福沢諭吉について6
前回で、私は福沢諭吉の「大本願」について書いた。
念のために繰返しておくと、「福沢諭吉の大本願」とは、「兵力を強くして、貿易を盛んにし、アジアを圧制し、イギリスなども自らの圧制の下に置くような、そんな国に日本をしたい」と言うことである。
28歳の時に福沢諭吉はこの「大本願」を打ち立てた。
福沢諭吉は以前言ったことと正反対のことを言うことが多く、それで、多くの人間は、福沢諭吉はある時点から転向したとか、考えが変わったとか言うが、それはその時々の福沢諭吉の言葉に目くらましを受けているからであって、福沢諭吉は大本願成就のために、時に応じて自在に言うことを変える。言う事を変えるだけで、根本の考えは変わっていない。
例えば、1872年(明治5年)に発行した「学問のすすめ」初編の冒頭近くで、
「実語教に、人は学ばなければ智恵がつかない、智恵のないものは愚かな人間である、とある。であれば、賢い人と愚かな人との違いは、学んだか学ばなかったによって出来るものだ。」(全集第12巻29ページから。著作集第3巻6ページから)
と言い、次のように続ける。
「ことわざに言う、天は富貴を人に生まれながら与えるのではなく、その人の働きによって与えるのである。そうであれば、前にも言った通り、人は生まれながらに貴賤貧富の区別はない。ただ、学問で努力をして物事を良く知る者は貴人となり、富人となり、無学の者は貧しい人間となり、下人となるのだ」
これを読むと、学問をすれば、身分が高くなり(身分などと言う言葉自体問題だが)、豊かになる、と読者は考えるのが自然だ。
ところが、1889年(明治22年)に時事新報社の社説に書いた「貧富痴愚の説」では、
「最も恐るべきは貧にして智ある者なり」(全集第12巻62ページから)
と言い、智恵があるのにそれを生かす財力がなく貧しいと、貧乏という名の鎖に繋がれた猫の仔同然で、実に哀れである、と続け、更に次のように言う。
「貧しくて智恵のある者は他に鬱憤を晴らすしか道が無く、そこで世の中の仕組みの全てを不公平であるとして、しきりにこれに対して攻撃を試み、財産私有制度を廃止しろと言い、田地田畑を共有のもにするべきだと言う。ストライキ、社会党、虚無党(ニヒリスト)、などその原因となるのは貧しくて智恵のある者であることは明かである。(中略)貧しい人間に教育を与える事の利害は、考えなければならないことである」
と続け、
「ある人が言うには、知識は富のもとであり、智恵がなければ富を得ることが出来ない。英国の富貴も知識の成せるものであり、米国の繁盛も教育に原因するものである。我が日本の富貴強大を望むなら、まず我が人民を教えて、その知能を発達させなければならず、知能を得ることは金を得ることに等しいなどと言って、しきりにはやし立てる者がいるが、この説は、いわゆる教育家の間で行われる方便の言葉であり、世の中の実際は、必ずしもそうであるとは見えない」
と言う。
もう一つ、1891年(明治24年)に書かれた、「貧富論」を見てみよう。
まず、冒頭で、
「経済論者の言に、人生の貧富は智恵があるかないかによるもので、人間は学ばなければ智恵がつかない、無智の人間は貧しくなる、教育は富を積む本となるとして、貧富の原因は全てその人間に智恵があるか、あるいは愚かであるかに帰する、と言うのがある。
この言葉には一理あるが、貧民の多数を平均すれば、大抵智恵に乏しい者であり、事の原因と結果を相照らして子細に社会の実際を見れば、今の世の中の貧民は無智であるが故に貧しいのではなく、貧しいが故に無智なのであると言っても差し支えない場合が少なくない。」(全集第13巻69ページから。著作集には入っていない)
と言い、更に、経済論者の言うように、富を築くのは知恵の働きで、智恵は教育によって得られるものであるが、衣食にも窮する貧乏人は教育を受けることが出来ないし、教育を受けても衣食に窮していてはその智恵も役に立たないと続け、次のように言う。
「衣食こそ智力を生み出し活用する本となるものであるのに、その基本を問わずに、結果を論じて、智力があれば衣食が豊かになると言って、人の無教育をとがめるのは、因果の順序を本末転倒して無理なことを言って責めるものと言うべきである」
「貧富痴愚の説」の「ある人」と、「貧富論」の「経済論者」というのは、「学問のすすめ」を書いた福沢諭吉自身ではないか。
「貧富痴愚の説」と「貧富論」では福沢諭吉を福沢諭吉自身が否定しているのである。
たいていの人は、「学問のすすめ」は知っていても、「貧富痴愚の説」と「貧富論」は知らないから「貧富痴愚の説」と「貧富論」を読むとひっくり返るほど驚くだろう。
しかし、驚くのは、福沢諭吉のことを良く知らないからだ。
「学問のすすめ」初編と「貧富痴愚の説」「貧富論」は反対のことを言っているようだが、福沢諭吉自身は「大本願」成就の道筋に沿っていると考えていただろう。
「学問のすすめ」を書いたのが1872年、「貧富痴愚の説」を書いたのが1889年、「貧富論」を書いたのが1891年。
1872年と1889年、1872年と1891年、とそれぞれ17年と19年の開きがあるがある。
明治5年から17年、19年の内に、日本の社会の状況は大きく変わった。
明治5年の段階で日本は徳川時代260年の鎖国の眠りから覚めて開国したばかりで、欧米に比べて、科学、社会学面で非常に遅れていた。その遅れを取り戻して、福沢諭吉28歳のときの「大本願」を成就するためには、即ち上記「貧富痴愚の説」にあるように、
「我が日本の富貴強大を望むなら、まず我が人民を教えて、その知能を発達させなければなら」
ないと考え、「学問のすすめ」を書いて、人々に学問をすることの意義を説いたのだ。
それから17年、19年経った。
その間に、自由民権運動が起こり、1892年には国会が開設されることになった。
勉強すると社会の矛盾が見えてくる。それで、矛盾を失くそうと運動を始める人間が出て来る。
国会開設を前にして様々な政治活動が行われる。
そのような、社会の状態を見て、これでは、国がバラバラになって自分の「大本願」が成就されないと福沢諭吉は危機感を抱いたのだろう。
貧富論の中で福沢諭吉は次のようなことも言っている。
「既に国を開いて海外と文明の面で争い、国際競争の中で国家の生存を計るためには、国内の不愉快はこれをかえりみる暇はない。
たとえ、国民の間に貧富の格差が大きくなって、貧しい者は苦しみ豊かな者は楽をするという不幸があっても、それには目をつぶって忍び、富豪の大なる者をますます大ならしめて、商業上の国際競争に負けないようにすることこそ、急務である」(全集第13巻93ページ)
なんだか、この話は最近聞いたことがないか。
そう、元首相小泉某とその経済担当大臣竹中某が行った、構造改革という奴だ。
大企業の税を軽くし、それに加えて大会社がその時の必要に応じて人を雇ったり解雇したり出来るように、しかも、大企業がその臨時に雇った人間の保険など負担をしないで済むように、労働者派遣法を改正して大企業が安易な派遣切りが出来るような状態を作った。
その目的は、福沢諭吉と同じ、大企業を更に大きくして日本を国際競争に勝たせようと言う物である。
大企業と、ファンドマネージャーなどが巨利を得て、派遣社員が派遣切りをされて貧困にあえいでも、それは国際競争の役に立つから目をつぶる。
福沢諭吉は実に日本の社会の先覚者である。
福沢諭吉は「大本願」成就が目的だから、教育のために社会的に目覚めて、不平等を解消しろなどと言う人間は、富豪(大企業)を更に強大化して日本が国際競争に勝つという福沢諭吉の「大本願」の実現の妨げになると考えた。
それで、
「これ以上貧しい人間に教育を与えるな」
と主張するのである。
福沢諭吉にとっては、何事も車を運転するような物である。
目的地に到達するまでに、道路事情によっては、左に曲がり、右に曲がらなければならいことがある、後退することもある。しかし、ちゃんと目的地に向かっているのであって、曲がろうと後退しようと、目的地に到達するのを実現させるためのことだから、全く頓着しないのである。
不思議なことに、多くの論者が、福沢諭吉はこの「大本願」を成就することに全てを賭けていると言うことを見のがしている。
福沢諭吉が左右に曲がったり、後退する度に、やれ、福沢諭吉は変わったとか、「思想の骨格が入れ替わった(遠山茂樹・「福沢諭吉」260ページ)とか言うが、福沢諭吉自身は自分が変わったとか変節したとか、そんなことは夢にも思っていない。
同時代の人間の中には福沢諭吉の変節を批判する人間もいたが、福沢諭吉は歯牙にもかけない。
「福翁自伝」の後半を読めば、福沢諭吉が高らかに勝利の凱歌を歌っていることが分かるだろう。
日清戦争に勝ったあと、文明富強を(まだまだ序の口であるが)成し遂げたと思った福沢諭吉は、次のように言っている。
「とにかく自分の願に掛けていたその願が、天の恵み、祖先の余得によって首尾良く叶うことが出来たからには、私のためには第二の大願成就と言わねばならぬ。」(全集第7巻259ページ 著作集第12巻403ページ)
第一の本願とは、
「私は洋学を修めて、その後どうやらこうやら人に不義理をせずに頭を下げぬようにして、衣食さえ出来れば大願成就と思っていた」
と言うことなのだが、これは、福沢諭吉の個人的な生活に関することであるので、前にも言ったように、その前の部分に、
「この日本国を兵力の強い商売繁盛する大国にしてみたいとばかり、それが大本願で」(全集第7巻246ページ 著作集第12巻387ページ)
とあるその第二の大願こそ、福沢諭吉の「大本願」であると、私は考える。
たいていの人は、福沢諭吉の本は「学問のすすめ」の初篇だけ、しかも、冒頭の部分しか読まない。(「学問のすすめは」全部で13篇ある。初編の復刻版を見た限りでは、版型も小さく薄く、本と言うよりパンフレットに近い)
そして、丸山真男に代表される戦後の知識人たちがやたらと福沢諭吉を「近代的民主主義者」などと、はやすので、大部分の日本人は、その通り信じ込んでいる。
「近代的民主主義者」が「貧富論」のようなことを言うだろうか。
特にあきれるのは、丸山真男である。
丸山真男と福沢諭吉の「大本願」については、次回で。