週刊新潮の思い出
今週発売されている「週刊新潮」に「『美味しんぼ』雁屋哲の『北朝鮮』への異常な愛」と題した記事が掲載されているそうである。
この「週刊新潮」という雑誌については一つの思い出がある。
そのことをちょっと話そう。
私は父を四度裏切ってきた。
私は子供の頃から「僕は自分がいろいろ病気をして、お医者さんの世話になったから、僕も医者になって、病気の人を助けたい」と言って父を喜ばせた。
しかし、高校のときに、東大病院の整形外科の待合室に座って周りを見回しているうちに愕然となった。当時の東大病院は古く汚く、天井に様々な配管がならび、床は石の部分はすり減り、木の部分はワックスの臭気が立ち上り、すべてが暗く、陰気な雰囲気に包まれていた。
私は思った「もし、医者になったら、毎日こんなところで生活しなければならないのか」
利己的な私は冗談じゃないと思った。
その上、当時の私は物理と化学に非常に興味を抱いていたので、あっさりと、医者になることを断念し、父に「僕は、物理か化学の道に行くことにした」と言った。
父は,子供の頃から医者になると言っていた私が突然心変わりをしたのに驚きがっかりしたが、学者になるというので、まだ、許せると思ったようだ。
私は大学で物理を学び、そのまま大学に残って学者になろうと思っていたが、大学の四年の夏に、突然、「大学に残っているより、もっと生々しい人間社会の実態を知りたい」という気持ちが突き上げてきた。
人間の一番本当の姿を知るのにはどうしたらよいか。いろいろ考えた末に、それは人間を動かしている欲望をしっかりつかむことだと思った。
人間の欲望を、取り扱っているのはどんなところか、と考えて「広告会社」に突き当たった。
広告会社は、人の欲望をかき立てて、人を一つの方向に導いていこうとする。
その、広告会社につとめれば、人間はどんなものか、人間を動かしているものは何かつかめるのではないかと思った。
大学四年の夏には、教授面接というものがあって、進路を決める相談をすることになっている。
その教授面接で、教授に,進路を尋ねられて「私は就職したいと思います」と言ったら、主任教授は非常に喜んだ。
大学院に残ったところで、ろくなものになる人間ではないと見透かしていたのだろうが、主任教授は「そうか、就職してくれるか。それなら、ここか、ここか、このどれかに行ってくれ。前から、その二つに学生を送ってくれと頼まれていたんだ。君が行ってくれるなら非常に助かる」
主任教授が行ってくれと言った企業は私も長いこと憧れていた日本の技術を背負って立つすばらしい企業だった。
少し前の私なら、喜んで、教授の言葉に従っただろうが、私の心は既に広告会社にはまっていた。
私は正直に「ありがたいと思いますが、私は広告会社につとめようと決めました」と言った。
教授はきょとんとした顔をして、「広告会社って、何?そこで君はどんな仕事するの?」と尋ねた。
私は、教授に「広告会社では、テレビのコマーシャルを作ったり、商品を売る看板を作ったり、商品を売るための催し物を開いたり、そんな仕事をするつもりです」と答えた。
そのときの教授の顔を私はいまだに忘れなれない。
唖然と言うか、奇怪な生物が理解不能な言語を話し始めたのに遭遇したときに人はこんな表情になるのではないか、という反応不能と言う状態に陥った。
やがて、教授は「君は、量子力学を専攻したんだろう。それと、広告とどんな関係があるの」と尋ねた。「何にもありません」と正直に私は答えた。
教授群の中でもきわめて鋭い頭を持った教授は、すぐに、「こいつはだめだ」と見極めたのだろう。
「そうか」と言って,それで教授面接は終わったが、私はいまだに、あれだけ人を落胆させたことはないと思っている。
父は、もっと驚いた。私が広告会社に勤めたいと言ったら、父は私が正気を失ったのかと思った。
「お前は大学に残って学者になると言っていたじゃないか。それが,どうして広告会社なんだ」
私は、自分の思っていることを父に話した。
父は、ひどく落胆した。
父は、私が学者になることを強く期待していたのである。
しかし、そこが私の父のすごいところで、私のつとめたいと思っていた広告会社のお偉いさんとすぐに渡りを付けてしまった。
広告会社の入社試験が終わって入社も決まった後に、父に言われて挨拶に行ったら、きわめて上機嫌で「いや、君のお父さんによろしくと頼まれたので、よほど成績の悪い学生だと思っていたら、そうじゃなかった。がんばってくれよ。期待しているよ」と言ってくださった。
その会社も、3年9か月務めて、やめてしまった。
その理由は、私は、いかなる形の組織にも順応できない人間であることを痛感したこと。
私は、尊敬できない人間に尊敬した振りをして仕えることができない人間であることを痛感したこと。
雨の降る日にも出社することがつらかったこと。
朝9時に出社することの意義を見いだせなかったこと。
などであるが、要するに社員としてきわめて無能だったと言うことである。
会社を辞めると言ったときに、父は、驚きを通り越して、自分の息子が人外魔境に陥っていくという恐怖に取り付かれたようである。
「それで、これからどうやって生きていくつもりなんだ」と尋ねられて「何か、物を書いて生きて行きたい」と私は答えた。
その「物書き」と言う言葉を私の父は甚だしく軽蔑していた。
私が、「物を書いて生きていく」いうと、「ちょっと待て」といって、いったん奥に引っ込んで、どこかからか、週刊誌を持ってきた。
それが「週刊新潮」だった。(今日の本題ですよ)
父は、私に「週刊新潮」を突きつけて言った
「この、週刊誌を読め。物書きになって、こんなものを書くようになったら、いったいどうするつもりなんだ」
当時の「週刊新潮」の表紙は谷内六郎氏の童話的なきわめて人の心を休めてくれるような暖かい絵だったが、その表紙絵の清潔さと裏腹に内容は、芸能界、財界人、有名人など様々な世界の人々の醜聞、醜悪で残酷な犯罪事件の再現、異常な性的な話題に埋め尽くされていて、開いて二三ページも読むと、汚いものを無理矢理のどに突っ込まれたような気分になる。
その内容は今も変わらない。
私は、父に言った。「こんなものに書くくらいなら、物書きなんかにならないよ」
それから、40年経って、私はついに「週刊新潮」に書くようなことをせずに、物書きとしていきのびてくることができた。
この点だけで、私は、父を裏切ることがなかったのである。
「週刊新潮」は以前にも、私の書いた「日本人と天皇」の韓国訳版が出たときに、その編集部の知的水準の低さを見せたくてたまらないと言うような記事を載せた。
あのような週刊誌を続けていると、自分がどこまで無知で嫌らしく不潔な人間であるのか、どんどんやけになって見せびらかして、自虐的な快感に酔うことになるのだろう。
ものを書くのにも、もっと楽しい生き方があるのに、と不思議で仕方がない。
もう、そろそろ、自分の人生がおしまいになると言う年頃になって、それまで自分の書いてきた物を思い出して、真夜中に飛び上がって、虚空に向かって絶望の叫びをあげたりしないのだろうか。
「週刊新潮」の編集者、ライターの諸君の人生の幸せを祈るばかりである。