雁屋哲の今日もまた

2008-07-10

パレスティナ問題 その5

 パレスティナ地域は歴史的に幾多の変遷を経てきており、余り時代をさかのぼりすぎると面倒くさくなるので、近代以降に話を絞っていきたい。

 パレスティナ地域は1516年以降、オスマントルコに支配されてきた。
 135年にローマ帝国によってイスラエルから追放されたユダヤ人だったが、1880年当時のパレスティナには2万から2万5千人のユダヤ人が、主にエルサレムに居住していた。
 そのユダヤ人の大半は「ハルカ」という、海外のユダヤ人社会から送られてくる義捐金で生活を支えていた。
 当然ユダヤ人社会は貧しく、社会的地位も低く、アラブ人はユダヤ人たちを「死の子供たち」と呼んでいたと言う。

 1881年にロシアでポグロム(ユダヤ人を対象とした集団的な略奪、虐殺、破壊行為のこと)が発生し、ルーマニアでもユダヤ人迫害がひどくなった。
 これに、対抗して、ヒバット・チオン(シオンの愛)運動がおこり、ロシア、東欧からユダヤ人の帰還事業が始まった。
 1882年に多くの若者たちがアリヤとして移住してきた。アリヤとは、エルサレムに上る事を表し、移民という意味になった。
 1882年のアリヤを、第一アリヤという。
 移民たちは農業開拓地を開きその村落はモシャバと呼ばれたが、この開拓運動を援助したのが、パリ在住のユダヤ人億万長者、エドモンド・ド・ロスチャイルドだった。
 1904年になると、度重なるロシアでポグロムで、ロシア、東欧から再び大量のユダヤ人がパレスティナに流れ込んできた。
 これが、第一次大戦まで続く、第二アリヤである。
 1914年の時点でユダヤ人人口は8万5千人となった。
 パレスティナ全体の人口の12パーセントを占めた。
 新しく移民してきたユダヤ人は、農園など経営し、海外から投資する人も現れ、近代的な都市作りも行われ、鉄工場、精油所なども開設された。

 ユダヤ人の数が増え経済的にも豊かになってくると、アラブ人との間の争いも起こるようになってきた。
 現在にまで続く、イスラエルとアラブ諸国の争いは既にこの時期に芽生えていたのだ。

 1914年から始まった第一次世界大戦はパレスティナのユダヤ人に大打撃を与えた。
 オスマン・トルコはドイツなど枢軸国側に属しており、パレスティナはトルコを始めとする枢軸国側の基地として使われ、戦力資材の供給地して扱われ、青年は動員され、住民は重税を課せられた。資材を徴発され、強制労働につかされ、ユダヤ人は非常に苦しんだ。
 更にトルコ政府は、戦時下にあって反ユダヤ政策を取った。
 大戦勃発と同時に、政府はユダヤ人から武器を没収し、外国籍のユダヤ人を追放した。
 1917年、パレスティナが戦場となるに及んで、ヤッフォとテルアビブのユダヤ人は全員追出された。

 1917年、イギリス軍は大攻勢を掛け、トルコ軍は敗走した。
 これによって、1516年から始まったオスマン・トルコのパレスティナ支配は終結した。

 しかし、この第一次大戦の結果、戦前に8万5千人いたユダヤ人は、追放、流出、衰弱死などによって5万七千人に減っていた。

 しかも、この第一次大戦の最中に、後のパレスティナ問題の混乱の源が作られたのだ。

 大戦中に、各国は戦争に勝つために駆け引きを行い、秘密外交を重ねた。
 中でも、狡猾なのはイギリスで、フランスとサイクス・ピコ協定を1916年に秘密裏に結び、大戦後オスマン・トルコ帝国の領土をイギリス、フランスで分割する事を取り決めた。
 それによると、シリアをフランスの勢力範囲とし、イラク南部などをイギリスの勢力範囲とすることとした。
 更にイギリスは、戦争に勝つためにアラブ人の協力を得ようと、メッカのカリフであったフサインとイギリスのエジプト駐在高等弁務官マクマホンとの秘密往復書簡の中で、オスマン・トルコ帝国からのアラブ人の独立運動を支持することを約束した。(1916年)
 これは、サイクス・ピコ協定と矛盾する。
 更に、イギリスは、ユダヤ人の戦争協力を取り付けるために、バルフォア宣言によって、パレスティナをユダヤ人に与えると発表した。(1917年)
 この宣言は明らかに、フサイン・マクマホン協定と両立せず、サイクス・ピコ協定とも矛盾する。

 当時、まだイギリスは世界中に植民地をもつ大帝国だった。
 そのイギリスの狡猾きわまりない、二枚舌どころか三枚舌が、のちのち、パレスティナのユダヤ人、アラブ人たちを苦しめる元となったのである。

 日本人は、イギリスを紳士の国などという。
 英国風の紳士などと言われて悦に入っている日本人も少なくない。
 冗談じゃない。
 歴史上、イギリス人ほど、アジア、アフリカ、オセアニア、アメリカ大陸の原住民を殺戮し、その富を奪った国民はいない。
 イギリスの繁栄は他国民の血の犠牲の上に築かれたものだ。
 ロンドンの大英博物館は、イギリスの犯罪記録館である。
 世界各国から奪ってきた宝物を恥ずかしげもなく陳列しているから恐れ入る。
 略奪してきた獲物自慢をする人間が紳士の訳がないだろう。

 パレスティナ問題の責任の大きな部分はイギリスにある。

 さて、これで、パレスティナ問題の根っこの部分は掴めたと思う。
 本当の問題は、パレスティナがイギリス委任統治領になってから始まる。

 この続きはまた明日。

雁屋 哲

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