こどもの日
日本は、今日はこどもの日か。
こどもの日というと、鯉のぼり、武者人形、柏餅だ。
懐かしいなあ。
子供の頃、柏餅が大好きだった。今でも大好きだが、昔は今のようにあれこれと贅沢なお菓子がふんだんにあるわけではなかったから、年に一度の柏餅が、黄金の価値を持っていたな。
しかし、その内に、味噌餡入りの柏餅を食べさせられたことがあってその時は本当に驚いた。
それも、白味噌ではなく、味噌汁に使うような茶色っぽい味噌だったと思う。それに甘い味付けがしてあり、奇妙な味わいだった。
柏の葉の裏面を表にして包んであれば小豆餡、表の面を表にしてあれば味噌餡と言うことを後に知った。
今は味噌餡は白味噌を使うんだろうな。
などと、曖昧なことを言うのは、実は味噌餡の柏餅は苦手で、敬遠しているからだ。
「美味しんぼ」なんて漫画を描いていると、どんな物でも、美味しい、美味しいと言って食べるのではないかと思われるかも知れないが、実は、これで仲々好き嫌いが多く、連れ合いを困らせている駄目男なのである。
また、体調が悪いとやたらと神経が過敏になって、食べ物の匂いや味に過度に鋭く反応する。
昨夜も、次女が夕食後柿をむいてくれたのだが、そこで一悶着起こった。大きな柿が二つあって、次女は一つの柿を八等分にした。そうすると、一つづつフォークで刺して食べるのにちょうど良い大きさになる。(今シドニーは秋。柿が美味しい季節なんですよ)
私が自分でフォークで刺して取ろうとすると、次女が「ちょっと待って」と言って、私のフォークを取り上げ、自分で柿を選んで私に渡してくれた。その柿を一口囓った途端、イヤな匂いが口中に広がった。「わ、この柿はなんだ。ネギを切った包丁でむいたな」と思わず私が大声を出すと、次女は「しまった」と言う。
実は、一つめの柿をむきだして、その包丁は先ほどネギを切るのに使った物だと気がついて、二個目から新しい包丁で切った。
だから、私に柿を選ばせないで、臭いのしない方を次女は自分で選んだのだが、それが外れて臭いのする方に当たってしまったというわけだ。
しかし、体調が悪いと良いこともある。体調の良いときなら、そんな時には「ぐわわわーっ! そんな物全部捨ててしまえ!」などと喚くところだが、なんせリハビリ中の哀れな身でごぜえますですからなあ。「はあ〜、臭くないのを選んでくれよ」と弱々しく次女にお願い申し上げ、余計な波風を立てずにすんだのでごぜえますですよ。
物に好き嫌いがあるのは仕方がない。
しかし、私は世の人が美味しいという物は、殆ど全て自分も美味しいと思う。とは言うものの、多くの人が涙を流して美味しいと言って喜ぶ食べ物の中にも、実は私は嫌いで食べられないと言う物が少なからずある。
それは何かと言えば・・・・・
と、白状するわけにはいかない。「美味しんぼ」なんて物を書いている立場として、実はあれが嫌いだなんて言うわけには行かないんだ。
「あれが美味しい、好きだ」と言う言葉は、人を幸せにするが、「あれがまずい、嫌いだ」と言う言葉は人を不幸にする。
「美味しんぼ」と言う漫画の目的は、読者に幸福感を味わって頂く物だから、「まずい物、嫌いな物」についてなど書いたら面白くなくなってしまう。
あ、そうでもなかったな。不正な食品、料理の仕方を間違えた物、などについては、きついことも書いたな。
大手食品会社や、食品業界、とも幾つか揉めたことがある。
しかし、私は批判をするときには、常に十全の資料と、正しい知識を持って、正確な論理で、きっちりと筋道立てて攻めていくから、私が負けるわけがない。百戦百勝、さあ、誰でも掛かって来なさい、という経歴がある。常に私が正しいのである。
しかし、敵は広告を雑誌やテレビに出すスポンサーとしての力を振り回すから、「美味しんぼ」を連載している「ビッグ・コミック・スピリッツ」の発行元の小学館には随分迷惑をかけてしまった。
私も時には、せりふの調子を落としたりして、相手を余り刺激しないように気を使ったこともある。
私の敬愛する作家、城山三郎さんは、去年亡くなってしまわれたが、城山さんは日本銀行についての小説を雑誌に連載している最中に、日銀関係からの強烈な圧力を受け、結局、削って削って、作品になったのは書いた物の三分の一になったと、語っておられる。
日本は言論の自由が守られた民主主義の国だなど思ったら大間違い。
権力、金力を持った人間が日本の言論を支配しているのである。
こどもの日と言えば、「柱の傷はおととしの、五月五日の背比べ。ちまき食べ食べ兄さんが、測ってくれた背の丈」という歌を思い出す。
鎌倉の実家の、以前私が使っていた部屋の入り口の壁に沢山の線が引かれ、年月日と名前が書いてある。
私は、甥や、姪などが遊びに来ると、連中を捕まえて壁の前に立たせて、本などを頭に載せて背の高さを測り鉛筆で印を付け、名前と年月日を書いたのである。
独立してからも実家に帰ったときに、甥や姪を捕まえて背の高さを測って印を付けた。私の子供たちも、連れて行って同じことをした。甥達も、私がいなくても、鎌倉に行くと、自分たちで計って名前と年月日を書き込むようになった。私自身のものも、連れ合いのものもある。
今になってみると、その壁面は、我が家の家族、親類の子供たちの成長の記録にもなっている。一人の子供が年ごとに成長していき、途中で背の伸びが止まっているのが分かったりして面白い。
去年、母が鎌倉の家の壁を塗り直すときに、壁のその部分だけは塗り直さずに取って置いてくれたので、今でも、無数の背丈の記録が残っている。1968年以来の記録だから、貴重である。
その壁は、私の親族に人気があって、鎌倉に来るとその壁の記録を見て、それぞれに楽しみ、感慨にふける。
親族で一番背の高い姉の次男が、自分の背丈の線の横に「俺を抜いたら殺す」などと、従兄たちを牽制しているのも面白い。
幸か不幸か、だれも、姉の次男の背丈を越せた者はいないようだ。
最近は厭な事件が立て続けに起こる。どこの家の子供も、幸せに成長していって貰いたいものである。