お客様がお帰りになってから
「子育て記」を仕上げてすぐに、日本からいらっしゃったお客様と楽しく遊んで、気がついてみると、色々しなければならないことがたまっているのに気がついた。
インターネットの接続を換えたときに新しいモデムをISPが持込んできた。
やたらとでかい。据え付けに来た人間はいい加減で中身について説明しないまま、「ああつながった」と言って帰って行った。また私の助手のオーストラリア人もインターネットに詳しくないので、そのまま使っていたが、調べてみると、モデムがでかいはずで、無線用のアンテナを内蔵していた。
しかも、モデムとルーターが一体になっていて、ルーターをつける必要がないのだ。
ポートもちゃんと四つある。そのうちの一つを、スイッチング・ハブにつなげば、家の家族全部がインターネットを使うようにすることが出来る。
全く、ルーターなんて必要がなかったんだ。
で、ルーターを外し、おまけにファイアー・ウォール内蔵なので、ノートンなどのファイアー・ウォールソフトを無効にしたりして、その上、私の書斎内部では、ノートブック・パソコンは二台とも無線接続するように変える作業をした。
しかし、驚きましたね。
マックの場合、無線接続なんか、暗号を入れればそれで一発で終わるのに、ウィンドウズの場合、面倒くさい。
無線接続という同じ作業なのに、マックは一発、ウィンドウズは数段作業が必要。これは、大きい。
更に、数週間前「God is not Great 」という本を買った。
著者は、アメリカのジャーナリスト、Christopher Hitchens。
内容は、要するに「宗教は如何に全てのものを毒しているか」ということで、主にユダヤ教、キリスト教、イスラム教を批判している。
私は去年、イスラエルに行って以来、パレスティナ問題を考えるに当たって聖書を熟読して、ユダヤ教に端を発する、キリスト教、イスラム教の何たるかをしっかり理解したつもりだ。
そして、余りのことに呆れかえった。
私には、どうしてこう言うことを信じることが出来る人間がいるのか、到底理解できない。
この三つの宗教の肝は、「神は全ての創造主である」と言うことだが、それを支えるのが、旧約聖書、ユダヤ教の聖書、の「創世記」だ。
もし、あれを信じられなければ、宗教の土台がなくなるので、あの三つの宗教は無意味になる。
で、「創世記」をどうすれば信ずることが出来るのか。
色々な人がいて、あれは、たとえ話みたいな物で、あれを一字一句あげつらうのは不信心者のすることだ、という。
それはないでしょう。
科学がここまで進むまで、「創世記」は一字一句本当に起こったことだと長い間信じられてきたのだから。
今でも、ノアの箱船が、洪水の後着地したと言われている場所に多くの人々が出かけていって、箱船の残骸を探そうとしている。
ヒッチンスの本は、非常に具体的で素朴な疑問から説き起こすので分かりやすい。
つまらない宗教論や形而上学的なことにページを費やさず、日常の生活で、如何に宗教が人々を害しているか、これでもかと言うくらいに書いているのでとても面白い。
ただ、進化論については、私には満足できないところがある。
生命とは何なのか、どうして生物は進化していくのか、その辺の所がはっきりしない。
だが、余り面白いので、もう一冊買って、22年来の友人「D」に贈った。
「D」は、アイルランド系のオーストラリア人で、アイルランド系だからカソリックだ。奥さんの「J」は、オランダ系で、「J」はただのカソリックではなく、敬虔なカソリックだ。
贈ってから、何の音沙汰もないので、これは怒らせてしまったかと思った。
私達と違って、生まれついてのカソリックに、こんな反宗教的な本を贈ったのは間違いだったか。22年の友情を傷つけたか、と心配した。
すると、日本からのお客様一行とブルーマウンテンから帰った翌日、「D」から恐ろしく真剣な声で電話が掛かってきて、「三分前に読み終わった。よく調べてあって、とても勉強になって良かった。この本を読まずにいたら、とても後悔しただろう」と言って、私に感謝した。
私は「私は『D』を怒らせてしまったかと心配していたんだよ。」と言ったら、「D」は「飛んでもない。『J』も読みたいと言うから、これから読ませる」という。
私は「『J』は敬虔なカソリックだから、それはやめた方がいいんじゃないか」と止めたが、「D」は「いや、『J』が読みたいと言っているから読ませる」という。
私は、まだその本を読み終わっていなかったので、慌てて全部読み直すことになった。今度、「D」夫妻と会ったときに、かならず、細かいところまで話し合うに決まっているからだ。
こちらが、全部読んでいないと話にならない。
しかし、私の英語力はひどいもので、もともと聞き取り能力はお粗末な上に、歳のせいで昔は知っていたはずの単語もぼろぼろ忘れている。
だから、辞書(と言ってもコンピューターの辞書だが)と首っ引きで読まなければならない。
それに、TIMEなんかと違って宗教の話だから、どうしても他の学者の文章など引用する。一部分引用するから前後関係が良く分からず、とても難しい。
TIMEも易しくないが、殆どが時事的な内容なので、理解しやすい。
単語だけ分かっても、英語の文章を理解するのは、大変に難しいことを改めて痛感した。
しかし、本の内容が内容だけに、特殊な単語が多く、こんな単語を覚えてもこれから先使うところがないな、と思いながら辞書を引いた。
英語の話が出たついでに、書いておこう。
「美味しんぼ」の「アラカルト版」がアメリカで翻訳出版されることになって、その中に含まれる「美味しんぼの日々」も翻訳されて見本が送られて来た。
自分の文章が英語になったのを見て、愕然となった。
全く面白くないのだ。
それで、気がついたのだが、私の随筆なんて物は、日本語の言い回し、日本語の雰囲気で持たせている部分が多いと言うことだ。
内容は希薄なのに、語り口だけで持たせているというわけだ。
英語に翻訳してみるとそのあたりの事が分かって、大変にガッカリした。
「God is not Great 」は是非大勢の人間に読んで貰いたいと思う本だ。
日本語訳はまだ出ていないのだろうか。
誰か、早くに翻訳を出し欲しい。
この本に時間を費やして、「日記」がおろそかになってしまった。
「嫌韓」「嫌中」問題にもけりをつけなければならない。
てなところで、昨日、ニュー・サウス・ウェールズ美術館に、中国からやって来た仏像の展覧を、連れ合いと次女とで見に行った。
6世紀頃に出来た仏像だが、色々な事情があって(その事情には様々な説があってどれが正しいのか分からない)12世紀に僧たちが、布に包んで地中に埋めた物だそうで、石灰岩で出来ている彫像だが、金箔も赤や緑の色もかなり残っていて、素晴らしい物だ。
1996年に、山東省の青州で中学の運動場を整備しているときに運動場を掘ったら出て来たのだそうで、その辺りに、昔、龍興寺という寺があったそうで、それに関係があるのでないかと言われている。
実に精緻な彫像で、当時の中国の文化程度の高さが偲ばれる。
日本では、まだ、埴輪かなんか作って喜んでいた時代だからなあ。
その中で、私と連れ合いが特に魅せられた仏像を、展覧会のカタログからスキャンしてお見せする。本当は、著作権の問題からこんな事をしてはいけないのだが、展覧会の宣伝のためだと大目に見て貰おう。
「貼金彩繪石雕菩薩立像」と言う。金箔を貼り、彩色を施した、石彫の菩薩立像、と言う意味だろう。
紀元500年から550年代に作られたと推定されている。(写真はクリックすると大きくなります)
どうですか、実に品の良い美しいお顔でしょう。
これだけ美しいお顔の仏像は、京都の弥勒菩薩以外では私は初めてだ。
色彩も1500年前の物とは思えないほど鮮やかに残っている。
着ている衣も素晴らしい。
僧たちが布に包んで埋めたときにすでに仏像はかなり壊れていたようだ。
何か、争いがあって、残った仏像を保存するために埋めたものらしい。
私は宗教は全く信じられないのだが、人が何かに祈る気持ちは理解できるのだ。
この菩薩像には、人が求めている物は何か、美しく表れていると思う。
ところで、日本から見えたお客様だが、有名な方なので敢えてお名前を出さなかったのだが、子供たちのご注進に寄れば、向こうが自分のブログにどんどん書いているというので、私も、その方のお名前を出すことにする。
最兇の漫画家として名高い、西原理恵子さんである。
私の家族は、西原理恵子さんと亡くなられたご主人鴨志田穣さんの大ファンで、書棚に一列西原夫妻の本が並んでいる。
我が家は西原一家の会話に毒されていて、家族でいつも西原用語で会話をしているくらい西原ワールドの家庭である。
であるから、お子さんたちもアシスタントの愛ちゃんも、勿論西原さんとも初対面とは思えず、親戚の人が来たような感じで楽しい日々を過ごさせていただいた。
最兇の漫画家なので、以前のスピリッツの編集長からは「絶対に西原さんに近づいてはいけない」とおどかされていたので、怯えていたが、ご本人は実に物静かな、気持ちの良い人だった。それに美人です。
娘たちは、「西原さんはどうしてあんなに肌が綺麗なのか、その秘密を知りたい」と騒いでいた。
しかし、目が一時も休むことがない。
常に、あれこれ鋭く観察している。その観察力があるからああ言う漫画を描けるのだろう。
私のことも、突き刺すような視線で見ていたので、後でまた、恐ろしいことを描かれるだろう。
お子さんたちが素晴らしかった。
もの凄く素直で、気持ちが良くて、礼儀正しくて、今時こんな子供が日本にいたのかと嬉しくなった。
私の次女は、実は子供が大嫌いで、家に誰か子供連れて来るとすっと姿を隠してしまうのだが、西原さんのお子さんたちは「私、めろめろよ」と言うくらい仲良くなってしまい、私達が大人だけでレストランに食事に行った夜は、二人のお子さんを長女と次女が預かってくれた。
その晩、二人とも長女の部屋に泊まった。
長女も、「二人ともとても可愛かった」と喜んでいた。
子供を見れば、その親がどんな人間が分かる。
二人のお子さんを見て、私は西原さんという漫画家が良く分かった。
恐ろしい漫画を描く一方で「ぼくんち」のような、すみきった美しい漫画を描く。恐ろしい漫画は、仮面で、西原さんの真の姿は「ぼくんち」などの純粋で深い愛情に溢れた世界にあると言う事が分かった。
子供たちは、西原さんがお帰りになった後、「しまった、サインして貰うの忘れた」「あ、握手して貰うのも忘れた」と残念がっていた。
でも、いいじゃないの、西原さん一家と三度も一緒に食事を出来たんだから。
西原さん、また、お子さんたちを連れて遊びに来てね。