少年サンデー・少年マガジン50周年記念合同パーティー
3月17日、少年サンデー・少年マガジンの50周年記念合同のパーティーが開かれた。
私はパーティーと言う物が実に嫌いで、お誘いがあっても出席せず、最後に出席したのは、我が愛する池上遼一さんが小学館漫画賞を受賞されたときのお祝いのパーティーだ。
幾らパーティー嫌いと言っても、私が最初に漫画の世界に入るきっかけを作ってくれたのが少年マガジンの山野さんだし、当時の少年マガジンの編集長の宮原さんだ。
さらに、私が本格的に漫画の世界で食べて行かれるようにしてくれたのは、少年サンデーの白井さんだし、当時の少年サンデーの編集長の井上さんだ。
サンデーとマガジン。強烈な敵対意識を持っていた両誌が合同で50周年記念パーティーを開くという。
いくら、パーティー嫌いでも、両誌にお世話になった私として、これだけには出席しなければなるまい、それに、昔の編集者たち、漫画家たちと会える。これは同窓会ではないかと考え、14日にオーストラリアを出た。
私がこの漫画の世界に出ることの出来たのは池上さんのおかげだ。今コンビニエンスストアーで、「男組」が売り出されている。私と池上さんの多分二人にとっても漫画の世界に本格的に乗り出すことの出来た作品だ。
私の人生で池上さんは特別な意味を持っている。
私は池上さんと握手だけではすまず、堅く抱き合った。
60を過ぎた男二人が抱き合う姿なんて気持ちが悪いなんて言う人がいたら、聞き返したい。君の人生に、それほどの人間に出会ったことがあるか。お互いの出会いがともに二人の人生を切り開いた。そんな人間を持っているか。
あ、いけない、こういうの自慢話になるんだな。
とにかく楽しいパーティーだった。
先輩の漫画家の先生方ともご挨拶が出来た。
一番驚いたのは、受付で、署名するときに、私の前で署名されていたのが、「山根青鬼」先生だった。「山根赤鬼、山根青鬼」のお二人は私が子供のころから愛読していた漫画の先生で、お二人は一卵性双生児、絵柄もほのぼのとした話の内容も非常に良く似ていて、ずいぶん愛読した物だ。
その、山根青鬼先生が目の前におられる。
私は、思わず、失礼をも顧ず話しかけてしまった。
先生は、私が昔からの先生の愛読者だと知って大変喜んでくださった。
ついでに、山根赤鬼先生と秘話もお話し下さった。
とにかく、絵柄もそっくりなので、忙しいとき赤鬼に来た仕事を青鬼がして、それで編集者にも全然ばれなかったそうだ。
今回一番嬉しかったのは、山根青鬼先生にお会い出来たことだ。
そのほか、尊敬するにやまない先生方にも久しぶりにご挨拶できた。
ちばてつや先生、矢口高雄先生、長井豪先生(うっかり、ごうちゃん、などと呼んでしまったが)、
マガジンで、一緒に組んで「海商王」を描いてくれた、かざま鋭二さん。担当をしてくれた工富さん
「炎の転校生」の後、「風の戦士ダン」で私と組んでくれた島本和彦さんにもお会い出来た。
じつはこの、島本さんとの出会いは私には大変大きかったのである。
それ以前、雁屋哲といえば暴力漫画、と決めつけられていた。
「風の戦士ダン」は現代の世の中に昔の忍者が登場して活躍したら面白かろうと思って書き始めたのだが、私としては原作にギャグを入れなかった。ところが、出来上がった作品を見ると、妙におかしいギャグが入っている。普通なら、私の原作にない物を入れたら私はかなり神経質に拒否するのだが、島本さんのギャグは面白いのである。担当編集者も、恐る恐る私に見せたのだが、私は「へええ、こんなことになるの」と怒るどころか、返って面白いと思った。
それが何回か続くうちに、「それなら、原作からギャグを入れてやろう」と思ってギャグを入れ始めた。
担当の編集者が言うことには、他の編集者に「あんなギャグを入れて、雁屋さんが怒っているだろう」と言われた、そこで、私の原稿を見せたら、その編集者がのけぞって「ひゃあ、あの雁屋さんがギャグを書いているんだ」と驚いたという。
確かに私の漫画はそれまで暴力漫画一辺倒だった。
あのまんまだったら「美味しんぼ」は書けなかった。
めちゃくちゃな暴力漫画の後に、島本さんと出会ったから、「美味しんぼ」が書けた。
島本さんのあの、類い稀なギャグの感覚を吸収できたから、「美味しんぼ」を書くことが出来たのだ。
「美味しんぼ」には山岡にしろ、富井にしろ、そのほかちょっとおかしい人物が登場するが、そのような人物の準備は、島本さんと組んで仕事している間に出来上がっていたのだ。
もう一つ嬉しかったのは、高橋留美子先生にお会い出来たことだ。
これには、ちょっとしたいきさつがある。
私の次女が生まれたとき、長女もそうだったのだが頭髪がほとんど無く、産毛程度で、しかも顔全体がぷくぷく膨らんでいた。
どうも、そのころ高橋留美子先生のお書きになっていた漫画の登場人物「チェリー錯乱坊」という坊主を思わせた。(今はそんなことはありません。私の家の女の子は生まれてから髪が生えそろうまで1年以上かかるようである。髪の生えそろった今、次女は親の口か言うのも何だがとても可愛い女の子です)
で、その当時高橋留美子先生に、「家の娘が、チェリー錯乱坊みたいなんですよ」と言ったら「女の子に、そんなことを言ったらいけません」とたしなめられ、御著書にチェリー錯乱坊」の絵を描いて贈って下さった。
で、今回、高橋留美子先生にお会い出来たら、もう一度「チェリー錯乱坊」の絵を描いていただきたいと願っていたのだ。
思いは通じて、高橋留美子先生に、新たに「チェリー錯乱坊」の絵を描いていただいた、
色紙を持参すれば良かったのだが、それは返って大げさで不自然と考えて、私の手帳に書いていただいた。その手帳の紙は直ちにきれいに切取って、額に入れて終生の宝物にする。
パーティーの後、3月末で店を締めると言う「ちえ」の店に大挙して繰出した。
人が入れ替われ立ち替わり、いったい誰が来たのかどう言う具合に人が入れ変わったのか分からなかったが私一人はでんと腰を据えて、いったいどれだけ飲んだのだろう。途中で、ウィスキーの新しい瓶を自分のために追加したのは憶えている。何故かというと、私には私のウィスキーの飲み方があって、店の人間に任せておくと、勝手に氷を入れたり、余分な水を入れたりするので、面倒でも瓶を手元に置いておかなければならないのです。
そう言う飲み方をすると、ずいぶん飲んでしまうもので、瓶の底かから何センチ飲んだかなんて、そう言う理性は働きません。
さすがに午前2時半に銀座を出て、3時半に鎌倉に着き、布団に潜り込みましたが、目が覚めたら、午後3時でした。
あわてて、トイレ、シャワー、お茶を飲みましたが、再び沈没。
夕食は、「今日はお酒はやめたら」、と愛する妻に説教されましたが、こういう日に酒をやめると卑怯な人生を送ることになるので、芋焼酎をしこたま飲みました。
18日はまるで棒に振ってしまいましたが、17日のパーティーは本当に楽しかった。漫画家として生きて来て本当に幸せだったと思いました。