ミラノのレストラン
連れ合いと私の会話
「霊魂だの、生まれ変わりだの信じている人は、単純な算数が出来ないんだな」
「どうして」
「だって、人が生まれて、死んで、そして生まれ変わるんじゃ、人は生の世界と死の世界を循環している訳だろう。それじゃ、人間の数は常に不変で増えることはない。ところが、地球上の人口は増える一方だ。計算が合わないじゃないか」
「あら、昆虫や、動物から人間に生まれ変わることだってあるのよ」
「え!昆虫や動物から人間に生まれ変わる!」
「魚や鳥からだって人間に生まれ変わるのよ」
「うは、それは考えなかったな」
「霊魂とか、生まれ変わりとか言う人達は、どうとでも言うわよ」
「それじゃ、最近、生息数が減って絶滅が危惧されている動物のことなんか心配する必要はないんだ」
「え?」
「彼らは絶滅しているんじゃなくて、みんな人間に生まれ変わっているんだ」
「は、はあ・・・・。それじゃ、今度は人口が減っても心配ない。その分、他の動物に生まれ変わっていると言う事ね」
「ヒンズー教じゃ、低い階級のカーストに生まれた人間は前世の行いが悪かったせいだと言うね。すると、おれが、こんなに脚のことで苦労するのは、俺は前世でよっぽど悪いことをしたと言うことなのかな」
「ヒンズー教的に考えるとね」
「誰かの脚を、ちょん切ったりしたのかしら」
「そうかも知れないわね」
どうも、私達夫婦は宗教心と言う物を全く持っていない罰当たりなので、そんな馬鹿な会話をしている。
私は、自分は宗教を信じないが、他人がどんな宗教を信じようと全く気にしない。ただし、その宗教を信じない人間に対して危害を加えたり、その宗教を信じるようにしつこく勧誘したり、信じることを強制したり、他人迷惑な言動をしない限りに於いてである。
色々な宗教があるが、神の前で全ての人間が平等ではない宗教はイヤだな。
生きている教祖様を祟める宗教もイヤだな。
また、生け贄を強要する宗教もイヤだ。
昔のメキシコの宗教は、毎日神に新鮮な人間の心臓を捧げなければならなかった。その心臓を取るための人間を確保する必要があるから、周りの部族に戦争を仕掛け、捕虜を捕まえて、神に捧げる心臓を補給したという。
冗談じゃないよ。麻酔もかけずに心臓手術をするんだろう。しかも、それは心臓を治療するためでなく、もぎ取るためだから、される方はたまらない。
その様な宗教は、他人迷惑だな。
オウム真理教なども、ひどいものだったが、オウム真理教どころじゃない無惨な仕業を繰り広げている巨大な宗教集団が世界には少なくとも、数個存在する。
そのどれもが政治勢力と密接につながっているから、まともに批判すると、批判する方は有無を言わさず簡単に殺されてしまう。
私は、深夜ひそかに鼻などほじりながら考えることがあるのだが、人間の歴史を振り返ってみて、宗教によって救われた人間の数と、宗教によって迫害されたり虐待されたり殺されたりした人間の数のどちらが多いのだろう。
ここで、私の考えついた答えを公表すると、数日後に私の生首が私の家の前に転がっている、なんてことになりかねないので、深くは言うまい。
宗教を信じている人にとってその宗教は自分の命なのだから、批判、すなわち自分の存在の否定と捉える。自分の全ての価値を否定する者は許しておけないと考えるのは当然の成行である。
イタリアのミラノで、あの有名な大聖堂、ドゥオモを見学したときには驚いたね。
正面に、巨大な青銅の扉が有るんだが、その扉にそれまでキリスト教徒が受けて来た殉教の歴史がレリーフとして、何百も描かれている。そのどれもが、凄惨きわまりない。キリスト教徒が異教徒に弾圧されて殺される場面が、無数に描かれている。
何だか人間の殺し方の百科辞典みたいだ。
感心したのは、流石に西洋だね。馬車などが普及していたのだろう。馬車の車輪を使って処刑する場面が幾つもあった。大男の処刑人が、車輪で受刑者の身体を砕くのである。
ミラノの大聖堂の前に立って、その大扉の残酷なレリーフの数々を見ると、何か知らないが、宗教という物の業の深さをしみじみと感じて、寒気がしてくる。
西洋の美術館に行くと、絵画の半分以上がキリスト教関連の宗教絵画で、聖人たちを描いた絵をうんざりするほど見せられる。
キリスト教徒ではない私にとって退屈きわまりない。
しかし、ある時、その聖画が実に残酷趣味に彩られていることに気がついて、西洋で美術館に行くたびに、あら探しのように残酷な絵を見つけて感に堪えるという趣味を身につけてしまった。
だいたい、聖人の受難の場面を描いた絵が多いのだが、三島由紀夫がえらく気にいったという、聖セバスチャンの殉教場面の絵は大抵の西洋の美術館なら二三枚はあるのではないか。
それだけ、聖セバスチャンの殉教はキリスト教徒にとっては意義のある物なのだろう。しかし、絵の中には、妙に写実的で残酷すぎて、こんな物を子供に見せて良いのだろうか、などと心配になる物もある。だって、至近距離から兵士たちが、縛られたセバスチャンの身体にばしばし矢を打ち込む場面なんて、見て気持ちの良い物ではない。血だってだらだら流れるし、セバスチャンは苦悶に顔を歪めているし。(もっとも、三島由紀夫はその裸の男が痛めつけられ血を流しているのを見て昂奮したと言うから、人の嗜好と言うものは分からない)キリスト教徒は、ああ言う物を見て、さらに信仰を深めるのだろう。
凄いのもあったな。「死の乙女」という処刑具の有るのを知っていますか。人間の身体をすっぽり包む形に出来た鎧のような物なのだが、内部に無数の鋭く長く太い針が生えている。その中に人を押し込んで閉じると、無数の針が人の身体を突き刺して、ひどい苦しみを与えながら死に導くという物だ。
私がミラノの美術館で見た絵の一つには、女性の殉教者が描かれていて、今にもその「死の乙女」の中に入れられようとしている。「死の乙女」の恐ろしい樣子が克明に描かれている。
そこに、天からラッパを吹きながら天使の軍団がその女性を救いに来る、と言う場面なのだ。
実際には、その女性は殺されてしまったのだろうが、その女性を悼む信者が、殺される寸前に天使の軍団が駆けつけたと言う絵を描かせたのだろう。いや、それは私の想像だ。本当に助かったのかも知れない。
もっと、むごいのもある。
昔の刑罰に、生きながら体中の皮を剥ぐ、と言うのがある。
私の見た絵では、男の殉教者を、数人の人間が取り囲んで、その皮を剥いでいるところが描かれていた。皮を剥ぐ方も剥がれる方も不思議に平穏な表情をしていて、それが余計に気持ちが悪かった。
あ、どうも、おかしな方に話が行くな。
キリスト教の悪口なんか言うつもりは毛頭無いんですからね。
何てったって、私自身十九歳までは、真剣にキリスト教を信じていたんだから。今になって思うと熱心だったな。夜寝る前にお祈りをするんだが、その時に、自分の知っている限りの人を思い浮かべて、その人が幸福でありますように、と祈るのだ。あの人のことを祈っておいて、この人のことを祈らない、という不公平なことは出来ない。私の知っている大勢の人間全員一人一人について祈るのだから、最低で毎晩四十分ほどはかかった。
それほど熱心なキリスト教信者だった私が、一夜にして、棄教者となった。遠藤周作は「沈黙」という小説を書いた。神に助けを求めても神は何も答えない。それが返って信仰を深める、と言う物らしい。旧約聖書のヨブ記のヨブと同じだ。
私は、げすな人間だから神の沈黙に絶えられなくなって棄教したのだ。それ以来、如何なる宗教にも、毛一筋ほどの興味も抱かない。
般若心経は仲々気にいっているが、あれは、宗教ではなく哲学だろう。現に、イスラム教の人間によると、仏教は人間が頭で考え出したから価値がないという。コーランのように唯一神アラーの言葉に導かれない物は価値がない物だそうだ。
いかん、いかん、今日は話がどんどんおかしな方に行くね。
こんな日は、早じまいにするのがいいだろう。
ミラノの大聖堂について余りよく言っていないので、お詫びにミラノで私の行った素晴らしいレストランと、その料理を幾つかご紹介しよう。
まず、このレストラン。詳しい場所はミラノのホテルに泊まってそのコンシェルジュにお尋ね下さい。大抵のホテルのコンシェルジュなら知っているはずだ。日本のガイドブックには載っていないが、実に素晴らしい。もてなしも味も最高で、実に満足した。
そこで食べたのが、まず、イタリアの生ハム、パンチェッタ。
舌の上でとろけましたね。香りも最高。やはり、美味しい生ハムを食べたかったらイタリアに行かなければ駄目だ。
そして、手長エビのパスタ。私は余りエビカニの類をパスタに合わせるのは好きではないのだが、この手長エビは旨かった。面倒くさいけれど、その面倒くささを補って余りある美味しさだった。パスタもしっかりアルデンテだったし。
そして、骨付きの仔牛のコトレッタ(カツレツ)。これが、柔らかくてジューシーでね。イタリアまで来て、カツレツもなかろうと思ったんだが、そこの給仕長のお爺さんが、顔をくしゃくしゃにした笑顔で是非にと勧めるので食べたら、本当に美味しかった。
あの給仕長の顔写真を写し損なったのが残念だ。
てなことで、少しは口直しをしていただけたでしょうか。
では、また。
あ、昨日の私の宿題、忘れないでね。
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