パレスティナ問題 その8
パレスティナ問題は、パレスティナがイギリスの委任統治領になってから、どんどん複雑化し、困難になっていった。
それは、一口に言えば、ユダヤ人の移民が増え続けたこと、それに対するアラブ人の反感が強まったこと、そして、ユダヤ人側にアラブ人に対する配慮があまりに掛けていたこと、に尽きる。
パレスティナの地は、誰も住んでいない無住の地ではない。135年にユダヤ人がイスラエルから追放された後、1800年以上にわたって様々な民族が住んできたが、シオニズム運動が進められ、ユダヤ人が次々に移民し始めた頃には、主にアラブ系の住民が住んでいたのである。
そこに、どんどんユダヤ人が移住してくれば摩擦が起きるのが当然だろう。
イギリスの委任統治領になってから、第二次大戦後にイスラエルが建国するまでには余りに多くのことが次々に起こったので、それを細かく書いていると大変に煩瑣になってしまい、このページには似つかわしくないことになる。
そこで、主な出来事、事態の推移などを以下に箇条書きにしていくことにする。
1)一つ大きな問題は、ユダヤ人指導者たちも内部分裂をしていたことだ。
ヴァイツマンは忍耐強く長い年月を掛けてシオニスト国家を建設しようと考えていた。
下部組織と基盤が強固に建設されれば、国家の永続性と繁栄はより確かな物になると考え、優れた恒久的な社会、文化、教育、経済関係の諸機関を作り上げることを第一とした。
ロシア領ポーランドのブロンクス出身のベン・グリオンは1920年代にイスラエルに登場した天才的な政治家だった。
ベン・グリオンはマルクス主義者と自称していた。彼には三つの原則があった。
第一は、ユダヤ人の郷土帰還を優先順位の第一にすること。
第二は、新しい共同体の構造は社会主義の枠組みで計画されなければならない。
第三は、ヘブライ語をシオニスト社会を文化的に結合する物とする。
ベン・グリオンは1930年にシオニスト労働党マパイ党を創立し、また、1921年に、シオニスト労働組合運動のヒスタドルートの書記長に就任して、ヒスタドルートを単なる労働組合以上のものに変えた。
ヒスタドルートは工業、住宅、運輸、金融など組合方式で運営し、教育組織も持ち、職業安定所を運営し、医療制度も作り上げた。
こうして、ヒスタドルートは政府に近い役割を果たすようになり、シオニスト社会主義機構の主柱となり、後のシオニスト国家の基本的な制度を作り上げた。
しかし、ベン・グリオンは社会機構の制度作りに力を注ぐ余り、ユダヤ人移民を増加させるところまで手が回らなかった。
ロシアのオデッサ出身のジャボチンスキーは戦闘的な攻撃的なシオニストで、強力な軍隊の元となるハガナーという自衛組織を作った。
ジャボチンスキーは最大限のユダヤ人を可能な限り早期にパレスティナに移民させたいと考えていた。
ヴァイツマンの言う事も、ベン・グリオンのしていることも正しいが、まずユダヤ人の数が必要だとジャボチンスキーは考えた。
後に、ジャボチンスキーはヴァイツマンと敵対し、ヒスタドルートを分裂させてシオニスト社会に混乱を引き起こした。
2)ユダヤ人の移民(アリア)は1919年から23にかけての第三アリア、1924年から1928年にかけての第四アリア、1929年から始まった第五アリアと続き、特に1933年にヒトラーが政権につくと、雪崩を打って流入し、1936年春までにはパレスティナの総人口の30パーセントを占める40万人にまで達した。
3)人口の増加と共に、資金が大量に流入してユダヤ人社会は繁栄していった。
農工業の開発も進んだ。
自衛組織ハガナーも増強された。
教育体系も整備された。
4)シオニストたちは最初からアラブ人を軽視していた。
シオニストたちのアラブ人に対する考え方は「アラブ人は芝刈りと水くみをする者でしかない。ユダヤ人に非常に便利なサービスを提供してくれるだろう」というものだった。
「パレスティナ入植以来、われわれは常にアラブ人を存在しない者と見なしてきた」と言った者もいる。
がいして、シオニストたちはアラブ人を単なる人間社会の風景の一部として無視した。
そもそも、ここに、パレスティナ問題の起こる根っこがある。
シオニストたちは、自分たちが世界中でユダヤ人として差別されたのに、パレスティナでは今度は自分たちがアラブ人を差別したのである。
現在のイスラエル政府のアラブ人に対する態度も、変わらない。
5)しかし、ユダヤ人の人口が増え、シオニスト社会が繁栄して行くにつれて、アラブ民族主義が芽生えた。
1929年には、アラブの暴動が起こった。
それ以前に、ロイド=ジョージ によってパレスティナの高等弁務官として派遣されていたハーバート・サミュエルは、ハジ・アミン・アル・フセイニをグランド・ムフティ(イスラム最高法官)に任命していた。
サミュエルが結成促進をしたイスラム最高協議会をハジ・アミンは恐怖支配の強権道具にした。
ハジ・アミンはアラブ人をたきつけて、激しい暴動を引き起こしたのである。
グランド・ムフティとしてのハジ・アミンは穏健派のアラブ人を殺し、パレスティナにおいてアラブ人がユダヤ人に徹底的に敵対するように扇動した。
ハジ・アミンは、ユダヤ人とアラブ人指導者層の間に、それ以後決して修復されることのない深い亀裂を生じさせた。
ポール・ジョンソンは「ハジ・アミンをグランド・ムフティに任命したことは、二十世紀最大の悲劇的かつ決定的な誤りだった」と言っている。
シオニストも、シオニストなら、アラブの指導者も、アラブの指導者だ。
双方共に、相手を軽蔑し、憎み、妥協や協力をする良識を持っていないのである。
このアラブ民族主義の勃興と、アラブの暴動が、イギリスの態度も変えさせてしまった。
(明日に続く)