鳩山由紀夫氏から菅直人氏へ(1)
この二週間ほど、コンピューターで手こずって無駄な時間を費やしてしまった。
基本的に私は、アップルのマッキントッシュを使っているのだが、ウィンドウズは自作が出来るので、その面白さにはまってしまった時期があった。
ウィンドウズがVistaになる前までに5台ほど作った。中学生の頃から、ラジオ少年で秋葉原に部品を買いに行って、ラジオやオーディオアンプを作るのが趣味だったので、年金を貰える年齢をとっくに過ぎた今でも、毎月コンピューター雑誌を買って、日進月歩のコンピューターの世界に後れを取らないように目を光らせている。
今狙っているのは、オーディオ専門のPCだ。
最近、デジタル・ファイル・オーディオと言うのが盛んになってきて、コンピューターを使って、CDを遙かに超える音質で、音楽を再生できるとあっては、心穏やかではない。
ベルリンフィルハーモニーも、その演奏をインターネットで、CDより良い音とその演奏の画像とを配信しているのである。
ぼんやりしてはいられない。
今度日本へ戻ったら、一台組立ててやろうと企んでいる。
(オーストラリアは技術的に非常に遅れていて、日本のオーディオ雑誌や、コンピューター雑誌に載っているような機械も部品も手に入らないのである。)
コンピューターを組立てるというと、何か難しく思う方もおられるかと思うが、実は、部品を寄せ集めるだけで、プラモデルを作るような物だ。
自分で設計図を引く訳でもないので、作ってもあまり達成感はないのだが、色々な部品を組み合せて自分の好みのPCを作れるところが、面白い。
だが、組立てて、「よし、現在世界最高速度の機械が出来た」と満足するとそれでおしまい。
私は90パーセント以上はマッキントッシュで仕事をするので、ウィンドウズマシンは殆どいじらない。
もっとも、Vistaになるちょっと前から、鬱に落ち込んで、コンピューターの自作の気力が薄れて、この1年以上、ウィンドウズマシンを立ち上げることはなかった。
それに、最近のマッキントッシュはウィンドウズも普通に動かせるので、マッキントッシュだけで全て用は足りてしまい、ウィンドウズマシンを立ち上げる必要もなかったのである。
(オーディオ専門のPCを作ろうと思うようになったのは、鬱病が軽快したのかも知れない)
私は新聞や雑誌の切り抜きはスキャナーでコンピューターに取り込むことにしている。以前は、スクラップブックに貼っていたのだが、コンピューターに取り込む方が遙かに便利だ。
問題は、大抵のスキャナーがA4サイズの書類しかスキャンできないことだ。
富士通の書類スキャナーScanSnapはその点良くできていて、A3の書類も半分に折って、それを両面読み取りにすると、読み取った後でA3サイズに展開してくれる。
しかし、その半分に折り曲げるところが中々微妙で、折り曲げた部分、すなわちA3サイズの書類でいえば中央の部分を綺麗につなげるのが難しい。
それに、雑誌を見開きでスキャンするという芸当が出来ない。
そこで、以前に買った、A3スキャナーを再び使おうと考えた。
ただ、そのスキャナーには問題がある。コンピューターに接続するのに、最早今のコンピューターでは殆ど用いられなくなった、SCSIを使う。(SCSIの説明は面倒だし、読者諸姉諸兄には興味がないことと思うので省く。要するに、USBなどと同じ、コンピューターと外部機器とを接続する方式の一つです。端子の形が違うのです)
私の持っているコンピューターでSCSIの端子を持っているのは、自作のコンピューターだけである。
そこで、久しぶりにコンピューターを立ち上げたら、なんと言うこと、あまり長い間相手にしてやらなかったので、すねてしまって、案配が悪い。
以前は、ちゃんと動いたA3のスキャナーをコンピューターは認識するのに、ソフトが動かない。
エプソンのサポートに電話をしたら、実に親切で、電話で1時間半以上にわたり、実際にコンピューターを動かしながら、手取り足取り、分かるように説明してくれる。
しかし、どうにもこうにも、動かない。
エプソンによれば、このスキャナーはまだ現役で、事務用に使われているので、動かないはずはない。サボートの女性と考えられる限りのことをしたが、どうしても動かない。
こうなると、私のコンピューターのシステムがいかれてしまったとしか考えられない。
そこで、サポートの女性にお礼を言って(いや、本当にエプソンのサポートは親切だ。有り難かった)思い切って、システムを入れ替えることにした。
ここで、私は大失敗をしてしまった。
私のコンピューターには、ハードディスクを二つ付けてある。
一つはシステムとアプリケーションと、そのアプリケーションの作った書類や画像などをしまう。
もう一つは、昔のビデオから取り込んだ物をしまうのに特化している。
失敗というのは、システムを入れ替える時に、システムを容れているハードディスクだけでなく、ビデオをしまってあったハードディスクもフォーマットして消してしまったのだ。
さらに、驚くべき失敗は、システムを入れ替える時の常識として、全て大事なファイルは、外付けのハードディスクにバックアップを取るのだが、そのハードディスクを取り付けたまま、システムの入れ替えをしたので、なんと、そのバックアップのハードディスクまで、フォーマットしてしまったのだ。
なぜ、外付けのハードディスクを取り外し忘れたのか、あまりの失策に涙も出ない。
日頃ウィンドウズに親しんでいないので、こう言う時に、うっかりとんでもないことをしてしまう。
要するに、大事な物を全て一瞬にして失ってしまったのだ。
そのビデオは、子供たちがまだ幼い頃の可愛い盛りを記録した物が多い。
元になるVHSや、8ミリビデオなどは残っているとは言え、コンピューターにはそれを取り込んで色々と編集した物が入っている。
それを失うのは、本当に辛い。
血が逆流して、気が遠くなったが、私はしつこい性格なので簡単にはあきらめない。
ファイルの復元ソフトを使って、消えてしまったファイルの復元に取り組んだ。
これが、中々上手く行かない。
復元ソフトを二つ使って取り組んだ。サイズが大きく、aviと言う拡張子ついた、明らかに、ビデオのファイルと思われるものを幾つか復元できたのだが、これが、復元する時にデータが壊れたのか、ビデオとして再生できないのである。
しかし、復元ソフトで見ると、フォーマットしてしまったハードディスクにデータが残っていることは確かだ。
それを、使える形に復元したい。
それで、二週間棒に振ってしまった。
で、結果はと言えば、未だ成功せず。
別のソフトで、挑戦してみようと思う。
そんなこんなで、この日記のページにご無沙汰してしまったら、小学校の同級生に、どこか体の具合でも悪いのか、と心配されてしまった。
二週間、コンピューターで苦労している間に、政治の世界が大きく動いた。
鳩山由紀夫氏が首相を辞めて、菅直人氏が首相になった。
私も、こうなりゃ、世捨人だね。
政治の世界が動いているというのに、データの復元に熱中して失敗を繰返して、時間を過ごしているのだから。
ところで、「美味しんぼ」では、最近まで、「環境問題」を取り上げてきた。
「環境問題」を「美味しんぼ」で取り上げるのは意義のあることだったと思っている。
しかし、漫画としては、堅苦しすぎて面白味がない。
それにここらで、「美味しんぼ」本来の食べ物と料理を直接扱う話題に切り替たい。
で、次回8月末か9月の頭に始まる、次回の続き物は「美味しんぼ」は、「名料理人」「名店」を扱うことにした。
今まで私が出会った名料理人、名店を、過去に一度扱ったことがあっても、今回はもっと深く掘り下げて、名料理人とは、名店とは、いったいどこが普通の料理人、普通の店と違うのか、そこをじっくり書きたいと思う。
同時に、劇としても面白くなるように工夫する。
私は「美味しんぼ」を始める時に、読み切りの形すること、人情噺にすること、読後の後味の良いこと。
その3つを原則とした。
最近の「美味しんぼ」は人情噺が不足しているので、次回は、名料理人、と名店を人情噺にからめて描きたいと計画している。
そのための取材として、4月に私の尊敬する料理人を訪ねて京都に行った。
その方のお名前は、徳岡孝二さん。京都嵐山吉兆の先代のご主人である。
私は、二十数年前に初めて徳岡孝二さんの料理を食べて驚嘆した。
和食というと、なにか、小細工をしたり、気働きが目についたり、悪い言葉で言えばこじんまり、ちまちま、こぎれい、飾りが多い、という感じを否めない物が多いのだが、徳岡孝二さんの料理は、大胆、剛胆、思い切りが良く、しかも、細かいところまで神経が行き届いている。私は、こう言う日本料理があるのかと、圧倒された。
北大路魯山人の料理は、話に聞いたり、本で読んだりするしかできないが、徳岡孝二さんの料理を食べて、北大路魯山人の料理はこうだったのではないかと思ったものだ。
名料理人を取り上げるのに、徳岡孝二さんは外せない。
そこで、もう、引退しているとか何とか仰言るのを無理にお願いして、料理をして頂くことになった。
徳岡孝二さんは、それではまず竹の子を掘りに行きましょうと仰言る。
ご推薦の竹の子山に、取材スタッフ全員ででかけた。
私は晴れ男で、旅行でも、取材でも雨が降ったことはないのだが、当日は雨降り。取材スタッフも「取材で雨が降ったのは初めてですね」と言っていたが、こんなこともあるんだな。
竹の子山はぬかるんでいて、長靴を履いて上るのにも一苦労。
かなり山を登ったところで、竹の子山の持ち主、長濱義和さんが掘り始めた。
竹の子は頭が僅かに出かかるかそこらの微妙なところを掘らねばならない。地表に竹の子の姿になって出ている物は美味しくないのだ。まだ地中に潜っているのを掘り起こす。
結果的に深く掘ることになるので、そのためには特別に刃の部分の長いクワで掘るのだが、最初に出会ったのが大変な難物だった。
普通、掘って行って、根の部分に刃を当てて、ぐいと持ち上げると、てこの原理で比較的簡単に竹の子は取れるのだが、この竹の子は、中々そうは行かない。
周りの地面を深く掘り広げたりして根が見えるのだが、どうしても外れない。
今年は天候が不順で、暖かくなっかと思うと冬に逆戻りする、そんなことが何度か重なったので、竹の子の生長もいつもと違うのだという。
しかし、その時私が改めて認識したのは、竹の子山の地面には竹の根が縦横無尽に走っていることだ。網の目のように根が走っている。
その竹の根に、私たちが掘ろうとしていた竹の子が掴まってしまって抜けないのだ。
雨の中を30分近く格闘してやっとのことに掘り出した。
他の竹の子は、くわの先を根に当てると難なく掘り出せるのである。
よく、地震の時は竹林に逃げ込むと良いという。竹林は、竹の根が縦横無尽に張っているから地盤が丈夫で地震でも崩れないというのである。
私は、今回の竹の子掘りの苦労で、その言い伝えには根拠があると思った。
竹の根の張り方は凄いものである。
表面から見ると、綺麗な竹がすいすいと伸びて、水墨画の題材になると実にさわやかな物だが、どっこい、地面の中は恐ろしいことになっている。
節だらけの根が、野放図で醜悪と言いたいような姿で、地下に張り巡らされているのである。
前置きが長くなってしまった。
鳩山首相の辞任の話をしたかったのだ。
私は、鳩山由紀夫氏が辺野古の問題を解決しようとした事を、氏が選挙目当てに嘘を言ったものだ、とは考えない。
私は、鳩山由紀夫氏は善意の人だったと思う。
ただ、辺野古問題は、上に書いた、竹の子みたいな物だったのではないか。
氏は、掘ろうと思えば掘れると思った。
ところが、どっこい、地下の根は複雑に入り組んでいて、しかも強力で、魑魅魍魎も跋扈していて、とても掘れない。
私たちの場合は、悪戦苦闘の末に、竹の子を掘り出すことは出来たが、氏は出来なかった。長濱義和さんの使ったような、兇悪な竹の根も断ちきることの出来る刃の長いクワを鳩山由紀夫氏は持っていなかった。
氏を妨げた物は、端的に言えば、アメリカが日本の社会に張り巡らした醜悪な竹の根である。
アメリカは日本中に根を張っていて、日本人がちょっと形の良い竹の子を掘ろうとすると邪魔をする。
ときには、掘ろうとした人間の社会的生命を葬ってしまう。
今回も、鳩山由紀夫氏はアメリカの張り巡らした節だらけの根に掴まって負けた。
氏は、次の総選挙にも出馬しないという。実質的に政治家生命は絶たれてしまった。
アメリカに逆らうとこうなる、と言うことが分かって、今度首相になった菅直人氏は勿論、これから誰が総理大臣になっても、沖縄に限らず日本の在日米軍基地に対して文句を言うことはないだろう。
話を続ける前に、今までに書いたことの中で、事実関係をきちんと示していない部分があったので、そこを補足する。
まず5月4日に書いた昭和天皇と沖縄の問題である。
敗戦後、昭和天皇の御用掛を勤めた寺崎英成という人物がいる。
その寺崎英成の残した「昭和天皇独白録」が1990年に発見され、それを文藝春秋社が発表し、当時大きな反響を巻き起こした。
「昭和天皇独白録」については、さまざまな研究書が出ている。
結果として、「昭和天皇独白録」は昭和天皇による自己弁護の書である。
当時の連合軍司令官マッカーサーは、天皇を日本支配の道具として使いたいと考えていた。
じつはこれは、マッカーサー個人の考えではない。
加藤哲郎・一橋大学教授が米国国立公文書館で発見した機密文書「Japan Plan」という物がある。
下記のページに、教授の詳しい記述が記載されているのでお読み頂きたい。
http://homepage3.nifty.com/katote/JapanPlan.html
これは、1942年6月3日の日付で作られた物である。
この中で、アメリカは既に戦後日本をどう取り扱うか構想を立てていた。
その構想とは、戦後、「天皇を平和の象徴として利用する」という戦略だった。
1942年6月と言えば、真珠湾攻撃からまだ半年しか経っていない。
その時期に、すでにアメリカは戦後の日本の取り扱いについての構想を立てていたのだ。
それも、思いこみによる構想ではない。日本を良く研究した上で、日本国民をどう取り扱えば占領政策が上手く行くか、論じているのである。
日本の指導者たちが、悠久の大義に生きるとか、皇道精神などと、現実離れしたことを譫言のようにいっている時に、アメリカは戦後の計画を冷静緻密冷徹に計画を立てていたのである。自分たちが勝つことを当然と考えている。
これだけ頭の程度に差があっては、戦争に勝てる訳がない。
当時の日本の指導者たちは、アメリカの指導者たちに比べると、正に精神年齢12歳の子供同然であったことが、この文書を読むと痛感させられて、実に悲しくなる。
アメリカは最初から天皇を傀儡として使うつもりだったから、「東京裁判」に引っ張り出されて有罪にされたら困る。昭和天皇に戦争責任がない形にする必要がある。
そこで、寺崎英成がアメリカ側の意を体して、同時に昭和天皇自身が欲した保身のための術として作り上げたのが「昭和天皇独白録」である。天皇が東京裁判に引き出されるのを防ぐのが目的の弁明書だから、一般の目に触れることはなかった。
その「昭和天皇独白録」は1991年に、文藝春秋社から、半藤一利氏の解説を付けて発売された。
同書には「寺崎英成・御用掛日記」も加えられた。これは、寺崎英成の残した1945年8月15日から、1948年2月15日までの日記である。
その1947年9月19日の記録に、次のような一文がある。
「シーボルトに会ふ 沖縄の話 元帥に今日話すべしと云ふ 余の意見を聞けり 平和条約にいれず 日米間の条約にすべし」
これだけでは何のことだか分からないが、1979年にアメリカの公文書館で発見された文書が、一体それがどう言うことだったのか示した。
この文書は沖縄公文書館がそのコピーを入手し、以下のホームページで公開しているので、一度見て頂きたい。
http://www.archives.pref.okinawa.jp/collection/2008/03/post-21.html
そのページを開くと、その文書の内容についての簡単な説明があり、最後にPDF画像(2頁)と書かれている。
そこをクリックすると、原文のコピーが出て来る。
これは、マッカーサーの政治顧問のSebaldが、1947年9月20日づけで当時の国務長官マーシャルに宛てた手紙で、寺崎英成が、マッカーサーに伝えた天皇の言葉を報告した物である。
寺崎が伝えた天皇の言葉は、大略すれば次の通りである。
- 天皇はアメリが、沖縄と琉球諸島の軍事的占領を続けることを望む。
- 天皇は、アメリカの沖縄(必要であれば他の島々も)の軍事的占領は、主権は日本のままで、25年から50年またはそれ以上の長期リースの形で行われるのが良いと言った。
- 寺崎氏は、アメリが沖縄とその他の島々を、軍事的基地として獲得する権利は、日本とアメリカ二国間の条約とするべきで、連合国との平和条約の一部とするべきでない、と言った。
(主語は寺崎氏となっているが、この文書の性格として天皇の言葉を伝える物だから、この言葉も天皇の物と考えるのが自然だろう)
このような一次資料を基にして、私は5月4日の日記の中で、沖縄をアメリカの基地にしたのは昭和天皇である、と書いたのだ。
無責任な憶測でも、噂話の又聞きで書いたのでもない。
事実が文書としてこうして残っていて、みんなが良く知っているのに、みんなが、言わないようにしている。
正しい事実を公に論じることをしない日本という国は、不思議な国なのだ。
天皇が、戦争犯罪に問われなかったのは、戦争は天皇が自分の意志で始めたのではなかったからだという理由による物ではなかったか。それを主張する物が「昭和天皇独白録」である。
戦争犯罪を問われそうになると、自分は立憲君主だから部下の言う事を認可してきただけで、主体的に戦争を指導したのではないと言った昭和天皇が、戦争が負けたら相手の国の元帥に、沖縄をずっと占領していてくれなど主体的に言う。
こう言うことが許されるのだから、日本は不思議な国だ。
米軍が沖縄を占領し続けることを天皇が主体的にアメリカに頼んでいるのである。
具合が悪いと、それは部下がしたことで自分は知らないと云い、自分の命に関わってくるところになると相手の元帥に自分の国を民ごと切り渡して与える。
しかも、他の国にはやらない、君だけにやるんだから、後はよろしく頼むよ、と言う。
先に挙げた「昭和天皇独白録」「寺崎英成御用掛日記」(文藝春秋社刊)の259ページに、秦郁彦教授が、マッカーサー記念館の「総司令官ファイル」の中から発掘した文書として、寺崎英成と思われる政府高官が伝えた天皇の言葉が記されている。
それによると
「(前略)日本人の国民性には美点も多いが欠陥もあるから、占領は長期間つづくほうが望ましいと、陛下は感じている」
昭和天皇自らが、アメリカの支配を望むと仰言られたのだ。
どうして、下々の人間が天皇陛下のお言葉に反することが出来ようか。
その陛下の有り難い大御心を奉じたてまつって、アメリカは日本占領をいまだに続け、以来ずっと日本はアメリカの奴隷であり続けているのである。
沖縄戦では、多くの沖縄の人間が犠牲になった。
犠牲になった人達は、皇国のため(すなわち、天皇のため)に戦いに追いやられて亡くなったのである。
昭和天皇はそのような、自分のために死んだ沖縄の人達に思いを寄せることなく、その土地をアメリカに献上した。
その昭和天皇の大御心の有り難さを噛みしめれば、辺野古の問題で反対したりするのは非国民なのである。
「うみゆかば、みづくかばね、やまゆかば、くさむすかばね
おおきみの へにこそしなめ かへりみはせじ」
この、歌の文句を骨の髄までしみこませて、天皇陛下の御稜威(みいつ)をかしこみ、かしこみ、有り難いと思ってこそ日本人なのだ。
昭和天皇が、沖縄はアメリカにやると仰言っているのだ。
我々、下民が、天皇のお言葉に逆らって、辺野古問題を云々するだけで、実に不敬の極み、それどころか大逆犯である。
我々日本人は、昭和天皇のお言葉を心に刻んで信条としなければならない。
従って、沖縄の米軍基地に反対する者は、昭和天皇のご意志に反する者であるから、万死に値するのである。
沖縄の基地問題は昭和天皇が作った、と言う私の言葉が、事実に基いた物であることを示したところで、この続きは次回にする。
余り長いのは、読む方も辛いという文句を貰ったからである。
次回は、自民党政府、日本の新聞、マスコミなどが、アメリカのために奉仕してきたことを、やはり、事実を元にして語りたい。
そこをきちんと踏まえないと、沖縄の問題を語っても意味がない。
どうして、新聞などのマスコミが、アメリカべったりで、鳩山由紀夫氏を首相の座から引きずり下ろしたのか、それは、1950年まで遡らないと分からないのだ。