雁屋哲の今日もまた

2009-07-12

福沢諭吉について3

 福沢諭吉の初期の論である「学問のすすめ」第一編の冒頭に書かれた「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言えり」、あるいは、「学問のすすめ」第3編に書かれた「一身独立して、一国独立する事」の名文句によって、また、「独立自尊」という言葉を慶応関係者が広めて回った結果、多くの著名な学者、評論家が、福沢諭吉を「典型的な市民的自由主義者」(安川寿之輔氏が徹底的に批判し尽くした丸山真男の使った言葉)と思いこんできて、特に戦後、福沢諭吉は「市民的自由主義者」「開明的な民主主義者」として、崇められ続けて来た。
 しかし、実際は、安川寿之輔氏が何度もしつこく繰り返しているように(安川寿之輔氏の本は、実にしつこい繰り返しが特徴だ。時にうんざりするが、それは氏が自身の論を誤解されることの無いようにするためと、一つ一つの論を反論の余地がないほど相手に分からせるためなのだろう。熱心に口を酸っぱくして説く、という感じである)、福沢諭吉は「一身独立」の方は没却して「一国独立」の方に全精力を傾けてしまった。
 前にも書いたが、福沢諭吉の生きていた時代は帝国主義国家による弱肉強食の時代であり、福沢諭吉はまず日本と言う国を欧米国家の植民地にされることを防がなければならないと言う意志が強烈にあった。
 そこまでは良い。しかし、そこから先が問題だ。
 当時の日本は、幕末に欧米によって強制的に結ばされた不平等条約に苦しんでいた。
 中でも、欧米人の犯した犯罪を日本が裁くことの出来ない「治外法権」を欧米各国に認めていたこと。
 輸出入の際の関税を決める「関税決定権」を欧米各国に奪われていることだった。
 要するに欧米各国は日本でしたい放題だったのだ。
 福沢諭吉は大略次のようなことを言っている。

「日本のあちこちに西洋館が建って、日本は繁栄したように見えるが、その西洋館は全部欧米人のものであり、日本は自国の富を奪われているのであり、繁栄しているのは欧米人である」

 その福沢諭吉の焦りと恐怖は痛いほどよく分かる。
 それに対抗するのに一つの道がある。
 自国の産業を盛んにして、国力を増強する。
 さらに、要所要所の守りを堅くして、砲台など築き、外国からの武力的進入を許さない。
 侵略されたら徹底的に追い返す力を付ける。
 これは、国を富ませ、自国を守るための軍備を整える「富国強兵論」という物である。

 しかし、福沢諭吉が取ったの、欧米各国に習って日本も他の国の土地や市場を奪おうという策だった。
 まず、軍備を整える。
 現在と違って当時の一番の武器は海軍力だった。
 外国を責めるのに現在は、爆撃機・戦闘機・ミサイルなどが主要な武器だが、当時は、戦艦で攻め込むしかなかった。
 強力な戦艦を沢山建造、あるいは外国から購入し、それで他国に侵入し、他国の土地財産・市場を奪って、国を豊かにしようという考え方だ。
「富国強兵」の逆で、「強兵富国」だ。
「富国強兵」と「強兵富国」とでは、その姿勢がまるで違う。
「富国強兵」は必ずしも、他国を侵略する必要はない。まず自国を豊かにして、その豊かな国を守るために武力を増強するのであるから、その武力は必ずしも攻撃的な物ではなく防衛的な物であってかまわない。
 しかし、「強兵富国」は強い武力をふるって他国を侵略し、その武力によって奪った土地・財産・市場で自国を豊かにしようという物であって、侵略第一の考え方である。その武力は、自国を防衛するためではなく外国を侵略するためのもの、と言う非常に攻撃的な物だ。
 福沢諭吉が取ったのは、その「強兵富国」策だった。

 福沢諭吉は、「西隣の家に取られた物を、東隣の家から奪い返す」という理不尽な策を強力に推し進めた。
 西隣の家とは、欧米各国であり、東隣の家とは、朝鮮・中国である。

 日本は前にも書いた通り、文化の基本は中国文化であり、その中国文化を伝えてくれたのは朝鮮である。
 第一、天皇家が朝鮮の血統であることは現在の天皇が明言していることである。
 その我々日本人が、どうして朝鮮・中国を蔑視するようになったのか。
 秀吉は征服欲の強い異常な性格の人間であり、関白・太閤になって日本を全て征服したと思ったとたん、朝鮮征服にふみ切った。最終的には、当時の明を自分の物にしようと思っていたというのだから恐れ入る。
 二度にわたる朝鮮侵略は、朝鮮の人々、中でも今に伝わる李 舜臣などの将軍の奮闘で、上手く行かず、秀吉の死とともに日本の軍勢は引き上げた。
 その秀吉軍の侵略は朝鮮に甚だしい損害を与えた。
 それまで日本になかった技術を持つ多くの人間を拉致してきたのである。
 今の北朝鮮が日本人を拉致したのとは桁違いの人数である。
(こんな事を書くと、北朝鮮の拉致問題を矮小化するのか、などと言う人がいるといけないから書いておくが、それとは時代も違う別問題なんだからね。)
 しかし、豊臣政権を倒して、徳川家康が政権を握ると、朝鮮との関係修復に努めた。
 もともと、何の名分もない秀吉の朝鮮侵略に反対だった家康だったから、徳川幕府安泰のために朝鮮との友好関係を復興したいと考えたのは当然だろ。
 また、対馬藩主の宗氏の努力もあって、朝鮮側が家康が二度と侵略しないという国書を呈することで、和解が成立して、1607年(関ヶ原の戦いのわずか7年後である)第一回の朝鮮通信使が日本へやってきた。
 その時には、秀吉に拉致された多くの朝鮮人を連れ帰った。
 朝鮮側は第一回の朝鮮通信使の成功を見て、次から、朝鮮の有名文学士、医師、などを次の回から送ってくるようになった。
 朝鮮通信使は、津島から壱岐を通って下関に上陸し、江戸へ向かった。
 その、通信使の道中は大変に豪華な物であり、絵巻物にもなって残っている。
 通信使の中の文士、医学師は日本では非常な尊敬を受けた。
 通信使の宿泊する先々には、朝鮮の文士の揮毫を願う物、当時の漢方医学の書「傷寒論」の分からないことを教えて貰う日本人の医者たちが、詰めかけたという。
 朝鮮通信使は1811年が最後になった。
 その後、朝鮮は国内で李朝末期の悪政や不作などの不幸が続き、日本でも凶作が続いたりして、通信使を送ることが出来るような状態ではなくなったのだ。
 私は、この朝鮮通信使がずっと幕末まで続いていたら、日本と朝鮮・韓国の関係も、良好な状態を保てたのではないかとと思うのだが、様々な政治的要素があって、そうは行かなくなった。
 実に残念だ。
 江戸時代までの日本人は、これ程までに、朝鮮人の文化をありがたがり、朝鮮のものは何でも良い物と受け止めてきたのである。
 江戸時代末期まで、朝鮮は日本人にとって、尊敬すべき国であってっても、蔑視するとはとんでもないことだったのである。

 では、どうして、日本人は、朝鮮、ついでに中国を蔑視するようになったのか。

 その一つは、江戸中期以後、同じ儒教でも、韓国の朱子学に対して朱子学批判が行われるようになり、幕末維新期には王陽明学派が勢いを持ち、朝鮮の朱子学は古い、と言う意識を持つようになり、同時に、本居宣長, 平田篤胤などが「古事記」「日本書紀」など日本の古代文化、とくに日本固有の「道」を明らかにすることを研究目的とし、学問といえば漢学(儒学)のことと思うことを批判して、国学を成立させてそれが力を持つようになったことが根底にあるようだ。

 しかし、日本人に朝鮮・中国に対する蔑視感を抱かせた最大の張本人は、福沢諭吉だったことに、私は気がついたのだ。

(続く)

雁屋 哲

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