雁屋哲の今日もまた

2010-05-08

草食系の若者と吉田松陰

 一昨日NHKのテレビで草食系の若者たちと、少し年輩の人達との討論会が行われた。
 しばらく聞いていたが、うんざりして、途中テレビを消して、終わりの部分を再び少し見た。
 そこに集まった若者たちの言い分は、

  1. 出世したいとは思わない。
  2. 自分のしたいことは仕事ではない。
  3. 趣味などの自分の好きなことをするのに時間を使いたい。
  4. お金は、そんなに欲しいとは思わない。
  5. 普通に暮らせればよい。
  6. 海外にも興味がない。
  7. 自動車にも興味がない。

 大体こんな所だっただろうか。

 女性作家が、多分四十代なのだろうが、若者たちを挑発するような言葉を甲高い言葉で投げつけても、大抵の若者たちは、迷惑そうな顔をするだけである。
 ある飲食業の経営側の人が、韓国人や中国人の新入社員の方がやる気がある。新入社員は25パーセントそのような外国人を取る、といっていた。

 色々話を聞いていて、そこのスタジオに集って話をしている若者たちは、彼らの今の生き方を批判されると、強く怒ると知った。
 自分の今の生き方が一番だと思っていて、それを年上の人に、意見を言われると目上視線でものを言われるようで不愉快だという。
 彼らは、今の自分たちの生活に文句を付けられることを非常に嫌う。

 大勢の人間が一堂に集まって話すと、大体話がまとまらない。
 一つの方向に収斂することが無く、右に行くかと思うと左に行く。
 一つの話題を深めることもなく、すぐに次の話題にふらふらと移ってしまう。
 こう言う形では、深い討論は出来るはずもないので、現在の草食系という若者たちの本当の意識などを摑むこと不可能だと思ったが、一つだけ私が心に引っかかったことがあった。

 それは、今の若者たちは今の社会に強い不満を持っていない、ということだ。
「いまのままでいい」と言う言葉が一番多かったのが、私にとっては、意外だった。
 私は、彼らに、「本当に今のままでいいのか」と尋ねる前に「『今日』の『今』が、明日も続くと思っているのか」と尋ねたい。
 どうして、そんなに、「今」に安心していられるのだろう。
 私から見ると、彼らはあまりに現在の状況に安心しすぎている。現状に満足しすぎている。
 不必要に仕事に精を出さず、毎日を何とか食い扶持を稼ぐだけ働いて、後は趣味をして時間を過ごしたい。
 彼らの意見をまとめると、そうなる、と思った。

 このさき、日本に難しい問題が起こるとは思っていないようなのだ。
 安心しきっている。自足しきっている、と私には見えた。
 自足した人間の顔は美しい物はではない。
 彼らのその自足した生き方を続けられるのは、いつまでだろう。彼らのその生活を支えているのは今の日本の経済力だ。この経済力を作ったのは、草食系若者たちではない。
 肉食系で頑張った、草食系若者たちの父親以上の世代だ。草食系若者たちは自分たちで何かを生み出す新しい産業を作り出さない限り、父親世代の寄生虫でしかない。
 経済力が落ちて、職を得られなくなると、それこそ毎日仕事を探し回り、趣味どころではなくなる。寄生虫の生活は楽だが、自分で経済を構築する力はない。こんどは、中国とか、韓国に寄生するか。
 そうなった時に、今の言い分が通じるだろうか。

 人間、何か働かなければ食っていけないはずだが、これ以上の不況になると、簡単には職を得られなくなる。
 職を得られるのは、何か人に秀でた物を持った者達だけだ。
 日本の景気が良くなって、能力に関係なく全ての人に一様に職を提供できるようになれば問題ないが、そんな国はどこにあるだろう。
 自由資本主義、強奪資本主義の世の中にあって、強力な金融を動かすこと出来る一握りの人間が世界を支配している。
 我々は、いまでこそ、その強奪資本主義者のおじさんたちのおこぼれを頂戴できているが、彼らは何時までも甘くない。
 水道の蛇口を彼らが閉めるのも、遠い日の話ではなさそうだ。

 幕末に、長州(山口県)に吉田松陰という男がいた。
 年齢は、一昨日テレビに出た草食系の若者たちと同じ年頃で、政府の方針に逆らったので死刑になった。
 私は、吉田松陰の「尊皇主義」はとてものことに受け入れられないが、あの当時、押し寄せてくる西洋の勢力に対して、日本を何とか守って、西洋に対抗させる力を付けなければ行けないと焦った気持ちは良く分かる。
 どんな人間でも、その時代の枠から逃れることは出来ない。
 吉田松陰も、封建武士としての意識に貫かれ、その意識を抱いて外国に対抗する攘夷論(外国を撃つ)を主張する点で、今から見れば時代遅れだが、当時としては最先端思想だった。日本人が外国の攻勢にあったのは初めてのことだったのに、どうすれば良いか二十歳そこそこの松蔭は智恵を振り絞ったのだ。
 松蔭は、国をどうするかという意識を強く持っていたが、一般の人々の民政までは頭になかった。外国と日本との関係のことで切羽詰まっていたのだ。そこまで、余裕がなかったというか、封建武士の限界と言うべきか。
 このままでは、日本は西洋の支配下に置かれてしまう。何とか立ち上がらなければならない。しかし、他者はついてこない。
 変革のために主君を責めなければならないが、封建武士として主君に対する忠義を貫こうとすれば、それもかなわない。
 それでは、新しい社会など作り上げようがない。
 のんびりしている社会に向かって、西洋が攻めて来て国に災いをなす、などと言えば、狂人扱いされる。

(ここから、鹿野政直氏の「日本近代思想の形成」を援用する)
 そこで、吉田松陰は、自らを「狂愚」とよんだ。

「狂は常に進取に鋭く、愚は常に避趨(ひすう)(逃げ出す動き)に疎し」

 要するに、「狂」は積極的に何事かを進み取ることに鋭い。「愚」は逃げたりすることに疎い。

 すなわち、

「狂」は積極的に行動する人。
「愚」は退くことを知らぬ馬鹿正直な人間。
「狂・愚」あわせて、積極的に行動する、至誠の人、馬鹿正直な人、とうい積極的な意味をもっている。

 この自分を「狂愚」と捉える考え方は、社会に対する絶望の表現である。
 社会をどんなに批判しても社会は、馬耳東風で動こうとしない。
 逆に、頭がおかしいと扱われる。
 こうなると、社会を批判する自分自身は、社会における例外者として捉えざるを得なくなってくる。
 社会を批判する自分を、例外者として規定することは、深い敗北感を形成する。
 結果として、吉田松陰は政府によって死刑にされるが、そのひたむきな行動に対していまだに信奉者が少なくない。

 私自身、吉田松陰の考えを丸で受け入れられないが、その、一途な思いで突進していくひたむきな生き方には心を揺さぶられる。
 この吉田松蔭が、いまの草食系若者たちを見たら、どんな顔をするだろう。
 時代の変化は恐ろしいものだ。
 たぶん、草食系の若者たちに、松蔭の言葉など、何一つ響かないだろう。

 ああ、やんぬるかな、だ。

雁屋 哲

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