李明博大統領
韓国の李明博大統領は8月14日に韓国の地方の教育機関を訪れた際、出席者から「竹島上陸」の感想を聞かれ、それに対する答えの中で、
「(天皇が)韓国を訪問したいなら独立運動をして亡くなられた方々の元を訪ね、心から謝罪すればいい。『痛惜の念』だとか何だとか、そんな単語一つを見つけてくるのなら来る必要はない」
と言ったと伝えられている。(AERA 12.8.27日号より)
これが、個人の発言なら仕方がないが、公人として、しかも韓国の最高の地位にある大統領がこう言うことを公の場で言うとはおよそ信じられない言葉である。
私は、李明博大統領は大きな過ちを犯したと思う。
その過ちを、以下に示す。
1)李明博大統領は日本の憲法の定める天皇のあり方を理解していない。
明治時代に定められた日本の憲法では、軍事から教育まで、全ての大権を天皇が持っていた。
軍隊は全て天皇の軍隊であり、兵士に対する上官の命令は天皇の命令とされ、全ての兵士が天皇のために命を捧げることを求められた。
天皇に対して身も心も捧げることを誓う「教育勅語」を小学生の頃から叩き込まれた。
日本人の生活、思想、学問、芸術、その全てが「天皇のために」という言葉一つに染め上げられていた。
1945年の敗戦まで、日本人の精神も行動も全て天皇の存在からはみ出ることは許されなかった。
実際の所、国の政策が天皇自身の意志の通りと言うことはなかった。
「天皇制」という、それまでの日本の歴史にはなかった制度を作り上げた張本人の一人、伊藤博文は、当時日本にドイツ医学を教えることを要請されて滞在していたベルツに対して「皇太子に生まれるのは、全く不運なことだ。生まれるが早いか、至るところで礼式の鎖にしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない」と言って、操り人形の真似をして見せたと言う。
天皇ほど、政治家・資本家・官僚など実質的な支配者たちに取って便利な存在はなかっただろう。
天皇を至高の存在として崇め奉まつって、自分たちがまず崇めてみせる。
それを、国民に見せつけて、「ほら、我々がこれほど崇め奉まつっているのだから天皇は実に有り難い存在なのである。天皇を崇めている我々の言うとおりにしろ」と言う。
そして、国民に天皇崇拝の気持ちを植え付けておいてから、自分たちのしたいことを「天皇の意志による物である」として、国民に従うように命じる。
国民は、それまでに天皇を崇拝するように洗脳されているから、「これが天皇の御心」だと言われれば、その通りに受取って、どんな無茶な命令でも「天皇陛下のためなら」と言うことで従う。
私は「マンガ日本人と天皇」(講談社α文庫)の中で、昭和天皇の戦争責任を追及した。
私は、昭和天皇は、公人としての天皇としてだけでなく、個人としてもいわゆる15年戦争(1931年の満州事変から1937年の日中戦争、1941年の太平洋戦争までの足掛け15年間の戦争を言う。—「小学館スーパー・ニッポニカによる」)に対する戦争責任はあると言った。
しかし、その中に、「この、天皇の戦争責任を昭和天皇裕仁個人に帰してしまっては、物事の本質がつかめなくなる。天皇が裕仁ではなく別の人間だったら良かったのか、と言うことになってしまうからである。事の本質は『近代天皇制』という構造にあるのだ」と書いた。
昭和天皇個人の戦争責任については、上記の私の書いた本を読んで頂くことにして(本の宣伝です)、問題は明治憲法に定められていた天皇のあり方である。
昭和天皇でなくとも、どんな人間でも、あのような環境であのような思想の元に徹底的に教育されたら、昭和天皇のように振る舞うのも仕方がないと言える。
その点、現在の天皇は違う。
「現在の憲法を守る」と言明して、憲法を昔の明治憲法の形に戻したいという復古的な人々を落胆させた。
現在の憲法は、天皇が国事に関わることを大幅に制限している。
字面だけを読むと、
「内閣総理大臣の任命、最高裁判所長官の任命、国会を召集すること、憲法改正,法律、政令および条約を公布すること、など」、
これは大変な権限を持っているように思えるが、実は、その全てが「内閣の助言と承認」があって初めて出来る事である。
早い話が、天皇は実質的に自分の意志を全く国の政策に通すことが出来ないのだ。
ましてや、日本と外国の関係を定める外交問題に対して何もすることは許されていない。
[皇室外交]などと言って、外国を訪問して外国との親交を深める友好大使のようなことは出来るが、日本の国のあり方を決め、日本の国の利害を定める取り決めをすることなど、本当の意味の外交を現在の天皇はすることが出来ない。
天皇が外国で発する言葉も全て政府(すなわち、官僚)の決めた文章を読み上げることしか許されない。
そこの所を、李明博大統領は知らないのだろうか。もし、知らずにあんなことを言ったとしたら、氏の大統領としての資質を私は疑う。
相手の国の事情も知らずに相手の国に、批判と言うより侮蔑的な言葉を投げかけるとは、基本的な外交知識がないとしか言いようがない。
知っていながら言ったとしたら、私は口をつぐむ。
私は、数回前のこのページに、雨宮剛先生の編著になる「謎の農耕勤務隊」のあとがきに雨宮先生のお書きになった言葉を掲載させて頂いた。
もう一度、ここに掲載させて頂く。
「本書が過去の日本が朝鮮半島で犯した罪に対する一日本人の赦罪と償いの表明として受けとめられ、たとえささやかであっても両者の和解への一歩に役立てばと祈りつつ編んだ次第である。繰り返しとなるが、日本にも日本人にも罪深い過去を正視し、心から詫びることの出来る人間として本当の勇気を持った国際社会から心から信頼され、尊敬され、愛されるようになって欲しいと私はひたすら祈っている。
そして、『国際社会において名誉ある地位を占め』ようではないか。
その実現には、最も近い諸国との間に一日も早い和解の成立が必須条件である。和解に至るには、私たちの側に過去に対する正しい歴史認識、罪責感と心から詫びようとする謝罪の意識が不可欠である。さらにいえば、形の如何を問わず補償がなくてはならない。その時私達は初めて赦され、和解と平和が現実となり、東北アジアが最も安定した平和を作り出す地域となり、国際平和に最も大きな貢献をなし得る地域となりうるであろう」
私は、雨宮先生が仰言っている、この「心から詫びる」というのは、日本が国として日本が被害を及ぼした国々に心から詫びることだと思う。
現実に、日本政府が1995年に「アジア女性基金」を作り、フィリピン、韓国、台湾の元慰安婦の女性に、賠償金と首相の「お詫びの手紙」が渡された。
しかし、慰安婦を支援する団体は、「それは日本政府による謝罪と補償ではない」と批判し、一部の女性は受取ったが、残りは受け取りを拒否している。
その支援団体の言うことは正論であり、日本政府のしたことは逃げでありごまかしであり、日本は卑怯な国であるという恥を世界中にさらした。
謝罪は、国と国の間で、正式に外交的な道筋を通って行わなければ意味がない。
ここで、李明博大統領の言葉に話を戻す。
李明博大統領は天皇に謝罪しろ、と言った。
天皇が、日本が過去に朝鮮・韓国に対して行ったことに対して謝罪すると言うことは、天皇が「国と国の間で正式に外交的な筋道を通って行われるべきである謝罪を、天皇個人に行え」と言うことである。
それは、現憲法で天皇には不可能なことである。
こんなことを要求するのは、「慰安婦」問題で、「日本国が責任を取っていないから」といって、日本政府の「アジア女性基金」を拒否した団体の言うことにも反しているではないか。
必要なのは、「国としての謝罪と補償」のはずだ。
どうして、昔の憲法と違う立場にある現在の天皇にそのような個人的な謝罪を要求するのか。
人に何かを要求するときには、自分の要求が正当な物であるかどうか、きちんと確かめて欲しい。
正当でない要求をする人間、あるいは国家は、現在の世界では理性のある人間、国とは認められない。
さらに、もし、このような正式な外交行為を天皇にさせたら、どうなるか。
例えば、天皇が「日本国民を代表して、日本国の過去の行為によって傷ついた方々にお詫び申し上げます」などと言ったらどうなるか。
天皇は、外交という、日本にとって重大な国事行為を行ったことになる。
天皇に許された国事行為の中に、そのような外交を執り行うことは入っていない。
天皇にこのような「謝罪」をさせるのは憲法違反であるし、もし特例として認めたら、憲法の歯止めがきかなくなる。
日本の支配層には悪知恵の働く者が多い。
一旦、そのような特例を認めたら、次々に自分たちに都合の良い「特例」を天皇に行わせるだろう。
それは、日本を下手をすると戦前の日本に戻すかもしれない。
これは、日本に対してだけでなく、アジア各国(もちろん、韓国も含まれる)に対しても悪い結果を招く恐れがある。
日本の現在の天皇はこのような難しい状況にある。
それも知らずに、天皇個人に謝罪しろ、と言った李明博大統領の言葉は間違いである。
日本を批判したかったら、日本の状況をもっと良く知るべきである。
一人の市井の人間ならともかく、一国を代表する大統領がそれではまずいだろう。
2)李明博大統領の過ちの一番大きい物は日本人の現在の天皇に対する感情を理解していないことである。
私自身は、現在の天皇制に反対しているのだが、様々な世論調査の結果は、日本人の80パーセントが、現在の天皇制を支持している。
天皇制については80パーセント以上だが、現在の天皇自身に対する日本人の支持率というか、好感度率はそれ以上だろう。
私自身、天皇制自体に反対だが、現在の天皇、皇后、皇族の人達に対して否定的な感情は抱いていない。
早く天皇制などと言う制度はやめて、皇族の人達に自由に生きて貰いたいと思う。
我々日本人は、皇族に非人間的な生活を強要しているのである。
私は、皇族という人達は、明治の初めに自分たちで天皇制を作った本人である伊藤博文が言ったとおりに、天皇自身の意志ではなく、時の権力者によって便利なように、利用されているところが多いと思っている。
民主主義を歌っている日本の社会で、どうして皇族にあのような非人間的な生活を強要するのか。
我々日本人は、恥ずべきである。
私は、一度、現在の天皇の毎日の日程を見て仰天したことがある。
日程と今言ったが、その実は時程、分程である。
毎日、やたらと多くの仕事がある。
それも大半が、人に会うことである。
例えば、海外で現地の開発や医療に貢献した人達が、その責任者に連れられて会いに来る。
その人達と天皇夫妻は会って親しく話し合わなければならない。
どこかの国のお偉いさんがやって来る。
彼らに話を合わせてやらなければならない。
地方の自治に貢献した人達が、矢張り、その地方の責任者に引率されてやって来る。
彼らにも、親しく話してやらなければならない。
こう言うことが、五分、十分刻みで、朝から続くのだ。
一日に何人見知らぬ人と会わなければならないのか、私からすると気が遠くなるような話である。
しかも、天皇皇后は、これから会うと決まった人達について、前もってきちんと学習しておくのだという。
初めて会った人に、「貴方は、なんと言う名前で、どんな仕事をしてきたんですか」などと言う質問は絶対にしない。
これから会う人が、どんな人間で、どんなことをしてきたかそれを全て前もって学んでおく。
だから、初対面の人間に対し「何々さん」とその人間の名前で呼びかける。
これは、凄いことで、幾らそれが仕事だと言っても、とても普通の人間に出来る事ではない。
私も、取材で日本中の様々な地域を回る。その時に、長年私の取材を取り仕切ってくれている女性が、「これから、何々さんと言う方にお会いします」と私に前もって教育してくれるのだが、私は教育して貰うそばから全て頭脳から全てが蒸発してしまって、実際にその人間に会うと、その人と話をし始めるまで、一体誰に会っているのか分からなくなる。
しかも、その間に、各地方に出かけて行って、様々な会で、いわゆる「お言葉」を述べなければならない。
その私の経験からして、天皇皇后のあの努力は異常である。
と言うより、天皇皇后を、自分の都合の良いように使う官僚達を激しく憎む。
天皇の年齢、病歴を考えてみれば、天皇に過重な仕事を強いる官僚達は人間としての心がないのではないかと疑う。
天皇の心労たるやただ事ならぬものが有ると私は思う。
早く、天皇皇后に人間的な生活を取り戻させなければならない。
私の小学校の同級生が、先日、こんなことを言っていた。
友人は虎ノ門あたりを動いているときに、突然通行止めにあった。
何があったのだと警官に問いただすと、天皇がこれからここを通るからだ、と言った。
仕方が無く友人は道に立っていた。
そこに、車の列が通りかかった。
その車列の何台目かに天皇が乗っていた。
友人は「あれ、天皇じゃないか」と思った。
と言って別に頭を下げたり、手を振ったりしなかった。
ところが、車の中から天皇が、友人を見て、友人にほほ笑んで手を振った。
友人は私に言った。
「おどろいたぜ。おれは何もしないのに、天皇が俺にほほ笑んで手を振ったんだ。
あんなことを、俺だけでなく、道で会う人全てにしているんだろう。
あれは、大変なことだ。とても俺には出来ないぜ」
私にも出来ない。
私の家は横須賀市秋谷にある。
横須賀と言っても軍港のある横須賀港とは三浦半島の反対側、相模湾に面している。葉山の天皇の別邸から車で三分ほどの距離である。
葉山から、東京に繋がる「横浜横須賀道路」の間に「逗葉新道」という有料道路がある。
あるとき、その「逗葉新道」の入り口の休憩所で用を足そうと思って車を止めたら、やたらと多くの車が駐車して、大勢の人が群がっている。
一体何事だ、と周囲の人に尋ねたら、今日まで葉山の別邸に滞在していた天皇が東京に帰るので、その見送りにきた、と言う。
葉山の人間は天皇が別邸に来るたびに、そんなことを繰返しているのである。
葉山の天皇の別邸から、「逗葉新道」までの道の両側は実に汚らしい。
私は、冗談で「葉山の住人は実に不敬な奴らだな。天皇が通る道の両側をこんな汚らしい家並みにしやがって。これじゃ、天皇は葉山に来る度に不愉快になるぜ」というのだが、天皇は別に腹も立てず、別邸から「逗葉新道」までの間、ずっと道の両側の人間に笑顔投げかけ手を振り続ける。
そして、「逗葉新道」の入り口では、集まった町民達に特別に愛想良く笑顔を浮かべ、手を振ったりするそうである。
一旦「逗葉新道」から高速に乗ってしまえば、そん気遣いもなく東京まで約一時間、のんびりできだろうが、それまでが大変だ。
葉山町の住民の天皇に対する人気は絶大だ。
葉山町で天皇を批判するようなことを口にしたら、村八分だ。
それほど、葉山町では天皇は町民に敬愛されている。
敬愛されているというと聞こえがいいが、その当人にとったらこれは大変な負担だ。
実は、現在の天皇は、皇太子の時から宮内庁やその周辺から「人気がない」と心配されていた。
不思議なことに、戦争を引き起こし、日本とアジア全体に塗炭の苦しみを味わわせて置きながら、何の責任も取らず、退位もせず、天皇の座に座り続けた昭和天皇に対する日本人の人気は高く、昭和天皇に代わって現在の天皇がその座についたときに、昭和天皇に比較してその人気のなさが心配された。
しかし、美智子皇后の国民的な人気は絶大であり、現在の天皇は在位してしばらくは美智子皇后の人気に支えられて、あたかも、イギリスのエリザベス女王の夫君エディンバラ公のような立場にあった。
その天皇の人気が突然上がったのは、神戸大震災の時の神戸市民を見舞いに行ったときである。
震災の後すぐに天皇皇后は神戸に見舞いに出かけた。
ある学校の体育館に震災にあった人達が避難していた。
そこに、天皇皇后は出かけて行った。
体育館の広い場所に避難している住民達が座っているのを見ると、天皇皇后はためらわず歩み寄って、避難民の前に膝をついて、人々同じ視線になって、人々の手を握り肩に手をかけ、慰めと励ましの言葉を次々にかけて回った。
私は人間は全て平等と考える人間だから、天皇であろうと誰であろうと自分が慰めたいと思う人間がいたら、その人間と同じ視線にまで自分の体を持って行くのは当然で、膝をつくのが必要なときにはつけばよいと思う。
私も、そうするに決まっている。
だから、その時の天皇皇后の取った行為を特別に有りがたい物だとは露思わない。
しかし、日本人は戦前の思想的な刷込みから自由になっておらず、未だに天皇に特別な神格に近い物を感じているようで「天皇が膝をついた」と言うことで、大きな反響を呼んだ。
さらに、そこには天皇の引き立て役が存在した。
当時の首相、社会党の党首である。
かれは、避難民が座っている講堂に入ってくると、両手を腰に回して組んだまま、避難民を見回しながら、「うん、うん」とうなずくだけで、そのまま通り過ぎていこうとした。
いらだった避難民から声が上がった「我々の生活を真剣に考えてくれてるんですか」
その非難の声にあわてた首相の側近が大声で「首相は皆さんの為に、一所懸命取り組んでおられます。安心してください」と繰返した。
しかし、人々は、不信感をあらわにして、「何言ってんだ」「本気かね」などと言う言葉をぶつけた。
私はその樣子をテレビのニュースで見ていて「役者が違う」と思った。
天皇は真面目な性格の人のようで、国民を案ずる発言を良くする。
一方社会党の党首は、顔は自分を選出してくれた労働組合の方に向いている。
当時の社会党で国会議員になるのは、労働組合で功労のあった人間に対する論功行賞の一つでしか無く、しかも、あの時自民党・社会党・さきがけと言う三党の野合連合で出来た内閣は、日本憲政史上まれに見る恥多き内閣であって、その頂点にいた首相たる人物は、今考えてみても、一体あの人物は何者だったのか、私の周囲の政治通の人間に聞いても「いや、じつにつまらん」としか言いようがないらしい。
それまで五十年も自民党と敵対関係にあった社会党が、政権という餌をちらつかされたらころっと、それまでの主義も主張を捨てて自民党とくっついてしまった。
しっぽを振って自民党に利用されたのである。
その醜い社会党の姿に国民はあきれ果てた。
国民は、日本の政治の醜さを見せつけられたのである。
当然、その内閣が潰れた後、社会党も潰れた。
社会党が政権に目が眩んで自民党と手を結んだことが、日本の社会にどれだけ大きい傷を与えたか計り知れない。
日本の社会には良心がない、と言う深い絶望感を与えた。
今日本中の企業で労働組合が潰れ、あるいは力を失ってしまい、会社の御用組合ばかりになってしまったのも、社会党が潰れたことが大きい。
若者達が、派遣の仕事しか得られないような今の状態になったのも社会党が潰れたことによる影響が大きい。
社会党は、それまでも、自民党や企業の身勝手さを押さえる働きをしていたのだ、と私は最近思い当たった。
いや、神戸大震災の時の話だ。
その時の被災者に対するお見舞いの姿で、現在の天皇の人気は一気に上昇した。
その後、何か災害が起こる度に、天皇が被災者達を見舞う姿がテレビに映されて、天皇の人気はますます高まった。
天皇自身も良くやっている。
2001年に、一年後に控えた日韓共同開催のサッカー・ワールドカップ、を前にして、「私自身としては、桓武天皇の生母が百済武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。
武寧王は日本との関係が深く、このとき日本に五経博士が代々日本に招聘されるようになりました。
また、武寧王の子、聖明王は日本に仏教を伝えたことでしられております」
と、発言した。
右翼、嫌韓派の人達は、この天皇の言葉に大いにとまどった。
天皇の言うことは続日本紀に書かれているとおりのことで歴史的事実なのだが、何故か、右翼・嫌韓派の人達はその事実を隠したがる。
私は、天皇が自分の出来る精一杯のことをして、日韓友好を深めたいと思っての言葉だと思って、未だに高く評価している。
また、2004年の秋の園遊会に招かれた、かつての将棋名人で東京都教育委員の立場にある米長氏が天皇に「日本中の学校で国旗を揚げて、国歌を斉唱させるのがわたしの仕事でございます」
と言うと、天皇は笑顔を絶やさず、しかし、間髪を入れず。
「やはり、強制になるという考え方でないことが望ましいですね」と答えた。
まさに、天皇のこの言葉は頂門の一針、かつての将棋名人はたちまち王手・雪隠詰めを食らって立ち往生した。
(それにもかかわらず、東京都の石原知事、大阪市の橋下知事などは、日の丸・君が代を強制して、卒業式などで君が代を歌わない教員を処分している。正に強制に他ならない。
一体、右翼は何をしているんだ。
右翼にとって一番大事なのは天皇のはずだ。天皇の言葉を無視して人々の恨みを買っている石原都知事、橋下大阪市知事に右翼は何も抗議すら行わないのか。
右翼という人達も分からない人達だねえ。
こら、右翼、私に何とか言って来んかい。)
そのようなことがあって、日本人の間で、現在の天皇の人気は非常に高い。
李明博大統領はそれを知らなかったのか。
それを計算に入れなかった、李明博大統領の過ちは大きい。
私はテレビで、韓国の企業が不祥事を起こしたときに韓国の企業の責任者達が記者団とテレビカメラに向かって一斉に土下座をして謝罪するのを何度か見た。
それが、韓国の正式な謝罪の仕方だという。
李明博大統領は天皇に個人的に謝罪しろと言った。
まさか、天皇に土下座しろと要求している訳ではあるまいな。
私は「日本は国として韓国に謝罪しなければならないが、天皇個人は謝罪することは出来ない」と上に書いた。
李明博大統領が天皇に韓国式の謝罪を要求したのだとしたら、私としては言葉を失う。
李明博大統領の文化程度の低さに、めまいがする。
日本国民の80パーセント以上の人間から好意を抱かれている人間など、天皇以外に存在しない。
その人間に対して、あんなことを言うとは、外交のなんたるかも知らない、国の運営のなんたるかも知らない。
そこらの飲屋でおだを上げているおっさんたちと、まさか同じ水準ではあるまい。
こんなことを言って、いい気持ちになった、と思っているのなら、それが韓国人の水準だとみんなが思う。
3)私はこの世に、良いナショナリズムは存在しないと確信している。
ナショナリズムについて深く語り出すと、本の一冊も書かなければならなくなるから、軽く語るに留めて置くが、今の世界の不幸の元は、ナショナリズムと不寛容な宗教にあると思う。
自分の国を愛するというのはまだ可愛い。
しかし、ナショナリズムには、ゼノフォビア(xenophobia-外国人嫌い)の色合いが濃く混じることが多い。
同時に、過剰防衛からさらに進んで攻撃的になる。
さらに、自己愛に酔って、果ては自己賞賛の泥沼におぼれて、その醜態が他人に嫌悪・軽蔑されていることにも気がつかなくなる。
私は日本のナショナリズムに酔っている人間は大嫌いだ。
その代表がケチカ君達だ。
ケチカ君達の場合、現在の日本が経済的に、韓国・中国に圧倒されてそのせいで自分たちの仕事が無くなってしまったので、それに対する反発が大きいと思う。
それだけでなく、ケチカ君達は日本の世界における地位に対して敏感なので、サムスンがソニーを遙かに抜いて世界一の家電会社になった、ヒュンダイ自動車がアメリカで、日本車より遙かに高い評価を得たなどと言うことを知ると、それで不安感に陥ってケチカ君になってしまうのだと思う。
日本が、韓国・中国を圧倒することの出来る経済大国であったら、ケチカ君達は現れなかっただろう。
ケチカ君は自分たちが、韓国・中国に負けていると言うことを告白しているに過ぎない。
私は、ケチカ君を嫌悪すると同様、韓国、中国のナショナリズムを嫌悪する。
遠くから見ていると、韓国ではナショナリズムが燃え上がっているのではないかと思える。
サムスン、ヒュンダイが日本を超えた。だから、韓国の方が日本より上だ。
サッカーだって、韓国が日本より強い。
韓国は強くなったからナショナリズムが燃え上がっている。
逆に、日本は自分の国が弱くなったから、防衛本能で、ナショナリズムが強くなった。
ああ! なんと言うばからしいことだ!
日本人も、韓国人も、ナショナリズムに酔っている人間は、目を覚ませ!
ナショナリズムと、「愛国心」とは全く違う物だ。
「愛国心」とは、自分の育った地域、国の文化、生き方に対する愛情を持つ事だ。
「愛国心」には敵は存在しない。自分の文化を愛するだけである。
そして、「愛国心」には国境がない。
他の国の「愛国心」も充分理解出来、受け容れることが出来る。
例えば、日本人、スリランカ人、オーストラリア人がピクニックに行くとしよう。
それぞれに自分たちの国の料理を弁当として持って来る。
ピクニックで弁当を開く。
互いの弁当を覗いて「あ、食べさせて」とか、「美味しそう」などと言って弁当を互いに交換する。
「これは、食べたことのない味だな」「へえ、君の国ではこんなのを食べているのか。美味しいね」などと、相手の食べ物の嗜好、食べ物に対する愛着などを理解して、受け容れる。
自分たちの国の料理を自慢する。
しかし、相手の料理も認める。
これが、「愛国心」だ。他国の「愛国心」も認める。
だから、「愛国心」には国境がないのだ。
それに対して、ナショナリズムは国境が無くては成立しない。
互いに、自分たちの国境の中のことだけしか考えない。
そうなると、「ナショナリズム」は必ず、他国に対する敵意を包含している。
敵となる国を定めないと、存在できないのが、「ナショナリズム」だ。
「愛国心」と「ナショナリズム」はっきり見分けて、混同しないようにすることが大事だ。
「愛国者」と「ナショナリスト」とは違うのだ。
李明博大統領が今煽っているは韓国ナショナリズムだ、そこに、韓国の文化を謳歌する文言が入っているか。韓国の美しさ素晴らしさを表現しているか。
日本に対する敵意だけではないか。
私は、「愛国者」である。
日本を愛する。
日本が世界の中で、きちんと正しい位置を定められることを願っている。
あるとき、右翼の立場の人に「雁屋さんは、国粋主義者ですね」と呆れられたことがある。
「国粋主義者」は困るが、「愛国者だ」
二千年かけて、ここまで築き上げた日本文化を大事に守ってそれをさらに豊かにしようと思うのは、日本人と生まれた人間なら当然の義務だ。
しかし、私は、 日本を第一にし、他国を日本に従えようとした戦前のナショナリズムを嫌悪する。
その、ナショナリズムを現在も受け継いでいる人間には、「さよなら、さよなら」としか言いようがない。
で、今回の、李明博大統領の言葉だが、彼は韓国のナショナリズムを掻き立てた。
典型的な、「外危内安」政策だ。
「外危内安」とは、外に敵を作って、その敵に国内の人民が向かうように煽って、自分自身がその煽った人民を操って政治を運営しようというものである。
これは、自分自身が国内で人気が無くなった政治家が取る一番安易な政策だが、これが結構効き目がある。
李明博大統領がこの時点で、天皇に対して日本人の感情を逆撫でするようなことを言う理由がわからない。
私のような、反天皇制の人間が驚いた。
「どうして、天皇なの」
日本国民の80パーセント以上が、李明博大統領のこの言葉に反感を抱いただろう。
これが、政治家として、一国の大統領として正しい言葉か。
こんな言葉で、韓国のナショナリズムを煽って、自分もいい気持ちだし、国が一丸になったような気がして,一時は上手く行ったように思うかも知れない。
しかし、日本からの反動がすぐに起きた。
日本政府は、韓国の国債を買うことを、検討すると言い出した。
さらに、日本は韓国に対する通貨スワップの枠を130億ドルから700億ドルまで上げることにしていたのだが、その件についても検討し直すと言い出した。
国債については、理解が容易だろう。
韓国の発行する国債を日本が買わないとなると、韓国は困る。
さらに、通貨スワップだが、これは、普通にはは理解出来ないことだろうから説明する。
簡単に言えば、1997年のアジア経済危機を思い出して貰いたい。
韓国は、サムスン、ヒュンダイの成功で、経済的に成功しているように見えるが、実はその外貨準備高はブラジルより低く、何かの拍子に、あるい国際金融の思惑で韓国から資本を引き上げするとなると、韓国はたちまち外貨準備が底をつき、外国からサムスンやヒュンダイが生産を続けるための部品の購入すらままならなくなる。
それでは、韓国の経済は、身動き獲れなくなる。
それは、実際に1997年に起こったことである。
今度そういう経済危機が起こったら、現在ユーロで起こっているギリシャの経済破綻によるユーロ経済全体の危機を超える重大な問題が起こる。
そこで、日銀は、韓国の外貨資金が無くなっても700億ドルまで面倒を見ることにした。
それが、外貨スワップ700億ドルの意味である。
日本が700億ドルまで、面倒見てくれると世界中が理解すれば、1997年のような経済危機を韓国は避けられる。
最近、日本政府は、李明博大統領の言葉を受けて、国民感情を考えてのことだろうが、その外貨スワップの額を考え直すと言い始めた。
さらに呆れることに、韓流の芸能人を日本から閉め出そうという動きまでで始めた。
NHKの紅白歌合戦に、韓流の歌手達を出さないようにしようと言うのだ。
なんと言う了見の狭さだ。日本人はここまで心の狭い人間だったのか。
相手が、ナショナリズムに煽られて突っかかってきたら交わすだけの智恵がどうして出て来ないのか。人間としての器が小さすぎる。
これでは、子供のケンカだ。
こう言うことを聞くと、私は悲しさを通り越して、血の涙が出る。
私は、韓国との真の友好を長い間願ってきている。
だから、日本の国に、韓国に対して犯してきた様々な過ちを国として責任を取って謝罪し、補償するように要求してきた。
私のような立場の人間は少なく、私は常に多くの人々から口汚く罵られてきた。
それでも、私は、自分の今までの言動に間違いがないと信じている。
私の言うことに耳を貸してくれる若い人達も増えてきた。
このまま行けば、日韓友好も、上手く行くと思ってきた。
そこに、この李明博大統領の発言である。
李明博大統領は日本国内で、真の日韓友好を築こうとしている人達に大きな痛手を与えた。
私には、大勢の韓国人・朝鮮人の友人たちがいる。
これから、彼らと、どうすれば良いのか話し合おうと思う。
一つだけ、決定的に言えるのは、李明博大統領の言動は、日韓友好を何年か遅らせ
てしまっただろうと言うことだ。
実に残念で、くやしい。
ナショナリズムを利用する人間、ナショナリズムに踊らされる人間、ともに人間の中で一番醜い顔をしている。