雁屋哲の今日もまた

2018-01-20

田園調布

1月20日、NHKテレビの、「ブラタモリ」を見ました。

田園調布をタモリが歩くという番組でした。

妻に、「ブラタモリで田園調布をやっているわよ」と教えられて、テレビのスイッチを入れました。

田園調布は、番組の中でも言っていましたが、西口と東口とは趣が違います。

私は、1948年に九州の赤池という炭砿町からいきなり田園調布に引っ越してきたので、中学生頃まで、田園調布がほかの町とは大分趣が違うと言うことを理解していませんでした。

私は最初に東口に1年半ほど住み、それから1968年の12月までは西口に住みました。

実は去年、弟と姉と妻とで西口探訪をしました。

余りの変わりぶりに、心底驚きました。

一言で言えば「これは田園調布ではない」。

1968年以前は、田園調布の家は最低で敷地が150坪、その家も道に面した部分は庭に作る決まりがありました。塀は石垣、板塀は許されず、生垣であることと決められていました。

道を歩いていて、庭越しにその家がよく見えるのです。

私の家はその決まりに反して板塀を巡らしていたので心苦しい思いをしました。

去年自分で見て回った田園調布は、私の田園調布ではありませんでした。

かつて私が良く知っていた家の土地に、三軒もの家が建っている。

庭なんて道から見えません。

信じられないくらいに土地が細分化されていてそこに妙に金をかけたような趣味の悪い家がびっちりと建ち並んでいました。その、家と家の間に庭がない。これは田園調布ではない、と私は思いました。

「誰々さんの家、何々ちゃんの家」と私の知っている人の家を探したのですが、あまりに土地が細分化されてしまっていて、どこが誰の家だったか分からない。

「ブラタモリ」で変わり果てた田園調布を、その由来から土地の人間が話すのを聞いて非常に違和感を覚えました。

田園調布について番組の中で語る人は、そば屋の「兵隊屋」の女性の他は皆さんお若い。

一番年配の方でも50歳代後半ではないか。

私が田園調布に住んでいた頃には生まれてもいなかった人達が田園調布について語る。冗談じゃないよ。と私は思いました。その人たちには田園調布で暮らしていた生活感がない。

さらに、「ブラタモリ」では、西口の一番大事な「宝来公園」を取り上げませんでした。

私の田園調布での一番楽しい思い出を作ってくれた宝来公園。

西口から放射線状に伸びる道の中で、その真ん中の突き当たりに宝来公園はあります。

私の家はその公園のすぐ下にありました。

学校に行くのも電車の駅に行くのにも、毎日その宝来公園の中を通り抜けたのです。公園は斜面に作られているので、一段、二段、三段と段差を作ってそれぞれに平面を設けてありましたが、それは公園の中心部分であってその両側は自然の斜面のままで様々な樹木も茂っていました。

誰かが、宝来公園を見て「武蔵野の面影が残っていますね」と言いました。はたして、田園調布が武蔵野の範囲に入るのかどうか分かりませんでしたが、その言葉で、田園調布、少なくとも宝来公園は昔の自然の趣を残しているのだと納得した覚えがあります。

斜面をそのまま使った宝来公園の一番下には池があります。

その公園の斜面の自然の林や、自然の環境を保った池でどれだけ私達は楽しい日々を過ごしたか。

田園調布の西口を語るのに宝来公園を抜かしたのは「ブラタモリ」の大きなな間違いだと、私は言いたいのです。

とは言え、私達田園調布小学校を卒業した人間の中で、いまだに田園調布の西口に住んでいるのは三人くらいしかいません。

私だって1968年に鎌倉に引っ越した。

そういう人間が何か言うのはおかしいけれど、「ブラタモリ」の田園調布は、本当の田園調布ではないと声を高めたいのです。

単に昔を懐かしがる老人の繰り言ではありますが。

 

 

雁屋 哲

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