雁屋哲の今日もまた

2019-05-03

追悼 小池一夫先生

小池一夫先生が、4月17日に亡くなられた。83歳だった。

私にとって、小池一夫先生は仰ぎ見る存在だった。

 

私は、日本の漫画界に貢献したのは、手塚治虫、梶原一騎、そして小池一夫先生のお三方だと思っている。

日本の漫画界には、個々に、素晴らしい業績を上げた漫画作家は何人もいる。

しかし、日本の漫画界の方向を決めたのは上に挙げたお三方だと思う。

手塚治虫は、現在の日本の漫画の基礎を作った。

それまで、漫画というものは、滑稽を主にした物で、登場人物はただ読者を笑わせるようなことをすれば良いとされていた。

その人間がどのような背景を持っているか、どんな考えを持っているか、そのようなことは必要とされなかったし、描かれなかった。

しかし、手塚治虫は初めてその登場人物に人格を持たせた。

どんな過去を持っているのか、どんな背景を持っているのか、何を考えているのか、何をしようとしているのか。

小説や戯曲の世界では当然とされていた登場人物の人格を初めて漫画の中の人物に持たせたのだ。

また、その作り出す人格が新鮮で、物語も読者の胸を躍らせる魅力的なものだった。

その結果、手塚治虫の描く漫画の世界はその舞台設定が奇抜で、非現実的であっても、登場人物たちの言動と吐露する思いは人生の真実に根ざすもので読むものの心に深く訴えかけてきた。

手塚治虫は、ドストエフスキーの「罪と罰」から、「鉄腕アトム」、「ジャングル大帝」、「リボンの騎士」、「ブラックジャック」、「火の鳥」、などその作品の幅は広く、また内容は深く、漫画はどんなことでも描けるものだと言うことを私達に示してくれた。

外国人の中には日本では大人が漫画を読むことを奇異に思い軽んじる人が少なくない。それは、外国に手塚治虫が現れなかったために、チューインガムの附録程度の漫画か、新聞の土曜日か日曜日に掲載される4コマ程度の幼稚な内容のものを漫画と思い込んでいるからだ。

日本の漫画の世界がこれだけ豊かになったその大本は手塚治虫にある。

手塚治虫が私達に与えてくれた恩恵は大きい。

私達漫画の世界で生きてきた人間だけでなく、日本の社会全体に手塚治虫の恩恵は及んでいる。

手塚治虫のおかげで日本の漫画文化は大いに進み、1960年代になると、漫画専門の週刊誌が幾つも発行されるようになった。

そうなると、漫画の物語作りをマンガ家一人に任せておくことでは足りなくなった。絵が上手でも話作りが不得手なマンガ家はいる。また、そのマンガ家の持つ特性を充分に引き出すためには他の人間の作った物語を使う方が良いこともある。

そんなことで、初期は昔の小説などを原作とした漫画が書かれた。

そのうちに、漫画に使える過去の小説などがなくなってきた。

それで、映画のシナリオを書くように漫画のための物語を書く人間が求められるようになった。

そのような人間を漫画の世界では、「原作者」とよぶ。

もともと、昔の小説などを原作としたことの名残りとして、全く新たに物語を作り出す人間の書くものも「原作」とよばれ、書いた本人も「原作者」と呼ばれる習慣が一般化したのだ。私は最初その呼び方に大変奇異な感じを持った。今でも、なんだかおかしいと思う。

その原作者としてまず大成功を収めたのが梶原一騎である。

梶原一騎は物語主導の漫画を初めて作り出した方である。

梶原一騎は、少年漫画の世界で大きな業績を上げた。「巨人の星」「あしたのジョー」「空手バカ一代」など、それぞれが社会に大きな影響を与えた。

そして、小池一夫先生が登場する。

それまで漫画は、子供の読むものとされていた。

それを、小池一夫先生は一気に漫画を大人の世界にまで広げた。

「子連れ狼」「御用牙」「I飢男」「クライングフリーマン」、それにゴルフ漫画など、数多くの作品を産み出した。

日本の漫画を大人も読めるものにまで枠を広げたのは小池一夫先生の力だ。

小池一夫先生が出て、日本の漫画の世界は子供から大人まで楽しめるものとして完成されたのだ。

 

小池一夫先生は、ご自分が優れた漫画原作者であるだけでなく、後輩の育成にも力を尽くされた。

「小池一夫劇画村塾」を作り、マンガ家、漫画原作者の育成に力を尽くされた。「小池一夫劇画村塾」からは、何人もの漫画作家が輩出している。

 

私は1974年に「男組」という漫画を少年サンデーに連載を始めた。それまでに、友人たちと共同で「ひとりぼっちのリン」という漫画を少年マガジンに連載していた。友人たちと共同と言っても、始めて直ぐに少年マガジン編集部からの要請でそれまで友人たちと回り持ちで書いていた原稿を私が一人で書くようになってしまった。

ではあるが、あくまでも友人たちとの共同作品なので、私の実質的な原作者としてのデビューは「男組」である。

1974年の一月から連載を始めたところ、思いもよらぬ好評を得た。私のアパートに毎日、時には日に2回通ってきて少年サンデーに原稿を書けと迫って来た編集者が連載を始めて3ヶ月ほど経ったときに私に言った「雁屋さん、あなた、今自分が大ヒット作を書いているということを自覚している?」と尋ねられて、私はうろたえた。まさか自分がヒット作を書くとは夢にも思わなかったのだ。

そして、六月頃に、突然小池一夫先生から、少年サンデー編集部を通じてお声がかかった。「一度、遊びにおいで」というお誘いである。

私はコチコチに緊張して先生のプロダクション「スタジオシップ」に伺った。

先生は恐れ多さの余り固くなっている私を柔和な笑顔で迎えて下さった。

先生は仰った、

「君の書いている『男組』はおもしろい。ただね、連載開始後半年経っても、一番最初の時のまんまエンジンをフルスロットルで車を飛ばしているみたいに見えて、ちょっと心配しているんだ。漫画の連載は、一本調子では書く方も疲れるが、読者も疲れるよ。ときには、手綱を緩めてほっとさせる回を作る必要がある。そうしないと、長く続かない。気を抜けと言っているんじゃない、緩急自在を心得た方がいいと言っているんだ」

この時頂いた先生のご忠告は今も肝に銘じている。

しかし、今でも深く考えざるを得ないのだ。

デビューしたばかりの新人を呼んで、そのような親切な忠告をしてくれる人間がいるだろうか。何と懐の深い、心の大きな方であることか。

先生は新人の育成にも力を尽くされたが、後輩を励まし、勇気づけることに気を使われる方だったのだ。

先生がいかに新人の育成に気を使っておられたか、私はそのことをたっぷり思い知らされたことがある。

集英社は「集英社漫画大賞の原作部門」を作り、漫画だけでなく、漫画の原作者を目指す若い人達の作品を公募していた。1980年代になって、私もその選考委員を委嘱された。

その原作部門の選考委員として、梶原一騎先生と小池一夫先生が中心になっていたのだが、梶原一騎先生が亡くなったので、代わりに私が選考委員の一人として選ばれたのだ。

漫画原作創始者と言える梶原一騎先生のあとを継ぐとは恐れ多いことだが、そのような賞で若い才能のある人間を発掘することは大変に意義のあることなので、お引き受けした。

選考委員は時によって替わることもあった。(今では大変なベストセラー作家になっている方も一時期選考委員だったこともある)

しかし、いつも中心は小池一夫先生で、先生はおおらかな方だから色々と選考委員たちが議論しても、ニコニコしながらその議論に加わってこられた。

ただ、先生はとにかく毎回、応募してきた人間の中の誰かに劇画原作大賞を上げたくてたまらないのだ。

大賞の賞金は百万円だった。大金である。

賞金の金額もそうだが、集英社漫画大賞という名前がついている以上、安易に受章者を出すわけにはいかないと私は考えた。

しかし、先生の考え方は違う。

「とにかく大賞を与えて励ましてやれば、その人間は立派な原作者に成長するんじゃないか。だから、才能の芽のある人間には大賞を上げよう」

と仰言る。

私は作品の出来の善し悪しに特に厳しい方で、時に先生と対立することもあった。

先生は、そんな私を見て笑いながら、「雁屋さんは厳しいねえ」などと仰言った。

ここにも、先生の新人を育成したい、後輩を励ましてやりたいという気持が溢れていた。

先生に比べて私は、そのような気持を抱けず、批評意識だけか強かった。今になって、先生のような度量の大きさがなかったことを恥ずかしく思う。

私が「美味しんぼ」を書き始めてずいぶん経ってから、先生は朝日新聞に「美味しんぼ」について言葉を寄せられた。

それは、過分のお褒めの言葉だった。私は飛び上がるほど嬉しかった。胸が弾んだ。

それを、ここに披露したいのはやまやまだが、それでは自慢をしているように思われるので、やめることにする。

しかし、私はそれを読んで、先生は相変わらず後輩を引き立ててやろうという気持を強くお持ちなのだな、と思った。

初めて先生のところに呼んで頂いたときのことに戻るが、その時先生は、当時人気絶頂だった「子連れ狼」の原作を私に見せて下さった。

原稿用紙は、上下三段に分かれていて、真ん中が一番広く取ってあって、そこにドラマが展開する。上段と下段は、マンガ家に対する注文と、註釈で、先生は必要な資料を準備するだけではなく、漫画のコマ割りまでも考えておられた。

その原稿ときたら、全て綺麗な読みやすい字で書かれていて、一回ごとの原稿は綺麗に綴じられていて、「子連れ狼」と印刷された黒い色の表紙がついている。そこに第何回と回数が記入される。

漫画の原作の枚数は、出来上がった漫画が20ページとしたら、200字詰め原稿用紙20枚。業界では、200字詰め原稿用紙のことを「ペラ」というが、漫画一ページに原作はペラ一枚というのが、マンガ家にとって一番書きやすいのだ。

先生はそれをきちんと守って、必要な枚数で必要な内容を書く。

先生は、「漫画の原作は、こういう風に書くんだよ」とご自分の原稿を見せて教えて下さったのだ。

デビューしたばかりの新人にご自分の原稿を見せて、漫画の原作の書き方を教えてくださるとは何という度量だろう。普通の人間に出来ることではない。

所が私ときたら、先生の教えが身につかず読みづらいひどい字で、考えたこと全部をびっちり詰め込む。20ページの漫画の原作として、200字詰めではなく400字詰め原稿用紙で40枚くらい平気で書いてマンガ家さんに渡す。

私と組んだマンガ家さんは例外なく、私の原稿の野放図な量に苦しめられてきた。

池上遼一さんは「ひとりぼっちのリン」、「男組」、「男大空」と私と一緒に仕事をした下さった方だが、あるとき、池上遼一さんは小池一夫先生の原作と、私の原作とで、二本の漫画を書いたことがあった。

その時に、池上遼一さんに私は、「小池先生の原作だったら、ネームを取るのに2時間で済むけれど、雁屋さんの原作だと2日かかるんだよ」と文句をいわれた。(このネームというのは、日本の漫画界独特の用語で、漫画のコマ割など、全体の構成をすることを言う)

私は先生の生原稿を見せて頂いて、恐れ多くなった。

折角先生に原作の書き方を教えて頂いたのに、怠惰で、しかもそのように綺麗にまとめる能力を欠いている私はそれからも、書きたい放題大量の原作を書いて、組んで下さるマンガ家さんたちを苦しめてきた。

一番の被害者は「美味しんぼ」の花咲アキラさんだろう。

なんと、30年間も私の乱暴な原作に苦しめられたのだから。

もっとも、連載が始まって10年以上経ったときに、花咲さんにご自分の描いた画稿と、私の原作を比べて、「どうして、この画稿のように原作を書けないのか」叱られて、反省して、それまで400字詰めで一回当たり40枚以上入れていた原稿を、20枚に収めるようにした。それにしても、「美味しんぼ」の毎回のページ数は22ページ。であれば、ペラで22枚が正しい。それなのに私は400字詰めで20枚、ペラで40枚だ。しかし、それが私の限界だった。

花咲さんはその私の乱暴な原作に耐えて、単行本111巻まで描いてくださった。

折角、小池一夫先生がご自分の原作を見せてくださったというのに、私は能力不足のせいで先生の教えをものにできずに多くのマンガ家さんを苦しめてきた。恥ずかしい限りだ。花咲さん御免ね。

「美味しんぼ」を再開したら、その時はきちんとした枚数で描きますからね。(本当かな)

小池一夫先生は、立派な体格をしておられた。体力もおありになった。一度、先生の予定表を見せて頂いたことかあるが、殆ど毎日ゴルフの予定が入っているのには驚いた。先生は「アルバトロス」というゴルフの週刊誌をご自分のプロダクションから発行されていた。どうも、ゴルフ熱が嵩じて週刊誌を発行されたのではないかと失礼なことを考えたりもするが、漫画の原作をガンガン毎週毎月何本も描かれながらの上でのゴルフである。

まさに、超人的な体力と創作能力をお持ちだった。

私はこの30年間シドニーで半分以上の時間を過ごすようになって、先生ともめったにお会い出来なかった。

頑健な体力の先生だから、まさかこんなに早く亡くなってしまわれるとは思いもよらなかった。

先生にお会いして、あの柔和な笑顔に接したかった。

実に残念で悲しい。

巨星墜つ、とはこのことだろう。

小池一夫先生の作品群は私の前に小池一夫山脈として聳え立っている。

いつかは、その小池一夫山脈を乗り越えたいと願ったが、とうとう麓に迫ることすら出来なかった。

小池一夫先生のご逝去を心から悼んで、この一文を閉じる。

先生、有り難うございました。

雁屋 哲

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