雁屋哲の今日もまた

2013-11-20

内田樹氏の文章について

前回、私は内田樹氏がAERAに書かれた文章について、いろいろ言ったが、あまりに驚愕したために、私の文章は感情的に過ぎて、内田先生に対して礼を失していた。

反省して、今回は、もう少し理性的に、内田樹氏のお書きになったことに疑問を呈してみたい。

氏は、

「その事実が天皇陛下の『語られざる政治的見識』への信頼性を基礎づけている」

「天皇陛下の政治的判断力への国民的信頼がここまで高まったことは戦後初めてである」

と書いている。

我々は、今までに「天皇のお言葉」と言うものを、時々聞かされてきた。

しかし、天皇の言葉は儀礼的・形式的なものである。

天皇の政治的見識がうかがわれるものとしては

1)「韓国とのゆかりを感じると言ったこと」

2)「憲法を守っていきたいと言ったこと」

3)「国旗・国歌は強制にならないようにするのが望ましい」

くらいの言葉ではないか。

しかし、上述の項目からは、「うかがわれる」だけで、天皇の政治的見識をはっきりと理解できるとは言いがたい。

政治的見識を天皇が語るのを我々は聞いたことがない。

そこで、氏は「語られざる」という言葉をつけたのだろうが、それが疑問なのである。

「語られざる政治的見識」をどうして信頼のしようがあると言うのだろうか。

ある一人の人間がいるとする。その人間は政治的見識について語らない。

語らないから、その人間の政治的見識は一体どんな物であるのか、誰も知らない。

知らないのに、その政治的見識に信頼する、と氏は言う。

知らない物を信頼するとは、理の通らないことではないか。

通らぬ理を通そうとしたら、その人間の政治的見識ではなく、その人間を丸ごと信頼するしかない。

政治的意見がどうであろうと、その人間を信頼するのだ。

 

「天皇の政治判断力」への国民的信頼が高まっている、と氏は書く。

「天皇の政治判断力」に至っては、どんな物なのか見当もつかない。

現憲法では、天皇の国事行為は13項目に限られていて、すべて儀礼的なことであり、しかも内閣の助言と承認のもとに行うのであって、

「天皇は国政に関する機能を有しない(第四条、第一項)」

から、天皇は国政についての政治判断力など示せるはずがないし、現に今までに示して見せたことはない。

示されたことのない政治判断力を、一体どうすれば信頼できるのか。

これも、その人間を丸ごと信頼するほかはない。

 

政治的見識がどうであろうと、政治的判断力がどんなものであろうと、その人間を丸ごと信頼してしまうという、非理性的な行為をするには、非理性的な心情が必要だろう。

その非理性的な心情を、私は天皇に対する恋闕の情、だと言ったのである。

 

「今国民の多くは天皇の『国政についての個人的意見』を知りたがっており、できることならそれが実現されることを願っている。」

氏のこの文章など、恋闕の情がなかったら書けない文章ではないか。

 

そもそも、天皇の「国政についての個人的意見」をどのようにして聞くのか。

1)       本人が直接会見を開いて国政についての政治的意見を述べるのか。

2)       誰か、代理の者に言わせるのか。

3)       文章として発表するのか。

2)と3)の場合は間違いなく本人の言葉かどうか確かめようがない。

1)の場合、確かに天皇自身が語っているとしても、それが天皇本人の意見かどうかはわからない。

周囲の人間の意見の影響は無視できないし、天皇を自分たちの意のもとに操ろうとする人間達によって強制された発言かもしれない。

このように、天皇自身の政治的意見を聞くことは、現在のような皇室のあり方からすると不可能である。

しかも、天皇の「国政についての個人的意見」を、「天皇の政治的判断力の信頼のもとに」聞く、ということは「天皇の国政についての個人的意見」をもとに国政を動かすことになるだろう。

さもなければ意見を聞く意味がない。

内田氏のように、ここまで熱っぽく、「天皇の個人的意見を聞きたい」と言っておいて、では、と天皇が乗り気になって個人的な意見を言ったとすると、それが気にいらなくても、「そうすか、んじゃ、またお願いしまーす」と言ってバイバイする訳にはいかないだろう。

 

一番の問題点は、天皇の国政についての個人的意見を聞いて、その方向に国政を動かす、となると、「勅語」を戴いて、政治をする、戦前の明治憲法下の天皇制社会と変わらなくなるではないか、と言うことだ。

明治以降、天皇の勅語というのは、時の政府、指導者たちが自分たちの言いたいことを天皇に言わせたり、自分たちのすることに権威付けをするために使った道具だった。

伊藤博文が、ドイツ人医師ベルツに明治天皇を示して操り人形のまねをして見せたことは有名な話だが、明治憲法下の支配者たちは自分たちの言いたいことを「勅語」として天皇に言わせていたのである。

現憲法下では天皇のそのような操り人形化を防ぐための仕組みを上記のように作っているのである。

それを、内田樹氏のように、「国政について天皇の個人的意見を知りたい」と言って本当にその通りになってしまったら、氏の言うように「公平無私」の人間など日本の権力構造の中にいる訳がないから、天皇自身がいかに善良な人間であっても、海千山千の連中にかかっては抵抗のしようがなく、あっという間に操り人形と化すだろう。

第一、天皇が、この厳しい国際状況の中で国を運営していくだけの政治的判断力を持っていると信じることは私にはできない。

「英邁なる君主、我らが天皇のお言葉を信じろ」と言うことなのだろうか。

それは、「恋闕の情」でもなければ出来ることではない。

 

原発再稼働、憲法壊変、多国籍企業の支配するコーポラティズムに日本を組込むためのTPP加入、政府に具合の悪い情報はすべて国民に見えなくする秘密保護法の策定、など、安倍政権になってからの日本は、自己破壊の急坂を転がり落ちている。

そのことに対して私は、強い憤懣と、深い絶望感を懐いている。

そのときだからこそ、私は内田樹氏の文章を期待して読んだのである。我々に進むべき道を指し示して下さるのではないかという期待を持って。

それが、「天皇の言葉」だったので、驚愕し、逆上し前回の文章になってしまったのである。

 

亡くなってしまわれたが、元東京大学教授の五十嵐顕氏は、亡くなる前に、

「日本の思想にもっとも欠けているものは、良心にしたがって立ち上がる抵抗の精神です」

と書残している。(安川寿之輔「福沢諭吉の教育論と女性論」高文研、P109)

五十嵐顕氏は、戦争中に南方軍幹部候補生徒区隊長として積極的に侵略戦争を担ったことを反省して、戦後は平和と民主主義の教育のために働いてきた人である。

私は、今この時の日本にあって必要なのは、五十嵐顕氏の言う

「良心にしたがって立ち上がる抵抗の精神」

だと思う。

私は内田樹氏に、その明晰な頭脳と強靱な精神力をもって、明快な論理を駆使して、今の日本に必要な「抵抗の精神」を説いていただきたいのである。(お門違いだとは思わない)

その期待を持って、恐れ多くも内田樹先生に私は疑問を呈したのである。

雁屋 哲

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