雁屋哲の今日もまた

2009-12-23

共和国の友人たち5

(前回からの続き。)

日本が、朝鮮・中国に対して行ったこと。

4)「朝鮮王宮占領」から「日清戦争」へ

1894年、「東学」という民衆宗教への弾圧に抵抗する宗教闘争から農民闘争へ広がった「甲午農民戦争」が勃発した。
当時の朝鮮の地方政府の役人は腐敗していて農民に対して貪欲、かつ残虐な政治を行っていた。
それに対する粛正を求めると同時に、当時朝鮮に勢力を伸ばしてきた日本と西洋の侵入に反発して、農民戦争が起こったのである。
それに慌てた朝鮮政府は鎮圧のために清国に出兵を要請した。
清国が出兵したことを知った日本政府は、1885年に清国と結んだ「天津条約」の、

「将来朝鮮に重大事件が起こって派兵する必要があるときには、日中双国は互いに知らせあって、ことが収まったら直ちに撤兵して、兵をそのまま留め置かない」

と言う規定に基づいて清国政府に、通告して、10月10日に軍艦と陸戦隊を派遣した。
清国と日本が乗込んできたのを見た農民軍は和解に応じ、「全州和約」が成立した。
これで、もう、清国も日本も兵を朝鮮に留めておく必要がないので、朝鮮政府も、ロシア・イギリスも日清同時撤兵を要求したが、清国を朝鮮から取り除くために、戦争を企んでいた日本は、その要求に従わず、清国に「日清両国で朝鮮の内政改革をしよう」と迫る。清国が断ると、「では日本単独で朝鮮の内政改革を行う」と言って撤兵に応じない。
逆に、朝鮮政府に「清国軍に撤退を求めること、清国が朝鮮の宗主関係にあることを反映する清国間との条約を廃すること」を要求した。
もし、朝鮮政府が清国に撤兵要求をしないのなら日本が代わりに清国を朝鮮から追出してやる、という乱暴極まりない物だった。
朝鮮政府が、日本の要求にこたえられる訳がない。
それを予期していた日本は、計画通り、22日に軍を朝鮮王宮に送り込み、国王を捕らえ、それ以前に清国から送り返されていた、大院君(前回を参照)を担ぎ出して、政務に当たらせることにした。

日本人は想像して見て欲しい。
皇居に外国の軍隊が攻め込んで天皇を捕らえ、捕らえた天皇に命じて日本を自分たちの思うとおりに動かしたら、日本人はどう思うか。
(当時の樣子は、陸奥宗光の書いた日清戦争回顧録「蹇蹇録(けんけんろく)」に書かれているが、それにはごまかしがあり、前掲の中塚明氏の著書『歴史の偽造を正す』に、新しく発見された資料を用いて真相が語られている。)
と、同時に、その2日後に、突然「豊島(ぶんど)」沖で、日本海軍は清国海軍に奇襲を加え、イギリス国旗を掲げているにも拘わらず清国の戦艦を撃沈し、四人のイギリス人乗組員は助けたが、1000人以上の清国兵は見殺しにした。
また26日は朝鮮に駐留する清国軍を攻撃し打ち破った。
日本が正式に清国に宣戦布告をする(天皇による宣戦の詔勅が出された)のは、8月1日になってからである。
実は、日露戦争の際にも、日本はまず旅順港に停泊しているロシア艦隊を攻撃した後に、宣戦布告をした。
良く、日本人は、真珠湾攻撃は奇襲ではない。宣戦布告の電文を当時の駐米大使館の不手際でアメリカに送るのが遅れただけだ、というが、日本が宣戦布告前に奇襲を行うのは日清戦争の時から始まっているのであって、対米戦争の際が初めてだったのではない。日本軍にとっては当たり前のことだったのだ。
日清戦争は日本にとって、大義も、道理もないものであり、この戦争を強引に始めた時を振り返って、陸奥宗光は日清戦争の回顧録「蹇蹇録」に、

「(前略)各当局者はすこぶる惨憺の苦心を費やしたるは今においてこれを追懐するも、なおも竦然(しょうぜん)たるものあり」(各当局者が惨憺たる苦心を費やしたことは今になって思い出しても、恐ろしくてぞっとするものがある)

と書残している。

こうして、無理矢理、朝鮮を巻込んで始めた日清戦争で日本は勝利した。

5)「閔妃暗殺」

日本は「日清戦争」に勝ちはしたが、清国から奪った遼東半島をロシア・ドイツ・フランスの三国干渉によって返還したことで、朝鮮政府は日本を軽く見るようになり、日本の思惑通り朝鮮の支配が進まない。
ロシア公使も夫人などを介して閔妃に働きかける。
一時勢力を誇った朝鮮政府内の親日派も影が薄くなった。
このままでは、朝鮮はロシアの影響力の下に入ってしまうと日本政府は恐れた。
朝鮮に在留していた日本人達も、非常な危機感と、不満を抱いていた。
ロシアと朝鮮の関係を深めているのは閔妃だと考えた日本政府は、陸軍中将の三浦梧楼(みうらごろう)を公使として朝鮮に送り込んだ。

角田房子氏は「閔妃暗殺」の中で、

「三浦は辞退したが、ソウルの井上馨からも催促がありついに三浦は『政府無方針のままに渡韓する以上は、臨機応変、自分で自由にやるのほかはないと決心』して赴任したとのちに彼は書いている。

日本の各界が朝鮮へかける期待を、三浦は充分に知っていた。それに応える道は王妃暗殺以外にないと、このとき彼は決心したのだ」

と書いている。

1885年10月8日早朝、三浦梧郎公使の立てた計画と命令に従って、日本の軍隊と在留民間人百数十人が宮殿に押し入って閔妃を虐殺した。
殺した日本人達は、それが本当に閔妃であるか確かめるために、非道なことをした。

「閔妃暗殺」の中で、角田房子氏は、

「さらに閔妃の遺体のそばにいた日本人の中に、同胞として私には書くに耐えない行為のあったことが報告されている」

と書いている。

計画では夜の内に全てを済ませてしまうはずだったのが、手違いで実行が早朝になってしまったので、多くの人間に日本人の一隊が宮殿に押し込むところを見られてしまった。
特に日本にとって具合の悪いことは、アメリカ人のダイとロシア人のサバチンが宮殿の前庭に立って一部始終を見ていたことだ。
国際的に大きな問題になることを恐れた日本政府は、三浦梧郎公使らを日本へ連れ帰り、形だけの裁判にかけた。
その結果、日本人は、軍人も、公使館員らも、民間人も全員無罪となった。
奇怪なことに、三人の朝鮮人が犯人とされ死刑にされたのである。
閔妃は1897年に、明成(ミョンソン)皇后と諡(おくりな)された。現在の、共和国・韓国の人々には閔妃でなく明成皇后としての方が良く知られている。
三浦梧郎を始め、事件に拘わった日本人はその後みな、いわゆる出世をした。陸軍大臣になった者もいれば、新聞社の社長になった者もいる。
かれらは、罪の意識は毛頭なく、愛国の志士として立派なことをしたと死ぬまで思っていた。
当時の日本人も、ソウルから帰ってきた三浦梧郎らを凱旋将軍のように歓迎した。
しかし、当然朝鮮の人々の怒りは大きかった。
閔妃の政治姿勢などに賛成でない朝鮮人でも、自国の王妃を殺されたことで、日本人に対する怒りが燃え上がった。

我々日本人は、王宮占拠に続いて、この件を自分の物として想像して見るが良い。
もし、日本の皇后が外国人に殺されたらどう思うか。
怒りに狂乱するのではないか。
今の日本人に明成皇后などと言っても通じる人は殆どいない。
閔妃・明成皇后を日本人が虐殺したことを語っても、嘘だ、と言う。
共和国・韓国の人々で知らない人はいない。
この差は大きい。

6)「日露戦争」と「日韓議定書」そして、「第一次日韓共約」の締結。

1897年、朝鮮が国名を韓国と変え、国王を皇帝と改称することになった。
以後、朝鮮を韓国と呼ぶ。
1904年2月日から9日にかけて、旅順港に停泊していたロシア艦隊に日本連合艦隊が例によって奇襲攻撃をかけた。
仁川では、臨時派遣隊が漢城(ソウル)へ入り、護衛艦隊が仁川沖でロシア軍艦2隻を撃沈した。
ロシアに対する宣戦が布告されたのは、奇襲攻撃をかけた後の2月10日になってからである。
日露戦争が始まってから、日本政府は、韓国政府に「日韓議定書」に調印させた。
その内容は、「日本が韓国に対して保護、指導の立場にあることを明文化し、日本軍の不当な軍事占領を合法化するとともに、以後の戦略展開に対して韓国の協力を義務づけるものであり、さらに日本は前項の目的のために、軍略上必要の地点を先占することが出来る」ことも決めた。
更に日本は、「韓国の財務、外交を日本が支配する」目的の、「第一次日韓協約」を結ばせた。

8)「第二次日韓共約」の締結。

1905年10月17日、伊藤博文は、韓国の閣議に銃剣付きの銃を担いだ兵士達大勢と乗り込み、軍の威圧のもとに韓国の大臣達を個人個人脅し挙げてむりやり、韓国を日本の保護国とする保護条約「第二次日韓共約」に調印させた。
この「第二次日韓共約」によって、韓国は日本の保護国となり、外交権は日本に奪われた。
一つの国が、その外交権を奪われると言うことは他国との交渉を全て自分の意志と力で出来なくなることだ。外国との交渉を自分で出来ないのでは、もはや国ではない。
しかも、韓国には日本政府の代表としての統監を置くことになった。
統監によって、日本は韓国の内政面の実権も握ったのである。

8)「統監府」の設置。

1905年12月20日。「統監府及び理事庁官制」が公布された。
統監は政務の監督、守備軍の管理の監督、条約の運行、など強大な権限が与えられた。
韓国内全般にわたり監督と支配のための植民地機構が統監制だった。

9)「高宗の強制譲位」

1907年オランダのハーグで開かれた第二回万国平和会議に、高宗は日本の不法を訴えるための使者を送ったが、会議出席を断られた。
この、ハーグに使者を送った件で、日本政府は高宗に皇太子への譲位を迫り、日本政府の力に負けて、高宗は皇太子に譲位し、皇太子が、新皇帝、純宗となった。

10)「第三次日韓協約」の締結。

この「第三次日課協約」で、韓国の立法行政権を日本が支配し、軍隊も解散することになった。
こうなれば、もはや韓国は国として成立しないも同然である。

11)「韓国併合」

これまでで、日本は都合の良いように韓国を支配してきた。
それを更に決定づけたのが、「韓国併合」である。
1910年8月16日、寺内統監は、李完用首相を官邸に呼び、併合条約を受諾するよう求めた。
その言い分が、厚顔無恥、人間の心を失った人間の言葉である。
寺内総監は大略次のように言った、

「日本は韓国を守るために、これまで、日清日露の二度の戦争を戦い、大勢の犠牲を出し多額の資金も使った。それ以後、誠意を傾けて韓国を助けることに勤めたが、現在の制度の下ではその目的は全うできない。将来韓国皇室の安全を保障し、韓民全般の福利を増進するためには、日本と一つになり、政治機関を統一するしかない」

全部嘘だ。日本政府全体が恥知らずの嘘をつく。
これまで、日本政府がしてきたことと、寺内総監の言葉と突き合わせてみると、その言葉のあまりの浅ましさに、同じ日本人として恥ずかしさの余り身をよじる。
日清・日露の戦争は、日本が韓国を守るために戦ったのではない。逆に、韓国を自分の物にするために清国、ロシアと戦ったのではないか。
世界中誰が聞いても笑い出すような悪質で幼稚な嘘を平気で言い張るような、それほど低劣な国民だったのか、我が日本人は。
1910年8月18日の閣議で、首相李完用は反対する重臣らの賛成を取り付けた。
12日、天皇は「韓国併合条約」裁可し、韓国御前会議も条約を承認し、「韓国併合」は成立した。

「韓国併合」は、

「まず、韓国帝王がその統治権を天皇に譲与するとし、これを受けて天皇がその申し出を受諾して韓国を併合する」

と言う物だった。このような偽善的な形態を取った日本政府には吐き気をおぼえる。
人間として許し難い。日本国民末代までの恥だ。

余談だが、私の高校の同級生に朝鮮人がいた。
姓は伏せるが、名は「用完」と言った。
その当時は何とも思わなかったが、ずいぶん時間が経ってから、韓国併合時の首相の名前が、李完用であり、今でも、共和国・韓国では民族の裏切り者とされていることを知って、はっとなって、彼の名前を思い出し、その持つ意味に気がついた。彼の名前は、李完用のような、人間になるな、その反対の人間になれと親が思って「完用の反対の 用完」として付けたのではないかと。
彼は、1960年代始めに、北朝鮮帰還運動が盛んなときに共和国に帰ってしまったので、私の想像が正しいかどうか確かめようがない。
しかし、私は、自分の想像が正しいのではないかと思う。

次回で、締めくくりをする。

雁屋 哲

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