雁屋哲の美味しんぼ日記


第一章 その4

2008年6月28日(土)@ 17:37 | 雁屋哲のシドニー子育て記

 新しい環境への対応の仕方も子供によって個人差がある。
 長男の威陽(たけあき)は開けっ広げで、屈託のない性格なのですぐに友達が出来た。一番最初に英語で喋り始めたのは長男である。勿論、大変なでたらめな英語なのだが、何とか意志を通じさせてしまうのには感心した。
 長女の遊樂(ゆら)は気は強いのだが控え目に振る舞い、用心深く一歩一歩踏み出していく案配だったが、幸運なことにすぐ近くに大変活発な女の子の同級生がいて、その女の子を学校が、長女を助ける係に任命してくれたので、着実に学校に打ち解けていった。
 問題は次女の遊喜(ゆき)だった。遊喜は、完全主義者で、誇り高い性質なので、長男のようないい加減な英語で友達と話したりすることが出来ない。
 次女は小学校一年生で、最初のロカット・バレー・スクールという小学校に入り、三年生になるときに、後で語ることになるグレネオン・スクールに転校したのだが、ロカット・バレー・スクールにいる一年半はほとんど学校で口をきかなかった。学校では、次女は英語が全く駄目だと思われていた。
 ところが、次章で書くが、後にグレネオン・スクールに転校すると、何と最初の日からべらべら英語で喋り始めたのだ。次女は自分がきちんと話すことが出来るまで話すまいと決めていたらしい。何と強情な娘なのだろう、と私と連れ合いは呆れ果てた。同時に、何と辛い生活だったのだろうと思うと胸が痛んだ。
 次男の太陽は、三歳で来たので、あまりの環境の激変にこたえたらしく、一日中連れ合いにしがみついているので、皆に「コアラ太陽くん」などとからかわれていた。
 で、あるとき私が次男に「太陽、お前どうしてそんなにお母さんにくっついてばかりいるの」と尋ねると、太陽は「だって、太陽、お母さんが大好きなんだもの」と言った、そこまでは良い。子どもが母親を好きなのは当たり前だ。しかし、次の一言が私を打ちのめした。太陽は言葉を続けて「それは、お父さんもついでに好きだけど」と言ったのである。
 ああ、あんなに打ちひしがれたことは私にはなかったな。「ついでに」とはあんまりじゃないか。このとき私は固く決心した。次は絶対に女に生まれて、沢山子どもを産んでそれを全部自分で抱え込んで育てる。子どもを百パーセント自分のものにするのだ。

 連れ合いは、役所との交渉ごと、家の管理、買い物、それを全て英語ですると言う拷問じみた生活で疲れる。私は、日本を離れて仕事が上手く行くはずがなく、しかも、家庭の雑用を色々こなさなければならず、本当に困った。
 更に、オーストラリアはヨーロッパから地理的に離れてはいるが西欧白人社会であり、1970年代のはじめまで白豪主義と言って白人しか移民を許さない白色人種主義を奉じていた国だから、アジア系の人間に対して差別心を持っている人間が少なからずいる。第二次大戦中日本軍の捕虜になったオーストラリア兵が残虐な取り扱いを受けたことで、 今でも強い反日意識を持っている人もいる。
 だから、日本人として、企業の駐在社員は別として、企業に何の関係もない一個人が単純に安穏に住み込む環境ではなかったのである(1988年当時は日本のバブル経済の絶頂期で、日本の会社がオーストラリアの不動産を買いあさっていた。シドニーの有名どころのホテルの殆どが日本の企業の持ち物だったとは、日本経済が退潮一途の今となっては信じられないことである。当時、あまりに日本人が不動産を買いあさるので、オーストラリア人の間に日本に対する悪感情が特にクイーンズランドでは高まっていた。オーストラリア中の良いところを全部日本人に買われてしまうのではないかと恐慌を来す人たちもいたのである)
 と言って、私達はオーストラリアで日本人だからという差別を受けた覚えはない。むしろ親切な扱いを受けて感激した事が多い。
 しかし、中にはたちの悪い人間もいる。後で話すことになるが、私の連れ合いの甥のビザの件で、問い合わせに行った時にチャッツウッドの移民局で我々を担当した典型的なアングロサクソンの女係官は最悪だった。威張り腐って移民を見下す態度には、気が狂いそうなばかりに腹が立った。
 私はあれほど醜い女性をこの人生の中で見たことがない。顔が醜い以上に心の醜さが体全体に溢れていた。
 下品で醜い顔つきの荒々しい態度の女性係官に、人を人とも思わない見下した態度で意地悪をされたりすると、はらわたが煮えくり返るような思いがして、もう日本に帰ろうと思ったりする。日本にいればこんな目に遭わずにすんだのにと、情け無くなる。と言って、一度出て来たからにはそんなに簡単に帰るわけには行かない。
 まさに私達は難民としてのきつい生活を始めたのである。
 だが、それも、今となっては遠い昔の話だ。

 しかし、長男長女が高校に入った頃、最初にオーストラリアに引っ越して来た時期の話になったとき、何の屈託もなかったと思っていた長男が、「辛かったんだよ」と何かの拍子で言ったのが、私にはこたえた。本当に、難民は辛いものだ。

 そう言うこととは別に、日常的に私達が最初に苦しんだのは、英語だが、それについて、ジャパンプレスに書いた物を引用しよう。

《JP 1990年・十二月
「母国語を失うことは母国の文化とはぐれること」

 外国で子供を育てる時に一番大きな問題は日本語教育をどうするかということだろう。
 日本人学校に入れれば何の心配もないが、現地校に入れると色々と問題が起こって来る。
 オーストラリアの学校だから、英語が分らないことには授業内容が理解出来ないのは勿論、日常生活も営めない。
 私の子供たちも英語では苦労したようだ。
 週に三回、家庭教師に来てもらい、学校でも正規の課目とは別にうちの子供たちだけ英語の特別授業を受け、時には校長先生が、校長室にうちの子供たちを呼んで校長先生自ら英語を教えてくれもした。それだけ力を尽しても、うちの子供たちの場合、一応、不自由なく学校生活を送れるようになるのに、一年半以上かかった。二年半経った今となっては、授業中に友人とおしゃべりをしすぎると先生に叱られるほどの英語力になつた。
 英語が不自由でなくなって来ると、今度は厄介なことに日本語が不自由になって来る。
 言語は文化のかなめであって、母国語を失うことは母国の文化とはぐれることだ。
 私が四人の子供をオーストラリアに連れて来たのは、伸び伸びのんびりした教育を与えたかったからだが、日本文化からはぐれてしまっては何の意味もない。
 それに私は文筆業である。私が書いた物を、将来私の子供たちが読めないし理解も出来ないと言う仕儀になったりしたらあまりに淋しい。そんな訳で、今、私と妻が頭を悩ませているのは、どうすれば子供たちの日本語能力を高められるかと言うことだ。
 最近は油断すると四人の子供たちは家に帰って来てまで互いに英語で話している。その度に、「家の中で英語をしやべるな!」と私は怒鳴るのだが、怒鳴るだけでは問題は解決しない。
実に難しい。》

 この回は切実な問題を二つ含んでいる。
 先ず第一に、外国語の習得が如何に難しいかと言うことだ。
 オーストラリアに引っ越して来たとき、長男、長女は小学校五年生、次女は一年生、この三人が英語をある程度まで不自由無く理解出来るようになるまで二年以上掛かった。まだ頭の柔らかい年頃でそれほど掛かるのである。しかも、それでも、生まれつき英語を母国語としているオーストラリア人の子供には遥かに及びも付かない英語力である。学校の授業がようやく理解できる程度だったのではないだろうか。
 この、自分の子供たちの経験を通じて、私は、日本人は外国に留学することを簡単に考えすぎていると思うようになった。
 自分の子供を外国に留学に出す人たちは外国語を習得する難しさを全く考えていないことが多い。外国に行って一年も過ごせば外国語は読み書きも出来るようになると思い込んでいる。勿論、生まれつき外国語を習得する能力の優れた人もいるだろうが、それは少数で、大多数はうちの子供たちのように二年も経ってようやく学校の授業について行ける程度の外国語能力を付けるのが関の山なのである。
 ましてや、大学生になって初めて外国に留学したのではもっと辛い。英語の習得には小学生の頃より時間が掛かるというのに授業内容ははるかに難しい。日本にいても学校の授業を理解するのは難しいのに、それを、ろくに理解できない外国語で大学の授業を受けてそれでどうして授業について行けようか。


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