雁屋哲の美味しんぼ日記


長い前書き その6

2008年5月9日(金)@ 14:09 | 雁屋哲のシドニー子育て記

 ところが、私が、オーストラリアに引っ越すと言ったら、ある知人が「逃げる気か!」と言った。
 日本の現状に、自分自身何ら行動をとることなく、自分だけ楽なところに逃げるのか、そう詰問されたのである。
 私は、敢えてそれに答えて言った。
「そうだ、私は逃げる」
 外国に逃げるのが楽をする道だなどと言うのは飛んでもない誤解だ。子供を連れて言葉も環境も全く違うところへ行くのである。物見遊山に行くのではない。しかも、こんなことをしても果たして上手く行くかどうかも分からない。勝算は全くない。楽なわけがない。
 おまけに、そうすることによって、失うものは大変に大きい。みんなと一緒に流されて生きた方がどんなに楽か分からない。逃げ出すことも私にとっては日本の教育制度に対する戦い方の一つなのだ。
 日本の教育制度を改善する努力をするのが当然だろうに、外国に逃げ出すのは卑怯だ、と言われても私はひるまない。
 それは、今の日本の教育制度に満足していたり、我慢できたりする人に、私の抱いている切羽詰まった気持ちは分かって貰えないことをたっぷり思い知らされてきたからだ。
 例えば、私の子供たちと同年齢の子供を持っている人たちと日本の教育制度の話になると、ほとんど全ての人が何とかしなければならないと言う。
 ところが、そう言っておきながら自分達の子供はせっせと塾に通わせる。そして、自分達の子供が望み通りの学校に合格すると、日本の教育制度も悪くない、などと言い出す。受験勉強程度の試練を乗り越えられないような子供はどうせろくな人間にならない、などと言い出だす人も少なくない。
 自分の子供が、一流大学に入るとそれで有頂天になる。その上、大企業や中央官庁に就職すると、中小企業や、商店で働いている人間に対して優越感を抱く。
 日本の教育制度に本気で立ち向かおうと考えるのは、私のような変わり者か、あるいはこの教育制度で立ち上がれないような傷を負った子供を持つ親だけだ。
 大半の親たちは、自分の子供がある程度の学校に入れれば、もう日本の教育制度のことなどどうでも良くなる。それどころか、成績が中以上の子供を持つ親たちは、この受験勉強一辺倒の教育制度を望ましいという。それは、自分達の子供が他の子供たちより、優位に立てるからである。
 大半の親たちがそんな態度であるのが今の日本の社会なのだ。みんな、我慢してるのに、どうしてあなただけ我慢できないの、と言われたことだってある。
 しかも、1980年代に入って、日本の社会は急速に体制服従的になってきた。
 誰もお上や、大企業の言うことには逆らわないのだ。
 就職希望の学生たちが会社を巡って歩くその姿を見れば、若い世代の意識まで体制服従的になっているのが良く分かる。
 私達の世代のものには思いも寄らないことだが、今時の学生たちは、会社に気に入られるように、髪を短く刈り、地味な「リクルート・スーツ」と称される背広を着て会社を回る。
 そう言う学生たちを見ると情け無くなる。入社する前から、会社の命令には絶対従います、と媚びを売ってどうするんだ、と背中をどやしつけてやりたくなる。若くして、既に心朽ちたり、とはこの事かと思う。
 要するに、大半の日本人は今の教育制度で満足している。少なくとも我慢できるのだ。
 私に「逃げるのか!」と言った知人も、自分の子供たちが良い学校に進んでいることで満足している。
 拗ねた言い方を敢えてするならば、みんなが満足したり、我慢できたりしているのに、私一人我慢できないのは私が悪いのだろう。
 こういう状態で私に逃げ出さずに何かしろと言われてもそれは無理だ。私は厭だ。お断りだ。
 それに、私が日本にとどまって、教育制度の改善を考えている他の人たちと協力しあって効果的な活動をなし得たとしても、日本の教育制度が五年や十年で改善される筈はない。
 今の日本の教育制度は日本の社会の要請によって構築されたものだ。社会が変わらなければ、教育制度も変わるはずがない。
 であれば、うちの子供たちにはとても間に合わない。
 私に残された道は、「教育難民」を選ぶしか無かったのだ。
 そして、そこまで私を駆り立てたのは、私が経験した、中学・高校で生活だった。あんな思いを私の可愛い子供たちに絶対にさせたくない。結局その思いが一番強かった。

 ところが、私が日本脱出を出来ずにいる間に、アメリカの社会がひどいことになってしまった。クラック、と言うコカインの誘導体が社会に広まって、十四五才で、既にドラッグの売人になって金のネックレスをぶら下げ、ピストルも持ち、十代のうちに殺されてしまう、などと言う話しを頻繁に聞き、特にサンタ・バーバラ辺りは、非常に危険になったという。
 冗談じゃない、日本の受験勉強一辺倒の教育体制も嫌だが、そんなドラッグと暴力のまん延する社会に連れて行くわけには行かない。
 さて、困った、と思ったとき、そうだ、南半球という手があった、とひらめいた。高校の時に非常に進んだ福祉制度を持っていると学んだオーストラリアの名前が頭に残っていた。
 それで、試しに私ひとりで来てみたら、素晴らしい環境だ。私は、不思議な第六感のようなものが働く経験を今までの人生で何度かしているが、オーストラリアの土地に一歩踏み出したときに、その第六感が働いた。どうやら、オーストラリアとうまが合いそうだ。ここなら、のんびり子育てが出来そうだ、と心に響くものを感じた。私は自分の第六感に従って、アメリカをやめてオーストラリアに引っ越すことにした。
 そこで、オーストラリアの目ぼしいところを、ケアンズ、ブリスベン、ゴールドコースト、シドニー、メルボルン、アデレード、パース、と見て回った。最後に、大変に充実した中華街とフィッシュマーケットがあるのと、明るいさわやかな雰囲気と、日本への交通の便の良さと、そんなことを考えてシドニーに決めた。
 それから色々のことがあって、長女、長男が六年生になった1988年五月にシドニーに引っ越して来たのである。

 それが、私達がシドニーに引っ越して来るまでの経緯であるが、最初に書いた通り、二三年のつもりが、二千八年の五月でまる二十年を越える。これは、全く私の計算外のことになってしまった。
 一体どうしてこんなことになったのか。
 それを、これからお話ししたい。


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