雁屋哲の美味しんぼ日記


第一章 その3

2008年6月18日(水)@ 13:01 | 雁屋哲のシドニー子育て記

 そして1988年5月20日、私達家族はシドニーに越して来たのである。

 チャーチ・ポイントはシドニーの中心部から、ハーバーブリッジを越え、北に車で三十分ほどのところに有るピットウォーターと言う南北に非常に細長く伸びた深い湾の一番奥に位置している。静かな住宅街だが、目の前に一つ、歩いて十分ほどのところにもう一つヨット・ハーバーがあり、五分ほどのところに湾内あちこちに行くフェリーの乗り場があるようなところで、リゾート地に近い雰囲気を持っている。
 私の家の目の前は非常に浅い海で、沢山のヨットやボートが停泊している。湾とは言え、すぐ前にワシントン島という島が有るので、私の家の窓から湾の出口は見えずまるで湖に面しているように見える。
 しかし、その湾に面したベランダに立つと日本では考えられない多数の野生の鳥がやって来て餌をねだり、周囲に自生している様々な野生の花が放つ香りで恍惚とすると言う状態だった。シドニーの中心部から四十分離れただけで、これだけ野性味を味わえるとは予想もしなかった。裏庭には、オーストラリア独特の有袋類の一種であるポッサムの一家が住み着き、ブルータングと言うトカゲの家族ものんびり姿を現した。
 何から何まで、横須賀市秋谷の風景とはまるで違った。
 私達は家族は、初めて、野生動物と一緒に暮らすという生活形態を学んだ。
 ブルータングと言うトカゲは愛嬌物で、舌が青いのでブルータングというのだが、初めて私の家の裏庭の茂みから頭をぬっと突き出した時には、とんでもない大蛇が現れたと思った。最低で、二、三メートルは有る蛇だと思った。頭だけをみると、凄まじい大蛇なのだ。ところが、茂みから更に出て来ると、頭のすぐに脚が見える。脚の有る蛇は存在しない。さらに、体が続いて出て来ると、脚はもう一組あり、しかも後ろの脚が終わると胴体も突然終わる。太い胴体とでかい頭と恐ろしげな顔のくせに、何と唐突に三十センチほどの短い体で終わるのである。
 日本で、一時話題になった「つちのこ」などもこんな生物だったのではないかと私は思う。
 私の家のテラスに飛んでくる野生の鳥類は十一種類以上。野生動物に餌を与えてはいけないとされているが、私の家の周りの人間はそんなことを一切無視して、自分の家に野生動物が来てくれることの嬉しさゆえに、どんどん餌を与えていた。
 オーストラリアに住んで二十年になるが、野生動物とのつきあいは極めて大事である。私達は夜の間にリンゴを裏庭に置くのを決まりとしていた。朝になるとリンゴは消えている。ポッサムが夜の間にしっかり食べて行くのである。
 極めて厳格な自然動物保護主義者(私の長女のような)は絶対に野生動物に餌をやってはいけない。人間の食べる物を与えると、野生動物は添加物などの害を受けると同時に、自分たちで餌をとると言う基本的な行動を失うから、絶対に自分の家にやって来る鳥や動物に餌を与えるなと、それはそれは、怖い顔で主張する。その理由もわからず、やたらと野生動物に餌を与えるのはアジア人に多いのだ、と言われると、こちらもかちんと来る。もともと、自然の大宝庫だったオーストラリアを植民地にして勝手放題いわゆる開拓したのは、おめえらだろうが。それを、何を今更、格好付けてやがんでえ、とぼけんじゃねえよ、と私は思う。
 で、今でも私の連れ合いは、家にやって来るブッチャーバードと言う日本で言えばモズに近い兇暴な鳥を「私のかわいこちゃん」と呼んで毎日餌をやっている。私の家ではひき肉は、肉のかたまりを買って来てそれをフードプロセッサーにかけて自分で作る。売っているひき肉は何が入っているのか分からないし、第一まずいからである。ただ、鳥にやる肉だけは肉屋で買ってくる。それに、肉だけでは野生動物の栄養上問題が有ると言うので、なんだか訳の分からないビタミンやミネラルの混じった粉末をまぶして与える。(鳥の練り餌に使う粉末だということだ)
 やらないと、窓ガラスに体当たりして要求するし、テラスへの扉を開けておくと、食堂に入ってきて、椅子の背もたれにとまって、凄まじい大声で鳴いて催促する。連れ合いは、一日中鳥に追われているような感じである。

 それはともかく、チャーチ・ポイントに越して来て、子供たちは、家から歩いて十分ほどのところに有る「ロカット・バレイ・スクール」に入学した。ロカットとはビワのことで、昔その辺りにはビワの林が有り、そこからビワをシドニーの市場に売りに出していたと言う。今は、完全な高級住宅地になっている。
「ロカット・バレイ・スクール」はイギリス系のアングリカン・チャーチと言うキリスト教の会派に属する学校だが、入学資格がキリスト教であることもないし、週に何回か聖書を読んだりする時間が有ったようだが、なにしろその当時の私の子供たちは、まるで英語など出来ず、ちんぷんかんぷんだったのに、それで別におとがめもなかった。その宗教的な締めつけのないところが、無宗教で育ててきた私達にとっては有りがたかった。
 私の長男長女は双子で、日本では六年生になったばかりだったが、オーストラリアの学制では、十月に学年が終わり、次の年の二月から新学期が始まり上の学年に進む。五月に来て、十月までで小学校を終わり、次の年の二月に中学に進むのは余りにきつすぎるのではないかと言う校長の意見で、長男長女は一年遅らせて五年生の学級に入ることにした。
 当時、日本の経済はバブルの絶頂で、シドニーにも日本の会社の駐在員が六千人以上いたが、さすがに市の中心から四十分も離れると日本人の姿はなく。私の子供たちが最初に登校した日、「初めての日本人だ」と珍しがられ大勢の生徒達に取り囲まれたという。
 あとで、仲良くなった子供にその日のことを聞くと、全校生徒がうちの子供たちを取り囲んだので、自分は、よく見ることが出来なかったと言った。それほど、日本人が珍しい地域だったのである。今でも、あの辺りに日本人だけでなく、アジア人の姿はみない。アジア人は市の中心部近くと南部、ハーバーブリッジの北側チャッツウッド地域に偏在している。
 この、チャーチ・ポイントで我々はオーストラリアでの生活の第一歩を踏み出したのである。
 暮らし初めて最初の二年ほどは本当に辛かった。最初に、「教育難民」などと言ったが、ああ、本当に我々は難民なのだと何度も本気で落ち込んだこともある。
 分からないことばかりで、うろたえる。先ず、第一に言葉だ。次ぎに、オーストラリアの生活習慣だ。子供たちに学校でどうすれば良いのか教えようにも、私達には見当もつかない。シドニーに来て最初に子供たちを入れたロカット・バレイスクールは、私達の子供が学校創立以来初めての日本人だと言うことで、大変親切にして貰ったが、初めての日本人と言うことは全然助けになる日本人の先達がいないことでもある。
 連れ合いは不自由な英語で学校の先生や事務の女性に細々としたことをいちいち尋ねなければならない。みんな親切に面倒を見てくれたが、私達の方にとんちんかんな勘違いや間違いがあって、滑稽な間違いをしたことも少なくない。
 その両親の自信の無さが、てきめんに子供たちに響く。
 子供たちも不安一杯で毎日を過ごしているのが良く分かった。新しい学校の制服を着て、オーストラリア風の鞄を背負って、連れだって学校に向かう子供たちの後ろ姿は頼りなげで、胸を突かれるものがあった。
 どうして、こんな無謀なことをしたんだろうと、私は自分の無鉄砲さを今更ながら後悔したりした。


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