雁屋哲の今日もまた

2008-07-03

パレスティナ問題 その3

 イスラエルを建国し、維持している思想と運動は「シオニズム(Zionism)」と呼ばれるものである。
 シオンは聖地エルサレム南東にある丘の名で、「シオンの地」は、迫害され続けて来たユダヤ人にとって解放への願いを込めた象徴的意味を持つものだった。
 その「シオン」を取って「シオニズム」と言うのである。
 シオンへ帰れ、と言うわけだ。

 1860年、ハンガリーのブダペストに生まれた、テオドール・ヘルツルは大富豪の娘と結婚して巨額の持参金を得たことから悠々自適の生活を送った。だから、「シオニズム」運動に時間を使うことができたのだろう。
 ユダヤ人が如何に迫害されてきたか、そしてヘルツルの時代にもロシアでポグロムと言うユダヤ人に対する虐殺事件が多発していたことは、昨日述べたとおりだ。
 そのユダヤ人問題を解決するために、最初、ヘルツルは、ユダヤ人をドイツなどヨーロッパ各国に同化させようと考えた。自分はユダヤ教から改宗しないが、自分の子供の将来のことを考えると子供はキリスト教に改宗させよう、とまで考えていた。
 ところが、1800年代も終わり近くになると、ヨーロッパ中に反ユダヤ運動(アンティ・セミティズム)激しくなってきた。
(アンティ・セミティズム Anti-Semitism とは反ユダヤ主義のこと。Semite はセム語族の意味。西アジアから北部および東部アフリカにかけて、人種を区別するのにその話す言葉で、セム語族、ハム語族と呼んでいる。セム語の中には、ヘブライ語も、アラビア語も入るが、この「アンティ・セミティズム」の場合には、ユダヤ人を指す。)
 どんなにユダヤ人が同化しようとしてもそれを認めない。
「ユダヤ人はゲットーのユダヤ教に執着したなら、それが理由で彼らは異質だとされた。ユダヤ人が世俗化し自らを『啓蒙』したならば異質な文明社会の一員となった」(ポール・ジョンソン「ユダヤ人の歴史」)

 例えば、アンドレ・ジィドは次のように、言っている、
「今日フランスにはユダヤ文学があるが、それはフランス文学ではない。(中略)誰か異質な人間がフランス人の名において、フランス人に代わってその役割を演ずることを許すよりも、フランス人が消えてしまうほうがよほどましであろう」(同上)

 こんなことを言われてしまっては、ユダヤ人は生きる場所がなくなってしまう。
 ユダヤ人は離散民族である。各地に散らばっている。しかし、行く先々でその土地の社会に貢献している。
 それにも拘わらず、ヨーロッパ人はユダヤ人を自分たちの社会から排除しようとする。
 ジィドの言葉は、反ユダヤ感情の持つ愚劣さ、人間性の根幹に関わる低劣さ、無神経な冷酷さ、残虐さを表している。

 政治の世界でも、アンティ・セミティズムが進み、アンティ・セミティズム運動を掲げた議員が1895年にはドイツの上院の過半数を占め、ウィーンでは、自由主義者71議席に対して、アンティ・セミティズムの議員が56議席を獲得した。
 こうなると、ユダヤ人の中にも諦めが広がってくる。
 ロシアのユダヤ人、レオン・ピンスケルは次のように言った。
「生きている者にとってユダヤ人は死人だ。ある国民に取っては異邦人であり放浪者、資産家にとっては物乞いだ。貧乏人にとっては搾取する者であり億万長者、愛国者にとっては国なき人間だ。あらゆる階級の人々にとって憎むべき敵なのである」(同上)

 実際、もし私がその頃のヨーロッパにユダヤ人として存在したらどうだったろうと考えるだけで寒気がする。
 人間、そこまで自己を否定され、肉体的な迫害を受け続け、良く生き延びることができたものだと、ユダヤ人の根性には感心するばかりだ。

 ヘルツルも、その様な状況を見て、同化しても無理だと考えるようになってきた。決定的なのは、フランスでおこったドレフュス事件だった。
 これは、フランスの陸軍大尉ドレフュスがスパイの冤罪を掛けられて投獄された事件である。はっきりした証拠もないのに、ドレフュスがユダヤ人であると言うだけの理由で有罪とされ、士官としての名誉を剥奪され投獄されたのだ。
この、ドレフュス事件については、小説家のエミール・ゾラなどが、批判の声を上げ、最終的にドレフュスの冤罪は雪がれ、将軍に復職するのだが、それは随分後のことで、ヘルツルはそれを見ることができなかった。
 そのドレフュス事件は、ヘルツルに決定的な衝撃を与えた。
 ユダヤ教を捨ててまで、ヨーロッパの国々に同化しようとしても、ユダヤ人はユダヤ人として受け入れられない、ことを思い知らされた。
 では、一体どうすれば良いか。

 そこで、ヘルツルは、
「これだけ、アンティ・セミティズムが激しくなっていけば、ヨーロッパ全土からやがて間もなくユダヤ人は追放されてしまうだろう。
 その追放されるユダヤ人に、代わりの緊急避難所を考え出すことが緊急に求められている。ユダヤ人は彼ら自身の国を持たなくてはならない」と考えた。
 これが、「シオニズム」の原点だろう。

 ここで興味深いのは、最初、ヘルツルは、ユダヤ人を収容するのに十分の広さの土地で、ユダヤ人の主権が与えられるところであれば、どこであってもかまわない、と考えていたことだ。
 アルゼンチンでもウガンダでも良いと考えていたのだ。

 ヘルツルのこのユダヤ人のための新しい国を作る、と言う考えは当時のユダヤ人の有力者たち、知識階級から受け入れられなかった。乱暴で馬鹿げた考え方で、そんなことをすれば、ヨーロッパでのユダヤ人の立場をますます危うくする、と有力者、知識階級はヘルツルに反応した。

 ヘルツルはまずユダヤ人の間に、自分の考えを説いて回らなければならなかった。
 1897年8月29日にスイスのバーゼルで第一回シオニスト会議を開き、それ以降も、ヨーロッパ中を回って、ユダヤ社会の有力者たちを説得して回った。
 ヘルツルの意見は徐々にユダヤ人社会に受け入れられていったが、ヘルツルは1902年に44歳の若さで亡くなった。
「シオニズム」の展開、イスラエルの建国は、後の人間に託さざるを得なかった。
 しかし、ヘルツルの生前、後にイスラエル建国に力を尽くす、ハイム・ヴァイツマン(イスラエルの初代大統領)、ダヴィッド・ベン・グリオン(イスラエルの初代首相。イスラエル独立の象徴とされている)は、既にヘルツルについてよく知っており、二人とも、ヘルツルをメシア(救世主)と思ったと語っている。

 ヘルツルの展開した「シオニズム」こそ、イスラエルを建国させたものであり、パレスティナ問題を産み出した、根幹なのである。

(明日に続く)

雁屋 哲

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