卵焼き
最近食べ物の質が低下したと思う。
特に卵が美味しくなくなった。
私は卵が大好きで、卵を食べるとコレステロールが増える、などと言ううるさいことは無視して、殆ど毎日食べているが、コレステロールの値などまるで上がらない。
そりゃ、一日十個も二十個も毎日食べ続ければどうなるか分からないが、一日一個や二個食べ続けてコレステロールの値が上がるなんてのは、どこか他に体が悪いのだろう。私はまるで気にせずに食べ続けている。
私の家では、有機飼育で放し飼いの鶏の卵を買っている。鶏を育てる条件は良いはずなんだが、その卵の味は私が以前日本で食べていた卵に比べるとひどく落ちる。
日本でも、最近、いわゆる高級スーパーで思い切って高価な卵を買ってきても、最早昔の味ではないのでガッカリさせられる。
日本に住んでいた頃は、ある鶏農場から定期的に卵を送ってもらっていた。
私はその農場まで見に行って、その育て方が素晴らしいので、送ってもらうことに決めたのだ。
私が住む横須賀から遙か離れた知多半島にその鶏の農場はあった。
そこの卵は、皿に割って横から見ると三段になっているのが分かる。
一番下に白身が広がり、中央近くから透明に近い白身が盛上り、更にその中心に尖ったようにまん丸な黄身が乗っている。
この卵はどんな食べ方をしても美味しかった。
私の子供たちはいまだに卵掛け御飯が好きだが、あんな美味しい卵を食べさせたからだろう。
勿論、どの様に調理しても美味しい。
卵料理の中で、一番難しいのは、目玉焼きではないだろうか。
(これには異論が沢山あるだろう。世の中には無数の卵料理があるからね。
目玉焼きが難しいなんて笑わせるんじゃない、なんて声も聞こえるな。
そんな声は無視するが、ふと考えると、私の自慢の「ふっくらぽんぽん」だってとても難しい。
連れ合いや子供たちにも教えたのだが、まだまだ、免許皆伝には至らない。
え?その「ふっくらぽんぽん」とは何か、だって?
かつて何度か書いたと思うが、美味しい物については何度書いても良い。後ほど、お話しましょう)
で、その目玉焼きだが、白身の一番外側がうっすらとこげていて、白身は柔らかく、黄身は半熟、と言う具合に焼けた物が私は好きだ。
白身の外側が焦げて茶色になった部分は実に香ばしくて人の心を奮い立たたせる。
そして、黄身を三分くらいに火が通った状態に仕上げると、トロリと柔らかくしかも、熱によって黄身が活性化し味もふくらむので、何よりも香りが豊かになる。口に掬っていれると、その香りが鼻にふんわりと抜ける。
その心地よさったらたまらないな。
卵の黄身のあの香りは、豊穣なる優しさというか、蠱惑的な喜びというか、そんな物を感じさせて、しかも人の心をやんわりと揉みほぐしてくれて、食べていると、さあ、元気を出しなさい、と言う声が聞こえてくるような感じだ。
目玉焼きには、英語で言うと、Sunny side upと、Turn overの二つの形態がある。
Turn overは、焼く途中で目玉焼きをひっくり返して両面を焼く物、
Sunny side up、はひっくり返さずに片面だけを焼いた物である。
ひっくり返すと黄身の部分も表面の膜が焼けて白くなって黄身の黄色い色が見えなくなる。
ひっくり返さないと、黄身の黄色い色がそのままで、それが太陽のように見えるから、Sunny、と言うのだろう。
私は、このTurn overが好きなのだが、最近の卵では、Turn overを作るのが難しくなってしまった。私の腕が悪いせいだけではない。卵が変わってしまったのだと思う。
良い卵を使えば、Turn over も簡単に出来た。
フライパンにバターを落とし、その上に卵を割り入れる。
周りが焦げてきた段階でまだ、黄身は生である。
その焦げた卵の端を、箸でつまんでひっくり返し、数秒おいて更にひっくり返して皿に取ると、きれいな半熟の、Turn overが出来た物だ。
ところが今の卵は、そもそも白身がしっかりしていない。
だらだらとしまりがないから、焼いた目玉焼きの端を、箸で掴んでひっくり返すと言うことが出来ない。白身が破けてしまう。
更にひっくり返すと、実にしばしば、黄身が破ける。
以前私が食べていた卵は、黄身だけを箸で掴んで持ち上げても、黄身は破けるなどと言うことはなかった。
今の卵の黄身は、箸でつまむどころか、うっかりすると割り入れる段階で卵の殻の端に引っ掛かると破けてしまう。
では、箸なんかでつままずに、卵返しを使えばよいように思うが、それでも駄目だ。かなりの確率で、ひっくり返したときに黄身が破れるし、それを皿に取るときに表に向けようとひっくり返すと、破けたりもする。最後の段階で破れると泣きたくなる。
最近は、その失敗が厭なので、仕方なく、Sunny side upばかり食べている。
それに、以前の卵は、皿に割ってもこんもりと盛上って、目玉焼きにしても、ちょうど良い具合の大きさになった。
何にちょうど良いかというと、私は、目玉焼きを焼いたらフライパンからそのまま、バターをたっぷり載せたトーストパンに移動させ、そのまま、あんぐあんぐ、と食べるのが好きなのだ。
目玉焼きを一旦皿に取ると、冷えてしまう。それが面白くない。
フライパンから直接パンの上に乗せると、舌を焼くほど熱い。
それがたまらなく美味しい。卵全体の香りが立って、無我夢中でがつがつと食べてしまう。
ちょうど良い大きさというのは、トーストパンに載せるのにちょうど良い大きさのことだ。
ところが、最近の卵は、その白身がだらしなく広がる。
結果として焼き上がった目玉焼きは、やたらと平べったくて大きい物になる。
パンに載せると、白身がだらりと外にはみ出す。
実に面白くない。
シドニーで、有機食品の店など何軒も回って、これが一番という卵を買っても満足できる物に出会ったことがない。
東京や鎌倉で探しても、満足できる物にお目に掛からない。
やはり、あの農場から送ってもらうしかないようだ。
しかし、私の子供の頃は、特別に農場から送ってもらわなくても、そこらの店で買っても、その三段構造の素晴らしい卵が普通に手に入ったのだ。
ま、確かに昔は卵は高価な物だった。
今の若い人には信じられないかも知れないが、昔は病人のお見舞いに卵を桐の箱に入れて送ったりしたのである。
それに比べれば、今、スーパーなどで売っている卵の値段は安い。
スーパーの特売になると、一パック百円などど言う値段が付けられていて、そんな物を見る度に、私は卵農家のことを考えて胸が痛くなる。
あんな苦労をして、こんなお金しか貰えないのではひどすぎる。
結局、今の卵の味が落ちたのは、買う方が安くしろ、安くしろ、とそればかり要求してきたからだろう。
安く作るためには何かを犠牲にしなければならない。
最初に食べ物の質が低下した、と書いたが、実は消費者の質が低下したと言う方が正しいのだろう。
で、ふっくらぽんぽん、の焼き方です。
中華鍋(普通のフライパンでも良い)にたっぷりのごま油を取る。
私が、ふっくらぽんぽんを焼いているのを初めて見た連れ合いが、「それは、卵の天ぷらじゃない」と言ったが、天ぷらほどではないにしても、油の量は気合いを入れてたっぷり使うことが必要だ。
その鍋を強火で熱して、鍋に接する部分の油からうっすらと煙が立ち上がる頃合いに、溶いて良くかき混ぜた卵を、流し込む。
卵は一気にふくらむ。端の方が焼けて盛上る。
そこを箸で掴んで持ち上げると、まだ生の部分の卵が油の中に流れ落ちていって、これも直ちにふくらむ。
箸でつまんで持ち上げることを二三回繰り返すと、卵全体が、ふくれ上がる。
そこを、手間取らずにさっと鍋からあげて皿に取る。
調理時間は十秒かかるかどうか。手早くするのが肝心だ。
その瞬間の卵の姿は、ふっくらと膨らんでぽんぽんしている。
それで、「ふっくらぽんぽん」と名前が付いた。
これに生醤油をかけて食べるのだが、醤油をかけた途端、ふっくらと膨らんでいた卵が、ぺしゃんと縮む。
しかし、そこまで膨らませておくと、縮んでも、口の中での感触が違う。
膨らませることのない卵焼きでは、この、柔らかでふんわりした感触は味わえない。
その、「ふっくらぽんぽん」はそのままで食べても有り難みが少ない。炊きたての熱い御飯に載せて食べなければ真価は味わえない。
熱い御飯の上に、焼きたての、これまた熱い「ふっくらぽんぽん」をのせて、がばっと、掻き込むと、ああ、あなた、凄いスよ。
こんな単純な物が、どうしてこんなに旨いのか。
不思議でならないと言いながら、涙目になって御飯を掻き込み、あっという間に御飯をお代わりしてしまうことになる。
卵もそうだが、「ふっくらぽんぽん」で大事なのは、ごま油だ。
他の油では駄目。ごま油。それも、球締め極上のごま油で作ったら最高のご馳走だ。
この、「ふっくらぽんぽん」が上手に焼けるようになったら、卵の扱いも一人前と認めてやるんだが。