしらせなければならない」
「そうすれば、どうなるのか?」
「天子をおそれぬ気持は、病気のように、つぎつぎと伝染する。そんな連中が、あちこちで謀反を起こすようになるだろう。西に撃ち、東に撃ち、さすがの天子も弱くなる。かんじんなのは、だれが最初の人間になるかということだ。
病気でも、誰かが罹らなければひろがらない。天子をおそれぬことを示す人間が出ないかぎり、天子は安泰なのじゃ」
陸統は僧侶、李修は妹を殺されたと煬帝を恨んでいる人間です。
二人は、仲間たちと洛陽の宮殿に押し入り、宮殿の欄干の上から、
「楊広(煬帝の名前)の大馬鹿野郎の大罰当たり」と声をそろえて喉も裂けよとばかり叫びます。
結局二人は宮殿護衛の兵士たちに殺されてしまいますが、
「天子の威光をおそれず罵った人間がいる」
と言うことが世間に広まり、各地で造反、人民の抵抗が相次ぎ、それは野を焼く火のように広がりました。
やがて、上層部のなかから、隋王朝を見かぎって造反に転向する者が続出するようになり、ついに煬帝は部下に殺され、隋王朝は滅びます。
この煬帝ほどではないにしても、日本という一国を私していることでは、安倍晋三首相も日本の規模から言えば最大の権力者・皇帝でしょう。
しかし、その実際の姿はどうでしょう。
岸信介の孫、佐藤栄作の甥ということで、みんなに担がれているうちに権力者の地位に就いてしまいましたが、森友学園、加計学園の問題を見ても、恥ずかしいほど情けない卑小な人間ではありませんか。
このような人間をどうして怖がるのか。
上に挙げた、陸統と李修を見習えば良いのです。
肝心なのは、「だれが最初の人間になるか」ということです。
今の自民党の議員は、安倍晋三首相の虚像に怯えて、縮み上がっているとしか思えません。
自民党の議員諸氏におたずねしたい。あなた達には志というものがないのか。時の権力者に怯えてしっぽを振り、ひっくり返って腹を見せてへこへこ言うようなことをしている自分が情けなくならないのか。
どうか、陸統、李修を見習って頂きたい。
日本国民の今の姿については、坂口安吾が書いた「安吾新日本地理」の「飛鳥の幻」の一節を引用します。
坂口安吾は、「王様に対する民衆の自然の感情」について書いている中で次のようにいっています。敗戦後6年目、1951年に発表されたものです。
「かりに革命が起こり、別の王様が国をとる。その初代目は民衆の多くに愛されないかも知れないが、二代目はもう民衆の自然の感情の中でも王様さ。否、うまくやれば国を盗んだ一代目ですら民衆の憎悪を敬愛にかえることができるかも知れん。民衆の自然の感情はたよりないほど、『今的』なものだ。時代に即しているものだ。戦争中東条が民衆の自然な感情の中に生きていた人気と、同じ民衆の今の感情とを考え合わせれば、民衆の今的なたよりなさはハッキリしすぎるほどでしょう。たった六年前と今のこの甚だしい差。別に理論や強制、関係なく現れてきた事実だ。単に時代と共に生きつつある民衆というものの自然の感情は、永遠にかくの如きものさ。」
坂口安吾は「破滅型」とされた作家で、言いたいことを歯に衣着せず言います。
上に挙げた文章は、さすがにどうも乱暴で、民衆蔑視の気味がありますが、あえて取り上げたのは、民衆、日本国民に対して、ある程度的を得た内容だと思うからです。
戦争中は東条元首相にひれ伏していた日本人が、戦後東条元首相がアメリカによって戦犯とされると、手のひらを返したように非難する。
その変わり身を目の前に見た坂口安吾はこうも言いたくなるのでしょう。
目の前の権力者のしていることが良いことか悪いことか自分で判断せずに隷従する。
その権力者がその地位から落ちるとこんどはそのかつて自分がひれ伏していた人間を悪し様にいう。
過去から未来にかけて見通そうとせずに、「今」だけに生きる。
実に、己という物がない。
これが、現在の日本人、日本の民衆の姿ではないでしょうか。
現在の世の中を表現して、誰だか忘れましたが「金だけ、今だけ、自分だけ」と評した人がいます。
たしかに、安倍晋三首相率いる自民党はそのままでいて貰った方が当面、今の所は、具合が良いという人が多いのでしょう。
安倍晋三首相に対する支持率は今のままの方が具合が良いという人たちでしょう。
しかし、こんな「今」で、これからさきどうすればよいのでしょうか。
「今」を良くせずに私達に良き未来があるはずはありません。