「に」夫妻が帰国された
11月25日からシドニーに遊びに来て下さっていた、私が電通で働いていたときの先輩「に」さんご夫妻が、今朝の飛行機で日本へ帰られた。
「に」さんとは1969年以来のおつきあいで、一方的に私が「に」さん御夫妻にご迷惑をかけ続けてきた。
今回、また私の昔の悪行が暴かれた。
私が電通をやめて、漫画の原作を書き始めた頃のことだが、「に」夫妻がそろそろ寝ようかという夜11時頃に、突然私が電話かけて来て「これから、行くから」と言って電話を切ってしまう。「に」夫妻にだって都合というものがある。
来られたら困るときだってある。そんなことには私は全く無頓着に「これから行くから」と一方的に言って、しばらくするとどたどたと乗込んでくる。
「に」夫妻は、全然お酒を飲まないのだが、海外出張の折など、高級な洋酒を誰かに贈り物にするために買って置いたりする。私のために買ったわけでいない。
それを、勝手に私は開けて飲んで、明け方の2時3時まで、大騒ぎする。
「に」夫妻は仕事を持っている。
翌朝、「に」さんは電通に、「に」夫人は教師を務めている高校、二人とも寝不足の頭を抱えてに出勤する。
その二人を尻目に私はぐうぐうと高いびきをかいて、昼過ぎまでゆっくり寝ている。
「に」夫人は、「こちらがいいとも悪いとも言わないうちに、勝手にこれから行くから、と言って来ちゃうでしょう。本当に参ったわよ。」と言う。
昔の色々なことを、思い出しては、四人で涙を流しながら腹を抱えて笑った。
本当に昔からの長いつきあいという物は良い物で、「に」夫妻の存在は、私にとって人生の宝物である。
「に」夫妻に、どれだけ助けていただいたことか。
「に」夫妻に帰られてしまって、ひどく淋しくてたまらない。
気が抜けた思いである。
今度日本へ帰ったときには、「に」夫妻の家を襲って、また、どんちゃん騒ぎをして困らせてやろう。
私は自分では友人の数が少ないと思いこんでいたが、連れ合いに指摘された「そんなこと無いわよ、いいお友達が沢山いるじゃないの」
考えてみると、交友関係が広いわけではないが、一人一人、心の深くまでつき合っている友人が、何人もいる。
みんな家族ぐるみでつき合っている。
そしてみんな、私に優しい。
連れ合いが言うには、「みんなてっちゃんの我が儘を、とがめたりしない、心優しい人達ばかりよ。感謝しなければ駄目よ」
たしかに、みんな、私の我が儘はもう、諦めているようである。
上手に適当にあしらってくれる。
古い友人ほどありがたい物はない。
人生の色々な場面を共有しているのだから、互いに顔を見合わせて、にやりとするだけで、気持ちが通じてしまう。
四年前に、私は親友の一人を失い、あまりの衝撃に、ひどい鬱病に陥ってしまった。
私の尊敬する料理人、西健一郎さんと西さんのお父上、西音松さんの料理を春夏秋冬に渡って記録する漫画を描かせていただいたが、その際に、天才料理人の岡星が鬱病に罹って苦しんでいると言う設定にした。
岡星が、西さんの料理を体験するにつれて、鬱病から立ち直っていく、と言う筋立てにしたのだが、それは、そのままなんとか、鬱病から立ち直りたいという私自身の、苦しい心の格闘を描く物でもあった。
実際に、鬱病の治療は難しいもので、素人が手を出すべき事柄ではないことは良く知っていたが、私は何かすがる物が有れば、鬱病から回復する助けになるのではないかと思ったのだ。
漫画の中の岡星がすがったのは西さんの料理であり、私がすがったのは、そのような漫画の原作を書き続けることだった。
鬱病をあのように取り扱うことで、いろいろと批判を受けたが、こちらも死ぬ思いで書いたので、そう言う批判は聞流すしかなかった。
死ぬか生きるか、そんなことばかり考えながら、七転八倒しながら書いていたのであって、なにか精神病の教科書から引き写してきたような意見は、笑止千万、人の実際の苦しみも知らずに、何を言うのか、とその批判の浅さに腹が立った。
今も、鬱病は完治していない。何かの拍子に、どーんと谷底に落ち込む。
しかし、自殺だけはしない、と言う自信はついた。
先日も、私の小学校の同級生が、朝の散歩に出たときに心筋梗塞で急死した。
私の学級一の模範生、優等生であり、みんなに慕われていた。
彼が死んだことで、私達の同級生が持っている掲示板には、彼を悼む文章が連なった。
友人を失うことは、本当に悲しく、辛い物である。
この辛さ、悲しさから逃れる道は一つだけある。
私が誰よりも先に死ぬことである。
そうすれば、友人を失う悲しみを味わうことはない。
私の人生は、病気を除けば、大変幸せな物だった。
これだけ幸せを味わえば、いつ死んでも構わない。
大事な人に死なれる悲しみを味わう前に、早く死んでしまいたいと思っている。
といいながら、未練がましく、執念深く、生き続けようとするんだろうな、私という人間は・・・・・・。