雁屋哲の今日もまた

2008-12-18

朔太郎と「あ」のこと

 今夜、もの凄く、人恋しくなり、1969年以来の友人に電話をかけた。
 このブログではとっくにおなじみの、沖縄に住む「あ」にである。
 最初電話をかけたら、「あ」は留守だった。
 そこで、彼の細君に「後で、電話するから、『あ』に、萩原朔太郎の詩集を用意しておくように」とお願いした。
 しばらくして、電話かをかけ直すと、本人が朔太郎の詩集を用意して待っていてくれた。
 そこで、私は、朔太郎の詩の中で私の好きなものを選んで、朗読した。

 私は、高校二年生の時に、朔太郎の「竹」という詩に出会って、それで人生が変わってしまった。
 あの詩は人間としての感性のあり方を根底から変えてしまう詩だ。
 日本語の素晴らしさ、日本語で紡ぐ詩の素晴らしさ、高校二年生の私には、凄まじい衝撃だった。
 今でも、「竹」を読む度に、深い恐れに似た感動を覚える。
「竹」だけではなく、朔太郎の詩は、それまで私が体験していた日本文学の範疇から遙かにはみ出した物だった。
 それ以来、今に至るまで、朔太郎を超える日本文学にはついに出会えていない。
 萩原朔太郎は、何世紀かに一人、突然現れる異常な天才である
 朔太郎の詩の跡を継げる人間はいないし、朔太郎の感覚を受け継いで表現できる人間も、今まで出現しなかった。

「あ」は朔太郎を愛してくれる人間の一人である。
 1969年以来の友人である。
 この世で私が本当に心を許すのは、連れ合いと「あ」だけである。
 連れ合いと、「あ」とであれば、何日一緒にいても、私の心は苛立たない。
 他の人間だと、一緒に過ごすことが出来るのは1日半が限度である。
 他の人間だと、その人間の全てが気にさわるようになる。
 身振り手ぶり、しゃべり方、食べ物の食べ方まで、気に触る。
 終いには、その人間の、呼吸の仕方まで我慢できなくなる。
「どうして、今息を吸うんだ。どうして、今息を吐くんだ。俺に無断で呼吸をするんじゃない!」
 とまで、苛立つ。
 しかし、世の中に二人だけ、一緒に何日いても心が安らかな人間がいる。
 それが、連れ合いと、「あ」なのだ。

 朔太郎の詩をお互いに読み合いたい、などと馬鹿げた願いを聞き入れてくれるのは、「あ」だけだ。

 そして、今夜、二人で、沖縄とシドニーの距離を隔てて、朔太郎の詩を朗読し合った。
 それぞれ、自分の好きな詩を朗読して、「いいな、朔太郎はいいな」と言い合った。
 とても幸せだった。

 こんな幸せはない。
 で、「あ」に、「絶対に、俺より先に死ぬな。俺が先に死ぬからな」と言い渡した。
「あ」は私より、一歳年下なのだ。

 四年前に、「あ」と私との共通の親友を、私達は失った。
 その時の苦しさは、今でも、私を鬱に落とし込んだままだ。
 これで「あ」に先立たれてはたまらない。
 早いところ、何としてでも「あ」より先に死のうと心がけている毎日である。

 今日、私が「あ」に朗読して聞かせた、幾つかの朔太郎の詩の一つを、下に記す。
 と書いて置いて、何がよいだろうかと迷った末に、私が高校二年生の時に衝撃をけた「竹」を記すことにする。

『竹』
「光る地面に竹が生え、
 青竹が生え、
 地下には竹の根が生え、
 根がしだいにほそらみ、
 根の先より繊毛が生え、
 かすかにけぶる繊毛が生え、
 かすかにふるえ、

 かたき地面に竹が生え、
 地上にするどく竹が生え、
 まっしぐらに竹が生え、
 凍れる節節りんりんと、
 青空のもとに竹が生え、
 竹、竹、竹が生え。」

 高校二年生の時に、この詩を読んで、私は、感覚と感性が全部変わった。
 私は、無宗教者だが、萩原朔太郎だけには、身近に呼吸を感じるような気がするのだ。

雁屋 哲

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